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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(78)芙蓉と酔芙蓉

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     (78) 「芙蓉と酔芙蓉」

   ○ 「芙蓉」

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 「フヨウ・芙蓉」はアオイ科の落葉低木で、日本には古い時代に中国から渡来しました。
初秋のころに五弁の淡紅色の美しい花が咲きますが、花は一日でしおれてしまいます。花の大きさは10センチもあり、白い花や八重咲きの花もあります。


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              夢にみし人のおとろへ芙蓉咲く   久保田万太郎
 
 芙蓉の美しさは、美人のたとえとして「芙蓉の貌(かんばせ)」という言葉もあり、また、「富士山」の別名として「芙蓉峰」という名前にも使われています。

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      ○  「酔芙蓉」
 

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   芙蓉に少し遅れて九月下旬に咲く「酔芙蓉」という花もあります。
   この花は、朝は白くて次第に淡紅色となり、夜は紅色に変わります。


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                 酔芙蓉 夜の化粧は 誰のため       しらん    

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 「酔芙蓉」はアオイ科の落葉低木で、フヨウ(芙蓉)の園芸品種です。
朝に白い花を咲かせますが,午後になるとだんだんピンク色にかわり,夕方から夜にかけてさらに赤くなり,翌朝にはしぼんでしまいます。
 この様子を酒飲みの顔がだんだん赤くなってくる事にたとえて,「酔う芙蓉」という意味で「酔芙蓉」と名づけられました。


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        逢いにゆく袂(たもと)触れたる芙蓉かな   日野草城

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 秋が深くなると写真のように、お昼ごろでも白とピンクが混在したようになります。
 写真のものは午後 2 時頃に撮影したので,そろそろ酔いが回ってきた頃の花です。


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         一日でしおれてしまう・・・花の命は短くて、人生同様はかないものですね。
         年は取りたくないものです・・



(79)棉の花

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          (79)「棉の花」
 
  
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                                           (棉の畑)
 
      「棉の花」は3~4センチと小さいですが、柔らかい淡黄色をしています。
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 「棉」はアオイ科の植物で、紀元前2,500年も前からインドのインダス地方で栽培されていました。
 花は少し小型ですが酔芙蓉とよく似ていて、はじめは淡いクリーム色ですが、夕方にはピンク色になってしぼんでしまいます。アジア綿、エジプト綿など種類によって花の色も少し違うようです。

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                  淡黄色の花は、時間とともに次第に赤みを帯びてきます。

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 棉は開花して五週間ほどするとグリンボールといわれる実が茶色に熟して、はじけて中から白いふわふわの綿毛が出てきます。この綿毛を摘んで、衣類などの繊維の材料にします。

                        (左の青い実がグリーンボール) 
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                                                    (グリーンボール)
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 綿毛は布団や布地などの原料となり、世界の繊維材料の七〇%を占めています。
 「腸」のことを昔はハラワタとかワタとか読んでいましたが、衣類の中に綿を詰めることから、体の腸に見立てて「綿」という名前になったそうです。

                     (実がはじけて綿毛が出てきました)
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  有明海は遠浅なので、昔から営々と干拓事業が行われて、広大な農地が開拓されました。
ただし、干拓地は塩分が多いので、干拓後しばらくは稲作には適しません。そこではじめのうちは稲作ではなく塩分に強い綿の花が栽培されました。万葉集にも歌われているくらいなので、有明海沿岸での綿の栽培は相当昔から行われていたんですね。


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          不知火(しらぬひ) 筑紫(つくし)の綿は 身につけて
              いまだは着ねど  暖かに見ゆ                       
                 
                             万葉集・  沙弥満誓(さみまんぜい)



  :* ガタピシと大わらわで古い雨戸を繰ったりして、待ち構えていましたが、
     おかげさまでどうやら台風18号は対馬海峡を日本海に抜けてくれるようです。
     これで一安心・・
     台風一過で、真夏のような暑さもやわらぐでしょう・・


          ・・・・・

 

(80)コスモス(秋桜)

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     (80)コスモス

 秋の花といえば先ずコスモスですね。
 「秋桜」と言うくらいに、爽やかで楚々たる風情が日本人の心と風景にマッチしています。


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 コスモスはキク科の一年草で、原産地はメキシコですが、明治中期に渡来して以来、すっかり日本の風土に根付いてしまいました。
 コスモスは夏の強烈な日差しに耐えて、日照時間が短くなるにつれて開花します。
 それに茎が倒れてもその茎からまた根を出す、という強い植物です。


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 「コスモス」は、ギリシャ語で調和・善行・名誉・宇宙などの意味があるそうですが、そんな意味は知らなくても、とにかく爽やかなきれいな花です。


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             晴天や コスモスの影 撒き散らし   鈴木花蓑
   

 花にも色々ありますが、コスモスほど花の色が多様なのも珍しいですね。次々に園芸種が生まれて居るんでしょうね。
 自然的になのか、人工的になのか、わかりませんが。。

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    ○ キバナコスモス

大正期に渡来した外来種の「黄花コスモス」も晩夏から秋にかけてよく見かけます。
 

                     (吉野ヶ里にて。。) 
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   「黄花コスモス」はコスモスとは別種で、メキシコの原産。
     大正初期に日本渡来した外来種です。最近はあちこちで野生化しているようです。


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  黄花コスモスはコスモスと同じくキク科の一年草で、明るい黄色かオレンジ色をしています。
 花は一重と八重咲きがありますが、園芸種として出回っているのは殆ど八重咲きです。
 花期は長く、夏から秋ににかけて真っ黄色の花が青空によく映えています。


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                         コスモスを離れし蝶に谷深し   水原秋桜子 
 

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  *台風一過、急に涼しく・・というよりも肌寒くなりました。 
    慌ててまた長袖を引っ張り出しました。夜具もそろそろ夏布団から 羽毛布団に衣替えか。。
    

(36)秋が来た

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     (36) 「秋が来た」   

暑い、暑いと言っている間に、台風一過、急に秋めいてきました。 
冷気とともに草木の勢いも衰え、枯葉が目立つようになりました。
年寄りには爽やかというよりも、むしろ秋風が身に沁む思いがします。

                 秋風の吹きわたりけり人の顔    鬼貫

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                         (天山山頂)

