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(86) 「一杯のコーヒー」 

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      (86) 「一杯のコーヒー」  

  むかし、中学に入ったばかりの頃、♪「一杯のコーヒーから」という歌が流行ったことがある。鼻歌交じりによく口ずさんだものだ。

       イメージ 1   ♪ 一杯のコーヒーから                   
             夢の花咲く こともある
             街のテラスの夕ぐれに
             二人の胸の ともしびが 
             ちらりほらりと つきました

 そんな歌を意識したのでもあるまいが、司馬さんにも、入学時の大阪外語ついての小文がある。司馬さんはコーヒー好きで、散歩の途中、よく奥さんと二人連れで喫茶店に立ち寄って一杯のコーヒーを楽しんだそうだ。

     「一杯のコーヒー」    司馬遼

  いまは大阪外語大学と言うもっともらしい名前になっているが、当時は大阪外国語学校と言った。    そこにいた。
  国立第二期の受験校で、当時は旧制高校を落ちた者が、この学校に来た。 私も落ちた。
  落ちた時はもう何というか、自分にすっかり自信をなくし、(俺に残っているものは何だろう)と、旧制大阪高校(現在の大阪大学)の門を出て、播磨町の歩道を歩きつつ考え、何もない、才能もない、学問もない、根気もない、数学が不得手で金勘定も出来ない、親が大した甲斐性もなく遺産を当てにするわけにもいかないだろう。
 ・・・それでは、
 「血気だけや」と思った。
 漢語に「少年客気」という言葉があるが、当時の私には今の自分には想像しがたいほどの元気者であった。

  イメージ 3そこで大阪外語の科は蒙古語科をえらんだ。同級生は15人であった。
  みな少年客気の男どもで、まだ少年期が続いている、と言うところがあった。つまり山中峯太郎氏の冒険小説にあこがれ、自分もああいう主人公になってみたい、と本気で考えている連中だった。

 イメージ 4(*当時の少年倶楽部に(のらくろ二等兵)→の漫画と共に、山中峯太郎の←(敵中横断三百里)と言う痛快冒険小説が連載されて、少年たちの血を沸かせていた。 これは日露戦争時に、敵中深く潜入して大活躍した、建川中尉の率いる騎兵隊の話であった)


 私もむろんその一人である。文学青年というようなものではない。 自分の部屋に世界地図とアジア地図をはりつけ、自分が将来活躍すべきゴビの砂漠を含めた太古地帯に紅いパステル(私はパステル画も描いていた)でくっきりとワクを入れた。

  ・・・生死を超絶せにやならん・・と友人が言うので、その男に誘われて寺町の禅寺へ参禅に出かけたりした。この禅寺の山門のわきに「藤沢東亥(とうがい)先生墓所」という碑がたっていた。この幕末の漢学者が作家・藤沢桓夫氏の曽祖父に当られるというのを知ったのは後年で、このころはまことに埃っぽい、口の中が砂でじゃりじゃりしているような青春を送っていた。

 イメージ 2ところが外語の2年生の時に、心斎橋の喫茶店コロンバンにひとり入り込んでコーヒーを飲んだ。当時すでに戦局急で大豆の焦げたようなにおいのまじったコーヒーになりさがっていたが、それでも私には結構うまかった。
                                                            今の東京のコロンバン本店→

 だけではない。 このコーヒーが、私に忘れがたい衝撃を与えた。
 ゴビの砂漠をゆくと、コーヒーものめないと言うことである。そのころすでに文学づいていて、いやもっと正直に言えば小市民的な悦楽にあこがれるようになっていた。コーヒー、カフェー、映画、小説。
 この一杯のコーヒーが、その時それらのすべてを代表し、象徴し、強烈に私の精神を刺激し、質的に変化することを強いた。 私自身気づかぬまに、私の少年期は終わっていたのかもしれない。もう蒙古にはゆくまい、早稲田の支那文学科に転じようとした。
 然しそう思っている間に、十八年十二月の学徒出陣にひっかかってしまった。
  兵士として、満蒙に行った。

   ・・・・・
 「司馬さんは煙草好きだったが、コーヒーも好きだった。
蒙古語で一緒だった杉本君も、司馬さんの追悼文の中で語っている。司馬さんの本名は福田君である。
 **杉本君の話

 〇「眼鏡」

 イメージ 7(メガネは福田君の命のようでした。黒ぶちの丸眼鏡です。2年生のとき、彼はメガネを落としてレンズを割ったのです。(*同級の日根野谷君の話では、校舎の石の階段を下駄ばきで降りていて、生徒監だった金子教授に殴られて割れたらしい)数日間は眼鏡なしの登校でしたが、読書も出来ず、さびしそうでした。口の悪い級友がニックネームをつけました。「冒険ダン吉」と・・。
 
 〔*戦前、←冒険ダン吉はのらくろ上等兵と共に少年倶楽部の漫画の人気者でした、真ん丸い顔に真ん丸い目で、南洋の無人島に漂着して、土人の王様になって王冠をかぶったりしていました。司馬さんはそんな丸い顔つきでした〕

 新しい眼鏡が出来ると彼はすぐに元気になり、本の活字がドンドン目から飛び込むようになりました。やはりレンズはベストなのが良いようですね。)

  〇 「喫茶店」: 

イメージ 5(司馬さんが20年間、奥さんと毎日散歩の途中に立ち寄られたのが、近鉄、八戸ノ里駅近くの「喫茶店・珈琲工房」である。店主の桜井貞夫さんの話。)
                                                       奥さんと散歩中→

 20年前(*今では30年前)白髪丸顔の人がひょっこり入ってこられた。最初はまさか司馬先生では?と目を疑いましたが、それからは毎日「どうも、どうも」と笑いながら入ってこられました。いつも奥さんと一緒でした。ひとりでこられたのは一回だけだったと覚えています。駅前の西友デパート2階の本屋を覗いての帰り道に私の店に立ち寄るのを、お定まりの散歩コースにして下さっていたと聞きました。

 イメージ 6店内では女の子に勝手にニックネームをつけて、「メリーちゃん、うちにお手伝いさんにこないか」とからかわれたりしていました。ある日、私に「桜井さん、以前のお仕事は?」と尋ねられたので「ホテルマン」ですと答えると「ああ、さすがにね!店員のサービス教育をうまくやっておられる」とお褒めにあずかりました。

  店のエチケットとして客の話に聞き耳を立てることはありませんが、店内では先生が子供っぽく話されるのを、奥さんが母親らしく受け止めている・・という様子でした。
      ← 司馬家の愛犬 

 この店ははじめ「ムッシュ」と名づけていましたが、6年前改装を機に先生に店名をお願いしました。先生は「珈琲屋ではどう?」私は「それはあまりにそのままです。も少しひねってください」とねだると先生はしばらく考えて「珈琲工房はどうや?」「古いようで新鮮な感じですね、それ戴きます」。。で、今の「珈琲工房」になりました。(桜井貞夫さん)

  **杉本君の話
 (福田君は大のコーヒー党でした。なにしろ「日蒙辞典を買う」と言って親父さんから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししたんです。一種の知能犯?ですね。もっとも、戦時中は代用コーヒーしか飲めませんでしたが・・。(*ゆりの球根だったらしい)
  だから「うまいコーヒーが飲まれへん、日本はあかんなぁ」とぼやいていました。

  私の長年の夢は司馬さんともう一度、一緒に熱いコーヒーを飲むことと、彼の十八番の「がまの油」の名せりふを聞くこと、の二つでした。夜、私はドリップ式でコーヒーをいれます。それをすすりながら司馬文学に親しみ、また彼に語りかけます。それが私の生き甲斐です。)
   ・・・・以上、杉本君の司馬遼太郎追悼文より。


    ・・・・・・      ・・・・・・

    〇 「ハナカイドウ」
 
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「花カイドウ」は中国の原産で、日本には室町時代に渡来しています。紅色の花がうつむき加減に咲く姿が可憐で、花木としてもなかなか人気があります。花弁の内側が白く外側は桃色になっています。花柄が長くて、花が垂れているので、垂糸(スイシ)海棠とも呼ばれています。

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昔、中国の玄宗皇帝は、楊貴妃が酒に酔って、寝覚めた後も酔いが残っているなまめかしい様子を「海棠、眠り未だ足らず」と、ハナカイドウの花にたとえて表現しました。

 
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(87)兜子の「外語野ころ」

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     (87) 「兜子の外語のころ」

 陳さん、司馬さんの外語回顧録を述べたが、同じく外語同窓の俳人「赤尾兜子」にも、司馬遼太郎全集のあとがきの中に、同じような上八の外語時代の司馬さんについての小文がある。
 
 イメージ 3兜子は前衛俳句の旗手として「現代俳句賞」を受賞したりして俳界で活躍したが、彼は姫路の龍野中学の出身で外語の中国語部から、戦後京大文学部で学んだ。故郷の姫路文学館には、司馬遼太郎さんと並んで彼の小間が設けられて、展示されている。

  ← いつか京都で同窓会が開かれた時、楊さん、向井君、近藤君の4人で姫路文学館に行ったことがある。展示されていた兜子の写真のやつれたの表情が暗かった。。
  彼の悩みは一体なんだっただろうか、素人のシランにはついになぞのままである。

