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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(28)ヒロちゃんとの別れ

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     (28) ヒロちゃんとの別れ

 イメージ 1中学を卒業してから始めてこのヒロちゃんと出会ったのは、昭和17年、学校の夏休みが終わって帰阪する山陽本線の車中であった。 そのころ、要塞地帯だった広島湾付近にさしかかると、列車の窓の木製の鎧戸を下ろさねばならなかった。防諜のためであろうが、当時呉軍港ではあの巨大な戦艦(大和)→が建造中だったのを戦後になって初めて知った。
 
 彼は東京の仏教大学に進学していて往時の小学生時代の話に話が弾んだ。彼の話から小学校時代に成績一番で短距離も一番早かったK君が亡くなったのを知った。同じ友達で、仲のよかったS君が旧制高校に合格してまもなく胸の病で死んだのを知ったのもこの時である。

 
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                                           (昭和34年・同級生の物故者慰霊祭)

    この時すでに16名が亡くなっている。
     (ほとんどが戦没者だった・前列のオバさんたちは彼らのお母さんたち。
                 右端の和尚がヒロちゃん、その左二人目がシラン。)
         

 イメージ 3そののち、ヒロちゃんは私と同じく学徒出陣で特別甲種幹部生(いわゆる第一期特甲幹)として仙台の陸軍予備士官学校に入ったが、大学の所在地の関係で、紫蘭は豊橋の予備士官学校だった。
       (同級生たちの寄せ書きの日章旗をたすき掛けにして出征した)

  戦後、ヒロちゃんは大学を出て、住職の傍ら中学の先生の職についたが、大学時代に手をつけたのか?(^_-)-☆ まもなく学生時代の下宿の娘さんを嫁にもらった。お寺のダイコクさんには勿体無いほどの美人で日本舞踊の名取りである。そのころヒロちゃんとは終戦後の青年団活動を共にし、また一緒に「謡曲」を習ったりした。少しばかり習った「お謡」だったが、後年、結婚式や還暦祝いなどで多少役だったのは全くヒロちゃんのおかげである。


 ところが彼は女性に甘いのか、青年団のころはもちろん、学校の同僚の女先生とも仲良くなって、バイクに相乗りして登校したりして、上層部の評価も芳しくなかった。そのうち、和尚のくせにパイプカットしたりして、悪い評判が立つようになり、同じ同窓が次々に校長になって行ったのに、とうとう校長にはなれず平教師で終わってしまった。
 彼の行動を諌める同僚の先生には、「女性に限らず、人を愛するのは仏の道である!」と揚言して憚らなかったという。

イメージ 4 しかも彼はマージャン好きで、卒業した教え子たちを呼んでよく夜遅くまで遊んでいた。二階の彼の部屋からはジャン卓をかこんでいるジャラジャラという音が夜半遅くまでよく聞こえていた。

  理屈っぽいが人には優しい彼は、呑兵衛ではないが酒の席も好きで教え子たちには人気があったのである。酒豪のプロ野球選手の漫画「あぶさん」のモデルになったN選手は中学時代の彼の教え子で、退職後、、Nさんが経営していたヤキトリ屋によく飲みに行っていたようである。

 だが、定年も間近になって、不審火によって創建400年の由緒ある彼の寺院が本尊もろともに全焼してしまった。我が家の2階から見た、広大な伽藍の焼け落ちる業火の勢いはすさまじかった。隣の田んぼの中に、奥さんの衣装入りのタンスと、なぜか冷蔵庫とダブルベットだけが運び出されてい
た。

 イメージ 5然し、彼の背広も何もみな燃えてしまい、肝心のご本尊まで焼失してしまった。ご近所の奥さんがあり合わせの毛布を持ち寄り、食堂経営の幼馴染が握り飯を差し入れた。僅かに焼け残った小屋の中で、緊張と寒さのために小刻みに震えていたヒロちゃんの憔悴しきった姿が今でも忘れられない。
 
 「いつか、罪滅ぼしのために、四国八十八箇所を巡礼したい」と、かねて言っていたが、肝臓を病んでその3年後にヒロちゃんは亡くなった。


  入院中の彼を医大に訪ねると、死の床で「しらんちゃん、オイはどがんじゃい、野暮つかしたごとあるバイ」と、腹水で大きく膨らんだ腹を抱えながらベットの上で力なく語った。
 (うかつにも、人生をやり損なった・・)、という意味であろうか。これがヒロちゃんの最後の言葉だった。
  
 定年になる一年前の、わずか59年の人生だった。私の母の死んだ同じ年だったのでよく覚えている。  あの鼻垂れ小僧のヒロちゃんが亡くなってから、もう35年にもなるのだ。。
         
        人並みの才に過ぎざる
        わが友の
        深き不幸もあわれなるかな        石川啄木

                    
      //////
    /////
         

(29)ともだち

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         (29) ともだち
 
 小学校の仲の良い友達にノボル君がいた。頭が大きく昔の「福助さん」のように出っ張ったおデコが印象的だった。頭脳が大きいだけに頭は良い。彼とは何故か気が合ってよく彼の家を訪ねて遊んだものだ。
 彼の家は県庁前の県の「商工奨励館」の奥の広場の端っこにあった。夏休みの夕方、その広場でよく無料の野外映写会があった。日本ニュースや世界ニュースが殆どで、昭和6年満州事変が始まった頃なので日本軍の活躍ぶりが主な画面であるが、野外の事とて、張りめぐらせた布製のスクリーンが風に捲れて日本軍の戦車や大砲が大きく膨らんで揺れ動いたりする。

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                                                (戦前の商工奨励館)


 時には「ハーモニカ小僧」という短編映画があった。ハーモニカの名手の宮田東峰の出世物語である。覚えているのは貧乏少年の東峰が野球帽を横っちょにかぶって「ハーモニカがほしいな、ハーモニカがほしいな」と言いながら、縦横にペンキを塗りつけている、という簡単な場面だけである。

 イメージ 2ノボル君についての思い出は、よく「頼三樹三郎」と言う言葉を使っていた事だけだ。彼がそのころ、三樹三郎のことをどれだけ知っていたかはわからないが、シランは頼山陽の名前は聞いたことがあったが、三樹三郎は全く知らず、ただ名前が恰好いいなぁ、というくらいであった。

  三樹三郎が頼山陽の三男で安政の大獄で橋本佐内らとともに斬首されたのを知ったのは随分、後年の事である。ノボルちゃんは、幼い子供の頃から幕末の勤王の志士たちのことを知っていたのだろうか。


今になっては、聞くすべもない。。

 彼は小学校を卒業して工業に進んだので、その後の消息は知らな。戦後14年たって小学校の同級生の物故者の慰霊祭の時に、初めて彼がすでに亡くなっていたのを知った。病気だったのか、或いは戦死だったのか。戦時中の昭和18年に、同窓会で一度出会っただけであるが、どんな言葉を交わしたのか記憶にないが、そのときの写真には、彼は同じく秀才だったヒロヨシ君と並んで写っている。ヒロヨシ君は定年後、老人大学で「古事記」の勉強をしていたので、元々二人は歴史好きで、ノボル君とは気が合っていたのかも知れない。

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                                                (卒業写真・男子)

    〇 奉安殿

 イメージ 4勤王の志士と言えば、戦前の日本は天皇制だったので、たいていの家庭には両陛下の御写真が床の間に掲げられていた。そして小学校には、どこでも「奉安殿」という建物があって、ふだんは天皇皇后両陛下のご写真と「教育勅語」が「奉安殿」に安置されていた。奉安殿は小学校の校門を入るとすぐ右手にあり、生徒はみんな登下校時に最敬礼をして通らねばならない。

  ←大正13年建造の母校の奉安殿

 紀元節や明治節、天長節(天皇誕生日)などの記念日には、ご写真と教育勅語を教頭先生が取り出してきて講堂にの正面に掲げられる。そして校長先生は写真を背にして白手袋で「教育勅語」を受け取り、うやうやしく読みあげるのである。
  
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ
教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス・・・

    
 その間、生徒や先生はみんな頭を下げてジーッと聞き入って居らねばならない。
  なにしろ記念日はたいてい、正月などの寒い時期ばかりなので、シーンとした講堂内に、あちこちから子供たちが「水洟」をすする音だけがズルズルと聞こえてくる。
  ただ済んだあとで教室で貰う「紅白の餅」の事ばかり考えながら、冷たい板の間に素足で立っているのである。(実のところ、勅語の意味は殆どわからず、腕白どもは心の中では「チンがチンチンすりむけ候・・・」などと不遜な事ばかり考えていたのだが・・)<(_ _)>

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(明治期の教育勅語拝読)

 でも、校長先生は真剣そのもので、ひょっとして、一言読み間違えでもしたら大変、それこそ不敬罪で逮捕されてしまうのだ。読み違えたある校長先生が責任を取って辞めたり、火災で勅語を焼失してしまって、切腹した校長まで出たそうである。以来、木造の奉安殿は燃えないようにコンクリート造りになったという。
  なんとも大変な時代だったが、 もちろん、民主主義となった敗戦後は忠君愛国の象徴たる奉安殿はすべて取り壊されてしまった。

  〇 「爆弾三勇士」

 当時のニュース映画にも度々取り上げられたが、一番の思い出は「爆弾三勇士」の話である。 
 昭和7年2月22日、上海事変の「廟行鎮・ビョウコウチン」の戦いで敵陣地の鉄条網を破壊すべく、爆薬筒を抱いて爆破作業にあたり、自らの肉体もろとも爆死したのが、久留米の工兵隊所属の作江・北川・江下の三名であった。この三勇士の記事は、帝国軍人の華として盛んに報じられ「爆弾三勇士」として新聞記事をにぎわわせ、三勇士の歌や銅像まで出来た。 

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 その一人「江下武二伍長」は郷土の出身で、戦時中は地元の父の故郷の近くの蓮池公園に、三勇士の爆薬筒を抱えて突進する銅像が建てられていたが、戦後は取り壊されて今は跡形もない。
ただ、わけも分からぬままに、子供心に一心に歌っていた「爆弾三勇士」の歌のメロデイだけは今も心の底から離れない。。
      
  イメージ 6  「爆弾三勇士の歌」

      ♪ 廟行鎮の敵の陣
         われが友隊 すでに攻む
         折から凍る きさらぎの
         二十ニ日の 午前五時~

         命令下る 正面に
         開け歩兵の 突撃路
         待ちかねたりと 工兵の
         誰かおくれを 取るべきや~


      ・・・・・       ・・・・・

                                     「我が家の冬の月」
   
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昨夜の皆既月食はよく見えましたか?
      こちらもテレビできれいに見えましたよー (^_-)-

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(30)父の思い出

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     (30)  「父の思い出」

  そもそも私が物心がついたのはいつの頃だろう。
  私の父は明治15年生まれだから、幕末維新の動乱からまだ15年しかたっていないし、西南戦争からは僅かに5年、当時の世の中も生活も江戸時代の封建色を色濃く残してしていたのだろう。

イメージ 10父の実家は近郊の鍋島支藩の町の入り口にあり、筑後川から遡ってくる船の積み荷を扱う商家だった。天草や島原半島あたりからやってくるサツマイモや砥石、木材などを扱う商売をしていた。いわばここは佐賀市の外港のような役目をしていたのだった。    
                      → 大八車、佐賀では車力という

 しかし、次男坊だった父は、小さいころ父を亡くしたので独立して働かねばならなかった。そのころ、中学に通う友達を見て、口惜しさに家の門口で涙をこぼしていたという。そのころの商売は車力(大八車)を引いて村々を回って商いをして歩くのである。明治初めの商売は、店を構えてやってくる客を相手の商売ではなく、出歩いて家々を回って売り捌くいわば行商が一般的な商売の形だった。

イメージ 1
                                         (大八車を引く昔の少年)


 イメージ 2普段の行商のほか、春秋のお祭りなどでは露店を出すが、そのうち父は彼ら行商仲間に品物を卸売りをするようになり、大正の初めには市内に店を持つようになって手広く商売をするようになった。当時の大福帳や売掛帳を見てみると、見事な筆さばきで父もなかなか字が上手かったのだなぁ‥と感服させられる。 
 ← 昔の大福帳(帳簿・すべて筆書きである)


 大正初めの世界大戦で日本の経済は棚ぼた式の好景気に恵まれ、朝早くから夜遅くまで客が絶えず、父は商売に忙しかった。母もその手伝いやら四、五人の住み込みの丁稚どんや番頭さんたちの世話で忙しく、シランは父母に親身にかまってもらった記憶がない。
  
   
 〇 「父の思い出」

  父は53歳で急死したが、他人にはとても良い人だったようで、「仏の〇さん」と言われ、いつも「十里四方ならどこで急に死んでも、Oさんだとわかって貰える」と母には言っていたようだ。しかし、家の中や仕事には厳しかった。いつだったか家族で火鉢を囲んで餅を焼いていると、突然母に向かって焼いていた餅が飛んできた。なにか気に食わないことがあって癇癪玉が破裂したのだろう。子供だったのでその辺の事情はわからない。
  
  父の思い出は少ない。仕事で忙しく、一緒に遊んで貰った記憶もないが、一番父を身近に感じたのは布団の上の相撲である。小さいころ、太ももにオデキが出来て越中富山の入れ薬の「吸出し膏薬」を貼っていた。夜になってその貼り膏薬を剥がす段になって、はがすのが痛いので母に、絶対膏薬を取らないとすねていると、突然父が「おい、シラン、お父さんと相撲をとらないか」と言い出した。
 
 イメージ 11そこで二人で布団の上で四つに組んでいると、掬い投げの格好をしながら股に手を入れた父が、あっという間に腿の膏薬を剥がしてしまった。イタイ!と叫ぶ暇もなかった。その後、父は急死してしまったが、その時のチクッとした痛みだけは今も忘れることができない。

                              →入れ薬屋さん


 *入れ薬屋さんには、お得意さんのお土産に、よく四角い紙風船を貰った。家庭胃腸薬や風薬、貝殻に入った赤膏薬、サロンパスのような黒い貼り薬などが主である。子供のころは良くこんなザレ歌を歌ったものだ。
 「越中富山の反魂丹、鼻糞丸めて萬金丹、馬の小便水薬、それを飲む奴アンポンタン・お前のかぁさんアンポンタン」・・
 

  〇 野球見物

  数少ない父の思い出のひとつに野球見物がある。尤も、今のようにプロ野球があるわけではないので、野球といえばひとえに中学野球である。
  間もなく甲子園の高校野球が始まるが、昔は高校ではなく、中学(5年制)野球だった。 旧制だから最上級生の中学5年は今の高校2年生にあたる。一次予選で優勝した各県の代表校が集まって各地方の二次予選をやる。例えば九州は北九州の3県の、南九州は4県の優勝校がその地区の代表として甲子園に行くのである。

 台湾代表の嘉義農林、関東州代表の大連商業、朝鮮の京城師範、北海道の北海中、兵庫の明石中、愛知の中京商、岐阜商業、小倉工、熊本工などが当時の有名常連校だった。もちろんその頃は今のような私立の野球高は無くてほとんどが公立校で、佐賀では佐賀中、佐賀商、佐賀師範などが代表を独占していたが、それだけ学校の数も少なかったとも言えるだろう。

