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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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春が来た!

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    🌸  「春が来た」


  先日までの寒さはどこへやら、今日は快晴、暖かい日差しに恵まれて、遅ればせながらお彼岸の墓参りに行ってきました。
   
 戦後、二年も経ってやっと兄の戦死の公報が来た時に建てた墓なので、もう70年も経っていますから、すっかり苔むしてしまいました。
 御影石の新しくきれいな墓の中では、なんだかみすぼらしいですが、やはり「終いの棲み家」としての愛着があります。きれいに洗って、春の花を供えて来ました。

 境内の一隅にある檀家の戦没者慰霊碑には5,60名の戦死者の刻銘があって、いつもお参りして兄の刻銘を撫でて来ます。ビルマのジャングルの中はさぞ暑かっただろう、ご苦労さんでした・・と。

 道端はもう春一色、急に桜が満開になり、純白のハクモクレンやこぶしから、黄色がまばゆい菜の花、アカシアまで一挙に開花していました。
 来週はお天気もよさそうで、どこも花見で賑わうでしょうね。

  イメージ 2 「春は来ぬ」

    たれか思はむ 鶯の
    涙だもこほる 冬の日に
    若き命は 春の夜の
    花にうつろふ 夢の間と
    ああよし さらば美酒(うまざけ)に
    うたひあかさん 春の夜を 

           島崎藤村 (若菜集より)

                                                                                                                                                  (ハクモクレン)



イメージ 1

                                    春なれや名もなき山の薄がすみ    芭蕉  


(67)読書の話⑤

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     (67) 昔の読書 ⑤

  昔、70年も前に読んだ古い蔵書の束です。当時の若者はこんな本を読んでいました。
今さら何の役にも立ちませんが、自分なりの青春の記憶と記録のために、グダグダと書き留めました。 興味のない方はどうかスルーしてください。。
  
 *「外語2年時の読書」  昭和18年4月~19年3月

 一年の時は、とにかく手当たり次第に小説類を読んだが、2年生になると都会の生活にもなれ、文学好きの友人たちの感化もあり、読書も次第に多岐にわたってきた。多少大人になったのだろう。

 イメージ 1外国語学校というと専攻の外国語の勉強ばかりのようだが、どの語学部にも言語学のほかにそれぞれ、英語やドイツ語、ロシア語などの第二、第三外国語を学ばねばならない。それに、一般教養をつけるために、国文、漢文、法律、地理、外国史から簿記や英文タイプまでいろんな学課を勉強せねばならないのである。

 国文では、古事記、万葉集、平家物語などを習い、漢文では春秋左氏伝とか韓非子集解などの原文の勉強をしなければならない。
 万葉集は教科書のほか、僧契沖の「万葉代匠記」などの参考本を読んだ。
  「新訓万葉集」  *(佐々木信綱) 「万葉代匠記」 *(僧契沖)                    
  「万葉集新解」  *(武田佑吉)        「日本書紀」

            春の苑(その) 紅(くれない)にほふ桃の花
             下照る(したでる)道に 出で立つ少女(おとめ)

                                                                 万葉集/巻十九  大伴家持  

 イメージ 2平家物語は、栄華を誇った平氏の滅亡の物語だが、琵琶法師の語り物として伝承されたせいか、平易で口調の良い名文で、勉強するのも楽しかった。

   ・・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
        沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
         おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
         たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。・・・

 「支那小説史」 *(魯迅)  「憑き物」 *(岩野泡鳴) 
  「天の夕顔」  *(中川与一)

 「詩と小品」 「運命」 「巡査」 「酒中日記」 「悪魔」 「日の出」 「馬上の友」  「昼の悲しみ」 
 「空知川の岸辺」 「独歩短編集」 「牛肉と馬鈴薯」  「日記・詩」      *(国木田独歩)

          夜更けて 燈前独り座す
         哀思悠々 堪うべからず
         眼底涙あり 落つるにまかす
         天涯雲あり 我を招く                (独歩)
     
 
 「非凡なる凡人」「生い立ちの記」 *(島崎藤村)  「或る女」 *(有島武郎)
 「狩衣」 *(室生犀星) 「鶉」 *(真船豊)  「名人」 *(川端康成)  「青年」 *(林房雄)
 「即興詩人」 「うたかたの記」 「ふた夜」 「文つかひ」     *(森鴎外)    
 
 「義血鉄血」 「歌行燈」 「照葉狂言」 「女客」 「玄武朱鳥」 「縷紅新草」   * (泉鏡花)
 「赤い色・鳥・鞭」 「縄・敵」 「時間」 「機械」 「笑われた子・御身」 「落とされた恩人」
 「碑文・芋と指輪」    *(横光利一全集)

 イメージ 3「大塩平八郎」  「護持院ヶ原の仇討ち」  *(森鴎外)
 「一握の砂」  「石川啄木集」   日本文学全集

    東海の小島の磯の白砂に
    われ泣きぬれて
    蟹とたわむる       (啄木)
   
 「短歌の書」 *(北原白秋)   「短歌の作り方」 *(五島昇) 
 「寒風」 *(大鹿 卓)  「明治の作家と作品」  *(塩田良平) 
 「雨後」 *(火野葦平)  「腕」 *(水原吉郎) 「崖」 *(白川渥)            「運不運」 *(池田源尚)   「オリンポスの果実」 *(田中栄光)
 
 「宝永噴火」 *(岡本かの子)   「夫婦善哉」 *(織田作之助)
 「或る日の部隊長」 「曠野」 「姥捨て」 「風立ちぬ」   *(堀辰雄)
 「きりぎりす」 *(太宰治)  「りつ女年賦」 *(船橋聖一)   「睡蓮」 *(横光利一)

 イメージ 4「庭」  *(室生犀星 )             「秘蹟」 *(芹沢光冶良)  
  「見へざるもの」 *(阿部知二)   「虫」  *(金史 良) 
  「一つの戦史」  *(景山正治)   「巡回演劇」 *(水盛源一郎)
 「セコンボ」 *(永見義三)      「花さまざま」  *(高見順)   
 「地幅」  *(深田久弥)            「はずみ」  *(半田義之) 

 「富士」 *(橋本英吉)      「歴世」  *(林芙美子) 
  「雨期」「義侠」 *(葉山嘉樹)  「祖父」  *(三田華子)   
  「火渦」 *(水原吉郎)       「向日葵」 *(里見)
 「身の秋」  *(宇野浩二)    「諸民族」  *(高見順)
 ↑ 「源氏物語巻三」  *谷崎潤一郎 訳   

 
「山彦」  *(相野敏之) 「山川草木」 *(田宮虎次郎)  「歴史」 *(榊山 潤)  
 「明治の作家と作品」  *(塩田良平)   「村井長庵」 *(河竹本阿弥)
 
「黄雀風」  *(芥川龍之介)    「河豚」  「糞尿譚」  「山芋」   *(火野葦平)  
 
 「こころ」  「草枕」  *(夏目漱石)   「波」 *(山本有三)
 「多甚古村」 「さざなみ軍記」「鯉」 「ジョン万次郎漂流記」  *(井伏鱒二集)    
 「行動と生活環境」  *(相良守次)  「近代自我の日本的形成」 *(矢崎弾)
 
「芥川龍之介の人と作品」 *(室生犀星)    「大帝康煕」     *(長与善郎)
 「生活の探求」  「続・生活の探求」  *(島木健作)
 
 
「武道心得帳」 「安井夫人」  *(森鴎外)    「銀の匙」  *(中勘助)  
 
「惜しみなく愛は奪う」 *(有島武郎)  「人生と青年」 「おめでたき人」 *(武者小路実篤) 
 「最後の一句」 「谷間・退屈な話」  「魚玄機」 「寒山拾得」 「ぢいさんばぁさん」 *(森鴎外) 
 「陰影礼賛」  *(谷崎潤一郎)   「機械」
 *(横光利一)   「小説・海軍」  *(岩田豊雄) 
 「末枯れ」 *(久保田万太郎)   「冬の宿」 *(阿部知二)   「北村透谷選集」

  「おかめ笹」「腕くらべ」「アメリカ物語」 *(永井荷風全集)   「寝園」  *(横光利一)
  
「牛肉と馬鈴薯」 *(国木田独歩)   「今戸心中」 *(広津柳浪)
  
「飯倉だより」   *(島崎藤村)

       //////               ・・・・・ 

  *もうすっかり春ですね~
    野に山に穏やかな春の光が充ち満ちています。
    春の花も一斉に咲き出しました。

          ♪ こぶし咲く
                ああ、こぶし咲く北国の春・・

  
イメージ 5

青空ゆ 辛夷(こぶし)の痛みたる匂ひ  大野林火

   こぶしは花のつぼみが、人の拳に似ているのでコブシという名前がついています。
葉に先駆けて真っ白い花をつけるので、ハクモクレンと共に早春の花として人気があります。

  ・・・・・

(68)乱読いろいろ

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      (68) 「乱読いろいろ」

 この頃はクラス内で「雑草」というガリ版の回覧文芸誌を作っており、シランも詩や短歌、俳句などを投稿したりしていた。若いときは、知識に貪欲で、いろんな本を「乱読」した。布団の中で夜の更けるまで本を読んだものだが、これらの愛すべき本たちは、パソコン時代の今はほこりをかぶって、空しく書架に「積ん読」されて居る有様である。。

 「作家論」 *正宗白鳥  「冬の宿」 *阿部知二  「寝園」 *横光利一
 「お目出度き人」 *武者小路実篤    「今戸心中」 *広津和郎   
   ・・・・・
 イメージ 2この頃は友人たちに啓発されて、詩や短歌を熱心に読んだが、俳句はどうも年寄り臭くてなじめなかった。この頃同級の赤尾兜子は俳句作りに熱中していたのだったが、彼の前衛俳句は難解で、我々にはなかなか理解できなかった。中国語の授業を受けながら、彼は俳句の事ばかり考えていたのだろうか。。

   鮭ぶち切って菫(すみれ)ただようわが夕餉   
                           兜子の筆跡 →

 
  詩集・「寒柝」  *(三好達治)  「藤村詩集」  「与謝野晶子詩集」  「土井晩翠詩集」

 *「星落秋風五丈原」  土井晩翠                             
イメージ 5
     岐山(きざん)悲秋の風更けて 
     陣雲暗し五丈原
     零露(れいろ)の文(あや)は繁くして 
     草枯れ 馬は肥ゆれども  
     蜀軍の旗光なく 
     鼓角(こかく)の音も今しづか
       丞相病篤かりき
                                                     
           やわ肌のあつき血汐に触れもみで
              さびしからずや道を説く君    →与謝野晶子


 「文学読本」  *(室生犀星) 「白秋詩歌選」  詩集 「軍神につづけ」 *(大政翼賛会)
 「詩人論」「詩論」「詩の原理」  「日本への回帰」 「虚妄の正義」 「新しき欲情」 「港にて」
                                        *(萩原朔太郎) 


 「萩原朔太郎詩集」上 ・ 「月に吠える」「愛憐詩集」「松葉に光る」 「拾遺詩集」
 「萩原朔太郎詩集」下・ 「青猫」 「蝶を憐れむ」 「郷土望景詩」 「氷島」 「遺稿詩集」 
                                        *(萩原朔太郎)


 このころは、熱心に萩原朔太郎の著作や詩集を読んだものだ。というのも、2年生の時に学徒出陣があり、同級生の半数以上が学業半ばにして軍隊に入り散華した者も多い。その時、自称文学青年の仲間数人が集まって学生寮の一室で歓送会を開いた。その中に広島出身の佐伯君がいて、原稿用紙数十枚の自作の詩集を「これを読んで呉れ」と私に手渡した。彼は詩人の萩原朔太郎にすこぶる傾倒していて、私にも朔太郎の詩論や詩集を読め、と熱心に勧めていたのである。
 その後、彼はフィリッピンで戦死し、実家も原爆で焼失したので、彼の作詩で残っているのは、僅かにシランの日記に2,3篇,転記して置いたものだけである。この仲間たちのうち宮崎の桑畑君もフィリッピンで戦死し、あとの友人たちももう一人も残っていない。

                 イメージ 3*「晩秋」 萩原朔太郎               

                     静かに心を顧みて
                     満たさるなきに驚けり
                     巷(ちまた)に秋の入り日散り
                     舗道に車馬は行き交えども
                     我が人生は有りや無しや

                                                         →虚妄の正義・萩原朔太郎


 「珊瑚集」 *(永井荷風)  「詩の研究」 *(春山行夫) 「歌集・天地人」 *(佐々木信綱)
 「文学読本」  *(室生犀星) 

 「小景異情」       室生犀星

 イメージ 6          ふるさとは遠きにありて思ふもの
           そして悲しく歌ふもの
           よしや
           うらぶれて異土のかたゐとなるとても
           帰るところにあるまじや
           ひとり都のゆふぐれに
           ふるさとおもひ涙ぐむ
           そのこころもて  
           遠きみやこにかへらばや 
           遠きみやこにかへらばや 
                                                                                                   
                                                 ↑谷崎潤一郎
 「谷崎潤一郎集」 「刺青・人魚の悩み」 「悪魔・続悪魔」 「幇間」
 「魔術師・秘密」 「呪われた戯曲」 「あつもの・春の海辺」「恐怖時代・恋を知る頃」 
 「腕角力・無明と愛染」  「少年・友だちと松永の話」          * (谷崎潤一郎)
  ・・・・・

 物心ついて、初めて翻訳物を読んだのが、チェーホフの「桜の園」 ツルゲーネフの「初恋」だった。
 フローベルの「ポウァリー夫人」モーパッサンの「脂肪の塊」「女の一生」なんかも題名につられてよく読んだ。思春期だったんですね、森鴎外の「ウィタ・セクスアリス」とか、「性に目覚める頃」「紅楼夢」など性に関するような本をいろいろ買って読んだが、肝心のところはXXXの伏字ばかりでさっぱりだった。 昭和18年ごろ、いずれも古本の「世界文学全集」で一冊1円20銭くらいだった。

 「大地」一部、二部、三部 *(パールバック)   「脂肪の塊」   *(モーパッサン)
 「狭き門」  *(アンドレ・ジイド)   「戦争と平和」  *(トルストイ)
 「検察官」  *(ゴーリキー)  「宝島」 「ジキル博士とハイド氏」 * (スチブンソン)
  
 「スケッチブック」  *(アービング) 「足長おじさん」  *(ジーン・ウエブスター)
 「狂人日記」 *(ゴーゴリー) 「慄えるバラ」    

 イメージ 4 *(シェークスピア傑作集)
 「クライマックス」「靴の底・春」「雪解け・春」 「芋・古い筆」「時期を待つ間」「シルクハット」 「ハムレット」 「マクベス」 「ベニスの商人」 
 「ジュリアスシーザー」 「ベローナの二紳士」  「ロミオとジュリエット」    
←  *(シェークスピア)

 「女主人・牧笛・父親」「唄うたひ・許婚・隣人」 「可愛い女・アニュータ」      「六号室」 「赤い靴下・貞操」            *(チェーホフ)
   
 イメージ 7「どん底」「チェルカッシュ」「鼻」 *(ゴーリキー)  
 「女の一生」  *(モーパッサン)
 「脂肪の塊」「ポバァリー夫人」*(フローベル) 
 「即興詩人上、下」 *(アンデルセン) 森鴎外訳
 「フアースト」「若きウェテルの悩み」 *(ゲーテ) 
 「ゲーテ格言集」 *(ゲーテ)
 
