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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満12年、みなさんのおかげで来訪者も43万名を越えました。 1月3日で93歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「93歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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        (43)  「昔の佐賀の衣食住」 ①

     暫く「ふるさと・佐賀の風景」に遠ざかっていたので、また少し昔の衣食住について書いてみよう。

        ①衣類と髪型

           〇 「衣類」

    イメージ 2 戦前、明治大正時代の佐賀では、衣服は一般に木綿の和服だった。もちろん官公庁では洋服だが、家に帰るとやはり和服に着替えてくつろぐのが通例だった。その頃は商人は角帯に前垂れをつけるが、父の時代は次第に洋服を着るようになっていて、正月とか公式の場に出かけるときは、中折れ帽子をかぶり、羽織袴に袖なしのトンビマントをまとって出かけていた。

      しかし、一般には外に出かける時は次第に洋服を着用するようになった。夏になると、庶民は麻でできた「甚兵衛」が多かった。布地がスケスケなので、涼しくてべとつかない。福岡の春日原野球場まで父に連れられて旧制中学の野球の北九州二次予選の試合を見に行くとき、父はカンカン帽子に甚兵衛を着て下駄ばき姿、団扇を帯の後ろに挟んで出かけていた。そのころは佐賀中と佐賀商の応援ばかりだった。

      一般に、勤めから帰るとたいていは洋服を脱いで着物に着替える。学生の服装も明治頃の着物に袴姿から次第の洋服になってきたが、学校から帰ると、着物に着代えてくつろいだ姿になるのが多かった。

     紫蘭も学生時代に、下宿に入る時に母が柳行李に久留米絣の白色(夏用)と藍染(冬用)の二つを入れて呉れた。出発前に着物の畳み方を習って行ったが、下校して我が部屋に入るとすぐに窮屈な生服を投げ捨てて着物姿に着替えたものである。。但し、空襲が頻繁になると何時集合がかかるかもも知れないので、気軽な着物姿で居るわけにもいかず、せっかくの絣の着物も空しく押し入れの柳行李の中に逼塞せざるを得なくなってしまった。当時の下宿代が30円、家庭教師のバイト代も30円だった。

     シランが小さいころは久留米絣の着物を着ていた。帯は着物に縫いつけてある幅一寸くらいの細い縫い付け帯だったが、三歳になると初めて兵児帯を結んだ。佐賀では「紐解き」と呼んでいたが、地方では「ヒモトオシ」という所もあるようだ。また9歳になると、「へこかきちゃーご」というお祝いをする。つまりは初めて「褌をつける」祝宴だが、これでやっと大人になったというわけである。もちろんシランは褌に代えた覚えはないし、お祝いもした記憶もない。はじめから猿股一点張りだった。

    イメージ 3 小学校に入ると霜降りの学生服になって、みんな洋服ばかりで着物姿で登校して居た者はいなかったが、田舎の方ではまだ着物姿も見かけたようだ。。中学の制服ももちろん詰襟の学生服で、淡い緑がかったグレー色だったが、戦争が厳しくなると、木綿ではなく化学繊維のスフ(ステーブルファイバー)になり、芯の弱いよれよれの洋服になってしまった。すぐ後の昭和20年ごろの後輩たちは制服そのものがカーキ色の戦闘服で、学生帽も戦闘帽になったようで、革靴も牛皮ではなく、豚皮で生徒の間ではクジラの皮ではないかという噂もあったそうだ。

     戦時中は、国民皆兵の意味と衣料の節約もために、一般に背広の代わりに「国民服」の着用が奨励された。軍隊の将校用軍服に良く似たカーキ色の詰襟の上着で、これ一着があれば冠婚葬祭や正式の行事等なんにでも参加できるという頗る便利なものであったが、勤労動員で働きに行くときは、みんな作業服に戦闘帽、ゲートル巻きだった。
     
     母校の制服・昭和20年
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     一方、明治の女性の着物は地味な縦じまの着物で、母の20歳の写真を見ても色気が無くて何とも年寄りくさい。昔の農家の娘などは、あまり派手な着物を着るのが遠慮され、目立たない服装が歓迎されたのであろう。勿論呉服屋に行っても地味な縞模様の着物が多かった。お化粧も、粉白粉をはたき口紅もチョンと薄く塗るだけである。

    イメージ 1 大正・昭和初期は「大正ロマン」と言われる自由な雰囲気の時代で、洋服姿のモダンボーイやモダンガールが銀座などの繁華街を闊歩した。いわゆるモボ、モガの時代である。都会では洋傘やモダンな帽子姿も多かった。 
                                                      ↑  明治末。20歳の母
                               (髪は203高地型)

      明治・大正の女学生は、着物に袴姿であったが、昭和の女学生は、たいてい紺のセーラー服にスカート姿だった。しかし、、戦争も厳しくなるとスカートに代わってモンペ姿になってしまった。上着は洋服、下はモンペという、なんともヘンチクリンな和洋折衷だが、誰もそれが可笑しいとは思わなかった。もはや制服もファッションではなく勤労奉仕のための仕事着とでもいうような戦時下の風潮だったのである。
      
     ↑明治の女学生(髪は203高知型)

    「履物」は明治期には、江戸時代の草履が地下足袋に、脚絆はゲートルに変わった。女子の服装も着物から次第に簡単服にエプロン姿となり、男子の仕事着はほとんど洋服に地下足袋が愛用されるようになった。

        「髪型」

     「髪型」は江戸時代は勿論ちょんまげだったが、明治になって断髪令が出て、男子はみんな散切り頭になった。これに反抗したサムライたちも多く、福井県では明治6年に断髪に反対する3万人の一揆が起って、6人が騒乱罪で死刑になったし、明治9年には廃刀令に反対する熊本の「新風連の乱」も起った。新風連は断髪せずちょんまげ姿で、電線の下を通る時は、ちょんまげが汚れる、として扇子で頭を隠して通ったという。

     そんな遠い昔の話は別として、昭和の初めは軍国主義の影響もあったのか、男子の髪は軍隊のように丸刈りや1分刈り、2分刈りが流行った。髪の毛を伸ばしていると、軟弱だとして軽蔑されたりする世相だったのである。紫蘭も外語時代は、中国語や蒙古語などの東洋学部は丸刈りが多く下駄ばきのバンカラ硬派風で、英仏語などの西洋学部は長髪にぺったりとポマードを塗り、ピカピカの赤靴と言う風体で、いわばあか抜けた軟派風であった。
     
       「女性の髪型」
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     女性の髪形で特異なのは、日露戦争以来、大正時代に流行った「203高地型」と言う髪型だろう。

    これは日露戦争が終わったばかりなので、旅順攻略の激戦地「二百三高地」にちなんだ髪型であった。当時の歌人・与謝野晶子の写真も203高地型である。勿論、女学生も袴姿だった。

     昭和になると、女子は日本髪から次第に束髪になり、小学生は断髪していわゆるオカッパ頭ばかりだったが、女学生は両方に髪を分けて結ぶか三つ編みなどに組んで下げていた。また大人は婚礼や式の時には、紋付きに白無垢、羽織を着用し、女は紋付きに白無垢姿で髪は文金島田や丸髷に結い、葬式の場合は「精進髪」を結うのが普通だった。女子は簡単服やエプロン姿が多かったが、冠婚葬祭にモンペ姿では出られなかったかもしれない。

      戦前は女性の髪はパーマネントをかけるのが流行った。電気で形を整えてしまうので、櫛で削っても元の形に戻る。ウーブのかかった髪はたおやかできれいだが、チリチリに雀の巣のような髪形になると、どうも頂けない。
     あれは意識的にそうしたのだろうか。。                                               (一年生の姉・大正末)



     だが、戦時体制になると、戦場の兵士を想い、華美が排斥されて「贅沢はやめましょう」と言うことになり、パーマネントを掛けるのも洋風で派手なものと思われて指弾され、冷たい世間の冷たい目にさらされたものだ。
     子どもたちまで、こんなざれ唄を歌っていたくらいである。

         ♪ パーマネントに 火がついて   イメージ 6
            みるみるうちに ハゲ頭
                ハゲーた頭に 毛が三本
                あぁ、痛ましや いたましや
                パーマネントは やめましょう

     
       とにかく、戦時中は男子は丸刈り頭で国民服にゲートル巻、女性は束髪でモンペ姿だった。道行く女性の服装に愛国婦人会のオエライ小母さんたちの目が光っていた。街角には「ぜいたくは敵だ」と言う立て看板が目立つ世の中だった。

     


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  • 11/24/16--01:48: 佐賀の衣食住②食事
  •       佐賀の衣食住② 「食事」

     佐賀の食事は勿論一日三食が普通だが、佐賀の近郊の農村では朝は茶粥を食べる家が多かった。茶がゆは佐賀藩の支藩である「蓮池藩」から流行った風習で、江戸時代の蓮池藩の勤倹貯蓄、質実剛健の藩風の名残りなのだそうである。父が市の東郊にあった蓮池出身だったこともあり、紫蘭の家でも朝は決まって茶粥だった。晒の布で作った小さい袋に番茶を入れて、米と一緒にお粥を煮るだけのもので、勿論昼と夜はご飯である。子供が小さいころは、やっぱり世間並みに朝もご飯にしていたが、今は元のようにお粥の朝飯である。

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                                   (軌道列車を眺めながら茶がゆの夕食)   画・南窓さん


     お茶はもともと薬用として使われたし、朝の茶粥はさっぱりして胃腸に負担がかからないから健康には良いのではいかと、ひそかに自負している。
     朝は茶がゆだが昼と夜は米食で、農家の中では麦飯、粟飯も多かった。そのほか、うどん、ソーメンを食することもある。副食物は野菜、味噌汁などのほか、魚肉、獣肉、鳥肉も用いられた。ただし、家内に不幸があると、鳥、獣、魚肉の一切を絶ち、精進期間が終わればまた元の食事に戻ったのである。

    イメージ 2 副食物は有明海の魚類と野菜の煮つけ、味噌汁くらいのものだった。有明海は、遠浅の泥だらけの干潟なので、魚もクチゾコやムツゴロウ、ハシクイ、ワラスボ、メカジャ、タイラギ、などなどの有明海独特の奇怪な珍魚ばかりで、シランの嫌いなものばかり、鯛やサバ、イカなど魚らしい魚は、県北部の玄界灘の唐津から氷詰めのトロ箱で貨車に乗ってくるので、なかなか口に入らない。
     「なーんだ!今日もまた魚かぁ。。」とむくれて、近くの佃煮屋に行って海苔や昆布、するめの佃煮を買ってきて、佃煮だけをおかずにして一人で食べていた。そのためタンパク質不足で、小,中学生時代は多少、蒲柳の質だったのも我ながら無理のない話である。

     ↑有明海のシャコとウミタケ(貝)

