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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(48)オリンピック四方山話

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           (48)  オリンピック 四方山話

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             (昭和11年) ベルリン、オリンピック・日本選手団の入場

 今日は2月28日、「二月は逃げる」と言いますが、早いものですね。今日で2月も終わりです。
 冬季オリンピックもメダル13個獲得で、めでたし、めでたしで終わりました。4年後の冬のオリンピックは、シランはもう見れそもありませんが、2年後の二度目の東京オリンピックの日本選手の活躍をなんとかテレビで見たいものです。。
 
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                                  (昭和39年・東京オリンピック開催)

  ところで、古代ギリシャの祭典であるオリンピックがクーベルタン男爵の努力で、1896年に近代オリンピックとして復活し、アテネで第一回大会が開かれましたが、オリンピックではいろいろな奇談が生まれています。
 
 〇 マラソンの始め

 古代オリンピックの記録として最初に残っているのは、紀元前776年に行われた競技です。その種目は競争だけでしたが、のちに円盤投げ、レスリングなどが加わり、ギリシャ中から男たちが集まってこれらの競技に参加しました。開催が4年おきというのもこの時代に定まっています。
  
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                                                  (古代オリンピック想像図)

 まず、陸上競技の華、マラソンはもともと競技種目には入っていなかったのですが、フランス人が、紀元前450年「マラトンの戦い」で、マラトンからアテネまでを力走して「我勝てり」と勝利を告げて倒れた兵士「フェイディピデス」を記念して、ぜひマラソンを加えようと主張したので、このマラソン競技も行われるようになりました。

 イメージ 3そこでギリシアの人々は地元の面目にかけて自国の選手に栄冠を与えたいと考え、選手として選ばれたのが水の運搬人「S・ロウエス」でした。

  彼を勝たせたい一心から金持ちの「G・アベロフ」は、もし「ロウエス」が勝ったら多額の賞金と自分の娘をやろう、と約束し、アテネの床屋と仕立て屋は一生の間、ただで散髪し、好みの服をただで提供しようと申し出ました。またチョコレート工場の経営者は1000キロのチョコレートを差し上げようと言いました。

 欲に眼がくらんだわけでもないでしょうがその「ロウエス」が優勝し、ギリシャ中が湧きかえりました。ロウエスは既婚者だったので、さすがにアベロフの娘は貰いませんでいたが、一生食べるのには事欠かない生活を保障されたと言う話です。
 先日、東京マラソンで設楽悠太選手が日本記録を5秒更新して、ボーナス一億円を貰いましたが、古代は賞金だけでなく、娘やチョコレートまで貰っていたんですね。

  〇 「キセルマラソン」

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           幻の日の丸 (昭和11年、ベルリンオリンピックで優勝の孫基禎選手)

 1900年(明治33年)にパリで開かれたオリンピックの各種目の最終決勝戦は、7月14日の土曜日に行われることになっていましたが、この日はフランスの革命記念日なので、主催国のフランスはこの決勝戦を翌日に持ち越すことにしました。  すると今度はアメリカ選手団の一部が「この日は日曜日で安息日だから」として出場を拒否して大混乱になってしまいました。

 イメージ 6そればかりではなく、マラソンの競技で終始トップを切っていたアメリカの「A・ニュートン」選手が悠々とスタジアムに戻ってみると、驚いたことにフランス人三人とスェーデンの選手一人がすでにゴールしているではありませんか・・!?

  そしてフランス人の「M・ティアトという選手が優勝者となりました。ニュートンは走っている間に誰にも追い越されなかったと主張し、厳重に抗議しました。

 そこで調べてみると、先着の4人はマラソンの途中で近道を選び、おまけに馬車に乗った者まで居たらしいという有様。しかし真相はとうとう分からずじまいで審判は当惑して優勝者の決定を保留しました。それから13年後のに1912年になって、やっとティアトが優勝者である、と認められ金メダルをもらいました。ちなみにこの「ティアト」はパリのパン屋さんだったそうですよ。

↑ベルリン・オリンピック・得意満面のヒトラー総統

 ついで、1904年のアメリカのセントルイス大会では有名な「キセルマラソン」の優勝者が現れました。 8月30日という猛暑の中、40キロのコースで開催されたマラソン競技で、アメリカの「フレッド・ローツ選手」は20キロあたりで力つき、道ばたに倒れ込んでしまいました。

  彼はたまたま通りかかった車に乗せて貰ってスタジアムに帰ろうとしたのですが、スタジアムまであと5マイルのところで車がエンストしてしまい、体力を回復したローツは車から下りてそのままゴールを目指して走り出し、1着でゴールしてしまったのです。

 しかし、ローツ選手を車に乗せた運転手がすぐに届け出たために、ローツ選手の不正が発覚して、およそ1時間あとにゴールしたアメリカの「トーマス・ヒックス」選手が優勝者になりました。
 これが「キセルマラソン」としてオリンピック史上に残る不名誉なエピソードになっています。

   ・・・・・      ・・・・・

  
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                    梅一輪一輪ほどの暖かさ     嵐雪   
                         
 


(49)哀れな動物たち

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      (48) 「哀れな動物たち」 

 昭和17年4月18日のアメリカ空母「ホーネット」から発進した米機「ドーリットル空襲」以来、昭和18年になると、戦局は悪化の一途をたどり、本土空襲の恐れが出てきた。

  イメージ 3そこで、万一帝都が空襲にあった場合、ライオンたちが逃げ出す危険性が考えられ、これに備えて、上野動物園の猛獣たちを処分する事(つまり殺すこと)が決められた。
 その殺し方は
「非常手段をとらず、穏やかな方法で処置した」と言うことになっているが、実際はかなり「悲惨な処分」だったらしい。

  イメージ 5昭和18年の8月から9月にかけて処分が行われ、まず8月17日に「北満ヒグマ」「熊」一頭が死に、翌18日には、エチオピア皇帝から天皇に贈られた「ライオン」に硝酸ストリキニーネを飲ませて殺すことになった。

↑ライオンもインスタ映え

  イメージ 6しかしさすが百獣の王のライオンだけあって、薬だけではなかなか死なない。そこで係員が涙を飲んで槍で突き殺した、という。
 ニシキヘビは思い切りよく首を切断したが、胴体はなかなか動きをやめず、心臓を取り出して見ると、2時間近くも動いていたそうである。

 イメージ 7最も哀れをとどめたのは、子供たちに一番愛されていた三頭のたちで、これは絶食させて餓死させることにした。
象は敏感な動物で、薬を飲ませようとしても、決して飲まなかったからである。

  ←手取り足取り・・わしゃかーなわんぞー

 象たちが食べ物を与えられず、フラフラになりながらも、何か芸をすれば餌のジャガイモにありつけると知っていたので、よろめく足を踏みしめながら、象が芸をしてみせるのには、係員一同、涙なしには見ていられなかったという。

 戦争とはほんとにむごいものだ。人間の争いには何の関係もない動物たちにまで悲しい運命を背負わせてしまう。これら戦争のため姿を消した動物たちに、全国の子供たちから、「片仮名の手紙」がいっぱい届いたそうである。

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                                            (ドイツ軍に使役される象)


 ○「処分された動物たち」

イメージ 8 【昭和18年8月】
  17日  北満ヒグマとクマ
 18日  ライオン、ヒョウ、朝鮮黒クマ
 19日  北満ヒグマ
 20日  朝鮮黒クマ、クマ
 22日  ライオン(2頭)、トラ、チーター

 24日  北極熊
  26日  黒ヒョウ、ヒョウ、ガラガラヘビ
 27日  ニシキヘビ、ヒョウ、マレーグマ、黒ヒョウ
イメージ 4 29日  アメリカ野牛、北極グマ、象(ジョン)

 【9月】
   1日  アメリカ野牛
   11日 象(花子)
   23日 象(トンキー)
       合計27頭

    /////
            ・・・・・・・・
 
  * 「3月1日」

 今日から春三月、温暖で一年の中ではまさに花の季節ですね。万物が芽吹き、力みなぎる季節でもあります。山々の樹木が芽吹き花も咲き始めるので「山笑う」とか、「水ぬるむ」いうしゃれた表現もあります。
   「郭煕」という古代中国の画家の「臥游禄」という本に

 「春山は淡冶(たんや)にして笑うが如し、夏山は蒼翠にして滴るが如し」  とあります。

              春なれや名もなき山の薄がすみ    芭蕉 

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                                              (こぶし咲く春の里山)

     ・・・・・・

(50)疎開

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      (50) 「疎開」

 空襲からの被害を守るために、動物は安楽死させる事ができるが、家や人間はそうはいかない。
ここで「疎開」という珍しい用語が登場した。戦中用語rとしての「疎開」は、空襲や火災の被害を少なくするために、集中している人口や建物を強制的に分散することである。そこで空襲による火災の延焼を防ぐための空き地作りを目的に、街中のあちこちで家屋の疎開解体が行われ、また学童などの人間は、都会地から田舎への人的疎開が行われた。

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                                             【学童疎開第一陣の新聞記事】 


 そして、昭和18年12月21日「都市疎開実施要綱」という法律が発表され、翌19年には「新防空法」によって始めて「疎開」が実施され、東京・名古屋の23地区が指定されて建物が撤去されることになった。
  この建物の疎開の目的は、第一に大都市から軍需工場を疎開さる「生産疎開」であり、第二に、都市部の密集地の建物を取り壊して空白地帯を造り、火災の延焼を最小限に食い止めるための「建物疎開」であり、第三は、老人や子供を都会から農村に移動させて人的被害を最小にし、都市交通の混乱を防ぐという「人口疎開」であった。

 イメージ 3我が家もこの強制的建物疎開に指定され、昭和20年の8月15日がその指定日で、当日まで町内会の方たちの協力を得て、家具や建具一切の取り壊しや移動を終わるところであった。 ところが豈ハカランや、15日正午の「終戦の大詔」によって疎開は中止になってしまい、後には柱だけのがらんどうの建物ばかりが残ってしまった。

 昭和19年3月には、一般都市の人口疎開も始まった。ついで昭和20年になると、東京の人口はそれまでの3分の1に減少したという。  私の当時の日記にも下宿の子供二人が母親の里の浜松に疎開したという記事がある。

 「昭和19年7月27日」
  徴兵検査のため、明日帰郷の予定。
 下宿の子息二人(中学と小学生)も明日、おばさんの故郷、浜松へ学童疎開とか・・
 生きて再びこの子らと会うを得るや否や、しばし感無量を覚ゆ。 熾烈なり、今日の戦局は。。
                        とある。。


↑疎開に出発する佐賀の学童たち


  この兄弟のように親類などを頼った「縁故疎開」はさほどでもなかったが、伝てを頼っての都市から農村への疎開者は「人間関係」に悩む者も少なくなかったのである。  
    ・・・・
   
 サイパン島がアメリカ軍によって占領されてからは、日本全土がB29長距離爆撃機の行動範囲内に納まってしまったので、日本の各都市の防空対策はますます重要課題となった。
 そこで、前述のように昭和19年8月から学童疎開が始まった。まず、東京都内の国民学校三年生以上に、疎開先の各府県が割りあてられ、夏休みを利用してその準備が進められた。  
 その第一陣として8月4日、板橋第三国民学校など五校の児童が群馬県妙義町に向かい、品川区城南第二国民学校の児童が西多摩郡瑞穂町に出発した。


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                                         (学童疎開第一陣出発)

 これらの疎開先の生活は、精神面でも実生活上でも、さして楽しいものではなかったようで、そのころ山梨県下に疎開した港区の小学生の間では、こんな歌がはやっていたそうである。
    
    ♪関東地区(チク)チク  ノミ襲来
        つづいてシラミの大編隊・・

    
 生活環境も決して良かったとはいえないようである。  
 当時の栃木県下の「疎開学童生活実態調査」によると、「東京に帰りたいか」との問いに対して学童27名のうち24名が「戦争に勝つまでは帰りたくない」と答えているが、残りの3名は「少し帰りたい」「ときどき帰りたい」と答えている。後の3名の答えが、子供の本音を現しているのではなかろうか。
  
