(43) 「昔の佐賀の衣食住」 ①
暫く「ふるさと・佐賀の風景」に遠ざかっていたので、また少し昔の衣食住について書いてみよう。
①衣類と髪型
〇 「衣類」
戦前、明治大正時代の佐賀では、衣服は一般に木綿の和服だった。もちろん官公庁では洋服だが、家に帰るとやはり和服に着替えてくつろぐのが通例だった。その頃は商人は角帯に前垂れをつけるが、父の時代は次第に洋服を着るようになっていて、正月とか公式の場に出かけるときは、中折れ帽子をかぶり、羽織袴に袖なしのトンビマントをまとって出かけていた。
しかし、一般には外に出かける時は次第に洋服を着用するようになった。夏になると、庶民は麻でできた「甚兵衛」が多かった。布地がスケスケなので、涼しくてべとつかない。福岡の春日原野球場まで父に連れられて旧制中学の野球の北九州二次予選の試合を見に行くとき、父はカンカン帽子に甚兵衛を着て下駄ばき姿、団扇を帯の後ろに挟んで出かけていた。そのころは佐賀中と佐賀商の応援ばかりだった。
一般に、勤めから帰るとたいていは洋服を脱いで着物に着替える。学生の服装も明治頃の着物に袴姿から次第の洋服になってきたが、学校から帰ると、着物に着代えてくつろいだ姿になるのが多かった。
紫蘭も学生時代に、下宿に入る時に母が柳行李に久留米絣の白色(夏用)と藍染(冬用)の二つを入れて呉れた。出発前に着物の畳み方を習って行ったが、下校して我が部屋に入るとすぐに窮屈な生服を投げ捨てて着物姿に着替えたものである。。但し、空襲が頻繁になると何時集合がかかるかもも知れないので、気軽な着物姿で居るわけにもいかず、せっかくの絣の着物も空しく押し入れの柳行李の中に逼塞せざるを得なくなってしまった。当時の下宿代が30円、家庭教師のバイト代も30円だった。
シランが小さいころは久留米絣の着物を着ていた。帯は着物に縫いつけてある幅一寸くらいの細い縫い付け帯だったが、三歳になると初めて兵児帯を結んだ。佐賀では「紐解き」と呼んでいたが、地方では「ヒモトオシ」という所もあるようだ。また9歳になると、「へこかきちゃーご」というお祝いをする。つまりは初めて「褌をつける」祝宴だが、これでやっと大人になったというわけである。もちろんシランは褌に代えた覚えはないし、お祝いもした記憶もない。はじめから猿股一点張りだった。
小学校に入ると霜降りの学生服になって、みんな洋服ばかりで着物姿で登校して居た者はいなかったが、田舎の方ではまだ着物姿も見かけたようだ。。中学の制服ももちろん詰襟の学生服で、淡い緑がかったグレー色だったが、戦争が厳しくなると、木綿ではなく化学繊維のスフ(ステーブルファイバー)になり、芯の弱いよれよれの洋服になってしまった。すぐ後の昭和20年ごろの後輩たちは制服そのものがカーキ色の戦闘服で、学生帽も戦闘帽になったようで、革靴も牛皮ではなく、豚皮で生徒の間ではクジラの皮ではないかという噂もあったそうだ。
戦時中は、国民皆兵の意味と衣料の節約もために、一般に背広の代わりに「国民服」の着用が奨励された。軍隊の将校用軍服に良く似たカーキ色の詰襟の上着で、これ一着があれば冠婚葬祭や正式の行事等なんにでも参加できるという頗る便利なものであったが、勤労動員で働きに行くときは、みんな作業服に戦闘帽、ゲートル巻きだった。
↑母校の制服・昭和20年
一方、明治の女性の着物は地味な縦じまの着物で、母の20歳の写真を見ても色気が無くて何とも年寄りくさい。昔の農家の娘などは、あまり派手な着物を着るのが遠慮され、目立たない服装が歓迎されたのであろう。勿論呉服屋に行っても地味な縞模様の着物が多かった。お化粧も、粉白粉をはたき口紅もチョンと薄く塗るだけである。
大正・昭和初期は「大正ロマン」と言われる自由な雰囲気の時代で、洋服姿のモダンボーイやモダンガールが銀座などの繁華街を闊歩した。いわゆるモボ、モガの時代である。都会では洋傘やモダンな帽子姿も多かった。
