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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満15年、みなさんのおかげで来訪者も51万名を越えました。 1月3日で95歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「95歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  みなさん、これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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           (125) カンゾウ

       萱草(カンゾウ)には、一重と八重のものがあります。
       一重の萱草は「ノカンゾウ」で、八重咲のものは「ヤブカンゾウ」です。

          * 「野萱草・ノカンゾウ」

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     「ノカンゾウ」はユリ科のワスレグサ(ヘメロカリス)属の多年草で、本州、四国、九州の少し湿った草原や川岸に自生しています。
     7月から9月にかけて、オレンジ色の赤っぽい花を咲かせますが、朝咲いて夜にはしぼむ一日花で花は一重の六弁で、花の色は濃淡さまざまで変化も多いです。 

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           * 同じユリ科の「ニッコウキスゲ」もカンゾウと同類です。

                                                   ニッコウキスゲ  (白山にて)
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                   萱草(かんぞう)の一輪咲きぬ草の中    漱石 
     

            *    【八重咲きのヤブカンゾウ】   

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      八重咲きの「ヤブカンゾウ」もユリ科の植物で中国の原産ですが、今は田の畦や路傍などのほか、日本のどこの山野でも見られます。 

     漢名の萱草(カンゾウ)は「この美しい花を見ていると憂いを忘れてしまう」と言う故事からきた名前で、別名「忘れ草」とも言います。
     また、朝咲いて夕方には閉じてしまう「一日花」なので、その儚さから、「
    すぐ忘れられてしまう草」という意味もあるようです。


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     杜甫の詩や日本の万葉集にも見られるように、真夏の濃い緑一色の中の、鮮やかな黄橙色はひときは目立ちます。    
        
        忘れ草 我が紐(ひも) に付く 香具山(かぐやま) の
          古(ふ) りにし里を 忘れむがため       
           (万葉集)  大伴旅人


     当地では田植えの終わった後のことを「さなぼり」といいますが、カンゾウがこの「さなぼり」の頃に咲くので、「田祈祷花・タキトウバナ」と呼ぶ地区もあります。

     若芽や葉はお浸しや煮物として料理になり、根は乾燥して漢方の利尿薬として用いられます。


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            萱草(かんぞう)も咲いたばってん別れかな    芥川龍之介  
        
     

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                  (126) ヘメロカリス      

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     「ヘメロカリス」 はユリ科の多年草ですが、日本や中国原産の「ノカンゾウ」「ヤブカンゾウ」がヨーロッパなどで品種改良されて出来た園芸品種です。
     
     花は一日でしぼむ一日草で、英名では「デイリリー」と呼ばれて居ます。一日でしぼんでしまいますが、次々に花が咲くので長い間楽しめます。

                                        【ヘメロカリスは色とりどり・・】 

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     ヘメロカリスはユリ科の園芸種なのでクリーム色、黄色、赤、オレンジなど花色も多く、
    ユリに似た美しい大きな花が咲きます。  


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                         百合のしべ みなりんりんとふるひけり    川端茅舎 


       *朝のうちは雲が多くて涼しかったですが、昼過ぎてからカンカン照りで暑さが戻ってきました。
      ようやく長かった梅雨も明けたよです。
      庭木のクマゼミがワシワシと腹をふるわっせて、いっぱい鳴いて居ます。
      これからが夏本番、タイヘンです。。




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        (127) キツネノカミソリとタヌキノカミソリ


            * 「キツネノカミソリ」      

      初めて、キツネノカミソリを見たのは,佐賀・多良岳中腹の林の中でした。
     登山中、人気のない草むらに、突然鮮やかな狐色の花が群生していてびっくりしました。
     狐に化かされたような気持ちでした。

                           【草むらに鮮やかなキツネノカミソリが忽然と・・】 

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      「キツネノカミソリ」 は本州から九州に生育するヒガンバナ科の植物です。
    早春に水仙に似た葉を出して、夏にはその葉が枯れてしまい、そのあとで花茎が出て8月ごろに花が咲きます。 ヒガンバナ同様、花が咲いても葉がありません。

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     ただ、「彼岸花」はお彼岸ごろに花が咲きますが、「キツネノカミソリ」はお盆ごろに花が咲きます。   また、彼岸花は人里近くの草原に生えますが、キツネノカミソリは明るい林の中に咲いています。
      
     名前の由来は、葉の形がカミソリに似ているからです。
     或いは、葉がなくて花だけが突然咲きだすのが、狐にだまされたような変な感じがするからかも知れません。


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                * 「タヌキのカミソリ」

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      「キツネノカミソリ」 によく似た花に 「タヌキノカミソリ」 があります。同じくヒガンバナ科の多年草で中国の原産。日本には自生していませんが、観賞用として移入されています。
     「タヌキノカミソリ」とは「キツネノカミソリ」を意識したネーミングでしょうが、正式名は「リコルス・インカルナタ」と言います。

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     始めて見たときは夏水仙」か、と思いましたが少し違うようです。
     淡い紅紫色の花弁の真ん中に、濃い紅紫色の筋が一本通っているのが特徴です。

     開花は8月~9月、草丈は50㌢くらいで花が咲くころには葉が枯れてしまっています。花だけが忽然と残っていると、やはり狸に化かされたような気分になります。


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     *昨日の75年来、日本で一番遅い梅雨明け宣言で、九州もいよいよ夏本番。
       今日はよく晴れました。 洗濯物もパリパリ。。
       じっとしていても汗ばむ暑さ、たまらずエアコンのお世話になりました。