     余談になるが、食事と言えばシランの小学生の頃の昼飯は今のように給食があるわけではなし、いつも母が作る簡単な手弁当だった。アルミの弁当箱の中の隅に小さな中子というおかず入れが引っかけてある。小さいおかず入れなのでおかずはいつも竹輪か蒲鉾に沢庵ぐらいのもの、ご飯の真ん中には日の丸のように大きな梅干しがひとつ入っていた。梅干しの酸でアルミの蓋が酸化腐食してガサガサになっていたのを覚えている。戦時中、興亜奉公日(後に大詔奉戴日)には、みんなおかず抜きの梅干しだけの「日の丸弁当」を持って行かねばならなかった。戦地の兵隊さんのご苦労を偲ぼう、というわけである。

     冬は弁当が冷たくなるので、生徒たちは教室の教壇の下に置いてある木製の大きな「弁当温め」に入れておく。中には火鉢が置いてあって木炭の熱で暖かい弁当が食べられるのである。然し下段の弁当は時々包んでいたハンカチが焦げて黄色くなったりしていた。中学は旧制なので5年制である。この頃の弁当については全く記憶がないが、何かとほかの事が忙しかったのだろう。ただ、おかず入れが中子ではなく、別に小さいおかず入れを重ねて持って行くようになった。中子よりも一段大きくなった分、おかずもは多くなっていたかもしれない。この頃のおかず入れは「安全采入れ」と言って、蓋にゴムのパッキンがついており、両側の取っ手をパチンと締めると、おかずの汁が洩らないようになっていた。

     大阪の学生時代には、南海沿線の住吉公園近くの粉浜で、サラリーマン家庭の素人下宿に下宿していた。通りから入った狭い小路にある4軒長屋の二階の一間で、窓からは見渡すばかり色気のない殺風景な屋根瓦ばかりが続いていた。その頃は「大阪は煙の都」と言われていたが、緑の木々は全く見えない無味乾燥の風景だった。「巷に雨の降るごとく、わが心にも雨ぞ降る・・」というベルネールの詩のような、全く期待外れのしょぼくれた大都会の裏町風景だった。

     下宿は朝夕の二食付で月30円、おばさんが一升瓶に玄米を入れて棒で突ついて精米していたが、なかなか白米のように白くはならなかった。夕食時には勤めから帰った小父さんから、戦時下の国民の心構えなどをくどくどと説教されて、飯の味はあまりしなかったようだ。

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                       (意気盛んなコワイ先輩たち)
     
      昼飯は学校食堂、いわゆる学食でとる。午前の授業が終わるや否や、生徒たちは一斉に猛然と走り出し、ガタガタと階段を駆け下りて一階の学食へと飛んでいく。そして、サイコロくらいの小さなサメの肉が二切れ乗っただけの「汁かけご飯」や黄色い色が付いただけの肉無しカレーライス(昔はライスカレーと言った)をガツガツとむさぼり食べるのである。そして一刻も早く食べ終わって、またカウンターの前に並ぶのである。そんな二度並びの生徒たちの姿を、わが子のように優しい笑顔で眺めていた色白の小母さんの顔が忘れられない。

     気の利いた先生は、ベルが鳴る5分前に授業をやめてくれるし、堅ブツの先生はベルが鳴ってもいつまでも講義を続けるのである。生徒にとって偉い先生は前者であり、後者はいくら有名な学者であってもツマラン先生になってしまうのだった。食べ物次第で人間の評価はさまざまになる、浅ましいものだ。

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                                       (謹厳居士の山本教授は漢学の泰斗だった)


     学校の部活が射撃部で訓練が厳しく腹が減るので学校帰りに、よく難波の高島屋の地下大食堂で少し腹ごしらえしてから、南海電車で下宿に帰ったものだ。食堂の一角で古川ロッパの姿を見かけたのも、この頃である。大食漢だったロッパの日記を見ると、同じ日に杉狂児と一緒に高島屋で食べたと書いてあるので間違いはあるまい。奇遇と言えば奇遇である。ここで生まれて初めて食べた「ハンバーグ」という食べ物の味が忘れられない。おそらく肉もあまり入っていなかっただろうに、田舎少年には、世の中にはこんなに旨いものがあるのかと、目からウロコの思いがしたものだ。。

     その点、学生の勤労動員で大阪の造兵廠で働いているときは、どんぶり一杯に大盛りご飯で助かった。3分の1くらいは大豆が混っていたが、さほど苦にはならなかった。その点軍隊では高粱が混入していて、みんな下痢ばかりで弱った。高粱は赤い皮がほとんど消化しなくてそのまま便に出てきたりする。演習中などで急に便意を催すと、矢も楯もたまらず「区隊長殿!00候補生は厠に行きたくあります!」と怒鳴りながら、区隊長の「よし!」という返事も待たず、その辺の草むらに駆け込むのであった。

    イメージ 5 戦後、復員、復学して福岡で大学生活を送っていた頃は、佐賀から大学まで、毎日2時間かけて汽車で通学した。超満員の客車の中にはなかなか乗り込めないので、鳥栖まではデッキの取っ手にぶら下がって通った。鳥栖まで来ると乗り換え客で座席が空くので何とか中に入れるのである。煙突から吐き出される煙にまみれて、顔には煤がつき、耳や鼻の穴には細かい石炭クズがジャリジャリ入っていたりする。ホームに降りて洗面台で顔を洗って行かなければ、学友たちに笑われるのだ。
     ← (角帽が懐かしい)。。

     その頃の弁当はいつも二食分だった。一つは親友のSの分である。母が朝4時から起きて毎朝弁当を作ってくれた。外語、軍隊、大学といつも一緒だったSは、母子家庭の上に兄も病床にあって、家庭教師をしながら苦学していた。いつも腹を空かせている彼のために、母が弁当を二人分作ってくれて居たのである。 その頃は食堂で食べるにも、外食券が必要で中々思うようには食べられない時代だった。

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     ご飯を入れた旧軍隊用の飯盒をぶら下げて、朝6時に出る列車に乗るためにガタガタと下駄の音をひびかせながら駅をめがけて一散に走って行ったのが忘れられない。彼の下宿で時々彼の実家から送ってきたサバの干物を焼いて食べた。部屋にコンロを持ち込むのが判ると下宿の小母さんに怒られるので、シランは大学ノートを団扇代わりにして、必死に煙を扇いで窓から外に追い出したりしたものだ。

     定年直後に、彼が胃がんで亡くなってからもう30年にもなる。
     訃報は突然に舞い込んできた。
     今朝のように、夜中の木枯らしが吹き荒れて、街路樹の枯れ葉が舗道一杯に散らばっていた、ある朝の事だった。。


                                                 (Sと阿蘇登山、左がしらん


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         (46)    佐賀の衣食住③「住居」

     佐賀市内の昔の家は藁ぶきや瓦葺きだが、藁葺きの家は一般に平屋で、瓦葺きには二階建てが多かった。三階建てはたいてい旅館などに多く、学校、官庁、会社、銀行などは和洋折衷が多かった。 佐賀市は藩政時代から質実剛健の葉隠武士の気風が残っていて、万事控え目で質素な土地柄である。特に第十代藩主直正公の倹約厳命で、明治期には市内の目抜き通りでさえ藁屋根が多かった。大正初年ごろに市の条例で、市内を一等地、二等地、三等地に分けて藁屋根の改造に努め、この後の藁屋根の建築を禁止したので、紫蘭が子供の頃には市街地にはほとんど藁屋根が見られなくなった。
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                                 (大正期の裏通り・馬車と自動車の離合もままならない)


     昔、家を建てるのにはまず地鎮祭を行い、そのあと地固めのために「石棒突き」を行った。石棒と言っても石の棒ではなく、大きな木の棒を使って、家の柱を立てる礎石の場所の地固めをするのである。長い三本の木の棒を三角形に組み立てて、その中心から縄を下ろして石棒が吊るしてある。石棒の上に何本も縄を取り付けて、ぐるりと輪になった大勢の人がそれぞれ一本の手縄を引いて、「石棒歌」のリズムに合わせてエンャコラと拍子を合わせて引っ張ったり、緩めたりして石棒を振り下ろし、振り上げて礎石を突き固めるのである。

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                                            (大正末、馬鉄の始発駅)
                                  
     この日は親戚、知人、隣近所からこの石棒突きの加勢(手伝い)にやって来て、みんな揃いの赤鉢巻をつけて賑やかに地固めをするのである。棟上げの時には棟に弓矢を取り付け一重ねの餅を棟木に供えて、家の将来の祝福を願う上棟式を行い、さらに小餅を節分の豆撒きのように建家の屋上から撒いて、集まった人々に「餅投げ」をするのである。その小餅の中には小銭が入っているものもあり、人々は争ってこれを拾うのである。
     石棒突きの歌は、丸山明宏さんの「ヨイトマケの歌」が有名ですね。

         父ちゃんのためなら エンヤコラ
         母ちゃんのためなら エンヤコラ
          もひとつおまけに  エンヤコラ

     佐賀地方の石棒突きには、こんな歌が歌われた。 

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                                         (麦わらの農家・ひさしは瓦葺きだった)

     
     〇「伊勢音頭」

      ♪伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋はあの城でもつ ヨイヨイヨイトナー

     〇 「那須与一の的射(戌亥の角を突くときに歌う)」

    ♪切って放せば要際(かなえぎわ)よりプウッと射切る 射られた的はヒラリヒラリと2、3度4,5度は舞いあがり 敵や味方も一度にフウと賞め声あげる 那須の与一は軍半ばに功名手柄 弓は袋に剣は鞘に 中に立てたるこの棒は 戌亥(いぬい)の角に納めおくぞよ 先祖代々孫子の末まで繁昌仕るぞ ヨイヨイヨイトナー

     町屋の家は瓦葺が多かったが、中には藁ぶき屋根もあった。勿論農家は藁ぶき屋根だが、藁ぶき屋根は天井裏を除けばたいてい平屋造りである。従って二階建ては町中の目抜き通りだけで、三階建てはたいてい旅館であった。また和洋折衷の建物は、学校、官庁や銀行、会社に多かった。もともと佐賀は質素倹約を藩是とする土地柄なので目抜き通りさえ藁屋根が多かったが、大正初年に市内を一等地、二等地、三等地に分類して藁屋根を禁止する条例が出来て佐賀市内には藁屋根は次第に減少していった。戦後は農家の藁屋根さえも、藁の上にトタンをかぶせてしまったので、一見して藁屋根と見える家は少なくなった。現在はその瓦屋根さえ少なくなり、新建材の組み立て式の住宅ばかりで、昔を偲ぶ風情はどこにも無くなってしまった。

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                   (大正初め、駅前の三階建て旅館と馬鉄)
       