 「初恋」 「その前夜」「散文詩」    *(ツルゲネーフ) 
 「罪と罰」「白痴」「悪霊」「海賊」 「カラマーゾフの兄弟」 
                             *(ドフトエススキー) 
                                                                                                          
                                               ↑「罪と罰」の挿絵
         ・・・・・                ・・・・・・

 * 今日も快晴、桜の開花に伴って日一日と暖かくなっていきます。
    今度の週末はいずこも花見客で満員でしょう。
     もう行くこともないが。。

                   (新しき門出)        佐賀城公園にて

イメージ 1


 

(69) 人生論とかなんとか・・

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      (69) 人生論とかなんとか・・

 外語も二年生の後半になると、小説や詩などの文芸物から人生論や哲学の本を読むようになった。友人の感化もあるだろうが、少しは大人になったのだろうか。それに次第に軍隊に入る時期が近づき、生や死の意味について考えるようになったのかもしれない。

イメージ 5 「支那文学思想史」*(青木正史)  
  「学生と社会」 *(河合治郎)
 「日本文化の諸問題」 *(西田幾多郎)
  「絶対的矛盾的自己同一」 *(西田幾多郎)
 「人間の学としての倫理学」 *(和辻哲郎)   
  「何を読むべきか」  *(加田哲二編)
  「人生論」 *(赤木健介) 「哲学読本」  *(斉藤眩) 

 「西洋哲学史」 *(波多野精一)  「哲学綱要」 *(桑木巌翼)
 「一般心理学」 *(岡本重雄)     「倫理学綱要」 *(須藤新吉)
 「ニイチェ・ツアラツストラ解釈」  「三太郎の日記」 *(阿部次郎)
 「ギリシャ哲学」 *(ニイチェ)   「ニイチエ研究」 *(和辻哲郎) 
   「ニイチェ哲学」 *(長谷川きゅう)
 
 「我が闘争」   *(ヒトラー)    「純粋理性批判」  *(カント)
 「処世哲学」 「意思と現象としての世界」*(ショーペンハウエル)
 「親鸞」 *(亀井勝一郎)     「歎異抄」  *(親鸞)
 
  私の専攻は、語学(外語)と経済学(九大)だったが、資本論とか国富論とかの専門の書籍のほかに、文学や哲学、人生論などの本を濫読した。当時の学生はみんなそうではなかっただろうか。
 波多野精一の「西洋哲学史」は、いわば哲学の入門書で、哲学の本としては、始めて読んだが、戦前の哲学界は、京都学派が全盛で、西田幾多郎の「善の研究」が当時の学生の座右の書だった。

  イメージ 6「善の研究」は明治44年(1911年)の刊行だが、カントの『純粋理性批判』と並び、戦前の日本では学生の必読書とされていた。戦後、21年に買ったの岩波の新刊書の「善の研究」は「15円」だったが、23年の太宰治の新刊「斜陽」はもう「75円」にもなっている。いかに戦後のインフレが急速に進んだかが分かるというものだ。


 「善の研究」と倉田百三の「愛と認識との出発」「出家とその弟子」阿部次郎の「三太郎の日記」などが当時の旧制高校生の愛読書で、「三太郎の日記」を読んで居ないと話の座に入れないくらいに、若者たちに広く読まれていた。




 イメージ 3哲学という学問は私のような凡才には、分かったようでさっぱり分からない学問で、友人のYは同じ予備士から復員して、京大の哲学科に進学したが、そのうち社会学に転科した。(理由は知らないが、難しかったことと哲学ではメシが食えそうもないと、悟った?のかも・・) 彼は定年までは、大学の名誉教授として学界で活躍していたが、昨今は足腰が弱り、入退院の繰り返しで先年亡くなった。

  彼は次第に耳も遠くなり、電話をしてもなかなか通じない、しまいには「電話をする時はあらかじめ電報を打っておいてくれ、補聴器を準備しておくから」・・などと言い出す始末。駿馬も老いては駄馬に等しとか。。

               見習士官姿のY(予備士では歩兵砲中隊だった)

 哲学をやるだけあって、彼はなかなか口うるさい奴だったが、在学中は青臭い人生論の相手として,かけがえのない友人だった。いつも口角泡を飛ばして、文学や哲学の議論をしたものだ。

 卒業間近に、彼と4人で南紀一周の旅をしたことがある。

  夜間、浜辺に出てみると満天の星のもとで、手のひらから白砂の中の夜光虫の青白い光がこぼれ落ちた・・卒業の別離と間もなく軍隊に入るべき運命の重圧のためか、みんな無口で暗い浜辺をさまよった。そして奇しくも4人とも同じ豊橋予備士官学校に入校したのだった。


       秋近し 手に光虫の むくろかな


 当時彼に「海原にありて歌える」という詩集を贈ったことがある。彼からはお返しに高村光太郎の「智恵子抄」を貰った。・・
 
     「あどけない話」    高村光太郎

     イメージ 1智恵子は東京に空が無いといふ、 
      ほんとの空が見たいといふ。
      私は驚いて空を見る。
      桜若葉の間に在るのは、
      切っても切れない
       むかしなじみのきれいな空だ。 
    
   ・・・・
              智恵子は遠くを見ながら言ふ、
               阿多々羅山の山の上に
               毎日出てゐる青い空が
               智恵子のほんとの空だといふ。
               あどけない空の話である。
 

 詩集 「海原にありて歌へる」 大木惇夫
   
 *「戦友別盃の歌」   大木惇夫  *インドネシア進攻前夜 

   言うなかれ、君よ、別れを
   イメージ 2世の常を、また生き死にを、
   海ばらのはるけき果てに
   今や、はや何をか言はん。
   熱き血を捧ぐる者の
   大いなる胸を叩けよ
   満月を盃にくだきて
    しばし、ただ酔いて勢(きほ)えよ
                                                                                         ↑あどけない話
 この頃は戦争も激化し、紫蘭自身も軍隊に入るのも間近になり、死について考えることが多くなった。なんとか死につての精神的な決着がつけたくて仏教や哲学に自分なりの死生観が欲しかったのだろう。

 イメージ 4三年になると、学業そっちのけで、毎日勤労動員のため、大阪城内の「陸軍造兵廠」に働きに行った。超高空を飛ぶB29の迎撃用に開発された最新鋭の巨大高射砲を造る第七工場だった。
下宿に帰ると綿のように疲れ果てて、直ちにゴロンと寝込む毎日だったので、本を読むどころではない。もちろんその頃の蔵書もない。 

 半年繰り上げ卒業で、秋には豊橋の予備士官学校に入った。名古屋から豊橋に向かう途中の鉄橋の上で、日記代わりにしていた小さいノートを河面に向い放り投げた。あれは矢作川だったのか。。校門の前で「さらば青春よ」と煙草を一服して校門をくぐった。もちろん、軍隊で読むのは歩兵操典や戦術など、物騒な本ばかりだったのである。。
      本らしい本はこの「米英軍常識」くらいだった。。
     米英軍の戦車、飛行機、大砲などの写真と性能が記載してある。。
   
   ・・・・・・
 

(70)受験の季節

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         (70)  「受験の季節」

  3月も残り少なくなり桜の花もはや満開だが、昔はよく「サクラサク」とか「サクラチル」とか、大学合格の電報が流行った.。もう入学試験も大方終わり、4月からは新しい人生の出発が始まる。先日は孫娘がどうやら希望の高校に合格したようで、親が喜んで電話をしてきた。またまた、乏しい財布の底をほじくり出して、嬉しい出費をせねばならない。。

 受験も今は偏差値で受験校を選別するようだから、昔ほどの競争率ではないようだ。もう国立大の合格発表も終わったようで、いつもの事ながら悲喜こもごもの発表だが、最近は何処も三人に一人や二人は不合格になる。つまり落第するわけだ。
 紫蘭も昭和16年旧制中学を5年で卒業し、旧制高校を受験したが、無念にも失敗して一年間の浪人生活を送った。そのおかげで、落第と浪人生活の精神的な苦労は身に染みている。
 合格は新しい人生の出発だが、合格出来なかった者にとってはこれから辛い灰色の季節がやってくる。  と言っても、志望校に落ちたからと言って悲観することはない。人生はまだまだ、その緒に就いたばかり、人生、先は永いのだ。浪人生活を無駄にせずに、将来の人生の糧にしてもらいたい。

  イメージ 1著名な作家の←「島崎藤村」は17歳のとき、一高を受験して見事に落第してしまった。その上、その前年には在学中の明治学院普通部でキリスト教の洗礼を受けているから、浪人して再度受験するという道を採らず、文学の道に足を踏み入れたのだった。もし一高に合格していたら、彼は平凡な家業の針問屋の経営者として生きたかもしれず、受験に合格した方が良かったか、あるいは悪かったかもしれない。人生は永く生きてみないと判らないのである。

 イメージ 2相対性理論で有名な「A・アインシュタイン」 も、ひどい成績だった。    →

  
 子供のころ、彼は満足にものを言うことができず、人から質問を受けても、答えるまでに長い時間がかかった。 高校に進学しても数学以外の学科はみな落第点で、先生は「お前はどっちみち、ろくな人間にはなれないぞ」と断定していたほどである。
 彼はチューリッヒ工業大学への入学試験にも落ちて浪人し、大学はやっとのことで卒業したものの、どこも彼を雇ってくれる所はなかった。
  
 イメージ 3同窓の←司馬遼太郎(作家)も旧制高校の受験に二度も失敗しているし(大阪高校と弘前高校)、その時の外語の同期生の半分は受験に失敗した浪人者だった。 
 シランの落第はどうも数学の成績が悪かったようである。
 そこで司馬さん同様に、翌17年には、数学の試験がない「大阪外語」を受験した。この年は戦争が始まって占領地が広大な領域に広がるにつれ、外交官や通訳などの人的需要が高まり、受験生たちが外国語学校に殺到した。

  当時私立の外語は天理外語のほかは全く無く、僅かに国立の東京外語と大阪外語の二校があるだけであった。

 外国語学校はもともと語学専門の単科大学であり、その特殊性のために極端に募集人員が少ない。英語、仏語、ドイツ語あたりは一学年、20人~30人、司馬さんの蒙古語などは僅か15人の定員だった。その点、中国語は80名という大所帯だったが、これは当時、満州、中国に傀儡政権ができていたので、施政官、商社、外交官などの社会的な要請が大きく、前年までの40人を倍増したからである。それでも、受験生が殺到して12倍の競争率であった。その年の外語の受験倍率はマレー語が最高の25倍、ついで中国語とドイツ語が10数倍の激戦だったのである。


                      イメージ 4

 受験当日は学校近くの小さな宿屋に泊まったが、8畳間になんと10人も押し込められて身動きできないほどの雑魚寝だった。その同じ部屋の10人のうち合格したのはシランだけだった。司馬さんは定員わずか15名という小所帯の「蒙古語」だったが、そのころ「満州馬賊」という言葉に司馬サンも憧れていたようで、そのため当時の蒙古語部には壮士風の豪傑が多かった。
  ・・・・
 (*シランが入学したときの中国語は一年生は80名だったが、S、18年の学徒出陣で多くの級友が軍隊に入ってしまい、19年の卒業写真に写っているのは僅かに20名である) 
 ちなみに、シランが翌19年9月の卒業時の各語部の人員は(前年の学徒出陣組を含む)

 〇(東洋語部) 卒業総数 132名
   中国語68 蒙古語16  マレー語23  インド語14 アラビア語11 (合計132名)
                                             (*マレー語は戦後、インドネシア語になった。)
  〇(西洋語部) 卒業 総数118名
   英語30 フランス語19 ドイツ語26  ロシア語23  スペイン語20 (合計118名)  
        総計すると、S19年9月の卒業生総数は250名であった。
         ・・・・・

 さて、入学試験問題はどんなだっただろうか、70年も前の事なので、もちろんすっかり忘れてしまっている。ただ、同級生に神戸の医師の息子でTという友人がいた。彼は父の死後、一家離散の憂き目に遭い、働きながら呉の夜間中学を出て入学してきた苦学生だったが、彼の記憶力は抜群で、驚くことに80歳になっても当時の母校の入試問題を覚えていたのである。

 英訳の問題は「戦争の意義」だったが、之は偶然にも彼が数週間前に英字新聞で読んだ社説の一部だったそうで、問題を見て心中快哉を叫んだということだし、また歴史は「第一次世界大戦と日本経済」であり、国語は「隣組」についての作文だったそうである。 


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                                             (外語の級友たち。正面の無帽がT)


 いかにも戦時中らしい入試問題だが、彼はそれまで弁護士宅に書生として住み込みで働いていて、時折り主人の代理として隣組の会合にも出ていたので「隣組」の作文にもすぐに対応出来たのである。その時の入試問題は私は勿論のこと、級友の誰一人として覚えていない、なにしろ70年も前の話なのだから、ほんとに驚きである)

 イメージ 7Tはサッカー部(*その頃は蹴球と言っていた。バレーは排球、バスケットは篭球である)で活躍し、色浅黒く精悍な風貌に似合わず、彼の英和辞典や参考書は、使い過ぎ、読みすぎで擦り切れてバラバラだったという。いわゆる「葦編三絶」のお手本みたいな勉強ぶりだった。

 彼は、のちに学徒出陣のため陸軍特別操縦見習士官となり、隼戦闘機に乗って、フィリッピン海域でアメリカ・グラマン戦闘機と激烈な空中戦を戦い,さらに8月20日の特攻出撃を命じられて内地に帰還中に朝鮮で終戦となり、5日の違いで九死に一生を得て帰還した。

 ←(陸軍特別操縦見習士官時代のT)


           ・・・・・         ・・・・・

 
イメージ 6

  
  「白木蓮」 は、モクレン科の落葉高木で中国の原産、コブシとともに春を告げる花木として人気があります。早春に葉が出る前に白いぼんぼりのような大きな花を咲かせます。
 花には芳香があり、日が当たると上むきに開き、夕方には閉じて朝になるとまた開きます。

         木蓮の風のなげきはただ高く      中村草田男

(71)葦編三絶・戸倉君のこと

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     (71) 「葦編三絶」 戸倉君の事

 前述の戸倉浩之君(*以下、敬称略、戸倉の方がやっぱり友人らしい)は神戸の生まれである。
 彼は関学中3年の時に医者だったお父さんを亡くした。クリスチャンだったお父さんは信仰のためすべての私財を寄進していたので、亡くなった後の家族は無一文になり、お母さんは某ミッションスクールの寮母として住み込みで働き、一家は離散の憂き目にあってしまった。
  
  そこで、彼も神戸の大きな食品問屋の住み込み丁稚として働くことになった。まだ15才の少年であった。しかし、持ち前の野放図で剛毅な性格から、そこを飛び出し、満州の馬賊になろうと無鉄砲にも僅かばかりのお金を持って、ひとり満州に向かった。
  当時の若者の間には海外雄飛の気風が強く「大陸浪人」とか「満州馬賊」とかいう言葉が飛び交い、豪快な「馬賊の唄」や「昭和維新の歌」などが歌われていた。

