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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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唐天会

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           明けましておめでとうございます。

          今年もよろしくお願いします。      唐天会    



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                      (西穂高岳)
      
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(58)佐賀人気質

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        (58) 「佐賀人気質」

 佐賀人の気質を表すものとして「腐っても鯛」「ふうけても(馬鹿でも)佐賀んもん」「佐賀ンもんの通った後には草も生えん」という言葉があるが、これは「武士は食わねど高楊枝」的な佐賀人の自尊意識から出ているものである。

イメージ 1 明治初年、廃藩置県が行われたとき、全国の各藩がそれぞれ一県になったが、武蔵の国と肥前だけは二県に分かれた。佐賀県と長崎県である。武蔵の場合は東京が首都となったので仕方のないことだったが、肥前だけが二県に別れたことは佐賀人の自尊意識、独立心から来たのに他ならない。 

 政府は肥前一国を長崎県として存続させる意向だったが、佐賀人の猛烈な併合反対にあい、長崎と二つに分かれて、明治9年5月に現在の佐賀県が誕生したのである。これは一つには明治維新後、新政府の要職に江藤新平(初代司法郷)副島種臣(外務郷)大隈重信(総理大臣)大木喬任(文部郷)などの優秀な人物を輩出していたのも大きな力となったのだろう。


   ↑ 維新時の佐賀の七賢人

  佐賀人気質の特徴としては、「強者こそ英雄である」という事だろう。
葉隠には「武士道とは死ぬことと見つけたり。首を落とされても、すぐ死ぬようでは気力がない、悪鬼のごとき気迫があれば死後も一働きくらいは出来る」という一節がある。戦前、軍国主義華やかなりし頃、佐賀から勇敢なる水兵の三浦虎次郎(日清戦争)爆弾三勇士の江下伍長、満孟の地に散華した古賀連隊長、負傷して捕虜になったのを恥じて拳銃自殺した空閑少佐(いずれも日中戦争)、真珠湾攻撃、九軍神の一人・広尾大尉(億種潜航艇)などの勇ましい軍人たちが続々と輩出して、武の国・佐賀の名を高からしめたのも、この葉隠精神からだったのだろう。

 シランの小学校は佐賀藩校「弘学館」の幼稚舎だったせいか、教室の黒板の上に「佐賀の七賢人」の写真と、この「葉隠れ四誓願」の額が掲げてあり、生徒たちはみんな毎朝授業前に声を揃えて唱和させられたものである。

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 一方、佐賀ンもんの欠点として幕末の儒学者・古賀穀堂は「佐賀の三病」として次の三点を挙げている。
    ①排他的、独尊的風甚だし
    ②決断の風乏し
    ③負け惜しみの風あり

 一般的に言えば佐賀人は偏狭で、おべんちゃらが大嫌い。愛想がなくてヒイキするのは大の恥辱であり、頑固一徹な所は時には独善的な思想に陥る嫌いがある。 買い物に店に入っても口下手の不愛想で商売下手、宣伝も下手なので、いつも川向こうの福岡の商売人に負かされていた。

   こうした気質は、当然、佐賀県人を軍人や司法官などに向かわせることとなり、連合艦隊司令長官・武藤信義元帥をはじめとして、真崎甚三郎、宇都宮太郎、吉田善吾、百武三郎、古賀峯一各大将などの名将をキラ星のごとく輩出し、司法畑では江藤新平、大木喬任以来、最高裁判所長官の田中耕太郎に至るいわゆる「佐賀閥」と言われるような多くの人材を生んだのである。

 しかし、商売下手とはいえ経営の面はまた別なのか、経済界で活躍した者も多い。リコーや三愛を生んだ市村清、日航社長の松尾静麿、グリコの江崎利一、森永製菓の森永太一郎などの各氏が居り、文化不毛の地と言われながらも、初の文化勲章に輝いた岡田三郎助や久米桂一郎などの画家、吉田絃二郎、下村湖人などの小説家、蒲原有明、宮地嘉六などの詩、歌人も生んでいる。

 佐賀の方言はなかなか分かりにくい。戦前の佐賀弁は特に難しく、シランでさえも分からない方言が多かった。昔の佐賀弁では「ハイ」というところを「ない」と言うので、駅を降りた旅人が煙草を買おうとして「ピースをください」と言ったら、煙草屋のオバサンが「ない、ない」・・「ないと言ったって・・、そこにピースがあるじゃないか!!」 「ない、ない」!??」という笑い話まであった。。
 今では都市部では標準語ばかりで佐賀弁はほとんど使われず、農漁村地帯にわずかに残るくらいであるが、佐賀弁には「三拍子調」という独特の話し方がある。なんでも形容詞を三回繰り返すのである。

例えば「年の頃なら24,5,6」「ざぁざぁざぁと雨が降り出す」「どんどんどんとかけて行く」という風に・・
イメージ 2 市内にこの「三拍子」をとって「どんどんどんの森」という公園がある。どんどん人が集まる、という意味だろうが、その「どんどん」が、佐賀弁の「どんどんどん」となっているのである。バス停などは「どんどんどんの森」では長すぎるので、どんの三倍で「どん3の森」・どんスリーの森と書いてあるのが、なんともほほえましい。。(^^)/ 
  ←どんどんどんの森

 
 昨日はそのどんどんの森を、どんどんどんと散歩してきました。
 一周約2千歩、青空は冴えていましたが、北風が冷たい!!

                        ・・・・

(59)十日えびす

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       (59) 十日えびす

 今日は「十日えびす」ですね。毎年1月10日は「十日戎」と言われていて、この10日が本戎、前日が宵戎になっています。今日も朝早く、知らせのヒヤ(のろし)が空高く上がっていました。

 戎(エビス)さんと言えば、学生時代に大阪の難波から下宿まで電車で通学中に、「今宮戎」の駅を毎日通りました。その頃は戦時中なのでお詣りしたこともなく、もちろん関心もありませんでしたが、
今となってはなんだか懐かしいです。

           雑踏に十日戎の月高し    伊賀文章

 「戎(恵比寿)さん」は「七福神」の中の一人で、釣り竿と鯛を両手に持ってほほえんでいる神様です。漁業の神様、商売繁盛の神様、福の神として庶民に親しまれています。

 佐賀市内にはどういうわけか、町の町家の軒先や街角に恵比寿さんの石像をたくさん見かけます。
2010年の調査ではなんと775体もの恵比寿さんが街中に祀られているそうで、古い石像はもとより、最近では新しいものも増えているようです。恵比寿さんと言えば普通は神社に祭られていますが、佐賀市では個人の家の軒先や古い長崎街道の辻々に祀られています。むかし、そこの家や店の人が家内安全・商売繁盛を祈って祀ったのでしょう。現在もそれぞれの家の個人がそれぞれ毎朝、花や水を上げて管理しています。
 
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              (鯛を小脇に・・おや、釣り竿がありませんね)


 江戸時代の文人「菱屋平七」は佐賀を訪れて「r筑紫紀行」を著わしていますが、その中にも「この国は町屋にも村中にも道の辻々に恵比寿さまを置けり」と書いていますから、この恵比寿信仰も相当昔からの風習だったのでしょう。恵比寿の石像にはいろいろあって、もともとは鯛を抱えて釣竿を持って微笑んでいますが、中には恵比寿さんそのものを省略して、鯛の上に「西の宮」とだけ彫ってあったり、鯛ばかりや、単に西の宮という文字を彫っただけのものもある。この「西宮」は恵比寿さんの総元締めである恵比寿神社が兵庫県の西ノ宮にあるからなのです。

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                                        (釣り上げえびす)



 イメージ 5佐賀県の恵比寿さんの総元締めは北川副町の光法にある西の宮神社がそれで、九州最古と言われています。この神社は、平治元年(1159年)5月、六条判官「源為義」の家人「本田大和守昭雲」が西の宮の分霊を奉じて杵島郡山口村に下ったのですが、承安2年(1172年)に「東へ行こう」という神のお告げがあり、川副村光法の郷士「角町治郎」の屋敷に落ち着いたのが始まりだと言われています。

  ↑昔の佐賀の恵比寿神社

 その恵比寿さんの移動途中に、10日ばかり柿樋瀬に滞在し、ここにも西の宮が生まれました。また、300年ほど前に牛津地方に大干ばつが起こって困った時に、小城の祇園川に恵比寿像を水浸しにして雨乞いをしたところ大雨が降り、一同大喜びで牛津に帰る途中に、今度は小城の蛭子町で急に恵比寿像を乗せた大八車が動かなくなってしまいました。「さては恵比寿さんは、此処がお好きなんじゃ」、という土地の者が現れて、双方で恵比寿さんの激しい争奪戦なり、石像の腰から下をだけを牛津に持ち帰ったそうです。

