掲示板に続いてヤフーブログが8月末で閉鎖とは・・、またまたショックですね。
ブログという形式が始まって以来15年間、紫蘭は毎日書き続けてご来訪者も延べ52万人を超えたというのに‥
始めあれば終わりあり・・これが世の中と言うものでしょう。
我が人生もブログと共にどうやら終わりが近づいたようだ・・
(33) 「銃後の生活」
そして昭和16年になると、国民生活上、贅沢禁止などの精神的なものは当然として、次第に現実的なモノの不足が目立ってきた。食糧事情も逼迫し、昭和16年には、米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制度が実施され、翌年の4月からは米の配給の割りあてが決まり、一般成年は一日2合3勺(330グラム)となった。
(*衣料品の切符制が始まったのは昭和17年からで、一人年間100点では背広一着50点とオーバーの50点を使うと、後はパンツ一枚も買えないという厳しさだった)
(*衣料品の切符制が始まったのは昭和17年からで、一人年間100点では背広一着50点とオーバーの50点を使うと、後はパンツ一枚も買えないという厳しさだった)
我々の小学一年の時は「ハナ ハト マメ マス」だったが、次の年から「サイタ サイタ サクラガサイタ」に代り、さらに「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」などの軍事色の強いものになっていった。
そして中学生と言えども、安穏には暮せない世の中になってきた。男子学生同様に、女学生も戦争の影響を受けなければならなかったのである。女学生は男子の剣道同様に、学課には「なぎなた」があり、また勤労奉仕や募金活動にも出動せねばならなかった。 紀元節などには、軍装こそしないが、戦没者を祀る護国神社に参詣のためをに男子中学生同様に行進したものである。
また、ガスマスクの装着訓練や、実弾射撃こそないものの小銃の扱い方などの訓練があったようである。
また、軍事費の募金活動や、千人針縫ってもらうために街角にも立ったのである。
「千人針」は、白い布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺して縫い玉をつくり、戦場の武運と無事を祈って出征兵士に贈ったもので、日清・日露戦争の頃に始まったという。
この千人針を身に着けていると、敵の弾も当たらないと信じられていた。もちろん、実際に弾がよけてくれるはずもないので、これはただ兵士たちの無事帰還を願う女性たちの祈願をこめたものであったが、一面、戦意高揚の手段として奨励されたようでもある。
(千人針を縫う女学生たち)
千人針の真ん中には5銭硬貨が縫い付けられていた。五銭玉は死線(四銭)を超えるという意味であり、虎は千里を行って千里を帰る、ということわざから、虎年生まれの女性は一針ではなく年の数だけ縫うことができたので、寅年生まれの老婆が歓迎されたという。
(ビルマ戦線からイギリス兵が持ち帰った千人針・血潮の跡がある)
記名があって、後に、無事遺族のもとに返されました。
また、このころは次々に戦時立法が作られ、国民を戦争の方向に引っ張っていき、これに違反する
ものは「非国民」の名前で厳しく罰する法律が作られていった。
いやはや、現在の自由奔放な生活とはかけ離れた聖人君子の如き、清廉潔白、禁欲の一日であったが、この「興亜奉公日」は太平洋戦争が始まると、戦争遂行の決意を新たにするために「大詔奉戴日」という名称に切り替えられた。
しかも、太平洋戦争の激化とともに、女学生たちも授業どころではなくなり、毎日、毎日、農作業や軍需工場に駆り出されて、労働を強いられるようになったのである。
(馴れない農作業の奉仕に励む佐賀の女学生たち)
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今日は3月3日のひな祭り・・
♪あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り