  ・・・・

    兜子の小文 「大阪外語のころ」   司馬遼太郎全集あとがきより。。

 ・・司馬遼太郎氏(福田定一)と大阪外語でともに学んだのは2年余りだろう。戦時下の昭和16年から19年の夏までの事だ。司馬氏は学徒出陣で繰り上げ卒業して私より早く戦地へ赴いた。(*実際は昭和17年から18年の秋までだから、これは兜子の思い違いである)

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                    (上八にあった大阪外語・旧校舎)

 蒙古語部の司馬氏と中国語部の私(兜子)は教室が隣り合わせだったし、法律、言語学、経済原論と言った東洋語部の共通の講義を「中教室」や「大教室」でよく席を並べて聴いたものだ。蒙古語のバンカラな友達が多かったなかで、彼の微笑を含んだ白い顔が際立って美しかった。播州から一挙に煤煙の都大阪に出て来た私は、大阪生まれの浪速っ子、司馬氏と雑談をしながら「大阪にはこんな卵で洗ったような顔をした男の子が居るのかな」と不思議に思ったものだ。

 
 イメージ 1外語という学校は、名前のようにひどく語学にうるさい。司馬氏はつとめて欠席しないでいたが、一日一日と積み上げる語学の勉強法というのは苦手だったようで、授業が終わると、難波にあった大阪市立御蔵跡図書館 (*生玉神社の西に在り、外語からだらだらと下寺町の石段を下りていくと、そこに図書館があった) に行って専ら乱読、疲れると大劇の地下で将棋を指して遊んでいた。十級くらいの腕前なので、勝負に熱中するのではなく無聊を何となく慰めていたのだろう。

 イメージ 4外語の頃の司馬氏は領事館員を志していた。外務省の北京大使館で一等書記官から外語に来られた私の恩師でもある中国語の金子二郎教授に、彼はその難しさを尋ねた。

 君なら書記官試験には通るよ、と言われたのに力を得てその心づもりをしていたのだが、戦争というものが、この人の歩み方をかなり変えたのであった。
 
  彼は満州の戦車隊でも色んなエピソードを残したらしいが、外語でも教練でしばしば涙が出るような傑作を生んだ。

 
 イメージ 5蒙古語部は学生が少ない。陸軍大佐の配属将校(*今田大佐)がにらみをきかし、予備役少尉(*蓑田少尉)が号令をかけるのだが、「右向け右」の号令に左を向いてしまう。 それが彼であった。
 
 すぐ隣の集団に居る私からはよく見えた。教練が終わって「何人か一緒に居ると、もううまく行かないんだよ。一人対一人だといいんだが」
  あの童顔が深刻にゆがんだのを覚えている。

 *→ 配属将校の今田大佐は、のちに大阪第23部隊の部隊長になられた。

 
 日本の歴史小説の分野で、たぐいまれな才能を惜しみなく振る舞ったこの人にはもうひとつ、外語のころから戦慄的に想望してきた隠れた大テーマがある。鮮卑(せんぴ)、月氏(がっし)、契丹(きったん)など、漢民族のまわりに居た遊牧騎馬民族の群れ、それが中国本土には入ろうとした血みどろの歴史だ。いずれこの生涯のテーマを手掛ける日が必ず来るだろう。 すでに資料としての本は周到に集めてある。
  
  私は若きころからの友として、この仕事の大成を見守りたい。     赤尾兜子

   ・・・・・              ・・・・・・

    「花ずおう」

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 花蘇芳(ハナズオウ)は中国原産のマメ科の落葉高木で、江戸時代に日本に渡来しています。
  春先に、葉に先立って赤紫色の蝶型の花をびっしりとつけるので、まるで枯れ木に花が咲いたように見えます。  花が終わると、平らな豆の鞘がいっぱいにぶら下がります。

  

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                                   びっしりと花ととのえし蘇芳かな    一閑子

    *今日も爽やかないい天気ですねー。
       皆さん、お元気ですか・・ 
       ♪僕もますます元気です~‥と言いたいところですが。。

     ・・・・・・

(88)赤尾兜子のこと

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        (88) 「赤尾兜子のこと」

  かって前衛俳句の旗手と称された「赤尾兜子」は本名赤尾俊郎、大正14年、兵庫県網干町(今は姫路市)の材木問屋の次男として生まれた。当時の網干は播磨灘に面した一漁村であった。実家は代々の材木問屋で、中国山地から切り出す材木をいかだに組み、揖斐川を流して運び込まれる木材を大量に取り扱う問屋なのである。河口の海岸にはその材木が並べられていて浮かんでいた。彼は小さい頃その丸太の上で遊んでいて、川に落ちて危うく溺れそうになったこともある。

 彼の学んだ「網干小学校」では綴り方(作文)や書き方(書道)が得意で、何度も入選したそうであるが、元来、彼は元気溌剌、相当な暴れん坊だったらしい。家の庭にあった石灯篭を倒して叱られたこともあり、中学の部活も「柔道部」であった。また、家に石灯篭があるくらいだから、家は相当な資産家で彼もいわば「ぼんぼん」育ちであったに違いない。

 彼は小学校のころからホトトギス系の俳人であった兄の影響を受けて俳句を始めている。相撲が強かったが書道も好きで、兵庫県児童書作展で最優秀賞を受けたほどの腕前だった。(後年、彼が呉れた葉書にはいつも筆書きでびっしりと小さい文字で書いてあった)龍野中学では、郷土の詩人、三木露風、三木清や河野鉄兜など、先達たちの文学的風土の影響をうけて次第に文学に関心を持つようになり、校内誌「龍雛」に2年続けて懸賞作文の第一席となって受賞したが、軍事教練の教官からは「軟弱の徒」だ、となじられている。

 イメージ 3中学は兵庫県立の龍野中学校だったが、網干からは揖保川沿いに北へのぼり、約三キロの道のりである。彼はその間を自転車で通った。元来元気坊主の彼が次第に無口になってきたのは、この龍野中学半ばからである。

  これは母「とよ」の病気が原因だったらしい。やや病弱だった母はこの頃から寝込むことが多く、したがって家庭も暗い雰囲気だったのだろう。柔道部に入るくらいだから、彼は元来頑丈な体を持ち、男性的な性格であったが、文学的思考の目覚めはこの頃から芽生えていたらしい。彼はよく下校時に自転車を放りだして揖保川の土手に寝転び、青空を眺めながら物思いにふけっていたということである。
 ← 外語時代の兜子
 

 もともと、網干には河野鉄兜の私塾「誠塾」が現存していて、網干小学校にもゆかりの桜があるし、赤尾の実家にも鉄兜の漢詩の掛け軸や屏風があった。私は彼の俳号「兜子」は、彼の親しかった俳人「金子兜太」氏の一字を貰ったのだろうと思っていたが、実はこの郷土の先輩「鉄兜」の兜にちなんで名づけられたのであった。また、自分の名前の俊郎(としろう)と、俳句革新にかける並々ならぬ「闘志」を現すために、兜子(とうし)と名乗ったのであろう。

  (戦後、赤尾と共に京大に進学して同じ下宿に居た学友の平山は、後年、ある日兜子が窓辺に腰を下ろしながらふと、俺の俳号は「兜子」にしようとつぶやいた、と言っているが、その頃から彼は「京大俳句」に拠って関西徘界で活躍していたのである)

イメージ 4 昭和17年、赤尾は外語受験の前に旧制高知高校の受験に失敗して、大阪外語の中国語部に入学した。その年の外語の入学者には高校受験に失敗してやってきたものが多い。同級生の半分くらいが浪人経験者で、桑畑が五高を、吉井は一高を、佐伯は広島、司馬サンは弘前高校といった具合である。といって、彼らが凡才であったわけではない。いずれも、多少理数系に弱かったには違いないが、それにもまして文系に強かっただけの話である。(*これは我田引水かな・・)
  ← 当時の外語の門札

 赤尾は外語に居るとき、近鉄百貨店の書籍売り場でふと、俳誌「火星」と「馬酔木・アセビ」をみつけ、以来両誌に投句を始めた。火星を主宰する「岡本圭岳」は学校近くの天王寺に住んでいたので、兜子はその句会にも出席するようになり、学生服姿で末席の隅のほうで小さくなって参加していたが、次第に上席に進むようになった。


 イメージ 2また、当時外語の学生食堂の二階で、歌人でもあった長谷川信孝教授(国文学)の指導の下に毎日放課後に開かれていた「短歌、俳句同好会」にも出席してその指導を受けていた。

 (*後年、司馬さん、陳舜臣さん、赤尾ら数人に囲まれた長谷川先生の写真を見てとても懐かしい思いをした。外語では長谷川先生には国語の時間に、万葉集と平家物語を習った。中教室で中国語部と蒙古語部、合同の授業で、後ろの方に司馬さんたちも居た)
   ← 当時の長谷川教授


 彼は中学時代は吉田弦二郎(*佐賀出身の浪漫派作家)に心酔して「我が旅の記」を読みふける多感な少年時代を過ごしている。後年の理屈っぽい前衛的作風と異なり、当時の彼はロマンチストだったに違いない。外語の文芸部に入ってからも、先輩の滔々たる「芥川竜之介論」に圧倒されて部をやめているが、当時の彼は理屈よりも弦二郎ばりの感傷的ロマンの方が性に合っていたのであろう。

             イメージ 1
                    (吉田弦二郎と著書・わが旅の記)


 昭和16年ごろから外語を出て学徒出陣するまでの俳句を集めたのが第四句集「稚年記」である。彼は外語時代の自分の伝統的俳句は稚拙なものとして、気恥しくて句集を出していなかったが、中年になってこれらの作品も捨てがたく思い、句集「稚年記」を刊行している。後年彼は難解な前衛俳句に走ったが、私はこの頃の彼の抒情的な平易な俳句が好きだ。

