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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満15年、みなさんのおかげで来訪者も51万名を越えました。 1月3日で95歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「95歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  みなさん、これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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  • 01/10/18--19:30: (8)鏡開き
  •       (8)  鏡開き   「1月11日」
     

     今日は鏡開きですね。イメージ 1正月の鏡開きは、一般に1月11日が多いですが、ところによって4日、6日、7日とまちまちです。

     現在の「鏡開き」は正月の歳神(としがみ)さんに供えた鏡餅を祝って雑煮にしたり、ぜんざいにしたりして食べることを言います。その際、餅を割るのに刃物を使わないで槌などで叩き割るので「鏡開き」という名前になっています。正月早々、切るという言葉を嫌ったからです。

     もともと、鏡は女性の象徴として、17世紀半ばまでは鏡に供えた餅を割って雑煮にして煮て祝う「女性の祝日」でした。

     その後武家の社会になると共に、男はこれを「具足餅」と呼んで餅を供えて、男子の祝いにもしました。 男子はその象徴である鎧・かぶとを床の間に飾り、その前に餅を供え、女性は鏡台に供えた鏡餅を下ろして、それぞれ「刃柄祝い・はつかいわい」「初顔祝い」として、二十日に鏡割りを行いました。鎧に供えた餅ですから、その餅を刃物で切るのを嫌って槌などで割るようになったのです。

    イメージ 7

    (江戸城内の鏡割りの儀式)


     イメージ 2ところが1651年(慶安4年)4月20日に三代将軍徳川家光が亡くなり、20日は将軍の命日になったので、物忌みをせねばなりません。そこで翌年の慶安5年から日取りを変えて鏡開きを11日にしたのです。

     イメージ 3ちなみに小さく割れた鏡餅は汁粉に入れるのが普通ですが、武家社会では小豆は腹が切れると言って嫌ったので、小豆の代わりに蕪(かぶ)の葉を「矢じり葉」と称して雑煮を作りました。 その後、一般に鏡餅を汁粉にするようになったのは、武家社会から太平の世となり、女性文化が花開いてからの事でした。 


     柔道の講道館では11日にお汁粉を食べて祝う鏡開きがあるそうですが、紫蘭の中学時代にも、柔道、剣道の早朝寒稽古が一週間あり、最後の11日にその打ち上げとして鏡開きのぜんざい会が開かれました。
     
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                                        美少年を手玉に取って寒稽古   本田一杉
                   
       ひじを打たれた痛みよりも、汗でぬれて冷たい稽古着に着替えるのが辛かった。。

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                 (冷たい校庭のぜんざい会) 立ち喰いの先生も寒そう・・

     ぜんざい会と言っても冷たい校庭に座り込んで、バケツに入ったぜんざいを水ひしゃくで配る、という何とも雑な打ち上げでした。なんといっても質実剛健・剛毅朴訥が校風だったからなぁ。。

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                                  柄杓でバケツに分配・・  (こっちの方がうまそうだなぁ・・)

      ‥・・・        ・・・・・・

     *昨夜の飲み会の頃から雪が舞い始め、朝起きてみると一面の雪景色。
        と言っても市内では積雪2センチくらいか。。
       でも、これでも南国九州では年に一度か二度の珍しい雪景色だ。
       山間部では15センチ、明日までにはもっと積もるようだ。。

         ♪雪やこんこん 
           あられややこんこん
           降っても降ってだ降りやまぬ
           犬は喜び庭かけまわり
           猫はこたつでまるくなる

                        ・・ シランもこたつで丸くなって、焼き餅でも食べようか。。

                       我が家のお地蔵さんも寒そう。。

    イメージ 8


                                          雪搔くや神に近づく道として    小林康治

            ///// /              //////

     

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         🎍  (9) 正月一日さん   「1月12日」

     今日は1月12日・・正月も12日も過ぎて特別の話題も無いですね。 なんかないかなぁ?
     そうだ!、NHKの真似をして、正月の苗字の話でもしようかナ。。
     
     まず、「正月」の正と言う言葉には「改まる」と言う意味があります。従って正月とは「一年が改まる月」と言う意味があります。人の苗字にも正月さんや正月一日さんが居られます。正月さんは(ショウゲツ)さんですが、「正月一日」さんは、実は「アラ」さんと呼びます。
    万葉時代には(新しき年)を(あらたしき年)と発音していました。 
      
             新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の
                   今日(けふ)降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

                                                    大伴家持 (万葉集最後の歌)
      

    イメージ 1

     「正月一日」さんを(アラ)さんと読むのは、この「あらたしき年の初め」から来たのでしょう。

    イメージ 5一月」さんは「イチゲツ」とか「ムツキ」さんと呼びますが、生年月日と間違われるので「睦月」という苗字に変えたという話もあります。。

     人の苗字には,ほかにも正月らしい「門松さん」、「松之内」「注連縄・シメさん」「餅月さん」など目出度い珍しい名前があるそうです。ついでですが、大みそかの←「十二月晦日」と書いて「ヒヅメ」さんと言います。一年の最後の日なので、日が詰まった、という意味でしょうか。

      ←大晦日

     今日の12日にちなんで言うと、「一二」さんと書いて(つまびら)さんと読むんですよー。(つまびらか)は(詳らか)と書きますが、(詳しく)とか、(事細かく)という意味です。「物事の初めの一、二から事細かく」と言う意味で(つまびら)さんと読むんでしょうね。
     以前に東海大相模高に有名だった「一二三投手」は「ひふみ君」です。プロ野球の阪神に入りましたが、どうやら鳴かず飛ばずでプロ野球人生を終わったようです。第二の人生をガンバって貰いたいものですね。一二三という苗字も珍しいですが、これは熊本の八代付近に少しだけ存在するそうで、先祖は肥後の武士の出身だそうです。

     イメージ 7とにかく何の変哲もない数字の名前でも、面白い読み方の苗字は多いです。
     
     目出度い「七五三」は「シメさん」と言いますが、これはお参りする神社のしめ縄からきているのでしょう。
     一月にちなんで、数の苗字をちょっと調べてみましょう.。

     とにかく(1)と言う数字は物事の初めとして、なんとなく目出度い感じがしますね。昨日の一月十一日は「塩の日」だそうですが、これは上杉謙信が、甲斐の武田方に塩を送った日が1月11日だったからだそうですよ。


      (一)・・ かずさん、いちさん、はじめ さんと呼びます。。特に面白い読み方は(にのまえさん)です。数字の2の前の数字は1ですからね、(二の前)とは当たり前の話しですね。(一)の代わりにヒトモジとかイチモンジとも読みますが、これは一文字という屋号から来たものです。

    イメージ 8  ()という苗字は縁起が良くて、簡単なので好まれますが、それだけ間違いやすいので()(井地)(伊智)などに変える人もいました。シランの恩師にも伊地智先生がおられます。これも一からの変換でしょうか。

    (九)・・(十)の前の(さん)は「イチジク」と読みます。どうしてでしょうかね。十までの数字の上では九は最上位にあるので、多数と言う意味があります。たとえば、「九牛の一毛」とか「九死に一生」とか言いますね。いちじるしく多い・と言う意味でしょうか、これはシランの勝手な推測ですが。

    (十)・・は「つじ」とか「ももき」と読みますが・・面白い読み方は(よこたて)さん・・です。
     一が縦横になっているので、ヨコタテさん・・これも至極当たり前の話ですね。。

    イメージ 3
    (十六)・・は(いざ)さん。これは十六夜(いざよい)の略でしょうか。
      十六女を(いろつき)さん、十八娘を(いろざかり)と読むのはちょっと可愛そうな気もします。
     もともと(十六女)は(シシメ)と読みました。四×四は十六ですが、シシはイノシシを表し,猪を仕留める谷間の事でした。その当て字だ思われます。

    (十八)・・十八女の(さかり)さんも盛り場からきた読み方ですが、いずれにしても名字は住んでいる場所に由来するものが多いのです。

     イメージ 2珍しいのではイッポンボウ(一品坊)さん、イチマカセ(一番合戦)さん、ニブイチ(二分一)サブイチ(三分一)シブイチ(四分一)ゴブイチ(五分一)・・・
    一 一(いちいち)面倒なので、以下、数字のいろいろの読み方を列記してみましょう。
    廿千(はっせん)二十四(つるへい)三一(みはり)三二(みに)五六(ふのぼり
    九十九(つくも)一二三(ひふみ)三八九(さんやく)五五五(ごごもり)八百(やほ
    七五三(しめ万(よろず)万千百(まちお)千万億(つもい
    最後に百千万億が(つもる)さん・・
       これで、 無事つもりました・ 🀄 。。 (^_-)-☆

     ところで小学校の友達にも「廿千」君が居ました。(はたち)と呼んでいました。また、名前に「一一」というのも居ました。(かずいち)君ですが、二人とも音信がないので果たして八十八の米壽、九十の卒寿は無事越えたかどうか。。ちなみに紫蘭が卒業したのも昭和11年、同級生には一郎、次郎、三郎に太郎、弥太郎とさまざまでした。

    イメージ 9
     
                    ♪とんとんともだち みんなで九人
                      一ちゃん 二ろくん 三ぶちゃん
                      四げぼう 五ろちゃん 六んぼ 七ちゃん
                      八ちゃんこに 九どんどん
                      だれかが叱られた みんなでごめんなさい
     
                               (とんとんともだち・・サトーハチロー作詞)                 

     イメージ 6九十九(つくも)・・九十九才は白寿ですが、これは百に一つ足らないからで、白と書いて(ツクモ)さんと呼ぶことがあります。ツクモはもともと「太藺・フトイ」という水辺に生える草の古い名前で、この草が雲にも届くほど繁茂するので(津雲)という漢字も当てられています。
     そのうちシランの頭も九十九髪ツクモガミ)になるかどうか。 

     ←フトイ (太藺

       //////

     *これで、数字の苗字についての話は終わりです。


     *頭の体操と思い、暇つぶしに書いた勝手な駄文で、皆さんの大切な暇をつぶしてしまいました。
       ごめんなさいね。。 m(_ _)m

                                             (おお寒む、こ寒む) 
    イメージ 4

    綿帽子の狛犬・コマイヌ (石鎚山・成就社)

         ・・・・・・


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               (10) 金髪のジェニー    「1月13日」

     イメージ 3黒人霊歌や民謡の作曲で有名なアメリカの音楽家スティーブンス・フォスター(1826-1864)は2歳の時には、姉がよく弾いている曲をギターで弾いたり、和音を作り出したりしました。

     その後正式な音楽教育を受けないまま、年とともにピアノ、フルートへと移行していきました。そして15歳の時から作曲を続けましたが、彼は若いとき一人の男を助けようとして乱闘になり、ナイフで頬を斬られたことがあります。その傷跡は、37歳で酒を飲み過ぎてニューヨークの安宿で死ぬまで残って居ました。

     イメージ 424歳のときに彼は「ジェーン・マクドウェル」という女性に深い恋心を抱きました。彼は彼女のために「金髪のジェニー」を作曲し、無理やり彼女を口説き落として結婚しました。しかし、ジョニーの方は一向に彼を理解せず、「音楽家などと結婚するんじゃなかったわ」などと言いだす始末で、二回も家出し、2回目にはとうとう家に帰って来なかったのです。 
                                                            → 金髪のゾョニーの楽譜の表紙

     「ケンタッキーの我が家」「オールドブラックジョー」などの名曲はこんな不幸な結婚生活の中で、じっと自分を抑えて書いた作品でした。しかし1855年の両親の死と翌56年の兄ダニングの死がフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥ってしまい困窮生活が続きました。

     1860年に「オールド・ブラック・ジョー」を発表しましたが、翌年には全曲の版権を売却、出版社との契約も切れ、作曲しては売るものの夜には金がなくなるというひどい貧困状況に陥って、やがて妻子も去って行きました。そして次第に飲酒に溺れ、孤独にさいなまされてアルコール中毒になり、食べ物をほとんど口に容れず、心身ともに消耗してしまいました。

     ♪ 「オールド・ブラック・ジョー」

                 イメージ 2若き日はや夢と過ぎ
                 わが友みな世を去りて
                 あの世に楽しく眠り
                 かすかに我を呼ぶ
                 オールド・ブラック・ジョー

                われもゆかん はや老いたれば
                かすかに我を呼ぶ
                オールド・ブラック・ジョー

                われもゆかん はや老いたれば
                かすかに我を呼ぶ
                オールド・ブラック・ジョー

     イメージ 51864年1月、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中だったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭から大量に出血して倒れている所を作詞家クーパーによって発見され、病院に運ばれましたが、二日後の1月13日に発熱と出血多量のために死亡しました。37歳。

     この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちと優しき心よ」と走り書きされた紙片だけでした。フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと言われています。

           ← フオスターの彫像

       貧困の中で妻に去られ、家族を失った彼の最後の作品は「夢見る人」でした。

     ♪ 「夢見る人」

                  ♪美しき夢見る人よ、                                          イメージ 1  
                    私のために目覚めておくれ
                    星の光と露の雫があなたを待っている
                    粗暴な俗世の喧騒は

                    月の光に優しく照らされ、
                    すべては過ぎ去った・・・




                               /////

    *今日も寒い、しばれる・・という言葉が実感となって身に迫る。
      早く温かい春になってもらいたいものだ、寒いと心までシバレてしまう。。

        
    イメージ 6


                                  凍らんとするしづけさを星流れ    野見山朱鳥


             ・・・・・・

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           (11) もぐら打ちと成る木責め   「1月14日」
         
      今日は正月14日、こちら佐賀地方では子供たちの「もぐら打ち」があります。
      農作物や果実の豊作を願って、昔から農村で行われてきた正月行事です。

     
    イメージ 1

      〇 「もぐら打ち」

     手ごろな青竹を切ってきて、その端に藁を束ねて小縄で巻き、それを地面に叩きつけて打つと、爆竹のような高い音がします。子供たちはこれをもって各家々に入って、そこの家の前の地面や果樹の根元を「もぐら打ちの歌」を歌いながら打ってまわり、お駄賃に「餅」を貰ところがい多いようです。


    イメージ 2


            「もぐら打ちの歌」

        ♪ なーれなーれ 柿の木
           ならずの柿をば、なれとぞ言うた
          千なれ 万なれ 億万なーれ

          うちの子のちぎっときゃ 畑の真ん中なーれ
          他所の子のちぎっ時ゃ 堀の真ん中なーれ
                 もーぐら もぐら もーんな祝うて 三べん