       日本人の平均年齢が女性は86歳、男子も80歳を超えました。
       紫蘭も平均年齢の向上にいささか貢献しているかも。。
       果たして喜ぶべきか。。
       
     

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  • 07/31/15--01:58: (128)夏水仙

  •          (128) 「夏水仙」    

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      「夏水仙」はヒガンバナ科の多年草で、、中国から来た帰化植物です。夏に咲いて葉が水仙のようなので「夏水仙」の名前があります。タヌキのカミソリによく似ていますが、花茎が大きくて長く、花も大柄です。花びらの濃い縦線はないようです。


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     「夏水仙」は日本では、北海道を除く全国の人家の近い里山付近に生育しています。
     花は8月ごろに高さ60センチくらいの花茎をのばして淡紅色のラッパ状の花を数個咲かせます。

     ヒガンバナ同様春に出た葉は夏には枯れてしまい残っていないので、花だけが伸びています。
     花だけで葉がないので俗に「裸ユリ」とも呼ばれるそうで、きれいですが有毒植物だそうです。


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      *朝のうち、家内の胃カメラ検診に同伴。
       逆流性食道炎の兆候は見られるが、他に問題なしとの診断で一安心。
       加齢とともに背中が曲がり、胃を圧迫するので年寄りは胃酸が逆流しやすいとのことだ。

       やっと梅雨が明けたと思ったら、なんと暑い! 暑い!
       昼寝をしたら、汗びっしょり・・裸になってエアコン全開。。やれやれ・・
       
          はだかン坊よくぞ男に生まれける!!




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             (129) ヒメヒオウギスイセン(姫檜扇水仙)

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     「ヒメヒオウギズイセン・姫檜扇水仙」 は 南アフリカの原産でフランスで交配されたアヤメ科の園芸種です。 明治の中頃に観賞用として渡来しました。


                                                           【鮮やかな緋色です】
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     繁殖力が強いので今は雑草のように野生化して、夏の野原を鮮やかなオレンジ色で彩っています。
    葉がヒオウギ(檜扇)に似ていて,小型の花がスイセンに似ているので、この名前がついていますが、
    水仙とは違う植物で、水仙がヒガンバナ科なのにヒメヒオウギスイセンはあやめ科に属しています。


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            *    檜扇 (ヒオウギ)  

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                                    ↑ 【扇のように葉が並んでいるので・ヒオウギ・桧扇】  


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     ヒメヒオウギスイセンと同じく、「ヒオウギ」もアヤメ科の植物で別名を「からすおうぎ」といいます。 本州の中部以南の海岸や草原に生育しています。

      ヒオウギの葉の並び方が、平安時代の貴族の持つ「桧扇」に似ているところから名付けられました。
     「桧扇」とはヒノキの薄板で作った扇で、ヒオウギの葉がこのような扇状に開いています。


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      「檜扇・ヒオウギ」の花は橙色で、花びらに濃い橙色の斑点があるのが特徴です。
     オレンジ色の明るい花と緑の葉のコントラストがきれいで絵になりますが、 花は昼間に咲いて夜になるとしぼんできます。

     「ヒオウギの実」は黒くて「ぬばたま」といい、この「ぬばたま」という言葉は、黒髪や夜の枕詞として黒を強調するために、昔の和歌によく使われています。  
      
        烏羽玉(ぬばたま)の 夜のふけぬれば 久木(ひさぎ)生ふる
             清き河原に 千鳥しば鳴く      
                           山部赤人  (万葉集)

          
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     *今日も暑い、暑いのため息ばかり、ほんとに暑いです。今日の予想は36度、体温なみの高さです。   昔はこんなに暑い夏はなかったような気がする。。
      

              片蔭をゆき中年を過ぎにけり    岸 風三楼 


         中年よりも、老人はなおさら日陰が恋しいです。。



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  • 08/02/15--01:53: (130)ハマボウ
  •        (130)  ハマボウ  

     
                【爽やかな黄色い花・ハマボウ】    
       
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     「ハマボウ」 は、アオイ科の落葉小高木で、花は同属のむくげやアオイによく似ています。
     関東以南の本州、四国、九州の海岸に分布していて、7月から8月のはじめに黄色い五弁の花が咲きます。花びらがちょっとねじれていて、船
    のスクリューのような形をしています。


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     「ハマボウ」の名は浜辺に生える朴(ほう)の木」の意味で,ハマホウからハマボウへと変わりました。漢字では浜朴とか黄槿と書きます。

     夏の暑さの中に爽やかな黄色が気持ちいいですが、一日花なので夕方にはこんなピンク色に変わって萎れてしまいます。。

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    *昨日、今日市内の目抜き通りでは「栄の国まつり」と言う夏祭りが開かれて居ます。
     この暑いさなかに、神輿やパレード、花火など様々な催し物が開かれて、露店や人出もいっぱい。
     ご苦労様。。 若い人はほんとに元気ですねー。






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                    (131) 「さるすべり」

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      「サルスベリ」は中国が原産、江戸初期に庭木として渡来しました。
     花木は初夏から秋までと長く、花色も赤紫、桃、白と多彩です。
     漢名の「百日紅」「千日紅」はその名のとおり、花期が長く百日も続くという意味でつけられました。
     しかし実際は40日ほどだそうです。


                            【サルスベリは赤紫色が目立ちます】

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     サルスベリは「猿もすべる」という、その名のとおり、つるつるした赤褐色の木肌が美しいので床柱や杖の材料などに使われます。

