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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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花だより「花しょうぶ」

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   五月九日から他ブログへの移行開始ののはずだったのに・・ 
   なんじゃこりゃ・・!?
   今生の名残に、無駄な鉄砲でもいま少し書いてみるか。。


    花だより  「花しょうぶ」

 
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 ハナショウブはあやめ科の多年草で、花が地味な「サトイモ科の菖蒲によく似ていて、美しい花をつけるので「花菖蒲」の名がついています。もともと山野に咲いている野花菖蒲を改良した日本特産の植物です。

 江戸時代の旗本「松平小金吾」が花しょうぶの改良、栽培に熱心で「菖翁」と言われていましたが、この株が熊本の細川公に所望されて「肥後菖蒲」になっています。また、三重県の花菖蒲も有名で、江戸系、肥後系、伊勢系に分かれて多くの品種が出来ました。

 
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                       紫のさほど濃からず花しょうぶ      久保田万太郎


            ・・・・・・

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           ///////                                           //////



花だより「ヤマボウシ」

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                          花だより  「ヤマボウシ」

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  初夏の里山を歩いていると、よく「山ぼうし」の白い花に出会います。
というか、最近は街中でも公園や街路樹によくこの山ボウシの白い花が目につきます。

「ヤマボウシ」は九州から本州までの山地に自生している落葉高木で、高さ5~10m。枝を横いっぱいに開いて花を咲かせいるので、下からはなかなか写真が撮れません。


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  白く大きな白い花は、実は総苞片で、ほんとの花は薄黄色のごく小さい花が真ん中にいっぱいついています。  ヤマボウシの名前は「山法師」という意味で、小さいつぼみを取り囲んだ白い総苞片を、法師の頭巾に見立てて名づけたのでしょう。
 ハナミズキと同じミズキ科の植物ですが、ハナミズキは花びら(実は総苞片)の先端がへこんでいますが、山ボウシのは先がとがっているので、見分けがつきます。


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 * アメーバーブログに引っ越しのつもりですが、ヤフーさんの準備がなかなか整いません。
  掲示板は、teacupに「昭和は遠くなりにけり」を立ち上げていますが、こちらでもしばらく、花だよりでもお送りしましょう。 ↑は今のところ才媛4人にとり囲まれて老兵はアップ、アップです。。(^_-)-☆


                                    しらん

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                                            (初夏の堀端)

 

花だより「ホウの花」

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      花だより 「ホウの花」

 今日は例のごとく、農協直売所「街かど畑」からイオンへの買い出し行事。
    郊外は、もうすっかり麦秋の風景が広がっています。

      麦の秋さもなき雨にぬれにけり      久保田万太郎


                           

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                      【葉も大きい華麗なホウの花】   


 
 朴(ホオ)の木は、日本・中国にに布するモクレン科の植物で、30センチ以上もある大きな葉が特徴です。
 古代はホウの葉に食べ物を盛ったり包んだりしたそうで、食べ物を「包む葉」の木という意味で「包の木」となったと言う説もあります。 昔の女の子は、この大きな葉で皿を作ってままごと遊びをしました。

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 大きな白い花は遠くからでもよく目立ちますが、20m近い高い木の上に、花も上を向いた皿状なので、下からではなかなかうまく撮れません。

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 花は香りが強く、花びらは9枚、わずかに黄色味を帯びた白い大きな花を開きます。 ホウの花ははじ雌めしべが開き、次の日に雄しべが開いて自家受粉を避けています。
自然の摂理ですね。

        朴(ホウ)の花なお青雲の志      川端茅舎 


 *朴(ほう)の木材は柔らかくて締まりがあるので、刀の鞘や版木、下駄の歯、マッチの軸木などに使われていますし、火にも強いので金庫の内側の板にも使われています。。

 昔の学生は太い鼻緒の「朴歯(ホウバ)の下駄」をはいて街中を闊歩したものです。
 若き日の司馬遼太郎が、コンクリートの学校の階段を下駄履きのまま下りていて、運悪く生徒監の教授にみつかりました。頬っぺたをなぐられて、自慢のあの黒ぶちめがねが落ちて、割れてしまったのを覚えています。
 
  私も柄にもなくバンカラ風に下駄履きで登校していました。
 下校時に、大阪の上町の台地から日本橋の方へ、長い石段をカランコロンと音をたてながら、降りて行った日々のことを今でも思いだします。

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  途中のお寺の境内に、谷崎潤一郎の「春琴抄」のヒロイン「お琴」の墓がひっそりと立っていました。

 あのころの朴歯の下駄の音が忘れられません。
 はるかむかし、奏でていた懐かしい青春の下駄の音です。  
  
     
   朴(ほう)散華 即ち知れぬ 行方かな    川端茅舎 



   *ヤフーブログもそろそろ散会ですね。
   みんなホウの花びらのように散りぢりばらばら・・行方知らずになってしまうんですね、
   人生の秋のようで、何だか名残り惜しい。。
 
                                                                                    ・・・・・・・

花だより「タイサンボク」

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        花だより 「タイサンボク」

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                                          【大皿のように大きなタイサンボクの花】

 
皆さん、こんにちは。
今日も快晴、まだ5月だというのに、全国的に昼間は30度にもなるらしい。

 北海道まで30度を超えるそうだからスゴイ・・というか、なんというか。。
 
     「タイサンボク」

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  ホウノキによく似た花に「タイサンボク」があります。 北アメリカの原産で、明治6年に日本に渡来しました、初夏を代表する花木で、花の大きさは15~20センチもあります。
 ホウの花とくらべると、一つひとつの花びらが幅広く、葉はびわの葉のように濃緑色で密集し、重厚さを感じさせます。

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                       昂然と泰山木の花に立つ         高浜虚子


  タイサンボクは、大きな白い花が大皿のように上向きに咲いていますが、漢字で「大山木」とか「泰山木」と書くのも、花や葉が大きいのを賞賛してつけられたのだろう、と言われています。
 花は2日ほどの命ですが、毎日次々に咲いて、長い間楽しめます。葉も大きいですが、ホウの葉ほどではありません。