 ○「秋の子」  サトーハチロー  

     すすきの中の子 一、二の三人
     ハゼ釣りしてる子 三、四の五人
     どこかでやき栗 焼いている
     つばきをのむ子は 何人だろな

     柿の実見てる子 一、二の三人
     さよならしてる子 三、四の五人
     ご飯になるまで おもりする
     おんぶをする子は 何人だろな

     日暮れに走る子 一、二の三人
     風呂たきしてる子 三、四の五人
     こおろぎあちこち 鳴きだした
     さみしく聞く子は 何人だろな 

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                                              (夕焼け・・中島潔、画)


  ○「小さい秋みつけた」 サトーハチロー

    誰かさんが 誰かさんが
    誰かさんが みつけた
    ちいさい秋 ちいさい秋
    ちいさい秋 みつけた

    めかくし鬼さん 手のなるほうへ
    すましたお耳に かすかにしみた
    よんでる口笛 もずの声
     ちいさい秋 ちいさい秋
     ちいさい秋 みつけた

    誰かさんが 誰かさんが          イメージ 4
    誰かさんが みつけた
    ちいさい秋 ちいさい秋
    ちいさい秋 みつけた
    お部屋は北向き くもりのガラス
    うつろな目の色 とかしたミルク
    わずかなすきから 秋の風
     ちいさい秋 ちいさい秋
     ちいさい秋 みつけた

    誰かさんが 誰かさんが
    誰かさんが みつけた
    ちいさい秋 ちいさい秋
    ちいさい秋 みつけた
    むかしの むかしの 風見の鳥の
    ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
    はぜの葉あかくて 入り日色
     ちいさい秋 ちいさい秋
     ちいさい秋 みつけた


   ○「秋のおとずれ」    大岡博 作詞

   みょうがの葉かげの みょうがの子
   あるかなきかの 秋風に
   あかいちいさな 芽をだして
   そっとのぞいて よんでいる
   水あさぎ色の 秋の空
     秋が来たのだ 知らぬ間に
     秋が来たのだ 知らぬ間に

   萩の葉かげに 萩の花             イメージ 3
   風にこぼれる 朝つゆに
   ぬれてひっそり ゆれながら
   だれかいるかと よんでいる
   子牛がないてる 秋の朝
     秋が来ている 知らぬ間に
     秋が来ている 知らぬ間に

   栗の葉かげの いが栗の
   雲のながれる 朝空に
   もういいかいと 手をふって
   秋をゆすって よんでいる
   山の向こうの 秋の海
     秋が来ていた 知らぬ間に
     秋が来ていた 知らぬ間に


   ・・・・・

  *明日はゴルフと楽しみにしていたのに、友達3人がいずれも止めると言い出した。
    やはり年だなぁ‥これが最後のラウンドだと意気込んでいたのに・・
    な~んだ。なんだ。。 ガックリ・・
    やっぱり我らが人生にも秋の訪れが来たらしい・・ トホホー

         この道や行く人なしに秋の暮       芭蕉




(37)秋の雲

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     (36) 「秋の雲」

  昨日は雲一つない秋晴れだったが、今日が雲が多い。
  しかし、風のおかげで流れる雲が美しい。
  もうすっかり秋だなぁ・・

      秋きぬと目にはさやかに見えねども
        風の音にぞ  おどろかれぬる   (古今集.藤原敏行)

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 ○ 「赤とんぼ」  三木露風 作詞

     夕焼け小焼けの 赤とんぼ
     負われて見たのは いつの日か   イメージ 2
     山のはたけの 桑の実を
     小かごにつんだは まぼろしか
 
      十五でねえやは 嫁にゆき
      お里のたよりも たえはてた  
      夕焼け小焼けの 赤とんぼ
      止まっているよ 竿のさき
 
     
https://youtu.be/IStcz8ixE8w
                        倍賞千恵子

 ○「もずが枯れ木で」 サトーハチロー

     もずが枯れ木で ないている           
      おいらは藁を たいている
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      わたびき車は おばぁさん
      コットン水車も 回ってる

        みんな去年と同じだよ                 
        けれども足んねぇ ものがある
        兄さの薪(まき)割る 音がねぇ
         バッサリ薪(まき)わる 音がねぇ

        兄さは満州へ 行っただよ
        鉄砲が涙で 光っただ
        もずよ 寒いと鳴くがええ
        兄さはもっと 寒いだろ

 

 ○ 「秋風の中で唄う」  サトーハチロー

    秋風の中で わたしは唄う          イメージ 4
     森でみつけた くるみのからに
     黒い涙の しみがある
     秋にないてる かけすの声が
     なぜかこの頃 かすれてる
     それをそれを それを私は唄う

    秋風の中で わたしは唄う
     草にかくれた うさぎの影が
     むねに寂しく 残ってる
     道についてる 草履のあとを
     リスが二匹で かぞえてる
     それをそれを それを私は唄う

     秋風の中で わたしは唄う
      枯れてよじれた ブドウのつるを
      うすい入日が なぜている
      白くぼやけた 遠くの壁が
      今日に別れを 告げている
      それをそれを それを私は唄う

                             ・・・・

 *ゴルフの予約を取り消したら、なんだか勿体ないような気もするし、少しほっとした部分もある。
さすがに90を越したら気分的にもやや意欲が落ちてきて、何事も面倒で億劫になってきた。山やゴルフで鍛えた腕や腿にも張りが無くなってきた。やはり老化は否めないなぁ。。
 今夜は飲み会だ、楽しく飲んで来よう・・

      ・・・・・
。。
 

(38)秋の月

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       (38)秋の月

  「秋の月」  滝廉太郎 作詞

      光はいつも 変わらぬものを   イメージ 2
      ことさら秋の 月の影は
      などか人に もの思わする
      などか人に もの思わする

        あヽ 啼く虫も おなじ心か
        あヽ 啼く虫も おなじ心か
        声の悲しき


 ○「レモンの月に」 
      多田由紀彦  作詞

     ゆうべ見た夢 ふしぎな夢
     知らないまちの 石だたみ
     あわいしあわせ たずねる胸に
     かぜがかなでる 遠い歌
      ひとりぼっちの さみしさを
      レモンの月に つぶやいた 
 
                                     (影絵・藤城清治)
 

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                                   (画・中島潔)
   
                    ゆうべ見た夢 ふしぎな夢
                    知らない海の 白い砂
                    あわいしあわせ たずねる胸に
                    波がかなでる遠い歌
                    ひとりぼっちの さみしさを
                   レモンの月に つぶやいた