     
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                                        (よほど古いのか、鼻まで欠けて・・)       


  所で、なぜ佐賀にこれだけ多くの恵比寿さんの石像あるのかは、今もナゾになっています。一般に恵比寿さんは、七福神の一人で、商売の神様とされていますが、中国では、戎は異民族のことを言い、日本でももともとは異人さんをエビス三郎と呼んでいたらしいです。この「恵比寿三郎」は船に一杯の海外の珍品を積んで来て商売をしたので、難波(大阪)の商人たちはこのエビス三郎を崇拝して、西の宮に神として祀った、という話があります。

 また恵比寿さんは「大国主命」の子供だそうで、小さいころ足腰が弱かったために芦船に乗せられて海に捨てられ、漂流して兵庫県の西の宮に着き、そこに鎮座して七神様になったという話もあります。

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                                  (佐賀駅のホームにも鎮座マシマス、パチパチ)



 とにかく、恵比寿さんは福神の一人で漁業の大漁や商売繁盛、五穀豊穣の神様として、毎年、一月十日には西の宮や今宮戎など、各地で盛大に恵比寿祭りが行われているのです。

 (60)今日は鏡開き

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       (60) 1月11日・「鏡開き」

 今日は「鏡開き」ですね。正月の年神さんに供えた鏡餅を祝って雑煮にしたり、汁粉にして食べる日になっています。その時、鏡餅を刃物で切らずに、槌などでたたき割るので「鏡割り」とも言っています。

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 現在は1月11日が鏡開きになっていますが、17世紀半ばまでは1月20日に鏡開きを行うのが通例になっていました。もともと鏡は女子の象徴なので、正月には鏡台に鏡餅を供えました。
 そして鏡開きの日にはその鏡餅を煮て祝う、女性の為の祝日でした。そこでこの正月のお供えの餅を鏡餅と言うのです。

          今更の男ぶりかよ初鏡     牛山一庭人


イメージ 2 しかし、武家社会になると、これを「具足餅」と呼んで男子のために祝うようになり、軍事のシンボルともいうべき鎧を床の間に飾り、その前に餅を供えて祝ったのです。

 それがなぜ二十日か、と言えば女性は鏡を開いて「初顔祝う・はつかを祝う」からだ、とも言うし、また男子はハツカが「刃柄」につながるからという説もあります。いずれにしても語呂合わせですが、鏡餅は縁起上、刃物で切るというのを嫌い、木づちで割るようになりました。


           相撲取りの金剛力や鏡割り     村上鬼城


 ところが慶安4年(1,651年)4月20日に将軍家光が死に、20日は将軍様の命日になって祝い事はしてならない事になりました。そこで翌年から日取りを変えて1月11日にして以来、鏡開きは1月11日になったのです。

 ついでながらこの鏡開きで、小片となった餅はふつう汁粉に入れますが、武家社会では「小豆は腹が切れる」と言って嫌い、小豆の代わりに蕪の葉を「矢じり草」と呼んで雑煮を作りました。
 これが普通に小豆の汁粉になったのは、男子から女子文化が支配する泰平の世が続いたからだと言われています。

            ・・・・・

  *昨日息子から孫娘の成人式の写真を送ってきました。
    貸し衣装が20万もする上に、朝5時から美容院に並ぶんだそうです。
    成人になるのも大変ですね。。
   
 成人男女の代表として、壇上で司会をしたそうですが、あのチッチャな甘えん坊がいつの間にやらこんなに立派な成人になったかと思うと感無量です。
 戦前は20歳になれば男子は徴兵検査を受け、立派な一人前の日本男子になりました。
 その前なら、さしづめ、元服ですね。
 成人の皆さんおめでとう!! 幸多かれと祈るや切!

          よそほひて成人の日の眉にほふ      猿山木魂

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                                           (江戸時代の元服式)


       ・・・

(61)鼓型しめ縄

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    (61)鼓型注連縄

  〇 「佐賀藩の正月、注連飾り」

 肥前風土記によれば、佐賀は奈良時代から「佐嘉」と呼ばれて「サカ」と濁らずに発音していた。今でも佐賀十代藩主・閑叟公を祀る佐嘉神社もこの佐嘉という文字が使われている。もともと佐賀という地名の由来は、日本武尊が佐嘉地方に来られた時、楠の大木が何本も茂り栄えているので、「これより栄の国と申すべし」と言われた事に倚る。栄の国→さかえ→さか→佐賀というわけである。

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                                          (佐賀城・堀端の楠の大木)


 ところで正月の注連飾りは、もともと年神様が宿る場所を示すところで、神棚、門、井戸、床の間、かまど、便所などに飾ったり、自転車や舟、自動車などにも簡単な輪飾りなどをつけたりするが、昔は地方によってそれぞれ特色のある注連飾りをしていた。

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                                            (出雲大社の大注連縄)



 そこで江戸時代の各大名も夫々にお国ぶりを発揮した飾り物を使い、それが正月の江戸名物の一つにもなっていた。その中でも特に有名だったのは、佐賀・鍋島藩の「鼓型しめ縄」で、藁で注連縄の胴を作った飾り物だった。江戸の川柳に「お年貢の殻で初音の鼓出来」とか 「裃で鍋を覗きまわるなり」というのがあるが、これは鍋島藩の藁で作った鼓型しめ縄を半分皮肉ったものだという。


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                                             (佐賀城・本丸御殿の玄関)


 このほか南部藩では松飾りに、大根、野老(ところ)ほんだわら、昆布を添え、塩鯛の大きなものを二つ並べて飾り、「南部の掛け鯛」として有名だった。また佐竹家は門松の代わりに人飾りをした。これは人形ではなく、門の左右に家臣を並べて立たせたのである
 「門松の代わりもする秋田者」という川柳もこの事を言ったものである。

 ところで、佐賀藩の鼓型しめ縄にはこんな由来がある。
寛永14年(1637年)天草四郎時貞の「島原の乱」のとき、鍋島藩は2万5千の軍勢で一番乗りの武功を挙げた。然しこの時、定められた総攻撃開始の時間より一日早く攻撃を開始して抜け駆けの功名をしたので、軍令違反の罪により藩主・鍋島勝茂は「閉門、ちっきよ」を言い渡された。

 そのうち年の暮れになっても鍋島藩の江戸屋敷では松飾りもせず、ひそかに新年迎えようとしていたが、大晦日になって勝茂が急に大老・「酒井忠勝」に呼びだされて「明日・開門」の許可を申し渡された。これは大久保彦左衛門などが「戦いは時のはずみである。一番乗りの武功者を罪にしたならばこの国に大乱が起こるかもしれない」と強く援護してくれたのが功を奏したようである。


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 ところが鍋島家では不意の開門なので正月用の準備がなく、門松などにも困ったが、かねて出入りの荒物屋が松の木を集め、納屋にあった米俵をほぐした藁を束ねて急きょ「注連縄」作って松飾りにしたのである。このにわか造りの注連縄が謡曲の鼓の形に似ていたので、これを「鼓の松飾」と言い、佐嘉藩ではこれを吉例として、以後この鼓型の注連縄を用いるようになったという。明治になっても県庁や市役所ではこの鼓の注連縄が飾られていたが、今は殆ど使われなくなってしまい、僅かに「佐賀城本丸歴史観」の玄関に飾られているだけである。


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                    (小さい鼓型注連縄が鍋島段通の店先に飾られていた)




(62)名刀 「肥前忠吉」物語

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      (62) 名刀「肥前忠吉」物語

 江戸時代のはじめ、佐賀藩の御用鍛冶であった「橋本新左エ門忠吉」の打つ刀は名刀の誉れが高かった。忠吉の住居は市内長瀬町にあったが、原料の玉鋼は遠く島根県の安木あたりから取り寄せ、筑後川や本庄川を通って荷揚げされていたらしい。この忠吉の刀が有名になったエピソードが面白い。

 当時の藩主・鍋島勝茂が江戸城内の詰め所に行くと、腕自慢の大名たちが紙束の試し切りをやっていた。そこで「ひとつ貴殿もやってみてはいかがかな?」と誘われて、勝茂はそのまま引き下がるわけにもいかず、腰の肥前忠吉を引き抜いて切りかかったが、柔らかい紙束ははずんで少しばかり切れただけであった。

