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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満15年、みなさんのおかげで来訪者も51万名を越えました。 1月3日で95歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「95歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  みなさん、これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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  • 05/09/18--20:35: (106)野いばら
  •        (106) 「野茨・ノイバラ」

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                                    愁(うれ)ひつつ 丘に登れば 花いばら    蕪村 


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     日本で薔薇を庭などに植えて花を鑑賞するようになったのは明治以後のことで、日本に元々あったのは「ノイバラ・野茨」と言われる野生種でした。単に茨とも言いますが、一般には「野バラ」と言われています。

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     日本の「野茨・ノイバラ」は古名を「うばら」といい、4、5月ごろにかすかな香りがある純白の小さな5弁の花を開きます。万葉集にも「うばら」としてノイバラのことが歌われています。

       からたちと茨(うばら)刈り除け倉建てむ
         屎(しと)遠くまれ櫛造る刀自   
                          
                忌部首(いむべのおびと)

     
    薔薇の花と屎(大便)とは、同じ匂いでもだいぶ違いますね。ちょっと下品過ぎますが、万葉時代は何事もこんなにおおらかだったかも知れません。

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      シューベルトの歌にある「野ばら」はこのノイバラの事です。
      万葉集の歌よりも少し上品ですね。

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            ♪ 童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇
              清らに咲ける その色愛(め)でつ
              飽かずながむ

             紅(くれない)におう 野なかの薔薇
             手折( たお)りて往(ゆ)かん
             野なかの薔薇

     

    イメージ 7若いころシューベルトの未完成交響曲が大好きでした。
    ドイツ映画にもなりましたが、友人がいつもこの曲を口ずさんでいました。


                 わが恋の終わらざる如く、
                   この曲もまたおわらざるべし・・

                みんな若かったんですね。。

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          (107) 卯の花(ウツギ)

         今日も爽やかに五月晴れが広がっています。
            もうすっかり初夏の陽気ですね。


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      イメージ 3♪ 「夏は来ぬ」

     卯(う)の花の、匂う垣根に
     時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
     忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

     卯の花の匂う垣根に・・と昔から生垣によく使われた「卯の花」は真っ白の小さな花をいっぱい咲かせるので豆腐を作る時に出る「おから」「卯の花」とも言います。

      また卯の花は旧暦四月に咲くので、四月を「卯月・うづき」とも言います。


     その「卯の花」とは、ユキノシタ科ウツギ属の空木 (ウツギ)の花のことで、空木とは枝の中が中空なので空木という名前がついています。タニウツギハコネウツギも同じくウツギの名前がついていますが、こちらはユキノシタ科ではなく、スイカズラ科の植物なので全然違う植物です。

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     「姫空木・ヒメウツギ」は小型のウツギという意味で、河辺の岩の上などの日当たりのよい所に生育しています。

     
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        ↑ おからみたいですね。。

     子供の頃ざるを持って、豆腐屋まで買いに行かされました。

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            卯の花やたたずむ人の透き通り       麦水


                                     //////                                    ///////

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                                      (四国・伊予富士のあけぼのつつじ)

       ・・・・・

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        (108)  空木もいろいろ)

     空木という名前が付いた植物にもいろいろあります。
     ユキノシタ科のウツギ、姫空木、マルハウツギ、ハイカうつぎ、スイカズラ科のハコネウツギ、タニウツギ、花ツクバネウツギ、フジウツギ科房藤ウツギなどです。

      〇 「ハナツクバネウツギ」

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     「ハナツクバネウツギ」、「花衝羽根空木」と書き、中国原産のシナツクバネウツギとアベリアとの雑種で別名「アベリア」とも言われています。花の実の上に永い間、花のガク片が五つ残って付いている様子が、羽根突きの羽根に似ているので、「衝く羽根」の名がついています。


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     日本では昭和39年の東京オリンピック頃から普及し始め、丈夫で公害にも強く、枝葉が良く茂るので公園や街路の植え込みなど、緑化樹としてよく植えられています。芳香のある白色や淡紅色の小さな花が6月から11月まで長い間咲き続けます。

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    ← 茶色のガク片の残りが羽子板の羽根の様です。

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      〇 「房藤空木」

     フサフジウツギは中国の原産で、フサフジキ科の落葉低木、白色か藤色の花が集まって藤のように房状になっています。

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    別名を「ブッドレア」と言いますが、派手な花色と香りで蝶を引き寄せるので「蝶の木」とも呼ばれています。

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               ↑ →  白い花もあります。
     

        ・・・・・                 ・・・・・・・

        〇 空木岳
      
     空木と言えば、中央アルプス連峰の中に「空木岳」があります。中央アルプスの最高峰は「木曽駒ケ岳・2956m」ですが、南半分の最高峰が空木岳(2,864m)です。空木岳という優しいいひびきの名前からして、おそらくこの時期の山麓付近にはウツギの花が咲き乱れているのかも知れません。その空木岳の南に並んで「南駒ケ岳」がありますが、この南駒ヶ岳も忘れられない山のひとつです。

      
     イメージ 1中学の英語の先生に「スワロー」というあだ名の先生が居ました。 
     先生は英語の発音を教える時に「燕のヒナ」が食べ物をねだる時のように、口をすぼめて発音するので「スワロー(ツバメ)」と言うあだ名がついていたのです。

     「スワローさん」は色白で飯杓子のようにつるんとしたお顔だが、口元には小さいながら立派な八の字ヒゲがあり、当時、痔が悪かったのか、いつも武田信玄が座ったような折り畳み敷きの携帯用の三角椅子に座って授業されていました。

     
      そして卒業以来60年の歳月が過ぎ、スワロー先生の事はすっかり忘れていたのですが、ある日何気なくテレビを見て居たら不意に「スワロ-先生」のあの(つるんとした飯杓子のようなハゲ頭の)お顔が出て来たのです。。「遥かなり我が山河」と言う題名で、若い頃の思い出をつづる番組でした。
     
     戦後、先生は九州から転勤されて愛知の飯田高校の山岳部の部長をして居られたらしく、「亡くなったらいつも学校の校庭から見えるあの南駒ヶ岳で眠りたい」というのが口癖だったそうです。
      その後、数十年経ってから先生を偲んで山岳部OBの教え子たちが記念碑を造り、南駒ケ岳の山頂近くの圏谷まで重い石碑を交代でかつぎあげて、先生の記念碑を建てたのでした。

     中央アルプスの主峰「木曽駒が岳」から南に連なる山波は標高3千m近い高山ばかりで、南駒ヶ岳の山頂近くまで石碑を担ぎ上げるのは、なかなか容易な事ではない。いかに先生が山岳部の生徒に慕われていたかが伺われますね。


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                   (宝剣岳から遠く、空木岳、南駒が岳を望む) 

                  ・・・・・・・・            ・・・・・


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  • 05/12/18--20:19: (109)若葉の候
  •        (109)  若葉の候
     
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     せっかく,若葉青葉の季節になったのに今日は朝から無情の雨がシトシトと降っています。

         「若葉」

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                          (若葉の山道)

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     五月は若葉の候、山も里も野原も一斉に萌え出た木々の若葉に包まれて緑一色になる。
     若葉は柿若葉、梅若葉、楠若葉などがよく目立つ。

     
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                           若葉して御目のしずくぬぐはばや   芭蕉
       
     特に柿若葉はつやつやした萌黄色があざやかで、最近は柿茶にしたり、てんぷらにしたりするのが流行しているらしい。若葉の候が過ぎると小さな柿の花が咲く。釣鐘状の乳白色の花は小さくて葉に隠れていてあまり目立たないが、よく見るとなかなか可愛いものである。雨のあとど庭一面に散り乱れている落花の風情もまた捨てがたい。

     
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                               (柿若葉)

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                可愛い 柿の花



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          ↑ 柿若葉

    イメージ 13           ↑ 楓若葉

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         ↑ 南天の若葉

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                        ふるさとの蒼き流れのなつかしき


       子供のころは笹竹とホタルかごを持って、この川でよくほたる狩りをしたものです。
       蛍の匂いってなんだか青臭いですね、蛍かごの蛍草のせいかも。。


            わらんべの洟(はな)も若葉をうつしけり     室生犀星

      
     そういえば、昔は鼻たれ小僧が多かったですね。栄養不足で、滲出性体質の子が多く、耳垂れやカサ坊が何人もいました。 なんでも食べられる飽食時代の今は、鼻なたれ小僧なんか、全く見かけませんね。 今昔の感に堪えません。

         ・・・・・          ・・・・・・


      


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  • 05/15/18--02:24: (110)朋友たち
  •         (110) 続・朋友たち
     
     紫蘭は今年94歳、思えば長く生きて来たもんだ。
    でも、おさな馴染み、学校友達、戦友、山仲間、ゴルフ仲間・・友達はみんな死んでしまった。
    長生きして一番の悲しみは同年輩の知人や仲の良かった友達がどんどん死んでいくことである。


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                          (ここらでちょいと、ひと休み)

      明治生まれの電力王「安永安左衛門」氏は95歳まで長生きしたが、いろいろな名言を残している。
    中でも「長生きしてよかったと思う事の一つは、年上の者や嫌な奴がみんな死んでしまったことだ」という言葉には驚かされた。「長生きしたら次々に友達を失うのが何とも侘しい」と思うのが人の常なのだが、それを言わぬ剛直な精神がうらやましい。さすが電力の鬼と言われた反骨の実業家だけある。

     
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                                               (白馬乗鞍岳山頂)   77歳・右端


     最近、よく夢を見る。昼寝のうたた寝の時も夢を見る。
     そのいずれもが親兄弟ではなく、昔の友達の話である。

     論語の学而篇のなかに「有朋自遠方来 不亦楽乎 」 (*朋あり遠方より来る、また楽しからずや)という言葉があるが、人間にとって最大の楽しみは友達との楽しい語らいだ、と言っても過言ではないだろう。良い友達に恵まれるのはほんとに人生の宝物であり、幸せな事である。その点、シランは長い人生の中で多くの良友に恵まれて幸運だったと言えるだろう。彼らとの楽しい思い出は生涯尽きることはない。

     イメージ 1古人曰く「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり・・」と。
     一期一会、人はさまざまの人と袖ふれあい、また別れゆく旅人なのである。
      
      そのふれ合った人々の中でも、ひときわ思い出に残るのはやはり学生時代の友人たちである。そこには利害関係を超えた独特の友情がある。

     先年、70数年前の学生時代に書いた「筆滴」という古い日記を押入れの隅から見つけ出したので、これまでの友達の話はみんなこの日記をもとにわが朋友たちとの若き日の交友を書いてきた。その交友の記録を今少し続けてみよう。

      〇 「朋友たち」

     外語の同期生から京大の文学部に進んだのは、前述の平山、赤尾のほかに伊藤と吉井がいる。
    いつか兜子のことを調べようと思って図書館に行ったら、思いがけず伊藤の著書がずらりと並んでいて驚いたことがある。その時、彼は神戸大学の教授をしていた。兜子の専攻は中国、中唐の詩人「李賀」だったが、彼の専攻も同じような中国の「曹植」などの三国から唐時代の詩人たちであった。やはり外語で中国語を専攻したためだろう。