 然し、非常時の小国民は、「欲しがりません勝つまでは」と、いつも教えられていた軍国少年たち」だったのである。

 〇 対馬丸事件

 学度疎開で忘れられないのは「対馬丸事件」である。
 昭和19年(1944年)8月22日、沖縄から本土に疎開する学童など1788人を乗せた学童疎開船「対馬丸」(6754トン)が、鹿児島県沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、779人の学童を含む1476人が犠牲になったのである。 

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                                                     (対馬丸)
 
 8月20日18時35分、対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団が台風の接近による激しい風雨の中、駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」の護衛により長崎へ向けて那覇を出港した。
 戦中の児童たちは、まるで修学旅行にでも行くかのように、甲板に出て和浦丸を眺めたり、「先生、ヤマトに行くと雪が見られるでしょう」と、まだ見ぬ雪に思いをはせる者、船酔いになる者、一晩中寝ずに騒いだ者などもいたそうである。

 一方で、アメリカ海軍は暗号解読などにより、ナモ103船団の予定航路をおおよそ把握し、8月22日4時10分頃には米潜水艦「ボーフィン」はレーダーにより船団を探知していた。
 夜になって対馬丸の船内では、引率教師が児童たちに救命胴衣の着用を指示し、児童のうち3分の1は上甲板上のいかだに寝場所をこしらえて寝ることとなった。前日の夜とは違い、雨がぱらついてきたので船倉へ移ったり、疲れで前日ほどの元気のない者がいた。

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                                        (アメリカ海軍、潜水艦・ボーフィン号)

 22時9分、ボーフィンは魚雷6本を発射し、魚雷の1本は対馬丸の船首前方をかすめ去ったが、続く3本の魚雷が対馬丸の第一、第二、第七船倉左舷に命中した。さらに、別の魚雷1本が対馬丸の第五船倉右舷に命中し夥しい海水の流入で縄梯子はほとんど流され、階段もすぐに海水につかって使えなくなった。そしてボーフィンの魚雷命中から11分後の22時3分頃、対馬丸は大爆発を起こして沈没してしまった。

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                                                 (対馬丸の撃沈)

 その結果、乗員・乗客合わせて1476名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は船長以下24名が対馬丸と運命をともにし、生き残った児童はわずかに59名にしか過ぎなかった。
 戦時中、この対馬丸撃沈は軍の秘密としてかん口令が敷かれ、一般に報道されることはなかった。

   ・・・・・             ・・・・・・

 *中学の学友でゴルフ仲間でもあり飲み友達でもあった小児科医のTが亡くなった。
   昼過ぎ彼の家の弔問に行ったら、同じ学校友達の訃報を聞いた。
   なんと一月に東京で一名、市内で2名が亡くなっていた。
   今年に入って3名も慌ただしく旅立つとは・・

   残り少ない友達が次々に歯が欠けるように減っていく。
   浮世の常とはいえ、何とも侘しい限りだ。
   思いがけず、庭の赤い「肥後椿」が一輪花開いていた。。

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                           赤い椿白い椿と落ちにけり    河東碧梧桐

         ・・・・・・           ・・・・・・

 

(51)積雪の石鎚山

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          (51)  積雪の石鎚山    

  3月3日のひな祭りも過ぎて、今日はようやく春めいた暖かい日差しが降り注いでいる。
だが、山はまだまだ雪深いようだ。 四国在住の息子から一昨日登った残雪の石鎚山の写真を送ってきたので、堅苦しいブログ記事の息抜きにUPしてみました。

 「石鎚山」は標高1982m、愛媛と高知県境にある四国最高、いや西日本随一の高山である。
日本では古くから知られた名山の一つで「万葉集」にも山部赤人の伊予の高嶺の短歌が載っているし、西行法師も石鎚山の歌を詠んでいる。

       わすれては不二かとぞ思ふこれぞこの
           伊予の高嶺の雪の曙(あけぼの)        西行
 
 石鎚山は、古くはイワツチと呼ばれていたそうだが、このツチは南洋諸島の言語では「長老」という意味だそうで、つまり石鎚山という名前は「岩山の頭目」という意味で、これも頂上付近の大きな露岩から来たものだろう。


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                                          (夜明け峠より望む石鎚山)
 
  〇 「3月2日」   晴れ、山頂付近積雪 1m~  
               山行時間・往復6時間30分

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                                ↑  (ロープウエー終点の成就社から見る雪の石鎚山)

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                                                             (霧氷の木)

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                                                    (霧氷の林)

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(夜明け峠から見る石鎚山)

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                                                 (冠岳方面)

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              ↑ (二の鎖下の鳥居も半分雪に埋もれている)

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   *雪が深く雪崩の危険もあるので、あと標高差70mで登頂を断念。
   進むも知って退くを知らなかった日本軍隊は自ら墓穴を掘りました。
   軍隊同様、勇気をもって退くのも山の常識です。

           ↓ 石鎚山の山頂、以前撮った雪の天狗岩の写真です。

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                       山の茜(あかね)を 顧みて
                一つの山を 終わりけり
                何の俘(とりこ)か わが心
                早も急かるる 次の山           深田久弥

 


    

(52)訃報

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        (52)  「訃報」
 
 今年になってから訃報が相次いだ、1月に3名、2月に1名、中学以来の友達が4人も相次いで亡くなり、浮世の習いとは言いながら侘しい限りだ。ブログの記事更新に熱中しても、昔のことを懐かしむ友ももういない。色即是空・・、過ぎ去った遠い思い出を書くのも無意味に思えて来て、採る筆も鈍るというものだ。。

 〇ボクホウ君のこと

 中学で同窓のM君は数年前から足腰が弱り、奥さんにも先立たれ、おまけに頭の方まで弱ってボケてしまい、何年間かグループホームに入居していたが、先年不意に妹さんからの訃報で彼の死を知った。
 イメージ 1彼は生前、中学の校長を勤めていた。学生時代から山岳部で足腰は強かったはずだが、足の弱り方は案外に早かった。彼とは中学の同窓だが、北海道の大雪山から津軽の岩木山、アルプスの山々といつも山行を共にした山仲間でもあった。   

 友達から「呑兵衛」と冷やかされるほど酒好きで(*しかし決して荒れたり乱れることはなかった)タバコもよく飲んだ。山登り中も時々一服していたほどだから、タバコのせいで動脈硬化を起こしていたのかもしれない。 

 彼は獣医学校の出身だったのに、不思議なことに中学教師としては「動物」ではなく「植物」を担当していた。彼のおかげで十年ほど「植物友の会」に入会し、ともに山野を跋渉して多くの花や植物の名前を教えてもらった。 
↑津軽富士 「岩木山」 登山


 彼は好人物で紳士だった。理科系の彼にしてはよく文字に親しんで読書も多かった。だが、理系出身者の常として文法に弱く、時々語法を間違えることがある。 
 ある時一緒に飲んでいたら、「昨日ボクホウが来た」と何度も言うので、「ボクホウ」ってなんだろうと不思議に思っていたらなんと「訃報・ふほう」のことであった。「剛毅朴訥・ゴウキボクトツ」という言葉があるが、よく似た字なので「朴」「訃」の発音を混同したのであろう。
 
 イメージ 2校長先生ともなれば、遠慮してその誤りを指摘してくれる友も少なかったに違いない。「未曾有」をミゾウユウと読んで世間の失笑をかった元総理大臣も、幼い頃から余りにも優れた家系のゆえに、歯に衣を着せずにその誤りを正してくれる親しい者が居なかったに違いない。ゴルフでもあまりに金持ち過ぎたり、地位が高い友人は気軽に誘いにくい点がある。「過ぎたるは及ばざるが如く」「中庸は徳の到れるなり」を痛感する次第である。
 
 以来、我が家では「ボクホウ君」と隠語で呼ばれていた彼は、とうとうその誤りを知らずにボケてしまったのだろう。水彩画を得意としていた彼は、毎年、干支を題材にした木版画の年賀状を呉れていた。 その干支の賀状が永い時の流れを示しながら、今はうずたかく黙然と我が書架に収まっているのである。                                            ↑ M君の版画

 狭い施設の一室で、友の訪れることもなく一人ひっそりと死んでいったであろう「ボクホウ君」のことを想うと、いつも暗然たる気持ちにならざる得ない。 

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                                          (ボクホウ君のスケッチ・母校旧校舎

 
  〇 「夫々の人生」

 先日亡くなった中学同窓のT君は小児科医だった。
長崎医大付属医専を卒業したTは8月には佐世保海兵団の軍医見習士官として、長崎の原爆のあと現地で診療に当たった。市街地には食料が不足し、ネコを捕まえて食べたという話を彼から聞いた事がある。
 彼もその時、原爆の二次被ばくを受けたに違いない。その後、体に特別の支障はなかったようであるが、どういうわけか子供に恵まれなかった。或いは、そんな事情からかもしれない。彼は佐賀人らしく無口で生真面目な性格で、清貧に甘んじて90才まで一回の「町医者」として小児の診療に努めた。謡曲が得意で舞台でシテ役を務めたこともある。同窓会の新年会や喜寿、米寿のお祝いなどでは、彼に一曲謡って貰うのが常だった。

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                                          (T君の能舞台姿)

 彼とは良くゴルフをともにし、友達四、五人で五島や甑島などの辺地の旅行を楽しんだものだ。死の床で奥さんの手をしっかり握り、起き上がろうとしたという。それもスゴク強い力だったそうだが、最後にまた頭をすこし持ち上げて、コトンと事切れたという。こしき島に行ったとき、孤島の甑島には日本酒がないと聞き、酒好きの彼ははるばると重い一升瓶を下げてきた。紙パックだと軽いのを知らなかったのだろう、どこまでも世間に疎い謹厳居士の頑固者だった。


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                          (五島旅行)                                              


 1月に亡くなった同じ同窓のKは銀行のお偉いさんだった。耐性菌のために肺炎をこじらせて亡くなるとき、同じように奥さんの手を握り、優しいお前と一緒に過ごせて楽しい人生だった、思い残すことはないと言ってこときれたという。

 同じ一月には東京のH君も亡くなった。彼は心臓を悪くして三年来、入院生活を続けていたらしい。中学時代は爽やかな風貌で頭もよくて級長をしていた。卒業後、海軍兵学校から戦後は九大造船科を出て、三菱造船で高速で水陸両用のホーバークラフトなどの汽船の設計をしていたが、定年退職後はなんと画家に180度の大転身、一水会に属して何度も入選していた。海軍出身らしく海や軍艦が得意で、なかなか見事な水彩画だった。戦艦大和の百号の大作を靖国神社社に奉納すると言っていたが、どうなっただろうか。シランも10号の「山間の家」という彼の絵をお義理で買ったことがある。今もこの部屋の後ろの壁に架けているが、佐賀で個展を開いたとき、同級の経済学者のMが「高すぎるから同級生には半額にしろ」と強引に言ってくれたので、幸い半額で求めたものである。。(^^♪

 中学の卒業写真↓で三人並んで写っている左がH君だ。右端のM君は東大出の秀才、経済学者として入閣し大臣を務めたこともある。真ん中で胸を張っているのは、井樋太郎君、航空士官学校から陸軍飛行学校を経て、特攻隊「石腸隊」の隊員として、敵艦に突入し弱冠二十歳で南溟の果てに散華した。

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 中学入学が250名、卒業者199名のうち、功成り名遂げた者あり、若くして祖国に殉じたる者あり、凡々として一生を終える者あり、夫々の人生を今終えて、ボクホウ?相次ぐ昨今である。
  嗚呼、已んぬる哉!