 面目を失った勝茂は、苦々しい思いで屋敷に帰り、早速忠吉を呼び出して散々当たり散らした。この時、忠吉は少しも慌てず「恐れながら忠吉は紙切り刀は打ちません。試し切りは,鎧かカブトで遊ばしませ」と悪びれもせず申し上げた。さすが名君の勝茂は物分かりが早く、すぐに機嫌をなおした。

イメージ 1 そして数日後登城すると、大名たちがまたも紙切りの腕自慢をしていて、意地の悪いのが「鍋島殿、この前の名誉回復のために、も一度やられては?」と、からんできた。勝茂はニコニコしながら「拙者の肥前忠吉は紙切包丁ではござらん、よろいかカブトなら切ってご覧にいれよう」と言い切ったのである。

 「面白い、ぜひ見せていただこう」という事になったが、ここは城内の事ゆえ、ヨロイや兜を持ち込むわけにはいかない、そこで部屋の隅に置いてあった真鍮製の燭台を全部持ち出して切ることになった。

 勝茂は歴戦の勇士であり戦場で鍛えた腕は確かである。愛刀の忠吉をひらめかして、林立する金属製の燭台をズバリ、ずばりと切り倒してしまった。しかも刃こぼれ一つしなかったので、並み居る大名たちはあっとばかりに感嘆の声を上げたという。

 勝茂はこの褒美として、忠吉の願い通り多布施川から水を引いて、いわゆる「忠吉川」を掘ってやったと言われている。その忠吉の墓は市内の駄賃小路にある。

 ところで、シランも見習士官に任官するとき、この肥前忠吉の名刀を軍装にして、士官用の軍刀として持って行ったが、戦後、刀の柄の中を調べてみたら、銘が「肥前国住・近江大掾・藤原忠吉」となっていたので、残念ながら初代ではなく四代目だったようである。

 紫蘭が予備士官学校に居る間に、母が刀剣家(*小学校で同級だった)から、二千円で購入したらしいが、そのころの軍隊でのシランの給料はなんとわずか、月13円・・子供の命には代えられないと母が乏しい財布の中から大枚を払って買ったのだろう。検索してみたらこの4代目忠吉の現在の価格は800万円だった。
 ちなみに「坂本龍馬」の佩刀も肥前忠吉だったとか、何代目かは知らないが。。

   予備士を卒業して少尉に任官するときに、将校用の軍装品一式を買わねばならない。兵隊や軍隊の学生の間はみんな官給品だが、将校になると持ち物はすべて私物なので、軍服から軍刀、拳銃、双眼鏡に至るまで自分の金で買わねばならない。その総額は660円だったが、そのうち軍刀が200円もする。それも鍛造の既製品である。だからほとんどが自前で好みの軍刀をあつらえていたのだ。安月給の候補生にとっては600円は大金だが、そのうち400円は任官の際、軍装手当として400円が支給されるので、実質的には260円の負担だった。

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                                      (将校用軍装品購入申し込み書)



 「四代目・肥前忠吉」は三代目陸奥守忠吉の子で、元禄13年3月10日に近江大掾を受領、正徳元年には幕府から朝鮮国王に贈る薙刀を鍛造している。また、正徳5年(1715年)7月18日に、伊賀守菊平と密通した妻を雪隠(便所)に追い詰めて切ったため、「雪隠忠吉」と呼ばれたそうである。

 この忠吉の軍刀は戦後の武装解除で米軍に供出、美術品の刀は返還されるという事だったが、米兵が戦利品として自国に持ち帰ったのか、とうとう手元には戻らなかった。今は僅かに、その時外しておいた刀のツバだけが、引き出しの中に空しく埃をかぶっているだけである。 ↓

 
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                     (この刀のツバは、佐賀の乱に使われたという話だったが、ほんとかしらん?)


 *今日は13日の金曜日、縁起が悪いので一日中、家の中に閉塞していたら、洗濯の手伝いや大掃除をやらされてしまった。そういえば、シランが九重山で滑落、骨折したのも13日だった。金曜ではなく土曜日だったので命が助かったのかも。。

 家内に言わせると、それはクリスチャンの言う事で仏教には関係ナイ、ナイ、今日は大安だよ・・
 寒いときには、年寄りは家にいてコタツ守りが一番かもネ。。
      犬も歩けば棒に当たる。。


 

(63)今日はもぐら打ち

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      「  (63) 「十四日のもぐら打ち」

  「松の内」とは正月に門松を立てる期間の事を言います。今は官庁や大きな会社などに大きな門松が建ててあるだけですが、昔はどこの家でも門松を建てました。と言っても玄関の両方の柱に小さい松の枝を打ち付けてあるだけですが・・

 この門松は白い和紙に水引をかけた根の付いたままの小松で「根引きの松」と言います。
 もともと正月の年神様は、この門松の枝から下りてこられると信じられていたのです。

         門松や 思へば一夜 三十年     芭蕉


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 会社などに立ててある大きな門松の竹は、先端を鋭く斜めにそぎ落とされています。これは、三方ヶ原の戦いで武田勢に破れた徳川家康が、今度はきっと竹田を切ってくれるぞ、という思いを込めて始めたのだそうです。。


 門松は関東では6日の夕方、関西では14日の夕方に取り除きますが、これを「松納め」と言い、元日からこの松納めまでの間が松の内になります。

  門松や注連縄を取り除iいたあとを「松過ぎ」と言います。

   松過ぎの 光陰またも 矢の如く   高浜虚子



      〇 「もぐら打ち」

  今日は正月14日、こちらでは子供たちの「もぐら打ち」の行事があります。 
    農作物や果実の豊作を願って、昔から農村で行われてきた正月行事です。

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 手ごろな青竹を切ってきて、その端に藁を束ねて小縄で巻き、それを地面に叩きつけて打つと、爆竹のような高い音がします。子供たちはこれをもって各家々に入って、そこの家の前の地面や果樹の根元をもぐら打ちの歌」を歌いながら打ってまわり、お駄賃に「餅」を貰います。しかし、最近は餅を搗くのが少ないので、たいてい御祝儀で済ます所が多いようです。 

    ♪ なーれなーれ 柿の木
        ならずの柿をば、なれとぞ言うた
      千なれ 万なれ 億万なーれ
      うちの子のちぎっときゃ 畑の真ん中なーれ
      他所の子のちぎっ時ゃ 堀の真ん中なーれ

      もーぐら もぐら もーんな祝うて 三(さーん)べん
      お駄賃どーみゃ ゆがんでーも
      ふとかとかーら おくんさーい
      十四日のもーぐら打ち

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 最近は少子化で、もぐら打ちをする子供が居なくて「子供会」でも困っているそうです。  
 少子化対策の大臣さんもモグラ打ちして回ったらどうかな?
  子供が豊作で、どんどん増えるかも。。


    〇 成木責め(なりきせめ)

 「もぐら打ち」に似た正月の風習では、東北地方の「成木責め」と言う行事があります。果樹の霊をおどして豊作を約束させる、という一種のおまじないです。
 1月14日の夕方から15日の小正月の日に、柿の木や栗、桃、梅など実のなる果樹の根元にナタを当てて大声で
    「ナルカ ナラヌカ ナレバ イモウセ 
        ナラナイト ブツキルゾ ソレナラカンニンシモウス」
とナタを振りおろして鉈の背でたたいて回ります。すると子供たちが木の陰から「成りもうす、なりもうす」と叫びます。

 
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                                                   (信州の成木責め)


 やはりその年の果樹の豊作を祈願する行事でしょうが、もぐら打ちと同じくどちらも柿の木が相手というのが面白いですね。 昔の農家には各家に柿の木やミカンが植えられていました。果物類の自給自足の意味もあったのでしょう。


                 ・・・・・

(64)左義長・どんど焼き

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    (64)左義長・どんど焼き

 早くも今日は15日、寒波襲来で各地から大雪のたよりがしきり。 暖かいはずの当地でも朝方うっすらと小雪がつもっていた。降りしきる雪の京都の女子駅伝は大変だったろう、でも若い選手たちは雪にも寒さにもめげず、元気いっぱいだった。

 正月の15日は「小正月」である。元日から始まる「大正月」に対して14日の夕方から15日、16日にわたって正月行事をするのを「小正月」という。農耕生活に関連がある正月用の行事はこの小正月に多く、餅を搗いたり団子を作って祝う習慣がある。また「松の内」は家の中で台所仕事に忙しい女性が15日から年始回りする習慣もあって、別名「女正月・めしょうがつ」ともいう。