          お駄賃どーみゃ ゆがんでも
          ふとかとかーら おくんさーい
          十四日のもーぐら打ち

         
    イメージ 3
                                                        (絵・南窓さん)

         
     最近は少子化で、もぐら打ちをする子供が居なくて「子供会」でも困っているそうです。
      少子化対策大の臣さんもモグラ打ちして回ったらどうかな?
      子供が豊作で、どんどん増えるかも。。

        「なる木責め」

     こちらでは正月14日に、農作物や果樹の豊作を願って「もぐら打ち」の行事がありますが、同じような農村の行事で、小正月に「成る木責め」の行事が各地で行われるようです。
     「成り木責め」というのは、果樹の霊をおどして豊作を約束させる、という一種のおまじないです。

      1月14日の日の出前に
     「ナルカ ナラナイカ ナレバ イモウセ ナラナイト ブツキルゾ ソレナラカンニンシモウス」
     と、大声を出しながら、柿・栗・梅・桃など実のなる木を鉈の背で叩いて行くのです。

    イメージ 4

                                           ↑ (参考・信州の柿園の成り木責め)

     この行事は商売繁盛にも使われているようで、盛岡の商店街では長い2本の「なる木棒」を持った人々が各商店を廻り、店頭で成る木棒を振り回しながら
     「商売繁盛・成るか成らぬか、甲斐性(かいしょう)なしなら成らん成らん、甲斐性者なら成ろう成ろう」・・などと大きな声を出して廻るのだそうです。。

    イメージ 5 「成る木責め」は、昔は宮中で行われていて、「ゆの木の祝言」と呼ばれていたそうです。

     一本の柱を前にして、「ゆの木の下の御事は」と天皇がとなえると、柱の陰から皇后が「されば、そのこと、目出たく候」と答えるのだそうです。
     天皇家が全国の豊作を願って、成木責めの行事を行ったのでしょうか。

     この行事が民間で行われたのが「成木責め」で、果実の木に「なるか、ならぬか」と、問い、木を杖で打ちます。すると、木の陰に隠れた人が「成り申す、成り申す」と答えるのだそうです。ただ、京都の町ノ衆は「ゆの木の下の御事・・」ではなく「柳の下の御事は・・」と唱えるとか..
     

     ↑柿の木に実が成りました。。

     ふつう、この果樹は柿ノ木で、「サルカニ合戦」でもカニが種を撒いて「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と言うところがありますね。
      「モグラ打ち」の歌でも、「成る木責め」でも、柿ノ木が出てくるのが何となく興味がありますね。

            ・・・・・        ・・・・・

         *早いものです。
        暴力横綱とか、変態立行司など騒いでいるうちに、もう正月場所が始まりました。
         日本の国技らしく、すっきりと爽やかな大相撲であってほしいですね。

    イメージ 6



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          (12)  どんど焼きと尻たたき   「1月15日」

     イメージ 4今日は正月15日、小正月です。元日から始まる大正月に対して14日の夕方から15日、16日にわたって正月の行事をすることを小正月と言い、餅をついたり団子を作って祝う習慣があります。また、昔は松の内は家にあって忙しい女性は15日から年始回りをしたので「女正月」とも言います。

            更けて焼く餅の匂ひや松の内     日野草城 
      
      〇 どんど焼き
      
     門松を立ててある間を松の内と言い、普通は7日までですが15日までという処もあります。
    その取り払った門松やしめ縄を焼くために、正月の14日夜から15日にかけて行われる火祭りのことを「どんと焼」とか、「左義長」と言います。このどんどという言葉は、囃子言葉だったという説もありますが、とにかくどんどん火を焚くので「どんど焼き」というのでしょう。

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     この火祭りの行事を京都や北陸地方では「左義長・さぎちょう」といいます。昔、朝廷の清涼殿で青竹を焼いて天皇が書いた古書を焼いたり、青竹に扇を結び付けて燃やしたりしました。これは古代の朝廷の儀式として行われ、蹴鞠(けまり)のための毬杖(ぎちよう)を三つ立てたところから「三毬杖・さぎちょう」と呼ぶようになったそうです。

     
    イメージ 2


             左義長の燃えあがるものなくなりぬ   加藤三七子

      この火祭りの行事が民間では14日の夜、または15日に野外で門松などの新年の飾り物を集めて焼くようになりました。最近のどんど焼きは、村や街全体の行事として行われています。 河原や広場などで中央に青竹を立てて、集めた正月の松飾などを積み上げて焼くという、小正月の行事になって居ます。

     その時、書き初めを燃やして高く燃え上がると、書道が上達すると言われています。また、この火で餅や団子を焼いて食べる風習もあり、その火で焼いた餅や団子を食べると病気をしないといいます。
     佐賀地方ではこのお火焚きの事を「ほんげんぎょう」と呼んで、七日早朝に行われています。
    「鬼火焚き」の別称がある通り、鬼払いの行事として各家の門先で青竹や藁などを積み上げたものを燃やし、青竹を爆竹させ、または竹を折り曲げて結び「鬼の拳」と唱えて悪魔祓いをしました。

    イメージ 3


     また、子供たちは「吉祥・吉書」と唱えて目出度い文句を浄書し、これを燃え藁の上にかざして燃やし、その灰が空高く舞い上がれば書き方が上手になると、喜んだりしていた。 子供たちは鬼火の近くの家に集まって餅を焼いて食べます。この餅を食べると病気をしないといわれていたのです。
        
                        どんど焼き どんどと雪の 降りにけり    一茶
     
      〇「尻たた
    き」

     今は殆ど見られませんが、昔の地方によっては「正月15日の尻叩き」と言う遊びがあったそうです。お互いに尻をたたこう、叩かれまいと追っかけたり、逃げ回ったりする遊びです。この遊びの由来は平安中期の清少納言の随筆「枕の草紙」に載っています。

    イメージ 5


     昔の宮中では、正月15日には「望粥(もちがゆ)の節供」という行事がありました。望粥(もちがゆ)と言うのは、望(もち・15日)の日、特に正月15日に食べる小豆粥の事です。

     イメージ 6この日、宮中の女性たちは「粥の木」を隠し持って、お互いにお尻を叩こう、叩かれまい、とひそかに伺いながら、誰かが打ち叩かれるとみんな大喜びで笑い興じていたと言いいます。

      イメージ 7この「粥の木」は十五日の(望粥・もちがゆ)を煮た時に使った棒で「粥杖・かゆづえ」と言い、これで女性の腰を打つと男の子が生まれると言う、言い伝えがありました。

     むかし、東北地方では松の木で周りが1尺5寸、長さ3尺の男根形の棒(粥杖)を作って、新妻の尻をたたくという風習があり、また、粥杖をなわしろの水口に立てて田の神に供えて豊作を祈願しました。信濃国では粥の木の根本を四っ割りにして小正月の粥に入れる餅を挟んで粥をかき回したそうです。
                                                           (粥杖)

     今でも小倉の住吉宮では1月14日の夜にこの「尻叩き」の行事が行われていて、新婚のお礼参りに盛装して参拝した花嫁の尻を、子ども達がワラで作った棒で叩くという風習があります。これには嫁が家に居付くよう、子宝に恵まれるようにと願いがこめられている行事です。

    イメージ 8
                                            (昔の宮中の女房たちが手にした粥杖)

      この「尻叩き」の行事は佐賀県の北部では明治40年ごろまで行われていたようで、当時の「伊万里歳時記」によれば、正月の14日に子供たちがカシの木で作った直径5㌢、長さ30㌢の「尻打ち棒」で、その年に部落に嫁入りした(初嫁)のお尻を叩く、という正月行事でした。

     イメージ 9子供たちは「嫁御・よめごの尻うたせんかい」といって初嫁の家に行き、
     「餅だすか、酒出すか、出さんにおいては、嫁ごの尻打ち、ポカーンショ」
      と言って尻を叩いたそうです。

       また東山代町では、樫の棒ではなく、橙の芯に縄を通した物や、大根を縄でくくったもので、女性の「尻打ち」をしていました。

      ↑小倉・住吉社の尻たたき

     この佐賀の「尻叩き」の行事は、いずれも女性の多産を願った行事ですが、主に佐賀県の北部の唐津藩で行われ、佐賀南部の佐賀藩では主に「もぐら打ち」が行われていたようです。
    江戸時代の藩政区分の影響で、同じ県内でも行事や風習には色々と違いがあったのでしょう。

                 ・・・・・         ・・・・・

     *今日も寒い!足の小指の先にタコが出来て、イボコロリを貼ったらヒリヒリ痛い。寒さのせいもあるだろうが、タコが出来るくらいに使いすぎて皮膚も老化しているのだろう。

     家内を月一の内科検診に送って行ったら、超満員で車もいっぱい。。
     どこの病院も年寄りだらけだ。 これじゃ保険もたいへんだな・・と自分の事は棚に上げて長嘆息。
     灯台もと暗し・・ 我ながら人間は勝手なものだ。

             
    イメージ 10

                                                          (反省!!)

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                     (13)  中学の思い出    「1月16日」

     イメージ 8今日は1月16日、いつもなら中学の同窓会の新年会ですが、もう解散してしまったので新年会もありません、なんだかちょっと侘しい。。
     なんと言っても94才という年は争えず、残り僅かの同級生たちもみんな一病あって、ボケたり入院したり、満足なのがただの三人では同窓会も何もあったものではありません。 トホホ・・

     太平洋戦争が始まった昭和16年に中学(旧制なので5年制)を卒業したので、同窓会は佐中十六年会と言いました。入学は  2,26事件のあった昭和11年4月、我々は鍋島藩校・弘道館の流れをくむ名門佐賀中学に入学しました。
                                → 明治26年の先輩
     

     イメージ 1当時の教室はまだ木造の平屋で、始業の合図もベルではなくなんと用務員さんの吹く軍隊用の「ラッパ」でした。

     新しい制服に大きな(中)の徽章がついた制帽、初めて万年筆を買って貰って嬉しかったなぁ。。

     その新しい万年筆で初めて習う英語の時間に
     「Iam a boy  This is the pen.」 などと書いてみて、
     なんとなく大人になったようで、得意になったものです。
     
      一年は一組で担任は片山先生。 あだ名はノンキー先生、級長は秀才三兄弟の末弟の島内君だった。ノンキーとは、飴だまの事で、通学途中に同名の「片山ノンキー店」と言う菓子屋さんがあり、先生の顔つきもまた、当時の人気漫画「のんきなとうさん」そっくりだったのだ。 先生からは国語、漢文を習った。 


                                                 「一年一組」 50名

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     (しらんは40番、小さい方からが近い・・隣が島内君)

     (この一組、50名の中から、のちに3名が東大を出ました。わんぱくかりでしたが、みんな頭が良かったんですね、今はみんな死んじまったけど・・)  一睡の栄光 夢幻の如し・・

     一年の夏休みの宿題は植物採集、校内の売店で買った大きなドーランを肩に、二年の時は昆虫採集で捕虫網と毒ツボをぶら下げて、川上あたりの山野を歩き回ったものです。田んぼからトノサマガエルを捕まえてきて、博物の授業時間に腹立ち割って解剖してみたり,・・キモチ悪ーい..

     夏休みに多布施川で幼馴染の古賀君と一緒に泳いだのも懐かしい思い出です。(彼は級長で京大卒、定年後は鎌倉に住んでいましたが、奥さんを亡くして永らく一人住まいでした。最近は音信も途絶えてしまったが、どうしているかなぁ。卒業式では卒業生代表として答辞を述べた秀才だったのに。。)

                 〇  「弓道部」
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     中学ではどういう契機か覚えていないが、3年までは弓道部に入り、小さい体で大きな弓を引いていました。学課の中に、剣道、柔道がありましたが、紫蘭は柔道をするほどの大きな体ではなかったので、もちろん剣道でした。。
      
          〇 「剣道の思い出」

     剣道にはいろいろな思い出があります。
    尚武の葉隠れの里だけに、「剣道」は小学校の5,6年から体操の時間に習った。といっても防具はつけずに木刀だけの型ばかりでしたが、木刀を持つとなぜか自分が宮本武蔵のような大剣豪になったような雄渾な気がしてきたものです。

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      イメージ 4私の小学校は、藩校弘道館の幼稚舎のようなもので、昔から尚武の気風が強く、各教室の黒板には「葉隠四誓願」を書いた額が掲げられていて、生徒は毎朝、授業前に唱和させられました。

      一、武士道においておくれ取り申すまじきこと
      一、主君のご用に役に立つべきこと
      一、親に孝行仕るべきこと
      一、大慈悲をおこし人のためになるべきこと

         
      弘道館あとの石碑

    イメージ 5 母校の中学に限らず、戦前の中学では1年生から5年生まで武道の教科があって、剣道か柔道を選択せねばならなかった。剣道のけいこは、ただただ「痛い!」です。

      上手な者を相手にすると、面や小手を打たれても痛くは感じないのですが、下手な奴とやると、肝心の胴や小手の防具の上は打たずに、ひじにばかり竹刀が当たる。ひじに当たると、骨まで響いてジーンと飛びあがるほど痛い。お面でも下手なものほど力任せに打つので、頭がクラクラすることがある。その点、上手い者は軽く打ってきれいに一本を取るのです。

     友人の一人は佐賀んモン丸出しの偏屈者で、相手が竹刀を合わせて「ヤ、ヤーツ」と頭のてっぺんから出るような高い声で掛け声をかけてくると、わざと小さな声で(ゃぁ)とぼそぼそと短い掛け声をかけていました。

      相撲で塩を大きくばらまく力士に、わざと小さく一つまみパラッと塩を撒いていた出羽錦のようなものです。中学にもバンカラとハイカラ、硬軟併せて変な一徹者がいたものです。

     
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                                                (柔道大会)                     


     1月初めごろから1週間は毎朝、6時から恒例の柔道、剣道の寒稽古が始まる。 一番寒い時季だから、とにかく寒い。

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                                                           (剣道大会)


      火の気のない剣道場で猿股一枚の裸になり、汗が染みこんだ剣道着に着替えると、板の間の冷たさが素足から寒気が全身に廻ってガガガタと震えが止まらない。痛くてもなんでも、早く思い切り飛び回って稽古に励んだ方が楽なような気がしてくる。その点、柔道は板の間でなく、畳敷きだから幾分は楽だったろうが、もし首を絞められて気絶でもしたら大変だ。


