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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(125) 語学の授業

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    (125) 「語学の授業」

 九州は梅雨入りしたというのに、今日は朝からからりと晴れ上がって日差しも強く、いかにもうっすらと暑さを覚える薄暑の一日になりそうです。内外の掃除やら、夏布団の取り出し、洗濯物干しなどをしているうちに、もうお昼です。

         はたらいて もう昼が来て 薄暑かな     能村登四郎

 学生時代の司馬さんは、外向きにはとても明るくて優しい性格で、休み時間にはいつも彼のまわりに人垣が出来ていた。博学多識な彼の話はとても面白くて人気があり、それが聞きたくてみんなが集まってくるのである。当時彼は下校時に近くの御蔵跡図書館に立ち寄って読書するのがお定まりのコースであった。古今東西あらゆる分野の本を片っ端から読了し,ついには読む本がなくなって将棋や釣りの本まで読んでしまったそうである。


 イメージ 1彼の読書力は実に素晴らしいもので、その速さは、1行づつ縦には読まないで、1ページを右上から左下に向かって斜め斜線で読んでしまうのではないかとさえ思われた。

 中学時代、下校時に阿倍野のデパートの書籍売り場で、吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読んでしまって、売り場のおっさんに「ここは貸本屋じゃないぞ~」と怒られたら、「そのうち、ワイがぎょうさん買うてやるから、ええやないか・・」とうそぶいたとか。事実、作家になった司馬さんは、一つの長編執筆ごとに、古本屋で軽トラックいっぱいの古書や資料を買い集めて、図書館が買う本がなくて困ったという話がある。
 
 ↑ 上宮中学時代

 イメージ 2さて、学校の語学の授業は、始めは、チーチク、パーチクとスズメの学校のような発音の練習ばかりなので、ちっとも面白くない。中国語の主幹教授が吉野美弥雄先生→で、丸顔でほっぺたが赤い温厚な人柄だったが、発音は甲高く大きな声で一語一語くっきりとした発音で、あまり流暢とはいえなかったが、中国語の辞書を編纂されて居るくらいだから、その道では一流の先生だったのだろう。

 初めての教科書は「急就篇」という文庫本くらいの大きさで、「桃太郎」の話などが中国語で載っていた。高等教育の教科書が、なぜ鬼が島を攻めて鬼退治をし、宝物をいっぱい持ち帰るというおとぎ話なのかが分からなかった。
 中身はすっかり忘れてしまったのになぜか、鬼子乱七八走的・・グゥエイズロァンチーパアザオデ・・(鬼たちは算を乱して逃げて行った)というワンフレーズだけが頭に残っている。

 生徒たちの中の旧制高校失敗組はみんなこんな語学を毛嫌いして、文学や哲学の本ばかり読んでいる始末であった。私も次第に中国語の勉強がいやになり「慶応の文学部」に入り直そうかと、友達の桑畑と真剣に話し合ったものである。

 その慶応受験のためにと、桑畑と二人で外語の二部(夜間)の英語部にも入って、昼夜二足のわらじで一学期を過ごしたこともある。その頃は下宿のオバサンに頼んで昼夜二食の弁当を作ってもらい、朝、下宿を出て昼間の授業を受け、引き続き夜間の英語の授業を受けて夜遅く下宿に帰る、という忙しい生活であった。その時の英語の先生は、英米人が帰国してしまい、インド人の講師だったが、名前は失念してしまった。

 「お玉さん」という下宿のオバサンは、顔はいかついが、気は優しくてとても親切にして貰い、2食の弁当を頼んでも嫌な顔一つせず、下宿代月30円が相場なのを25円に負けてもらったりした。
(下宿のオジサンは堺の造船所勤めで昼間は顔を合わせないが、夕食時には丸い食卓を囲んで子供たちと共に食事中に、何かと長々と説教を食らった。戦地の兵隊さんの苦労を思って大事に食べろとか、勉強せなあかんぞとか。。)その後小母さんは空襲で被災されて、一家で故郷の浜松に帰られたそうであるが、小父さんと高校と小学生の子供二人ともども、その後の消息は知らない。
  ・・・

 イメージ 3**語学嫌いは司馬サン(福田)も同類だったようで、彼の学校の成績もあまり良い方ではなかったらしい。インド語部で一年先輩の作家「陳舜臣」さんの話では、英、仏、独語など、いくら勉強しても底なし沼の様に難しい語学と違い、蒙古語には語彙が少なく、一年ほども勉強すると一応マスターしたと言ってもよく、その上モンゴルは遊牧民族なので、中国の様に読むべき歴史的古典もない。司馬さんが学校帰りに図書館に通いづめが出来たのも、逆に言えば蒙古語の易しさからでもあっただろう、と言っている。
                                                                                                ↑ 外語時代の陳舜臣さん

 イメージ 4司馬さん(福田)自身も、「京都大学担当の新聞記者時代に、考古学教室で蒙古文字をスラスラと読んで並み居る学者先生たちを感服させたのが、蒙古語を習った唯一のメリットだった」と話しているが、僅か2年足らずでそれだけ話せたという事はやはり蒙古語のやさしさがあるのではないだろうか。

 ← 外語時代の福田君


 蒙古語部に入った当時は、彼も早稲田の中国文学に鞍替えしようかと考えていたそうである。それほど語学に興味がなかった分、当時の彼は御蔵跡図書館に通い詰めであった。彼の博学多識の才能は、母校の外語で、語学だけでなく、経済地理や東洋史、万葉集から三国志はもちろん、法律、経済まで多岐に渡る授業を受け、さらに図書館では各種の雑学を自ら学んだことで培われたのであろう・・

            ・・・・・       ・・・・・・
 
 *今日は6月1日、この頃は瓜の実が割れる頃なのでこの日を「瓜破」ウリワリと言います。
   珍しいことに「六月一日」とか、「六月朔日」と書いて、ウリワリと呼ぶ苗字があります。

  昔、奈良に中国の玄奘三蔵に学んだという「道照」というエライお坊さんがいました。
この人が故郷の河内の国で天神像を祀って、売りを破って供えたと言われています。それから瓜破の地名が生まれ、此の苗字も出来たとか。。
 大阪の平野区に、今も瓜破という地名が残っているそうです。
   これで今日のウンチク、おわり。。

 
イメージ 5

                                               (マロニエ)

 

(126)食料事情

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        (126)  食料事情

 外語一年の後半に、慶応文科を受験しようと考えたのは、若気の至りだが、いったいどういう心境からだったのだろう。ちょっと当時の日記を覗いてみよう。

   イメージ 1「昭和17年12月16日」 (木() 晴れ
 今日からメリヤスを着た。学生射撃指導員合格につき、千日前の大劇前の写真館にて写真を撮る。24日夜に出来るそうだ。家から小包来る。小豆と足袋、靴下である。

 突然、来春、慶応の文科を受験しようと思いついて、一日中頭を去らない。だがこれは熟慮せねばなるまい。期末試験の漢文考査あり、中国語・関先生の答案が戻された。また商業簿記の採点も戻ってきたが、いずれも優良の方である。

 ←関先生は満州貴族の末裔だった。

 「11月17日」 (金) 晴れ
 昨日、今日と防火訓練有り。その際の天王寺消防署の話によれば先の神戸空襲(*アメリカ空母によるドウリットル空襲か?)の際には、460発の焼夷弾が落とされ火事になったのは15か所だったそうだ。

 イメージ 2
 昨日から慶応文科受験の件、いよいよ心を捉えて離れない。自分は語学には向いていないという思いがひしひしと迫る。自分は他の私大受験志望者のように、学校がいやなのではない。また成績が悪いのでもない、むしろ良い方である。それに中国語が面白くなくてたまらないと、言うわけでもない。(あまり好きとは言えないが・・)

  ←旧上八校舎・校門のプレート

 ただ、自分の性格として語学を武器として生計を立てるのに適しているか、という事に一抹の不安があるのだ。俺は、何の目途もなく、ただふらふらと外語にやってきたのではないか、語学よりも自分は文学者として生きるのが一番適しているのではないか、と思われてならない。それかといって、いまさら受験勉強をするのも嫌だ。全く俺は仕様のない奴だ。しかしまだ希望はある。それは外語からでも帝大に進む道があるのだ。)・・・

      ・・・・・・
 *このように本科の中国語と夜間の英語の二足の草鞋を履いて、昼夜二回の授業を受けたが、さすがに体力的にも昼夜の学校生活はつらく、食糧難もあって下宿のオバサンに2食どころか弁当その物も作って貰えないような事態になってきて、いつの間にやら夜間の英語科をやめ、慶応進学の夢も断たざるを得ないようになった。(*尤も、本科では第二外国語で英語の授業があるから、英語と全く縁が切れたわけではない)


  〇 食料難

 イメージ 3日中戦争が始まって依来、台湾、朝鮮からのコメの輸入が減少して内地の食糧難は次第に厳しくなり、昭和16年にはコメの配給制が始まって成人男子1名1日2合3勺(330g)と決められたのを皮切りに,副食,酒,マッチ,煙草,木炭,衣料などの生活必需品が配給制となった。独身者や旅行者など外食を必要とするものは、米屋で米穀通帳を示して、外食券を求め、外食券食堂で食事するのである。

 ← 米穀通帳

  それに若い男子が召集されて軍隊に入って農家の労働力不足のため、野菜などの生鮮食料も少なくなり、下宿の食事も次第に困難になってきた。

  下宿のオバサンが毎日、一升瓶に配給の玄米を入れて、棒で突いて七分搗きに精米していたのを覚えている。又、実家からも時たま根菜類を下宿あてに送ってきた事もある。当時の日記にもたびたび食べ物の話が出てくる。昭和17年、一年生後半の日記を見てみよう。


     ・・・・・

 〇 「昭和17年9月10日」  (木) 晴れ
 久しぶりに洋菓子か何か甘きを求むる心に迫られ、やるせなし。大枚20銭をはたきて羊羹を買いしが、あまりのまずさに思わず悲しみ至れり。何の悲しみぞや、故郷を遠く離れ、父母と離れてひとり暮らすラス若者のみが知る哀しみなり (*なんとセンチで大げさな・・)

 〇 「9月13日」 (日) 残暑厳し
 洋服のポケットの奥より、十円札発見!まさに地獄に仏の心地せり。明日からは定食ではなく、カレーライスが食べられる。ああ、嬉しきかな。

 〇 「9月24日」 (木) 晴れ
 今日は、祝日・秋季皇霊祭なり。戸田、戸倉、西村の4人にて箕面までハイキング。帰途、電車混雑のため箕面より豊中まで歩く。団子屋にガンバリて悠々将棋を行い、ついに団子を食するを得たり。げに長期戦においては、忍耐こそ肝要なるを覚えたり。団子屋のオバサンも頑固だったなぁ‥(どっちが・・)ハハハー

 〇 「10月9日」 (金) 曇りのち雨  
 学校食堂にてパンあり。ひさしぶりのパンなり。小包み来る。生栗を飯盒に入れてあり、ミルク(練乳)缶及びチリ紙。ミルクは加糖なれば甘さに飢えたる身には舌もとろけるばかりの旨さなり。湯を加えて飲むべきなれど、湯は無し、そのまま学校配給のパンにつけて食う。
  〇「10月14日」水 秋の空
 朝、体操あり、運動した後のすがすがしさよ、パンを食う。あのミルクをつけて。

 〇 「10月25日」 (日)  晴れ 
 学校で「イモ」の配給あり、最近イモを食べることが多いので『オナラ』が出て困るよ。
夕食は下宿のオジサンから外食券を貰い、北極星(*心斎橋筋のレストラン)で食事、帰っててから下宿にてケーキを頂く。寒い、寒い、早く寝て、死んだ真似をしよう、グーグー。
  〇 「11月1日」 (日) 曇り
 10月の全費用、53円93銭。下宿代25円也。家から小包来たる。座布団、寝間着、羊羹二箱、キャラメル一個。羊羹一箱は下宿のオバサンに進呈。

  〇 「11月18日」 (水) 晴れたり曇ったり
 昨日、家から羊羹4本が送って来た。2本を下宿の子供にやる。
  〇 「12月6日」雨のち晴れ
 家からゴボウを送ってきた。オバサンに上げる。

 ・・・など、など、この昭和17年までは何とかしのいできたものの、18年になると戦局の悪化と共に次第に厳しい食糧難が迫ってきた。


       ・・・・・                 ・・・・・・

 *今日も爽やかな初夏の一日でした。
   6月ももう三日、いつもの事ながら飛ぶがごとくに一日、一日が去っていきます。

イメージ 4
                           
                           (飛翔)                                             


(126)食料事情

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        (126)  食料事情

 外語一年の後半に、慶応文科を受験しようと考えたのは、若気の至りだが、いったいどういう心境からだったのだろう。ちょっと当時の日記を覗いてみよう。

  イメージ 1 「昭和17年12月16日」 (木() 晴れ
 今日からメリヤスを着た。学生射撃指導員合格につき、千日前の大劇前の写真館にて写真を撮る。24日夜に出来るそうだ。家から小包来る。小豆と足袋、靴下である。

 突然、来春、慶応の文科を受験しようと思いついて、一日中頭を去らない。だがこれは熟慮せねばなるまい。期末試験の漢文考査あり、中国語・関先生の答案が戻された。また商業簿記の採点も戻ってきたが、いずれも優良の方である。

 ←関先生は満州貴族の末裔だった。

 「11月17日」 (金) 晴れ
 昨日、今日と防火訓練有り。その際の天王寺消防署の話によれば先の神戸空襲(*アメリカ空母によるドウリットル空襲か?)の際には、460発の焼夷弾が落とされ火事になったのは15か所だったそうだ。

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 昨日から慶応文科受験の件、いよいよ心を捉えて離れない。自分は語学には向いていないという思いがひしひしと迫る。自分は他の私大受験志望者のように、学校がいやなのではない。また成績が悪いのでもない、むしろ良い方である。それに中国語が面白くなくてたまらないと、言うわけでもない。(あまり好きとは言えないが・・)

  ←旧上八校舎・校門のプレート

 
 ただ、自分の性格として語学を武器として生計を立てるのに適しているか、という事に一抹の不安があるのだ。俺は、何の目途もなく、ただふらふらと外語にやってきたのではないか、語学よりも自分は文学者として生きるのが一番適しているのではないか、と思われてならない。それかといって、いまさら受験勉強をするのも嫌だ。全く俺は仕様のない奴だ。しかしまだ希望はある。それは外語からでも帝大に進む道があるのだ。)・・・

