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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(13) 「韋駄天」

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   (13) 「韋駄天」

 金栗四三翁を主人公にしたNHKの大河ドラマ「いだてん」は前宣伝のほどには視聴率が上がっていないようです。やっぱり、日本人は時代劇の方が好きなのかも・・

イメージ 3ところで、昔から速く走ることを「韋駄天走り」と言いますが、この「いだてん」というのは一体何でしょうか。

 そもそも「韋駄天」は仏教の増長天の八代将軍の一つであり、また増長天などの「四天王」の下にいる三十二将の親分だということになっています。そして、仏教の伽藍や厨房を護る守護神になっています。
(*四天王は、仏教の世界観である須弥山の中腹に住んで仏教を護っている四つの神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)のことです。増長天はその四天王の一つで、主に仏教の伽藍の守り神になっています)

  ← 韋駄天像(美濃・鹿苑寺蔵)

 伝説によると、「捷疾鬼」という悪鬼が、釈迦の遺骨である仏舎利を奪って逃げたとき、韋駄天がこれを追って無事に取り戻したそうです。その故事にあやかって、江戸時代には東海道などの各街道筋を「飛脚」が飛ぶような「韋駄天走り」で書状を配達していました。

イメージ 4 しかし、1872年1月24日に東京、京都、大阪の三都市間に郵便が開始されたので、飛脚便は廃止されこの「韋駄天走り」は見られなくなりました。

 イメージ 2「いだてん」の主人公の金栗四三翁は、日本マラソン界の父と言われています。
 1912年(明治45年)のストックホルムのマラソンで出場しましたが、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱され、目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝だったそうです。。
                                                               ↑ 昔の飛脚

 ついで、1920年のアントワープでは時間48分で16位に終わっています。 さらに、1924年、のパリオリンピックでは途中棄権しました。

 ← 金栗四三翁



 最近の日本のマラソン界では女子の活躍に反して、男子の成績が振るいませんね。

 オリンピックのマラソンの日本男子の成績は、1968年、メキシコオリンピックの君原健二の二位が最高で、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは、日本代表として出場した孫基禎が2時間29分で優勝しましたが、戦後、彼の国籍が代わり日本人の優勝とは成っていません。

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 (ベルリン オリンピック・・一位でスタジアムに入る孫選手)

 次の東京オリンピックのマラソンでは、全米、全豪オープンと連続優勝した大坂ナオミ選手のような素晴らしい活躍を望みたいですね。
 
                                           ・・・・・・

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            (昭和39年10月10、東京オリンピック・昭和天皇の開会宣言)




(14)南極探検

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      (14) 「南極探検」

 イメージ 11910年(明治43年)、南極探検に向けて出発した白瀬中尉は、南極圏に近づくにつれて季節が冬になってしまいました。そこでやむなくオーストリアのシドニーに引返し、そこでひと冬を過ごし、翌明治44年に南半球が夏の時期になってから再び南極を目指しました。そして1月28日、ついに南極80度5分の地点に到着し、ここに日の丸を掲げて日本領土を宣言して「大和雪原」と名付けました。

 白瀬中尉は幼いころから探検家を志し、寺子屋の先生の

  1.酒を飲まない
  2.煙草を吸わない
  3.茶を飲まない
  4.湯を飲まない
  5.寒中でも火にあたらない
     
 という、五つの教えを終生守ったそうです。

 白瀬中尉は明治26年、幸田露伴の兄の郡司大尉が率いる千島探検隊に加わり、占守島で越冬して、明治28年に救助されています。

 イメージ 2日本人で、初の南極大陸探検調査に成功した白瀬中尉の偉業には、当時は日本国中が歓喜に沸いて、歓迎会や講演会などが開かれましたが、白瀬中尉はこの探検のために4万円(現在の一億五千万円)という大きな借金を抱え、自宅と家財道具から軍服や軍刀まで売り払って、20年に亘って借金の返済に充てたそうです。

← 白瀬探検隊の開南丸

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                → 白瀬隊の到着地点

 白瀬は窮迫のうちに、戦後昭和21年に現在の愛知県豊田市で腸閉塞で亡くなりました。

 床の間に置かれたミカン箱の祭壇には、カボチヤとなすび、うどん一把が置かれただけで、お詣りする弔問客も殆どなく、隣近所の人も白瀬中尉がここに住んでいたのを知らなかったといいます。



 ところで、それからほぼ半世紀のちの1967年(昭和32年に、近代設備で固められた日本の第一次南極観測隊が永田隊長の指揮の下、「観測船・宗谷」に乗り込んで南極大陸のオングル島に接岸して、ここに「昭和基地」を作りました。その到着日は奇しくも白瀬隊の極地到着の翌日、1月29日でした。
 白瀬隊は殆ど徒歩でしたが、宗谷の観測隊は砕氷装置の付いた特殊船舶やヘリコプターまで装備していました。50年の歳月はこれだけ多くの科学的進歩を生んだのですね。


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                       南極観測船 「宗谷」


 それにしても、南極の夏は短いので、極地の探検の時期も限られています。白瀬隊も宗谷隊も、極地到着の日付が殆ど同じになるのも当然だったかも知れませんね。 

               ・・・・・・・                 ・・・・・・

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                   (ヨーロッパ最高峰・モンブラン南東陵)

                                                 ・・・・・

(15) 包丁の話

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    (15) 包丁の話

 当地の藩主鍋島家を祀った松原神社では正月2日に「包丁式」があります。
 庖丁式(ほうちょうしき)とは、平安時代から伝わる、庖丁師によって執り行われる儀式で、烏帽子・直垂、狩衣を身にまとい、大まな板の前に座って、鯉などの食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手にまな箸を持ち切り分けて並べます。

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                                                   (包丁式)

 包丁は台所道具として欠かせない調理用具の一つで、種類もさまざま、野菜包丁から出刃包丁、刺身包丁、文化包丁、三徳包丁・・さらには氷切り包丁や豆腐包丁、カステラ包丁、寿司包丁、藁切り包丁と千差万別ですが、この「包丁」という言葉は一体どこから来ているのでしょうか。
 
 イメージ 2紀元前4世紀ごろの中国の書物「荘子」の中の養生主編に、梁の国王「恵王」「包丁」という人物による「解牛問答」という対話が載っています。 この包丁は実は名前ではなく、は料理人のことで、つまり「料理人のさん」という意味なのです。

 この丁さんは大変、料理が上手でした。そして彼はその名声によって恵王に招かれて、王の目の前で一頭の牛を解体・料理することになりました。彼は牛刀という大きな刃物をぐいと牛の体に突き刺して、すーっと引くと見事に肉がきれいに切り分けられていました。恵王はその手際の良さにすっかり感服し、一体どのようにしてこのように見事な刀裁きが出来るようになったか、と問いました。

 丁さんは 「若いころ、初めて牛を殺したときは一向にどうしたらよいのか、見当もつきませんでしたが、三年間修行を積んだおかげで牛のどの部分に、どんな骨があるのか、外から見ただけで判るようになりました。今までこの商売で19年間に数千頭の牛を切りましたので、ぴたり、ぴたりと肉が切り取れるのでございます」・・

 恵王は彼の話を聞いて「なるほど、見事なものだ、お前の話を聞いて人生の生き方がわかったよ」と膝を叩いて感心しました。これがいわゆる「解牛問答」ですが、なんだか特別変わった話でもなく、三年間の修行だけでは感心するほどの事でもないので、どこが人生訓になるのか、我々凡人にはさっぱりわかりません。。

 とにかく、この話から、丁という名料理人の名前がもとになって「包丁」という言葉が誕生したのです。でも、この逸話から見ると包丁はもともと肉を切るもので、野菜を切る刃物は「包丁」ではない事になりそうですね。

 
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                                  (藁切り包丁、昔農家ではまぐさ造りに使われました)

                                              ・・・・・・


(16)節分

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   (16) 「節分」
 
 今日は2月3日、節分ですね、節分は立春(2月4日)の前日のことを言い、四季の移りの日ですが、節分の夜には「鬼やらい」と言って、悪疫を追い払うために豆撒きをする風習があります。