↑ 明治末。20歳の母
(髪は203高地型)
明治・大正の女学生は、着物に袴姿であったが、昭和の女学生は、たいてい紺のセーラー服にスカート姿だった。しかし、、戦争も厳しくなるとスカートに代わってモンペ姿になってしまった。上着は洋服、下はモンペという、なんともヘンチクリンな和洋折衷だが、誰もそれが可笑しいとは思わなかった。もはや制服もファッションではなく勤労奉仕のための仕事着とでもいうような戦時下の風潮だったのである。
↑明治の女学生(髪は203高知型)
「履物」は明治期には、江戸時代の草履が地下足袋に、脚絆はゲートルに変わった。女子の服装も着物から次第に簡単服にエプロン姿となり、男子の仕事着はほとんど洋服に地下足袋が愛用されるようになった。
〇 「髪型」
「髪型」は江戸時代は勿論ちょんまげだったが、明治になって断髪令が出て、男子はみんな散切り頭になった。これに反抗したサムライたちも多く、福井県では明治6年に断髪に反対する3万人の一揆が起って、6人が騒乱罪で死刑になったし、明治9年には廃刀令に反対する熊本の「新風連の乱」も起った。新風連は断髪せずちょんまげ姿で、電線の下を通る時は、ちょんまげが汚れる、として扇子で頭を隠して通ったという。
そんな遠い昔の話は別として、昭和の初めは軍国主義の影響もあったのか、男子の髪は軍隊のように丸刈りや1分刈り、2分刈りが流行った。髪の毛を伸ばしていると、軟弱だとして軽蔑されたりする世相だったのである。紫蘭も外語時代は、中国語や蒙古語などの東洋学部は丸刈りが多く下駄ばきのバンカラ硬派風で、英仏語などの西洋学部は長髪にぺったりとポマードを塗り、ピカピカの赤靴と言う風体で、いわばあか抜けた軟派風であった。
〇 「女性の髪型」
〇 「女性の髪型」
女性の髪形で特異なのは、日露戦争以来、大正時代に流行った「203高地型」と言う髪型だろう。
これは日露戦争が終わったばかりなので、旅順攻略の激戦地「二百三高地」にちなんだ髪型であった。当時の歌人・与謝野晶子の写真も203高地型である。勿論、女学生も袴姿だった。
昭和になると、女子は日本髪から次第に束髪になり、小学生は断髪していわゆるオカッパ頭ばかりだったが、女学生は両方に髪を分けて結ぶか三つ編みなどに組んで下げていた。また大人は婚礼や式の時には、紋付きに白無垢、羽織を着用し、女は紋付きに白無垢姿で髪は文金島田や丸髷に結い、葬式の場合は「精進髪」を結うのが普通だった。女子は簡単服やエプロン姿が多かったが、冠婚葬祭にモンペ姿では出られなかったかもしれない。
戦前は女性の髪はパーマネントをかけるのが流行った。電気で形を整えてしまうので、櫛で削っても元の形に戻る。ウーブのかかった髪はたおやかできれいだが、チリチリに雀の巣のような髪形になると、どうも頂けない。
あれは意識的にそうしたのだろうか。。 (一年生の姉・大正末)
だが、戦時体制になると、戦場の兵士を想い、華美が排斥されて「贅沢はやめましょう」と言うことになり、パーマネントを掛けるのも洋風で派手なものと思われて指弾され、冷たい世間の冷たい目にさらされたものだ。
子どもたちまで、こんなざれ唄を歌っていたくらいである。
♪ パーマネントに 火がついて
みるみるうちに ハゲ頭
ハゲーた頭に 毛が三本
あぁ、痛ましや いたましや
パーマネントは やめましょう
みるみるうちに ハゲ頭
ハゲーた頭に 毛が三本
あぁ、痛ましや いたましや
パーマネントは やめましょう
とにかく、戦時中は男子は丸刈り頭で国民服にゲートル巻、女性は束髪でモンペ姿だった。道行く女性の服装に愛国婦人会のオエライ小母さんたちの目が光っていた。街角には「ぜいたくは敵だ」と言う立て看板が目立つ世の中だった。