                   
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ゆふぐれの泰山木の白花は
                       われのなげきをおほふがごとし         
斎藤茂吉
   



                                                                 しらん

5月24日「日本・ゴルフ事始め」

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  最後の断末魔なのか、最近なかなかnetがつながりませんね。イライラ!!
  でも、長年お世話になったヤフーブログだ、最後の御奉公に頑張ろう。。


 「ゴルフ事始め」  「5月24日」

 明治期の神戸は新興都市として何かとハイカラ好みだった。
それは横浜と並んで神戸は新しい開港場であり、外国人がたくさんその居留地に住みはじめたからである。そして年月が経つにつれて彼らはゴルフ場を作ろうと考えるようになった。その用地として選ばれたのは六甲山の山頂の8反ばかりの山林で、地主との間に年間16円で賃貸契約を結び、明治36年の今日、5月24日に日本最初のゴルフ場が開場したのであった。その始球式には、時の兵庫県知事「服部一三」さんが行っている。

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 しかし、神戸市内から六甲山頂までの交通は極めて不便で、ゴルファーたちは徒歩で登山し、そこで一息入れてからゲームを楽しむという、大変な作業であった。そこで、険しい山道を少しでも楽に登ろうというので、駕籠が使われた事もあるそうだ。西洋式の籐椅子にカンバスの幌屋根を付け、それを駕籠かきがかついでゴルファーを運ぶのである。


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                                     (箱根山登山) ウエブからお借りしました。

 日本のゴルフ事始めは決して、楽しく容易なものではなく、このように厳しくかつ、漫画チックなものだったのである。

 
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                                          ♪  何が何でもやりぬくぞ~

5月25日「食堂車の始まり」

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   「5月25日」 食堂車の始まり


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  列車の窓から買う駅弁の楽しみが無くなって久しいが、寝台特急や新幹線に連結されていた食堂車が廃止されて旅の楽しみがまた一つ減りました。

 日本の鉄道に初めて食堂車が連結されたのは1899年(明治32年)5月25日のことでした。その区間は神戸から津山までの山陽鉄道でした。

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                                  (最初の食堂車・山陽鉄道)


  当時の作家「大町桂月」はこの列車は揺れがひどい、とボヤキながらも「食堂車がついているのは何とも便利ななものだ」と書いています。東日本ではそれから2年後の12月に国府津~沼津間で食堂車が走っています。

  
                         ・・・・・

  花だより 「ノアザミ」

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 野イバラに限らず、美しい花にはトゲがあります。
バラには茎にトゲがありますか、「野あざみ」は葉に鋭いトゲがあります。これは牛馬などの草食獣に食べられないためです。

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 「野アザミ」は本州、九州、四国に分布するキク科の多年草ですが、あざみの種類は多く、これらを総称して「アザミ」と呼びます。
 大抵のアザミは、夏から秋にかけて咲きますが、それらに先駆けて春に咲くのがこの「ノアザミ」です。
 
 名前の由来は色々ですが、この葉にトゲがあることに関係があります。
 ①花の美しさに惹かれて近づくとチクリ・・と「あざむかれる」から・・
 ②昔の「アザ」と言う言葉は「トゲ」のことで、アザミは「トゲのある実」と言う説・・
 ③傷つけるという意味の「アザム」から転化して「アザミ」になったという説・・

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 野アザミはたんぽぽのように、綿毛(冠毛)の着いた果実が風で飛散して増えていきます。
1950年にラジオ歌謡として「あざみの歌」が歌われました。歌手は伊藤久男で、あざみの歌と言うよりも、山の歌としてよく歌われました。
 
  「薊の歌」 
https://youtu.be/sbPDKew3qJY
 
    ♪山には山の 憂いあり
     海には海の 悲しみや
     まして心の 花園に
     咲きしあざみの 花ならば
 
     高嶺の百合の それよりも
     秘めたる夢を 一筋に
     くれない燃ゆる その姿
     あざみに深き わが思い

  
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           くもり来しひかりのなかの薊かな      久保田万太郎


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 花だより 「雪の下」

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   花だより 「雪の下」

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 今年は雨が少なくて、我が家の雪の下も花が少ないようだ。。
「雪の下」はユキノシタ科のユキノシタ属の植物(至極、当たり前ですね)
 初夏に、半日陰の湿ったところに触手のような手を伸ばして、次々に繁殖していきます。

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 ユキノシタの花はごく小さくて1センチ足らずですが、マクロで撮って見ると、なかなか可憐な花です。5弁で下の2枚が白く大きく,上の3枚は薄紅色で濃い紫の点があり、長いオシベが目立っています。

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 葉にはうぶ毛が生えていますが、精進料理などでてんぷらにされるそうですよ。

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 **まだ5月だというのに、 今日も九州から北海道まで、全国的に30度を超える暑さだそうです。

 皆さん、熱中症にはくれぐれもご用心ください。。

                       しらん

ピストルの歴史

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       ピストルの歴史 「5月27日」

イメージ 4 予備士官学校卒業時に、少尉任官用に軍服や軍刀などの軍装品を買わせられましたが、その中に拳銃がありました。兵の鉄砲はもちろん官給品ですが、拳銃は鉄砲を持たない将校が護身用に使うものなので、軍刀同様に私物になっていて、自分で買わねばならなりません。たしか値段は50円くらい、今なら10万円くらいでしょうか。



     こんな拳銃は何時頃から始まったのでしょうか。

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                                         映画 『コルト45』


 16世紀始めまでの鉄砲は、いわゆる火縄銃と呼ばれるもので、これを扱うには片手で銃身を支え、片手で点火するという面倒な作業が必要でした。然し、一般にホイール・ロックと呼ばれる点火装置が発明されてからは事情が一変しました。 ホィール・ロックと言うのはライターのヤスリのようなもので、これを指で回すと火花が散って火薬に点火すると言うわけです。
  この新発明のおかげで銃器は片手で扱うことが出来るようになりました。銃身を短くする事が可能になり、軽量化も進みました。拳銃の誕生です。