      寒夜さめ ふと枕灯(まくらび)に 霧の笛
       水仙に 氷のごとき 光塵(ひかり)かな
      月陰や 万里小路(までのこうじ)に 蝉鳴くも

   ・・・・・              ・・・・・

                「ハナミズキ」

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   花水木(ハナミズキ)は北アメリカ原産のミズキ科の落葉高木で、明治45年1912年に、時の東京市長「尾崎行雄」がアメリカに桜の苗木を贈った返礼にアメリカから贈られたもので、今も日比谷公園にあるそうです。
 
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                    (白いハナミズキも上品ですね)

(89)兜子のこと②

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       (89) 「赤尾兜子のこと」 ②
 
 ところが外語一年の頃に、兜子は母を失い次第に寡黙な内向的な性格となったようである。そのころの彼は無口で牽強付会、強情な人間にみえて私にとっては少々近寄りがたい友人であった。
 稚年記の開巻冒頭に母についての詞書きがある。
  
  「いたつき頓に重くなりぬれば、母のこといまさらはげしく思はれてならず」とあり、続いて
  「つひにうからに囲まれて母みまかりたまひぬ」 と記されていて、一句、
    
          厨(かや)に寝て また睡蓮の 閉づる夢         とある。

 
 イメージ 2学生時代の兜子は、その豪快な面貌同様、寡黙で理屈っぽく、頑迷固陋、偏屈な嫌いがあり、あまり付き合い易い友達ではなかった。然し、私は彼の闘争的外観と俳句活動の裏に、細かい繊細すぎる神経を秘めていたような気がする。

 学生時代に彼と議論すると姫路の方言で「そりゃーなんぞいな」と独特のアクセントで反論する裏に、友をいたわる細かなニュアンスを感ずることが多かった。若い頃の狷介固陋な印象はその豪快な風貌と寡黙のためと思われる。彼はあまり冗談を口にしなかった。真面目すぎる性向なのであろう。それだけ自分の俳句にも厳しかったのかもしれない。

  だから(豪快なご面相のせいでもあろうが、)あまり女性にもてたようには思えない。同期の平山の言によれば京大時代に好きな人も居たようだが、片思いで実らなかったようだ。彼の風貌についてはこんなエピソードもある。
 
 ↑主幹の吉野教授を囲んで、右端が兜子

 彼が新聞記者時代に神戸の日本銀行に前衛俳句の俳人 (金子兜子氏) を訪ねたことがあった。
その前に「兜子」が来る」と聞いていた銀行の女性たちが、「とうし」ならてっきり妙齢の美女だとばかり思っていたので、現れた男性の、それもあまりに豪快な顔立ちを見て、唖然とするやら可笑しいやら、「この人がとう子さん!?」と大笑いになったそうである。
 また、ある時は、あまりにも流麗な筆あとから女流俳人と勘違いして句会に招待し、駅に出迎えた者がびっくり仰天したという話もある。

  昭和18年、戦局の逼迫とともに、それまで行われていた大学高専の学生に対する徴兵猶予が取り消され、いわゆる学徒出陣として学生たちは戦陣に赴くことになった。大阪の母校の級友の多くが夫々陸海軍に入隊し、年齢の関係で学校に残った約半数の学生も、翌19年秋には第二次の学徒出陣として軍隊に入ることになった。
 
  そこで、入隊を前にして私たち同級生一同は、主幹の吉野教授とともに京都の「石清水八幡宮」に出かけて武運長久を祈願した。まだ夏の名残りの暑さ厳しい秋の一日であった。その際、赤尾が私に一句作ってくれた。(私は、この記念写真の裏にこの句を書きとめていた。彼の句集にはない。)

      蜩(ひぐらし)や 空蒼々と君が眸(め)に      俊郎

  まだ、戦争の現実を知らない、ただ「祖国を護る」という一念に燃える純真な学生たちだったのである。 みんな青空のように澄んだ瞳の20歳の若者たちであった。・・・

 
イメージ 1
                                
             たった19名しか残っていなかったのか・・ (右下が赤尾兜子)

  我らの多くは、昭和19年10月にそれぞれ予備士に入隊したが、赤尾は昭和20年1月に同じく陸軍特別幹部候補生として、東京世田谷にあった「陸軍機甲整備学校」に入隊した。そして3月10日の東京大空襲にはトラックで都民の救出に当たり、8月には戦車・自動車を信州を迂回して兵庫県青木ヶ原まで移動したが、その翌日に終戦となって復員している。

 軍隊に入る前に作った彼の俳句。

   「征前裡吟」

      黄砂降る 国へゆく日は 兵として
      年用意 我には胸に隠す 遺書
      滅ぶもの すべて帰らず 年暮るる
      思うことなし ただ白菊の 吹き散るか
      征(ゆ)きて死ね 寒の没日(いりひ)と いま別れ      兜子

   
  (出征当日の次の句がこの句集の最後である。)

           ああ兄妹の重なり見えず寒き顔  
        
 この句集「稚年記」のあとがきに、「16歳から20歳までの句集を整理し、これをわが遺書として父に渡し、木枯らしの吹きすさぶ中を出征した」とある。

 同じ学友で、戦後、ともに京大に進学した吉井にも同じような入隊前の俳句がある。

    惜別や 街に煤降り 時雨降る
    朝霧の さやけく吾は 征(ゆ)かんとす
    花を投げ 戦い如何にと 潮に問う
         藤重郎 
   
                         ・・・・・ 

              *「ギンヨウアカシア」

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 * 「ギンヨウアカシア」はオーストリア原産のマメ科の常緑小高木で、日本には明治末期に渡来しています。ギンヨウ(銀葉)という言葉は、白っぽい緑色の葉からきています。5ミリくらいの小葉が20対くらい対象についています。
 4月ごろ真っ黄色の花をいっぱい咲かせて美しく匂ってくるので、春の切り花としても人気があります。


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・・・・・・       ・・・・・・

(90)兜子のこと③

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      (90) 「兜子のこと」 ③

 赤尾は外語時代から俳句とともに書道にも非凡なものがあった。彼が残した色紙をみても、いずれも惚れ惚れするような達筆である。彼は小学生の頃から字がうまかったが、大阪でも近くに書道の先生がいて、ここで主に「かな文字」を学んでいる。彼の自筆色紙の流麗な筆使いはおそらくこの頃に育くまれたに違いない。

  大阪外大の学長室に司馬さん、陳さん、兜子の三名の揮毫がかかっていた。
  いずれもなかなか見事な筆さばきだが、本格的な書道にすればやはり兜子だろう。

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紅梅や脳天の華語聞き詰めに(兜子) 悠然として南山を見る(陳さん) 校風堂に満つ(司馬さん)

  彼の長兄・赤尾龍治氏も文筆家で「盤珪禅師全集」を著して兵庫県文化賞を受けているから、彼もやはり兄の文学的素養と感性を受け継いでいたのであろう。  昭和47年、阪急デパートの画廊で「兜子句展」を開催したときには、学友の司馬遼太郎氏が兜子のために推薦の辞を寄せている。

  「書展によせて」   司馬遼太郎

・・・「かっては・・・とあえて時間的制約を入れるが・・
赤尾兜子は俳壇にとって巨大な若さであるとともに、芸術的悪意とでもいうべき恐怖の存在であった。さらには「第三のイメージ」を掲げることによって、あたらしい詩をそこから出発させた旗手であり、今もそうあり続けている。

 が、この永遠の青年のような詩人も、我々同様、自然年齢が加わることからまぬかれぬものらしい。兜子の書は早くから周囲のひとびとの目を見張らせていた。句風は依然として若々しい風景の中できらめいているが、書風はそれとは逆に堂々たる熟成の風韻をみせはじめている。阪急画廊がこの機を逃さずに、彼に筆硯を押し付けることは、心憎いばかりの眼力といわねばならない。」・・・

 兜子は外語では漢学の泰斗であった「山本磯路教授」に漢文の授業を受け、戦後、京大の文学部に進学したあとは倉石武四郎、吉川幸次郎など著名な教授の薫陶を受け、漢文や漢詩の勉強をしたことが、のちの彼の多彩な語彙の集積に資したに違いないし、この頃から「京大俳句」の同人としてさらに俳句への情熱を燃え上がらせていくのである。

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          講義中の山本教授、(巳)(已)(己)の三文字についての講義らしい。       

  山本教授は、謹厳実直そのもので、苦虫をかみつぶした平家ガニのようないかめしい顔つきだった。中地国の古文書、「春秋左氏伝」や「詩経集伝」「韓非子」など、遠い遠い、昔の漢文はなかなか難しかった。

 イメージ 5昭和23年夏、彼は京大文学部の卒業論文を書くために同窓の平山とともに軽井沢で自炊合宿した。
  彼の卒論のテーマは中唐の詩人「李賀」であった。
 李賀は800年ごろの人で早熟の天才である。7歳にして詩文を草して詩人韓愈を驚かせ、わずか27歳で夭折する鬼才である。その詩書「李長吉歌詩」をもとに、この陰鬱で難解な李賀についての卒論を彼は毛筆で書き上げた。
 誰も取り上げない難しく陰鬱な李賀の詩、しかもその卒論を筆で書くなど、彼の反骨的異才の片鱗を見せているとも言えるだろう。
  
