(28) ヒロちゃんとの別れ
中学を卒業してから始めてこのヒロちゃんと出会ったのは、昭和17年、学校の夏休みが終わって帰阪する山陽本線の車中であった。 そのころ、要塞地帯だった広島湾付近にさしかかると、列車の窓の木製の鎧戸を下ろさねばならなかった。防諜のためであろうが、当時呉軍港ではあの巨大な戦艦(大和)→が建造中だったのを戦後になって初めて知った。
彼は東京の仏教大学に進学していて往時の小学生時代の話に話が弾んだ。彼の話から小学校時代に成績一番で短距離も一番早かったK君が亡くなったのを知った。同じ友達で、仲のよかったS君が旧制高校に合格してまもなく胸の病で死んだのを知ったのもこの時である。
彼は東京の仏教大学に進学していて往時の小学生時代の話に話が弾んだ。彼の話から小学校時代に成績一番で短距離も一番早かったK君が亡くなったのを知った。同じ友達で、仲のよかったS君が旧制高校に合格してまもなく胸の病で死んだのを知ったのもこの時である。
(昭和34年・同級生の物故者慰霊祭)
この時すでに16名が亡くなっている。
(ほとんどが戦没者だった・前列のオバさんたちは彼らのお母さんたち。
右端の和尚がヒロちゃん、その左二人目がシラン。)
そののち、ヒロちゃんは私と同じく学徒出陣で特別甲種幹部生(いわゆる第一期特甲幹)として仙台の陸軍予備士官学校に入ったが、大学の所在地の関係で、紫蘭は豊橋の予備士官学校だった。
(同級生たちの寄せ書きの日章旗をたすき掛けにして出征した)
(同級生たちの寄せ書きの日章旗をたすき掛けにして出征した)
戦後、ヒロちゃんは大学を出て、住職の傍ら中学の先生の職についたが、大学時代に手をつけたのか?(^_-)-☆ まもなく学生時代の下宿の娘さんを嫁にもらった。お寺のダイコクさんには勿体無いほどの美人で日本舞踊の名取りである。そのころヒロちゃんとは終戦後の青年団活動を共にし、また一緒に「謡曲」を習ったりした。少しばかり習った「お謡」だったが、後年、結婚式や還暦祝いなどで多少役だったのは全くヒロちゃんのおかげである。
ところが彼は女性に甘いのか、青年団のころはもちろん、学校の同僚の女先生とも仲良くなって、バイクに相乗りして登校したりして、上層部の評価も芳しくなかった。そのうち、和尚のくせにパイプカットしたりして、悪い評判が立つようになり、同じ同窓が次々に校長になって行ったのに、とうとう校長にはなれず平教師で終わってしまった。
彼の行動を諌める同僚の先生には、「女性に限らず、人を愛するのは仏の道である!」と揚言して憚らなかったという。
彼の行動を諌める同僚の先生には、「女性に限らず、人を愛するのは仏の道である!」と揚言して憚らなかったという。
しかも彼はマージャン好きで、卒業した教え子たちを呼んでよく夜遅くまで遊んでいた。二階の彼の部屋からはジャン卓をかこんでいるジャラジャラという音が夜半遅くまでよく聞こえていた。
理屈っぽいが人には優しい彼は、呑兵衛ではないが酒の席も好きで教え子たちには人気があったのである。酒豪のプロ野球選手の漫画「あぶさん」のモデルになったN選手は中学時代の彼の教え子で、退職後、、Nさんが経営していたヤキトリ屋によく飲みに行っていたようである。
だが、定年も間近になって、不審火によって創建400年の由緒ある彼の寺院が本尊もろともに全焼してしまった。我が家の2階から見た、広大な伽藍の焼け落ちる業火の勢いはすさまじかった。隣の田んぼの中に、奥さんの衣装入りのタンスと、なぜか冷蔵庫とダブルベットだけが運び出されてい
た。
然し、彼の背広も何もみな燃えてしまい、肝心のご本尊まで焼失してしまった。ご近所の奥さんがあり合わせの毛布を持ち寄り、食堂経営の幼馴染が握り飯を差し入れた。僅かに焼け残った小屋の中で、緊張と寒さのために小刻みに震えていたヒロちゃんの憔悴しきった姿が今でも忘れられない。
「いつか、罪滅ぼしのために、四国八十八箇所を巡礼したい」と、かねて言っていたが、肝臓を病んでその3年後にヒロちゃんは亡くなった。
「いつか、罪滅ぼしのために、四国八十八箇所を巡礼したい」と、かねて言っていたが、肝臓を病んでその3年後にヒロちゃんは亡くなった。
入院中の彼を医大に訪ねると、死の床で「しらんちゃん、オイはどがんじゃい、野暮つかしたごとあるバイ」と、腹水で大きく膨らんだ腹を抱えながらベットの上で力なく語った。
(うかつにも、人生をやり損なった・・)、という意味であろうか。これがヒロちゃんの最後の言葉だった。
定年になる一年前の、わずか59年の人生だった。私の母の死んだ同じ年だったのでよく覚えている。 あの鼻垂れ小僧のヒロちゃんが亡くなってから、もう35年にもなるのだ。。
人並みの才に過ぎざる
わが友の
深き不幸もあわれなるかな 石川啄木
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