 鬼やらいの風習は、昔は大晦日の行われたそうで、中国では紀元前3世紀・先秦時代からすでに行われていたと言われています。それが日本にも伝わって平安期には宮中の儀式として行われるようになり、これは鎌倉時代まで「追儺式・ついなしき」という公式の儀式になっていたそうです。
「追儺式」は大舎人(おおとねり)が仮面を被って盾と矛(ほこ)を持って鬼を追い払い、王と公卿以下は桃の弓で葦の矢を放ってオニを追い払うという行事でした。

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                        (昔の神社の追儺式)
 


イメージ 2この「鬼やらい」はのちに神社や寺院などでも行われるようになり、時期も大晦日から節分の夜に変わりました。今は追儺(ついな)よりも「豆まき」という言葉が一般的ですが、大豆を炒つて鬼打ち豆とし、「福は内、鬼は外」と連呼して家の内外に豆を撒きます。
 その後、豆を拾って年の数より一つだけ多く食べるのがいいそうです。 だとしたら、シランは96粒も拾わねばならず、歯が痛くてふくれっ面のようみ腫れている頬っぺが一層大きく膨れそう・・・



 イメージ 3豆96粒の上に、さらに太巻きの恵方巻を食べたら、とてもお腹に入りそうもない・・


 ほかに節分の行事としては、家の戸口にヒイラギの枝を差し、その枝に焼いたイワシの頭を刺して鬼を追い払うという「柊鰯・ヒイラギイワシ」という風習もありました。ヒラギの葉のトゲで鬼の目を刺し、焼いたイワシの悪臭のために鬼が逃げ出すのだそうです。

                                                 → ヒイラギいわし


          あをあをと星が燃えたり鬼やらひ    相馬遷子 

                               ・・・・・・

(17)歯磨きの話

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      (17) 歯磨きの話

  10日くらい前から、奥歯が化膿したのか、頬っぺたがアンパンマンのように腫れあがり、イタイ、痛い!   毎日の歯医者さん通いと抗生物質の服用で、どうやらだいぶ良くなりましたが、まだ痛みは治まらず、食事も歯磨きもままならず、ブログ更新もサボリがち。。m(__)m・・

 とにかく、人間にとって歯はとてもは大事なものですね。95歳にもなると、長寿の秘訣は?とよく聞かれますが、さすがに毎日の晩酌nおかげだとは言えないので、丈夫な歯のおかげだと言うことにしています。シランはまだ25本の我が歯を堅持?して、入れ歯なし・・なんでもガリガリと食べています。歯が丈夫だと食べ物がよく噛めるし、唾液の分泌もよくなって、頭や胃腸の働きにも寄与しますから、シランのように長寿間違いなしです。エヘン! (^_-)-☆
 ・・・と、痛みをこらえて、今日も老骨のやせ我慢の一日が暮れました。。

 
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                    (みんな仲良く歯を磨きましょう)


 もともと、人類の歯磨きの歴史は古く、紀元前1500年ごろの古代エジプトの医学書に歯を磨いたという記述が残っているそうです。また日本では平安時代の宮中医官である丹波康頼撰による日本現存最古の医学書「医心方」、「朝夕歯を磨けば虫歯にならない」という記述があり、記録としてはこれが日本最古の歯磨きの記録となっています。

 
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                                                (医心方の記事)


 もともと日本では昔から身を清め、口をすすいで神様に詣でるという習慣があったので、指に塩をつけて歯をみがく習慣は古くからありました。そこで一般庶民は、自家製の歯磨粉や「塩」「焼き塩」「米あかを煎ったもの」などで歯をみがいていたのです。


 イメージ 4歯磨きと言えば歯ブラシに歯磨き粉ですが、歯磨き粉のない明治生まれの母は小さいころ指に塩をつけてジャリジャリと磨いていたと言っていました。紫蘭が幼いころ、提灯の灯だけの薄暗い井戸端の台所の棚に、ライオン歯磨きの紙袋と、竹の柄のついた歯磨きブラシが置いてあったのを今でも思い出します。

 昔は今のようなチューブ入りの練り歯磨きではなく、紙袋入りの歯磨き粉だけでしたが、軍隊に行くときも私物の中に越中ふんどしと、針と糸、タオルにこの歯磨き粉と歯ブラシだけは持って行きました。歯ブラシの柄は竹製でしたが、柄の先方で舌の上もこさいで掃除していました。
                                                                                           ↑ ライオン歯磨き粉

 軍隊には軍医は居ても歯医者が居なかったようで、前以て入隊前に歯の治療をして置くようにとの、入隊心得があって、出征の2、3日前に朝昼晩と一日3回歯医者さんに通って、前歯に金を積めて貰いました。そのうち、一本の金歯が75年後の今でもまだ残っているので、今さらながら金の耐久力を実感している昨今です。

 イメージ 2歯磨き粉は大郷信斉の「道聴塗説」という本の「歯磨きの角力」という記事によると、寛永年代の終わりごろ(1643年)に、丁字屋喜左衛門という商人が、来日した朝鮮人から歯磨きの製造法を教えられ「丁字屋歯磨き」という名前で売り出しました。これは琢砂という細かい砂に、漢方薬の丁字や龍脳などを混ぜたものだったそうです。

 これが歯磨き粉製造の始まりだそうですが、これらの歯磨き粉は、「歯磨き売り」という一種の大道芸人によって売られていました。当時、楊枝や塩を使って歯を磨く人は武家階級や上層家庭の一部に限られて、一般庶民はいわゆる「口すすぎ」程度に過ぎませんでした。

 このような人々に新製品の歯磨きを売り込むために並々なら苦心が払われました。そこでこの「歯磨き売り」が出来たのです。
 彼らは歯磨きを箱に入れてかついで売り歩きましたが、そこで人集めのためにいろんな芸をして見せました。

 イメージ 3その中で有名だったのは「百眼米吉」という人物でした。
  「百眼・ひやくまなこ」というのは、眉やまつげのの形を変えたりして、変装して見せる寄席芸ですが、彼が行くところ、どこでも黒山の人だかりで当時は百眼米吉の名は子供でも知らない者は居なかったそうです。

 それほど有名だったのでついには狂言にまでなりました。河原崎座の狂言「霞色連一群」という芝居で「嵐瑠おう」が米吉に扮して喝采を浴びたのが1853年(嘉永6年)の今日、2月6日の事でした。

 また、元禄年間には「乳香散」が販売され、「この薬をもって磨く時は、その白さ銀を敷くる如く、一生口中歯の憂なし」とその効能を宣伝しています。

                                       ↑ (江戸の歯磨き売り・百眼米吉)

 歯磨きの宣伝に、目を白黒させて人を集める、というのも何だか奇妙な組み合わせですね。

                                      ・・・・・・

                                                                                      

(18)梅一輪

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      (18) 「梅一輪・・」

 今朝、うちの小庭の小さい梅の花が一輪だけ綻んでいました。
 そろそろ暖かくなってほしいものです。

          梅一輪一輪ほどの暖かさ    嵐雪

 「梅」はバラ科の落葉樹で万木に先駆けて咲くので「春告げ草」の別名があります。
原産地の中国では二千数百年前から栽培されていて、詩歌など文学上でも重要な地位を占めています。日本には奈良時代に遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初だと言われています。


 イメージ 1  ♪ 「梅は咲いたか」

   ♪梅は咲いたか 桜はまだかいな
     柳ゃなよなよ  風まかせ
     山吹ゃ浮気で 色ばっかり
     しょんがいな 
  
  ♪ 「梅ヶ枝の」

     梅ヶ枝の ちょうず鉢
     叩いてお金が 出るならば
     もしもお金が  出たならば
     その時ゃ身受けを そうれたのむ

 

   手水鉢を叩いたらお金が出てくるなら、紫蘭も叩いてみたいものだが、いまごろは水道ばかりで肝心の手水鉢がないので,どうもならん・・

イメージ 2
 
(昭和初期の厠とちょうず鉢)

  梅には白梅、紅梅、花梅、臥竜梅、小梅、豊後梅、枝垂れ梅などいろいろな品種がありますが、その中で一番早く咲くのは「ロウバイ・蝋梅」で、1月初めから咲いています。旧暦の2月に咲くので、臘月(旧暦2月の呼び名)に咲く梅という意味で、蝋梅という名がついたそうです。

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                                                       (ロウバイ)


 蝋梅は17世紀前半に中国から日本に渡来しているので「唐梅・からうめという別名があります。
現在蝋梅として庭木などに栽培されているのは花色が全面、黄色のもので、正式には「素心蝋梅・ソシンロウバイ」と言います。