         芝居見に妻出してやる女正月   志摩芳次郎

 この小正月で行われる行事では左義長・さぎちょう」がある。
地方によっては「どんど焼き」とも言い、各地でいろんな呼び方があるが、要するに正月の火祭りの行事である。14日の夜から15日の早朝にかけて行われる事が多いが、新年の松飾や注連縄などを集めて部落や町全体の行事として、河原や広場で焼く行事である。


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 「左義長」は朝廷では古くから行われ、清涼殿の庭で青竹を焼いて天皇が書かれた古書を天に昇らせ、また青竹に扇を結び付けて燃やしたりしたという。
 最近は一般に、広場の中央に青竹や太い木などを立ててその周りに集めた松飾りなどを積み上げて焼くが、この火で餅を焼いて食べたりする。
 また「書初め」を燃やして高く燃え上がると書道が上達するといって喜んだりするが、これを「吉書揚げ」という。

イメージ 2   子供たち中心の正月行事で、地方によって「どんど」とか「とんど焼き」というが、この「どんど」は火を焚くときの囃子言葉だそうである。

  昔の佐賀地方では「ホンゲンギョウ」と言い、6日の夕方か7日の早朝に、青竹と藁や集めて各家の門先で燃やし、青竹を爆竹させ、または竹を折り曲げて結び「鬼の拳」と唱えて悪魔祓いをする。


 また、子供たちは「吉祥・吉書」と唱えて目出度い文句を浄書し、これを燃え藁の上にかざして燃やし、その灰が空高く舞い上がれば書き方が上手になると、喜んだりしていた。 そこで「鬼火焚き」と言うところもある。子供たちは鬼火の近くの家に集まって餅を焼いて食べる。この餅を食べると病気をしないといわれていた。

           どんど焼き どんどと雪の 降りにけり      一茶
 
         ・・・・・

(65)佐賀鍋島・猫化け騒動

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          (65) 「鍋島・猫化け騒動」
 
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 佐賀の鍋島と言えばすぐに「鍋島の化け猫騒動」を思い出すが、これは講談や芝居、映画の世界であって事実ではない。しかし「火のないところに煙は立たぬ」のたとえもあり、その火元を少し探ってみよう。

イメージ 1 戦国時代後半、大分の大友宗麟、薩摩の島津家と九州を三分する太守だった佐賀の「竜造寺隆信」は天正12年(1584年)の島原の沖田畷の戦いで島津、有馬の連合軍のためにあえなく討ち死にしてしまった。
 死後、長男の政家が家督を継いだが病弱の上に政治力にも乏しく、豊臣秀吉から隠居を命じられ、その子「高房」が成人するまで家老の「鍋島直茂」が佐賀を治めることになった。然し高房が成人しても直茂が国政を返還する気配がないので、これを悲観した高房は慶長12年(1607年)3月3日、江戸の桜田屋敷で妻を刺殺して自殺をはかり、これが原因でのちに死んでしまった。

 ↑竜造寺隆信像
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 そして高房の死後、佐賀ではさまざまな怪事件が起こった。高房の家来の石井主水と久納市右衛門が主人を裏切って直茂方についたという噂が立ち、何者かによって両人が殺されてしまった。
 また、直茂にはその頃から耳に腫れものができ、次から次に広がってとうとう御典医もサジを投げてしまった。そのため京都から慶祐法印を招いて加持祈祷を試みたがこれまた効果がない。そのため町では高房の亡霊が出て、鍋島氏を苦しませるのだ、という噂が立ち直茂もすっかりノイローゼになり、三度の食事も進まずやせ細ってしまった。
                                                                                                         ↑鍋島直茂像

 お付きの家来たちは高房を葬った西の丸の泰長院の方角が悪いのだろうと、遺骨を宗竜寺に移転し、直茂自身も因縁付きの城内から離れて多布施の別邸に移住したが、いずれも効果がなかった。  そのため、鍋島家中は不安、恐怖におののき、高房の霊を慰めるために佐賀城の西北に新たに大竜山・「天祐寺」を建立し、宗竜寺から高房の遺骨をこの天祐寺に改葬してその霊を弔ったところ、ようやく一連の不祥事は治まって行った。

 直茂が奇病に悩まされた事は「直茂公譜」に詳しく書かれ、また「元茂公御年譜」には高房の亡霊が出たのを見た者がたくさん居たと記されている。これらの事実を背景にして、いわゆる「猫化け騒動」という物語が成立したのであろう。
 芝居や講談のいわゆる「鍋島化け猫騒動」のあらすじは、「神通力を得た化け猫が、時の佐賀の殿様を散々苦しめて取り殺そうとするのを、忠臣が辛苦の末この化け猫を退治する」、という物語である。だが、その物語は伝承や作者によりさまざまである。大別すると次のように二分することが出来る。

 その一つは、佐賀の支配権が竜造寺氏から鍋島氏に移ったという歴史的事実を背景にしたもので、芝居の「花嵯峨猫又双子」などがそうである。
 この芝居は嘉永6年(1853年)江戸の中村座にかかったもので、芝居作家の「瀬川如泉」が脚本を書いている。そのあらすじは・・、

イメージ 5 ・・鍋島直茂をもじった「直島尚繁」が、竜造寺家の跡目である盲目の高山検校を囲碁の相手として城内に呼び出し、その囲碁に因縁をつけて手打ちにする。検校の母が息子の行方を案じていると、飼い猫の「玉」が城内に忍び込み、無残に斬り殺された検校の首をくわえて帰ってくる。これを見た母は「玉」に向かって「汝、魂あらば我が血を吸い、我に代わりて息子の仇を討つべし」と言い残して自刃してしまう。血を吸った玉は神通力を得て、直島の愛人の「お豊ノ方」を食い殺し、城中が大騒動になる・・という話である・・

 鍋島家は、この芝居は佐賀藩の名誉を傷つけるものとして、町奉行を通じて上演禁止を申し立て芝居を止めさせた。然し数年後の元治元年(1864年)には「百猫伝・手綱之染分」と題して再び上演されている。


 ↑映画のポスター

 化け猫騒動のもう一つのあらすじは、お家騒動とは関係なく、一匹の化け猫が殿様を襲い苦しめるが、忠臣によって倒されるという筋書きである。
 
イメージ 3 ・・寛永17年(1640年)の春、佐賀・白石村の館に滞在中、屋敷の庭で催した夜桜見物の宴が終わり、鍋島勝茂が寝床に入ったところ、突如暗闇の中から怪物が現れて勝茂の部屋に入った。警護役の千布本右衛門は勝茂以外に誰もいないはずの部屋に側室の「お豊の方」が居るのを見つけて怪しみ、打ち首覚悟でこの側室を大槍で突き刺すと、これは年老いた黒猫だった。

 その後、猫退治をした千布家では猫のタタリで男の子が生まれないので、6代目の子孫が猫大明神を祀って弔ったが、その後は男子に恵まれたそうで、その千布家では今も毎年、猫大明神の掛け軸を懸けて、ネコ祭りをされているそうである・・

 ↑ ネコ大明神の絵図
 
 ちなみに「佐賀の夜桜」とか「怪猫・佐賀騒動」などの映画はたいていこんな筋書きになっている。



(66)竜造寺氏の盛衰

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                 (66)竜造寺氏の盛衰

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(佐賀城・鯱の門    画・南窓さん)

 
 武家社会が発展した鎌倉時代には、各荘園に鎌倉幕府から地頭が任命されたが、肥前の国には高木、竜造寺、於保、八戸,河上などの豪族が現れ、これらがそれまでの荘園領主と争い起こして、領地を分け合うことが多くなった。現在、村や田んぼの名前に「荘家田」という名前が残っているのは、このとき「荘園領主」に属した分である。

イメージ 1 その後、戦国時代になると九州では各地の豪族が合戦を繰り返していたが、享保3年(1530年)に中国地方の太守「大内氏」が肥前侵攻を試みた。この戦いで竜造寺家兼・鍋島清久の肥前勢が赤熊(赤い毛皮)を頭につけて敵中に突入したので、大内勢はこの異様な赤クマに驚き敗退した。

  その後次第に竜造寺氏が肥前を統一、特に家兼の曽孫「竜造寺隆信」の時代になるとその活躍は目覚ましく、元亀元年(1570年)豊後(大分)の大友宗麟の武将・大友親貞が兵三千を率いて来襲し、佐賀が風前の灯となった時には、家老の鍋島直茂が、佐賀北郊の「今山の戦い」で手兵わずか500騎で夜襲をかけて撃退、敵の大将・大友親貞を討ち取った。この時、鍋島勢が鬼面をかぶり、鐘、太鼓を打ち鳴らして襲撃した故事が、今も「面浮立」という郷土芸能として残っている。
 