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                              (大正10年の佐中野球部)

 とにかく子供のころはよく、暑い最中に父のお供をして野球応援に連れて行かれたものだ。地元の旧制佐高のグランドで行われていた一時予選はもちろんだが、よく覚えているのは、北九州の2次予選に福岡の春日原野球場に出かけたことである。おそらく、佐賀中か佐賀商野応援だっただろうか、カンカン帽に下駄履き、うちわとこうもり傘に麻のじんべえという漫画チックなその時の父の姿がいまだに目に浮かんでくる。

            
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               (雨の中の応援団・こうもり傘がようやく流行りだしたころだだった

  ・・・・
 〇 戦艦・陸奥

 もひとつは、「戦艦・陸奥」の乗艦である。従兄が(父から見れば甥)が佐世保の海軍工廠に勤めていた縁で、佐世保軍港の「みなと祭り」の特別行事になっていた、戦艦の見学乗艦に連れて行ってもらったのである。当時の「陸奥・むつ」は、帝国海軍の第三艦隊(佐世保軍港が母港)の旗艦で、僚艦「長門」とともに、排水量3万5千トン、わが国最大の戦艦だった。岸壁から4,50住人は乗れる大きなランチに乗って行って、見上げるような大きな陸奥の艦腹に取り付けてあるタラップを登るのである。
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                                                 (戦艦陸奥の雄姿)

 イメージ 6甲板に上がってみると,物凄く広くてこれが水の上に浮かんでいる船とは思えないほどである。ピカピカに磨き上げられた甲板では100m競争などの運動会ができるという話だった。42センチの主砲がまた馬鹿デカくて、砲身には水兵さんが這って入れるという途方もない大きさ、それに砲弾は水兵さんの身の丈よりも大きかった。

 ↑陸奥の主砲(海軍兵学校)

イメージ 7 夜になって商店街の「港まつり」の見物に父と兄の三人で出かけた。通りの暗い片隅で中国人が手品をやっていた。それが子供には不思議で面白く、つい見とれてしまっているうちに、兄がはぐれてしまった。その後はどうなったのか、どうして帰ったのか、まったく記憶にない。よっほど幼いころだったのだろう。
                                                    陸奥の口径42センチ主砲→
   
    「チンライ節」

 イメージ 8  ♪ 手品やるある みな来るよろし
     うまくゆくなら可愛がっておくれ
     娘なかなか きれいきれいあるよ~
     チンラーイ チンラーイ
     チンライチンライ 
     チーン ライラーイ~                        陸奥の巨大な錨→

 ちなみに、国民に親しまれた巨大戦艦陸奥は、昭和18年6月8日、広島湾に停泊中、謎の爆発沈没を遂げた。原因は様々に憶測されているが未だ不明である。
 その時迷い子になった兄も、21歳でビルマで戦死してしまった。ジャングルの何処で迷子になったのか、兄の遺骨もとうとう帰って来なかった。だから父と同様、兄の思い出も少ない。

 まだ幼稚園の頃、兄が引いて走るリヤカーに乗って遊んでいるとき、シランが思わず足を車輪の間に突っ込んでしまい、足の指の爪がみんな剥がれてしまった事がある。お医者さんで、消毒用の黄色いリバノール溶液のついたガーゼを毎日取り換えるのが泣くほど痛かった。

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                                         (嫁入り道具もリヤカーでお輿入れ)

 そのお医者さん通いも兄がリヤカーに乗せて連れて行ったのである。そのほかは軍隊に入るとき駅頭であいさつしたときの兄の緊張した顔つき位である。母子家庭なので、母を残して戦地に行くのはさぞ辛かったに違いない。

  /////

(31)父・母の思い出

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           (31) 父・母の思い出

 〇 カックンチャンの話

 父は町内会長をしていたが、商売柄、貧富の別なく誰とでも分け隔てなく付き合った。
 昔は門付けする乞食(今はこの言葉は使ってはいけないのだろうが・・)が多かったが、汚い乞食が立ち寄っても、父は全く追い出したり、断ることはなく、いつも何がしかのお金を与えていた。
  
  イメージ 1私が小さいころに佐賀の街に郊外の農村からやってくる「かっくんちゃん」という奇人がいた。
  この「かっくんゃん」は本名を「角市」といい、有明海沿岸の農村出のいわば津軽三味線弾きみたいな芸人で、大正末から昭和10年代にかけて県内を門付けして回っていた。
  なかなかの奇人で一年中褌ひとつのすっ裸で勿論はだしである。肩に大きなコブがあるが、肌はつやつやとして赤銅色に日焼けしていて、垢に汚れているのを除けば頗る健康そうであった。目が不自由で、ときどき白目をむき出したりするのでちょっと気味が悪い。

 「かっくんちやん」という呼び名は、名前の角市から出た愛称で、手作りの一弦の三味線でどんな歌でも弾きこなす独特の才能があった。三味線の箱は、その辺の板切れを打ちつけただけのもので、もちろん猫の皮は張ってない、 よくあれで三味線らしい音が出たものだ。。  

  子供たちはこの気味悪い「かっくんちゃん」がくると、怖いもの見たさに遠巻きにして見にやってくる。ちょっと歩き出すとわーっと逃げだしては、またぞろぞろと付いて行くのである。
  駅前の商家だった私の家はいつも「かっくんチャン」の立ち寄り場所のひとつで、父はキセルの刻みタバコをくゆらせながら、いつまでもこの汚らしいタコ入道のような変人の話相手になっていた。父は無頓着だったが、さすがに母はカックンチャンが帰った後は、汚らしい褌ひとつで座った丸椅子を丁寧に水に流して洗っていた。。

 とにかく、カックンチャンは奇行が多かった。
  イメージ 5褌ひとつの丸裸はまだいいとしても、父が与えた硬貨はギョロ眼をむいて太陽に透かして見たあと、みんな口に入れて噛んでから三味線の箱にチャリンと落とすのである。彼に言わすと、一銭硬貨と5銭白銅貨とは固さが違うから、その違いで歌の歌い方も変えるのだそうである。目の不自由な彼の独自の知恵だったのだろう。その上、母が与えたお握りはなんと土間の上に落として砂をまぶして食べるのである!

  
  よく、あれでお腹はなんともないのだろうか、と柱の影からおそるおそる垣間見ている自分にはそれが不思議でならなかった。(塩ならぬ砂をまぶして食べるなど、誰でも摩訶不思議だったのだろう、彼の死後は県立病院で解剖して調べたそうである)とにかく、手作りの一弦の三味線といい、狭い塀の上に寝転んで寝ても落ちなかったというから、とにかく奇才、異才の持ち主だったのには違いない。
 怪異な風貌には似ず、おとなしい性格で誰からも愛された。うわさ話では、実家は穀倉地帯の裕福な素封家だったという。道理で汽車に乗るときはいつも二等車(今ならグリーン車)だったというのも、うなずける話である。 
  享年54歳。。
 「かっくんちゃん」は少年の思い出というグリーン車に乗って、はるか遠くへ旅立ってしまった。。
・・・・

 〇 「母の思い出」

 父母の商売が忙しく、シランは父母に身を構ってもらった記憶があまりない。生まれたときから、身の回りの世話をして貰ったのはお手伝い(女中)さんたちだったような気がする。

  イメージ 4写真は昭和初年ごろの私が2歳の時のものであるが、姉、兄と一緒に写っている女性も母ではなく「お菊さん」という女中さんである。大人びて見えるが、実はお菊さんはこの時まだ19歳だった。
  
 或る日、お菊さんが貰われて嫁に行くことになり、実家に帰る日、彼女は私を抱いて出たまま陽が暮れるまで帰らなかった。生前の母の話では、(自分で言うのもなんだが・・)可愛いくてシランちゃんと別れるのはいやだ、と言って聞かなかったそうである。そのお菊さん自身も写真の通りの丸顔色白の美人だったようだが、自分には全く記憶がない。

 昭和のはじめ頃は、子供はみんな着物姿だった。写真のような余所行きのときは、上に羽織をはおり足袋をはく。履物はもちろん下駄である。この写真では着物が冬物で厚そうだから、おそらく新年用の記念写真であろうか。
 ← (姉、兄、お菊さんと)

 久留米がすりの着物には縫い付け帯がつけてあり、腰上げをしてあるので、少し大きくなっても着られるようになっている。小学校に入ると、ズック靴に霜降りの詰襟の洋服が多くなったが、15歳ごろに着物の帯も兵児帯に変わると一人前の大人になったような気になる。
 佐賀あたりでは15歳になると男児は褌(ふんどし)をつけるようになり、「へこかきちゃーご」というお祝いをする習慣があった。「へこ(ふんどし)をつけ始めるお祝い」である。

  昔なら、さしずめ「武士の元服」というところだろうか。赤飯を焚き、なますを作って重箱で近所にも配る。紅白の餅もついたに違いない。隣近所に持っていくと、お駄賃がもらえるので子供たちは喜んで配ったものである。
 一方の女の児はこのころから腰巻をつけ始めるので「きゃーふ巻きちゃーご」というお祝いをする。
  「きゃーふ」とは当地の方言で「腰巻」のことである。
  
  昔の女性は、パンツをはいていなかった。いつも着物姿なので腰巻の方がしっくりするのだろう。パンツをはく様になったのは、昭和7年12月の東京銀座の白木屋デパートの火災からである。着物、腰巻姿の女性が恥ずかしがって飛び降りるのをためらい、多くの女性の死傷者が出た。
  それ以来、パンツをはく女性が多くなったといわれている。

 イメージ 2母は明治23年の生まれだから生きて居ればもう130歳近くになる。母は6人姉弟の末っ子だったから、おかしなことに、実家の姉の子だった姪とは同じ年だったので、二人は姉妹のように仲良く育ったという。 その姪と並んで写っている母(右)は、まだ数え年の20歳である。
 農家のせいもあるだろうが、何よりも当時の女性はみんな地味だった。

 モノクロ写真は色気がないので、よけい地味で老けて見える。ふっくらとした頬っぺがなければ、着物もめくら縞の暗い着物でまったく色気がなくて、とても二十歳の娘とは思えないオバサン風である。頭は当時流行の「203高地」型でカモジを入れて大きくふくらましてある。もちろん日露の激戦地、旅順攻略戦の「203高地」を形どった髪型である。

  そういえば、写真を撮ったときは日露戦争が終わってまだ5年ぐらいしか経っていなかったのだ。

 イメージ 3戦後2年も経って、やっと頼みの兄がビルマから石ころになって、白木の箱に入って帰ってきた。8月15日が期限だった家屋の強制疎開のため家の中はガラン堂になり、親類の家に預けていた衣類や家財は空襲で燃えてしまった。

 その上、せっかく父が働いて残してくれた田畑は戦後の農地改革で二足三文で取り上げられ、預金は「財産税」や新円切り替えで多くが消えてしまった。食うや喰わずの生活である。しかし、そんな激動の戦後を母は一人で孤軍奮闘、シランを大学まで進ませてくれた。
 今はただただ、父、母への感謝あるのみである。

   * (戦争が終わって田舎の親類に預けていた家財道具を、母とふたりで荷車押して取りに行ったことがある。あれからもう75年もたつのだなぁ・・)
                                                                          ↑ 親子力を合わせて・・ 
                       //////
                                                                 //////

(32)コワイ先生たち

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       (32) 「コワイ先生たち」

 昔の先生はコワかった。平気で生徒を殴る。 
  今ならすぐに問題化して先生の職を辞めねばならないだろうが。。

 イメージ 4母校は明治9年に佐賀中学として開校して以来、140年の長い歴史を誇る。葉隠れ武士の藩校「弘学館」の後身だから、剛毅朴訥、質実剛健の校風で校則もなかなか厳しく、先生たちも山嵐のような荒々しい先生が多い。逆に言えば生徒たちの気風も荒く先生達もいささか手こずったに違いない。
 明治の生徒たち、コワイおっさんみたいだ。。


      イメージ 5

 夏目漱石が熊本の五高の教授をしていたころ、福岡の修猷館中と佐賀の佐賀中の二校を見学に来たという話があるが、それだけ母校も旧藩校としての伝統と矜持があったのだろう。そのため、教育もスパルタ式の厳しいもので、喫茶店はもちろん、映画館に入るのも禁止、饅頭屋に入って饅頭を食べただけでビンタを食らう。もし映画館や喫茶店に入ったのを監督に見つかれば往復ビンタで済めばいいが、時には停学処分になることもあった。

 舞台美術家の「妹尾河童・せのうかっぱ」さんの「少年H」という小説には、戦時中在学した神戸二中でも同じように映画見物は御法度だったようだ。映画館にこっそり出かけた少年Hが、監督の先生に見つかって逃げ場を失い、便所の窓から飛び降りて逃げ出す場面がある。昔のトイレは汲み取り式で窓の下には汲み取り口が開いている。Hは飛び降りるときに、その肥え壺に足を踏み込んでしまい、糞尿で汚れたズポンを途中にあった共同水道で洗う場面がある。
まさかシランにはそんな糞尿譚はないが、中学時代によくこっそりと隣県の福岡まで映画見物に行ったものだ。ジョン・ウェインの西部劇「駅馬車」を見て感動したのも、博多の中洲の映画館だった。それだけ福岡は校則が厳しくなかったのだ。

   〇 獅子舞先生

 昭和11年、シランが入学した時は古い木造校舎で、廊下も狭く平屋建てだったが、3年生の時に次第に鉄筋コンクリートの2階建てに建て替えられていた。
 その校舎の南側に花壇があった。1、2年の学科の中に「園芸」という科目があり、花や植木などの栽培をしていた。農学部などに進学するのに備えての基礎知識の訓練だったのだろう。当時は、化学肥料はなくて自然肥料だったので、学校のトイレからくみ取った屎尿を肥桶に入れて、畑にまき散らしたりしなければならず、ずいぶん臭い勉強だった。

 
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                                                (園芸の実習)


 園芸の先生は、英語と掛け持ちだったが、あだ名を(獅子舞い)と言い、怒るととてもこわい!それこそ獅子舞のように荒れ狂うのである。
 生徒から見ると、当時は大分おじさんのように見えたが、卒業50周年の同窓会に出てきたのはこの獅子舞先生一人だけだったから、先生の中では若くてまだ20才台で、兄貴のような先生だったのかも知れない。
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 そんなわけだけでもあるまいが、先生にはよく殴られた。生徒から見れば昔の先生はとても怖い存在だった。授業中にちよっとでも私語したり悪ふざけをすれば、すぐにチョークが飛んできたり、黒板拭きが飛んでくる。そればかりか鞭や拳骨でポカリとやられる。平手で思い切り殴られると、ほんとに目がくらくらする。殴らない先生は少なく数える位しかいないのだ。4年の時の担任のK先生も良く殴った。先生の手のひらは人一倍大きくてたくましい、そこで生徒は先生に「風呂敷」のあだ名を呈上して恐れたものだ。