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                                                   (ソシンロウバイ)

 ↓ほんとうの「ロウバイ」は、花も小さくて、外側が白っぽくて花芯部が赤紫色になっています。

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                (もともとの蝋梅) 花芯が暗赤色になっています。


              蝋梅に雀の来啼く日和かな      内藤鳴雪


        ・・・・・・                               ・・・・・・

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(御船山梅林)

 
                  ・・・・・

【19】唐物屋襲撃

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      (19) 「唐物屋襲撃」
 
 勤皇攘夷に明け暮れた幕末の頃、西洋の輸入品を扱ういわゆる「唐物屋・からものや」は攘夷派の浪士たちから「夷荻-イテキ、外敵」とみなされてしばしば襲撃を受けました。西洋から輸入するとそれだけ我が国の金が外国に流出して国益に反する、というわけです。横浜の「伊勢屋平兵衛」という商人は、脅迫されたばかりではなく、1864年(文久4年)には暗殺されています。

 
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                                            (幕末の薩摩藩士たち、色付け写真)


 また、名古屋で「紅葉屋」という店を出していた「神野金平」は1866年(慶応2年)正月に、尾張藩の右翼勢力だった「金鉄組」から廃業を勧告され、ひたすら低姿勢で廃業を承知しました。だが、在庫品を売りつくすまでは営業を続けさせてくれ、という妥協条件をつけました。

 イメージ 2ところが紅葉屋が廃業するという噂が流れ、今のうちに買っておこうと客が殺到して大繁盛、そして不思議なことに僅かしか残っていないはずの商品がいつになっても無くならないのです。と言いうのも抜け目のない金平は横浜あたりから秘かに続々と品物を仕入れていたのです。

 こうして「紅葉屋」は一か月ばかり大儲けしていましたが、やがてそのインチキ商売も金鉄組に知られてしまい、同年 2月8日、近鉄組の6人が抜刀して紅葉屋を襲い、金平以下店の者は逃げ出して無事でしたが、侍たちは店の商品を徹底的に破壊して引き上げました。

 ↑ 最後のサムライ

 金鉄組はまもなく捕らえられて処罰されましたが、紅葉屋はその翌日にはまた横浜に直行して輸入品を仕入れたという話です。

     さすが、維新の英傑たちに劣らず、明治の商人はたくましかったですね。。

  
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                                                (江戸時代の商人たち)
                                                            
                                                   ・・・・・

(20) 紀元節

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        (20) 紀元節

   今日は建国記念日、いや「建国記念の日」だ。 何かと学者さんはうるさい。
 ところでこの建国の日とされる2月11日は、昔は「紀元節」と言い、4大節の一つだった。

         ♪ 雲にそびゆる  高千穂の
            高根おろしに 草も木も
              なびきふしけん 大御世(おおみよ)を
              仰ぐ今日こそ たのしけれ

 小学校の授業は休みだが、生徒は登校して冷たい講堂の板の間にハダシで整列して、紀元節の歌を歌わねばならない。校長先生が教育勅語を奉読読する間、頭下げ続けている生徒たちの間には、ズルズルと水洟をすする音が絶えなかった。

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                                           (明治期の教育勅語奉読)


 〇 「人間が神様になる・・」

 長じて、今度は佐賀の伊勢神社のお祭り、この伊勢神社は全国で唯一の伊勢神宮の分社である。それになんとこの日は人間が神様になると言うから、何とも不思議な話だ。
 佐賀の伊勢神社は毎年選ばれた大神を中心に10名の小神たちが、この日の大祭の祭儀を行い、また年間の経理、経営を担当するという珍しい組織になっている。

            イメージ 2
                      (佐賀の伊勢神社)

 もともと、三重県の伊勢神宮は全国八万の神社を統括する神社本庁の総元締めであり、終戦までは国家神道の中心地だった。この伊勢神宮は天照大神を祭神とする垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられる日本最古の歴史を持ち、厳しい格式があって、神宮の分霊、分社などは一切許されなかった。
 ところがなんと、佐賀市だけには全国で唯一の伊勢神宮があるのである。そして毎年2月11日の大祭の時には佐賀市在住の著名人の中から大神一名、小神が10名選ばれて、玉替えの行事が盛大に行われるのである。(大神、小神さんは、市内の各商店を回って寄付を集めて、伊勢神社のその年の経営に携わる)

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(伊勢会として選ばれた大神、小神さんたち)
                                             
 では、どうして佐賀だけにこんな恩恵が与えられたのだろうか。
 今から500年ほど前「杉野隼人」というお伊勢さんの熱心な信心家が居て18歳から44歳までの間に、53回も伊勢神宮にお詣りした。当時は戦乱の時代で道中も危いのに長途の労苦に耐えて年二回も参宮したので、伊勢の長官始め一同、いたく感動して「前代未聞の事也、当社勧進の儀、相許す」という事になったのである。

 イメージ 4杉野隼人は喜んで天文11年(1542年)神崎郡田手に分霊を勧進、その後永禄8年(1565年)に伊勢の神官「竹市善右衛門」が隼人宅を訪れたとき、肥前の市場町として栄えていた鍋島村の蛎久にお祀りした。そのころ竜造寺家の家老だった鍋島直茂はこの伊勢神宮を深く信仰し、そのご利益によって長男勝茂が生まれたので幼名を伊勢松と名づけ、益々信仰を深めて行った。

 ついで慶長年間になると、佐賀は鍋島氏の天下となり、その城下町を作るときに伊勢神宮を蛎久から市内に移し、百石の神領を寄進し、以来この社を中心にして現在の伊勢町、伊勢本町が誕生した。
 
 ↑ 佐賀藩祖・鍋島直茂

 江戸時代になると、伊勢講などの民間の参詣人も多くなり、他国者は佐賀の伊勢神宮に対して「伊勢神宮の分霊は許されないはずだ・・」として、中傷や抗議が舞い込んだという。しかし、抗議する側も今更破壊するのも恐れ多く、そのまま現在まで、珍しい伊勢神宮の分社として、佐賀人の信仰の対象になって残ることになったのである。
                                           ・・・
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                           (400年前の伊勢神社の狛犬)


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(21)菜の花忌に思う

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     (21) 菜の花忌に思う


 イメージ 1今日は2月12日、学友・司馬遼太郎さんが亡くなった命日「菜の花忌」である。
 1996年(平成8年)の今日、2月12日、司馬サンは腹部大動脈瘤破裂のために急逝した。72歳だった。司馬サンは手術室に入るとき奥さんに「行ってくるよ」と声をかけ、そして再び戻らなかった。 

  彼が好きだった菜の花にちなみ、その2月12日の命日は「菜の花忌」と名づけられている。


 イメージ 2当時、彼の急死で同窓会も大騒ぎしたものだが、あれからもう23年にもなるのか。。月日の経つのはほんとに早いものだ。

 イメージ 8司馬さんは菜の花が好きだった。彼の小説の中にも「菜の花の沖」と言う小説がある。函館を拠点に北前船で活躍した高田屋嘉兵衛の話だ。そこで、司馬さんの死後、彼を偲んで外語同期生の同窓会も、高田嘉兵衛の出身地の「淡路島」で開いたこともある。何時か奥さんから「菜の花の沖」というお酒を頂いたこともあった。  

 司馬さんは亡くなる数年前に「21世紀に生きる君たちへ」と言う小文を草している。小学校6年生の国語教科書のためにである。 

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                                           (21世紀に生きる君たちへ、の記念碑)


  その中に「自分は21世紀には生きていないだろう」と書いているが、その言葉通り、彼は21世紀を見ずに逝ってしまった。この小文は、死後行われた「司馬遼太郎をしのぶ会」でも参会者に配布された。その一部をご紹介しよう。
 
イメージ 6   ・・・・
 「ただ、さびしく思うことがある。
  私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
  君たちは、ちがう。
 21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。 もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。

 イメージ 7「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
  そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
 だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
 もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。   
 
    ・・・・・・

  司馬さんはその言葉どり、新しい世紀を見ずに死んでしまった。激しく流動する21世紀の今日、もし彼が存命していたら、現在の日本を見てどう思うだろうか。
                                                                                                     ↑学生時代の司馬さん