 ← 李賀像

イメージ 6 軽井沢で一月半を過ごした間に彼は専ら小説を書いていたようだ。「軽井沢にて」という題名だった(*平山の話による)。

 そのころ横光利一や堀辰雄の小説を読んでいたそうだから、もしこの小説が残っていたら詩情あふれる堀辰雄の「風たちぬ」とか横光の「旅愁」のような新感覚派的な知性に満ちた小説であったに違いない。
                                              千曲川河岸の兜子と平山 →

  イメージ 9だが、惜しくもその原稿を彼の弟さんが列車の網棚に忘れてきてしまった。もともと作文が得意だった彼が、もし小説の世界に入っていたら、司馬さんとはまたひと味違う「作家の赤尾」が誕生していたことであろう。
 
  京大卒業後、赤尾は毎日新聞記者として勤務する傍ら、句作に全心全霊を注ぎ、俳誌「渦」を創刊主宰し、また昭和34年自ら句集「蛇」を上梓して世に問い、さらに40年には句集「虚像」を発表している。この30年代が俳人兜子の絶頂期であり、36年には俳句界の芥川賞ともいえる「現代俳句協会賞」を受賞した。当時の彼は「前衛俳句の旗手」といわれ、尖鋭な革新的前衛俳句に徹していた。


  イメージ 7   音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢え
    広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
    ちびた鐘のまわり 跳ねては骨となる魚 
                                                                            兜子の処女句集「蛇」→

 しかし、赤尾が俳句協会賞を得たことで徘句界は分裂し、俳人協会と俳句協会の二本立てとなった。心象風景を主眼とする前衛俳句と花鳥風月の伝統俳句との確執である。
  
 この年彼は結婚したが、九州への新婚旅行中も行く先々で嫁さんを置きっぱなしにして、句友を訪ねては歓談し夜遅くまで旅館に戻らなかったそうで、そのとき会った俳人の多くがまさか新婚旅行中とは思わなかったという。彼には俳句が「第一義の道」だったのだ!
 その後、新居を神戸の灘区に構え、永田耕衣、金子兜太、西東三鬼、高柳重信などと密接な交遊を重ね、「俳句第三イメージ論」をかかげていた。ここでイメージ論を展開しても意味がないが、とにかく素人の私には判ったようでさっぱり判らない論法である。
  
 イメージ 8ある解説書によれば、このころの兜子は季語や俳句的作法と断絶し、自己の感情から思想へ、女性的情操から無機的剛直さへと転換発展し、旧套俳句の革新と新しき俳諧の道を目指した。哀感を込めたロマンチシズムを風月花木に託して表現する直叙法と決別し、言葉の上に作者の思想を暗示的に表記する硬派的俳句の道を選んだのである。

 これは破壊と建設という戦後の混乱した社会情勢と実存主義や弁証法的社会発展の思想の影響があったのではないかと思われる。


 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢   兜子

 司馬さんは兜子の句集の刊行に当たって賛辞を寄せているが、この賛辞の中で赤尾を評し、
「兜子は地方に住んでいる。地方に住む者は中央に屈従し従者として愛さるべき擬態をとるか、必要以上のエネルギーを使って謀反人の相をとるしかない。俳壇的にみれば反正統的な厄介者かも知れぬが、芸術的に見ればこれほど正統的な歩き方はない。芸術はもともと謀反であるべきだからである」
 と、前衛俳句派として既成の俳壇に対して反逆的な道を歩いていた頃の兜子を擁護している。
 司馬さんの暖かい友情と優しい人柄の現れであると同時に、終生、中央文壇である東京には出ず、東大阪の市井の中で庶民との交流を楽しんだ司馬サン自身の反権力的姿勢が、この一文からも充分に伺われるのではなかろうか。

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          「ボケの花」

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   「ボケ」はバラ科の落葉低木で中国の原産。
 日本には薬用植物として渡来しましたが、その後観賞用に改良されて花色、花の形など様々な品種が作り出されました。
 
  木瓜(ボケ)と言う名前は、中国名の木瓜の音読,「ボクカ」から来たものといわれています。
 高さはせいぜい2mぐらいで小枝にはトゲがあります。 
四月ごろ葉に先立って紅緋色の花を開きます。   実は黄色で爽やかな香りがあり、実を漬けた木瓜酒は香りが高くて咳止めの効果があります。

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    ボケと言っても花色は様々です。
        緋色、白色、桃色に紅白入り混じった更紗色などいろいろあります。

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               ・・・・・・       ・・・・・・


(91) 焦げたにおい   

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       (91) 焦げたにおい   司馬遼太郎

 昭和41年、赤尾兜子(41歳)が毎日新聞大阪本社学芸部に勤務しているとき、司馬遼太郎の小説「峠」の取材旅行に同行して越後長岡、湯沢に旅行しているが、 この時の兜子の様子を司馬さんは、昭和50年刊行の兜子の句集「歳華集」の序文のなかに書いている。
 
 〇 「焦げたにおい」   司馬遼太郎  (原文通り)

 ・・・イメージ 1赤尾兜子と私とは、大阪の上町台にある小さな学校で一緒だった。
 兜子は中国語をまなび、私はモンゴル語をまなんだ。それぞれ、このことは意味があったようにおもえる。卒業後匆々、兜子は京都大学へ行き、私はそれよりすこし前に兵隊にとらた。この間の記憶は、なにやらもうろうとしている。

   (京大時代の兜子)

 戦後、どちらも新聞社につとめたが、双方社もちがい(司馬さんは産経)、受け持つ仕事もちがったために、相会わなかった。小さな学校以来、二十数年後の昭和四十年前後に再会し、濃密な親交を結びなおした。そのころはすでに私は、彼の俳句論である「第三イメージ」についても素人ながら共感を持っていたし、その処女句集「蛇」についても、その強烈過ぎるイメージに心の膜がはじけるような衝撃をうけていた。

 越後への旅を共にしたこともある。
 その往復の時間は、ほとんど俳句論ばかりで充たされてしまった。それも私のほうから問い掛けた。私には兜子が不思議であった。彼の句は作るよりも発するようであり、というよりも雷電に撃たれるような感覚の発作であるときに、その発作のあとに句が落ちているというような感じであり、そのことが、かれの資質のどのあたりから出るのか、せめてその焦げあとのにおいでも嗅げないかと思った。
 私が俳句論をしきりに仕掛けたのはかれの反応をたしかめたいためでもあった。ともかく数日の旅行の間に、数度おどろかされた。

 イメージ 2旅行の最後は越後湯沢の宿だった。宿の小さな部屋で二人で遅い晩めしを食っていると、部屋掃除の係の婦人が声をかけてきた、やがて彼女は掃除道具を廊下にたてかけて、私たちの座に入った。同業の掃除係がもう二人入ってきて、大一座になった。

 この湯治場は川畑康成氏の「雪国」の舞台になったとおもうのだが、私たちは一時代前の人のように芸者をこたつにいれて酒を飲むようなことはできなかった。われわれの時代は掃除婦と茶碗酒を飲んで,酔うほどに世の中がばかばかしくなるような下宿臭い酒しか飲めず、そのことが何やらおかしかったのを覚えている。      ↑(雪国が書かれたかすみの間)

 兜子は、終始顔をあげ、風情も何もない手つきで杯をあげて飲んで居た。時々皿の上の黒い舞茸に箸をやり、それを口に入れるのだが、その動作も、顔をあげたままだった。口の中のものが舞茸であるのか、焼き魚であるのか、頓着していないような噛み方だった。顔つきもそうだった。
 その顔つきは愉快とか不愉快とかいう感覚のそとにあって、たとえば背中にこぶでも背負った男が、鐘楼のそばでひとり鳩でも食っているようなたたずまいだったが、そのくせ掃除婦たちは兜子にくっついているようだった。彼女たちも兜子に不思議な感じを感じたのにちがいない。

 イメージ 4やがて掃除婦たちは行ってしまい、二人だけの酒にもどった。その時、どういうはずみだったのか、兜子の顔が急に哭(な)きだしたのをおぼえている。なぜ哭くのか私には見当もつかなかったし、質問もしなかった。ほうっておくしか手のないような兜子ひとりっきりの情景だったし、私は兜子の顔が勢いよくゆがんで両眼からさかんに水が流れ落ちているのを眺めていた。

  ← 白藤やその一房に虻澄めり     兜子

 これは、俳句だと私は理解しようとした。俳句という感情現象が、この変な間(ま)の中に居合わせられてしまっている自分が持ちそうなかった。たしかに、ああいうものが兜子の俳句なのであろうと、私はいまでもおもっている。

 兜子は川上の遠い龍野中学に、川下の網干からはるばると自転車で通っていた初年級のころ、ある日、突然自転車を投げ出して休耕田のなかであおむけに寝てしまったという。どうしようもない詩心が体に生まれてしまったという瞬間を兜子はよく覚えていて、それを、なにかいやな思い出でも話すように私に話やことがある。

 イメージ 3中学の国語の先生で俳句の好きな人が居た。
 兜子はその先生が好きだったから、自分の中にあふれてきたものを、俳句という形式で受けようとした。もし兜子がほかの形式を持っていたら、それで受けたにちがいない。文芸としての俳句の伝統からいえば、およそ異なった化学成分のものを、兜子は、それを破裂したり、感電するのもかまわずに、それを押し込んだ。
                                                               同窓の平山(左)と→