      また、春の芽吹きがおそく、他の木々が繁ったあとに芽が出て、秋にはいち早く落葉してしまうので「なまけの木」という名前もあります。


        【さるすべり・白色】  

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     「サルスベリ」は 赤紫色が多いようですが、こんな白い花もあります。
     さるすべりは、枝の先の6弁花が美しく、よく庭木として植えられていますが、花のおしべには2種類あります。
     中央のたくさんあるおしべの花粉は、粘りがなく、蜂を誘い、粘りのある花粉はそのまわりに長く突き出ています。

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                 ゆふばえにこぼるる花やさるすべり    日野草城


       

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          (132) ハマユウ(浜木綿)
     
                 【万葉集にも歌われたハマユウの花】 

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     ハマユウ(浜木綿)は、その名のごとく海浜の植物です。
     ハマユウはヒガンバナ科の常緑多年草で、関東地方から西の海岸に自生していますが、観賞用として
    公園などでも栽培されています。別名を「ハマオモト」ともいいます。。


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       花の形が木綿(ゆう)を垂らしたように見えるので「浜木綿・ハマユウ」という
    名前がつきました
    また、茎の根の方が葱を太くしたような感じなので、それが木綿(ゆう)を巻いたように見
    えるからとも言われています。

    * 【木綿(ゆう)とは、コウゾの皮をはいでその繊維を糸にしたもので、むかし神事の時の榊
    (さかき)につける幣(ぬさ)として使いました。】 

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            み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももえ)なす 
               心は思へど 直に逢はぬかも

                              (柿本人麿 万葉集  巻4-496)



     *毎度のことながら今日も暑かったですねー。
      昼からエアコンをつけっぱなし・・ 節電、節電と言っていたのがうそのよう。。
      今日のゴルフもキャンセルしました。この年で、ゴルフ場で卒倒したら笑いものになりそう。。



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  • 08/04/15--20:29: (60)暑中見舞い
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           暑中お見舞い申し上げます    和紙屋紫蘭


     毎日暑いですねー。
    いつもお世話になって居ますが、暑さに負けず老いの一徹でこれからも頑張りますので、よろしくお願いします。

     息子が7月末に、北アルプスの鹿島槍ヶ岳から五竜岳を4日間かけて縦走して写真を撮ってきました。 昨年雪のために同じ鹿島槍で遭難、危うく一命を失う所を、助けてもらった山小屋のご主人にあいさつの為の山行です。

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                                            浅間山遠望

     
     まだ足に金具が数本入って居ますが、特別支障なく無事帰ってきました。
     山の神様のおかげです。。  パチパチ・・     しらん



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                     (133) クサギ(臭木)


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      臭木・クサギはクマツツラ科の落葉低木で日本、中国、朝鮮の各地に分布しています。
     花はプロペラ状の小さい白い花で、8月頃に咲きます。
     「臭木」という名前が示すように、この葉をもむと悪臭があります。

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             【クサギに近づくと独特の臭みを感じます。
           そのためか公園などではあまり植栽されて居ないようです。

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     臭みはありますが、昔はこの若葉をゆでて水にさらし、苦味をとって、飢饉時の救荒植物として食用にしました。
     また、クサギの根元の木の中にいるクサギ虫は、子供の「癇」の薬として、焼いて食べさせるそうです。

       秋になると、羽子板突きの羽根のような形をした黒い実が生ります。

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        *今日も35度を超える暑さ、明日も36度の予想だそうだ。
         昔はこんなに暑いことはなかった。
         コンクリートジャングルのためか、車やエアコンの排熱のためか。。
         文化の発展がプラスになるとは限らない。。




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            (61) 広島原爆の日

     「8月6日」 今日は広島原爆の日である。
      昭和20年8月6日午前8時15分、一発の原爆により20万人にも及ぶ軍人や民間人が痛ましい犠牲になった。
      その廣島では、母校・豊橋予備士官学校の歩兵第一中隊の同期生・十一人も被爆し、そのうち7名が亡くなった。原爆投下2週間前にはその11名が揃って記念写真を撮っている。 

     (懐かしい同期生たち顔ぶれだ・紫蘭はこの中には居ないが、当時紫蘭もこんな軍服姿だった。もし配属先が広島だったら、当然同じ運命だっただろう)

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     彼らは昭和20年6月に豊橋予備士を卒業し、見習士官として各地の部隊に配属になったが、中国・四国の部隊に配属された者たちは、集合教育のため、配属先の各部隊から派遣されて、たまたまこの8月6日の午前8時に広島第二総軍の兵舎前に整列していたが、中隊長に急用ができて一時休憩になった。その15分後に原爆が落下したのである。
      休憩中、真夏の暑さを避け、日陰を求めて兵舎の陰に入った者の一部は助かり、そのまま営庭に残っていた者は瞬時にして全員焼滅ししてしまった。一瞬の居場所が生死を分けたのだ。人の運命とはほんとに判らないものだ。

      「Y見習士官の場合」 ・・ 戦友会の文集より

     豊橋予備士官学校で同じ第一中隊の第四区隊にいたY君も広島で被爆した。
     8月6日の朝、彼は湿性胸膜炎のため広島第一陸軍病院に入院して療養中であった。前夜からの空襲警報が解除され、二階の病室の窓からは真っ青に晴れあがった空に、白亜の廣島城が見えていた。 若い看護婦さんが爆風除けとテルテル坊主を寝台に括り付けて出ていったあとは、窓の下に馬のヒズメの音と、女子挺身隊の歌う「特幹の歌」の澄んだ歌声が聞こえてきて次第に遠ざかっていった。
     