     イメージ 2柳は大阪、船場生まれのボンボンだったが、外語時代の教室の席が隣で、そのすぐ後ろが伊藤正文だった。伊藤も大阪の生まれで、当時、四つ橋にあった文楽座によく連れて行ってくれた。田舎出の少年だったシランは、浄瑠璃大夫の語りに乗って動く文楽人形のリズミカルな高下駄の音に魅せられて、道頓堀の歌舞伎座とともによく通ったものである。先年、北九州の近藤魁君と話していたら、大阪に歌舞伎を見に行かないかと誘われた。
     まさか、大阪まで見に行く気はないので謝絶したが、彼は一人で見に行ったらしい。よっぽど歌舞伎マニアだったのだろう。

     
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                                                              (四ツ橋・文楽座の看板)

     
    イメージ 4  彼は歌舞伎が好きで外語時代もよく行っていたらしい。その頃道頓堀の中座や角座で良く関西歌舞伎がかかっており、中でも嵐雛助という女形の振袖姿がきれいで、ハスキーな声色のセリフに魅せられて、よく見に行ったものだが、近藤もそのころ雛助のファンだったようで、「それじゃ、二人は雛助の恋敵だったんだなぁ」と大笑いしたことがある。

     千日前の新歌舞伎座は、天井桟敷からよく見たものだ。天井に近い立見席なので、舞台の役者たちは豆粒のようにしか見えない、だがとにかく安い。学校帰りにちょっと立ち寄って一幕だけ見て帰ったりした。ここの7階には名画劇場が、地下には地下映画劇場があって古いフランスやドイツの名画をやっていて、よく覗いたものである。もちろん敵国のアメリカの映画はやっていなかった。

    菊五郎の弁天小僧菊之助

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                           (戦前の千日前の新歌舞伎座)

                ・・・・・・       ・・・・・・

     
       

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  • 05/15/18--18:11: (111)南紀の旅
  •         (111) 南紀の旅

     伊藤は外語卒業後、京大を出て神戸大學の教授をしていたが、あるとき、「一度会いたいなぁ」という年賀状を呉れたと思ったら、その翌年にあっけなく亡くなってしまった。
     卒業前にこの伊藤と吉井、それに柳を交えて4人で南紀の旅行をしたことがある。軍隊に入る前の娑婆の思い出としてみんなあちこち旅行に行ったようだが、我々は伊勢神宮から志摩半島の旅に出かけた。

     
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                                                 (伊勢神宮前の朋友たち)


     「昭和19年9月6日」の日記にその志摩の旅の記述がある。

     ☆ 友人四名と共に三重の志摩半島の波切(なきり)まで、汽車、電車、乗合自動車(バス)を乗り継いで行く。岬の先端の大王崎灯台より遥かに渺々(びょうびょう)たる太平洋の荒波を望む。我が心情、出征を前にして心平らかならず。 太平洋より打ち寄する怒涛の如し。

        見晴るかす大王崎の荒波よ
         逆巻く心 我に持たすな 
     
     9月末の仮卒業、ついで10月10日の予備士官学校入校を前にして、紫蘭の心は複雑であった。 兄を戦場に送り、母一人を残して、自分もまた軍隊に入らねばならぬ気持ちは、なかなか平静では居られなかった。
      錯綜する思いを胸に、広漠たる太平洋の荒波の向うの、遥かなる南方の戦場を思った。

     
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                                                             (大王崎灯台)

     あれから、もう74年も経つ。
     最近の大王崎には、その美しい風景から「絵かきの町」として知られ、若い画学生が多く集まるそうだ。 74年の時を経て、大王崎の荒波は、あの激動の時代の事どもを若者たちに語ってくれるだろうか。。
      当時の波切・なきり」 はただの小さい漁村で。うらぶれた小さい宿屋が一軒あっただけで、女中さんもただ一人、それも花の盛りを過ぎた中年のおばさんだった。
      その日の日記には私の稚拙な歌が記されている。

     ☆ 寒漁村、波切にただ一軒ありし汚き宿屋に、これまた美しからざる女中のありて・・

         故郷(ふるさと)は京都と言ひし宿女中
            窓辺に倚(よ)りて海を眺むる

              その後、彼女はどんな人生を歩んだだろうか。。
       ・・・・・
      〇 「南紀の旅」 

      昭和19年秋、志摩半島の大王崎に行ってから2週間ほどあとで、また同じ仲間4人で南紀の旅に出かけた。残り少ない青春の思い出作りの旅だった。学徒出陣で入隊するまで余す所僅か半月ほどしか残って居なかった。 いわば最後の命の洗濯とでも言おうか。。

     今度は紀州半島を逆に大阪の難波から南下して白浜から新宮、那智の滝を目指した。和歌山で電車から汽車に乗り換えたが、当時の国鉄・紀南線はノロノロの単線であった。
       
      当時の日記を見てみよう。
      ☆ 「S19年9月19日」

     【列車は遅々として進まず、トンネルまた多くして窓を閉じるに暇なし、(*蒸気機関車なので、窓から煙突の煙や石炭くずが飛び込んでくるのである)窓外に広がる白砂青松と点在する島嶼の秀麗さにも聊か飽きて来たる頃、8時間余の乗車に堪えてようやく新宮に到着せり。 (*今なら何時間くらいだろう・・)
     されど新宮は工場の煙突林立し有れば忽ち嫌悪感を覚え、倉皇として再び列車に飛び乗りて「那智」の駅まで引き返したり。那智は戸数20数戸の小村落にして駅前には既に海浜迫り、頗る閑散としたる環境なりき。漸く鄙びし宿につき一風呂浴びればすでに日は落ちて、一同宵闇迫る海浜へと向かう。

     イメージ 5天空爽々として星辰数多(あまた)、はるか沖合に不知火(しらぬい)の燃ゆるがごとく漁火(いさりび)の点滅するを望む。
     また、打ち寄する白波の中には夜光虫の神秘の輝きを見る。友は砂浜を逍遥して歌を口ずさみ、我は大空を仰ぎみて星宿の神秘の光に歎じ居たり。

      暗き海辺の白砂を我が手に盛れば、夜光虫の蒼き光とともに砂はさらさらとこぼれ落つ。
      恰も砂時計の、我らが入隊までの時の短さを嘆ずるが如し。

             秋深し 手に光虫の むくろかな


    ↑ 楽し気に肩を組む級友たち (今、残っているいるのは一人もいない・・)

     我等、防人(さきもり)として往く日近く、心中深き哀感は我等の胸に塞がれて、しばしは声もなかりけり。  ああ、大熊座の輝きよ、夜光虫の蒼き光よ・・、
      しばしたたずむ海岸を立ち去り難くなりにけり。。
          ・・・・・

     *如何にも感傷的な若者の大げさな自己陶酔的な日記だが、この夜光虫の蒼き光は瞼の奥にいつまでも残って居る。 あの光は我等が20歳(はたち)の短い青春の輝きだったのだ。
     あれからもはや74年を過ぎ、同行した友人たちも夜光虫の青白い光の如く、みんな旅立ってしまった。。

     ☆ 「19年9月20日」

       イメージ 3 〇 「那智の滝」
     早朝起き出でて那智山に登る。森々たる山中にせせらぎの音かすかに聞こえ、人気ひとつ無し。

     日本一の大滝に向かえば我が心胆、大自然の偉大さに圧倒されんとす。夏なお寒き滝の飛沫は、雲となり霧となりて我が衣服をしとどに濡らし、すさまじき轟音とともに落下する飛爆のもたらす清風は我等をして寒気をさえ催さしめたり。
      まさに悠々たる大自然なるかな、人力の微小なるを痛感す。

    イメージ 4 「那智神社参拝」
     お守り札を売り居し巫女よ、彼女の淋しき面立ちと赤き袴を忘れ得ず。

      「木本到着」
     鬼が城の断崖絶壁をよじ登り,渺々たる太平洋の怒涛を眺め再び大自然の強大さに圧倒されんとす。

     ☆ ここで我が若き日の日記は終わっている。
         そして級友たちは各地の軍隊にそれぞれ入営して行った。
        祖国防衛のために。。


                 ・・・・・・        ・・・・・・

     *今年は桜以来、花の開花が一週間くらい早いようです。
      いつもならまだ咲いていない花も、もう咲き始めています。

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    いつの時代でも水遊びは楽しいですね。

    ///////                     ///////



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  • 05/16/18--20:00: (112)ライバル
  •   
               (112)  「ライバル」

     イメージ 1学生時代の「吉井藤重郎と赤尾兜子」は共に大柄で頑丈な体形の秀才肌だった。外語では同じように俳句研究会に入り、のちに共に京大に進学しているが、二人は好対照の存在だった。無口で豪快、いかつい顔つきの兜子に対し、色白丸顔のお公家さんのような吉井にはいかにも大和の旧家出身らしいおっとりした雰囲気があった。

      これには兜子の兵庫弁と奈良の大阪弁の違いもあったのかも知れない。兜子はよく「そりゃ、なんぞいな?」などというゴツイ姫路弁をよく使ったが、吉井の方は「そりゃ、なんやねん?」などと、柔らかい話しぶりである。外見から言えば、いわば荒武者とお公家さんとでも言おうか。。

     ← 左から、吉井、赤尾、平山 (京大時代)

    イメージ 2 「吉井藤重郎」の実家は奈良盆地の南部、柏原神宮の近くにあり、すぐ東に畝傍山、耳成山、天の香具山のいわゆる大和三山があって、いかにも万葉時代ののどかな雰囲気の場所であった。

     彼の家のすぐ西の丘陵地帯には当麻寺や小野妹子の墓所があり、司馬さんの母君の実家があって、司馬サンも小さい頃はこのあたりで古代の矢じりや土器を集めては遠い天平時代への思いをはせていたという。のちに吉井自身も外語から京大に進むとき国史学を選んだのもうなずかれることである。                             ↑当麻寺にて、左、シラン、須本、近藤


     吉井は小学3年、8歳のときつづり方(作文)の時間に 「ほたるがり いっぱいとっても とんできた」
    と書いて出したら、村井先生が手招きして「吉井さんえ、ここのとこな、俳句に似ているが、はいく知ってるか・・」と言われ、うれしかったので、すぐまた作って見せに行ったとか。。

       「ほたるがり よその川まで  いってきた」
       「ほたるがり はしってかえった  こわかった」

     そのころから彼は俳句や和歌に関心があったのだろう。外語では長谷川信好教授の指導を受けて「俳句、短歌研究会」に入っていた。この時赤尾兜子もいたようだ。

     彼は17年春、17歳の時、畝傍中学を卒業して蓄膿症の手術を受けている。術後、先生が「よく我慢したなぁ‥もう2,3年早く手術してれば一高へ行けたのに・・」と言われた、と句集のあとがきに書いているから、彼は一高に落ちて外語にやってきたのだろう。なかなかのものだ。。

     イメージ 418年秋に祖母を失っているが、祖父母が親代わりしてくれたと言っているから、おそらく幼くして父母に死別したのかもしれない。17歳の時に、こんな句や歌を作っている。