  彼の死因は腹部大動脈瘤破裂であった。煙草好きだったから、かねて動脈硬化があったのかもしれない。それにコーヒーが大好きだった。戦争が激化してコーヒーが大豆の代用品に代わったとき、「うまいコーヒーが飲めなくなっちゃ、もう日本もダメだな・・」とつぶやいたという。

 彼の在学中の思い出は尽きないが、同窓のほとんどがすでに旅立ったし、先年、奥さんの「福田みどりさん」も亡くなった。彼の死後、同窓の楊クンの司会で台湾で行われた「司馬遼太郎を偲ぶ会」にも、同期生数名とともに奥さんも一緒に出席されたのだが、今残っている同期生は僅かに2名だけである・・

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  司馬さんは日常の散歩から、諸外国の取材旅行にも、いつも夫婦連れだって旅をされていたのだが。。   今ごろは、二人仲良く、黄泉の世界を旅しているに違いない。。

                            ・・・・・・

      二人仲良く、日課の散歩・・

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                                    菜の花や月は東に日は西に        蕪村


                                                           ・・・・・

(22)不吉な13日

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    (21) 「不吉な13日」

 今日は2月の13日、西洋では13日の金曜日は縁起が悪い日として敬遠されていますが、今日は幸い、金曜日ではなく水曜日で良かった、よかった・・

 もともと日本人はという数字を嫌い、西洋人は13という数字を嫌います。日本の旅館やホテルには4号室がなく、西洋のホテルや高層建築ではたいてい13階を省略してあるそうです。特に13日と金曜日が重なると、キリスト教徒にとっては最悪の日なのです。 

 と言うのは、まず第一にキリストが処刑された日が13日の金曜だったからです。第二に最後の晩餐を囲んだ人数が13名であり、その13番目の席に座ったのが裏切り者のユダでした。


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                     (最後の晩餐・ダ・ヴィンチ)


 フランスの作家では、デュマ、ユーゴー、ゴーティエなどが13という数字にをとても気にしていました。たとえば、「ゴーティエ」はある日、デュマやサント・ブーブなどと一緒にパリのレストランで会食する予定でしたが、会食者の数が13人なのが気になって仕方がありません。そこで彼は他の12人とは別に自分ひとりの席で食事をすることにしましたが、それでも会食者が13人であることには変わりがありません。やむを得ず彼は、このレストランの経営者の息子をテーブルに着かせて合計14人で会食を済ませたそうです。
 
 イメージ 2「ユーゴー」も大変なかつぎ屋で、それは彼の兄弟が死んだときは、たいてい13人が食卓に着いていたからです。そんなに13の数字を嫌っていたユーゴーですが、それにも関わらず、あるとき13という数字の連続パンチを喰ってしまったのです。

 というのは、彼が1871年の国民議会に出席するために会場のあるボルドーに向かってパリを出発したのが2月13日で、この日の一等車の乗客が13人、さらにボルドーに着いてホテルに入ってみると、彼の部屋はなんと13号室だったのです。まさに 「あヽ!無情」 というわけですが、このとき彼の身の上には、別に何も異状は起こらなかったそうです。

 ↑ ユーゴー

 イメージ 3 オーストリアの作曲家「A・シェーンベルク」は若いころから、13という数字に異常なほどの強迫観念を抱いていました。 そして自分の寿命は76歳かも知れないと恐れていました。 7と6を足すと13になるからです。

 彼が恐れていた76歳になったとき、ちょうど7月13日が金曜日になっていました。そこでこの日が一番危ないと信じた彼は、何とか事故に遭わずにこの日を無事に切り抜けようと、朝からズーツとベットに横たわって部屋から一歩も出ないでいました。
                                                                → シェーンベルグ
                                     
 やがてこの13日も深夜となり、無事に一日の終わりが近づきました。シェーンベルク夫人は
「あなたは縁起かつぎがひどすぎます。ほら、何事もなかったじゃありませんか、じゃー、ぐっすりとお休みなさい」 と声をかけました。
 と、ちょうどその時、シェーンベルクは「ハーモニー」と一言つぶやいて、そのまま死んでしまったのです。ぜんそくの発作でした。 その時刻は、もちろん1951年の7月13日の午後11時47分でした ・・
    11時47分ですから、あと13分!で魔の13日は終わっていたのに。。
    享年はもちろん、76歳!でした。

                                       ・・・・・・

  
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    紅梅や脳天の華語聞きづめに

                    赤尾兜子

 前衛俳句の赤尾兜とは大阪外語の中国語部で同級でした。 当時、彼は華語(中国語)の勉強にはあまり熱心ではなかったようです。

 その頃から俳句に熱中していたので中国語の講義も聞き流していたのでしょうか。でも、字はうまかったです。



  同期の福田君(司馬遼太郎)も同様、蒙古語の勉強はほったらかして毎日、御蔵跡図書館に通いづめでした。兜子に比べて彼の字はあまりうまいとは思えませんでしたが・・
57歳で兜子が自裁したとき、司馬さんと陳舜臣のふたりがが通夜に参列しています。。
 同級の吉井も一句作りました。

        歯を病みて通夜の立て込む寒さかな       吉井藤重郎


                                         /////

(23) 「血のバレンタインデー」

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         (23) 「血のバレンタインデー」

 今日は2月14日、バレンタインデーですね、皆さん、チョコはもらいましたか?
シランは娘がわが家に来る時、義理チョコをチョコっと買ってくるだけ。。
 最近は義理チョコも減っているとか・・


 
イメージ 1 3世紀頃のローマ皇帝「クラウディウス2世」は戦士の士気の低下をおそれて兵士たちの結婚を禁止しました。キリスト教の司祭だった「バレンチノ」は、この禁令に背いて恋人たちの結婚式を執り行ったために捕らえられ絞首刑に処せられました。その殉教の日が269年の2月14日でした。

 ← バレンチノ司祭

 もともと、バレンタインはこのように男女が結ばれると言うロマンティックな日ですが、昔、(と言っても100年ほど前の事ですが、)アメリカの禁酒法時代のこの日に、シカゴで無残な殺戮事件がありました。


   〇 「バレンタインデーの虐殺」

 1929年(昭和4年)の2月14日、午前10時半ごろ、シカゴのクラーク通りにある空倉庫にシカゴのギャングとして知られる「B・モラン」の手下どもが、強奪したウイスキーを搬送するために集まって居ました。そこへ5人の警官がやってきて彼らに壁に並ぶように命じました。

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                     (モランの子分たち、映画のーシーンより)

 モランの手下たちは、なんで警官たちが入って来たのかわからず、全く無防備のまま、マシンガンの前に蜂の巣の様に撃たれてバタバタと倒れました。これが「血のバレンタイン事件」と言われるものです。この警官たちは、実は変装したカポネの子分たちだったのです。「カポネ」「モラン」は密造酒の縄張り争いで対立していたのです。
 この日、親分の「モラン」は遅れてやってきて、倉庫の前にパトカー(にせの)が止まっているのえ、てっきり警官の手入れだと思って逃げ出して助かっています。

 イメージ 3ニセ警官を仕立てたのはモランと勢力争いをしていた、シカゴの暗黒街の顔役「アル、カポネ」と思われましたが、その日は「カポネ」はマイアミの警察で取り調べを受けていたという完全なアリバイがあり、犯罪を立証する証拠は何一つありません。そこでこの血の虐殺事件では誰一人として逮捕されず、モランも1957年まで生き延びています。

 しかし、その3年後に「カポネ」は脱税の罪で起訴されて7年間を刑務所で過ごしました。そして出獄後は完全に落ちぶれて、無一文同様の身となり、持病の梅毒が悪化し、心身も消耗して妄想に悩まされるようになり、ついに1947年、48歳で肺炎で死亡しました。

↑暗黒街の顔役・アル、カポネ

  彼はまず、マウント・オリペット墓地に葬られましたが、5年後の1952年にシカゴのマウント・カーメル墓地に改葬されました。彼の墓碑銘には「我が主よ、お慈悲を」とあったそうです。

                                        ・・・・・
 
  1930年代、アメリカではギャング映画が流行りました。
 ゼームス・ギャグニーエドワード・G・ロビンソンなど、暗黒街の顔役にはうってつけの俳優でした。

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                        (エドワード・ G・ロビンソン )


  