      ・・・・・・
 *このように本科の中国語と夜間の英語の二足の草鞋を履いて、昼夜二回の授業を受けたが、さすがに体力的にも昼夜の学校生活はつらく、食糧難もあって下宿のオバサンに2食どころか弁当その物も作って貰えないような事態になってきて、いつの間にやら夜間の英語科をやめ、慶応進学の夢も断たざるを得ないようになった。(*尤も、本科では第二外国語で英語の授業があるから、英語と全く縁が切れたわけではない)


  〇 食料難

 イメージ 3日中戦争が始まって依来、台湾、朝鮮からのコメの輸入が減少して内地の食糧難は次第に厳しくなり、昭和16年にはコメの配給制が始まって成人男子1名1日2合3勺(330g)と決められたのを皮切りに,副食,酒,マッチ,煙草,木炭,衣料などの生活必需品が配給制となった。独身者や旅行者など外食を必要とするものは、米屋で米穀通帳を示して、外食券を求め、外食券食堂で食事するのである。

 ← 米穀通帳

  それに若い男子が召集されて軍隊に入って農家の労働力不足のため、野菜などの生鮮食料も少なくなり、下宿の食事も次第に困難になってきた。
  下宿のオバサンが毎日、一升瓶に配給の玄米を入れて、棒で突いて七分搗きに精米していたのを覚えている。又、実家からも時たま根菜類を下宿あてに送ってきた事もある。当時の日記にもたびたび食べ物の話が出てくる。昭和17年、一年生後半の日記を見てみよう。

     ・・・・・

 〇 「昭和17年9月10日」  (木) 晴れ
 久しぶりに洋菓子か何か甘きを求むる心に迫られ、やるせなし。大枚20銭をはたきて羊羹を買いしが、あまりのまずさに思わず悲しみ至れり。何の悲しみぞや、故郷を遠く離れ、父母と離れてひとり暮らすラス若者のみが知る哀しみなり (*なんとセンチで大げさな・・)

 〇 「9月13日」 (日) 残暑厳し
 洋服のポケットの奥より、十円札発見!まさに地獄に仏の心地せり。明日からは定食ではなく、カレーライスが食べられる。ああ、嬉しきかな。

 〇 「9月24日」 (木) 晴れ
 今日は、祝日・秋季皇霊祭なり。戸田、戸倉、西村の4人にて箕面までハイキング。帰途、電車混雑のため箕面より豊中まで歩く。団子屋にガンバリて悠々将棋を行い、ついに団子を食するを得たり。げに長期戦においては、忍耐こそ肝要なるを覚えたり。団子屋のオバサンも頑固だったなぁ‥(どっちが・・)ハハハー

 〇 「10月9日」 (金) 曇りのち雨  
 学校食堂にてパンあり。ひさしぶりのパンなり。小包み来る。生栗を飯盒に入れてあり、ミルク(練乳)缶及びチリ紙。ミルクは加糖なれば甘さに飢えたる身には舌もとろけるばかりの旨さなり。湯を加えて飲むべきなれど、湯は無し、そのまま学校配給のパンにつけて食う。
  〇「10月14日」水 秋の空
 朝、体操あり、運動した後のすがすがしさよ、パンを食う。あのミルクをつけて。

 〇 「10月25日」 (日)  晴れ 
 学校で「イモ」の配給あり、最近イモを食べることが多いので『オナラ』が出て困るよ。
夕食は下宿のオジサンから外食券を貰い、北極星(*心斎橋筋のレストラン)で食事、帰っててから下宿にてケーキを頂く。寒い、寒い、早く寝て、死んだ真似をしよう、グーグー。
  〇 「11月1日」 (日) 曇り
 10月の全費用、53円93銭。下宿代25円也。家から小包来たる。座布団、寝間着、羊羹二箱、キャラメル一個。羊羹一箱は下宿のオバサンに進呈。

  〇 「11月18日」 (水) 晴れたり曇ったり
 昨日、家から羊羹4本が送って来た。2本を下宿の子供にやる。
  〇 「12月6日」雨のち晴れ
 家からゴボウを送ってきた。オバサンに上げる。

 ・・・など、など、この昭和17年までは何とかしのいできたものの、18年になると戦局の悪化と共に次第に厳しい食糧難が迫ってきた。

       ・・・・・                 ・・・・・・

 *今日も爽やかな初夏の一日でした。
   6月ももう三日、いつもの事ながら飛ぶがごとくに一日、一日が去っていきます。

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                           (飛翔)                                             


(117)黄ショウブ

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     (117) 「黄キショウブ」 


        このところ、堅い話ばかりなので、ここらでちょぃと息抜きに花の話でも。。


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 キショウブ(黄菖蒲)はアヤメ科の多年草で、水辺に生えて、五月上旬から中旬にかけて黄色い花が咲きます。葉は細長くて縦に筋があるのが特徴です。


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 キショウブはヨーロッパが原産の帰化植物で、明治期から日本でも栽培されています。

もともと「花菖蒲」には黄色いのがないので、珍重されていましたが、今は水田脇や水辺に野生化して繁茂しすぎて逆に「要注意外来植物」として警戒されています。


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 「黄ショウブ」は「菖蒲」の名がついていますが、菖蒲とはまったくの別種です。
黄菖蒲や花菖蒲はアヤメ科ですが、五月の節句に使う「菖蒲」はサトイモ科で、花もまったく違い、ショウブの花はとても地味なもので目だちません。


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         ・・・・・          ・・・・・

*昨日久しぶりにゴルフクラブを振り回したら、効果てきめん。。
  右の太ももに神経痛が出て、ズキズキと痛い、痛い・・

 早速、退蔵のロキソニンを取り出して一錠服用、半時間後には何事もなくイオン買い出しへ・・
 こんな神経痛の突発にはロキソニンが良く効きます。

 ‥などと、まずは薬の宣伝まで‥(^_-)-☆
    *(でも飲みすぎると胃が悪くなりますよー。これは老婆心ならぬ老爺心からです。。)

            /////                                //////

(127)学生の日々

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       (127) 学生生活の日々
 
 古い日記を見ていると、75年前の戦時中の世情や学生生活が思い出されて、我ながらなかなか面白く、つい、いつまでも読んでしまう。

   イメージ 3 〇 「昭和17年12月23日」(水)曇り
 終日曇天なれど、さほど寒さを感ぜず。本日の考査、国語と商業。
成績・国語は8割程度、商業は十割確実なり。国語は聊か油断して的を外せしが、商業はよく準備出来て成績完璧なるを確信せり。

 ←*国語の長谷川信好教授は歌人で、平家物語や万葉集を習った。
放課後、学食の2階で短歌俳句同好会を指導されて、同期の赤尾兜子や司馬さんも多大の感化を受けたようである。


〇 「昭和17年12月24日」 (木) 晴れ

 言語学
は7割程度か、あらぬことばかり書いてしまった。地理は9割の出来、残る試験は法律のみである。戸田とニュース館に行く。ここはニュース映画専門なので劇映画はない。ドキュメント「鵜匠」「嶋」、ともに文部大臣賞の秀作だった。冬休みの帰省のため、押し入れや本棚の整理で夜遅くまでかかってしまった。 下宿代、帰省の汽車賃などのため、百五十円引き出す。

 
イメージ 4
                             (昭和17年2月16日の新聞記事)     
  

     (* 戦時中の映画館では、劇映画の合間に必ずニュース映画が上映された)


 「12月25日」(金) 晴れ
 大正天皇祭、昭和17年も大阪で寝るのは今日が最後だ。期末試験、明日の法律で最後なのでつい気が緩んで、あまり勉強できなかった。高山樗牛の「滝口入道」を読む。難解な文語体だが、なかなか面白い。

イメージ 1・・・ 驕(おご)る平家を盛りの櫻に比くらべてか、散りての後の哀れは思はず、入道相國(にゅうどうしょうこく)が花見の宴とて、六十餘州の春を一夕(いつせき)の臺(うてな)に集めて都西八條の邸宅。君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達(きんだち)、宗徒(むねと)の人々は言ふも更(さら)なり、・・・

 ・・・嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。・・・

 〇 「12月26日」 (土) 曇り
 
イメージ 5 法律の試験のみあり、8割から9割の出来か。。オーバーがやっと出来てきた。衣料切符50点、代価95円。これから佐賀へ帰るところだ。下宿代20円支払い。オバサンから母への手土産を貰った。

 
 ←*法律の白井正教授は福岡柳川の出身。
 空襲で母校が燃えた時、猛火の中、身を挺して図書館の貴重な像書類を守られた。生徒にとってはコワイ九州男児だった。


  「昭和18年1月1日」
 今年の元旦は日本晴れである。屠蘇を頂き、酒を飲み、雑煮を食べ、干し柿を食べ、うたた寝をして、皇紀二千六百一年の第一目を終わった。

 〇 「1月4日」
 午後5時帰阪の予定だったが、姉の中国への出発のため母が長崎まで見送りに行くので、7日帰阪に変更す。このため3日間学校欠席、皆勤賞を逃したれど、悔いなし。
 〇  「1月7日」
姉は本日午前11時、長崎出帆の上海丸にて中国・南京の義兄のもとに出発す。(*義兄は南京の日本人学校の教師として先に赴任していた)
 午後3時40分、母ら帰宅。夕食は皆ですき焼を食す。
 午後7時6分、佐賀発、博多行きの普通の列車にて大阪へ出発。
 下宿のオバサンへの土産。。 餅、味の素、牛肉百匁。。

 〇 「1月8日」
 昨夜の博多よりの急行、混雑を極むるをもって下関にて下車、 博多まで乗ってきた佐賀発の普通列車に再び乗り換え、大阪へ。そのため座席には座れしも、大阪着は3時間遅れたり。朝、9時ようやく大阪駅到着。いよいよ明日からまた学校だ。今度の休みはほんとに短かった。
  ・・・

 *・・という具合なので、この頃はまだ食料もなんとか調達できたようだ。母の実家もだが、親戚には農家が多いし、正月には、酒を飲み、雑煮を食らい、すき焼まで食べているので都会と違って田舎はまだまだ余裕があったのだろう。

 〇「1月12日」 雨と風
 雨のためマラソンの寒稽古を休む。あヽ、無性にお菓子が喰いたい。家にいた時は何でも食えたのに・・
 〇「1月12日」 晴れ風強し
イメージ 2寒い、寒い。今日のように寒い日は未だかって体験したことがない。氷が一寸ほども張って、砂まで凍ってガチガチである。言語学はどうも欠点のようだ。今回は言語学はあまり勉強しなかったからなぁ・・自業自得だ。
 (*欠点は50点以下、一科目でも欠点があると落第だった)

 ああ、いやだ、いやだ・・何もかもいやだ。寒くはあるし、寒稽古のせいで眠たいし、言語学は欠点だし、先生はガミガミ言う。菓子は無く、学校食堂の飯はまずい。学校の成績が一割以内でないと帝大受験も出来ないのだ。
                        (*言語学は京大教授・高畑彦次郎博士の出講だった)↑

 姉は南京に行ってしまい、兄の出征も近く、家のことも心配だ。 ああ、いやだ、いやだ・・

・・・・・しかし、よく考えてみたら、ほんとに辛いのは兄の出征の事だけではないか。。だが、これは自分の力ではどうしょうもないことだ。
 没法子(メイファーズ)。。 と考えたら、少し気が楽になって、家に手紙を書く。 

    ・・・・・      ・・・・・
 *戦時下の青春の悩みは、恋でも愛でもなく、単に学校の試験と甘い菓子が食べたいくらいのものだったのか。。

       ///////               ///////

 
イメージ 6
                                                   (昭和16年4月の新聞広告)


 

(128)学食のこと

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    (128) 「学食のこと」

 下宿で弁当を作って貰えないとなれば、勢い昼飯は学校食堂に頼らざるを得ない。米は配給制だが当時の食堂はまだ切符制ではなく、早めしを食ってまた並んで居れば何度でも食べられる。学生のために学食には特別の配慮があったのだろうか。
 
 同級生でも大阪の出身者は自宅から通学なので弁当も作れるが、地方出身で下宿生活をしている者は皆事情が同じなので、いつも腹を空かせていた。だから、正午の授業が終わるとみんな、一斉に2階3階の教室から躍りだして、食堂めがけてばたばたと階段を駆け下りて行くのである。早く行ってメシをかきこみ、また行列のあとに並んで2杯目を食べねばならない。

 *(だから気の効いた先生はベルが鳴る5分くらい前で授業を止めてくれるし、クソ真面目な道学先生はベルが鳴っても、人の気も知らないで授業を続けている。いらいらしている我々にとって、「良い先生」「悪い先生」の分かれ目は、実にこのベルの前後5分間に掛かっていたのである。。)

イメージ 1
                                                   (授業風景・みんな丸坊主)
  
 学食のメニユーは大抵、カレーか丼メシである。カレー(カレーライスではなく、当時はライスカレーと言った)には牛肉はなくて、サメだかフカだか分からないようなサイコロ状の魚肉が二切れだけ乗っている。カレーのルーもメリケン粉を溶いて煮込み、単にカレー粉で黄色く色をつけただけのものである。
 一方の丼飯も、小さい角切りのサメの肉を二切れ乗せて、あとはだし汁をぶっ掛けただけの丼メシである。そして、どちらにも塩辛くて毒々しく黄色い「たくあん」が二切れ乗っていたのを覚えている。それでも腹をすかせた若者にとってはこの上もない美食であった。

 金を払う時、色白の中年の食堂のオバサンが、腹をすかせた少年たちに「ヘぇ、おおきに!」と、我が子を見るような優しい目つきで声をかけてくれたが、空襲で母校が燃えたあと、あのオバサンはどうなったことだろうか。
 
 然し、このサメの肉があたったのか、下校時に急に腹が痛くなって七転八倒、帰り道の難波の高島屋の前の芝生の上にぶっ倒れたこともある。頼るものとて居ない独り身の下宿生活、あのときほど心細い思いをしたことはない。このまま異郷の大都会の片隅でひっそりと死んでしまうのか・・と。

