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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(33)銃後の生活

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  掲示板に続いてヤフーブログが8月末で閉鎖とは・・、またまたショックですね。
 ブログという形式が始まって以来15年間、紫蘭は毎日書き続けてご来訪者も延べ52万人を超えたというのに‥
 始めあれば終わりあり・・これが世の中と言うものでしょう。
 我が人生もブログと共にどうやら終わりが近づいたようだ・・

  (33) 「銃後の生活」
 
 そして昭和16年になると、国民生活上、贅沢禁止などの精神的なものは当然として、次第に現実的なモノの不足が目立ってきた。食糧事情も逼迫し、昭和16年には、米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制度が実施され、翌年の4月からは米の配給の割りあてが決まり、一般成年は一日2合3勺(330グラム)となった。
 (*衣料品の切符制が始まったのは昭和17年からで、一人年間100点では背広一着50点とオーバーの50点を使うと、後はパンツ一枚も買えないという厳しさだった)

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  イメージ 2さらに小学校は国民学校と改称され、一年生の国語読本の最初は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」となった。  

 我々の小学一年の時は「ハナ ハト マメ マス」だったが、次の年から「サイタ サイタ サクラガサイタ」に代り、さらに「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」などの軍事色の強いものになっていった。


 そして中学生と言えども、安穏には暮せない世の中になってきた。男子学生同様に、女学生も戦争の影響を受けなければならなかったのである。女学生は男子の剣道同様に、学課には「なぎなた」があり、また勤労奉仕や募金活動にも出動せねばならなかった。  紀元節などには、軍装こそしないが、戦没者を祀る護国神社に参詣のためをに男子中学生同様に行進したものである。


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 また、ガスマスクの装着訓練や、実弾射撃こそないものの小銃の扱い方などの訓練があったようである。
 
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 また、軍事費の募金活動や、千人針縫ってもらうために街角にも立ったのである。
 「千人針」は、白い布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺して縫い玉をつくり、戦場の武運と無事を祈って出征兵士に贈ったもので、日清・日露戦争の頃に始まったという。
 この千人針を身に着けていると、敵の弾も当たらないと信じられていた。もちろん、実際に弾がよけてくれるはずもないので、これはただ兵士たちの無事帰還を願う女性たちの祈願をこめたものであったが、一面、戦意高揚の手段として奨励されたようでもある。

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                                            (千人針を縫う女学生たち)


 イメージ 7千人針を縫ってもらうために、女学生や婦人会の女性たちが動員され、街頭に立って道を行く女性のにひとり一針づつ、赤い糸を塗って貰っている姿は、日中戦争ごろまでの街頭風景の一つであった。(*戦争激化と共に千人針も消えて行った)
 千人針の真ん中には5銭硬貨が縫い付けられていた。五銭玉は死線(四銭)を超えるという意味であり、虎は千里を行って千里を帰る、ということわざから、虎年生まれの女性は一針ではなく年の数だけ縫うことができたので、寅年生まれの老婆が歓迎されたという。

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                     (ビルマ戦線からイギリス兵が持ち帰った千人針・血潮の跡がある)
                記名があって、後に、無事遺族のもとに返されました。
 

 また、このころは次々に戦時立法が作られ、国民を戦争の方向に引っ張っていき、これに違反する
ものは「非国民」の名前で厳しく罰する法律が作られていった。
 
 いやはや、現在の自由奔放な生活とはかけ離れた聖人君子の如き、清廉潔白、禁欲の一日であったが、この「興亜奉公日」は太平洋戦争が始まると、戦争遂行の決意を新たにするために「大詔奉戴日」という名称に切り替えられた。

 しかも、太平洋戦争の激化とともに、女学生たちも授業どころではなくなり、毎日、毎日、農作業や軍需工場に駆り出されて、労働を強いられるようになったのである。

 
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                                   (馴れない農作業の奉仕に励む佐賀の女学生たち)


       ・・・・・・                     ・・・・・・
 
    今日は3月3日のひな祭り・・

 男の子の時は、盛大に五月人形を飾り、お祝いもしましたが、女の子の時はひな人形は買ってやれませんでした・・m(__)m。。。
  これって、やっぱり男尊女卑の名残りだったのかなぁ‥

   
 ♪   うれしいひな祭りイメージ 9
  https://youtu.be/1jpzPqw4gZs


 ♪あかりをつけましょ ぼんぼりに
   お花をあげましょ 桃の花
   五人ばやしの 笛太鼓
    今日はたのしい ひな祭り

    
     
 
        

   






(34)引き揚げ

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        (34) 引き揚げ

 戦場の兵士のみならず、銃後の国民まで巻き込んだ悲惨な戦争は、8月15日の終戦の詔勅によって、ようやく幕を閉じた。
そして、日本の無条件降伏の降伏文書の調印は昭和20年9月2日、東京湾のアメリカ戦艦ミズリー号上で行われ、同時に連合軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーが軍事指令第一号を発して、日本の軍隊の降伏方式を決定した。

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                                     (ミズリー号上で調印する・外務大臣重光葵)


 そのとき、外地に残された日本の軍隊は約370万人であり、その内訳は満州・朝鮮に約100万、中国に約110万、南方諸域に約160万の陸海軍軍人が居た。  そのほか大陸各地の居留民は300万人近くも残っていたと言われている。
 敗戦後、外地に残されていた軍人たちの帰国は必ずしも順調ではなかった。船舶の多くが戦争で失われたため引き揚げが遅れ、降伏後も南方の孤島などに取り残されて、むざむざと餓死者を出したり、長期の強制労働に従事させらりした。

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                                   (昭和30年、無蓋貨物車に乗る満州の在留邦人)


 特に、戦後ソ連軍によってシベリアに連行された満州駐在の諸部隊、イギリス軍進駐地域に駐在していた南方の部隊は、強制労働を課せられて苦難の日々を送った。
 満州の関東軍がソ連参戦と共に、いち早く総退却して在留民間人を置き去りにしたことは、特に国民に衝撃を与えた。青壮年の多くを軍隊に引き抜かれて、残っていたのは老幼婦女子ばかりであったのである。

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                                              (シベリア引き揚げ将兵の第一陣)

  
 あの「日本陸軍最強の軍隊」と信じられていた「関東軍」の敗走は国民にとっても信じがたい出来事であった。ソ連軍侵攻時に満州や北朝鮮で暴行略奪事件が多発したことは、中国における日本軍による暴行略奪と合わせ考えると、戦争の悲惨な現実を思って慄然とする。
 
 イメージ 4満州からの引き揚げ業務は著しく遅れ、終戦後3年経った昭和23年8月になっても、まだ数万の日本人が取り残されていたという。また捕虜となってソ連各地に分散抑留されて強制労働に服していた人びとの帰国は昭和31年までも続いたのである。
 やっと母国の岸壁にたどり着いた人たちの中で、特に涙を誘ったのは幼い子供たちの疲れ切った姿であった。  

  イメージ 5小さい引き揚げ者たちは飢えと恐怖におびえ、長い間の徒歩と無蓋貨車の旅を続けてきたのである。引き揚げの風景を写した当時の写真には、眠っている妹を背中に縛りつけ、長い旅路の炎熱を辛うじて避けてきたであろう編み笠をしっかりと手に握っている。

 イメージ 6中でも特に目を引くのは、奉天孤児収容所の前で撮られた少女の写真である。(昭和21年7月)
 母の遺骨を首から提げて、やせこけた素足に粗末な草履を履き、呆然とあらぬ方を見つめている。
 少年と見えるこの子は実は女の子である。逃避行中の暴行を避けるために、髪を切り坊主頭となって朝鮮北部から奉天まで約600キロの道のりを半年がかりで歩いてきたそうである。

  その後のこの子の運命はどんなものだったのだろうか。心が痛む。
  
  また、帰国の望みを絶たれ、異国の土と化した日本人や大陸進出の声に踊らされた開拓者たち、あるいは取り残された「中国残留孤児」たちの悲劇を思うとき、私たちは戦争のもたらす惨禍をいつまでも忘れてはならないのである。

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(樺太からの引き揚げ船)

*家内の叔母や従兄たちも樺太から引き揚げてきた・・


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                                                 (埠頭で引き揚げ船を待つ人々)

      
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                                                           (舞鶴港の引き揚げ)
                          *   従姉は乳飲み子を抱えて、北朝鮮から引き揚げてきた。
               夫はシベリアに抑留されたまま、ついに帰らなかった・・
         
           
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                                                  (佐世保港の引き揚げ)

                       *  姉夫婦は、中国の南京から佐世保港に引き揚げて来た・・

            
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                                        (廃墟の博多港に引き上げてきた復員兵)    
 
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                                                  (引き揚げ列車)

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                                  (引き揚げ者住宅には、旧軍隊の兵舎が使われた)
                佐賀では協楽園と言ったが、今はもうあと形もない。。


         ♪ 異国の丘

                                     https://youtu.be/9hkoI_r3MLM

             今日も暮れゆく 異国の丘に
             友よつらかろ   切なかろ
             我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 
             帰る日も来る   春が来る


                                                                                    ///////

(35)三月十日の東京大空襲

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    (35) 三月十日の東京大空襲

 今日は3月10日、朝から冷たい春雨がシトシトと降り続いて、春なお肌寒い一日になったが、74年前の今日、東京ではB29による大空襲があった。東京では今日、その追悼式典が開かれたそうだが、この大空襲のために10万人という多くの市民が焼死したのを知る人は、今はもう少ないだろう。 

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  イメージ 11戦前の日本では「三月十日」陸軍記念日だった。明治38年、日露戦争の奉天大会戦でロシア軍に勝利して陸軍の総司令官・大山巌大将が奉天に入城した日である。戦前はこの目出度い「陸軍記念日」にはいろんな祝賀行事が行われていた。

