戦後、二年も経ってやっと兄の戦死の公報が来た時に建てた墓なので、もう70年も経っていますから、すっかり苔むしてしまいました。
御影石の新しくきれいな墓の中では、なんだかみすぼらしいですが、やはり「終いの棲み家」としての愛着があります。きれいに洗って、春の花を供えて来ました。
来週はお天気もよさそうで、どこも花見で賑わうでしょうね。
「文学読本」 *(室生犀星) 「白秋詩歌選」 詩集 「軍神につづけ」 *(大政翼賛会)
「詩人論」「詩論」「詩の原理」 「日本への回帰」 「虚妄の正義」 「新しき欲情」 「港にて」
*(萩原朔太郎)
「萩原朔太郎詩集」上 ・ 「月に吠える」「愛憐詩集」「松葉に光る」 「拾遺詩集」
「萩原朔太郎詩集」下・ 「青猫」 「蝶を憐れむ」 「郷土望景詩」 「氷島」 「遺稿詩集」
*(萩原朔太郎)
夜間、浜辺に出てみると満天の星のもとで、手のひらから白砂の中の夜光虫の青白い光がこぼれ落ちた・・卒業の別離と間もなく軍隊に入るべき運命の重圧のためか、みんな無口で暗い浜辺をさまよった。そして奇しくも4人とも同じ豊橋予備士官学校に入校したのだった。
秋近し 手に光虫の むくろかな
外国語学校はもともと語学専門の単科大学であり、その特殊性のために極端に募集人員が少ない。英語、仏語、ドイツ語あたりは一学年、20人~30人、司馬さんの蒙古語などは僅か15人の定員だった。その点、中国語は80名という大所帯だったが、これは当時、満州、中国に傀儡政権ができていたので、施政官、商社、外交官などの社会的な要請が大きく、前年までの40人を倍増したからである。それでも、受験生が殺到して12倍の競争率であった。その年の外語の受験倍率はマレー語が最高の25倍、ついで中国語とドイツ語が10数倍の激戦だったのである。
敷島の大和心を人問わば
朝日ににおう山桜花 本居宣長
また、中学の同窓の秀島はワセダ在学中、技術将校として南方に向かう途中、仏印のカムラン湾沖で敵潜水艦の魚雷により輸送船が沈没、約13時間?の漂流の末、駆逐艦に助けられたという。四斗樽3個を頂点として三角形に竹竿を括り付けた臨時の救命具にすがって居たそうである。輸送船にはこんな手作りの救命道具が甲板上に何個も置いてあったとか。。 13時間というとちょっと大げさだが、これは数時間の記憶違いだろう。とにかく長時間漂流していると、意識も朦朧として次第に眠くなる。そこでお互いに軍歌を歌いあい、殴りつけたりして眠るのを防ぐのだそうだ。そして越中ふんどしを外して長くして流すそうである。そうするとフカやサメが近づかないという。
その楊さんの訃報が海を越えて突然やって来てから、もう10年にもなる。白血病だった。
願わくば彼の念願だった台湾人の台湾が実現し、日台友好の架け橋とならんことを・・。