  〇 漢副先生
  
 3年時だったか、いつもは大人しくて優しい漢副(漢文の副読本・論語だったかな?おとなしく真面目な先生なのであだ名はない)担当の若い先生が授業中、向かっていた黒板から突如振り返って最後列のYに向かって突進した。先生を小馬鹿にしてクスクス笑ったのである。(と、生真面目な先生の方が勘違いしたのかもしれない)
 イメージ 2小さい体の先生が大きなYに向かって、体ごとぶっつかるように殴り始めた。
 Yの「ごめんなさい!」の言葉も聞かず部屋の隅までなぐり飛ばしていった。その時の先生は顔面紅潮して鬼のようなすさまじい形相だった。いつも小馬鹿にされている鬱憤が一度に噴出したに違いない。 生徒たちはあっけにとられて、その間シ-ンと静まり返っていた。
  そしてそのまま、授業は打ち切りとなった。

 しかし数日あとになると、先生も生徒も何事もなかったように、今度はまた物静かな平穏な授業が始まり、我々のひそかな期待?を裏切ることとなったのである。

 ←  ベコ先生の生徒のスケッチ(サボリマン)


 Yとは戦後、一度東京行きの列車の中で偶然出会ったことがある。彼はもう東京近郊の刑務所の立派な刑務官になっていたが、学校時代のコワイ悪ガキの印象は全く消えて言葉つきも優しくシランは全く拍子抜けしたものだ。昔話の中にも、その激しいげんこつの話はとうとう出ずしまいだった。

 〇 ベコ先生

 そのころは母校の校舎の隣には県立高女と、市立高女の二校が並んで建っていた。 
 教室だった二階の部屋からは川向こうの女学生たちが見えるはずだったが、高い塀と植木に妨げられて、彼女たちの姿は全く見受けられなかった。当時の「男女七歳にして席を同じうせず」の風潮から見れば、彼女たちが教室から見えては若者たちの勉学の妨げになると思ったのだろうか。

  イメージ 1ただ、時々塀の下部に空いている水汲み場に、ちらちらとスカートが垣間見える程度であった。別部屋の図画教室からはその運動場が良く見える。悪友のYが授業のデッサン中の筆休めになんとなく運動場を眺めていたら、ベコというあだ名のT先生から思い切り殴られた。(ベコとはこちらの方言でアヒルの事を言う。体をゆすってペタペタと歩くのがアヒルに似ているからだろう。)

 小柄なベコ先生は自分より大きな生徒を伸びあがってよく叩くのである。Yは今でも、どうして殴られたか分からん、別にスカートをまくった女生徒の白い太ももを眺めていたわけでもないのに!」と、意気まいている。(・・という事は、Yはひょっとしたら、ほかの時に見ていたのかな??)

 ↑先生の自画像

 現在の男女共学、登下校も仲良くアベックで・・という風景を見ると、何とも今昔の感に打たれずには居られない。
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      ・・・・・      ・・・・・

 *今日は朝から風花の舞う寒い一日だった。
風花は晴れて居ながら遠くで降っている雪が風に流されてひらひらと舞い落ちてくることを言う。どこからともなく湧いてきたようにやって来る風花には、なかなか風情がある。
 風花(かざはな)というと、いつも学友の赤尾兜子のことを思い出す。
 学生時代から心象的な前衛俳句に親しんで、花鳥風月の伝統俳句に敢然と戦いを挑み、ついに自殺してしまった兜子。。
彼の最後の俳句は、前衛らしからぬ優しい伝統俳句だった。
芸術上の敗北感からだったのだろうか。学友の司馬遼太郎と陳旬臣の両氏が彼のお通夜に出かけている。あれからもう37年にもなるのか。。早いものだ。

         父として生きたし風花舞う日にも     兜子


      ///////
     //////

 

(33)修学旅行

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      (33)  「修学旅行」

 誰にでも中学時代の楽しい修学旅行の思い出があると思いますが、兄の学校では朝鮮・満州の旅行で、兄は向こうで刺身を食べたらしく伝染病の腸チフスにかかって帰国、2か月ほど学校を休むという散々な目に遭いました。しかし、シランの場合は平凡な関西旅行だっただけにそんな危険度はなかったです。
 戦時下の非常時なので、軍事教練はあるし、先生にはなぐられるし、受験勉強はしなければならないし、とにかく中学時代の楽しい思いでは少ない。せめて修学旅行くらいのものだろうか。
 中学三年の春休みに関西修学旅行があった。四年、五年は受験勉強で忙しいからだろう。

             〇 「大阪城」 ゲートル巻きに雑のう下げて、ぞろぞろと。。

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  門司から満州航路の「黒龍丸」に乗船、初めての汽船で眠れない一夜を明かせば,そこはもう神戸である。忠臣・楠正成を祀る湊川神社に詣でてから大阪に出て、大阪城、朝日新聞社の見学(その頃は地下鉄が出来たばかりで、まだ梅田から難波までの一直線だけだったが田舎少年にはとても珍しかった)

 〇「朝日新聞見学」  印刷現場でうなりを上げる巨大な輪転機に圧倒された
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 さらに吉野山の後醍醐天皇行在所(南朝皇居)、伊勢神宮と二見ヶ浦を見物して二見が浦に一泊、翌日は電車で奈良に出て大仏春日神社の見物だった。国粋主義の当時の日本だから、吉野山や伊勢神宮は欠かせない見学コースであるが、柏原神宮に詣でたかどうかは記憶にない。
 吉野山の宿屋の裏は断崖絶壁になっていて、トイレで用便するとしばらく時間を置いてから、下の方でかすかにポチャンと音がする。宿屋のはるか下の方を谷川が流れているという、いわば天然の水洗便所であった。

 〇吉野山、蔵王堂にて・・ (武運長久、国威宣揚とある)

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 京都は本願寺や平安神宮、嵐山などの見物をして、三条大橋のたもとの「いろは旅館」に泊まったが、まくら投げなど大騒ぎをして宿屋の番頭から「これだから田舎の学生は困る!」と怒られたのも今は楽しい思い出である。

    〇 清水寺    (ここにも国威宣揚、挙国一致とある。)

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 夜間の外出で盛り場の「新京極」に出てみると、何人もうろついている女学生たちの淡い水色のセーラー服が、いかにも京都らしく洗練されていて、胸が高鳴る思いがした。(いつか京都に行ったら、まだこのいろは旅館が残っていたが、すでに当時の木造三階建ての面影はなく、鉄筋コンクリート造りのホテルに様変わりしていた)
 旅行中、悪童連中が部屋から屋根に出て女湯を覗いたとかいう話が残って居るのは、どこの旅館だったのだろうか。。

    〇 三条大橋   三条河原は昔は処刑場で、豊臣秀次や石川五右衛門などが処刑された。

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 みんな、まだ15歳の性に目覚め始めた少年たちであった。
  奈良から京都に向かう電車の中で乗り合わせた子供連れのオバサンたちが、子供のことを「半時間もかかって念入りに作ったのだから、元気なはずだわねー」と大声でしゃべっているのが聞こえてきて、思春期の少年の胸がなぜかドキドキしたのを覚えている。(^-^*)

 帰途、瀬戸内海に浮かぶ厳島神社から江田島の海軍兵学校を見学。楽しかるべき修学旅行のコースも、やはり軍国思想、非常時体制の影響は免れなかったようである。その後、級友の5名がこの海軍兵学校に進学、一人は特攻で戦死した。

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(34) 「勤労奉仕」

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       (34) 「勤労奉仕」

 楽しかった中学の修学旅行が終わって四年、五年ともなると、戦争もたけなわとなり、中学生にも厳しい勤労奉仕が待っていた。日中戦争たけなわの昭和14年前後の事である。

      〇 土木工事
 
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                   (八田江湖の改修工事)

 泥沼にはまってトロッコに運び・少年たちは鉢巻締めて初めての肉体労働に頑張った。
              
 イメージ 3← (トロッコの土砂を、また大八車に乗せて運搬)

 このころはまだ舗装もしてなかった。
 今この道路を車で通りかかると、今昔の感にうたれる。
 八田江湖の泥運びなど慣れない土木作業は、少年にとっては重作業であったが、戦局もまだそれほど逼迫したものではなかったので、太平洋戦争末期のように授業を放り出して毎日、軍需工場へ働きに行くことはなかった。

 中学時代は軍需工場よりも食糧増産の意味もあり、勤労奉仕は出征兵士の留守農家の手伝いが多かった。
  田植えや稲刈り、麦刈りである。それも常時の奉仕ではなく、農繁期の時だけであった。


  田植えと言うのは案外難しいものである。
 今は機械任せで楽チンだが、昔はみんな泥沼にはまって中腰での手植えである。右手の三本の指で苗を握り、水の中では親指を放して残りの人指し指と中指の二本だけで苗をつかんで泥の中に突き刺すのだ。

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 足元はぬるぬるだし、一面の水田では腰を下ろして休むところもない。やぶ蚊に喰われて鼻の頭かゆくなっても、泥まみれの指先では鼻を掻くこともできないし、泥水の中のはだしの足には血を吸った「ヒル」が何匹もぶら下がっている。

 そのうえ、素人の悲しさ、田植綱を張っていても、苗の線が中々真っ直ぐにならないのだ。植えたはずの苗があちこちで倒れて水に浮いてしまったりする。


 農家の小母さんたちは後で植え直していたのかもしれず、 奉仕を受ける農家の方ではかえって有難迷惑だったかもしれない。少年にとっては苦しいだけの労働だったが、ただ昼飯に出てくるお握りだけが楽しみだった。

      〇  「稲刈り」    
 
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                                                   (稲刈り奉仕)
     
      稲刈り、麦刈りも簡単なようで中々旨く行かないものである。
      日の丸の旗の下、慣れない稲刈りで腰が痛くなった。

  〇 「銃後の乙女たち」

  もちろん戦時中は男子学生同様に、女学生も戦争の影響を受けなければならなかった。
 男子の剣道同様に、学課には「なぎなた」があり、また勤労奉仕や募金活動にも出動せねばならなかった。
 紀元節などには、軍装こそしないが、戦没者を祀る護国神社に参詣のためをに男子中学生同様に行進した。

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また、ガスマスクの装着訓練や、実弾射撃こそないものの小銃の扱い方などの訓練があったようである。

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 また、軍事費の募金活動や、千人針縫ってもらうために街角にも立ったのである。

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    (ビルマ戦線からイギリス兵が持ち帰った日本兵の千人針・血潮の跡がある)

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 しかし、太平洋戦争の激化とともに、女学生たちも授業どころではなくなり、毎日、毎日、農作業や軍需工場に働きに行くようになっていくのである。
 
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                      (女学生の稲刈り・佐賀)
                                          
 旧制中学や女学校のほとんどの授業が停止され、生徒は軍需生産や食糧増産に動員されたので、当然、当時の学生たちの学力低下は否めない。毎日、学校には行かずに工場に出勤して、大砲や飛行機の部品を作ったり、農作業ばかりしていては学力が付くはずがない。おまけに敵性語として英語が排斥されたせいもあって、当時女学生だった家内も英語力の不足を今にして痛感しているようである。

    ・・・・・
               ///////


(35)銃後の生活

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       (35) 「銃後の生活」 

 戦場で直接銃を持って戦闘に参加してはいないが、戦場の後方にあって間接的に何かの形で戦争に参加している一般国民の事を「銃後」と言った。では戦争下の一般国民の銃後の生活はどんなものだっただろうか。

  昭和14年、中学4年の時、総辞職した平沼内閣の跡を継いで阿部内閣が誕生した。その二日後の9月1日に、ドイツ軍がポーランドに進撃して、英、仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まったのである。
 
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                                               (第二次世界大戦勃発)


    阿部内閣はは第二次世界大戦への不介入と日中戦争の早期解決を意図したが、食料や生活必需品の不足が次第に目立ち始めてきた。 そこで政府は「国民精神総動員法」を施行して貯蓄増強、廃品回収、勤労奉仕などを奨励し、次第に国民の日常生活への締め付けが厳しくなってきた。そして政府は14年9月1日を期して毎月の1日「興亜奉公日」と定めた。 
 
 イメージ 9この日は全国民が朝早く起きて神社に参拝し、食事は一汁一菜、禁酒・禁煙に努め、子供の弁当は梅干一個の「日の丸弁当」とし、それぞれ勤労奉仕に励み飲食、接客業は休業するという、今から考えるとなんとも味気ない興亜奉公日であった。  

(*この興亜奉公日は太平洋戦争が始まった16年12月以降は、改称されて毎月8の日が
大詔奉戴日」となった。宣戦の詔勅に思いをはせて、大戦を勝ち抜こうというのである)

 中学の五年生だった昭和15年は皇紀二千六百年記念の年で、全国的な記念行事が盛大に行われた。戦前の愛国的、神国思想による紀元は、西暦より660年前の神武天皇即位を元年として、皇紀を定めていたのである。

 イメージ 2東京の宮城前広場では、天皇・皇后両陛下の御臨席のもと、国内外の招待者5万人が参列し、まず近衛文麿首相が、「寿詞がよごと」を読み上げた。

  「国のはじめの神武天皇即位以来、皇統一系連綿として、今日まさに紀元二千六百年を迎えた」と、比類なき日本の国体をたたえた。 この年に作られた「紀元二千六百年奉祝歌」は、全国津々浦々で歌われた。

        ♪金鵄輝く日本の          
          栄ある光身にうけて 
          いまこそ祝えこの朝 
          紀元は二千六百年 
          あゝ一億の胸はなる

 しかし、当時、戦費調達のため煙草の価格が値上げされ、国民はその腹いせにこんな替え歌を歌ったりしていたのである。


   イメージ 10イメージ 11          イメージ 3金鵄あがって十五銭、  
         栄えある光三十銭、         
          朝日は昇って四十五銭
         今こそあがる煙草の値
          紀元は二千六百年、
          あゝ一億の金は減る


 
 

イメージ 4しかし奉祝気分とは裏腹に、戦争の厳しさが国民の間にも次第に重苦しくのしかかってきた。この年の7月7日に「奢侈品など製造販売禁止規則」が施行された。  世にいう贅沢禁止の「7,7禁令」である。
 このため金糸銀糸の伊勢崎銘仙などは売れなくなり、 銀座など、繁華街の街角には「日本人なら贅沢はできないはずだ!」という立て看板が合計1500本も立てられた。

  そして国防婦人会などのエライご婦人たちが「ぜいたくは敵だ!」というタスキをかけて街の辻々に立ち、道行く女性のタモトの長さやパーマネントの頭に文句を言う。ハイハイとおとなしく聞いておれば良いが、うっかり口答えしようものなら、居丈高になって住所氏名を調べたりするのである。

  昭和17年11月には、大政翼賛会、朝日、読売などの新聞の主催で「大東亜戦争一周年、国民決意の標語」が募集され、国民学校小学校の5年生の女生徒の作品「欲しがりません。勝つまでは」が当選した。しかしこの標語の実際の作者は戦後、昭和50年になって、その女生徒の父親だったことが判明した。
   当時は、パーマ排斥の風潮に便乗して子供たちまで、こんなざれ歌を歌ったりしたのんを覚えている。

   イメージ 6 ♪パーマネントに火がついて
     みるみる内に禿げ頭
     禿げた頭に毛が三本
     ああ 痛ましや 痛ましや
     パーマネントは止めましょう

 また次第に食糧事情も逼迫し、昭和16年には、米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制度が実施され、翌年の4月からは米の配給の割りあてが決まり、一般成年は一日2合3勺(330グラム)となった。