(24) 落下傘部隊

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     (24) 落下傘部隊

 開戦直後、昭和17年の今日、2月15日に、インドネシア、スマトラ島のバレンバン地帯に日本陸軍の落下傘部隊が降下して、奇襲攻撃をしています。

             イメージ 1
                      (降下する落下傘部隊)

 日本軍は開戦の一つの目的ともいえるインドネシアのバレンバンの油田地帯の攻略を狙って侵攻しましたが、油田地帯を破壊されないために陸上部隊ではなく、落下傘部隊による奇襲攻撃が行われました。

 昭和17年2月15日、11時30分、輸送機に分乗した挺身隊員329名が飛行場に落下傘降下し、連合軍の装甲部隊500名と激戦の末、午後9時には飛行行場を確保しました。

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                                   (降下後、兵器を取り出す挺身隊)
                   

 当時、この陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに喧伝され、のちに作られた映画や軍歌のヒットと合わせて国民に広く知られ親しまれました。
 軍歌の♪「空の神兵」は、昭和17年製作の国策映画「空の神兵」の主題歌として作られました。古関裕而作詩、高木東六作曲のさわやかなメロデーで,最も「軍歌らしくない軍歌」として、多くの国民に親しまれよく歌われました。


 イメージ 3       ♪ 「空の神兵」

      ♪藍より蒼き 大空に 大空に
        忽ち(たちまち)開く 百千の
        真白き薔薇の 花模様
         見よ落下傘 空に降り
        見よ落下傘 空を征(ゆ)く
        見よ落下傘 空を征く

               イメージ 4

                                                                              (降下する挺身隊、隊員)

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                  ・・・・・・                               ・・・・・・


(25)小切手の始まり

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      (25) 「小切手の始まり」
 
 一般に流通している通貨は国家や国立銀行の信用を基として成立していますが、小切手は個人の信用に基づく信用貨幣と言えるでしょう。たとえ現金を持っていなくても、信用のある個人は銀行で小切手帳を作ってもらい、その小切手で決済ができます。
     
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                                              (コロンブス記念の紙幣)


 こんな銀行小切手が初めて着想されたのは17世紀半ばのイギリスでした。そしてこの新しい金融システムを使って最初に小切手を切ったのは「ニコラス・パナッカー」と言う人で、支払いの相手は「デルボー」という人でした。

 「デルボー」はこの小切手を銀行家のクレイトン・モリス事務所で現金に換えました。この時から世界の金融決済に大革命が起こったのです。この記念すべき小切手第一号は、そのままの姿で今もなお、ウエストミンスター銀行に残っているそうです。

  その小切手の日付が、1659年の今日、2月16日でした。

 
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                                             (1933年、南アフリカの小切手)

 しかし、最近の取引の決済手段は、コンピュータによる電子化の波によって電子化され(電子決済)、さまざまな商取引がインターネットを介して行われるようになってきました。クレジットカード電子マネー、さらにはビットコインなどの仮想通貨まで現れて決済手段はいよいよ複雑化し、今や紙幣や小切手などは前世紀の遺物のようになりかねません。
 
           
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                                 ↑      (明治時代、佐賀百六銀行発行の5円紙幣)
 
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    ↑ (戦後インフレのため、新円切り替えが行われ、旧紙幣には右肩に証紙が貼られた)

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          ↑ ( 新十円札は色も白くて印刷も単純、お札らしい重厚味がない。
        構図をよく見ると、占領軍の 米国 と書いてあるようで国民には不評だった)


                                ・・・・・・

                                     春を招く山茱萸(サンシュユ)の花
  
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 * 「山茱萸・サンシュユ」はミズキ科の落葉低木で朝鮮半島の原産、日本には江戸時代中期に薬用として渡来しています。別名を「ハルコガネバナ」というように、早春に小枝にたくさんの黄色い幾何学模様の花を付けます。


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                                        (サンシュユの花)

                                               ・・・・・・・
  
 

(26) 「コーヒーの話」 コーヒー禁止令

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        (26)  「コーヒーの話」 コーヒー禁止令

 立春も過ぎ、梅の花も咲き揃ったというのにまだまだ寒いですね。こんな時は、熱いコーヒーでも飲みたくなります。 朝、夕の「一杯のコーヒー」は、ほんとに美味しく心が和らぎますね。  
むかし(昭和14年)霧島昇とミス・コロンビアがが歌っていました。

  ♪「一杯のコーヒーから」       
                          
https://youtu.be/nz-UNcT-W7E

 イメージ 1            ♪ 一杯の コーヒーから
                  夢の花咲く こともある
                  街のテラスの 夕ぐれに
                   二人の胸の ともしびが
                   ちらりほらりと つきました

 ♪ 「夕方のコーヒー」 という歌もありました。
              若谷和子さんの作詞でした。  

         ♪  夕方のコーヒーが コーヒーが         
            つかれたわたしを なぐさめる
            あかりをつけない 窓の上に
            枯れた淋しい 花がある
            花もすっかり つかれてる
     
 最近の若い人は女性を含めて、ビールやコーヒーをよく飲みますね。どちらも煙草と同じようにクセになります。 でも、タバコと違い最近はチョコレートもコーヒーも体には良いという話があります。    コーヒー党の我田引水かも知れませんが。。

 ところで、今のように焙煎したコーヒーが登場したのは13世紀ごろと言われていますが、コーヒーは最初は一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬として、生の葉や豆を煮出した汁が用いられていました。しかし、焙煎したコーヒーが飲料の嗜好品として一般民衆にも広がり、15世紀には中東やイスラム全域からエジプトまで拡大しました。そして、ヨーロッパには16世紀に伝わり、17世紀になるとヨーロッパ全土に伝わっています。

  〇 「コーヒー禁止令」

 そしてイギリスで始めてコーヒーが飲用にされたのは、1637年、オクスフォードに於いてでした。それから20年ばかりの間にコーヒーは広く民衆生活の間に浸透し、市内の商人や株式仲買人などは、毎日のようにコーヒーハウスに出入りするようになりました。そればかりではありません、やがて一日中そこに座り込んで商談を進める、という習慣まで生まれてしまいました。

 
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                                                (18世紀のコーヒーハウス)


 ところが、こんなコーヒーの流行は、必ずしも好意的には見られていなかったようです。何よりも女性たちがコーヒーに敵意を抱きました。それというのも、亭主たちがコーヒーハウスに入り浸って、帰宅しなかったり、夫婦喧嘩が始まると、さっさとコーヒーハウスに逃げ込んでしまったからです。
 それに加え、コーヒーは男性に有害であり、それはイギリスの出生率の低下に関係しているという学説まで登場しました。そして、「コーヒーに対する女性の請願」というパンンフレットになって発表されるようになりました。

 一方、この非難に対して、コーヒー好きの男たちは「女性の請願に対する男性の回答」というパンフレットを発行して対抗しました。いわば、コーヒーをめぐる男女両性間の論戦が展開されたのです。

  イメージ 2王様にとってはこんな些細なことはどうでも良いことでしょうが、どういうわけか、そのときイギリスの王位にあった「チャールズ2世」がこの論争に介入し、「1675年12月29日に、すべてのコーヒーハウスを閉鎖すべし」というコーヒー禁止令を出しました。王がコーヒーを愛好していたかどうか・・と言うことよりも、王はコーヒーハウスにたむろしている男たちが治安を乱すような陰謀を図るのではないか。。という不安を持っていたのです。

 しかし、この禁止令は一向に実効を伴わず、コーヒーハウスは繁盛し続けたのです。。


                    ・・・・・・                     ・・・・・・

 
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                                                 (花梅)
 
           夕月や納屋(なや)も厩(うまや)も梅の影      内藤鳴雪


                                                 ・・・・・・

(27) 「コーヒーの思い出」

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     (27)  「コーヒーの思い出」

 イメージ 21675年にイギリスのコーヒー禁止令が出ましたが、ドイツでも1670年頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていました。1721年にはベルリンにコーヒー・ハウスが開業し、18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及しました。
   
 しかし、プロイセン王(ドイツ)「フリードリヒ2世」は国内の経済を脅かすとして1777年、イギリスと同じようにコーヒー禁止令を公布しました。コーヒーを飲む国民が増えて、ドイツのビール産業が衰退してきたからです。そしてコーヒーの密輸が横行し、庶民は高い値段の本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲み、また大麦などを加工した代用コーヒーを飲むようになりました。 しかし、これらの禁令は一向に実効を伴わず、コーヒーハウスは繁盛し続けたのでした。