 最初にこの拳銃を造ったのは「カミーロ・ヴィテーリ」というイタリア人で、彼が住んでいた町「ピストイア」にちなんで「ピストル」と呼ばれるようになり、あっという間にヨーロッパ全土に広がりました。
  然し、拳銃はたやすく隠して携行出来るので暗殺者が好んでピストルを使用したので、神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝は1517年に、このピストル製造を非合法化しました。また、イギリスでも盗賊がピストルを愛用するようになったため1542年にピストル取締法が成立しています。

 しかし、レポルバー、からオートマチックへ・・と、ピストルの技術革新はいっときも止みませんでした。ピストルと言えばコルト45がその代名詞のように有名ですが、コルト45は「S・コルト」が発明した回転式拳銃で、西部開拓時代によく使用され、「コルト45」という映画にもなりました。


 イメージ 1さっと腰からピストルを抜いて目にも止まらぬ早業で射撃するのが、いわゆるガンマンですが、これはもう古典的なヨーロッパの話ではなく、アメリカの西部劇の物語ですね。シランも軍隊で将校用の拳銃を撃ったことがありますが、これがなかなか当たりません。距離は60mくらいなのに、手が震えて照準が定まらないのです。

 拳銃は小銃と違い照準を短く、こぶしに力を入れずに指先の感覚だけで撃たねばなりません。だから、西部のガンマンたちも狙い定めず、素早く撃ったんでしょうね。



 イメージ 2そういう伝説の西部のガンマンの一人に「ワイルド・ビル・ヒコック」→がいます。彼は1837年5月27日生まれですが、あの有名なロック・クリークの決闘以来、拳銃使いの名手として広く知られています。
 
 これは南北戦争時代の1861年7月に起こった事件で、北部派のビルは南部派の10人の男に襲撃されますが、6発の銃弾で6人を倒し、さらに1人を鉄拳でぶちのめして、残り3人もナイフで刺し殺しました。そしてビル自身も24ヶ所の傷を負っていたと言う、どこまでがほんとか、信じられない武勇伝が残っています。

 その後、ビルはカンザス州ヘイズ・シティの保安官となり、無法者に不意打ちされかけても相手が引き金を引く一瞬の間に銃を引き抜いて、相手の額に銃弾を喰らわせたり、2丁の拳銃で同時に射撃する、といった話も伝わっています。

 彼は1876年8月2日、サウスダコタ州デッドウッドの酒場でポーカーに興じているところを無宿者のジャック・マッコールに背後から撃たれて殺されましたが、ビルの話は「平原児」や「シャイアン砦」など、西部劇のヒーローとして、よく映画にも取り上げられています。。
 ピストルは現代のアメリカでも大いに幅を利かせており、実質的には野放しの状態で、アメリカの殺人の51%、強盗の34%にピストルが使われてているそうです。
 桑原、クワバラ・・やはり日本が一番。。

   ///////

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                                               (オオヤエクチナシ)


  * 庭のクチナシの花が咲きました。 
      窓辺からそこはかとなく甘い香りが漂ってきます。

    ♪ 「くちなしの花」  渡哲也


            いまでは指輪も まわるほど
            やせてやつれた おまえのうわさ
            くちなしの花の 花のかおりが
            旅路のはてまで ついてくる
            くちなしの白い花
            おまえのような 花だった




「5月29日」 エベレスト登頂

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            「5月29日」   エベレスト登頂

 1852年、インドの測量局に,主任測量士のラーダナート・シクダールが息せき切って飛び込んできて、上司に向かって「私は今、世界一高い山を発見しました」と報告した。それがエベレストだった。

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                                  (北側から望むエベレスト)

 測量技師たちは6地点からこの山を測量し、高さ2万9000フィートという推定値を割り出した。しかし、この数字はあまりにキリが良すぎて、かえってインチキ臭い。
そこで報告書にはおまけに2フィートだけ追加して、2万9002フィートという数字を作文して報告したのである。

 しかし、実際にはエベエストはこの数字よりも高かったのだ。1954年に行われた正確な測量の結果、実際の高度は2万9028フィート(8848m)だったのである。

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 いずれにせよこの世界最高峰のエベエストに登頂したのはジョン・ハントを隊長とするイギリス隊だった。このパーティは南側のクンプ氷河をたどって、サウスコルからエドモンド・ヒラリーとテンジンが頂上を極めたのである。
 それは1953年(昭和28年)の今日・5月29日のことだった。

 
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                                  (左、ヒラリーとテンジン)


 登山家のヒラリーはニュージーランド人で、養蜂が本職だったそうである。。

                              ・・・・・・

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                                   (知らんふりして・・また逢う日まで)

                                     ・・・・・

「富士は日本一の山」・・・

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 ** いよいよ6月4日より、ヤフーブログの移行が始まるようです。
 一応アメーバーブログにしようかと思っていますが、最後の御奉公に日本一の富士山の話でも・・


                  「富士は日本一の山」・・・

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 世界には各国それぞれに名山と言われる山がありますが、富士山ほど一国を代表して国民の精神的資産になっている山はほかにないでしょう。日本人は子供の時から富士山の絵を描き、富士の歌を歌って育ってきました。まさに日本の国民的な山なのです。

  ♪「ふじの山」    https://youtu.be/B7ARdW-6Vjo

 イメージ 1              四方(しほう)の山を見おろして、
               かみなりさまを下にきく、
               ふじは日本一の山。
              
       青ぞら高くそびえたち、
               からだに雪のきものきて、
               かすみのすそをとおくひく、
              ふじは日本一の山。  


 八面玲瓏という言葉は富士山から生まれたそうですが、富士山は東西南北、何処から見てもその美しく整った山容は変わらず、地面から噴き出したような大きな土の塊は、ただ単純で大きく、そして神秘的です。