     戦前の佐賀にはビルがほとんどなかった。デパートか県庁、市役所に銀行くらいのもので、それも2階建てか3階建てで、4階以上はデパートだけであった。佐賀平野は有明海の沖積地なので、地下数十mもの粘土層が重なっているので地盤が緩く高層建築には適さないのである。しかし、ここ20年来、基礎工事技術の進歩で、地下深くパイルを撃ち込めるようになって、今はどこもかしこも高層建築のマンションだらけになってしまった。子どものころは、二階の窓から遥か向うに多布施川の松並木が見え、秋にはロマンチィックな満天の星空が見られたのに、今は星に代わって無味乾燥のビルの窓の明かりしか見えない情けない有様である。

     
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                                      (お菓子屋さん・大正期)

     我が家の周辺でも、最近ビルや新建材の家が立ち並んでいて、築50年の古臭い木造の我が家はいささか肩身が狭い。然し最近、コンクリート造りのビルが次々に改修されたり、改築をされている。木材は腐るけど、コンクリートなら末代物だと思っていたのに、わずか2,30年しかもたないとは・・我が家の天井をはぐってみると、梁も棟木もまだまだ新品そのものである。これなら築百年は持つだろうと、残り少ないわが身の寿命も顧みず意を強くしている昨今である。
     

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         (47) 「昔の佐賀の行事」

       〇「おくんち」
    イメージ 1 「くんち」は秋祭りの意味で、むかしの宮中の「重陽の節句」である9月9日から取って「九の日」を「くんち」と呼んだ、という説と、秋の収穫物を神に供える日という意味で「供日・くんち」になったという説がある。漢字では「お供日」と書くが、今は一般に氏神様の秋の祭日の事を言う。「長埼くんち」や佐賀の「唐津くんち」が有名だが、主に九州北部でよく行われている行事である。


       ↑ 「唐津くんち」は唐津神社の祭礼で、江戸時代以来の漆塗りの巨大な山笠たちが、火消装束を身にまとった若者たちのエンヤ、エンヤの掛け声とともに唐津市内を巡っていく勇壮な神事である。
     
     佐賀市内では秋祭り・つまり「おくんち」は10月10日~12日にかけて、松原神社、佐嘉神社の例大祭があり、与賀神社が10月29日、竜造寺八幡宮が11月15日、堀江神社のくんちは11月15日であったが、最近は11月3日に行われるようだ。。

     「松原神社」は歴代の鍋島藩主を祀ったお宮で、いわば佐賀市全体の氏神様とでも言おうか、昔から春、秋のお祭りは特に盛大だった。春の祭りは佐賀市の、秋の祭りは佐賀郡の主催になっており、秋の大祭には郡部から色々の浮立の奉納があり、夜店やサーカス、見世物小屋が立ち並んで夜遅くまで足の踏み場もないほど賑わったものである。 
     紫蘭も小さいころは母に連れられて、一度は必ずお詣りしたものだ。母は帰りに決まって蓄音機屋に立ち寄って、浪花節のレコードを買い、子供は露店のおもちゃ屋で刀やラッパを買ってもらい、また帰りにはお土産に「松原おこし」を買って帰るのが何よりの楽しみだった。

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     「与賀神社」のくんちの御神幸には、奴姿の若者たちが先払い、挿み箱、まとい、三間槍を振り回して先導し、神輿をかついで回る。この神輿は「荒神輿」で進んでは引き、引いてはまた進むという荒々しい神幸で、短い距離を何時間もかけて荒々しく回るが、不思議に怪我人は一人も出ないという。

     「竜造寺八幡宮」はシランの氏神様だが、昔は11月15日に行われ、浮立が出たり、境内に舞台が出来て佐賀にわかや手踊りなどの催し物があって賑わったが、最近はオクンチと言っても全くひっそりしたもので、昔のように各家庭で赤飯を焚いて祝うこともない。
     
          〇 「浮立」

     「浮立」と書いて、フリュウと読み、別に「風流」とも書く。浮立は神楽の変形したものだそうで、その起源は平安時代の「風流」と言われ、鉦(かね)や太鼓のリズムにあわせて踊る神事芸能である。
     「浮立」は氏神様の秋祭りである「おくんち」に,夫々の神社で奉納される神事芸能で、いわば農村地帯で行われる田楽や御田舞いの一種である。浮立には各地によって様々な種類があるが、鐘、太鼓、笛などで囃し、その囃しに乗って踊るのを一般に「浮立」と呼んでいる。鬼面をかぶって踊る「面浮立」をはじめ、「行列浮立」「鉦・カネ浮立」「太鼓浮立」「天衝舞い」など様々だが、いずれも豊作祈願や雨ごいなどのために行われる神事芸能として発生したものである。

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          〇 「面浮立」

    イメージ 4 「浮立」の中で代表的なものは、鬼面をかぶって踊る「面浮立」である。面浮立は般若の面に似た鬼面をかぶったカケウチ(踊り手)が、胸に小太鼓を吊り下げて、鉦・太鼓のリズムに合わせて激しく勇壮に踊る。この鬼面には雄・雌の二つがあり、頭には(毛熊・シャグマ)と言う長い髪の毛がついている。

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     踊り手である「かけうち」はさらし木綿のハッピに股引をはき、手甲、脚絆にわらじ履きで、腹部に小太鼓を吊るして、両手に持ったバチで太鼓を打ち鳴らして勇壮に踊る。
     踊りの由来は判然としないが、もともとは雨乞いや悪病退散を祈願したものらしい。この面浮立については戦国時代の佐賀北郊の「今山の陣」が興味深い。

     戦国時代の九州は、大分の大友宗麟、佐賀の竜造寺隆信、薩摩の島津氏の三国鼎立の時代だったが、元亀元年(1,570年)豊後の大友宗麟は総勢8万の大軍を率いて佐賀城を包囲した。然し佐賀城の竜造寺方は弱勢ながらよく防いだので、佐賀城はなかなか陥落しなかった。そこで宗麟は甥の大友八郎親秀に命じて佐賀市北方の今山に進出して、一挙に佐賀城を攻略せんとした。

     このとき竜造寺の重臣・鍋島直茂がわずか500名の手勢をもって今山の敵陣に夜襲を敢行し、一挙に敵を潰走させた。敵将・大友八郎は山すそ伝いに東方に落ち伸びたが、先回りした鍋島勢に打たれて討ち死にし、以後大友は肥前攻略を断念せざるを得なくなった。この戦いは「今山の陣」として今に語り継がれているが、この時の夜襲の際に鍋島勢が鬼面をかぶり赤熊(しゃぐま・長い髪の毛)をつけ、陣鉦、陣太鼓、笛を打ち鳴らして敵に夜襲をかけ、勝利したという故事にもとづくそうである。

       〇 「天衝舞」

     この「面浮立」のほか、「天衝舞・てんつくまい」もまた独特の浮立で面白い。
      天山山麓の佐賀県富士町の「市川」に伝わる「天衝舞」が有名だが、市内の堀江神社にも「玄番一流」という同じような天衝舞が伝わっている。これは約400年前の弘治二年五月、未曽有の干ばつがおこり、堀江神社の大宮司「堀江玄番」が堀江大明神に雨乞い祈願のためこの浮立を始めたので、こののち「玄番一流」と言う浮立となったと伝えられている。

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                (腰の後ろに下げたむしろは、踊りに失敗したときに切腹するためのものだとか。。)

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     これは玄蕃が笛や鉦、太鼓の拍子を工夫して独特の浮立に仕立てたもので、時に玄番は47歳、その年令にちなんで当時の浮立の囃し方は、大太鼓二十、小太鼓二十七になったそうである。

     実家が堀江神社の氏子だった家内も、少女のころ花笠をかぶり着物に赤いタスキ掛けをして、浮立の鐘を叩いて廻ったそうである。


      *おかっぱ頭の少女だった家内も80年の過ぎればもうおばぁさん、
       今日は医大に目の診察に行ってきました。。 トホホー




            ・・・・・

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        (47) 日米開戦!   「十二月八日の日記」

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      今日は12月8日、今年もまた日米開戦の日がやってきた。安倍首相は月末にハワイの真珠湾を訪れて、オバマ大統領と共に戦没者の慰霊を行うというが、あの衝撃的な真珠湾攻撃からもう75年も経つのか・・。 実に感無量である。

     75年前の今日、17歳だったシランはどうしていたのだろうか。
     昭和16年、旧制中学を卒業・旧制高校受験に失敗して浪人中だった。そのころは塾も予備校もなく、ぶらぶらと自宅で受験勉強に明け暮れていたのだが、その朝いちばんに、突然、ラジオから甲高い日米開戦の大本営発表が聞こえてきた。

     「日米開戦!!」 
      
     【昭和16年12月8日、真珠湾攻撃により、ついに日米の戦いが始まった】 

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                                                (真珠湾攻撃・俯瞰図)
      
      真珠湾攻撃は少年の私ならずとも、まさに青天の霹靂ともいうべき衝撃的な大事件であった。 まさかアメリカと戦うとは。。
     この日、17歳の少年は相当興奮していたようだ。
     その日の日記を見てみよう。

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      ○「昭和16年12月8日」
      日米ついに開戦!日英開戦!
      本日午前六時、大本営は日米はついに戦争状態に入ったことを臨時ニユースで放送した。

     ○「大本営陸海軍部発表」 十二月八日午前六時
       帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋上に置いて米英軍と戦闘状態に入れり。

      
      ○「大本営海軍部発表」 八日、午後一時
     一、帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊ならびに航空兵力に対し、決死気的大空襲を敢行せり。


          ・・・・・
      
     *先日来続行せられし日米会談は、六日、第八次会談を開催、日本側はハル国務長官に対し、米国の対日文書に対する回答を手交し、米国側の新秩序に対する認識不足はついに日米交渉決裂に至らしめた。
      
      数日前よりのABCD包囲陣の軍備拡張の狂奔ぶりはまさに狂気じみたものがあったが、いまやその包囲陣80万の大軍は、日本をして東亜新秩序の国策を放棄せしめんと、その軍備の充実ぶりを誇示し、厳正中立の泰国(タイ)を味方に引き入れんとデマ宣伝に寧日なく、シンガポールには3万5千トンの新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」を旗艦とする英国極東艦隊が入港、東洋のジブラルタルと称される同港はその軍備をますます充実し、いかなる猛攻にも耐えうる一大要塞と化し、大日本帝国の存立を脅かさんとしつつあった。

     まさにこの時、ついに日米開戦し、当然ABCD包囲陣の諸国、英、蘭、印は時を同じうして対日宣戦布告すべく、いまや我が国は一国にして英米露支蘭の五カ国を相手にして戦わねばならぬこととなった。
     然し、我には精鋭無比の大陸海軍あり。英米何ぞ恐るべき!!
      
