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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(316)酔っ払いの歴史

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   🍶   (316)  酔っ払いの歴史  「12月16日」

 いよいよ今年も終わりに近づき、忘年会の季節になりました。いつもなら、12月16日は同窓会の忘年会でしたが、寄る年波には勝てず、今年11月、93歳で同窓会を解散、またひとつ飲む機会が減りました。長年幹事役を務めましたが、酒飲みもいろいろですね。静かに飲んだり、楽しく大声で軍歌を歌ったり、と思うと急に目が尖ってきて絡んできたり。。

 イメージ 1酒飲みと言えば漂泊の歌人「若山牧水」が有名ですね。
 一日に二升五合も飲んだそうです。こうなればもう立派なアルコール中毒ですね。肝臓が悪くなるのも当然です。 病床にあった牧水は奥さんの喜志子さんに「もう一杯飲まして呉れ、そしたら良く眠るから」と頼んだそうです。
 死の前日にも朝一合、昼一合、夜一合を飲んだだそうですよー。 牧水の最後の歌は

      酒ほしさまぎらわすとて庭に出でつ
        庭草をぬくこの庭草を 
             

 旧友のボクホウ君は元中学の校長でした。酒好きで、よく一緒に二次会に出かけました。飲み始めは静かですが、次第に声高になり口角泡を飛ばすようになります。でも、彼は酔っ払う事は無かったです。一方、医者だったNは普段は無口で謹厳居士でしたが、飲み始めると途端に、女の子に抱き着くやら、キスするやら・・人格が一変してしまうような荒れようでした。
「百薬の長」と言われる酒もやはりほどほどが良いようです。酒癖の悪い人が居ると酒席もついしらけますね。

                   
イメージ 8
                                                       (揮毫・司馬遼太郎)


 若い頃、うちの近所でも酒癖の悪いおじさんたちが居ました。みんな普段はとても好人物なんですが。。
イメージ 10○向かいのおじさん、こちらはも人には仏様のように良い人だったが、家人には傍若無人、柔道が強く、酒を飲んでは奥さんをいつも殴りつけていました。 いつか、掛かりつけのお医者さんまで投げ飛ばしてしまった、という豪の者でした。

 もっとも、そのお医者さんとは幼馴染で小学校の友達でした。おじさんは肝臓ガンであっけなく他界しましたが、子供も同じ病で昨年63歳で亡くなりました。こちらは親に似ず酒は嫌いだったのですが。。
  いま、解体された家の跡にはペンペン草が生えています。
 
○隣のおじさん、
 税理士でしたがこれまた頭が低く、人にはすばらしく良い人だが、酒癖が悪い。いつも飲んできては、奥さんにやり込められていました。
 ある晩、表で怒鳴り声がするので、おそるおそる覗いてみたら、隣のおじさんが家の前の電信柱と喧嘩していました。 大声で、「お前はそんな所に、いつまで突ッ立っているんだ!じゃまだぞ~! 早く退かんかぁ!!」 ~~。。
 その電信柱も今は地中に埋設され、本人もあっけなくこの世から消えてしまいました。
 
 イメージ 9○ 少年の頃、近所のおじさんも酒癖が悪かった。いつも酒の臭いがプンプンしていました。
 勤め帰りに酒屋で焼酎をいっぱい引っかけて帰るので、いつも夫婦喧嘩の繰り返し。。家からどたばた、ガンガンと物を投げる音や、怒鳴り声が聞こえていました。

 中学生ごろだったか、給料を飲んでしまい、また例の夫婦喧嘩。シランが離れの2階で勉強していたら、断りもなくこのおじさんが不意にドタドタと階段を駆けあがってきました。
  あっけにとられていたら、棒切れを持ったおばさんが追っかけてきて、逃げ場を失ったおじさんは、二階の手すりを乗り越えて、物干し場から飛び降りて逃げてしまいました。。(@_@;)
 
 この夫婦はノミの夫婦で、貧相なおじさんに対して丸髷を結ったおばさんはとても大きく見えました。  大柄で器量よしのそこの娘さんは高校を出てすぐに、力士あがりの料亭主人のお妾さんになって家を出ていきました。頭は良かったようです。。
 
  イメージ 11とにかく、酒は魔物、ほんとに酔っ払いには手を焼きます。そんな酔っ払いの話です。
 1773年「12月16日」の夕方、ボストンの印刷工「B・イーデス」の家におよそ50人の人々が集まりました。彼らはイギリスの植民地支配に不満を持つ独立主義者たちでした。
 
 そしてその日、ちょうどボストン港に停泊中のイギリスの商船三隻を襲撃しょうという計画をたてました。そこで、まず意気を挙げようと言うわけで、「イーデス」はまず大量のラム酒を運び出し、全員ことごとく酔っぱらってしまいました。その酔いの勢いにのって彼らは大騒ぎをしながら、港に向かい船荷のお茶を海に放り込んだのです。

 これが有名な「ボストン・ティ・パーティ」で、ここから独立戦争が始まるわけですが、この50人の独立の闘士たちは泥酔状態でお茶を運んだものですから、二日酔いになったり、本格的な病気になったりしてしまいました。
      
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                                                 (ボストン・ティー・パーティ)


      酔いにまかせての歴史的事件はまだほかにもあります。
イメージ 3イメージ 4たとえば、リンカーン大統領を暗殺した「J・ブース」は予定の計画とはいえ、その決行の当日ハシゴ酒をして、少なくとも1本のブランデーとかなりの量のウイスキーを飲みました。
 2軒目の酒場にはリンカーン大統領のボデー・ガード「J・パーカー」が居合わせましたが、彼もすっかり泥酔状態でした。したがってそのときの大統領の身辺警護は完全に空白だったのです。
                       J・ブース →

 
イメージ 5
                                               (リンカーン大統領暗殺)


 イメージ 6また、西部劇でおなじみの←「カスター将軍」の率いる「第七騎兵隊の全滅」も酔っ払いと関係しています。

 すなわちこの騎兵隊の副官「M・レノ大佐」はアル中で、つねに半ガロン入りのウイスキーのビンを携行していました。「勇将のもとに弱卒なし!」のたとえのとおり、この部隊の兵士たちもみんな酒好きで、戦闘の行われる4日まえに、折から付近の川でウイスキーを満載した船を見つけて、したたかに飲み続けました。


        
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                                       (第七騎兵隊・ビッグボーンの戦い)


 その挙句の戦闘でしたから、戦場にはアルコールの臭いが立ち込め、兵士たちの死体のかたわらには、ウイスキーの入った水筒が散乱していました。
 *飲みすぎての一戦には、くれぐれもご用心のほどを。。

  ・・・・・      ・・・・・

  *もうそろそろ暖かくなると思っていましたが、いつまでも寒さが続きます。
    やはり今年は異常ですね。いつもより霧氷も早いようです。

    
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                                       (霧氷の林を行く・愛媛、寒風山)

  

(317)不思議な読書家

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      📗  (317) 不思議な読書家   「12月20日」 

  灯火親しむ読書の秋ではありませんが、皆さん本は読んでいますか?
若いころは世の更けるのも忘れて文学書、哲学書など読みふけったものですが、最近はすっかりパソコン頼りで読書離れしてしまいました。学生時代に熱心に通った、大阪、日本橋の大きな古書店「天牛本店」は今も健在だろうか。。

 イメージ 1ところで、1633年〈寛永10年〉12月20日、幕府は「書物奉行」という職を設けました。定員は一般に4名で、その職務は図書の収集、分類、整理、保存、調査などでした。著名な奉行には甘藷先生と言われた「青木昆陽」がいます。いわば日本における最初の司書というべきでしょう。

 ←青木昆陽

 さて、読書家はさまざまですが、読書史上には随分面白い人物がいました。ジェームス6世のころ、「A・アームストロング」という男は羊を盗んだという罪で死刑を申し渡されました。
 イメージ 216世紀といえばまだ文盲率の高い時代でしたが、幸いなことに、このアームストロングは文字を読むことが出来ました。どうにかして命が助かる方法はないかと考えたあげく、出来たての欽定聖書(*国王の命令で翻訳された聖書)を読み終わるまで処刑を延期してください、と懇願したところ、ジェームス6世は感心してその願いを聞き入れました。

イメージ 4
                                             欽定聖書初判本  →

 アームストロングは新しい聖書を一冊与えられそれを一日一行というゆっくりしたスピードで読む、と宣言。そのユーモアのセンスが王様の耳に入ると、アームストロングは死刑囚から一躍宮廷員の身分に取り立てられました。

 ← ジェームス6世

 一方、パリの公立図書館には20世紀のはじめまで「G・レバイァという男が60年間毎日通いつめ、『ティアスのアポロニウス』という本の、同じページを飽きることなく、繰り返し読み続けました。

 イメージ 3小アジアのティアナに生まれた「アポロニウス」は古代の哲学者です。菜食主義に徹し、酒、沐浴、性交を断つという苦行者で、エジプト、バビロニア、インドにまで真理を求めて旅をしました。彼は哲学者であると同時に魔術師でもあり、同時代の聖者イエス・キリストに対抗する人物と目されていましたが、彼は前世の記憶を持っていたそうで、ある時、ライオンを目撃したアポロニウスは、そのライオンがかってエジプトの王であったことを見抜いたという話があります。
レバイアはそんな魔術的な記事に興味があったのでしょうか。
 
  ↑アポロニゥス

 本の読み方にはほんとに色々あるものですね。
 たとえば、紫蘭のように「積ん読」したり、昼寝の枕にしたり。

    ・・・・・      ・・・・・
 
 *いつまでも寒い日が続きます。南国の佐賀でも空港では最低温度ー3度だったとか。。
  まだ22月も半ばだというのに、♪「春よ、こい早くこい・・」とつい歌いたくなりますね。