 
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                                    (昭和初期の高島屋。南海電車の始発駅があった)

 高島屋といえば、入校後初めてここの地下大食堂で食べたハンバーグの味が忘れられない。今のおいしい肉入りとは違い野菜だらけのハンバーグだったが、田舎料理で育った少年には「世の中にはこんなうまい食べ物があるのか!」と、目からうろこが落ちる思いであった。

 昭和18年も後半になると、その学食も一日置きになってしまったので、学食のない日は下宿のオバサンに無理を言って弁当を作ってもらったが、昭和19年5月からは勤労動員で大阪造兵廠(砲兵工廠)に働きに行くようになり、昼飯にはどんぶり飯の昼食が出るので、大豆飯ではあるが腹いっぱい食べれるようになった。

 「昭和19年4月18日」

 今日は昼飯抜きだ。学校の給食が一日置きなのを忘れて弁当を持って行かなかったのだ。
ニィチェやカントの哲学者も腹が減っては困る! 没法子・仕方がない・・、
まぁ、時には断食するのもいいだろう。しかし、この分ではせっかく肥えていたのにまたもとに戻るかも知れん。それにしても今日は晩飯が遅いようだ、腹がグーグー言いだした。

 イメージ 4    向かい家の二階の窓の乙女子の
        三味取る袖に春の雨降る

     疎開せし隣の家の飼い犬の
        人を慕いて狂い鳴くかな
 
    〇 三月読書

       「詩集」・「詩の原理」「虚妄の正義」   萩原朔太郎   →
       「ニイチェ研究」  和辻哲郎」  
       「ファースト」「若きウェテルの悩み」  ゲーテ
       「おかめ笹」「腕くらべ」「アメリカ物語」  「珊瑚集」  永井荷風
       「運命・独歩集」「日記・詩」  国木田独歩
       「作家論」①②   正宗白鳥
       「冬の宿」  阿部知二
       「寝園」  横光利一
       「お目出度き人々」  武者小路実篤全集
       「今戸心中」  広津和郎     
       「北村透谷集」
       「飯倉だより」 島崎藤村 
 
  若いころはよく本を読んだものだ、よほど暇があったんだろうか、いや、戦時中は本を読むくらいのもので、ほかに遊びや楽しみがなかったのだ。3月は春休みもあるし特に多かったようだ。

 *あれから75年、今は日本全国何処に行っても立派な外食があり、スーパーにはあふれるほどの食品が並んでいるという、飽食の時代である。世の中変われば変わるものだ。 あの学校食堂で、先を争って二度飯を食べていた時代は、いったいどこへ行ったのだろうか。。

             ・・・・・
 
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                                                     (昭和18年の広告欄)

                  学徒出陣の歌は当然だが、覚せい剤のヒロポンの広告があろうとは!

(129) 「戦時学生の金銭簿」

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        (129)  「戦時学生の金銭簿」

 昔の日記を眺めていると、そのころの出費や物価が分かって面白い。
当時の大学新卒の給料は月50~60円くらい、外語の1学期分の授業料が34円、下宿代が30円、家庭教師の報酬も30円だったが、さすがに高級軍人の給料は高かった。

イメージ 1 しかし、軍人も位によって給料もさまざま、昭和18年の陸軍給与令によると、大将は月額、550円、中将は500円だが、最下級の少尉は70円しかない。将校でも家庭持ちの少尉、中尉程度では、生活もあまり楽ではなかったようだ。

 「貧乏少尉、やりくり中尉、やっとこ大尉」という言葉があるくらいで、給料150円の大尉でやっとこさ、生活ができる程度だったという。その下の一般兵はなおひどい。最下級の二等兵が僅か7円50銭とは、同じ命を代償にする軍人にしてはそのあまりの落差に驚かされる。ちなみに紫蘭が居た予備士官学校の生徒の給料は月60円だった。ついでながら、昭和17年に学生だった私がオーバーを作った時は、一着95円だった。
月給でオーバーも買えないとは。。今なら・・
                                                                      ↑   東条英機陸軍大将

イメージ 2〇「昭和17年8月28日」  (金) 晴れのち曇り
 射撃部3年生、半年繰り上げ卒業につき送別会有り。午後4時より心斎橋の森永キャンデーストアにて開催、会費2円50銭。記念品としてシャープペンシルを贈る。
 別に中国語部の送別会あり、会費2円50銭、中国語部費4円と、このところ出費多し。

 〇「9月4日」金 晴れ 
 2学期分授業料、34円、15日から21日までに納付との掲示あり。
 46円と思い込み居りしゆえ、案外助かりしとの気持ち也。然れども今月は小遣い30銭以下に制限せねばならぬ窮状にあり。


〇 「9月16日」 (水)晴れ
 授業料34円納付す。「電車賃節約のため下校時は難波まで歩いて帰っている」と、手紙に書いたら兄からきつく叱られた。
 「金を節約するとはなにごとか!食べたき物を食べ、読みたき本を買うべし。ただ無駄使いはするな。学生の身分にて、金の節約の算段などすべからず、勉学第一なり」として、郵便為替を同封し有り。
 先日来の頭痛、いよいよ激しく成りて、水鼻の絶え間なし。橋本散(風邪くすり)を飲む。早く治れと祈るのみ。。

 イメージ 3〇「9月19日」 土 晴れのち雨

 夜来の雨もあがり今朝は晴れた。出席者少なきため射撃部の実弾射撃中止。歌舞伎座5階の映画館にて五所平之助監督作品の映画「人生のお荷物」を見る。良き作品と思う、傑作だ。腕時計のバンドを高島屋にて求む。ステンレス製で3円12銭也。月刊誌「文章」を買う。 夕方より沛然と雨至る。
                                                                                          ↑昭和初期の大阪歌舞伎座


イメージ 4 〇 「9月30日」火 曇り
 為替50円引き出す。金子先生休講。剣道も無し。山岸外史の評論「芥川龍之介」難し、むつかし。。しばらくこれを措く。谷崎潤一郎の「春琴抄」が素晴らしい。
9月全費用・83円16銭。
  授業料34円、下宿代30円(8月と9月二ヶ月分、夏休みのため減額)

← 谷崎潤一郎 「春」琴抄」 

   〇「11月1日」日 曇り
 寒くなった。せっかくの日曜をブラブラして過ごす、時計の修理、2円70銭、心棒が折れていたそうだ。
                     本日、大東亜省設置が確定、初代大臣・青木一男

(*子息が予備士で同期だった。それも同じ第一中隊第一区隊、第一寝室だった。在校中は栄養失調で苦しんでいたが、終戦後は東大を出て官僚として活躍した)
10月全費用 53円93銭、下宿代25円



  イメージ 5〇 「11月14日」土 終日雨、
吉 野教授休講。貯金の金2円を桑畑に借りる。兄より便りあり、小為替150円同封し有り。姉は本日長崎出帆の由、海路平安を祈ってやまず。(*荒天のため出帆出来ず。1月7日に変更)芥川龍之助の「百草」「藤村詩集」 購入。
                                                          → 若き日の島崎藤村

          小諸なる古城のほとり
          雲白く遊子悲しむ
          緑なすはこべも萌えず
          若草もおくによしなし
          しろがねの衾ふすまの岡返
          日に溶けて淡雪流る


  〇 「12月4日」金 晴れ

 時計を落とした。36円もするのに馬鹿な事をした。生徒課に紛失届を出す。見込みはないようだ。
 (*時計は数日後に出てきた。桑畑が間違って自分のカバンに入れて持ち帰っていたのだ。呑気な奴だ。)

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                           イメージ 6

                                                (昭和元年・戒厳詔書発布)


       ・・・・・・   

(130) 「戦中、戦後の物価」

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    (130) 「戦中、戦後の物価」

 日記をみてみると、一学期の授業料が34円【3学期制】で毎月の下宿代が30円、昭和17年の9月の全費用(83円16銭)授業料34円を含む。
 10月の総費用は(53円93銭)との記述があるから、普通は月に50円くらいが必要だったのだろう。

 イメージ 7また、日記によるとオーバー95円、皮靴22円、腕時計36円、時計バンドステンレス3円12銭。学食の昼飯代20銭、羊羹20銭などと書いている。貨幣価値の違いとはいえ、数値的に今の物価から見て、12銭とか20銭とか、銭単位の値段を見るとなんだか奇妙な感じがする。

  ←5銭硬貨

 友人の中学生の家庭教師のアルバイトが,週3日ー3時間で月30円、ほかに交通費や夕食、おやつなどもついて居たたらしいから、なかなかいいアルバイトだ。。
 
 参考までに、戦時中の物価を少し調べてみると・・
イメージ 1・汽車賃(東京-大阪間) 5円 95銭 (昭和15年)・ 
大工の1日の手間賃 3円 90銭 (昭和18年)
 ・巡査の初任給 45円 (昭和19年) ・・自転車 90円 80銭 (昭和15年)
・東京の銭湯 12銭 (昭和19年8月) ・・理髪料金 80銭 (昭和18年)
・はがき 3銭 (昭和19年4月) 7銭 (昭和20年4月)
・封筒 7銭 (昭和19年4月) 10銭 (昭和20年4月)
・雑誌『中央公論』 71銭 (昭和19年6月) ・

・朝日新聞(朝夕込み) 1円 30銭 (昭和19年)
・岩波文庫(漱石の吾輩は猫・S14年) 40銭・
・単行本(ノモンハン・ノロ高地・S16年)1円50銭
・単行本(高村光太郎・智恵子抄・S18年)2円50銭
 (*この頃の本の定価には、特別行為税として10銭が加算されている。軍費調達のためだろうか)
                                         ↑    昭和17年、新刊書予約申し込みの葉書・2銭と1銭の切手
 

イメージ 2・飴玉 2個で一銭・アンパン5銭、ジャムパン10銭・・コーヒー15銭・カレーライス30銭・天丼50銭
・一級酒〈一升・配給19年) 12円・・二級酒(19年)8円・・ビール・配給・大びん 1円30銭
・タバコ15銭(ゴールデンバット)・・駅弁 (幕の内) 40銭・・映画館 80銭 


 *タバコが10本入り15銭とは・・、 今は20本入りで500円もする。
 なんだか頭がおかしくなりそうだ。
             
 ←ゴールデンバット。戦時中は「金鵄」に改名された。

 〇 「戦後物価考」

 *このように戦時中の公定価格や停止価格などの統制経済政策により、ともかく安定していた物価も、敗戦とともに食料や物資の不足と海外からの引揚者の増加に伴い小売価格は急速に高騰し、4か月後には2倍に、6か月後には約3倍となり、3年半後の昭和24年の消費者物価は約100倍になるという超インフレ状態になった。

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             竹内宿祢の旧一円札・めったにお目にかかれなかった


 商人は品物を仕入れておけば売らなくてもすぐに値段が何倍となって大儲けするし、サラリーマンは貰った月給が、次の給料日には半分の購買力しかないというようになり、そのため安定した公務員やサラリーマンを辞めて商売に転向する者が続出するとという、可笑しな社会現象まで起こった。

 そんなインフレ対策のために、敗戦6ヶ月後の 21年2月に突如、新円切替預金封鎖や資産没収のための財産調査が行われ、旧円は約3週間のうちに新円に交換しないと無価値になってしまうことなり、その新円も毎月の生活費しか引き下ろせないこととなった。一家族が1ヶ月に引き出せる金額が500円に制限され、いわゆる「500円生活」の時代になったのである。

 イメージ 3この「新円切り替え」はあまりにも急に行われたので、紙幣の印刷が間に合わず、旧札に証書を張っただけの紙幣まで出された。
 また新円の←10円札の図柄が安っぽくて、何だか「米国」と印刷されているように思えて、敗戦国の悲哀を感じたものだ。


 しかし、その後5年間は大不況とインフレとが同時に起こるスタグフレーション状態となり、治安の悪化や社会混乱が続き、食料不足から多数の餓死者も出た。この5年間で、小売物価が敗戦時の約100倍となるというハイパーインフレにみまわれたのである。

 そして昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、その特需効果とアメリカの支援によって、破壊的なハイパーインフレーションもようやく収束に向かうことになったのである。

 
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            200円紙幣・新紙幣が間に合わず、右上に証紙が貼ってある


              /////
 
 外語一年の時の日記には、生まれて初めての下宿生活でもあるし、このようにこまごまと生活の模様を書いているが、2年生になるとなぜか身辺雑事の記述は少なくなって、小難しい人生論、文学論のような書き方になっている。少しは大人になったのか、細かい金勘定などはバカバカしくなったのか。。
 それとも戦争の激化で勤労奉仕が多くなり、日記どころではなくなったのかも知れない。

              ・・・・・               ・・・・・


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(昭和25年の新聞広告)


(131) シラミの宿

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      (131) シラミの宿
 
  昭和17年4月、外語の試験に合格して上阪し、北浜のビルの中で盛大に理髪店を開いていたマタイトコのおっさんの世話で、近鉄沿線のアパートの一室で生まれて初めての下宿生活が始まった。

 夜行列車でまだ明けやらぬ大阪駅に着いて、地下鉄で淀屋橋まで行き、北浜のビル街の一隅で、トランクに腰かけてまだ見ぬおっさんがやってくるのを、心細げに待っていたあの時のわが少年の日の姿を思い出す。2時間近くも待っていると、やっとちょび髭のおっさんがやってきて、すぐに喫茶店に連れて行き、コーヒ-とケーキをおごってくれた。さすが、都会の人は洒落たことをするなぁ・・と感心したものだ。

 店には散髪代が10台もあり職人も多い。散髪代もお客は札びらを切って、そのお釣りも取らないし、盆、暮れにはお得意さんの大会社の社長族の方から逆に歳暮や中元を貰うんや・・などと自慢話を聞かされた。 おっさんはこの近鉄沿線の駅前に床屋の支店を持っていて、そのアパートには中年の理髪師が住んでいたので、この部屋に同居するようになったのである。

 イメージ 1その支店はY駅のすぐ前にあり、散髪台が三つ並んだだけの小さな床屋さんであった。二号店の二号さんその人は、薄緑色の着物姿に白い割烹着をつけて散髪の仕事をしていた。

 ちょうど岩田専太郎が描く美人画→から抜け出したような楚々とした色白の美人であるが、少しばかり薄汚れた半襟のせいか、多少崩れた感じがしないでもない。 
 「生活の垢」とでも言うべきかもしれないが、年若い田舎少年の身には、そこはかとなく漂う彼女の脂粉の香りの方が何か気になった。

