(86) 「一杯のコーヒー」
むかし、中学に入ったばかりの頃、♪「一杯のコーヒーから」という歌が流行ったことがある。鼻歌交じりによく口ずさんだものだ。
♪ 一杯のコーヒーから
夢の花咲く こともある
街のテラスの夕ぐれに
二人の胸の ともしびが
ちらりほらりと つきました
夢の花咲く こともある
街のテラスの夕ぐれに
二人の胸の ともしびが
ちらりほらりと つきました
そんな歌を意識したのでもあるまいが、司馬さんにも、入学時の大阪外語ついての小文がある。司馬さんはコーヒー好きで、散歩の途中、よく奥さんと二人連れで喫茶店に立ち寄って一杯のコーヒーを楽しんだそうだ。
「一杯のコーヒー」 司馬遼
いまは大阪外語大学と言うもっともらしい名前になっているが、当時は大阪外国語学校と言った。 そこにいた。
国立第二期の受験校で、当時は旧制高校を落ちた者が、この学校に来た。 私も落ちた。
落ちた時はもう何というか、自分にすっかり自信をなくし、(俺に残っているものは何だろう)と、旧制大阪高校(現在の大阪大学)の門を出て、播磨町の歩道を歩きつつ考え、何もない、才能もない、学問もない、根気もない、数学が不得手で金勘定も出来ない、親が大した甲斐性もなく遺産を当てにするわけにもいかないだろう。
国立第二期の受験校で、当時は旧制高校を落ちた者が、この学校に来た。 私も落ちた。
落ちた時はもう何というか、自分にすっかり自信をなくし、(俺に残っているものは何だろう)と、旧制大阪高校(現在の大阪大学)の門を出て、播磨町の歩道を歩きつつ考え、何もない、才能もない、学問もない、根気もない、数学が不得手で金勘定も出来ない、親が大した甲斐性もなく遺産を当てにするわけにもいかないだろう。
・・・それでは、
「血気だけや」と思った。
「血気だけや」と思った。
漢語に「少年客気」という言葉があるが、当時の私には今の自分には想像しがたいほどの元気者であった。
そこで大阪外語の科は蒙古語科をえらんだ。同級生は15人であった。
みな少年客気の男どもで、まだ少年期が続いている、と言うところがあった。つまり山中峯太郎氏の冒険小説にあこがれ、自分もああいう主人公になってみたい、と本気で考えている連中だった。
(*当時の少年倶楽部に(のらくろ二等兵)→の漫画と共に、山中峯太郎の←(敵中横断三百里)と言う痛快冒険小説が連載されて、少年たちの血を沸かせていた。 これは日露戦争時に、敵中深く潜入して大活躍した、建川中尉の率いる騎兵隊の話であった)
私もむろんその一人である。文学青年というようなものではない。 自分の部屋に世界地図とアジア地図をはりつけ、自分が将来活躍すべきゴビの砂漠を含めた太古地帯に紅いパステル(私はパステル画も描いていた)でくっきりとワクを入れた。
・・・生死を超絶せにやならん・・と友人が言うので、その男に誘われて寺町の禅寺へ参禅に出かけたりした。この禅寺の山門のわきに「藤沢東亥(とうがい)先生墓所」という碑がたっていた。この幕末の漢学者が作家・藤沢桓夫氏の曽祖父に当られるというのを知ったのは後年で、このころはまことに埃っぽい、口の中が砂でじゃりじゃりしているような青春を送っていた。
ところが外語の2年生の時に、心斎橋の喫茶店コロンバンにひとり入り込んでコーヒーを飲んだ。当時すでに戦局急で大豆の焦げたようなにおいのまじったコーヒーになりさがっていたが、それでも私には結構うまかった。
今の東京のコロンバン本店→
だけではない。 このコーヒーが、私に忘れがたい衝撃を与えた。
ゴビの砂漠をゆくと、コーヒーものめないと言うことである。そのころすでに文学づいていて、いやもっと正直に言えば小市民的な悦楽にあこがれるようになっていた。コーヒー、カフェー、映画、小説。
この一杯のコーヒーが、その時それらのすべてを代表し、象徴し、強烈に私の精神を刺激し、質的に変化することを強いた。 私自身気づかぬまに、私の少年期は終わっていたのかもしれない。もう蒙古にはゆくまい、早稲田の支那文学科に転じようとした。
然しそう思っている間に、十八年十二月の学徒出陣にひっかかってしまった。
兵士として、満蒙に行った。
然しそう思っている間に、十八年十二月の学徒出陣にひっかかってしまった。
兵士として、満蒙に行った。
・・・・・
「司馬さんは煙草好きだったが、コーヒーも好きだった。
蒙古語で一緒だった杉本君も、司馬さんの追悼文の中で語っている。司馬さんの本名は福田君である。