  
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                                                       (冬木立)

            枯れ木らは 枯れし高さを きそひけり     成瀬桜桃子


        ・・・・・・

(318) 掃除機の始まり

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     (318) 掃除機の始まり    「12月21日」

 快晴無風の朝です。いつものように庭や歩道の落ち葉掻き、部屋の掃除は電気掃除機で簡単ですが、九十路のじいさんには、松葉やシダ箒はやはりくたびれます。落ち葉掻きには電気掃除機はないのかなぁ。。
 そんな掃除を機械化しょうというアイデアに最初に取りつかれたのは、イギリスの「J.ヒューム」でした。 だが、これはゴミを吸い取るというよりも、むしろゴミを撒き散らす方が多かったのです。
 
 イメージ 1しかし1842年になると、イギリスのJ・ホイットワース1803年12月21日生まれ〉が回転ブラシつきの道路掃除機を作り、5年後には室内掃除機の製作に成功しています。技術者であるホイットワースはいろんな精密な機械の発明をしていますが、世界初のねじの規格を考案し、またホイットワース銃や後装の大砲も発明しています。
 
 ← J・ホィットワース
 1876年には、「M.ビッセル」と言うと陶器商がさらにそれを改良して、細かいゴミを吸い取る機械を開発しました。陶器商と掃除機とは、なんとも珍妙な組み合わせですが、ビッセルは陶器の梱包材料の藁にアレルギーがあり、どうしても店内のゴミを掃除する必要に迫られていたのです。
 
 ホイットワース式もビッセル式も共に手動式ですが、ちょうどそのころバスツールの細菌説が発表され、またナイチンゲールも衛生思想の普及に努めていたので、人々の関心はこの掃除機という新機械に集まりました。

 イメージ 2この掃除機に電気モーターを利用することを考え付いたのは、「H・ブース」でした。彼は列車の座席からチリを吹き飛ばす装置を見て、モーターの力でゴミを吹き飛ばすべきか、あるいは吸い取るべきか・・という問題に頭を悩ませました。
 彼はある日、自宅の床に寝そべっているとき、口に「ハンカチ」をあてて、じゅうたんの表面から空気を吸い取ってみました。すると、ハンカチにはゴミが付着していました。 それがヒントになって、電気掃除機が出来上がりました。1901年のことでした。。
                                                             1920年代の掃除機⇒

 イメージ 3最初の家庭用の電気掃除機は1905年に、アメリカのチャップマン・アンド・スキナー社から売り出されました。ただしこれはポータブル型ではあったのですが重さが92ポンド(約40キロ)もあって、一人で使うのはなかなか難儀なものでした。

 1910年になると、P・A・フィスカー Nilfiskと名付けた掃除機の特許を取得しています。これはヨーロッパ初の電気掃除機で、重さ17,5キロで、一人でも何とか使用可能の掃除機でした。その会社は現在もNilfiskとして運営されています。

 ←1960年代のNilfisk掃除機の広告

 
 イメージ 4日本で発売された最初の電気式真空掃除機は、芝浦製作所(東芝の前身)が1931年に発売したアップライト型(ホウキ型と呼ばれていた)の掃除機でした。

 最近は、紙パック式からサイクロン方式、さらにロボット型掃除機まで出て来て、掃除機業界もまさに乱戦の様相ですね。

 ←サイクロン方式の掃除機
                                                                                                                                                                       ロボット掃除機 ↓
イメージ 5*ブースはハンカチを口に当てて、ゴミが付くのを発見しましたが、戦後の映画復活で、最初のキスシーンの撮影では、口と口の間に透明のハンカチをあてて撮影されたとか。。

   何事も、初めてというのは苦労しますね・・(^_-)-☆☆


  ・・・・・            ・・・・・

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きらきらと紅葉まばゆし藪の中     子規



(319)今日は冬至

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        (319)  今日は冬至  「12月22日」
 

 イメージ 1今日は冬至ですね。二十四節季のひとつで、北半球では太陽の位置が最も低くくなり、一年のうちで一番昼間が短く夜間が一番長くなります。これからはだんだんに日脚が延びて、一陽来福・・いわば太陽が復活してくるという意味からでしょうか、冬至を祝う風習が多く残っています。
  キリスト教のクリスマスの祝祭も元々は当時の祝いに由来するとも言われています。日本でも、昔から冬至粥や冬至南瓜を食べ、柚子湯を立てる習慣があります。

 中国の太陰太陽暦(日本の旧暦)では、冬至が暦の起点とされ厳粛な儀式を行っていました。これが日本にも中世になって伝わり、宮中などでは朔旦冬至(さくたんとうじ)といって祝宴を開いていたようです。こうしたことから、冬至については様々な言い伝えや風習が残されています。

 「冬至に天気がよければ翌年は豊作」
 「冬至に雷が鳴れば雨が多い」
 「冬至に南風がふけば地震・日照り・大雨」
 「冬至に雪が降れば豊作」 
という言い伝えも残っています。

 イメージ 3冬至には南瓜こんにゃくを食べて冬至風呂(柚子湯)に入る習慣がありますが、冬至南瓜は中風(脳卒中)や風邪にかからないとか、「一年中おこづかいにこまらない」「長生きする」など金運を祈願する意味があるようです。 
 また、冬至南瓜は朝のうちに食べるとよいとか、四つ前(午前10時)に食べるとよいという地域もあります。ちなみにこんにゃくは1年間たまった砂を払うものだといわれ、「トウジ、コンニャク、スナハライ」の言葉も冬至近くになるとよく口にされます。
 
       さめかかる 肌に柚湯(ゆずゆ)の 匂いけり     長谷川かな女  

 
 イメージ 2実際に南瓜には、体内でビタミンに変化するカロチンがたっぷり含まれています。ビタミンAは、肌をツヤツヤにし動脈硬化の予防になるだけでなく、皮膚や粘膜、視力、骨や歯にも効果があるものです。昔の日本では冬至のころになると秋野菜の収穫も終わって、食べられる野菜もほとんどなくなっていました。
 そこで元気に冬を越せるようにと願いを込め、栄養もあって保存もきく南瓜は特別に大切にして、食べていたようです。冬にビタミンなどの供給源が不足した時代のかぼちゃは貴重なものだったといえますね。

 冬至の特有の食べ物は地域によって若干違いますが、「かぼちゃ」のほかには「こんにゃく」を食べる風習もあります。昔は南瓜のことを唐茄子(とうなす)とも言ったので「ト」のつくものが良いといって、豆腐を食べるところ、小豆粥、小豆団子、赤飯などを食べる所もあります。

イメージ 4
                                                 (冬至の七種・ななくさ)
 
 また、冬至に「ん」のつく食品を食べると幸運が得られるという言い伝えもあります。冬至の七種(ななくさ)「ん」が2つ付くもので「なんきん(かぼちゃ)」「にんじん」「れんこん」「ぎんなん」「きんかん」「かんてん」「うんどん(うどん)」で、これらを食べると病気にかからず、うどん運(うん)・鈍(どん)・根(こん)に通じるので出世するといわれています。

 実際には冬至のころは「冬至冬なか、冬はじめ」と言うくらいに、寒さがいっそう厳しくなるころです。冬至の七種もいずれも栄養があり、体の温まる食べ物ですから、寒い冬を無事に過ごすために考えられた昔の人の知恵といえるでしょう。

    ・・・・・         ・・・・・

*せっかく年賀状を作り始めたのに今になって訃報相次ぎ、なかなかはかどりません。
  そういえば、中学の校長をしていた友人が「訃報・フホウ」の事を「ボクホウ」と呼んでいました。
  彼は獣医学校卒業なので、専門は理科の先生でしたが、漢字には少々疎かったのでしょうか。。
  コウチョウセンセは偉いので、誰も誤りを教えてくれなかったのでしょうか。。
  彼のことを家内とふたりでこっそり「ボクホウ先生」と呼んでいました。

  彼は木彫が得意で毎年、干支の年賀状を丁寧に彫り上げ、木版画で送ってくれました。
  来年はさしずめ犬の版画だったでしょうが、奥さんを亡くし、数年前に施設で淋しく亡くなりました。
  もはや彼の素敵な版画にお目にかかることはありません。。


イメージ 5
(母校・旧校舎の版画・ボクホウ先生作)


               友はみな或る日四方に散り行きぬ
               そののち八年(やとせ)
               名揚げしもなし

 
                   こころざし得ぬ人々の
                   あつまりて飲む場所が
                   我が家なりしかな             石川啄木


・・・・     ・・・・・

(320)復活! 