 彼女のほかには、ズーズー弁を使う中年の(*少年の目からはそう見えたが、あるいは30歳そこそこだったかもしれない)職人さんと「やり手ばばぁ」風の皺くちゃばぁさんが居た。彼女のお母さんである。このばぁさんが作る朝飯のおかずは生の「キビナゴ」が5匹くらい付いているだけで、生臭いものが嫌いな自分は食べないわけにも行かず、この朝食にはほとほとも閉口したものである。

 イメージ 2食事はここで採るのだが、夜は電車軌道の向こう側にあった職人さんが住むアパートの一室に同居することになり、2,3日後には、おっさんに奈良の若草山まで彼女と三人連れで遊びに連れて行ってもらった。

                        →  若草山で おっさんと・・やはり彼女は写っていない

  ところが翌日から全身が痒くてたまらない。あの生のキビナゴが当たって蕁麻疹になったのではないかと思ったが、熱もないし体はなんともない。シャツを脱いでポリポリ掻いていると、シャツに何やらうごめくものがいる。初めてお目にかかったので後で名前を知ったのだが、いわゆる「千手観音」の異名を持つ「しらみ」であった。千手観音のようにたくさんの手足がうごめいている、あの不気味な「しらみ」なのである。

 この吸血鬼が居るわ、居るわ! シャツといわず猿股といわず、縫い代のかげにワンサと一列渋滞になって鎮座しまして居るのである。びっくりするよりも、何か気味悪くなって、シャツから何から全部ゴシゴシと洗濯してしまったが、翌日になってもこの薄気味悪い小動物は少しも消えてくれず、とにかくカユイ、カユイの一言であった。

 ノミとかシラミと言っても現代人にはピンとこないだろうが、まだDDTとか殺虫剤の普及していなかった戦前は、人間の住むところ何処にでもノミとシラミが跋扈して居た。犬猫にはノミが多く、毛をかき分けると一目散に逃げまわるノミの大軍が居て、少年のころ我が家の愛犬から数十匹のノミを採ったことがある。

       のみしらみ馬の尿(しと)する枕もと      芭蕉

 シラミは主に人間に寄生する場合が多い。ノミの幼虫が部屋の隅の埃の中などで育つのに対して、シラミはその一生を宿主上で暮らす。そのため、入浴や着替えを頻繁にすればシラミは暮らせなくなるが、ノミは畳の隙間などで生き続ける。そこで「シラミは貧乏人に、ノミは金持ちにつく」という言葉が生まれた。シラミには宿主に住み着く場所に寄って、アタマジラミとか毛じらみ、衣服につくコロモジラミがある。今度の場合はコロモシラミだった。

 昔の軍隊はのみシラミの温床だった。寝台は藁布団で出来ており、布団ではなく毛布をまとって寝るのだが、此の毛布が何と明治時代のものだったり、ほとんど洗濯しない代物なので、ノミやシラミが湧くのも当然だった。演習のない休みの日には、みんな寝台に座ってシャツや毛布の縫い代に鎮座しているシラミを採るのが日課のような有様だった。その頃、発疹チブスが流行ったのもこのシラミの媒介によるものだった。

 作曲家の「団伊久磨」さんと「芥川也寸志」さんは、音楽学校の学生から学徒出陣で戸山の陸軍軍楽隊に入っていた。 二人はいつも時間を持て余していて退屈で仕方がない。二人は編曲室と言う一室にこもって、大きな机を前に向かい合って五線紙などを前にしていかにも仔細ありげな顔をして座っているだけであった。

 イメージ 3そんなある日、芥川がシラミが一匹、机の上を這っているのを見つけた。
   「シラミだね」
   「うん、シラミだ」 

 当時の軍隊には毛布や衣服にシラミが沸いて、誰でも5匹や6匹はシラミを持っているという状態だったので、いつも見慣れているシラミ一匹を机の上に見つけたといっても特別の感激もないのである。
「シラミかぁ」とつまらなそうに言っていた二人は、そのうちどちらからともなく、ちょっとしたゲームを始めた。 シラミの言葉の中のシ、ラ、ミはいずれもドレミファの音階の中にある名前である。                         ↑芥川也寸志               


  シラミ、シラミと小さな旋律を歌っているうちに、すっかり二人は嬉しくなって、全部ドレミの中にある発音だけで歌える小さな歌を作曲した。
     
  イメージ 4     ♪ そらそら シラミ
         そらそら シラミ
         どらどら シラミ
         見れど見れど シラミ
         シ、ラ、ミ~

 
  二人はすっかり感極まって、ついには片方が机の上のシラミを指さしてソラ、ソラ、シラミ~と歌うともう一方が ドラ、ドラ、シラミ~と、うんと顔を机に近づけてデュエットで歌い始めた。
 
                                                                                                       ↑ 団伊久磨

  以来、二人はシラミが居ようが居まいが、この「シラミの歌」を情緒たっぷりに歌ったり、か細く悲しげに歌ってみたりしては毎日二人でニヤニヤと楽しんでいたのである。
  
 それも突然、巡察の週番士官の靴音が部屋の外から聞こえてくると、急に元の生真面目なしかめ面に戻ってしまったりするという、なんとも気楽な、また変な二人の兵隊であった。

           ・・・・・               ・・・・・・

 
イメージ 5
                                  
                           (レコードの広告)


(132)初めての下宿生活

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       (132) 「初めての下宿生活」

 従兄の世話でようやくシラミの宿を抜け出して、大阪の南郊にある素人下宿に移ることが出来たが、その下宿があったのは、難波から南海電車に乗って四、五駅目のゴミゴミとした住宅が混み合う下町の粉浜と言う街だった。線路を挟んで東側には高級住宅街の帝塚山があり、南には住吉大社のある静寂な住吉公園が広がっていた。

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                                                 (昔の住吉大社)


 下宿代は2食付で月に25円、当時は30円が相場だったらしいが、従兄の顔で5円負けて呉れたようだ。従兄は結婚前に関西電力に勤めているとき、ここに下宿していたらしい。当時、シランは学費として家からは郵便小為替で月に100円送ってもらっていた。
 (*今は銀行で振り替えたり、電信で送金すると一瞬のうちに送金できるのだが、当時の少額の送金方法としては郵便小為替が一般的だった。郵便局で代金を払って小為替を組み、その証書を郵送すると、受け取った者はどこの郵便局ででも現金と交換できる。簡単で早く、庶民の送金方法としては一番適していた)

 当時の家庭教師の相場も月30円だったが、幸い家から100円送ってくれば、なんとかバイトはせずに済んだ。今思うと、母子家庭の我が家では母やまだ年若い兄にとっては相当厳しい出費だったかもしれない。

 イメージ 6下宿のご主人は藤永田造船に勤める、ヒットラーのような、チャップリンのようなちょび髭をはやした色白の中年のおっさんで、奥さんは少し色黒の浜松出身の気の強そうなおばさん、中学と少学生の二人の男の子がいた。
 南海・粉浜駅の大通り(と言っても狭い通りだが・・)から同じような櫛の歯の様に小路が何本も出て居て、その狭い小路の中の一つに下宿があった。


 二階建ての4軒長屋の2番目で、二階の六畳と三畳の二間が吾輩の根城である。部屋には押し入れがあるだけで、床の間も飾りも何もなく、片隅に吾輩の小机だけがポツンと置いてあると言う何とも殺風景な根城であった。

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             (玄関の前には小庭があったが、マァこんな4軒長屋だった)

 一人住まいで道具もないので、全く使う事もない3疊の窓から北の方を見てみると、どんよりとした鉛色の空の下には、大阪の中心街まで一望千里の瓦屋根が続いていて、緑らしい緑はひとつもないという、まさに煙の都・大阪を実感する風景がひろがっている。

 一方南の6畳の間は、掃出しのガラス障子になっていて日当たりは良いが、目の前に小学校のビルがデーンと鎮座していてこれまた見晴らしがよくない。ただ、目の下の通りを行く通行人の人間観察には都合がいい。 夕べになると何処からか子供たちの遊んでいる掛け声が聞こえてくる。

 イメージ 3♪ベテミキべテさん  ミキベテクロさん
     クロミキクロさん  ミキミキベテさん・・

 どうやら女の子たちが 「足じゃんけん」→ をしているようだ。そのころはベティとかミッキーとか ノラクロとか・・漫画のキャラクターが流行っていたので、それをグー、チョキ、パーに合わせて足でじゃんけん遊びをしてたのだろう。

 イメージ 8大都会の夕暮れ、そんな女の子の可愛い声が遠くから聞こえてくると、少年の胸にはそぞろに淡い哀感の情が湧いて来るのだった。
 初めての都会生活で、下宿の取り柄と言えばただそれ位のものなので、つい学生生活も外出が多くなり、根城と言ってもただの寝どころに過ぎないような存在だった。
  ←ベティさん 

 でも時折り小父さんから説教されるほかは、おばさんも知らぬ間に掃除や洗濯してくれたりして、なかなか親切なおじさん、おばさんだった。戦争が激化して、子供は故郷の浜松に疎開したそうだが、粉浜あたりも空襲で焼けてしまったそうだから、みんな戦後はどんな生活をしたのだろうか。

 イメージ 4下宿のある小路から主道路の一本道に出ると、雑然と本屋、風呂屋、煙草屋などが並んでいて、生活には便利だった。本屋と言っても古本屋同然で汚かったが、ここでも暇潰しによく古本を漁ったものだ。もうこの頃は紙不足で場末の本屋では新刊書は手に入らない時代だった。新刊書は学校帰りに、心斎橋の本屋に予約して買っていた。 
               新刊書は往復はがきで予約せねばならなかった。  →


 イメージ 5銭湯には毎日のように行ったが、風呂賃はいくらだったのだろうか、10銭くらいかな?番台には太ったおばさんがデーンと座ってにらみを効かせ、かかり湯の隙間から女湯がチラチラと見えてドキドキしたり・・(*_*)

  ← 銭湯の番台



 銭湯は夜も遅くなると、湯船の底がぬるぬるしているし、湯の中にも垢が浮いたりして汚らしいので、暇を見ては出来るだけ夕方3時の開店直後に出かけたりした。まだ日も明るいうちに、広い浴槽にただ一人湯船に漬かっていると、何だか天下を一人占めにしているような気分になって心地よい。

 まだ未成年なので煙草屋には縁がないはずだが、葉書や切手を買いによく行った。可愛い看板娘が愛嬌を振りまいていたが、ある時思いがけない大事件?が起こった。

 〇 「昭和18年10月1日」  水 晴れ

 イメージ 7半年繰り上げ卒業の三年生の入営者多し。兄もあと2カ月で入営なり。
 本日、南海本線・粉浜駅踏切にて自殺あり。二十四、五歳の乙女なりしとか。。先にもこの踏み切りにて鉄道員の事故死ありしが、いずれも気味悪しく、また哀れにも覚ゆる事なり。

 飛びこめるは煙草屋の娘とか、又私生児なりとも人の言う。我も葉書を求めて娘より釣銭を貰いし事、二三度ありて面識あり。。

 下宿の小母さんの言によれば、娘は胸を病めるとか。。 
 肉塊飛び散りて血潮ほとばしり、脳漿あふれて骨片飛散し、腸と思しき腹わた、臭気を放ちて線路に横たわり、雪の肌えは今は無く、哀れ花のかんばせも形を留めずなりにけるとか。
隣組一同出動して肉片を拾い集めたる由、げに玉は砕けて後を留めず、さても哀れなる事どもなり。 
 (*ちょっと大袈裟かな? 何しろ初めての体験なので興奮していたのだろう・・)

 *ただし、これは人違いだった・・死んだ乙女は別の煙草屋の娘らしく、行きつけの煙草屋にはまだあの看板娘がいて、今日もにっこりと笑ってくれたのである!)

            ・・・・・               ・・・・・

 *数年前に子供から母の日に贈ってきた鉢植えの八重のコクチナシを挿し木していたところ、翌年から花が咲き出しました。今がちょうど満開で、甘い香りをいっぱい撒き散らしています。

   ♪ 「クチナシの花」      渡哲也

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                    いまでは指輪も まわるほど
                 やせてやつれた おまえのうわさ
                くちなしの花の 花のかおりが
                 旅路のはてまで ついてくる
                くちなしの  白い花
                おまえのような 花だった

    

   
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                       (八重の小くちなし)

  もともとクチナシは一重の六弁花で、実が裂けないので「口無し」の名がついています。

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   一重でなく八重咲きのクチナシは、観賞用で「花クチナシ」と呼ばれています。
 こちらには実が生りません。オオヤエクチナシは大柄で白いバラのような美しさがあります。

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                             (大八重くちなし)

      ・・・・・           ・・・・・・

(132) 「恩師の面影」

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        (132)   「恩師の面影」

 さて、厄介なシラミ騒動も何とか切り抜けて、ようやく新しい下宿生活が始まったが、肝心の学校の授業はどんなものだっただろうか。。
 外語の授業は語学校だけにもちろん語学が主流であるが、進路が商社や外交官、官庁、新聞社、教職など多様であるため、言語学はもちろん法律、経済、国語、漢文、簿記から、タイプ、書道まで実に多岐にわたっていた。語学の違いでそれぞれの教室が決まっていて、ほかの学課は受講生徒数の大小によって中教室や大教室に出かけて授業を受ける。


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                                                 (上本町の旧校舎)


  もちろん中国語部には、決まった中国語の教室がある。、
 その教室で中国語部主幹の吉野教授をはじめ、金子教授、住田、小田、伊地智の各助教授のほか、中国人講師の金、関、王の三先生から中国語を学んだ。
 在学中の中国語科の恩師の顔ぶれを見てみよう。


 イメージ 2〇 吉野美弥雄教授

 先生は明治26年の生まれで、岩手県出身。山口高商貿易科の卒業で、卒業後、農商務省海外実務練習生として中国の天津に一年間留学され、天津日本商工会議所の嘱託として勤務、当時すでに「北支那の物産」という著書があった。また大阪放送局の中国語講座も担当されていた。大正12年に助教授として開校一年後の大阪外国語学校に赴任されているが、先生は温厚篤実な性格で学生の面倒をよく見られた。