 やがて兜子は俳句という形式に押し込むことによっておこる化学変化や物理変化を美として見つめなおす精神を、伝統俳句とは別の場所で確立した。
 その精神の発作について、私はたまたま兜子と酒を飲んだおかげで、焦げたにおいだけでも嗅いだような感じもする。 ・・・・・

        惘然(もうぜん)と飯に酢をふる男かな

        葛掘れば荒宅(こうたく)まぼろしの中にあり       兜子


       ・・・・・           ・・・・・・

 
             「アセビ・馬酔木」 
 

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                                         (アセビは春先の若葉も美しい)


  馬酔木(あせび)は日本の宮城県以西に分布しているツツジ科の常緑低木です。 日本人には古くから親しまれてきた花木で、密生した花にスズラン状の小さい花をたくさんつけます。 
 この花の様子が「汗も」に似ているので、「あせも」から転化して「アセビ」となったと言われています。植物学的はアセビが正式ですが、俳句ではアシビと発音します。
 

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 また「馬酔木」という名前は、馬が誤って食べると大脳が冒されて酒に酔ったようになるからだ、と言われています。人間でも食べると呼吸中枢が麻痺します。 


 この毒を利用して、むかしは馬酔木の葉を煎じて,トイレや農作物の害虫駆除、牛馬の皮膚の寄生虫の駆除に使われていました。


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        来し方や 馬酔木(あしび)咲く野の 日のひかり   水原秋桜子


               //////


(92) 「兜子の最後」

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           (92)  「兜子の最後」
 
 外語卒業以後、兜子と再会したのは戦後2年を経てからである。幸い命ながらえて軍隊から復員し、私は九州の大学生となり、彼は京大の文学部に進学していた。春まだ浅いある日、九州から同じ学友の関谷と二人で京都の百万遍の彼の下宿を訪ねた。彼の下宿の別部屋には同じ同窓の平山敏郎が居た。狭い下宿の部屋に入るとすぐに彼は「お茶」を点ててくれた。私たち九州の野暮な「芋学生」と違い、「さすがに都の学生は垢抜けしてるなぁ!」と感心したものだ。というより、豪快な風貌と反比例した彼のみやびやかな仕草が、却って私の印象を強くしたのかも知れない。
  
  イメージ 2夕方になって彼は入浴して十銭かみそりで髭を剃ってきた。
 彼は春風そよぐ二階の窓に腰かけて、湯上りの自分の顔をなでながら「おぉ、乙女の柔肌の如し!」とつぶやいたので、みんなで大笑いとなった。豪快なご面相の彼がやわ肌などと言うなどというのが尚更おかしくて、つい吹きだしてしまうのである。その夜はたしか、関谷が平山の部屋に、紫蘭が赤尾の部屋で寝たような記憶がある。

 翌日、同じ下宿に居た平山と四人で新京極に出かけて映画をみた。
 ←今、残って居る赤尾と平山の写真には、うしろにジャンギャバンの看板がみえるところを見ると、おそらくフランス映画の「しのび泣き」だったのだろうか、なにしろ70年を経ては往時茫々として定かでない。


 その帰り道で売っていた「三角くじ」を引いたら、なんと2等賞があたった。賞品が晒の布・一反だ
ったので家に持ち帰ったら母がとても喜んでくれたのを覚えている。何しろ、敗戦直後のモノ不足時代、晒一反でもなかなかの貴重品だったのである。

  イメージ 3以来、お互いに遠く離れて彼との付き合いは途絶えた。わずかに毛筆で時たま呉れる便りと賀状だけであったが、彼が毎日新聞社に勤め、「兜子」と号して俳句を作っていること以外は知らなかった。(彼は達筆で、はがきにも筆書きでびっしりと小さい文字で書いてくる。後年、阪急画廊で書の個展を開き、同じ学友だった司馬遼太郎氏が「推薦の言葉」を書いてくれたくらいである)

                                       →京大時代・平山と三人四脚
 
 その後、私が彼の消息を知ったのは、昭和58年3月の新聞紙上であった。
 私は自分の目を疑った。そこには三段抜きで彼の死亡記事が載っていたのである。彼はタバコを買うべく自宅からだらだら坂を下りて阪急電鉄の踏み切りまでやってきた。そして過ぎ去った電車の轟音とともに、鬼才兜子の姿は永遠に消えてしまったのである。
  あとに二千句ばかりの作品を残して・・

      父として生きたし風花(かざはな)舞う日にも       兜子
 
 かって司馬さんは、大正生まれは「浅黄裏」だと言ったことがあるが、私たち戦中派の人間は田舎侍が着る浅黄色の裏地のように、野暮で不器用である。剛直な兜子も戦後のアプレゲールのようにはスイスイと俳壇を泳ぎ回ることが出来ない「浅黄裏」であった。この不器用な浅黄裏の兜子が前衛俳句を脱して伝統俳句へと回帰し始めたのはいつの頃だろう。

 彼は次第に前衛的俳句を嫌い、自身の激しい攻撃的俳句観、人生観を転換し始めた。それは俳壇の椿事として、また兜子の変節とも受け止められた。しかし彼は句集「歳華集」のあとがきに「俳壇の潮流を刹那の流転として見流す」と書いている。建設から破壊へ、破壊から建設への生々流転こそ人生の真相であると考えたのであろうか。俳句革新を指向し、難解晦渋な句風をもって読者との対話も拒否するという自らの前衛的立場を捨て、また既存の伝統的な俳句形式に対しても次第に妥協的になって行った。
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            青葡萄 透きてし見ゆる 別れかな
           空井戸あり 包帯の鶏(とり) 水色に     
            帰り花 鶴折るうちに 折り殺す
           数々の ものに離れて 額の花
            硝子器の 白魚 水は過ぎゆけり 
 
   兜子の新聞社時代の後輩のZenさんという方が、新聞社時代の兜子について書いておられるので、参考のために拝借して、少しご紹介してみよう。

 *・・・『 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などびっくりしたことがあります。

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              鮭ぶち切って菫(すみれ)ただようわが夕餉      兜子

 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。↑それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

 そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。
 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。 』 ・・・・

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     「花だより・・つつじ」


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 躑躅( つつじ)はツツジ科の総称で、単につつじという植物は無いそうです。ツツジの名前は花弁が根元で筒状に引っ付いているので、筒咲きの花木からツツザキ、ツツザイ、ツツジとなったという説があります。もともと山に咲く「山つつじ」を昔は単にツツジと言っていましたが、今は園芸種が多くて枚挙にいとまがないほどです。


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           花つつじ その花気を置く 離屋(はなれ)かな    兜子     


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                     ・・・・・・         ・・・・・・



(93) 「鬼才・兜子の敗北」

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           (93)  「鬼才・兜子の敗北」   

 赤尾兜子の伝統俳句への回帰は彼が50歳前後から悩まされていた身体の不調に拠るところが多いと思われる。 その頃から彼は原因不明の倦怠感、沈鬱感に悩まされ続けていた。それはついに彼の宿痾となった「鬱病」であった。この病気は真面目な人ほどかかりやすいそうで、叱咤激励はかえってマイナスになるという。  
  が、句集「歳華集」 出版記念会は皮肉にも「赤尾兜子を励ます会」であった。

  沈み続ける彼の心を引き立たせようとする友人たちの思いやりであったのである。会はすこぶる盛大で人脈の広さを思わせ、そのときの写真には陳舜臣、司馬遼太郎、大岡信、梅原猛、田辺聖子、小野十三郎、榊莫山、須田剋太など多彩な顔ぶれが並んでいる。

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                               (兜子を励ます会) 前列・左より 陳さん、兜子、司馬さん


  しかし、期待と激励はかえって彼の心を痛みつけて行った。定年退職後、親交のあった俳人・永田耕衣氏あての手紙にもその苦悩ぶりが垣間見える。

 ・・・定年後病気をしないようにとのご忠言をいただきながら、とうとう病に入ってしまいました。
今秋の県文学賞も私には重荷になっております。今度の病がどういう快方に向かうのかちょっとよく分かりません。
 いま手紙など書けぬしんどさで、誰にも便りを怠っています。・・・兜子

 この手紙は昭和55年12月12日の日付になっているが、翌56年3月17日朝、彼は忽然として生を断ってしまった。
 そのころ彼は、最も親しんでいた京大の後輩に先立たれ、兄龍治も急逝してしまう。加えて中学の頃柔道で傷めていたアキレス腱が痛み出し次第に歩行困難になってきた。あるいは定年で新聞社を辞めたことで、生活の不安定も重なったのであろうか。兄に続いて受けた「兵庫県文化賞」や主宰誌「渦」の20周年記念の慶事が続いたにもかかわらず、彼の心は沈鬱であった。

 足の痛みと沈潜してゆく心の悩みが、直情径行、妥協を排す剛直な彼の俳句を、次第に衰退する暗鬱な心象風景の作品に化していった。  自裁直前の作品に彼の鬱的心境が詠みこまれている。


   イメージ 2  心中に ひらく雪景 また鬼景
     短夜(みじかよ)はさびし 来る夜のおそろしき
     神と医師 いずれをえらぶ 冬の窓 
     さらばこそ 雪中の 鳰(にお)として
                                                                     → 処女句集「蛇」
 
     (にお)は水鳥の「かいつぶり」のことである。冷たく凍りついた侘しい池の中で、身じろぎもせず浮かんでいるカイツブリは彼自身の冷たい心象風景なのであろうか。これが赤尾兜子最後の句である。
  彼はなぜ自ら死を選んだのであろうか・・、