 ← 東京有楽町の記念式

その「陸軍記念日」を特に狙って行われたのか、
昭和20年3月10日にアメリカ空軍によるあの痛ましい東京大爆撃が行われ、アメリカのB29戦略爆撃機の大編隊による無差別爆撃のために、東京は一夜にして焼け野が原となり、10万人という尊い命が奪われたのである。 

  

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                                             (焼け野が原となった東京市街)


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 爆撃を行った「ボーイングB29」は当時、アメリカ最新鋭の長距離爆撃機で、(全長30m、全幅43m、4発機、爆弾搭載4トン(最大9トン)乗員12人)と言う高性能機で昭和21年までに3,970機が生産された。1万mの超高空を飛ぶために日本の高射砲の弾丸も届かず、酸素マスクのなかった日本戦闘機では酸素の薄い1万mを飛ぶことが出来ず、攻撃もできなかった。B29の燃料タンクには内部に生ゴムが張られ、弾が当たっても穴が塞がれて燃料漏れが防げて、サイパンの基地まで帰還できたという。
            
 
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                                                  (サイパン島のB29)

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                                             (B29搭載の爆弾・焼夷弾)
 
 空襲は3月9日の午後10時30分、警戒警報が発令され、まず2機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、市民が安心した10日の午前0時に第一弾が投下された。その時、東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らなかった。空襲警報が発令されたのは0時15分で、それから約2時間半にわたって波状的に、無差別のじゅうたん爆撃が行われたのである。

                                          
  B29の大編隊は、まず低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体をとらえたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。

  約344機のB29による夜間攻撃は北北西の強風の中、房総半島上空からの進入に始まり、午前0時8分の第一弾から30分足らずのうちに、合計1、783トンのナパーム性M69油脂焼夷弾、エレクトロン・黄燐などの焼夷弾と少量の炸裂薬を入れた砲弾、または爆弾を本所、深川、牛込、下谷、日本橋、本郷、麹町、芝、浅草の各区に豪雨のように投下した。


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                                      (B29の焼夷弾投下)


 イメージ 10その上、B29から江東区、墨田区、台東区にまたがる40k㎡にわたりナパーム製の高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。
 ←【*焼夷弾は敵を焼殺し、都市、構築物、航空機などを焼き尽くすための焼夷剤を詰め込んだ爆弾】

 さらにその後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、その上、逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられた。
  しかも折からの風速30mの強風のために火勢は一層激しくなり、火の玉のような大きな火の粉が舞いおどった。中央区をはじめ、東京の中心部は火の海と化し、この火に照らしだされて逃げ惑う都民の群れに、敵機はさらに低空から無差別じゅうたん爆撃を行ったのである。
 

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                                                        (遺体の山)
 
             イメージ 8
                                                 (黒こげの母子の遺体)

 このため戦争とは無関係の一般市民は、次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされたのである。  寒夜の冷たい水で、あらかじめぐっしょりと濡らしていた防空頭巾も、一瞬のうちに乾燥して燃え出したという。

 
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                                          (焼け野が原を視察される昭和天皇)


   この東京大空襲による被害は、死亡者、実に10万人を超えた。
   戦争とはかくも無慈悲で悲惨、なんと空しいものだろうか。。

           ・・・・・・                   ・・・・・・・

  
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                          (黙とう)

                                                                                                 ///////
 

(36)戦後の風景

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         (36) 「戦後の風景」

 戦争が終わって、紫蘭が家郷に帰ると軍隊で怪我をして手術した足の傷も瞬く間に好くなってしまった。  戦後の食糧難といってもやはり、軍隊と家の食べ物とは違うのであろう。
 
 イメージ 1戦後の市街地は、空襲によって破壊されたビル群の瓦礫が散乱していた。そのなかで、雨後のたけのこのように映画館があちこちに復活した。暗く苦しい戦時生活から開放されて、みんなこのささやかな娯楽に走ったのだろう。

 イメージ 2ラジオからは←並木路子の明るい「リンゴの歌」が流れ、映画館では「ある夜の接吻」という日本最初の接吻映画が上映されたりしていた。 しかし、これはこうもり傘で接吻の場面をきわどく隠すという期待はずれ?の映画であった。
 そのころ、博多の場末の小さい映画館で映画の合間のアトラクションとして,今のねむの木学園の「宮城まり子」さん→ が、「ガード下の靴磨き」などを歌っていたのを覚えている。

 空襲の焼け跡も生々しい都会の街には、あちこちに闇市ができた。  食料不足、物資不足の国民はこの闇市で飢えを充たし、寒さをしのいだのだ。

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                                               (大阪梅田の闇市)

  戦後すぐ、外語時代の学友・吉井藤重郎君がくれた返信が残っている。彼とは学生時代によく文学論、人生論で口角泡を飛ばして議論した仲である。彼はまた、豊橋予備士官学校でも同期で,歩兵砲中隊だった。彼は、住友本社に就職していたが、敗戦後は感じるところあってか、会社を止めて奈良の大和三山近くの実家で百姓の真似事をしていたらしい。

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イメージ 10 「懐かしき便り、ありがとう! 友、鎮西にありて呼ぶ
 ここ大和の国にもしばし晩愁の青空がある。
 小生、目下百姓中、よろしく・・
 この間、伊藤(*学友)が日曜に泊りがけでやってきて午前中麦撒きを手伝ってくれた。
 小生思うところあり、住友本社解体から課長が傘下会社に就職斡旋すると言ったが、断った。
 しかし、百姓で押し通すんじゃないからご安心を乞う。
 今、大阪では闇市が大流行だ、梅田、えびす橋、天王寺、鶴橋が最も有名。
 焼け跡の人だかりを想像して見たまえ、大劇、常盤座も残っている。歌舞伎座では猿之助の勧進帳。文楽その他、道頓堀は焼けた。
↑吉井見習士官時代
                                    都市はいま人為的崩壊時期だ、新しい芽は田園に分散する。
                                     こじんまりとした明日の日本の貌(かたち)・・
                                     では、これ位にする。十一月二十七日。

                 わがつくる草履の形ととのひて
              秋はいよいよ悲しくなりぬ

                                          では ・・

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 *吉井も文中の伊藤もその後、同じ京大を出て大学教授となり著書も多いが、その伊藤も吉井もすでに先年、鬼籍の人となってしまった。伊藤からの最後の賀状には「一度会いたいなぁ‥」と書いてあったのに。。
 吉井、伊藤、柳と4名で外語の卒業間際に南紀の旅に出たのが忘れられない。あれが別れの旅だったのか。。

 数日前、本棚を整理していて古びた一冊の本をみつけた。表紙が黄色く焼けていて見づらいが、三好達治の詩集「春の岬」である。そういえば、学生時代によく読んだなぁ、と思い、古ぼけた表紙を開いてみると、なんと本の扉に「紫蘭君に贈る、健闘を祈る。伊藤生」とある。軍隊に入る前に伊藤が呉れたのだろう。
                                                                  ↑ 闇市風景

        春の岬  「序詩」                                                        

         イメージ 5わが若き
       十とせのとしつきの                                             
       いつしかにはやすぎゆきて
       あとこそなかれ
            そこばくのうたはのこりつ
            そのなかばいまここにあり
            ながき夜の
            灯火のもとにつどへて
            二つ三つ手にとりあげて
            ひるがへし見ればつたなし

           よみかへすさへものうし
  
 学生の頃、みんな文学青年を気取ってクラスで詩歌や作文を持ち寄って「雑草」というガリ版の「同人誌」の真似事みたいなことをやっていたが、後の前衛俳句の赤尾兜子や吉井たちも熱心に投稿していたのだが、今、自分の詩や歌を読み返してみるとこの↑序詩のごとく、何とも青臭く、つたない。

 そういえば、イメージ 6すっかり失念していたのだが、吉井からは高村光太郎の詩集「智恵子抄」を貰ったし、同じ学友の田中君からも卒業時に本を貰った。和辻哲郎著「人間の学としての倫理学」であった。あのころの学生はこんな難しい本を読んでいたのだなぁ。。

 イメージ 7田中君は真面目で優しい人柄だった。軍隊に入るとき、彼が母に頼んで紫蘭を帝塚山の家に招き、一席ご馳走になった。言わば、ささやかなる別れの宴というべきか。物も食べ物もない時代、彼の母上にも何かと迷惑をかけてしまった。

 彼は学徒出陣で船舶兵として応召したが、戦後の消息はない、その後どんな人生を過ごしたのだろうか・・

 吉井から貰った智恵子抄の扉には「呈紫蘭君 大和の百姓より」の吉井の筆の跡がある。彼もまた学生時代から詩歌を好んで作った。彼からは自家本の句歌集「蛍」を頂いたこともある。

 イメージ 8  ものみなに傷見え春の寒さかな    藤重郎

   昭和という激動の時代を、ともに机を並べ、軍隊を共にし、青春時代を必死に生きてきた友人たちの殆どが老い果て、あるいは既に彼岸の人となってしまった。
      
     昔別れしはこれ何れの処なりし
     相逢えば皆老いしおのこなり
     文を論ぜし友を失いてよりは
      空しく知る売酒の櫨(みせ)        杜甫


  ↑肩を組んで・・京都・仁和寺にて・・ (小林、吉井と弁当持参の)簡単花見)

     シランはメガネはかけていなかった。 懐かしい学生時代のワンショットだ。
     当時、まだ低かった仁和寺の桜も、75年も経った今、さぞ大きくなったことだろう。
 

           ・・・・・・                      ・・・・・・

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                                              ///////
  