      ○ただ今、午前11時、臨時ニユースあり。
      支那方面艦隊は英砲艦一隻撃沈、米艦一隻捕獲せり。
     天皇陛下は本日午前十一時英米両国に対する宣戦の大詔を発せられた。午前十一時半より発表される。・・

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     ◎天皇陛下はラジオを通じて英米に対して宣戦を布告せられた。
       ラジオは臨時ニュ-スと軍歌ばかり放送している。
      今や超、超非常時がやってきた。日本民族一億が一丸となって英米を討つのだ。
      神よ、日本に幸あれ。

     今日は日本晴れである。ラジオからは軍歌ばかりが聞こえてくる。「勇敢なる水兵」の曲だ。
     今や日本死活の戦いは始まった。この戦いに勝てば日本は世界第一の強国となる。敗れれば二流、三流の国となる、いや、その独立さえ危ぶまれる。
      日本は勝つ、断じて勝つ! われらがこの意気を見よ!

     *興奮のあまり日記を書く手もふるえる・・と書いている。
      疑うことを知らない純情すぎる17歳の軍国少年だった。

      


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        (48) 「昭和16年12月9日」の日記 

      開戦前の日本は、満州事変以来の大陸進出政策に対する列強の圧力が厳しく、日中戦争終結の見通しも立たず、石油や鉄鉱石などの輸出禁止など、いわゆるABCD包囲網によって身動きのできない閉塞状態に追い込まれていた。軍部主導の下、起死回生の打開策として生まれたのが真珠湾の奇襲攻撃ではなかったのだろうか。不意打ちを食らった米国民の怒りも、さもありなんと思われる。

                                                (12月7日のハワイの新聞)
                     戦争勃発! 日本飛行機・オアフ島空爆
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      昨日の開戦の日記に続いて昭和16年12月9日の日記を見てみると・・

      〇 「12月9日」
     開戦第一日の敵太平洋艦隊に対する帝国海空軍の大奇襲作戦の状況次の如し。
     日本軍のハワイ攻撃による米兵死傷者三千名。
      
      当時、米市民は米国の演習と思い面白がっていたところ、突然火柱が上がったので驚愕したという。これはハワイ沖の日本航空母艦から飛来したものと思われ、真に決決死的奇襲であったことが窺われる。これに対し米・ホワイトハウスも損害を確認、三千人の死傷者の半数は死者であり、飛行機多数(外電によれば300機)を地上撃破されたと発表。

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     ○「陸海軍報道部発表」12月9日

     一、帝国海軍は十日未明、フィリッピンに敵前上陸に成功
     一、帝国潜水艦は昨九日午前マニラ湾に於いて米軍用船(1万5千トン)を撃沈。
       帝国艦艇は八日午前香港方面に於いて英武装商船ベネブ号(6千トン)を拿捕せり。
     一、帝国海軍艦艇はパラオ港外に於いて米新鋭潜水艦を撃沈。
     一、帝国潜水艦はダバオ沖にて米水上機母艦(1万1千50トン)を撃沈

     一、日本空軍、南太平洋ナウル島を空襲

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                                                  (空母から発進するゼロ戦)

     一、メキシコおよびサンドミンゴ、対日宣戦布告
     一、中米コロンビア対日国交断絶
     一、八日未明の日本の香港爆撃は、ウンカのごとく互いに衝突するかと思われるほど密集した大編隊で強襲し、50フイートの超低空急降下爆撃を加えて大損害を与えた。
     一、帝国陸軍は激烈なる英軍の抵抗を排除し、北部マレーの要衝○○を占領せり。
     一、日本空軍は比島全土を猛爆、マニラ上空で大空中戦を行い、米軍用飛行場では、200名以上の米兵が死亡した。

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    * 「八紘を以って一宇となす」、大東亜共栄圏という美名のもと、一方的な不意打ちの南方侵攻作戦は、残念ながらやはり侵略行為と取られても仕方あるまい。国内一部勢力に対する言い逃れでもあろうが、官房長官が謝罪ではないと、言っている意味が分からない。何時の世でも戦争は罪悪であるという事実には、変わりはないのだ。

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                                                   (開戦時の東南アジア概略図)



     *12月8日も過ぎたので、戦争に関する記事はこれくらいにしましょう。
       いろいろと物議をかもしますから。。

            ・・・・

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     早くももう12月、 ♪ あといくつ寝るとお正月??
     また新しい一年が始まるが、昔から続いている年中行事はどんなものがあるだろうか。
    今はあまり見かけない行事が多いが、昔から近郊の農村部で行われていた年中行事を簡単に整理してみよう。

        「昔の年中行事」 ①

       「1月」
      佐賀では正月の「松の内」は、元旦から14日までの門松を立てている間を言う。元日には友人・知人宅への年始の回礼をし、2日には商家は初荷を出す。14日には注連縄、門松などの松飾りを取り払って平常に復す。佐賀藩・鍋島家の門松飾りは江戸でも「鼓胴の松飾り」として有名であったそうである。

    〇 1月1日・七福神

     正月に福をもたらす行事として、有田町や千代田町など県内数ヶ所で行われている。青年たちが夫々七福神に変装して「七福神の御入り・・」と正月の祝い言を述べながら、大豆を投げ打って各家々を回る。その報酬には切り餅や金銭のお祝儀を貰うのである。

    〇 1月7日・ホンゲンギョウ 佐賀市周辺

     イメージ 1正月7日の早朝、青竹と藁を持ち寄って作った小屋を燃やして鬼を追い払う、「鬼火焚き」という所もある。子供たちはこの火で餅を焼くのが楽しみだった。これを食べると病気をしないと言われている。

      また子供たちは目出度い言葉を紙に書いてこれを火の上にかざして燃やし、その灰が高く燃え上れば書き方が上手になると喜んだものである。

     〇 1月10日・十日恵比寿 与賀神社

     商売繁盛の神様としての恵比寿さんのお祭りである。最近は特に盛んになり、市内近在の人たちの参詣が多くなった。
     また江戸時代の旧藩時代にはこの日に「なやらい」と言って、家中と町内の悪鬼を払う行事をした。現在の節分と同じく「鬼は外、福は内」と叫びながら大豆を打ち付けて行くのである。佐賀城内では裃姿の若侍がこの仕事に当たるが、この時だけは男が大奥にまで立ち入ることが出来た、という。

     「1月9日」・荒神餅の鏡開き

     イメージ 2九日には家々のかまどの神様として祀っている「荒神様」に供えた鏡餅を割る。その荒神餅は「ナマコ餅」と言い、全体に小豆をつけてある。このナマコ型の餅を二つ折りにしたのを三つ重ねて、包丁でなく手で割って頂き食べるのである。
     また、この日は「荒神さんの相撲」と言って、子供たちがゴザを持ち寄り、各家のかまどの前で相撲を取り、報酬としてその餅を貰うのであるが、今はこの風習もすっかりすたれてしまった。何しろもはやカマドも荒神棚もない時代なのである。

     〇「1月11日・鏡開き

     鏡開きの日であるが、荒神鏡開き同様、包丁を使わずに手や木づちで割る。これは刃物を使って切るのは、腹を切るのに通じるという縁起かつぎであった。

     〇1月14日・ もぐら打ち
     
     主に農村ではこの日にもぐら打ちの行事がある。果樹や農作物の豊作を祈る行事で、鉈で果樹を切りつける「成り木責め」と似たような豊作祈願のためのものである。
     「もぐら打ち」は小正月の行事で、佐賀平野の各地で見られる子供たちの行事である。手ごろな青竹の先に藁を束ねて小縄で括り付け、それで地面を叩くと爆竹のような音がする。子供たちはこの青竹を持って数名づつで組を作って、各家の庭先の地面や果樹の根元を叩いて回る。先端のわら束はモグラを意味するそうで、叩くときには「もぐら打ちの歌」を歌いながら地面を叩く。
        
        
      ♪ 「もぐら打ちの歌」

            なれなれ柿の木                                    イメージ 3
            ならずの柿をば、なれとぞ言うた
            千なれ 万なれ 億万な~れ
              うちの子のちぎっときゃ 畑の真ん中な~れ
             よその子のちぎっときゃ 堀の真ん中な~れ
             十四日(じゅうよっか)のもぐら打ち


        〇1月19日・フナ市

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    二十日恵比寿の料理のためにクリークに生息しているフナを獲って、昆布巻きにして大根と共にグタグタと時間をかけて味噌煮にする。

     フナは骨まで柔らかなってとてもおいしい。鹿島市周辺では近郊の人たちがこのフナ市を催し、朝早くから威勢のいい売り手の掛け声が飛び交う。

     ↑川干でとれたフナの群れ



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         (49) 昔の佐賀の行事 ②

      ② 「2月~4月」

    〇2月3日・節分 佐嘉神社
     厄年を迎えた男たちがその年の平穏無事を祈願するもので、全国各地で行われ、年男たちが境内の台上から声を張り上げて鬼払いの豆まきをする。

    〇「初午」
     2月になって最初の午の日を「初午」という。
    鹿島市の祐徳稲荷神社では、2月の初午の日に商売繁盛、航海安全、豊作、大漁を願って参詣する老若男女で、境内はごった返す。

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     また、昔は初午の日には、婦女子の多くは「この川や・・」という行事をしていた。これは女性が一番大切にしている黒髪がいつまでも長くて艶やかであることを願う行事である。しだれ柳の枝や「髪長うし草」という麦に似た草など七つを一緒に白紙に巻いて水匹に結び、川に流すのである。その時女性は橋の欄干を背にして立ち、次のような祝言を唱えながら後ろ向きのまま川に投げ込むのであった。

       「この川や、この川や、長さ広さは知らねども、流るるままに延べや黒髪」
     
     〇2月14日・カセドリ 佐賀市蓮池町

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    旧正月に行われていた行事で、東北地方のナマハゲに似た小正月の行事。

    陣八笠、藁みの、手甲などで身を固めた若者二人が各家を訪問し、悪魔祓いを行う。手に持った割竹をガチャガチャと鳴らす様子は、すさまじものがあるそうだ。
      
     〇「3月」・ひな祭り
    女の節供、ひな節供などと呼ばれて、最初の女の子の誕生を祝う。各家では雛壇にひな人形を飾り、菱餅、桃酒を供え親類、友人を招いて「節供振舞い」を行う。

     〇川干(かわひ)
     三月のお彼岸ごろに、佐賀近郊の農村では堀の水を、佐賀市内では縦横に還流している多布施川の川さらえがある。これを「川干・かわひー」と呼んでいた。

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                                           (村民総出で堀の川干)
     
     江戸時代に、多布施川本流の嘉瀬川から市内の生活用水を採るために、成富兵庫守茂安が苦心の末構築した「石井樋」という水門があるが、この樋門を数日間閉じて市内の河川や堀などの水流を減らして一斉に川浚えをするのである。藩政時代には近隣の農村から人数を決めて公役(くやく)を命じ、役人が出張して厳重に監督した。川岸の笹や雑木を取り払い、川床の砂をさらえて洪水の予防をする。この間、各家庭では飲料水も風呂や洗濯の水もなくなるので、川干になれば各家では風呂や木の樽に水をためておくのが通例だった。