  ←1664年・イギリスのコヒーハウス
                                   
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                                                     (プロイセンのコーヒー禁止令)
                     

   中学時代の母校は、葉隠武士の藩校を引き継いで質実剛健の気風を校是としていて、喫茶店も映画館も一切出入り禁止になっており、もしこの校則を破ったりすると、ビンタはおろか停学や退学を覚悟せねばなりませんでした。 しかし、中学を卒業して大阪外語に入ると、一挙にその呪縛が解かれて友達と暇さえあれば映画を見、喫茶店に出かけて、コーヒーを飲んで油を売って居ました。 
勿論戦時中の事ゆえ、ケーキは無くて専ら「わらびもち」を食べて居ましたが、巷では、ほかに菓子と言えばセロハンに包んだ「乾燥バナナ」を売っている程度でした。

 イメージ 3当時の日記によれば、昭和17年8月26日に心斎橋のキャンデーストア「森永」で、学校の射撃部の送別会があっています。

 ← 森永キャンデーストア

 (会費2円50銭、半年繰り上げ卒業の三年生に記念品としてシャープペンシルを贈る。山中さんは九大法科に合格の由、我もまたかくあるべし!)。。
 とありますが、肝心のコーヒーの味がどんなだったかは書いて居ません。 同窓の司馬遼太郎さんの記述によると、コーヒーと言っても当時は代用コーヒー(*大豆とか、ゆりの球根)だったようですが、代用品はどんな味がしたのかなぁ。。


 イメージ 5司馬さんは、コーヒーが大好きでした。司馬サンと同じクラスの蒙古語部だった杉本君の話では・・
*(福田君は大のコーヒー党でした。なにしろ「日蒙辞典を買う」と言って親父さんから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししたんです。一種の知能犯?ですね。もっとも、戦時中は代用コーヒーしか飲めませんでしたが・・。
  だから 「うまいコーヒーが飲まれへん、日本はあかんなぁ」 とぼやいていました。
                
 私(杉本)の長年の夢は司馬さんともう一度一緒に熱いコーヒーを飲むことと、彼の十八番の「がまの油」の名せりふを聞くこと、の二つでした。夜、私はドリップ式でコーヒーを入れます。それをすすりながら司馬文学に親しみ、また亡くなった彼に語りかけます。それが私の生き甲斐です。)・・                            
      以上、杉本君の司馬遼太郎追悼文より。                 ↑いつも本を持って・・      
                                               

 後年、国民的作家となった後も、司馬遼太郎さんは学生時代と変わらず大のコーヒー党で、毎日、奥さんと近所の喫茶店でコーヒーを飲むのが日課で、二人で奥の席に陣取って、入ってくる人たちの品定めをしていました。あの人の年齢は?職業は?あのカップルは夫婦かな、兄妹かな?それとも不倫かも。。などと妄想をたくましくして居ました。そんな人間観察眼が彼の創作の中の人物像の形成に役立っていたのかも知れませんね。

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                       (一服飲んで、ちょいと一休み・・)
 
           ・・・・・・                      ・・・・・・
                                       
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                                        (花梅の咲く家)

           梅の奥にたれやら住んでかすかな灯    夏目漱石

                                                  ・・・・・


【28】バルザックのコーヒー

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      (28) 「バルザックのコーヒー」
  

 イメージ 1司馬さんもコーヒー好きでしたが、フランスの作家「バルザック」のコーヒー愛には遠く及びません。 

 「バルザック」はフランスの作家で1799年5月20日生まれ. 19世紀フランス文学を代表する文豪で、近代リアリズム小説の父と言われ、フランス革命以後の生きたフランス社会の実相を「人間喜劇」90数巻に描き出しました。
                                                                                                        ↑人間喜劇

 そのバルザックの母は父親よりも30歳も若く、どういうわけかバルザックを愛さず、彼は幼いころから乳母に預けられ、その後、学校の寄宿舎に入って孤独な少年時代を送っています。その6年間のうちに母親が面会に来たのは僅か2回だけだったとか。 そんな母親の愛情に飢えて育ったために、バルザックが多くの女性遍歴を続けたのかもしれません。

  イメージ 2彼は絵のない額縁をかけて、それを見て楽しむ程の想像力の豊かな作家でしたが、その一方では借金と浪費の天才でもありました。
 一時創作を止めて印刷屋と新聞を始めましたが失敗し、借金が増えるばかりでしたが,磁器や宝石など高価なものを派手に買いあさり、たった一度の晩餐会のために室内装飾を全部取り替え、食堂の家具を入れ替えたりしました。
  
 そして債権者たちに襲われてどんなひどい目にあっても、死ぬまで金を借り、品物を買い続けたのです。自分の作品の中では多くの主人公たちが巨万の富を築いていると言うのに。。 1850年8月18日 死亡。
↑若き日のバルザック

 「俺の青春は雲一つない空のようにまだ青く晴れ渡っている。偉くなりたい、また金持ちになりたいと願うことは、うそをつき、頭を下げ、へつらい、偽ることを自ら決心したことではないか。この連中の下僕に甘んじようと自ら承知したことではないか」
 
 イメージ 3「バルザック」は西洋の近代作家の中で最もコーヒーを愛好した人物でした。彼は午後6時にベットに入り、深夜12時に起きると即座に執筆に取りかかり、その日の正午までぶっ続けに12時間ひたすらに書き続けるのを日課にしていました。しかもその執筆中、片時もコーヒーカップを手放すことがなかったのです。彼はコーヒーについてこのように書き残しています。
 
 「まずコーヒーを牛飲し、主として夜間に長時間にわたって、何回も文章の推敲を繰り返しながら執筆した。 コーヒーが腹の中に入ると即座に活気が出てくる。ちょうど戦場における兵士のように生き生きとしたアイデァが生まれ、記憶の中に眠っていたものが次から次へとその姿を現してくる。

 論理の道筋がきちんと見えてくるし、機知のひらめきが頭の中を駆け巡る。私の顔には自然と朗らかな微笑みが浮かび、私は紙とペンだけを相手にして仕事に熱中する事が出来るのだ」  と・・



 イメージ 4バルザックはまた美食家でもあり大食家でした。
彼の食事の記録によると、一回の食事にカツレツを1ダース、カモを一羽、ぞれにカキを110個平らげた事があります。それだけ食べたあとで、デザートにを10個食べたというから、なんともすさまじい食欲ですね。
 もちろん、その間もコーヒーを飲み続けなのです。
 何ともいやはや。。@@/
                      → (ゴリオ爺さんの挿絵)

 
イメージ 5 彼の大食いは、晩年の失明や死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われますが、食事も豪胆なら借金も豪放でした。

  しかし、事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックが作った莫大な借金は、彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚した貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産がその穴埋めに使われました。
                                               
    ←  バルザックの妻・ハンスカ

 彼の精力的な創作活動の背景には、このような旺盛な飲食活動があったのです。

         ・・・・                              ・・・・・

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                                                (佐賀・御船山梅林)

                                              ・・・・・

(29) 「日本最初のコーヒー店」 

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            (29)  「日本最初のコーヒー店」  

 そんな、コーヒーが飲める喫茶店と言う商売は、日本ではいつ頃始まったのでしょうか。
コーヒー店が記録に残るのは明治維新後で、1886年(明治19年)に東京・日本橋小網町に、わが国初のコーヒー店「洗愁亭」ができ、ついで1888年(明治21年)東京・下谷(したや)西黒門町に可否茶館(カッヒーちゃかん)が現れ、文化人の社交場として営業しましたがまもなく閉店しています。

    〇 日本のコーヒー店始め 「可否茶館の開店」
  
  イメージ 3明治21年4月13日に、コーヒー店の元祖ともいわれる「可否茶館・かひさかん」が東京上野の西黒門町に開店しました。

 主人は長崎唐通詞(中国語通訳)の名家「鄭氏」の嫡男の鄭永慶でした。彼がコーヒー店を開店したのは単に営利が目的ではなく、アメリカ留学中にニューヨークで実際に見て、また、うわさに聞くロンドンのペニー大学のような上品な憩いの場を作ろうとしたのです。


 5間に8間の二階建てで青ペンキ塗りの洋館のこの店は、入るとすぐ玉突場があり、二階が喫茶店になっていて洋酒もビールもあり、注文すれば日本酒も出るというバラエティに富んだ店でした。店内にはトランプ、クリケット、碁、将棋も出来るし、内外の雑誌も揃えてあるという至れりつくせりのサービスぶりでしたが、一銭五厘でソバが食べられる時代に、コーヒー一杯が同じ一銭五厘ではどう見ても割高感がぬぐえず、文士たちの応援にも関わらずこの店は5年で店を閉じてしまいました。

 明治21年4月13日の開店の日には、読売新聞にこの「可否茶館」の開業案内が出ています。


イメージ 4  ○ 「可否茶館」 開業報条

 遠からん者は鉄道馬車に乗って来たまへ、近くばちょっと寄って一杯を喫し給へ。

 そもそも下谷西黒門町二番地に新築せし可否茶館といえば、広く欧米の華麗に我が国の優美を加減しここに商う珈琲なり。
 珈琲の美味なる思わず腮(あご)を置き忘れん事疑いなし、館中別に文具、更衣室、あるいは内外の遊戯場を備え、また内外の新聞雑誌、縦覧勝手次第にて、その価の廉なること只よりも安し。?