 「俳句思へば泪(なみだ)わき出づ朝の李花」と詠むほど情熱を燃やした俳句革新の道はいったい何だったのだろうか、今や昭和30年代の前衛俳句の革新的活動を高く評するものは少ない。赤尾が涙を流すごとく愛情をこめて摸索した道のりは、あの共産主義ソ連のごとく、壮大にして激烈な冒険にしか過ぎなかったのか。。
  
 イメージ 3彼が卒論のテーマに選んだ夭折の詩人・李賀(791~817)は「鬼才」と称されながら、27才の短い生涯を燃焼し尽して幽鬼の世界え消えて入った。少年の頃から詩文に長じ,その詩はロマンチックな幻想の世界に輝いて読む人を幻惑させ、新鮮で華麗さは李賀に敵する者はいなかったと言われている。                                                           → 李賀の詩集
                                                                      
 そんな李賀と同じく彼もまた鬼才らしく悲劇的な死をもって五十六年の生涯を締めくくった。彼の死を報じた新聞記事にはこんな俳句が載っていた。学生時代に出征祈願の石清水八幡宮で作ってくれた「蜩や空蒼々と君が眸(め)に」の句とと同様に、難解な前衛俳句とは違う素朴で素直な俳句であった。
   
          父として生きたし風花舞う日にも       兜子

 このときは、彼はまだ何とか生きたいと願っていたのであろうか。あとで聞いた話だが、彼の通夜の席で司馬さんがつぶやいた。「たしか子供がいたな」と。陳舜臣さんは「男の子だ」と短く答えた。
同窓の吉井藤重郎は黙って合掌して席を立った。

         歯を病みて通夜のたてこむ寒さかな    藤重郎 


  イメージ 4戒名「慈照院釈諧春」・・兜子が世を去ってすでに37年、いまや前衛俳句の旗手だった稀有の俳人・赤尾兜子の名を知る人は少ない。あの少壮気鋭の若き反逆児はいったいどこえ消えてしまったのか。

 楊サンたちと訪ねた「姫路文学館」の司馬遼太郎の広くて大きな展示場の横に並んでいる、ほんの一握りのスペースの兜子の小間の中に、彼の遺品と憔悴した顔つきの写真が飾ってあった。司馬さんと兜子、同じ時代に同じ学校に学んだ同窓でありながら、人の行く末はこんなにも違うものなのだろうか。

  
イメージ 5   私は青春時代を共にした学友の一人として、声を大にして叫びたい。
   
     かって 「鬼才、赤尾兜子」 ありき! と・・  

 
             

            指しかけのまま浜菅に別れかな
 
        雲の上に雲流れゐむ残り菊         兜子 



           ・・・・・・                ・・・・・・

                         「山吹」

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   山吹はバラ科の落葉低木で、、春になっていち早く芽吹くので、イヤメブクキ(弥芽吹く木)と呼ばれていたのが「ヤメブキ、ヤマブキ」と変化したのだそうです。
 太田道灌の故事に、雨具の借用を申し込まれた貧しい農家の娘が

         七重八重花は咲けども山吹の
             実の一つだになきぞ悲しき

 という歌を添えて山吹の花を差し出した、と言われていますが、実のならないのは八重ヤマブキで、一重の山吹は立派に実を結びます。

   「八重山吹」

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(94)藤の花

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    (94) 藤の花

  先日の寒さはどこえやら、今日は大型連休にふさわしく見事に晴れて、緑の木々の上を爽やかな風が吹き渡っています。

 
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                                           (佐賀城・西堀端の散歩道)


 NTTのポイントが1万あまり貯まったので、新しい光BOXを頼んでいたのが昨日届きました。
しかし付属のランが短くて接続・設定に四苦八苦、、。モデムを移動して何とか収まりました。これで、テレビでパソコンが出来るし、ユーチューブもテレビで見えるようになりました。
 シメシメ・・
 今日の花だよりも、そのテレビの大画面で。。
 あれー、なんだか面倒くさいなぁ、やっぱり使い慣れたPCが良さそうだ。。

   (94) 「藤の花」

 藤はマメ科のつる性落葉樹で日本には「野田藤」「山藤」があります。野田藤は大阪の野田にある藤の宮にある藤を代表格として、つるが(右巻き)の藤の事を言います。一般によく見られる「藤棚」の花房の長い藤はたいていこの野田藤です。

      〇 野田藤

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                          (祐徳稲荷神社)



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                          (武雄・御船山楽園)


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   〇「山藤」
 
 「山藤」は日本原産で、西日本の山地に自生しています。
  特に谷間の木の上で開花しているのが目立ちます。
 ツルが(左巻き)で花房は短かく、葉が毛深いです。

 
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        〇「白藤」

                「白藤」 は山藤の一種でやはり(左巻き)になっています。

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                          白藤や 揺りやみしかば うすみどり         芝不器男


 イメージ 10*藤は昔から日本各地に沢山生えており、山野峡谷をかまわず生え広がり、ほかの植物に絡まって力強く生い茂り、しかも長命です。また、藤の実は、はじけて中のタネが勢いよく10mくらいも飛ぶそうで、子孫繁栄の象徴として目出度い木とされ、藤原氏など藤は苗字としてもよく使われました。歌手や俳優さんにも多いですね。

 藤、藤本、藤井、藤山、藤川、藤村、藤田、藤島、藤沢、藤原、藤岡、藤江、藤枝、藤木、藤倉、藤吉、藤浪、藤瀬、・・・・

 もともと藤という字のつく苗字は、栄華を誇った平安時代の藤原氏以来、「源平藤橘」と言われるほど出、四大姓の代表格でした。 その藤原一族が全国に広がったものと思われます。

 藤が下につく苗字も多いですね。中でも佐藤氏は日本一数が多く、その他、加藤、斎藤、後藤、近藤、遠藤、安藤、工藤、内藤、武藤、江藤、兵藤など様々です。

 その由来を見てみると、ほとんどその土地の名前によるようですね。

      イメージ 11佐藤・・栃木県・佐野
      伊藤・・伊勢
      加藤・・加賀
      後藤・・肥後
      近藤・・近江
      遠藤・・遠江
      安藤・・安芸
      尾藤・・尾張
      武藤・・武蔵
              
                  → 白藤は左巻きです。。
    


                  ・・・・・・            ・・・・・・                                                              

(95)牡丹

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         (95) 牡丹

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  牡丹 ボタン)はキンボウケ科の落葉低木で、古代中国から漢方薬として日本に渡来しています。その後、元禄時代に爆発的に観賞用の花として普及し始め、当時、四百数十種の園芸種が作られました。

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  牡丹花の
   眠るがごとき
    入日かな

            上田 敏





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 もともと、牡丹は中国では「百花の王」と言われていますが、今では日本で改良された艶麗な牡丹にはかなわないそうです。






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 夕牡丹
   しづかに靄(もや)を
    加えけり
   
       水原秋桜子

 


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   るがへる
     葉に沈みたる
      牡丹かな

          高野素十




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 白牡丹
  がくをあらはに
    くずれけり

        飯田蛇笏





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 牡丹散って
   うちかさなりぬ
     二三片

           蕪村

     


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                     (鍋島焼・牡丹図)

        ・・・・・           ・・・・・

(96)シャクナゲ

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               (96) 石楠花


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 「石楠花・シャクナゲ」はツツジ科の常緑低木で中国の原産、白、紅、紫色などがあります。 
 石楠花の名前は「石南花」という中国のバラ科の花と間違って「石楠花」とつけられました。
       
    ○  「ピンクの色が可愛い筑紫石楠花」 
 
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 「チクシシャクナゲ」は (筑紫【九州】のシャクナゲ) という意味で、九州の北部、中部の山地に多いシャクナゲです。写真のようにセイヨウシャクナゲよりも葉の幅が狭くなっています。

  シャクナゲのうちで一番大輪で、如何にも日本の花らしくつつましやかで清楚な風情があり、つぼみと開ききった花とのコントラストも抜群です。

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   石楠花の
      恥らふ如く 揺れ交わす

              杉田久女
 









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   石楠花や
        朝の大気は高嶺より    
      
                         渡辺水巴








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  ○   「燃えるような、セイヨウシャクナゲ」 

  一般には欧米で育成された石楠花を「セイヨウシャクナゲ」と呼んでいます。

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 「セイヨウシャクナゲ」は中国の原産で、花は華麗です。 白、赤、紫などがあって最近日本でもよく育成されています。 葉の裏側は無毛で、毛の多い日本産と区別できます。
   また、葉の幅もセイヨウシャクナゲの方が広いようです。

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  佐賀の背振山には、シャクナゲが分布していません。

  これには、むかし背振山の弁才天が背振山にシャクナゲを植えようと、福岡の英彦山のシャクナゲを盗んで帰るところを、英彦山の天狗に見つかり違う山に落としてしまった、という伝説があります。




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 **シャクナゲは漢字では「石楠花」ですが、つつじは「躑躅」という難しい文字になっていますね。その躑躅は「テキチョク」とも読み、行き戻りつすることらしいです。躑躅の花が美しいので、見ているとなかなか立ち去りがたいので、この漢字が使われたのでしょうか。。

 
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                                          (岩黒山のあけぼのつつじ)

(97)なんじゃもんじゃ

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       (97) 「なんじゃもんじゃ」

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 「なんじゃもんじゃ」とはこりゃまた、なんじやぁ??と言いたくなるような変な名前ですね。
 緑一杯の初夏なのに、雪をかぶったようにっ真っ白い花を咲かせるので「これはなんじやぁ?」とみんなが驚く木なのでこの名前があります。