       ・・・・・・       ・・・・・・

 

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                                          (雪の斜面)


        月光に深雪(みゆき)の創(きず)のかくれなし  川畑茅舎

    //////


(53)昔の日記

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      (53)   昔の日記  「3月6日」

 昨日の暖かさはどこへやら、「春は名のみ」の寒さが戻ってきました。
 風が冷たい 心が寒い。。
 昨日友人の事を書いたら、急に昔の昔の日記を見てみたくなつた。
 やっぱり昔も寒かったようだ。

 旧制中学の5年生、卒業したばかりで受験勉強中だった。
 昭和16年は太平洋戦争開戦の年、まだまだ世の中は平和だった。

 「昭和16年3月1日」

 今日は卒業式である。今さらのように学校時代が懐かしまれてならない。優等賞のアルバムを貰った。明日からは早く起きて、夜早く寝るようにしたい。

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                                       (卒業式次第)


 下校の途中で下級生に出会ったが、敬礼をしなかった。朝、会った時は敬礼をしてくれたのに・・感無量だ。なんと薄情な。。
 受験用の「地理」の勉強開始。
 (*戦前は町で先生や上級生に会うと、軍人と同じく挙手の礼をせねばならなかった。先生の場合は立ち止まって、上級生の場合は歩きながら帽子のひさしに右手を挙げて敬礼をするのである)


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                           卒業写真   (5年3組)  前列の左から二番目
          
         入学時は一クラス50人だったのに卒業時は36人だった。。
            おや、今年死んだ二人が前列に並んでいる。。
             この中でまだ生きているのは、たった二人だけか。。
                  
 「3月6日」

 今日で「地理」の勉強を終わった。
 夕方から降り出した雨が沛然として降り続いている。近頃は割と早く寝ていたが、今日は久しぶりに12時過ぎまで勉強した。現在12時30分。

 4日の夕方から右目の上が腫れてニガネのごときものが出来た。4日は寒かったので火鉢に親しみすぎて、のども痛くなった。今も喉と目が痛くてどうもいかん!
唾を飲み込むごとに、また食事をするごとに喉が痛み、目の上も腫れて痛い。試験までによくなればいいが。。
 (*戦前の事ゆえ、暖房と言えば小さい火鉢一つ。ストーブもエアコンもあるわけじゃなし、隙間だらけの古い木造住宅は寒かった。火鉢の木炭で喉をやられたのだろうか、寒さで風邪をひいたのだろうか。。)


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                                                (母校の講堂)

    ・・・・・      ・・・・・

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(54)合格発表

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       (54) 「合格発表」

 イメージ 1春3月、今や入学試験たけなわである。今日は国立大の合格発表日だった。悲喜こもごもの合格発表だが、今は校庭に張り出される前にインターネットで調べられるので、昔の校庭発表とは少し現場の情景が違うようだ。前もって合格が分かってから、合格者が改めて合格の感激を味わうためにやってくるのかもしれない。

 思えば遥かに遠いむかし、紫蘭も入学試験と言う人生の一大難関を潜り抜けた記憶が未だに生々しい。何しろ戦前の大学進学率はわずか3%にすぎず、大学の数も数えるほど少ない時代だった。
  ↑上本町・旧校舎の校門

 しかし、大阪外語の発表の時は東京の従兄の家にいたし、九大の時は大阪の下宿に合格の葉書が舞い込んだだけで、実際に合格発表の現場を体験したことがない。

 〇「合格通知電報」

 以前は、受験の合格者発表は校庭に張り出されるだけだったので、みんなハラハラドキドキ、現場は悲喜こもごもだった。 今は事前にパソコンで簡単に分かるが、ひところ大学の合格通知には電報が使われていた。尤も、これは大学からの正式の通知ではなく、あくまでも在学生のアルバイトが請け負って行うサービスだった。。

 大学の合格電報が最初に登場したのは昭和31年の早稲田大学で、そこで使われたのが「サクラサク/サクラチル」だった。その後他の学校でも合格電報が使われるようになり、次第に各地の大学が郷土色のある独特の電文を使い始め、昭和50年代後半まで使われた。
  合格電文は各大学の特色が出ていて中々ユニークで面白い。

 早稲田大学○サクラサク(合格) 
            ×イナホチル〈不合格)
 小樽商大 ○「アカシアの花ガサク」 合格
          ×「ジゴクザカ コロゲオチル」不合格
  東北大  ○「アオバモユル」 
          ×「ミチノクノ ユキフカシ」
  秋田大  ○「オバコ ワラウ」
         ×「オバコ ヒトリネ アキタ」
 御茶ノ水大 ○「オチャカオル」
             ×「木の芽時待て」
  東京商船大 ×「チンボツ」
 静岡大  ○「フジサンチョウ セイフクス」
        ×「スルガワン イマダナミタカシ」
  信州大  ○「コマクサノハナ ヒラク」
        ×「シナノジノユキ フカシ」
 大阪大歯学部 ○「ニュウシハエル(入試/乳歯生える)
 奈良教育大  ○「ダイブツ ヨロコブ」 
             ×「ダイブツノ メニナミダ」
 三重大  ○「イセエビ タイリョウ」
        ×「イセワンニテ ザショウ」
 高知大  ○「クジラガツレタ」
          ×「リョウマノ メニナミダ」
 鹿児島大 ○「北辰カガヤク」
         ×「サクラジマ フハツ(桜島不発)
  長崎大  ○「マリア ホホエム」 
         ×「アメノナガサキ」
  佐賀大  ○「アリアケノ ムツゴロウ飛んだ」
          ×「勝ちガラス鳴かず」


 シランの場合、旧制高校受験に失敗して浪人中で、東京の従兄の家にいたので、大阪外語の合格通知は直接受け取っていないので、速達の封書だったのか葉書だったのかは覚えていない。ただ、その後、政府「官報」に合格者全員の名前が載ったのを覚えている。戦前は、国立の大学、高専の合格者は官報で布告されていたのである。(下の欄に福田君(司馬遼太郎)の名前も見える)

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 また母校の「九大」はまだ旧制だったので帝国大学(九州帝大)と呼ばれていた。戦後の合格通知は京大・東大と同じく何の変哲もない「「ゴウカクオメデトウ」だが、シランの場合は戦時中だったので電報ではなく、速達の葉書一枚だけだった。

 学校の勤労動員で疲れ果てて下宿に帰ったら、部屋がある二階の階段に「合格通知」の葉書が一枚何気なく乗っていた。飛び上るように嬉しくて、一人喜びを噛みしめていた。暗い戦時下の数少ない青春の喜びの一コマであった。
 
   ・・・・・
 最近は国大では何処も3人に2人くらいは不合格になる。
紫蘭も昭和16年旧制中学を5年で卒業し、旧制高校を受験したが、無念にも失敗して一年間の浪人生活を送った。そのおかげで、落第と浪人生活の精神的な苦労は身に染みている。
 合格は新しい人生の出発だが、合格出来なかった者にとってはこれから辛い灰色の季節がやってくる。
  と言っても、志望校に落ちたからと言って悲観することはない。
  人生はまだまだ、その緒に就いたばかり、人生、先は永いです。同窓の司馬遼太郎(作家)も旧制高校の受験に二度も失敗している。(大阪高校と弘前高校)
 その時の外語の同級生の半数が浪人体験者だった。彼ら一敗地にまみれた浪人の方が、現役合格者よりも人間的に味のある者が多くて、シランも在学中、人間的にも学問的にも、彼らに大いに啓蒙、啓発されたものである。

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 有名な作家の「島崎藤村」は17歳のとき、一高を受験して見事に落第してしまった。その上、その前年には在学中の明治学院普通部でキリスト教の洗礼を受けているから、浪人して再度受験するという道を採らず、文学の道に足を踏み入れたのです。もし一高に合格していたら、彼は平凡な家業の針問屋の経営者として生きたかもしれない。  受験に合格した方が良かったか、あるいは悪かったかは誰にも分からない。
   人生は永く生きてみないと判らないのです。


(55)軍医の話

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     (55) 「軍医の話」

  私の中学の同窓生で医者になったのが十数名いる。内科、外科、整形外科、皮膚科、小児科、眼科から産婦人科まで揃っていて、何処が悪くても診察には事欠かないが、すでにその殆どが世を去ってしまった。  医者の不養生と言うべきか。。

  彼らの三分の一は国立の旧制医学部(4年制)の出身だが、あとの3分の2は医大付属専門部か医専(医学専門学校)の出身である。旧制大学の医学部は旧制高校(3年制)を卒業してから入学するのに対し、医専(4年制)の方は中学からすぐ入学できるので、医師になるのには2年ほど期間が短くて済む。これは戦時中の軍医不足を補うための臨時的な医師養成のための学制だったのである。
  
 母校は藩校の流れをくむだけに、剛毅朴訥、質実剛健の校風で、昔から陸士、海兵に進学するものが多かった。

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                                  母校の校長を囲んで陸軍士官学校の在校生たち)

  同窓生に思いのほか医者が多いのも、戦時中のこの短期軍医養成のための医専があったからに違いない。友人のTも医者になれば辛い兵隊生活をしないで済む、と父親に勧められて医専に合格したのだが、性格的に医者には向ないと自覚したのだろうか、医専には行かずに早稲田の政経に進学している。同級生で大學の医学部に進んだ者は終戦時もまだ在学中で軍医にはなって居なかったが、医専に進んだものは半年繰り上げ卒業して、ほとんどが逆に早く軍医を体験し、実際に内地や南方戦線に従軍した者が多い。

  ○ 「軍医制度」

 職業としての軍医は陸軍軍医学校を卒業せねばならないが、一般民間人が召集を受けて軍医(予備役軍医)になるには、医師免許を持つ一般兵が、入隊後幹部候補生試験を受けて軍医予備士官になるのである。軍隊に入ってから一期(3か月)の師団長検閲を受けるまでは、一般兵と起居を共にして軍事訓練を受けねばならない。

 イメージ 1しかし、日中戦争以後、軍備拡張にともない軍医の不足が深刻になったために、昭和12年から新しく「軍医予備員制度」が出来た。この軍医予備員を志願した45歳までの医師は、召集を受けて入隊後ただちに衛生上等兵となり、一般の兵とは別の内務班に分けられて歩兵連隊で1ヶ月間の教育を受けて衛生伍長となり、さらに3か月間、陸軍病院で教育を受けたのちに衛生軍曹となる。

  そして次に召集を受けて入隊した場合は直ちに軍医見習士官に任官して赴任するのである。但し、軍医はその階級によって上官としての敬礼は受けるが、軍医そのものは軍隊の補助機関なので、もちろん兵隊たちに対する指揮権はない。

↑ 軍医総監・森鴎外

 同じ軍医になるにしても幹部候補生からなるのでは、少なくとも3か月間は一般兵とともに初年兵としての厳しい軍隊生活を送らねばならない。然しあらかじめ「軍医予備員」を志願して置けば、幹部候補生のルートよりもはるかに楽に軍医になれるので、戦時中は殆どの医師がこの軍医予備員制度を利用したのである。
 しかし、この制度ではいかに有能な大学医学部教授でも、始めは軍医見習士官の待遇であり、いきなり軍医将校にはなれなかったのである。

 私が陸軍病院に入って居た時のN軍医中尉は20台の元気な現役の少壮軍医でとても威張っていた。私の手術もいきなり麻酔もなく左足の甲部を、はさみでジョキジョキと切ってしまったほどである。いやしくも帝国陸軍の亀鑑たるべき将校生徒が涙を落とすわけには行かないので、シランは歯を食いしばって激しい痛みを堪えねばならなかった。


  しかし、同じ陸軍病院の階級の低い軍医見習士官の方は白髪が目立つ中年のおじさんで、優しくてとても思いやりのある人だった。おそらく民間では名のある町医者か、大学医学部の先生だったのだろう。病院が空襲を避けるために、愛知県の鳳来寺山麓に疎開していたとき、母校の予備士官学校から区隊長がやってきて「シランは中野学校要員で大事な生徒だから学校に返してくれ」と言って来たそうである。

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                                       (小さい手帳に書いた鳳来寺山麓のスケッチ)