(37) 「戦後の社会」

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        (37)  「進学と就職」 

 昭和19年の外語卒業時に、就職試験と九大の入学試験を受けた。当時の旧制帝国大学に入るには旧制高校を卒業していることが必須条件で、高商や高工、外語などから帝大に入学するのはいわゆる傍系入学であり、もちろん試験を受けなければならないが、外語での成績が学年の一割以上なければ推薦して貰えなかったのである。

イメージ 1 旧制高校の受験に失敗して一浪して外語に入った紫蘭の究極の目標はなんとしても帝大に入る事だったので、外語時代は学年で一割以内の成績を取るために大いに勉強したつもりである。

        目つむれば 若き我あり 春の宵      虚子

 外語の卒業前には九大受験と共に、就職試験を受けた。言葉の学校、特に外国語が専門の学校なので、卒業生には新聞社希望が多かった。そしてそれぞれ専攻の外国特派員になるのである。

 シランが受けたのは当時、「同盟通信社」と言っていた今の「共同通信社」と「朝日新聞」だった。
  その日の日記がある。

 * 「昭和19年6月4日」 雨

 淀屋橋で地下鉄を降りて、しとしとと降る初夏の雨が次第に土砂降りの雨のとなる中を、会社までビル群の中の歩道を歩いて行った。
 今日は同盟通信社(*現、共同通信社)の就職試験である。 
 北浜の柳並木の下を、破れ傘から漏れてくる滴に学生服の肩を濡らしながら、人通りの少ない歩道を行くと次第に緊張感が解けて、思いがけず和やかな気分になってきた。
 雨の北浜は情緒豊かであった。
 
  入社試験はまるで入学試験だ。
 書き取り(英文)、英文和訳、時事問題、作文など、それに人物考査がある。
 人物考査の一問一答。 こわそうな試験官がずらりと並んでいる。
  ・・・・・・
 「試験官」 兵隊検査は?
  「小生」  今年の八月受検の予定です。
 「酒やタバコは?」
  「飲みます」 
 「強いんだね・・」
  「いや、強いというわけではありません、
   あまり飲んだことはありませんが、酔ったこともありません」

イメージ 3 「同盟を志望した理由は?」
  「はッ、ただ何となく面白そうでしたから」
 「支那語(*中国語)が専攻でしたね、それじや、英語の試験で悪かったね」
  「いやー、英語は得意ではありませんので・・」  
 「では、支那語は得意ですか?」
  「は、いや、いや!!、支那語もあまり得意じゃない方で・・」
 「ハハハ・・しかし2年あまりでは、まぁ話せんだろうなぁ」
  「ええ、それはもう・・」
   
 「君は射撃がうまいんだね」
  「は、そうです。学生射撃指導員の資格を持っています」

「佐賀にはどんな新聞社があるか知ってるか?」                  ↑春秋左氏伝
  「はぁ・・、佐賀合同新聞とそれから・・・??」
 イメージ 4「ふぅーん、佐賀には一つしかなかったはずだがねー」
  「???・・」

 「それでは、同盟の支局があるのを知ってるかね?
  「??・・・」   
 「まぁ、知らんだろうな」
  「はぁ、知りません・・」
 「満州国通信社に推薦したら,行くかね?」
  「はー? ま、まいります! でも、なるべく支那の方に願います」
 「ああ、ではもうよろしい」 ・・・・
  
                                      
                                 ↑ (佐賀新聞、柳条溝で日中両軍が衝突)
 
 まずこんな所だ、これじゃ全然合格の見込みなしだ。
 学科の方も芳しくないようだし、処置なしだ。 まぁ、採るなら採ってくれ。。
 今日の受験生は、京都帝大1名、大阪外語5名、天理外語5名、関学大2名、計13名である。
 受験問題の時事問題には「重慶」や「渡洋爆撃」などが出たが、試験の合間にコーヒーが出たのには驚いた。 この非常時にモダンというか、紳士的というべきか。。
   ・・・・・

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                                            (台湾から中国奥地の重慶まで渡洋爆撃が行われた)


 *結局外語からは小生とドイツ語のA君が合格し、東京荻窪の同盟通信社・編集局詰の辞令を貰ったので朝日は受けなかった。 が、同時に受験していた「九州帝大」に合格したので、同盟入社を謝絶して、10月学徒出陣で「豊橋第一陸軍予備士官学校」に入校した。
 
 A君はその後、ドイツ特派員から共同の専務にまで出世したが、自分がもし同盟に行って新聞記者の道に進んでいだら、戦後、産経新聞社記者となっていた同窓の司馬遼太郎氏とも同じ道で出会っていたかも知れないと思うと、人生の岐路の不可思議さを感ぜずには居られない。

   ・・・・・・                            ・・・・・・・

   〇  白木蓮の白い花が咲きました。

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                                          (ハクモクレンの林)                                       
 
     
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  ハクモクレンは中国の原産で早春に,葉が出る前に大きな鐘状の花を咲かせます。
  純白の花には芳香があり、コブシと共に春を告げる花として人気があります。日があたるとよく香り、夕方には閉じて朝になるとまた開いて数日間はもてます。
 ただし、雨や霜に弱く、せっかく開いても雨に逢うとすぐに茶色に痛んでしまうのが欠点か。。

            ひらくよりはや傷つけり木蓮は     堀 蘆男
   

 

(38)戦後の学園

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    (38) 「戦後の学園」 

 昭和20年10月1日、私は軍隊から九大に復学した。(*旧制なので正式には九州帝大)
 軍隊から帰ったままで、まだ制服・制帽がないので、知り合いの先輩の角帽を借りて、始業式に出かけて校門前で待っていると、外語の同窓で豊橋予備士でも同期だった親友の関谷がやってきた。 彼は開口一番「おう!!・・太ったなぁ!」と言いながら手を差し伸べてきた。   

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                                         (旧・九州帝大、正門・後方は法文学部)

 打ち続く戦争の時代から敗戦という大きな代償のおかげで、ようやく得た平和の時代、再び帰らじと決心して軍隊に入ったのに、命永らえてまた母校の校門で再び彼と会おうとは・・全く信じられない気持ちであった。彼は軍隊でも成績優秀だったのだろう、卒業後、予備士に残って次期幹部候補生たちの教官として残っていたのである。 

 そのころの博多は空襲の被害で瓦礫の町と化していたが、復興は早かった。薄汚れた旧博多駅も健在だったし、チンチン電車も走っていた。特に映画館の復興は早く、中洲を始めあちこちに映画館が乱立した。博多駅から箱崎に向かう通学のチンチン電車の窓の中から、千代町の角に出来た大きな「国際映画劇場」を横目に眺めながら学校に通ったものである...


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                   (終戦直後の博多の街・向こうに見えるのは、岩田屋か?)
 

 イメージ 7紫蘭の九大での学部は法文学部だった。旧制の「九州帝大」は1924年(大正13年)、東京帝国大学、京都帝国大学に次ぐ三番目の法文学部が九州に開設されて、これまでの医科大学、工科大学と統合されて総合大学としての九州帝国大学が発足していた。戦前の国立の総合大学は、東京、京都、東北の4帝大だけであった。

  法文学部の本館は箱崎の九大キャンパス正門の真正面に、1925年に建設され、我国における西南学派の拠点、という建学の理想を象徴する倉田謙設計の堂々たる白亜の殿堂で、当時は九州初の帝国大学のシンボルとして福岡の市民に賞賛されたものである。 そして帝大法科創設を志して東京帝国大学法学部教授から勇躍九州の地に乗り込んだ美濃部達吉博士ほか、新進気鋭の若き知の探求者たちが全国から集う知の殿堂だった。
 美濃部達吉博士は戦前、天皇機関説を唱えて世の耳目を集めた高名な憲法学者だった。            

 
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                                                  (旧九大・法文学部)


 戦後の社会は日独伊などの全体主義国家の崩壊から、左翼思想全盛の時代であった。戦前からのマルクス経済学の総帥であった向坂逸郎教授の伝統を引く九州大学経済学部の教授たちは、三池炭鉱の闘争に代表される「総労働対総資本」の戦いのなかで、総労働側の理論的後ろ盾となった。また60年、70年安保闘争、学園紛争の際には、法学部、経済学部教授ともに学園封鎖のバリケードのなかでヘルメットをかぶって立てこもる側に回り、反戦と大学自治のために闘争を繰り広げたが、この反権力、反体制は当時の九大法文系の伝統となっていたのである。

 イメージ 3九大はさいわい空襲の被害はまぬかれていたが、どの校舎も敵機の目をくらます為のカムフラージュ(迷彩)が施され、自分の専攻の経済学科のビルもめちゃくちゃに真っ黒なコールタールが塗りたくってあって、創立時に白亜の殿堂と言われた面影は全く無くなっていた。た。 

 そして戦時中追放されていた革新的経済学教授が数多く復帰し、資本論特講の向坂逸郎、統計学の高橋正雄、経済学史の波多野鼎(*のち片山内閣の商工大臣)、憲法の河村又助(*のち最高裁判事)、労働法の菊池勇夫、農業政策の田中定教授など、錚々たる論客が揃って、まさにマルクス主義経済学全盛ともいうべき学園であった。

  イメージ 6法文学部は、法学科、、経済学科、文学科の三つに分かれていた。紫蘭の専攻経済学科である。
  戦後の九大経済学科は、東大と京大派閥の争いだったともいえるだろう。東大からは経済史の石浜地行教授、マルクス経済学の向坂逸郎教授、経済学史の波多野鼎教授、統計学の高橋正雄教授がおり、方や京大派には財政学の三田村教授、社会政策の森耕二郎教授、経済学概論には高田保馬教授がいて、両派の勢力は正に伯仲という有様だった。
 