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  この「ナンジャモンジャ」は植物学上は「ヒトツバタゴ」というモクセイ科の落葉小高木です。
 枝いっぱい群がって咲いている白い花には、各々小さい羽根状の4個の小花がついています。

 正式名の「タゴ」は「トネリコ」の別名で、トネリコは葉が複葉なのに対してこの木は「葉が一つのタゴ」と言う意味で「ヒトツバタゴ」といい、学名のキオナンツスは「雪花」と言う意味だそうです。


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「ナンジャモンジャ」は、昔はアジア東部に広く分布していましたが、自生の木としては今は日本のごく一部や中国に少し残って居るにすぎません。









 対馬にはこの自生の木の群落があり、中国名を「鉄樹」と言うように、木の材が堅いので対馬では「鉈も折れるほど堅い」と言う意味で「ナタオラシ」と言われているそうです。

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 *昨日夕食中、ガリガリと音がしたと思ったら、またまた奥歯の詰め物がポロリ。。。
   今朝はイオン買い出しから、昼過ぎに歯医者さんへ駆けつけて早速修理。
   ついでに歯石取りや歯周ポケットの検査をしてもらいました。

  幸い25本のうち、3本が多少ぐらついている程度でまずまずとのこと・・
  家に帰っておやつのせんべいとピーナツチョコをガリガリ‥
  うまいなぁ。。

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                                        目に青葉山ほととぎす初かつお

(98)やまぼうし(山法師)

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     (98) 「ヤマボウシ」

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 ヤマボウシ(山法師)はミズキ科の落葉小低木で日本各地の山野に分布して、初夏の山を白い花で飾っています。水平に張った枝いっぱいに白い花を咲かせる姿が近縁種であるハナミズキ(*一名アメリカヤマボウシ)と同様に人気があり、最近は公園などにもよく植えられています。

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 丸いつぼみの集まりを頭にして、白い花びら(実は総苞片)をその頭巾と見立てて山法師と名付けたのでしょう。総苞片はつぼみの時に花を保護しているもので、葉が変化したものです。実際の花はその総苞片の中にある2,5ミリの極く小さなものです。


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   この季節、里山に登るとよくこの白い花が目につきます。
 ただし、花が木の上の方に、上向きに咲いているので、登り道ではなかなか写真に撮れません。
 山頂近く、上から眺めるとこの白い花が一面に広がっています。

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ヤマボウシは秋になると濃紅色の実が生ります。その実はアケビに似た甘みがあり、そのまま食べたり、ジャムに作ったりします。








                                                                      
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(99)エゴの木

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        (99) 「エゴの木」

     「エゴノキ」はエゴノキ科の落葉小高木です。
          日本、朝鮮、中国の原産で、山間の川辺や谷間に生えています。


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  水平に張り出した枝に真っ白い花を鈴なりに咲かせてい居る姿には、清楚な風情があって人気があり、公園などにもよく植栽されています。しかし果皮は有毒で、食べるとのどを刺激して「エゴイ」ので「エゴノキ」と言うらしいです。


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 エゴノキの果実を馬に食べさせるとよく肥えるので「肥やすの木」と言い、木の根元にひこばえ(つまり子供)を生じやすいので「子安」ともも言いいます。

  また、果皮を水中で砕くと泡が出来て、この水で洗濯ができるので、当地では「石鹸の木」という所もあります。  所変われば品変わる! 地方によって木の名前もさまざまです。


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 *今日は憲法記念日、甥がこの日が誕生日だったので憲次郎という名前でした。
 10年ほど前に不治の白血病で誕生日の前日の2日に53歳で亡くなりました。


  子供がまだ小さかったので、でめてあと10年は生きたいと言っていたのに・・  大学病院から帰る時、このエゴの木が満開だったのをいつまでも忘れられません。

 

 イメージ 7あれからはや10年、母親が一人で働いて、子供たちも大學を出て立派な社会人になりました。 子安の木が守ってくれたのかもしれません。

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(100)紫蘭をよろしく

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      (100) 「紫蘭をよろしく」

  ゴールデンウイークももう後半、佐賀では有田の陶器市、佐賀市では「維新百五十年記念博」が開かれていて、行楽地はどこも大勢の人出で混雑するでしょう。紫蘭もどこかへ飛んで行きたいが、なにしろこの年ではねー・・ 94歳、紫蘭もすっかり老いました。

 その「紫蘭」は五月の花、ラン科の宿根草で日本、中国、、朝鮮の原産で独特の赤紫色をしています。 もともと西日本の山野の湿ったところに自生していますが、性質が強健で育ちやすいせいでしょうか、最近は公園の水辺や植木の下草などによく植栽されています。

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                       (佐賀城・南堀の紫蘭)

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 自生の蘭はなかなか育ちにくいものですが、紫蘭ほど栽培し易いものはないといわれています。
 花言葉は『美しい姿』『あなたを忘れない』『変わらぬ愛』となっています。シランにとってはちょっと不似合いですが、どうか花の紫蘭同様、育ちの良い純情な「紫蘭」を末永くよろしく。。
  (末永く・・・と言っても、もうあまり残りは少ないですが。。)  (^_-)-☆☆


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「紫蘭」は紅紫色の花が咲くので紫蘭の名前がついていますが、品種によっては白い花が咲く「シロバナシラン」もあります。

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                      白い紫蘭も清純で、いかにも初夏の花らしい爽やかさがありますね。 

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                   ↑ 花の先端に紅紫色がついているのは「口紅シラン」と言います。
                             もちろんシランは口紅なんぞはつけていません!! 
  
 *ついでに我が「和紙屋紫蘭」の命名由来記を書いてみましょう。
    (前にも書いたことがあるので、重複してごめんなさい)

 「芝蘭」は香りのよい草のことで、芝は瑞草、蘭は香草です。  中国のことわざにある「芝蘭の室」とは香草を入れてある部屋のことで、転じて品性高潔な善人の集まる部屋のことをいいます。
  しかし「芝蘭」では少し色気がないので「紫蘭」を使いました。 マイブログにお出で頂く皆さんの香気で、この「紫蘭の部屋」が香り高い善人の集まる部屋になるようにと願っています。

 
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                   (黙然と・・シランは何を想うや?)

 つぎに名字の「和紙屋」ですが・・、
 (古い中学の友達で佐伯という東工大出の秀才がいて、アンチ、ワープロ派でパソコンで打つ文字が嫌いでした。そこでよく和紙の巻き紙に毛筆で書いた便りをくれました。「一筆呈上、おさん、泣かすな、馬肥やせ」みたいな簡単なものです。

 そこでシランも負けずに押し入れから障子紙の残りを探し出してきて「一筆呈上、奥さん泣かすな、酒やめろ!?」・・などと、と下手な筆書きで送りました。酒好きの彼はその後、肺がんで亡くなりました。
 彼が東京から帰省した時はいつも我が家に立ち寄ってくれました。彼は唐津出身で中学時代は佐賀市内に下宿していました。「そのうち一度「唐津くんち」に招待するから首を長くしてご馳走を待っとれ・・」と言っていましたが、とうとうかないませんでした。


  イメージ 10彼は佐賀の乱の首謀者として、大久保利通によっさんて斬首の刑に処せられた初代司法郷の「江藤新平」に強い思い入れがあり、新平の孫にあたるSさんが書いた「江藤新平」という自家本を贈ってくれました。いつか彼が来た時、帽子を忘れて帰ったので、慌てて自転車に飛び乗って駅まで彼を追っかけたのが最後でした。そこで彼の思い出のためにと「和紙屋」・・というわけです。

  あ、今は奥さんからの年賀状も来なくなりました。もちろん毛筆でしたが、残念ながら巻紙ではなくただの年賀ハガキでした)


・・と、勿体ぶって乏しいウンチクを傾けて命名記を書きましたが、実は単に「わしゃ知らん」をもじっていい加減に「和紙屋紫蘭」という名を付けただけの事でして。。<(_ _)>

  たとえば、作家の「二葉亭四迷・くたばってしまえ」や「織田作之助・お駄作の助」「妹尾(せのお)河童・へのかっぱ」「江戸川乱歩・エドガー・アラン・ポー」などの筆名の単なる物まねに過ぎません。。(^^*)

             ・・・・・・         ・・・・・・

 *今日は風が強くてちょっと肌寒いですね。 慌てて電気ストーブを引っ張り出しました。
     でも、外を歩けば五月の緑がいっぱいです。

               長雨の 空吹き出だせ 青嵐        素堂

 
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                                            (緑の中に立つ老警固夫)

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(101) 「5月5日の端午の節句」

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          (101) 「5月5日の端午の節句」

 今日は5月5日の子供の日、「端午の節句」だ。今は街ではあまり望めないが、郊外に行くとよく勢いよく風にはためいている「鯉のぼり」を見かける。

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♪ やねよりたかい こいのぼり
   おおきいまごいは おとうさん
   ちいさいひごいは こどもたち
   おもしろそうに およいでる

 
 「かしら息子」が生まれて初めて迎える五月五日の「初節句」には、母親の実家や叔父、叔母たちがお祝いの幟旗を贈って呉れる。
 そこで端午の節句を「幟祝い」とも言い、初節句の幟を「初幟」と言う。昔は長男にだけ家督相続の権利があったので、幟祝いも長男が生まれた年だけで、次男三男の時は幟祝いはしない。