         蓬餅(よもぎもち) 作りし母と 夢で遭い

            たのしきは 家に帰りて祖母のたてし
                春湯にひたり 物思うとき

                                                                                                          ↑句歌集 「蛍」

     昭和19年秋、学徒出陣のため半年繰り上げ卒業して、豊橋陸軍予備士官学校に入隊した。
    歩兵砲中隊だったのは彼が体が大きかったからだろう。紫蘭は歩兵第一中隊、柳は第二中隊、関谷が通信中隊、近藤が重機関銃中隊だった。近藤は卒業後、広島の部隊に配属され、不運にも原爆の洗礼を受け、多くの戦友を失った。しかし、彼は幸いにも重度の火傷から回復して、長年高校教師として英語の教鞭をとった。 最近は年相応に弱ってきたらしく、メールも便りもすっかり来なくなってしまったが、元気でいるだろうか。。

     
     イメージ 3予備士に入隊する前に作った吉井の俳句がある。

        惜別や街に煤すす降り時雨降る 
        霜柱さやけくわれも征かんとす
        花を投げ戦い如何にと潮に問う

     彼は昭和20年6月、予備士を卒業して見習士官として水戸連隊に配属され、鹿島灘に上陸せんとする米軍を迎撃するために組織された水際陣地の橘師団に在任中に終戦となった。


       
           イメージ 5炎昼の海鳴り高し鹿島灘

        夏の海へ残れる砲弾(たま)を撃っており

        
               戦えぬ戦(いくさ)となりて馬に乗り
               鹿島の海の見えるまで来ぬ 

             命かけし砲も愛馬も手放して
               我はひねもす蜩(ひぐらし)を聞く

       
     
                 ・・・・・               ・・・・・・

      *昨夜は蒸し暑くて寝苦しかったが、今朝は小雨模様で暑さはさほどでもなくなった。
      母の日に贈ってきたブーゲンビリアは水不足だったのか、半分枯れかけていたが、四、五年前に貰ったカサブランカは今年も小さいつぼみを5,6個つけている。開花が楽しみだ。

     若葉の候もあっという間に通り過ぎて、もう何処もかしこも青葉がいっぱい、今年は花も早かったが、庭木の緑の葉っぱもいつもより大きくてよく茂っているようだ。

     
    イメージ 6
                                                 (青葉道)


                 青葉茂れる桜井の
                 里のわたりの夕まぐれ
                 木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
                 世の行く末をつくづくと
                 忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)
                 散るは涙かはた露か             ♪ (桜井の別れ)

       
     青葉と言えば、むかし小学唱歌で歌った「青葉茂れる・・」の歌をつい口ずさんでしまいます。
       あれからもう、何年になるのかなぁ。。
       

    0 0

           (113) 戦友別盃の歌

     外語在学中、吉井とはよく文学や人生論で稚拙な議論を繰り返した。そういう多感な年ごろだった。しかし彼は頭が良い上に、梃子でも引かぬ頑固一徹なところがあって、なかなか彼を論破することが出来なかった。

     しかし、仲が悪いというわけではない。苗字のイニシァルが同じなので順列が並んで、出欠簿を呼ばれるときはいつもシランと吉井、柳と順番に呼ばれていたので、なんだか親しみを覚え、彼とはよく駄弁ったり、弁当持ってあちこちに遠出をしたものだ。出身地や教室の席が近かったり、下宿が同じ方向だったり、部活が同じだったり、体の大小、気性の強弱など、とにかく、ちょっとした事から友達が出来るものである。

     イメージ 1吉井が入っていた長谷川先生の「俳句・短歌研究会」には赤尾兜子も一緒だったが、二人はあまり仲が良い方ではなかった。お互いに天才肌の所があり、ライバル意識があったのだろうか、あまり二人が親しく話をしているのを見たことがない。八方美人の凡才、シランのように誰とでも親しくなるようには行かなかったのだろう。

     いつか彼から「蛍」と題する自家本の句歌集を贈ってもらった。本職の俳人ではないので、やはり難解で難しい語彙を駆使する赤尾兜子のような奥深さはないが、やさしい表現なので、我々には却って分かりやすく親しみやすい。 

     だが、後年兜子の不慮の死に際しては、司馬さん、陳舜臣さんと同席してお通夜に行っている。在学中も、心中お互いにその才を認めて、一目置くところがあったのに違いない。

              歯を病みて通夜の込み合う寒さかな     藤重郎
      ・・・・・

     数年前、本棚を整理していたら、高村光太郎の詩集「智恵子抄」が出てきた。

      イメージ 2 「あどけない話」    高村光太郎
        
      
            智恵子は東京に空が無いといふ、 
             ほんとの空が見たいといふ。
             私は驚いて空を見る。
             桜若葉の間に在るのは、
             切っても切れない
             むかしなじみのきれいな空だ。

     戦後、吉井から贈って貰ったもので、もうすっかりセピア色に変色している。多分、彼に「大東亜戦争詩集」を貸したお返しだったのだろう。
     その後、彼からこの詩集を返してもらった記憶がない。

     この詩集には「海原にありて歌へる」という題の大木惇夫の詩が載っていた。
     シランが好きな詩だった。かれももう一度読んでみたかったのだろう。
      
      〇「戦友別盃の歌」 大木惇夫  
                                             *(インドネシア進攻前夜) 
          言うなかれ、君よ、別れを
          世の常を、また生き死にを、
         イメージ 3 海ばらのはるけき果てに
          今や、はや何をか言はん。
          熱き血を捧ぐる者の
          大いなる胸を叩けよ
          満月を盃にくだきて
          しばし、ただ酔いて勢(きほ)えよ

                  わが征(ゆ)くはバタビヤの街、
                   君はよくバンドンを突け、
                  この夕べ相離(さか)るとも
                  かがやかし南十字を
                  いつの夜か、また共に見ん、
                  言ふなかれ、君よ、わかれを、
                   見よ、空と水うつところ
                   黙々と雲は行き雲はゆけるを。

     紫蘭はどちらかというと外柔内剛の方で歌も漢詩のような諤々とした男性的な歌詞が好きなので、この歌は大好きだったが、吉井は智恵子抄のような情緒的なものが好きだったようである。

     作詞の「大木惇夫」には、戦前「国境の町」などの秀歌がある。子供の頃東海林太郎が直立不動の姿勢で歌っていたのが目に浮かぶ。なつかしい・・

          ♪  「国境の町」

           橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
           雪の曠野(こうや)よ 町の灯よ
           一つ山越しゃ 他国の星が
           凍りつくよな 国境(くにざかい)

     イメージ 4この国境の町は、旧満州の黒龍江添いの綏芬河(すいふんか)という町が舞台で、対岸はソ連という、まさに「国境の町」だった。いつか友達の I 君から戦時中満州で歌われていたという「綏芬河小唄」という歌のテープを貰ったことがある。彼は旧満州医大出身だが、戦後引き揚げて来てデパート勤めをして常務になっていた。

     世話好きで面倒見のよい性格で、中学では水泳部や陸上競技部のマネージャーをし、会社ではバレー部の指導をしていた。
                                                                                                  ↑ピストルをもつ I 君

     釣りが好きで同窓会の飲み会には自分で釣ったハヤなどの川魚を自分で甘露煮にして我々の酒の肴にしてくれた。自分は酒は飲まないのに‥

     彼は不幸な人生だった。この頃は奥さんが脳梗塞で半身不随になり、自分で炊事をしていたのだろう。結婚に反対されて娘が自殺し、自分は胆管癌だというのによく同窓会の世話をしてくれた。それなのに息子が急死し、その初盆の日に彼自身も脳梗塞で倒れてあっけなく亡くなってしまった。一人で沢山の不幸を背負った人生だった。

     大木惇夫は戦時中はジャワ作戦に報道班員として徴集され、この「戦友別盃の歌」もその上陸作戦の前夜に、船上で作られたもので当時、日本戦争文学の最高峰といわれ、前線の兵士たちにも広く愛誦された。バンダム湾敵前上陸の際には彼が乗っていた船が沈没したため、同行の大宅壮一や横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もしている。

     しかし大木は、戦後は一転して戦時中の愛国詩などによって戦争協力者として非難され、文壇からも疎外されて、精神的、肉体的な不調と困窮の中で昭和52年、82歳でその波乱の生涯を閉じた。

        〇 「遠征前夜」 大木惇夫 

              参宿(おりおん)は肩にかかりて
              香を焚(た)く南国の夜
              茫としてこは夢ならじ
              パパイヤの白き花ぶさ
               はた剣のうつつの冴えや
               郷愁は烟(けむり)のごとく
               こほろぎに思ひを堪えて
               はるかなり、我が指す空は


                        //////                                    /////
                                       
       *曇ったり小雨が降ったり、蒸し暑い初夏の一日。
         なんだか目と鼻がむずかゆい・・
         さてはアレルギーかな?
         
         久しぶりにゴルフクラブを振って見たら、あばら骨の神経痛がチクチク痛む。
         泣き面に蜂・・とはこのことか。。

    イメージ 5
                                                  (タイサンボクの花のもとで)



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           (114) 「古い手紙」

     その智恵子抄の中に、吉井からの古い手紙が挟んであるのを見つけた。 終戦直後の昭和20年の秋に貰ったものだ。 吉井は軍隊から復員して百姓の真似事をしていたらしい。彼は外語の卒業時に住友本社に就職していたが、戦後の財閥解体で失職していたのである。

     手紙によると当時彼は失恋中のようで、彼女の事にもちょっとふれている。軍隊から持って帰ったのか用紙が陸軍用の用紙で、いかにも彼らしく枯れた筆書きである。

    イメージ 1

     ** 拝啓、懐旧の情そぞろなる秋の夕ぐれ
           お便り拝見  友、鎮西にありて呼ぶ
           大和の国にも 暫し晩秋の青空がある
      
     ご依頼の趣 承知した(*関谷と二人で在阪の旧友たちを訪ねるからよろしくと、頼んだらしい)
    在阪諸君にも連絡して置く (*空襲で家を・・)大分焼いているからどうかと思うが暫し待て
     この俺が可哀そうだとは何事 恋は何時でも初恋の如しだ(*手紙で関谷が初恋をからかったのだろう、関谷自身も初恋に悩んでいたのかも知れない、みんな若かったのだ。)
     関に会ったら言ってやってくれ
     今どき 惚れたの張れたのと言ってないでぶっつかって見ろ
     甘い夢なんかとび越しちゃへ
     ゲーテを見ろ やるなら勇敢に熱烈にやれ
     ただ当方 その人は小生入隊中より胸を病んでいる 
     多分死ぬ 忘れるつもりだから もう言ってくれるな

     小生、目下百姓よろしく
     この間、伊藤が泊まりがけでやって来て、午前中麦まきを手伝ってくれた。
     小生思うところあり 
     住友本社解体から傘下会社に就職斡旋すると課長が言ったが断わった
     然し 百姓で押し通すんじゃないからご安心を乞う