 その初老の軍医はシランを呼び出して、「お前の足の傷の回復はまだ十分ではない、そのまま学校に戻れば貴様は苦労するぞ、俺がうまく言っておくが、どうだ?」と言われた。まだまだ手術後の足の回復が思わしくなく、軍靴も履けない有様だったので、もちろんシランは二つ返事でよろしくとお願いした。
 この老軍医のおかげで、その後、中野学校にも行かずに済んだし、広島に配属されて原爆の洗礼を受けた同期生たちのような運命にも遭わずに済んだのだった。運命のいたずらとしか思えない。


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                        (広島配属の豊橋予備士第一中隊の同期生たち)
                   このうち、7名が原爆のために戦死した。

    ・・・・・・               ・・・・・・

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                                         (マンサクの花)

  ひな祭りも過ぎ、我が家の小庭の梅の花や沈丁花もほころび始めました。山野にもどうやら春の兆しが見えてきたようです。 先日、山麓を歩いていると黄色いマンサクの花がいっぱい咲いて、朝日にパツと輝いていました。
 マンサクは中国原産の落葉低木で、中国では「金鏤梅」と言いますが、日本では「先咲」「満作」と書きます。 その マンサクの名の由来は
 
 ①春に先がけて先ず咲くから・・「先咲」
  ②黄色い花を枝いっぱいに咲かせるので、豊作の意味を込めて「満作」だという・・ 「満作」 
  ③不規則に曲がった花びらが豊年だー、満作だー・・と踊っている人の形に似ているから・・「満作」                 などの説があります。

          まんさくの花咲きて土の色動く     小田倉白流子

                 ・・・・・              ・・・・・


(56)それぞれの戦場

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       (56) 「夫々の戦場」

 中学同窓のT君は昭和18年、長崎医大の学生だったが半年繰り上げ卒業になった。そのとき全国の医学部、医専の卒業生2千名は東京の軍医学校に集められ、陸海軍に分けて学徒動員の名目で軍陣医学の教育を受けている。
 毎朝空腹を抱えて明治神宮、靖国神社まで隊伍を組み軍歌を斉唱しながら、行軍させられたという。医者とはいえ、陸軍では彼らは星のない三等兵の扱いで、区隊付下士官や古参兵たちにしごかれて、3か月間の苦しい初年兵生活を体験をしている。 
 
 軍医学校での教育が終わって彼の区隊50名は広島の西部11連隊に入隊し、軍医候補生(階級は軍曹)として配属になり下士官室に起居するようになった。これまでの初年兵生活から一変して、今度は新兵が食事を運んでくるようになり地獄から天国に這い上がったような気分になったと彼は言っている。
  この1か月間の廣島での部隊生活ののち衛生部見習士官となり再び軍医学校に戻り、その年の12月に軍医少尉に任官して、ただちに任地へ赴任した。・・・

 Tは医者としての実地訓練を受ける間もなく風雲急を告げる昭和20年1月2日に南方軍軍医要員として約300名が門司港を出発し、敵の制海権のなかを台湾からシンガポールを経てサイゴンに到着、そこで南方軍総司令部(司令官寺内元帥)の命令を受領することになった。
 その時、門司港を出発した輸送船11隻のうち台湾のキールンに無事到着したのは僅かに2隻だけだったという。彼はたまたま病院船に便乗していたので助かったのだが、人の運命とは判らないものだ。なお、その病院船も帰国途中沈没したという話である。(そのころの九州・五島沖には待ち受けた敵潜水艦が跳梁していて日本の輸送船はその餌食になって多大な損害を受けていた。)

 南方総軍のもとにタイにあった第19軍(司令官中村中将)の指揮下に入り、同期生4名でカンボジャのプノンペンから材木を焚いて走る列車を乗り継いでバンコックに到着、ここの駐屯部隊の隊付軍医として勤務することになった。

 イメージ 1この間、隣のビルマ北部の我が軍は、強引なインパール作戦の失敗により悪戦苦闘して居り、後退に次ぐ後退を続けてタイ側に引き上げていたのである。そのため第19軍は解体されて新設された第18方面軍に再編成されていた。この時に、作戦の神様と言われた参謀の辻正信大佐がビルマからやってきて、近々タイが第一線になるであろうとして陣地構築を督促し、部隊が各種の戦闘態勢の準備をしている最中に終戦となった。

 戦争が終わった昭和21年になると、ビルマから続々と引き揚げの兵隊たちがバンコックに集まり、その中に同じく中学の同窓だった陸士出身の原口君が彼を訪ねてきた。
 原口はシランにとっても遠縁にあたる友人だが、彼は京都師団(祭兵団)の中隊長としてビルマ戦線で苦闘していたらしく、やせ細ってボロボロの服を着ていたという。

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                                             (インパール作戦・戦場の跡)


 同じ同窓の村岡君は中学4年から陸士に合格したほどの秀才で、在学中悪友たちは、真面目一本の彼に「聖人」というあだ名を呈上していたほどだったが、この時すでに陸軍大尉で戦車隊隊長としてシンガポールにいた。また同じく同窓の秀島君は技術将校としてスマトラ島の油田があるパレンバンに居たが、赴任の途中、輸送船が敵潜水艦にやられベトナム沖で13時間も漂流して、ようやく駆逐艦に助けられている。さらに終戦後はイギリス軍捕虜収容所に入れられて飛行場建設など、2年間の辛く厳しい俘虜生活を送らねばならなかた。

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                                           (インパール、追撃するイギリス軍)



  幼馴染として机を並べた友人たちが、不思議な縁で戦争の一時期を同じ南方戦線で命を賭して夫々戦っていたのである。彼らは戦後無事引き上げて戦後の日本再興のために力を尽くしたが、そのほか南方にあって悲壮な戦死を遂げた友人も多い。 人生とは、運命とは、まことに不思議なものである。

 

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                                 (学生寮・松風学舎の中学同級生・右端がT君)

  
 彼は中学卒業時に陸軍士官学校を受験したが、近眼のため体格検査で合格しなかった。そのため医学生の道を選んだのだが、彼は真面目過ぎるほどに生真面目な性格で、誇り高い男でもあった。
 即席軍医のTは復員後、再び医大に戻って研修に励んだが、医大は原爆の被害によって再建は遅々として進まなかったそうである。 
 若いころの病院勤務ののち、町医者を開業したが、彼にはシランも親子でいろいろとお世話になった。友情に篤い彼からゴルフの手ほどきも受けたが、私が誘われて初めてゴルフ場に行ったとき、ゴルフ道具はもちろんシャツから靴まで一式みんな貸して呉れたことがある。しかしゴルフの腕前ではとうとう彼を追い越すことが出来なかった。

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  中学卒業50周年記念にゴルフコンペを開いた。67歳、全国から16名が参加。
 みんなこんなに元気だったのに27年経った今、元気なのは僅かに二人だけである。。

 Tは数年前に世を去った。あの頃、雨が降ろうが雪が降ろうが喜び勇んでゴルフ場に駆けつけた4人組の仲間も、シラン以外にはもう誰も残って居ない。

   ・・・・・・     ・・・・・・

    〇 「蝋梅」
                   【春の花では、蝋梅が一番早いようです】 

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 蝋梅は春の花と思われ勝ちですが、厳寒の1,2月に咲き出す冬の花です。
 中国原産で、花が蜜蝋のような色をしているので「蝋梅」の名がつきました。
 また、花が12月(旧歴)、つまり蝋月に咲き出すからと言う説もあります。

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 一般に「蝋梅」として庭木に植えられるのは、この↑黄色い花ですが、実はこれは「ソシンロウバイ・素心蝋梅」と言われるもので、元々の「蝋梅」は↓このように、花の中心の花芯部が暗紫色になっていて、花全部が黄色いソシンロウバイとは違っています。花自体もとても小さくて2センチ足らずです。

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                               蝋梅に雀の来啼く日和かな    内藤鳴雪 


     //////             ///////
         

(57)東京大空襲

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         (57) 「東京大爆撃」

 「三月十日の忘れ雪」という言葉がある。春先に思いがけず寒波襲来して降る「名残の雪」のことであるが、今日は朝から雲一つない日本晴れ暖かい一日になった。

      春雪や降るにもあらず降らぬにも   千代女

 ところで今日「三月十日」は昔なら陸軍記念日だった。明治38年、日露戦争の奉天大会戦でロシア軍に勝利して総司令官の大山巌大将が奉天に入城した日である。戦前はこの目出度い「陸軍記念日」にはいろんな祝賀行事が行われていた。その「陸軍記念日」を特に狙って行われたのか、昭和20年3月10日、アメリカ空軍によるあの痛ましい東京大爆撃が行われている。

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 アメリカのB29戦略爆撃機の大編隊によって東京は焼け野が原となり、一夜にして10万人という尊い命が奪われたのである。   

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 爆撃を行った「ボーイングB29」は当時、アメリカ最新鋭の長距離爆撃機で、(全長30m、全幅43m、4発機、爆弾搭載4トン(最大9トン)乗員12人)と言う高性能機で昭和21年までに3,970機が生産された。1万mの超高空を飛ぶために我が方の高射砲の弾丸も届かず、酸素マスクのなかった日本戦闘機も攻撃できなかった。B29の燃料タンクには内部に生ゴムが張られ、弾が当たっても穴が塞がれて燃料漏れが防げて基地まで帰還できたという。

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                                             (サイパン島のB29と搭載の爆弾・焼夷弾)

 空襲は3月9日の午後10時30分、警戒警報が発令され、まず2機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、市民が安心した10日の午前0時に第一弾が投下された。その時、東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らなかった。空襲警報が発令されたのは0時15分で、それから約2時間半にわたって波状的に、じゅうたん爆撃が行われたのである。

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                                                  (B29の焼夷弾投下)
  
  B29の大編隊は、まず低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体をとらえたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。

 約344機のB29による夜間攻撃は北北西の強風の中、房総半島上空からの進入に始まり、午前0時8分の第一弾から30分足らずのうちに、合計1、783トンのナパーム性M69油脂焼夷弾、エレクトロン・黄燐などの焼夷弾と少量の炸裂薬を入れた砲弾、または爆弾を本所、深川、牛込、下谷、日本橋、本郷、麹町、芝、浅草の各区に豪雨のように投下した。

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 B29からは江東区、墨田区、台東区にまたがる40k㎡にわたりナパーム製の高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。

 【焼夷弾は敵を焼殺し、都市、構築物、航空機などを焼き尽くすための焼夷剤を詰め込んだ爆弾】
 
 イメージ 9その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、その上、逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられた。
 
  しかも折からの風速30mの強風のために火勢は一層激しくなり、火の玉のような大きな火の粉が舞いおどった。中央区をはじめ、東京の中心部は火の海と化し、この火に照らしだされて逃げ惑う都民の群れに、敵機はさらに低空から無差別じゅうたん爆撃を行った。


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 このため戦争とは無関係の一般市民は、次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされたのである。
  寒夜の冷たい水で、あらかじめぐっしょりと濡らしていた防空頭巾も、一瞬のうちに乾燥して燃え出したという。
  
   この東京大空襲による被害は、死亡者実に10万人を超えたのである。

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                                                                       (遺体の山)


 
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                                            (焼け野が原を視察される昭和天皇)

            
     ・・・・・            ・・・・・・

     「白梅」
    
 梅はバラ科の落葉樹ですが、春に万木に先駆けて開花するので「春告草」という別名があります。
日本の梅は、奈良時代の遣唐使が薬用として日本へ持ち帰ったのが最初ではないかと言われていますが、昔から梅の花は詩歌などの文学上でよく採りあげられ、また梅の実は食用、薬用の両面で重要な地位を占めています。

   九州に左遷された菅原道真を慕って、都から大宰府まで飛んで来たと伝えられる「飛梅」
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 一般的な白梅は、もともと「野梅」といわれるものですが、ほかに紅梅、臥龍梅、小梅、豊後梅、枝垂れ梅などがあります。梅はいまだに欧米に伝わっておらず、まさに極東の花としての伝統を護っています。

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                              道ばたの風吹きすさぶ野梅(やばい)かな   虚子  

               イメージ 12


    
                    イメージ 13
             
                        梅一輪一輪ほどの暖かさ       嵐雪
                      
                     
         ・・・・・       //////

笹栗八十八か所巡り

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(笹栗八十八ヶ所巡り・小学6年夏休み)

         イメージ 3                                                                                          
  ↓ 今泉キミ子さん・伊豆大島にて
イメージ 4                       笹栗八十八か所巡りイメージ 2
                                                                   

(58)東日本大地震

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    (58)東日本大地震       3月11日

 今日は3月11日、この日も忘れられない日ですね。
 7年前の今日、あのすさまじい東日本大地震が起こりました。火山列島日本には火山の噴火と地震の発生は避けられません。
 94年の生涯で一番ショッキングな出来事は、真珠湾攻撃に始まる戦争と、この東北の大津波でした。まるで映画の特撮シーンのように押し寄せて人家を飲み込んでいくすさまじさ・・一生、忘れることができません。

  「紅梅」

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 紅梅の花の色も様々のようです。

  「紅梅」は一重で真紅の花色が多いようですが、ピンク色のもあり、素人の私には「花梅」との区別がつきません。

 真紅の紅梅だけだと、赤が強すぎてあまりきれいとは思えませんが、白梅と並ぶとその紅白のコントラストでとてもきれいに見えます.