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     *特別秀才の者は4年修了で陸士、海兵、旧制高校に進学したり、途中で病気などの事情があって退学したりするので、入学は250名だが卒業は230名、卒業生代表の答辞は首席の幼馴染の古賀君だった。シランの席次は23番、ちょうど一割に滑り込んで、優等の賞状とアルバムを貰った。良くもなし、悪くもなしの一割人生の始まりだが、今も当時の色あせた写真がこのアルバムに貼ってある。もちろんアルバムの紐もほころびたままである。。

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                          (母校の旧校門)         
                           (級友の溝口君のスケッチ、校門の老木だけは今も変わらない)

               (校歌)
      
                  ああ 栄城の黎明や
                  北天山の 紫に
                  あかつきの雲 色映えて
                  永遠(とわ)の光を仰ぐ時
                  男子(おのこ)の胸に 力充ち
                  希望(のぞみ)の炎 燃ゆるかな
                  

       *新制高校になった今、この母校の校歌を歌う者はもう居ないだろう。。
         
                              ・・・・・・


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             (14) 恩師のあだ名   「1月17日」
     
     イメージ 2中学時代の思い出は剣道や授業などの学業ばかりではなく、いつも接触している先生たちの思い出も深いです。昔はよく先生から叩かれましたが、その分、懐かしさもひとしおです。
     我々腕白どもはいつも先生はあだ名で呼んでいました。(敬愛をこめて・・)

     イメージ 1校長先生は「ヒトラー」・・戦前、陸士、海兵の合格率で全国一を鹿児島一中と争っていた母校・佐賀中学は勇ましい田村校長がいつも、負けるな!がんばれ!と口角泡を飛ばして生徒たちを叱咤激励していました。そこで当時、大獅子吼と称された演説で有名だった「ヒトラー」とか「ライオン」というあだ名を奉っていたのです。

     ↑ (母校の校旗)              → 校長先生・ハンサムで案外若かったんですね。
     
     先生のあだ名は様々です。本名よりもあだ名で覚えている先生ばかりです。凡才の我々も、あだ名にかけては天才でした・・(^^♪  もちろん、先輩たちから譲り受けたものも多いのですが。。
     教頭先生は「アンビシャス
      別名、「ゴキブリ」・・ ぎょろ目で、黒に近い褐色の顔色の先生でした。まさにゴキブリ。。
      「アンビー先生」は英語の時間にいつも言っていました。

     「Boys, be ambitious」  ボーイズ ビー アンビシャス !!
          (少年よ、大志を抱け)・・有名なクラーク博士の言葉です。
           そこで我々は先生のあだ名を「アンビシャス」にしたのです。

     イメージ 5明治9年(1876年)、初代教頭として「ウイリアム・スミス・クラーク博士」がアメリカから札幌農学校(現、北海道大学)にやって来て、当時の日本の学生たちを感奮させた「少年よ大志を抱け」という有名な言葉を残して8か月後には日本を去りましたが、博士はこの言葉だけでなく極めて実用的な贈り物を日本に置いて行きました。それは俗称「フランクリン・ストーブ」という鋳物製の石炭ストーブでした。

     言うまでもなく北海道の冬は途轍もなく寒いです。しかも当時北海道に移住した開拓者たちは囲炉裏やコタツなどの暖房器具しか持って居らず、ただただ寒さに震えるばかりでした。

     イメージ 6そこへクランク博士が持ってきた鉄製のストーブは、「ペンジャミン・フランクリン (1706年1月17日生まれ)が1742年に、不燃状態のガスの有効利用を図って発明した暖房効果の高いもので、北海道にはうってつけの暖房器具でした。クラーク先生のこのストーブは、やがて札幌農学校を中心に北海道全土に広がり始めたのです。

     アンビシャス教頭先生から「大志を抱け」と教えられてから早や70数年。先生のあだ名の「アンビシャス」は覚えていても、果たして大志を貫徹できたかどうか、顧みて忸怩たるものがあります。


     その他、先生のあだ名は多種多様、今は先生の本名は忘れてもあだ名は覚えているという有様。
    12師団から派遣されて昼飯ばかり食べて帰っていた配属将校の嘉村少将は「昼飯喰い」とか「ランチ大将」。殴る時の掌の大きさから「風呂敷・フロシキ」と呼んで恐れられた国語の先生もいました。
     顔の形から喜劇役者の「キートン」「マンドリン」「夏みかん」「シブガキ」青白い風貌から「ナフタリン」は陰気で、いかにも虫の好かない先生でした。。(^_-)-☆

     
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                        「Boys, be ambitious!!」

     山岳部の部長のごつい先生「山男」は色が黒いので別名「チムニー・煙突」・・ペタペタと体をゆすって歩く小柄な「あひる」先生は小柄な図画の先生でしたが、伸びあがって大きな生徒を叩いていました。・・「シシミャー」は園芸の先生なのに獅子舞のように烈火のように怒って殴り飛ばすのでとても怖い存在でした。カマキリ、ニグロ、シオブタ、スローモー、ゆたんぽ、などなど・・実にユニークなあだ名が校内に氾濫していました。

                    (懐かしの恩師たち)

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     英語の渡辺先生は、発音を教える時、燕の子のように口をすぼめて発音するので「スワロー」というあだ名でした。 20年ほど前、テレビを見ていたら突然、この「スワロー先生」
    の顔がUPで出てきてびっくりしました。 「遥かなり我が山河」という題のドキュメント番組でした。

     先生は、戦後、愛知県の飯田高校に転任されて、山岳部の部長をされていたようです。そして普段「もし俺が死んだら校庭からよく見えるあの南木曽駒ケ岳に眠りたい」と言われていたそうで、その数十年後に、嘗ての山岳部の教え子たちが先生の石碑を交代で担ぎあげて、3千mの中央アルプスの南木曽駒ケ岳の圏谷の一隅に建てたそうです。スワロー先生は今もなお、あまり訪れる人も少ない南駒ケ岳の一角で、雄大な峰々を眺めながら、静かに眠って居られることでしょう。

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                中央アルプス・浄土乗越から宝剣岳・遠く南木曽駒ケ岳を望む

               ・・・・     ・・・・・

     *多いがけず、佐賀西高の後輩の方からコメントをいただきました。
       とてもうれしいです・・ m(__)m。。

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                                            (旧校舎前の記念碑) 今もあるかしらん?

              
         佐中応援歌    「時の流れは逆巻きて」

             ♪ 時の流れは 逆巻きて
                海潮音は 高かりき
                吹き巻きすさぶ 木枯らしに
                永遠(とわ)の陽光 光なく     
                天地吹雪の 真暗闇
                 ああ 栄城は うらぶれか 

                                     ・・・・・・


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  • 01/17/18--19:03: (15)軍人先生
  •       ☆ ☆  (15) 「軍人先生」   

      旧制中学には、週に2回くらい「教練・軍事訓練」の授業があった。低学年はオイチニ、オイチニの歩行訓練とか、敬礼や行進など軍隊式の基礎訓練だが、4,5年になると、軍隊から払い下げられた重くて長い「三八式小銃」を持って実戦さながらの実弾射撃や、トーチカ攻撃などの訓練がある。教科書は軍隊で使う「歩兵操典」というポケット版の小冊子だが、これがなかなか覚えきれない。

      
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                                          (煙幕を張って敵陣地に突撃!)

     その教練の教官として師団から派遣される現役軍人の「配属将校」のほかに、直接、軍事教練を教える常勤の教官として、予備役の下級将校の先生がいた。もちろん、彼らにもあだ名がある。
     「吉田中佐」・・田吾作、配属将校、3年時に戦地に出征された。
     「吉田中佐」・・サル、次の配属将校も同名の階級も同じ中佐だった。

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     「百武少尉」・・「とっとさん。 髪に白いものが混じっていて結構お年寄りであった。しゃべる時によく「とっと」と言っていた。
      「伊東教官」・・色ぢぢい。目じりの下がったそれらしき風貌。

      「中西教官」・・トッカピン。チョビヒゲをはやして「蒋介石」そっくりの中尉殿。そのころ、トッカピンという栄養剤があったので、その名前が由来だろうか。。
     「梅井准尉」・・「梅チン」単に名前に「梅」の字がついているというだけのあだ名である。
                                                                                           (実弾射撃訓練)

     〇 「梅チン閣下」

      「梅チン」は目玉ぐりぐりで元気いっぱい、いかにも軍人らしい勇ましくて愉快な先生で、口では叱っていても目は笑っているという、生徒には梅チン先生として人気のある教官だった。 日中戦争ごろからの、勇戦奮闘の経歴があったようだが、卒業後にまた出征されたそうである。・・
     自分の当時の日記に先生に関するエピソードを書いている。

     * 2年生の教練査閲の時である。
    (*年に一度、教練の成果を師団本部から将官クラスの偉い軍人が学校に査閲にくるのである。この時は教練の教官はもちろん、校長以下の一般教員もゲートルを巻いて参列し、学校全部がピリピリと緊張した雰囲気がただよっていた。生徒にはコワイ先生たちも、軍人には全く頭が上がらないのである)
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                                                  (校旗を先頭に閲兵行進)
       
     その査閲官に生徒一同が整列して閲兵を受けている時、査閲官が同級のHの前で不意に立ち止まり、付いてきた梅チン先生を指さして、査閲官が「この教官の名前は?」と質問した。
     突然指名されて慌てたHは「ハッ! 梅井伝 閣下!であります。」 とやったのである。
     その時の梅チン准尉殿の、なんとも言えない困惑した顔つきが忘れられない。

     
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                                                    (査閲官の査閲)

      
      イメージ 3「閣下」と言う敬称は、少将以上の最高級の軍人である将官にしか使わないのだ。愛すべき我が「梅チン」先生はその時、将官、佐官どころか、将校としては最下位の少尉の下の「准尉」だったのである。准尉にとっては閣下は遥かに遠い遠い雲の上の人なのである。その閣下を目の前にして「閣下」と呼ばれた我が「梅チン先生」の困惑したくりくり目玉の顔が忘れられない。・・

                                                                        → 梅井教官

     (*そのHは元市長の子息で小学以来の同窓だが、若い頃に嫁さんと離別して以来独身を通して子供にも恵まれず、十数年前に老人施設で独り淋しく亡くなった。)
     
     
      〇 「トッカピン教官」 沈没

     「トッカピン」というあだ名のちょび髭をはやした元気坊主の教練の教官がいました。トッカピンとは滋養強壮剤らしいですが、生徒たちは意味は分からず、何となくトッカピンという語感から面白がって付けたのでしょう。ちょっと蒋介石に似ていたかな?
     
     戦前の中学には正課として教練(軍事訓練)がありました。その教育の成果を試すために、年に一度、近郊の数校の中学生が集まって、農村地帯での一泊の「連合演習」があります。紅白両軍に分かれて遭遇戦を戦うのです。

     その演習の途中に小さいクリークがありました。渡河訓練です。向こう岸について我々はみんな鉄砲を持って、船の上から飛び降りましたが、中西教官殿(トッカピンのあだ名)は何を思ったのか、船の上から持っていた竹竿をクリークの中に突き立てて、棒高跳びのように勢いよく飛び降りようとしました。ところが竹竿が泥の中にブスッと抜かってしまって取れません。さぁ大変、タイヘン。。

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                                               「小舟に乗って渡河訓練」
      
      我がトッカピン殿は、両手両足を空に上げてお尻から水の中にザブーン・・。我々は笑いをこらえ、胸中には「ばんざーい」を唱えながら、救出活動に努めたのでした。秋の朝の田んぼは霜がいっぱいで寒い。ぬれた軍服を乾かす焚き火の火がやけに赤かった。
     
      梅チン閣下や、トッカピン中尉殿。
      辛い軍事教練の中でわずかに残る、楽しい思い出の先生たちだった。
     
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                                           (連合演習・最後の白兵戦)
      
          ・・・・・                ・・・・・

     *昨日突然、かかりつけの病院の主治医が亡くなったという話を聞いた。
     そういえば何だか顔色が悪かった。。 まだ63歳、本人はもちろん残念だろうが、主治医を失った紫蘭も悲しい。。秋風索漠たる思いである。

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          (16) 歩こう!    「1月19日」

     老いの一徹で、運動のために毎日のように散歩をしていますが、最近は2千歩も歩くと疲れるようになりました。やはり体力の衰えは否めません。散歩は高齢者にとっても最適な活動ですし、お金は要らず、脚力の維持もでき、良い気分転換にもなるので、日本では散歩の人気が高まってきました。
                 
       「歩くうた」   高村光太郎 作詞

               ♪ 歩け 歩け  あーるけ 歩け
                  南へ 北へ 歩け歩け
                  東へ西へ 歩け歩け
                  路ある道も 歩け歩け
                  路なき道も あーるけ歩け

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             (誰が下げたか、散歩道のツバキの枝に札が下がっていました)

          今日も一日、一生懸命生きてみょう。
          歩けるだけで幸せなんだから。。
       

     ところで、この散歩という名前はいつのころから始まったのでしょうか。
     幕末、維新の英傑・勝海舟(明治32年1月19日没)は幕末のころ、西洋人が目的もなく、ただ歩いているのを見ました。「歩くというのには行き先があり、何か目的があって歩くものだ」と、実用主義的に考えていた勝海舟は、西洋人のこのぶらぶら歩きに興味を持ち、「一体、これはなんという事なのか?」と尋ねてみたところ、これは「プロムナード」というものである、という返事が返ってました。

     
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                                              (京都・雪の哲学の道)

     そこで海舟は、このプロムナード(仏語)に「散歩」という名をつけて、これ以来明治以降の文人や知識人の間に散歩というものが流行するようになり、京都には『哲学の道』のような名所も出来ました。銀閣寺に近いこの哲学の道は、散歩に適した小道ですが、かつて京都学派の哲学者、京大教授の西田幾多郎や田辺元らが散策していたから「哲学の小径」という名前が付いたそうです。この近くに学友の下宿があり、ブラ歩きして哲学ならぬ無駄話に興じたものです。。
     ブラ歩きと言えば、現在もテレビで「ブラタモリ」とか、「ぶらり途中下車の旅」「世界ふれあい街歩き」などのぶらぶら歩きの番組がよく見られますね。

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                         (佐賀・多布施川の散歩道)

     
     もっとも、中国の漢方医学では、内服薬を飲んだあと、その薬効成分を早く体内に循環させて吸収するために、歩くことを勧めたのが、散歩の語源らしいです。中国の三国時代に五石散が貴族や文化人の間で滋養強壮薬として流行しました。これは今で言うドラッグみたいなもので、服用すると体が熱くなる(散発)のですが、散発がないと体に毒が溜まり害になると言われ、そのために散発するように歩き回るようになり、散発のために歩くことを「散歩」というようになったそうです。