   
  「馬賊の唄」                 イメージ 1

   ♪俺も行くから君も行け
     狭い日本にゃ住みあいた
     浪隔(た)つ彼方にゃ 支那がある
     支那にゃ四億の民が待つ

 ところが、満州の新京(現在の長春)の安宿で突如、警察の臨検にあい巡査に「馬鹿モン!子供がこんな所に居ると殺されてしまうぞ! 明日の朝すぐに日本に帰れ!」と追い出されてしまった。
  仕方なく朝鮮の大邱まで帰って来たときには全くの無一文になり、やむなく、そこの牧場兼農場で労務者として2年の間働いていた。                                       ↑ (戦後の長春解放記念碑前にてシラン)


  しかし、少年の身の悲しさ、大人の半分の給料しかなく、食べるのがやっとであった。そこで、神戸に帰ることにして広島の呉市まで来た時、またまたお金が無くなってしまった。仕方がないので、公園で野宿をしていると、見知らぬ人が土方の仕事を世話してくれ、ついで砂糖問屋の住み込み小僧として働く事になり、やっと安心して食べることが出来るようになった。

 イメージ 2 その上、理解のある店の主人の計らいで、夜間中学にも通わせて貰うことになり、夜間部ではあるが三年生の編入試験に合格して、また勉学にいそしむ事が出来るようになった。さらに、その夜間中学の5年生の時に先輩の世話で、弁護士の書生になることができた。この弁護士夫妻がとても親切で勉強にも理解があり、掃除をしたり、来客の応対をしたり、検事局に告訴状を持っていくほかは、一日中勉強が出来るようになったのである。

  彼はそこを卒業して大阪外語(現在は大阪大学外国語学部)に入ってきたのだが、昭和17年は戦争が始まったばかりで外地進出の気風が強く、母校の入試は全国から受験者を集めて競争率10数倍の大激戦だったのに、地方の一夜間中学から彼が合格したのだから驚くほかはない。彼は乏しい給料の中から英字新聞の「ジャパンタイムス紙」を購読し、毎日コンサイスの和英辞典を引いてその社説を英訳していたという。

 そのせいか、外語の試験の英語の問題も何なく解けたのだろう。彼が今でも覚えている試験問題の英文法の問題の一つが 「What do  you  say to   (     )  a  walk ?」 答を( )内に記入・・だったそうで、ここは前置詞のtoではなく、動名詞のtaking が正解だという。

  イメージ 5戸倉は何事にも物凄く熱心な努力家で勉強家である。
  中国の諺に「葦編三絶イヘンサンゼツ」という言葉がある。「孔子が『易経』という本を何度も何度も繰り返して読んだために、竹簡を綴じた革の紐が三度も擦り切れてしまった」という言い伝えである。     → 易経
                                                                                              

 イメージ 3中学時代の戸倉の「コンサイスの英語辞典」も、「小野圭の参考書」も表紙がはずれてボロボロなるほどに読んでいたし、数学は「代数の征服」「幾何の征服」を完全にマスターし、日本史は教科書をまる一冊全部暗記していて,当時の級友を驚かせている。
  ← 小野圭の参考書

  イメージ 4余談だが、当時、受験者用に欧文社(のちに旺文社と改称)『受験旬報』という通信添削の旬刊誌があった。会員向けの通信誌で、旧制高校、旧制専門学校、大学予科への受験者を読者として、月3回刊行されていたが、当時の受験生の多くがこの通信添削を受けたものである。この受験旬報は昭和16年から『螢雪時代』 → と改題されて、一般読者向けの大学受験進学の月刊誌となった。


 ところで戸倉は、外語入学後は芦屋付近の社長族の子弟の家庭教師をして可愛がられ、手当てもだいぶ弾んでもらった様である。小さい時から苦労しただけに、彼は処世術にも秀でていたのであろう。


 
 呉中学の夜間部から大阪外語へと無事進学した彼だったが、苦学して入学した彼には、入学金と前期の授業料(60円)を払ったあとは黒色の外語の制服を買う金がなかった。彼は入学後しばらくはよれよれの国防色の中学時代の制服で登校していたし、靴を履かずに下駄履きだった。そこで中学3年まで通っていた関学中の旧師に「外語に合格したが金がなくて困っている」と相談すると、先生はすぐに関学中の在校生の家の家庭教師の世話してくれた。それも三人、しかもその生徒の家庭は「福助足袋社長」「竹中工務店大阪支社長」「道修町の薬問屋の社長」という錚々たる家庭の息子たちであった。

 先生が「苦学しているから、よろしく頼む」とでも言ったのか、毎月の家庭教師の月謝がそれぞれ40円、三軒で合計月に120円という破格の高額であった。その上、盆、暮れには中元、お歳暮として三軒からそれぞれ、50円が入ったお礼ののし袋ももらっている。その金で、靴や制服、制帽を買い求め、また一流テーラーでダブルの背広を作って休日にはこの服を着て繁華街を闊歩していたそうである。少年のころからあちこち放浪をしていただけに、彼はシランたちよりも二歳年上で世間的にももう立派な大人だったのである。

 小さい時から辛酸をなめて苦労しただけに、彼は処世術にも秀でていたのであろう。同級生に韓国出身のK君が居たが苦学していたので、軍隊に入る前に戸倉はこの三軒の芦屋の家庭教師の口をみんなK君に譲って行ったそうである。
 
          ・・・・・        ・・・・・・


   今年の桜は好天に恵まれて、いずこも満開のようですね。
   佐賀では春風に吹かれて、そろそろ散りかけています。
   花の命は短いですね。。

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                                                (佐賀城の桜)

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(72)戦車と飛行機

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        (72) 「戦車と飛行機」

 戸倉は昭和18年12月、学徒出陣で学業半ばにして幹部候補生として、加古川の戦車隊に入った。蒙古部の司馬遼太郎(*本名福田定一)も一緒に同じ戦車隊に入った。その時の模様を同期生の文集に戸倉が書いた小文がある。

  イメージ 6○外語で学生生活を楽しんでいたある日、司馬サンが「おい、戸倉、お前も12月1日に軍隊に入らんといかんぞ!」と言うので「ええ、ほんまか、まだ卒業もしてないぞ、まだ学生やないか。」といったら「お前、新聞も読んでいないんか、昨日東條大将が演説して、文科系の学生で20歳以上のものは学徒動員令で全員、12月1日に軍隊に入るようになったんや」と教えてくれた。そうか、俺もいよいよ軍隊にはいるのか!と初めて軍隊というものをきつく意識した。・・・とある。

 司馬サンは軍隊に入るとき、薬屋さんだったお父さんが心配して上等のヨーチンと飲み薬を持たせたらしい。軍隊では私物の持ち込みは厳禁されている。私物検査でこの薬を取り上げられそうなので、司馬サンが捨てようとしたのを気の強い戸倉が貰い受けた。
 
 ↑軍隊時代の司馬サン

  小さいときから世間で苦労している戸倉は、ぼんぼん育ちで運動神経も鈍く、世間的にも不器用な司馬サンとちがい、軍隊ではいわゆる要領が良い方である。
 すぐに上官や古参兵の靴を磨いたり、風呂場で背中を流してやるというような、気の効いたことをする。その上、学生時代のサッカー部の選手らしく運動神経抜群で、軍事教練も成績が良い。そんな彼は上官から可愛がられて一度もビンタを受けたことがなかった。

  イメージ 1戸倉は、司馬サンから譲り受けた薬をこっそりと厠(トイレ)の窓の上の棟木に隠しておいて、戦友や上官のちょっとした怪我や腹が痛くなったときに取り出してきて配るのである。どこからか薬を持ってくるので「戸倉は重宝な奴だ」と言う事になって、人の嫌がる軍隊生活をうまく乗り切っていったのである。

 ← 軍隊の手洗い場と厠(トイレ)

 少年時代から親兄弟と別れ、丁稚奉公や土方などで、一人で苦労して生きてきた戸倉には「飯もただ、風呂もただ、寝るのもただ、金持ちの息子も小僧上がりの自分でも同じものを食べ、同じ部屋に休み、同じ軍服を着て、同じ仕事をする。・・こんな差別のない良い所はないと、彼は毎日、嬉々として訓練を受けていたのである。

  そんなある日、部隊長が学徒兵の全員を集めて、「戦況はただならぬ状況になってきた。このままでは日本が危ない。飛行機が足りない。パイロットが足りない。お前たちの中で航空隊のほうに転属してパイロットになりたい者は申し出よ」との話があったので戸倉はこれ幸いと早速応募した。

 イメージ 2何故かと言うと、数日前に隊内で映写会があり、ドイツの戦争映画が上映されたことがあり、それを見ていると、ドイツのユンカース急降下爆撃機によって連合軍の戦車が次から次に爆破されていくではないか・・、「毎日、毎日こんな戦車運転の訓練ばかり受けていて大丈夫かなぁ」と彼はいささか心配になっていたのである。

                                               → ユンカース急降下爆撃機

 そのとき、司馬サンは「おい、戸倉、やめとき!パイロットなんかに行くな、飛行機乗りは消耗品と同じで、全員死んでしまうんじゃ、戦車隊に残っておけ、命がないぞ。」と忠告してくれたそうである。
 それでも、戸倉は希望どおり戦闘機乗りとなり、司馬サンは満州の戦車隊の小隊長になったが、さいわい二人とも無事生還し、その後、ともに古希を迎えるまで活躍したのであった。


 イメージ 3戸倉は中肉中背だが、眼光鋭く浅黒い精悍な顔つきで学生時代はサッッカーをやっていて、運動神経は抜群であり、アクロバット的な戦闘機の空中戦にはうってつけの俊敏さを持っていたと云えよう。
  
  彼は陸軍特別操縦見習士官(略称・特操)を経て一人前の操縦士になると、ジャワのバンドン基地に赴任し、陸軍の単座戦闘機「はやぶさ」に乗って毎日4時間の戦闘訓練をしていたが、空中戦や急降下爆撃、実弾射撃とアクロバット的な戦闘訓練は普通の旅客機操縦と違い、訓練も操縦も数倍も疲れると言う。当時の空中戦は今のジェット機のようにレーダーによるミサイル攻撃とは違い、戦国時代と同じく「やぁやぁ、我こそは・・」という戦国絵巻みたいな、のんびりした雰囲気だったので、追いつ追われつの空中戦技術の厳しい修練が必要だったのである。

  ↑特操見習士官当時の戸倉  

  (*学徒出陣で軍隊に入った学生の中で、航空兵に進むには陸軍では特別操縦見習士官制度が、海軍では海軍予備学生の二通りがあった)。

 イメージ 4アメリカの輸送船団には、護衛としてグラマン戦闘機が20機ぐらい付いていたそうだが、現在の電探(レーダー)によるミサイル戦と違い、当時は戦国時代の騎馬戦と同じく、お互いの操縦技術を競い合うような空中戦で、このグラマン戦闘機ともお互いに顔を見合うぐらいまで接近して戦ったそうである。
  ↑陸軍一式戦闘機(隼)
  
  昭和20年5月25日は、彼にとって酒精忘れられない一日だった。この日、空中戦で弾を撃ちつくした彼が僚機二機とともに帰途についたとき、新たな敵の戦闘機に攻撃され、海面すれすれまで降下して逃げたが、僚機は2機とも敵弾を受けて波間に没し、彼の「はやぶさ」も6発被弾してガソリンが漏れ出し始めた。おまけに「飛び魚」が当たったのか、操縦席前面の風防ガラスにひびが入ってしまった。 もしガラスが破れれば風圧によって即死するのは間違いない。
  
  イメージ 5彼はその時のことを「胸がどきどきして、幼時からのことが一瞬のうちに走馬灯のように頭の中を駆け巡った・・」とあとで述懐している。死を目前にした時はそんな精神状態になるものだろうか。

                         → グラマン戦闘機
 
 それでも何とかバンドン基地に辿り着いたと思ったら、着地と同時にガソリンが切れてエンジンが止まってしまい、駆け寄った若い整備兵が風防ガラスを拭こうと手を触れた途端、バリバリとガラスが壊れてしまったそうで、その整備兵が「戸倉少尉殿、良かったですね。自分が拭いたくらいで割れたのですから、危機一発でしたね」と驚いていた。まさに生死を分ける瞬間だったのである。  
                                                                              
      ・・・・・・       ・・・・・・・

 * 今日はエイプリルフール・・
     四月一日に、五月晴れのように今日も晴れ上がって、うそやないやろなぁ?
     絶好の花見日和だが、春風に乗って早くも落花の舞いも見れそう・・

      ♪ 春爛漫の花の色 (一高寮歌)

              春爛漫の 花の色
             紫におう 雲間より
              くれない深き 旭影
              のどけき光  さしそえば
              鳥はさえずり 蝶は舞い
              散りくる花も 光あり

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                                                 (佐賀城・南堀端の桜並木)
       
  
 

(73) 散り際

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      (73) 「散り際」 

 今年は記録的な温かさにつられて、桜も早くも散りかけてきた。
 桜はその散り際の潔さで、昔から日本人に深く愛好されてきたが、人間の散り際もさまざまである。

 
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                  ちるさくら 海あをければ 海へ散る    高屋窓秋


 陸軍特攻隊の生みの親とも言える富永中将は、「この富永も最後の一機で行く決心である」と刀を振り上げて言って置きながら、戦況不利とみるや、病気を理由に部下を捨てて台湾へ遁走するという暴挙に出た。

  イメージ 2また、敗戦直後、知覧からの将軍自身による最後の特攻決断を鈴木大佐から迫られ、『死ぬばかりが責任を果すことにはならない』と唇をふるわせたという、第六航軍司令官菅原道大中将と、参謀長の川島寅之助少将がいる。

 海軍特攻では、特攻を命じた司令官たちは、あとを追うように岡村大佐、宇垣中将、有馬中将が敵艦に突入、或いは自刃し、特攻生みの親とも言われる大西中将も戦後その責を取って自刃して果てた。

 生きて虜囚の辱めを受けずと、死に際の潔さを誇りにした軍人たちの散り際もさまざまであるが、「一将功成り、万骨枯るとはまさにこのことであろうか。

  戸倉は戦後、昭和30年自衛隊発足と共に航空自衛隊に入り、防衛庁から派遣されてジェット機の操縦訓練のためにアメリカに留学して米海軍飛行機学校に入校した。そのときの教官の回顧談の中で、偶然にも彼があの日(45・5・25)の空中戦を戦ったグラマン戦闘機のパイロットだったのを知った。

  彼の話では「その日、マカッサル海峡で日本の「はやぶさ」2機を撃墜し、あと一機は海面すれすれにフラフラしながら逃げて行ったが、おそらくあれも撃墜したと思う」と言うのである。まさに奇遇である。「あの時の隼は自分だった」というと彼はあまりの奇遇に驚き、「これぞまことの戦友だ!」とばかりに熱く握手を求め、以後親身に彼を世話してくれたそうである。その人の名は「ビル・クラウダー少佐」であった。
 
 実は戸倉の兄も戦闘機乗りだったが、昭和18年12月22日に中国戦線の桂林上空で、当時世界最高のスピードを誇っていた百式陸軍司令部偵察機に乗って偵察飛行中、アメリカの戦闘機に撃墜されて戦死している。