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      現在は上下水道が完備してその憂いはないが水道敷設前の大正8年ごろまでは随分やかましいものであったという。今でも毎年春、秋の二回川干があり、一週間ほど石井樋の石門が閉まるので、市民総出で各河川の大掃除をすることになっている。おかげで「ブン蚊都市」とまで言われていた市内の蚊やハエもすっかり姿を消し、清流がさらさらと市内を流れるようになっている。
     

        「4月」

       〇 「花見」

    イメージ 4 春の桜の花見は、冬の間、家に閉じ込められていた農民が、春を迎えた喜びを表現したものとして、また田の神を迎える行事として行われた。
     
      市内では昔は神野公園や蓮池公園が桜の名所だったが、いずれも旧鍋島藩主の別邸で、昔の小学校の遠足の場でもあった。今は佐賀城周辺や多布施川沿いなど、新しい桜の名所も多い。

      ↑ 佐賀城・本丸御殿

     〇 4月8日・灌仏会

     四月八日はお釈迦様の誕生日なので、市内の各寺院では「灌仏会」を行う。
    各お寺では本堂前に小さな四角足の御堂を出して置く。その屋根は春菊やいろいろな花で葺き、中央に「天上天下唯我独尊」の釈迦像を安置して、これに甘酒を振りかけてお布施をするのである。

     〇4月13日 ・万部島の招魂祭

     市内の万部島には、明治7年に起こった佐賀の乱の記念碑がある。
    そして毎年4月13日に、江藤新平や島義勇はじめ、この佐賀戦争で戦死した敵、味方の戦没者の慰霊祭が行われている。遺族や関係者が参列して戦死者の招魂祭を行うのである。

     〇4月10日~112日・ 日峰さんの祭り

     佐賀、鍋島歴代藩主を祀る松原神社の春祭り。藩祖・鍋島直茂公の法号が「日峰」なので、日峰さんの愛称で市民に親しまれている。この期間中は昔は多くの露店やサーカス、見世物小屋などが立ち並び、能楽や生花の奉納、佐賀にわかなどの舞台も建って昼、夜となく大勢の参拝客でにぎわったものが、今では、露店と骨董市が開かれるぐらいで、昔の面影は全くなくなってしまった。

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      〇4月26日・ひゃーらんさん祭り

    イメージ 6 「ひゃーらんさん祭り」は 「河童祭り」「川神さん祭り」などとも言うが、佐賀平野に縦横に走るクリーク(堀川)での子供の溺死や水難防止の意味で行われる神事で、松原神社はじめ佐賀市近郊の神社で毎年行われている。この日は藁で円座を作り、小豆飯を円錐形に握って中央に供え、水神様のお使いとされる河童の好物である、ムツゴロウや胡瓜・茄子などを置き、燈明をともして円座を川に流すのである。

      ヒャーランサンとは、川に子供が入らんように、という意味である。昔から川神様の使いである河童は子供を川に引きずり込んで食べてしまう、と信じられててきた。


        ↑ 川神さん祭り

    イメージ 7 松原神社の楼門には古くから河童の木像が掲げられていて、そばを流れる松原川の沿道には、ユニークな河童の石像が色々並んで置かれている。  
                       ↓子供河童
     
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      特に佐賀には井戸が少なく、生活用水を川の水に頼らねばならなかったから、昔から年に一回は、どこでもこの川神さんの祭りをしたのである。


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                  (50) 「佐賀の年中行事」③ 5月~8


         「5月」

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      「5月5日」・端午の節供

      5月5日は全国どこでも同じだが、男児の将来を祝う「菖蒲の節句」である。
    端午の節句は「男の節句」であり、初の男児が生まれた家では庭先に鯉幟や吹き流し、矢車や勇ましい武者絵の幟を立て、家の床の間には金時や鍾馗さんなど、強そうな武者人形を飾る。各家では嫁の実家など親戚一同を招いて、男児の無事成長を祈って「のぼり祝い」の酒宴を催す。


      「6月」

    〇6月19日・沖ノ島祭り

      イメージ 4有明海の竹崎沖に浮かぶ沖ノ島に沿岸各地から燈灯や大漁旗で飾り立てた漁船に乗り込んだ若者たちが、鐘、太鼓、笛をならして囃し、夜を徹して浮立を行って沖ノ島に詣でる。沖ノ島には昔から海の守護神とされる沖髪神の石の祠がある。

      沖ノ島には、干ばつに困り果てた農村のために
    「お島」という娘が人柱になって流れ着いた島である、という伝説が沿岸各地に残っており、今でも漁民、農民の間には厚い信仰が残っている。 

          「7月」

    イメージ 2  〇 7月上旬・サナボリ

     各地の農村部では田植えが終わると盛大にサナボリを行う。農家に機械が導入される前の田植えは、多くの労働力が必要とされ、近隣や福岡南部からも多くの田植え加勢を頼んでいた。サナボリにはこれらの人たちに賃金を払ったり、ご馳走をしてその労をねぎらったのである。

      ←昔の田植え風景

     〇7月7日・タナバタ

     七夕は8月7日に行う所も多いが、思い思いに短冊に願い事を書いて庭先の笹竹に吊るす。昔は夏休みの8月7日早朝、小学校に登校して、運動場の大きな笹竹に、各自持ってきた短冊を吊るしたものだ。

     〇7月15日・旗上げ  中原町、綾部神社

     イメージ 3綾部神社は肥前、筑後地方の農民の間に風の神様として長い間厚い信仰を受けてきた。この日、今年の農作物の豊凶を左右する風の被害を占うために、朝布の小旗を竹の先に吊るしてて境内にある神木の先端に上げるのである。

     この小旗は9月23日に下ろされ、その巻き具合によってこの年の収穫を占うのである。麻布は少女または老女によって織られ、小川で身を清めた数名の若者によって神木に吊るされる。

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           「8月」

       「8月15日」・「精霊送り」

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     8月15日の夕方から16日早朝にかけて、「精霊・ショロウ送り」をする。送り方は様々だが、初盆の家では精霊船を造り、お供えの品を載せて川や海に流す。いわゆる「精霊流し」である。

     佐賀市では、今宿の江や高橋川などで賑やかに行われている。各地で行われる盆踊りもこの精霊送りの意味である。くんち用に用意される料理は、佐賀平野のクリーク(堀川)のフナを獲ってきて、昆布巻きにしてグタグタとみそ煮をするのが多い。





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        「佐賀の年中行事」④ 9月~11月

         「9月」 
     〇名月
     旧暦の8月15日は「最中・もなかの月」と言い、佐賀ではこれを豆名月と名付けて縁先に机を出し、柿、栗り、枝豆などを供え、花には秋の七草を活けてこの名月を祀る。
     9月の13夜は「のちの月」と言い。佐賀では「芋名月」と言った。この夜も文人墨客の間には月見の宴を開く者もいたが、一般にはあまり縁のない行事である。いずれも月見の宴は旧暦の事なので、現在の新暦とはに日時が異なる行事だろう。

      〇「23日の月待ち」
     毎月23日には、月の出を待つ,男子の「月待ちの日」である。この夜は各自親しい友人知己で二十三夜仲間を作って、輪番に各自の家に集まって月の出るまで寝ずに飲食を共にする。今では月見の宴というよりも、殆ど親睦のための飲み会で、「三夜待ち」と呼んでいる。

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     また女性も同じような月待ちの宴をした。こちらは毎月、二十六日の月待ちで「六夜さん」と言い、六夜さん仲間が輪番に各自の家に集まって、仏さんの乗った三日月の掛け軸を拝んで、飲食を共にする。二十六夜の月光の中には阿弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝えられ、これを拝むという「月待ち講」の一つだった。
     三夜待ち」も「六夜さん」も,月待ちを口実に親しい仲間たちと飲んだり食ったり、歌ったり、夜中まで堂々と遊べるかねての憂さ晴らしの楽しみの夜だったのである。

       〇「10月~11月」・おくんち

     くんち(供日)の事は先に述べた通りである。秋の収穫感謝のために氏神様の秋祭りが行われて浮立など各種の郷土芸能が奉納される。供日とは、収穫された新米を神様に供える日、という意味だそうである。
     長崎くんちが全国でも有名だが、佐賀県内の主なくんちの行事は次の通り。

     ①日峰さん祭り 
     佐嘉・鍋島藩の歴代藩主を祀った「松原神社」の秋祭り。
     昔はサーカスが来たり、各種露店、ガマの油、見世物小屋などが立ち並んで、押すな押すなの参拝客で賑わったものだが、時代の変遷であろう、今はもうその面影もない。

    イメージ 2  ② 伊万里くんち・・トンテントン祭り

     神輿とだんじりが組み合って、町内の各地で喧嘩をする勇壮なもので、一名「伊万里の喧嘩祭り」とも言われている。最後はお神輿を川に放り込んだりする荒々しい祭りだが、時々けが人や死者が出ることもある。

     
       ③唐津くんち
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    唐津神社の秋祭りで、全国的にも有名。曳山が中国やパリに行ったこともある。総うるし塗の豪華な曳山14台が氏子たちのエンヤエンヤの囃子に乗って町中を練り歩く。武家社会の武士に対抗する町人の心意気を示したものだという。江戸時代から伝わる豪華な曳山は県の重要文化資料になっている。

     ④相知(オウチ)くんち

      熊野神社の秋祭りで、くんち山笠や大名行列が繰り出す。
     ⑤武雄くんち
      武雄神社を中心に、流鏑馬(やぶさめ)などの奉納行事が行われる。

      〇「10月18日」  田楽

    イメージ 4 佐賀市川久保の白鬚神社に伝わっている芸能神事で、稚児田楽の一種である。白鬚神社の御祭神は近江の国の白髭大明神で、十九家がここに移住して原野を開拓し白鬚大明神を祀ったと伝えられている。

     田楽の前に、神社まで行列が続く。田楽の役者は、スッテンテンハナカタメがそれぞれ大人の肩ぐるまに乗り、そのあとから高下駄を履いたササラツキ(少年)が4人、カケウチ(青年)が二人、笛吹き4人がぞろぞろと行列を作って田んぼの中を神社まで歩いて行く。
     田楽は社前に竹囲いを作り、ゴザを敷いた上で踊る。カケウチの掛け声とササラ、笛、太鼓の音楽に合わせて、ゆったりとした動作で、長々と1時間半も踊るという悠長なものである。 歌はない。

      踊り手の「カケウチ」は田楽法師の白衣に黒のはかまをつけ、胸に太鼓を吊っている。背中には木刀を縄で縛りつけ、花笠をかぶり後頭部には一枚の白紙に切れ目を入れたものを垂らし両手に太鼓のバチを持っている。