      〇 エドガー・アラン・ポー   「1月19日」

     散歩の(ポ)にちなんだわけではありませんが、 1809年の今日、1月19日にアメリカの怪奇探偵小説作家の「エドガー・アラン・ポー」がアメリカのボストンで生まれています。

     イメージ 4ポー(1809-1849)はアメリカの小説家であり、探偵小説の開祖でもあります。
     主著・『黒猫』『モルグ街の殺人事件』 『裏切る心臓』など。。
     彼の美への情熱は正確な計算と設計に基づいてあらゆる作品に発揮されており、読者を怪奇な幻想的世界へと引きずり込んでいきます。ポーに傾倒していた詩人の「ヴァレリー」は彼の作品を「数学的アヘン」だと称しています。

     イメージ 5ポーは不安が原因でしばしばうつ状態になり、アルコールと麻薬を常用していました。
     
    27歳の時13歳のバージニアと結婚しましたが、生活苦のために飼っていた黒猫を抱きしめて暖を取っていた、といいます。そして妻が死んでからは半狂乱となり、次々に女性に求愛しました。
                                                                     → ポーの妻・バージニア

     
     イメージ 61849年10月3日、ポーは突然行方不明になり、ボルチオアの場末の「グース・サージャンツ酒場」で偶然知人に発見されました。 しかし、彼は異常な泥酔状態ですっかり意識不明となっていて、病院に収容されたポーは完全に精神錯乱して、10月7日に息を引き取りました。

     ポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」だったそうです。享年40歳。

     ← ポーの「黒猫」の挿絵

     ポーの美意識は多くの小説家や詩人に大きな影を与えました。フランスの詩人ボードレールの詩集「悪の華」モーパッサンの短編小説にもその影響がみられます。日本の怪奇探偵作家「江戸川乱歩」の筆名もこのエドガー・アラン・ポーをもじったものである事は皆さんご存知の通りです。

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                                               (晩年のポーの木造住居)


              ・・・・・      ・・・・・・


               枯れゆけば おのれ光りぬ 冬木みな     加藤楸邨


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    (冬の並木道・佐賀、どんどんどんの森)


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  • 01/20/18--01:10: (17)幼馴染み
  •        (17) 「おさな馴染み」  1月20日

      今日は一月二十日、「二十日正月」とか「骨正月」とか言います。
     京阪神から九州にかけての地方では、20日に正月に料理したブリの頭や骨を煮て骨まで食べつくす風習がある。そこでこの日を「骨正月」といい、これで正月行事はすべて終了する。

          正月も二十日と成りて雑煮かな    虚子

          〇キミちゃんの事
     

     イメージ 1先生も懐かしいが、幼馴染の級友たちはなお懐かしい。
     小学校の一年生の担任は生田先生だった。一、二年生だけは男女共学である。(この時以来、シランは、中学から大学まで男女共学の経験がない。男女七歳にして席を同じゅうせず・の質実剛健の土地柄なのだ)
    生田先生は束髪に矢絣の着物、袴姿で皮靴を履いているという典型的な昔の女先生だった。
     ← 明治の先生と生徒

     クラスの中にキミちゃんという女の子がいた。キミちゃんは、頭が良くて当時の人気漫画「ベティさん」のような大きなくりくりした目のオカッパ頭の女の子だった。 

      あるとき、その優しい生田先生が生徒たちに「この組で、一番お利口さんは誰ですか?」と尋ねると、君代ちゃんが手を上げて「ハーイ、シランちゃんデース!」 
      続いて紫蘭が手を上げて「ハーイ、キミちゃんデース!」と叫んだのを覚えている。(^_^*)

     小学3年からは男子ばかりのクラスになっのたで、私の小学時代の女の子についての記憶は、この一コマだけであるが、数十年たって小学校の同窓会で偶然出会って見ると、君代ちゃんはなんと【東京女子大】を出て、立派な英語の先生になっていた。
      
      しかし、彼女は中年太りのせいか、少々おなかが突き出ていて、いかにも才気溢れる女史然とした偉大なオバサンになってしまっていた。そこには、あのつぶらな瞳の可愛い女の子の一かけらもなかった。 うわさによると夫と別れて以来、男出入りが激しく、気性の強い文筆家であるという話であった。「美しく老いる!?」と言う著書まであるという。

    イメージ 2
                                                  (昭和14年・小学校のなぎなた訓練)
     
     ある日、飲み友達が、「一杯付き合え・・」というので見知らぬ飲み屋に出かけた。そこの止り木には先客の小太りのおばさんがデーンと腰を下ろして一人で飲んでいたが、すでに少々出来上がっていたようである。ところが彼女が突然、吾輩の横に腰を下ろしたかと思うと「ウワ~ッ、シランちゃ~ん」と言ってシランの白髪頭をグシャグシャに撫で始めたのだ・・@@/

     イメージ 8急に見知らぬ変なオバサンから頭をさわられて「びっくり仰天」したシランは、思わず飲み屋を飛び出して、一目散に後も見ずに逃げ出した。あとから「ゴメンネ~、シランちゃ~ん」という声が遠くから追いかけてきた。あっ・・そうだ、あれは確かにキミちゃんだったのだ!
     
     実は、呑兵衛の友達が気を効かせたつもりで、シランとキミちゃんを呼んで、こっそりと幼馴染の出会いを画策したのだった。だが、彼女はあのクリクリ目玉の可愛いオカッパ頭とはあまりにもかけ離れた存在だったのだ。 シランが変なオバサンと勘違いするのも無理もないだろう。

       ↑ベティちゃん
    イメージ 3      
        ♪ ニキビの中に顔がある      
               毎朝鏡とにらめっこ
                セーラー服がよく似合う
                君が他人に見えたっけ

     
     その「君代ちゃん」が突然、ひとり淋しく亡くなったと、風の便りに聞いてからもう久しい。
     あの可愛かったオカッパ頭の少女は一体どこへ行ってしまったのだろう。。



     〇 ちゃんぽん君

     そのころ、小学校の登校途中に「大ばかもり」という看板がかかった大衆食堂があった。そこの息子のH君は小学校からの友達だった
     「大馬鹿盛り食堂」は、めし、ウドン、チャンポン・・何でも安くて、どんぶりに山盛りなのが大衆には評判で、とても繁盛していた。特にサラリーマンや労働者に人気があり、評判の食堂なので、店の前が無声映画の「弥次さん喜多さん」のロケに使われたこともある。

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                                                      (大ばかもり前のロケ風景)


                                                                                                      
      イメージ 6そのH君とは小学校から中学でも同窓だが、この食堂の入り口には「働かざるもの食うべからず」と大書した看板がかかっていたのを子供心に覚えている。その頃は、ほんとに働かない者は、ここでは食べてはいけないのかな?と思っただけだったが、大きく成ってこの「働かざる者食うべからず」の言葉はソ連共産主義の指導者「レーニン」の言葉だったのを知った。あれから70数年経った今考えてみると、禿げ頭に鉢巻、高下駄姿のこの食堂の主人、つまりHのお父さんは共産思想の持ち主だったのだなぁと、懐かしく思い出している。                                ↑(1年のハナハト読本)


    イメージ 5 「大ばか盛り食堂」が有名だっただけに、同窓生としてのH君は「チャンポン」と言うあだ名をつけられていて、Hの名前は忘れても同級生の間では「00チャンポン」の愛称の方がつい口に出るほどだった。彼は長じて高校の校長先生になった。しかし彼は大酒飲みで飲み屋の常連。意気盛んな口舌ぶりだったが、そのためか病を得て早世し、肝心の「大ばか盛り食堂」も時代の波に押され、いつの間にか消えてしまい、今は跡形もない。

     共に文学を論じながら、大いに酒を酌み交わしたHもはや鬼籍の人となり、しみじみと時代の変遷を感じている次第である。


                       ・・・・・         ・・・・・・

    イメージ 7



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         (18) 小学生のころ

      〇 幼稚園

     人間、幼馴染ほど懐かしいものはない。(大ばかもり)もその一人だがシランの一番の幼馴染は「ヒロちゃん」である。いくつになっても、朝から晩まで一緒に遊びまくったヒロちゃんのことは忘れることができない。
     
    イメージ 2
                                                  (昔の幼稚園風景)
     

     5歳の時、一年間幼稚園に通った。婦人会設立の新道幼稚園で市内には幼稚園はここ一ヶ所しかない。この幼稚園は城内にあって、家から大人の足で30分ほどかかる。人力車のほかバス、電車などの公共乗り物もない時代だから、幼馴染のヒロちゃんと、あちこち道草を食いながら毎日お手々つないで歩いて通った。小さい子供が道草を食いながらブラブラと歩くのだから、1時間ぐらいはかかっただろう。果たして朝の開始の時間に間に合ったのだろうか。。今でも心もとない話である。
     
    イメージ 1 (幼)と言うマークの付いた黒い制帽に紺のサージ服、その上に白いエプロンをつけて胸には桜組のマークと折りたたんだ白いハンカチをぶら下げていた。幼稚園と言っても別に勉強するわけではなく、歌を歌ったり、折り紙をしたり、お絵かきをしたりするだけだから、肩に下げた小さいラシャ製のカバンには、折り紙とクレヨンと出欠簿が入っているだけだった。当時はもちろん給食は無いから、午前中だけだったような気がする。

     その頃、先生からもらった「キンダーブック」という絵本が懐かしい。中身も動物や電車などの絵が画いてあるあるだけの簡単なものだったが、生まれて初めて読んだ本は確かにこの「キンダーブック」だったに違いない。
            
          ♪お手々つないで幼稚園
            積み木、ブランコ、紙芝居
             胸に下がったハンカチの
             君の名前が読めたっけ


     〇小学校

    イメージ 7

     小学校は50名づつの3クラス、男女合計150名で、1、2年生の時は男女共学で女の先生だったが、3年から6年までは男子、女子、男女混合の3クラスに分かれ、シランは卒業するまで男子クラスで先生も同じ吉村先生だった。先生は師範学校を出たばかりの明るく元気溌剌の先生で、3年時に3か月ほど、教育召集で軍隊に入られたことがある。

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     若い先生だけにとても教育熱心で情熱的。中学受験を控えた6年時には、毎夕受験生たちを自宅に呼んで補習授業をしていただいた。6年生の秋、九大に入院していた父が急死した。父は医学部の運動会を見に行った夜に、あっという間に心臓麻痺であっけなく亡くなったのである。ちょうど博多までの6年生の別れ遠足の日の前夜だった。深夜、入院していた九大まで母と姉弟の4人で、タクシー2台で遺体を引き取りに行った。病院の入り口に有った(赤十字)の赤い大きなネオンが不気味だった。
     
    イメージ 8
                                                    (小学校の授業風景)

    その日の夕方、玄関のくぐり戸から何気なく外を覗いていると、ちょうど同級生たちが遠足から帰るところだった。引率の吉村先生が驚いたような顔で駆け寄り「どうした!」と言った途端、シランはなぜか急に胸が迫って涙があふれた。或いは、父の死よりも遠足に行けなかったのが残念だったのかもしれない。母が遠足のために作って置いた「巻きずし」を階段に座り込んで、一人むしゃむしゃ食べたのを覚えている。
     
     戦死した二つ違いの兄は頑丈な体格だったが、シランはどちらかというと蒲柳の質で、特別の病気はないが体力にはあまり自信が無かった。頭が良くて背が高い「タダシ君」は中学では柔道をやるほどに頑丈な体つきだった。ところがどういうわけか、或る日、彼とシランの二人だけが県立病院で検診に行くことになった。


     イメージ 5今のように明るく清潔なレントゲン室とは違い、その頃は暗い木造の病室の天井や梁には、むき出しに高圧線やら白い碍子類が縦横に走っていて、ちょうど映画の透明人間やフランケンシュタインの復活などの怪奇映画のような不気味な雰囲気である。

     検診の結果がどうだったか、特別の通知もなかったが、あれは小学生の体格の強弱の資料として衛生課が調べたのではないかと、長年思っていたが、後年同窓会でタダシ君と出会った時の話では、彼は小さいころから心臓が悪かった、という話を聞いてなるほどと納得した。

     同じく背が高くて級長をしていた「タツロー君」は文武両道の強者である。駆け足が早く、市内の小学校の連合運動会ではいつも学校代表として、柿色の鉢巻をなびかせて颯爽と走っていた。
     ところがそのタツロー君は中学に入ると、急に体が小さくなり、文武共に影が薄くなって卒業前後に肺結核で亡くなった。一方のタダシ君は、医学部を出て、佐世保で小児科の先生をしていたが、これも10数年前に亡くなったと風の便りに聞いた。

    イメージ 4

      左隅に若い先生が写っている。20年ほど前の同窓会で、先生から最後の訓示として「ぼけたらあかんで」というコピーを頂いたが、今はもうボケ老人どころか同級生の生存者はみんな居なくなってしまった。

    イメージ 3

       「ぼけたらあかん」

       みなさんも、せいぜい長生きしなはって、ええ年寄りになりなはれ・・
        憎まれ口や人の陰口はあきまへんでー。 他人の事はほめなはれ。
       いつでもアホで居りなはれ。。
     
      そうか・・シランも一歩下がって、出しゃばらずに若い者には花を持たしましょう。。



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  • 01/22/18--01:04: (19)子供の遊び
  •          (19) 昔の子供の遊び

      ここ2,3日暖かかったが、今朝は冷たい雨になった。全国的に大雪の予報で、こちらも夜には雪に変わるそうだが、昔はもっと雪が多かったような気がする。幼稚園の雪投げ合戦で、相手が投げた雪の玉が着物の襟に入って、あまりの冷たさに泣き出したようなおぼろげな記憶がある。でも、子供の頃は雪が降ると犬ではないが、大喜びで雪の中を走り回ったり、雪ダルマを作って遊んだものだ。小学2年生の唱歌には「雪やこんこん」の歌があった。

        ♪雪や こんこん
          あられや こんこん
          降っても降っても まだ降りやまぬ
          犬はよろこび 庭かけまわり
          猫はコタツで 丸くなる

     今の子供の遊びと言えば、もっぱら家の中でのゲームのようだが、時には家の外でキャッチボールやサッカーをやって遊ぶこともあるのだろうか。車社会になって昔のように路地で遊ぶわけにもいかず、塾の問題もあり、今の子供は遊びには恵まれていないので可哀そうな気もする。