                                     夜ごとに見る夢 ふしぎな夢
                                     知らない国の 雪の山
                                     淡いあこがれたずねる胸に
                                     ひとりさすらう 夢の道
                                   ひとりぼっちの さみしさを
                                    レモンの月に うちあけた


   * 「かぐや姫」 竹内利栄子 作詞

   
     竹やぶの 竹やぶの             イメージ 3
     竹の中から 生れ出た
     月のしずくの お姫さま
     光かがやく かぐや姫
     かぐや姫

     竹取りの 竹取りの
     おきなをたずねて 春がきて
     花と開いた お姫さま
     光かがやく かぐや姫
      かぐや姫

      十五夜の 十五夜の
      月の光に まねかれて
      ひとり旅立つ かぐや姫
      光かがやく かぐや姫
       かぐや姫

          
                                        
                                          (影絵・藤城清治)



           * 肌寒い秋の夕暮れです。。

                                              。。。。。。

(39)鉄道記念日

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           (39) 鉄道記念日

 
 今日は10月14日、鉄道記念日ですね。             
日本の鉄道は明治5年9月12日に、新橋駅 と横浜駅間で正式に開業しました。当時は国民の間で大評判になりましたが、始発は新橋駅だったので、その路線を伸ばして東京駅を作ろうという話が持ち上がりました。然し、あいにくの不況や日露戦争のおかげで計画は持ち越され、東京駅が実際に出来たのはずっと後の大正4年のことでした。

 東京駅の設計は、佐賀県唐津市出身の辰野辰吾氏で、本屋は約7千平方メートル、付属設備千5百平方メ-トルという巨大な左右対称の工法で作られ、東京の新名物になりましたが、昭和20年の東京空襲で焼失、外壁以外はほとんど燃え尽くしてしまいました。

 東京駅の誕生で、汽笛一声新橋を・・と、歌に歌われた始発の新橋駅は旅客ターミナルとしての役目を失い、その後巨大な貨物駅に生まれ変わりました。

  
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 鉄道建設が進むにつれて、1900年(明治23年)以降「鉄道唱歌」が東海道線から山陽、九州、さらに東北、北陸と次々に作られました。 一番有名なのは東海道線の歌でした。

      (一) 汽笛一声新橋を
          はや我が汽車は離れたり
          愛宕の山に入りのこる
          月を旅路の友として       (新橋)
    
      (二) 右は高輪泉岳寺              イメージ 1    
          四十七士の墓どころ
          雪は消えても消えのこる
          名は千載の後までも 
    
      (三)  窓より近く品川の
           台場も見えて波白く
           海のあなたにうすがすむ
           山は上總か房州か       (品川)
                                                                                  (最初の国産蒸気機関車)

 「鉄道唱歌」の替え歌も作られました。  
  当時の「一高寮歌・ああ玉杯に花うけて」のメロデーで・・
  
       ♪百里の山河一睡の
         夢を乗せゆく 汽車の旅
         げにや泰西文明の
         恵みを受くる我れ人は
         送迎応接いとまなき
         窓の景色を楽しまん
    
         汽笛一声東京を
         後に出て行く芝浜や
         左は遠く房総の
         沖に行きかう真帆片帆
         右手に名高き泉岳寺
         義士の昔を偲びつつ


 その後、鉄道唱歌は、全国を巡って続々と作られました。
 長崎本線の佐賀付近も九州編の歌の中にちょびっとだけ出てきます。

  (58) ふたたびかえる鳥栖の駅  イメージ 2
      線路を西に乗りかえて
      ゆけば間もなく佐賀の町
         城にはのこる玉のあと

  (59) つかれあびる武雄の湯  
          みやげにするは有田焼
          めぐる車輪の早岐より
         右にわかるる佐世保道

  
  (68) あしたは花の嵐山
          ゆうべは月の筑紫潟
           かしこも楽しここもよし
           いざ見てめぐれ汽車の友

(40)王妃の断頭台

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     (40) 王妃の断頭台

 今日10月16日は1793年にフランスの王妃「マリー・アントワネット」が、断頭台に上がった日です。 
 彼女はフランス国王ルイ16世の王妃で、1789年7月14日のバスチーユ監獄の襲撃が発端になって起こったフランス革命中の1793年10月16日に、ギロチンによる斬首刑によって死亡しました。

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 この日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行きました。彼女は髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていましたが、断頭台に登った時、死刑執行人の足を踏んでしまい「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ」と言ったそうで、これが彼女の最後の言葉になりました。

 ギロチン(断頭台)の処刑の時はふつう顔を下に向けますが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向けて上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという話です。

 16日の12時15分にギロチンが下ろされ刑が執行されました。
   享年37歳。。

                                          (断頭台の処刑)

     アントワネットについてはこんなエピソードもあります。

   ○ 「口笛の罪」
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  フランス革命の三年前の1786年の春、ブリタニア地方出身のマリー・アウグスティン候爵はパリの劇場でフランス王妃「マリー・アントワネット」を見かけ、彼女に向かって口笛を吹きました。

 王妃を冷やかしたのか、からかったのかはわかりません。要するに物のはずみとでも言いましょうか。しかし、この行為は「ルイ16世」を怒らせました。アウグスティン候は裁判を受けることもなく投獄されてしまいました。

 やがてフランス革命が起き、ルイ16世も王妃も断頭台の露と消えてしまいました。そこで、当然アウグスティン候も釈放されて当然でしたが、どういう手違かいっこうに音沙汰がなく、彼は獄中で悶々と日々を過ごし続けました。

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                                   (フランス革命・バスチーユ牢獄の襲撃)
  

  そして、「ナポレオン・ポナパルド」が皇帝になり、エルバ島に追放されてから、やっと一人の官吏がこの不幸な罪人のことを知り、釈放の手続きをとった、まではよかったのですが、今度はナポレオンがエルバ島からパリーに戻る、という大騒ぎになったものですから、その手続き書類も宙を迷ってしまい、今度も彼は出獄の機会を失いました。

 結局のところ、彼が「口笛ひとつ吹いた」という微罪のために、投獄されていた期間は50年間にもわたり、晴れて釈放されたのは1838年のことでした。22歳の青年だった彼は、出獄のときはもう白髪の老人になっていました。。


  *「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、世の中いろんなことが起こりますね。。
    愛犬のために、うっかり口笛も吹けません。