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        (320)  復活 !  「12月22日」 

 
  イメージ 1もうすぐ25日は、クリスマスですね。クリスマスはキリストの降誕を祝うものですが、十字架にかけられて刑死したはずのキリストの肉体がその三日後によみがえり、人々と語り食事をして普通の人間のようにふるまい、11人の使徒に布教活動を命じ,弟子たちに希望を与えました。
 キリストの復活ですね。

 人間死んだらしまいというのが、常識ですが、そんな肉体の復活ってあるものでしょうか。戦争で若くして死んだ友達がもし復活したら、現世やあの世のことなど一度語り合いたいものです。これはほんとの肉体の復活ではありませんが、死の淵からよみがえった、ロシアの文豪「フヨードル・ドストエフスキー」の話です。

 イメージ 228歳の若き「ドストエフスキー」は反逆罪に問われて、セント・ペテルスブルグで銃殺されることになりました。 1849年12月22日、共に捕らわれた同志6人はセミノフスキー広場に連れていかれ、3人づつ目隠しをされて柱にくくりつけられました。兵士たちは隊伍をととのえ、6人の若者たちに狙いを定めました。

 イメージ 3ところが、指揮官がまさに「撃て!」の号令を掛けようとした瞬間、ツアーつまり皇帝の「ニコライ一世」からの急使が到着し、罪一等を減じてシベリヤでの重労働四年と言うことになりました。文字通り危機一髪の差でドストエフスキーは「復活」したのです。

  イメージ 6もはやこれまで、という最後の瞬間に、彼は兄の「ミカイ」に手紙を書き「思うのはただ、兄のことだけ・・」という有名な遺書を残しています。

 九死に一生を得たドフトエフスキーは、晩年に大作「カラマーゾフの兄弟」を脱稿した数か月後、1881年1月28日に家族に看取られて亡くなりました。
 
                                                                 ドストエフスキーの肖像 ⇒

 イメージ 4しかし、文学者の復活で、もっとも奇跡的だったのは、「フランチェスカ・ペトラルカ」でしょう。実際に死んでから、またよみがえった詩人の話です。
 ペトラルガは、1341年にローマの元老院から桂冠詩人の称号を与えられている14世紀の有名なイタリヤの詩人ですが、彼は40歳のときに『死亡』しました。
   ←ペトラルガ

 当時彼の住んでいた町には条例があり、死者は死後24時間のあいだ室内に横たえておかねばなりませんでした。その死体に向かって人々が弔問するというわけです。 弔問客は次々に訪れ、ペトラルガの遺体にひざまずき、花をささげました。

 イメージ 5ところが死後20時間を経過したころ、気温の変化によって突如、ペトラルが息を吹き返したのです。
彼は祭壇から起き上がり、自分の原稿のできばえが思わしくない、とつぶやき、世話の仕方がなっとらん!!と召使を叱りとばしました。。


  4時間後の埋葬をひかえて、いったん死んだはずのペトラルカは『復活』し、その後30年を生き続けました。彼は生涯、結婚はしていないようですが、なぜか3人の子供を持っています。その後、ベェネツィアに移住して 宗教的瞑想のうちに最後の日々を送り、1374年にアルクァのエウガニアの丘で、今度はこんどは本当に『死亡』したのでした。 その時70歳でした。

            ・・・・・      。。。。。

* という話ですが、何しろ600年も前の話なので、現在の医学からすると、死からの復活かどうか、わかりませんね。死んだのではなく、気絶していただけかもしれません。でも、復活と信じたほうが救いがありそうですネ。。

 仲の良かった友人が言いました。焼かれるときはさぞ熱いだろうなぁ??
  25時間は焼かないでくれ~!?。。     
    彼が死んではや3年、今年は奥さんも亡くなりました。

       ひょうきんの性(さが)なりし友の死顔の
       青き疲れが
       今も目にあり                        啄木

 
イメージ 7
                                               (ふるさとの天山山頂・秋の雲)


        ・・・・・・




(321)サンタクロースの正体

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     🎅 (321)  サンタクロースの正体    「12月24日」
 
 イメージ 42月24日、今日はクリスマスイブ・・と言っても年寄りには特別何の感慨もありませんが。。

 クリスマスの主役は、サンタクロースですね。
略して「サンタ」などともいいますが、そもそもの起源を訪ねると、この人物は4世紀のころ小アジアのリシアにいたミラの大僧正「セント・ニコラウス」のことです。

 イメージ 2この「セント・ニコラウス」と言うのは、もともと盗賊、強盗の守護神でした。こんにちでも、南欧、東欧などではスリのことを「セント・ニコラウスの騎士」と呼んでいます。また中世以来、地中海や大西洋で暴れまわった海賊たちも、海賊旗のしるしに「セント・ニコラウス」の肖像をあしらっています。

 これが西欧、北欧ではどういうわけか、わが子を護る神様に変貌していきました。これらの地方では12月6日が「聖ニコラウスの日」であり、この日にはふだん善行の多い子供には贈り物を、そして行いのよくない子供には木の枝を持って訪れる。。と言うことになっていました。
  その聖ニコラウスの日がクリスマスと融合して、いつのまにやら12月24日に移動してしまったのです。

 ← イメージ 1セント・ニクラウスには、無実の罪で死刑の宣告を受けた三人を救ったという話もありますが、こんな逸話も残っています。

 「ある時ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならない家族の事を知り、真夜中にその家を訪れてこっそり窓から金貨を投げ入れました。このとき暖炉には靴下が下げられていて、投げ入れた金貨はちょうどその靴下の中に入ったそうです。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられました」



 この逸話が由来となって「サンタさんが夜中に煙突の中から家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」というサンタクロースの伝承が生まれました。

 大体、クリスマスの行事と言うものは融合・妥協の産物であって、この日がキリスト生誕の日であるという証拠はどこにもありません。実際、聖書にもキリスト生誕の日については記載がなく、2世紀ごろまでは5月10日に聖誕祭がおこなわれていました。

 イメージ 312月25日がクリスマスになったのは、キリスト教がゲルマン社会に入って、冬至祭と結合してからのことです。本来、砂漠地帯で生まれたはずのキリストが、雪のちらつくところを舞台に、しかもモミの木とかトナカイとかいう、北極圏の動植物とともにその生誕を祝われる、というのもおかしな話ではないでしょうか。。

 なお、クリスマス・プレゼントが広く行われるようになったのは、1920年代以降に、アメリカの百貨店資本がすさまじい宣伝活動をはじめて以来のことです。。


   /////
 

(322)ゴッホの耳

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       (322)  ゴッホの耳  「12月24日」

 イメージ 1ファン・ゴッホ(1853-1890)はオランダのポスト印象派の画家で、大胆な色使いで広く知られています。 ゴッホは1853年オランダ南部の牧師の家に生まれ、1869年に画商の店員をしたあと教師、牧師などをしましたが、絵を描き出したのは遅く、28歳になってからでした。

 1886年、フランスに移り住み、印象派の影響を受けてこれまでの暗い風景画から、明るい色調の絵を描くようになり、その激しい個性によって独自の境地を開きました。彼は日本の浮世絵にも大きな関心を持ち、日本の版画を買い集めまた浮世絵の模写した油絵を描いています。

 イメージ 2彼は共同生活をしていたゴーギャンと芸術上の事で喧嘩をし、1888年12月23日に発作的に自分の耳を切り落としました。当時の新聞はこう伝えています。
                             包帯姿のゴッホの自画像 ⇒

 *「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身の画家のゴッホがが娼館1号に現れ、娼婦に「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡して姿を消した。
 この異常な行為の通報を受けた警察は、翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
        — 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日 *

 イメージ 4しかし、ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようでした。彼は次第に精神に異常をきたし、度々発作を起こして、1890年7月29日にピストルで自分の頭を撃って自殺しました。37歳でした。(*現場を見たものがなく、自殺説には異説もあります)

← 死の床のゴッホ

 弟のテオが死の間際までゴッホの枕もとを離れませんでしたが、ゴッホの最後の言葉は「このまま死んで行いけたらいいのだが・・」でした。ゴッホがオデオに書き送った手紙は700通余りにもなりますが、最後までゴッホを支え続けたテオも、半年後の1891年1月25日に精神病院で兄のあとを追うように亡くなっています。


イメージ 3

                                                      (ゴッホとデオの墓碑)

    ・・・・・

 ところで、イラストレーターの「ヒュー・トロイ」という人物はその一生をプラクティカル・ジョーク(実用的な冗談)に賭けた奇人でした。
 
 イメージ 51935年、ニューヨークの近代美術館で「ファン・ゴッホ」の展覧会が開かれたたとき、ふと霊感が彼の頭を横切りました。ゴッホはその生涯を極度の神経衰弱で終わった画家ですが、よく知られているように、発狂して自分の耳を切り落とすという悲惨な事件を起こしています。
一体その耳はどこに行ってしまったのだろうか??と。。
 
 トロイは一計を案じて、牛肉の一片を買ってきて、それを人間の形に切って乾燥させたのち、恭しくビロード張りの小箱に入れて展覧会場のテーブルの上にそっと置きました。

そして、「ブァン・ゴッホが自ら切り落として愛人に贈った耳1884年12月24日」という解説をつけました。
 観衆はゴッホの絵はそっちのけで、この「偽作の耳」を見るために長蛇の列を作ったという話です。。

    ・・・・・

 *高校駅伝も有馬記念も終わり、いよいよことしもあと6日、年の絵の一日は飛ぶがごとくに過ぎていきます。年賀状一筆添え書きも書き終わり投函、賀状もこれが最後かも・・やれやれ。。
 
           賀状うずたかしかのひとよりは来ず     桂信子   
   

イメージ 6

                           (雪の一本松)

(323)大統領の歯医者さん

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      (322)  大統領の歯医者さん   「12月14日」

 年末になると、決まって歯が痛み出したりして、歯医者さんのお世話にならねばなりませんが、今年はどうやら大丈夫のようです。食前食後に、歯磨きと歯茎のマッサージを繰り返しているせいかも。。
 
イメージ 1 歯科医に行くとかならず使われるのが小型ドリルです。歯を削ったり、穴をあけたり、ほんとに嫌ですね。決して愉快な機械ではありませんが、もし、あのドリルがなかったら、歯の治療はさらに苦痛に満ちた体験になるに違いありません。