     昔は家よりもよく外で遊んだものだ。学校から帰ると、そのままランドセルを放り投げて近くのヒロちゃんのお寺に出かけて、日が暮れるまで遊びまくったものだ。宿題があれば別だが、小学校時代に家で勉強なんかした覚えがない。親も勉強しろとか言われたことがない。それだけ親は喰わんがための「仕事」が忙しかったのだろう。

    イメージ 5

     ヒロちゃんのお寺は鍋島藩の老女が創建した400年も経つ古刹で、本堂も大きな堂宇であった。そしてお寺の境内も広く近所の腕白どもの格好の遊び場になって居た。周りは「カラタチ」の生け垣で囲まれていて、子供たちは所々にある犬猫の通り道の抜け穴から境内に入り込んで、朝から日が暮れるまで遊んだものだ。抜け穴のカラタチの鋭いトゲが刺さって洋服が破れ母に叱られた思い出も懐かしい。

                イメージ 1からたちの 花が咲いたよ
                  白い白い 花が咲いたよ
                  からたちの とげは痛いよ
                  青い青い 針のとげだよ
                      からたちは 畑(はた)の垣根よ
                      いつもいつも とおる道だよ 
          
                                                   (北原白秋)


     夏の夜はガキ大将の命令で、真っ暗闇の中を心細い思いをしながら墓地の奥の竹藪の笹竹を取りに行った。採ってきた笹はいわば肝試しを実行した証拠品である。まだその頃は土葬も残って居て、梅雨時には墓地に火の玉が出たとか、藪の中のクスノキで首つり自殺があったなどの噂話があったのである。ほんとに肝っ玉が縮む思いであった。

     昔の子供の頃の遊びは実に多彩だった。それも金のかからない遊びである。
      寒い時は、かくれんぼうや陣取り合戦、馬乗り、押しくら饅頭などで寒さをしのいでいたが、普段はペチャ(メンコ)、ラムネン玉(ビー玉)、へぼ獲り(トンボ獲り)、独楽、紙鉄砲(ツバでぐちゃぐちゃにした新聞紙を積めて飛ばす)、ゴム銃(小さい股木にゴムをつけて石を飛ばして小鳥などを打つ)など様々だが、大きくなるにつれて遊びもそれぞれ変化し、また廃れていった。

     一年の遊び始めは正月の遊びである。。
     羽子板突きやかるた取り、すごろく、初笑いなどだった。

     〇「正月の遊び」

        ♪ もういくつ寝るとお正月
           お正月には凧あげて
           追羽根ついてあそびましょう・・ 
     

     昔の子供の正月の楽しみといえば、いろいろな正月の遊びだった。
      凧揚げ、コマ回し、歌留多、双六、羽子突き、ネンボウ、竹馬など様々だ。
      一番正月らしい遊びでは、羽根突きだろう。羽子突きは主に女の子の遊びだが、時には家族も加わってみんなで楽しく遊ぶ。負けた方は罰として墨で顔に×の字を書かれたりして。。
        
      〇 「羽根突き」

     羽子突きはねつきは「むくろつき」とも言う。「むくろじ」という木の種に小さく穴を開けて鳥の羽根を差し、取っ手のついた羽子板で向き合って交互にこの羽根を突きあげて遊ぶ。カーン、カーンという固い音やゆっくりと舞い落ちる羽根の風情はのどかな正月風景にぴったりである。


    イメージ 2
                                              (昔の正月羽根突き風景・昭和11年)
           

     イメージ 3ところでこの羽根は、蜻蛉(トンボ)を表したものだ、と言う話がある。トンボは病気を伝染する蚊を食べるので、正月にトンボを飛ばして「今年も子供が病気に罹らないように」と言う意味なのだそうである。

      佐賀地方では藩政時代から歌われていた「羽子突き歌」が残っている。もちろん今は聞いたことがないが、最近は羽根突きそのものが全く見られないのだから当然と言えば当然である。


     「ヒィ、ライ、ライ、ごんぼうライ、ライ,三日月さんについたらば、ココで十ォ(とお)」
      「ヒィ、ふくれた、オンみいさん、夜も昼も,頭巾(ずきん)かぶって、おむすびァ十ォ(とお)」
      「日見ィ(ひいみ)矢上ィ(やがみ)諫早(いさはや)松原、コウコで十ォ(とお)」 


     イメージ 4何のことやらさっぱりだが、日見や矢上、諫早、松原はお隣の長崎県にあり、藩政時代は同じ肥前の国だったので、羽子突き歌にもいろいろと土地の名を取り入れていたのだろう。

      もともと羽子板は「胡鬼板・コキイタ」、羽根は「胡鬼コキの子」といい、その頃の羽子板は単純な白い木の板だったが、元禄の頃から役者などの似顔絵を飾り付けた押し絵を付けるようになったという。

     
           追羽根や よけて通るに つき落とす   原田種茅

          ・・・・・

               
      

    0 0
  • 01/23/18--01:36: (20)かるた遊び
  •        ⚀  (20) カルタ遊び

     室内の正月遊びには、双六やカルタ、福笑いなどいろいろあるが、やっぱりカルタ取りが一番でしょう。でも、今はあまり流行らないようで、カルタをするところはあるかしらん?シランの子供の頃は「いろはかるた」でよく遊んだものですが。。

    イメージ 1

      〇 「小倉百人一首」

     カルタと言う言葉はもともとポルトガル語で、トランプの意味があるそうですが、日本では古く平安時代の貴族の遊び「貝合わせ」がそのルーツだそうです。。
     
     イメージ 2大人のカルタ遊びとしては「小倉百人一首」が有名です。うちでも、子供が小さい頃は一家集まって夜が更けるのも忘れてよくやったものです。

      おかげで高校の入学直後の学力試験に百人一首の問題が出て、たいへんプラスになったと子供たちが喜んでいました。遊びが学問の足しになるのだから、歌留多遊びも大したものです。 (^_-)-☆

    イメージ 3 「小倉百人一首」は「古今集」や「新古今集」などの和歌を百首集めたもので、和歌を書いた「読み札」を詠み手が朗読し、歌の下の句だけを書いた「取り札」をみんなで取り合うものだが、テレビなどで見ると早い者は上の句を詠み始めると同時にさっと取ってしまうので、その素早さにはほんとに感心してしまう。頭の回転ばかりでなく、運動神経もよほど発達しているのでしょう。

     イメージ 4
    百人一首は普通は「源平」と言って二手に分かれてかるた札を取り合います。明治・大正時代までは大っぴらに若い男女の交際が許される機会としてなかなか盛んでしたが、最近は競技会以外は殆ど流行らないようです。


            かるた札 美しからぬ 小町なり  下村梅子

      
          〇  「いろはかるた」

     昔からよく使われている「いろはかるた」は、空海の作と伝えられている「いろは歌」の四十八字の頭文字から採ったものですが、今の若い人は「いろはかるた」と言ってもとても知らないでしょう。

      カルタの文句もなかなか難しく、時代の変遷もあり、今の世の中では意味の分からないものも多いですが、よく考えるとなかなか意味深長な人生訓になっているのが分ります。子供たちがカルタを取って遊ぶうちに、知らず知らずに、文字や人生訓を学んだのかもしれませんね。
     
              「いろは歌」

      色は匂へど散りぬるを  我が世たれぞ常ならむ
           有為の奥山けふ越えて  浅き夢見し 酔いもせず ん〈京)

                 (昔のいろは歌留多)

          イメージ 5(い)犬も歩けば棒に当たる        
            (ろ)論より証拠
           (は)花より団子
           (に)憎まれっ子 世にはばかる
           (ほ)骨折り損のくたびれ儲け
           (へ)屁をひって尻つぼみ
           (と)年寄りの冷や水
           (ち)ちりもつもれば山となる
        (り)律義者の子沢山
         (ぬ)ぬすびとの昼寝
         (る)瑠璃も玻璃も磨けば光る
           (を)老いては子に従へ

           イメージ 6(わ)割れ鍋にとじ蓋
           (か)かったいのかさ恨み
             (よ)葦のずいから天をのぞく
             (た)旅は道ずれ世は情け
            (れ)良薬(れうやく)は口に苦し           
             (そ)惣領の甚六
         (つ)月夜に釜を抜かれる
           (ね)念には念を入れよ  (寝耳に水) 
            (な)泣きつらに蜂
            (ら)楽あれば苦あり
            (む)無理が通れば道理が引っ込む

           
            (う)嘘から出た真(まこと)(馬の耳に念仏)       
            (ゐ)芋の煮えたもご存じない
       イメージ 7 (の)のど元過ぎれば熱さ忘れる
        (お)鬼に金棒
           (く)臭いものには蓋をする(果報は寝て待て)
            (や)安物買いのゼニ失い (闇夜に鉄砲)
            (ま)負けるが勝ち  (待てば海路の日和あり)
            (け)芸は身を助く
           (ふ)武士は喰わねど高楊枝
            (こ)子は三界の首っかせ
            (え)得手(えて)に帆を上げ
           (て)亭主の好きな赤烏帽
                           
         
        (あ)頭隠して尻かくさず         
            (さ)三遍回って煙草にしょう
           (き)聞いて極楽見て地獄
          イメージ 8(ゆ)油断大敵
           (め)目の上のたんこぶ
          (み)身から出た錆(さび)
            (し)知らぬが仏
            (ゑ)縁は異なもの
            (ひ)貧乏暇なし (瓢箪から駒)
           (も)門前の小僧習わぬ経を読む 
            (せ)急いてはことを仕損じる
            (す)粋は身を食う  
           (京)今日の夢大阪の夢

      

      我々、昔人間は (い)といえば、(犬も歩けば・・)とか、すぐに口を突いて出てきますが、今の子供の国語力では難し過ぎるかもしれません。とにかく、遊びというよりも教訓的なことわざの文句が多いですね。「老いては子に従え」とか「子は三界の首枷・くびかせ」「年寄りの冷や水」などは、年寄りにも耳の痛い教訓です。

     昔の子供たちは遊んでいるうちに知らず知らずに、文字や社会的な常識・世渡りの教訓を学んだのかも知れません。人生訓としての諺を自然に覚える「いろは歌留多」や伝統のある優雅な「百人一首」などは、殺伐とした現代社会でこそ、もっと盛んになってほしいものですね。

       ・・・・・・               ・・・・・・


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  • 01/23/18--19:37: (21)まり突き
  •       (21) 「毬(まり)突き」

     昔の女の子の遊びでは、なんといっても(まり突き)だろう、女の子がよく街角で「数え歌」を歌いながら手まりをついて遊んでいた。男の子が野球やサッカーなどのボール遊びが好きなのと一脈相通ずるものがあるのだろうか。川岸に行くとすぐ石ころを拾って川に投げたくなるのは、人間の本能的なものだろう。

     イメージ 1 「まりと殿様」   西条八十 作詞

               てんてんてんまり てん手まり
               てんてん手まりの 手がそれて
               どこからどこまで とんでった
               垣根をこえて 屋根こえて
               表の通りへとんでった 
                 とんでった 


     
     
      イメージ 2まり突きは古くから行われ、特に江戸時代中期以降からはよく流行ったそうである。それは各地で綿が栽培されて、木綿の着物が普及するようになり、織り糸の切れ端を利用した手まり作りがはやったためである。

      然し、この頃の手毬は木綿を芯に糸を巻き付けた手まりなので、よく弾ませるにはよほどの力が必要で、幼い子はしゃがんで4,50センチ位の高さで突いていたそうである。


      〇てまり歌  「しょうがつ かどまつ」

         イメージ 5  しょうがつ かどまつ  にがつは はつうま
           さんがつは ひなさま
           しがつは しゃかさま ごがつは おせっく
           ろくがつは てんのうまさ
           しちがつ たなばた はちがつ はっさく
           くがつは きくづき じゅうがつ えびすこう

           ゆうべ えびすこうに よばれていったらば
           たいの はまやき すずきの すいもの
           かねのおはしで ざくざく すいましょ
           いっぱいと すいましょ
           にはいと すいましょ
           さんばいと すいましょ    ・・・・・


      しかし、明治以降はゴム製の手毬が出回ってよくはずむようになり、まり突き歌を歌いながら立ったまま毬を突き、時には高く弾ませたりして遊んでいた。 その手まり唄にも、いろいろあるが、郷土の佐賀地方ではこんな歌があった。
      
     イメージ 6 「からたち、から梅、カラスが一羽 とーまった。
        このお手まりゃ、だーれにあーげましょ
       花のキヌ子さんにあーげましょ  
         よう、受けとんさいの。。」

     と言って名前を呼ばれたキヌ子さんに渡す。キヌ子さんは「ヨゥ受け取りました」と歌いながらその毬を突き続けて次の女の子に渡し、次々に何人も代わる代わる毬を突いて遊ぶのである。

     
         佐賀のまり突き歌にはこんなのもあった。

        「葡萄や葡萄梅の花、夜はつぼみて朝ばさと、
        一匁が葡萄なら、二匁はぇ~、二匁が葡萄なら三匁はェ~」・・
           と十匁(もんめ)まで上げて毬を突きまわすのである。

     これらは佐賀の古い単純な手毬唄だが、全国的に一番よく歌われたのは「あんたがたどこさ」だろう。
     
        イメージ 3      あんたがたどこさ  肥後さ  
             肥後どこさ 熊本さ
            熊本どこさ せんばさ
            せんば山には 狸がおってさ
            それを猟師が 鉄砲で打ってさ
              煮てさ 食ってさ
              それを木の葉で チョイトかぶせ・・


     (西郷隆盛)にちなんだ「手まり歌」も有名である。
     これも一種の数え歌になっている。
     
       「まり突きの数え歌」

      イメージ 4  ♪ 一かけ ニかけ 三かけて 
          四かけ 五かけて 橋をかけ
          橋の欄干に 腰をかけ
          遥か向うを 眺むれば 
           十七八の ねーさんが
          花と線香 手に持って
     
          ねぇさん ねぇさん どこ行くの
          私は九州 鹿児島の
          西郷隆盛の 娘です
          明治十年 三月に
          切腹された 父上の
          お墓参りに 参ります

     
               お墓の前で 手を合わせ
               南無阿弥陀仏と 唱うれば
               お墓の前の たましいが
               ふわーり ふわーりと 
               ジャンケンポン・・
                ジャンケンポン・・