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 また、形、姿が富士山に似ているというだけで、富士の名を付けた郷土富士が本全国いたるところに存在しています。それだけ秀麗な富士山は日本人の精神的支柱になっているのでしょう。


イメージ 4       蝦夷富士(北海道・羊蹄山)
       津軽富士(青森・岩木山)
       会津富士(福島・ 磐梯山 )
       出羽富士(山形・鳥海山)
       富士山
       越後富士(妙高山)
       加賀富士(石川・白山)
       伯耆富士(鳥取・大山)
       伊予富士(愛媛)
       阿蘇富士(阿蘇、米塚)
       薩摩富士(鹿児島・開聞岳)
 

 
  郷土の佐賀は、平坦な筑紫平野にあって見るべき名山もありませんが、富士の名がついた小山があります。
     筑紫富士(佐賀・浮岳、805m)
     西郷富士(佐賀・日隈山・148m)

 西郷富士と言っても別段西郷隆盛とは関係なく、単に西郷村にあるだけなのですが、高さがわずか148mに過ぎませんが、この「日の隈山」は、富士の名に恥じない秀麗な形をしています。子供の頃から遠足や山歩きに親しまれてきましたが、みんな富士山に似ているだけでなんとなく登ってみたくなるのでしょうか。


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                               (鳳凰三山より富士山を望む)

 ところで、日本人なら一度は富士山に登ってみたいものですね。シランも62歳の時、一度登りました。しかし、寒さと酸素不足のため、山頂近くの胸突き八丁の苦しさは並大抵ではなかったです。
麓は30度の真夏だというのに山頂は気温0度、その上、麓から見る秀麗な富士の姿からは到底考えられない赤茶けた溶岩だらけの無味乾燥の世界でした。
 富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿・・と言われるのも,なるほどと思いました。

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                ・・・・・・・                       ・・・・・
 
   * 逢うは別れの始めとか‥    5月の終わり

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                                              (こんにちは!)
                                     
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                        (さようなら!)

 「天然色写真」 6月1日

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    「天然色写真」 6月1日

 令和元年の5月もあっという間に通り過ぎ、今日は早くも6月。
 まだ、なんとかブログの命もつながっているようです。終わり良よければすべて良し、有終の美を飾るため、今少し頑張ってみましょう。 

 今日、6月1日は昔なら衣替えの日ですが、今は「写真の日」です。

 イメージ 1昔の記録では、天保12年(1841年)6月1日に薩摩藩主・島津斉彬を写した写真が日本人によって行われた最初の写真撮影となっていたので、昭和24年にこの6月1日を「写真の日」として制定されました。(*あとでこの写真の撮影は、実は安政4年(1857年)9月17日だったと判明したが、写真の日ははそのまま6月1日になった)
 ←島津斉彬の写真・1857年

  写真と言えばシランも子供のころ、10銭カメラという大型のマッチ箱のような四角い写真機でよく写真を撮りました。カメラと言ってもおもちゃのようなもので、正面に1センチくらいの固定レンズとその横に爪の先のような小さいシャッターが付いて着いているだけの簡単なものでした。

 背面の上の隙間からネガフイルムを差し込んで、シャッターを押し、1,2,3・・と10秒くらい数えてからシャッターを閉じるのです。写される方はもちろん、眉一つ動かしてはいけません、写真がボケてしまうからです。


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                                          (ハイ・チーズ) 昭和11年

 そのあと、暗室の中で手探りで、小さい琺瑯製のバットに近くのマルコ堂というカメラ屋さんから買ってきた赤い現像液と青い定着液を入れてフィルムを現像し、水洗して乾かします。定着液の中のフイルムに次第に景色や人物の顔が浮かんでくると、子供心になんとも言えない興奮を覚えたものです。
 その後、フイルムと印画紙を合わせて何秒か電灯にかざして印画紙に焼き付けをします。


 イメージ 3以来、蛇腹式のカメラや、箱型の二眼レフ、ニコンの35ミリカメラ、キャノンのオートボーイから最近のデジカメまで、80年近いカメラのお遊びでした。

 ところで、昔は写真と言うと白黒のモノクロ写真ばかりでしたが、今はすっかりカラー写真に取って変わられました。ではその天然色写真はいつ頃出来たのでしょうか。
 映画が白黒から始めて総天然色映画として日本に登場したのは、終戦直後の昭和21年3月のソ連映画「石の花」でしたが、画面がちらちらしてさしてキレイだとは思えませんでした。

   日本ではじめてカラー映画が出来たのはそれから5年後の昭和26年、木下恵介監督、高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」→
でした。これはなかなかきれいな画面で、話も面白かったです。



 イメージ 4映画はさておき、肝心の写真の方はどうでしょうか・・
 20世紀の始め、ニューヨークに「レオポルド・ゴドフスキー2世」「レオポルド・マネス」と言う二人の若い音楽家が居ました。

   二人は同じ音楽学校に学び、「ゴドフスキー2世」はヴァイオリニスト、「マネス」はピアニストとして将来はコンサートの舞台に立とうと勉強に励んでいましたが、同時に写真にも凝っていました。そして何とかして天然色の写真が撮れないものかと、演奏の合間を見はからって素人研究を続けていました。
    ↑マネス

 イメージ 5まず、目を付けたのは三原色の原理を使って三枚のネガを造りこれを重ね焼きする方法でしたが、なかなか思うような成果が上がりません。1921年になって、彼らは化学的方法を使うことにして実験を続けました。しかし実験にはずいぶん費用が掛かります。彼らはその頃になると演奏家としての収入もそれなりの物にはなっていましたが、研究費がその収入を上回り、赤字つづきでした。

  イメージ 6しかし、彼らの研究に興味を持った財界が2万ドルの資金援助をしてくれることになり、さらにフィルムメーカーのコダック社の研究部長が必要な化学薬品を何でも調達しようと申し出てくれました。