    ↑ (面浮立)

イメージ 5 これ以来、竜造寺軍は連戦連勝、天正8年(1580年)ごろには、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の五か国と壹岐、対馬の二島を加え、いわゆる五州二島の太守となり、隆信全盛時代となって佐賀の町は大いに活況を呈した。

 然しその後、肥後の隈部、赤星氏などが島津方に付き、肥前では島原の有馬氏が抵抗したので、隆信自ら有馬征伐に出陣したが、有馬氏を加勢した島津軍のために敗れ、島原の沖田畷でぬかるみに馬の足を取られてあえなく討ち死にしてしまった。
この時、家老の鍋島直茂は隆信の訃報に接して自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ柳河へと撤退した。

 そして秀吉の全国統一後は、竜造寺の勢力は家老の鍋島氏に受け継がれ、肥前の東半分、現在の佐賀県の大部分がその領地となった。鍋島の「化け猫騒動」は、化け猫の形を借りた、竜造寺氏の遺臣たちの抵抗を意味する騒動だったようである。

 徳川幕府になると、関が原では西軍に着いた鍋島氏だったが、隣藩の黒田藩のとりなしもあり、肥前の35万7千石の知行を与えられ、外様大名として佐賀藩が成立した。そこで鍋島氏は慶長13年(1608年)より佐賀城の総普請に取り掛かり、これに並行して佐賀の城下町が建設された。

                                     (佐賀城大手門・通称鯱の門)
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 佐賀城はもともと市内の水ヶ江にあった竜造寺氏の居城「村中城」のあった所(現在の県庁一帯)を拡張して築城されたが、工事はまず城濠を掘ることから始められた。幅75mという巨大な濠を四方に巡らし、その東南角に五層の天守閣を築いた。佐賀平野は有明海の沖積地で山のない平野部なので、この佐賀城は典型的な平城として「亀甲城」とか「沈み城」とか呼ばれていたが、その完成までは5年の歳月がかかった。 しかし、明治7年の江藤新平らの「佐賀の乱」で城廓も兵火に見舞われて、今はわずかに大手門の「鯱の門」が残るだけとなっているが、その頑丈な門扉には今も両軍の弾丸の跡が残っていて、往時の栄枯盛衰の跡をとどめている。

                 (佐賀城・古地図) 承応元年(1652年)
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 佐賀の城下町の建設には城の周りに侍屋敷を設け、00小路(こうじ)という名前をつけた。今でも二の丸小路、中の小路、八幡小路、横小路、緑小路、寺小路など多くの「小路」名が残っていて、竹の生け垣を備えた武家屋敷の跡が静かな住宅街を形作っている。また、武家屋敷の外側に商人町を作り、郊外にあった市場をここに移して町屋を広げ、川上川の中ほどに石井樋という堰を設けて「多布施川」という人口の河川を縦横に流し、佐賀城下の飲料水や生活用水、田畑の灌漑水に利用した。

                              (佐賀城下・かまど帳・今の戸籍簿の一例)
  子供には名前があるが、妻はただ女房とだけ記してある。男尊女卑の風潮の典型である。
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                 ・・・・・

(67)悲劇の女性「秀の前」

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       (67) 悲劇の女性「秀の前」

 「竜造寺隆信」は佐賀一帯の豪族から身を興し、五州二島の太守として広く北部九州を治めた高名な戦国武将だが、若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。

イメージ 2 一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。
 武勇にたけた一面、「隆信」は結婚政策を巧みにあやつった梟雄でもあった。隆信は自分の娘(妻の連れ子)「秀の前」を蓮池城主小田鎮光の嫁にやり、鎮光を安心させて置いて呼び出して暗殺した。理由は敵方の大友氏に内通したと言われているが、その際の「秀の前」の苦悩のほどが偲ばれる。

 さらに隆信を快く思っていなかった松浦党の党首「波多三河守」に秀の前を強引に押し付けて再婚させて身の安全を図った。三河守には「心月御前」という妻が居たが、隆信の強引な願いに抗しきれず、心月御前を離婚する羽目になったのである。

 「秀の前」は美人の誉高く、三河守にもよく仕えたが、朝鮮の役があった時、豊臣秀吉から秀の前に名護屋城陣屋に呼び出しの命令があった。秀の前は「夫、三河守が朝鮮に出陣して、留守を預かる身なので城を出られない」と断ったが、これは好色の秀吉が外征している諸将の妻室を狙うという噂があったためでもあった。更に秀吉の強引な誘いに、秀の前は顔を火箸で焼いて醜い恰好で,懐剣を持って参上したため、秀吉の激しい怒りを買った。
 
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                                  (名護屋城・復元模型) 佐賀県唐津市


 そして文禄6年(1594年)夫・三河守が帰国してくると、秀吉は三河守に陰謀があったとして領地を召し上げ、常陸の筑波山に追放してしまった。三河守の陰謀は定かではないが、そのまま許されることなく、常陸の国で没したそうである。

 妻の「秀の前」は子供の彦三郎と共に佐賀に帰ってきたが、人生の無常を悟り,髪を下ろして妙安尼と改め、佐賀・辻の堂に草堂を建てた。これが現在の「妙安寺」の始まりである。
 妙安尼は心の平安を図るために朝夕念仏を唱えていたが、燃え上がる怒りや悲哀の心に一刻も落ち着かず、ついに慶長4年(1599年)7月30日、自分ののどを懐剣で突いて自殺した。

  「秀の前」は、佐賀の歴史に残る女性の中で、最も悲劇的な女性であった。
 

  〇「李宗歓望郷碑」

 天正15年(1587年)、朝鮮の慶尚道生まれの青年・「李宗歓」は郷里の海岸で海釣りをしていたところ、暴風雨に遭い流されてはるかな日本の筑前・芦屋に漂着した。この宗歓が4年後の天正19年に大宰府天満宮に参詣し、異国の史跡に興味を持ち、熱心にメモをしていた。その時参詣していた鍋島直茂がこれを見て事情を聴き、佐賀に連れて行き、家禄を与えて空閑姓を名乗らせ、帯刀も許して厚遇した。直茂は宗歓の人物を見込んで、翌年・文禄元年(1692年)の秀吉の朝鮮出兵に備えて宗歓を利用しょうと考えていたのであった。

イメージ 1 いよいよ出陣になると宗歓は作戦本部付きとして従軍、朝鮮の地理にも詳しく、通訳としても重用されて、鍋島軍は作戦的にも大成功を収めた。然し祖国に弓を引いた宗歓は母国にとどまることが出来ず、直茂に従って佐賀に戻ってきた。

 直茂は城下町の白山町以北の荒れ地を宗歓に与えて開墾を許し、また朝鮮や唐との貿易をするご用達商の許可を与えた。宗歓は唐の織物、陶器、海産物など珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人たちも集まってきて現在の唐人町が出来た。

 明治のころの俗謡に「新町は山の口、唐人町は都、破れ寺町は糸どころ」というのがそれである。寺町は糸どころというのは、宗歓が唐から麻を取り寄せて、各家庭で麻糸の製造をしていたので「糸どころ」と言ったらしい。

  ↑(李宗歓の墓)

 宗歓はまた、朝鮮から「九山道清」という織物師を招いて更紗の製法を伝えた。これが「鍋島更紗」である。然し、宗歓は募る望郷の念に駆られて、毎日はるかな祖国・朝鮮に向かって手を合わせていたという。そのあとに残る小さな岩石が、宗歓望郷碑として唐人神社の小さい祠に安置されている。
 李宗歓は、明治元年(1655年)祖国帰国の願いも空しくこの地で没した。

    ・・・・・



(68)回国の塔

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      (68) 回国の塔

  〇 「回国の塔」

 今から300年ほど前の享保年間の事である。
ある年の秋、佐賀市北川副村の福万寺に仏像を背負った一人の男が一夜の宿を求めた。出迎えた老僧は男のおずおずとした態度に何か深い理由があるに違いないと思い、身の上について優しく尋ねてみた。男の名は諦賢と言ったが、実名は明かさなかった。