    今日は月一のミニ同窓会、付き添いの奥さんが三人見えたので、ようやく8名になり、
    ガキ時代に返って昔の思い出話に花が咲きました。
    でも、今まではホテルまで歩いて1200歩だったのが1500歩もかかったので、
    老いの進化を改めて自認した次第、50年も続けた同窓会もいつまで続くことやら・・


                 

(41)青空に残る実赤し木守柿

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       (41)  「青空に残る実赤し木守柿」

 いま、高い秋空のもとで柿の実が鈴なりだ。
今年は猛暑だったせいか、どこの家の柿も満作らしい。だが、実が小さい上にどんどん実が落ちる。ひところは毎日10個も20個も落ちて庭の中が渋臭くて困ったほどである。その上、せっかく赤く実った柿は家族連れのカラス一家に食べられて、人間様は踏んだり蹴ったりの有様である。

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          柿もぐと木に登りたる日よりなり
         はろばろとして背振山見ゆ    中島哀浪

 
  「柿」は中国や朝鮮にも分布しているが、日本で最も発達した果樹で、実を食用にするために古くから栽培され多くの品種が出来た。

イメージ 6 「柿・カキ」はもともと「渋柿」が原種で蜂屋、富士、西条、会津見知らず、四つ溝などの品種がある。子供の頃、うちの庭に高い渋柿があって、長い竹竿の先を割って、実をはさんで良くちぎったものだ。
 だが渋くてそのままでは食べられないので、小縄にぶら下げて干し柿にして食べたが、温かい年は乾燥しきらずに、青カビが出来て「骨折り損のくたびれ儲け」になることも多かった。やはり山間地の冷える所でないと干し柿は無理らしい。

 佐賀北郊の山麓地方では今も干し柿作りが盛んで、季節になると小学校で「カキ剥き大会」あったりする。柿の皮を剥くのには専用のカキ剥き包丁もあるが、むかしは日本カミソリや肥後守などの小刀をよく使ったものである。。干し柿はよく正月の途床飾りの「蓬莱山祭り」にも乗せるが、これは吊り柿のように顔にしわができるまで長生きをしよう、という意味らしい。
 (シランはまだ、吊り柿のようなシワはありませんぞ・・、念のため・・(^_^)/
  あ、そうだ、中学の国語の先生に渋柿というあだ名の先生がいたなぁ‥シブチン先生だった)

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                (ふるさとの干し柿作り)  画・南窓さん

 
  「甘柿」は鎌倉時代頃から、この渋柿から改良されたもので、御所柿、富勇柿や、次郎,禅寺丸、伽羅柿などの有名品種がある。

イメージ 3 今、うちの庭の柿はこの中でも古臭い「キャラ柿」である。
 この伽羅柿(キャラ柿)は佐賀地方の特産で、江戸時代の初めの頃からある昔ながらの柿である。しかも、樹齢が30年ぐらいにならないと甘い柿にならず、熟すと実の中に黒いゴマ状の粒々ができるのが特徴である。

それに実が出来て初めのうちは渋くて食べられず、ゴマが入って甘くなってもしばらくするとまた渋が戻って食べられなくなるという困った特徴がある。
 そのせいか伽羅柿は栽培品種にもならず、商品化も出来ず、今は農家の庭先などに植えられているのを時々見かける程度で、幻の柿ともいわれている。


         山柿の一葉もとめず雲の中    飯田蛇笏

 柿の語源は「赤き実・アカキミ」から「カキ」になったと言われているほど、秋の赤い柿の実は日本の秋を感じさせる。柿右衛門が真っ赤な柿の実の色を有田焼に再現しょうとして長年苦労した話は、昔の小学校の教科書にも載っていたが、それほど柿の実の赤い色はきれいだ、それに柿の葉の紅葉も実に劣らずきれいである。「柿紅葉」というくらいに赤、緑、茶色と色が入れ混じって赤き実にも劣らず柿の葉の紅葉は見事な秋の風物詩となっている。

 
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 柿は生食のほか未熟の実から渋を取って木材の防腐剤にしたり、材木は家具や器具の材料となる。 子供の頃母がうちの渋柿から渋を取って、風呂桶にその渋を塗っていたのを思いだす。渋を塗ってからしばらくは独特のいやな渋の臭いがして風呂に入るのが嫌だった。渋を取って甘柿にするのに、今は焼酎を振りかけるが、昔は風呂の中にお湯を沸かして渋柿を入れて温め、何日かおいて渋を抜いたものだ。今思うとなんだか不潔な感じがするが、昔は汚いというような思いをしたことはないから、やはりそんな時代だったのだろう。

 柿は栄養価が高く「柿が赤くなれば、医者が青くなる」という言葉があるほどで、柿の実にはタンニンが含まれていて、実のヘタは高血圧の薬として官報にも使われ、また豊富なビタミンCとタンニンが血液中のアルコール分を外へ排出してくれるので、二日酔いにも良く効くそうである。
  
 でも、タンニンを取り過ぎると、便秘になりやすいそうだから、
  みなさんもフンづまりには気を付けてネ。。(^_-)-☆

 
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                  青空に残る実赤し木守柿


 柿の実は熟れてもみんな取らずに最後に一つだけ残しておく風習があるが、これを「木守り柿」といい、鳥たちにも自然の恵みを分け与えるという意味だそうである.


          柿ひとつ空の遠きに堪えんとす     石坂洋次郎


 

(42)もみじ

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          (42) もみじ

   
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                                                 (九年庵)


     「もみじ」

  今日は朝から爽やかな青空が広がっています。
 絶好の行楽日和ですが、今年は暑すぎたせいか、どこもあまり紅葉していませんね。
 このまま枯葉になってしまうかしらん?

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                                              (仁比山・老杉のつた紅葉)


       「もみじ」   文部省唱歌

          ♪ 山の夕日に 照る山紅葉
             濃いも薄いも 数ある中に
                松をいろどる 楓や蔦は
                山のふもとの 裾模様


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           谷の流れは 散り浮く紅葉
           流れにゆられて 離れて寄って
           赤や黄色の 色さまざまに
           水の上にも 織る錦


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          行く川の 水の流れは絶えずして
            しかも もとの水にあらず 

          よどみに浮かぶうたかたは
           朝(あした)に死に 夕べに生まるるならい
           ただ 水の流れに似たりける
  
          知らず 生まれ 死ぬる人
            何方(いずかた)より来たりて 何方へか去る

                                 方丈記

(41)チョコレートの始まり

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      (41)チョコレートの歴史

 昨日、末の孫娘から、中学の修学旅行のお土産を送ってきました。
 京都の「八つ橋・おたべ」が5個入りで、500円くらいなのに送料がなんと720円・・
 でも嬉しいですね、ジイチャン、バァチャンにも送ろう・・というその気持ちが。。
   有難う!