← 赤尾兜子の揮毫

 
  紅梅や脳天の華語聞きづめに       兜子
 
 兜子は中国語が専攻だったが、この俳句を見ると、語学の勉強にはあまり熱心ではなかったようだ。学生のころから俳句に異常な情熱を注いでいたのが伺われる。

 
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                                                 (唐津城の紅梅)

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(59)母校燃ゆ・3月13日

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     (59) 「母校燃ゆ」  3月13日

 母校の大阪外語は戦前東京外語と共に国立ではただ二校の外国語の専門学校だった。はじめ「大阪外国語学校」といい、戦時中は「大阪外事専門学校(外專)」と改称、それまでの高商は経済専門学校(経專)に、高等工業は(工專)と呼ぶようになった。しかし、戦後の学制改革で新制大学の大阪外国語大学(外大)となり、さらに先年の大学合併で「大阪大学・外国語学部」になった。こうして小規模の単科大学ながら特色ある大学である「外大」と言う名称は儚くも消えてしまったのである。

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 戦前の外語は上本町八丁目にあったが、この校舎は戦災で焼失し、現在は箕面市に移転している。母校の空襲による被災時の様子は当時の白井教授の記述が残っているので、少しご紹介してみよう。白井先生は昭和20年3月13日の大阪の大空襲で上本町の母校が焼失した際、火傷を負いながら図書館の古文書を身を挺して護ったそうである。

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                                    (大阪外語初代旧校舎・上本町八丁目)

  〇 「母校燃ゆ」

 3月10日の東京大空襲によって首都、東京は灰燼に帰したが、その3日後の3月13日には大阪にもB29による大規模な空襲が行われた。昭和20年(1945年)3月13日深夜から14日の未明にかけての約3時間半、B29・279機による焼夷弾の「火の雨」が降り、中心部に大火災が発生したのである。
 
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 アメリカ軍の爆撃は都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2千mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。まずグアムから発進のB29・43機が大阪上空に侵入、先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を投下し大火災発生、他のB29ははそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンからのB29・107機が翌14日早暁にかけて爆撃。 3115名が死亡し、13万戸の家屋が焼失するという大被害だった。


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                                    (空襲後の焼け野が原の大阪中心街・御堂筋)

 大阪の中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、山を挟んだ奈良県側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという。大阪の中心街の難波、心斎橋付近から母校のあった上本町付近も猛火に包まれ、私たちが学んだ母校の旧校舎も大半が焼失してしまった。
 その空襲時の模様を当時の大阪外語教授の「白井正」さんの回顧録で見てみよう。

○ 「母校の空襲」 白井 正 (元・大阪外語教授、法律)

 当時、私は名古屋の学生勤労動員先から帰阪したばかりで、疲労と冷えのために胃痙攣を起こして流動食ばかり採って居たが、午後7時空襲警報発令とともに上本町の校舎に駆け、同じく防空要員の教職員、生徒たちも駆けつけて来た。(先生は当時が生徒課長を兼務されていた)
  
  イメージ 6当夜の空襲の実情は、警報発令前に天王寺の搭を目標として焼夷弾が投下されたようで、上本町一帯の民家がまず燃え、やがて校舎にも焼夷弾が落下、民家からの火の粉が横殴りに窓枠に吹き付けて校舎一面が火の海となった。水道は断水し、もはや防火などは及びもつかなくなってしまった。そこで生徒たちには家に帰るように指示したが、火の勢いは強まるばかりで手の施しようのないまま、私は頑丈な玄関の土嚢の脇に一人突っ立っていた。
  ← 旧校舎の門標
 

  そこに校門から2人の女性が毛布をひっかぶって助けを求めにきた。校門の横にある尼寺の老尼とお手伝いさんであった。私は防火用水の水を二人の毛布にぶっかけて書庫に案内した。書庫は頑丈なコンクリート造りだった。
 
 もはや上本町の電車通りは一面火の海で、その中を他所に避難することは不可能だったのである。やがてまた近くの洋服屋のおばぁさんが家族にはぐれてやってきたので、尼さんのいる書庫に案内した。私はなおも玄関に突っ立っていたが、どの位時間が経ったのだろうか、校舎はあらかた燃え落ちてしまったようなので、自分も書庫の中に入り床に横たわった。

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 服も濡れていて冷たいコンクリートの床の上なのでしんしんと体が冷えてきた。病後でもあり疲れ果ててそのままうとうととしていると、尼さんが「書庫の二階に煙が入ってくるようだ」と告げに来たので、真っ暗闇の中を手探りで二階に上ったところ、書庫に隣接している図書室の事務所(木造)が燃え盛っていて熱風に煽られた火の手が書庫の窓と窓枠の隙間から入り込んでいた。

  その窓際の床の上には、故、山本磯冶教授のご遺族から寄贈された貴重な漢籍が未整理のまま積まれていた。燃えやすい書籍が一番危険な場所にあったのである。私はさびた鉄の棒を必死に引っ張って扉を引き締めていたが、熱風とともに入り込んでくる炎の雨に頬や右手に火傷を負ってしまった。

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          (山本教授は漢学の泰斗で、謹厳実直そのままのコワイ顔つきだった)

  かくて炎との悪戦苦闘を繰り返しているうちに図書事務室は焼け落ちて仕舞い、やがて夜明けとともに私は書庫を出たが、校舎周辺は一面の焼け野が原となり粉塵を含んだ細かい雨が降り注いでいた。  

 イメージ 8この空襲の結果、校舎本部は全焼し、門衛詰所、本館北側の二教室、便所一棟、書庫、倉庫だけが焼け残った。
 ← 左が門衛詰め所

 私は尼さんたちに書庫から出て貰い、自分も門衛所の石畳の上に半死半生の有様でうずくまっていたが、8時過ぎに一生徒に背負われて上本町六丁目の病院に担ぎ込まれた。

 2階への階段を上るまではかすかな記憶があるが、ベットに横たわるなり意識を失い一昼夜半眠り続け、心臓まひで危なかったところを注射でやっと助かったそうである。

 イメージ 9火傷や煙による軽い障害は残ったが、貴重な書籍類が残ったのは一重に「煙が入ってくる」と知らせてくれた尼さんのおかげである。その後、退職して郷里の柳川に帰った後も尼さんとは交友を続けていたが、再建されたお寺に、「終戦の年に1歳半で栄養失調のために亡くなった私の二男の位牌を祀って供養している」、との知らせがあった。

 その亡児の三十三回忌には妻とともに上阪して高齢の為に隠居されていた尼さんに読経してもらったのである。
     (以上、白井先生の回顧碌より)

                                         講義中の白井教授 →  

  * 戦時中の白井先生は九州男児で法律家らしく、いかにも無愛想で剛毅な人柄だった。我々もよく殴られたが、戦後はとても優しい好々爺の先生だったそうである。戦中戦後の価値観が逆転して、先生を弱気にしたのか・・それとも終戦直後に、息子さんを栄養失調で亡くされたからなのか・・ 

 
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                        (戦後、校長室にあった同窓・司馬遼太郎氏の揮毫)

                         懐かしの母校よ、栄あれ・・
 

(60) 「昔の大阪・通学路の風景」

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          (60) 「昔の大阪・通学路の風景」

 母校焼失の事を書いたら、つい下校時に毎日通った昔の大阪・上六あたりの懐かしい風景がよみがえってきた・・

 イメージ 7空襲・被災前の上本町八丁目の旧校舎から少し北に行くと上本町六丁目の交差点がある。ここから奈良へ向かう関西急行(今の近鉄奈良線)の始発駅があり、ここにターミナルビルの関急百貨店があった。

  ← 関急百貨店入り口
  チンチン電車は茶色の鋼鉄製だった。

イメージ 1* 関急はその少し前は「大軌」と言っていたようで、これは大阪電気軌道の略称だった。昭和15年に大軌から関西急行(関急)に改組されたばかりで、在学中は上六駅の近くにはまだ「大軌小劇場」という名前の映画館があった。

 この大軌小劇場は、外語旧校舎に近いのでシランはもちろん、当時の在校生が下校時によく映画を見に立ち寄った所である。その後、「関急劇場」となり、さらに戦後は難波にあった大阪歌舞伎座が老朽化のため閉鎖し、今はそのあとに「新大阪歌舞伎座」が出来ている。
                      → 大軌小劇場前の同級生たち、
            「怒りの海」という映画の看板が立っている。

 外語の運動場はこの上六の駅から乗って花園まで行かねばならない。高校ラグビーで有名な花園ラグビー場のすぐ隣にあり、付近はまだ今のような東大阪市の住宅や工場群は全く無くて、東には生駒の山並みが間近に望めるという田園地帯が広がっていた。


 本校の横にも「南運動場」があるが、ここは狭くて、せいぜいサッカーが出来る位の広さしかなかった。軍事教練や運動会の時には、この狭い南運動場では間に合わないので、電車に乗って花園の運動場までぞろぞろと通うのである。その電車が布施あたりを通ると、日本大学・専門部の学生たちとよく乗り合わせた。そのころは我々は「ポン専」と呼んで馬鹿にしていたが、今はどうしてどうして・・近畿大学という超大型大学となっているのだから、75年という歳月は実に重いものだ。

 イメージ 2この上六の交差点を北へ上がると大阪城に至るが、左へチンチン電車で行くと日本橋を経て道頓堀、千日前、心斎橋筋などの繁華街に出るという、大都会の中心部に位置していて交通の便はすこぶる良い。
 戦前の東京のチンチン電車は外装は緑色の木造だったが、大阪の市内電車は茶色の鋼鉄製でモダンな感じがした。
                        それだけ東京の電車は歴史が古かったのだろう。

  外語では射撃部に居たので、実弾射撃の訓練のために学校から大阪城内にあった城南射撃場までこのチンチン電車に乗って通ったが、一般市民と並んで、我ら少年たちが鉄砲と実弾を持ってなんの問題もなく電車に乗っていたのかと思うと、如何に戦時中とはいえ、何だか奇妙な感じがする。今のアメリカのように鉄砲をぶっ放すなどは、もちろん思ったこともないが、それだけ世の中は真面目だったのだろう。                                                                                              
                                                                                               
 イメージ 3関急デパートの向かい側には大衆食堂が何軒かあって、「めし」とか「関東煮」とか「わらびもち」とかの看板がかかっていた。大阪では喫茶店をキッチャテンと言い、おでんのことを「関東煮・かんとうだき」という。
 
                        →関東煮屋さん



 イメージ 4大衆食堂の入り口に単刀直入に「めし」とだけ書いてあるのには驚いたが、道頓堀などの食堂の看板に「まむし」と大書してあるのにはなお驚いた。。いくら大阪人が食道楽といっても、まさかマムシまで食べるとは・・