 「諦賢」は奥州津軽の岩木川のほとりで渡し舟をして細々と暮らしていた。ある年の5月、雨がしとしとと降り続いていた夜更けに表戸を叩く者がいた。出てみると一人の飛脚が立っていて「明日までに藩庁にぜひ届けねばならない大事な金なので、済まないが今すぐ船を出してくれ、お金は弾むから・・」と言った。その夜は雨雲が低く垂れこめて一寸先も見えない真っ暗闇だった。飛脚を乗せた小舟が川の真ん中あたりに来ると、水流が激しくなり舟は大きく揺れた。諦賢は急にむらむらと悪心がもたげて、隙を見ていきなりカイを振り上げて飛脚の頭を一撃、その場に倒れた飛脚の懐から素早く金の包みを抜き取ると、その死骸を川に投げ捨てて、何喰わぬ顔で家に帰った。

 妻が「貴方、たった今、飛脚が来たがお前さんそこで逢わなかったの?」と聞くので、諦賢は一瞬ギョッとしたが、「何を言うか、今向こう岸に渡してきたばかりだ!」と激しく叱りつけた。そのころ妻は身ごもっていて翌年男の子が生まれた。そして三年後の五月、その夜も同じように雨がシトシト降っていた。夜中に男の子に小用に起こされ、子供を連れて外に出ると子供は渡し場の方を指さして「あっち、あっち」と言う。仕方なく子供を連れて渡し場に行き小用をさせていると、子供は下からしみじみと父の顔を見上げて「父ちゃん、私が殺された三年前の晩もこんな夜だったね」と言う。
その声は殺された飛脚の声そっくりだった。

イメージ 2 一瞬、冷や水を浴びせられたような気持になった諦賢は、わが身の犯した罪の恐ろしさを知り、妻にすべてを告白して飛脚の霊を弔うために全国行脚の旅に出た。そして佐賀の福万寺に着いたのがちょうど3年目だった。諦賢はその後3ヶ月間、福万寺に逗留して「大乗妙典回国の塔」と御影石に刻んだというが、今はもうこの回国の塔のいわれを知る人も少ない。

    ↑(右の大きな石塔)


  〇佐賀の俊寛物語

 今から800年ほど前の治承元年(1177年)、京都法勝寺の執行・俊寛は同志の丹波少将成経、平康頼と共に平家打倒を企てて失敗し、3人とも薩摩の硫黄島(一名・鬼界ヶ島)に流された。翌2年に大赦令で成経と康頼は赦免されたが俊寛は許されず翌3年3月にこの島で一人淋しく死んだ。・・
この話は平家物語や謡曲、芝居などで良く知られている話である。

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                                                  (歌舞伎・俊寛)


イメージ 3 ところが佐賀市の森林公園近くの国道沿いに、なんと「俊寛僧徒の墓」と刻んだ石碑が立っている。そして、ここから50mほど北にある北勝寺は、開山が俊寛、開基は平教盛、本尊は伝教大師作の地蔵菩薩となっているのである。

  この北勝寺は京都の法勝寺をまねた美しい大伽藍だったそうで多くの塔頭が立ち並んだ豪華な寺院だったが、度重なる兵乱のために焼失し、今はその一部分が残っているだけであるが、俊寛の墓石には治承4年(1180年)3月23日卒となっている。

  これはどういう事なのだろうか、俊寛が鬼界が島で死んだ治承3年の翌年だから、ひょっとしたら俊寛は島を逃れて佐賀まで落ち伸びていたのだろうか。。判官びいきの源義経が生き延びて奥州の藤原氏にかくまわれたり、蒙古のジンギスカンになったという巷間の英雄伝説の一種なのであろうか。
 ↑ (俊寛僧徒の墓)
  
    ・・・・・

  *今日は1月20日、骨正月ですね。早いものです。

       正月も二十日(はつか)になりて雑煮哉    虚子

 京阪地方では、正月に食べたブリの骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べる風習があるので、二十日正月を骨正月とも言います。
 これで正月行事はすべて終わることになります。

 アメリカの大統領も20日で新しくトランプ氏に代わりますし、ちょうど切りが良い??ので
 「ふるさと佐賀の風景」も今日で終わりにして、明日からまた新しい書庫の記事でお目にかかりましょう。



①大砲と軍服

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    「話のタネの雑記帳」

       ① 「大砲と軍服」

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             戊辰戦争・佐賀藩兵の彰義隊砲撃    

 1868年(明治元年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いがありました。薩長を主力にした官軍の中でひときわ目立ったのが佐賀藩の兵士たちでした。ほかの藩の兵士たちがたいてい弾丸を先込めでする旧式の鉄砲だったのに、佐賀藩の兵士の鉄砲は元込めの新式の鉄砲だったのです。また、佐賀藩が造ったアームストロング砲は、維新戦争や江戸の彰義隊の上野の戦争でも威力を発しています。


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                                               (アームストロング砲)


 それに先立ち、佐賀藩士「杉谷庸介」は1847年(弘化4年)に鉄製の大砲を作ることに着手、日本最初の反射炉で鋳鉄を造り、合計30回ほどの実験を繰り返してついに、キャノン砲を完成させています。時、恰もアメリカのペルリ艦隊来航の年でした。そこで幕府は佐賀藩に対してキャノン砲の36ポンド砲5門、24ポンド砲25門を大至急で発注しました。これらの大砲は安政3年に、東京湾の警護のために江戸品川の御台場にすえられました。



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(24ポンド・キャノン砲) 復元



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 さらに佐賀の兵士たちは、きっちりした洋服姿で背嚢を背負っていました。この佐賀藩の軍服が近代日本の洋服の始まりですが、佐賀・肥前藩には長崎出島もあり、幕末の洋風化も急ピッチで進んでいたのです。

 藩では深川長兵衛という人物をフランスに派遣したり、ラシャの製造工場を開設したりしていました。それが鳥羽・伏見の戦いになって、初めての軍服として登場したのでした。


 ← 維新戦争時の佐賀藩士

②雑煮の箸

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  ② 「雑煮の箸」 ・・「1月1日」 

        二番餅二十日正月祝いけり   広江八戸桜

 昨日の二十日(はつか)で正月料理で残ったブリの骨まで食べつくして、正月行事はすべて終わりました。
 この二十日には、雑煮を煮て祝う風習もあるようです。

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                            (おせちの箸は特別)  昔は柳の木の皮がついていましたが。。


 もともと、新年の三ヶ日はたいていの家庭では雑煮で祝うのが、全国的な正月行事になっていますが、その起源は南北朝のあと、後醍醐天皇の曽孫に当たる皇子が1436年(永享8年)正月元旦に尾張で、ハマグリの吸い物、大根の輪切り、ゴマメのナマスで雑煮を召し上がったところ、その年以来、様々な苦労や艱難が消えた、という話が残って居ます。

 それにちなんで皇子に随行していた尾張や伊勢の豪族たちが、雑煮を新年の祝い膳にしたのだ、という話です。

 ところが、八歳で足利家の七代将軍になった「足利義勝」が正月の雑煮を食べていたところ、箸が折れてしまいました。何か不吉なことが起こらねばいいが、と心配していたところ、秋になって義勝は落馬して死んでしまいました。そこで翌年からは、折れないように柳で作った大箸を使うようになりました。

 現在、正月の祝い膳に柳の箸を使うのは、この足利家の事件が起源になっているのです。


 * どうやら、昼飯は雑煮のようです。いやぜんざいかな?
    台所で餅を焼く匂いがしてきました。


          更けて焼く 餅の匂いや 松の内    日野草城


     ・・・・・

③大食漢の生涯

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      ③ 「大食漢の生涯」

 一度にどれだけたくさんの食べ物が食べられるか、という競技は昔からあり、とりわけ正月の餅の食べ比べなどは今も地方には残っているようです。世の中には驚くほどの大食漢がいるものです。

 イメージ 1戦前のコメディアンで有名な、古川ロッパは大変な美食家、大食漢でそのため糖尿病を患い、結核にも侵されて悲惨な最後を遂げています。

 シランも学生時代に、大阪の高島屋の食堂でロッパを見かけたことがあります。同じくコメディアンの杉狂児と一緒でしたが、戦時中は食堂では、ひとり一人前しか食べれないので、ロッパは弟子を連れて食堂に行き、弟子には食べさせないで自分だけ二人分食べていたとか。。(*_*;

 
 こんな大食漢のロッパでしたが、しかしアメリカにはこれ以上のとんでもない大食漢が居ました。

 ↑(長谷川一夫とロッパ)