 イメージ 3かねてあのスピードの速い百式司偵がどうして撃墜されたのだろうと不思議に思っていた戸倉がクラウダー少佐に質問したところ、「当時、アメリカにはP38という双胴双発の新鋭戦闘機が開発されて、グラマンと違って始めてレーダーを装備していたので、1000mくらい前から狙撃できた」というのである。それを知らぬ日本の戦闘機は、米機がうんと近づいてから逃げようと構えていたので、中国での空中戦では、面白いように撃墜出来たという。
  ↑百式司令部偵察機
                                                                                            ↓ P38双発戦闘機

 イメージ 4そして親切にも空軍の記録を探して、その相手が「グレゴ
リー・ブラウン氏」であることを突き止め、アンカンサス州の片田舎まで戸倉を自家用車に乗せて行き、ブラウン氏に会わせてくれたのだった。ブラウン氏は、目に一杯涙をためて、握手を求めた。

 I am awfully  sorry, but it can not be helped. 
    War is bad ! ・・・・・

  
 (*本当にごめんなさい、でも戦争だから仕方が無かったのです。戦争は悪い!もう戦争をしたらだめだ。これからは仲良く友だちになりましょう。あなたに会えて本当に嬉しかった・・・)

     ・・・・・              ・・・・・・


 
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                                           (雪柳と緋ボケ)

    

(74)死生観

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            (74) 「死生観」

 昭和20年7月、インドネシアのバンドンの戦闘機隊で活躍していた戸倉は、特攻隊要員として内地に転属になった。参謀本部から至急十名を帰国させよ、という命令が来たのである。特攻隊とは「死の宣告」である。命令を受けた時、戸倉は胸がドキドキして、一瞬気が遠くなってよろめきそうになったが、表面は冷静を装い平然と直立不動の姿勢をとっていた。しかし、一歩部屋を出たとたんに「ああ、俺の生涯も23歳で終わりか・・」という悲壮な感慨に打たれたそうである。 

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                 (小犬と共に、あどけない若き特攻隊員たち)

 こうして選ばれた十名は帰国することになったが,単座戦闘機は長距離が飛べない。ジャワのバンドンからシンガポール、プンペン、南京、北京と激戦地の「沖縄」を避けて朝鮮の満州の奉天飛行場に来た時、ソ連の参戦を知った。そして8月15日朝鮮の京城まで来た時、終戦の知らせを聞いた。

 終戦となると、にわかに朝鮮の現地の治安が悪くなり、「連合軍歓迎!日本人は出て行け!」と書いた横断幕を持った暴徒が町中を練り歩き、電車に乗っていた日本人は蹴落とされ、略奪まで受けるような状態になった。そこで戸倉たち特攻組十人は、悲憤やるかたなく、日本刀を振りかざしてデモ隊に切りかかり、追いかけるとワーッと逃げ、やめるとまたワイワイと追いかけてくる、といういう状態を繰り返したのである。

 ところが「新選組のように日本刀を振りかざして暴れまわる特攻隊員が居る」という噂が流れたため、警察と憲兵により満州陸軍士官学校の生徒が乗る列車に同乗させて帰国させる事になり、8月19日に下関桟橋に上陸、直ちにそれぞれ故郷に戻ったのであった。その後、彼は朝鮮戦争にも秘かに参戦して、彼らしい武勇伝があるようだが、この件はいろいろと差支えがあるようで、彼は黙して語らず、ついに不明のままである。
 
 先述の通り、戸倉は防衛庁から派遣されて、アメリカの飛行学校に留学し、航空管制官監視官の資格とジェット機の計器飛行操縦士の資格を取ったあと、防衛大学一期生から25年間、自衛隊と民間航空のパイロットの教育と養成に当たった。某航空基地の副司令を最後に航空自衛隊をやめてからは、英語塾を経営して次代を担う中、高校生の育成に励んだが、彼はいつも「良い教師とは、子供の記憶に一生残るような感動的な授業をするものである」というのが口癖であった。

 すでに奥さんを亡くし、自らも心臓を痛めて80才で私塾を閉じたが、かねて死後の献体を医大に登録していた。 産業医大の献体者の会の会報に彼の「死生観」が載っているのでご紹介しよう。

 ・・・私は戦時中、戦闘機のパイロットとして南太平洋の激戦地にいた時、五回死に直面したことがあります。その中で「人間が死に直面したとき何を思うか、」と言う事を知りました。
  
  イメージ 1昭和20年7月、フィリッピンのルソン島に約400名の日本兵が米軍に追い詰められ、弾丸、食料を使い果たしてジャングルの中をさまよっていました。
 私の任務は70キロの食糧(乾パン入りの袋)をその部隊に投下する事でしたが、一度だけジャングルを切り開いた細くて不完全な滑走路に強行着陸をしたことがあります。
   ↑ (隼戦闘機)

 彼らは飢えと病気(マラリアとデング熱)のために、骸骨の様にやせ細っていました。そして、次々に臨終を迎える兵隊が、か細く小さな声で「カー」と言って息絶えて行くのです。軍医の方に「なぜ、カーと言って死んで行くのですか?」と尋ねると、軍医殿は「ああ、この部隊は東北出身の兵隊が多く、東北地方ではお母さんの事を「おっかー」と呼ぶのです。だから自分の死を悟ったとき,朦朧とした意識の中にお母さんの姿が浮かんできて(おっかー)と言って息を引き取って行くのです。それがあなたには「カー」とだけ聞こえているのです。と・・

 その(おっかー)の中には、一人の人間が死に臨んで、恋しい母親を想う気持ち、懐かしい望郷の念、若くして異郷に死なねばならぬ無念の気持ち、など様々な気持ちが含まれているのだと思いました。

 
イメージ 4
                                              (出撃前の別れの盃)


 私はその時初めて、小学校で先生が「日本の兵隊さんは戦場で死ぬときは天皇陛下万歳!と叫んで死ぬのだ」と教えてくれたのは真っ赤な嘘だったと思いました。そして死体にウジが沸いて死臭が漂っているのに、誰も穴を掘る力がなく、そのまま放ったらかされていたのです。

 そこで私は四日間、穴を掘って戦没者たちを葬りました。当時私は23歳でしたが、「ああ、人間も、動物も植物もすべて生涯を終えたら、このように土に帰るのだなぁ」と実感しました。

 土に帰る前に、後世の人のために、また医学研究のために自分の肉体を献体することは人間として最後の意義ある行為だと思います。献体登録をされている方は皆、明治・大正生まれの方で激動の昭和を生き抜いてこられた方だと思います。
 これからの「老い」の人生は誰もが行く道、通る道です。  今を生きている喜びをこの古歌で・・
 
       明日知れぬ身ということに気がついて
            みれば嬉しや今日のただいま

      ・・・・・      。。。。。

  イメージ 5*献体は、空中戦で九死に一生を得、また僅か5日の違いで特攻攻撃を免れ、戦友とともに死すべき命を助かったという体験をもとに「花が咲き、実が実り、地に落ちてまた新しい命の花を咲かせる」という、生々流転の死生観から、自らの身体を医学生の解剖用に献体して、次の世代の為に生かしたいという彼の信念からなのである。

  彼のお父さんは医者であった。医術開業試験合格者としては野口英世博士の一期先輩であり、お互いに知己の間柄でもあった。彼の「世のため、人のためにつくす情熱」は、医者としてまたクリスチャンとしてのお父さん譲りなのであろうか。


 ←軍服の戸倉・陸軍特別操縦見習士官時代

 しかし、さすが南太平洋の歴戦の勇士・戸倉も、娘さんの便りではすでに恍惚の人となり、老人ホームで一人穏やかな余生を過ごしているとのことで、すでにあの元気な年賀状を貰うこともなくなり、その後の彼の消息もない。
 あれからもう10年、すでに鬼籍の人となり献体も済ませたに違いない。 
 
   いつでも、何事でも、「全力投球」をモットーとしていた学友「戸倉浩之君」の散り際は、まことに見事というほかはない。

   ・・・・・・             。。。。。

 散り際と言えば、中学同窓の井樋太郎君は航空士官学校から「石腸隊隊員」として、昭和19年12月12日午前7時、特攻出撃、フィリッピン・ルソン島沖で散華しました。20歳の若さで死を前にしたとき、彼の思いはどんなものだったでしょうか・・

 
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                                              (出撃する石腸隊、隊員)


  井樋少尉の両親に宛てた最後の手紙には

 * 「神州不滅、信ずること厚きが故に、祈る心切なるが故に、淡々たる心境にて征きます。
          我が父は神の父なり、我が母は神の母なり。
         降る霜の白髪となるとも、清くおはしませ」
                      
                                                             昭和19年11月23日  太郎 拝
                       
                                                                とあります。
   「辞世」

            数ならぬ 身にはあれども日の本の
               歴史書くてふ その一しずく                    太郎

 
イメージ 2



 イメージ 7*佐賀中学時代の井樋太郎君は、小さい身体でしたが、胸を張った負けん気の強い少年でした。澄んだ眸の、正義感溢れる若武者でした。

 卒業写真で並んだ前列の三人、一人は東大を出て大臣になり、一人は海兵から戦後造船会社で船舶の設計で活躍し、ともに90歳を超える長寿を保ちました。

  ただ、真ん中の井樋君はお国のためとはいいながら、僅か20歳で短い人生を終えました。
 

  彼は今、どこかの星の上から、こんにちの日本を眺めながらどんな思いで居る事でしょうか。

     ・・・・・                   ・・・・・・



(75)陳舜臣さんのこと

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      (75) 「陳舜臣さんのこと」

  戸倉君の事でちょっとわき道にそれたが、また昔の母校の話に戻ろう。

 先年、亡くなられたが高名な作家の「陳舜臣」さんは外語で一期先輩(インド語部)だが、当時の上本町八丁目の旧校舎時代を「上八時代」と呼んでおられる。その随筆「道半ば」の中に、当時の母校の事についての小文が載っているので少しご紹介してみよう。

 イメージ 1陳さんは台湾出身、神戸元町の生まれで、実家は貿易商だった。
大正13年生まれだからしらんと同じ年だが、私は旧制高校に失敗して一年浪人して外語に入学したので陳さんの一年後輩にあたる。その点、同期の司馬遼太郎さんはT12年生まれだが、弘前高校受験に失敗して外語に来られたから、シランとは同期で同じく陳さんの一年後輩に当たる。

 大正13年は干支では甲子(きのえね)に当たるから、「甲子園」が出来た記念の年と言えなくもないだろう。


   〇 「上八時代」 陳舜臣・道半ば、 より

 大阪外語の試験は昭和16年2月であった(シランより一年前)。当時の大阪外語は天王寺区の上本町八丁目にあり、省線(今のJR)城東線で鶴橋まで行き、そこで近鉄に乗り換え一駅だけの上本町6丁目で降りる。当時その付近の近鉄線は「大阪軌道」略して大軌と言っていた。上六から上八までは歩いて行くのである。途中に夕陽丘高女があるので、このコースは軟派コースと言われたものである。その頃のインド語は定員が15名だったが、毎年数名の落第(留年生)が出るので、実質的な新入生は12名であった。

 当時は中学(商業・工業・師範を含めて)を卒業して上級の学校に進学する者は、約25名に一人だった。外語には吉田先生、長谷川先生という二人の優れた国文学者が居られ、我々は「国文学」を習ったのであるが、これは実に幸せな事であった。私の2年上に「庄野潤三」一年下級に「司馬遼太郎(福田定一)前衛俳句の赤尾兜子(俊郎)などの作家が母校から出ている。

 イメージ 2その頃は文芸部もあったし、「咲耶・さくや」という雑誌もあった.古事記の中に出て來る「木花咲耶姫・此花咲耶姫・このはなさくやひめ」から採ったのだろうが、私は文芸部には参加しなかった。私だけでなく、庄野潤三、司馬遼太郎など後年プロの作家となった三人はみんな文芸部に在籍していなかったのは不思議な事と言はねばなるまい。

 (*紫蘭と同級の赤尾兜子は始めは文芸部に属していたが、先輩の滔々たる芥川龍之介論に圧倒されて止めてしまったそうだ。咲耶の名前はのちに同窓会の会誌名になっている)

  ←同窓会誌



 戦前は外国語学校は国立が東京と大阪で、ほかに私立が天理しかなかった。そして東京外語は高専の学校としては珍しく4年制で大阪外語は普通の3年制であった。よく東西両外語の対抗スポーツ大会があったが、やはり一年少ない大阪の方が不利であった。

 
イメージ 3

  私たちがカレッジライフを、本当に満喫できたのは、あの大戦争が始まるまでの一年足らずだった。でも、卒業までは割合のんびりと過ごしたようだ。
 
 (*陳さんは卒業後に母校に残って、当時併設されていた「西南アジア研究所」に勤務されていた。主にインド語辞書(印日辞典)の編纂が仕事だが、研究所ではほかにアラビヤ語の辞書も計画していたそうである。陳さんの役目はインド人のバルマ先生にインド独特の言い回しや風習を尋ねる事であった。)
 
 先生にある言葉をねてみたが、答えは英語でなくラテン語で帰ってきた。それは大声では言えないワイセツ語だったのである。そのひとつに、ハーレムの女が使う「あるもの」で、これは女性二人で使うものだ、と言う。

 聖人の様に生真面目なバルマ先生が・・
「コンドーム知っていますね。ゴムではなく動物の長い腸を使います。すぐに破れてはいけません。袋でも良いですよ、細く長いものネ。その中にコインを入れます。たくさんね。それから曲がります。お湯を入れてもいいですよ。ハーレムには宦官(かんがん・去勢された男性)のほか男性は居ません。女二人でこれを使います。日本にもありますか??と、真面目くさって丁寧に解説される。
  私はこれを日本語でどう解説すればいいのか考えさせられたものだ。

 イメージ 4インド文学と中国文学の大きな違いはセックスに関する描写にあるという。インドではおおらかであるのに、中国ではなるべく隠そうとする。インドではセックスに関する語彙が豊富なので、印英辞典にはラテン語が氾濫することになるのである。

 ←学生時代の陳さんは童顔だった

  外語3年の時、バルマ先生は熱心に授業されたが、生徒はそうではない。授業が始まると、きまって何人かの生徒が手を上げて「ペシャープ」と言う。ペッシュは「前」、アープは「水」前の水・・だからつまりは「おしっこ」の事である。先生がうなずかれると、ペシャープに行った連中はその時間はもう戻ってこないのである。出欠は時間の初めにすでに取ってあるのだった。

 卒業記念に写真を撮った。先生は何を思ったか、チョークを取って黒板に文字を書いた。「この戦争で日本が輝かしい勝利を得るであろう」と書いてあった。生徒たちは「アッチャーハイ」と叫ぶ。中国語ならささしずめ「好・ハオー」という意味である。卒業してからあとの研究所時代に、バルマ先生は「ミスター・チン!君も用心した方がいいよ、いつ憲兵に連行されるかわからないからね・・」と言った。
英語だったかウルドゥ語だったか覚えて居ないが「ケンペー」の所だけは日本語だった。私は「シュクリヤー・ありがとう」とウルドゥ語でお礼を言った。(インド後には「ヒンドウー語とウルドゥ語(回教徒が使う)がある)
 ・・・・・