             ♪  翼輝く 日の丸に
              燃える闘魂 眼にも見よ
              今日もさからう 雲切れば
              風も静まる 太刀洗
              ああ特幹の 太刀洗

      「さわやかな朝だなぁ・・」と思った次の瞬間、ピカッと音もなく青い閃光が目を射った。

     どれだけ時間が経ったか判らないが「ここに居るがな」「痛いよ~」と言う声が遠くで聞こえ、彼の意識を呼び戻した。と共に、うめき声とも叫び声ともつかぬ哀願の金切り声が近くなってきて、ぼやけた目に煙とともに次第に火の海と化していく状景が見えた。突然、熱風がさっと吹き降ろし、この世の生き地獄が広がっていく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵である。

     
    イメージ 2 暗い影を落としながら北西に広がるキノコ雲、30万の広島市民のうめき声がこのきのこ雲の下に広がっているのだ。暗黒の塵煙のなかでほとんどの家屋は倒壊し、数分後には随所に火災が発生して市内の大部分は火の海と化し、収拾のつかぬ大混乱に陥った。国宝の廣島城・五層の天守閣は大音響とともに北側の濠の中に崩れ落ちて行ったとあとで聞かされた。

     原爆の洗礼を受けたのに、不思議と音の感覚がなく、燃え盛る炎の中にありながら熱さを感じず、又恐怖感すらも無いままに、しばらくは火を背に受けながら身動き一つ出来なかった。一瞬にして変貌したこの地獄絵を、自分自身が生きてこの世のものと感じるまで、ただ呆然と立ち尽くしていたのだった。


      髪を振り乱し、全身火ぶくれになり、半狂乱のまま火の中を走って行く女性がいる。たしかあの看護婦さんに違いない。川に飛び込んでそのまま息絶えた人がいる。その水の上を紅蓮の火が走って行く。
     
     ようやく彼は歩き出した。市内の至る所から次々に火の手があがり、終日天を焦がす勢いで燃え続けている。灼熱の余燼は夜空を染めて広島最後の夜は実に凄惨を極めた。何人も足を踏み入れることのできない焦熱地獄、何万人ともいえぬ重傷者がその火の中に溶けて行ったといわれている。

     
     イメージ 3彼は燃え続ける広島市内を後にして太田川の上流に足を運んだ。不意に大粒の黒い雨が降ってきて白い病衣が褐色に変わって行った。男が居り、女が居て、少年が居て、少女が居る。みんなはぐれた肉親を捜しているのだった。男も女も着のままの姿で血と膿のにじんだボロボロの衣服を僅かに身にまとい、恰も幽鬼のような姿で下駄も靴も履かないはだしのままである。頭上から照りつける真夏の太陽の熱さにも不感症になって居るように見えた。まるで「生きた屍の群像」である。
     
     彼は不意に意識が遠くなった。誰かに揺り動かされてふと気づいてみると、道端の草むらの中に寝ころんでいた。揺り起こしてくれたのは、片方の目がつぶれて、手はボロがぶら下がったように皮が剥がれて居る、半裸体の男性であった。

      親切にも  「こんな所で寝て居ては駄目だ。もう少し歩けば戸坂だ。病院もあるし、医者もいる。頑張るんだ!」と頭から血だらけになって居る彼を抱き起こして励ましてくれた。当時、戸坂小学校には陸軍病院の分室が設けられていた。彼らは「戸坂へ」「戸坂へ」を合言葉のように口にしながら進んで行った。
      ようやく戸坂へ倒れこむようにして辿りついた負傷者たちも、2,3日の間に600人近くが死に、長尾山のふもとのあぜ道には魚市場のマグロのように死体が並んでいた。
     
     この時の彼は全身火傷で半裸体、右前頭部の裂傷、後頭部陥没骨折で、自分が歩けたのが不思議なくらいだった。感覚もぼやけて夢遊病者のようだったに違いない。病院に付いた途端、彼は意識を失った。気が付いたときは病院の廊下の隅にころがっていたのである。
     「病院はいっぱいで収容することが出来ません。歩ける人は治療を受けてから民家にお世話になってください」と役場の人に指示されて彼は病院の外に出た。救護活動をしていた地元の人が差しだしてくれた一杯のお粥ものどを通らない。真夏の炎天下の大地は焼け付くように熱く、素足ではとても歩けなかった。

     彼はこの時初めて「自分が軍人であったこと」に気が付いた。父が予備士卒業の時に持たせてくれた軍刀を失ってしまった事が悔やまれ、丸腰の自分自身を恥ずかしく思えてならなかった。
      原爆の災害は全市に及び、負傷者は近郊の学校や軍隊の施設に運ばれたが、重傷者は手の施しようがなく応急処置さえ受けられずに次々に死んで行った。その多くは、苦悶のうちにただ「水を呉れ!」「水を飲ませてくれ!」と、叫びながら次々に死んで行った。応急の収容所に運ばれることもなく、被爆地や川べりで父母や妻子の名を呼びながら、あえなく死んで行った人もおびただしい数に上っている。
     
     彼はその後、戸板市助役の清水さん一家の献身的な看病により一時は危篤状態に陥った命を取り留める事ができたが、翌日から全く起き上がることが出来ず、化膿し始めた左腕の火傷の痛みに耐えられなかった。天井から紐を垂らして腕を吊り上げ、夜は月を仰いでわずかに気を紛らわすのが精一杯であった。。
                          この腕の痛み消ゆるならば
                           切ってくれと言わんとせしがこらえ居たり