   質、量ともに大食漢のナンバーワンと言えばアメリカの「ダイヤモンド・ジム」こと「J/プラディ」でしょう。

 プラディは1856年にニューヨークの貧民窟に生まれ、鉄道の駅のポーターを振り出しにして次々に金を稼いで、ついに億万長者になりました。まさにアメリカンドリームですね。彼の服は金やダイヤモンドで飾りつけられ、14金の総メッキの自転車を造ってハンドルにはルビーがはめ込まれていました。そしてこの自転車でセントラルパークを散歩する、という何ともきざな成金趣味でした。

 しかし彼の最高の道楽は、美食と大食でした。
朝食は卵のほか魚のフライ、ステーキ、それに毎朝1,5リットルのオレンジ・ジュースを飲みます。11時半には昼食前のスナックと称して2ダースのカキかハマグリを、昼食には伊勢エビを三匹とステーキを食べ、午後の間食には魚料理、そして夕食には必ずブロードウエイの高級料理店「レクター」で、まずカキを3ダース、カニを6匹、カメのスープを前菜として食べ、そのあとまた伊勢エビを7匹、カモを三羽、それに大きなサーロィンステーキを食べ、そのあと食後のデザートとして約1キロのチョコレートを食べていました。

 ある日、彼はパリの「カフェ・マルグリート」の魚料理に使われるソースの味の良さに魅せられて感動し、「レクター」の主人に「あのソースの味を盗んで来い、さもなければお前の店を取り潰すぞ」と脅迫的な命令を下しました。その頃、コーネル大学で勉学していたレクターの息子は、さっそく勉学を放棄してパリに向かい、まず皿洗いから始めて、三年後にやっとソースの味の秘密を探りだしてニューヨークに戻りました。プラディは彼を波止場まで出迎えてそのままレクター連れて行き、ソースを作らせて6人前の肴料理を平らげました。

 こんな恐るべき大食漢でしたから、当然のことながら彼は胃腸障害を起こし、1917年に61歳で亡くなりました。彼のに胃袋は正常の人の6倍の大きさだったそうです。そして彼の遺産はすべて消化器系の治療に当たった「ジョンズ・ホプキンス大学」の医学部に寄贈されたそうです。

    ・・・・・


④ゴールドラッシュ

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    ④ ゴールド・ラッシュ


イメージ 1 アメリカの新大統領・トランプ氏は、大金持ちの不動産王ですね。
トランプタワーだけでなく、頭から服装まで金ピカピカの雰囲気がただよっていますが、アメリカという国は昔から一攫千金の夢がかなう新大陸でした。その象徴が1800年代のゴールドラッシュでしょうか。平凡な一労働者がカリフォルニアの小川の中から初めて小さな金を発見したのが、170年ほど前の1月24日でした。

 1848年1月24日、カリフォルニアのコロマという小さな町の製材所で働いていた「J・マーシャル」という人物が水車を点検していたとき、ふと気が付くとその水路の中にキラリと輝く物がありました。大きさは小豆ほどで、好奇心にかられた「マーシャル」は手を突っ込んでそれを拾いあげてみました。ひょっとしたら黄金ではないか・・いやまさか?・・と思いながら付近を見回してみると同じよな小粒のものが光っています。

↑(トランプタワー)

  彼はそのいくつかを拾い、製材所の経営者の「J・サッター」に見せました。サッターはこれが純金であることを確信し、比重を量ってみると明らかに金でした。しかし、この大発見に驚いた二人は、秘密にしておかねばならないと、二人は絶対に口外しないことを約束しました。

イメージ 2 しかし、噂というものは、どこからか洩れるものです。4か月後の5月になると近所の人たちが、砂金を求めて気違いのように出かけるようになりました。そして8月中旬になると、毎日3万ドルから5万ドル相当の金がサクラメント川を中心とする地域で採取されたのです。その事実はワシントンに報告され、同年12月5日テーラー大統領は正式にこれを議会に報告しました。この時からいわゆるゴールドラッシュが始まったのです。

 そして、1848年から49年の間に合計8万人以上がカリフォルニアに金を求めて移住しました。

  ↑砂金採りの老人

 アメリカ国内だけではなく、太平洋の孤島マルケサスでもこの噂を聞きつけ、役人も兵士もカリフォルニァに移住し、島にはただ一人提督だけが残ったそうです。
 この一獲千金を狙う連中を相手にする商人たちも進出し、それまで一小漁村に過ぎなかったサンフランシスコは商人たちの拠点として、あっという間に人口3万人の都市になったのです。

 ただし、サンフランシスコ湾にかかる「金門橋」の名前は、ゴールドラッシュとは関係ないそうですよー。。

⑤ 振袖火事

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    ⑤ 「振袖火事」 

  ついこの間も糸魚川の大火がありましたが、火事はほんとに怖いですね。
昔の江戸の大火と言えば、なんといっても明暦3年の「振袖火事」が一番でしょう。

 浅草大増屋の娘「おきく」は(麻布の質屋の娘「梅乃」という説もあり)、本郷の本妙寺で寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいました。そしてその小姓と同じ振袖を作ってもらい、小姓に思い焦がれていましたが、1655年1月16日に、恋煩いのためにとうとう死んでしまいました。

 大増屋ではその振袖を棺の上にかけて本妙寺に納め、住職は前例に従いその振袖を古着屋に売りました。ところがその翌年の同じ日に、紙商「大松屋」の娘「きの」の葬儀があり、その同じ振袖が本妙寺に戻ってきました。古着屋でその振袖を買っていたのでしょう。そのうえ、更にその翌年にも本郷の麹屋の娘「お花」の葬儀の際にまた、同じようにして本妙寺にその振袖が戻ってきたのです。それも娘はいずれも同じ16歳でした。
 (*娘の名前には諸説あり)

 さすがに気味が悪くなった住職は、三人の娘の親の目の前で護摩焚きの火の中に振袖を投げ入れて焼きました。ところがちょうどその時、一陣の竜巻が舞い起こり、振袖は人間の立ち姿のようになって本堂の真上に舞い上がり、本堂は忽ち出火して焼け落ちてしまいました。これが有名な明暦3年(1657年)の「振袖火事」で、江戸の大名屋敷はじめ江戸の半分を焼きつくした大火事になりました。その火事はちょうど、おきくの命日の二日あとの1月18日の事でした。

 大蛇になって男を追いかけた安珍・清姫の道成寺の話もあり、とにかく女の情念はすごいですね。           オオ、コワ・・

  
  ○ 「町火消しの始まり」

 江戸の町並みは安普請の建物が並んでいました。ですから、ちょっとした出火がすぐに大火になるのは当然の事でした。
そうした火事の場合、出動するのはもともと武家の消防隊でしたが、明暦の振袖火事の大火以後、「町火消し」 という民間の消防隊が組織されました。
 それと同時に、各町の木戸ごとに消防団の手桶30個を用意する事が義務づけられました。しかしこの消防団は能率が悪く、組織力も弱くて実質的には武家の大名火消しが活躍し続けました。


 町火消しを本格的な消防団として組織する事に成功したのは、「大岡越前守」です。
 彼は1720年【享保5年】8月7日に江戸の町火消しを「いろは」48組に分けて地域分担を決めました。始めのうちは町火消しというのは、各町の輪番制で素人がそのメンバーになっていましたが、次第に専業制が進み、いわゆる「鳶職」と言われる人々が登場し始めました。

 そして各組の「かしら」は庶民文化の中での新しい英雄となり、消防以外の場面でも庶民の味方として活動するようになりました。「め組」の新門辰五郎などはそうした英雄の一人でした。
その姿がいなせだったせいで、火消しに憧れる若者も少なくありませんでした。め組は相撲の力士と町火消の大喧嘩で名高く、「め組の喧嘩」として芝居や映画にもなりました。

 落語に「火事息子」のような人物が現れるのも、火消しにあこがれる当時の風潮のせいだったのです。。。

     *どうしたことか、写真の掲載が出来ません、悪しからず・・
 

  

⑥ 火事師??