  *陳さんは、外語卒業後、母校の付属「西南アジア研究所」に助手として勤務されていたが、日本国籍がないので将来大学の教授にはなれない事を知り、母校を去って作家になられた。当時の研究所の女性事務員だったYさんの言によれば、童顔の陳さんは風呂敷包み一つを下げて悄然として研究所を後にされたそうである。

     ・・・・・・      ・・・・・・

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                      れんぎょうのまぶしき春のうれひかな     久保田万太郎


 *連翹(レンギョウ)の名前の由来は、その実を開くと、種子が一枚一枚並んでいる様子が、中国古代の女性の髪かざりの翹(ぎょう)に似ているからだそうです。

   ・・・・

(76)桜餅

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    (76) 「桜餅」

 寒の戻りと言うのか、今日はスゴク寒い、日中の気温が12度、昨日までの25度が嘘みたいな変わりようである。その冷たい北風の中を老舗の菓子店まで歩いて行く。ブログのメル友のKさんの娘さんから、桜餅の御進物である。Kさんはシランより一つ年上の女性だが、パソコンが取り持つご縁とはいえ、顔も知らず、どこにお住まいかも知らぬ女性の人からのプレゼント、有難くて涙がこぼれる。(-_-;)   これが一期一会の人生というものか。
 かぐわしい桜の香りとともに、美味しい桜餅を二人で有難くいただいた。

 桜餅には関東風の長命寺と関西風の道明寺がある。

 イメージ 1関東の ←長命寺桜餅 は江戸時代の享保二年(1717年)、隅田川の河畔にあった長命寺の門番だった山本新六が門前で山本屋を創業し売り出したのが始まりだそうだ。
 隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、この葉を餅に巻いたそうで、はじめは墓参の人をもてなした手製の菓子だった。その桜餅の葉は落ち葉を掃除して出た桜の葉を使った桜の葉のしょうゆ漬けで、そのころは餅だけで餡は使っていなかったそうである。

 イメージ 2関西風の道明寺桜餅→ も同じく、大阪藤井寺で保存食として作られた干し飯(ほしい)の道明寺粉が起源で、今は蒸したもち米を乾燥させ荒く砕いて作っているそうである。

 もちろん、今日頂いた桜餅は上方風の「道明寺」→なので、ぶつぶつとしたもち米の歯ごたえが、昔人間にとっては何とも言えない。

 桜餅に巻く桜の葉は、大島桜の若葉を塩漬けにしたもので、桜餅の独特の香りは、この桜の塩漬けの葉に含まれるクマリンという香り成分によるそうだが、生の大島桜の葉には香りがなく、塩漬けにすることでこの芳香が生まれるのが何とも不思議である。

 
 イメージ 3大島桜は伊豆半島に自生する桜で、花は純白で香りがあり、明るい緑の葉と共に開花するので、桜の木全体のイメージとしては、桜色というよりも、なんとなく白っぽい感じがする。。葉は山桜よりも大きく少し厚く先の方が少し尖っている。

 大島桜は山桜と共に、日本に10種ほどある野生の桜の代表格で、エドヒガンとこの大島桜の交配によって、明治初めに江戸の染井村の植木屋が売り出したのがソメイヨシノである。

 
 イメージ 4ソメイヨシノの花は葉よりも先に咲き出し、木を覆うように多くの花をつける。生育が非常に早く、病虫害にも強いので、現在の桜の名所にはこのソメイヨシノが植えられ、名実ともに桜の代名詞になっている。

 ただし、ソメイヨシノは短命なのが欠点で、寿命が約80年と言われ、明治以来の公園の桜の木もシラン同様、殆どが老い先短い新生の年頃になっているようだ。。



 山桜は日本特産の桜で、山地に多い。茶褐色の葉と共に淡紅色の花が開き、春の山を美しく彩っている。桜の名所「吉野山」や「奈良公園」などにはこの山桜が多い。花の印象が清楚で、いかにも日本的なので、昔は山桜が日本の桜の象徴的な存在だった。

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                     (山桜は茶褐色の若葉と共に開花するのですぐ判る)

 

                              敷島の大和心を人問わば
                                朝日ににおう山桜花     本居宣長



 ついでながら、この歌の中から「敷島」「大和」「朝日」「山桜」という4銘柄の煙草の名前が付けられたそうで、また最初の「神風特攻隊」の部隊名にもなった。


        ・・・・・            ・・・・・

(77)桜の思い出

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        (77)  「桜の思い出」

 花の命は短くて・・春爛漫の桜の花もあっという間に散ってしまった。
  「花は桜木人は武士」と桜の散り際の美しさをたたえたのは、鎌倉・室町の武家政権以来のことだが、「同期の桜」など愛国の象徴でもあった戦時中は別として、桜の花にはいろんな思い出がこもっている。

イメージ 4

                                さまざまの事思ひだす桜かな    芭蕉

  山桜と言えば、いつも花の吉野山を思いだす。
 「吉野山」は全国的に桜の名所として有名で、下千本から中千本、上千本まで谷間から尾根筋まで3万本ともいわれるシロヤマザクラが咲き誇っている。


      これはこれはとばかり花の吉野山    安原貞室


 吉野山は「歌書よりも軍書に悲し吉野山」 (東花坊)、と南北朝時代の悲劇として歌われているが、戦前の国粋思想のせいか中学の修学旅行の行程にも吉野山の「後醍醐天皇安在所跡」が組み込まれていた。

      さして行く 笠置の山を出でしより 
        天(あめ)が下には 隠れ家もなし
      後醍醐天皇

  昭和14年のことだから、吉野山の旅館ではまだ便所が自然の水洗トイレになっていて、用足し後の排せつされた物体?が遥か下の方を流れる谷川まで落下して行ったのをよく覚えている。
 (^^*)・・

イメージ 3

          (中学3年の修学旅行・吉野山の蔵王堂にて/ 国威宣揚・武運長久の文字が見える)

 その後、戦時中の昭和18年、外語時代に友人3人で吉野山へ花見としゃれたことがあるのも懐かしい思い出だ。クラスでは桑畑が前の席、後ろの席が戸田で、みんな大都会は初めての田舎少年なので気が合い、よく連れだって遊びに行ったものである。

 この日、下宿でお握りを作ってもらい(もちろん配給のお米で、おかずはたくあんだけだった)、後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)から中千本を過ぎたころ、突如として「警戒警報」のサイレンが鳴り響いた。当時は空襲警報の前に警戒警報があり、国民はみなこの「警戒警報発令」と同時に、各職場や家庭に帰って空襲に備えて待機せねばならない。

 たくさん居た花見客も、みんなぞろぞろ帰り始めたので、我々も仕方なくあわてて下山し、電車に飛び乗って早々に下宿に帰った。 幸い空襲はなかったが、ガランとした下宿で一人ボソボソと食べるお握りは、なんとも味気ないものだった。 

イメージ 1
                                            (吉野山・後醍醐天皇行在所跡)
 
 この時の友人の一人、戸田は鳥取出身でバスケットの選手だった。彼とはよく映画や芝居を見に行ったものだ。学徒出陣で飛行隊に入り、半身に大やけどをしてやっと帰還した。戦後は永らく京都に住んで、戦後日本の世情を悲憤慷慨していたが、先年心筋梗塞で急死してしまった。
 いつか京都であった同窓会の際、再会して小林と共にお茶を飲みながら、懐かしい往時を語ったのが最後だった。

     
イメージ 2
                                          (南朝行在所あとにて・戸田と桑畑)

    ↑ 戦時中の写真は、引き伸ばしが出来ず、35ミリフィルムのベタ焼である。

  もう一人の桑畑は宮崎の出身で、文学、哲学に造詣が深く、シランも彼にはいろいろと啓発されたが、同じく学徒出陣で軍隊に入り、シンガポールに赴任の途中、魚雷のため船が沈没、やっとの思いで泳ぎついたフィリッピンで現地部隊に配属となり、特攻斬り込み隊長として敵弾雨あられの中を敵の飛行場に突入して悲壮な戦死を遂げた。
 
 軍隊から復員してすぐに彼の家に便りを出したところ、(兄は戦死しました)という簡単なハガキが妹さんから送られて来たのが最後の消息だった。

 親しかった友人二人もすでに鬼籍の人、残る桜も散る桜。
 今は「桜だけが何でも知っている」・・が今の心境である。


                一片の残んの桜散るを見る     虚子 

      ・・・・・     ・・・・・

  
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                                  別れ霜 庭掃く男 老いにけり       正岡子規
                  

(78) 桜の思い出 ② 仁和寺の桜

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               (78) 桜の思い出 ② 仁和寺の桜

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  同じく大阪の学生時代に、京都在住の学友の小林宅を友達三人と訪れたことがある。そのとき、小林のお母さんが、竹の子に鰹節をまぶしたものをお茶菓子として出して貰ったのを思い出す。戦時下の食料難で何もない頃だから、京都のたけのこはとても美味しかった。
      ・・・・・
 イメージ 1小林とは学校の射撃部で一緒だったので特に親しくしていた。いつも土曜の午後は、学校から大阪城の敷地内にあった「城南射撃場」まで、最新式の99式短小銃と銃弾をを持ってチンチン電車に乗って、実弾射撃に通ったものだ。また、全国学生射撃大会に東京の陸軍戸山学校まで出かけて、一緒に軍人会館に泊まったのも懐かしい。
                                                 大阪城・城南射撃場あと→
           
 その大会が済んで射撃部のキャプテンだった堅田先輩にビャホールに連れて行かれて、生まれて初めてビールなるものを飲んだ。

 その時は先輩はどうしてこんなにニガいものが好きなのかと、不思議に思ったものだが、今はその苦いビールが手に離せない夏の飲み物になってしまった。その堅田先輩も学徒出陣で出征し、南方戦線で戦死されている。先輩には時には殴られもしたが、今となっては懐かしい思い出である。

 小林宅を辞してから四人で仁和寺に花見に出かけた。その桜の前で、交代で写真を撮った。柄にもなくバンカラが好きだったシランは下駄履きで出かけたが、彼らはみんな靴履きなのが、なんだか可笑しい。青春の気負いとでも言うのだろうか、手には下宿で作って貰った弁当と書物を握っているのも、若者の格好付けとしてはなにかアンバランスである。(^^*)・・

  イメージ 3昭和18年、その頃はまだフイルムがなんとかあったのである。もちろん今のようにスーパーも現像焼付け店もなく、フィルムは普通の写真屋さんで売っていた。

  愛用の写真機もボタンを押すとレンズが飛び出してくる蛇腹式のカメラで、フィルムも資源節約の意味で、半分の大きさしかなかった。

 この時、仁和寺の桜はまだ背丈くらいの大きさだったが、70数年も経った今ごろはどれだけ大きく育ったことだろう。

  写真を三人並んで撮ると、真ん中の一人は早死にするという迷信があるので、近くにいた坊ちゃんをお借りして4人にして写したが、真ん中に写っている関谷は定年退職後一年足らずで亡くなってしまった。

 ←左端の下駄履きがシラン
 

  関谷は下関の出身で剣道や音楽好きの好青年だった。彼とは大阪外語、予備士官学校、九大といつもシランと一緒で、無二の親友だった。母子家庭だった彼は戦後の大学時代には働き手の兄が病床に伏していて苦学していた。当時の食事といえば外食券による簡単な外食だけなのでいつも彼は腹を空すかせていた。家から2時間かけて博多まで汽車通学をしていたシランは、毎日二人分の弁当(といっても軍隊から持ち帰った飯盒飯である)を持って朝一番の汽車に飛び乗ったものだ。おかげで私の母はまだ暗い朝4時から起きてご飯を炊いていた。

 今なら博多までは電車で35分の距離だが、終戦直後の汽車では2時間もかかった。それも通勤、通学、買出し部隊と超満員なので、客車の中に入れず乗り口のデッキの取っ手にぶら下がって行かねばならない。次第に腕がしびれてきて、ポイントの切り替え場所ではガタガタと揺れるので、うっかりすると振り落とされそうになる。その上、石炭車ときているから排煙の細かい石炭くずが目といわず、耳といわず入り込んでくる。学校に着いたときは黒ん坊のように顔が一面に黒ずんでいて、よく友達から笑われたものだ。

イメージ 4 関谷とはよく山に登った。九重では下山時に道に迷って危うく遭難しかかったことがある。
 終戦直後だったから「九大山の小屋」の泊まり賃はわずか6円だった。勿論、配給制度なのでコメは自分で持参せねばならない。
← 地図だけを頼りに道なき道をよじのぼった。
詰襟の学生服に角帽姿、こんな服装でよく登れたものだ。帰りに足を延ばした、滝廉太郎ゆかりの岡城址が懐かしい。

  ♪ ああ 荒城の夜半の月
     めぐる盃 影さして・・

 外語時代で剣道をやっていたのとは裏腹に、彼は音楽が好きだった。

 知り合いにダンスを習ったり、ピアノの練習曲「エリーゼ」のために」とか、シューベルトの未完成交響曲をよく口ずさんでいた。彼の下宿の6畳間に禁断のコンロを持ち込んで私が家から持ってきた米で、飯盒でメシを炊いたりした。下宿の小母さんに知れたらタイヘンだ!飯が炊ける間、部屋に充満する煙を大学ノートで必死に窓から扇ぎ出すのは、何時もシランの役目だった。コワイオバサンの目をくらますのである。
 
  その関谷が定年直後、厳しい商社マンの仕事から解放されて、これからは好きなゴルフと絵描きが存分に出来ると喜んでいたのに、胃がんであっという間に急死してしまうとは。。
 海外を飛び回る猛烈社員の仕事ぶりがたたったのに違いない。生真面目な彼の事だから。。
 生涯を通じて親友だった彼が亡くなってから、もう33年にもなる。
    花は咲き、また花は散る。。  

           独り酌む 春爛漫の 窓明けて         遠藤梧逸


(79)桜の思い出③同期の桜

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      (79) 「同期の桜」

 「花は桜木、人は武士」・・桜はパッと咲いてパッと散るせいか、いかにも武人の潔い最後に似つかわしいので、軍歌の歌詞にもよく使われている。軍隊時代にも行軍の時、元気づけによく歌わせられたものだ。
    「軍歌はじめ!」・・ 一、二、三、四。。

 〇 「歩兵の本領」

イメージ 6      ♪万朶(ばんだ)の桜か 襟の色
        花は吉野に 嵐吹く
        大和男子(やまとおのこ)と 生まれなば
        散兵線の 花と散れ

 *昔の軍隊は,兵科によって襟章の色が違っていた。
歩兵は緋色だったので、それを桜の色になぞらえたのだろう。ちなみに砲兵は黄色、航空兵は青色、憲兵は黒色だったが、日中戦争以来次第に兵科の色は廃止された。それは部隊名が例えば18師団が菊部隊と呼ばれていたように、兵科の色の廃止も、戦略や防諜の意味からだったのだろう。

  ← 昭和初年の歩兵の軍装
   (まだ襟章が緋色で各連隊の数字がついていた)