     彼はその後、下痢、鼻血、吐き気、高熱が続いたので病院に戻ったが、周囲の患者達は朝になると毎日数人が死んでいた。病院の分室は小学校にあり、その運動場の片隅のむしろ囲いの中に死体が山のように積んであったそうである。
     来る日も来る日も地獄のような苦しみの中で彼は8月15日の終戦の日を迎えた。彼は敗戦の口惜しさも悲しみさえもなく、ただうろうろして天井を眺めているだけで、陸軍将校としての使命感にも不感症になって居た。

      原爆の熱線は人体に火傷を負わせたが、同時に放射能が皮膚の内面を破壊して醜いケロイドを形成した。彼は毎日固まった火傷のかさぶたを取っていたが、そのあとには膿がたまり傷口にはウジが沸いた。死臭の中の痛みと苦しみと不安は、いっそ死んで行く人の方が羨ましいほどであった。頭のカサブタを取れば髪の毛も一緒に抜け、体は日に日に痩せこけて肉親でさえ本人と見定められないほどであった。
     
     その後、彼は8月末に郷里の滋賀県に帰り、慢性白血病の治療に当たったが外傷が治癒するだけでも約100日を要したが、その年の暮れにはようやく教職に復職して翌年再生の地、ヒロシマに赴いた。
      世界にも類を見ない被爆体験者の生は、一面頗る過酷である。常に死がその影を落としているのだ。死を忘れて生きることが出来ないのである。彼はこの非情な体験によって我執と我見を捨て、蘇った命を精いっぱい生きようの決心した。 教職を定年退職後、彼は仏門に入った。

     「死ぬときは死ぬほかはなし。病むときは病むほかはなし、苦しむときは苦しむほかはない。」

     彼は苦悩を救う唯一の道はただ苦悩を無くすのではなく、苦悩を背負うて生きて行く力である。身にかかる悲しい境遇を生かして生きるのが真の勇気である。「苦しみから逃げずに苦しむ」そこから新しい道が開ける。諸行無常、無我の境地に達するまで苦しむ、そこに新しい道が開けるのである。と彼は述懐している・・


      

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  • 08/11/15--02:44: (144)野辺の花

  •       (144)  野辺の花
     
      ① 「キンミズヒキ」

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     「キンミズヒキ」はバラ科の多年草で高さ50センチくらい、九州から北海道まで山の野原に自生しています。 (*赤い色のミズヒキは「タデ科」です)
    8月ごろにごく小さい黄色い花を穂状に咲かせます。
     金色の水引きのようなので、「金水引」の名がつきました。


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      ② 「ミソハギ」

                   【ミソハギの群生】  

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       「ミソハギ」 はミソハギ科の多年草で、草原や田のあぜなど、湿気の多いところに自生しています。
    「ミソハギ」は花が萩に似ていて、よく溝などに生えるので「溝萩」ともいい、また昔この花を禊(みそぎ)に使ったので、「みそぎはぎ」から「ミソハギ」になったという説もあります。
      現在は、盆花としてよく使われ、当地の方言では「ソーハギ」と呼んでいます。



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      ③ タカサゴフヨウ

                   「野辺の花・タカサゴフヨウ】 

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      「タカサゴアオイ」はアオイ科の外来種で、道端の雑草にまじってひっそりと育っています。
     南米が原産で、3センチぐらいの小さな白い花です。
     中心部が赤褐色になっていて、ちょっと小型ムクゲのような、素朴な感じの花です。
     和名の「矢の根梵天花・ヤノネボンテンカ」は、葉がやじりのような形をしているので、名付けられました。

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                    写真では大きく見えますが、実際は3センチくらいの小さな花です。     


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    *光回線のバージョンアップで、(ハイスピード隼)に乗り換えました。
     送って来た機器の接続、設定から、古い機器の返送、インターネットの接続などに手間取り、3日ほど悪戦苦闘、やっと昨日何とか出来上がりました。  だいぶ老化した頭の体操になりました。

     今までの100MBと違い、1ギガ(1000MB)という10倍の速さなので、パソコンの立ち上がりも、書き込みもテキパキと進んで快適です。

     今朝は朝は早く農協直売所で盆花やお供えの果物や野菜を買い込み、ついでイオンでもまた食料品の大量買い出し。
     重くて暑くて、ちょっとくたばりました。 でも、これも老化した体の体操になるかも。。
     昼食後、さっそくエアコンを入れて昼寝一時間、ようやく人心地がつきました。
     ねずみ年なのに、牛になるかもネ。。



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         (145) 「野辺の花」 ② 

     野辺に咲く花で、似たような名前の花がありました。
     「ヤナギバ ルイラソウ」「マルバ ルコウソウ」ですが、花は全く違います。

          ○ 「ヤナギバ ルイラソウ」

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     「ヤナギバ ルイラソウ」 は、キツネノマゴ
    科の常緑小低木で、メキシコ原産の帰化植物で
    すが、繁殖力が強く最近は野生化したものも見られます。
    葉が柳の葉のように細長くいので柳葉の名がついています。 花は一日でしぼんでしまう一日花で、花びらにはしわしわがあります。

     花期は長く、夏から秋まで紫色の花を咲かせます。  
      別名に「紫伊勢花火」という風雅な名前もあります。


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        ○  マルバ ルコウソウ(丸葉縷紅草)                  