 このドリルを発明したのは、ボストン生まれの「J・グリーン・ウッド」と言う人でした。
彼は船乗りとして人生を歩き始め、やがて船長になりましたが、手先が器用でいささか医学知識があったおかげでいつの間にか歯科医になってしまいました。
 やがて、その技術を買われて「グリーン・ウッド」はアメリカ初代大統領「ジョージ・ワシントン大統領〔1799年12月14日没〕に招かれて、大統領の歯科の主治医となりました。

 イメージ 2ワシントンはその人生を通して歯の問題に悩まされ続けました。22歳の時に最初の永久歯を失い、大統領に就任するまでにその残りはわずか1本になっていました。ワシントンは多くの総義歯を持っていましたが、そのうちの4セットはこの「ジョン・グリーンウッド」によって作られています。

 一般的にワシントンの総義歯は木製だったと信じられていますが、実際は彼が大統領になる頃には、総義歯はカバや象の牙を削って作られ、金のばねでおさえられていました。

  カバの牙でできたプレートに本当の人の歯と、一部馬やロバの歯なども混ぜ埋め込んで作ったのです。(ワシントンの義歯はマウントバーノンに展示されているそうです。)
 歯が悪いのでワシントンは常に痛みを抑えるために麻酔用のアヘンチンキを使用していました。そのためワシントンは大統領職の後期には演説を嫌がったそうです。
 
 イメージ 3グリーンウッドは河馬の歯や象牙を細かく細工してワシントンの入れ歯を作りましたが、1790年母親が使っていた糸車にヒントを得て回転ドリルを作りました。
 それまでも、宝石職人の使うようなドリルを歯科医が応用した事はありましたが、主体を固定させた回転ドリルは、歯科の技術史の大革命でした。

  「グリーン・ウッド」の発明をさらに発展させたのは「G・メリー」で、彼は1885年にケーブルつきのドリルで特許をとっています。

 イメージ 4ちなみに宝石の細工と歯科の技術の間には、類似性があるようです。日本のサンゴ細工を洗練させたのは、或る職人が歯科で治療を受けながら、その機械に着目して、早速歯科用ドリルを買ってきて、サンゴの細工を実験してみたことがその契機となっています。

        。。。。。。

*軍隊に入る前日に、朝、昼、晩と歯医者さんに、何回も通って三本も金で虫歯を補修してもらいました。 おかげで、以後50年間、この金歯は完璧でした。しかし、最近になって取れ始め、金歯の残りは1本だけ、あとは合金で修繕していますが、直ぐにまた取れてしまいます。(やっぱり、くさっても金歯だぁ!。。)

 まだ、25本は自前の歯ですが、補修だらけです。飲み会では友達から総入れ歯にすれば、ちっとも痛くないぞーと冷やかされていましたが、その悪友も今は地下できっと笑っていることでしょう。
 裸踊りが得意だったキンちゃん、一度会いたいなぁ。。

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                                                        (雪道)
 

(324)エジソンの電流戦争

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    (324)  エジソンの電流戦争   「12月31日」

 1880年代のアメリカ電力業界では、電流を直流にするか、交流にするかでエジソンとウスティングハウスとの間に激しい競争と確執が生まれました。
 
  イメージ 1エジソン(1847-1931)は誰でも知っているアメリカの発明家で、生涯に1300もの発明をした発明王でした。エジソンは7歳で学校に入学しましたが、2+2が4であることが分からず、低能児と思われたために退学してしまいました。その後、母親の愛情こもった教育を受け、11歳のころから地下実験室を作って実験に夢中になったそうです。

 ←若き日のエジソン
 
 イメージ 2一方のウェスティングハウスは、アメリカにおける初期の電力システムの建設に関してトーマス・エジソンのライバルの一人でした。当時、アメリカの電力業界はまだその準備段階にあり、一方ではトーマス・エジソンが直流を、他方ではジョージ・ウエスチングハウスが交流を、それぞれの電力供給の標準にすべきだと主張して譲りませんでした。
 この論争に結着をつけるためにエジソンがなんと電気椅子に交流を使うことを進言したのです。エジソンは交流はとても致命的であり、人をすぐに感電死させてしまうため、如何に交流が危険であるかを死刑台で証明しようとしたのです。                                                     ウエスティングハウス  →


 ニュー・ヨーク州では、1889年12月31日から死刑執行を電気椅子で行うことが決定されました。
 もともと、エジソンは死刑制度には反対派でしたが、しかし彼は電気椅子の発明によって、交流が危険であり非難されることを願っていました。ハロルド・P・ブラウンはエジソンの秘密の資金によって、交流はより致命的であるという考えを普及させるために最初の電気椅子をニューヨークに設置したのです。そこで、エジソン側はここぞとばかり直流の利点を宣伝しました。

 イメージ 3しかし、翌年八月、電気椅子による死刑第一号として「ウイリー・ケムラー」という殺人犯の処刑が行われるに及んで、事態はあらぬほうに展開していきました。ケムラーは1889年3月29日に内縁の妻ティリー・ジーグラーを手斧で殺害し、翌年の8月6日午前7時にニューヨークの刑務所で刑に処せられたのです。

 ← ケムラー

 イメージ 5その電気椅子は事前にテストを済ませていて、前日には馬を感電死させるのに成功していました。椅子に縛られ、顔を覆われてケムラーは「のんびり、ちゃんとやってください。私は急いでいませんから」と言ったそうです。ケムラーは17秒間、1000ボルトの交流の電流を流され、肉の焦げる臭いがしたので電流が切られ、ケムラーの死が宣言されました。

                                                                             電気椅子 →

 しかし、その時立会人がケムラーがまだ呼吸していることに気づき、直ちに主治医たちが調べてっみると、ケムラーはまだ生きていたのです。そこで再び電流が流され、ケムラーは2,000ボルトの衝撃を受け、皮膚下の血管が破裂して出血し、ケムラーの体は燃えだしました。
 このように、結局処刑は予定通りにいかず、ケムラーは8分間も電流を流され、苦悶のうちに死んだのです。

 
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 思ったほど人間は電気ではあっさりとは死なないものだ・・・というわけで、この死刑の失敗のおかげで、交流が致命的で危険だという交流反対論はいつの間にか消えていきました。

 かくして電流戦争は最終的にはウェスティングハウスが勝利を収めることになり、アメリカの電力は結局のところ、交流に落ち着いたのです。。

   ・・・・・    ・・・・・・

 *90年の生涯でシランが一番驚くのは、電気社会の変遷です、子供のころはまだ石油ランプもあり、提灯つけて風呂に入った事もあるというのに・・一体どこまで変わるのやら。。

                    
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                                (もやい風呂)  画・南窓さん
 


 (325)活動写真の初公開

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       (325) シネマトグラフの初公開   「12月28日」
 
 最近はテレビや旅行に押されてそれほどでもありませんが、盆、正月の庶民の楽しみと言えば映画館に行くことでした。正月はたいてい忠臣蔵と決まっていましたが。。
 その映画という「動く写真・映画」はいつごろから始まったのでしょうか。

 イメージ 11895年12月28日に、フランスのリュミール兄弟が発明した「シネマトグラフ」つまり「映画」がパリで公開されました。

 この新発明はその年の2月に特許を得たばかりでした。会場の「サロン・アンディアン」には、大きなシーツが張られ、そこに初めて「動く写真」が映し出されました。別段凝った劇映画が上映されたわけではなく、リミュエールの経営する工場の工員たちが、一日の仕事を終えて退社するときの実写フイルムでした。
 ↑リミュエール兄弟
 
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 内容からいえば何の変哲もないものですが、観客はこの新しい発明に驚嘆しました。
 ただし、この日の観客数はわずかに35名でした。
世界で最初に映画を見たのは、この35名だったということになります。

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  ついでアメリカでは1901年8月に「バーナード・ホール」が開場していますが、本格的なのは1910年にパリに造られた「ゴーモン・パレス」です。これは客席5000という、とてつもなく大きなもので、映写機を2台置いて連続映写が出来るようになっていました。
 この「ゴ-モン・パレス」が現在の映画館の原型で、初めて映写機が観客の後方に置かれました。それまではスクリーンの裏から映写していたのです。

  イメージ 4ところで、日本では明治36年(1903年)10月1日に日本で始めて映画常設館が誕生しました。それまでは、歌舞伎座や既設の劇場を借りていましたが、この日「浅草電気館」が開館しました。

 電気館という名前がついていますが、光源にはガス灯を使い、館内にはこれという設備はなく、観客は下駄履きのまま人の肩越しに立ち見をする有様でした。当時の入場料は10銭だったそうです。     

  ←大阪、千日前の大劇       




 イメージ 5*子供のころは、母からもらった小遣いの十銭玉を握りしめて、よく三流映画館に出かけました。お目当ては坂妻や嵐寛十郎のチャンバラ映画です。
 新興キネマや大都映画といった三流の映画では、羅門光三郎や山路ふみ子がスターでした。馬上の鞍馬天狗が勤王の志士を助けに来るのを「早く!早く!」と声援を送りながら夢中になってみていました。
                                                                   アラカンの鞍馬天狗 ⇒

 当時はまだ無声映画で、活動大写真と言っていましたが、2階が一等席で、キップを切ってもらうと「え~、一等さんごあんなーい!」と言う掛け声がかかり、お茶子さんが座布団抱えて案内してくれます。でもまだ子供の小遣いですから、一等席は一度だけしか経験がありません。


  イメージ 6一階は椅子も長椅子で、どこからか小便くさい匂いが漂ってくる中で、落花生(ピーナツ)をほおばり、ラムネを飲んで活劇に興奮していました。
 スクリーンの前の舞台下には、三味線やバイオリン、尺八にピアノといった和洋折衷の楽隊が景気よく音楽をかなで、舞台の袖では「活動弁士」が名調子の映画説明をしていました。。