 イメージ 7〇 「ああ 紅の血は燃ゆる」  学徒出陣の歌

      花もつぼみの 若桜
      五尺のからだ ひっさげて
      国の大事に 殉ずるは
      我ら学徒の 面目ぞ
      ああ 紅の血は燃ゆる 

                                                   昭和18年・ 学徒出陣 →

 *この歌は軍隊内部で歌われたわけではく、あくまでもいわゆる戦時歌謡であった。 


 京都の小林の家では竹の子をご馳走になったが、竹の子と言えば、10年ほど前に京都で同窓会があった際、その小林と同じく同級の柳と三人で嵯峨野の竹林を歩いた事がある。柳は予備士官学校も同じで、関谷は通信中隊だったが彼は歩兵第二中隊だった。終戦直後に関谷と二人で関西の友人たちを訪ねたことがあるが、そのとき彼は結核を患って実家で臥せっていた。

 その後50年、年賀状以外は会うこともなかったが、この同窓会の時には彼は喉頭がんを患っていたようで、また手術をせねばならないとしゃがれ声でしゃべっていたが、それから数年後には亡くなってしまった。彼は大阪船場の老舗のボンボンで学校では隣の席だった。田舎育ちの私は、学生時代から軍隊時代まで、都会育ちの彼にはいろいろと優しく付き合ってもらった。
 
 豊橋予備士官学校では、彼は隣の第二中隊だった。予備士では入隊後3か月たってから始めて、時折り面会が許されたが、九州からはあまりに遠くてシランの母は面会に来られない。ひとり憮然たる思いで営舎の寝台に頭から毛布をひっかぶって横になっていると、突然、柳が面会に来た彼の母が持ち込んだおはぎを一つだけ、こっそりと持ってきてくれた。自分は夜、寝静まってから毛布を引っかぶって、むしゃむしゃとそのおはぎを食べた。
 彼の優しい友情とともに、遥かなる九州の我が家でひとり、息子の帰るのを待っているであろう母を想って思わず涙ぐんでしまった。

 
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                                            (歩兵第一中隊兵舎)


   話は別だが、桜といえばすぐに「同期の桜」のメロディーが浮かんでくる。
 私は豊橋予備士官学校在校中に足を負傷して手術、松葉杖を突きながらしばらく豊橋陸軍病院に入っていたが、戦争が激化してきて、この病院も空襲を避けるために仏法僧で有名な「鳳来寺山」のふもとに疎開し、そこの小学校を臨時陸軍病院として使っていた。あのころは青空にくっきりと白い飛行機雲を引きながら悠々と飛んでいくB29の編隊を、切歯扼腕しながらよく眺めたものだ。おそらく超高空を名古屋方面の空襲に向かっていたのだろう。
 
イメージ 3

   *   (外科患者で鳳来寺山のふもとまで、蕨取りに出かけたことがある。松葉杖で山道はあまり歩けないので、シランは手帳にスケッチをして時間を過ごしたらしい。ボロボロになった小さい手帳には数枚の簡単な鉛筆描きのスケッチが載っている。)

イメージ 4


 その病院の外科患者の中に同じ予備士の候補生で熊本出身の熊井候補生がいた。
  彼は京都の龍谷大学の学生だったが、彼が「いま予備士ではこんな歌が流行っているぞ」と教えてくれたのが「同期の桜」であった。もちろんまだ同期の桜という題名はなかった。

    ♪ 貴様と俺とは 同期の桜
         同じ高師の原に咲く
            血肉わけたる仲ではないが
            なぜか気が合うて
            別れられぬ・・

 この歌詞の中にある「高師ヶ原」は豊橋予備士の広大な演習場で、冬は粉雪混じりの寒風が吹きすさぶ荒涼たる原野で、その演習の厳しさは「鬼の天伯、涙の高師」と怖れられるほどだった。(天伯台は砲兵の演習場)

 ♪「同期の桜」は、はじめ航空隊で作られたそうだが、各地の軍隊学校ではそれぞれに独自の歌詞をあてがって歌われていたようである。
 たとえば原作の歌詞の中にある「同じ航空隊の庭に咲く」の所を、豊橋予備士では「同じ高師の原に咲く」と歌い、またほかの学校では夫々「同じ戦車隊の・・」などと詩句を変えて歌っていたのである。

 二人が歌っていたのはちょうど桜の季節、小学校の土手の桜の下で「♪貴様と俺とは同期の桜~~」と歌っていると、二人の肩の上に花びらがはらはらと舞い落ちてきた。瞼を閉じると、今でもその時の情景がはっきりと浮かんでくるのである。

 どういう知り合いなのか知らないが、ある日彼は京都の喫茶店の女性に便りを出して面会に来させた。(恐らく彼女だったのかも。。)
 病院ながら軍隊なので、もちろん勝手な面会は許されていない。彼はこっそりと病院を抜け出して彼女と会い、彼女が持ってきたお萩やお握りを持ち込み、私にもおすそ分けをしてくれたのだった。生真面目候補生だった紫蘭は、坊さんの卵だというのに、この熊井の大胆さ、それに尽くす彼女の熱意につくづく感心したものだ。
 
 これが軍隊なら脱営の罪ですぐに捕まる所だが、何せ山奥の小学校が臨時の陸軍病院なので、運動場には塀も囲いもない。門衛もいないし、それに軍医は居ても取り締まる正式の上官は居ないのである。
                    
イメージ 2
                                         (陸軍病院のあった鳳来寺小学校跡)

 終戦後どうなったのか、それ以来彼とは音信がない。
 桜が咲くととてもこの頃が懐かしく、20年ほど前に鳳来寺の役場に問い合わせたところ、まだ小学校の校舎が残っていて、親切にも役場の職員の方からメールで写真が送ってきた。
しかし、 同期の桜を歌ったあの土手の桜並木は、もう見違えるぐらい大きくなり、桜も散ってすっかり緑の葉っぱに覆われて、昔の面影はなかった。

イメージ 1
 

                                   夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと      芭蕉
 
                ///////

    * 「八重桜」

イメージ 8
                                                          (八重桜・関山)

   
  里桜は野生の大島桜から改良された園芸種で、八重桜とも牡丹桜とも言われています。
  八重桜は普通の桜よりも開花が遅く4月中旬に葉と共に開きます。
  中でも「関山」は中輪のあでやかな花色で、外人にも人気があります。


          ・・・・・                ・・・・・



(80)輸送船の墓場・バシー海峡

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     (80) 「輸送船の墓場・魔のバシー海峡」

    ♪ああ 堂々の 輸送船
     さらば祖国よ 栄えあれ

         と、歌に歌われた輸送船にも幾多の悲劇がある。
 
  前述のように外語の学友・桑畑は船を撃沈されてフイリッピンのサンフェルナンドに上陸したが、ジャワには赴かず、そのままフイリッピンの現地部隊に配属になり、その後、レイテ島の激戦で夜間特攻斬り込み隊・隊長として敵の飛行場に突入、雨あられの様に飛来する敵弾のために壮烈な戦死を遂げた。このように日本軍の輸送船の多くが台湾とフィリッピンの間に在る「バシー海峡」で撃沈されているのである。

 イメージ 1フィリッピンと台湾の間には、幅150キロほどの狭くて深い海峡がある。この海峡はバシー海峡と呼ばれ、ここで数えきれないほど多くの輸送船が沈み、25万人とも言われる日本の将兵の魂が海底深く眠っているのである。    当時、フィリピンには20万人の陸軍将兵がおり、フィリピンが敵の手に落ちると、石油資源のほか、戦争を遂行するのに必要な物資が入手できなくなる。そこで大本営は、フィリピンを死守するために兵力の増強を行い、中国本土や満州の陸軍の精鋭部隊や本土の徴集部隊などを輸送船で矢継ぎ早に運ぼうとした。

 そこで輸送船はより多くの兵員を乗せられるように改造され、無駄なものを一切取り払って船倉には3段の棚が造られて、兵士たちの寝台とした。そして普段は定員700名の船に5千人近くが乗ることになった。6畳に14名という身動きすらままならない、まさに超すし詰め状態だったのである。

↑バシー海峡古図

 太平洋戦争後半にはこのバシー海峡一帯にはアメリカ海軍の潜水艦が多数配置され、多くの日本輸送船がその餌食となって沈没し、「輸送船の墓場」と呼ばれる程であった。

  昭和18年の学徒出陣で陸軍に入った者の多くは、甲種幹部候補生を受験して予備士官学校に入り、卒業して見習士官から陸軍予備少尉になるか、特別操縦見習士官を受験して飛行機乗りになった。 そして翌19年秋には卒業して多くは南方に転属しているが、私の中学、外語の学友たちもほとんど南方へ配属となって南方へと向かった。その輸送船による南方赴任の途中、彼らの多くが敵潜水艦の攻撃を受けている。
 
  桑畑と同じクラスの原は学徒出陣により18年12月1日に浜田歩兵第21連隊に入隊、甲種幹部候補生として久留米第一予備士に入校、兵科は速射砲(対戦車砲)だったが、卒業したら船舶隊に配属になった。そして南方軍配属の命を受けて19年9月18日に15隻という大船団で門司港を出帆した。

 しかし、門司港を出てまだ日本領海内の五島付近で、早くも敵の潜水艦に狙われ始めた。
 もちろん船団護衛の駆潜艇や輸送船自体も潜水艦に対して爆雷攻撃を行いこれを撃退したが、台湾・高雄港を出て魔のバシー海峡に差しかかったところ、10月2日には輸送船の一番船・津山丸(兵員4,500名)が雷撃により瞬時にして轟沈、次いで10月7日には荒天の深夜、敵潜の攻撃を受けて船団の前後3隻(黄緑丸,輝山丸、マカッサル丸が次々に撃沈されてしまった。

 イメージ 2原が乗った「長山丸・兵員3,500名)にも魚雷が命中、船中大パニックとなり、彼ももはやこれまでと観念したが幸運にもこれが不発弾で助かり、10月13日に無事マニラに到着している。そして11月18日にはジャワに上陸してそのまま終戦を迎えた。・・・
 彼が乗った長山丸は桑畑とは一日違いに出航した船団だったそうで、生と死のいたずらによって生き残った彼は、級友の桑畑達に申し訳なく、ただただ感慨無量だという。

    
 当時、バシー海峡では開戦以来の2年半で艦船50隻、陸海兵約30万人が空しく海底に眠ったと言われている。南方に運ぶべき大戦力がここで空しく消耗されてしまったのである。何しろ輸送船には夫々4,5千名の兵員が船倉のカイコ棚のようなところに詰め込まれており、雷撃を受けた時は修羅場のごとき混乱状態だったという。

  

 また、中学の同窓の秀島はワセダ在学中、技術将校として南方に向かう途中、仏印のカムラン湾沖で敵潜水艦の魚雷により輸送船が沈没、約13時間?の漂流の末、駆逐艦に助けられたという。四斗樽3個を頂点として三角形に竹竿を括り付けた臨時の救命具にすがって居たそうである。輸送船にはこんな手作りの救命道具が甲板上に何個も置いてあったとか。。 13時間というとちょっと大げさだが、これは数時間の記憶違いだろう。とにかく長時間漂流していると、意識も朦朧として次第に眠くなる。そこでお互いに軍歌を歌いあい、殴りつけたりして眠るのを防ぐのだそうだ。そして越中ふんどしを外して長くして流すそうである。そうするとフカやサメが近づかないという。


 彼はその後、技術将校としてスマトラの石油基地の駐屯部隊で警備についたが、アメリカの飛び石作戦のおかげでジャワやスマトラは戦乱をまぬかれ、現地人とサッカーをしたりしてのんびり・・(でもないだろうが)、さほど苦労はしなかったようである。彼は酒席でよく、その頃覚えたインドネシア語を披露したが、シランが唯一覚えているのはテレマカシー(有難う)だけである。しかし、彼は終戦後はシンガポールのイギリス捕虜収容所で、飛行場建設などの重労働を強いられて2年間の苦しい俘虜生活を送る羽目になった。

 イメージ 3同じころ、田中は満州の予備士官学校を出て、バシー海峡を望む台湾の最南端に居た。内地には豊橋予備士だけに砲兵生徒隊があって、満員で入れず満州の予備士に回されていたのだった。
(*その頃、司馬さんも予備士を卒業して満州の戦車隊の小隊長として勤務していたが、成績の良い者は沖縄に派遣され、彼ら成績の悪い者は内地に転属になったという。もし、司馬さんの軍隊の成績が良くて沖縄に転属していたら、後年の国民的大作家は誕生していないだろう。運命のいたずらとしか思えない。)

 ← 満州の戦車隊時代の司馬遼太郎氏

 田中の部隊は野戦重砲なので、もし台湾に敵が上陸していたら、彼も沖縄の将兵たちと同じような運命になったかもしれない。台湾は気候も暖かいし、バナナや砂糖も豊富で食べ物はいっぱい、気楽な軍隊生活だったらしい。おまけに重砲は自動車で繋引するので、一般砲兵のように馬の世話は済まずに済むし、復員後は車の免許証も取らずに済んだという。

     人生とは、戦争とは、まことに非情、不合理なものである。

   ・・・・・       ・・・・・・

 
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イメージ 5
                      
                    八重桜の「普賢象」は多弁の中輪の桜で、淡いピンク色がきれです。

 花の中心に葉化した二本のおしべが特徴で、これが普賢菩薩の乗った象の二本の牙に似ているので「普賢象」の名前がついています。

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(81)それぞれの運命

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        (81) 「それぞれの運命」

 かって机を並べて学んだ友人たちも、戦争の体験はさまざまである。

 同じく中学の同窓であるNは、19年久留米予備士官学校を卒業して北海道の北部軍教育隊に転出、20年4月に台湾の第十方面軍に赴任を命じられて門司港に集結した。見習士官ばかり60名である。一般部隊の輸送船に便乗するので二隻に分かれて乗船することになリ、ジャンケンで船を決めたが彼は負けた。

 勝った方は帝都丸、負けた方は日光丸である。しかし、帝都丸は出航しようとしたがエンジン不調で二日遅れで再び出航し、鹿児島沖で敵潜水艦のため撃沈されて全員戦死。
 負けた方の日光丸はそのまま出航して無事台湾に着いている。「負けるが勝ち」とはよく言うが、ジャンケンの勝ち負けが運命を分けるとはあまりにも不合理で、無情な思いがする。
 
イメージ 3
                                                  (輸送船に魚雷が命中)


 彼はそのまま台湾に駐留したが2か月後に沖縄に赴任するよう命令が下った。ところが装備を整えて待機中に沖縄東方海上に米機動部隊が進出、沖縄転出は不可能になってしまった。おかげで彼は今度も悲劇的な沖縄の戦いに臨まずに済んだ。
 不思議に彼は二回も死神の手から逃れているのだ。人の運命とはほんとに判らない。 彼はその後戦車部隊に転属しそのまま台湾で終戦を迎え、21年春に無事内地に帰還している。


イメージ 1 同じくTは学徒出陣で旅順で海軍予備学生の教育を受け、昭和20年7月22日、魚雷艇の「震洋特別攻撃隊要員」として佐世保の川棚基地へ向け大連を出発した。
 (*←震洋はベニヤ板で作った一人乗りの小型ボートで、爆薬250キロを積んで敵の艦船に体当たりする特攻兵器だった)

   ← 特攻船・震洋


  ところが朝鮮の釜山港に待っていた輸送船は、なんと第一次世界大戦でドイツから押収したという船籍40年のオンボロ汽船であった。
  船底はコンクリートで固められており、船足が遅く、駆逐艦の護衛がつくとはいえ、果たして敵潜水艦の目を盗んで朝鮮海峡を渡れるかどうか、甚だ疑問であった。