     草むらを歩いていると、とても小さい朝顔型の花が垣にいっぱい群れて咲いていました。
      調べてみると「マルバルコウソウ」という草のようです。

     「マルバルコウ・丸葉縷紅」はヒルガオ科の1年草のツル性植物で、普通の「縷紅草・ルコウソウ」は葉がとても細いですが、マルバルコウソウの葉はヒルガオの葉のように丸くて大きいのが特長です。
     花はどちらも2センチくらいで、ほとんど見分けがつきません。

     ルコウソウの方は滅多に見られませんが、マルバの方は野生化してあちこちの野原でよく見られます。これは細い葉と丸い大きな葉との違いからくる繁殖力の差かもしれませんね。

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     熱帯アメリカの原産で、江戸時代に日本に観賞用として渡来していますが、いまは本州中部以南の各地に帰化植物として生育しています。
     
     少し湿って栄養のいい場所に生え、大きな茎を伸ばして大きな群落を作ります。
     花は8~9月に咲き、1,5センチくらいのごく小さい朝顔型ですが、なかなかきれいな朱色をしています。

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    *朝から激しい雨で、これまでの酷暑がうそのように爽やかな朝になりました。
      慌てて、埃だらけの車を車庫から出して、天然シャワーを浴びせました。

      パソコンもすっきり、車もスッキリです。
      昼から、月一の定期検診、と言っても診察3分間、血圧の薬をもらって帰るだけですが・・




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  • 08/15/15--02:10: (62)終戦の日
  •        (62) 終戦の日

     今日は終戦記念日である。早いものだ、もう70年にもなるのだ。自分が生まれた大正13年は日露戦争が終わってまだ30年しか経って居なかったのに、戦争は遠い遠い昔の話のように思っていた。だから今の若い人たちにとって70年も前の戦争の話など、関心が薄いのも当然のことである。だが、現実に戦争の惨禍を眼のあたりにし、敗戦と言う国家の危難を体験したものにとっては、終戦の日は生涯忘れられぬ日なのである。

     昭和20年8月15日、苦難の戦争は終わった。
    その日、自分はどうしていただろうか。。
     その頃、紫蘭は豊橋予備士官学校に在校中、足を怪我し、手術後入院していた愛知県の鳳来寺の臨時陸軍病院から一時帰郷していたが、その8月15日は我が家の強制疎開による家屋解体が始まる前日だった。 

     隣組のみなさんの応援を受けて、家財道具や衣類などは、田舎の親類の家に疎開し、建具類も取り外して、わが家はまさにガラン堂の有様だった。
      所が家財を預けた親類が8月6日の空襲により丸焼けとなり、母、姉の着物類はもとよ
    り我が教科書、蔵書類も一物も残さず焼失した。

     当時の簡単な日記が残っている。
          ・・・・
      * 「昭和20年8月12日」

     白昼、B25爆撃機6機、低空にて市内県庁付近を急襲せり。
      県庁、三栄旅館など数箇所に被害あり。思いもよらぬこの奇襲に,われら防空壕になだ
    れ込みて危うく難を逃れたり。
      ソ連、参戦す!
      去る6日、広島に新型爆弾投下され被害甚大、その惨状、言語に絶す、との事なり。
      
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     *   「8月14日」
     長崎にも新型爆弾投下の報あり。
      家屋疎開、明日までなるを以って、一日中繁忙をきわむ。

     *  「8月15日」  
      未明よりラジオは本日正午、重大放送あるを告ぐ。
      重大放送とは、本土決戦に対する国民の決意を促す声明ならんと思いしに、あに図らん
    や、終戦の詔勅とは。。

                          「終戦の詔勅」

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        青天の霹靂!
        大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を告ぐる日。
       戦争終結の聖断、ついに下る!
     正午、ラジオは泣くがごとく、咽ぶが如く、天皇陛下の終戦の詔勅を伝えたが、雑音交じりで聞き取りがたく、また突然のことゆえ意味が分からず、家族一同黙然として耳を凝らして聞き入っていた。
      
      嗚呼、ついに敗れたり! さて、国敗れて果たして山河ありや否や。
     ソ連の参戦と新型爆弾の登場は光輝ある我が皇国三千年の伝統を踏み砕き、ここにポツダ
    ム宣言を受諾して無条件降伏となれり。

     ああ、我が激しき思い措く所を知らず、悲嘆か,歓喜か・・
     否、ただ、ただ、万感胸に迫るのみである。
     
     かくして衝撃的な終戦の一日は終わった。
     これで灯火管制や空襲警報から解除され、明日の我が家の解体も無くなり、また我輩の軍
    隊への帰隊も無くなったと気づいたのは、しばらく時間が経ってからであった。

          ・・・・・

    (*なぜか日記はここで中断している。 再開したのは20年10月1日、九大に復学して通学し始めてからであった。)

                 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ      虚子





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            (63) 真夏の夜の夢

     お盆もあっという間に過ぎて昨日で終わり、今日は地獄の釜の蓋も開くという、16日の藪入りです。
     世の中に寝るより楽はなかりけり・・
    「藪入りに働く馬鹿」と言う言葉がある通り、今日はみなさん、お仕事もお休みのようで町中も至って静かです。
     昨夜は盆提灯をつけたまま寝入って居たら、短い夢を見ました。
        ・・・・・

     トイレに入っていると、東京から友達がやって来た。 同窓会に出るという。
    彼は東大出で戦後は自衛隊に入っていた大柄で頭のいい奴だった。然し不思議なことに彼とは中学卒業以来会ったことがないのである。従ってまだまだわんぱく時代の童顔の彼であった。