「司馬さんは煙草好きだったが、コーヒーも好きだった。
蒙古語で一緒だった杉本君も、司馬さんの追悼文の中で語っている。司馬さんの本名は福田君である。
**杉本君の話
〇「眼鏡」
(メガネは福田君の命のようでした。黒ぶちの丸眼鏡です。2年生のとき、彼はメガネを落としてレンズを割ったのです。(*同級の日根野谷君の話では、校舎の石の階段を下駄ばきで降りていて、生徒監だった金子教授に殴られて割れたらしい)数日間は眼鏡なしの登校でしたが、読書も出来ず、さびしそうでした。口の悪い級友がニックネームをつけました。「冒険ダン吉」と・・。
〔*戦前、←冒険ダン吉はのらくろ上等兵と共に少年倶楽部の漫画の人気者でした、真ん丸い顔に真ん丸い目で、南洋の無人島に漂着して、土人の王様になって王冠をかぶったりしていました。司馬さんはそんな丸い顔つきでした〕
新しい眼鏡が出来ると彼はすぐに元気になり、本の活字がドンドン目から飛び込むようになりました。やはりレンズはベストなのが良いようですね。)
〇 「喫茶店」:
(司馬さんが20年間、奥さんと毎日散歩の途中に立ち寄られたのが、近鉄、八戸ノ里駅近くの「喫茶店・珈琲工房」である。店主の桜井貞夫さんの話。)
奥さんと散歩中→
20年前(*今では30年前)白髪丸顔の人がひょっこり入ってこられた。最初はまさか司馬先生では?と目を疑いましたが、それからは毎日「どうも、どうも」と笑いながら入ってこられました。いつも奥さんと一緒でした。ひとりでこられたのは一回だけだったと覚えています。駅前の西友デパート2階の本屋を覗いての帰り道に私の店に立ち寄るのを、お定まりの散歩コースにして下さっていたと聞きました。
店内では女の子に勝手にニックネームをつけて、「メリーちゃん、うちにお手伝いさんにこないか」とからかわれたりしていました。ある日、私に「桜井さん、以前のお仕事は?」と尋ねられたので「ホテルマン」ですと答えると「ああ、さすがにね!店員のサービス教育をうまくやっておられる」とお褒めにあずかりました。
店のエチケットとして客の話に聞き耳を立てることはありませんが、店内では先生が子供っぽく話されるのを、奥さんが母親らしく受け止めている・・という様子でした。
← 司馬家の愛犬
この店ははじめ「ムッシュ」と名づけていましたが、6年前改装を機に先生に店名をお願いしました。先生は「珈琲屋ではどう?」私は「それはあまりにそのままです。も少しひねってください」とねだると先生はしばらく考えて「珈琲工房はどうや?」「古いようで新鮮な感じですね、それ戴きます」。。で、今の「珈琲工房」になりました。(桜井貞夫さん)
**杉本君の話
(福田君は大のコーヒー党でした。なにしろ「日蒙辞典を買う」と言って親父さんから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししたんです。一種の知能犯?ですね。もっとも、戦時中は代用コーヒーしか飲めませんでしたが・・。(*ゆりの球根だったらしい)
だから「うまいコーヒーが飲まれへん、日本はあかんなぁ」とぼやいていました。
(福田君は大のコーヒー党でした。なにしろ「日蒙辞典を買う」と言って親父さんから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししたんです。一種の知能犯?ですね。もっとも、戦時中は代用コーヒーしか飲めませんでしたが・・。(*ゆりの球根だったらしい)
だから「うまいコーヒーが飲まれへん、日本はあかんなぁ」とぼやいていました。
私の長年の夢は司馬さんともう一度、一緒に熱いコーヒーを飲むことと、彼の十八番の「がまの油」の名せりふを聞くこと、の二つでした。夜、私はドリップ式でコーヒーをいれます。それをすすりながら司馬文学に親しみ、また彼に語りかけます。それが私の生き甲斐です。)
・・・・以上、杉本君の司馬遼太郎追悼文より。
・・・・・・ ・・・・・・
〇 「ハナカイドウ」
「花カイドウ」は中国の原産で、日本には室町時代に渡来しています。紅色の花がうつむき加減に咲く姿が可憐で、花木としてもなかなか人気があります。花弁の内側が白く外側は桃色になっています。花柄が長くて、花が垂れているので、垂糸(スイシ)海棠とも呼ばれています。
昔、中国の玄宗皇帝は、楊貴妃が酒に酔って、寝覚めた後も酔いが残っているなまめかしい様子を「海棠、眠り未だ足らず」と、ハナカイドウの花にたとえて表現しました。