 イメージ 7二人の音楽家はこれに力を得てその後9年間、自宅の実験室で歌を歌いながらカラーフィルムの開発に専念したのでした。

  1930年、彼らは正式にコダック社から招かれて同社の開発部門で仕事をするようになりました。然し彼らの研究室は珍妙なもので、化学物質の分離や現像時間を計測をするのに彼らは時計をいっさい使わず、器楽の演奏をしたり、合唱をしたりと言う風変わりな方法を使ったからです。
 
  ひとつの曲を正確な時間で演奏することと、化学実験の時間をはかる事の二つを同時に行っていたのです。そして、その甲斐あって1935年に最初のカラー・フィルムが完成したのでした。


 
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                                                   (名カメラマン)

      ・・・・・・・・
                                                  ・・・・・・・


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                                                  ↑  (薩摩藩士) ↓
 

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                             最後の侍 (1886年)


                                                       ・・・・・・

花だより「栗の花」

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        「6月2日」    花だより   「栗の花」

 クリはブナ科の落葉高木で日本各地の山野にふつうに見られます。栗の実は古代から重要な食料でしたが、果樹として栽培されるようになったのは大正時代からだそうです。 「大和本草」という昔の本によると、「クリ」は果皮が黒いので「黒実・クロミ」から「クロ」→「クリ」となったとか。。

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 もともと「日本栗」と言われるものは日本の各地にみられる日本原産の「篠栗」から次第に改良されてきたものです。


 戦前は、山麓に住んでいる者は山に自生しているこの篠栗をちぎって食べたり、小遣い銭稼ぎに売ったりしていました。篠栗ちぎりの時期は、秋のお彼岸頃で、道具の背負い駕籠と青竹を割ってU字方に折り曲げた栗鋏を持って、男女、四、五人づつが連れ立って出かけます。遠足のようにお茶と弁当持参で行く楽しい山遊びでもあったのです。酒好きの若者はひょうたんに酒を詰めて山に登ったりして。。

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  栗の花は6月初めに今年伸びた枝の葉腋から細長い紐のような花穂をだして雌雄違う花をつけます。

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 雄花は15㌢くらいの花穂に密集して付き、雌花は花穂の根元に淡緑色の小さい花が付いているだけです。この雌花は小さくて目立たないので「栗の花」といえばどうしても白くて長い雄花だけが目立つわけです。  

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               花栗のちからのかぎり夜もにほふ   飯田龍太

 栗の花は、独特の甘くて青臭い匂いがしますが、 梅雨時になると、この栗の花が落ちます。             
  梅雨に入って栗の花が落ちる頃→「栗花落」と書いてツイリと読みます。苗字の「栗花落」サンは、ツイリさんなんです。(^^♪

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                世の人の見つけぬ花や軒の栗       芭蕉


                                                           ・・・・・・

6月2日「相撲の歴史」

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         「相撲の歴史」 6月2日

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                                             (国貞・画)

  大相撲の五月場所も横綱大関の意気上がらず、平幕の朝の山の優勝で終わりましたね。
最近の力士は体ばかりブクブク太って、押したりはたいたりばかり、昔のように外掛け内掛け、つり出しにうっちゃり、豪快な投げ技も殆どなくなり魅力半減ですね。
 昔の双葉山、大鵬、千代の富士に匹敵するのは、モンゴル出身の白鵬くらいのものか・・ 


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 ところで相撲と言えば両国の国技館ですね。国技館は1909年(明治42年)の今日、6月2日に完成しています。

  その相撲の歴史はとても古くインドから中国を経て日本に伝わっていたようです。日本の相撲は神事とも重なって、奈良時代には相撲節会(せちえ)という宮中の儀式になりました。

   これは天皇以下貴族が見物する格闘技で、力持ちの相撲人が全国から集められました。相撲人は左右に別れて勝負を競いますが、左の相撲人は葵の花を、右の相撲人は夕顔の花をそれぞれ髪に挿して取り組みました。


                                     

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                            (相撲図絵/国貞画)

 この場合相手を倒すというのが原則で、土俵を作ってそこから押し出したり突き出したりするのが勝負の基準となったのは織田信長の頃からでした。それまでは8m~10mの人垣の中で取り組みが行われ、その人垣の中に押し込んだら勝ち、と言うルールがあったようですが、信長は大変な相撲ファンで、人垣の代わりに土俵を円形に並べその中で相撲を取らせたそうです。土俵が出来たことで相手を外に出す技が工夫され、相撲も洗練されてきたわけですから、信長は日本の相撲の創始者でもあり、大スポンサーだったと言えるかもしれません。


 イメージ 2現在の相撲の土俵は直径15尺(4メートル55センチ)で、土俵場は北を正面、その左を東と定め、それを取り囲む四方の隅に4本柱が建てられました。柱はその方角によって色が違い、北西が黒、北東が青、南東が赤、南西が白、と言う風に定められました。

    
 しかしこの四本柱は1952年(昭和27年)まで使われましたが、この年の秋場所から取り払われ、その代わりに吊り屋根にしてその四隅に夫々の伝統的な色がついた房が垂れるようになり,青房とか赤房とか呼ぶようにました。

 なぜ四本柱が取り払われたか、という理由はテレビ中継のカメラにとって柱が邪魔になるから、という到って簡単なものでした。

 
     (昭和28年・栃錦、東富士をうっちゃりで破る)

 
                 /////                                              //////


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 ひと頃は女相撲も流行りました。別に見世物の興行ではなく、地区の親睦の行事のようなものですが、相撲甚句を歌ったり、横綱の土俵入りまであったりして・・

     
                                                                                                            ///////

マタタビで猫を釣る話

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 明日から、ヤフーブログの引っ越しが始まるそうだから、これが最後の駄文となるかも・・  
 さて、如何あいなりますことやら。。

  皆さん、こんにちは。医大へ家内の眼科検診に行ってきました。
2年ほど前に家内が眼底出血で片目が見えなくなりましたが、おかげさまでアイリーアという新薬の眼球内注射が良く効いて、2か月に一度の注射の予定が、もう1年以上もしなくて済んでいます。次回は3か月後の検診。