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                            昭和14年・しらんの中学の修学旅行、京都の清水寺
         
       (山門の柱に、挙国一致・国威発揚という大きな垂れ幕が掲げてあった)


 ところで贈り物と言えば、すぐに思い出すのがバレンタインデーののチョコレート、誰が考えだしたのか??  このチョコレートを作り始めたのはいつのころでしょうか。。


   ○ 「チョコレートの歴史」
 甘くてホロ苦いチョコレートはほんとにおいしいですね、現代人の嗜好にぴったりです。
バレンタインデーに限らず贈り物に贈られると嬉しいものです。そのチョコレートはいつごろから始まったのでしょうか。 

 今日は10月28日、「メキシコの独立記念日」です。
 メキシコは古代から高度の文明を持っていて、数千年前のマヤの時代でも「カカオ」の栽培が行われていました。メキシコ神話によると、カカオは「ケッツァルコトル」という天上の神様がもたらしたもので、このカカオの実を加工して得られるココア・バターとカカオを混ぜ合わせ、これに砂糖や香味料を加えるとチョコレートが出来上がります。

 メキシコを征服したF・コルテスは、メキシコのアズテックの宮殿では「チョコアール」という苦みの強い飲み物が使われていたのを知りました。おそらくこの飲み物の名称は「ケッツアルコトル」という天上の神様の名前から来ていたのでしょう。この「チョコアール」と言う飲料が驚くべき強精剤であることを知り、スペインに持ち帰りました。スペインの貴族たちはこれを一種の秘薬として独占し、他国に伝わらぬように固く秘密を守りました。

 しかし、やがてこれがイギリス人の知るところとなり、1650年には最初の「チョコレート・ハウス」が出来て、作家のバルザックやカサノバなども愛用しました。ですから当時のチョコレートは飲みもので、値段も高貴薬なみの高価なものでした。

 今日のような「固形のチョコレート」の生産が始まったのは、1819年のスイスでしたが、これを高価な食品でなく、大衆的な菓子に転換したのはアメリカのM・ハーシーでした。ハーシーは「ミルク・チョコレート」を開発し、1904年から大量生産に乗り出しました。ペンシルバニアにあるハーシーの工場には9000万ポンドという、途方もない大量のカカオの実を貯蔵するだけの倉庫があるそうです。。

       
  *しばらくご無沙汰しました。
 年より夫婦は病院通いが多くて困ります。10月は佐賀医大や九大病院、耳鼻科、眼科、内科、歯医者さんなどなど、夫婦同伴であちこち院内散歩をしてきました。
でも、どうやら一段落したので、来月はあまり散歩せずに済みそうです・・

 今日から世界バルーン大会が開かれましたが、あいにくの激しい雨で、今日の競技は中止になったようです。

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(42)真田十勇士

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       (42)真田十勇士

 明日の夜はNHKの「真田丸」ですね。
いよいよ真田幸村が九度山を抜け出て大阪城に入り、徳川の大軍を相手に華々しい戦いを繰り広げます。

   「真田十勇士」

 慶長19年、(1614年)10月6日、豊臣方に乞われて真田幸村は手勢を引き連れて大阪城に入りました。それまでの九度山では家来たちに真田紐などを行商させたりして、細々と隠遁生活を送っていましたが、これで最後の晴れ舞台となりました。

イメージ 4 大阪方のスカウト代は50万石、もちろんこれは成功報酬で、首尾よく大阪方が勝ったらの話ですから、負けたら元も子もない話です。もとより幸村もこの戦に勝てるとは思っていませんでしたが、おそらく、これまでの貧乏生活にうんざりしていたので大阪城に入城したのでしょう。。

 1615年・元和元年5月、大阪夏の陣で真田勢は華々しく最後の総攻撃をかけ、徳川方の正面を突破して家康の本陣にまで迫りましたが、間一髪の差で家康は助かりました。

 幸村と言えば猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道などの忍者や豪傑を揃えた「真田十勇士」の話を思い出しますが、この中でほぼ実在したと思われるのは、わずかに穴山小助、根津甚八、海野六郎の三名にしか過ぎず、あとの7人は講談師の立川玉秀斎が作った「立川文庫」の創作だそうです。猿飛佐助についても、甲賀流忍術・五十三家の系図を調べてみても、佐助に相当する人物は見当たらなかったとか。。


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 私の子供のころに、立川文庫という小さな講談本があり、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道・・などという「真田十勇士」の豪傑、忍者が活躍して、少年の胸をおどらせました。


 「立川文庫」は今の文庫本よりちょっと大きめで厚く、表紙には大きなガマの上に乗った忍術家の猿飛佐助や霧隠れ才蔵が両手をならべて胸の前でコブシを握り、ドロンドロンと印を結んでいる絵が描いてありました。



イメージ 2 印を結ぶと途端に、ドロンドロンと煙が出て、ガマの上の霧隠才蔵はあっという間に消えているんです。これを火遁の術とか、水遁の術とか言って、子供の頃は遊びの中でよくドロンドロンとやっていました。

 立川文庫には真田十勇士のほか、後藤又兵衛、宮本武蔵、水戸黄門、荒木又右エ門、柳生十兵衛などの剣客や豪傑の話が多く、波乱万丈の痛快な話は少年たちの胸を躍らせました。

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  *昨日の雨はどこへやら、今朝は絶好のバルーン日和で、朝いちばんに色とりどりのバルーンたちが嘉瀬川河川敷を飛び立ち、ドロンドロンと雲の彼方に消えていきました。

 世界大会は十日間もあるので、昨日、今日はまだ公式練習だそうです。今日はそのうちの一機が、JR臨時駅の架線に引っかかり、ひやりとしましたが、パイロットは無事だったようで一安心。

       ・・・

(81)ソバの花

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      (81) 「そばの花」

  弥生時代の遺跡「吉野ヶ里」の木柵と環濠に囲まれた「ムラ」では、当時稲作をしていた跡が残って居ます。国立歴史公園の「南のムラ」では、いま赤米とソバ、ミズイモなどが栽培されており、広大なソバ畑に立つと遥か遠く2千年前の弥生人の生活が偲ばれます。