思想的に見れば、東大派は革新的左翼マルクス主義であり、京大派は古典主義的な右翼思想だったともいえるが、甘辛基準で分ければ、「労農派」と呼ばれた「東大派」は酒を飲まない甘党が多く、労農派の総帥でマルクス経済学ピカ一の存在だった向坂教授などはぜんざいを七、八杯も食べてなお、けろりとしていたというし、石浜教授は両刀使いだった。

 一方、講座派と言われる京大派にはのん兵衛が多かった。高田保馬教授はシランの母校の中学出身だが、変り者で通っていた。九大教授時代には故郷の佐賀県から汽車で通い、三日月村住民と称して、いつも水を入れた大きな水筒を肩からぶら下げて、水ばかりガブガブ飲んでいたそうだが、元々胃が悪かったらしい。博多から家に帰るときはいつも牛肉を買って帰るが、田舎の家なので駅からは遠い。そこで汽車が通るころに、夫人がいつも線路わきに待っていて、彼が汽車の窓から牛肉を投げ落とすのを夫人が拾って家に持ち帰り、すぐにスキヤキの用意に取りかかって、先生が家に着く頃はもう鍋が良い臭いを立てているのである。さすが経済学者だけあって、時間の使い方も経済的だと言わざるを得ない。

  高田博士はまた歌人でもあった。母校の中学(西高)の校門前に、その歌碑が建てられている。

                  故里の山はなつかし母の背に
              昔ながめし野火のもゆるも       保馬
  
  
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                (母校の中学正門前にある歌碑)

                ・・・・・                          ・・・・・・
    
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(野火の風景)

 むかし、早春の土手やあぜ、道端の枯れ草を焼く野火を見ると、山村の子供たちは面白がって走って行って見に行ったものだ。野焼きは害虫やその卵を焼き殺し、牛馬ばの餌となる草を生やすための地区民総出の苦役であった。子供たちは争ってマッチで枯草に火をつけ、あまり火が広がると笹竹を持って叩き消すのである。
        
       ・・・・・・                    ・・・・・・


(39)戦後の学生生活

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  しばらくご無沙汰しました。ヤフーブログが間もなく終了と言うので、新規投稿の意欲も薄らいでしまい、大変失礼しましたが、いま少し続けてみたいと思います。
そのうち、同じタイトルで、アメーバーブログに引っ越しますのでその節はよろしく。。

  (39)「戦後の学生時代」

  九大経済学科で、私は外語で専攻した語学とはいささか畑違いの経済や法律を学んだ。しかし、資本主義と共産主義対立の国際社会が、70年に亘る壮大な経済学的実験ともいえる共産主義国家・ソヴィエト連邦があっと言う間に解体してしまい、今や一、二の国を残して世界から共産主義そのものが崩壊し去ろうとは思わなかった。そして、折角学んだ民法や商法などの法律も新憲法のもとでは旧法となり、復学した左翼教授連のバックボーンともいうべきマルクスの弁証法や経済学もまた世人から忘れられようとしている。まさに「今昔の感」に打たれざるを得ない。


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                       (戦前の九大構内)

 大学は外語時代と違い、学生が常住する特別の教室がない。授業も各自が自由に選択して自分で時間割を作り、単位取得の必要学科を大教室や中教室に移動して受けねばならない。授業の出欠の点呼もないし、みんな、てんでんばらばらに登校し勝手気ままに自分の授業を受け、授業を受けないときは、校庭の芝生の上に寝ころんで談笑したり、喫茶店に出かけて油を売ったり、下宿に帰って昼寝をしたりする。何ごとも学生本位で自由な学園生活は、戦時下の外語の厳しく統制された学生生活とは、一転して正に自由学校の様相があり、何かと戸惑うことが多かった。

  
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                                                (芝生の上で先輩と談笑)


 半円形の階段状になった大教室の授業は、法、経学科の学生が一緒に勝手に席について授業を受ける。始業時の点呼もないし、一年二年生【一回生、二回生という】の隔てもない。先生はすり鉢状になった大教室の遥か下の教壇で勝手にしゃべりまくり、その間、学生は先生がしゃべる講義をただ黙々として大学ノートにペンを走らせるだけである。もちろん学生に対する指名もないし、学生からの質問もない。

 そこで学生たちの居眠りが始まる。鼻から提灯を出してうとうとと・・書き忘れたノートは後で友達から借りて書き写せばいい。

 イメージ 3そのころ、早稲田の政経学部にいた友人は、いつも東京から故郷に帰っていて、授業はほとんど受けず、友人のノートを書き写して卒論だけを提出して卒業したそうである。
 
 ほんとかな?と思えるが、本人がそう言うのだからほんとうだろう。今は早慶と言えば日の出の勢いだが、官立優先の戦前の社会では、私立の東京六大学は、お金持ち学校と揶揄されて、世間では半分軽蔑されたものだ。
さすがにクソ真面目な帝大の学生は、そこまでは行かないが、授業に出ずに友人に代へんを頼むのはよく流行った。
 
 (代返は多数の学生が出席する大教室などの授業の始めに出欠を取る時には、欠席者の身代わりになって返事をするのである。代返を何人も受け持つとそれだけよけい、高く、低く声音を変えねばならないので大変だ)

 これら教授連の中で一番印象深いのは、憲法の河村又助教授であった。古武士を思わせるような謹厳な先生の講義には独特の風格があった。勿論、始業時の出欠の点呼もないし、講義はただ、天皇制の話ばかりで淡々と先生のお喋りで進み、そして淡々と終わるのである。

  旧・大日本帝国憲法・第一章

第1条 ・大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 ・天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
                               ・・・・・・
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 左翼系教授として戦時中、大学を追われていた先生の講義が、天皇制の講義と批判で終わるのは当然のことだった。そのほかの個々の憲法の条文の講義は聞いたことがない。そんな細かいことは自分で勉強しろ、というわけだろう。


 学期試験は、参考書であれ、六法全書であれ、何を持ち込んでもよかった。ただし、試験問題は「憲法とは何ぞや」という、ただの一行だけであった。法律の解釈や条文の回答よりも、単純に憲法の意味や精神を問われる問題の方がよっぽど難しい。でも、憲法も経済学も財政学など、紫蘭は殆どの成績が優だったから、ある程度は理解できていたのかもしれないと自負している。
  
 
  川村教授は、のちに最高裁判所の判事になられた。もちろん憲法の番人としてである。

            ・・・・・・                        ・・・・・・・

  暖かくなってようやく桜も満開、今日明日は花見客でにぎわう事でしょう。

     (佐賀・県庁前の桜)

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(40)「戦後・荒廃の社会」

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         (40)  「戦後・荒廃の社会」

   戦後の社会は空爆による都市の破壊に比例して、欧米の自由主義敵思考の到来で、これまでの儒教的道徳心が失われ、人心もまた荒廃していた。

  特攻崩れや第三国人の跋扈、旧道徳の規範から解放され、新しい生き方を模索する無軌道な若者たち。。文学界では田村泰次郎の「肉体の門」や石原慎太郎の「太陽の季節」「チャタレー夫人の恋人」など精神と肉体の開放を唱える小説が氾濫し、街には空襲によって家や家族を失った浮浪少年や夜の街に立つパンパンの群れが横行して、いわゆるアプレ若者たちによる犯罪も頻発したのである。  

イメージ 1  『星の流れに』  https://youtu.be/Xa0Jl71N7ag
  
    ♪星の流れに 身を占って
     どこをねぐらの 今日の宿
     すさむ心で いるのじゃないが
     泣けて涙も 枯れはてた
     こんな女に 誰がした

    
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        (戦後の買い出し部隊)


 これまでは戦争に勝つために、祖国を護るために、という道徳律に生きてきた多くの国民だったが、敗戦によって生きる目標を失った精神の荒廃の為であろうか、儒教的道徳観から、個人主義的アメリカナイズへの急激な傾斜のせいであろうか、戦後の混乱期には、次から次へと社会を震撼させるような大事件が起った。

〇「帝銀事件」・・昭和23年1月。
   全銀行員に毒を飲ませて、11名を死亡させた帝銀椎名町支店事件。

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〇「戦犯裁判」・・昭和23年11月。
   戦犯25被告に対する判決。東條元首相以下9被告に絞首刑宣告。

 
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〇「三鷹事件」・・昭和25年7月。
   無人の国鉄電車が暴走した三鷹事件。竹内被告に死刑判決。

〇「下山事件」・・昭和24年7月
   下山国鉄総裁の無残な、そして不可解な死。

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〇「松川事件」・・昭和24年8月
    東北本線の松川駅付近で機関車が脱線。

〇「黒人兵集団脱走事件」昭和25年7月
    小倉で黒人米兵200人以上が集団脱走し暴行・略奪。
   ・・・・
 そのなかでも、戦前の道徳観を失った無軌道な(戦後派)青年たちの犯罪が多発した。
  当時、これらの若者たちのことを「アプレゲール・アプレ」と呼んでいた。

★*「光クラブ事件」・・昭和24年11月
   東大生の学生社長・山崎が金融会社・「光クラブ」を設立して倒産。
   「人生は劇場だ」と言って自殺した事件。

 ★「日大ギャング事件」・・昭和25年6月
   日大会計課運転手の山際が、日大職員の給料を強奪した事件、別名「オー、ミステーク事件」
   逮捕時に犯人山際は、肩をすぼめて「オー、ミステーク」と言ったという。

★「金閣寺放火事件」・・昭和25年7月
    京都の国宝・金閣寺が放火により焼失した。

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                                                   (焼け落ちた金閣寺)