 声は大きかったが、決して激することはなく、授業を休むこともなかったので、「カラスの鳴かぬ日はあっても吉野先生が休まれる日はない」と言われるほど勤勉実直な先生だった。昭和34年に退職されたが、惜しくも昭和37年10月に急逝された。名誉教授。


  イメージ 3〇 関恩福 講師

 吉野先生を助けた初代の外国人教師は「関恩福」先生だった。同治13年(1874年、明治7年)生まれで、始めは北京英国大使館で英人に中国語を教えて居られたが、大正11年7月に大阪外語の創立によって小樽高商から転任されている。

 関先生は日本大使館や北京正金銀行でも中国語を教えられているが、外語では主に会話の時間を担当し、昭和18年まで20年の長期間在任されている。日本語はあまり得意ではなかったが、義理堅い人情味豊かな好人物であった、晩年、学生や卒業生に惜しまれながら職を辞して北京に帰国されている。


 〇 山本磯路教授

 昭和4年には、漢文の古典担任として山本磯路先生が赴任された。先生は明治29年生まれで奈良県の出身。広島高等師範・国漢科の卒業で福井や鳥取の中学教師から外語に赴任された。謹厳実直、真面目その物の風貌と性格で、わざわざ中国から取り寄せた石版本を教科書として難解な「春秋左氏伝」「韓非子」を教えられた。 苦虫を噛みつぶしたようなコワイ顔だった。

 
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 イメージ 5 〇 金子二郎教授

 金子先生は明治38年の生まれで群馬県出身。外語第2回卒業生、卒業後すぐ外務省留学生として北京に留学。その後も外務書記官として北京大使館に勤務していて、母校の教師として赴任された。外語卒業の最初の同窓教授だったが、魯迅や周作人などの現代中国文学に詳しく、永い間、中国の現代文化について講義をされた。
 
 従来の語学中心の教育から中国語と中国文化との関連に着眼して、外語の中国語教育に革新をもたられた。昭和40年から4年間、母校の学長を務められたが、44年に退職され、昭和61年に80歳で亡くなられた。
                    名誉教授。


イメージ 6 〇 住田照夫助教授 
 
 住田先生は明治42年の生まれで大阪府出身、昭和6年の代7回卒業生。大阪貿易学院の出身で、外語入学前から中国語はよく出来たそうで、外語受験の際も英語でなく中国語で受験して入学されている。

  3年卒業まで、同期生で中国語で敵う者はいなかったというほど優秀な学生であった。昭和17年から19年まで北京に滞在し北京大学法学院で教鞭をとられた。「中国貿易用語辞典」「中国現代商業通信文」などの労作がある。
  昭和50年、定年退職。名誉教授。



 イメージ 7 〇 小田信秀助教授

 小田先生は大生6年生まれ、福井県出身で昭和13年・第14回卒業生である。昭和19年、広東語習得のため軍属として中国・広州に赴任の途中、台湾沖で乗船が撃沈され終戦まで、台湾の台北で北京語を教えて居られたそうである。

  戦後、昭和21年復員されたが、戦後の混乱期に健康を害されて昭和22年に職を辞されている。 若くてハンサムな先生だった。


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                                    → 伊地智先生の中国語辞典

  イメージ 8〇 伊地智善継助教授

 大正8年生まれ、大阪府出身、昭和14年第15回卒業生、昭和14年から一年半商社に勤務、京都大学文学部専科を経て、外語に赴任。
シランが一年の時は学校付属の大陸語学研究所に勤務しておられ、当時から中国語学について多くの論文があり、「中国語をいかに科学的に教えるか」という事に腐心された。

 我らが在学中はまだまだ年も若く、先生というよりも兄貴分の先輩という感じだった。中国語をヨーロッパの言語科学の立場で研究した先駆者であった。「中国語入門」「中国語辞典」の編纂は先生最大の労作である。
 昭和52年から5年間、母校の第五代学長を務められ、昭和57年に定年退職された。名誉教授。
 
*平成10年11月、台北で司馬遼太郎を偲ぶ会が開かれた時、同窓の8名と共に参加したが、その時司馬さんの奥さんと伊地智先生が同行され、いろいろ貴重なお話を伺ったのが忘れられない。
あれからもう20年も経つとは・・光陰矢の如しとはまさにこの事か。。


イメージ 9〇 金毓本講師

 金先生は昭和18年、関恩福先生の後任として赴任された。光緒29年(1903年)生まれの満州貴族で、父の本名は愛新覚羅氏である。民国15年(1926年)南関大學文科経済系を卒業、民国29年から大連高商の講師であった。

  終戦直後の昭和21年いったん退職して、22年から外語に復職、昭和55年退職するまで36年の長きにわたり発音指導と会話の授業をされた。
先生方の細かい質問にも根気よく付き合ってくれる得難い言語学者だった。伊地知智先生と共著の中級テキスト「東京ー北京」という著書がある。


             ・・・・・           ・・・・・

 *今夜は飲み会だ、久しぶりに遥かに遠い先生方の面影をしのびながら、一杯飲んでこよう。


     「月下独酌」      唐 ・ 李白
       
               花間一壺の酒イメージ 11
       独り酌んで相親しむ無し
       杯を挙げて名月を迎え
       影に対して三人を成す

           醒時はともに交歓し
           酔後は各々分散す
           永く無情の遊びを結び
           相期して雲漢遥かなり




                                //////                  //////
 

(133) 「外語の授業」

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        (133) 「外語の授業」

 語学の授業については、蒙古語の杉本君の回顧録が仔細に渡っていて、なかなか懐かしく面白い。平成10年の台北での「司馬遼太郎を偲ぶ会」では、偶然にも彼と二人、ホテルの部屋が同室で、その後の台湾縦断の旅でも一週間ばかり寝食を共にして、彼から在学中の司馬さんの素顔など貴重な話を聞かせてくれた。その司馬さんを偲ぶ会で、蒙古語部からただ一人参加した彼が、馴れない中国語で挨拶させられて、スズメの学校の様に訥弁でしゃべりながら冷や汗をかいていたのも懐かしい。さすが軍人の息子だけあって、彼は質実剛健、訥々とした素朴な田舎侍のような人柄だった。


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 杉本君のお父さんは姫路連隊の将校で、満州の遼陽に移動する直前に彼が生まれたので、「満」という名前がついている。そのせいか、彼の胸には満蒙への夢が膨らんでいたのだろう、外語の受験でも出来れば中国語を狙いたかったが、何しろこの年の中国語は十数倍の競争率だった。一番優しそうなのはインド語と蒙古語である。そこで蒙古語に決めた、と彼はいう。
  以下、杉本君の話である。・・・
   ・・・・・

 イメージ 2幸い、念願通じて3月末、外語から半紙に和文タイプで印刷された合格通知が来た。入学式が終わって授業の時間割を見てみると、やはり語学の比重が大きい。蒙古語のほかに英語、中国語、ロシア語の授業がある。(*紫蘭が居た中国語部では第二外国語は英語だけだった)

 一般科目は国語、漢文、東洋史、法律、言語学、経済地理などがあり、商業簿記に、タイプ、体操、剣道、教練まである。その代わり中学では絶対禁止されていた、喫茶店も映画館もフリーである。この自由な雰囲気が何物にも代えがたい宝物であった。

  ↑外国語の学校らしく、校章 はOとSを組み合わせた当時としてはモダンなものだった。 

 入学一日目の授業を見てみよう。

  〇 「蒙古語の授業」   杉本 満

 授業が始まった。一時限目はモンゴル人先生の蒙古語である
「ウルトムバートル」という若くて陽気な先生で、バートルとは英雄を意味するらしい。先生はジンギスカンの末裔だと自称されたが、世が世ならモンゴル大王とでも言おうか。。
先生はまず、ジンギスカン遠征の歌「アルブン・ツムン」を教えてくれた。

    アルブン ツムン  チリグン ダイチルジュー
    アヂア テイブ オルン オロシー
    ホリヤン ドクトガヤー

                    これを訳すと
 
    率いる鉄兵 十万騎
    治めて銃べん? アジア州
    いざ戦わん 同胞よ、
    吾等が戦旗 栄えあれ

  歌は勇壮でやや哀調を帯び、すっかり吾ら同級生の心をとらえたのである。

  〇 中国語

 イメージ 32時限目王之淳先生の中国語である。満州旗人出身の温厚でどっしりした王(ワン)先生は、(*紫蘭の印象では、どっしりというよりもスマートという方が似つかわしい)
 まず 「これから皆さんの名前を中国語で呼びます」。。

「福田定一君! 君の名はフーティェン・ティンイです」
「杉本満君! 君はサンビェン・マーンです」
  何とも奇妙な感じだ。

 福田〈*司馬遼太郎)がやっと口を開いた。
「なに?俺がフーティン・ティンイか・・なんやこそばゆい気がするなぁ。」  そして笑いながら言った。

  「ことわりもなしに、もう一人の俺が体に入ってきやがって・・」
  思わず私はにやりとした。 この色白、丸顔はなかなか面白い奴だぞ! 

  〇 蒙古語

 次の3時限目はまた蒙古語で、主幹教授の松(あべまつ)源一先生である。几帳面な先生はアルファベット順に出欠点呼を採る。

「エー、浅岡君! エー日野根谷君!エ-福田君!・・
  エーと長く引っ張りながらのせっかちな点呼が印象的だった。

イメージ 4(*紫蘭も、中学校では先生から「紫蘭!」と呼び捨てにされていたのに、君付けとはやはり上級学校は違うなぁと思ったものだ。法律や言語学など大教室での授業では、出欠点呼専門の老職員がいて教壇の隅に立って、生徒たちの名を読み上げて出欠を採る)  →

 
  このあべ松先生の時間で、初めて蒙古語にお目にかかった。

   モンゴルフン ボルブル ブス ブスルデ バイナ
     (蒙古人   は   帯を 締めて います)
   ギタットフン ボルブル ブス ブスルデ バイクェー
     (中国人    は  帯を  締めて  いません)


 なんだかズンベラボーの語感だが、案外簡単だ。私も福田もひとまず安心した。
 昼休みになると、留年組のSとKが早速先輩ぶりを発揮した。Sは硬派の代表でKは軟派のボスである。二人は教壇に立ち左右に分かれてそれぞれ歌を書いた。

 硬派のSは「昭和維新の歌」である。

  ♪汨羅(べきら)の渕に 波騒ぎ
   巫山(ふざん)の雲は 乱れ飛ぶ
   混濁の世に 我立てば
   義憤に燃えて 血汐沸く

 対するこちら、軟派のKの方は「ステテコ節」である。

  ♪春が来たかよ 外語の庭に
      サーヨイショ
    桜咲いた咲いた 
      ステテコ シャンシャン
    どんぶり鉢ゃ 浮いた浮いた
      ステテコ シャンシャン

 みんなは、このステテコ節は5分で覚えたが、維新の歌は難しくて覚えるのに骨が折れた。
かくして外語生活は、「ジンギスカン遠征の歌」「ステテコ節」という、硬軟両派の歌とともに、新しい呼び名の自分との出会いというケッタイな幕開けでその初日を終わったのである。

     

          ・・・・・          ・・・・・・

 
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                                                       (見返りの滝)

 

(134) 「続・蒙古語の授業」

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          (134) 「続・蒙古語の授業」
  
 かくして外語入学初日は何とか切り抜けたが、授業は毎日続く。(杉本君の話)

 ウルトムアトール先生の蒙古語は、教科書なしに自由会話でちょうど懇話会の様に楽しい。
      ジンギスカン、羊肉、馬乳酒、オヒン娘、などなど、蒙古の大草原への夢が飛ぶ。

 
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                (モンゴル語は左から書く、何が何だかさっぱりだ)

 松(あべまつ)先生の時間は指名されることが多くて、宿題と予習が大変だった。生真面目で融通の効かない先生なので、いつも生徒に指名するするのはアルファベット順になる。前の方の三名はとうとう悲鳴を上げた。そして福田君(司馬サン)がたまりかねて先生にクレームを付けた。
 「先生、アルファベット順ではなく、たまには逆に後ろから指名してください」

 私はびっくりした。後ろからだと「エー津田君、エー田村君、エー杉本君」、といつも三番目になって出来の悪いこちとらはどうしても恥のかきどうしになってしまう。
えらいこっちゃ・・と思っていると、幸いなことに先生はこの福田君の申し出を「エー加減な事を言うな!」と一蹴されたので、私はやっと胸を撫でおろしたのであった。


 王(ワン)先生の中国語の授業は至ってのんびりムードである。先生は動詞や接続詞を教えて、その文字を入れた短文をみんなに作らせる。何だか創作めいた面白みがあった。 思いつくままにみんなが黒板に文章を書くと、先生はドッコラショと腰を上げて、間違いのない文には〇を付けてくれる。

 作文が終わると、今度は自由会話である。トップはたいてい福田君だ。彼はよく茶目っ気のある質問をする。

イメージ 2 「ペーチン デ クーニャン ハオ プ ハオ?」
      北京的  姑娘  好不好?      北京の娘さんはきれいですか?
  