     今 大阪では闇市が大流行だ
     梅田、えびす橋、天王寺、鶴橋が最も有名 焼け跡の人だかりを察して見たまえ
     大劇,常盤座ものこっている 歌舞伎座では猿之助の勧進帳。文楽その他 道頓堀は焼けた。
     都市はいま人為的崩壊時期だ  新しい芽は田園に分散する こじんまりした明日の日本の貌(かたち)
        ではこれ位にする    十一月二十七日

               わがつくる草履の形ととのひて
                   秋はいよいよ悲しくなりぬ
                                                                            ・・・・・・
     彼は歌や俳句に堪能なだけあって、20歳の若者にしてはなかなかの文章だ。それに筆もうまい。
    お互いにどんな事情だったか記憶にないが、どうやら関谷と一緒に旧友たちに会いに関西に行くからよろしく、とこちらから頼んだのだろう。
     この頃の彼は失恋中だったようで、ゲーテを引き合いに出したりして、まさに青春真っ盛りという感じがする。そういえば赤尾も京大時代に好きな女性がいたようだし、戦時中の学生時代に抑圧されていた恋愛感情が一挙に解き放されたのかもしれない。

     手紙の中に伊藤が麦撒きの手伝いに来た、とあるが、伊藤正文は勉強家だった。我々グータラどもは語学の中国語はそっちのけにして、詩歌や小説ばかり読んでいたが、彼は中国語の勉強に熱心だった。外語卒業時、自分と関谷は九大の経済学に進んだが、伊藤は京大の中国文学に進学したのも、もっと中国語を勉強したかったのに違いない。文学部ではメシが食えないと、実利的な経済を選んだ我々二人とは学問に対する情熱が違ったのだろう。関谷はシランが願書の志望欄に経済と書いていたの見て、法科から経済に乗り変えているが、法科では外語からの合格は難しいと思ったらしい。

     勉強の甲斐があったのか、伊藤は後に神戸大学の教授になったが、「一度会いたいなぁ」と言う年賀状を呉れた翌年にあっ気なく亡くなってしまった。 いまも図書館には彼の中国古代の漢詩に関する著書が何冊も並んでいる。
     終戦後、すでに京大の学生だった伊藤の感化があったのか、百姓をしていた吉井は、翌春に京大の文学部の国史科に入学、同時に同級の赤尾兜子と平山敏郎も中国文学科に入学している。

     いつか、20年ほど前に学会出席のため吉井が福岡に来たことがある。京大では国史科から哲学科に移って社会学を専攻した吉井は、その時、もう大阪市立大学もやめて名誉教授になっていたが、まだ学問に情熱を燃やしていたのだろう。洒落たベレー帽をかぶっていてよくは見えなかったが、余りに頭を使いすぎて,おそらく頭はつるつるだったに違いない。(^^)/
     その時、駅近くのレストランで旧交を温めて酌み交わした酒は熊本の銘酒 「美少年」 だった。
     50年前に青雲の志に燃えていた美少年?が、今はお互いに白髪、禿頭の老年になろうとは・・

      
      イメージ 2        少年老い易く 学成り難し、 
                階前の梧葉 すでに秋声・・ の感深し。。

       「鏡に照らして白髪を見る」 (唐) 張九齢

                   宿昔(しゅくせき)青雲の志
                   蹉陀(さだ)たり 白髪の年
                   誰ぞ知らん 明鏡の裏(うち)
                   形影自ずから 相憐れむ
                                 ・・・・・
     
     彼とは同窓会でも何度かあったが、最近は電話が多くなっていた、体力が弱って入退院を繰り返していたらしい。
     あるとき同窓の浜田が亡くなった時電話したら、すっかり耳が遠くなって話がよく通じない。しまいには「今度電話するときは前もって電報で知らせてくれ、補聴器を掛けて待っているから」。。
                                                       ↑ 京都仁和寺にて、小林、吉井と
           
       その後数年たって娘さんから思いがけず彼の訃報が届いた。。
             肩を組んで写った若き日はもう返らない・・

                    ・・・・・・               ・・・・・・

     
     *夜来の雨が止んだと思ったら、案外に爽やかな晴れ間がやってきた。
      北寄りの風が冷たいくらいである。

      
    イメージ 3
                                           
                                                        (初夏の里山)


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           (114) 「古い手紙」

     その智恵子抄の中に、吉井からの古い手紙が挟んであるのを見つけた。 終戦直後の昭和20年の秋に貰ったものだ。 吉井は軍隊から復員して百姓の真似事をしていたらしい。彼は外語の卒業時に住友本社に就職していたが、戦後の財閥解体で失職していたのである。

     手紙によると当時彼は失恋中のようで、彼女の事にもちょっとふれている。軍隊から持って帰ったのか用紙が陸軍用の用紙で、いかにも彼らしく枯れた筆書きである。

    イメージ 1


     ** 拝啓、懐旧の情そぞろなる秋の夕ぐれ
           お便り拝見  友、鎮西にありて呼ぶ
           大和の国にも 暫し晩秋の青空がある
      
     ご依頼の趣 承知した(*関谷と二人で在阪の旧友たちを訪ねるからよろしくと、頼んだらしい)
    在阪諸君にも連絡して置く (*空襲で家を・・)大分焼いているからどうかと思うが暫し待て

     この俺が可哀そうだとは何事 恋は何時でも初恋の如しだ(*手紙で関谷が初恋をからかったのだろう、関谷自身も初恋に悩んでいたのかも知れない、みんな若かったのだ。)
     関に会ったら言ってやってくれ
     今どき 惚れたの張れたのと言ってないでぶっつかって見ろ
     甘い夢なんかとび越しちゃへ
     ゲーテを見ろ やるなら勇敢に熱烈にやれ
     ただ当方 その人は小生入隊中より胸を病んでいる 
     多分死ぬ 忘れるつもりだから もう言ってくれるな

     小生、目下百姓よろしく
     この間、伊藤が泊まりがけでやって来て、午前中麦まきを手伝ってくれた。
     小生思うところあり 
     住友本社解体から傘下会社に就職斡旋すると課長が言ったが断わった
     然し 百姓で押し通すんじゃないからご安心を乞う

     今 大阪では闇市が大流行だ
     梅田、えびす橋、天王寺、鶴橋が最も有名 焼け跡の人だかりを察して見たまえ
     大劇,常盤座ものこっている 歌舞伎座では猿之助の勧進帳。文楽その他 道頓堀は焼けた。
     都市はいま人為的崩壊時期だ  新しい芽は田園に分散する こじんまりした明日の日本の貌(かたち)
        ではこれ位にする    十一月二十七日

               わがつくる草履の形ととのひて
                   秋はいよいよ悲しくなりぬ
                                                                            ・・・・・・
     彼は歌や俳句に堪能なだけあって、20歳の若者にしてはなかなかの文章だ。それに筆もうまい。
    お互いにどんな事情だったか記憶にないが、どうやら関谷と一緒に旧友たちに会いに関西に行くからよろしく、とこちらから頼んだのだろう。
     この頃の彼は失恋中だったようで、ゲーテを引き合いに出したりして、まさに青春真っ盛りという感じがする。そういえば赤尾も京大時代に好きな女性がいたようだし、戦時中の学生時代に抑圧されていた恋愛感情が一挙に解き放されたのかもしれない。

     手紙の中に伊藤が麦撒きの手伝いに来た、とあるが、伊藤正文は勉強家だった。我々グータラどもは語学の中国語はそっちのけにして、詩歌や小説ばかり読んでいたが、彼は中国語の勉強に熱心だった。外語卒業時、自分と関谷は九大の経済学に進んだが、伊藤は京大の中国文学に進学したのも、もっと中国語を勉強したかったのに違いない。文学部ではメシが食えないと、実利的な経済を選んだ我々二人とは学問に対する情熱が違ったのだろう。関谷はシランが願書の志望欄に経済と書いていたの見て、法科から経済に乗り変えているが、法科では外語からの合格は難しいと思ったらしい。

     勉強の甲斐があったのか、伊藤は後に神戸大学の教授になったが、「一度会いたいなぁ」と言う年賀状を呉れた翌年にあっ気なく亡くなってしまった。 いまも図書館には彼の中国古代の漢詩に関する著書が何冊も並んでいる。
     終戦後、すでに京大の学生だった伊藤の感化があったのか、百姓をしていた吉井は、翌春に京大の文学部の国史科に入学、同時に同級の赤尾兜子と平山敏郎も中国文学科に入学している。

     いつか、20年ほど前に学会出席のため吉井が福岡に来たことがある。京大では国史科から哲学科に移って社会学を専攻した吉井は、その時、もう大阪市立大学もやめて名誉教授になっていたが、まだ学問に情熱を燃やしていたのだろう。洒落たベレー帽をかぶっていてよくは見えなかったが、余りに頭を使いすぎて,おそらく頭はつるつるだったに違いない。(^^)/
     その時、駅近くのレストランで旧交を温めて酌み交わした酒は熊本の銘酒 「美少年」 だった。
     50年前に青雲の志に燃えていた美少年?が、今はお互いに白髪、禿頭の老年になろうとは・・

      
              イメージ 2少年老い易く 学成り難し、 
                階前の梧葉 すでに秋声・・ の感深し。。

       「鏡に照らして白髪を見る」 (唐) 張九齢

                   宿昔(しゅくせき)青雲の志
                   蹉陀(さだ)たり 白髪の年
                   誰ぞ知らん 明鏡の裏(うち)
                   形影自ずから 相憐れむ
                                 ・・・・・
     
     彼とは同窓会でも何度かあったが、最近は電話が多くなっていた、体力が弱って入退院を繰り返していたらしい。
     あるとき同窓の浜田が亡くなった時電話したら、すっかり耳が遠くなって話がよく通じない。しまいには「今度電話するときは前もって電報で知らせてくれ、補聴器を掛けて待っているから」。。
                                                         ↑ 京都仁和寺にて、小林、吉井と
           
       その後数年たって娘さんから思いがけず彼の訃報が届いた。。
             肩を組んで写った若き日はもう返らない・・

                    ・・・・・・               ・・・・・・

     
     *夜来の雨が止んだと思ったら、案外に爽やかな晴れ間がやってきた。
      北寄りの風が冷たいくらいである。

      
                                           
                                                        (初夏の里山)


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  • 05/19/18--19:38: (115)第一義
  •        (115) 「第一義」

     学徒出陣で軍隊に入る前に、外語の親しい友達四、五人で別れの宴を開いた。前に書いたとおり、佐伯から原稿用紙に書いた自作の詩を貰ったのもこの時である。
     佐伯、赤尾、吉井、桑畑、関谷などだったように記憶している。
     桑畑は宮崎出身で、教室では直ぐ前の席だったし、同じ九州出身でもあるのですぐに仲良くなった。後ろの席が戸田、左が柳で、その後ろが伊藤だった。