 イメージ 3今日は日差しが暑いほど、広い大学病院は疲れルゥ~~。。
 こんな時、マタタビの実でも食べたらどうかしらん??
 マタタビの実は滋養強壮の薬だそうだし‥

  じやー、眠気覚ましに、マタタビの面白い無駄話をひとつ。。

 マタタビは「マタタビ科」のつる性落葉低木で、初夏に五弁の白い花が咲き、秋になるとキウイのような楕円形の実が生ります。猫やネコ科のライオンがこの実の匂いが大好きで、猫がこの実を食べると陶酔してしまい、酒を飲んで酔ったようにふらふらとなってしまうそうです。

   ← マタタビの花

   イメージ 4そこで昔から「猫に木天蓼(マタタビ)女郎に小判」ということわざが出来ました。猫のマタタビと遊女のお金とはどちらも大好物、というわけですね。

 人間もこの実を食べると、急に元気が出るらしくて、昔の旅人が疲れてくるとマタタビの実を食べると元気が出て、「また旅」が出来るというので「またたび」という名前が付いたとか。。
 
                               → マタタビの実
 〇「マタタビで猫を釣る話」

  釣り好きのAさんは、物好きじいさんでもある。
 ある日、机にほほ杖をついてぼんやり庭を眺めていると、どこからか薄汚れた野良猫がやってきた。 そこでAさんは急に思いついて、その猫を釣ることに決めた。

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 大きな釣り針では、引っかかった時に猫が痛い思いをするだろうと思い、釣り用の三間竿の針をはずして釣り糸を丸く輪にし、真ん中に猫の好きな「またたび」を置いて燃やし、座敷に潜んで今か今かと待ちかまえていた。
 
 イメージ 7そのうち子供が寄ってきて「お父さん、(またたび)って変な名前だネ」という。
 「うん、むかし旅人がね、疲れて倒れていたんだよ。そしたらね、上から木の実が落ちてきて偶然口に入ったんだよ。それを食べたら急に元気が出て、「またたび」を続けたんだってさ」
 「エッ、ほんと?」
 「うそだよ」 
 「なーんだ・・」
 「ほんとはね、アイヌ語で【マタタンブ】と言うそうだ、それが日本語になったんだ。   牧野富太郎博士の本にそう書いてある」
 「ふーん」
 そのとき子供があっと声をあげた。また二匹野良猫がやってきて、三匹とも塀のそばで気持ちよさそうに寝転んでいる。
 
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 そのまま、いつまでたっても猫たちは近づかない。そのうち「近所のおばさん」が玄関にやってきたので、猫たちは一目散に逃げ出してしまった。
 「なにかお宅から変な臭いがしたしたもんですから」
 「それは有難うございます、なーに、ちょっと粉を燃やしたものですから・・」
 
 その日の子供の日記を覗いてみたら、こう書いてあった。

「きょうはお父さんとまたたびをもやしてあそびました。
 またたびをもやすと、ねこさんがさんびきと、にんげんがひとりきました。
 ねこはあまりちかづいてきませんでしたが、にんげんはげんかんの中まできました・・」!?

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               今日はブログの最後の日なのか、パソコンに出るのにほんに苦労したバイ・・  ニャーン。。

花だより「テイカカズラ」

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 今日から、ヤフーブログの引っ越しが始まりましたが、8月いっぱいはまだ投稿できそうなので、しばらく模様を見てみましょう。
 何しろブログが始まってから14年、2005年、4月14日から毎日のように書き続け、今でも来訪者が毎日120名ほど、今までに延べ53万人の方にも見て貰ったので愛着もひとしおです・・
 さて、いつまで投稿できることやら。。

  花だより「テイカカズラ」

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                   【堀端のテイカカズラの花】  
  
 佐賀城の堀端には楠の大木が何本も植えられています。.佐賀城は平たん部にあるので、城の内部が見え無いように、外堀の土手に楠の大木を植えたのでしょう。この濠の周りは格好の遊歩道になっていて、朝や昼休みには散歩する人の姿が絶えません。
 先日、散歩していると古い大木に蔦が絡まって、小さい白い花が咲いていました。 
 「テイカカズラ」です。

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 「テイカカズラ」はキョウチクトウ科の常緑のつる性植物で、花は夾竹桃や一重のくちなしの花によく似ています。  小型の花ですが、白い五弁の花はちょっとねじれていて、プロペラを思わせるような独特の形をしています。  カズラなのでツタのように、ほかの樹木や石垣に這い登って,気根と呼ばれる短い根で付着しています。


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テイカカズラ」の名前の由来は鎌倉時代の歌人「藤原定家」の墓に生えていたからといわれています。
  式子内親王を愛した藤原定家が、死後も彼女を忘れられず、ついに「定家カズラ」に生まれ変わって彼女の墓にからみついた、という伝説があります。。
 
          来ぬ人を まつほの浦の夕凪に
              焼くや藻塩の 身もこがれつつ      
         
                                                                       
                                        藤原定家



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花だより 「ニワゼキショウ」

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* 昨日からアメーバーに引っ越しが出来るようになりましたが、こちらでもまだまだスムーズに投稿できるようです。
 昨日も134名の方が見に来られたようなので、いましばらくこちらで投稿してみましょう。
  引っ越すと皆さんともいつ会えるかわかりませんので‥


     〇 花だより 「ニワゼキショウ・・庭石菖

  「ニワゼキショウ」は初夏の野原に、クローバーなどと一緒に群生している雑草の一つです。
    別名は「南京アヤメ」

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 小さいながらも美しい花なのに、あまり普通にあり過ぎて、かえって人の目につきにくく、いつも人の足で踏みつけられています。というか、避けて歩けないほどたくさん生えているという事でしょうか。

 この「ニワゼキショウ」はアヤメ科の多年草で北米の原産、明治20年ごろに植物園に植えられたのが最初だそうですが、今は野生化してどこの原っぱにも見られるので、美しい花なのにあまり評価されずに踏みつけられています。

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                                          (仲良くクローバーと)