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              そばの花 山傾けて 白かりき    山口青邨

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   〇「ソバの花」

  「蕎麦・ソバ」はタデ科の一年草でアジア中北部の原産、日本には朝鮮を経て渡来しています。
 涼しい気候の山地に適し、やせ地でもよく生育します。

 蕎麦は茎の高さ50~90センチくらいで、秋に白い小さい花をたくさんつけます。
一つ一つの花の寿命は1日ぐらいですが、代わる代わる咲くので30日以上も咲き続け、ミツバチの蜜源として重要視にされています。

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 ソバはまた花の後の実を挽いて、そば粉を作って食用にします。
 昔はその実の殻もソバガラとして枕に詰めて使いました。


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                                                 (そばの実)       

       〇 「赤ソバ」

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  昔からソバは白いものと決まっていましたが、最近は観光用の赤いソバも目立ちます。
 ソバとは言っても赤ソバは「高嶺ルビー」と呼ばれるもので、ヒマラヤ地方から信州大学の先生たちがこの実を持ち帰り、品種改良をしたものです。

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 赤いソバ畑は大変美しく、観光用として最近公園などで栽培されていますが、実の収穫量がが白いものより三分の一と少なく、味も食用としては今ひとつだそうです。


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   *永らくご無沙汰しました。
 老々生活なので、買い出しや医者通いなど、何かと身辺雑事に追われて、なかなか書き込みができません。10年来、毎日ブログの更新を欠かしませんでしたが、やはり年には勝てません。
 今日もまぶしいくらいの青空ですが北風が冷たく、あわてて二人がかりでコタツやストーブを取り出しました。 どっこらしょっと。。

 昨日まで10日間、佐賀、嘉瀬川の河川敷で熱気球の世界選手権が行われていましたが、好天に恵まれてやっと終了しました。今まで、20年くらい毎年ビデオやカメラ持参で、朝早くから出かけたものですが、もうこの年では体力も気力もありません。
 昨日は二階の物干し台から、はるか遠くに飛んでいく50機くらいのバルーンをビルの谷間にぼんやりと垣間見て、感無量でした。

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。。。。。

(82)チャノキ

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       (82) チャノキ

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 茶の若葉は初夏に摘みますが、花は秋の10月~11月に咲きます。 
 「チャノキ」は葉を飲用にするツバキ科の常緑低木で中国南西部の山岳地帯ややチベットが原産です。

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 中国では紀元前十世紀の周代にすでに薬用として用いられ、日本では「僧・栄西」が12世紀前半に宋から種を持ち込み,宇治で植栽したのが始まりと言われています。

 茶の花は白色の五弁で、中心に金色のおしべを沢山持っていて、芳香を放ちながら少しうつむいて咲いています。

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 「緑茶」は新茶を蒸して手モミで乾燥させたもの、「抹茶」は新茶を臼で挽いて粉末にしたものです。また十分発酵してから乾燥させると紅茶になり、半発酵でやめるとウーロン茶などの中国茶になります。

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                     茶の花の ほのとゆくての 夕がすみ   飯田龍太


                         *秋の陽はつるべ落とし・・

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 *今日はあいにくの小雨模様で、つるべ落としの夕日は見られませんが、
    やっぱり日の暮れるのが早いですね。
   朝のうち例のごとくJAとイオンの買い出し。
   相変わらず野菜が高いですねー。小さいレタスが300円、キュウリが一本百円も。。@@/
    仕方がない・・モヤシでもパクつくか。。

 

(83)野菊

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         (83)野菊

 すっかり秋らしくなって、野道では「野菊」の可憐な花が目につきます。
先日ゴルフ場で見かけましたが、これは「ヨメナ」でしょうか。

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     〇 ヨメナ

  「ヨメナ」は道端でよく見かける野菊の一種でキク科の多年草です。秋に2センチほどの薄紫色か白い菊の花を付けます。
 本州中部以南から四国、九州にかけて広く分布し、平地から低山のやや湿った所に地下茎によって小群生を作っています。。
 ヨメナは漢字では「嫁菜」と書き、美しい可愛い優しげな花が咲くので嫁菜の名がついたと言います。春先の若菜はおひたしにすると美味しく、又「よめなご飯」もよく賞味されています。

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   〇 「紫苑・シオン」
    
 もともと「野菊」と言う言葉は野生の菊の総称で、特別に野菊という草花があるわけではありません。  その野菊の代表格「シオン」はキク科の多年草で、東アジアの原産です。                
 シオンは漢名を「紫苑」といい、この音読から「シオン」となりました。 

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   紫苑の栽培の歴史は古く、日本でも万葉集には別名の「鬼の醜草・オニノシコグサ」
 古今和歌集には「シオニ」枕草子や源氏物語には「シオン」の名が出ています。
 また別名では十五夜草(じゅうごやそう)という呼び名がありますが、昔は秋の名月をシオンの花の間から眺めたのかも知れませんね。
  草丈は2m近くにもなり、秋になるとすらりと伸びた茎の先に薄紫色の可憐な花をたくさんつけています。

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 昔から秋を伝える花として観賞用に庭に植えられたり、生け花や茶花としても使われてきました。花の薄紫色がとてもきれいで、「紫苑色」という色の名前に使われています。
    シオンの花言葉は『君を忘れず』です。


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 昔、「野菊のごとき君なりき」という映画がありましたが、これは伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を映画化したものです。学生時代、感傷的な友人のSがこの「野菊の墓」を読んで民子の儚い死に涙していたことを思い出します。  お互いに、まだまだ純情な若者でした。
  この小説の野菊は「シオン」だったという話があります。

 
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  身辺雑事に追われ、しばらくブログの更新を怠けて、皆さんにご心配をおかけしました。
 90を過ぎたら年相応に背骨が曲がり始め、歩くと足腰少々痛いですが、まだまだ元気ですよー。
 先日は、最後のゴルフと思って友達三人で頑張りました。

    
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          (同級生でも、足の長さは長短とりどりです。中庸は徳の至れる也・・)

                 。。。。

 

(84)つわぶき

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             (84) 「つわぶき」

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 バルーン大会の時は、一週間も秋晴れが続いたのに、終わったとたん曇りばかり、今日は昼ごろからしとしとと小雨が降り出しました。
その暗い小庭の隅に、今「ツワブキ」の花が咲き誇って、あたりを明るくしてくれています。

