(62) 名刀「肥前忠吉」物語
江戸時代のはじめ、佐賀藩の御用鍛冶であった「橋本新左エ門忠吉」の打つ刀は名刀の誉れが高かった。忠吉の住居は市内長瀬町にあったが、原料の玉鋼は遠く島根県の安木あたりから取り寄せ、筑後川や本庄川を通って荷揚げされていたらしい。この忠吉の刀が有名になったエピソードが面白い。
当時の藩主・鍋島勝茂が江戸城内の詰め所に行くと、腕自慢の大名たちが紙束の試し切りをやっていた。そこで「ひとつ貴殿もやってみてはいかがかな?」と誘われて、勝茂はそのまま引き下がるわけにもいかず、腰の肥前忠吉を引き抜いて切りかかったが、柔らかい紙束ははずんで少しばかり切れただけであった。
面目を失った勝茂は、苦々しい思いで屋敷に帰り、早速忠吉を呼び出して散々当たり散らした。この時、忠吉は少しも慌てず「恐れながら忠吉は紙切り刀は打ちません。試し切りは,鎧かカブトで遊ばしませ」と悪びれもせず申し上げた。さすが名君の勝茂は物分かりが早く、すぐに機嫌をなおした。
そして数日後登城すると、大名たちがまたも紙切りの腕自慢をしていて、意地の悪いのが「鍋島殿、この前の名誉回復のために、も一度やられては?」と、からんできた。勝茂はニコニコしながら「拙者の肥前忠吉は紙切包丁ではござらん、よろいかカブトなら切ってご覧にいれよう」と言い切ったのである。
「面白い、ぜひ見せていただこう」という事になったが、ここは城内の事ゆえ、ヨロイや兜を持ち込むわけにはいかない、そこで部屋の隅に置いてあった真鍮製の燭台を全部持ち出して切ることになった。
勝茂は歴戦の勇士であり戦場で鍛えた腕は確かである。愛刀の忠吉をひらめかして、林立する金属製の燭台をズバリ、ずばりと切り倒してしまった。しかも刃こぼれ一つしなかったので、並み居る大名たちはあっとばかりに感嘆の声を上げたという。
勝茂はこの褒美として、忠吉の願い通り多布施川から水を引いて、いわゆる「忠吉川」を掘ってやったと言われている。その忠吉の墓は市内の駄賃小路にある。
ところで、シランも見習士官に任官するとき、この肥前忠吉の名刀を軍装にして、士官用の軍刀として持って行ったが、戦後、刀の柄の中を調べてみたら、銘が「肥前国住・近江大掾・藤原忠吉」となっていたので、残念ながら初代ではなく四代目だったようである。
紫蘭が予備士官学校に居る間に、母が刀剣家(*小学校で同級だった)から、二千円で購入したらしいが、そのころの軍隊でのシランの給料はなんとわずか、月13円・・子供の命には代えられないと母が乏しい財布の中から大枚を払って買ったのだろう。検索してみたらこの4代目忠吉の現在の価格は800万円だった。
ちなみに「坂本龍馬」の佩刀も肥前忠吉だったとか、何代目かは知らないが。。
予備士を卒業して少尉に任官するときに、将校用の軍装品一式を買わねばならない。兵隊や軍隊の学生の間はみんな官給品だが、将校になると持ち物はすべて私物なので、軍服から軍刀、拳銃、双眼鏡に至るまで自分の金で買わねばならない。その総額は660円だったが、そのうち軍刀が200円もする。それも鍛造の既製品である。だからほとんどが自前で好みの軍刀をあつらえていたのだ。安月給の候補生にとっては600円は大金だが、そのうち400円は任官の際、軍装手当として400円が支給されるので、実質的には260円の負担だった。
(将校用軍装品購入申し込み書)
「四代目・肥前忠吉」は三代目陸奥守忠吉の子で、元禄13年3月10日に近江大掾を受領、正徳元年には幕府から朝鮮国王に贈る薙刀を鍛造している。また、正徳5年(1715年)7月18日に、伊賀守菊平と密通した妻を雪隠(便所)に追い詰めて切ったため、「雪隠忠吉」と呼ばれたそうである。
この忠吉の軍刀は戦後の武装解除で米軍に供出、美術品の刀は返還されるという事だったが、米兵が戦利品として自国に持ち帰ったのか、とうとう手元には戻らなかった。今は僅かに、その時外しておいた刀のツバだけが、引き出しの中に空しく埃をかぶっているだけである。 ↓
(この刀のツバは、佐賀の乱に使われたという話だったが、ほんとかしらん?)
*今日は13日の金曜日、縁起が悪いので一日中、家の中に閉塞していたら、洗濯の手伝いや大掃除をやらされてしまった。そういえば、シランが九重山で滑落、骨折したのも13日だった。金曜ではなく土曜日だったので命が助かったのかも。。
家内に言わせると、それはクリスチャンの言う事で仏教には関係ナイ、ナイ、今日は大安だよ・・
寒いときには、年寄りは家にいてコタツ守りが一番かもネ。。
犬も歩けば棒に当たる。。