   ← 坂東妻三郎



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   映画館だけでなく、隣のおもちゃ屋で売っていた手動の活動写真機を買って貰い、子供たちが集まって古いフィルムの切れ端の映画を見るのも楽しみでした。

  窓には毛布を掛けて暗くし、ハダカ電球を光源にして、白壁に向かって新選組や鞍馬天狗などのチャンバラ映画を映写するのです。
 わんぱく時代の懐かしい一コマの思い出です。

   ・・・・・      ・・・・・

*今朝は今年一番の冷え込みでした。
 スーパー買い出しから車の大掃除、我が老車はもう15年、大病もせずよく頑張ってくれた。
 間もなく、この愛車ともお別れか。。


          行く年の大河滔々と流れけり       子規

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                                      (尾瀬の雪解け水)    

 

(326)コーヒー禁止令

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    〈326〉  コーヒー禁止令   「12月29日」

 イメージ 1若い人はコーヒーが好きですね。若い人に限らず、昔からコーヒー党は多いです。
 ← 作家の司馬遼太郎さんも大のコーヒー党で、毎日、奥さんと近所の喫茶店でコーヒーを飲むのが日課で、二人で奥の席に陣取って、入ってくる人たちの品定めをしていました。あの人の年齢は?職業は?あのカップルは夫婦かな、兄妹かな?それとも不倫かも。。などと妄想をたくましくして居ました。そんな人間観察眼が彼の創作の中の人物像の形成に役立っていたのかも知れません。

 イメージ 9学生時代は戦時中の事とて、コーヒー豆が輸入されません。コーヒー党の司馬さんは、代用品の大豆のコーヒを飲みながら級友に「コーヒーが飲めないとは、もう日本もあかんなあ・・」と愚痴っていました。

 そんなコーヒーを人間はいつ頃から飲み始めたのでしょうか。

 コーヒーの起源にはいくつかの伝説があります。たとえば、9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後、修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになったという説があります。
       イメージ 2                                             
 また、エチオピアでは高原地帯に自生するコーヒーの木の果実の種子が古くから食用にされ、コーヒー豆を煮て食べていたと考えられています。そのコーヒーがアラビア半島に伝わり、9世紀のイランの哲学者であり医学者でもあった「アル・ラーズィー」が、自著でコーヒー豆を指す「バン」とその煮汁「バンカム」について書いています。
                                 → アル・ラーズィー

 ヨーロッパでは1650年に、オックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、2年後にはロンドンで初めてコーヒー・ハウスが開業しています。それから20年ばかりの間にコーヒーは広く民衆生活の間に浸透し、市内の商人や株式仲買人などは、毎日のようにコーヒーハウスに出入りするようになりました。そればかりではありません、やがて一日中そこに座り込み商談を進める、という習慣まで生まれてしまいました。
 
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                                                 (ロンドンのコーヒーハウス)

 しかし、コーヒーの流行は必ずしも好意的には見られていなかったようです。最初はイギリスの人間にとって、コーヒーは馴染みのない飲み物だったので、コーヒー・ハウスの近所の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」をどうかしてくれと、訴え出た記録が残っています。
                                             イメージ 4
 そして、何よりも女性たちがコーヒーに敵意を抱きました。それというのも、亭主たちがコーヒーハウスに入り浸って、帰宅しなかったり、夫婦喧嘩が始まると、さっさとコーヒーハウスに逃げ込んでしまったからです。
                                     → コーヒーハウス

 イメージ 5それに加え、コーヒーが男性にとって有害で性的不能の原因になり、イギリスの出生率の低下に関係しているという学説まで登場しました。そして、「コーヒーに対する女性の請願」という抗議文まで発表されるようになりました。

 一方、この非難に対して、コーヒー好きの男たちは「女性の請願に対する男性の回答」というパンフレットを発行して対抗しました。いわば、コーヒーをめぐる男女両性間の論戦が展開されたのです。


↑コーヒーへの抗議文

 イメージ 6こんな事は、国家の政治にとってはどうでも良いことでしょうが、どういうわけか、そのとき王位にあった「チャールズ2世」がこの論争に介入し、1675年12月29日に、「すべてのコーヒーハウスを閉鎖すべし」、という禁令を出しました。
王がコーヒーを愛好していたかどうか・・と言うことよりも、王はコーヒーハウスにたむろしている男たちが治安を乱すような陰謀を図るのではないか。。という不安を持っていたのです。
 ← チャールズ2世

 また、ドイツでは1670年頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていました。1721年にはベルリンにコーヒー・ハウスが開業し、18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及しました。

 イメージ 7プロイセン王(ドイツ)「フリードリヒ2世」は国内の経済を脅かすとして1777年、コーヒー禁止令を公布しました。コーヒーを飲む国民が増えて、ドイツのビール産業が衰退してきたからです。そしてコーヒーの密輸が横行し、庶民は高い値段の本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量の湯で割って飲み、また大麦などを加工した代用コーヒーを飲むようになりました。

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                                          (プロイセンのコーヒー禁止令)

 しかし、これらの禁令は一向に実効を伴わず、コーヒーハウスは繁盛し続けたのでした。
 いつの世でも「コーヒー党は永遠に不滅」なんですね。
 長島監督がコーヒー党かどうかは知りませんが。。(^_-)-☆

   ・・・・・       ・・・・・

 *年も押し迫ったというのに、朝方ご近所のおばぁさんの突然の訃報あり、すでに家族葬を済ませたというので香料だけ持ってお悔やみに。。

 10日前、デイサービスに行って施設の風呂場で倒れ、三日後に死亡したという話である。
あの朝、偶然にも寒い街角でデイサービスの送迎者を待っていた彼女を車から見かけたが、あれが最後だったのか。。 耳が遠いのか、声を掛けたがなぜか答えがなかった。。
 幼馴染の人懐っこい奥さん、シランより一つ年下だった。
 いよいよ人生の週末期が近づいた感じがする。。

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(霧氷の林)

                 。。。。。。。

(327)マッチの沿革

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       (327) マッチの沿革    12月30日 

  イメージ 1昔の江戸時代の点火装置には「付け木」というものがありました。
  杉やヒノキなどの木片を薄く削り、幅5センチ長さ10センチくらいンして、その一端に水で練った硫黄を塗りつけけ乾かしただけの簡単なものでした。これで種火から点火するのです。戦時中のマッチ不足の時にはよく使いました。
 
 
 イメージ 2もともと、マッチの語源は『蝋燭の芯』という意味だそうです。最近はライターや自動点火装置の普及でマッチを使うことは殆ど使うことがなくなりましたが、マッチほど便利なものはありません。小さくて軽くて、何よりも安いし、どこにでも持っていけます。このマッチはいつごろから使われ始めたのでしょうか。

 イメージ 31680年、イギリスのR・ボイル(1691年12月30日没)が燐を発見すると、やがてこれを材料にして発火剤を作ってみようという人々が現れました。まず、ボイルの助手であった「G・ホークウイッツ」が硫黄をつけた木片と燐を摩擦の力で発火させてみましたが、これはきわめて危険で、有害ガスを発生させるものでした。

 ← ボイル

 イメージ 4それから150年ほど経った1826年、「J.ウオーカー」なる人物が「ルシファー」と言う名の発火剤を発明しました。これはアンチモン硫化物とカリ硫化物をゴムと水で溶いて軸の頭につけ、それを紙ヤスリでこする、という仕掛けでした。

  これをみたファラデーは特許を申請するように勧めましたが、ウオーカーは無欲で別段特許にこだわりませんでした。このウオーカーの発明にヒントを得た人物がアンチモンのかわりに燐を使い、そこから今日のマッチが誕生するようになりました。

 これら一連の発明はイギリスがその舞台でしたが、1852年になると、スウェーデンで非結晶燐を使った安全マッチが出来ました。スウェーデンはこの製法を企業秘密とし、それを日本の清水誠が見事に盗んできましたが、この話は「産業スパイ物語」として今に残っています。。

   -・・・・・・         ・・・・・・・

   *いよいよ大晦日が迫ってきました。皆さん、年用意はできましたか?
   帰省している息子と娘と共にお墓参り、お天気も良く温かい日和で助かりました。
   夕食後、息子は慌ただしく夜行バスで四国に帰って行きました。
   後、10か月で定年退職です。。
   88年、瀬戸大橋の開通の時、友達と橋のウォーキングに参加した時のことが偲ばれます。
   早いものですね。

          離れ住みて一つの年を惜しみけり      上村占魚

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(328)紅白合戦

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          (328) 紅白合戦   「12月31日」

  今日は大晦日、一年最後の日のことで、一名「大つごもり」とも言います。
樋口一葉にも「大つごもり」という小説がありますね。学生時代によく読みました。
大晦日という苗字もあるんですよ。これはなんと「ヒヅメ」さんと読むんです。いよいよ年が押し迫って一年最後の日、つまり、一年の日が詰まった日、というわけです。

 ところで、 大晦日というと、なんといっても名物はNHKの紅白歌合戦ですね。紅白合戦の紅白と言う二つの色はもともと源氏の白旗、平家の赤旗と言う「源平合戦」にその起源を持っています。

    
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                                (源平合戦・屋島の戦い、那須与一の扇の的)


 元来、日本の戦陣では、綾、錦などに文様を刺繍し、それを軍旗としていましたが、武士が勃興してくると、おおむね麻布などを白地のままで掲げるのが作法でした。源氏はその古式にのっとって白旗を守り続けたのです。
 それに対して平氏の方は赤一色としました。相手方の白に対する強烈な反対色、と言う意味で赤色の紅旗を選んだのです。さらに赤には敵を圧倒するという示威的な意味もありますし、また味方の士気を鼓舞すると言う効果もありました。