    ワン先生はさらりと聞き流して

 「ヘンハオ! シァン ダーバン デ クーニャン イーヤン! 」
    狠好!     像         大阪的             姑娘 一様!
   きれいだよ、 大阪の娘さんと  同じように・・

      たちまち、クラスの中は笑いに包まれるのである


 イメージ 3「法律」は大教室(講堂)の高い壇上から白井正教授が、淡々と民法や商法の講義を続ける。先生はいかにも九州男児らしく気難しくて講義中も笑顔がない。大教室なので遠くに座っていると、小さい石仏がただ口をパクパクしているように見えた。生徒課長も兼任していて、時には生徒を殴りつけるというコワイ先生だった。

   ← 講義中の白井教授

 「国語」は吉田兼好教授が目ん玉をぎょろつかせながら,助詞や接続しに力を入れて「平家物語」「古事記」の講義をする。この先生にらまれると、何回でも指名されるので要注意だった。

 *杉本君の話
 イメージ 6(外語時代の福田君は国語、漢文の天才でした。言葉使いにやかましいのも、この頃習った国語や漢文の素養が基礎となっているんじゃないでしょうか。漢文には山本磯治教授と言う厳しい先生が居られました。

 その予習をサボって指名される予感に震えていた私に、福田君は親切にその日の教科を解説してくれました。「すまんかったなぁ・・」と礼を言うとニヤニヤしながら「コーヒー1杯でええでー・・」「あっ、やられたぁー」私もマインドコントロールされていたんですね。)

 (紫蘭注 *山本磯路教授は苦虫を噛みつぶした平家がにのような顔つきの先生でした。先生は斯界の泰斗で漢文の授業ではとても厳しい方でした。「韓非子集解」三国志」「春秋左氏伝」「論語注解」などを難しい原文で習いましたが、司馬さんや赤尾君の名文と語彙の豊富さは、磯路先生の講義の中で育まれたのかも知れません。)


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       (授業中の山本教授・漢字の巳と已と己の意味の覚え方の講義らしい)

                巳(身・ミ)は上に 已(スデ)に半ばとなりぬとも
                   己(おのれ)は下と思へ世の人


  杉本君の話・・

 語学が専門の外国語学校なのに、外語には「商業」「簿記」から英文タイプや珠算まであった。
 まず「簿記」について。
 我がクラスには数学が大の苦手で簿記のセンスが全く欠如しているのが二人いた。言うまでもなく福田と私です。雄弁な束田教授がスピーディに講義を続けるが、それについて行くにに二人はフーフー言っていた。宿題に「今期の損益を計算せよ」というのが出た。二人協力して取りかかったが、なかなかうまくいかない。

 イメージ 5商取引を仕訳して合計残高試算表を作る。

「あれー・・貸借の合計が合わないぞー。なんでやろ?」
「おい、福田、受取手形の仕訳が反対や。債券勘定は借り方やでー」
「なんだ借り方?・・そんな規則、誰が決めたんや?」
「ルーカ・パチョリヤ や」  「誰や、それは?・・」
「複式簿記の学者や。習うたやないか」
「勝手につまらん事決めやがって、そんな奴は勘当や!」
「バカバカしい、学者を勘当してどうする!?」

      ・・・どこまでやっても試算表は出来ないのである。            ↑ 束田教授
                                                                                                      

 苦手な「簿記」だけでなく、おまけに「英文タイプ」「算盤」の練習がある。
 この不器用丸出しの私に、タイプライターのキーを素早く叩けるはずがない。級友たちは少し慣れると、十本の指を使ってまるで重機関銃のように打ちまくって、タ、タ、タ、タ、、と心地よい音を響かせるが、こちとらは人指し指一本で、軒先から落ちる雨だれよろしく、のどかに「ポトン、ポトン」とショパンのピアノ演奏そのものである。

 「珠算」に至っては全くお話にならない。黒板にお化けのような巨大なそろばんが引っかけてあり、黄色いこぶし大のそろばん球を汗だくで動かすのである。昔の寺子屋じゃあるまいし、大の大人が今さらそろばんなど、阿呆らしくて、この珠算の練習だけはエスケ-プを決め込んだものである。

        ・・・・・・               ・・・・・・

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                                             (モンゴル・ウランバトール遠望)
 
                  //////

 (135) 「生涯の恩」

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        (135) 「生涯の恩」

 イメージ 5昭和48年(1973年)に司馬遼太郎さんは、随筆「街道を行く」の「モンゴル紀行」の取材のためにモンゴルの旅に出かけた。この紀行文の冒頭に、彼は書いている。

 「少年の頃、夢想の霧の中でくるまっているほど楽しいことはない。私の場合、口もとに薄ひげが生えてくる頃になってもこの夢は変わらなかった。そのころの夢想の対象は、東洋史に現れてくる変な民族にとってだった。」 
  とある。
 彼の少年の日の夢は、古代中国北辺の匈奴や鮮卑などの騎馬民族、またそれを統一した蒼き狼・ジンギス・カンのモンゴル帝国への憧れだったのだろう。

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                                                 (紀元前2世紀ごろの北方民族)

 彼らは新潟から空路ロシア(当時はソ連)のハバロフスクへ飛び、さらにバイカル湖畔にある、かって黄金と毛皮で繁栄し、シベリアのパリと称されたイルクーツクから、三日目にようやくモンゴルのウランバトールに着いた。当時はこれがモンゴルへの最短距離だったそうである。その際、モンゴル語に精通されている蒙古語主幹の松(あべまつ)先生が同行した。その時の通訳が「ツェベックマさん」という女性で、彼女の波乱に飛んだ数奇な生涯が、のちに司馬さんの「草原の記」という作品になっている。

 イメージ 2モンゴル紀行の中で司馬さんは彼女との出会いを次のように記している。
 ・・・*(ウランバトールに着いてビルの二階に上がると40年配の肥った婦人が立っていた。
 草色のモンゴル服に細い銀色の帯を締め、手にはバックスキンの小さなハンドバッグを提げている。色白の小さな黒い瞳が利発な少女の様によく動く。貿易省の役人である「ツェベックマ」さんである。あべ松先生にとっては旧知の仲だった。
「私が案内します」ときれいな日本語で言い、日本式に素早く小腰をかがめた。)
・・・
  
 ↑ツェベックマさんと司馬さん

  ・・・・

 司馬さんには外語時代の蒙古語について書いた「生涯の恩」という小文がある。

    「生涯の恩」    福田定一 (司馬遼太郎)

 イメージ 6ひとは、草の名を覚えないのは、覚えようとしないだけだ、と言うが、私はその草の名を覚えようとしないのではなく、覚えられないのである。
 道のべの草をその道の人に聞き、カタカナにして十個はあるその名を、五分後にはわすれていて、その道の人に大笑いされたことがある。

 語学の才能の第一は、まず右の才能である。
 ついで、音の調べ。私は歌が覚えられない。
 小学校で習ったうたも、いまは記憶にない。そういう人間は語学をやるべきではない。
 三つ目は物まねである。二十世紀初頭のイギリス人の小説に、自分は鶴の鳴き声でも、犬がおびえているときの声も、そっくりまねることが出来るから、大学は語学をえらんだ、とあった。私にはそんな離れ業は夢のようである。

 私の夢は、かたよっていた。
東洋史に出てくる中国周辺の諸民族の国名や民族名に、異常なロマンティシズムを感じたのである。匈奴、突厥、鮮卑、回吃、烏桓・・・みな二字漢字である。それらが、中国内陸に入って王朝を樹てたりすると、一字表記になる。蒙古がになり、女真がになったように。(一字表記が、漢民族文化にとって尊貴であったことはいうまでもない)

イメージ 3 このかたよりは今も続いていて、その故地にゆくと、浦島が竜宮城に行ったように、恍惚となる。兵隊の時は、見習士官になって赴任した部隊が満州の牡丹江石頭に駐屯していた。十世紀ぐらいの渤海の故地であり、その事を想うと、兵営のつらさもしのぐことが出来た。
 私は運動神経がにぶかった。
 だから、飛行機に志願するなど、思ってもいなかった。この運動神経も、ひょっとすると、語学習得のためのかすかな条件かもしれない。

 徴兵検査の後、兵種が通知されてきた。「野砲手」だった。ところが数日後、訂正されて「戦車手」にかわった。察するに、大阪外語蒙古語部の語学が、蒙古語のほかに中国語とロシア語が加わっていることと、「戦車科」と言う事と、無縁ではなかったのではないか。
 私は運動神経のなさが、不安だった。 同級の黒木武彦に聞いた。「戦車と飛行機の操縦とどちらが難しい?」
 「それは戦車だ。地面の高低と言う事があるから」と言う黒木の宣託は、私を悲しませた。

↑満州の戦車隊・小隊長の頃の司馬さん

  すべてが、終わった。
 イメージ 4一九七三年(昭和48年)というと、外語を卒業して三十年ほど経つ。初めてモンゴルに行った。(*随筆・モンゴル紀行の取材)もったいなくも、恩師の松(あべまつ)源一先生がついて行ってくださった。貧困な語学は、すべて松先生によって補われた。果報というよりも、不埒と言うほかはなかった。

 ← モンゴルのあべ松先生と司馬さん

 その年に日蒙の間の国交が正常化されて初代の代理大使が昭和十三年に外語を卒業した崎山喜三郎氏で、私どもは、この崎山さんの世代が編纂した簡易辞書で勉強した記憶がある。そのうちの一人が今のアジア大学の鯉淵信一教授である。

 その後、私はモンゴルへゆくときは、鯉淵教授の日程に合わせて同行してもらうようになった。
 以上、語学習得の適性を欠いた無能者が、いかに母校の恩恵を受けたかという話である。
  生涯の恩だとおもっている。
                              (大阪外語21期会、記念文集より)

              ・・・・・

             「生涯の恩」の原稿用紙、すごい推敲のあとだ。。@@/

 

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              ・・・・・          ・・・・・・

 
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                                                 (モンゴルの星空・・須田剋太画)

(136)司馬さんの「手紙より」

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    (136) 司馬さんの「手紙より」

  当時の外語の模様を司馬さん自身が、知人へあてた手紙の中で書いている。

   「司馬さんの手紙」

 ・・・大阪外語というのは、開校(大正12年)以来小生の頃までは支(中国語)蒙(モンゴル語)馬(マレー語)印(インド語)亞(アラビア語)と、英、仏、独、露、西(スペイン語)の十語部でした。開校以来東京外語に対して特色を持たせるために、実際語学をやること、東洋語重視という事でした。
 当時、外語は旧制高校に対していわば二期校でした。東京外語に数学の試験が少しあったのに対し、大阪は一切ありませんでした。(今はあります)敗戦まで数学が受験科目にないのは内務省立の「神宮皇学館」と大阪外語だけと言われていました。英語は、英訳、英作文、ディクテーションがありました。

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 シナ語、英語が45名という大量定員であるのに対し、蒙古語は15名でした。そして毎年、その半分が落第しました。欠点(40点以下?)が二つあると無条件落第でした。授業は講義というより訓練でした。(いやになりました。小生はおよそ訓練に向かないたちですから)

 蒙古語部(科とは言いませんでした)の語学は、蒙古語12時間、シナ語10時間、ロシア語2時間でした。ロシア語は小生よりずっと前の期は満州語でした。ツングースの女真語です。小生は独学で、文字だけは書けます。
 イメージ 3蒙古語の気風は卒業したら日本の土は踏まない、というようなところがありました。誰もがモンゴル狂のようなところがあって、モンゴルに馴れるためになるべく風呂に入らないという修行(?)をしていた人がいたそうです。

 当時の外語は二期校ですから、どこか世を捨てているような気風がありました。小生は子供の頃から算術や数学が出来ず、それでも旧制高校をうけました。大学で東洋史をやって,匈奴とか、鮮卑・回吃などを研究したいと思っていました。高校と併願するにあたって、二期校の大阪外語の願書には「蒙古語」という項に〇をつけました。それが生涯の履歴になりました。 
                         →官報記載の蒙古語部合格者氏名

 在校中、心斎橋のコロンバンという喫茶店で、お店のコーヒーを飲んだとき、こんなうまいコーヒーは卒業したら飲めなくなるのか、と思ったりしました。


 在校中に兵隊にとられました。徴兵検査のあと、「野砲手」という通知が来ましたが、追っかけるように「右取り消し」で「戦車手」になりました。おそらく専攻した語学が勘考されたかと、思ったりしました。
 ついでながら、世界中で学生募集をしてモンゴル語を教えているのは、東外と大外の二校だけです。


 ツェベクマさんは大の中国人嫌いです。
「中国の大学でモンゴル語を教えていますが、モーコ人だと思ってバカにしているんです。それにくらべて日本人は。。」とほめてくれます。なんだか変な気がします。

 イメージ 2モンゴル語を勉強したことで、プラスになっていることがあります。日本語と似ているからです。自分の文章を考えるとき、実に役立ちます。

 一期生の中に東大を卒業して大阪外語の蒙古語部に入りなおした人がいます。西夏語の解読で有名な石浜純太郎博士です。小生四十歳のころ、石浜さんに、「高校の選択語学にモンゴル語を加えるべきですね。日本語の鏡になります」と言うと、博士は同意されて「中学からやって貰った方が良い」とカゲキな事を言われました。もちろん、双方、冗談です。
 小生には蒙古を舞台にした小説はとても書けません。お送りした「韃靼疾風録」は近隣の女真地帯について書いたものです。これがせいいっぱいでした。

                                                  あれやこれや、駄弁のみを。     司馬遼

 *手紙の中の石浜純太郎博士の子息が、作家の石浜恒夫氏で、偶然にも満州の戦車隊で司馬さんと一緒だったそうです。
・・・・


(137) 陳さんの母校の話

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            (137)  「陳さんの母校の話」

 外語の一年先輩の直木賞作家「陳舜臣」さんが、「司馬遼太郎をおもう」という文章の中で、そのころの大阪外語について触れています。 (* 陳さんはインド語部で、一年先輩だった)
       //////

 ・・・司馬さんと私は大阪外語で一緒だった。
大阪の上本町にあった小さな学校で、一応国立ではあったが、新制大学になる時、たいてい数校が合併して一つの大学になるが、一緒になってくれる学校がなく、そのまま単独で新制の「大阪外国語大学」になった。 * (現在は大阪大學外国語学部・校舎は箕面にある)

 イメージ 4戦前の大阪外語はちょうど十の語部があり、そのうちの半分が東洋語部で残りが西洋語部だった。東洋語部のそのまた半分がシナ語部で、残りの4語部は十把一からげにされることが多かった。

  語学以外の法律、言語学などは東洋語部全部で受講するが、国語、簿記などの演習科目は中教室で4語部合併の50人前後で受講し、軍事教練では一ヶ小隊になる。シナ語を除く残りの4語部は,支、蒙、馬、印、亜の語部で、今も「シ、モ、マ、イン、ア」という言葉の響きが耳に残っている。


 司馬さんの蒙古語部も、私のインド語部も定員は15名で語学の授業以外は、自前では何もできない。外語という学校そのものが縦割りで、英語やフランス語の同級生よりも「蒙、馬、印、亜」の上級生や下級生の方が親しかった。
(*紫蘭も西洋語部の同期生については、射撃部の仲間以外は殆ど知らないし、交流もなかった。
授業が場所も内容も全く別なので、同期生と言えども在校中はお互いに触れ合うことがなかった)