 花期は初夏、赤紫と白い花が混在していて、花径は1㌢余りと小さく、朝開いて夕方にはしぼむ一日花です。 

 花同様、種も小さいですがたくさん出来るので、一日花なのに野ッ原には足の踏み場もないほど群生していっぱいに広がっています。 小さいですなかなかが生命力の強い花です。

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                                       ・・・・・・

太公望①

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 *マイブログは一応 アメーバーブログに、同名の95歳ブログ「紫蘭の部屋」を開設してみましたが、これまでと勝手が違い、今一つパットせず、まだウロウロしています。そこで、も少しあちらの部屋がきれいに出来上がるまでは引っ越しは我慢するつもりです・・

 掲示板は、teacupの(何でもフリートーク)のジャンルで「昭和は遠くなりにけり」を開設済みで、これまでに1000回ほど書き込みがありました。女性の方が4名ほどでなかなかにぎやかです。よろしければ皆さんも一度覗いてみてください。
 
**  teacup掲示板・カテゴリー「なんでもフリートーク」の「昭和は遠くなりにけり」
 


   「太公望」 ①

 昨日はマタタビで猫を釣る話だったが、もともと釣りは魚を釣るものであって、猫を釣るなどとはもってのほかの話である。では話のついでに、今度はのんびりと魚釣りの「太公望」の話でもしてみよう。
 
 現在、日本の釣り人口は1千万人ともいわれているが、川や池、クリーク、海と日本ほど釣りに恵まれた国はほかにはないだろう。自然のクリークが縦横に走っていたころは、我が筑紫平野はフナ釣りのメッカとも言われていた。網の目のようにつながったクリークにマブナやヘラブナが大繁殖して全国的にも有名になって、多くのマイカーが押し寄せていたが、農地改良の圃場整備でクリークがコンクリートで護岸され、あまりにきれいになり過ぎて、今は太公望の姿も、あまり見ることがない。


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                                                (佐賀のフナ釣り)
        

  魚釣りの好きな人を「太公望」という。
「太公望」という名前は紀元前11世紀ごろ、中国の周という国の「渭水」のほとりで釣りをしていた「呂尚」を、周の文王が「これぞ我が太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えた、という話から来ている。
 そのとき呂尚は、曲がっていない真っ直ぐな針を使い、その上わざと釣り針を水中には入れずに水面から三寸上に垂らしていたとも言われている。
 
      釣れますか などと文王 側(そば)により       

 という江戸時代の川柳があるが、釣りをしている人を見かけると、つい釣れますか?と声をかけたくなるのが人情である。。私がよく散歩する多布施川でも、いつも決まった場所でじーっと川面を眺めながら釣りをしている人を見かける。先日も対岸から声をかけてみたが、釣りに熱中している太公望には、声が届かないようであった。



 
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                                          釣果をかついで意気揚々と・・


    以下、 お節介焼きの他愛もないお話です。。
 Aさんが釣りをしていて、話しかけてくる人を背中で観察してみると、どうやら二つのタイプがあるそうだ。つまり「釣れますか?」と人間の行動に興味を持つ人と「何が釣れますか?」と魚に興味を持つ人の二通りである。
 
 魚に興味のある人は、置いてある魚籠(びく)を覗いたり、勝手に人の魚籠の中に手を入れて取り出し、大きさを調べたりする。 ところが不思議なことに釣りを見に来る人は案外に魚に疎く、会話も珍妙なものになる。
 たとえば、魚籠のなかに「黒鯛」が入っていたとする。
 そうすると、まず「鯉」ですか、「鮒」ですか、と聞く人が多いそうだ。

 ○ お節介焼き文王

 Aさんは、海釣りが好きである。よく黒鯛などを釣ってくる。
 そこへ釣れますか?などと例の「お節介な文王」がやってきた。
 「いやー、大きな鮒(フナ)ですなぁ!」 
  「?」
 「鯉じゃないようですな、ヒゲがないから・・」
  「?」
 「しかし、せっかく釣っても、へら鮒はあまり美味くはないでしょう?」
  「これは黒鯛ですよー」

 「あ、そうですか。黒鯛ねえ・・黒鯛がこんな岸近くにいるんですかねぇー」
  「いますとも、黒鯛はむしろ岸近くにいるんです」
 「そうですかねー、へら鮒のようだがなぁ、この辺ではへら鮒のことを黒鯛というのかなぁ・・」
 こんな人は、いくら黒鯛だと言っても、信用しないのである。

  「ところで、餌はなんですか?」
 面倒なのでAさんが、黙って蛹(さなぎ)を見せると、
  「ほほう! 馬糞ですか・・」!?
 
  Aさんは全く悲しくなってしまい
 「いや、さなぎですよ」
  「ああ、蛹ですか、何のさなぎですか、蛙のですか??」
 「いや、蚕(かいこ)のさなぎです」
  「ほほう、貴方は養蚕をおやりですか?」
 「いや、そうじゃありませんが、養蚕をやっている農家から蛹を貰ってくるのです」
  「ミミズの方が釣れるんじやないですか?」
 「ミミズは海では駄目ですよー」
  「そうかなあー、僕はミミズの方がいいと思うんだがなあ・・ミミズの方が。。」

  こうなっては、もう相手はして居られない、いくら文王でも無言のまま無視するより仕方がない。。


             ・・・・・                      ・・・・・・

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                                           (緑したたる初夏の多布施川)

    

                                               ・・・・  

太公望②

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           「太公望]  ②
 
    引き続き他愛もない釣りのお話です。

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  せっかく太公望が、静寂を愛してひとり釣り糸を垂れているところに、あまりしつこく話しかけられると、うるさいと思うのは人情で、つい無愛想な返事をしたり、或いは知らぬ顔の半兵衛を決め込んでしまうのも又人情であろう。
 だから私は釣り人を見てもあまり話しかけない事にしている。
 ところが、世の中にはおせっかい焼きも居るものだ。