      
     それに、こんな数え歌も,全国的によく歌われたようである。
     
                一番 初めは 宇都宮
                 二番 日光東照宮
                 三に 佐倉の宗五郎
                 四つ 信濃の善光寺
                五つ 出雲の大社さん
                 六つ 村々鎮守さま
                七つ 成田の不動さま
                 八つ 八坂の五重の塔(*大和の八幡さま)
                 九つ 高野の弘法さま
                 十に 東京の二重橋 (*招魂社)


                        ‥‥‥        /////


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            (22)  「昔の女の子の遊び」

     戦前の「女の子の遊び」は前にも記したように、羽子板やカルタ、毬突きなどのほか、かくれんぼ、お手玉、ゴムとびなどと多彩だった。大正末の卒業生は、「小学校の頃は、勉強よりも友達と遊ぶのが楽しみで学校に行っていたようなものでした」と述懐されている。

      昔は女の子の遊びも、男の子同様たいていは外での遊びだった。というか、小さいころは男女の差別なくみんなで一緒に遊んだものだ。簡単なのは「石蹴り」「缶蹴り」から「下駄飛ばし」「影踏み」「通りゃんせ」などさまざまである。

       ↓ 下駄飛ばしと通りゃんせ

           イメージ 1通りゃんせ 通りゃんせ
             ここはどこの 細道じゃ
             天神さまの 細道じゃ
             ちっと通して 下しゃんせ

     女の子独自の遊びは「おはじき」「糸取り」「ままごと」「縄跳び」「まり突き」「お手玉」「ゴム飛び」など、男の子の遊びに劣らず様々にあった。

       〇 「ままごと」

     幼い女の子が一番初めに遊ぶのは「ままごと」だろうか。。 
     イメージ 2「ままごと」は『飯ごと』と書く。ママはご飯の事であり、言わば家庭の炊事や食事の用意の事を指す女の子の遊びである。

     家の表や草原などに「ござ」や莚を敷き、小さい座敷や台所などを作って、いろいろな草の実や葉っぱを集めてきて、それを包丁で切り、小さな茶碗やお皿などの器具に盛ってお客さんのお膳を運んで遊ぶのである。幼子にとっては一番身近な母の存在が、初めての遊びの対象にになるのだろう。


     イメージ 3
      タデ科の一年草の「イヌタデ」の紅い実が赤飯に似ているので、よくままごと遊びに使われた。
     イヌタデのことを一名「赤のまんま」と言うのもそこから来たのだろうか。

        手にしたる赤のまんまを手向け草     富安風生
     


       〇「おはじき」

     イメージ 4「おはじき」は中国から伝わった女の子の遊びで、奈良時代に日本に伝わったと言われている。昔は「ねこ貝」と言われる小さな貝ガラを使っていたようだが、明治の後期になると、平ぺったい色ガラスを使うようになった。

     その色ガラスの玉を夫々数を合わせて出し合い、その全部を掌に乗せ、上に跳ね上げて手の甲で受け止めて、一つだけガラス玉を残して他のを振り落とし、残したひとつの玉を落ちた玉のそばにうまく振り落とす。

     イメージ 5さらに、その玉と玉の間に小指を入れて一つ一つを親指ではじいて取るのである。もし、はじく時に玉に当たり損ねるか、他の玉に当たれば次の人に回すのである。

     次の人は残りの玉を前の人のやったように手のひらから手の甲に乗せて、落ちた玉をいちいちははじいて取るのである。もし当たらぬ時は次々に回して遊ぶのである。

      似たような遊びに竹ヘラを使った遊びもあった。手の甲で受け止めて地面に静かに落として並べるような遊びだったが、まだ小さくて竹ヘラを作れないシランは、落ちているセンダンの小枝を使って遊んでいた記憶がある。

      〇 「あやとり」

      イメージ 6「あやとり」「糸とり」ともいう。
      一人が輪になった糸を手首にかけ、他の一人が指を入たり、指を引っかけたりして、うまく自分の手に受け取り、それをまた初めの者が受け取って次々に色々な形を作って遊ぶのである。

     子供の頃は男の子もやっていた。向かい合って二人でしたり、一人で遊ぶこともある。ハサミやホウキ、ハシゴ、家などいろんな遊びが出来るので楽しい。

      〇「綱飛び」「縄飛び」とも言う。

      綱や荒縄を使った簡単な遊びだが、みんなが集まってワイワイとなかなか楽しい遊びである。
      数名が集まってその中の二人が、たるんだ綱の両端を握って廻すと、一人が廻っている綱の中に飛び込んで、綱の廻って地面に着く合間を縫ってピョンピョンと飛んで遊ぶ。飛んでいるものが足が綱にかかって完全に飛べなかった場合は、次の人が代わって飛び込んで遊ぶ。中には二人で飛び込んでジャンケンをしたり、いろいろな遊び方があったようだ。昔、佐賀地方にはこの綱飛びの時に歌う歌があった。錦の御旗と言うからには、明治維新のころのわらべ歌なのであろうか。。

                 ♪波はドンドと打ち寄せて、
                     ここは海辺の山の上
                      青空高くそびえ立ち、
                      錦の旗が立っている

     
     〇「ゴム飛び」 

        綱飛びによく似たものにゴム飛びがある。

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      「ゴム飛び」は三人以上の遊びで綱ではなく、輪ゴムを次々につないだゴムひもを使う。二人が向き合ってゴムひもを張り、他の者はこれを飛び越すのである。

      イメージ 8初めは足の甲の高さに張り、次は膝、次いで腰、さらに脇の下、肩、口、目、頭と順次高く上げてゴム紐を張り、最後には手を高く伸ばして、ちょうど万歳をを叫ぶときのような形に紐を張り、これを飛び越すのである。

      こっそり見ていると、逆立ちして足を引っかける者も居たようであるが、男の子はそしらぬ顔で眺めるだけなので、ゴム飛びの詳しいやり方は知らない。
    最後は逆立ちまでするようだが、女の子も元気なものだ。。
                               
                               
    イメージ 9


            ・・・・・・          //////

      *日本列島最強寒波襲来、南国の佐賀でさえ最低ー2度、日中でも3度までしかあがらないのだから、北国の寒さ、さぞかしと想いやられる。重ね着をして蟄居閉門の一日。。

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                                         (ヨーロッパアルプス・最高峰モンブラン遠望)


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  • 01/25/18--19:00: (23)紙芝居など
  •     (23) 紙芝居など

        〇「お手玉」

     「お手玉」もよく見かける女の子の遊びだった。今でも家内は三つ位は片手で器用にやっている。「三つ子の魂百まで」・・というが自転車乗りと同じく、小さいころに覚えた技量は80過ぎてもなかなか忘れないものだ。

      イメージ 1お手玉の数は一つ二つから始めるが、佐賀では昔は七個くらいを使うのが普通だったそうだ。中には驚くなかれ、十以上十五個も使う子もいたそうである。お手玉の使い方を言葉で書くのはとてもできないし、その時歌う歌がまた面倒なので、一々書くわけにはいかないが、 


    イメージ 2 お一(ひ)ざくら、お二(ふ)ざくら、お三(み)ざくら・・・   と始まって、最後には
     お馬の乗り換え、お駕籠のかわり、お詰め、お詰め、
     お詰めのお返し、一かんしょ ウウチョンキー

     これで一巻の終わりだが、佐賀地方の方言なのか、どういう意味なのかはとんと分からない。。
      
        〇足じゃんけん

     「足じゃんけん」は、あまり見かけないが、手の指の代わりに足の形でグー、チョキ、パーを表現して勝ち負けを決めるじゃんけん遊びである。足の形は、グーは両足をつけて閉じた形、チョキは片足だけで立つ、または足を前後に開く、パーは両足を左右に開く。「じゃんけんぽん」といいながら2回片足跳びして、3回めに足じゃんけんの勝ち負けの形をするそうである。

     戦時中の大阪の学生時代に、下宿の2階の窓から何げなく路地を見下ろしていると、近所の女の子が「足ジャンケン」をやっていたのを思い出す。今ごろもこんな遊びはやっているだろうか。。

        〇 「足ジャンケン・ベティ・ミキ・クロさん」

     女の子が二人向き合って、両足を横に開いたり閉じたり、前後に広げたりして遊ぶのである。
    これはじゃんけんというよりも、一種のわらべ歌だったかもしれない。 

    イメージ 3「ベテ、ミキ、クロさん」「クロ、ミキ、ベテさん」「ベテ、ベテ、ミキさん」と言う風にいろいろ組み替えた掛け声が聞こえてくる。

     イメージ 4夕闇迫る大都会の片隅で、いつまでも「ビキ、ベテ、クロさん」と言う可愛い掛け声が風に乗ってかすかに聞こえてくると、思春期の若者の胸には遠く離れた故郷の夕ぐれを想って、そぞろ哀感が迫ってきたものだ。
       
      ↑ベティちゃん                         → ミッキー

      この足ジャンケンは、そのころの女の子の遊びのひとつで「ミッキー・ベティ・クーロ」と言うのだそうだ。ミッキーはチョキ(はさみ)、クロはグー(石)、ベティがパー(紙)である。 足を前後にするとミッキー(つまり、はさみ)、横に広げるとベッテ(ぱー)、足を閉じるとクーロ(グー)だったそうである。

      イメージ 5相手のかけ声につられて、ほかの足の形をするとその子の負けになる。
      戦前のアメリカ漫画のキャラクターだったミッキーマウスベッティは分かるが、クロは何なのか良くわからない、一説では当時の日本の人気漫画の「のらくろ」から採ったものだと言うが、どうだろうか・・

     ← のらくろ上等兵。。 これは伍長かな? 
     


       〇 「紙芝居」 

     イメージ 6遊びではないが、戦前、戦後、紙芝居屋さんが町々を自転車で廻ってくると、途端に遊びに熱中していた子供たちも遊ぶのを止めて飛んで行ったものだ。

     そのころ、縁日などの見世物に「覗きメガネ」と言う露店があって、組立て式の小さい舞台の前にあるメガネを覗くと「金色夜叉」などの芝居の絵が見えて、おじさんが鞭を叩きながら芝居の筋を調子よく語る、というものだった。紙芝居はそんな覗きめがねを子供用に小型にした様なものだろうか。

     ←旧満州の「のぞきからくり」


     紙芝居は台本に沿って描かれた十数枚の絵を揃えて重ね合わせ、オジサンが、1枚目から順に観客に見せながら、筋書きとセリフを語っていく。見せ終わった絵は、横に引き抜いて裏に回し、物語を展開させていくのである。

     子供は宿題をしていても、遊びに熱中していても、紙芝居屋さんの拍子木が聞こえてくると、もうじっとして居られない。 シランも母からもらった十銭玉を握り締めて、近くの決まった町角まで飛んでいくのだった、胸躍らせて・・

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                                             (浅草の紙芝居屋さん、黄金バット)


     今でも母が買ってくれた「ポン太郎あめや」という紙芝居の古いレコードのことを思い出す。当時は大陸雄飛が日本の国是だったので、国民の満州への関心が深かった。
     そのころ馬賊の歌↓という歌が流行ったが、紙芝居にまでそんな影響が出て居たのである。

             イメージ 9♪俺も行くから君も行け
                狭い日本にゃ住みあいた
                波たつ彼方にゃシナがある
                シナにゃ四憶の民が待つ

               俺に父なく母もなし
               別れを惜しむ友もなし
               ただいたわしの恋人や
               夢に姿をたどるのみ・・
       ↑ ♪戦友の古いレコード

     この馬賊の歌は、紫蘭が生まれた大正末期の歌、そのころは中国の人口もまだ四憶だったんですね。 13憶の今の中国が考えられません。一世紀の時の重みを痛感します。


    イメージ 8

     
      * 紙芝居 「ポン太郎あめ屋」
     
     【さぁさぁ、坊ちゃんに嬢ちゃん、ポン太郎あめ屋でござーい」

     ポン太郎飴はそんじょそこらの飴とは飴が違う、第一お口に入れるとトローリトロリ甘くなっておいしいのなんのって、大一番!・・それに頭が良くなって、学校の成績はいつも一番!うそじゃない!
     さぁ、買ったりー買ったり~・・

     今日は天下の豪傑「デコ山ポン太郎」でござーい。
    満州漫遊の旅に上った「デコ山ポン太郎」は、鴨緑江という大きな河を渡り、鼻歌を歌いながら悠々と北へ北へと進んでいく・・
     ♪国を出たときゃ玉の肌、今じゃ槍傷刀傷・・ 
      
     今しも、恐ろしき大馬賊「馬占山長右ェ門」が棲むという興安峠(*満州の興安嶺)へさしかかったところへ、突如、目の前に雲つくばかりの大男が現れたり~
    「やい、サンピン待て~、ここは馬占山長右ェ門様のいらっしゃる興安峠だ。有り金残らず置いて行きゃーよし。いやだなんぞと抜かしたら、腰のダンビラ伊達じゃねえ~」・・
     いや、こやつの後ろには、居るわ居るわ、馬賊どもがうじゃうじゃ居る。

     このときポン太郎は少しも騒がず、カンラカンラと大笑い・・
    「いやー、これは木っ葉うじ虫ども、馬賊とは貴様たちのことか、耳をかっぽじいてよーく聞け、我こそは大日本の豪傑、デコ山ポン太郎なり~。一人二人は面倒だ、束になってかかって来い~!」
       チャーン、ちゃーん、ちゃんちゃんちゃん、
         ちゃんちゃんちゃんちゃん、ちゃんちゃんちゃーん・・・
     
     さてこの収まりはいかが相成りますか、この続きはまた明日のおたのしみ・・ 
     坊ちゃん嬢ちゃん、さようなら~、爺いもおうちへ帰りますぅ~~】
       ポンポコポンノポン。。
                 ・・・・・


    *今朝も寒いなぁ。。 風が冷たい、心が寒い。。
      今年はこのまま記録的な厳寒の冬で終わるのだろうか。。
      寒いといつもこんな歌を思い出す。 ♪ 酷寒零下三十度~~・・
      満州事変のころだから、昭和6年ごろの歌だろうか。。
      まだ小学校に入ったばかりだった。。

        ♪ 「満州行進曲」

            酷寒零下三十度
            銃(つつ)も(剣つるぎ)も砲身も
            馬のひづめも凍るとき
            すわや近づく敵の影 
            防寒服が重いぞと
            互いに顔を見合わせる