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 ただ日本の色彩哲学からいうと、赤も白も清き心と誠実さをあらわす色、と言う点では共通のものがありました。
 日の丸もこの二つの色を組み合わせて出来上がっています。この源平の紅白はこんにちに至るまで、力量の似通った二つのグルーフを対比するときに使用されています。
 たとえば白勝て、赤勝ての運動会の赤組、白組などもそうです。

 
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 このNHKの「紅白歌合戦」が始まったのは1951年(昭和26年)で、この年は大晦日ではなく、1月3日に行われています。
 もちろん、当時はまだテレビはありませんでした。これが大晦日の公開放送になったのは、それから2年後のことでした。

       ・・・・・・           ・・・・・・

   *いよいよ今年もあとわずか、皆さんにはいろいろとお世話になりました。
    来年もよろしく願い致します。            
                                和紙屋紫蘭


              行く年の大河滔々と流れけり       子規
 

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                                              (上高地・雨の梓川)

       。。。。。

(1)謹賀新年

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           明けましておめでとうございます。
                 今年もよろしくお願いします。
                                
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 今年の初夢は、一富士、二鷹、三なすび・・ではなく、米俵にむしろを詰めている夢だった。
中身が金や米でないので、目出たいのか、めでたくないのか‥いまひとつ分からん、わからん・・、
 なんだか狐につまされているような気持ち。

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                        (鳳凰三山より富士山を望む)


                初富士のかなしきまでに遠きかな    山口青邨


 今日は天気晴朗、雲一つない快晴無風の澄み切った青空に恵まれて、氏神の竜造寺八幡様の初もうでも無事に済ませました。

 
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                       (天下泰平・国家安穏・万民和楽)

 でも、例年になく足が重くて如何にも年寄りらしいよたよた歩きを自覚して、憮然たる思い・・
 果たして来年の初もうでは如何がかと、思いやられる次第。。

 さて今日、1月3日で94回目の誕生日を迎えました。
 いまや昭和は遥か彼方へ遠ざかり、思えば遠くへ来たものだ・・との感慨しきり・・
 何しろ一世紀近い激動の時代を野越え山越え、なんとか乗り越えて来たのだからなぁ。
 
 2005年開設以来、今年でマイブログも13年になり、皆さんの応援のおかげで来訪者も述べ47万人を越えました。
 今年から「94歳ブログ・紫蘭の部屋」と名を改めて頑張りますので、よろしくお願いいたします。

                                                              94翁    和紙屋紫蘭



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                                                            (山道遥か)


・・・・・・・

(2)新年雑感

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         (2)  新年雑感    「1月5日」

 正月三が日もあっという間に過ぎて、今日ははや五日。
珍しく姪の美人姉妹が二人、年始なのか誕生祝なのか分からんが、上等のチーズケーキを買ってきて、自分たちもむしゃむしゃ食べ、しゃべりまくって帰って行きました。 
とにかく、元気が一番・・めでたし、めでたし。。

   新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の
      今日(けふ)降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
               
                                       大伴家持 
  
  これは万葉集の最後の歌ですが、万葉集にはこんな↓難しい漢字ばかりで書いてあります。
   
  新年乃始乃波都波流能   (あらたしきとしのはじめのはつはるの)
  家布敷流由伎能伊夜之家余其騰   (けふふるゆきのいやしけよごと)

                大伴家持  万葉集 巻二十 4516 (最終歌)

 今年も降る雪のごとく、皆さんに吉事が重なりますように。。 パチパチ・・ 

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                    (石鎚山・成就社で山の神に参拝)

   
 今年の元旦は雪は降らず曇りがちでしたが、かすかながら初日の出が拝めました。昔は正月一日は「四方拝」という祝日になっていました。宮中では『四方拝』の行事が行われ、学校は授業は休みですが、全校生徒が登校して冷たい講堂に整列して「年の初め」の歌を歌いました。校長センセの「ちん思うに・・」という、なんだかわけの分からん教育勅語を聞きながら、あちこちで鼻水をすする音がしましたが、みんな帰りに貰う紅白の餅の事ばかり考えて、ただうつむいて聞いていました。

   ♪ 「一月一日」

       年の始めのためしとて
       終わりなき世のめでたさを
       松竹(まつたけ)たてて門(かど)ごとに
       祝う今日こそ楽しけれ  

イメージ 2 「四方拝」と言うのは宮中で行う元日の行事の一つで、天皇が天地四方・東西南北の神々を拝んで一年間の豊作と無病息災を祈られますが、戦前は民間でも初日の出とともに四方を拝む風習がありました。 

 今ごろ初日の出に四方を拝む人など、シランのほかに何人いるでしょうか。。

 「初日の出」が出る前の東の空の茜(あかね)雲を「初茜」と言い、またその明け方を「初東雲・はつしののめ」といいます。そして初日の光によってほのぼのと明るくなるのを「初日の出」と言います。
 とにかく、正月には何でも(初)の肩書がつきます。

    初日、初春、初空、初凪、初詣、
    初荷、初夢、初湯、初鏡、初雀、
    出初、買い初め、御用始め、稽古始め、

 

    正月三ヶ日に限って鼠の事を「嫁が君」と言います。
昔から鼠は福の神とか大黒様のお使いとか言われていたので正月には鼠をもてなす地方もあるそうです。飯や米粒、餅などを供えて、鼠の食べ方でその年の吉凶を占います。その間は、ネズミの事を嫁御、嫁女、嫁御前(よめごぜ)、姉さま、お福、娘・・・などと呼んでいました。
 一月三日生まれで子年の紫蘭は、男性なのでなんと呼ばれるかしらん?? 
 さしづめ『よか殿御・とのご』?かな。。(^_-)-☆

 イメージ 3正月二日の夜に見る夢を「初夢」と言います。
めでたい初夢を見ると一年中の幸運をもたらすといいます。
そこで、昔は吉夢を見るのを祈って枕の下に「七福神」が乗った「宝船」の絵を枕の下に敷いて寝たものです。

 また、もし悪夢であったら困るので同じように宝船の帆には「獏・バク」の絵も書いてあります。中国の伝説で夢を食べる動物と言う「獏」に、初夢の悪夢を食べてもらうのです。

   また宝船の絵には「回文」という歌が書かれています。

         なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな

         (永き世の遠の眠りのみな目ざめ
                波乗り船の音のよきかな) 

   
 この回文は、前から読んでも、後ろから読んでも同じで、とにかく目出度い歌なのです。

 目出度い初夢は「一富士、二鷹、三なすび」といいますが、富士や鷹は納得しても、なぜなすびが目出度いのかちょっと理解に苦しみます。先日のブラタモリではなすびは静岡の名産だそうで、将軍・家康が好んだそうですね。

 
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                                         (鳳凰三山より富士山遠望)


 さて、シランの初夢はなんだったかな。。
なんでも、米俵にむしろを突っ込んでいる夢だった。米俵だから多少は目出度いのかも分からんが、中身が米やお金でなく、ムシロだったのが、目出度いのか目出度くないのか、いま一つ、分からん、わからん。。
 マァ、何事も良い方に解釈すれば、天下泰平、国家安穏、社稷康寧、万民和楽というものだろう。
 
       初詣・・パチパチ。。
                   (氏神様の竜造寺八幡宮)

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                             初夢に古郷(ふるさと)を見て涙かな    一茶

                /////


(3) 「正月床飾りとお節料理」

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       (3)    正月床飾りとお節料理       「1月6日」

  今朝は快晴、  青空がすっきりと日差しも暖かく感じます。昨日小寒に入ったばかりだというのに、まるで春が来たような感じですが、朝のスーパー買い出しも客足は閑散、生鮮食料品も少なく本格的な仕事始めはまだまだのようです。

 「正月床飾り」

 さて、我が家では正月の床飾りに、鏡餅と蓬莱山を飾ります。

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    「鏡餅」

 イメージ 2 鏡餅の重ねた餅の間にはウラジロ(シダの葉)とユズリハの葉を一枚はさんで置きます。これは葉の裏が白いウラジロオを白髪にたとえ、またユズリハのように家を代々譲り継ぐ事を願う意味があります。

 昔は暮れの30日の朝,各家で餅つきをしたものです。我が家にも未だに庭の片隅に無用の長物の石臼がつまらん顔をして鎮座しています。
 そのころの鏡餅は4,50㌢もある大きな重ね餅でしたが、最近は15㌢くらいの小さな市販品で済ませています。

  昔はこの大きな鏡餅を水甕に付けて春先まで食べたたものでした。冬の昼食はたいてい焼き餅ばかりで、子供心に酸っぱくなった餅をいつまでも食べさせられるのは実にいやでした・・

 「蓬莱山飾り」

 蓬莱の床飾りは、上方では不老長寿の仙人が済むという「蓬莱山」に由来した名称で「蓬莱」と言い、長崎では「蓬莱台」、江戸では「食い積み」と言いました。
  
  イメージ 3我が家の蓬莱山は、三方の上に白紙、昆布、するめ を敷き、米一升を山形に盛り上げます。蓬莱山の意味ですが、お米の量は一升から、一つまみだけ減らします。これは「満つれば欠ける」のを避ける意味からです。(九合九勺)
 米の山の上に橙、野老(ところ・山芋の根、ひげがあります)奉書に巻いた木炭、勝ち栗、干し柿、みかんなどを乗せます。これは「代々、長生きして同じところに住む」という縁起かつぎの言葉になっています。

  昔は満年齢ではなく数え年だったので、年取りの行事後に、これらの食べものを一つ頂きますが、これを食べると寿命が伸びると言われています。 毎年蓬莱山を祀って来たおかげで、紫蘭も激動の時代を94年間も生き延びて来れたのかしらん??