  来る十四、十五、十六の三日開業、美景呈進、定価カヒー一碗一銭半、同牛乳一碗金二銭也。

          ・・・・・・

 *文明開化の明治の広告は、漢学が混じって、なんとも大仰なものですね。

イメージ 2*コーヒーと言えば、戦時中の代用コーヒーを思い出します。大豆だったかな?
 もちろん、ケーキなし・・ただ、喫茶店ではありませんが、初夏の季節にはわらび餅を売った店がありました。(その頃大阪では、下宿のおばさんたちがキッサテンではなく、キッチャテンと言っていましたが、今はどうかな?)


 昭和17年入学当時、母校の大坂外語があった上本町の近鉄デパート(当時は関急百貨店)の向かいには「めし」という看板がかかった小さな大衆食堂が立ち並んでいて、関東煮(おでん)わらび餅を売っていました。 甘さに飢えた戦中時代、小皿にちょびっとばかり乗っているわらび餅がとても美味しかったです。

     
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                  戦前の上六・関急百貨店(現・近鉄デパート)
                           チンチン電車が懐かしい。
 
         ・・・・・                            ・・・・・・

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                                            (春めきて梅に目白の花だより)

                            ちょっと暖かくなってきましたね。。

       ・・・・                  


(30) 「代用品時代」 

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      (30) 「代用品時代」 

 司馬さんも戦時中、代用コーヒーを飲んでいたが、それは勿論、戦争勃発によりブラジルあたりとの外国航路が閉鎖され、コーヒー豆が輸入出来なくなったためだった。
 しかし、もともと食品に限らず当時の生活用品は代用品ばかりだった。特に、弾丸や兵器の原料となる、鉄や銅、アルミニュウムなどの金属類の不足から、金属製の生活用品には代用品が多かった。

 昭和12年、第一次近衛内閣が誕生し日支事変が始まると、昭和13年から「物資動員計画」が実施された。これは戦争遂行のために必要な物資を確保するためであった。そして昭和13年には「戦時生活様式大綱」が発表された。

 「戦時生活様式大綱」

・・ 帽子、上着、ネクタイ、手袋、襟巻、足袋、オーバー、二重回し、コート、羽織、ステッキなどの省略
イメージ 2・ 下駄、わらじ、蓑草履の奨励
・ 冠婚葬祭での平服
・ 華美なる衣類を避け、なるべく白または黒の単色
 
・・ 栄養の少ない白米の禁止 (以後、七分搗きとなる)
・ 一週一日は日の丸弁当デーの永続
・ 宴会はなるべく取りやめ、洋酒は禁止
・ 主婦は一汁一菜の栄養料理を研究、予算生活を行う

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←梅干しだけの日の丸弁当
 
・・ 新築は見合わせる
・ 庭園などの空き地にはなるべく野菜を栽培する
・ 井戸を掘り空襲に備える
 
社会、交際・ 中元歳暮の礼状、年賀状、見舞状、贈答品の廃止
・ 結婚は質素を旨とし祝儀の辞退、結納金の大減額を行い、参列者は近親と関係者だけに止める
・ お通夜なども近親者だけとする
・ 出産、節句、七五三などすべてを内祝ひとし冗費を記念貯金に振り返る

 〇 「代用品売り場」

そして名古屋の松坂屋には「代用品売り場」が登場し、こんな売り場が全国にも広がって行った。

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                   (昭和13年・デパートの代用品売り場)
 
 この頃の代用品には竹製のスプーンや木のバケツ・弁当箱、厚紙のランドセル、などが造られ、また代用皮革として蛇、サケ、蟇、食用蛙、鯨などが登場している。

 蛇の皮は下駄の鼻緒やバンド、ネクタイ、ハンドバックになり、サケの皮のハンドバッグもなった。
蟇(ガマ)は文字通り蟇口や小物入れ袋に、食用蛙は靴、袋物などに利用され、鯨の皮は野球のグローブになって登場した。そのころは、東京魚市場内にもサメの皮を回収して代用皮を作る業者が開業したそうである。

 紫蘭が在学中に友達の戸田から購入券を譲って貰って作った革靴も牛皮ではなくクジラではないか、と心配したが出来てきた靴はブタの皮だったので胸をなでおろしたものだ。クジラだと犬や猫にかじられてしまいそうだったから・・。この頃の学生服の金ボタンは、みんな陶器製だった。

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                                   (昭和20年、母校の中学生の服装)       

       (帽子は戦闘帽・靴は豚皮、ボタンは陶器製、ランドセルは厚紙だった)


  イメージ 5また、民間だけでなく、鉄道省でも客車も代用品でまかなう事になり、寝台車や展望車など贅沢車は廃止され、窓枠はチーク材からエゾ松、ケヤキ、桜を使用し、腰掛もモヘヤからスフになり、スプリングは海綿に入れ替えられた。
 
 その他、代用品は飲食品にも及び、コーヒーは大豆やユリの球根を使い、タバコはイタドリの葉っぱを紙に巻いて飲んだりした。
酒も【金魚酒】と言う変な酒が出回っているが、これは水が八割程も入った薄い酒で、金魚を入れても死なない為に「金魚酒」と呼ばれたそうである。終戦間近になると、醤油が足りないので海水を一升瓶に入れて醤油代わりに売っている店もよく見かけたものだ。

代用食にうどん・・戦時中はご飯の代わりのうどんにカレーを掛けたラスカレーが流行った。


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                                                   (木炭バス)

 そして昭和14年3月には自動車にも木炭自動車が登場した。ガソリンの不足がひっ迫していた事もあり、自動車は木炭装置を強制的に取り付けさせられ、以後の自動車は木炭車に限られるようになった。

イメージ 8 金属製の多くは木製や陶器製となり、郵便局のポストから羽釜、湯たんぽ、大根おろしなどの生活用品はみな木や竹、陶器製になり、終戦近くになると、なんと、兵器の手りゅう弾まで野球のボールみたいな丸い陶器製になっている。

 イメージ 1紫蘭が軍隊に居る時、実際の戦場ではこれに青酸カリを詰めて敵の戦車の銃眼に向かって投げつけるのだ、とひそかに教えられたものである。

   ↑ 左が陶器製のポスト            
                                          ↑ 陶器の手りゅう弾


    ・・・・・                          ・・・・・・

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                          (霧氷の山道・石鎚山にて)


 

(31) 「銃後の日本」

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   (31) 「銃後の日本」

 戦時中はよく「銃後」という言葉が使われた。銃後とは、「戦場」に対する言葉で「直接戦場に立っては居ないが、間接的に何らかの形で戦争を支援している一般国民のこと」を言う。

 そんな銃後の国民生活はどんなものだっただろうか。
 前文に書いたように昭和13年の国民生活大綱の公布をはじめとして、銃後の国民生活は次第に窮屈なものになってきた。昭和14年には、政府は「国民精神総動員法」を施行して貯蓄増強、廃品回収、勤労奉仕などを奨励し、次第に国民の日常生活への締め付けが厳しくなってきた。
 そして食料をはじめとして生活必需品の不足が目立つようになり、政府は14年9月1日を期して毎月の1日を「興亜奉公日」と定めた。  