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 ある日、Aさんが又釣りをしていると、またお節介焼きが「釣れますか?」などと、文王風に寄ってきた。
 
 「今日はまだ駄目です」
  「そうでしょう、そうでしょう、ちょっと道具を見せてください」
 「??、どうぞ・・」
  「いやぁ、これは駄目だ。こんな固い仕掛けじゃ、すぐ切られてしまう」
 「いや、いつもこれで釣っているんです。この辺の黒鯛はすれていますから、太い仕掛けじゃ、餌について来ません」
 
 
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 「針を見せてください」
  「そこにあります」
 「いやいや、これじゃ全然駄目だ、太すぎる」
  「いや、いつもこれで釣っているんです。黒鯛は、あまり小さな針では返って駄目なんです」
 「その竿はどういう竿ですか」
  「いや、大したことはない安物ですよ」
 「それじや駄目だ、竿が駄目だ、どうも始めからそうじゃないかと思っていた・・」
  「でも、いつもこれで釣っています」
 
 イメージ 4急に浮木が沈んで大きな黒鯛がかかった。
 取り込んだ黒鯛を魚籠に入れているのを見て,お節介焼きの老人が言った。 
 
  「痩せている!」
 少し癪に触ったAさんが
 「いや,痩せてなんかいないですよ、黒鯛としてはこれは大物ですよ。400匁以上ありますよ、太っています。ほれ、この通り。。」
 
  「いや、大きいのは大味で駄目だ、その半分ぐらいのが美味い。
   そりゃー、太りすぎだ!!」  
    ????



                  (子供は川遊びが大好きです)

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 ところで、シランは釣りも魚の知識も持ちあわせません。
 そういえば、黒鯛も鮒も鯉もよく似ていますねー。
 子供のころ、小学校の裏の蓮堀によく鮒釣りに出かけました。
 餌は、ミミズか、ご飯粒・・
 でも、ご飯粒でフナが釣れたかどうかは、記憶にありません。    


                                        ・・・・・・


花だより 「ヒメジョオン・姫女苑」

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 皆さん、お早うございます。
 昨夜はだいぶ降ったようで、今朝もどんよりと曇って今にも降りそう・・いよいよ梅雨入りかも・

     花だより 「ヒメジョオン」

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  初夏の道端に咲く雑草の中でとりわけ目立つのが「ヒメジョオン」です。 

 「ヒメジョオン」は漢字では「姫女苑」と書き、北アメリカの原産。明治維新前後に日本に渡来し、当時は「柳葉姫菊」と呼ばれていたそうですが、 帰化植物の中ではもっとも広く分布した植物の一つに数えられています。

 小さい菊の花に似た花の花期は6月から10月で、道端のどこにでも見られる雑草の一種です。

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  これにとても似ているものに「春紫苑・ハルジオン」がありますが、これは花期が少し早くて春4,5月ごろに、同じようにあちこちの路傍に咲いています。
  しかし、「ヒメジョオン」の方が背が高く、花が小さくて数が多いのに反し、「ハルジオン」は背が低く花が大きくて、根元にも葉があり、つぼみが下を向いて垂れているのが両者の相違点です。

                                  しらん

引っ越しのお知らせ・・花だより「ミヤマキリシマ」

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   「ご挨拶」

  *十数年の間ヤフーブログにはたいへんお世話になりました。またご来訪の皆さんも毎日150名近く、ブログ開設以来、今日で延べ 569664名という 多くの方に見て貰い、また貴重なコメントも頂いてほんとに有難く、感謝に堪えません

 今回、ヤフーブログの閉鎖に伴い、心ならずも明日の大安の日に「アメーバー・ブログ」に引っ越すことにしました。新居↓は、これまでと同名ですが、まだまだ試行錯誤中で内装も整いませんが、ぜひ皆さんにもお出で頂きたく、よろしくお願いいたします。

   アメーバーブログ
     
95歳ブログ「紫蘭の部屋」
    

 ヤフーブログでは最後の投稿になりますが、紫蘭が永年愛した九重山のミヤマキリシマをご覧になってください。


  〇 花だより 「ミヤマキリシマ」
 
 6月1日は九重山の山開きです。ちょうどこの頃は阿蘇、九重はミヤマキリシマの満開の時期に当たります。

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                                               (九重連山・三俣山)

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                     (九重・平治岳のミヤマキリシマ)


 ミヤマキリシマ(深山霧島)はツツジの一種で九州各地の高山に自生しています。
6月、霧島、阿蘇、九重、雲仙と、全山をピンク色のじゅうたんに染めあげるミヤマキリシマは、九州の山ならではの美しい花です。


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                    (阿蘇の仙酔峡のミヤマキリシマ)


 「ミヤマキリシマ」は高さ1mくらいの低木で、花期は概ね5月末から6月にかけて、枝先に2~3個ず
 つ淡い紫紅色のきれいな花をつけます。 深山キリシマという名前の通り、霧島山やえびの高原のほか、阿蘇山、九重山、雲仙岳、など九州各地の高山に分布しています。
 
 阿蘇の仙酔峡や九重連山のミヤマキリシマの群生は特に見事で、6月初旬の山開き前後は登山者の群れでいっぱいです。
 シランも何度九重に登ったことか・・そして最後には滑落骨折して、ヘリに助けられたりして。。(^^:)
  学生時代から老年に到るまで、実に思い出深い阿蘇・九重の山々です。


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    ♪坊がつる讃歌  芹洋子
       https://youtu.be/Xir6cC8m6qc

   イメージ 7    人みな花に酔うときも
      残雪恋し山に入り
      涙を流す山男
      雪解(ゆきげ)の水に春を知る

       ミヤマキリシマ咲き誇り
      山くれないに大船(たいせん)の
      峰を仰ぎて山男
      花の情を知る者ぞ

       四面山なる坊がつる
      夏はキャンプの火を囲み                 (10年前、85歳でした)
      夜空を仰ぐ山男
      無我を悟るはこの時ぞ

                                                  和紙屋紫蘭

 
                                                   ・・・・・

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