      年酒して凡医の友を恃む(たのむ)かな     石田波郷

             その頼むべき凡医の友も先に旅立ってしまった。。(~~:)
 
   「おせち料理」

 正月のおせち料理は、毎年何処でもみんな同じようなもので、甘辛い味付けですね。日持ちがするためでしょうが、中には小さい鮑やサザエなど固いものが入っいます。酒の肴には良いですが、年寄りの歯にはちょっと向かないようで、2,3日残り物を食べたら、別に虫歯でもないのに奥歯がずきりと痛むようになってしまいました。反対側の歯だけで食べているとつい、ほっぺたを噛んだりして・(-_-:)

           目出度さも ちゅうぐらいなり おらが春        一茶

 正月料理のことを一般に「お節料理」と言いますが、このおせち料理の起源は古く、遥か弥生時代から始まっています。それも別に正月に限ったことではなく、四季の分岐点を「節」といい、もともと、立春や五月の端午の節句、秋の重陽の節句など一年の五節の時に行われる宮中のお祝いの料理の事をおせち料理といいました。季節ごとにその節に収穫物を神様にお供えして、自然の恵みに感謝するのです。

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 そこで「おせち料理」には、神様からもたらされた海の幸や山の幸をふんだんに使い、それを神様と共に頂く料理なのです。その一品一品には、家内安全、子孫繁栄の願いが込められており、それらを「良いことが重なりますように」という意味を込めて重箱に詰め合わせるのです。


 イメージ 6重箱の中には、田作り、数の子、黒豆のいわゆる三つ肴を揃え、なますや昆布巻き、栗きんとん、ゴボウ、ニンジン、大根などの煮付けなどが美しく飾られています。「三つ肴」はお節料理には欠かせないもので、黒豆は悪霊を払うといわれ、数の子は子孫繁栄、田づくりは田畑の肥料に使っていたカタクチイワシの稚魚を甘辛く煮たもので、農作物の豊作を祈願する意味があり、五万米(ごまめ)とも良います。

 また、中央にデーンと鎮座する伊勢海老は腰が曲がるほどの長寿を意味し、「栗きんとん」
は金の団子を意味する目出度い料理なのです。伊達巻は昔の巻物の書物を意味して学問の上達を願い、昆布巻き は喜ぶに通じ、レンコンは穴が多くて将来の見通しが明るいなどと、いささかこじつけの感がしないでもないですね。それにクワイは大きな芽が出ることから「芽出度い」出世に通じ、
サトイモは子イモが沢山出来るので子宝を願う意味があるそうですから、何から何まで目出度い料理なのです。

 イメージ 7このように「おせち料理」は、山の幸、海の幸を盛った和食ですが、最近のお節料理はハムやソーセージなど西洋料理風のオードブルが多くなりました。若者向けに、魚料理よりも肉料理と言うわけだろう。
 「おせち料理」は、年賀の客をもてなすために重箱に詰められています。そこで、「重積め」とか「食い積み」などとも言われていますが、「食い積め」は地方によっては「蓬莱山飾り」の事をいう所もあるようです。

 重箱に入れるのは、目出度いことが重なるように、との意味であり、いずれも味が濃いものとか、火を通した保存のきく物が多いですが、これは正月に火を使うと火の神様である荒神様が怒るから・・・と言われていますが、実際はふだん休むことの少ない主婦を台所仕事から解放する意味もあるようです。
            食い積めに ときどき動く 老いの箸      虚子


 ・・・などと、長々と無駄口を叩いている間に、せっかく庭の中央さんやお地蔵さんに供えていた重ね餅が4重ね、みんな消えてなくなりました。いつものようにカラスがくわえて持って行ったのでしょう。柿にもトリに食べさせる「木守り柿」があるのだから、カラスに餅のおすそ分けするのも、まぁいいだろう。。


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                あれー・・餅が消えている!   わしゃしらん・・からすだよ。


          ・・・・・・       ・・・・・・

(4)七日正月

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       (4) 「人日・七日正月」

 今日は「七日正月」ですね、今日は消防の出初式がありました。以前は正月五日でしたが、今年は日曜日の今日、佐賀城の堀端で、消防車がずらりと並んで勇壮な五色の放水が行われました。もちろん、東京のような火消しの曲乗りは見られません。

 「七日正月」のことを「人日・じんじつ」とも言います。古代中国では元日から六日までをそれぞれ「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に動物の占いを立て、七日には「人」の占いを始めたので、この日を「人日・ジンジュツ」と呼ぶのです。

      人日や遠きところに靄(もや)こもり      長谷川浪々子

 昔から中国ではこの人日(じんじつ)の日に、七種の野菜で羹(あつもの・スープ)を作る風習があり、これが日本に伝わってこの日を「人日・ジンジュツ」と呼ぶのです。この日は6日の夜から7日の朝にかけて様々な行事が行われました。中でも「七草粥」が有名ですね。

     何をもて 人日(じんじつ)の客を もてなさん      虚子


   「七草粥」  
  

  イメージ 2七草は「七種・ナナクサ」とも書きますが、これは「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」の七種の若菜を入れた粥を食べる風習です。
 七日にこの「七草粥」を食べると万病に効くという中国の言い伝えがあって、日本でもこの習慣が全国に広がりました。

  万病に効くというよりも、味の濃い正月料理や餅の食べ過ぎで傷んだ胃袋を、あっさりした野菜入りのおかゆで休ませてあげる為、と言うのが本音でしょうか。

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                                                      (春の七草)
  

 七草粥の若菜の中心は「ナズナ」なので「ナズナ粥」ともいいます。 このナズナをわざと大げさに叩いて刻むのを「七草打ち」といいますが、これはこの高い音で悪鳥を追い払うという意味があるそうで、所によっては刻むときに調子を採ってナズナの「囃子歌」を歌う風習もあるそうです。若菜を刻みながら叩き囃すので、「七草はやす」とか「若菜はやす」とも言うそうです。


       なずな打つ  とぎれとぎれの  むかし歌        小川匠太郎


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                                        (江戸時代のナズナ摘み)

   「なずな歌」

    七草なずな 唐土(とうど)の鳥が 
    日本の土地に 渡らぬ先に 七草はやす
    ストントン ストトン ストトントン

 
  
 ただし、もともとこの七種の若菜は春から初夏にかけて生えるので、正月に揃うわけはありません。今日もスーパーにはいっぱい並べてありましたが、恐らく温室で無理に作ったものでしょう。  
  
    六日八日(むいかようか)中に七日(なぬか)のなずなかな    鬼貫


  我が家では昔から朝飯にお粥を食べる事にしているので、七日正月と言っても特別「七草粥」を食べる事はありません。尤も、おかゆと言っても、草ではなく茶の葉を入れて炊く「茶粥」です。この「茶がゆ」は旧佐賀藩主の奨励によるもので、我々昔人間は今でもその質素倹約・質実剛健の葉隠れ武士の伝統を守っているというわけです。(ちょっと我田引水かな?)

 もちろん息子たちは子供の頃からパンやご飯なのでお粥は食べませんが、胃袋がまだ半眠り状態の朝の食事には、お粥は消化が良くて、我が輩の長寿の秘訣も、或いはこの「茶粥」のおかげではないかと、ひそかに自負して居ります。
 何とかかんとか、だらだらと下手な講釈を続けているうちに、もう日が暮れてしまいました。人日の頃はとても陽が短いのです。
           
                人日の すとんと昏(く)れて しまひけり      虚子
 
       ・・・・・

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                       あっ、ねずみが親子で餅を・・    
                 
                      そうだ、紫蘭はねずみ年だった。。 (^_^*)♪        

      
             

(5)門松と注連縄 

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    (5)  門松と注連縄   「1月8日」

七日正月も過ぎ、正月気分も遠のきましたが、最近は、一般民家の門松や注連縄はほとんど見かけなくなりました。むかし、小学校の唱歌で歌った「一月一日」の歌にも門松の歌詞が入っていました。

    「一月一日の歌」

 ♪ 年の初めのためしとて
    終わりなき世のめでたさを
    松竹(まつたけ)立てて門(かど)ごとに
    祝う今日こそめでたけれ

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                                        (アタリヤとは正月早々縁起がいい!)

      「門松の話」

 子供のころは、この「終わりなき世」は尾張名古屋などと勘違いしながら歌っていましたが。。・・
 この歌にもあるように、正月には昔からどこの家にも玄関に「門松」を立てました。
これは玄関先を清め、邪気などが家の中に入らぬようにして、新年の歳神様をお招きする為の風習です。一般庶民の家では、今の銀行などのような大げさなものではなく、玄関の両側の柱に、根元を奉書で巻き水引で結んだ、小さい根付きの松を打ち付けただけの簡単なものでした。

 イメージ 1ところで神社や会社では大きな門松が立っていますが、あの青竹の先は斜めに切って尖らせてあります。どうしてかご存知ですか?