 
★「バー・メッカ殺人事件」・・ 昭和28年3月
  東京・新橋のバー・メッカで証券ブローカが殺害される。犯人の正田昭は慶応大卒のエリート。
  酒を飲んでいた客の肩口に、天井からポタリポタリと血潮が滴り落ちてきたのが発覚の発端だった。 

 ★「カービン銃強盗事件」・・昭和29年7月
   もと保安庁隊員の大津健一がカービン銃をつきつけて強盗を働き、美人女優と逃避行を続けた末逮捕された事件・逮捕後「マンホール殺人事件」も自供。

 そして、国際的には米ソ対立の冷戦下に、昭和28年「朝鮮戦争」が勃発し、38度線を境に朝鮮は北と南に分裂したままま半世紀が経ってしまった。かくて、新憲法が誕生し、朝鮮戦争による特需に潤った日本経済は、戦争の痛手から奇跡的な回復力を示して、高度成長期へと進んでいったのである。

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            ・・・・・
 このように戦後は自由を謳歌するアプレ、無軌道な若者たちであふれたが、我々は現在の日本の繁栄の礎となって戦場で散って行った多くの若者たち、原爆や空襲、さらに沖縄などで散った多くの民間人の犠牲者たちが居ることを、決して忘れてはならない。
  
  いつか詣でた高野山の一角に、丸い自然石がぽつんと置いてあった。その表面にはただ「空」とだけ刻んである。横に立てられた碑銘によれば、散華した空挺部隊の記念碑であったが、その「空」の意味が、大空の「空」の意味なのか、色即是空の「空」の意味なのか、自分には分からなかった。

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  戦後もすでに74年を経て、戦中派の面々も或いは老い果て、或いはすでに鬼籍の人となって寥々たる有様、昭和・平成・戸時代は移り変わり、人は逝き、雲は流れて今や戦争の記憶もはるか彼方となり、「往事茫々として煙霧」のごとくである。 ああ、已矣哉・・やんぬるかな!

 2019年4月1日、今日新しい元号が発表された。  
 万葉集巻五の梅の歌の序文から採ったものだという。
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」

 
  「令和」

 令の字がちょっと馴染み薄いが、爽やかで上品、なかなかよろしい。
 新しい令和の時代が、戦争のない明るく平和な世の中でありますように・・

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                                          (佐賀県庁前の桜並木)

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(41)小平事件

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 ヤフーブログは今年12月で終了するそうなので、「紫蘭の部屋」も5月には「アメーバーブログ」に引っ越すつもりですが、十数年、書きなじんだマイブログと、いろいろとコメントを頂いた皆さんとの別れがつらく、いましばらくは駄文を書いておこうと思っています。

  (41) 「小平事件」

  戦後の動乱期、10年ほどの間は、食糧難と性的欲望の解放によるいわば、「犯罪の季節」とも言うべき時代だった。その間、人を驚かすような様々な凶悪犯罪が頻発したが、そのなかでも終戦直後に報道された「小平事件」はそのあまりの残虐さに世人の耳目を驚かせたものである。


イメージ 1 「小平事件」 は戦時末期の昭和20年から敗戦後の昭和21年にかけて起こった連続強姦殺人事件で、7人の若い女性が次々に被害に遭った。戦中、戦後の食糧難に付け込んで、言葉巧みに食料や職業のあっせんを持ちかけて山林に誘い出し、強姦して殺すという手口である。

 犯人の「小平義男」は「性欲旺盛な野獣のような男」と言えるが、見た目は精悍で、わりと紳士的なところもあったそうである。そして食糧や職を求めていた10人の女性(3名は証拠不十分で不起訴)が次々と彼の毒牙にかかることになった。

 そして昭和21年に、小平は7人目の被害者である17歳の女性を就職のあっせんをすると誘い出し、公園裏で強姦殺害して逮捕された。


 彼女は銀座の喫茶店に勤めていたが、店が閉鎖することになっていて次の職探しに懸命だった。
小平が彼女に声をかけた時に、彼女の母に本名を名乗っていたのが、逮捕につながった。
 そして裁判の結果、昭和24年10月に死刑を執行されたのである。 享年44歳。

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                                        (死刑判決後、退廷する犯人・小平義男)


 死刑判決直後は粗暴な態度が目立った死刑囚の小平だったが、面会に来た妻や教誨師との交流によって次第に態度を改めていったそうである。 
 小平は死刑執行の日、6時半に起床。朝食を食べた後、窓の外の秋雨を眺めて、中川玄昭教誨師に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と話した。そして刑務所長に宣告されると、マンジュウを食べ、煙草をふかした後、妻に遺言状を書いた。

「自分は荘厳な気持ですべてを清算し、静かな気持で死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うして下さい」

  また次のような辞世の句も書いている。

     亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 
       今日の死を待ち 深く果てなん

 彼の予審調書によれば

「上海事変当時、太沽では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘を出せといって出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も5、6人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです。」 と述べている。

 旧日本軍隊時代のこのような暴行の体験が、彼の人間としての良心を狂わせ、道徳心を失わせたのかもしれない。 そういう面では、彼の事件もまた戦争の産み落とした汚点の一つともいえるだろう。
 とにかく、生きるか死ぬかの瀬戸際にある戦場では、人間を悪魔にしてしまうのである。

         ・・・・・・・

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                 ちるさくら海あをければ海へちる      高屋窓秋


                                                            ・・・・・・

(42)「帝銀事件」

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  ヤフーブログばかりではなく、掲示板も閉鎖されたので、紫蘭は別のteacup掲示板に、新しく
「昭和は遠くなりにけり」を起こして駄弁を弄しております。只今男性2人、才女4人に囲まれてたじたじと苦戦中・・お暇の方は一度ご覧になって、よろしければ一期一会の触れ合いの場としてご利用ください。


  teacup掲示板、カテゴリー(なんでもフリートーク〉「昭和は遠くなりにけり」 です。         ↓クリック


 ・・・・・・・

  (42)「帝銀事件」
 

「帝銀事件」・・昭和23年1月。
 小平事件に次いで昭和23年には、銀行員に青酸カリを飲ませて殺害するという驚くべき事件が起こった。 いわゆる「帝銀事件」である。

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 「帝銀事件」は1948年(昭和23年)1月26日、東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で起こった。
厚生省の役人を装った犯人が、帝銀椎名町支店の行員たちに、赤痢の予防薬と称して青酸カリを飲ませて12名の銀行員を殺害した大量殺人事件であった。犯人に飲ませられた青酸カリのために行員の12名が死亡し、4人が瀕死の重体に陥ったのである。


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                                                                        (犯行直後の様子)


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(犯人)のモンタージュ写真)


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 目撃者の証言から犯人は四十四、五歳で身長5尺三寸、頭は丸刈りで、一見柔和な顔、上品な言葉使い、医者か消毒係のよな人物だと分かった。

  そして被疑者として8月21日に北海道の小樽で画家の平沢貞道が逮捕された。彼は犯行を否認したが、9月23日になって突然犯行を自供、然し一審の裁判が始まると全面否認に転じた。1950年7月24日死刑判決が出て上告、55年4月には上告棄却の判決が出て平沢の死刑が確定した。

 ←平沢自身による犯行の再現写真


もともと平沢は狂犬病の予防注射の影響でコルサコフ症候群を患っており、誇張の多い言動や、すぐ見破られるような嘘を平気でいう虚言癖があった。


  自分の色紙が一番よく売れるとか、50円のチップを200円、500円の色紙が千円に売れた、などと嘘をつく。戦時中は船底にカキがつくのを防ぐ塗料を発明したから、「今度は俺も大金持ちになるぞ、海軍に150万円で売ろうかな」と友人たちに吹聴して歩いたそうである。

 そしてその嘘をついた本人が、いつの間にかそれを本当のことと信じこんでしまうのである。嘘か真かの区別が本人にも曖昧になってきて、自分までだまされる空想虚言者になっていたのである。
とすれば、取り調べ検事に対して犯行を自白した彼の犯行自体にも虚言症によるうそだったとの疑いが残るのである。

 イメージ 6その後の死刑囚としての平沢は、隠者の風格があったという。
多くの死刑囚が荒れるのと違い、獄中の平沢はいつもニコニコして人当たりがやわらかで、永年の房内生活の苦しみを顔に現す事もなく、面会者とも自分の家でご隠居さんが来客と話しているようだった。適当に手振り身振りを交えて話す様子は恰も歌舞伎の世話物を演じている役者のような感じがしたという。

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そして、常に自分の無罪を信じ、検事が勝手に真犯人にでっち上げたのだという強い信念があり、最後まで潔白な平沢画伯として誇らしげに冤罪を主張し続けたのであった。



 平沢の死刑が確定して以来39年間、三度の自殺未遂を経て、なお彼は刑の執行もされず、一度も出獄しないままで、肺炎のために獄中で死んだ。 享年95歳だった。
 彼の一生は何だったのだろう。。うそかまことか、夢かまぼろしか。。


            ・・・・・・・                           ・・・・・・

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                    (ほらほら、坊や・・風邪を引くよー)
        

             「春暁」
                                             春眠暁を覚えず
                     処々に啼鳥を聞く
                     夜来風雨の声
                     花落つること知りぬ多少ぞ

                               (唐 ・孟浩然)
                     


(43)東京裁判

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  (43) 『東京裁判』  1948年

 昭和20年8月15日の無条件降伏によって日本は敗戦の日を迎えた。そして米英などの連合軍側によって東条首相はじめ日本の戦争指導者たちを「平和に対する罪」などの罪名でA級裁判を行い、7名が絞首刑となり25人が有罪となった。いわゆる東京裁判であるが、正式には極東国際軍事裁判という。

