(125) 「語学の授業」
九州は梅雨入りしたというのに、今日は朝からからりと晴れ上がって日差しも強く、いかにもうっすらと暑さを覚える薄暑の一日になりそうです。内外の掃除やら、夏布団の取り出し、洗濯物干しなどをしているうちに、もうお昼です。
はたらいて もう昼が来て 薄暑かな 能村登四郎
学生時代の司馬さんは、外向きにはとても明るくて優しい性格で、休み時間にはいつも彼のまわりに人垣が出来ていた。博学多識な彼の話はとても面白くて人気があり、それが聞きたくてみんなが集まってくるのである。当時彼は下校時に近くの御蔵跡図書館に立ち寄って読書するのがお定まりのコースであった。古今東西あらゆる分野の本を片っ端から読了し,ついには読む本がなくなって将棋や釣りの本まで読んでしまったそうである。
彼の読書力は実に素晴らしいもので、その速さは、1行づつ縦には読まないで、1ページを右上から左下に向かって斜め斜線で読んでしまうのではないかとさえ思われた。
中学時代、下校時に阿倍野のデパートの書籍売り場で、吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読んでしまって、売り場のおっさんに「ここは貸本屋じゃないぞ~」と怒られたら、「そのうち、ワイがぎょうさん買うてやるから、ええやないか・・」とうそぶいたとか。事実、作家になった司馬さんは、一つの長編執筆ごとに、古本屋で軽トラックいっぱいの古書や資料を買い集めて、図書館が買う本がなくて困ったという話がある。
↑ 上宮中学時代
さて、学校の語学の授業は、始めは、チーチク、パーチクとスズメの学校のような発音の練習ばかりなので、ちっとも面白くない。中国語の主幹教授が吉野美弥雄先生→で、丸顔でほっぺたが赤い温厚な人柄だったが、発音は甲高く大きな声で一語一語くっきりとした発音で、あまり流暢とはいえなかったが、中国語の辞書を編纂されて居るくらいだから、その道では一流の先生だったのだろう。
初めての教科書は「急就篇」という文庫本くらいの大きさで、「桃太郎」の話などが中国語で載っていた。高等教育の教科書が、なぜ鬼が島を攻めて鬼退治をし、宝物をいっぱい持ち帰るというおとぎ話なのかが分からなかった。
中身はすっかり忘れてしまったのになぜか、鬼子乱七八走的・・グゥエイズロァンチーパアザオデ・・(鬼たちは算を乱して逃げて行った)というワンフレーズだけが頭に残っている。
生徒たちの中の旧制高校失敗組はみんなこんな語学を毛嫌いして、文学や哲学の本ばかり読んでいる始末であった。私も次第に中国語の勉強がいやになり「慶応の文学部」に入り直そうかと、友達の桑畑と真剣に話し合ったものである。
その慶応受験のためにと、桑畑と二人で外語の二部(夜間)の英語部にも入って、昼夜二足のわらじで一学期を過ごしたこともある。その頃は下宿のオバサンに頼んで昼夜二食の弁当を作ってもらい、朝、下宿を出て昼間の授業を受け、引き続き夜間の英語の授業を受けて夜遅く下宿に帰る、という忙しい生活であった。その時の英語の先生は、英米人が帰国してしまい、インド人の講師だったが、名前は失念してしまった。
「お玉さん」という下宿のオバサンは、顔はいかついが、気は優しくてとても親切にして貰い、2食の弁当を頼んでも嫌な顔一つせず、下宿代月30円が相場なのを25円に負けてもらったりした。
(下宿のオジサンは堺の造船所勤めで昼間は顔を合わせないが、夕食時には丸い食卓を囲んで子供たちと共に食事中に、何かと長々と説教を食らった。戦地の兵隊さんの苦労を思って大事に食べろとか、勉強せなあかんぞとか。。)その後小母さんは空襲で被災されて、一家で故郷の浜松に帰られたそうであるが、小父さんと高校と小学生の子供二人ともども、その後の消息は知らない。
・・・
(下宿のオジサンは堺の造船所勤めで昼間は顔を合わせないが、夕食時には丸い食卓を囲んで子供たちと共に食事中に、何かと長々と説教を食らった。戦地の兵隊さんの苦労を思って大事に食べろとか、勉強せなあかんぞとか。。)その後小母さんは空襲で被災されて、一家で故郷の浜松に帰られたそうであるが、小父さんと高校と小学生の子供二人ともども、その後の消息は知らない。
・・・
**語学嫌いは司馬サン(福田)も同類だったようで、彼の学校の成績もあまり良い方ではなかったらしい。インド語部で一年先輩の作家「陳舜臣」さんの話では、英、仏、独語など、いくら勉強しても底なし沼の様に難しい語学と違い、蒙古語には語彙が少なく、一年ほども勉強すると一応マスターしたと言ってもよく、その上モンゴルは遊牧民族なので、中国の様に読むべき歴史的古典もない。司馬さんが学校帰りに図書館に通いづめが出来たのも、逆に言えば蒙古語の易しさからでもあっただろう、と言っている。
↑ 外語時代の陳舜臣さん
司馬さん(福田)自身も、「京都大学担当の新聞記者時代に、考古学教室で蒙古文字をスラスラと読んで並み居る学者先生たちを感服させたのが、蒙古語を習った唯一のメリットだった」と話しているが、僅か2年足らずでそれだけ話せたという事はやはり蒙古語のやさしさがあるのではないだろうか。
← 外語時代の福田君
蒙古語部に入った当時は、彼も早稲田の中国文学に鞍替えしようかと考えていたそうである。それほど語学に興味がなかった分、当時の彼は御蔵跡図書館に通い詰めであった。彼の博学多識の才能は、母校の外語で、語学だけでなく、経済地理や東洋史、万葉集から三国志はもちろん、法律、経済まで多岐に渡る授業を受け、さらに図書館では各種の雑学を自ら学んだことで培われたのであろう・・
・・・・・ ・・・・・・
*今日は6月1日、この頃は瓜の実が割れる頃なのでこの日を「瓜破」ウリワリと言います。
珍しいことに「六月一日」とか、「六月朔日」と書いて、ウリワリと呼ぶ苗字があります。
昔、奈良に中国の玄奘三蔵に学んだという「道照」というエライお坊さんがいました。
この人が故郷の河内の国で天神像を祀って、売りを破って供えたと言われています。それから瓜破の地名が生まれ、此の苗字も出来たとか。。
大阪の平野区に、今も瓜破という地名が残っているそうです。
これで今日のウンチク、おわり。。
(マロニエ)