 これは昔、徳川家康が三方が原で武田信玄と戦い惨敗、家康はこの敗戦を悔しがり、刃を抜いて青竹を斜めに切り落としたと言われています。

  武田を竹になぞらえて、「次の戦いでは必ず竹を斬る!」と言う思いが込められて居るそうです。以来、門松の青竹を斜めにそぎ落とすようになったとか。。


 三方が原の戦いは家康の唯一の敗戦ですが、敗走中の家康が途中で腹が減り、茶屋に立ち寄って餅を食べていたところ、敵の追っ手の兵が迫ってきたので、あわてて代金を払わずに逃げ出したそうです。 そのとき、茶屋のばぁさんが家康の後を追いかけてモチ代を取り立てたという面白い話が伝わっています。

 「注連縄の話」

  町を歩いても、正月に民家の玄関に注連縄を飾る風習は、最近ほとんど見かけなくなりました。
 以前は年末には郊外の農家のおばさんたちがリヤカーを引っ張って出てきて、手作りのしめ縄を町のあちこちで売っていたものですが、最近は全く見かけなくなりました。稲刈り後に田んぼに稲わらを残す風習がなくなったので、稲わら自体が少ないのか、それともしめ縄を玄関に飾る風習が薄れてきたのでしょうか。

 それに三社詣りの車にも、日の丸や注連縄をつけなくなり、子供の遊びも凧あげや羽子板、すごろく、かるた遊びなどもすっかりすたれてしまいました。それだけ合理的、経済的にドライな風潮が広がってきたのでしょう。それにしても正月行事に限らず、ここ十数年ほどの短期間に、これほど人の意識が変わるとはほんとにオドロキです。

       しかし、正月に限らず神社では、いつも神前に注連縄が張られています。
 
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                                                 (出雲大社のしめ縄)

  神社の注連縄の大きなものの代表格は出雲大社の注連縄ですが、日本で一番大きいのは神功皇后を祭神とする福岡の宮地嶽神社の注連縄だそうです。

                           「宮地嶽神社」


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 注連縄は、邪気や悪霊を払うとともに、神域と現世との境界を意味しているそうですが、その形は様々です。 
                これは大根型というのかな?

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  その中でも佐賀の鍋島藩に伝わる鼓型の注連縄は特異な形をしている珍しいもので、毎年正月には佐賀城本丸御殿の玄関に掲げられています。

 
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                                    「本丸御殿玄関の大きな鼓型注連縄」

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 この鼓型しめ縄の由来は、天草四郎時貞の島原の乱(1637~38)の原城攻めの際、鍋島家は一番乗りの軍功をあせって、江戸幕府から「抜け駆け」の軍律違反に問われて謹慎処分になりました。 
  この謹慎処分が正月直前になって突然解かれたため、鍋島藩では大急ぎで米俵などでにわか仕立てしたのが鼓型の正月注連縄の始まりといわれています。

 正面の門松も簡単な素朴なもので、付近の有りあわせの松の木を切ってきて、慌てて立てたような趣があります。

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 そういえば、しめ縄の形はお能の鼓にそっくりですね。鼓に似せて稲わらで作った注連縄には独特の雰囲気があります。町の商店にもこの鼓型しめ縄の小さなものがかけられていました。

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       ・・・・・
     

(6)鍋島藩・杏葉紋の話

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      (6) 「鍋島藩・杏葉紋の話」   1月9日

 佐賀城の鼓型しめ縄の話のついでに、鍋島藩の家紋について一言。。
 朝、歩道の落ち葉を掃いていたら、リュックを担いだ年配の女性に声をかけられた。どうやら観光の旅人らしい、関西なまりである。「向こうの神社にも、この近くのお寺にも妙な絵が描いてあるが、あれはいったい何でしょうか?」

 イメージ 2始めは梵語か何かだろうと思ったが、ハタと気が付いた。鍋島藩の紋所「抱き茗荷、みょうが」である。徳川の三つ葉葵、薩摩の丸に十の字の文様と同じく、佐賀藩主の家紋の図柄だった。茗荷はショウガ科の多年草で、その花を図案化して抱き合わせにした家紋が「抱き茗荷」で、茗荷の語音が「冥加」と同じなので、神仏の加護が得られる縁起の良い家紋として神社仏閣に用いられることが多いそうだ。オバさんは、道理で茗荷の葉に似ていますね、と納得して立ち去った。
↑抱き茗荷

 ・・と思いきゃ、抱き茗荷というのは紫蘭の早とちりだった。抱き茗荷とよく似ているので間違われるが、実際は「抱き杏葉紋・ぎょうようもん」という紋章だったのだ。杏葉紋は戦国時代の豊前の雄「大友宗麟」が用いたことで有名で、鍋島家でも大友宗麟との戦いの勝利を記念にして杏葉紋様の家紋が用いられるようになったのだった。

                (佐賀藩祖・鍋島直茂を祀った松原神社の杏葉紋)
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 もともと、杏の葉はその形状の優美さから、鎌倉時代には公家の家紋として用いられ、室町時代に入ると武家の家紋としても用いられるようになりました。中でも有名なのは大友宗麟の杏葉紋で、大友家の勢力が広がるにつれて、杏葉紋も権威が高くなり、九州の諸将の憧れの家紋になったそうです。

 
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イメージ 5また、一説では杏葉は馬具などの装飾品で、西アジア地方から中国に流入した文様の一種だったとも言われています。中国の唐の時代に流行し、それが日本に伝わり、舶来の紋様として珍重されたようです。その杏葉紋がどうして鍋島家の家紋になったかというと、面白い話が残っています。

 大友家と龍造寺家が争った元亀元年(1570年)の「今山の戦い」では、佐嘉城は四方を大友の6万の大軍に囲まれ、竜造寺側は5千という劣勢でしたが、家老の鍋島直茂がわずか500の手勢を率いて今山の大友軍の本陣に夜襲をかけて見事これを打ち破りました。この時、鍋島の藩兵がかぶった鬼面が今も郷土の民俗遺産として、「面浮立」となって残っています。

 
   ↑勇壮な面浮立

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 そのとき鍋島直茂はが篝火に映える大友家の杏葉紋を見て「あの幕の紋を見よ、美はしき紋なり。唯今、此陣を一戦の中に切崩し、是を吉例に用いて、則ち我が家紋にすべきぞ」と言ったと伝えられています。その後竜造寺隆信が島原の有馬氏との戦いで戦死した後、直茂が佐賀・鍋島藩の初代藩主となり、鍋島の家紋もこの「杏葉紋」を使うようになったのです。

            今も残る佐賀城の大手門(鯱・シャチの門)

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                               //////
    

(7)十日えびす

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       (7)  十日えびす   「1月10日」

 今日は一月十日、「十日戎」ですね。 大阪の西宮や今宮戎あたりは大混雑だろうなぁ。。

       雑踏に十日戎の月高し    伊賀文章

 イメージ 3一般に恵比寿さんは七福神の一人で、商売の神様とされていますが、中国では、戎は異民族のことを言い、日本でももともとは異人さんをエビス三郎と呼んでいたらしいです。この「恵比寿三郎」は船に一杯の海外の珍品を積んで来て商売をしたので、難波(大阪)の商人たちはこのエビス三郎を崇拝して、西の宮に神として祀った、という話があります。

 また、恵比寿さんは「大国主命」の子供だそうで、小さいころ足腰が弱かったために芦船に乗せられて海に捨てられ、漂流して兵庫県の西の宮に着き、そこに鎮座して七神様になったという話もあります。

 とにかく、恵比寿さんは福神の一人で漁業の大漁や商売繁盛、五穀豊穣の神様として、毎年、一月十日には西の宮や今宮戎など、各地で盛大に恵比寿祭りが行われているのです。

 イメージ 1佐賀市内にも恵比寿神社があります。これは大正13年に地元の実業家の有志たちが兵庫県の西宮神社から戎、大黒の両神像を頂いてきて,お祀りしたのが最初だと言われています。
←戦前の佐賀恵比寿神社

ま た江戸時代から佐賀市内の辻々にはえびすさんの石像が祀ってあり、長崎街道を中心に、その数430体にも上るそうです。


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                                          (鼻まで欠けて・相当古いようだ)

 祀ってある石像の近くの家々では、毎朝打ち水をして手を合わせ、また毎月1日と15日には榊を取り換えて家内安全・商売繁盛を祈ります。(昔はこれにご供(ごっくうさん・ご飯のこと)と塩、水を添えたものです)
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                      (エビスさんもお年取りを)
 
  江戸時代の文人「菱屋平七」は佐賀を訪れて「筑紫紀行」を著わしていますが、その中にも「この国は町屋にも村中にも道の辻々に恵比寿さまを置けり」と書いていますから、この恵比寿信仰も相当昔からの風習だったのでしょう。

 恵比寿さんといえば、釣竿を片手に、大きな鯛を小脇に抱えていますが、佐賀の街角にある恵比寿像たちの中には、そろばんや大福帳を抱えたものなどユニークな戎さんがいろいろ見受けられます。中には恵比寿さんそのものを省略して、鯛の上に「西の宮」とだけ彫ってあったり、鯛ばかりや、単に西の宮という文字を彫っただけのものもあります。この「西宮」は恵比寿さんの総元締めである恵比寿神社が兵庫県の西ノ宮にあるからなのです。

 
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                                                   (釣り上げ恵比寿)

 最近は宝くじ当選の効能もあるとかで、戎めぐりのツアーまであって、宝くじ片手にぞろぞろと連れ立ってお詣りしている善男善女のツアー客を見かけることもあります。(^^)/

        福笹をかつげば肩に小判かな   山口青邨

   
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                  (佐賀駅ホームにある恵比寿さん)

                ・・・・・・         ・・・・・・

 *早くお詣りを・・と催促の煙火が上がっていますが、あいにく朝からの冷たい雨でとても出かける気にはなりません。 もう商売や金儲けにも縁がないし、コタツに潜り込んで、ぜんざいでも食べていた方がご利益がありそうな。。
でも、新年だから今夜の月一の飲み会だけは出かけよう。。(^^♪


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