 あとで、大阪育ちの友人に、あれは「うなぎ」の事だと言われて、やっと納得した。。

  この「まむし」とは、うなぎを蒸して油を抜く「真蒸す」ことだとか、蒲焼きを切ってご飯に「まぶす」からだとも言われている。


  地元出身の友人たちは都会育ちの自宅通学なので洒落た喫茶店に行くが、我々田舎育ちは下宿生活なので腹が減ることもあって、もっぱらこの野暮な関東煮屋で腹の虫を抑え、喫茶店(キッチャテン)のケーキの代わりに簡単な「わらびもち」で我慢していたのである。 それでも昭和17年はまだ食べ物の苦労は少なかったようである。当時の日記に

  「昭和17年8月28日」(金)曇りのち晴れ

 イメージ 5午後4時より心斎橋の森永キャンデーストアにて射撃部三年生の送別会あり。記念品としてシャープペンシルを贈る。会費2円50銭とある。また

 「8月29日」には下宿で「うな丼」をご馳走になり
 「8月30日」には友達と宝塚に行く予定だったが切符売り切れのため中止して法善寺横丁にて「夫婦ぜんざい」を食べた、とあるから、ぜんざいも甘かったかどうかは記憶にないが、砂糖もどうやら業務用として多少は配給があったのだろう。

   ← 昔の森永キャンデーストア


 尤も、9月9日の日記には
・・久しぶりに洋菓子か何か、甘きもの食べたき心地してやるせなし。大金20銭をはたきて「羊羹」を買い求めしが、そのあまりのまずさに思わず哀しみ至れり・・
などと大げさなことを書いているから、菓子と言ってもほとんど砂糖も使っていなかったのだろう。
 
 この上六あたりでケーキ代わりによく食べた「わらびもち」は、少年にとってはちょっと淡白過ぎて物足らなかったが、砂糖不足の当時としては仕方がないことであった。 

 学生時代の司馬さんは大のコーヒー党で「日蒙辞典」を買うと言っておやじから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししてしまったとか。。

 当時はもうコーヒーも大豆の代用コーヒーだったらしくて、司馬サンと同じクラスだった杉本君は

「うまいコーヒーが飲まれへん。日本はあかんなぁ」と司馬さんがぼやいていたのを聞いたことがあるそうだ。

                                       イメージ 6
                                      
    ↑  (画と文・佐賀の現代浮世絵漫画師?山田全自動さんの山田でござる、より)                        

(61) 大阪ミナミ・昔の風景

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                (61) 大阪ミナミ・昔の風景

  イメージ 2シランの下宿は南海沿線の粉浜と言うところにあって、駅を降りて踏切を渡り、ゴミゴミした細長い商店街から入った狭い路地の中にあった。造船所に勤める実直な中年の夫妻の住む4軒長屋の二階の素人下宿の一室がわが住まいである。だから毎朝、粉浜駅から南海電車で難波まで行って、高島屋から北の方に15分ほど歩いて行き、日本橋筋を東西に走る市内電車(チンチン電車)に乗って上本町六丁目まで行くのである。

 毎日、登下校時には難波の駅がある高島屋から、心斎橋筋を歩いて日本橋筋まで行かねばならないから、勢い下校時には日本橋の古書店や千日前、道頓堀の繁華街の芝居小屋や映画館を覗いて見たくなるのである。田舎出の少年には、豪壮なビル群と肩が触れ合うようなにぎやかな繁華街の喧騒ぶりは、とにかくとても魅力的な光景だった。

イメージ 1
                                              (昭和初期の高島屋)


 ついでに腹が減るので下校時には、難波・高島屋の地下の大食堂で「ハンバーグ定食」を食べて帰るのが楽しみだった。いま考えて見ると、肉はほとんど入っていないいわば「野菜ハンバーグ」とでも言うような代物だったが、初めて食べるハンバーグという食べ物は田舎出の少年にとって「世の中にこんな旨い物があるのか」と目からうろこが落ちる思いであった。今の飽食時代の若者が聞いたら呆れて笑われるに違いない。

 (*尤も、東京に初めて行った時、八重洲口のガードの下の大衆食堂で、丸ビルに勤めていた従兄におごって貰った「天丼」の味も忘れられない。この時も世の中にこんなに旨いものがあるのか、と目玉が飛びだしそうな思いをしたのだから、いつもご飯に魚と野菜の煮付けという田舎の食事が、少年にとっては如何に味気ない物であったかが分かると言うものだ。戦前の田舎でエビの天ぷらなど見たことも食べたこともなかった。今、スーパーにあふれる海老天を眺めては、しばし今昔の感に打たれる昨今である)

イメージ 3 当時の日記に
 「昭和17年8月20日」 木 晴れ
  ・・夏休み終わりて帰阪、昼より心斎橋筋をぶらつく。相も変らぬ人出なり。高島屋七階喫茶室にて古川ロッパ出会う。傍らにいたのは杉狂児(喜劇役者)らしかった・・ とある。

 美食家で大食漢だったロッパの日記にも、この日,狂児を連れて高島屋で食事したとあるから間違いないだろう。このころの食堂は、一人前しか食べられなかったので、狂児の分まで註文してロッパが一人で二人分を食べてしまったという。

  ↑ 古川ロッパ
    ・・・・
 学校の裏に当たる西側は南北に伸びる台地状になっていて、夕陽丘高女や生国魂神社があり、神社の横の石段の小道を下りて行くと,下寺町から日本橋へとつながっている。その頃は母子家庭の悲しさ、いくらかでも電車賃を節約しようという意味もあって、電車には乗らず、この石段をカランコロンと焼杉の下駄の音を響かせながらぶらぶらと下りて行ったものだ。

イメージ 4途中にあったお寺の裏門をふとくぐってみると、谷潤一郎の小説「春琴抄」の盲目のヒロイン「お琴」の墓がひっそりと建っていたりした。当時、春琴抄は「お琴と佐助」という映画にもなり、田中絹代と高田浩吉が熱演して有名だった。  「春琴抄」の冒頭には、お琴の墓について次のような記述がある。

   ← 「しゅんきんせう・春琴抄」  潤一郎作

イメージ 5
 ・・・墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にあった。寺男に案内を頼むと、東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。

 知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂(いくたま)神社のある高台が聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍らしい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた。
 「光誉春琴恵照禅定尼」と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、行年五拾八歳とあって、側面に、門人「温井佐助」建之と刻してある。・・・

 と、書いているから、お琴の墓に間違いないだろう。
 シランも春琴抄を読んだ記憶から、急にこの寺に立ち寄ってみる気になったのかもしれない。

 イメージ 6イメージ 7下寺町の石段を下りて日本橋筋に出ると、「天牛本店」と言う大きな古書店があった。上六から難波まで歩いて帰る時は必ずこの古本屋に立ちよって、小説などの古本を漁るのが楽しみだった。
 
 ←ドストエフスキーの古本の裏表紙にある天牛本店の値段票・3円80銭とある→
    〇に公 判は当時の公定価格の意味、古本の値段まで統制されていた・・

 何しろ当時は紙不足で新刊の発行は少なく、なかなか手に入らない。予め本屋に予約して置いても、当たるかどうかわからないのだ。
 そこでどうしても古本を買うことになる。今も私の古い本棚に黙然として埃をかぶっている昔の書籍類は、文庫本を除いて殆どが古本である。
 
 イメージ 8この天牛本店は、若き日の折口信夫、武田麟太郎、長谷川幸延などが「われらが古本大学」と呼んで通いつめたそうだし、当時の常連客であった作家の織田作之助は「夫婦善哉」の結びに天牛書店二階を登場させている。

また、司馬サンも当時はよく古本屋に立ち寄ったそうだが、彼は学校から南の天王寺の方に帰るので、方角が違うので日本橋の天牛本店ではなかったのだろう、在学中には一度もここで出会ったことはない。
 
 ← 新刊書、購入申し込みの本屋からの返信  イメージ 9
    
     →裏、ゲーテ詩集は買えなかったようだ 

 しかし、後年、作家となった司馬遼太郎が「坂の上の雲」執筆のため、日露戦争に対する取材をしていた時、時の政府が編纂した『明治三十八年日露戦史』を求めたのもこの天牛本店だったそうだから、やはり定評のある大きな古書店だったのには違いない。
 
 本好きの彼は何時も右手に本を下げていて、下校時には必ず「御蔵跡図書館」に立ち寄って本をに読むのが日課だった。その為、しまいには読む本が無くなって、釣りや将棋の本まで読んでしまったそうである。。

     ・・・・・・     ・・・・・

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                                                    (山田でござる) より

 
*最近、断捨離と言う言葉がよく使われている。持たない暮らし というのだろうか。。
 我が家の古い本も整理しようといつも思っているが、これがなかなか実行できない。
 黄ばんでボソボソになった古本でも、何だか若き日の歴史が沁みついているようで愛着がある。
 最近は本離れが多い世相なので、どうせそのうち、まとめて資源ごみにでもなる運命だろうが・・ 

    //////

 

(62)我が読書の記

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     (62) 「我が読書の記」

 懐かしの古書店「天牛本店」が出てきたが、私が本を読み始めたのは何時ごろからだろう。
 とにかく、幼稚園時代に「キンダーブック」という絵本を読んだことだけは覚えている。これは幼稚園用の絵本ではなかったかと思う。

 幼稚園は家から1キロ位もある所にあり、私は近所の幼馴染のお寺の息子のヒロちゃんと一緒に、お手々をつないで毎日通ったが、ブラブラと道草を食いながらあちこち見て歩くので時間ばかりかかり、いつも遅刻していたのかもしれない。肩から下げた小さい鞄には出欠簿と折り紙用の千代紙、それにクレヨンくらいしか入っていなかったようだ。

 イメージ 1しかし、初めて文字らしい文字を読んだのはやはり小学校の教科書である。 そのころの小学1年の国語(当時は読み方と呼んでいた) 読本の第一ページは 「ハナ ハト マメ マス」であった。 次の世代は「サイタ サイタ サクラガサイタ」であり、その中には「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」と言うのもあったらしく、国語読本も次第に軍国調になっているのが伺える。

 イメージ 2教科書以外の少年時代の読書といえば、まず「少年倶楽部」だろう。
 低学年のころは、「のらくろ二等兵」「冒険ダン吉」「タンクタンクロウ」などの漫画に熱中し、高学年になると連載小説の「敵中横断三百里」「空中軍艦」を熱読した。 これら血沸き肉踊る冒険物語は、軍人や大陸雄飛への憧れを強く当時の少年たちに植え付けたに違いない。
 
 イメージ 3山中峯太郎作の「敵中横断三百里」は日露戦争の奉天大会戦に題をとった冒険小説だが、主人公の建川騎兵中尉は司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する。
 
 司馬さんも随筆の中で
「蒙古語部の同級生は山中峯太郎氏の冒険小説にあこがれ、自分もああいう主人公になってみたい、と本気で考えている連中だった」
 と書いているから、司馬サンも少年の頃にはこの小説を読んで、大いに胸を躍らせたに違いない。

  イメージ 4事実、母校の蒙古語、中国語の先輩の中には、情報将校として現地人に扮装してソ連領深く潜入し、スパイ活動の挙句非業の死を遂げた人も多い。

 戦前の母校の旧校舎の正門わきには、「烈士の碑」という巨大な石碑があってソ連、満蒙の僻地で情報活動に従事しついに非業の死を遂げた先輩たちを祀ってあった。我々生徒は登校、下校時にはこの烈士の碑に向かい最敬礼をして通らねばならなかったのである。

 ←烈士の碑
 その碑文の一部には

 ・・・吉村、大月、吉本の三君は関東軍特務機関に奉職し、重大使命を帯び,厳寒を冒し辺境の地に活躍したるが、不幸敵の重囲に陥り、一騎当千の勇を奮い敵胆を寒からしめたるもついに衆寡敵せず、ついに敵中に突入して従容として死につけり・などと刻されている。

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                                         (烈士の碑・慰霊祭)