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    ⑥ 「火事師??」

 「仕事師」という言葉があります。ふつうは仕事を熱心にする人とか、仕事の段取りが上手くて抜け目のない人、というように理解されていますが、昔は仕事師の始めは「火事師」だったのではないか、という変な説もあります。火事師と書いて「カジシ」と読むのが普通ですが、この場合は「ヒゴトシ」と読むのです。
 江戸っ子は、シとヒの発音の区別がつきません、そこで「ヒごとし」「シしごとし」になったのだろうと言うのです。

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                                              (明暦の大火)


 「火事と喧嘩は江戸の華」とか言いますが、昔の江戸っ子は火事については独特の感情を抱いており、その消防体制は、いろは順の各組編成でした。当時日本を訪れた外国人はその消防組織に感心し、江戸には48組、合計4万8000人の消防夫が居る、と書き残しています。

 もちろん火消しの目的は、消火活動に努め、少しでも延焼を防ぐことですが、火事が大きくなればなるほど喜んでいた連中もいました。それは大工や左官などの職人たちで、例えば明暦の「振袖火事」のような大火災があれば、その後始末と再建のために、10年間は仕事にあぶれることはなかったからです。

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                                                      (定火消たち)

 そういう「仕事師」たちが、いったん火事がおこれば「火事師」も兼任していたという、文字通りの「マッチポンプ」だったのです。 「風が吹けば桶屋が儲かる」というわけですね。 
 (*ちなみに、マッチポンプとは、自分でマッチで火をつけておきながら、自分でポンプで消火する、という和製英語で、偽善的な自作自演の行為を意味します。以前に、マッチポンプと呼ばれた代議士さんが居ましたね。)

  〇「消防自動車の規格

イメージ 3 江戸時代の消防は、たとえば、「め組の喧嘩」で有名な新門辰五郎の「め組」などのように「いろは順」の各組単位の「町火消し」でしたが、今は立派な消防団があり、消防自動車が活躍しています。そんな消防自動車とはどんなものでしょうか。

 ← 消火用の昔の水鉄砲

 普通、消防自動車というのは正しくは消防自動車と呼ばれる自動車ですが、都市で使われる消防車はホイルスペースが4m以上で、ポンプ圧力?1平方センチあたり8,5キログラム,放水能力1分あたり、2100リットルというのが規格になっています。


 消火の際は、消火栓から放水する前にまず「水槽式消防自動車」が出動します。これにはタンクの中に1500キログラムないし4000キログラムの水が蓄えられていて、初期の消火を行い、そのあとで普通の消防車が到着して放水するのが普通になっています。

 また、直接に火に水をかけるのではなく、水の冷却作用と蒸気によって空気を遮断し、いわば霧の壁を作って、酸素の供給を困難にして火を消す方法もあります。これは「高圧消防ポンプ車」を使いますが、電気火災や油の火災時に有効だそうです。
 1949年1月26日に法隆寺の金堂が焼失しました。以来、この1月26日「文化財防火デー」になっています。


      イメージ 5 イメージ 4

  戦前・昭和初期の消防ポンプは、↑こんな天秤棒式の小さな腕式の消防車でした。両方の天秤棒の先に横棒を取り付けて、6人くらいでギッコンバッタンと押し上げたり、押し下げたり。。
すぐに水がなくなるので、付近の民家の人がバケツで井戸水を補給せねばなりません。

  戦時中はよく防空演習がありました。
  でも、焼夷弾の火がバケツリレーの水くらいで消せるわけがありませんね。

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                                  (中学時代の消火訓練) 
                     バケツリレー。。   先生も大変だった・・

 
    ・・・・・




 

⑦今日は求婚の日

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     ⑦求婚の日 

 今日は1月27日、「求婚の日」だそうです。
明治16年1月27日に、中尾勝三郎と言う人が生涯の伴侶を求めて、始めて新聞紙に求婚広告を出したそうです。
 結果は知りません、皆さんも勇を振るって一度広告を出してみたら・・
 ただし、笑いものになっても知りませんよー。。

 最近は国際結婚が多いですね。タレントはもとより、スポーツ選手も、駅伝や野球選手から、最近は卓球・相撲の力士まで国際結婚大はやりですね。トランプ氏には悪いけど、世界のグローバル化の象徴のような気がします。

 ところで、明治維新と共に日本の国際化が始まりましたが、その一つに日本人が外国人と結婚するという国際結婚の問題がありました。そこで政府は明治6年春、次のような通達を出しました。

一、日本人、外国人と婚嫁せんとする者は政府の允許を受けるべし
一、外国人に嫁したる日本の女は日本人たるの允許を失うべし。
一、日本人に嫁したる外国の女は日本の国法に従い、日本人たるの
分限を得るべし

 しかし、唐人お吉以来、明治になっても日本女性で外国人と結婚する者は極めて少なかったのですが、その国際結婚の第一号は宮崎県の三浦十郎という人物でした。
 彼は選ばれてドイツに留学し、滞在中に「K・ゲルストマイエル」という女性と相思相愛の仲になりました。

 その後三浦は帰国することになり、二人は別れることになりましたが、然し彼女の方は三浦を思い切ることが出来ず、とうとう日本まで単身で渡航してきました。森鴎外や広瀬中佐の場合と同じような大ロマンスですね。式をつかさどったのはアメリカの牧師「D/トムソン」で、日本男性の国際結婚第一号というので、各新聞が盛んに書き立てましたが、この夫婦のその後についてはあまり記録に残っていません。

 シランの友人の息子が東工大を出て、同じようにドイツに留学して、ドイツ人の彼女を連れて帰国しましたが、友人は葉隠武士の典型のような頑固一徹の偏屈者、(日本男子が青い目の外人と結婚するなんて、不届きシゴク!)とばかり怒り狂って絶対に結婚を許しません。彼女を家に入れるどころか、ついに息子を勘当してしまいました。

 その後、彼の葬儀には、息子だけが参列して彼女も子供たちも姿を見せませんでした。
 今の国際結婚はやりの世相を眺めて、あの世で彼が後悔しているかどうか。。

     (戦後の混乱期、混血児がよく見られました) 

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                                                   (戦争の落とし子)

             。。。。。

⑧ バクチとこたつ

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      ⑧ バクチとコタツ

  別にバクチとコタツには何の関係もないですが、ちょっと話のタネに・・

      〇  「バクチの話」

イメージ 1 1956年1月5日、アメリカの女優「グレース・ケリー」はモナコ国王との婚約を発表しましたが、いうまでもなくモナコの財政収入のほとんどはカジノからの収入に負うところが少なくありません。バカラとかルーレットとか、バクチがカジノでは大っぴらに行われていますが、世界の多くの国ではバクチは禁止されています。

 
 ← (グレース・ケリー)


 日本でも8世紀の半ば、753年(勝宝6年)に初めてバクチの禁令が出されています。 
  これによると「この頃の役人は百姓も勝手に双六賭博にふけり子は親を顧みず、中には家業までつぶしてしまったものが居る…」などと書いてあり、鎌倉時代になると、「貞永式目」に「全財産はおろか、家屋敷まで賭けるバクチ狂が出て、それがこじれて喧嘩、殺人にまで及んだ」という記事が見えます。

 イメージ 2こんな古い時代から、先人たちがバクチの害を説いているというのに、文明開化の今頃、法律でカジノを開くなどと言う輩がのさばるのは,いったいどう言うことなのでしょうか。

 ちなみに、サイコロ賭博の代名詞として、バクチ用語で今も使われている「樗蒲・チョボ」という言葉は大宝律令の「令義解・りょうのぎげ」のなかに、「双六・樗蒲チョボの属」とありますから、701年という遠い昔から使われていたんですね。




   〇 コタツとキヤタツ

 今は大寒ですね。まだまだ寒い日が続きます。
ところで、この頃は様々な暖房器具が出回っていますが、日本家屋では依然として「電気こたつ」の人気は衰えないようです。畳の間では何といってもこたつが一番、心身がほかほか暖まってついウトウトと・・

イメージ 4 しかし、そもそも「コタツ」とはなんのことでしょうか・・、
漢字では「炬燵」と言う難しい文字を使いますが、これはもともと小型の踏み台である脚立と同じ語源から出ています。つまり炉の前やカマドの前に風呂椅子のような簡単な腰掛を作り、そこに腰を下ろして暖を取っていたのです。
       
    ←部屋の置き炬燵                ↓置き炬燵用火箱
           
イメージ 5 
 そんな暖房方法からヒントを得て、やぐらを組んでイロリの前に置くことになりました。囲炉裏は薪をくべますが、人が寝る時間になるとその灰の中にオキが残ります。その頃を見はからって、オキの上にヤグラを置き、布団をかけて足を温めたり、茶飲み話を楽しんだり、またそのまま眠ったりしていたのです。



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                                                (昔の囲炉裏)
 
  長野県などでは長さ2mというデカイやぐらがあり、これを「ユリゴタツ」と言いました。ユリとは囲炉裏の事です、つまり「イロリゴタツ」から来ているんですね。ちなみに今日の腰掛式のコッツを発明したのは、日本を愛したイギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」でした。



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