 イメージ 10そして7月26日、オンボロ輸送船は敵潜水艦の目を逃れるため深夜に紛れて出航した。最新鋭駆逐艦「春月」に護衛されて進むこと約1時間、突然左舷に大爆発音が二発、黒い大きな水柱が立って船は急速に左に傾き沈没し始めた。
                                                            駆逐艦 「春月」→


  海上に投げ出された彼はその時、満月の夜なのに不思議にも満天の星が実に見事で、玄界灘が月光に照らされて青白くうねっていたのを覚えているという。
 彼は護衛の駆逐艦に助けられて事なきを得、終戦後無事復員した。終戦後は江ノ島電鉄の社長を永らく務めたが、先年惜しくも鬼籍の人となって旅立って行った。

イメージ 2
                                          (攻撃を受ける日本輸送船・ラバゥル)
 
 外語同窓の桑畑と同じく同期の佐伯は予備士官学校から松戸工兵学校に進んでいるから、兵科は恐らく工兵だっただろうが、彼もまた、原と一日違いで同じ門司港を出航し、台湾の高雄港を経て荒天の魔のバシー海峡を航行中に敵潜水間の攻撃を受けて輸送船が沈没、桑畑同様にフィリッピンの現地部隊に編入されてレイテ島で戦死している。
 しかし、彼は広島の出身で、原爆により実家は元より軍歴証明書など一切が焼失してしまって、戦死の模様は不明である。

 彼が出征するとき、同級生の自称文学青年、四、五名が集まって学生寮でささやかな別れの宴を開いたことがある。桑畑も赤尾も一緒だった。佐伯がその時、これを読んで呉れと言って、自作の現代詩十数編を記した原稿用紙を私に贈ってくれた。彼が私淑していた萩原朔太郎風の詩作で、今でも明瞭に覚えている。

 イメージ 4 断章  三  秋刀魚の連想   佐伯

  男ありて鏡に向ひて
  哀しく髭を剃ると
  秋風よ 心あらば伝えてよ
  そは いつの代の習いなるか
  とわまほしく 哀し
  秋の夜よ

      「いのち燃えて」
   
       燃ゆる火を抱き
       このやきつく身体もて
       日々夜をさまよふ
       この魂を燃やせ
       このからだをぶっつけろ

       熱に燃えた眼をあぐれば
       電光に射られし如く 
                           ↑運動会にて・・左端上下、原と佐伯も
       髪をかきむしって 
       地にひれ付す
       ああ この熱き身は

 イメージ 620年ほど前に母校にある「烈士の碑」に桑畑、佐伯の両君と、辻、矢野、川合の五名の戦没者の合祀祭を行った。烈士の碑には、それぞれの名前を刻名した銅板を納め、満州事変以来の戦没者の霊を祀ってある。

 イメージ 5矢野君は四国今治の出身、沖縄戦で戦死したがその詳細は不明である。川合君は戦時中、北京付近の戦場で戦病死した。

 また,辻尚君は旅順の海軍予備学生教育隊から館山海軍砲術学校を卒業して、潜水艦の砲術長になっていたが、千島列島シュムシュ島沖にて敵艦に攻撃され退艦したが、海上にて銃撃を受けて戦死した。北海道出身の豪快な男だった。

 ←軍服姿の辻尚君

  同じように机を並べて学んだ友人たちが、夫々の運命にもてあそばれて、生死を分けた。フイリッピンとジャワやスマトラ、台湾、沖縄と言う、ほんのちょっとした配属地の違いが、その後数十年の彼らの楽しかるべき有為の人生を奪ってしまった。

     もし、彼らが生きて居れば、それぞれ国家のためにも有為な人物になっていただろう。
   人生とは、戦争とは、まことに非情、不合理なものである。

   ・・・・・              ・・・・・・
 
      八重桜も様々で花色もさまざま・・
   黄色い「ウコン」とか緑の桜「ギョイコウ」もありますが、真っ白い「白妙」も珍しいです。

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               八重桜・白妙はその名のごとく清楚・清純な趣があります。

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                     奈良七重 七堂伽藍 八重桜    芭蕉

(82)音楽で命拾い(楊さんの場合)

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   (82) 音楽で命拾い(学友・楊さんのこと)

  ところで、同じように輸送船にまつわる運命的な友達の話がある。

 イメージ 4外語で同窓の楊(ヤン)サンは本名・楊告智という台湾人(タイワニーズ)である。敗戦前までは台湾は日本の国土だったから、もちろん彼は日本人として育ち、日本名も柳井智男君といった。
 彼の実家は台湾の台南市近郊にあり、お父さんは台湾で始めて「パイナップル栽培」を始めた人で、むかし、台湾でコレラが大流行したとき、コレラにはパイナップルが卓効があるという噂が流れて大もうけしたとか・・
 ↑左、楊さんと柳君 (足だけがシラン)

 学生時代の柳井君こと楊(ヤン)サンは謹厳実直、実に真面目な感じの学生だった。浅黒い顔立ちから、やや精悍な雰囲気をたたえていたが、長身で頑丈な体つきで、スポーツ好きの好青年であった。
学校でも庭球部(テニス)に属し、足も速いので校内の語部対抗の運動会ではリレーのメンバーの一人だった。(前出の佐伯、原両君もそのメンバーだった)

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                                (テニス部の全メンバー、後列左から2番目が楊サン)

  そのうえ、彼は音楽好きで特にハーモニカの名手だった。同じクラスの岡本君がまた、アコーディオンの達人であったが、楊さんはいつもハーモニカをポケットに忍ばせていて、会合になるとクラシックから流行歌まで素晴らしいテクニックで我々をうならせてくれた。私たちクラスメートは昼休みに、よく構内の芝生に寝転んで彼が吹く「支那の夜」「夜来香イエライシャン」のメロディに聞きほれたものである。台湾の李登輝前総統が京大時代に剣道に打ち込むかたわら、バイオリンをたしなんだのと一脈相通ずるものがある。

  楊サンはとても生真面目な性格で、こんなエピソードもある。
 イメージ 2 昭和18年10月、彼も同級生と同じく学徒出陣の一員として出征せねばならなかった。(*もともと朝鮮、台湾籍の日本人には兵役の義務はなかったが、戦局が厳しくなった昭和19年からは徴兵検査の義務を負うようになった)
 ある日、大阪の今里ロータリーのところで、行軍に疲れた一群の兵隊たちが小休止していた。たまたま外語の恩師である「伊地智助教授・のち学長」がそこを通りかかったところ、その新兵の中の一人が急に立ち上がって挙手の礼をしたそうである。 その新兵が「柳井君」であった。
 直立不動の姿勢で敬礼をしている生真面目な彼の風貌が目に浮かぶ。
ほんとに真面目一本だった彼らしいこんな話を、私はあとで伊地智先生から聞いた。                                                                                                 
                                                   ↑若き日の伊地智先生

  イメージ 5また「音楽好き」だった彼らしいエピソードもある・・
当時、台湾出身の新兵は、入隊後台湾に渡って集合教育を受けたらしい。神戸から門司まで船で行き、門司からまた別の船に乗り換えて台湾に向かうのである。その時、外語で一年先輩の陳舜臣さん (台湾出身で当時、学校付属の西南アジア研究所勤務、のちに作家) と、同級の須本君が神戸埠頭で柳井君を見送っている。
 ← 学生時代の陳さんは童顔だった

 柳井(楊サン)は戦友36名とともに門司港で台湾行きの輸送船を待ったが、なかなかその便が来ない。そのため彼らは何日も門司で足留めをくらった。  

  そんなある日、時間を切って彼らに外出が許された。
彼は一人で門司の街を歩き、ある音楽喫茶(レコードを聴かせる)に入って音楽を聴いていた。彼が注文したレコードは大好きなメンデルスゾーンの交響曲である。ところがこの曲が長い。終わりまで聞くと2時間以上もかかるのである。

 そして、音楽好きの彼が熱心に聞きほれている間に、肝心の輸送船が唐突にやってきたのである。戦友や輸送指揮官などが、連絡の取れない柳井君を汗だくで探し回っている間に、その輸送船は台湾出身の新兵37名だけを残して出帆してしまった。もちろん柳井君は上官から大目玉を喰らい、また戦友たちからは「お前のおかげで乗り遅れた・・!!」と顰蹙を買ってしまったのである。

  ところが「禍福はあざなえる縄の如し」というが・・人の運命はわからないものだ。
 出航したその船が五島沖で敵潜水艦の魚雷を受けて沈没してしまったのである。

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                                                   (攻撃される日本輸送船)

 そこで楊サンは今度は逆に「お前のおかげで助かった!」とみんなから感謝される始末、ともかく運不運は髪一重、楊サンの音楽好きが幸いしてみんな命拾いしたのである。その助かった37人の中には、のちの台湾総統の「李登輝」さんも居たから、彼はつまり「台湾総統の命の恩人」と言うことになる。 彼らは次の船で無事台湾に着くことができたのであった。

           ・・・・・                   ・・・・・
                 黄色い八重桜 「ウコン」

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    黄色い桜「ウコン・鬱金」は、二日酔いに良いと言われる植物の黄色い「ウコン」の根茎の色と似ているからこの名があり、よく言われる「右近の桜」とは関係がない。

 開き始めは淡黄色だが、散り際にはやや赤みを帯びてくる。 この頃が一番の見どころだ。
 ウコン同様に、人間の散り際も美しくありたいものだ。

                    (赤みを帯びたウコン桜)

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(83)「台湾の2,28事件」

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        (83) 「台湾の2,28事件」

  楊サンは大正12年生まれで司馬遼太郎氏と同窓であり、また戦後学んだ台湾大学(旧台北帝大)では李登輝元総統とも同窓である。
 「李登輝」さんは旧制の台北高校から京都帝大の農学部に在学中、楊さんと同じように学徒出陣で出征、台湾に渡って基礎訓練を受けたのち、内地に戻って第11期陸軍予備士官候補生として将校教育を受け、名古屋の高射砲部隊に配属されて終戦を迎えた。

 イメージ 2司馬さんは、李総統との対談で「ある種の親近感、共鳴感を覚えた」と書いているが、これは同じ日本で教育を受け、同じく予備士官学校で訓練を受けたからであろう。楊さんも李さんもある意味では日本人以上に日本人的精神の持ち主であった。(李総統自身が、私は22歳までは日本人だったのですよ、と言っているほどだし、楊さんの一番好きな曲はなんと、最も日本的な「荒城の月」であった)

                                                    李登輝総統と司馬遼太郎氏 
 
イメージ 13 「台湾人の台湾」を熱望する楊さんは、「台湾紀行」を著して台湾に深い理解を示した外語同窓の司馬サンの台湾観に共鳴して「司馬さんを偲ぶ会」を企画し、司馬さんが1996年、72歳で急死した2年後の平成10年秋に、外大同窓会の主催で「司馬遼太郎と台湾紀行を語る会」が台北市で開かれた。

 台湾在住の外語同窓会、日台友好協会、台湾日本文学愛好会、司馬文学現地愛好者など二百数十名を集めてなかなか盛会であった。


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     (左から楊さん、伊地智学長、安野画伯、司馬夫人、00、楊夫人、向井君、紫蘭)

 私たち同窓も10名ほどが司馬夫人の福田みどりさんとともに参加した。企画運営には同窓の元M新聞社の向井君や元朝日テレビの田宮君が参画してくれたので、残りの小生らは豪勢な晩餐会でのんびりと本場中国料理に舌鼓をうち、美味しい陶陶酒に酔いしれるだけで済んだ。おまけに楊サンの案内で一週間の台湾全土の観光まで楽しむことができたのである。

 イメージ 4楊(ヤン)サンこと「楊告智」氏はこのころ、台湾キリスト教長老派教会の長老(プレスビター)の要職にあり、事業上もアメリカ、オーストラリヤ、日本と各国を飛び回る忙しい身だったが、大阪での同窓会にも度々やってきてその都度、私にも電話をくれた。彼は外国だけでなく日本に来ても、行く先々で、あちこちの教会を探し訪ねては毎朝のミサを怠らない、という敬虔なクリスチャンであった。如何にも真面目一本の楊さんらしい生き方だった。

  ↑司馬夫妻と楊さん    

       〇 「2,28事件」

  戦争が終わって2年後の1947年2月28日に当時中国国民政府の支配下にあった台湾で現地人による暴動があった。中国本土からやってきた国民政府の「陳儀」一派による汚職、収賄、略奪に対する台湾人の抗議行動が激化し、デモとなり、暴動となり、ついに一時無政府状態に到った。いわゆる「2,28事件」である。

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 この時、台湾人数万名が殺されたそうだが、高等教育を受けた役人、医師、裁判官などエリートの台湾人の多くが殺された。2万人とも10万人ともいわれるがその実態は分からない。国民軍の治部は北京語をうまく話せない台湾人の手に針金を通して束ねてトラックに載せ、そのままキールン港に投げ込んだと言われている。

 イメージ 3もしこの暴動が成功していたら台湾人による台湾独立が成立していたかもしれないが、その行動もわずか七日間の天下で終わってしまった。その間、住民に請われて台湾大学の学生会が無政府状態の治安維持に当たっていた。
  
 当時、楊サンは台湾大学(旧、台北帝大)学生会の副会長をしていたのだが、たまたま戦地でかかったマラリヤが再発し、郷里の台南市に帰っていたので、彼の留守中は「溥少敦」という学生が副会長として、台北の学生警察局長を引き受けていた。

 しかし七日間の騒乱のあと中国本土から応援にやってきた軍隊に鎮圧され、溥さんは大陸系住民にリンチを受けて海(基隆・キールン港)に投げ込まれたが、九死に一生を得て横浜にわたり、その後食堂を経営して60数歳まで存命した。

 
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                                         (基隆・キールン港・・ 画、安野光雄画伯)


 楊さんがもし、マラリヤにかかっていなければ当然学生警察局長として、秘密警察の追及を受けて生命の危険にさらされたに違いなく、前述の輸送船の場合といい、この2,28事件の場合といい、楊さんの、そして人間の運命のきわどさを感ぜずには居られない。
                          

 その楊さんの訃報が海を越えて突然やって来てから、もう10年にもなる。白血病だった。
 願わくば彼の念願だった台湾人の台湾が実現し、日台友好の架け橋とならんことを・・。



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                    ・・・・・・・                ・・・・・・・

     〇 八重桜「ギョイコウ」

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  *八重桜もピンク、白、黄色と様々ですが、一番珍しいのは緑の桜「ギョイコウ」です。
  ギョイコウは「御衣黄」と書き、昔の宮中の御衣が短緑色だったのに由来します。
  珍しいのは珍しいですが、桜にしては地味すぎてあまりパッとしませんね。

 
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    ギョイコウは開花時は緑色ですが、ウコンと同じく次第に花芯部から赤みを増してきます。

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                                  花にくれて我が家遠き野道かな      蕪村


             //////


(84)「あぶち精神」

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            (84) 「あぶち精神」

 今日は16日、いつもなら中学のミニ同窓会の日だが、昨年末、一人が亡くなってから、残る者も僅かに3人となって解散してしまったのでもう出かけることもない。みんなに年賀状にその旨、書き送ったのに、昨日は博多にいる友人から「16日には出席する」とのとの電話があった。葉書を見ていないのか、忘れてしまったのか・・どちらにしても、もう、まだらボケと言わざるを得ない。。