      イメージ 1昭和17年、桑畑はシラン同様、大阪外語に入学した。彼は五高、七高の入試に失敗してやってきたので、私より一つ年上であった。南九州特有の平ぺったい、色黒で頑丈な西郷どんのような顔つきでニキビが一杯である。
     戸田と、桑畑、紫蘭はみんな田舎者の少年なので大都会が珍しく、三人でよく奈良、京都などに遊びにいったものだ。いつか前にも書いたが、三人で弁当持って吉野山に花見に行ったとき、中千本の後醍醐天皇の行在所あたりで突如、警戒警報のサイレンが鳴り、やむなく下山して下宿に帰ったのも懐かしい思い出である。
                                                                                          ↑ 行在所前の戸田と桑畑
                                                                                                

     イメージ 2当時、桑畑は都島の小さい出版社に下宿していて、いろんな古びた書物に取り囲まれるようにして、下宿生活を送っていた。私が文学や哲学など読書に親しむようになったのは、ひとえに彼に啓蒙されたからにほかならない。(当時の下宿代は30円程度だったが、彼は家庭教師をして出費の足しにしていた)  

     彼はいかにも九州男児らしく羽織袴で闊歩したりして、剛毅木訥、国士的風貌ではあったが、どこか憎めないところがあって、方言の九州弁はあまり使わず、ぎこちない標準語を無理に使っていた。たとえば会社を「かいしゃ」ではなく「くわいしゃ」とはっきり発音するのである。

     あの西郷さんのようなニキビ面で東京弁らしく「くわいしゃ、くわいしゃ」とやられると、いかにもわざとらしくて、つい吹き出してしまうのである。


    ↑出征前、母校の烈士の碑の前で。
         その後50年も過ぎて、ようやく彼をこの碑に合祀しようとは・・

       学校の体育や軍事教練でも不器用なので、ばたばたしてヘマをやらかし、中国語の時間でも、戦前の小学生の国語の「読み方」のように、サイタ、サイタ、サクラガサイタという風なガチガチの発音になってしまい、思わず同級生の失笑を買ってしまうのである。

     そのくせ、星の数ほどあるニキビを爪で潰しながら、哲学や文学、人生論などの話をするときの彼の眸は、どこか遠くを見るようで、よく澄んでいるのであった。豪快な顔に似合わず彼は、案外ロマンチストだったのかもしれない。

      
    イメージ 3
                                              (関講師の中国語の授業風景)


     当時彼は下宿の娘さんが好きだったようで、「彼女の唇が大きいので、接吻するのには目標が大きくて都合がいいぞ!」などと、冗談なのか、お惚気なのか、まだまだ純情だった田舎少年の私を煙にまいて喜んでいたのである。  私はまだ18歳だった。 
     その頃の日記がある。

      ○ 昭和17年12月2日(水) 晴れ

     イメージ 4朝、霧の深さに驚く。
     桑畑と心斎橋の大野呉服店にオーバーの注文に行く。店が見つからず、しばらく大丸、そごうで油を売ってしまった。
     オーバーは本年中に出来る由。
      代金、約95円、衣料切符40点、スフ3割混紡。

                                                   →心斎橋の大丸百貨店



    イメージ 5(*当時は衣料切符制で一人あたり一年に100点だった。学生服とオーバーを作れば切符は殆ど残らず、あと買えるのはわずかに靴下、ハンカチ、猿股ぐらいであった)

     
     学校にてパンの配給あり。饅頭のごときパンなり。時計を落とした。36円もしたのに馬鹿なことをした。生徒課に紛失届けを出す。だが、見込みはなさそうだ。
      
      ○ 12月7日

     武道は剣道の「切り返し」の考査だった。放課後、「報国団団歌」の練習があった。
    明日は12月8日、開戦の日「大詔奉戴日」である。
     時計が出てきた! 桑畑が間違って自分の手提げに入れて下宿に持ち帰っていたのである。それを落としたものと思い込んで私はすっかりしょげこんで居たのだが・・・明日持って来てくれるそうだ。
      
      彼、曰く、「朝、起きてみると机の上に見知らぬ時計が乗っていて、びっくりした。まるでおとぎ話のようだった」と。。人の気も知らないで、いかにも彼らしい、のんきな男だ。 しかし、まぁ、よかった!
          ・・・・
        といった具合である。
      
      とにかく彼は質実剛健、何事にも不器用で、そのくせどこか憎めない愛すべき男なのであった。
     その彼の口癖は「男子須らく第一義の道に生きるべし!」であった。では、彼自身の「第一義の道」とはいったい何であったろうか。
      
                   /////                //////

                
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    薫風やお手てつないで花ショウブ



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        (116) 「第一義の道」
     
     桑畑は年齢の関係で私より一年早く学徒出陣で軍隊に入り、フィリッピンで戦死した。

    イメージ 1 母校の外語の旧校舎には「殉国の士」や戦没者の霊を祀る「烈士の碑」という大きな石碑が、校門を入ってすぐの所に建てられていた。学生は朝夕の登下校時にこの烈士の碑に最敬礼をして通らばならない。

     先年、消息不明のために彼がこの「烈士の碑」にまだ合祀されていないのを知った。さっそく厚生省や宮崎県の援護課に電話して彼の遺族の方を探したところ、家郷に居られた彼の弟さんがみつかった。その弟さんの話では、彼は出征前に「軍隊に征きたくない、征きたくない」と言っていたそうである。 
        
     前述の通り、出征直前に彼を含めた我々、自称文学青年たち4、5人が集まって、狭い学生寮の一室で別れの宴を催したことがある。 

     どこでどう工面をつけたのか、あるいは出征する者には特別の酒の配給があったのか、酒の肴があったかどうかさえ定かではないが、飲みつけない酒のためか、みんなしたたかに飲んだくれて杯盤狼籍となり、一同ぐうぐうと高いびきで寝込んでしまった。ふと目覚めて窓を開けると、淡い月光が寒々と差しこんできて、うたた寝の彼らの上を秋の風が冷たく吹きぬけていった。戦場に赴く彼らには夫々の深い思いがあったのに違いない。
      
      その日の日記に、私の稚拙な歌が残っている。
         
           月枯れて 騒ぎ疲れし爛溺(らんでき)の
         
                友のうたた寝  見れば哀しも
     
     
    その時ふと目を覚まして起き上がった桑畑の眸に、私は普段の豪快な彼には似合わぬ一滴の涙をみた。彼のこの涙の意味が何であったのか、最近まで私には理解できなかった。

     弟さんの話では、彼は中学時代から読書に親しみ、新聞社の懸賞作文にも何度も入選した秀才で、早くから革新的思想を持ち、反権力的傾向が強かったそうである。
      
      彼の薩摩隼人的正義感からは、軍、官、政財界の腐敗は許せなかったのかも知れない、或いは陸士出の職業軍人であった賢兄への逆説的反抗であったのかも知れない。「人間誰しもその第一義とする道を歩むべきだ」といつも私に言っていたが、彼自身の秘めたる「第一義の道」はこの革新的思想であったのかもしれない。出征前「誰にも見せるな」と言い残して作った梱包の中身は、戦時中は絶対に許されない共産主義の「マルクス、エンゲルス」類の書籍が多かったそうである。

     
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                                                (学徒出陣・烈士の碑の前で)


     彼の反権力的正義感を思い知らされた出来事があった。
     出征を前にして彼の下宿で一杯飲んだことがある。彼の兄さんと下宿のおじさん(出版屋)との四人であった。いわば「別れの盃」とでも言うべきか・・
     
      その帰り道に送ってきた彼と一緒に天六の交差点まできたときである。ちょうど向こうから一人の巡査がやってきた。いささか酔いが廻っていたのかもしれない。彼は開口一番・・
    「俺は巡査と軍人が大嫌いだあ!」と大声で怒鳴ったのである。詰め寄ってきた巡査に私は平謝りに謝って、彼の袖を引っ張って引き止めるのに大変苦労した思い出がある。

     
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                                                 (烈士の碑・合祀祭)


     烈士の碑合祀祭の前に、弟さんから頂いた軍籍証明書によると、彼は学徒出陣で熊本予備士官学校を卒業後、昭和19年9月、南方戦線に向かう途中、輸送船を撃沈されてフィリッピンのルソン島に泳ぎついた。その後、現地部隊に編入されて小隊長として現地赴任した。
      
      が、昭和20年5月30日、彼はルソン島北部ヤンビランにおいて、敵飛行場への「特攻切り込み隊長」として、決死の戦闘の中で散華した。弾丸雨飛、その壮烈にして悲惨なる最期の模様は、わずかに帰還された戦友によって遺族の方に伝えられた。
      
      イメージ 3反権力、半軍人的革新の道を己れの第一義の道とする彼が、自ら帝国軍人として死を決して敵陣に突入するとき、彼の心情は果たして如何なるものであっただろうか。
      春風駘蕩、茫洋泰然たる桑畑の風貌を思い出すとき、若くして逝いた彼を思い、一掬の涙を禁じえない。
     
      戦後すぐ、彼の故郷に出した私の手紙に「兄は戦死しました」との短い葉書が彼の妹さんから届いた。妹さんの名前は奇しくも家内と同じ「絹子」さんであった。 その妹さんも先年亡くなられたそうである。

     今や戦後もはや72年、往事茫々として煙霧の中にあるが、最後に若くして生を閉じた彼の生きていた証しのために、せめてその風姿と名前を改めてここに記しておこう。

                    第一義の道を志した彼の名は「桑畑正明」であった。
     
                 ・・・・・                ・・・・・

     *冷たい北風が街路の落ち葉を吹き払っていた肌寒い朝でした。
       なんだか、クシャミに鼻水タラタラ・・
       風に乗ってどこからか、何かのアレルギー源が飛んできたのだろう。

     
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                                           目に染みる青葉の幹のいや太く

                 

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         (117) 「黄キショウブ」 


            このところ、堅い話ばかりなので、ここらでちょぃと息抜きに花の話でも。。


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     キショウブ(黄菖蒲)はアヤメ科の多年草で、水辺に生えて、五月上旬から中旬にかけて黄色い花が咲きます。葉は細長くて縦に筋があるのが特徴です。


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     キショウブはヨーロッパが原産の帰化植物で、明治期から日本でも栽培されています。

    もともと「花菖蒲」には黄色いのがないので、珍重されていましたが、今は水田脇や水辺に野生化して繁茂しすぎて逆に「要注意外来植物」として警戒されています。


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     「黄ショウブ」は「菖蒲」の名がついていますが、菖蒲とはまったくの別種です。
    黄菖蒲や花菖蒲はアヤメ科ですが、五月の節句に使う「菖蒲」はサトイモ科で、花もまったく違い、ショウブの花はとても地味なもので目だちません。


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             ・・・・・          ・・・・・

    *昨日久しぶりにゴルフクラブを振り回したら、効果てきめん。。
      右の太ももに神経痛が出て、ズキズキと痛い、痛い・・

     早速、退蔵のロキソニンを取り出して一錠服用、半時間後には何事もなくイオン買い出しへ・・
     こんな神経痛の突発にはロキソニンが良く効きます。

     ‥などと、まずは薬の宣伝まで‥(^_-)-☆
        *(でも飲みすぎると胃が悪くなりますよー。これは老婆心ならぬ老爺心からです。。)