 そのころ、英語やロシア語の三年生が突如教室から姿を消して、私たちはたいへん緊張したものである。太平洋戦争開戦前の事だった。後で聞いたことだが、海軍軍令部司令部で暗号の解読をしたり、手紙を観閲する要因として引っ張られたそうである。英語語部の生徒だけが動員されると、対米開戦がにおい過ぎるので、カムフラージュのためにロシア語も動員されたらしい。
(*シランと同級の浜田君は学徒出陣で海軍に入り、海軍軍令部で暗号解読に当たっていた。終戦の事も数日前には知っていたとか。。)

 そして、ついに開戦になった。激動の時代に私たちはいたのである。この頃の大阪外語の雰囲気は二年上級の庄野潤三さんが「早春」の中で触れられている。
(*作家の庄野潤三さんは紫蘭より3年上の英語部卒業で九州帝大でも先輩、文学部で東洋史を専攻されている。 のち作家となり芥川賞や読売文学賞などを受賞)

 *ちょっと横道にそれるが、庄野潤三さんにも、外語時代の思い出がある。
            ・・・・・・

イメージ 2・・ 私は昭和十四年四月に上本町にあった大阪外語の英語部に入学した。
 母校の住吉中学の読本に小泉八雲の文章が出て居て、いいなぁと思った。外語では英語の主幹が吉本正明先生だった。(*紫蘭も第二外国語の英語は吉本先生に習った)・・
  入学して最初の吉本先生の授業でティピタリーの歌を教わった。第一次世界大戦のとき、英軍兵士が愛唱したものだ。吉本先生は黒板に歌詞を書き、さてやおら胸をそらし、右手の親指をチョッキに当てて  「アップ トゥー マイティー ランドン・・」 と、歌い出された。 これが外語、英語部の伝統行事だったのである。

 外語二年のころ、私は本屋で「現代詩集」三巻の中に住吉中学で国語の先生だった伊東静雄先生の名前を見つけて驚いた。萩原朔太郎、三好達治と言った人たちに並んで先生のお名前がある。
私は喜んで、買って帰った。 先生の詩は難解だが、一読していいなぁ、と思うものもあった。

 三年になると毎週土曜日の晩には伊東先生のお宅へお邪魔した。この年(昭和16年)の暮れに、私は伊東静雄の二番目の詩集「夏花」を持参して署名して頂いた。先生は筆のきれいな字で

  ・・春は語る菊は頷(うなづ)く籬(まがき)かな
    かかる夜の幾夜なりけむ
    遊学の日近しとききて・・

       
 と書いて、横に署名して下さった。
 私は九州帝大を受験するための準備をしていたのである。」 ・・・(私の履歴書より)
     ・・・・・
  * ここでまた、陳さんの話に戻ろう。

 当時は東京と大阪の両外語を比較して「大阪の方が東洋語を重視している」とよく言われたものである。今はどうか知らないが当時はそれが定説だった。語部の序列も大阪は東洋語から並べたものである。


 イメージ 3司馬さんのアジアに関する原体験はやはり語学であろう。しかし司馬さんの関心は早くから語学のレベルを越えているはずだ。彼は外語で語学をいやというほど学んだ。普通の学校では第二外国語というが、外語では「兼修外国語」と言っていた。例えば司馬さんの場合はまず「英語」である。どの語部でも時間数の差はあっても、英語は必須であった。

 昭和15年からアラビア語部がフランス語を必須として英語を抜いてしまったのが唯一の例外だが、蒙古語部と言えども英語は受けねばならなかった。次に第三の語学として中国語、さらに第四外国語ともいうべきロシア語を学ばねばならない。蒙古語がやさしいせいで、兼修外国語がやたらに多い。(*シランの中国語部の兼修は英語だけだった)それほど深くは学ばないが司馬さんはロシア語の辞典くらいは引けたのである。


 イメージ 1司馬さんはあまりにも早く「小説はもう書かない」と言い過ぎたと思う。
曹操一族の事を小説に書きたい、と言っていたのに、もう書かないと言い出した。私も書きたいと思っていたテーマなので、それなら私が書きましょう、と連載を始めたのである。書きながらここなら司馬さんはどう処理するかな、と思った。思うだけで実際には尋ねたことはない。彼亡きあとは尋ねてみようと思っても出来なくなってしまった。

 彼は「自分の小説は二十歳の自分への手紙だ」と言っていた。も一度アジアを舞台にした小説を書いてこれがアジアに対する自分の手紙だと言って欲しかった。舞台は江南でも長城でもモンゴルでも構わない。


      ・・・・              ・・・・・・

*朝方、大阪方面に震度6の大地震がありました。
  被害に遭われた方々に深くお見舞い申し上げます。
  息子の嫁の実家が、あの辺なのでどうしたかな・・
  ちょっと心配。。

   
イメージ 5

                                             (雲流れ人気なき初夏の里山)
 

(138) 「須本君のこと」

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        (138) 「須本君のこと」
 
 イメージ 1大阪外語の中国語で同級だった須本博視君は、中国語、特に中国の方言について堪能だった。平成3年の春、司馬さんの最後の小説「韃靼疾風録」を読んで、外語時代に彼が独学で勉強した「満州語」の単語がたくさん出てくるので司馬さんもひょっとしたらモンゴル語以外に満州語も習っていたのかと懐かしく、読後感や学生時代の思い出を手紙にして送っている。

  そして、その四、五日後、司馬さんはあの多忙の中でよくも・・と思われるほど早く返書を呉れたので、彼はとても感動したそうである。


 当時の外語の中国語の外人教師のうち、二人は(王さんと金さん)は清朝の満州族貴族の後裔だった。その一人「王之淳先生」が、昭和56年に同じく一年先輩の陳舜臣さんの招きで来日された事がある。

イメージ 2 (*王先生は戦後中国に帰国されたが、出自が満州貴族の一族でもあり、戦時中、日本の学校に教師として勤めていたので、世間から漢奸(売国奴)として指弾されて不遇の日を送っておられたので、先生を慰めるために陳さんが日本に招待されたのである)

 その際、須本君も教え子として先生を神戸や奈良を案内したが、その時、王先生が「朝夕祖先に礼拝するときは今も満州語の祭文(*呪文のようなもの・日本神道の「祖霊拝詞」に当たる)を唱えている」と言われたと、手紙に書き送ったところ、司馬さんから「金毓本先生もそうしておられた」と書いてきた。
 ← 王之淳先生
 
  須本君が書いたところによると、

「司馬さんは中国を北から南へと随分遠くまで旅行し、深い観察眼と造詣、蘊蓄のある旅行記を残しているが、彼の足跡を追うように私も私なりに各地に出張の都度、その足跡を踏んできた」とある。
彼もまた司馬遼太郎の心酔者の一人だったのだ。
 そのときの彼あての司馬さんの返信が残っている。
          ・・・・・・

 ◇・・・同級生からお手紙を頂くことはまれで、しかも大変学問的なお手紙を頂戴し、恐縮このことです。小著(*韃靼疾風録のこと)を丹念に読んでくださって、このことも、大いに感じ入りました。

 何しろ小生は、仮卒業のまま卒業証書を貰い、在学年限は兵役ですごしました。同封してくださった地図を見て、その主要部を鉄道で過ぎたか、戦車で過ぎたか、変に思い入れしてしまうもとは、語学ではなくヘータイの記憶としてでありました。

イメージ 4
 満州語は、昭和十年卒前後の人々は週に二時間ほど習ったそうです。あべ松先生は、さすがによく通じておられて、十年ほど前、夜分、電話でよく教えて頂きました。

← 金毓本(いくべん)先生も、満州語の呪文(祭文)を夕方になるとよく唱えておられたそうで、ただご当人は満州語を介されて居なかったと聞いています。ずいぶん前に あべ松先生に「満州語でゴールドはなんといいますか」と素朴な質問をしたところ、アイシンでありました。金先生の御家は、アイシンギョロ(愛新覚羅)を名乗るかわりに、金を通称されていたのでありましょう。


 韓国、朝鮮語で女真人のことを漢字表記して「野人」といいます。韓国語で言えば「オランケ」ですが、モンゴル語の「ウリャンハイ」になりましょう。韓国ではオランケは恐ろしいオバケのようなイメージで、子供が泣き止まないとき、母親が「オランケがくるぞ」とおどします。昔は女真人が人さらいをして朝鮮人を連れていって耕作させたりしたからでありましょう。
 しかし女真人は何かなつかしいですね。面長で痩身で、激しやすい、というと芝居の助六のようではありませんか。 老舎は、満州人だったそうですね。

 小生が「韃靼疾風録」を書いたのはモンゴルの事を書くことの代理でした。自分への一種のお礼奉公だったのです。 モンゴルは書きにくく、一種の気体ですね。 満州は、少し固体ですから。
   以上 、とりとめもなく。
                                                          二月十六日    司馬遼太郎
          須本博視様

イメージ 3


 *司馬さんの手紙の中に「・・でありました」とか「・・でありましょう」とかの語尾がよく出て来る。
 軍隊では、00であります!という言葉を使う。しらんも同じだが、司馬さんもいつまでも「あります」調の軍隊言葉が抜けていないなぁ。。と、往時を想ってつい、ほほえましくなる。

 イメージ 5** 「満州語」
 ← 満洲語というのは、清を建国した満洲族が使っていた言語です。
 満洲族というのは元々女真(女直)族という名前でした。その時、金を建国していますが、当時は女真文字という漢字に似た文字を使っていました。

 金の滅亡とともに、女真文字は失われ、時代は下って17世紀前後のヌルハチ、その子ホンタイジの時代にモンゴル文字を借用して満洲文字を正式に制定しました。
 パッと見て、モンゴル文字にすごく似ていますが、文字の左右に「○」、「・」などがくっついていたらそれは満洲文字である可能性が高いです。

                  ・・・・・             ・・・・・

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                                                  (旧・満州の風景)

(139) 「須本君のこと」②

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    (139)  「須本君のこと」②

 須本博視君は大阪、旭区の生まれで大阪外語の中国語部を卒業後、満州航空会社に就職しハルピンに居たが、徴兵検査の結果、満ソ国境の歩兵隊に入隊、戦後は日中貿易の商社に就職して北京、上海に駐在していた。 彼にもいろいろ外語時代の思い出がある。
 
 イメージ 1彼の手記によれば、入学した当座は彼もお多分にもれず、我々同様中国語が嫌いだったようで、なぜ西洋語部を選ばなかったのかと、ずいぶん後悔したようである。しかし、もともと中学時代の漢文の授業で、漢詩や史記の男っぽい人生観に打たれ、中国文化にそこはかとなく憧憬の念を抱いていたそうである。

 授業が始まって彼が一番興味を持ったのは言語学の講義で、それは法律や経済、商業などとは違った、科学性があったからだろうと,彼自身は言っている。京大教授「高畑彦次郎先生」の講義は特に念入りにノートしたそうだ。
 在学中も、同級の吉井藤重郎君と京大付属の「東方文化研究所」に出かけたりしていたようだ。 (左の下駄履き)

 イメージ 2高畑先生は中国語の古韻学(*秦や漢など古代中国の発音の再構成)の権威だったが、凡才の我々は高邁な先生の講義があまりにも退屈過ぎて、大教室の隅に座って居眠りやあくびの連続だったのに、彼だけは違った。。
 
  彼は中国語を読み書きのテクニックとして学ぶ以外に、中国語を一個の動物として、例えば馬なら馬の発生から血統や生態を調べるような面白さを覚えていたらしい。                                  
                                 → 高畑彦次郎博士

 イメージ 32年生の終わりに多くの学友が学徒出陣で出征してクラスは急に寂しくなった。三年生になると、広東語の授業が行われた。この頃は、フランス語部の教室からベトナム語の発音練習が聞こえて来た、と彼が言っているので、遅まきながら南方進出対策のための授業だったのだろう。

 広東語の先生は一年先輩の(*専科の)陳徳仁先生だった。陳さんは神戸華僑会きってのインテリで「孫文記念館」の館長をしておられた。先生の教材は「木蘭従軍」とか孫文の「遺稿」などだった。木蘭従軍は老病の父に代わって、娘の木蘭が男装して従軍し、北辺の異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦して自軍を勝利に導いて帰郷するという話である。  木蘭従軍の歌も習ったと思うが、今は覚えていない。。
  ← 木蘭従軍銅像

 彼は漢詩の吟詠法も学んでいる。漢詩は中国の標準語「北京官話」で朗詠しても唐詩本来の風合いが出ないが、広東語で朗詠すると生き生きとしていかにも唐時代の文人になったような気分になれて、授業が楽しかった、と彼は言う。たとえば、 
 
   「楓橋夜泊」    張継

     月落烏啼霜満天      月落ち烏啼きて 霜天に満つ
     江楓漁火対愁眠       江楓漁火 愁眠に対す
     姑蘇城外寒山寺、      姑蘇(こそ)城外 寒山寺
     夜半鐘聲到客船。      夜半の鐘声客船(かくせん)に到る

 此の漢詩を彼は北京語ではなく、広東語の発音で話せるのだ。我々は日本の漢文風の読み下し文でしか話せないのだが・・

 中国は東西南北、とてつもなく広い。そこで各地の方言もさまざまで、標準語は北京語(北京官話)なのだが上海語、広東語は発音が極端に違い、全く分からないことが多い。彼は長年、日中貿易に携わってきたが、中国全土あちこちに旅行し、その商談には現地の方言を使って親近感を持たせて成功してきたが、これには独学とはいえ学生時代の古韻学や広東語の勉強が大いに役立っているのかもしれない。
   ・・・・・

 彼は外語卒業後、満州航空に就職、新京本社でハルピン勤務を命じられた。 
同期の中国語部・鶴井精一君は奉天空港に、蒙古語の黒木君は本社勤務だった。彼はハルピンに赴任するまで毎日、新京の街をぶらついたが、中華料理店に入っても食べ物の名を知らず、隣の客が食っている物を指さして頼んだら、今思えばナント「ギョウザ」だったという。戦前の日本人はシナ料理を食べていなかったし、学校でも中国の食べ物については教えていなかったのである。

 イメージ 4当時、ハルピンは最もヨーロッパに近い、と言われていただけに森とロシア建築の美しい街で、満鉄に就職した同窓の平山敏郎君が同じく入隊のため帰国することになり、吉林から遊びに立ち寄り、須本と二人でロシア料理店で食事をしている。食後に出された飲み物が何とも美味しかったが名前がわからず、ロシア娘に尋ねたら、これがナント「ココア」だったという。 今ならどこででも飲めるというのに・・