  イメージ 6200人以上も中学を卒業したというのに、残りがわずか四、五人とは、何とも侘しい話である。そういえば、外語の同窓も残りはもう二人位しか残っていない。台湾の司馬さんを偲ぶ会にも同行した向井君は元気だろうか。。
                                                   楊夫人、向井君、紫蘭 →

 その向井君にもエピソードがある。

 彼は若いころ、某新聞社の高知支局長をしていた。その頃はちょうど司馬さんが長編の「竜馬がゆく」を執筆中で坂本竜馬関係の資料の調査のため、度々、土佐を訪れていたが、二人は高知の町をあちこち散策しながら、竜馬や竜馬の姉の「乙女さん」の話をしていたそうである。
 その向井君が高知在任中に聞いたという「あうち」の話が面白い。
  「あうち」とは「センダンの木」のことである。

   (84) 「あぶち青年」   向井

 イメージ 7昔、土佐のはりまや橋近くに、ある芝居小屋があった。
そこの一人息子は小さい頃脳膜炎を患い、背丈だけはぐんぐん伸びて180センチもあったが、知能指数が止まってしまい、オツムは幼児期のままの純粋性を保ったまま成長してしまった。しかし、日銭の入る金持ちの芝居小屋のぼんぼんなので、周りの人は皆親切に扱ってくれた。だから人は皆よくしてくれるものと思い、およそ人を疑うと言う事を知らずに育って行った。

 彼は子供が大好きで、よくよその子供を背負って歩いたり、芝居のチンドン屋の後について両手を叩いて「あぶち、あぶち」とつぶやきながら、一日中ノソノソと歩き回っていた。
 彼にはなんとなく愛嬌があって、その上善意の固まりのようなものだから、大変人気があって「あぶち青年」の愛称で人々に親しまれていた。

 ある日彼が下町の路地裏にやってきた。ちょうど、おかみさんたちが洗濯を終え、タライをうつぶせにして井戸端会議に花を咲かせていた時である。あぶち青年はつかつかとそこに近寄って、うつ伏せになって居るタライを起こして井戸水を一杯に汲み上げた。そして、やおら背中から釣竿を取り出してタライの水に糸を垂れたのである。
  
 イメージ 8何をするのか?と、唖然として見守っていたおかみさん達が、顔を見合わせながら「あぶち青年は馬鹿だと聞いてはいたが、これほどの馬鹿とは知らんじゃった」と言うと、あぶち青年は「何が馬鹿じゃ」と問い返した。
 「当たり前じゃないか、タライの水に竿を差しているが、魚でも釣るつもりかい、日が暮れても魚は釣れんぞ」というと
 「どうしてそんなことが言えるか?」と、あぶち青年。

 おかみさんたちは、「今汲み上げたばかりの水に魚がいるはずがないじゃないか!」
 あぶち青年「魚はどこに泳いでいる?水の中じゃろう、ここに水がある。絶対に水の中に魚が居らんと言えるか?」
 おかみさんたちが「もし魚がいるなら見えるはずじゃ」と言うと、あぶち青年は
「お前さんたちの亭主は今、室戸の沖でかつおを釣っちょるが、カツオを眼で見て釣っちょるのか!」と一喝したという。 

 この「あぶち青年」の話は目に見える物ばかりではなく、目に見えないものの存在価値を吾人に示唆しているのではなかろうか。役立たずの能無しの人間にもどこか隠れた取り柄があるのではないか。人間の本質を見抜くには、その派手な外見や行動に惑わされず、その人の目に見えない本質を認識すべきではないか。。

 「あぶち」は漢字では「阿布知」と書き、むかしは「おうち」と言った。
 土佐には高知城を中心に沢山の「おうちの木」がある。おうちの木は正式には「栴檀・センダン」のことである。大木ではあるが残念ながら利用価値がない。固い樹なので細工物にも向かず、下駄にすると固すぎて、カンカンと頭にきて履かれないのである。
 コン畜生!と、風呂の焚口に放り込んでみると、今度は水分が多くてうまく燃えて呉れない、いつまでもブスブスとくすぶって居て全く処置なし、である。そこで上方では昔からおうちの木は首つりの木にするほかないと言われている。

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                        「おうち(センダン)の大木」 

 しかし、この役立たずの木の下には毛虫が一匹をいない。栴檀はクスノキの樟脳のように虫よけの香気を放っているのである。一見何の役にも立たないおうちの木にもこんな素晴らしいところが隠れているのである。
     
 こんな「おうちの木」を大事にして「あぶち青年の精神」を受け継いでいこうと、土佐には「あぶち会」が出来て、その名誉会長には司馬遼太郎さん(故人)がなって居る。
 ちなみに「あぶち青年」は、昭和18年に若くして亡くなった、という話である。。

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                                                 せんだん(おうち)

 *・・・向井君はちょうどその頃、長編の「竜馬を行く」を書いていた司馬遼太郎サンと二人で、高知城の坂道を歩きながらこの「あぶち青年」の話をしたところ、司馬サンは「そりゃー、面白い話だ」と感心しきりだったという。

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 *向井君は若いころから司馬さんと同じく見事な白髪で、新聞記者らしくなかなかダンディだった。
80過ぎてもダンスをしたり、文章を書いたり、ある時はタンゴを踊っていて急に頭を振り回したとたんに、脳の血管が切れて入院したりした事もある。

 「司馬さんを偲ぶ会」でも何くれと御膳立てをして、楊さんの手助けをしたり、司馬の奥さんとも親しかった。シランが台湾一周の旅のビデオを撮って一同に配った時、彼が司馬の奥さんにも一巻持って行ってくれた。お礼に奥さんから、礼状とともに「菜の花の沖」という銘酒を二本送ってきた。「菜の花の沖」は司馬さんが日露通商の端緒を作った快男児「高田屋嘉兵衛」について書いた小説である。司馬さんの死後、高田屋嘉兵衛の故郷・淡路島にちなんで、いつか淡路島で「同窓会」を開いたこともある。懐かしい。。
  
 向井君は奈良の大仏殿あたりに住んで、老いてなお元気な賀状を呉れていたが、最近はトンと消息がない。物故者相次ぐ旧友たち・・、彼は今どうしているだろうか。

                       //////              //////


   「栴檀・センダン」はセンダン科の落葉高木で四国、九州、中国に分布し、今は公園などにも植栽されています。栴檀は別名「おうち」と言い、古くは万葉集、太平記、徒然草などにも阿布知・あふち」という名前で載っています。

 今は庭園木として親しまれていますが、源平時代のころは京都でこの木に罪人の首を掛けたので「獄門の木」として嫌われていました。シランが子供の頃は、この木の下を通ると「ハゼ」や「漆」のようにかぶれると言われて、努めて避けて通ったものです。
 「栴檀は双葉より芳し」という言葉がありますが、此の言葉の栴檀はこのセンダンの木ではなく、香木の「白檀・ビャクダン」のことを言います。

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                                                  (センダンの花)

   

(85)陳さんの外語のころ

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         (85) 「陳さんの外語のころ」

 戦前の大阪外語(上八校舎時代)の事は、陳舜臣さんが司馬遼太郎全集のあとがきにも書いている。
    ・・・・
    「大阪外語のころ」   陳舜臣

・・ 大阪上本町八丁目、通称ウエハチにあった外国語学校は、何やら怪しげなところがあった、という気がする。

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 素通りから少し入った所に正門がある事からして人目を忍ぶようであり、その門をくぐると右手に「烈士の碑」と言う石碑が立って居るのも、何か曰くありげだった。その碑はもともと軍事探偵や秘密工作員として大陸で死んだ卒業生を記念するために建てられたものである。

 
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                                       (学徒出陣の友人たち・烈士の碑の前で)

 この学校は右翼壮士的な土壌があったのだ。かと思えば、昭和初年の左翼運動華やかだったころ、検挙のために一クラス殆ど全滅といった事もあったらしい。左翼前衛的な雰囲気も、かなり濃厚であった。

 司馬遼太郎とは一期違いだが、ほとんど同時代に私はこの混沌とした学校に学んだ。
 彼は蒙古語、私は印度語のクラスにいた。私がインド語を選んだのはあまり競争率の高い所を敬遠し、合格の可能性のありそうな学科を狙ったに過ぎない。彼もおそらく私と同じような動機で蒙古語を受験したのではあるまいか。どうせ旧制高校の受験を落ちて来たのだから、秀才面をしても始まらない。・・・そんな斜に構えた気風がこの学校に在ったように思う。

 学生時代は自分は粗野な少年だったと、司馬遼太郎はどこかで書いていたが、それでも彼は粗野と言う点では目立たない存在だった。粗暴な事にかけては、もっとひどい者がたくさんいたから、大阪育ちの彼はそのジャンルで頭角を現すことは無かった。彼が目立ったのは、不本意ではあろうが、色の白さであった。何せ蒙古語の学生と言えば、めったに風呂に入らず、顔も洗わないという者が多かったので、その中にいると、色の白さが目立つ。学世時代の司馬遼太郎と言えば、色の白さが一ばん印象に残っている。

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                              (蒙古語の猛者たち・左端、本を持っているのが司馬さん)

 戦時下の学生時代は息苦しさのみ強く、また学業半ばに軍隊に入ったのだから、大した収穫があろうはずがない。彼(司馬さん)に言わせると、戦後京都で大学まわりの新聞記者をしていた頃、京大の蒙古語教室で蒙古文学をスラスラと読み、学者先生を感服させたのが蒙古語を学んだ唯一のメリットだと語った事があるが、もっとほかにもメリットがあったのではないか。


 イメージ 7英独仏などいくら勉強しても底沼無しのような語学や、アラビア語のようなやたらに文法が難しい語学をやって居れば、ほかの事をする時間が奪われる。クラスが10人ほどだから一時間のうちに何度も解釈の指名を受け、そのため予習復習がたまったものではない。その点、モンゴルの言語は、一年ほど学べば一応マスターしたと言ってよく、その上、読まねばならぬ古典もないからだ。

 ← 台湾で司馬さんと陳さん(両端)

  学生時代に司馬遼太郎が図書館通いをして雑学にふけり、釣りの本まで読むことが出来たのは蒙古語のやさしさのせいであろう。
  彼は蒙古語で良かった、という感じである。・・・

        /////
  ・・・・
 ついでながら、陳さんの弟の敏臣さんは、東京商大(今の一橋大)学生だったが、第二期特甲幹として、昭和20年8月に豊橋予備士官学校に入隊された由。 そうすると豊橋予備士では紫蘭の一期後輩だったわけだ。。  ほんとに人間、何処にご縁があるかわからない。

 *当時、大阪外語にやって来るのは数学が苦手な連中が殆どだった。陳さんの記述にもあるように、陳さん自身も英語や国漢は勉強しないでも出来る自信があったが、理数科は苦手だった。当時、理数の科目がないのは大阪外語と上野の音楽学校だけであった。

(*ちなみに、同じ昭和17年に音楽学校に入学した有名人に、作曲家の「団伊久磨」氏がいる。その翌年には「芥川也寸志」氏が入学しているが、入学試験では也寸志氏は最下位だったそうである。
昭和19年には学徒動員によって二人揃って陸軍戸山軍楽隊に入ったが、芥川也寸志は首席で卒業して、当時の土居原教育総監から銀時計を貰っている。)

   〇 「シラミの歌」

 イメージ 5作曲家の故・団伊玖磨さんは、1924年生まれだが、なかなかユニークな人で逸話も多い。
 野良猫を釣り竿で釣ろうとしたり、蛇が好きで飼っていた大蛇が、彼の子供の首に噛みついたり、来客中にこっそり尿瓶を愛用したり・・

 戦後まもなく、太宰治の作品を愛読していて、詩人の北山冬一郎の紹介で、太宰に会う話が持ち上がった。しかし、ダンという苗字から「檀一雄」を連想した太宰が「ダンという名前なら大酒飲みだろう」と言ったところ、北山が「いや、実は一滴も飲めないんです」と答えたため、太宰が「酒も飲めない奴なんかに用はない」と断った。そのため、とうとう太宰に会うことができなかったそうである。

 その団さんの随筆「パイプのけむり」に、戸山軍楽隊のころの話が載っている。

  イメージ 6二人の階級はどちらも上等兵だったが、二人の仕事は音楽学校の生徒らしく、高射砲学校の歌とか憲兵学校の歌とか、各種軍隊学校の歌の編曲であった。二人の才能から見ると、せいぜい2時間ぐらいの仕事である。それに対して、彼らの上官は二人の才能を見抜けなかったのか1日、2日という余裕のある時間を与えていた。

 従って、二人はいつも時間を持て余していて退屈で仕方がない。二人は編曲室と言う一室にこもって、大きな机を前に向かい合って五線紙などを前にしていかにも仔細ありげな顔をして座っているだけであった。
 そんなある日、芥川が「シラミが一匹、机の上を這っているのを見つけた。
   「シラミだね」
   「うん、シラミだ」 
  
↑陸軍戸山学校、将校集会所あと
  (*シランも戦時中、東京であった全国学生射撃大会の時、戸山学校に行ったことがある)
    
  当時の軍隊には毛布や衣服にシラミが沸いて、誰でも5,6匹はシラミを持っているという状態だったので、いつも見慣れているシラミ一匹を机の上に見つけたといっても特別の感激もないのである。 
「シラミかぁ」とつまらなそうに言っていた二人は、そのうちどちらからともなく、ちょっとしたゲームを始めた。 シラミの言葉の中のシ、ラ、ミはいずれもドレミファの音階の中にある名前である。

  シラミ、シラミと小さな旋律を歌っているうちに、すっかり二人は嬉しくなって、全部ドレミの中にある発音だけで歌える小さな歌を作曲した。
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    ♪ そらそらシラミ
       そらそらシラミ
       どらどらシラミ
       見れど見れどシラミ
        シ、ラ、ミ~

 
  二人はすっかり感極まって、ついには片方が机の上のシラミを指さしてソラ、ソラ、シラミ~と歌うともう一方が ドラ、ドラ、シラミ~と、うんと顔を机に近づけてデュエットで歌い始めた。
                                                                                                                   ↑芥川也寸志

  以来、二人はシラミが居ようが居まいが、この「シラミの歌」を情緒たっぷりに歌ったり、か細く悲しげに歌ってみたりしては毎日二人でニヤニヤと楽しんでいたのである。
  
  それも突然、週番士官の靴音が部屋の外から聞こえてくると、急に元の生真面目なしかめ面に戻ってしまったりするという、なんとも気楽な、また変な二人の兵隊であった。
  そうこうする内に戦争は終わってしまい、それぞれ復員して、20年ほどあとになると二人は共に、押しも押されもせぬ大作曲家になっていたのである。

    ・・・・・・           ・・・・・・

  「しだれ桜」 

 枝垂れ桜にはエドヒガンが下垂するものや糸桜系、ヤマザクラ系の菊枝垂れ、八重紅枝垂れなどがあるが、エドヒガン系は性質が強く、長命のものが多い。
 各地に残る名木は、この系統の老木が多い。

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                  さきいづるや さくらさくらと さきつらなり    萩原井泉水

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