 (*衣料品の切符制が始まったのは昭和17年からで、一人年間100点では背広一着50点とオーバーの50点を使うと、後はパンツ一枚も買えないという厳しさだった)

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 さらに小学校は国民学校と改称され、一年生の国語読本の最初は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」となった。
  我々の小学一年の時は「ハナ ハト マメ マス」だったが、次の年から「サイタ サイタ サクラガサイタ」に代り、さらに「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」などの軍事色の強いものになっていった。
 イメージ 7


 中学生と言えども、安穏には暮せない世の中になってきた。  昭和16年に卒業するまで、私たちは今までの普通の制服制帽だったが、これから後の後輩たちは戦闘帽に、カーキ色の軍服風の制服になって行った。

          「母校の後輩たちの制服制帽」

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            ・・・・・   ・・・・・・

 *今日も寒かったですね。・・と、これが連日の口癖になりました。
  こんなに寒い日が続くのは初めてです。暖かいはずの当地でも佐賀空港で最低気温がー4,5度だったとか。。
 でも戦時中は暖房も火鉢くらいしかなく、寒かったでしょうね。
 そんな時代を過ごしながら、のど元過ぎれば熱さ忘れる・・で、昔の暑さ寒さの程度はすっかり忘れています。人間とはいい加減なものですね。。
 中学の英語の時間にこんななのを習いました。。

    You  might  think  head,  today`s  some  fish

         言うまいと  思へど  今日の  寒さかな

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                                                      (雪ダルマならぬ雪うさぎ)

(36)戦時下の衣食事情

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      (36) 「戦時下の衣食事情」

 昭和17年になると「食塩の配給制」「ガス使用割り当て制」「味噌醤油切符制」が矢つぎばやに実施され、続いて衣料品の点数切符制が実施された。一人当て一年に都市では切符の点数が100点で郡部では80点である。この切符を使って亡くなればもうその年は衣類は買えないのである。
 その点数はたとえば・・・

 イメージ 1帯どめ・よだれかけ・2点、
 前掛け、エプロン、足袋・3点、
 猿股、パンツ、ズロース、ブルマー・5点、
 半ズポン下、ステテコ、腹巻き・8点、
 作業服・30点
 婦人ツーピース・35点、国民服・40点、
 婦人外套・50点、背広、モーニング・63点
      などなど。。

 その頃、友達の桑畑とオーバーを注文に行っている。

  「昭和17年12月2日」の日記

 霧の深いのに驚く。
心斎橋筋の大野呉服店にオーバーの注文に行く。本年中にできるとの事だが確かではない。代金百円、衣料切符40点、スフ3割混紡。 昨日から学校のパンの配給がなくなった。

「12月5日」 仮縫い、25日に出来るそうだ。

「12月26日」土 曇り
今日は法律の期末試験だけだ。8割から9割の出来か。。
明日からは冬休み、やっとオーバーが出来てきた。95円、今からこのオーバーを着て故郷に帰る所だ。下宿のオバさんさんからお土産を貰った。。

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 ↑ 戦後の学生時代、 95円のオーバー、
   当時はダブルの野暮なオーバーだったが、戦後20年も着ていた。(右

イメージ 2*そのころは注文服ばかりで、既成服はなかったのだ。
 仮に衣料切符の一人100点を全部使うと、ズロースやブルマーだけなら20枚買えるが、男性が背広を一着新調するともうその年は、ワイシャツ1枚、婦人のワンピース一着、帯止め一個でおしまいである。

 衣料品に限らず、品物には公定価格(マル公)が決められ、公定価格以外の値段で売買したり、配給品以外の品物の裏取引には「闇売り」という言葉が使われるようになった。そしてこれら統制経済の取り締まるために「経済警察」という特殊な警察組織が設けられ、闇売り、闇買いや公定価格違反などを取り締まった。
 違反した一般国民や商人たちはこれを「ケイザイ」と呼び、ケイザイが来る・・などと言って恐れていた。共産主義者や反体制運動家などの思想犯を取り締まった「特別高等警察」いわゆる「特高」と同じよなもので、いわば経済関係の「特高」であった。


 国民生活への戦争の影響は、衣料や食料だけではなかった。人間の召集令状同様にお寺の釣り鐘などの金属類にも「お召し」があったのである。昭和17年5月には「金属回収令」が出され、寺院の梵鐘や仏具の強制供出が命じられた。もちろん一般家庭も自発的に供出を促され、門柱、門扉、手すり、欄干からスズラン燈や傘立て、置物まで金属類が指定された。
 我が家の床の間の銅製の置物なども供出したらしいが、大事なものは母がこっそり天井裏に隠していた。しかしネズミにオシッコでもかけられたのか、戦後取り出してみるとあちこちにシミが出来ていた。。もし隠しているのを見つかれば、非国民として指弾されたに違いない。当時はこれを「くろがね動員令」と言っていた。

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                                             (お寺の梵鐘も砲弾に・・)


 戦争はまず男子の仕事である。戦争が始まれば男子労働力の低下となり、軍需産業への労働力の流出で農業従事者の減少と肥料の欠乏により農業生産が停滞し、食料の絶対数が減少して食糧危機が訪れるのは当然の事だった。昭和18年ごろになるとその食料危機は深刻になってきた。
 これに対処するために裏作の強化、サツマイモの増産、不要不急の果樹園や茶畑の整理などが行われたが、これだけでは国民一人当たり、一日2合3勺の米が維持できなくなり、昭和20年には、配給も2合1勺に切り下げられている。
 
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 その配給米も白米が7分搗きから5分搗きとなり、色が黒くなるばかりか、ついには玄米そのままになり、家畜が食べるものと大差ないような状態になった。そのため主婦は毎日、玄米を一升瓶に入れて棒で搗いて少しでも白くして食べようと苦労したのである。

 また、麦飯、大豆飯、高粱飯はもちろんの事、僅かばかりの米にジャガイモ、サツマイモ、大根などを混入してご飯の量を増やしたり、戦争が激しくなるにつれて、米は無くて、さつまいもや南瓜だけの食事とか、汁にメリケン粉を落としただけの「すいとん」や雑草の屑や豆粕を入れた雑炊などの代用食が普通になってきた。

 イメージ 7戦争も末期の昭和19年ごろには東京などの都会では「雑炊食堂」ができた。これは屑米や玄米に野菜や貝類、何とも訳の分からぬ肉を混ぜて、塩で味付けしてドロドロになるまで煮込んだ雑炊を「自由販売」する食堂だった。どんぶり一杯が10銭、中身は平時ならゴミに捨てるような食べ物のクズだったが、開店の前には長蛇の列が出来て1時間半ほどで売り切れたそうである。

  ← 米の通帳、この通帳がなければコメを買うことが出来ない。

 そんな窮迫した食糧事情の中、腹をすかした国民の自衛手段は家庭菜園で細々と馴れぬ手つきで自分に食べ物を作り、満員電車に乗って農家に買い出しに行くしかない。それも高いヤミ値段で買わねばならぬし、見つかれば大変である。しかし、家族を飢えさせるわけには行かないのだ。それも農家はただでは売ってくれない。三拝九拝、頭を下げて衣類などを代金に上乗せして食料を分けて貰うのである。

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                                          (満員の列車で買い出し)


 イメージ 6そのため農家も質より量という考えになり、成るべくカサばる物やトウのたった物が多くなり、木のようなホウレン草やお化けのような黄色い胡瓜などが多くなり、中には細長い竹のステッキのような竹の子まで現れて「ステッキ竹の子」と呼ばれたそうである。そのうち政府も「雑草食」の小冊子を作って、人間が食べなかった野草まで食べられると宣伝し、特にサツマイモと南瓜の栽培を奨励したのである。

  ↑ 九里よりうまい十三里のサツマイモも、毎日毎日ではうんざりする。。

  ・・・・・       ・・・・・・・

*曇りがちで相変わらず寒いが、雪はない。
 朝、歯医者さんに行って、銀冠の交換。今度は白い材料なので本物の歯よりも白い。
 で、久しぶりに鏡で自分の歯を見てみたら、ありぁや・・まっすぐに並んでいたはずの下の前歯が、デコボこの乱杭歯になっている。特に真ん中の歯が浮き上がって高い。
 こんなにして人間は次第に歯が抜けて行くのだろうか。。

 
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                                                  (霧氷)

(37)銃後の世情

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       (37) 「銃後の世情」

 銃後、つまり戦時下の衣食の事情は前述の通りだが、一般庶民の暮らし、生活ぶりはどんなものだったろうか。

   〇 「隣組」
 昭和14年8月に当時の「東京市」は市民に「隣組回覧板」を配布し、また「隣組回報」を月2回配布し始めた。その後昭和15年9月、内務省は「部落会、町内会等整備要綱」を発表して全国に約1万9千の「町内会」と12万の「隣組」が整備された。
 農村などでは、昔から隣保組織が都会よりも以前から存在していて、国の政策を上から伝達するために効果をあげていたので、隣組を全国の都市にに応用したのである。 その単位は最小で10戸内外で、全国の隣組に「常会」の開催をよびかけ、ラジオでも「常会の時間」という番組まで常設し、マイクを通じて常会の司会や指導をしたり、いっせいに「宮城遥拝」を行ったりした。

 この隣組の「常会」は必ず定期に開かねばならず、常会の班長や世話役が正確な情報の伝達に活躍し、「回覧板」がしきりに行き来するようになった。いわば、「上意下達」という政府の国民支配用の「末端組織」とでもいうべであろうか。 
 この頃、岡本一平作詞の「隣組」という歌がラジオで繰り返し放送され、全国津々浦々で歌われた。
 
 一、 とんとんとんからりと隣組、
    格子を開ければ顔なじみ
    回して頂戴回覧板  
    知らせられたり  
    知らせたり

  〇 「防空演習」
 
 イメージ 1‎砲弾の飛び交う戦場はもちろんだが、戦争であるからには銃後の国内も戦場であるのには違いない。その最たる物は敵機による空襲である。

 そこで空からの攻撃に備える「防空演習」が昭和3年に大阪で初めて行われ、関東で「防空大演習」が初めて実施されたのは昭和8年であったが、国民はまだ現実に空襲があるとの危機感はなかった。


 イメージ 2しかし、開戦4か月目の昭和17年4月18日のアメリカの「ドウリット空襲」に遭って始めて国民は戦場だけでなく、内地本土も戦場であることを実感したのだった。
   これは太平洋上の空母「ホーネット」から発進した「ドウリットル中佐」が率いる中型爆撃機B25・16機が、東京・名古屋・神戸を襲って中国大陸に着陸したものだが、寝耳に冷や水を浴びせられた国民は戦争の現実に深刻な不安感を抱くようになった。

  そこで政府は昭和18年12月21日に「都市疎開実施要項」を決定し、昭和19年には大都市の学童疎開が始まった。また同年11月24日にはアメリカの巨大爆撃機B29約70機が東京を初空襲し、その後帝都爆撃は定期化して行った。国民はもはや自分の手で家を、家族を守るしかほかはない。「防火用水」「防空壕」に頼るしかないのである。

    → 母校の防火訓練。簡単なバケツリレーだった。
     これで焼夷弾の火が消えるわけがない。。

  〇「防空壕」

 イメージ 7米機による大規模空襲が現実のものとなり、その空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校の校庭や家屋の強制疎開跡の空き地、個人の家の中などに防空壕が大量に作られるようになった。そして空襲警報が鳴るとみんな身近なところに造られた防空壕になだれ込んで身を隠したのである。

 1942年7月3日に内務省防空局の通牒「防空待避施設指導要領」には、床下に「簡易ニシテ構築容易ナルモノ」を設置するように指示している。我が家の倉庫の中の地面にも畳2畳敷きくらいの簡単な防空壕を掘って、上には畳を置き、それに土砂がかぶせてあった。シランは学校か軍隊に行っている時期なので知らなかったが、母や姉、女中さんたちの女手だけで造ったらしい。学校でも勤労奉仕で防空壕や防火用水池を掘りに出かけたことが何度かある。
 
   ↑ 防空壕に退避

 〇 「防空服装」

 イメージ 3当時の「防空服装」は、男女とも鼻と口、それに肩まで覆った「防空頭巾」をつけ、男子はその上に鉄兜をつけていた。それに防毒面(ガスマスク)、手袋、巻き脚絆(ゲートル)、地下足袋、女性はモンペにズック靴という身ごしらえだった。

  この「防空頭巾」は座布団を二つ折りにしたようなものなので、家庭でも簡単に作ることができ、持ち運びにも便利で軽い。それに綿がたっぷり入っているので、冬の防寒用にもなるというので、初めは女性専用だったが次第に男性も使うようになった。通学児童たちも必ずこの防空頭巾を肩からさげて登校する。

イメージ 4 「月月火水木金金」と言う歌が流行った昭和17年後半には、「防空頭巾」にモンペ、ゲートルという、服装の非常色が一段と色濃くなってきたのである。始めて東京空襲という戦争の現実を体験しただけに、男女ともにその服装には気をつかった。男性は背広に代わってカーキ色の「国民服」を着ることが多くなった。

                            →小学生のモンペに防空頭巾姿

  イメージ 5国民服は軍服に似ていて、戦場の兵士と心を合わせて戦おうという政府の思惑だったのだろうか。昔の中国共産党の「人民服」のようなものだった。

 戦時中はこの国民服さえ着ておれば、冠婚葬祭、正式の場でも何処でも、これだけで通用した。女性はモンペ姿なら文句を言われないが、男性は脚にゲ0トルを巻くことになっていた。

  ← 国民服。甲乙、


 イメージ 6元々、ゲートルはフランス語で要するに動きやすくするためにズポンの上から脚を包む昔の飛脚の脚絆のようなものである。軍隊では巻き脚絆と呼び、厚い木綿やラシャ製の幅8センチ位の細長い帯状の布である。

 このゲートルを巻くのが案外難しい。脚は大根のように直線では無いから、せつかく苦心して巻いてもふくらはぎの膨らみに所で、歩き出すとすぐにほどけてしまう。幸いシランたちは昔、中学の教練でゲートル巻きには散々苦労しているので、軍隊に入ってもその点では助かった。陸軍の歩兵の戦場では、このゲートルが骨折や負傷した場合の包帯代わりにもなるし、なかなか重宝なものではあった。

                                   戦時中の母校生徒の正装 (昭和20年)    →
                    戦闘帽にゲートル巻いて‥気をつけ~!!