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             (24) 「独楽とハタ揚げ」

      羽子突きも歌留多取りも 家庭的などちらかと言うと女の子の遊びだが、男の子の正月遊びは凧揚げやコマ回しだった。

       〇 「独楽回し」 

     イメージ 1佐賀地方では独楽回しにもいろいろ種類があった。独楽蹴り、キセ独楽、懸け独楽などである。

     イメージ 3「コマ蹴り」は始め「棒においてチョイのコマ」と呼んで、子供たちが一斉に独楽を回し始める。コマの綱で自分の独楽の回転が衰えぬように打ち回しながら相手の駒に近づけて行って相手の独楽に当てて、その回転を消せば勝ちになる。

                                                        (平ごま)

     イメージ 2「きせ独楽」はほかの者が回している独楽に自分の独楽を上から投げ当てて相手の独楽の回転が止まれば勝ちである。
     この独楽は平たい独楽ではなく、坊主頭のようにつるんと丸い独楽なので「坊主独楽」と言うが、長崎の佐世保地方が多いので一名「佐世保コマ」ともいう。。
      ← 坊主独楽(佐世保独楽)

      このきせ独楽は相手の独楽を打ち割ることもあるので、一名「喧嘩ゴマ」と言われるほど、コマ回しの中では一番男らしい勇壮な遊びであったが、頭が丸いだけに、当てても独楽のケンが滑るのでなかなか打ち割ることが出来ないのである。
         

    イメージ 4 「懸け独楽」は回っている独楽に綱を引っかけて、上にはね上げたり、自分の股の間をくぐらせたりして遊ぶもので、お互いに勝負をする独楽遊びではない。
    寄席でh亜大金ア独楽を自在に操る「コマ廻し」という芸がある。

     金属で作った小さい「地球独楽」は、ジャイロスコープの原理を利用してあって、手のひらの上でも、紐に渡してもなかなか倒れず、面白い独楽だった。 →


        〇「凧揚げ」

    イメージ 5 「男の子の遊び」には原始的なものが多く、ペチャ、ラムン玉、瓦あて、石けり、ネンボウなどであるが、中でもトウバタ(たこ)揚げが一番楽しかった。こどもの頃、唐バタ揚げの上手い年上のガキ大将が居て、彼にタコ糸にチャン(ガラスの粉)を掛けてもらい、お寺の境内で日の暮れるまで凧揚げ合戦に興じたものだ。このガラス粉のついた糸で相手のタコ糸を切るのである。

      イメージ 6「凧あげ」は佐賀では「とうばた揚げ」と言う。中国の幡(はた)、つまり唐幡という意味であろう。一般に凧は縦長の長方形だが、こちらで子供の頃作って居た凧は菱型である。つまりとっぺんと尻の方が尖っている凧である。
      
      子供の頃は近くのお寺の墓場の裏の竹藪から青竹を切ってきて、凧作りに励んだものだ。肥後守で竹をしごいて細い(竹ヘゴ)を二本作り、十字に組み合わせて糸で括り、その上に菱形に障子紙をご飯粒で張り付ける。幼いころの凧は小さくて、尻に長い紙の尻尾を三本付ける。あまり高くは飛ばないが、長い尻尾のおかげでバランスが取れて、子供でもよく揚がる。



     イメージ 7少し大きくなると、凧自身も大きくなり、尻尾はつけずに、両側に紙の房をつけるだけである。これは右左のバランスをとるためで、うまくいくとどこまでも高く揚がる。勿論バランスを取るのが難しく、うまく糸を繰らないと、クルクル舞いになって落ちてしまう。

     小さいころの凧揚げは単に高く上げるだけだが、少し大きくなると勝ち負けを決める凧合戦を良くやったものだ。お互いに大空高く凧を上げて、相手の凧の糸を切って勝負をつけるのである。

     この時、凧の糸にはガラスの粉をご飯つぶにまぶした「チャン」と言うものを十数mほど塗り付けて置くが、その下の方は麻の糸を使う。そして相手の凧を目掛けてうまく糸を操って近づき、ガラス粉のついた自分のタコ糸を先方の糸に引っかけて切るのである。勿論、自分の糸を切られることもあるので、油断なく糸を手繰ったり伸ばしたりしてり、先方の糸を切るように努力するのである。

    イメージ 10
    (浜松の凧あげ)

     この凧合戦はよくやくざの賭け事にも使われた。友人の思い出話では、遊廓のあった市の南方の田んぼにはよくこの凧合戦で切られた凧が落ちてくるので、子供たちは争って落ちてくる凧を拾いに行ったそうである。ところが遊廓界隈に巣食うやくざどもは、この凧を持ち帰るために馬に乗って見回りをしていたので、なかなか拾えなかったという。

      〇「長崎のハタ合戦」

     凧の事を佐賀地方では「唐バタ」というが、昔から凧あげは唐人の多い長崎地方で盛んだった。
     長崎の年中行事は、開港以来400年の歴史があるので、派手でにぎやかである。
     三月のハタ揚げ、五月のペーロン競漕、七月の精霊流し、九月の諏訪神社のお祭りなど、いずれも唐、蘭(中国とオランダ)の異国情緒を交えて長崎化し、今なおその伝統が長く引き継がれている。

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                         (昔の長崎のハタ揚げ風景)

     そんな行事の中でペーロン競漕や凧あげの競争には喧嘩、口論がつきものだった。昔の長崎奉行のお触れ書を見てみるとその間の事情がよくわかる。例えば文化13年(1816年)11月20日付けで「ハタ揚げ」について次のようなお触れが出て居る。

     ・・市中,郷中(村うち)の子供或いは若輩者ども、早春より暮春のころまで凧を揚げ、糸を絡み互いに引きあい、切り取るを相争い、落ち候えば、双方より多人数集まりて奪い合うを楽しみ候儀、前々よりこれ有り候。右凧の落ち場所によりては家居、屋根などを損じ、または田畑を踏み荒らし、無益の事にて、果てには喧嘩闘争になり候は、甚だ以て怪しからぬ事に候。

     度々制し方申し置き候ゆえ、当時は右の如きはこれ有るまじく候えどもも、なおまた重ねて相制し、今後若輩の者は申すに及ばず、いささかの凧揚げも決して遊ばせざる様、市中取り締まり係乙名(長老)、及びその他の役々の者も見当たり次第あい咎め、その品取り上ぐるよう申し渡し置き候間、もしなおざりに致し置き候えば、その親々どもへも、きっと沙汰及ぶべく候・・

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     当時の長崎犯科帳を見てみると、ハタ揚げのトラブルの判決が載っている。

      〇ハタ揚げの畑荒らし  寛政11年(1799年)

     3月3日、長崎の町はハタ揚げで賑わっていた。銅座跡の富三郎は小島郷(村)に見物に出かけた。そしてハタの切りあいに見とれ夢中になっているうちに,つい畑に足を踏み入れ百姓に怒鳴られて初めて気が付いた。しかし百姓のあまりの口汚い怒号に富三郎もかっとなり、売り言葉に買い言葉で激しい口論となり、やがて殴り合いを始め、仲裁に入った者にまで手傷を負わせた。

     その結果、富三郎は手鎖をはめられ町預けになった。仲裁人の手傷もさしたることもなく、畑主の長左衛門からも吟味払い下げの願いが出された。しかし郷中のハタアケについては、特に作物を荒らさぬよう度々お触れを出して注意しているのに、なおその禁を破ったのは無視出来ないとして、次のような判決が出た。

       「判決」
             富三郎・・屹度叱り

     〇叱りとは、江戸時代に軽犯罪に課される刑罰で、刑罰の中では最も軽い刑罰である。犯人は奉行や代官に直接呼び出されて叱られたのち釈放される。少し厳しい叱り方をされるのは「急度然り・きっと叱り」と言う。昔は役所などで役人の叱責を受けるのは、それほど恥辱だったのである。

        ・・・・・      ・・・・・・
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                   水仙の束とくや花ふるえつつ     渡辺水巴


          //////


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         (25)昔の遊びもいろいろ
       
     昔の男の子の頃の遊びは実に多彩だった。それも金のかからない遊びばかりである。  
    寒い時は、かくれんぼや陣取り合戦、馬乗り、押しくら饅頭などで寒さをしのいでいたが、普段はペチャ(メンコ)、ラムネン玉(ビー玉)、へぼ獲り(トンボ獲り)、独楽、紙鉄砲(ツバでぐちゃぐちゃにした新聞紙を積めて飛ばす)、ゴム銃(小さい股木にゴムをつけて石を飛ばして小鳥などを打つ)など様々だが、大きくなるにつれて、遊びもそれぞれ変化し、又廃れていった。

         イメージ 1     一つ二つは風車        
           三つ四つは乳母車
            こうして育てた坊やでも
           末は芸者さんの膝車
                 

      
       ←かくれんぼ

                  
      〇「馬乗り」
     
     冬の寒い時はよく馬乗りをやって遊んだものだ。
     イメージ 2「馬乗り」は一人が柱や木などに両手でつかまって背を曲げて馬の形になる、次のものは、その股の間に首を突っ込んで同じように馬になり、そのあとにみんなが次々に同じような形をして馬の列を作る。
     その一番後ろの方から、跳び箱を飛ぶ様に飛び乗るだけの遊びで、馬が崩れたら又同じように馬の列を作り、お互いに順次飛び乗って遊ぶのである。

     馬といえば 運動会でよくやる、4人一組の「騎馬戦」もあるが、子供の遊びとしてはあまりやったことがない。

     
    イメージ 3
                                                  (よく学びよく遊べ)

       〇 ラムネん玉 (ビー玉)

     幼いころの遊びはなんといってもペチャ(めんこ)とラムネン玉だろう。
     家の近くの幼なじみの居たお寺の広場が、近所のガキどもの絶好の遊び場で、カクレンボや陣取り、三角野球やドッジボールをして日の暮れるまで遊んだものだ。本堂の屋根にボールを投げ上げて落ちてくるボールを受けるのも、楽しい一人遊びだった。

     この本堂の上り口の石畳がペチャ(メンコ)やラムネん玉の遊び場でもあった。本堂の入り口を子供らが占領して遊んでるので、お寺のオバサンは嫌だっただろうが、あまり怒られたことはない。幼なじみの父も母も早く亡くなり、叔母さんが母親代わりに子供4人を育てていたのだが、笑顔を絶やさぬ優しい小母さんだった。

                イメージ 9 その昔
                  小学校の柾(まさ)屋根に
                 我が投げし毬(まり)
                 いかになりけむ
                     (石川啄木)

                                                                                           → ラムネ瓶
     
     「ラムネん玉」は、いわゆる「ビー玉」のことで、ラムネ瓶の中に入っている丸いビードロ(ガラス)の玉のことである。ビー玉という言葉も、このビードルの玉からきているらしい。子供のころはラムネ瓶を打ち割って中のラムネ玉を取り出すのだが、これがなかなか思うように割れなくて困ったものである。

     イメージ 4ラムネん玉(ビー玉)の遊び方はいろいろだが、簡単なのはお互いに石段などの石の角にビー玉を落として跳ね飛ばし、遠くまで飛んだものが、短く飛んだ者のビー玉をぶっつけて当たれば、そのビー玉は自分の物になるし、当たらなければ反対に玉を狙われたものがビー玉を当てるのである。

      イメージ 5お寺の本堂の玄関の柱の石の台座がうまい具合に反り返っていて、ここを利用してラムネン玉を落として転がすのである。ビー玉は石段をコロコロ転がって広場まで落ちる。そこで相手の球に当てて遊ぶのである。


     そのほか1m位の間隔で地面の四方に5センチ位の小さな穴をあけ、その中に順次ビー玉を投げて入れていく遊びもある。双六のように早く廻ったものが勝ちだが、途中で相手の玉をはじき出したり、色んなルールがあったようだ。
             
     〇 「ペチャ」 

      イメージ 6佐賀の方言で言う「ペチャ」は一般に言う「メンコ・面子」の事である。ペチャと言う言葉は、地面に叩きつける時に、ペチャッと言う音がするからだろう。

      はがきを三枚重ねたくらいの厚さの板紙を丸く切って、表に英雄豪傑(のちには野球選手や力士の絵・漫画のキャラクターなどもあった)の絵を描いたおもちゃで、玩具屋や駄菓子屋でよく売っていた。形は丸いものや細長いものがあるが、ペチャの道具としては戦前は主に丸いのを使っていた。

     イメージ 8まず二人がジャンケンをして負けた者が一枚を地面に置く。いわば基礎になる「敷きペチャ」である。地面は砂をきれいに払って平らにするか、石やコンクリートの上でする。

      ジャンケンで勝った者は自分のペチャを叩きつけ、その勢いで相手のぺチャを裏返しに返すのである。裏返しになったペチャは自分の物になるが、若し裏がえしに打ち返すことができない場合は、こんどは自分のがそのまま「敷ペチャ」となって相手がそれを打ち返すのである。こうして多数のペチャを儲けたものが勝ちとなる。



     イメージ 7初めに出すペチャが一枚でない場合もある。この時は、3枚出しとか5枚出し・・とか言ってお互いに五枚づつだし、その10枚を横に並べて遊ぶ。横並びの尻の方から叩きつけて、そのペチャが裏がえしになれば、何枚でも一度に取ることができるのである。

      しかし、投げつけた勢いで列が乱れて離れると自分の手持ちのペチャを出して列をつながねばならない。そして順番が入れ変わって今度は相手が打つのである。一枚出しよりもこっちの方が勝負が早くつく。

      上手くなると、叩きつける自分のペチャを一枚決めて置き、このペチャの裏には蝋燭の蝋を垂らして厚くしておく、いわば親玉である。重いから相手のペチャが良く返るのである。
     ← 昭和初年のめんこ風景


       ・・・・・            ・・・・・

     *今朝も小雪がぱらぱら・・あとは冷たい雨になった。
       この模様では山間部では雪だろう。 今日も寒い!