 〇 興亜奉公日

 イメージ 1 興亜とは「西欧列強に簒奪されているアジアを復興する」いわば「活性化」することであり、奉公とは公共のため、国家のために奉仕しましょう、という事である。興亜奉公日はアジアの作興という国家の大業のために、個人生活の色々な欲望を抑え、切り詰めて真面目に働く日、だったのである。


 毎月一日の「興亜奉公日」には、国民は戦場の労苦を偲んで朝早く神社に参拝し、食事は一汁一菜と質素に切り詰め、子供の弁当はこの梅干し一つだけの「日の丸弁当」、国民はそれぞれ勤労奉仕に励み、飲食、接客業は自粛して休業せねばならないのである。



  〇 日の丸弁当

 イメージ 2「日の丸弁当」の始まりは、このような国民精神総動員の一環として昭和14年9月1日に始まった「興亜奉公日」の行事の一つであった。「日の丸弁当」は戦場の兵隊さんのご苦労を偲び、質素倹約に勤める意味で、小、中学生の弁当として奨励されたもので,ご飯の真ん中に梅干一つだけ入れた簡単至極な弁当で、白地に赤い日章旗そのままの様子から「日の丸弁当」と言われていた。

 当時の弁当はアルミ製だったので、蓋の真ん中が梅干しの酸のためにガサガサに腐食して、ついには穴が開くようになる。その頃の小学校では、弁当の時間に当番の生徒が大きなヤカンでみんなの弁当の蓋に(*湯呑ではなく・・)お茶を配っていくのが常だったので、弁当の蓋に穴が開いてはお茶が飲めないのである。その後、理研がアルマイトを発明してからは蓋も梅干しで侵されることは少なくなった。

 イメージ 3また、このころは次々に戦時立法が作られ、国民を戦争の方向に引っ張っていき、これに違反するものは「非国民」の名前で厳しく罰する法律が作られていった。

 米の統制、配給制度が実施されたのもこのころであった。
(*この興亜奉公日は太平洋戦争が始まった16年12月以降は、改称されて毎月8の日が大詔奉戴日となった。宣戦の詔勅に思いをはせて、大戦を勝ち抜こうというのである)

コメの通帳・・これがなければいくら金があっても米は買えない、
          配給米は大人一人、一日二合三勺だった。


  〇「皇紀二千六百年式典」

 紫蘭が中学の五年生だった昭和15年は皇紀2千600年記念の年で、全国的な記念行事が盛大に行われた。戦前の愛国的、神国思想による紀元は、西暦より660年前の神武天皇即位を元年として、皇紀を定めていたのである。

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                                    (皇紀二千六百年式典会場)

 東京の宮城前広場では、天皇・皇后両陛下の御臨席のもと、近衛文麿首相が、「寿詞・よごと」を読み上げた。「国のはじめの神武天皇即位以来、皇統一系連綿として、こんにちまさに紀元二千六百年を迎えた」と、比類なき日本の国体をたたえたのである。そしてこの年に作られた「紀元二千六百年奉祝歌」は、全国津々浦々の国民の間で歌われた。


 イメージ 5 ♪金鵄輝く日本の 
     栄ある光身にうけて 
     いまこそ祝えこの朝 
     紀元は二千六百年 
     あゝ一億の胸はなる
   
  〇 ぜいたくは敵だ !


 しかし、戦争の厳しさが国民の間にも次第に、重苦しくのしかかってきた。この昭和15年の7月7日には「奢侈品など製造販売禁止規則」が施行された。世にいう贅沢禁止の「7,7禁令」である。

 イメージ 6この「ぜいたく禁止令」ために金糸銀糸の伊勢崎銘仙などは売れなくなり、 銀座などの繁華街の街角には「日本人なら贅沢はできないはずだ!」という立て看板が立てられた。

 そして街角には愛国婦人会などの、「ぜいたくは敵だ」と書いたタスキを掛けたコワイおばさんたちが立って、通りかかった女性たちの服装や髪形に厳しい眼を光らせ、「袂が長い」などと着物のたもとの長さにまで文句をつけたという。

←ぜいたくは敵だ! は、当時の国民の合言葉のようなものだった。
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  女性の髪のパーマネントも自粛させられ、我々悪童たちまでこんな歌を歌っていた。

  ♪ パーマネントに  火がついて
     みるみるうちに  ハゲ頭
     ハゲた頭に  毛が三本
     ああ、痛ましや いたましや
     パーマネントは  やめましょう


   ・・・・・・・                             ・・・・・・・

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                                                ( 霧氷の石鎚山・天狗岳)

                                                  ・・・・・

(31)二、二六事件

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   (31) 二、二六事件

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 2月26日は日本陸軍の最初で最後のクーデターともいうべき「2,26事件」が起こった日である。 昭和11年だから、あれから83年にもなる。もう見聞した者も記憶にある人もそう多くはあるまい。
その「2月26日」、大雪の東京で一部の陸軍青年将校たちによる反乱である2,26事件が起こった。シランが3月に小学校を卒業して中学に進学する直前の出来事だった。 旧制中学の受験勉強に忙しい時だったので、この年は特に記憶に新しい。

イメージ 9
 
                                                (反乱軍)
 
  昭和7年の5,15事件後、さらに昭和11年には、陸軍内部の「皇道派」と「統制派」との抗争による「2,26事件」がおきた。超国家主義者「北一輝」の「尊皇討奸」思想の影響を受けた青年将校たちの率いる反乱軍が、「昭和維新」を掲げて、2月26日の早朝、首相官邸はじめ高橋蔵相邸、斉藤内大臣邸、渡辺教育総監邸などを襲撃した、いわばクーデターともいうべき事件であった。

     ♪ 昭和維新の歌       作詞・三上卓

          昭和維新の 春の空
          正義に結ぶ 丈夫(ますらお)が
          胸裡(きょうり)百万 兵足りて
          散るや万朶の 桜花(さくらばな)

 
イメージ 6
                                               (反乱軍兵士たち)

 反乱軍は、圧倒的な兵力と重火器によって、警視庁や霞ヶ関、三宅坂一帯の官庁街を制圧、岡田首相の甥の松尾大佐(首相の身代わりになったといわれる)、高橋是清蔵相、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、などの政府要人を殺害した。

イメージ 10
                                              (反乱軍占拠地点、2月28日)


 イメージ 2この2,26事件の伏線ともいうべき事件が、その前年の昭和10年8月に起こった「相沢事件」である。
 陸軍内部において、天皇直裁を叫ぶ「皇道派」とこれを統制せんとする幕僚たちの「統制派」との反目から、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を8月12日白昼、局長室において相沢三郎中佐が斬殺したのである。
 ←相沢中佐は逮捕され軍法会議により死刑判決、翌11年7月3日死刑を執行された。

       イメージ 3
                                       (*遺骨引取りのよね子未亡人と長男正彦君)

 
イメージ 8
                                                  
                   (反乱軍の将校と動員された兵士たち)

イメージ 11
                                          (2月29日・反乱鎮圧時の要図)


 イメージ 42,26事件は、ラジオ放送やビラによる「下士官・兵に告ぐ」という香椎戒厳司令官の命令によって、反乱軍は投降,帰隊して事件は鎮圧されたが、事件後、野中、河野両大尉は自決、軍法会議の結果、7月5日反乱罪として青年将校、民間人ら17名に死刑判決が下った。

イメージ 5

 
 一方、首謀者たちの命令のままに何も知らずに参加した反乱軍の兵士たちの多くは、その後、満州の最前線にやられて、その多くが戦死し、特に安藤大尉の兵士たちは突撃を強要されてほとんど戦死したという。
(*兵に告ぐ、の命令の「今からでも遅くない」という言葉は、当時の流行語として有名になった)
  
イメージ 7
                                            (銃口を構える反乱軍兵士たち)


   2、26事件の昭和11年は、私の小学校卒業の年、まだこの事件が意味することを深くは知る由もなかったが、これから先、陸軍内部では、真崎甚三郎に代表される「皇道派」を蹴落として、東条英機などの「統制派」が主導権を得て、蘆溝橋事件から日中戦争へといたる泥沼戦争へ足を踏み入れていくのである。


              ・・・・・・                        ・・・・・・


イメージ 12

                                                                       (春近し)

             春めきてものの果てなる空の色        飯田蛇笏

 
                                                     /////

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