        ・・・・    ・・・・・

(38)紀元節

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      (38) 「紀元節」

 朝起きてみて驚いた。一面の銀世界の中にボタ雪が深々と降り積もっている。昔から紀元節のころはよく雪が降るが、今年ほど降る年は少ない。昔はどうだっただろうか、人間の記憶はほんとにあいまいなものだ。日記には雪が降ったとの記録があってもその寒さの深度は覚えていないのだ。

  昨日は2月11日、建国記念日だった。昔はこの日を「紀元節」と言った。
学校の授業はないが、式があるので登校しなければならない。昔は子供も晴れ着の着物を着て、改まった気分で出かけたものだ。紀元節の頃は、最近のように雪が多くて、下駄ばきの生徒は雪が歯に挟まって転んだりして歩きにくい。田舎の小学校では登校する時に、先頭の上級生がデッキブラシで雪をかき分けて、一列に並んで歩いて行ったそうである。
 
                                          (雪の紀元節・画・南窓さん)
イメージ 1

 登校すると生徒全員,講堂に整列して紀元節の式が始まる。まず君が代の斉唱に始まり、校長先生が壇上に上がって御真影(両陛下のお写真)を奉安した扉を開き、「朕おもうに・・」教育勅語を厳かに奉読したのち、堅苦しい訓話がある。そして最後に「紀元節のうた」をみんなで斉唱して終わりである。

 イメージ 2♪ 雲に聳(そび)ゆる高千穂の
   高根おろしに草も木も
   なびきふしけん大御世(おおみよ)を
   仰ぐ今日こそたのしけれ

 それから各教室に戻って記念の紅白の餅を貰って帰るのだが、寒い時期だけに、冷たい板の間の講堂で裸足のまま、鼻水をすすりながら長い間突っ立っていた生徒たちは、やっと人心地がついて祝日らしい嬉しい気分になるのである。
・・・・・
                                                                                      (神武東征)

イメージ 7
(明治期の教育勅語奉読)
 
 ところで戦時中の学生時代には、この寒い紀元節の頃はどうしていたのだろう、当時の古い日記を少し紐解いてみよう。 大阪外語に入学した翌年、まだ1年生で18歳だった。

 ** 「昭和18年2月」の日記

 〇 「2月1日」 晴れ
6,7時限目欠課して映画「愛の世界」を見る。不良少女「山猫とみ」を主題にする高峰秀子主演、新鋭・青柳信雄監督の演出で近来になく面白い映画だった。「愛の世界」と言っても恋愛物ではなく、筋がまとまって画面も美しく、人の心を打つ、ほんとにいい映画だった。何とも言えない感動と満足感を得て帰途についた。

 〇 「2月2日」
舟橋聖一著「徳田秋声」と泉鏡花著「註文帳」を買い求む。今日は寒くて背中がぞくぞくした。

 イメージ 3 〇「2月3日」
回覧同人誌に何か書こうと思っているが、いざ書こうとするとなかなか書けないものだ。近頃は学校食堂で天丼を二杯食べないと腹の虫がおさまらない。だから学食に二回並ぶわけだ。高島屋の本屋で田山花袋の「生」を買う。明日は戸田と奈良へ写真を撮りに行くつもりだが、夕方から雨が降り出した。憎らしい雨だ!

  ** → 戸田は鳥取県出身、教室の席が直ぐ後ろだったので特に親しかった。良く彼と奈良や京都、映画や芝居を見に行ったものだ。彼はバスケット部の選手、明るくさっぱりとした性格で、軍隊では航空隊だったが、空襲で上半身にひどいやけどを負った。10年ほど前、京都であったのが最後だった。
   久しぶりに若き日の写真を見て、懐かしい!

 〇「2月7日」
   雨。奈良行き中止、映画希望音楽会を見た。
 〇2月8日 雨
 毎月8日は大詔奉戴日である。戸田から譲り受けた購入券で配給靴を買う。牛革ならんと思いしに、豈はからんや、クジラの革ならんとは!!十一文八分。22円66銭、半革や裏金の鋲を打って貰ったら別に4円80銭もかかってしまった。実にばかばかしい。鯨の革だから、海の上を歩くのなら好都合だろうが。。  マァ、仕方がない、これで卒業までは保つだろう。
風邪を引いたらしい、鼻水が出て頭が痛い。明日は耐寒行軍だというのに。。

 〇「2月9日」 雨と雪
 耐寒行軍、行軍とは名ばかり、全くの野外教練だ。雨を交えた横なぐりの雪をついて、冷たい水の中をじゃぼじゃぼと急進し、さらに川に飛び込んで、靴やゲートルは水浸しだ。午後はその濡れたままの服装で、野外に1時間ばかり伏せの姿勢で守備の訓練である。 とにかく、辛かった。
夜、クラスの同人誌の原稿を書く。

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                                          (中学時代の行軍・延々と・・)

 〇「2月11日」
 紀元節。式後、報国団の歌の練習あり、昼過ぎから何かにかぶれたらしく全身に吹き出物が出来始めた。
 〇「2月12日」
 ついに顔にまで湿疹が出始めた。学校を休もうかと思ったが思い切って出かけた。学校では顔には吹き出物が出ずに助かったが、最後の七時限ごろにまた顔に現れ、カユイ、カユイ、痒さ耐えがたし。同級生が何かと心配し、慰めて呉れるのが有難い。帰途、薬局にて聞きたれば「蕁麻疹」とのこと、さては学校食堂で食べたサメの肉が当たったのか。。近頃の学食は何でも天ぷらにするから、その油が悪かったのかも。。  とにかく油類は一切だめだ、との薬屋のおっさんの宣告である。
 ああ、カユイ!カユイ!  家より小為替届く。

 イメージ 8〇「2月13日」
昨夜から下痢しきり、逆にそのせいなのか、かゆみ、腫れ共に快方に向かう。但し、今日の射撃部の練習は取りやめた。映画「戦いの術」というのを見たが、まことにつまらん。天王寺動物園に行く。母校の佐中の生徒4,5名と出会う。受験だろうか? 1年前の我が身をを思い出して懐かし。。
 〇「2月14日」
一日中、同人誌「雑草」の原稿を書く。創作「ある老人の話」「妹よりの手紙」の2編、それに散文詩「星」。 家より「ごぼう⦆が送ってきた。はるばると・・

 * 自称、文学青年を気取った仲間たちが、ガリ版で作った真似事の文芸誌「雑草」は、踏まれても踏まれても尚、たくましく生き抜くという意味だった。

↑仲間たち。上六の関急映画館前にて、映画は「怒りの海」らしいが、忘れた。


 〇「2月20日」
 今日、土曜より日曜夕方まで奈良県柏原までの耐寒強行軍。
国分より柏原まで、次いで柏原より高田まで行軍、史跡見学を交えて44キロだった。柏原神宮道場にて一泊。
 明日は休みかと思いきや、なんと「明日は平常通り授業がありますヨー」 だと。。

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                      (樫原神宮道場前にて)

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 ← 上の写真の中に偶然メガネの司馬遼太郎さん(左下)のすぐ後ろにシランが並んで写っていた‥奇遇である。

〇「2月27日」
 勤労奉仕・防空用の貯水池掘りに粉浜へ行く。もっこ担ぎで肩がめり込みそうに痛かった。

〇「2月28日」
 勤労奉仕・防空壕と貯水池掘りに生野へ。
昼飯はとてもご馳走で、昨日のお握り二個とは雲泥の差で、食べきれないほどだった。飯がうまいと途端に元気が出る。しかし洋服はびしょ濡れだ、衣食両立せず!? ・・と、言ったところか。。
 国語と、法律の勉強をする。

    ・・・・    ・・・・・

 *昔の日記を見てみると、こんな事があったのか?と、我ながらなかなか面白い。まだまだ少年なので、食べ物の事や軍事教練、勤労奉仕の辛さが主で、勉強のことはとんど書いていない。ただ、よく友達と映画を見に行き、古本屋で本を買って読んでいたようだ。クラスで回覧の文芸誌を作って、勝手に小説や短歌、、俳句めいたものを書いていたのも懐かしい。
 
昭和18年はまだまだ戦争の深刻さが内地には伝わっていないようだが、これからは日記の内容も次第に深刻になってくる。日記の内容も単なる日常の生活の記録ではなく、精神的な大人じみた内容に変わっていく。文学書の読みすぎか、間もなく戦争に行かねばならぬ心の焦りなのか。。

 **あれから75年経った昨日の紀元節も寒かった。
でも、牡丹雪の合間に時折除く青空が済みわたってすごくきれいだった。風と雪で空中のゴミが払い落されたのだろうか。
 75年前の紀元節はどうやら雨だったようだが。。

     ・・・・・      //////

                     (裏の小川の雪景色・・今朝)

イメージ 9
 

(39)徴用令

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       (39) 「徴用令」

 イメージ 1勤労動員は、何も学生・生徒ばかりではない。一般社会人でも軍隊や重要業務についていない平和産業従事者には「徴用令」によって軍需工場などで働かねばならなくなったのである。
 昭和14年7月に「国民職業能力申告令」が公布され、戦争のために人的資源を動員する「徴用令」が出来た。 戦争に関係のない仕事についている者には「徴用令状」によって強制的に軍需工場で働かせるようになったのである。強制的に軍隊に入隊させる「召集令状」は俗に赤紙と言われたが、白い紙の徴用令書は(白紙・シロガミ)と呼ばれていた。
                                           ↑  (赤紙・召集令状)
  ↓ (白紙・徴用令書)
 イメージ 2さらに昭和16年には「国民手帳法」が公布され、この手帳を持っていないと配給米の増配が認められない。軍需産業や鉱山従事者などで働く労務者と技術者には米の増配が行われていたのである。

 また「国民職業能力登録制」が実施された。これらの手帳は、手帳と言っても一種の身分証明書みたいなもので、およそ600万人がその対象になった。中学を出たばかりの兄が書いたその職業能力申告書の控えが残っているので見てみると、申告しなければならない者は・・
 
     ①16歳から40歳までの男子
     ②国民労務手帳を受けている者
     ③中学以上の学校に在学する者(男子)
     ④十六歳から25歳までの配偶者のない女子(在学者は除く)
・・・

 となっていて、男子だけでなく、一般の未婚の女子まで職業能力の登録をされたようである。

 そして1944年(昭和19年)には学生、生徒の年間を通じての工場配置が閣議決定された。旧制中学や女学校のほとんどの授業が停止され、生徒が軍需生産や食糧増産に配置されたのである。学生はもう毎日学校に通学!するのではなく、工場に出勤!することになったのである。
 大学高専の学生はもちろん、中学生や女学生まで軍需工場で強制的に働かねばならなくなって、もはや「勤労奉仕」ではなく、学生を強制的に働かせるいわゆる「勤労動員」であった。
 
  〇 勤労奉仕から勤労動員へ

 (**昭和17年の日記にも、たびたび勤労奉仕の記事が出てくるが、この頃は時たまの勤労奉仕の段階で、学校に行かずに毎日工場へ出勤する勤労動員ではなかった。。

「昭和17年9月17日」の日記・(木) 晴れのち曇り
 午前中、防空演習用の土嚢作りありて、授業なし。

 イメージ 3「9月18日」
防空訓練有りて教練なし。次回の教練では小隊長を勤めねばならず、誠に嫌な事なり。

 「10月19日」 (金) 晴れ、秋の空
勤労奉仕の日なり。7時半、大阪城大手門前集合、教練服にゲートル着用。昼食携行。大阪陸軍補給廠にて勤労奉仕、熱汗を捧ぐ。いや熱汗というほどの仕事ではないが、いろいろ珍しい兵器が並んでいた。捕獲米機、ボーイングB17とダグラス両機、大阪上空を旋回飛行。
 「11月2日」 (月) 快晴
 今日は放出に高射砲構築の勤労奉仕に行った。土運びだったが、相当にくたびれた。学校で「いも」の配給有り。最近はイモを食べることが多いので、オナラが出て困るよ。                                     ↑小隊長はつらい・・
 
 イメージ 5 「11月7日」(土) 曇り
 午後、ベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」を見る。感激す。いつ見ても良い映画は気持ちがいい。家より布団が届いた。下宿の伯母さんが梱包の荷ほどきを手伝ってくれた。座布団、寝巻き、キヤラメル1個、羊羹二箱あり、おばさんに羊羹一箱呈上す。今夜9時より奈良県の柏原まで、夜行軍有り。

           →昭和11年・ベルリンオリンピックのヒトラードイツ総統
 

 「11月8日」(日) 曇り 

 昨夜からの柏原までの夜行軍、あまり眠いことはなかったが、足のだるい事おびただしい。特に行軍の速度の速い事と、寒いのには弱った。柏原に着く頃は完全に伸びて足元もフラフラだった。夜9時15分、大阪上本町八丁目の母校を出発、今朝7時45分、奈良の柏原神宮前到着だったから、10時間半歩きづくめだったわけである。

 そして直ちに、飯も食わずに朝7時54分発の電車でトンボ返り、上本町駅には午前9時についた。なんだ!1時間しかかからない。10時間も歩いて、帰りは1時間とは。。コンチクショー! 何とも不条理極まる夜行軍だった。 
 腹いせに眠いのを我慢してドイツ映画「祖国に告ぐを見る。
 下宿に帰り、午後2時から5時半まで爆睡す。

 
イメージ 4
                                                 (柏原神宮道場前にて)


 「12月17日」(金) 晴れ
 昨日と今日、防空防火の訓練があった.
天王寺消防署長の話によれば先の神戸空襲の際には460発の焼夷弾が落とされ、15か所が火事になったそうである。。

* 以上の昭和17年までは、勤労奉仕も学業の合間に、という風であったが、19年に入ると戦局はますます厳しく、安穏として学業に励むような余裕はなくなってきた。
  学生であっても、下宿の地域の警防団に組み入れられて、警戒警報が出ると深夜であっても小学校に集合させられ、一般の住民とともに待機せねばならなかった。

    ・・・・・・          ・・・・・・
*昨夜飲み会から帰ってみると、なんだか急に奥歯の歯茎が腫れている。
 先日、その前の歯が欠けたからそこからバイ菌が入ったのか、久しぶりのアルコールが禍したのか。。
 今朝は早速歯医者さんへ。レントゲンを撮ってからガリガリとやられ、新しい被せものの歯型をとって、ハイ終了。。抗生物質を貰ったので、だんだんに治まるだろう。
 老いは辛い、歯の中ももうボロボロだろう。


         衰ひ(おとろび)や歯に食い当てし海苔の砂       芭蕉


イメージ 6
                                              (裏の小川の雪化粧)

(40)勤労の日々

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        (40) 「勤労の日々」

 昭和19年になるともう大変である。
戦局が益々急迫して学生も学業どころではなくなってきた。授業よりも連日、勤労動員に狩り出されて、学生なのか職工なのかわからないような有様である。長崎の三菱造船や電機工場では、工場に動員中の多くの中学生や高工生たちが原爆の犠牲となった。  

イメージ 6

 
 ○ 昭和19年1月6日

   昨日5日、正月休みの帰省先から帰阪、今日は早朝から阪北の坂根金属への勤労奉仕である。
 轟々たるクレーンの響き、紅蓮のような溶鉱炉、あたかも芸術品のごとき真紅の鉄塊、飴のごとく伸びた真鍮の焼けた棒たち・・
 ああ、これらがあの天翔ける飛行機となり、弾丸となるのか。。 勤労奉仕での過酷なる重労働。これも経験なり、試練なり、願はくば、わが心の血となり、肉となれかし・・


イメージ 1○昭和19年1月17日
 6日から11日間、生産増強のため工場(坂根金属)へ勤労奉仕に行った。
 毎日、朝は夜明けの明星を眺め、夕べは宵の明星を仰いで帰ってきた。蚊の涙ほどかも知れないが、戦力増強、報国のために微力を尽くすことができた。まことにこの十日間ほど気持ちよく、そして力いっぱいに充実した仕事をしたことがない。
 