     そのうち、外語時代の友達がやって来た。これは学徒出陣で飛行機乗りになり、隼戦闘機に乗ってフィリッピン海域でアメリカの新鋭・グラマン戦闘機と激しい空中戦を戦い、時には全弾を打ち尽くして海面すれすれに飛行して九死に一生を得たこともある。

     最後は8月20日に特攻出撃の命を受けて愛機とともに帰国中、韓国の京城(ソウル)まで来たとき終戦の詔勅を聞いた。わずか5日の違いで一命を助かったのである。戦後は自衛隊のジェツト戦闘機隊の司令として活躍したが、加齢のため施設に入って以来、もう永らく音信がない。特攻で死に損なった命なので、少しでも社会のために用立てようと、死後の献体を申し込んでいたのだが。。
     彼の父は医者でクリスチャンであった。

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                                                            (隼戦闘機)


     三人で同窓会に向かう途中で、岩だらけの山道に差し掛かると、Nが子供連れで歩いて行くのが見えた。彼とはよく山に登った山仲間でもある。 おーい!中村君!と声を掛けようと思ったとたん、靴を履いて居ないのに気がついた。靴下だけでは山道は足が痛くて歩けないし、同窓会にも出られない。。慌てて家に靴を取りに帰る途中で目が覚めてしまい、とうとう同窓会には出られなかった。。

     ちょうどお盆の最後の日、真夏の夢の同窓会も冥土での同窓会だったのかもしれない。
     呼びに来たのか、或はみんなが会いに来てくれたのか。。


             としよりの 一人せわしき お盆かな    森川暁水

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                                    グラマン戦闘機・ワイルドキャット



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         (64) 8月15日の反乱・宮城事件 ①

      昭和20年8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏をした。
    日中事変以来、日本軍の損害は、戦死約233万人、戦災による死傷者約70万人、家屋の焼失298万戸という甚大なものであった。

      終戦の日、高く低く独特の抑揚で話される天皇の聞き取りにくい「終戦の詔勅」を聞いて、悔しくて茫然自失した思い出はあるが、一方、これで軍隊とも爆撃ともお別れだ・・と、どこかホッとした気持ちがあったのも事実である。しかし、8月15日、東京周辺ではあくまで本土決戦を叫ぶ将兵たちで混乱を極めた。

     母校の豊橋予備士官学校でも、終戦という出来事は寝耳に水であり、徹底抗戦派の将校たちには不穏な動きがあったらしい。
     当時、情勢把握のために、急遽東京の陸軍省に派遣された区隊長たちの話では、東京駅のいたる所に「徹底抗戦」の張り紙が貼られ、丸の内一帯には不気味な空気が漂っていたという。駅を一歩出れば要所要所には銃剣をつけた兵たちが身構え、徹底抗戦のビラをはぐものがあれば何人たりとも一撃の下に倒さん、と殺意溢れる面構えであった。

     また、幾つもの小部隊や装甲車が殺気をみなぎらせて慌ただしく走り回っていて、上空には数機の戦闘機がビルすれすれに超低空飛行を繰り返しながら、空から抗戦ビラを撒いていた。宮城前の広場には、地に伏して泣く者あり、天を仰いで声高に叫ぶ者あり、まことに痛ましい限りの光景だったそうである。

      その混乱の中で起こったのが、近衛師団による反乱、いわゆる宮城事件であった。
     豊橋予備士第一中隊の同期・S見習士官は予備士卒業後、近衛師団・第二連隊の「連隊旗手室」に配属となり、8月15日の終戦の日には宮城二重橋近くの近衛歩兵第2連隊の衛兵指令所にいた。
       以下は彼の当時の回顧文である。
              *(豊橋予備士・第一中隊卒業生文集「高師天伯」より)
         ・・・・・

      「近衛師団命令」
     8月15日午前零時を少し過ぎたころ非常呼集が伝達され、完全武装の近衛連隊は直ちに乾門から宮城内へと進軍、宮城を占領してしまった。
     この作戦は本土決戦の最後の作戦としてひそかに練られたもので、二重橋、大手門、半蔵門、桜田門などすべての出入り口は第一から第四までの大隊によって固められ、宮城と外部との連絡を完全に遮断、皇宮警察の武装解除、宮城内要衝への兵員・火器の配置など、徹底抗戦の布陣は闇夜の中に粛然としかも迅速に行われたのである。

                                  (当時の宮城内、概略図)    近衛師団
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     また、これとは別に各大隊から選抜された数個中隊は宮内省を包囲し、陛下の玉音盤を奪取すべく行動を開始したのであった。この時の宮城占領の命令は「近作命甲大584号」 というもので、内容は次のようなものであった。
     
       「近衛命令」

     一、師団ハ敵ノ謀略ヲ破砕、天皇陛下ヲ奉持シ、我ガ国体ヲ護持セントス
     二、近歩一長ハソノ主力ヲ以テ東第二、東第三営庭付近ヲ占領シ、外周ニ対シ宮城ヲ保護シ奉ルベシ。 マタ約一個中隊ヲ以テ東京放送局ヲ占領シ放送ヲ封止スベシ
     三、近衛二長ハ主力ヲ以テ宮城吹上地区ヲ外周ニ対シ守護シ奉ルベシ
      五、近衛七長ハ主力ヲ以テ二重橋前、宮城外周ヲ遮断スベシ   
         ・・・・・   途中略、
     九、近衛機砲大隊長ハ現体制ヲ以ッテ宮城ヲ奉護スベシ
     十、近衛一通長ハ宮城~師団司令部間ヲ除ク宮城通信網ヲ遮断スベシ
     十一、余は師団司令部ニアリ。。。というものであった。