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 「ツワブキ」は本州中南部から台湾の一部にかけて分布するキク科の常緑多年草です。
葉が蕗(フキ)に似ていて艶があるので「艶蕗・ツヤフキ」となり、また葉に厚みがあるので「厚葉蕗・アツバフキ」から「ツワブキ」という名前がついたとも言われています。

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 「ツワブキ」は晩秋から冬にかけて花茎を伸ばし、菊に似た黄金色の一重の花を咲かせます。葉も花も美しいので観賞用になり、蕗と同じく葉の茎は食用になります。
 また、根はフグやカツオの中毒の薬となり、葉の青汁は魚毒や打撲、火傷にも有効だそうです。
    
                  
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                                   (蝶はツマグロヒョウモンのようです)


            黄なる蝶 放ちて石蕗(つわ)の いよよ黄に    松尾いわお



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             石蕗(つわ)に虻(あぶ)来る日よ四辺澄みわたり   星野立子

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                                             (花あぶ)                        


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                    (しじみ蝶)


                       さびしさの目の行く方や石蕗(つわ)の花     蓼太


*アメリカの大統領選、びっくり仰天ですね。まさか・・
 このグローバリズムの現代世界に、百年も前の孤立的モンロー主義が復活するなんて・・
 やはり歴史は繰り返すのかなぁ。。

アメリカの大統領には核兵器のボタンを押す権利がある。日本にも核兵器の開発や軍備拡張の機運が生まれるかもしれない。経済面だけでなく、世界情勢に衝撃を与えたトランプの登場・・、

 でも 「世の中ははったり・・」と言っているから、選挙中の暴言は果たして本音かどうか。。
  日本にとっても案外手ごわい曲者のようですね。
  日本は、世界は、どこへ行くのだろう。。

   シランは、今夜は冷たい雨の中を飲み会に行きます。。(^_^)/

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(43)沢庵の日

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  今日は11月11日、沢庵の日だそうですね。
 1111が、ちょうど(大根を並べて干しているように見える)、というだけの単純な発想です。
 では、その沢庵の始まりはいつ頃の事でしょうか。

   (43) 「沢庵の起源」
 
イメージ 1 昔の日本人の食事に欠かせなかった「たくあん」と言えばすぐに思い出すのは、吉川英治の小説「宮本武蔵」の中の「沢庵和尚」ですね。

 1609年〈慶長十四年〉にいわゆる紫衣事件が起こり、朝廷と幕府との間の政治問題に巻き込まれて沢庵和尚〈1645年・正保2年・12月11日没〉は出羽の国、上ノ山に流されました。
 今日の山形市郊外の山の上温泉です。


 ここでは他の北国の農村と同じように、雪深い冬にそなえて秋口から野菜の漬物が作られていました。流刑中の沢庵は農家の人々と共に研究工夫を重ね、干し大根を糠と塩で漬ける「貯え漬け」を考案しました。 

  冬の間のビタミンC補給源としてこれは見事な保存食品でした。その後、罪を許されて、沢庵は江戸品川の東海寺の住職になりましたが、ある日、三代将軍家光がこの寺を訪ねてきました。
 急なこととて接待の方法がなく沢庵は「貯え漬け」で家光をもてなしたところ、家光はたいへん喜んで「これからは之を『沢庵漬』と呼んだらよかろう」と言いいました。これが「沢庵漬け」の始まりです。

  なお、沢庵にはこんな歌があります。

       たいこうのものとは聞けど 糠みそに
        打ちつけられて しほしほとなる

 これは、「たいこう」は大香、つまり大根のことで、これを糠みそ漬けにするとさっぱりと漬けあがるという意味です。沢庵がどれだけこの沢庵に興味と自信を持っていたかがわかります。だいたい、このころの白米は新製品で、それまではみんな玄米を食べていました。玄米の精白によって得られた米ぬかを漬物に利用したのが、いわば沢庵漬けの技術革新のミソだったのです。

 なお戦後、愛知県の渥美半島の農家が沢庵の大量生産に乗り出しました。もともと渥美半島の土質が大根の栽培に向いていたのと、冬の季節風が大根の天日干しに向いていたからです。そこで昭和50年ころまでは年間に1億数千本の沢庵漬けを作っていました。しかし昭和50年代以降は沢庵の需要の減退と渥美半島の農産物の多角化に伴い次第に減少して、「渥美たくあん」は今はブランド品として僅かに残って居るだけだとか。。

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                                          (大根市場・・昭和28年)



*最近は漬物も福神漬やシバ漬、キムチなどと多様になって、あの黄色い沢庵は少なくなりました。
   昔の遠足には、おにぎりに沢庵、ちくわ・蒲鉾は欠かせなかったのですが・・



(44)スカートのはじめ

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    (44) 「最初のスカート」

 中世まで西洋の婦人の服装はワンピースでしたが、16世紀の半ばごろから、ツーピースになってスカートが独立しました。 尤も、スコットランドのキルトのような男が着る例もありますから、一概にスカートは女性のものと決め付けるわけにも行きません。

              
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                                                     (男だってスカートだい~。。)
 

  19世紀には、西洋人形のように針金やクジラの骨でふくらませた構造物をスカートの下にはくスタイルが登場しました。それを始めてみた万延元年遣米使節の一人は「腰より下は鯨骨にてわが日本の提灯の骨のごとくになせるポープスカレンヌと言うものを付け、大なるに至っては裾のところに差し渡し三尺余に及び、足の見えざるが如く、長し!」と記録しています。



イメージ 1 日本女性で始めてスカートをはいたのは、山川捨松、津田梅子、上田貞子、永井繁子、吉益亮子の少女5人で、最年長の吉益、上田は15歳、最年少の津田にいたっては、わずかに6歳(なんと小学1年生です)、彼女たちは維新後最初の留学生でした。

 この少女グループは1871年(明治4年)11月12日に横浜を出港し一路アメリカに向かいました。幼い少女たちなので心配する向きも多かったのですが、彼女たちの順応力はすばやく、アメリカ到着と同時に洋服に着替え、アメリカ式の生活様式を身につけました。



 この中の一人、「津田梅子」は11年間をアメリカで過ごし、有名な「津田英学塾」現在の津田塾大学を開いたのはみなさんご存知の通りです。。


  * 以来、スカートの長さは上がったり、下がったり・・・
     バルーン同様です。。

                           (スカートめくりはご法度ですぞ)  
 
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(45)生類憐みの令

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       (45) 「生類憐れみの令」

 今日は11月13日、あの有名な将軍綱吉の「生類哀れみの令」が本格的になったのが、1695年(元禄八年)11月13日でした。

 綱吉は中野の16万坪の土地に囲いを設けて、その中に野良犬を収容しました。なにしろ、鳩に石を投げただけで罰せられるのですから、もし野良犬を行き倒れにでもさせたら、さぁ大変です!