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         (118) 「花菖蒲」

               
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     「ハナショウブ」はアヤメ科の多年草で,葉がサトイモ科の菖蒲に似ていて、きれいな花が咲くのでこの名前があります。 本来の菖蒲は香りがいいので、五月の節句には菖蒲湯に使いますが、花自体は小指を立てたような小さい地味な花が咲くだけなのです。


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                                    紫のさまで濃からず花菖蒲        久保田万太郎 



     花ショウブは、山野に自生する「ノハナショウブ」から改良された日本独特の植物で、500年前の文書に初めて「花菖蒲」という名前が出たのだそうです。
     花菖蒲は、「黄菖蒲」よりも一月ほど遅く、6月に湿地帯に咲きます。 葉は細長く、たてに筋があります。

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                                 わが恋は人とる沼の花菖蒲(はなあやめ)      泉鏡花  
     

     江戸麻布の旗本「松平左金吾」はハナショウブの栽培、改良に熱心で号を「菖翁」といいますが、彼が改良したショウブの一つが肥後の細川氏の所望によって熊本に渡り、「肥後菖蒲」になっています。ハナショウブはこの肥後系、江戸系、伊勢系に大別されますが、今はそれぞれに無数の園芸種が出来ていて、花色も紫、藍、白、黄色、紅色などとさまざまです。

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      〇 「あやめ・文目」 

                   
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      「あやめ」は山野の草地に生えているアヤメ科の多年草で北海道から九州まで分布していますが、特に湿地を好むことはありません。葉は直立して高さ50㌢ほど、5月ごろに径8㌢ほどの紫色の花を1~3個付けます。前面の花びらに網目模様があるのが特徴です。
      あやめは、陸地に咲き、カキツバタは湿地帯に咲くところが両者の違いです。


                 〇「かきつばた」

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                                    野の池や葉ばかりのびし杜若(かきつばた)

     「カキツバタ・杜若」はアヤメ科の多年草で、杜若とも燕子花とも書きますが、古代、着物に摺り付けるのに使ったので「書き付け花」から「カキツバタ」という名前になったと言われています。
     カキツバタは沼などの湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付けます。その前面の垂れ下がった花びらの中央部に、白か淡黄色の斑紋があるのが特徴です。
       
     〇 「いずれあやめかかきつばた」

     昔から美人の形容などで、どちらがきれいか優劣がつけ難いことを「いずれあやめかかきつばた」と言いますね。
     黄菖蒲と花菖蒲は色が違うのですぐ分かりますが、文目と杜若は同じ紫色なのでなかなか見分けがつきませんが、「あやめ」 「かきつばた」「はなしょうぶ」にはそれぞれ花びらの模様が違います。
     それぞれの違いは前面に垂れ下がった花びらに、「文目」は網目模様が、杜若(カキツバタ)には白い一本の線が、「花しょうぶ」には黄色い線が入っているのが、三者の見分け方です。
     

                       
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    *昔、日本一の美男子と謳われた在原業平(ありひらのなりひら)が、都に愛しい妻を残して東へ下る途中、カキツバタの名所・三河の国の「八橋」で昼飯を食べているとき、従者が「カキツバタと言う五文字をそれぞれの句の上に置いて旅の心を歌に作ってください」と頼みました。
     そこで業平は(か、き、つ、ば、た)を入れて

      唐衣きつつなれにしつましあれば
        はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 
                                                    (らころも つつなれにし ましあれ
                                                         はるばるきぬる びをしぞおもう)

     と、詠んだので
       「みな人、干飯(ほしい)の上に涙おとしてほとびけり」 と、伊勢物語に書いてあります。

     「ほとびる」とは水分を含んで膨れる。ふやける。と言う意味ですが、この潤びるという言葉は方言とばかり思っていましたが、標準語だったんですね。
     子供の頃、何時までも風呂に入っていると、母から 「早う上がらんば、ほとびてしまうばい」 と、叱られたことがあります。
     

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         (119)  「カラタチの花」

     朝から近くのお寺の庫裏の再築の工事が進んでいます。昨日は、築30年ほどのその庫裏をガタガタと重機で一日で壊してしまいました。 造るのには何か月もかかるのに、壊すのはたった一日で済んでしまいます。人間同様はかないものですね。

     イメージ 8このお寺の住職とは幼馴染で、幼稚園から中学まで、この境内でよく遊んだものです。親しかった住職夫婦も今は亡く、本堂も新式に再建されて創建400年の歴史ある古刹の面影はもうありません。
     今はブロックに鉄製の柵ですが、昔は境内の周りをカラタチの木で囲んでありました。
      そのカラタチの生垣には、あちこちに猫や悪童たちの抜け穴が開いていて、子供たちは腕や着物をトゲに引っかけながら出入りしたものです。

     むかし、母校の中学の塀もカラタチでした。そのころはカラタチの木はよく生垣に使われていました。中学のカラタチの塀にもあちこちに近道用の抜け穴が開いていました。中学の2年までは、正門の周りはカラタチの生垣でしたが、3年に校舎が鉄筋建てとなり、周りの塀もコンクリートに代わりました。
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                                                 (溝口清二郎君のスケッチ)

     カラタチの白い花を眺めると、遠い昔の多感な中学時代の思い出がよみがえってきます。学校やお寺のカラタチの垣根、青くて痛いとげ、金色の実、そしてカラタチを通り抜けた青い思い出・・


    イメージ 2               「中学の校庭」
        萩原朔太郎

                   われの中学にありたる日は
                   艶めく情熱になやみたり
                   いかりて書物を投げすて
                  ひとり校庭の草に寝ころび居しが
                  なにものの哀傷ぞ
                  はるかに青きを飛びさり
                  天日直射して
                  熱く帽子に照りぬ


     
        〇 「カラタチ」

     「カラタチ」はミカン科の落葉低木、高さ3mほどで、朝鮮、中国中部の原産、日本では 九州北部に自生しています。「唐(中国)の橘」と言う意味で「からたち」の名前がついていますが、漢字では枳殻(きこく)とも書きます。

      葉の根元に太い鋭いトゲがあるので、昔はよく泥棒よけの生垣に使われました。 


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     花が終わると丸い黄色い実が生り、芳香があります。カラタチの実は食べられませんが、
    かんきつ類では最も耐寒性が強く、性質が強健なので日本の殆どのかんきつ類は、このカラタチの木を台木にして接ぎ木繁殖されたものです。

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          → カラタチの青い実





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      ← 黄色いカラタチの実








        白い小さい花は可憐で、初夏の風物詩として北原白秋の詩にも詠われています。
     
        「カラタチの花」    白秋
     
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         からたちの花が咲いたよ
            白い白い花が咲いたよ
     
            からたちのとげはいたいよ
            青い青い針のとげだよ
     
            からたちは畑(はた)の垣根よ
            いつもいつもとおる道だよ 

            からたちも秋はみのるよ。
       イメージ 7     まろいまろい金のたまだよ。

            からたちのそばで泣いたよ。
            みんなみんなやさしかったよ

            からたちの花が咲いたよ。
             白い白い花が咲いたよ。

                                                  白秋の歌碑(柳川) →


               ・・・・・            ・・・・・

     * いかにも初夏らしい、爽やかな気持ちのいいお天気になりました。
        さっそく外に出かけましょう。
        昼から、2か月に一度の内科検診ですので、さっそうと自転車に乗って。。

       

     


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       (120) 「アザミの歌」

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     いま、初夏の野原を歩くといたるところに赤い「野あざみ」の花が目につきます。
    「ノアザミ」は菊科の多年草で全国各地の野原や路傍に生育している多年草です。


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     美しい花にはトゲがあります。バラは茎にトゲがありますが、あざみには葉にトゲがあります。
    だからアザミに似た花があってもトゲの有る無しでアザミの種類かどうかが判別できます。その若葉をてんぷらに揚げたり、煮たりするとトゲが全く気にならず、おいしく食べられるから不思議です。

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     佐賀県には7種類のアザミがあります。普通これらのアザミは秋に咲きますが、春に咲くのはこの「ノアザミ」だけです。ノアザミの赤紫色の花はほかの植物に抜きん出て、直立して咲いているのでよく目立ちます。太陽の光を好むのか、或いは蝶々の目を引こうとするのでしょうか・・

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      「あざみの歌」

                       ♪  山には山の愁いあり
                           海には海の海のかなしみや
                          ましてこころの花園に
                           咲きしあざみの花ならば


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                                                    (白馬・八方尾根のあざみ)
     

     芹洋子が歌っていましたね。 いい歌ですねー。
     「四季の歌」「穂高よさらば」など清潔感あふれる芹洋子の歌は、特に山男には人気があります。

      イメージ 7♪ 「穂高よさらば」

            穂高よさらば また来る日まで
            奥穂にはゆる あかね雲
            かえり見すれば 遠ざかる
            まぶたにのこり ジャンダルム
            滝谷さらば また来る日まで
            北穂へつづく 雪の道
            かえり見すれば 遠ざかる
            まぶたにのこる 槍ヶ岳


     九重高原の「坊がつる」を歌った「坊がつる賛歌」は、九重登山中によく口ずさんだものです。
     
         「坊がつる賛歌」

      イメージ 8     ♪人みな花に酔うときも
             残雪恋し山に入り
             涙を流す山男
             雪解(ゆきげ)の水に春を知る
        
             四面山なる坊がつる
             夏はキャンプの火を囲み
             夜空を仰ぐ山男
             無我を悟るはこの時ぞ

     
     *もう九重に登ることもないだろう・・
       あの峰、この谷、沸きあがる雲
        九重連山は心のふるさとだ、懐かしいなぁ・・

     九重と言えば、例年、6月1日が山開きです。
     70歳代後半までは、毎年この時期には「ミヤマキリシマ」を見に登っていました。

     〇 ミヤマキリシマ

     「深山霧島・ミヤマキリシマ」はツツジの一種で霧島、九重、阿蘇、雲仙などの九州の高山地帯に生育しています。高さ1mくらいの低木で、5月下旬から6月中旬に、枝先に2,3個ずつの紫紅色の花をつけます。満開の時期になると、全山がピンク一色に染まって、その見事な景観が登山者を魅了します。

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     1866年に坂本龍馬が新婚旅行で霧島を訪れた際、姉の乙女に宛てた手紙の中で「きり島つゝじが一面にはへて実つくりたる如くきれいなり」と書いています。また1909年には同じく霧島に新婚旅行に訪れた植物学者・牧野富太郎博士がこのツツジを発見し「深い山に咲くツツジ」という意味で「ミヤマキリシマ」と命名しています。


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                           (九重・北大船山のミヤマキリシマ、俯瞰)


                      ・・・・・・・               ・・・・・・・

           山の茜(あかね)を顧みて
             一つの山を終わりけり
           何の俘(とりこ)かわが心
             早やも急かるる次の山         深田久弥



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           (121) 「海軍記念日」   

     今日は5月27日、昔なら海軍記念日でした。
    明治38年、日本海海戦で日本海軍の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破して大勝利を収めた記念すべき日です。子供の頃、父に連れられて佐世保軍港に行って、戦艦陸奥に乗って、主砲や砲弾のあまりの巨大さに驚いたのも「海軍記念日」の日だった。・・