 「生活の真実」は案外、ここにあるのではないか、という気持ちを強く持った。 職工も真面目だし、学生への認識もよく、まことに爽快であった。その気分のゆえに、あまりに肉体を浪費する勤労作業をサボろう、サボろうと思いながら、ついに皆勤してしまった。(*とにかく、あの頃はみんな生真面目だった・・)
                                                                                                   ↑(学生も旋盤工として汗を流す)                      

  19年5月からは大阪城内にあった「陸軍造兵廠」で働かせられた。ここは、元の砲兵工廠で、私の配属された職場は最新式の電動式巨大高射砲の製造現場であった。
 1万mの高空を飛ぶアメリカの長距離爆撃機B29には、それまでのわが軍の高射砲では7千mまでしか弾が届かず、対空砲火も戦闘機もみすみすB29の跳梁を見逃さねばならなかった。
  
  イメージ 2この巨大な新鋭高射砲は、射程1万mを超える高性能ということであったが、私は完成前に軍隊に入ってしまい、B29撃墜に活躍したかどうかは知る由もなかった。(*終戦間際にようやく2門が完成して、東京の久我山陣地に配置され、一発で二機のB29を撃墜したと、戦後、教えて貰ったことがある。全電動式で砲身の長さが9mもあった。

  ↑五式15センチ電動式高射砲


  イメージ 3肉体的には辛かったが、軍隊の工場なので大豆飯ではあったが、昼飯も腹いっぱいあり、気持ちが勉学よりも労働の方に集中していて、精神的には返って充実していたような気がする。

 ただ技術将校たちが居丈高に威張り散らして叱咤激励するのには、若者の正義感から強い反感を覚えた。美食を食らい、良衣をまとって最前線の兵士たちの苦労を知らぬげに行動するのが、癪にさわってたまらなかったのだ。

    → 写真の中に、「生産増強で古賀元帥にこたえよ‥」とあるが、山本五十六長官のあとを受け継いだ古賀連合艦隊司令長官も殉職した。古賀元帥は母校の先輩だった。。

イメージ 5

 
  *昭和19年はこのように、学校よりも造兵廠で働く方がほとんどだった。朝、学校に集合してから電車に乗り、国鉄城東線の放出(はなてん)駅で降りて、大阪城の東にある「陸軍造兵廠」に向かう。ある日、その途中のドブ川の橋の下の暗隅になにやらうごめくものを見た。人間である。しかもそれは数人の色の白い西洋人であった。洗濯物を干しているようでもあった。おそらく、戦場から連れてこられた捕虜なのか、あるいは隔離された民間人なのかもしれない。

 橋の下は、洞窟のように暗く、川は黒く汚物で濁って臭気を放っている。見てみると、そこから陸地に上がる道はなさそうであった。彼らはどんな気持ちで、この異国の暗闇の中で生きているのであろうか・・
  私は、そこに戦争というものの悲惨な暗部を見せつけられたような気がした。
 
 
 ○ 「7月18日」
  サイパンの同胞、ついに全員戦死。 悲壮の極みである。
  本日、東条内閣総辞職! ああ、一言もなし・・
 海軍大臣、交代。野村海軍大将。   
   参謀総長、交代。梅津陸軍大将。

 ○ 「7月21日」
  陸軍大将小磯国昭、海軍大将米内光政両名に大命降下。
  決戦時における内閣の更迭はまさに日本の一大失態なり。
 されど光輝ある日本の国体はよくこの難局を 突破せん。

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                             (学童疎開)


 ○「7月22日」
  敵、大宮島(グァム島)に2個師団をもって上陸、激戦展開中なり。
  決戦!決戦! 小磯米内協力内閣成立。
 ○「7月23日」 (そのころ、九大・経済を受験していた。)
  快報ついに来る!九州帝大に合格! 下宿のおじさん、おばさんから祝福を受ける。。
 親友のSも合格。  I は京都帝大文学部合格、Aは失敗したらしい。。
  
 ○ 「7月27日」
  徴兵検査のため、明日帰郷の予定。
  下宿の子息二人(中学と小学生)も明日、おばさんの故郷、浜松へ学童疎開とか・・
 生きて再びこの子らと会うを得るや否や、しばし感無量を覚ゆ。  熾烈なり、今日の戦局は。。
   ・・・  とある。。

         ・・・・・    ・・・・・・

 
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                                        さざんかの一つ残りて雪化粧    しらん

(41)徴兵検査へ

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       (41) 「徴兵検査へ」

 19年7月に、徴兵検査(通称・兵隊検査)を受けるために帰郷した。
 戦前の日本男児は20歳になるとみんな徴兵検査を受けねばならなかった。 徴兵検査を受けて初めて、日本男子としての自覚と気概を持つようになるのである。
「徴兵検査」では、身長、体重がまずまずであれば身体障害者でない以上、一応合格となり、召集令状がくれば、兵役につかねばならなかった。入営旗・・

 イメージ 1故郷の旧公会堂と呼ばれていた、畳敷きの大きな建物の中で徴兵検査を受けた。身長体重のほか、眼科、歯科、内科の検診があり、手足や指の屈伸をさせられたり、軽い運動をさせられたりしたが、もっとも屈辱的だったのは、性器、肛門の検査であった。

 胸や腹など型どおりの検診が済むと、次は最大の難関が待っている。素っ裸で検査官の軍医の前に進み出て、男子の大事な一物をしごかれ、そのあと犬のように四つん這いにさせられて肛門を覗かれるのである。いかに性病と痔の検査のためとはいえ、花恥ずかしき童貞の身としては誠に屈辱的な体験だった。

 (*その後、85歳の時、大腸がん手術の前に大腸内視鏡で尻の穴を覗かれたのが、二度目の体験である(^^*)



 検査の結果は「第一乙種」という一番平均的なものであった。検査の査定には「甲種」「乙種」「丙種」があり、乙種はさらに「第一、第二、第三乙種に分かれている。
 
 「甲種合格」は特に体躯抜群、身体強健な者が選抜され、「甲種合格」になる事は日本男子の名誉とされていた時代なので、「甲種」を言い渡されたものは、「OOは甲種合格!」と声高らかに、誇らしげに、検査官に向かって復唱していた。  しかし、日本男子の誉れでもある甲種合格となったこれら身体頑健な者達ほど、軍隊では砲兵など体力勝負の部署に回されて却って苦労したようである。

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    ↑ ベルリンオリンピック三段跳び優勝の田島直人選手も入営 / 昭和11年


 兵隊検査が終わった夜、小学校同窓のクラス会があった。幼馴染のKは京大、Mは東大である。
みんな兵隊検査のため帰郷していた。先生を囲んでみんなで暗い夜道を歩いて帰ったが、県さgあ済んでいよいよ入営間近を実感してか、誰も無口だった。
  
 「合格」は第二乙種までであったが、戦争も末期になると、第三乙種から丙種までもが召集の対象とされ、いわゆる「一銭五厘」の赤紙といわれた「召集令状」を受けて戦場に向かうという、文字通り国民皆兵の状態であった。


イメージ 2

                                             召集令状 (見本)」

 イメージ 3検査は毎年夏に行われ、甲種と乙種に合格したものは、全員徴兵され翌年の1月に初年兵(二等兵)としてどこかの連隊に入隊しなければならない。初年兵として入営した連隊をその人の「原隊」と言う。 入隊した者は、平時であれば2~3年間兵役に服すると「満期除隊」となり、現役から予備役に編入されて家郷に戻り、それぞれの職業につく。(*隔絶された社会である当時の軍隊と監獄では、一般社会のことを「娑婆」と呼んでいた。)
  
 この家郷に戻った人たちの事を「在郷軍人」と呼ぶ。在郷軍人は40歳になるまで毎年一回の「検閲」を受けるが、非常時の場合は「召集」を受けて再び軍務に戻る。これが「応召軍人」で、その召集令状が赤い色の紙だったので、召集令状が来ることを「赤紙が来る」と称していた。

 在郷軍人に来るのが召集令状で、徴兵検査の結果、強制的に始めて軍隊に入るのは召集とは言わない。
 このように平時の兵隊検査の合格者は、第二乙種までであったが、戦争も末期になると、第三乙種から丙種までもが召集の対象とされ、中年男も「召集令状」を受けて戦場に向かうという、文字通り国民皆兵の状態であった。

イメージ 5
                                       
                 (応召の大高先生を、駅頭に見送る母校の生徒)

    ・・・・・     ・・・・・・

 羽生が敗れ、羽生が優勝・・
 今日はテレビから離れられない感動の一日だった。
  何よりフィギア、スケートで二本の日の丸が上がったのが嬉しかった。。
 やはりシランも日本人だったのだ。。

 
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 昭和11年、ベルリンオリンピック・日本選手団の入場


/////

(42)徴兵令

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     (42)  「徴兵令」

 戦前の日本国民の三大義務は、納税、兵役、教育であった。
明治維新後、富国強兵の名のもと、政府は「国民皆兵」の徴兵制を重要政策として採用し、明治6年(1873年)1月10日、大村益次郎、山県有朋の主導で「徴兵令」が発布され、全国に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の六鎮台(*のちの師団司令部)が設置された。その結果、満20歳の男子は「徴兵検査」で選抜して常備軍に3年間服務させることとなったのである。

 イメージ 4しかし、この徴兵制に反対する一揆が翌明治7年にかけて各地に続発した。中でも岡山県美作地方の徴兵一揆はその最たるもので、小学校や戸長の邸宅など400数軒が焼き打ちや打ちこわしの被害に遭ったが、大阪鎮台の軍隊の出動によって鎮圧されている。この時、一揆参加者の処刑は、死刑15人、懲役64人を含め、2万9千人にも上った。

 このような一揆のほか、強制的な徴兵制には反発も強く、はじめは戸主や官立学校生徒、官吏などで、270円を上納したものは兵役を免除されたが、後に免除の範囲が狭められ、明治16年になると、一定以上の教育、資産を持つ者のために一年だけの兵役義務が認められる「一年志願兵制」ができ、明治22年には新しい「徴兵令」が出来ている。

                                            ↑日露戦争時の陸軍歩兵

 これは明治22年制定の「明治憲法」の中の兵役の義務に基づくもので、これまでの免役事項もなくなり、「日本帝国臣民は満17歳より満40歳までの男子はすべて兵役の義務があるものとす」と定められ,以後昭和2年に徴兵制が「兵役法」に改められるまで改正されることはなかった。
  
 イメージ 1兵役法によると、兵役は常備兵役、後備兵役、補充兵役、国民兵役に分けられ、さらにその常備兵役を「現役」と「予備役」とに分けた。軍隊でよく使われた「現役」という言葉はここから生まれている。

 「補充兵役」には「第一補充兵」と「第二補充兵役」があったが、太平洋戦争中には「第三補充兵役」も設けられて、戦線の拡大に伴って、兵隊として召集される範囲はどんどん広がっていったのである。

 昭和12年、日中戦争が始まると、一般兵の在営期間が一年から二年に延長され、その後、在営期間が無期限に延長された。在営中の兵士が毎日夢にまで見る満期除隊の日はここに無に帰してしまったのである。

  ←昭和初年の陸軍歩兵


   さらに1943年(昭和18年)には朝鮮人と台湾人にも強制徴兵制が実施され、同年秋には大学,高専の学生に対する卒業までの「徴兵猶予」が廃止されて、文系学生の学徒出陣が行われて、多くの有為の若者が学業半ばで戦場に赴くことになった。雨の中の壮行会が忘れられない。

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                                       (雨の中・学徒出陣壮行会・昭和18年10月)

 イメージ 3この際、理系学生にはそのまま引き続き徴兵猶予が行われたので、この年は理系の大学に進学するものが急増したり、高等学校の文科の生徒が医大に進んだ者も多かった。尤も、それが人間の幸、不幸につながるとは限らない。

  高等工業に進んだ同窓のNは勤労動員で長崎の三菱電機で働いていて原爆に遭い瀕死の重傷を負ったし、旧制高校の文科から長崎医大に進んだHは、不運にも8月9日の長崎原爆に遭って亡くなった。彼は夏休み中
の臨時登校日で、幸運にもやっと汽車の切符が手に入って、喜んで登校したのに・・同じ友人のÅは不運にも切符が手に入らず登校せずに逆に助かった。幸と不幸の枝分かれ、何とも運命のいたずらとしか言いようがない。
 ↑長崎原爆のキノコ雲

 イメージ 5彼はもともと、京大の西田幾多郎教授に私淑していて、進学も京大哲学科の志望だったが、医者の父親が「哲学ではメシが食えないぞ」、と医学部進学を強く勧めたそうである。死後彼のお母さんは、あの時、父親に反対してでも京大に進学させておけばよかったと、涙ながらに述懐されている。

                                   → 西田幾多郎の「善の研究」

  昔は、この「善の研究」と阿部次郎の「三太郎の日記」が若き文系学生のバイブルだった。

 
 さらに翌19年には徴兵適齢が20歳から19歳に切り下げられ、この年は満19歳と20歳の二年分の徴兵検査が行われたのである。 
   このような国家総動員下の日本陸軍の兵力は、昭和6年の満州事変から翌年の上海事変によって軍拡体制に入り、昭和11年の日中戦争の本格化に伴い動員兵力は急増し、昭和13年には130万、太平洋戦争開始の昭和16年には240万、そして昭和18年に360万、19年に539万人となり、昭和20年の敗戦時には実に716万名にも達している。

 敗戦時の日本の17歳から45歳以下の男子の総数が約1740万人だったから、その4割以上が動員されて戦争に従事したことになる。そのため徴兵検査の徴兵率では、昭和13年の20%から昭和15年には50%、19年は77%、そして昭和20年には実に90%になる予定だった。徴兵令による選抜ではなく、もはや若い男子の根こそぎ動員だったのである。

   ・・・・・      ・・・・・

  羽生さんと小平さん、金メダルが2個・・オリンピックで日の丸が上がると、やはり感動しますね。
  みんなやっぱり日本人なんですね。

                 (昭和11年・ベルリン、オリンピック、女子平泳ぎ)

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前畑がんばれ!・・  前畑がんばれ!
     勝った、勝った、前畑 勝った!!