     ↑ ササラツキ(少年)
                       
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                                               (白鬚神社の田楽行列)  画・南窓さん
                                     

       〇「11月」  田の神さん

     農村部では10月か11月の最初の丑の日に行われ、「丑の日さん」とも呼ばれている。この日農家では田んぼに刈り残して置いた稲株3株か4株を刈り取り、家にかついで持ち帰る。このとき「重たい」「重たい」と唱えながら帰るが、これは「田の神様」に豊作を感謝し、さらに来年の豊作を祈願するためだという

      〇 「11月10日」 お日待ち

     朝、日の出ぬうちに太陽にお供えするために、臼の上に餅を月の数だけ供える。その餅は月をかたどってあり、そばにススキや菊などを飾る。集落の当番の家ではみんなを呼んで宴席を設ける。この日は一年中働いている太陽に休んで頂くという感謝の意味である。この日は洗濯物を干してはならない、などのいろいろの禁忌があるそうだ。

     

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          昔の年中行事 ⑤

        「12月」

      〇 「12月1日」  河渡餅
     昔は、12月の朔日(ついたち)には「河渡餅・かわたいもち」といって、小豆の塩餡の「よごれ餅」を食べる習慣があった。この日に「河渡り餅」を食べると水難を招かれるという言い伝えがあり、土地によっては朔日の夜に食べるのもあったようで、これを「宵渡り餅」と言ったそうである。

       〇「12月13日」  十三日別れ
     昔は11月13日を「13日別れ」と言い、一か年無事に務めた下男、下女が主家に別れて各自の生家に帰る日であった。この日は「いわしなます」と言って、干しイワシを入れて温めた大根のナマスをはじめ、五っ組の食膳を出してもてなすのが通例であった。

       〇 12月23日 「下肥約束」
     今ではとても考えられないことだが、戦前の農作業に使う肥料は、化学肥料ではなく天然肥料、つまりは人間の糞尿である下肥えであった。天秤棒の前後に下げた糞尿の入った下肥を、畑の穀物や野菜に柄ひしゃくで振りかけて行くのである。この糞尿の汲み取りを「肥え汲み」とか「うらひき」と言い、毎年12月に入ると農家はこの「うらひき」の相談を市内の各家と相談していたが、12月13日頃までに民家との間にその約束をまとめる習わしであった。

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                                                      昭和10年・水車と肥桶)

     汲み取り代を「うら代」と言い、たいていは米かもち米で、家の人数によって「一年に何俵、とか何斗」とか決めて「うら」を引くのだが、昭和初年ごろからは農村の若者が町中を「うら引き」に行くのを嫌うようになり、その後は逆に民家の方が「うら引き代」としてなにがしかの金銭を払うようになった。

     特に戦時中は若者が戦場に送られてしまい、人手不足のため「肥汲み」が出来なくなって、みんな一苦労をしたものである。
     今は化学肥料になり、上下水道も完備されて衛生上も昔の汲み取りなど考えられない時代になった。明治、大正、昭和と、時は過ぎ、世の中は大きく変わった、思えば遠くに来たもんだ。。


       〇 「煤・スス払い」
     昔は各家で年に一度、12月になれば「煤払い」を行った。いわば年末の大掃除であるが、昔は台所のかまどで藁や薪を焚くので、屋根裏には黒い煤がつく。そこで笹を束ねた笹竹でこの一年間の煤や埃を払い落すのである。尤も、昭和になれば春秋の大掃除検査があって、畳まで剥いで大掃除をするので、年末に改めて煤払いの行事をする必要はなくなってしまった。

      〇 「12月30日」 餅つき

     佐賀地方では29日には餅つきをしない。「苦」の餅は避けるという意味である。餅は腹持ちの良い保存食なので、農家では春先の農作業にも耐えうるだけの食料として、各家では一俵以上も搗いたものである。シランの子供のころは、大量の餅を水ガメに水を張って保存していたが、毎日、毎日の餅責めにはうんざり、春先にはその餅が水の為に外側がどろどろになり、赤や緑のカビが生えて酸っぱくなって居てホントに嫌だった。

     餅は歳徳神餅(鏡餅)・荒神さん餅(かまどの上に供える)などを搗くが、新婚さんのいる家では「嫁くさん餅」を搗いて嫁の実家に暮れの餅として贈る。

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                                             (餅つき風景・・画、南窓さん)


      〇 「12月末日」 大晦日
     大晦日の行事としては、年神さんを迎える意味があって農村部では就寝前に戸を閉め切って「貧乏神いぶし出し」をするところがある。これは菊ガラで室内をいぶして「貧乏神」「疫病神」を燻し出そうとするものである。
             
                   *  「貧乏神の忘年会」  昭和11年

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     *  相撲社会では、十両筆頭のことを「貧乏神」という。出席者はみんな古新聞で作ったカミシモを着て集まる。貧乏神の「鯱の里」は当時、美男力士として有名だったが、その後フグの毒に当たって頓死した。  貧乏神のたたりだったのだろうか・・

             ・・・・

     また、鳥栖周辺では「つご焚き」と称して、子供たちが一晩中火を焚いて新年を迎えるという。
     これには、大晦日の夜にかがり火を焚いて歳野神を迎える意味があるのだろう。
     昔の「徒然草」に「つごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして」とあるが、「つご焚き」もそんな昔の風習の名残りかも知れない。

     むかし、佐賀市近郊では30日を「つごうの日」とも言い、この日は各家では一家揃って夕食の膳に付く、これを「つごうぞろい」と言ったそうである。家内がみんな揃う、という意味だろうか。藩政時代の家中ではには「ぶりの包丁」と言って、みんなぶりのナマスを食べたそうで、城中では藩主の目の前で、裃をつけた料理方が大ブリを料理する儀式があったそうである。

     これは藩祖・鍋島直茂が秀吉の朝鮮出兵の出陣の折り、大きなブリが船の中に飛び込んできたのを捕らえたことに由来するとか。。 佐賀の方言で「ブリ」の事を「ブイ」と言うので、ブイは「武威」に通ずるとして、佐賀藩の武威発揚に利用したものだという。


        ・・・・

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  • 12/22/16--23:58: (49)天長節
  •       (49) 天長節

       「天長節」

     今日は天皇誕生日。今上陛下ももう83歳か。。
    早いなぁ‥美智子妃と結婚された時はあんなに若々しかったのに、もう髪も体もすっかり老いられてしまった。何とか早く公務から離れて安楽に過ごされるといいのだが。。
     人間天皇とか何とか言っても、憲法学者や有識者の意識はちっとも変っていない。。

     戦前、昭和天皇の御誕生日は4月29日で、当時は「天長節」と言っていた。小学校は授業はないが、登校して校長先生の教育勅語の奉読があり、天長節の歌を合唱して帰った。教室で紅白の餅を貰うのが楽しみだった。

       「天長節の歌」

          今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の
          うまれたひし 吉(よ)き日なり
          今日の吉き日は みひかりの
          さし出(で)たまひし 吉き日なり

          ひかり遍(あまね)き 君が代を
          いはへ諸人(もろびと) もろともに
          めぐみ遍(あまね)き 君が代を
          いはへ諸人(もろびと) もろともに
     
      日本では奈良時代から天皇のお誕生日を「天長節」といい、明治時代に復活して昭和23年まで続いた。 皇后の誕生日は「地久節」と言うが、これは中国の古書「老子」の中にある「天長地久」という言葉から来ている。

     
                 〇 昭和11年、12月23日・ 3歳の皇太子殿下

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        〇 昭和28年、皇太子・立太子禮(成人式)当時の皇太子殿下(東宮御所)

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              〇   加冠の儀」

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     *加冠の儀は、皇太子が成人に達したときに、その証として成人の冠を授けられる儀式です。


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                                                    (立太子禮に歓呼する国民)

                                           
                  
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                             (新婚時代の皇太子ご夫妻)                        

                   美智子妃と結婚された頃はあんなに若かったのに。。

                 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず・・
     

     


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          (53)昔の冠婚葬祭  ①

      〇「婚礼」

     昔の婚礼は、媒介者、いわゆる仲人を立てて結婚の話がまとまれば、「一升固め」として酒一升と肴を嫁の家に贈ります。酒一升は「一生の夫婦の絆を固める」という意味です。ついで吉日を選んで結納を取り交わし、婿の家からお茶、蓮根、ゴボウなどを立派に飾り立てて仲人に付き添われて嫁の家に出向きます。

     嫁の家では「結納開き」として親戚知人の招いて祝宴を張ります。「娘別れ」とも言いました。この招待を受けた者は嫁の家に祝儀を送ります。結婚の当日にはタンス長持ちなどの嫁入り道具を運び、「タンス長持ち唄」を歌って威勢よく婿の家に送り込みます。

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     一方嫁を迎える方では、三々九度の盃事があり、仲人はその都度めでたいお謡いを詠い、三番目のお謡いが終わると婿の両親や兄弟と嫁との盃ごとがあり、さらに席を改めて祝宴を開きます。
     シランの場合も、結婚式の近親者による「本客さん」のあと、「友人、親戚一同」「近隣者や知人」の披露宴と三度も酒宴があり、嫁さんは金襴緞子の重い花嫁姿で大変なご苦労を強いられました。

     然し最近は、仲人をたてずに、氏神様での神前結婚や結婚式場でのキリスト教で、一度に結婚式、と披露宴をするようになり、中には結婚式を挙げない「ナシ婚」まで増えているそうです。

       〇「出産のお祝い」

     嫁が妊娠すると5か月目に「着け帯祝」として、親戚知人を呼んで祝宴を張り、妊婦は産婆さんの手で「岩田帯」を締めます。このとき「頼み茶子・チャーゴ」と言って、分娩の際世話を頼む意味で、嫁の里方から産婆さんや嫁入り先の近所に酒、肴を振る舞います。

     無事出産が済めば、近所、親戚から「お産見舞い」として産着などを贈り、出生後男児は五日目、女児は七日目に「名づけ」として命名のお祝いをし、30日目には「日晴れ」と言って、婿の母が赤ん坊を抱いて産婦とともに氏神様に詣でてそのこの子の将来を祈ります。そのあと親戚知人近所を回って出産のお礼を申し述べます。各家ではこの時、赤ん坊のつけ帯になにがしかのお祝儀を結び付けて贈るのが通例でした。。

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                                                 (五つ子は大変だろうナ)


       〇「餅踏み」

     最近はあまり行われていませんが、戦前には子供の最初の誕生日に「餅踏み」という行事が行わていました。一歳になった赤ん坊に餅を踏ませる行事で、男の子には草鞋、女の子には紅紐の草履を履かせ、紋付の着物を着せて産婆さんに抱かれて、祝いのお謡いを歌い、箕(み)の中に飾ってある餅を踏ませます。