                   ふるさとの山に向ひて
                 言うことなし 
                 ふるさとの山はありがたきかな               啄木

      
    イメージ 10
                                                
                                                      (雪の飯豊山)



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           (26) ねんぼうと竹馬

     とにかく小学校のころは、日が暮れるまで遊びまくっていたので、宿題以外は家で勉強した覚えがない。親から勉強しろ、と叱られたこともない。親は仕事に追われて子供の面倒を見る暇もなかったのだろう。まして父が53歳で急死してからは、母が女手一つで家事と仕事を切り盛りしなければならなかったからなお更の事である。。。
     母子家庭なのでもちろん、母親が一度も父兄会(PTA)に出てきたこともないし、一緒に遠足に行ったこともない。でも、塾通いや稽古事に時間を取られて、外で熱中して遊ぶことが少ない最近の子供は可哀相な気もする。

       〇 「ねんぼう」
     

     「ねんぼう打ち」も昔の子供の冬の遊びだった。ところが「ねんぼう」というのは佐賀地方の方言のようで、検索しても何も出てこない。こんな子供の遊びは、全国的なものだろうか。。
    「ねんぼう」は手ごろな樫や椿の木の先をとがらせた棒を、地面に打ちつけて相手の棒を倒して取る遊びである。 みんな真剣勝負のように全身全霊で戦うので、子供の遊びとしては一番おもしろい遊びだった。

     イメージ 1シランのように町中の子供は木の棒が無いので、簡便な五寸釘や太い針金などを使った。一方が地面に打ち付けたネンボウに対して、自分のネンボウを投げつけて、その打ち付ける勢いで相手の棒が倒れるまで交互に打つ。打ち付けた棒が倒れた方が負けで、負けた方の棒は相手の物になる。但し打ち倒しても、打った自分の棒が立って居なければ勝ちとはならないのである。

     同じ年頃の男の子が四、五人集まって、始めにジャンケンで順番を決め、負けた者が先ずネンボウを力一杯に地面に投げつけて地面に立てる。次の者はこのネンボウに向かって打ち当てて倒す。倒せば自分の物になるが、倒せないとそのままで、次の者が倒しやすい方の棒に向かって投げ打つ。 
      
     せっかく倒しても自分のネンボウも跳ね返って共倒れになることがある。その場合は二つとも寝たままで順番が回ってくるまで待つ。横倒しに寝ているネンボウにカチンと当たれば取っても良い。ちょうど柔剣道の勝ち抜き試合のように、倒したら自分のネンボウを引き抜いて連続して打つことが出来る。だから上手い者は一本残らず、みんな取ってしまうことも出来るのである。

      山村の子供は「ねんぼう」の材料に固くて重いカシの木の生木を使う。真っ直ぐの一本木ではなく、Y字型の股のついたものである。その股の曲がり角でハッしと打てば強力なパンチとなって相手を倒せるからである。長さは60センチくらいで先の方を鉈鎌で鋭く尖らせておく。握る所は2,3センチの大きさである。

    イメージ 2

     勝負する場所は稲刈り後の田んぼで、勝負には各自10本くらいを持参するから、最後の勝利者は50本くらいのネンボウを担いで帰ることになる。家の者は「よか焚きもんば稼いで来た」と言って喜ぶが、負けた方はまた新しくネンボウを作らねばならないが、近くの雑木林にはなかなか適当な樫の木が見つからない。時には前庭に積んである薪の中に適当なカシの木を見つけて、束の中から引き抜いたりするが、親があまりいい顔をしない。そこで大人が山に行く時ついて行って、取ってくるのである。

     今の様にガスのない時代には、樫の木は最高の燃料で、冬の農閑期には大人たちは毎日、一年分の焚き木取りに弁当を持って山に行く。取った焚き木は女竹を割った物で結束するが、その一束は30キロもある。それを二束、天秤棒の前後にかついで、3キロの山道を一日に二、三回運ぶのである。もちろん、子供たちも十四、五歳の高等小学校生になると、軽い焚き木の束を作って運ぶのであった。
      
       〇 「竹馬」

     イメージ 4「ねんぼう」はじめ子供の遊びも色々だが、「竹馬」にも良く乗ったものだ。当地の田舎の方では竹馬のことを「鷺足・さぎあし」と言った。  もともと「竹馬」は幼い子供が手に握った笹竹にまたがって、「ハイドウドウ」と走って遊ぶもので、何時の時代からかこの「鷺足」と間違われるようになった。

     イメージ 5「サギ足」つまり竹馬は二本の竹の棒の低いところに、それぞれ足かけ用の木を二本合わせて括り付けたものだが、上手になるにつれて足かけをだんだんに上げて行き、ついには首が家のひさしに届くくらいに高くして得意がったり、羽子板の羽根が屋根に引っかかった時には、取ってやったりしたものである。  また一方の竹馬を肩に担ぎ、一方で竹馬だけでピンピン跳ねて歩いたり、「入れ子」と言って、左の足を右の足に、右の足を左に突っ込んで交差したまま歩いたりする者まで居た。

     鷺足遊びで面白いのは、「天下天下」で、十人くらいが一列になって鷺足に乗る。竹馬の殿様行列だ。先頭が「天下さん」で、その天下さんの行く所をあとの者がついて行く。みんな竹馬に乗って田んぼを横切ったり、溝を跳んだり、砂川を渡ったりする。時には後ろを振り向いて次の者と竹をカチカチ打ち合わせたり、片足でケンケン飛びをしたり、いろいろ難しいことをする。

    イメージ 3

      あとに続く者は前の者と同じような事をして、もしやりそこなって足をつけば一番ドンジリに回らねばならない。もちろん先頭の「天下さん」が失敗すれば次の者が代わって天下を取るのである。失敗して怪我をして少しくらい血が出ても、そこら辺の血止め草をもんで傷の上に蓋をして治したものだ。
     竹馬を作った後の竹の残りで、たいていは「竹トンボ」を作る。

      イメージ 6飛行機のプロペラみたいな二枚羽根の竹トンボである。竹馬に乗りながらこの竹トンボを飛ばすときは、友達が前に来て片手で日本の竹馬を握っておいてくれるのだ。 ←竹トンボは両手を使わねばならない、もし両手を放せば竹馬は倒れてしまうのだ。そこで友達が前に来て、自分もサギ足に乗ったまま、片手で二本のサギ足を握っていてくれるのだった。子供ながら、なかなか高等技術の要る仕事だった。


     イメージ 7昔の子供は器用だった。凧や竹トンボから水鉄砲、紙鉄砲、竹馬とかなんでも自分で作った。肥後守や切り出し小刀を使って、墓場の裏の竹やぶから笹竹を切ってきて遊び道具を作るのがまた一つの楽しみでもある。  
                      ↑紙鉄砲(新聞紙を口の中でぐちゃぐちゃに噛んで玉にして飛ばす)

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      作った弓や刀で戦争ごっこやチャンバラごっこをしたり、夏には「肝試し」と称して真夜中に墓場のそばまで行って竹藪の笹の葉を取ってきたりした。  

          ↑ 水鉄砲

     何しろこの竹やぶでは首吊り自殺があったり、梅雨時には墓場で青白い火の玉が出たりして、とてもコワイ所だったのである。  その頃はまだまだ土葬の墓が残っていたのだろうか。
     ↑サヤ付の切り出し小刀

       〇 トンボ合わせ

     イメージ 8これは三尺(90㌢)くらいの竹の先に同じく1m位の糸を結び付け、その糸の先には生きているヤモ(ヤンマ)を括り付けてオトリにする。夏の正午から四時くらいの間にこの竹を振り回して、他のヤモ(ヤンマ)を捕まえるのである。佐賀城の堀や近くの蓮堀に行って、
     「ヤモヨ、ヤモヨ、オトンにめがけて、こんコ、ヤモヨ」
      と言いながらこの竹を振り回す。空中を飛び廻っているヤモはこれを見て飛んできて交尾をしようとするとき、竹を下ろして捕まえるのである。

     もし、失敗して逃げられた時は
         高く上がり 水くりゅう、
          シャンコ、シャンコ、おろせ    
    と、言いながら、また竹を振り回す。

     オトリのヤモと同性だったら、噛みついて離れず、異性だったら交尾して離れないので、竹を下ろして捕まえることが出来るのである。このヤモ合わせは、朝夕は決して成功せず、夏の正午から4時ころまでだというから何とも不思議なものだ。子供たちは遊びの中の経験から、こんな自然の摂理を覚えてくるのだろう。。

     普通のトンボ取りには鳥もちを使う。トリモチは近くの乾物屋から買う。店さきの縁の下に置いてある水を張った小さいカメの中から、顔中しわだらけのおばぁさんが、割りばしの先に器用にくるくるとトリモチを巻き付けてくれる。多分、一銭か二銭だっただろう、何せ親から貰う小遣いは5銭玉以上は滅多になかったからだ。一銭でようやく飴玉二個が帰る時代だった。

     
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                     (昭和初年のトンボとり)  網ではなく釣り竿にトリモチを塗りつけて・・
               
            ・・・・・・               ・・・・・・

                   とんぼ釣り きょうはどこまで行ったやら     加賀千代女

         //////



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         (27) ヒロちゃんの事ども
     
      〇 「ヒロちゃん」

     イメージ 1子供たちの遊び場所は決まってヒロちゃんのお寺の境内だった。
    幼馴染のヒロちゃんは幼いころ、近くのお寺に父母とともに台湾から移住してきた。このヒロちゃんのお寺は鍋島藩の老女が創建した400年も経つ古刹で、本堂も大きな立派な堂宇であった。そしてお寺の境内も広くて、近所の腕白どもの格好の遊び場になって居た。


     幼稚園、小学校時代はこのお寺の境内に幼馴染のガキどもが集まって、陣取りや隠れんぼ、ラムネン玉(ビー玉)、ペチャ(めんこ)、竹馬、凧揚げなど、子供の遊びは何でもやった。墓地の隅の川岸が竹藪になって居て、その竹の枝を肥後守と言う小刀で切り取ってきて、水鉄砲、竹トンボ、唐はた(タコ)紙鉄砲などを作って遊んだ。

     イメージ 2夏の夜はガキ大将の命令で、真っ暗闇の中を心細い思いをしながら墓地の奥の竹藪の笹竹を取りに行った。採ってきた笹はいわば肝試しを実行した証拠品である。

      まだその頃は土葬も残って居て、梅雨時には墓地に火の玉が出たとか、藪の中のクスノキで首つり自殺があったなどの噂話があったのである。  ほんとに肝っ玉が縮む思いであった。

                    → チャンバラをして遊ぶ昔の子供たち
     
      〇 ヒロちゃんのホームラン

     小学校を卒業して、又々ヒロちゃんと一緒に同じ中学に入学した。旧鍋島藩校「弘道館」の流れをくむ名門校で、母校の小学校75名の男子同級生の内15名がこの中学に進学した。県下の各小学校の中では合格者が一番多く、全県の小学校からの進学者は各校から大抵二人、三人だけだった。 


    イメージ 6
                                    
         * 母校の校門のところに先輩の経済学者・高田保馬氏の歌碑がある。
           大学時代、氏の著書「経済学概論」を教科書として使ったことがある。
     
              故里の山はなつかかし母の背に
                 昔ながめし野火のもゆるも         保馬

     
     中学に入ると、鼻垂れ小僧で気弱だったヒロちゃんはすっかり逞しくなって、野球部のメンバーとして活躍した。
      小学校のころはヒロちゃんの主導で、子供たちで野球チームを作って(*シランもその一員だったが、ポジションも打順もどうだったのか、少しも活躍した覚えがない)よその小学校まで遠征したりしていたが、彼が中学で野球部に入ったのもこの頃の経験がものを言ったのだろう。しかし、もともと頑強とはいえない体なので打つ方は8番で、守る方も二塁という、野球選手としては平凡なものだった。

           その昔
            小学校の柾(まさ)屋根に我が投げし鞠(まり)
            いかになりけむ                          
    石川 啄木 

     ある日、商業との対抗野球戦が母校の運動場であった。同級のK君が投手だったが、メイ投手には程遠いどこにでもいる平凡な投手なのに、相手のピッチャーは私の兄と同級で剛球で鳴る佐商の石丸進一投手で、その颯爽たる投球ぶりは当時の野球少年たちの憧れの的であった。
     我々はいい加減な応援歌を歌って必死に応援した。。


     イメージ 3♪八幡さんの神主が
      おみくじ引いて、申すよう
      いつも佐中は 勝ち 勝ち かーち勝ち
     
      八幡さんの神主が
      おみくじ引いて申すよう
      いつも佐商は 負け負け まーけ負け

                                                                                        (佐中野球部)

     しかし、勿論、ひ弱な母校の選手が石丸の剛球が打てるはずがない。だが、こちらのK投手も頑張って何とか0-0のまま9回の裏、ヒロちゃんの打順になった。

      彼が打ったのは、平凡な三遊間の当たり・・、ああ、これでゲームセットかと思いきや、なんとボールがショートの前で突然イレギュラーして、デコボコの固い運動場をコロコロと左中間を通り抜けて、柵外の水源地の方まで転がっていったのだ。 ヒロちゃんは小躍りしてホームイン、そのまま1-0で勝ってしまったのである。

     イメージ 4 (佐中応援歌)

        天山颪(おろし)音絶えて
        むすぶ恨みも置く霜の
        栄えある身をばしのびつつ
        津々浦々の渚まで
        佐中健児の功績を
        伝えし我が校野球部を

                                                                                                                             ↑(旧制・佐高と福高の野球対抗戦)

     このヒロちゃんのランニングホームランは、「あの剛球の石丸投手からホームランを打った選手」として、その後の同窓会でも語り草になった。いつかその時のK投手と病院でひょっこり出会ったことがある。Kとは大学でも同窓だ。ところがなんと顔面に大きな絆創膏を貼っている。シランが笑いをこらえて「その顔はどうした?」と尋ねると、何でもガスのホースにつまづいて、顔から落ちて強打したそうである。 さすがのメイ投手も、老いては駄馬に等し・・とか。。(^^♪
     
     イメージ 5相手の石丸進一投手はその後、プロ野球の名古屋軍に入り、昭和18年には20勝12敗、ノーヒットノーランの達成などと大活躍したが、戦時中に神風特攻隊として出撃し惜しくも南海の果てに散華した。

     彼は名古屋軍で野球を続けながら日大夜間部にも通い、1944年(S19年)春に学徒出陣で入隊、終戦三ヶ月前の昭和20年5月11日、鹿児島・鹿屋基地から零戦で沖縄を目指して特攻出撃し、ついに帰らなかった。
      
      その日、彼は鹿屋の国民学校校庭で最後のキャッチボールを楽しみ、ストライク10本を投げたのち、笑顔を浮かべて出撃して行ったという。あの最後のボールを手にしっかりと握り締めながら。。
       この石丸投手の、最後のピッチングの話は「人間の翼」として映画にもなった。

      ↑ (名古屋軍時代の石丸投手)

       ・・・・・・             ・・・・・・

        今朝は故里の山「天山」にも、うっすらと雪が積もっているのが遠望できた。
         春はまだまだ遠 いようだ。。

      
    イメージ 7

                                      ふるさとの山に向ひて
                    言うことなし
                    ふるさとの山はありがたきかな        石川啄木
                        
     



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