 この敵中横断三百里の主人公「建川中尉」は日露戦争で部下5名を率い、騎兵の機動力を生かし、「建川挺身斥候隊」としてロシア軍陣地の奥深くまで挺進して1,200kmを走破、日露戦争の決戦である奉天会戦の勝利に貢献した。彼は『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』主人公のモデルになったが、のちに中将にまで進み、退役後には駐ソ連大使を務めた人物だった。

イメージ 6 「少年倶楽部」のほかは、「立川文庫」の講談本である。

イメージ 7 これは今の文庫本よりも少し大きくて相当厚みがあった。

 「荒木又衛門」の伊賀の仇討ちや「猿飛佐助」「霧隠才蔵」などの忍術物、播団エ門や後藤又兵衛の「真田十勇士」などなど、英雄豪傑の活躍は我々チャンバラ少年を熱中させてくれた。

          →どろんどろんと猿飛佐助

 
 イメージ 8中学時代には桜井忠温の「肉弾」を胸躍らせて読んだものだ。これは日露戦争時の乃木大将による「203高地攻略戦」の悲惨な戦いを描いているが、司馬サンの「殉死」という小説では、乃木大将は軍人としては凡才だったように描かれている。当時の国民的英雄も時代が変わればこんな凡人と扱われるのかと、人間の評価の変遷に驚くばかりである。

 イメージ 9その頃の雑誌には少年倶楽部のほか、幼年倶楽部、少女倶楽部、大人向けの婦人倶楽部や主婦の友、キング、譚海、新青年などがあったが、姉は「令女界」を購読していた。


 この「令女界」には吉屋信子の少女小説や船橋聖一の恋愛物が載っていたが、当時の尚武の時代としてはもちろん男子たる者の読むべきものではなかった。だから姉の本では、わずかに岩波文庫の「あしながおじさん」を隠れ読みしたぐらいである。それよりも、西遊記やスチブンソンの「宝島」の方が、少年にとってはすこぶる面白かった。

 
   → 大人の雑誌「キング」は昭和18年、敵性語排斥で「富士」と改称させられた。


    ・・・・・      ・・・・・・


(63)読書の記②

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     (63) 読書の記 ②

 イメージ 6中学も後半になると、(旧制は五年制なので今の高校2,3年生であろうか)藤村、白秋の詩や啄木、牧水の短歌、幸田露伴、森鴎外、樋口一葉、谷崎潤一郎、芥川龍之介などの小説を受験勉強そっちのけで読みふけっていた。もちろんそのころは単行本でなく安価で手軽な文庫本がほとんどだった。といってても戦前の文庫本は岩波文庫がほとんどで、僅かに新潮文庫が散見されるくらいだった。
                                                             → 芥川龍之介

 我が家の古びた本棚にもこの頃の数百冊の文庫本が並んでいるが、なぜだか夫々にゴム判でナンバーをつけている。集めるのが楽しかったのあも知れないが、今はいずれもカビの生えたようなボソボソにになってしまって、もう手に取って読むこともない。

 何しろ今は、昔の小説はみんな著作権が切れて、パソコンの青空文庫でタダで勝手に読めるから、いくら昔の本を集めていても世界大百科辞典同様に、飾り物にもならない無用の長物化してしまっているのである。

イメージ 1
                        (岩波文庫の目録)

 岩波文庫は1927年(昭和2年)の創刊だが、古い文庫のうらがきには岩波茂雄の「発刊の辞」が載っていた。

 〇 「読書子に寄す -岩波文庫発刊に際して-」・・・

「かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。」とある。

 イメージ 2文庫本は新刊書よりもずっと安かった。いま手元にある漱石の「吾輩は猫である」は昭和13年発行の第一刷だが、定価四十銭である。岩波文庫の特色の一つは、定価の表示が金額ではなく星印(★)で示してあり、星★一つが○円などと、星の数で値段を計算していたことである。昭和2年の創刊当初は★一つが20銭だった。そこでこの「吾輩は猫」の本は星が二つなので40銭というように、一目瞭然の価格表示だった。

 ← 岩波文庫「吾輩は猫である」  表装は昔から今も変わらない。

 ついでだが、文学が中心の岩波文庫に次いで,より高級な学術的な文庫本が「岩波新書」である。文庫よりも少し大きめで本の色も青緑や黄色など明るくて、モダンな装丁になっている。

 新書の創刊は1938年(昭和13年)11月だが、戦後発行の本の裏書には「岩波新書新判の発足について」という小文が載っている。

「岩波新書百冊が刊行されたのは中日戦争が始まった直後から太平洋戦争のたけなわな頃に及ぶ、かの忘れえない不幸の時期においてであった。日々つのってくる言論抑圧のもとにあって、偏狭にして神秘的な国粋思想の圧政に抵抗し、偽りなき現実認識、広い世界的観点、冷静なる科学的精神を大衆の間に普及し、その自主的態度の形成に資することこそ、この叢書の使命であった」。。とある。

 イメージ 3岩波新書ではないが同じ岩波書店の「岩波全書」には一つの思い出がある。岩波全書は1993年(昭和8年)に「基礎的学術書」として創刊された、学問的でやや難しい文庫本だった。

 外語で親しい友達の一人だった、T君が学徒出陣でひと足先に軍隊に入る事になった時、シランは彼の家に招かれてご馳走にになったことがある。彼も母子家庭だったのか、帝塚山の静かな住宅街の住まいにはお母さん一人だけだった。彼はシラン君を家に呼んで別れの盃を交わしたいと、母に頼んだそうである。当時は軍隊に召集されると、酒の特別配給があったのだ。

 別れ際に彼から「人間の学としての倫理学」 → という岩波全書を貰った。
真面目で優しかった彼は、この頃から哲学の本を読んでいたのだろう。船舶兵に配属されるという話だったが、空襲で家も焼けて、お母さんはもちろん、その後の彼の消息はない。もしT君が生き延びて居れば、ただ、その後の彼の人生が幸せだったことを祈るばかりである。

 中学も四、五年生になると、子供らしい少年倶楽部などは気恥ずかしくて読んで居られない。三年生のころ、ふとんに布団を枕に寝ころんで、分厚い「西遊記」を読んでいたら、遊びにきた従姉が「何を熱心に読んでるの?」と表紙をめくって見て「なーんだ、孫悟空かぁ。。」といかにも軽蔑したように言ったので、少年ながら相当自尊心を傷つけられたことがある。
 以来、文庫本で文学らしい小説や、「子供の科学」「航空朝日」「朝日カメラ」「相撲界」などを月ぎめで購読して少しは高級?読書らしく見せかけたものだ。

 イメージ 4子供という名前はついているが「子供の科学」はなかなか高級で難しかった。天体望遠鏡の付録や試験管などの実験道具が付録としてついていたりした。息子が小学生のころ、この試験管に青インクと赤インクを入れたものに、、インク消しの液を入れたらどうなるだろうか、などと遊んでいたが、こんんな遊びが将来、化学の研究を仕事にするようになった端緒になっになったのかもしれない。

 開戦前の「航空朝日」には、メッサーシュミットやユンカース、B16など英、独、米の戦闘機がいくつも載っていて、軍国少年にとっては興味津々だった。

 子供の頃から写真には興味があり、十銭カメラなどで遊んでいたが、中学生のころは、家に暗室を作り、現像器や引き伸ばし器まで買って、ホーローバットにそれぞれ現像液、定着液を入れて暗闇の中で、ひそかに原像、焼き付けを楽しんだものだ。今でも当時の「アサヒカメラ」の年鑑が残っている。

 そのころは、もう幼友達と遊ぶこともなくなり、夜更けるまで本を読む純情多感な少年になっていたのである。

  ・・・・・                      ・・・・・・

                        昭和28年のアサヒカメラ年鑑より。


イメージ 5

                                       (皇太子の成年式である立太子礼の今上天皇)
                  65年前は、まだまだ若々しい皇太子殿下だった。。

     //////

(64)読書の話③オタンチン

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    (63)読書の記 ③ オタンチン・パレオロガス
 
イメージ 1 文庫本で初めて読んだのは,姉が持っていたウエブスターの「あしながおじさん」をこっそり盗み読みしたときだったが、これは、身寄りのない少女のために進学の援助するおじさんの話だったので、わんぱく盛りの少年にとっては、真面目過ぎてあまり面白いものではなかった。
 それよりも、スチンブンソンの「宝島」が面白かった。当時、この宝島は少年少女の読み物として世界で広く読まれており、ホーキンズ少年が一本足のシルバーとともに、海賊たちと戦って宝物を手に入れる、という血沸き肉躍る冒険小説だったのでとても面白かった。

 夏目漱石の「我輩は猫である」を読んだのもこの頃である。 
漱石の「草枕」が中学の国語の本に載っていたのに触発されたのかもしれない。
 この「草枕」の冒頭の文句は今になっても忘れない。

  山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
    智に働けば角(かど)が立つ。 情に棹(さお)させば流される。
    意地を通とおせば窮屈だ。
   とかくに人の世は住みにくい。  ・・・・

  
イメージ 2「吾輩は猫」の中には、漱石自身の自画像とも言うべき「珍野苦沙弥」先生はじめ、理学者の「寒月」「独仙」「迷亭」札びらを切る「金田鼻子」など、愉快な人物が登場して、彼らの言動が何とも楽しいのである。

 ← 昭和13年・第一刷・定価四十銭  
 
 *「オタンチン・パレオロガス」

*漱石の家に泥棒が入って、衣類などのほか、佐賀・唐津出身の書生・多々良三平君が手土産に持ってきたヤマイモまで盗んで行ってしまった。そこで被害にあった盗品を書き出さねばならないが、その時の苦沙弥先生夫婦のやり取りが面白い。・・・

イメージ 3**「山の芋まで持っていったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
                                                                            →書生の多々良三平

「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津(からつ)から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかしおまえは知らんと言うじゃないか」
「知りませんわ。知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとはなんだ。まるで論理に合わん。
それだから貴様は※オタンチン・パレオロガスだと言うんだ」
「なんですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「なんです、そのオタンチン・パレオロガスって言うのは」
「なんでもいい。それから後は・・・俺の着物はいっこう出てこんじゃないか」
「あとはなんでもようござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かしてちょうだい」
「意味もなにもあるもんか」
「教えて下すってもいいじゃありませんか。あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。
きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」

イメージ 4「愚な事を言わんで、早く後を言うがいい。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりかオタンチン・パレオロガスを教えてちょうだい」
「うるさい女だな、意味もなんにも無いと言うに」
「そんなら、品物の方も後はありません」
「頑愚(がんぐ)だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「私も品数を教えてあげません。告訴はあなたがご自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」

「それじゃよそう」と主人は例のごとく、ふいと立って書斎へ入る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ座る。ふたりとも十分間ばかりはなんにもせずに黙って障子をにらめつけている。***

       ・・・・・
 
イメージ 5*この中に出てくる「オタンチン、パレオレガス」という言葉の意味が分からなくて、いくら辞書を引いても載っていないし、少年のころから最近まで長い間、胸の底にいつも引っかかっていたが、パソコンを始めてから検索してやっとその謎が解けた。オタンチンは、「まぬけ」の江戸俗語で、オタンチン・パレオロガスとは、東ローマ帝国最後の皇帝「コンスタンチノス・パレオロゴス」に引っかけたしゃれだったのである。

                                             →     コンスタンチノス・パレオロゴス

 おかげで永年の胸のつかえが降りたような気がして嬉しっかった。これもインターネット・情報化時代の賜物の一つに違いない。


  ・・・・                 ・・・・・・

 * 朝からシトシトと春の雨が降り続ています。
  北風が冷たく、「春雨じゃ濡れて行こう‥」という気分にはなれませんが、イオンへ買い出し。
  沿道の田んぼの麦の芽もだいぶ伸びて緑一色になっていました。