     餅踏みが済んだら書物、そろばん、筆などを並べて子供に取らせてその子の将来を占ったそうです。そのあと親戚や近所の人たちを招いて祝宴を張ります。


       〇「紐解き」

     子供が三歳になると、「紐解き」と言って,それまで着物に縫い付けていた細い付け帯を取って、一本の帯をさせる風習があり、嫁の実家から子供にお祝いの帯を送ります。

     また9歳になれば「褌祝い。へこいわい」と言って、初めて褌を締めさせる行事があり、この時も親戚知人を呼んで祝宴を張ります。私の地方では、(5歳でしたか、)着物に縫い付けていた狭い紐を、兵児帯(へこおび)に取り替えていました。9歳になると、褌をつけますが、このとき「兵児かきちゃーご」というお祝いをしていました。女性の場合は「キャーフ巻きちゃーご」と言い、ヘコは褌、キャーフは腰巻の事です。

     
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                                                    (昔の川遊び)


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          (54) 昔の冠婚葬祭②

       〇 「七五三」

    イメージ 2 11月15日は七五三ですね。
     もともと七五三を祝う風習は案外新しく、江戸中期以降のことです。
    しかし、その以前にも三歳、五歳、七歳のいずれかを人生における通過儀礼として祝うことは行われていたようです。
     たとえば、

    「三歳」で「ヒモオトシ」と言う儀礼を行う地方があります。
     「五歳」の男児に「はかま着」とか、「髪そぎ」とかする風習が各地に散見されますが、これも必ずしも男児に限られたものではありません。

     「七歳」というのは男女共通で、しかも全国的な広がりを持った年齢の通過儀礼です。
    九州地方では「七所祝い」ナナトコロ祝いといって、正月七日に七歳の子が近所の家を七軒廻って、それぞれにお粥をご馳走になってくる風習があります。こうした各地の習俗を集めたのが「七五三」というわけです。

        ↑  (江戸時代の七五三)

      ちなみに、日本の民俗信仰のなかでは、子供は七歳まで神格をもった者として取り扱われ、七歳以下の子供が死んだら本葬を出さないで、子供墓に葬るのが普通でした。七歳を過ぎて初めて子供は人間として安定するというわけです。
     私の少年時代は「男女七歳にして席を同じくせず!」と教えられましたが、七歳になると人間が安定して?男女の仲を意識するようになるのでしょうか。。。

      〇 「元服」

     江戸時代までは、15歳になると、成人の印として初めて大人の着物を着て、冠をかぶり、幼名を変えて実名を名乗るようになりました。この元服は、昔は人生最大の礼事でしたが、後世になるとこれを略して前髪を落とすだけとなり、明治以降には全く行われないようになってしまいました。

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                                                     (昔の元服の儀式)


      〇 徴兵検査

     戦前の明治憲法では、国民には納税、兵役、と教育(法令による)の三大義務がありました。
     だから、戦前の男子は満20歳になると、誰でも必ず徴兵検査を受けねばなりませんでした。 

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    明治維新以来、国家が国民に兵役の義務を課し、「国民皆兵」のための「徴兵令」が明治6年(1873年)の1月に公布され、徴兵検査で選抜された男子は常備軍に3年間、軍務に服すようになったのです。

     「兵役法」によると、兵役は常備兵、後備兵、補充兵に分けられ、その常備兵役は「現役」と「予備役」に分けられていました。今でも普通に使われるまだまだ現役だ、とかいうときの「現役」という言葉は、ここから生まれたのです。
     しかし、戦争が激化するにつれ、常備兵のみならず、第三補充兵まで召集されるようになり、「兵隊にとられる範囲」は次々に広がって行き、身長、体重がまずまずの十人前で,身体障碍や不治の病の者以外は一応合格になるようになりました。


    イメージ 5 「徴兵検査」いわゆる「兵隊検査」は、軍医によって通常の身体検査のほか、性器、肛門まで調べられる厳しいもので、紫蘭も学生時代に帰郷して受けましたが、素っ裸になって犬、猫のように四つん這いになって尻の穴を覗かれたり、男子の一物をぎゅっと握られたりした時は、まだまだ純情な童貞の身にとっては、なんとも屈辱的な体験でした。もし性病でも見つかると、激しく面罵されて、大勢の前で赤恥を書かねばなりません。だから、昔の若者は兵隊検査までは紅灯の巷で遊ぶことは、我慢したものです。

     検査の査定は、甲種、乙種、第一乙種、第二乙種までが合格で、丙種,丁種は不合格でしたが、戦争末期には丙種まで兵隊にとられたようで、文字通り根こそぎの動員でした。

     甲種合格は、身体強健・体力抜群の者で、検査官から「甲種合格」と告げられると、喜び勇んで「00は甲種合格!」と大声で復唱していました。

     紫蘭は平均的な第一乙種だったので、合格はしましたが復唱はしなかったようです。甲種合格は日本男子として一番の名誉なので、一般社会でも尊敬され、自慢できる一つの「肩書」だったのです。


     戦争の激化に伴い兵力の増強のために、予備役の兵士を動員するときの「召集令状」がいわゆる赤紙」で、その令状の切手代が一銭五厘だったので、兵士の命は「一銭五厘」と言われるようになりました。(*昔の一銭は百枚で一円です)
     

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                                                       (臨時召集令状の見本)

     徴兵検査に合格して軍隊に入るときは、親族や友人、知己、近隣の人達を招いて祝宴を張りましたが、死をかけて戦場に赴くことが果たしてお祝いなのか・・
     しかし、これも昔はたしかに冠婚葬祭の行事の一つだったのです。。


            ・・・・


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         (55) 「昔の佐賀の民謡」

     福岡、長崎は立派な港があり、外洋に向かって発展する要素が多く、昔から商業や貿易が盛んに行われたので、城下町というよりも「商人の町」であり、勢い賑やかな祭りや歌が多く残っている。
     しかし、両県に挟まれた農村県の佐賀には、鍋島藩の質実剛健、質素倹約、葉隠武士らしく華美な事を嫌う風習が残っていて、歌舞音曲には目新しいものが見当たらないし、福岡の氷川きよしやタモリ、長崎のさだまさしとか福山雅治のような有名歌手も育たないのである。。
     紫蘭も学生時代も軍隊生活でも歌うべきふるさとの民謡が無くて、頗る困惑した記憶がある。だからたいていは福岡の「黒田節」や熊本の「おてもやん」などを歌ってごまかしたものだ。

     佐賀の「葉隠」には「芸能上手と言わるるは、馬鹿風なり」と書かれており、歌も歌えない無粋な者ほど良い、とされてきた。武士から農民にいたる間で沁み込んだそうした気風のためにが民謡を育たなかったと思われる。明治になっても
       「拙者元来鍋島育ち、剛毅朴訥有りのまま
         武国者でも鍋島育ち、噛めば噛むほど味がある」

     という新民謡が流行ったことでも佐賀県人の無粋さが伺われよう。

     その数少ない佐賀の昔の民謡を少し御紹介してみよう。
     しかし、戦前の古い歌ばかりなので、今はもう知っている人も歌える人も少ないだろう。

      〇「梅ぼし」

         シワはよれども あの梅干しは
         色気はなれぬ 粋(すい)な奴

         わたしゃ藪梅 揺り落とされて
         紫蘇となじんで赤くなる

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                                                          (梅干しちぎり。画・南窓さん)


     *この梅干しは佐賀を代表する民謡で、明治以降の花柳界でよく歌われた。芸者さんの境遇を歌ったもので、上品なお色気とユーモアの中にどこか哀調がある歌である。

       〇 「春雨」
     
         春雨にしっぽり濡るる鶯の
         羽風に匂う 梅が香や
         花にたわむれ しおらしや
         小鳥でさえも 一筋に
         ねぐらさだめぬ 気は一つ

         わたしゃ鶯 ぬしは梅
         やがて身ままになるならば
         サァ 鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな
         サァサ 何でもよいわいな

     * 「春雨」は全国的に知られている端唄で、民謡ではない。
    作詞者の柴田花守は佐賀県小城市の出身で、小城公園には春雨の歌碑が建てられている。柴田花守は文化6年(1809年)生まれの小城藩士で、長崎に弘化3年、フランス軍艦が入港したときに佐賀藩の兵士とともに警護に当たり、その長崎滞在中に春雨を作詞したと言われている。長崎丸山の料亭「花月」には「はるさめ」の記念碑が残っている。春雨が一番流行したのは幕末の頃であり、花柳界を中心に風靡したという。

     小城羊羹の産地として知られるこの小城市では毎年「桜祭り」が華々しく行われているが、一番の人気行事は「春雨祭り」だろう。昔は長崎の芸者衆がわざわざ佐賀まで出てきて、小城公園の柴田花守の石碑の前で春雨の踊りを披露した。花守が長崎の花街「丸山」で春雨を作詞したというゆかりからである。
     その石碑には
       「春雨にしっぽりぬるるうぐいすの 羽風に匂う梅が香や・・・」 と彫ってある。
     柴田花守は幕末の小城鍋島藩の藩士で、君命によって長崎に遊学したが、花の番人という意味で「花守」という雅号を名乗り、文芸に長じ,神道も修めて当時は全国にその名を挙げていたという。

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      〇 ♪「佐賀名物」

     佐嘉名物を織り込んだ座敷歌で、昔は酒の席でよく歌われたが、今では歌える人はほとんどいない。
         佐賀名物ァ 打ち切りノンキー
         玉ノンキー 片田江のアンチン焼きに
         土橋のヘコはずし
      
    *歌詞の中の「ノンキー」はアメ玉のことで、小さいころ一銭玉一つで、玉ノンキーが2個買えたのを覚えている。中学1年の時の担任の先生のあだ名が「ノンキー先生」だった。あだ名の由来は、同名の佐賀ノンキーという工場が通学路の途中ににあったというだけの話である。
     「アンチン焼き」は爆弾型をした回転焼き(今川焼)やたい焼きのようなもの。
     「ヘコ外し」は菓子の「オコシ」のことで、ヘコ(ふんどし)を質に入れても食べたくなるほどうまい、という説と、オコシは女性の下着である腰巻の事を「お腰」というから、という二説がある。

     いずれにしても、昭和初年ごろには花柳界でよく聞かれた歌だが、今はもう知る人もいないだろう。


          ・・・・

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  • 12/31/16--06:37: 行く年の・・
  •   皆さん!
     紅白も終わりに近づき、いよいよ今年も暮れようとしています。
     今年はいろいろとお世話になりました。
     
     来年も皆さんにとって、良い年でありますように。。

                                   紫蘭
        
        
               行く年の大河滔々と流れけり    虚子

      
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                              ......