   ・・・・・・

(43)命の代償

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       (43) 「命の代償」
 
 昔はよく「兵隊の命は一銭五厘」と言われたものである。赤紙の「召集令状」のハガキ代が1銭五厘だったので、召集令状の葉書一枚出せば兵隊はいくらでも補充が効くというわけである。いわば、一銭五厘でいくらでも兵隊が集められる、という事である。。

 (*一銭五厘と言っても現代の人にはピンとこないだろうが、一銭は一円の100分の一、五厘は一銭の半分。子供の頃1銭玉一つであめ玉2個が買えた。ただし、この一銭五厘という話は俗説で、召集令状はハガキではなく封書で送られてきたり、直接役場から家庭に送達されていたので「一銭五厘の命」とは、兵隊は単なる消耗品に過ぎないという、意味の比喩に過ぎない)・・

 イメージ 1日露戦争当時、戦場慣れした兵士たちは、よく冗談に「我らの命は二銭五厘だ」と言っていたそうだが、この二銭五厘とは当時の弾丸一個の値段の事である。
  当時の歩兵第六連隊の斎藤中隊長(*のち中将)の話では、古参兵は新米の補充兵の事を「提灯」だ、と噂していたそうである。ひと戦さが終わると、「今度の戦いでは提灯がたくさん死んだ」という具合である。
                                            
                                            ↑日露戦争風刺画              

 イメージ 7充分な戦闘技術も教えられず、戦場に送り込まれた補充兵たちは、戦場でフラフラと立ち上がった途端に敵弾に当たって消えていく、その死にざまを提灯の儚さにたとえたのであった。また、戦死者の4割は頭部の負傷なので、これを「ポン、コロリ」と言ったりしていた。 ポンと撃たれてコロリと死ぬのである。

 これらのたとえ話でもわかるように、もともと軍の兵士に対する扱いは、いわば消耗品扱いになっていた。陸軍省が定めた「戦場掃除及び戦死者埋葬規則」によれば「帝国軍隊所属の死体は各々別に火葬し、その遺骨を内地に搬送すべし」となっていたが、そのうち「下士官、兵卒は止むを得ざる時は遺髪を取りて、死体は取りまとめて火葬するを得」となっていて、死んでまで将校と兵士とは差別されていたのである。

  ←昭和期の日本軍兵士

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                                       (沖縄方面軍、総司令官・牛島中将の墓標)


 日露戦争当時は、遺骨を遺族に交付するときも「遺骨を新聞紙、油紙、またはハンカチなどに包み、或いは煙草の空き箱に詰めて小包郵便で直接遺族に送った事があり、「このような行為は国民の感情を刺激して軍隊に及ぼす影響大なるを持って、以後改むるべし」、との通達が出されたこともある。いずれにしても、兵たちの命は「赤紙」一枚で調達された生命だったのである。

 イメージ 3こんな兵たちの命の代償とも言える、兵隊の給料はいったいどのくらいだっただろうか。
 昭和18年の「大東亜戦争、陸軍給与令」によると
 ☆将校
    陸軍大将  年俸 6,600円(月550円)
      中将       5、800円
      大尉       1,800円
      少尉       850円(月70円)
 ☆下士官 軍曹     360円(月30円)      →陸軍大将・東条英機     

 イメージ 4また私が予備士時代に静岡連隊に隊付き訓練に行ったとき調べた兵の給与は・・・
 ☆兵
  兵長  月額 13円50銭  戦時増俸 3円35銭
  上等兵     10円50銭  〃      2円62銭 
  一等兵     9円      〃      2円20銭
  二等兵     7円50銭  戦時増俸なし     ・・・・となっていた。

  ←日中戦争の兵隊さん、左が従兄

 ちなみに、我ら予備士官学校の候補生たちの給料は月に12円50銭だった。 士官候補生は兵長の13円50銭よりも少なかったのである。
 当時、中隊長に報告した私の「隊付勤務所感」の控えを見ると、「兵は日用品のために2~3円を所持すればよく、残余は貯蓄を奨励せしめつつあり、兵には10円以上の所持を禁じ、毎週土曜日に内務検査を行い、盗難の絶滅を期しつつあり・・」という自分の記述がある。

 大将の給料550円から、二等兵の7円50銭まで、あまりの落差に驚かされる。将校でも、最下級の少尉、中尉では生活は余り楽ではなかったようで、下宿代が月50円ほどかかるので、70円の給料では大変だったようである。唯、生活苦にあえぐ庶民の中には、「軍隊ほどいい処はない。靴から洋服まで呉れれるし、家もただ、そのうえ、三食ただ飯が喰えるので、軍隊ほど暮らしやすい所はない」とうそぶく者もいたが、これは偏屈者のやせ我慢で、極端な例である。誰が好んで貴重な命を投げ出して軍隊に入るものか。。
  
 一般の兵とは逆に、下層階級の将校の暮らしは、そうはいかない。下級将校の尉官は昔は「貧乏少尉、やりくり中尉、やっとこ大尉」という言葉があるくらいで、給料150円の大尉でやっとこさ、生活が出来るくらいであった。にもかかわらず、戦場で兵よりも真っ先駆けて敵陣に突撃するのは、一番下級将校の小隊長だったのだ。 それだけ一番早く死ぬのである。

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                                 (少尉任官時の軍装品価格・660円もかかった)
             *今なら数百万円か・・ただしそのうち400円は補助が出る。
 
 紫蘭が学生頃の昭和18年ごろの大学出の初任給が60円、学校の半期の授業料が60円、下宿代が二食付きで30円だった。家庭教師の謝礼がやはり月30円だったから、バイト代で何とか下宿代は稼げたのである。それも芦屋あたりの上流家庭の子弟の家庭教師だと、夕食付きで盆、正月には中元やお歳暮までついたのだから、家庭教師もさまざまであった。

    ・・・・・        ・・・・・

 
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                                   春なお遠し・・      (愛媛・寒風山)


(44)勲章の話

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        (44) 「勲章の話」

 軍人も大将ともなれば、最高の位だから給料も高い。。昭和20年の100円は今の20万円(1円が2000円)くらいだそうだから、660円の月給だと今なら1300万円くらいにもなる。なのに二等兵の月給7円50銭は僅かに1万5千円。。軍隊は襟章の星の数一つで、月とスッポンほどの違いがあるが、如何に兵の「命の代償」が安いかが分かるというものだ。

 大将の一段上に「元帥」があったが、これは階級ではなく名誉ある称号なので、元帥としての特別の仕事もなく給与もない。元帥は東郷平八郎や大山巌などのように、「国家に特別の勲功があり、老巧卓抜なる陸、海軍大将に与えられる称号」で、明治以来28名の大将が元帥になっている。

 イメージ 1昔は軍人の給料とは別に、勲章にも年金がついていたが、これは昭和16年に廃止され、以後は勲章には一切年金はつかなくなった。現在の勲章や褒章もそうだが、ただ文化勲章だけは350万円の終身年金がつくようである。

 ←文化勲章受章・司馬遼太郎氏

  〇 勲章

 そもそも「勲章」とは勲功を表彰して国家から与えられる賞牌のことであるが、昔から軍人は正装すると、胸にキラキラいっぱい勲章が光っていたし、軍人でなくても功績のあった人には,それぞれにいろんな勲章が与えらた。軍人ならずとも、勲章を貰うのはいつの時代でも嬉しいものなのだろうか。今でも勲章を貰うと、友人知己から盛大に祝賀会を開いて貰うのが通例になっていて、知り合いのパン屋さんは、先年、旭日小授章を貰って、ホテルを貸し切って盛大な大祝賀会を開いた。

 イメージ 2家内の弟は上級国家公務員として永年、本省勤めをしていたので、宮中に参内して勲四等・瑞宝小綬章を貰い、シランの兄は一兵士として20歳でビルマのジャングルで戦死したので、最下級の勲八等の勲章を貰った。。 (^^::)
 もちろん、どちらも年金はつかないし、祝賀会などもして貰っていない。兄の勲章は、仏壇の引き出しに黙って眠っているだけである。
← 戦死した兄の勲章は勲八等

 昔は信賞必罰が勲章授与の原則だから、時には勲章は権謀術策の手段としても使われ、様々な政治的な意味を持ったので、中には勲章を馬鹿にして軽蔑する者もいた。

   芥川龍之介の「侏儒の言葉」のなかに「小児」という短文がある。

・・・・・ 「軍人は小児に近いものである。
 英雄らしい身振りを喜んだり、動物的勇気を好んだりするのは、今更ここに言う必要はない。
殺戮をなんとも思わぬなどは、いっそう小児と選ぶところはない。 ことに小児と似ているのは、ラッパや軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも知らず、欣然と敵に当たることである。

 このゆえに軍人の好むものは小児に似ている。 勲章も、私には実際不思議である。
 なぜ、軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」・・・・

 むかし、シランが子供の頃にこんな歌が流行った。大臣、大将になるのが男の子の夢だった。

     ♪僕は軍人大好きよ
       今に大きくなったなら、
       勲章つけて剣さげて
       お馬にのって
       ハイ ドウ ドウ

 また、子供のチャンバラ遊びではよく、サイダー瓶の金の蓋を胸に着けて勲章代わりにして遊んだものだ。また明治時代の歌の「ラッパ節」の中にも勲章が出てくる。
    
   イメージ 3 「ラッパ節」

           大臣大将の 胸先に
            ピカピカ光るは 何ですぇ
           金鵄勲章か 違います
           可愛い兵士の しゃれこうべ
            トコトットット


            子供のおもちゃじゃ あるまいし
            金鵄勲章や 金平糖
            胸につるして 得意顔
            およし男が さがります
             トコトットト                              

      
   と、勲章を揶揄している歌もある。                    ↑東郷平八郎元帥
                                                           
  〇 金鵄勲章

 イメージ 4戦時中、陸海軍の将兵の中で、特別に武功を建てた者には「金鵄勲章」が与えられた。 金鵄勲章は、神武天皇即位から2,550年目に当たるといわれる、明治23年2月11日の紀元節【今の建国記念日】に制定された勲章である。

 この勲章の起源は,神武天皇が東征して、長髄彦(ながすねひこ)を討伐した際に、一行は暗い山道に迷ってしまった。その時、天皇の弓の先に一羽の「金色の鵄(とび)」がとまって、山道を照らして案内をしたそうである。                                                                             

 イメージ 5この神話にちなんで制定されたのが、金鵄勲章であり、昔の軍人としての最高の栄典のひとつである。制定に当たっては次のような「詔書」が出た。
 「武功抜群のものに授与し、永く天皇の威烈をあきらかにし、以ってその忠勇を奨励せんとす」とある。
 
 この金鵄勲章には功一級から功七級まであり明治27年10月「金鵄勲章年金令」が交付され、 功一級の900円から七級の65円までの年金が支給されることになったが、昭和16年6月に資金不足で年金をやめ、一時金の支給となった。

 ←功七級・金鵄勲章

 さらに、太平洋戦争後の昭和22年には完全に廃止されたが、この金鵄勲章は外国の勲章でいえば次の勲章に近いと言われている。

  イギリス・・「ビクトリア・ガーター」
  ドイツ・・「鉄十字」
  ソ連 ・・「レーニン勲章」

 しかし、外国の勲章は、武功だけでなく、も少し広い範囲の勲功に対して与えられたようである。
 中にはこんなワンちゃんにまで。。

         「我が輩も偉いんだぞー!アメリカ軍のスタビー軍曹は勲章がいっぱい・

イメージ 6
 
 スタビー君は(第一次世界大戦)で17回の戦闘に参加、2回負傷している猛烈軍曹です。。
        この誇らしげな・・と言うより迷惑そうなこの顔・・

   ・・・・・・           ・・・・・・

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                    (寒風山のあしあと)  
                             

(45)本土決戦体制

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      (45) 「本土決戦下の兵力動員」

 明治以来、日本陸軍の伝統として「食糧を敵に取る」という思想があった。戦地での食料は現地で調達するという意味である。日露戦争時の食料は、干飯、缶詰の肉、食塩、梅干ししくらいか準備してなく、現地での調達も少なかった。
 古い軍歌にも「三日二夜は食もなく・・(♪討匪行)とか、泥水すすり草を噛み・・十日も食べずにいたとやら‥(♪父よあなたは強かった)とか、常識ははずれの不思議な言葉が出てくるが、それほど食糧不足は問題ではなく、逆にこれを「食べ物も食べずに頑張る日本兵の強さを誇示する表現」となっていた。このような第一線の兵士が飢える、という事には軍部はすこぶる鈍感で、軽視されていたのである。

 イメージ 1このような戦場における物資や食料補給の軽視は、日露戦争以来の日本陸軍の悪弊で、中国戦線では略奪行為が横行し、太平洋戦争でも食糧難のために多くの餓死者を出している。餓島と言われたガダルカナル島では上陸した3万1400人のうち撤退できたのは9,800人。死者2万800人でそのうち1万5千人が餓死している。
 
 ビルマのインパール作戦では、日本軍兵力10万人のうち約3万名が死んでいるが、その大部分が餓死、残りの2万人が病人として敗走に次ぐ敗走の中で戦場に取り残されて、飢えと病に倒れて行ったのである。

                  ↓(インパール作戦激戦のあと)

  イメージ 2
 ニューギニアママノクリワに居た1万2千の兵力は退却行の中で,一戦も交えずに餓死者が続出して、無事帰国できたのは僅かに800人だったという。

 それらの餓死者は将校よりも下士官、下士官よりも一般兵に多かった。中部太平洋のメレヨン島の守備隊は、アメリカ軍の飛び石作戦により、戦場の背後に取り残され補給が絶えたために大量の餓死者を出しているが、その内訳は

 将校‥  死者57  生還126 死亡率  31%
 下士官‥死者319 生還185 死亡率 63%
 兵・・      死者1911 生還449 死亡率 81%

 となっていて、いかに兵たちの餓死者が多かったかが伺われる。

 このような相次ぐ敗戦のもと、サイパン陥落以来、陸軍大本営は本土防衛のための「本土決戦体制」に基づき、150万という大兵力の地上軍の編成を始めた。当時の在郷軍人は639万だったが、そのうちの農業従事者34万人、工業従事者65万人を召集する計画だったが、彼らを軍隊に召集すれば、軍需産業、農業生産に重大な影響がおこり、国内産業が壊滅する恐れがあった。

 そのため兵力動員の不足を補うための44年に朝鮮人9万人が召集、徴集され45年には台湾の中国人4万5千人が徴集された。石油不足のため代用燃料として使うアルコールの原料生産のために、甘藷、馬鈴薯生産専用の軍隊「農耕勤務隊」が設けられ、強制的に労働を強いられた。また農耕勤務隊に限らず、本土決戦のために各地の海岸線に配置された部隊は、敵の上陸に備える要撃訓練よりも、毎日タコつぼ掘りと、さつまいもの栽培に明け暮れるのが実情だった。それほど食糧難は深刻だったのである。

  〇「国民義勇隊」

 さらに1945年(昭和20年)6月22日には、「義勇兵役法」が制定されている。
 義勇兵役法では、15歳以上60歳までの男子、17歳以上40歳までの女子に義勇兵役を課し、義勇召集を行って「国民義勇戦闘隊」に編入することが定められた。義勇隊の任務は、陣地構築、補給勤務など戦闘部隊の後方勤務を担当するいわば補助部隊で、一般軍隊の指揮を受け、作戦行動を補助するものだった。

 イメージ 3但し、義勇軍とは名ばかりで、軍服はなく、手渡すべき武器もなく、その武器は手製の竹槍だけであった。昭和19年8月には、閣議で「国民総武装」を決定、婦人会をはじめ女学校などでも← 「竹槍訓練」を行うようになった。
 もはや、飛行機も銃も間に合わず、せめてもの武器である「竹槍」を持って、本土の水際で敵を刺殺するほかに方法はない、と考えたのであろうか。。

 昭和19年の毎日新聞はこの非常の緊迫した事態をニュースとして流し「いまや、竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋防空戦だ」という記事を載せた。
 
 イメージ 4この戦争が航空機の膨大な消耗戦であり、このままでは敗戦を招く、「決戦場に飛行機を送れ!」という率直な記事であったが、これを「怪しからぬ記事だ」と激怒したのが東条首相であった。

 当時、飛行機の配分は陸軍の方に常に有利なようになっていて、この記事が海軍が飛行機の配分を有利にするために書かれたものである、と東条は邪推したのである。
                                                                                                                                                               ↑女学生の竹やり訓練