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 裁判は連合国最高司令官・マッカーサーの命令により設立された極東国際軍事裁判所で行われ、原告は米、英、中国、ソ連の4か国、首席検察官はキーナン(米国)、裁判長はウエップ(オーストラリア)であった。

 裁判は昭和26年5月に開廷、「平和に対する罪」のA級犯罪として戦争指導者たちの個人的責任を認め、日本軍閥の責任を追及したのである。

 そのほか、東京裁判とは別に、原告の7か国ごとに、通常の捕虜虐待などの戦争犯罪の罪として、B,Cクラスの裁判が行われて、被告となった5,700名のうち、984名が死刑を宣告されている。

 ↑ (自殺未遂の東条首相)


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                               (パターン死の行進で死刑の判決を受ける本間中将)


 これらBC級戦犯の被告たちの中には、ずさんな伝聞や虚偽の証言、通訳の不備、勝者の報復感情などが災いして不当な扱いを受けたり、無実の罪を負わされた者も多かった。

 栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせた、とか、肩凝りや腰痛の捕虜に灸を据えただけで、捕虜虐待の罪に問われた事もあったという。 敗戦国の悲哀とも言うべきか・・

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                                                (検事の論告)


 A級戦犯28名は昭和21年4月29日の天皇誕生日に起訴された。そのうち大川周明は精神障害のため不起訴となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したために、判決を受けたのは25名だった。

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                                                 (A級戦犯被告席)
 
 そして1948年11月12日、A級裁判の判決の言い渡しがあり、7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
 7人の絞首刑(死刑)判決を受けた者への刑の執行は、12月23日午前0時1分より巣鴨拘置所で行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)であった。

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                                        (刑死した被告たちの絶筆)

 この東京裁判については、当時から様々な評価や批判が行われた。 
 そもそも「平和に対する罪」というものがあり得るだろうか・・
 侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者が敗者を裁く裁判」が果たして正義と言えるだろうか?・・

 残虐行為と言えば、10万人が死んだ東京無差別爆撃や数十万人が殺された原爆投下は、より残虐な人道に対する罪だとは言えいなだろうか?

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                                             (焼け野が原の東京)


 当時の占領軍幹部の中にも「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」 などとの批判があった。

 戦争犯罪の裁判は、要するに「勝てば官軍」のことわざがまかり通る「勝者の論理」と言わざるを得まい。

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                         (大空襲後の東京)

 戦後もはや75年、今や昭和はおろか平成の時代も終わりに近づいている。そして戦争の記憶も東京裁判の記憶も遥かに遠く、話題に上ることも少ない。

  今はもうすべてが風化して煙霧の中に消えていくのであろうか。

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                                             ・・・・・


(44)下山事件と金閣寺全勝

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    〇 (44) 「下山事件」 1949年

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  1949年(昭和24年)7月5日、下山定則国鉄総裁が登庁途中に三越本店に入り、そのまま行方不明になって、翌6日、東京都足立区綾瀬の常磐線線路上で、れき死体で発見されて世人の耳目を驚かせた。この下山事件は三鷹事件、松川事件とともに戦後国鉄関係で起こった三大ミステリー事件の一つと言われている。

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                                               (現場検証)


 当日の7月5日は国鉄の3万人以上の第1次人員整理案発表の予定日で、政府は「他殺と推定」との公式見解を発表した。


 一方、警視庁は自殺説をとったが、遺体を鑑定した古畑種基東大医学部教授は「死後れき断」を主張した。その他、占領軍政下の謀略事件とする説や共産党による謀殺などの説もあるが、いずれもその真相は不明である。


  〇  「金閣寺全焼」  1950年

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 1950年(昭和25年)7月2日、京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)から、午前2時50分ごろ出火、室町時代初期の代表的建築として知られる三層楼が1時間後に全焼した。当時、火災報知機は作動しなかったそうである。 そして、出火後に行方をくらました同寺徒弟の大学生が放火を自供し逮捕された。 この金閣寺の焼失はのちに三島由紀夫が書いた小説「金閣寺」の題材となった。

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 ←焼失時の金閣寺

 

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                   ・・・・・・                            ・・・・・・
 
  焼失した金閣寺は1955年に復元され、87年には総工費7億4000万円をかけて金箔全面張り替え工事が完成。 1994年には世界文化遺産に登録された。

             
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                          (雪の金閣寺)

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(45)三鷹事件

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     (45) 「三鷹事件」   1949年 (昭和24年)


 「下山事件から10日あまり、昭和24年の7月15日には、東京三鷹駅で無人の電車が暴走するという不可解な事件が起こった。いわゆる三鷹事件である。

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 三鷹事件は1949年7月15日の夜、無人の電車が三鷹駅構内を暴走し、駅前の民家に突入して死者6名、負傷者20数名を出した事件である。事件後、共謀による計画的犯行として、三鷹電車区の十名が「電車往来転覆致死」の容疑で逮捕され、一年後の判決では竹内のみが有罪で無期懲役の判決を受け、ほかの十一名はすべて無罪になった。その後の裁判でも竹内の単独犯の基本線は変わらず、、二審では逆に死刑の判決、さらに55年の最高裁の判決でも同じ結果となり竹内の死刑が確定した。(*8対7の僅差であった)

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 竹内は長野県の貧しい農家に生まれ、小学校を卒業して上京し、印刷屋に住み込んで勉強を続けて国鉄の運転手となり、真面目に懸命に働いていた。しかし人員整理に会って国鉄を去ったが、事件になるまでは何ら非行やぐれた行動は見られず。直情的で几帳面に熱心に働く男であった。

 8月1日に逮捕された竹内は最初は否認したが、21日になると単独犯を自供し、翌月末には一転して共犯者がいると主張して裁判を受けた。その後も単独犯を自白したり、共犯を主張したり、7度も目まぐるしく主張を変えている。これは検事の厳しい追及のせいだとも、拷問のためとも言われ、また他の九人の共産党員の共犯者を救うためだった、とも言われている。

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 裁判の当初は多くの共産党員が逮捕されたために共産党の支援があったが、党員を無罪とした判決後には、党員たちの関心は非党員の竹内から遠ざかって行った。かつての労組の同志たちが面会にも来てくれず、激励の手紙もこなくなって、逆に「竹内の嘘の自白で共犯者にされて一年もクサイ飯を食わされた」と、非難までされるようになった。
 竹内は「俺は党の指示通りに行動し、党の弁護士とも相談してきた。党では絶対に助かるといって、いろいろ指示してきたのでその通りにやった、そしたらどうですか、俺一人が死刑になってしまった」とある新聞記者に憤懣をぶちまけている。

 面会者には「俺は弱い人間なんですね。弱いからすぐ人を信用してしまう。党だって労組だって全面的にお前を信用する、と言われればすぐ嬉しくなって党を信用してしまった。結局俺は党によって殺されたようなものだ」
 「死刑確定者だから、いつ仙台送りになるかという恐怖はあります。」と言いながら自嘲的な笑みを浮かべて「弁護士の言う通りに嘘の告白をしたんです。俺は弁護士に騙されたんです。しかし、考えてみればだまされた自分も悪い、その点ではもうじたばたしないつもりです。」と興奮してしゃべっている。

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                                                  (暴走現場)


 竹内は信州の養蚕農家に生まれた。正月やお祭りの折詰の御馳走を決まって不味いものから食べ、おいしいキントンや羊羹はちょっと舐めるだけにして、明日の楽しみの為にとって置いた、という。この貧乏性が事件の時も共産系の弁護士の話を信じて「今、単独犯行を自供してほかの党員を助ければ、やがて人民政府が出来た時、人民の英雄になれる、と信じ込ませてしまったのだ。」と彼は言う。
 死刑囚はほとんどが、狭い獄舎での孤独な拘留と、いつやって来るかもしれない死への恐怖から、拘禁性ノイローゼとなり躁鬱的症状が出てくる。自然に自分の犯行が事実なのか、検察によってでっち上げられたのかの区別ができなくなり、明らかな証拠があっても自分は加害者でなく被害者であり、えん罪であると信じ込むようになる。

 果たして、竹内は単独犯なのか、党によって単独犯に仕立て上げられた冤罪なのか・・
 竹内景助は、軽の執行を待たずに1969年巣鴨の東京拘置所で死亡した。45歳、死因は脳腫瘍だったが、最後まで冤罪を叫び続けていたという。


         ・・・・・・                         ・・・・・・


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(46)バー・メッカ殺人事件

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     (46) 「バー・メッカ殺人事件」  1953年

 戦後の無軌道な犯罪多発の中で特にアプレゲールの典型的な犯罪として「バー・メッカ殺人事件」がある。バーの客席に血がポタポタと落ちてきて、天井裏から死体が発見されたこの殺人事件は、その犯罪の異常さで、世人の耳目を集めた。

 イメージ 11953年(昭和28年)年7月27日、 東京・新橋のバー・メッカの天井裏から血まみれの男性死体が発見された。被害者は証券ブローカーで、指名手配された3人の容疑者のうち、2人は自首し、主犯の正田昭(24歳)は同年10月に京都の潜伏先で逮捕された。


正田は慶応大学を卒業したばかりの好男子で、女遊びの遊興費ほしさに殺害し、現金約40万円を奪ったという。


  当時のマスコミは「アプレゲール(戦後世代)犯罪の典型」と報じ、死刑が確定した正田は獄中で小説を発表した。そして1969年12月に正田の死刑が執行された。

 主犯の正田昭は1929年大阪の生まれで5人兄弟の末っ子だった。
父は渡米してカリフォルニア大学で法律を学び、弁護士として帰国して商船会社や電力会社に勤務したが、正田が生後五か月の時に死亡した。彼は女子大出の母親のもと、父なき家庭の中で、長兄の暴力に脅かされながら成長した。長兄は人と強調できず、母や弟妹に暴力を振るっていた。この暗い家庭の中で、彼は兄や母に不信の念を抱き、若いころには家出や自殺を考えたこともあるという。小、中学で優等生だった彼は旧制高校の入試に2度失敗して、慶応大学予科に進学した。