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  • 01/01/17--00:00: (1)謹賀新年


  •       明けましておめでとうございます
               
                               和紙屋紫蘭

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                                                (北アルプス・西穂高岳の岩峰)


       平成29年元旦、雲一つない、日本晴れの初日の出でした。
       今年もいい年でありますように・・

        
               正月の子供になってみたきかな   一茶




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  • 01/03/17--01:33: ①正月三日
  •   皆さん、明けましておめでとうございます。
      今年もよろしkお願いいたします。


     正月も早や三日、早いものですね。

         三日はや雲おほき日となりにけり   久保田万太郎

     今朝は深い霧で、少し肌寒いほどでしたが、娘と二人氏神様に初詣に行く頃には晴れてきて、例年になく日差しも暖かく感じました。
    今日はシランの93回目の誕生日、改めて神仏の御加護を想い、念入りにお詣りしてきました。
     ブログ名も 「93歳ブログ」 に進級。。
                  パチパチ。。

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     いつもは孫・子や甥たちに囲まれて賑やかに誕生祝いをしてもらうのですが、今年は孫たちもすっかり大きくなって、もう里帰りすることもなくなりました。
     今日は二人だけで、ささやかにハッピーバースデーに乾杯です・・

            ♪ Happy birthday to you,
                  Happy birthday to you,

                                ・・・・・


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         (56) 昔の佐賀の民謡 ②

     昨年に引き続き、佐賀の古い民謡です。
    昔は、酒席で芸者さんや酒飲みが御座敷芸の一つとしてよく歌ったものですが、料亭での宴会が無くなってしまった現在では、今ではほとんど歌われていません。
     「蓮池節」は佐賀近郊の蓮池に伝わる古い民謡です。

     〇「蓮池節」

         蓮池のじゃごべん(在郷辺)から
         糊つけ着物に小倉の帯締めて
         願正寺詣りするときは
         ちョッと言えば 藁人形

         一で赤いもんは 
         法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か
         朱か紅か おさるさんのお尻か
         エビの ゆで殻か

         一で白かもんは
         豆腐に 初雪
         源氏の白旗 横町の角の白壁に
         うちの女中さんの 内ももか 
     
     *蓮池藩は佐賀・鍋島藩の支藩の一つで、今の蓮池町は佐賀市の東郊にあり、むかし父の実家があった所です。
     この歌は方言丸出しで機知とユーモアにあふれている昔の市井の歌だが、今は歌う者は殆どいないだろう。権威のある大和尚の緋の衣やお稲荷さんの赤い鳥居を同列に置き、また金持ちを誇る商家の白壁も、そこの女中さんの内ももの清純な白さには及ぶまい、という皮肉が込められている。

       〇高い山

          高い山から 谷底見れば
          瓜やなすびの花盛り
                ・・・・・

     この歌は、信州・木曽の民謡をはじめ全国的に知られている俗謡だが、この歌の作詞者は佐賀市川久保の神代(くましろ)家の家臣「横尾紫洋・1734年~84年」と言われている。紫洋は熱心な勤王家であったために幕府ににらまれて脱藩の罪で、佐賀の芦刈村の永明寺であえない最後を遂げた。
    紫洋の一生は実に苦難の連続であったという。

     高い山の歌の意味は、「世俗を離れた高い山から下を眺めれば、平地には胡瓜やなすびのような権力に媚びる輩がうろうろしている」という意味で、紫洋の同郷の友である古賀精里(幕末の佐賀藩士で儒学者・寛政の三博士と言われた)が幕府の招きで昌平黌(江戸幕府の学問所)の教授になったことを嘲笑したものと言われている。

      〇タンス長持ち唄

         ♪ 蝶よ花よと 育てた娘
            しまいにゃ他人の 嫁になる
            さらばさらばと 両親様よ
            永のお世話に なりました
            さらばさらばと 出ていくからは
            二度と再び戻りゃせぬ

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                          (タンス長持ち、花嫁道具)


     タンス長持ち唄は、花嫁が実家を出る時の別れと出発の歌である。
    昔はこの歌が歌われると花嫁も見送る近所の人もみな涙を流したという。
    嫁方の歌い手は
     「長の道中ご苦労でござる。どうぞよしなに頼みます」 と送り歌を歌う。

     タンス、長持ちの担い手は、近所の見送りの人たちに
     「さらばさらば近所のお方、永のお世話になりました。」と歌で挨拶して花嫁の言葉を歌で代弁して   「ヤロヤロェー」と担い手みんなで唱和する。

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                                 (昔の花嫁行列・後ろは旧・佐賀県物産陳列館)


     花嫁行列の道中に、知人や親せきの家があればそこに立ち寄り、酒をふるまわれるので行列はなかなか時間がかかる。だから、一方の婿方の迎え人は今か今かと長い間待ちわびることになるのである。
     花嫁の行列が婿方の村の入り口まで来ると、婿方の迎え人に対して
     「さても見事なこの村がかり、松の緑に七柳」などと歌って婿方の村を褒め上げる。
     一方の行列を迎える婿の方は
     「タンス長持ちゃ見事なものよ、中のなぁ~ ご衣裳は綾錦だエ~」
     と花嫁道具を褒める歌を歌う。 これに対し嫁方は
     「タンス長持ちゃ粗末なものよ、中は木綿のボロばかり」と謙遜してお互いに「所望、所望・所望」と歌を催促して歌いあうのである。所望とは今ならさしづめ、歌のアンコールとでも言おうか・・

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                                タンスの7かつぎ手も便利なリヤカーで・・昭和初期


     嫁入り行列の道中には見物人が大勢集まり、中には歌好きの者が飛び入りで歌ったりする。
    見物人が歌の「所望」を続けて叫ぶと、「所望とあれば、お酒を下げて魚八鉢に五本箸」などと皮肉ったり、
     「所望、所望とせきたてられて、声を惜しんで伝兵衛さん」などと、もう声が出ないよ、とユーモラスに逃げたりしていた。
     4キロほどの道中だと、普通は午後3時ごろに出発した嫁入り道具が婿方に着くのは午後8時ごろで、のろのろと歌いあい、酒を飲みあがらの悠長な花嫁行列であった。

     
     〇 相撲甚句
      「相撲甚句」は大相撲の地方巡業などで、力士が土俵の上で披露する七五調の囃子歌で、その巡業の土地土地の風物を織り込んだ挨拶代わりの目出度い祝い唄である。

          そろた やーェ そろいました
          関取さんが そろうた
          トコ ドスコイ ドスコイ

          船が三艘 走り込み
          先なる船の お荷物は
          金と小判を 積んできて
          中なる船の お荷物は
          綾と錦を 帆に巻いて

          あとなる船の お荷物は
          七福神の 乗り合いで
          恵比寿さまが 棹をさす
          大黒様が かじをとる
          押せ押せ 床の間に

          上から鶴が 舞い下がる
          下から亀が 舞いあがる
          鶴と亀との お盃
          これより目出度き ことはない
             トコ ドスコイ ドスコイ
        
           後に残るは 四本柱と土俵ばかり
              トコ ドスコイ ドスコイ

      〇 「佐賀のおんな相撲」

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     *相撲甚句は昔は全国的によく歌われたが、戦前、佐賀ほど女性の相撲と踊りの盛んだったところはない。佐賀市生まれの紫蘭は、見たことも聞いたこともないが、小城市から西の地方では至る所でこの相撲甚句に合わせた踊りが行われていたそうである。

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     踊りは股引に丸首シャツをつけた上に黒の回しをつけ、思い思いの力士の名前を織り込んだ化粧まわしをつける。ふつうは20~30人の女性が輪になって踊るが、歌い手は輪の外で歌い、ハヤシの部分は全部で歌う。踊りの所作は土俵入りや弓取り式の恰好をするが、動きはそれほど激しくはない。  


       *穏やかに晴れ渡った正月三ヶ日も終わり、今日は初買い出し。
       しかし、スーパーの商品棚はがらんどうで、野菜類の買うものがない。
       市場がまだ開かれていないので、生鮮食品がないのは当然ではあるが・・
       おせちの残りばかりでは、実(身?)が詰まる・・


           更けて焼く餅の匂ひや松の内     日野草城

            ・・・・・


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  • 01/06/17--00:35: (57)葉隠物語
  •    
                  (57) 「葉隠物語」

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                                                          (佐賀城・鯱の門)

     佐賀と言えばすぐ「葉隠武士」を思い出すほど、戦前は葉隠れという言葉は有名だった。作家の三島由紀夫も座右の書」として愛読していたそうだ。その「葉隠」は江戸時代の鍋島藩士の武士としての心得を説いたもので、一名「鍋島論語」とも言われている。


    イメージ 1 「葉隠」は嘉永7年(1710年)から7年の歳月をかけ、佐賀藩士、山本常朝が述べた談話を田代陣基が筆記し11巻の書物にまとめたもので、常朝の談話は1,300を超えていて、葉隠れの精神は佐賀人の精神文化の面で大きなな影響を与えた。     明治以降の佐賀人に、連合艦隊司令長官など有名な軍人が多いのもそのためかもしれない。佐賀市金立町黒土原の松林の中に「常朝先生垂訓の碑」という巨大な石碑が今も残っている。
     
     一般に葉隠と言えば「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が有名だが、その葉隠の根本の思想は巻頭にある「葉隠四誓願」に要約されている。シランの母校えある勧興小学校の教壇の黒板の上に、総理大臣・大熊重信以下、「佐賀の七賢人」の写真とこの「葉隠四誓願」の額が掲げられていた。生徒は毎朝授業前に、この四誓願をみんなで唱和するのである。
      ← (山本常朝垂訓の碑)


       〇 「葉隠四誓願」 イメージ 3

     一、武士道においておくれ取り申すまじき事
     一、主君の御用に立つべき事。
      一、親に孝行仕るべき事。
      一、大慈悲を起し人のためになるべき事。

       〇 「葉隠名言集」

    ・武士道とは死ぬことと覚えたり
    ・武士道は死に狂いなり、一人の殺害を数十人にてもしかねるものなり
    ・曲者というは勝負を考えず、無二無三に死に狂いするばかりなり
    ・只今がその時、その時が只今なり
    ・勝つというは味方に勝つことなり、味方に勝つというは我に勝つ事也
     我に勝つというは、気を以って体に勝つ事なり


    ・名利を思う奉公人は奉公人にあらず、名利を思わぬ奉公人も奉公人にあらず
    ・下輩の言葉は助けて聞け、金は土中にある事分明なり
    ・人は下ほど、骨折り居り候こと、よく知るべし
    ・誤ち、一度もなき者はあぶなく候

    ・大方、悪事は内輪から言い崩すものなり
    ・武は大勇気を表にして、内心には大慈悲を持つべきなり
    ・慈悲より出づる智勇が本物なり
    ・芸を以って身を立つる者は芸者なり、人の芸を取り立つるは侍の芸なり

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                                                  (昔の寺子屋風景)

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