     昔なら「海軍記念日」として、あちこちで勇壮な「軍艦マーチ」が聞かれたものです。
       (そのうち、パチンコ屋の客寄せの看板曲になりましたが。。)

        「軍艦行進曲」イメージ 1
     
          ♪ 守るも攻めるも 黒鉄(くろがね)の
             浮かべる城ぞ 頼みなる
             浮かべるその城 日の本の
             皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
             真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
             仇なす国を 攻めよかし

                                                                                                   (戦艦・陸奥)

     明治31年、帝政ロシアは旧満州の旅順、大連を租借、ここを足がかりにさらに南進政策を推し進めていました。一方満州進出を目指していた日本はロシアに対し、満州からの撤退を要求して、一触即発の情勢になりました。
     日露戦争は明治37年,仁川沖で火蓋が切られ、日本海海戦の大勝利により終結しました。
      その記念すべき5月27日は「海軍記念日」として、太平洋戦争が終わるまで国民の記憶に留まりました。 
    (*陸軍記念日は3月10日、日本陸軍が満州の奉天大会戦でロシア軍に大勝利した日です)


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                                             (旗艦・三笠艦上の東郷元帥)

      日露戦争の時にも軍人の英雄的行動や華々しい戦果をたたえる多くの軍歌が誕生しました。
      日露戦争に題をとった「広瀬中佐」「水師営の会見」などは、小学校の唱歌にも取り入れられて、私たちもよく歌いました。
     
     ♪ 「水師営の会見」

     イメージ 3日露戦争、最大の激戦「旅順要塞攻略戦」で、日本軍が勝利し、乃木大将とステッセル将軍による講和のための会見が水師営で行われました。


              旅順開城 約成りて
              敵の将軍 ステッセル
              乃木大将と 会見の
               所はいずこ 水師営


     
       ♪  「広瀬中佐」も文部省唱歌 として、有名でした。
      旅順港閉鎖作戦のとき、広瀬中佐が艦内の杉野兵曹長を探し廻っていて、敵弾に当たって戦死する話でした。
       
         「広瀬中佐」
     
      イメージ 4 ♪轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん)
          荒波洗う デッキの上に
         闇を貫く 中佐の叫び
         「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」
     
         船内隈(くま)なく尋(たず)ぬる三度(みたび)
           呼べど答えず 探せど見えず
         船は次第に 波間に沈み

         敵弾いよいよ 辺りに繁(しげ)し 

     


     *↑ 広瀬中佐は戦死の際に首を飛ばされましたが、流れ着いた胴体はロシア軍により丁重に埋葬されました。 また「広瀬中佐」は戦死後、日本最初の「軍神」として顕彰されました。

                 
    イメージ 5 明治38年(1905年)5月27日から翌日にかけて行われた日露戦争中最大の海戦が日本海で行われました。日本海の対馬沖で、東郷平八郎司令長官の率いる連合艦隊が、はるばるとヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えたのです。
     
     この空前絶後の日本海海戦の大勝利は、小国・日本を一躍三大強国の一つとして世界のひのき舞台に立たせましたが、同時にまたそれまでの盟友だった英米を厳しい対立国に廻してしまうことになったのです。出る釘は打たれる、のたとえの通り、勝った日本は逆に憎まれ役になってしまったのです。


     日露戦争から4年後の明治42年には、政府は国防方針を制定しました。
     一、米国を第一仮想敵国、ロシアを第二、シナを第三仮想敵国とする。
     一、外交は戦争を避けるのを上策とする。やむなく戦う時は、仮想敵国を同時に対戦国とする多面戦争にならぬよう、対一国戦争に導くを原則とす。
      
     その対一国戦争という「国防方針」も実らず、今次大戦では英米中蘭の4か国を始め多くの国と闘う羽目になったのです。日本海海戦の未曽有の大勝利は、国民に「勝った、勝った」という酔いだけを残して、その後の悲劇的な敗戦国への道をたどるようになったのでした。。

    イメージ 6
     
                                                          (日露戦争風刺画)

                     ・・・・・・            ・・・・・・

     *さわやかな初夏の風が吹いていますが、なぜか鼻がむずむず。。
       クシャミも鼻水も出て、鼻かぜなのか、花粉症の再来なのか。。
       鬼籍簿を整理していたら、なんだかシュンとなりました。
       そのせいかも。。


    イメージ 7

                                                               (初夏の里山)

     


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          (122) 「怒鳴り歓迎会」

     母校の中学は旧佐賀藩校の弘道館の跡を継ぐ学校で、明治初年創立時には士族しか入れなかったほどなので、剛毅朴訥、尚武の気風が強く昭和になってもなかなか剛直な生徒が多かった。明治の生徒たちの中には、学校の椅子を持ち出して焚火にしたり、学校でも毎日喧嘩が絶えなかったという。

    イメージ 1
                                                     (コワそうな明治の佐中生)

     昭和の我々の時代になってもこの学風は消えず、中学
    4年生になると、先輩の5年生が木刀を携え、下駄ばきで教室に入り込み、木刀や竹刀を振り回して意味もなく怒鳴り散らし、ビンタを見舞って下級生にカツを入れる集会があった。それと同じような歓迎会が外語の新入生にもあったのである。我々はそれを「怒鳴り歓迎会」と言っていた。 

     18歳、田舎の中学から希望にあふれて大阪外語に入学して、驚いたことがある。入学後しばらくして、同じように先輩たちのいわゆる「怒鳴り歓迎会」なるものが開かれたのだ。


    イメージ 2
                                         (上本町の旧校舎。空襲で焼けてしまった)

     ある日、我々新入生は先輩から校舎北側にあった別棟の中教室に集められた。
     何事ならんと思って行って神妙に机を前にして座っていると、当時の国情を反映して国士的,壮士的風貌の上級生たちが「オース、オース」と言いながら、どやどやと下駄履きのままガタガタと音をたてながら入ってくると、いきなり「こらーッ!頭を下げんかぁ~!」と大声で怒鳴りながら竹刀や木刀を持って机や頭を叩き回るのである。
      な、なんと理不尽な。。
      
      新入生の多くは肝を冷やして小さくなっているが、その中にも元気なやつが居て、昂然と頭を上げて睨みつけたりすると、容赦なく竹刀が彼の頭上に舞い落ちてきたり、ビンタの洗礼を受けねばならない。
     
    (特に怖かったのは、中馬サンという馬術部のキャプテンで、いつも乗馬用の鞭を持って歩き回っていた。その鞭を振り回すと耳元でビュンビュンという音がする。時々、鞭で机の上をピシャリと叩かれると我々は首筋がゾクッとして、少しでも目立たないようにと、うつむきながらつい亀の子のように首をすくめてしまうのである。・・(^^:)

     そのあと、上級生たちは代わる代わる教壇に立って、それぞれ得意げに説教を始める。「現在の非常時日本について」とか、「大陸雄飛」「満州馬賊」の話から始まり、最後はガリ版刷りの豪快な「昭和維新の歌」「馬賊の歌」を歌わせられるのである。

           「馬賊の歌」  
      
         ♪俺も行くから 君も行け
          狭い日本にゃ 住みあいた
          波隔(た)つ彼方にゃ 支那がある
          支那にゃ 四億の民が待つ

     

        「昭和維新の歌」    三上 卓 作詞

         ♪ 汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
            巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
            混濁(こんだく)の世に我れ立てば
            義憤に燃えて血潮湧く

      と、言った具合である。
    【*この歌の作詞者の三上卓は5,15事件に連座した最右翼の海軍中尉で中学の先輩だった】

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                                          (校舎玄関・昔の腕白達は今いずこ・・)

     何のために説教されているのかさっぱり訳が分からぬままに、少しでも頭でも上げようものなら竹刀や鉄拳が頭上に飛んでくる。大和魂や皇国史観、剛毅木訥、半暴力的な風潮が何の疑いもなく受け入れられた時代であった。我々新入生の向うべき道は「五族協和」の礎として大陸に雄飛せねばならないのである。

     かくして外国語学校というハイカラで文学的な我がイメージは,この「怒鳴り歓迎会」によって、忽ちにして崩れ去ってしまったのであった。 
     

     

    イメージ 4


                                     (コワイ!先輩たち。 今思うとやはりまだ子供だなぁ。。)


                 ・・・・・               ・・・・・・

        *朝からシトシトと雨が降って、なんだか肌寒い。
           今日、例年より8日も早く、九州も梅雨入りしたようです。

    イメージ 5


                                      紫陽花(あじさい)や藪を小庭の別座敷     芭蕉


             ・・・・・

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  • 05/29/18--02:23: (123)射撃部
  •         (123) 「射撃部」

     今なら、社会的にも指弾を浴びそうな、何とも手荒い「怒鳴り歓迎会」だが、先輩たちの悲憤慷慨調の放歌高吟がすむと今度は部活の話に飛んでいく。歓迎会と言うよりも要するに「体育会系」入部の勧誘が目的だったのである。怒鳴り散らして気合を入れられたあと、次々に部長たちが教壇に立って夫々の部員の勧誘演説をする。勧誘といっても半強制的で新入生全員がどこかの部活をせねばならないのである。

     イメージ 1とにかくこういう荒くれ男たちに取り囲まれては、新入生はグウの音も出ない。剛毅木訥の尚武の時代だから、力関係から、まず柔道部、剣道部が最初に決まる。戦時中だけに野球やサッカーなどはやや不人気であった。 剣道に関谷が、蹴球(サッカー)は戸倉、篭球(バスケット)に戸田・庭球(テニス)には楊サンという風に、次第に決まって行くが、もともと我々のような体育系でない「ヘナチョコ」たちには入るべき場所がない。

    →仲のよかった戸田はあまり長身ではなかったが、バスケット部だった。   
          運動神経が良かったのだろう。。

     卓球や山登りはあまり技術も要らないだろうと思ったが、みんな考えは同じなのか、もうとっくに塞がってしまっている。あれこれ迷っているうちに、一番人気がない「射撃部」だけが残ってしまって、とうとう私はここに入らざるを得なくなった。 
        
       〇 「射撃部」

     スポーツとは到底思えない残り物の「射撃部」ではあったが、紫蘭が中学時代に弓道部にいた体験が、同じように的を打つと言う技能に何らかの恩恵を与えたのだろうか、弓を放つときは無念無想の境地が必要だが、射撃で引き金を引く時も、当てようという気持ちなど一切の雑念を捨て、無念無想の中で知らず知らずに撃鉄が落ちているようでなければならない。幸い視力も2・0だったし、銃を支える腕力もつき、射撃部では不思議によく弾が当たって、関西学生選手権では第二位に入賞し、「学生射撃指導員」の資格を与えられ、武徳会の射撃道2段の段位も得た。

    (*当時は、武道の振興、奨励のための政府の外郭団体として「大日本武徳会」があり、剣道、柔道、弓道のほかに柔剣道や射撃道まで含めた武道の組織があり、それぞれに段位が設けられていた。)

    イメージ 2
                                                           (中学の弓道部) 