 1949年、正田は恋愛関係にあった奔放な性格のS女の浮気に嫉妬と不信に悩み、その上、大学卒業を控えて肺浸潤が見つかり、一層絶望感に襲われるようになった。そこで一流企業への就職を諦め中小のS証券会社に就職を決めたのだが、そのころから彼は多額の金を浪費して乱れた生活をするようになった。

 そして1952年の夏にバー・メッカ殺人事件が起こった。S証券に就職した正田が浪費のために生活費に窮し、株式売買の証拠金として客から預かった1,700株の株券(20万円くらい)を使い込んでしまい、その返済のために証券ブローカーのHを殺害したのである。

 彼は7月26日、新橋駅前のバー・メッカで住み込みのバーテンKと殺害の方法を謀議し、翌27日に正田がHを誘いだして背後から電気コードで首を締め、共犯のKが角棒で滅多打ちにして殺害し、Hが持っていた現金40万円と腕時計を奪い取って逃走したのである。

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                          (事件現場のバー・メッカ)



 しかし、事件は思わぬことで発覚した。なんと翌27日午後9時前、カウンター席でビールを飲んでいた男性客の肩口に、血がポトリポトリと落ちてきたのである。天井を見ると、どす黒い血のシミができている。
  中二階の押し入れを調べてみると、そこには血まみれのHの死体があった。死体は両足を電気コードで縛られており、鈍器で全身30ヶ所をメッタ打ちにされていた。他にも刃物による刺し傷、紐で首を絞められた後など、無惨な状況だった。

  犯行直後から逃亡していた正田は10月12日、潜伏していた京都で逮捕された。このメッカ殺人事件は金欲しさの強盗殺人として起訴され、1956年12月15日、一審で死刑の判決が出た。

                                                                             つづく

          ・・・・・・                      ・・・・・・

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                                                 (雪の一本松)
                                                       

(47)死刑囚の日々

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     (47) 「死刑囚の日々」
 
 死刑の判決が出て裁判が終わり、確定死刑囚となった犯人の日々とその心境はどんなものだろうか。

 一般に死刑確定者は「拘禁ノイローゼ」にかかると言われている。その一つに爆発反応がある。独房の中で突然憤怒の発作を起こし、無鉄砲な運動をして暴れ出し、壁や扉を乱打、房内の器物を破壊し、それを止めようとする看守につかみかかったりする。顔は真っ赤になり、呼吸は荒く、時にはガラスの破片で自分を傷つけて血だらけになったりする。しかし、発作が治まると自分が何をしたかを覚えていないのである。これは動物や昆虫と同じく、人間が危険から逃げ出そうとして焦った場合の原始的な衝動行動とも言えるだろう。

 中には、危険な状態になったクモ、やヘビが死んだように全く動かなくなる擬死反応のように、囚人が知性も理性も全く麻痺してしまい、突然動かなくなったり、房内にただ茫然と突っ立っていたり、倒れたまま動かなくなったりすることもある。
 それに「被害妄想」が多い。その対象は、始めは周りの看守だが、次第に検事、警官、裁判官へと広がっていく。そしてそれが「無罪妄想」となることもある。自分は冤罪であるという、妄想に取りつかれるのである。

 中には「躁鬱病的症状」を呈することも多い。死刑になるのが確定している死刑囚なので、気が滅いって憂鬱な気分になるのは当然だが、中には躁状態になるものもいる。
 躁状態になって、上機嫌で大声でしゃべりまくり、歌ったり、踊ったり、騒ぎ立てている様子は死を待つだけの彼らの境遇を思うと異様な感じがするが、その躁状態も時間が経つと忽ち反対の極度の鬱状態に陥り、笑いが泣きに、喜びが悲しみにと変わってしまうのである。このように躁と鬱とが交互に目まぐるしく変わるために、恰も躁と鬱とが同時に存在するかのようである。


 イメージ 1確定死刑囚にとっては、残された時間は極めて限定的な物であるから、拘禁ノイローゼいなるのも当然かもしれない。
 死刑の執行は法務大臣の命令により判決確定後6か月以内に行うと定められているが、実際には6か月以上に伸びるのが通例である。然し、いかに伸びようとも法務大臣の命令があれば、直ちに行われるのが現実である。

 或る日、不意に、突然「お迎え」が来る。刑の執行はおおむね朝の十時ごろで、その直前に予告がある。刑の執行の行われる可能性は、その日の朝お迎えが来なければ平日だと24時間、土日ならば48時間後である、死刑囚の未来はその24時間か48時間に限定されているのである。
 
 死刑囚にとっては一日一日がとても貴重な時間なので、(社会に居るとき、なぜもっと時間を大切にしなかったか)と、悔やむのが常である。
                                                (昔の断頭台)

  そのため、多くの死刑囚はその残り少ない人生をいかに有意義に過ごそうかと、毎日、短歌や俳句、執筆、読書、おしゃべりなどに忙しく過ごし、ぼんやりと無為に過ごして居るものは少ない。                                                              

 人間はいつ死ぬか分からない。そこで死から逃れるために、いろんな気晴らしをするが、死刑囚はノイローゼになることによって死を忘れるのである。躁状態になることによって、毎日動きの多い生活を行い、やっとその死から逃れるのである。拘禁ノイローゼは死刑囚にとっては死の恐怖から逃れるための気晴らしに過ぎないのである。

          ・・・・・                       ・・・・・

 
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                                                   (いずこへ・・)




(48)正田昭の場合

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        (48)   正田昭の場合

 ところで、確定死刑囚となった正田昭の場合はどうだっただろうか。一審で死刑の判決を受けた後に正田はこう述懐している。
「死刑の求刑が出た時はがっかりして、三日ばかりあまり眠れませんでした。然し母が慰めてくれたので、すぐに立ち直りました。ですから死刑の判決が出ても別に動揺はしません。ただ、母に泣かれて困りました」
 そして一審、二審、三審ともに死刑の判決だった。(*Kは懲役10年)

 しかし、正田の犯罪は果たして単なる金もうけだけの犯罪だったのだろうか。。正田の上告趣意書に、次のように彼の心境が記されている。
「私は進んで破滅を求めたのです。私にとってはもはや破滅だけが、長い間絶望してうずくまっている本当の自分を取り戻す、たった一つの方法だったのです。相手がHさんでなければならぬ理由は全くなかったのです。

イメージ 1 幼い頃、長兄の暴行が始まったあの晩以来、「大人」という人たちを心から憎み恐れました。幼い私が死ぬほど心を痛めているのに大人たち(長兄、母、姉)は少しも私を助けようとはしませんでした。理解しようとさえしませんでした。「大人は薄情で、残虐で、嘘つきでエゴイストなんだ」という拭いがたき不信と憎悪の対象に、たまたまHさんが居られた、というだけでございます」

 一言で言えば、正田は犯行前後人間不信の極にあった。犯罪は破滅のための手段であり、牢獄はむしろ憩いの場であったとも言えるだろう。。
 彼が目の前で、むしろ楽し気に犯罪について語り、その後もニヒリストとしてジャーナリズムに手記を発表したりしたのは、破滅に成功した彼の安心と成功の気持ちを示している。

  このような不信の人を人間の世界に取り戻し、信頼と会いを示してくれたのが、彼の場合はカトリックの信仰であリ、カンドウ神父であった。 
 「もしS・カンドウ神父にお会いできなかったならば、私は人を信頼せず、自分と人との交わりをしないばかりか、自分をひとりの人として認めることさえ出来なかったでしょう。ですから罪の意識も持てなかったでしょう。神父様は他の人とは全然違った人でした。あの方は黙って私に微笑みかけ、微笑みつつ自分のすべてを受け入れ、信頼や愛の定義を教えるよりも、まず信頼や愛を私に投げかけてくれました。」

 カンドウ神父の手で正田が洗礼を受けたのは1955年7月9日、精神鑑定のため入院していた松沢病院に於いてだった。そして9月下旬にカンドウ神父が亡くなった。
 「私が真に泣くことがD来たのは、その時が最初でした。私は窓辺に立って雄大な夕焼空を眺めながら何故ともなくこの大自然の雄大さが、今は亡きカンドウ神父そのものに思えてなりませんでした。」
  ・・・・・
 イメージ 5独房の正田は、房内はきれいに整頓され着衣も清潔で几帳面な性格がのぞいていた。彼の発言は抽象的なものが多く、当時の彼が形而上学に深い関心を抱いていたのを思わせる。
 「以前は大人のやることが生暖かく、偽善にあふれたものに見えたのです。人間は誰も信用できず、すべて猜疑の眼で見て、毎日いらいらして落ち着きませんでした。女なんて金でどうにでもなるし、大人たちは金と地位しか眼中にないので、こっちも金さえ持っていれば容易に対抗できると考えていました。その頃のことを思えばぞっとします。それに比べればここの生活は天国です。」

 正田はしばしば夢について語った。
 「多いのは犯行の夢です。ほとんど犯行前後の乱れた生活の事が多く、天国の夢を見たいのですが一度もありません。それと多いのは自由に外を出歩いている夢です。然し残念なことに夕方には必ず拘置所に戻って来なくてはならないのです。私の夢は色は付いているんですが総天然色ではなく、画面の一部に色が、たとえば太陽が黄色とか、色がついているだけなんです」 