 尤も、長男以外は幟祝いはしないが、男の子が生まれた家では簡単に紅白の餅と大根のおなますを紫色の袱紗(ふくさ)を掛けた二段重箱に入れて、隣近所に配るだけである。配る役目は子供たちで、重箱を貰った家では五銭とか十銭とか、なにがしかのお駄賃をその重箱に入れて返してくれるのである。

 もともと端午の節句は、古代中国ではこの日に汨羅(べきら)の河に身を投じた憂国の詩人「屈原」の霊を弔い、遺体を魚に食べられないために「粽・ちまき」を魚に与えたことが始まりとされている。


イメージ 2    ♪  汨羅の淵に 波さわぎ
       巫山の雲は 乱れ飛ぶ
       混濁の世に 我立てば
       義憤に燃えて 血潮湧く 

 日本でも平安時代にこの中国の風習が伝えられ、宮中でこの節句の行事が行われるようになった。端午の節句には強壮解毒の作用がある菖蒲が邪気除けとして使われたので「菖蒲の節句」とも言われ、武家社会では武を尊ぶ「尚武」にも通じる事から、この日を男の子のお祝いの日になった。

     
 端午の節句に「幟・のぼり」を立てる風習は江戸時代に始まった。昔は紙で作った紙幟に武者絵を描いて家の外に立てる「外幟・そとのぼり」が広く行われたが、その後、定紋をつけたり、鍾馗さんの絵も使われるようになった。これを小さくして家の中に飾るようにしたのを、「座敷幟」とか「内幟」と言う。鯉のぼりも初めは紙製だったが、今は布製となり中にはビニール製もあるようだ。


 イメージ 5節句の幟は高さ22尺(約7m)もあり、幟竿は生の杉丸太である。幟は少ない家でも四、五本はあり、中には10本も立てる家もあって、立てるのも一苦労である。 幟は四月初めから立てるが、昔は夜はいちいち仕舞わねばならないので、立てたり倒したりするのに、大人三人がかりだった。まだ今のように竿の先端に滑車をつけて簡単に揚げ下ろしが出来るような時代ではなかったのである。

 青空高く風にはためく幟は、武者絵が多い。勇ましく元気な子に育って貰いたい、との願いであろう。江戸時代から戦前の国内では「鯉のぼり」は関東地方、「旗幟」は関西以西に限られていた。関東では「鯉のぼり、日本男子ここにあり」とか「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」などと言う俳句や川柳も作られたが、鯉のぼりなど見たこともない西国の人には、なかなかピンと来なかったのである。

 たが、戦後は全国的に鯉のぼりが普及し、これに矢車、吹き流しも加わるようになった。鯉は出世魚である。風をはらんで大空を泳ぐ鯉幟の姿はいかにも元気が良くて、まことに男の子の節句にふさわしい。

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                                               (勇壮な武者絵の幟旗)


 「幟祝い」は、よばれた親類一同の前で、紋付きはかま姿の長男が床柱の前に座らされ、鯛の尾頭付きのご膳につくと、一門総出で目出度い謡曲とともに祝い酒を飲んで、惣領息子の無事息災と出世を祈るのである。うちの息子の時も、親類一同を呼んで盛大に幟祝いをしたが、その時の武者人形や鎧兜など、60年経った今はどこへ行ってしまったのやら、皆目行方不明である。おそらく床の間の天袋の隅で埃をかぶっているに違いない。


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                                                   (絵・南窓さん)

                   ・・・・・・          ・・・・・・・

(102)石斛(セッコク)

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          (102) 「セッコク」

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  紫蘭と同じくラン科の植物に「セッコク」があります。
 「紫蘭」は今は公園などに植栽されて何処にでも見られますが、同じラン科の「セッコク」は山野草の展覧会など、よほどの事でないと見られません。


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 セッコクは岩や古木に着生して、初夏に樹上で白色や薄紫の綺麗な花を咲かせ芳香を放っています。漢方薬では、強壮、鎮痛剤に使われるそうです。

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 写真のセッコクは鉢植えではなく自然木の上にありましたが、自然植物園の中だったので自生ではなく、古木に着生されたものと思われます。

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                       ‥‥‥・       ・‥‥・

 *大型連休も今日の雨で終わりましたね。何だか子供の頃の夏休みの終わりのようです。
   大人も子供もちょっとわびしい・・

  スーパーに食料品の買い出しに行ったら、雨降りなのに店内は客でいっぱい、車の置き場所がなくて困りました。 連休明けでどこも冷蔵庫の中が空っぽなんでしょうか。
 月形半平太のように「春雨じゃ濡れて行こう」というわけにもいかず、だいぶ肩を濡らしました。


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                       わらんべの洟(はな)も若葉をうつしけり    室生犀星

     ///////

(103)テッセン

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        (103) テッセン

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 「鉄線・テッセン」はキンボウケ科の落葉性のつる科の植物です。
 クレマチスの一種で、つるが針金のように硬いので鉄線という名がつきました。


 別名が[クレマチス]、「風車」とも言いますが、花びらが6枚のものを「てっせん」、8枚のものを「風車」、その総称を「クレマチス」というようです。

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 一般に「クレマチス」と言われるものは藤色の8弁の花ですが、「テッセン」は白色の6弁花で中央に多数の雄しべがあります。「カザグルマ」には白や藤色、紫色の8弁花があり、また4弁の紫色や淡紫色のものなど、園芸種は実にさまざまで、250種ほどもあるそうです。


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テッセンなのか、クレマチスなのか、風車なのか・・
こんがらがって何が何だか分かりましぇーん。。

          とにかく数か月後に、花の跡はこんな渦巻?になっていました・・?? ↑↑
  
                  ・・・・・              ・・・・・


*小雨の中、月一の家内の目の検診で医大に行ってきました。
 連休明けのため医大は大混雑。待合室には入れきれず、廊下の長椅子も満員状態。
 10時半の予約なのに、帰りにスーパーで弁当を買って帰ったら、もう2時を過ぎていました。

  家内の眼底出血の眼の検診、先月の新薬(アイリーア)の注射が効いて網膜の腫れも引いていました。次の検診は7月の予約。その時網膜が腫れていればまた眼球の硝子体内に注射をしなければなりません。眼底出血には、普通、レーザーで出血している血管を焼結しますが、網膜中心部の出血にはレーザーは使えません、視神経が死んでしまって失明するからです。3年前に開発された新薬の注射は、症状は治まるが、根治しないのが欠点、毎月一度、検査して網膜が腫れたらまた、注射をしなければなりません。

  痛み止めを3回点眼するので、注射はあまり痛くはないようです。 ただし、一回15万円もするので、老人保健でも1万5千円払うのが痛い!!

  でも、眼底出血で0,1の視力だったのが0,8まで回復したので、医学の進歩にはただただ感謝あるのみ・・
 
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                                                      (明るい初夏の林を行く)

(104)タニウツギ・ヤブウツギ・ハコネウツギ

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      (104) タニウツギ・ヤブウツギ

 
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                                        (槍ヶ岳登山口)

「タニウツギ」は北海道から山陰地方の日本海側の山地に分布しているスイカズラ科の落葉低木で、5月ごろ、大きく湾曲した枝にたくさんの紅色の美しい花をつけています。
 

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                                                  (白馬岳)

 山地の谷間に多いので「タニウツギ」という名前がついていますが、花がいっぱいで、美しいので庭や公園にもよく植えられています。それだけ人との関わりあいが多いので方言も多く、中には「シイヌグイッパ(尻ぬぐい葉)と言うものまであるそうです。

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  タニウツギによく似た花に同じスイカズラ科の「ヤブウツギ」があります。こちらは日本海側ではなく、山梨以西の太平洋側の日当たりのよい山地に分布している落葉低木で、濃紅色の花を3~5個まとまってつけています。

   〇 「藪ウツギ」

 
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    〇  ハコネウツギ

  同じような「ハコネウツギ」は本州から九州まで分布していますが、実のところ、名前にある箱根にはありません。
 花はタニウツギのようには密生せず、はじめ白い花が次第に紅色になっていくので、白い花や赤い花が入れ混じってなかなかきれいです。花色が変化するのは、時間と共に酸が増えてアントシアンに作用するからだそうですが、素人のシランにはなんのことだか、さっぱり分かりましぇ~ん。

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(105)「薔薇」

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                (105)   「薔薇」

 5月はバラの季節、赤・白・ピンク・黄色と、色とりどりのバラの花はほんとにきれいですね。

 
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              咲き満ちて 雨夜も薔薇の ひかりあり    水原秋桜子


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          薔薇(バラ)は、当然のことながらバラ科の落葉低木です。



 イメージ 6 「薔薇ニ曲」   北原白秋



(一) 薔薇ノ木ニ
    薔薇ノ花サク。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。


(ニ) 薔薇の花。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。
     照リ極マレバ木ヨリコボルル。
     光リコボルル。

 
 薔薇の英名は「ローズ」ですが、元々ローズとはギリシア語で赤を意味するので、ヨーロッパのバラの元種は赤が多かったと思われます。

 イメージ 7♪ バラが咲いた バラが咲いた
   真赤なバラが
   淋しかった ぼくの庭に
   バラが咲いた
   たったひとつ 咲いたバラ
   小さなバラで
   淋しかった ぼくの庭が
   明るくなった

 ヨーロッパでのバラの栽培はとても古く、紀元前2000年代から植えられていたそうで、今までに1万5千種以上の品種が作られているそうです。



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       プリンセスアイコ

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