 このため記事を書いた「新名記者」は「懲罰召集」を受け、四国丸亀の機関銃中隊に37歳で入隊させられたのである。これが後に有名になった「竹槍事件」であった。 
   
 かくして、徴兵令によって強制召集された兵士が軍隊生活の中で片時も忘れることがなかった「満期除隊」の夢は「本土決戦体制」によって、確実な「死の強制」となったのである。大本営陸軍部の「国土決戦令」には次のように記されている。
 「第十一」 決戦間、傷病者は後送せざること。
 「第十二」 戦闘中の部隊の後退は許さず。
 これでは、いわ、死の強制そのものに他ならない。

 このような死の強制から突然の開放が8月15日の無条件降伏であった。。死から生への突然の転換が兵士たちを民衆の中に戻したのである。
 イメージ 5
 終戦時にまだ日本本土に370万、外地に350万の大兵力を擁していた日本軍が、一片の天皇の詔勅によって直ちに武器を捨てたのは実に驚くべきことであった。外地は別にしても、内地の370万の大軍が、さっさと武器を捨てて帰郷の途に就いたのは連合国側にとっても予想外の出来事だったに違いない。
 
  兵士たちが、家族を郷土を防衛するために主体的に武器を取ったのではなく、民衆の中から強制的に徴集されて、いわば人格なき道具として育成された「徴兵制」下の軍隊だったからであろうか。   
                                      ↑ミズリー艦上の無条件降伏調印

 終戦直後、一部軍人の逃亡や部隊長による無責任な召集解除があったために、8月18日に軍の動揺を抑えるために全軍に召集解除の命令が出た。それほど軍当局の予想を上回る速度で日本軍の崩壊が進んだのである。こうして9月下旬までに、本土にあった軍隊の大部分が復員したのであった

  
イメージ 6
                                 
                       (樺太から函館へ復員の兵士たち)
 
  ・・・・・・      ・・・・・・

イメージ 7

                                        
                        (昭和20年、引き、揚げの復員兵・・博多港)

                                  ・・・・・   /////

(46)二、二六事件の前兆

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   🔫  (46) 二,二六事件の前兆  (5,15と相沢事件) 
    
 昭和11年2月26日に、日本陸軍初めての反乱ともいうべき2,26事件が起こったが、この伏線となるのが、「5,15事件」「相沢事件」である。

 〇 5,15事件

 昭和7年に、財閥や政党の腐敗を憂うる海軍将校たちによる「5,15事件」が起こった。青年将校たちは首相官邸に押し入り、「君側の奸」として犬養毅首相を「問答無用」とばかり射殺し、別働隊は牧野内相官邸、警視庁などを襲ったのである。

イメージ 1

  
 首謀者の一人である三上卓(佐賀県出身)は海軍中尉、事件後、反乱罪として禁固15年の刑を受けたが、襲撃時の様子を裁判で次のように証言している。

・・・ 「食堂で犬養首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。
 その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。

  また、「問答無用、撃て、撃て」と叫んだ山岸宏海軍中尉の後年の回想では
 
・・『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。・・・

 三上卓が作詞した歌「昭和維新の歌」は、財閥、政党の腐敗を憂うる当時の若者の間に広く歌われた。

                  イメージ 2♪汨羅(べきら)の渕に 波騒ぎ
                  巫山(ふざん)の雲は 乱れ飛ぶ
                  混濁の世に 我れ立てば
                  義憤に燃えて 血潮湧く
     
                  権門上(かみ)に 傲(おご)れども
                 国家(くに)を憂ふる 誠なし
                 財閥富を 誇れども
                社稷(しゃしょく)を思ふ心なし                                         

 *三上卓は母校の中学の先輩だが、シランと同窓の友人「K」はスパイ養成の「陸軍中野学校」の出身で、卒業後は情報将校として佐賀連隊区司令部の特設警備隊に勤務していた。終戦近い或る日、その特警隊に出勤したら、「誰だかわ分かりませんが、この封書を手渡すように頼まれました。軍人ではなかったようです」と言う。開封してみると赤いの罫紙(軍用)に赤い文字で

    西部第20933部隊 000宛て
    参謀本部軍事調査部
    *最近ニオケル000(三上卓)ノ行動ヲ諜偵スベシ

 と書いてあったそうである。終戦間際のこととて、毎日のように佐賀空襲があり、彼も特警隊の教育や不発弾処理に追われて三上の探索をしないままに、終戦になってしまった。どうして参謀本部は三上卓の行動を探る必要があったのか、敗戦時の反乱という不穏な動きに関係があったのだろうか。。戦後、昭和36年に発覚したクーデター未遂事件「三無事件」にも、三上卓は関与していたそうだから、或いは敗戦時にもそんな不穏な策動があったのかもしれない。

 Kはその謎を終生解くこともなく,先年逝ってしまった。
 彼はかねて憂国の士として、母校の先輩である三上卓を敬愛していた。2,26事件の黒幕と言われる真崎甚三郎大将も三上卓も、それにKもまた同じ中学の先輩、後輩である。・・不思議な因縁と言わねばなるまい。。

  〇 相沢事件
     
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5,15事件の4年後の昭和11年には、陸軍内部の「皇道派」「統制派」との抗争による「2,26事件」がおきた。この2,26事件の伏線ともいうべき事件が、その前年の昭和10年8月に起こった相沢事件である。
  陸軍内部において、天皇直裁を叫ぶ「皇道派」とこれを統制せんとする幕僚たちの「統制派」との反目から、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を昭和10年8月12日白昼、軍務局長室において相沢三郎中佐が斬殺したのである。        → 永田鉄山軍務局長

 永田鉄山少将は、長野県の生まれで統制派の中心人物であった。
陸士を首席で、ついで陸軍大学校を2番で卒業した秀才中の秀才で、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と、言われたほどの秀才だったが、対支主戦論を唱え、荒木貞夫の対ソ戦争論と対立、これが統制派と皇道派の反目のもととなった。

 イメージ 4皇道派に属していた相沢中佐は、当時台湾軍に所属、台北高商の配属将校をしていたが、皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭に憤激してこの凶行に及んだ。彼は剣道四段・銃剣道の達人であり、陸軍戸山学校の剣術教官を務めた事もある。仙台藩士の子として生まれた相沢の生活は質素でいつも綿服をまとい、一見古武士の風格があったそうである。 

 上官には恭敬をもって仕え、部下には慈愛をもって臨み至誠至忠、その言行は軍人として極めて模範的であったという。また、偽りを言ったり駆け引きをしたりはしなかったし、他人に対しては丁重、慇懃で人と論争したこともなかったそうである。


 ↑ 相沢中佐はその場で憲兵により逮捕され、翌、昭和11年5月7日に、第一師団軍法会議により死刑判決が下され、同年7月3日に代々木衛戍刑務所内で銃殺刑の処刑を執行された。
 処刑の日、7月3日午前4時48分に房を出た相沢は廊下で刑務所長を見かけ、にこにこと微笑しながら丁寧に謝辞を述べ、傍の検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ち着き払った態度であった。
 相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶したが、規則だから目隠しをしないと射手が困る」と言われて、『それではやりましょう』と従順に目隠しをし、悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、銃殺刑を受けた。その際、次のような妻・米子への辞世の句を残している。

             真心に よりそう助け甲斐ありて
                仕へ果たして今帰へるわれ

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                                  (遺骨引取りのよね子未亡人と長男・正彦君)

        ・・・・・        ・・・・・

(47)二、二六事件

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     🔫   (47)   「二,二六事件」    2月16日

 5,15事件、相沢事件に続いて昭和11年の今日、2月26日には、いわゆる「二、二六事件」が起こった。思えばもはや遠い遠い82年も昔の話だが、小学6年生だったシランには未だにその記憶も生々しい。そのあと3月には、中学の受験から入学という、少年にとっては大きな人生体験があったからである。

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 イメージ 2超国家主義者「北一輝」の「尊皇討奸」思想の影響を受けた皇道派の青年将校たちが率いる下士官、兵、1483名の反乱軍が「昭和維新」を掲げて、2月26日の早朝、首相官邸はじめ高橋蔵相邸、斉藤内大臣邸、渡辺教育総監邸などを襲撃した。いわば軍のクーデターともいうべき事件であった。
                                                                                         北一輝 →
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 陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校らは、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに武力を以て元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗や財閥の跋扈と農村の困窮が収まると考え、2月26日未明に決起したのである。 
      ↑ 反乱軍兵士    
 

 イメージ 3反乱軍は、圧倒的な兵力と重火器によって、警視庁や霞ヶ関、三宅坂一帯の官庁街を制圧、岡田首相の甥の松尾大佐(首相の身代わりになったといわれる)、高橋是清蔵相、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、などの政府要人を殺害した。
  
  ← 岡田首相と松尾大佐

 そして二日後の28日午前5時10分に、勅令によって反乱軍の討伐命令が発せられ、午前8時30分には攻撃開始命令が下された。
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 同時にラジオ放送やビラによる「兵に告ぐ」という香椎戒厳司令官の命令が下り、「すでに勅令が下された、陛下の軍旗に手向かうな」というアドバルーンもあげられた。                                        戒厳司令部 →


 イメージ 6また師団長はじめ直属の上官が涙を流して説得に当たり、このため反乱軍は28日午後2時までに投降,帰隊して事件は鎮圧された。このとき野中、河野両大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕されて反乱はあっけない終末を迎えた。


 事件後、軍法会議の結果、7月5日反乱罪として青年将校、民間人ら17名に死刑判決が下った。
  
 (*兵に告ぐ、の命令の「今からでも遅くない」という言葉は、当時の流行語として有名になった)
   
  イメージ 82、26事件の昭和11年は、私の小学校卒業の年、まだこの事件が意味することを深くは知る由もなかったが、これから先、陸軍内部では、真崎甚三郎に代表される「皇道派」を蹴落として、東条英機などの「統制派」が主導権を得て、蘆溝橋事件から日中戦争へといたる泥沼戦争へ足を踏み入れていくのである。
 
 2,26事件の意味もよく知らないまま、郷土の先輩の真崎甚三郎大将や三上卓海軍中尉が関与していることを聞いて、そのころのシランはなぜか胸が躍った。軍国少年はみんな正義感にあふれていたのだ。 正義感溢れる若者の青年将校たちには、当時の政界財界の汚い腐敗ぶりは許せないものに思えたのだろう。。私たちも、昭和維新の歌を声張り上げて歌っていた。事件の深い意味も知らずに。

 2,26事件以後、日本は次第に軍部独裁のかたちを取り始めた。
  凶行によって、斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺教育総監などが凶弾に倒れ、鈴木侍従長重傷などと、「正義の結果」はまことにむごいものであった。岡田首相の義弟の松尾大佐も首相の身代わりとなって殺害された。
  イメージ 13そして、軍法会議の結果、反乱の首謀者など17人が死刑になったが、事件は加害者、被害者双方の家族の人たちにも深い傷跡を残した。正義を標榜した若者の行動とはいえ、政治テロの結果は実に残酷、悲惨であった。
                                                  反乱軍兵士たち →
 
 2,26事件は、ラジオ放送やビラによる「兵に告ぐ」という香椎戒厳司令官の命令によって、反乱軍は投降,帰隊して事件は鎮圧されたが、事件後、野中、河野両大尉は自決、軍法会議の結果、同年7月5日、反乱罪として青年将校、民間人ら17名に死刑判決が下った。
   旧陸軍刑法には反乱の罪について、次のような規定がある・・

「反乱の罪」
   第25条  党ヲ結ビ兵器ヲ採リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ通リ処断ス
          一、首魁は死刑に処す
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死刑  叛乱罪(首魁)   歩兵大尉 香田清貞 歩兵第1旅団副官
死刑  叛乱罪 (〃) 歩兵大尉 安藤輝三 歩兵第3連隊第6中隊長 
死刑  叛乱罪 (〃)  歩兵中尉 栗原安秀 歩兵第1連隊 
死刑  叛乱罪(〃)   歩兵中尉 竹嶌継夫 豊橋陸軍教導学校 
死刑  叛乱罪 (〃)  歩兵中尉 対馬勝雄 豊橋陸軍教導学校 
死刑  叛乱罪(〃)   歩兵中尉 中橋基明 近衛歩兵第3連隊
死刑  叛乱罪 (〃)  歩兵中尉 丹生誠忠 歩兵第1連隊 
死刑  叛乱罪 (〃)  歩兵中尉 坂井直  歩兵第3連隊 
死刑  叛乱罪  (〃) 砲兵中尉 田中勝  野戦重砲兵第7連隊
死刑  叛乱罪 (〃)  工兵少尉 中島莞爾 鉄道第2連隊 
死刑  叛乱罪 (〃)  砲兵少尉 安田優  陸軍砲工学校生徒
死刑  叛乱罪 (〃)  歩兵少尉 高橋太郎 歩兵第3連隊 
死刑  叛乱罪  (〃) 歩兵少尉 林八郎  歩兵第1連隊 
死刑  叛乱罪  (〃) 元歩兵大尉 村中孝次                                                                                              ↑栗原中尉と兵士たち
死刑 叛乱罪 元一等主計磯部浅一                                                                                         
死刑 叛乱罪 元士官候補生 渋川善助
 「民間人」
死刑 叛乱罪  北輝次郎(一輝)  
死刑 叛乱罪  元騎兵少尉  西田税

 イメージ 10昭和11年712月、刑の執行が旧東京陸軍刑務所敷地出行われた。首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場では15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。いずれも前途有為の若い将校たちであった。 

 また、背後関係の首謀者として民間人の超国家主義者「北一輝」「西田悦」は昭和12年8月14日に死刑の判決が下り、同月19日に刑が執行されている。

  ←銃口を向ける反乱軍兵士

 この2,26事件の収束の時に一番問題になったのは反乱軍兵士たちの処罰についてだった。
同じく陸軍刑法「反乱の罪」では
  三、附和随行シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス・・とある。

 軍隊においては命令と服従は軍紀を維持するための絶対的論理であり、軍隊内務令にある通り、「時と場所を論ぜず、上官の命令には服従しなければならない」のである。反乱軍の将校の命令に服従して出動した一般兵士たちは、反乱という重大な犯罪を犯した。兵たちのこの犯罪行為と、軍規による上官に対する絶対的服従との矛盾点を如何に解決するか。。

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 結局、軍法会議は絶対服従の論理を優先させて兵たちの罪を問わないことにして、この難問を切り抜けたのであった。

 もし兵たちを処罰すれば、日本軍隊の軍規と徴兵制その物を解体させる危険をはらんでいたのである。
             帰営する反乱軍兵士→

 
 イメージ 12首謀者たちの命令のままに何も知らずに参加した反乱軍の兵士たちは、このように不問に付されたが、その後、満州の最前線にやられてその多くが戦死し、特に安藤大尉の兵士たちは突撃を強要されてほとんど戦死したという。   

 命令の赴くまま、兵の命は一銭五厘のハガキ同様に実に軽かったのである。


  ←安藤大尉

 (*兵に告ぐ、の命令の「今からでも遅くない」という言葉は、当時の流行語として有名になった)


    ・・・・     ・・・・・・
 
                  
               イメージ 11
          山茶花は寂しき花や見れば散る    池上不二子

   

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