 彼の「夢日記」という作品を見れば、生涯の様々な夢が載っているが、確かに犯罪と逃亡の夢であった。「私は絶えず追われている夢を見る。一種の強迫観念だろう」とか「なぜ逃げる夢を見るのだろう。現実逃避の願望を現しているのだろうか、しかも私は昼間は平静な気持ちで過ごしているのだ。もし夢の方は真実なら、昼間の外観は見せかけのものになる」と書いている。」

 担当看守の話でも、正田は別に変った様子も見せず、判決後取り乱したら興奮状態になったりする囚人が多い中で、彼の態度は不思議な感じに写ったという。

                                                                       つづく

 
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                        ナンジヤモンジャの花が咲きました。

  初夏の陽気だというのに、雪が降ったように見えるので、「あれは何じゃ?」という訳で「なんじゃもんじゃ」という名前がついている珍樹です。正式名は「一ッ葉タゴ」で、対馬には自生の群落があるとか。。

                                                 

(49) 最後の日々

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            (49) 最後の日々

 「1963年1月25日」
         最高裁判所第二小法廷判決
          「本件上告を棄却」

 母が法廷からすぐに来てくださる。泣いていらっしゃった。当たり前のことだ。誰が母を責めるだろう。僕はすぐ母に、まだすぐに処刑されるわけではない事、今こそ僕を励ましてくださるように、と言った。僕は母のために、そして愛する人のために、一日でも長く生きるつもりだ」

 「2月5日」
 僕は今、ひっそりと独房の片隅で静かに微笑み続けている。人々は空想するだろう。大都会の片隅で、巨大なコンクリートの城の、とりわけ頑丈な死刑囚のほの暗い独房で、死刑囚の生は、虫けらのごとく醜く死臭にみちたものだろう、と。
 確かにこの小室は暗い。それになんと寒いことだろう。今朝がた少し差し込んでいた日航はもはや明日まで望むべくもない。なるほど。。この光景を他から空疎すればいかにも圧倒的な死の凶兆しか見出し得ないだろう。
 ところが・・僕は絶望していないし、泣いているわけでもない。恐怖感も抱きえないほど不感症なのであろうか。
 どういたしまして。。僕はただ、さっき飲んだサイダーが如何にも旨かったので、絶望しないのだ」


イメージ 1 「2月8日」
 埒もない夢から解放されて、受け入れがたい現実に身を置く朝、願ってもやまない平和が、確かにこの独房の中にある。
 死刑確定。僕は心労のあまり昨日の午後から寝てしまった。今日も寝ていたい。明日も、永久に寝ていたい。
 
 でも、僕は今朝再び愛が生の情熱をかきたて、今机に向かいつつある。諸時期言って少々情けない気持ちだ。
 僕は自分のためにはまだ泣かない。敷か祖、人々の不知、偽りの愛のためには泣きたい気持ちだ」


 彼の獄中の手記「黙想ノート」の中に次の一文がある。
 「夜半停電、一晩中、電灯のともっている世界に、突然訪れた真の闇は、なんとすばらしく思えただろう。人々の予想に反して、闇は私たちの心に恐怖ではなく、愛を呼び覚ました。。。だがすぐにまた点灯し、私たちささやかな秘密は、再び他者の眼前に露呈されるのだった」

 1969年12月9日朝、確定死刑囚「正田昭」は死刑を執行された。
       そして教戒師のもとに最後の手紙が届いた。

 ・・とうとう最後の日が明日と告げられました。
 先生・・
 いろいろありがとうございまいた。もっと多くの事柄について先生と語りあい、教えていただきたいと思っていましたが、死はやはり不意にやってきました。
 この死いついて、良く見つめ、考え、祈りながら私はあちらへ行きたいと思っています。母と私のためにお祈りください。
   では先生、さようなら。

         十二月八日

   ・・・・・・・                          ・・・・・・

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                                                   (落花)


平成最後の日

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      「平成最後の日・平成31年4月30日」


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 4月30日、午後五時、平成天皇退位の儀式も無事終わった。
 災害の多かった時代だったが、とにかく30年間、戦争もなく無事泰平に過ごせたことが何より・・
 明日からの令和の時代も、平穏無事の時代が続きますように。。

                              しらん

 
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      ・・・・・・・・


令和元年・初日の出

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                            令和元年、あけましておめでとうございます。

  おかげさまで、紫蘭も大正、昭和、平成、令和と4時代を生きることになりました。
  これからもよろしくお願いいたします。


         あらたまの時代(とき)の始めの初日の出
         いや重け(しけ)吉事(よごと)と祈る朝かな

                                        紫蘭


  

(50)五月五日は端午の節句

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      (50) 端午の節句

 
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 今日は5月5日、五節句の一つ、端午の節句ですね。 それも令和初の節句です。めでたし、めでたし。。
 でも、最近の少子化の影響で、街中で鯉のぼりを見ることが少なくなりました。もちろんビルが乱立する都会では長尺の丸太を立てる場所も余裕もないだろうし、田舎でも毎朝立てたり下ろしたり出来る若者が少ないこんにちでは没法子、仕方がないでしょうね。。

  「こいのぼり」        https://youtu.be/N2u7gdbPieU

      やねよりたかい こいのぼり
      おおきいまごいは おとうさん
      ちいさいひごいは こどもたち
      おもしろそうに およいでる

 イメージ 1もともとこの「端午の節句」は古代中国ではこの日に汨羅(べきら)の河に身を投じた憂国の詩人「屈原」を弔い、遺体を魚に食べられないために「粽・ちまき」を魚に与えたことが始まりとされている。

 日本でも平安時代にこの風習が伝えられ、宮中でもこの節句の行事が行われるようになった。端午の節句には強壮解毒の作用がある菖蒲が邪気除けとして使われたので「菖蒲の節句」とも言われ、武家社会では武を尊ぶ「尚武・しょうぶ」にも通じる事から、この日を男の子のお祝いの日になった。

     ♪ 汨羅の淵に 波さわぎ
      巫山の雲は 乱れ飛ぶ
      混濁の世に 我立てば
      義憤に燃えて 血潮湧く
                                                          (屈原)
 
 
 昔は「かしら息子」が生まれて初めて迎える五月五日の「初節句」には、母親の実家や叔父や叔母たちがお祝いの幟旗を贈る風習があった。そこで端午の節句を「幟祝い」とも言い、初節句の幟を「初幟・はつのぼり」と言う。

 戦前の旧民法では長男が家督を相続して戸主になり、財産は殆ど独り占めする。親の方は老後をこの長男に見てもらうのだから、長男は「かかり息子」として、次男三男や女の子よりも格段に、大事に大事に育てる。だから長男のほかは、幟祝いも桃の節句もお祝いをして貰えない。せいぜい赤飯か紅白のお餅と大根のナマスを二段重箱に入れて配るだけである。

 配るのは子供に決まっていて、子供が紫色の袱紗(ふくさ)を掛けた重箱を隣近所に持って行くと、五銭とか十銭とか、なにがしかのお駄賃をその重箱に入れて返してくれる。だからひがんだ次男たちの間に「かしら息子」のことを「惣領の甚六」と言う陰口が生まれるのも当然の成り行きだろう。


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 端午の節句に幟(のぼり)を立てる風習は江戸時代に始まった。
昔は紙で作った紙幟に武者絵を描いて家の外に立てる「外幟・そとのぼり」が広く行われたが、その後、定紋をつけたり、鍾馗さんの絵も使われるようになった。これを小さくして家の中に飾るようにしたのを、「座敷幟」とか「内幟」と言う。
  武者絵の幟は今は布地になっているが、都市に多いのは「鯉幟」である。鯉のぼりも初めは紙製だったが、今は布製となり中にはビニール製もあるようだ。

 節句の幟は高さ22尺(約7m)もあり、幟竿は生の杉丸太である。
 幟は少ない家でも四、五本あり、多いところは10本ほどもあるので立てるのも一苦労である。よく八幡様などには、お祭りの時に立てる国家安穏、五穀豊穣などの幟のために、普段から石の支柱が建っているが、それと同じくらいの角材をしっかりと地面に打ち込んでおかねばならない。
 その幟は四月初めから立てるが、夜はいちいち仕舞わねばならないので、立てたり倒したりするのに、大人三人がかりである。まだ今のように竿の先端に滑車をつけて簡単に揚げ下ろしが出来るような時代ではなかったのである。

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                        (武者絵ののぼり旗)

 青空高く風にはためく幟は、武者絵が多い。勇ましく元気な子に育って貰いたい、との願いであろう。江戸時代から「鯉のぼり」は関東地方、「旗幟」は関西以西に限られていて、関東では「鯉幟、日本男子ここにあり」とか「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」と言う俳句や川柳も作られたようだが、鯉のぼりなど見たこともない西国の人には、なかなかピンと来なかったのである。たが、戦後は全国的に鯉のぼりが普及し、これに矢車、吹き流しも加わるようになった。鯉は出世魚である。風をはらんで大空を泳ぐ鯉幟の姿はいかにも元気が良くて、まことに男の子の節句にふさわしい。

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「幟祝い」はよばれた親類一同の前で、紋付きはかま姿の坊やが床柱の前に座らされ、鯛の尾頭付きのご膳につくと、一門総出で目出度い謡曲とともに祝い酒を飲んで、惣領息子の無事息災と出世を祈るのである。
 それに引き換え、ほかの子供はせいぜいヨモギの草団子にありつけるだけで、遠方から駆け付けた親類の者たちが目出度い「端午の節句」と言いっているのが、「団子の節句」のように聞こえるだけである。(^^♪
                                    紫蘭

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