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                                                      (エヘヘー)
 
 飢えた犬や病気の犬などを、腫れ物にさわるように細心の注意を払いながらこの収容所に運んできました。数えてみたら、なんと10万匹。これに一匹あたり2合5勺の米を支給するのです。だから一日になおすと、250石、一年では8万石、これに100人近い保護係りの人数を当てたのですから、生類憐みの令による経費も相当すさまじいものでした。

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 しかし、綱吉の「生類憐みの令」のような動物愛護精神はイギリスにもありました。「王立動物愛護協会」がそれで、犬、猫はもちろんのこと動物たちに暖かい援助の手を差し伸べ、万一動物たちを虐待したりすると、協会から大変なお叱りを受けるのです。

                                     (犬猿の仲・どちらに味方しょう?)
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 ロンドン近郊のある金魚屋サンは、自分でもこの愛護協会員でしたが、夜自宅に帰るときも金魚たちを店に残しておくのは可哀想だと、協会本部に「毎日金魚を入れた水槽を車に積んで通勤してよろしでしょうか」と問い合わせたところ、答えは「ノー」でした。

 その理由は、そんなに車に乗せたら、「金魚が船酔いしてかわいそう!」だというのです。
 こちらは綱吉のように17世紀の話ではなく、近代の話なんだそうですよー。。。

 
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                                              (おれはえらいんだよー) ワンワン

          。。。。

(46)煙草の話

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     (46) 「タバコ四方山話」

 煙草を吸いだしたのはいつの頃だろう、学生時代に先輩が飲んでいるのを見て、興味本位で下宿でこっそり飲んでみたが、のどが痛くてこまった。だが、いつの間にやらまた吸い出してやめられなくなってしまった。夜、煙草が切れると矢も楯もたまらず、朝一番に煙草屋に駆け込んだものだ。
 体Ðには悪いと思いながら、なかなか止められないのがタバコである。
   戦時中は一般には光」だったが、「鵬翼」という勇ましい煙草もあった。

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  1612年8月6日に、江戸幕府はタバコを吸うこと、および牛を屠殺することを禁じました。
このころには、ほとんど徳川家の支配体制は確立しており、家康としては秀吉まで続いた開放政策から鎖国体制への切り替えを始めたところでした。そこで外来の習慣である肉食と喫煙を禁止することにしたのでしょう。

  もともとタバコの日本への渡来は1605年であったのに、あっという間に喫煙の習慣は広がってしまいました。これに先立って1609年にも禁煙令が出ています。しかし、禁煙令だけではあまり効果を挙げることができなかったようです。

  
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                                       (みのりは刻み煙草でキセルでのみます)


 ところで「タバコ」という言葉は、その原産地であるメキシコの「タバスコ」という地名から来ていますが、タバコの葉を巻いて作ったいわゆる葉巻タバコ(シガー)はマヤ文明のなかで「喫煙」を意味する「シカッル」という言葉から転じたものです。ただし、これは今日でもそうですが、おおむね、お金持ちが吸うもので、値段も高いものでした。

 その吸殻をセビリアの乞食たち拾って、紙で巻いたのが、紙巻タバコ(シガレット)の始まりで、はじめはパブリードと呼ばれていました。ちなみに「シガレット」という言葉が使われるようになったのは1814年、ナポレオンのスペイン遠征中のことで、そのときにフランス兵が紙巻に親しみ、シガレットという言葉はまずフランス語として習熟しました。

 一方、イギリス人がシガレットを好むようになった契機はクリミヤ戦争でした。この戦争でイギリス人はトルコ産のタバコの味を覚え、シガレットはここで社会階級の壁を破ったのです。
とりわけ1873年の経済危機は、それまでシガレットをくわえていた人びとをシガレット党に転じさせる大きな役割を果たしました。。。


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*葉巻の吸殻を拾って紙巻タバコにしたそうですが、紫蘭が陸軍病院にいたころは、候補生にはタバコの配給がなく、一般兵が捨てた吸殻を拾って、紙に巻きなおして吸ったりしました。
 今では考えられない卑しい行為ですが、「煙草のみ」の卑しさはタバコが切れた人でなければわかりません。
 戦後はたばこは配給制で、紙巻煙草でなく刻み煙草でした。そこでアルミ製の煙草巻き器やキセルが流行りました。煙草を巻く紙は、コンサイスの英和辞典が最適で、ほかの紙ではのどが痛くなって飲めません。 ですからシランの古い英和辞典は後ろの方から破り取られています。

   予備士に居るとき、足を怪我して入院中に、中隊長の賀陽宮邦壽王殿下が見舞いに来られ、後で「恩賜の煙草」をいただきました。菊の御紋章がついていて、もったいなくて復員するまで飲まずに大事に取っておきましたが、戦争が終わって取り出してみたら、カビが生えていて苦くて飲めなかったです。

      ♪ 恩賜の煙草 いただいて
         明日は死ぬぞと 決めた夜は
         広野の風も なまぐさく
         ぐっと睨んだ 敵空に  
         星がまたたく 二つ三つ

                        (恩賜の煙草)
イメージ 2

 シランはある年の7月1日、突如として感ずるところあり、その日のうちに禁煙してからもう、50年以上になります。煙草の肉体的な影響はは20年以上続くそうですが、50年もたつのでもう煙草の被害はないでしょう。


  *昨夜は70年に一度というスーパームーンの名残りで、宵のうち東の空に大きな真っ赤な月が見えていました。  12時、就寝時に庭に出て空を見上げたら、すでに天上近くに澄み渡った満月が浩々と輝いていました。

 軍隊に入るとき友達と別離の盃を交わして、深夜の御堂筋を蹌踉とした足取りで、下宿まで歩いて帰ったのを思い出しました。あの時も皓々たる満月が舗道に我が身の影を映し出していました。
 あれから70年、あの月もひょっとしたらスーパームーンだったかも・・


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