     部長の堅田千鶴丸先輩は生真面目でコワイ堅物だった。練習をさぼったり、成績があがらないと良く鉄拳制裁を受けてビンタを食らったものだ。しかし、部長は浅黒いいかつい顔に似合わず優しい気性で、よく喫茶店(大阪ではキッチャテンと言った)でコーヒーやワラビ餅をおごったりして、私たちを可愛がってくれた。
      生まれて始めてビヤホールに連れて行ってくれたこともある。そのときは「先輩はどうしてこんなに苦いものを旨そうに飲むんだろう?」と不思議に思ったものである。

    (*その後、堅田キャプテンは学徒出陣で軍隊に入って戦死された。母校にある烈士の碑の合祀者の名簿を見ると、昭和20年8月13日、満州、牡丹江省七星にて戦死とある。中国語部でもあるし、射撃も堪能だったのでソ満国境に配属されていたのだろうか。あと2日で戦争は終わるというのに‥おそらくソ連軍の突然の侵攻の犠牲になられたのだろう。)

     その後、シランは射撃部長をさせられ、真摯な同好の友人たちにも恵まれて、その経験が軍隊でも大いに役に立った。 これを「ひょうたんから出た駒」とでも言うべきであろうか。。

           友はみな或る日四方に散り行きぬ
           そののち八年(やとせ)
           名挙げしもなし                    
    石川啄木

     

    イメージ 3  こんな次第で我輩の部活は「射撃部」に落ち着いたが、さて射撃部の鍛錬はすごく厳しいものであった。完全武装で重い三八式鉄砲を担ぎ、運動場を駆け足で10周もさせられると肩の肉が擦りむけてとても痛い。

     その上、腕力をつけるために鉄砲を上げたり下げたりの訓練を何回もさせられた。始めは100回もやったら翌日は腕が上がらないほどに痛んだが、いつの間にか600回やっても何ともないようになった。射撃には、冷静な精神力と、視力、それに銃を支える強い腕力が必要条件なのである。

     ← 歩兵の完全武装姿

     イメージ 5このような辛い訓練に時々サボるやつも出てきて、部長や先輩たちの鉄拳が容赦なく全員のほっぺたを襲ったが、毎週土曜日に、大阪城内の城南射撃場に出かけて実弾射撃をするのは、辛いよりもかえって楽しい訓練であった。


      そんな日々の訓練の成果が上がったのかどうか、吾輩の射撃の腕前は上々で、おかげで関西学生射撃大会では2位に入ったり、東京の陸軍戸山学校で行われた全国学生射撃大会にも参加できたし、軍隊に入っても武徳会の「射撃道2段」と「学生射撃指導員」の肩書きが効いて、大いに得をしたものだ。
                                                     →陸軍戸山学校、将校集会所跡
         
                 
    イメージ 4

         ↑予備士、射撃弾着表・距離200m  発射弾5発中、4発命中。 6発中、3発命中


     部活での鉄拳制裁は今ならアメフト同様に、飛んでもない暴力行為として社会問題になること請け合いだが、戦時下の当時はごく普通に行われたスパルタ式慣習だった。しらんも部長の立場上、練習を怠けた部員たちを一列に並ばせて、鉄拳を食わせたこともある。叩かれると目から火花が出て、一瞬頭がくらくらする。相撲の張り手のようなものである。そして「なにくそ!この野郎!」という敵愾心が湧いてくる。と言っても先輩を殴り返すわけには行かない。逆に叩いたこちらの手も痛い!その上、精神的に何とも嫌な後味がする。


     その後、老年期になってふと同窓会名簿を見たら、一年後輩の射撃部員が思いがけず関西の大学教授になっていた。練習に不熱心なのを理由に、一度彼にビンタを食わせたことがあるが、今度彼に会ったら旧部長のシランも到底頭があがらないだろう。。

                       記憶にありませんと、三十六計逃げるにしかず・・(^_-)-☆

            ・・・・・               ・・・・・・

      *  九州は早くも梅雨入り、紫陽花も例年になく早く咲きだしました。
           花の色がいろいろと移ろいやすいので「七変化」という別名もあります。

       
    イメージ 6

                        
                 あじさいや よれば蚊の鳴く 花のうら     暁台


                     ///////

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  • 05/30/18--20:00: (124)
  •       (124) 「戦時下の学生気質」

     戦後は雨後の筍の様に、各地に私立の外国語学校が乱立したが、戦前の外語は国立の東京と大阪だけで、他の大学高専同様にいずれも男子校であった。(今は男女共学で、特に外語は世界各国からの留学生も多く、キャンパスは女子学生であふれ、カラフルであでやかな雰囲気だそうで、昔人間にとっては何かうらやましい)

     当時の外語は(*大学も同様だが、男子しか受験できなかった。東京女子大など女子大という名前はついていても、正式の大学ではなく、高等学校、専門学校同等のレベルだった。とにかく男子しか大学に行けないとは、男尊女卑もひどいと言わざるを得ない時代だった。)


    イメージ 2
                                                      (古い地図)


     野暮な男子校だけあって、勢い、気が荒いバンカラ風に走らざるを得ない。外語の学部は大きく東洋語部と西洋語部とに分かれていたが、その雰囲気はがらりと変わって、バンカラな東洋語に対して、西洋語のフランスやスペイン語の学生はどこかしゃれた雰囲気があった。要するに当時の外語は東と西の言葉の違いで硬軟両派混交の学生の集まりなのであった。  

     バンカラな学生は一般高校生と同じくわざと帽子を破って、天辺から嵐のような長髪を覗かせ、腰には汚れた日本手拭いをぶら下げ、高下駄を履いて闊歩するのが通例だが、射撃部の先輩・三品さんはスペイン語だったが、柔らかい方の一人で、ハイカラな三品さんは帽子には靴墨を塗ってピカピカにし、制服はきちんと折り目正しく、足元には赤茶色の革靴が光っていた。 我々の木綿やよれよれのスフの生地とは異なり、ラシャ地の詰襟服はいつもきちんと洗濯されて、襟元の真っ白いセルロイドの襟カラーが目にまぶしかった。
     (戦後の三品さんは、ある外大の先生をしておられたが、その後の消息は知らない。)

                           イメージ 1

      
     どこの学校でも硬派と軟派の学生がいるものだが、東洋語の中でも司馬さんの居た蒙古語(モンゴル語)は特に硬派の集まりだった。蒙古語は新入生17名、留年が2名いて、一学年が19名だったが、東洋語部でも特に猛者ぞろいで、精悍な顔つき、がっちりした体格はいかにも蒙古部にふさわしく、剣道、柔道の有段者や空手、相撲の猛者もいた。その蒙古語の杉本君の話によると、クラスには硬派のS、M,Nの硬派三人組が居て幅を利かせていたようだ。


     イメージ 3中でもSは留年組で一年年上である。柔道二段で「ミスター座禅」のあだ名があった。蒙古語には伝統行事として「座禅」があったようで、早朝6時に柔道場で1時間、正座させられ、その後ろには硬派の上級生とこのSが竹刀を持って立っていて、少しでも動こうものなら背中に彼らの竹刀が飛んでくる。

     全く目から火が出るような痛さで、この座禅にはさすがの杉本君ものちに、入学時のモダンで自由な学園「外国語学校」の夢は跡形もなく吹っ飛んでしまった、と述懐している。
     とにかく、怖いもの知らずの荒武者どもだった。

     杉本君の話では、Sは笑いを忘れた男で、彼が教室に入ってくると、部屋の空気が冷たく張り詰め、みんなから笑顔がかき消えてしまう。彼は学校に何をしに来ていたのだろう。柔道と座禅だけが彼の日課で、授業中はタダ居眠りするだけであったという。
        ↑ 運動会風景

     硬派の一人、Nも相撲部のエースで西郷隆盛の様に堂々とした体つきだが、気はやさしい方だった。彼は蒙古語だけで無く、第二外国語の英語も中国語も、語学そのものが大の苦手だった。授業中に先生に指名されても、彼はただ「アイドントノー」の一言ですませる、という豪の者だった。下駄の鼻緒を切らして、荒縄で足に高下駄を括り付け「馬賊の歌」「蒙古放浪記」などを放歌高吟しながら上八の市電通りを大股で闊歩した、という噂があったくらいだった。

      ♪ 「蒙古放浪歌」  
     
     シランはあまり歌った覚えはないが、蒙古語部の杉本君の手記に「蒙古放浪歌」が載っていた。
    蒙古語部ではよく歌っていたのだろう。今は加藤登紀子さんや、小林旭さんが歌っているようだ。



            海の彼方の  蒙古の砂漠                 イメージ 4
            男多恨の 身の捨てどころ
            胸に秘めたる 大願あれば                   

            生きて帰らん 望みは持たじ
     
            砂丘を出でては 砂丘に沈む
            月の幾夜か われらの旅路
            風の示せる 道だに行けば
            やがて越えなん 蒙古の砂漠
     
       
     
     司馬さんは色白のぼんぼん風の好男子だが、蒙古語に入るくらいだから精神的には硬派の方に入るだろう。本人が「自分は粗野な少年だった」と書いているし、後年、作家になっても新選組や土方歳三、坂本竜馬などを小説に取り上げるくらいだから男性的な性格だったに違いない。彼には女性に関する噂がないのもうずかれることである。逆にそれが、司馬さんは女性を描くのが下手だと言われる所以でもあろう。

     イメージ 5入学後、しばらく司馬サンは下駄ばきで登校していた。シランも旧制高校のバンカラ姿にあこがれがあって、しばらくは下駄履きだった。下駄履きは電車に乗るとき、立っていると不安定で困るが、夏は涼しく、硬派の男子には男らしくて恰好が良い。

     下校時に、よく生玉神社から下寺町に下って行く石段をカランコロンと下駄の音を響かせながら、日本橋の古書店・天牛本店へと下って行ったものだ。ふと、途中のお寺の裏門を入ってみると、「谷崎潤一郎」の春琴抄のヒロイン『お琴』の墓があったりして・・

     ↑ メガネが福田(司馬)、その右シラン


     イメージ 6福田君(司馬さん)も、剛毅木訥を仁とした当時の若者同様、自分が入学に失敗した旧制高校の弊衣破帽のバンカラに憧れていたのであろうか。

     いつものように登校した彼が友達の日根野谷、黒木両君と下駄履きでタイル張りの階段を降りてきた所を、運悪く生徒監の金子教授(後、学長)に見つかってしまった。黒木君とともに大ビンタを食らった福田君の黒ぶちの大きな眼鏡が、セメントの階段に落ちて壊れたのを日根野谷君が覚えている。

     司馬サンは外見の優しさとは違う豪快さへの憧れを内部に秘めていたに違いない。
                                                                                         ↑ 金子教授


             ・・・・・・                      ・・・・・

    *どんよりと曇って今にも泣きだしそうな梅雨空です。黙っていると肌寒いくらい。。
     昨日は、梅雨を前にして雨樋の掃除・・、枯れ葉がたまって竪樋が詰まると、下の通路が水浸しになったりします。 備えあれば憂いなし・・
     建物の間の谷樋なので、落ちる心配はさらさらありませんが、屋根の上は足元が不安定で、足腰が疲れます。

    イメージ 7

    (雲が湧く穂高の岩峰)


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