 ← 戦後、京大に進学した平山君(右から)と赤尾兜子、吉井君

 須本君の兵種は関東軍の山砲で、場所はソ満国境近くのウスリー江河畔にある「虎林」だった。(*ちなみに虎林は1960年代に珍宝島の帰属をめぐって、中ソが激しく争ったところである)


イメージ 5 その時の部隊長がその後、沖縄最後の戦いで自決した沖縄方面総司令官・牛島満中将で、師団は沖縄に移駐のため三月以来、兵隊は順次貨車に兵器、弾薬、食糧などを満載して出発、しかし、釜山に着いた時にはすでに沖縄に米軍が上陸していて輸送の船もなく、結局、彼は米軍の上陸に備えて高知の丘陵地帯に砲兵陣地を構築していて終戦になったという。

 沖縄に行っても全滅、虎林に残った部隊もそのあとソ連軍の攻撃を受けて全滅しただろうから、そのはざまで、彼は奇跡的に命拾いしたのである。司馬さんの居た満州の戦車隊も成績の良い者は沖縄に移駐して全滅し、司馬さんたち成績の悪いものは本土に移駐して助かっている。
                                                                                             ↑ 同期の稲毛君の筆の跡

  満州の野戦重砲隊にいた中学同窓の田中君も、沖縄と台湾とに分かれて移駐したが、台湾に移った彼は助かり、沖縄に向かった兵隊は輸送船が撃沈されて全滅したという。 まことに運命のいたずらとしか思えない。

                                   //////                                    //////

 
イメージ 6
                         (シチダンカ)


    紫陽花は日本固有の植物ですが、これを始めて西洋に紹介したのは幕末のオランダの医師「シーボルト」でした。その名前を自分の愛人だった長崎丸山遊郭の遊女「お滝さん」の名前を採って「オタクサ」と命名しました。 その花がシチダンカ・七段花だと言われています。

 このシチダンカはシーボルトが「日本植物誌」で紹介して以来、日本人の誰も見た人がなく長い間「幻の花」と呼ばれていました。 ところが昭和34年にたまたま神戸の六甲山でみつかりました。 シーボルト以来約130年ぶりのことです。

 もともと、「アジサイ」という名前は、「アジ」は集まること、「サイ」は「真(さ)の藍」の約された「サアイ」という意味で、青い花がいっぱい集まって咲くことからつけられました。
 

(140) 十津川村

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         (140) 十津川村
 
 イメージ 1奈良県十津川村は、琵琶湖や淡路島よりも大きい日本一の面積を持つ村である。古くは「遠つ村」と言われたほどで、熊野までの山また山の険しい山岳地帯であり、村の98%が山林で人間の数よりも猿の数が多い言われるほどの過疎の村だった。司馬さんの死後、その著書「十津川街道」にちなんで平成11年五月にここで外語の21期会の同窓会が開かれた。
 
 その前年、平成10年秋に台湾で「司馬遼太郎を偲ぶ会」が開かれたが、その時は須本博視君も元気に出席し、柳井智雄楊(ヤン)さんの配慮で同窓8名が楽しく台湾縦断の旅が出来た。またこの「十津川」の同窓会にも須本君は元気に出席して道案内を買って出たほどだった。

 イメージ 2一行のバスが、マイカーの行列でバスが狭い山道のため亀の歩みのようにノロノロと渋滞していたとき、彼はやおら司馬さんの「十津川街道」の文庫本を取り出して読み出し、「この辺が司馬さんが書いた文中にある、龍神の湯です・・」などと説明していたが、なかなか機知に富んだ気の配りようだった。
                                                          → 須本博視君

 谷瀬の吊り橋に着く。この吊り橋は長さ297mの鉄索橋で川面からの高さ54m、重量制限があって一度に20人しか渡れないという。渡る人数をチェックしている係員に「渡っていて落ちる事もありますか?」と聞いてみると、これまでに12件あり、2件は橋の途中で心臓麻痺を起こし、5件は誤って墜落し、残りの5件は自分から飛び込んだという。 


イメージ 3「コリャ、ヤバイ、やめとこう」というと「大丈夫だよ、子供は自転車で渡るし、郵便配達はバイクを飛ばして渡るから」・・

 勇気を出して歩いてみると、足もとには厚さ3センチ、幅2mくらいの薄い板が並び、歩くとギシギシと揺れる。遥か下の渓流が、板の隙間からいやでも目に入り、キャンプしている河原の人影が豆粒のように小さく見える。そろそろと歩き出すと橋が揺れてバランスが崩れ、つい足がすくんでしまう。

 近藤魁君は5歩ばかり歩いて、すぐに戻ってきた。
シランもビデオカメラを持って10数歩歩いてみたが、足元がゆらゆらして、とても生きている気がしないので早々に引き上げた。
 。「君子危うきに近よらず」・・というわけである。

  ← うつむいてソロソロと・・みんなで渡れがコワくない??
 

 この吊り橋は昭和28年に、行政に頼らず村人たちが一戸16万円づつ出し合って、自前で完成したという。必要に迫られてではあろうがよく作ったものだ。いかにも、南北朝の楠木正成時代から幕末の「天誅組」に到るまで天下に名をとどろかせた剛直の十津川郷士の里らしい。

イメージ 4
                                               【司馬さんのスケッチ】 

 ホテル「昴・すばる」での心温まる同窓会は全国から集まった四十数名の参加を得て、懐かしい思い出の一ページになった。特に遠く台湾から参加した楊サンの得意のハーモニカで吹く「荒城の月」のメロディは深く心に沁みわたって忘れ難い。やはり楊(ヤン)さんは学生時代の柳井智雄君そのままに、日本人的心情の持ち主だったと、改めて感慨を深くした。

 イメージ 5須本君は、熊野本宮大社ではタラヨウの大きな落ち葉を熱心に集めていたが、その一枚をシランも貰った。タラヨウの葉は、木切れで引っかくと、黒い線が書ける。古代ではこのタラヨウの葉に、こうして文字を書いて便りを書いたという。
これが葉書の名前の由来でもある。

 *平成9年、同級の戦没者・桑畑、佐伯、矢野,三君の烈士の碑・合祀慰霊祭が行われたが、同窓会の世話役として奔走していた肝心の須本君は出席しなかった。
   ← タラヨウの葉書

  彼はその時、体調不良だったのか、入院して検診を受けていたのだった。
その後8時間にも及ぶ胆のう、肝臓の大手術を受け、一時は元気に十津川の同窓会や台湾旅行にも参加していたのに、その2年後に検査のため入院したまま、ついに帰らなかった。
   懐かき好漢・須本博視君よ、安らかに眠れ。。
  
  〇「笑林広記」
 
イメージ 6* 仕事の都合で行ったのだろうか、須本君が中国の広東の古書店から「笑林広記」という清朝時代の古書を買ってきたことがある。その中の面白そうな部分を抜き出して、わざわざコピーして送ってくれた。友人たちにも送ったらしい。同封の添え書きに

 ・・残暑お見舞い申し上げ候
革命前に中国で出版された滑稽本の中から、江戸小噺のネタになったようなエロ話をコピーし、諸兄の消夏に供すものです。伊地智先生にはすでにお送りし、絶妙な中国語の言い回しとほめておられました。
 一読、抱腹絶倒、吹き出すようなののみを集めました。              須本・・   とある。

 今思えばこの「笑林広記」の手紙が彼から貰った最後の便りだったのだ。
 ← 須本君の古書のコピー


 *「笑林広記」は中国の清朝末期に、程世爵によって書かれた笑い話集だが、本書は漢字だらけの中国語なので漢文調で何とか読めないことはないが、辞書を引くのも面倒なので須本君に翻訳を依頼したが、あまりにもエロチック過ぎてあからさまに文章にはとても書けない・・と、断られてしまった。
  彼は本来生真面目な紳士だったのである・・
                        ・・だかどうだか。。(^^♪

 ブログでもそんな男女の閨事など、Hな話はとても書けないので、その艶笑話を一つだけご紹介しよう。

    ◇ 太鼓     これはニヤニヤですぞ・・ 
       ・・・・・

 イメージ 7* 和尚さんが小僧たちの中から後継ぎを選ぶことにしました。そこで、小僧たちに小さい太鼓を下腹部に下げさせて、裸の女性を見させて、誰が一番興奮しないかを選ぼうとしました。

 裸の女性を見て、悟りの足らないものは興奮して太鼓が鳴るし、泰然自若として色欲を超越したものならば、太鼓は鳴らないはずです。

 その小僧たちの中で一人の太鼓が少しも鳴らないので、これこそ住職に適任だと、和尚さんがその太鼓をよく見てみたら、鳴らないはずです。
 とっくに、太鼓を突き破ってしまっていたのです。。。  (-_-**) 

 *・・佐賀の民話に同じような話が残っていますが、 太鼓の代わりに鈴になっています。 
    昔、こんな笑い話が中国からいろいろと渡ってきたのでしょう。


          ・・・・・               ・・・・・・

*エアコンの掃除のため、脚立に乗って無理をしたのがたたったのか、
  昨日は太ももに坐骨神経痛が出てイタイ!イタイ! (-_-;;)
  ロキソニンを二回飲んで、ようやく決着。。
  年初に、残り少ない友人の一人が亡くなって、同窓会もゴルフもやめたのがたたったのか、
  今年は何だか、心身ともに急激に弱ってきたような気がする。


          暮れてなおくちなしの花見ゆるほど      長谷川素逝

イメージ 8

                 
 
               ・・・・・ 

(141)奇遇・高野山

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         (141) 「奇遇・高野山」   ①

 楽しかった十津川の同窓会が終わって、翌日帰路に着いた。シランは一行に別れて一人高野山の宿坊に泊ったが、思いもかけずこの夜は、不思議な出会いが待っていた。

 〇 奇遇

 翌日は生憎の雨だったが、高野山の入り口で、須本君や楊さんたち旧友と別れ、私はひとり高野山の宿坊「桜池院」に宿をとった。高野山の奥の院にある「ビルマ戦没者慰霊塔」に詣でるためである。

  高野山には総本山の「金剛峰寺」のほか117の寺院があり、そのうち53寺が一般人が宿泊できる「宿坊」である。宿坊は独立した寺院であると同時に、信者や観光客などのための宿泊施設でもある。

 イメージ 4その宿坊の一つ「桜池院」は正式には「御室桜池院」といい、別格本山になっている。
 開基は白河法王第四皇子法覚親王であり、はじめ「養智院」と名づけられたが、正嘉二年三月、後醍醐天皇が高野山行幸の折り、庭前の池のほとりの桜花が開き、月影が水に映る風情を賞でられたとき、九条教実(のりざね)が
   
    桜咲く木の間もれくる月影に
      心も澄める庭の池水
    
 
   と、詠ったことから以後「桜池院」と改められたが、発音は前の「養智院」のとおり「ようちいん」と呼ぶのだそうである。

  「宿坊」では、毎朝本堂で勤行があり、信者でなくても宿泊者はこれに同席することができる。また、食事は旅館同様、酒やビールもつき、また驚いたことにカラオケ設備や宴会場も備わっており、十五人入りの大浴場はバブルが浴槽の底からぶくぶくと湧き出てくる、という温泉旅館顔負けの設備であった。

 イメージ 1もちろん、高野山は真言密教の霊場であり、かっては女人禁制であったから、給仕、接待はすべて男子のお坊さんであり、料理も当然ながら「精進料理」である。
  ただし、精進料理とはいえ、春慶塗の会席膳が三つも並んだ豪華版で、二食付個室で一泊1万2千円と、案外に安い。頼めばお酒もつくが、高野山では酒とは言わず「般若湯」と呼ぶのだが、さすがにビールはビールだったのが、何やらおかしかった。

 イメージ 2玄関に出迎えた若い坊さんに案内されて六畳間の個室にはいると、高野山は千mの高所にあるので寒いのだろうか、もう5月も終わろうというのに、まだコタツが設けてあり、床の間には一幅の掛け軸がかかっていた。あまりに達筆なので浅学の小生には読めない。わずかに落款の上に、九十九翁云々の文字が見えたが、おそらく仏語、仏文のたぐいであろうか、どうやら「一声 千鐘よりも重し」と読めそうである。

 案内の若い修行僧に尋ねてみたが「勉強していないので分かりません」とやや顔を赤らめた。
頭を剃っているので若々しく、まだ二十ぐらいに見えたがもう二十六歳になる、という。なかなか純朴そうで清潔感があり好感がもてた。聞けば北海道出身で現在高野山大学に通学しているそうである。あの三島由紀夫の「金閣寺」に出てくる若い修行僧もこんな好青年だっただろうか、とふと思ったりした。
 大阪外語の同窓会のために九州から出てきた、と言うとびっくりした顔つきで「不思議な事ですね、こちらにも先月出家された外語出のお坊さんが居られます。後でご挨拶に伺うよう、言っておきます」という。 
  
 高野山は海抜約千m、東西6キロ・南北3キロの山上盆地であり、外八葉、内八葉の峰々に囲まれ、あたかも蓮の花のような形をしているそうだ。空海が各地を行脚してここに真言密教の中枢を建立しようとしたのも、まことにうべなる事と言わねばなるまい。紀州の山深く、よくこんな広い台地を見つけたものだ。


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                                                 (金剛峯寺)


 夕食までのひと時、付近の「壇上伽藍・だんじょうがらん」を眺めに出た。さすが天下に名高い真言密教のメッカだけあって、広大な敷地に古めかしい大きな七堂伽藍がいっぱい立ち並んでいる。
しかし、あいにくの雨のせいか、或いはもう拝観時間を過ぎているせいか、境内は人影もなく森閑として物音ひとつしない。わずかに我が雨傘に打ち付ける雨と風がぱらぱらと音を立てるだけである。

 折りしも若葉の季節である。緑滴るもみじ葉が雨に打たれてたゆとう風情はたとえようもない。私はさくさくと靴音を立てながら数百年の時を経た老杉の間から落ちかかる雨粒に肩を濡らしながら、ビデオカメラを片手に時を忘れて一人歩き回った。そうこうしている内にあたりが薄暗くなってきた。雨のせいばかりではなく、山の日暮れは早い。

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