       麦の芽の五寸に伸びて彼岸かな

   お彼岸用の花とおはぎは忘れずに買ってきました。。


(65)吾輩の一生

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    (65) 吾輩の一生

 イメージ 2「草枕」は漱石が熊本の五高の先生をしている頃の作品だが、その頃、福岡の修猷館中学と佐賀中学を見学に来たそうだ。どちらも旧藩校の後身で、九州らしく剛毅朴訥、質実剛健の校風だったから、次に松山中学の先生時代に書いた「坊ちゃん」にも、主人公の質実・純朴な坊ちゃんが生まれたのかもしれない。

 ← 草枕の挿絵
 中学時代には草枕の「葷酒山門に入るべからず」とか、 坊ちゃんの「そうぞなもし」などの言葉を覚えたものである。いつか朝日新聞で漱石の連載小説の復刻版が載っていたが、「心」は堅苦しくてあまり好きでは無いが、「三四郎」は明治の学生の生き方が伺われてなかなか面白かった。
   
 
 〇 「吾輩の一生」 

 イメージ 3漱石の猫の吾輩は、野良の黒猫で薄暗いところで生まれたが、そ家の書生に捨てられていつの間にか漱石の家に潜り込んできた。 その様子を小説の冒頭には次のように書いてある。

 *【吾輩は猫である。名前はまだ無い。 どこで生れたか頓(とん)と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニヤーニヤー泣いて居た事丈は記憶して居る。・・・】
 ←吾輩の素顔

  
イメージ 4 この「吾輩は猫である」は実際に漱石が飼っていた猫を観察して書いた小説だが、「吾輩」は一人称になっていてネコ自身に名前はない。吾輩は人間の生態を鋭く観察したり、猫ながら古今東西の文芸に通じていて、哲学的な思索にふけったりするし、人間の内心を読むこともできる。

 隣家の美人猫の「三毛子」に恋心を抱いているが、三毛子は風邪をこじらせて死んでしまったり、吾輩は人間並みに失恋をするのである。
                                                           →美人猫の「三毛子ちゃん」

 そんな吾輩は、最後は主人の飲み残しのビールに酔い、水甕に落ちて出られぬまま溺れ死んでしまう。

 * 「吾輩の最後」  本文より

 ・・・吾輩は苦沙弥先生のコップの中のビールを飲んで、酔っ払って水カメに落ちた・・・。
   
 イメージ 5水からカメのふちまでは4寸余もある。足をのばしても届かない。飛びあがっても上がれない。もがけばガリガリとカメに爪が当たるばかりで、すべれば忽ちぐっともぐる。潜れば苦しいので、すぐがりがりをやる。そのうち体が疲れてきた。気は焦るが足はさほど利かなくなる。ついにはもぐるためにカメを掻くのか、掻くために潜るのか自分でも分かりにくくなってきた。・・・

 もうよそう。勝手にするがいい。ガリガリはこれ位にして、前足も後ろ足も頭も尾も自然の力に任せて抵抗しないとにした。
  次第に楽になってくる。苦しいのだか有難いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然としない。どこにどうしていようが差支えない。ただ楽である。いや楽そのものすら感じ得ない。

 日月を切り落とし、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。 死んでこの太平を得る。  太平は死ななければ得られぬ。
   南無阿弥陀仏々々々々々々。 有難い々々々。
        ・・・・・

  イメージ 6吾輩はこのようにして死んでいくが、漱石の観察日記【猫の墓】によると、実際には猫はへっついの上で死んでいる。すると、それまで冷淡だった妻の鏡子さんが、わざわざその猫の死に様を見に行き、庭の一隅に墓標を立てて、何か書いてくださいと漱石に頼んでいる。
                                                               
      漱石は表に「猫の墓」と書き、裏に

        「この下に稲妻起こる宵あらん」と書きつけた。

イメージ 7
↑珍野苦沙弥先生

 漱石の四女だった「愛子」さんが墓標の横にガラスビンを二つ置いて、萩の花をさし、猫に供えた茶碗の水を飲んだ。(*どうしてだろう?)
 奥さんは花も水も毎日取り替え、命日には鮭とかつお節を供えたが、しかし、そのうちいつの間にか庭までは出てこなくなり、茶の間のたんすの上に置くようになった。
                                → 珍野先生夫人
                                                            
 イメージ 1← 「猫の墓」
   漱石山房に残るねこ塚。 漱石没後40年の1953年の撮影。
   もんぺ姿の小学生が珍しいですね。

 小説の主人公である名もない猫は、飼い主の珍野苦沙弥(チンのクシャミ)と言う英語の先生の酒を盗み飲んで、酔っぱらって水がめに落ちて死ぬのだが、本当のところは夜中に人知れず外に出て行って死んだようだ。
 奥さんが、衰弱して座布団の上で食べ物を吐く猫に対しては冷淡だったのに、死んでしまえば急に騒ぎ出したりしたのを見て、漱石はこの「猫の墓」のなかで人間の薄情さを見つめているかのようである。

 
イメージ 9
                                       (漱石の家族と門人たち)


 漱石は猫の死後、「猫の死亡通知」を友人知己あてに送った。


「辱知猫儀、久々病氣の處療養不相叶、昨夜いつの間にかうらの物置のヘツツイの上にて逝去致候  埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。  但主人「三四郎」執筆中につき御會葬には及び不申候 以上
        九月十四日 

この黒猫の死に対して俳句仲間の「松根東洋城」が虚子に対して電報をうった。
 これに対して、虚子も返電を送っている。

      センセイノ ネコガシニタル ヨサムカナ  東洋城  
       ワガハイノ カイミョウモナキ ススキカナ 虚子

 イメージ 8ネコの飼い主の漱石は、ジャムの舐めすぎで、胃潰瘍になって亡くなったが、その葬儀の受付係りを若い「芥川竜之介」がつとめ、のちにその時の「葬儀記」を書いている。

     「追悼句」

       黄昏るる菊の白さや遠き人   芥川竜之介

       木枯らしやあの世も風が吹きますか   松浦嘉一



      /////       ・・・・・・

   * 今日も北風に乗って冷たい小雨が降り続いている。寒の戻りか肌寒い。
     でも、庭の柿の木、梅ノ木、雪柳と次々に青い葉を出し始めた。
     熱さ寒さも彼岸まで‥というから、そろそろ暖かくなるだろう。。
     孫娘の高校合格の知らせもあったし・・一陽来復と行きたいものだ。。

イメージ 10
                                               (あでやかな花梅)
 
       梅には花梅と実梅がありますが、美しい花梅には実がなりません。。

   
 



(66)読書の話④

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    (65) 「学生時代の読書」 

 最近は大学生の読書離れが止まらないそうだ。ある大學では一日の読書時間がゼロの学生が過半数だそうだし、最近一年間に読んだ本の数は1冊~10冊という学生が40%だという。我々の学生時代とは雲泥の差である。今は読書の時間よりも、デートやスポーツ、それにスマホを見る時間が多いのだろう。

 もちろん時代のせいもある。いま、駅頭で向かい側のホームを眺めると、列を作って並んでいる連中が、みんなうつむいてスマホをいじくっているが、昔の電車の中では若者はほとんど本を読んでいたし、手にはたいてい文庫本を持っていた。1センチくらいの幅のブックバンドで、2,3冊の文庫類をくくって持ち運び、電車の中から下校時には歩きながらでもよく読んだものだ。昔の若者の時間のつぶし方は、映画か読書しかなかったから仕方がないが、今は先端技術の情報化時代、ネット社会に取り囲まれて、学生にはのんびりと本を読むなどの時間も心の余裕もないに違いない。果たしていずれが幸せと言うべきだろうか。
 
 イメージ 4二十歳前の外語時代は人間形成の年頃でもあり、また友人たちから啓発されて多くの本を読んだ。日本橋の天牛本店などの古書店で文学書や哲学書などを手当たり次第に買いあさり、暇さえあれば本ばかり読んでいた。というのも、戦時中でもあり、遊びに行く時間も場所も,機会も無かったのが実情だったのである。

 昭和17年4月から19年3月までの外語時代の2年間に読んだ書籍の一覧を当時の日記に書いている。 当時19歳の外語の学生、もの思う年頃だった。
                                                                                         ↑中島潔

 * 「外語・一年時の読書」
       
 イメージ 2「金色夜叉」   *(尾崎紅葉)   「註文帳」 「歌行燈」 *(泉鏡花) 
 「当世書生気質」   *(坪内逍遥)    「平凡」    *(二葉亭四迷)    
 「其の面影」「浮雲」「たけくらべ」「われから」 「にごりえ」
 「十三夜」「わかれ雲」      *(樋口一葉)
 「阿部一族」 「雁」  *(森鴎外)
 「濤声」「運命」「武蔵野」「号外・ほか」  「欺かざるの記」
 「第二独歩全集」         *(国木田独歩) 
 「風流仏」 「一口剣」 「五重の塔」 「太郎坊」   *(幸田露伴)

 ← 樋口一葉

                   
 *初めは明治大正文学に熱中した。戦前の昭和初期にはまだまだ明治文学の名残があって、一葉や紅葉、露伴など文体も難しい古文調だったから、いくぶん古文の勉強になったかもしれない。
    
 「草枕」 「坊ちゃん」 「硝子戸の中」 「虞美人草」 「道草」 「それから」
 「我輩は猫である」上、下                           *(夏目漱石)
                                              
 「生」「山の町まで」 「時は過ぎゆく」 「山村」 「二人の最後」「遺伝の眼病」  *(田山花袋)
      
 「塵埃」「何処へ」「徒労」「命の綱」「心中未遂」  「牛部屋のにほひ」「毒婦のような女」「人さまざま」 「安土の春」「歓迎されぬ男」                      *(正宗白鳥)
 
 このころは大正文学の「自然主義小説」をまとめて読んだようだが、あまり面白くなかった。   
     
       イメージ 1
 「和解」 「其の姉の死」 「小僧の神様」 「暗夜行路」 
 赤西蠣太」  これは面白かった。       *(志賀直哉)
 「俳諧師」 「風流懺悔」 「河豚」    *(高浜虚子)   
 「藤村詩集」 「飯倉だより」 「破戒」  「和解」   *(島崎藤村) 

      「初恋」  藤村

     まだあげそめし前髪の
     林檎のもとに見えしとき  
     前にさしたる花櫛の                →破戒の挿絵     
     花ある君と思ひけり・・

     
 
  「夏絵」 「俄あれ」 「ひえもんとり」 「或る夏の年に」 「潮風」
 「敗荷図」「縁談」「混じりあうまで」          * (里見)                                                                                                                                
                                              
 「羅生門」 「傀儡師」 「夜来の花」 「百草」 「偸盗」 「煙草と悪魔」 「河童」  *(芥川龍之介)
 「芦刈」 「春琴抄」 「吉野葛」   *(谷崎潤一郎)
 「忠直卿行状記」 「藤十郎の恋」 「恩讐の彼方に」  *(菊池寛)
   
イメージ 3 「同士の人々」 「波」 「風」 「路傍の石」    *(山本有三) 
 「魔像」  *(林不忘)     「大菩薩峠」   *(中里介山)
 「滝口入道」  *(高山樗牛)
 「蒼氓」  *(石川達三)   「愛欲」 *(武者小路実篤) 
 
 「一房の葡萄」 *(有島武郎)   「浮世風呂」  *(式亭三馬)
 「田園の憂鬱」  「都会の憂鬱」  *(佐藤春夫)
 「志賀直哉全集」 「柳浪・眉山・緑雨、集」 「和郎・善三・浩二、集」    *(明治大正文学全集)
 
 「徳田秋声論」 *(船橋聖一)  「作家論」  *(正宗白鳥)
 「芥川龍之介論」  *(山岸外史)
 

↑映画・路傍の石・・片山明彦の少年が超可愛かった。

  小説にも飽きてきたのか、次第にちょっと難しい文学論などを読むようになった。

         ・・・・・・                  ・・・・・・

   今日のように湿気の多い日の夕暮れには、特に沈丁花の匂いが強く感じられます。

イメージ 5

               沈丁花 春のゆふべの庭の面に
                  にほひ冷たく ひろごりにけり      金子薫園

           //////

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