     このとき出された「近衛師団命令」は、森師団長本人のものではなく実はニセ物であった。
      この騒乱の首謀者の一人・畑中少佐は森師団長が命令を出すことを拒絶したため無言のまま拳銃を発射、そのあと上原大尉が軍刀を以て森近衛師団長を斬殺したのである。同席していた白石大尉も同じく斬殺された。

     畑中少佐らはしばし瞑目、挙手の礼をして師団長室を退出し、古賀参謀がかねて練っていた師団命令を正式に作成、畑中少佐が森中将を射殺したその手で師団長の印を押して認証した。師団長殺害を聞かされた古賀参謀長と石原参謀の衝撃は大きかったが、彼らもまたかねての盟約に忠実な若者であったのである。

     S見習士官所属の近衛歩兵第二連隊ではこの師団命令を連隊副官・曽我大尉が受領し、芳賀第二連隊長に伝達されたが、曽我副官はこの命令がニセ物であり陰謀であるとは知らなかった。連隊長の方は薄々陰謀であるとは気付いたが、これはあくまでも玉音放送の阻止のためで、陰謀は陰謀でもこれが陸軍に対する反乱であり、引いては国家に対する反乱であるとは毛頭考えて居なかった。
     
     近衛師団の支配権はごくわずかの時間ではあったが、このように畑中少佐ら反逆者の手に渡ってしまったのである。

      これがわが所属部隊の「近衛歩兵第二連隊」が宮城を占拠した真相である。

                                     つづく


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          (64) 「8月15日の反乱」②  

                         終戦時、広島第二総軍配置図 
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        「玉音盤奪取ならず・・」
      緊迫のうちに時は刻一刻と過ぎ、東の空は早や白み始めていたが、待ちわびていた玉音盤捜索隊の報告は「玉音盤未ダ発見サレズ」と言うものばかりで、連隊本部は焦燥と重苦しさに包まれていた。
     
     近衛連隊は日常、宮城を警護しているるし、自分もかねて空襲警報下の「賢所」の警護に任じていたので宮城内の案内は熟知していた。然しその近衛兵であっても宮内省や御座所の内部については全く不案内であった。しかも宮殿焼失後、応急的に改修された建物は複雑な構造になって居り、加えて式部職、内匠職、内舎人職など、聞きなれない室名に戸惑うばかりであったという。
     
     捜索隊が血眼で探していた玉音盤は、無条件降伏を国民に告げる証書を天皇自らが朗読され、それを録音したものであった。この玉音放送が15日正午に行われることは14日に阿南陸軍大臣の名ですでに全軍に打電されていた。
      玉音盤を奪取し、これに代えて「神国日本は絶対不滅である。本土決戦に奮起せよ!」と、全軍・全国民に呼びかける計画だったが、その玉音盤の行方は全く判らなかった。
      かくて、宮城を占拠して徹底抗戦を呼びかけんとした、近衛師団の計画はあえなく挫折してしまったのである。。
     
    イメージ 3 玉音盤奪取に失敗した首謀者の畑中少佐は午前11時、二重橋前の芝生の上で自決し、古賀参謀は正午に玉音放送中に近衛第一師団司令部に置かれていた森師団長の遺体の前で拳銃と軍刀を以て自殺して、近衛連隊の反乱は終わった。時の阿南陸軍大臣は、15日早朝官舎に於いて割腹自殺し、正午には全国に終戦の詔勅が放送されてついに日本の戦いは終わったのである。

     9月2日、米戦艦ミズリー号上で無条件降伏調印式が行われた。片足を失って義足だった日本の全権大使・重光葵外相が、艦上で調印のためにコツコツと義足の音をたてて敵将マッカーサーの前に進み出る姿が痛々しかった。

     続いて12月16日、近衛文麿元首相も服毒自殺を遂げ、東條元首相も拳銃殺を図ったが果たせず、A級戦犯として収監され、真珠湾の一撃以来3年8ヶ月に及ぶ「太平洋戦争」は完全に収束を遂げたのである。。

           (勝者と敗者)


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      敗戦後の混乱の中で、国家反逆ともいえる8月15日の反乱、宮城事件の当事者の責任の訴追はが行われることはなかった。

                おわり     (第一中隊卒業文集・S見習士官の手記より)


     * Sさんは新潟の出身、母校の豊橋予備士では第一中隊第4区隊に所属されていた。
     終戦後10月に復員、筑波大付属小学校にて教職に就かれ、定年後は家郷に戻って教育研究所を設立して長い間青少年の教育に携わられました。

       
             大露に腹割(た)っ切りしをとこかな      赤黄男





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  • 08/20/15--02:09: (66)高校野球
  •         (66) 高校野球

      高校野球も今日の決勝戦で仙台育英を破った東海大相模の優勝で終わりました。昭和50年代に東海大相模高が佐賀商との親善試合にやって来たことがあり、当時、今の巨人の原監督が三塁手として人気抜群、その日も彼のホームランを期待しましたが、なぜかこの試合には出ず、がっかりしたのを思い出します。

     高校野球ももう100年にもなりますが、今年は例年になく好試合の激戦が多かったようです。選手はみんな今年の異常な猛暑にも負けず、真摯敢闘、よくがんばりました。
     でも野球が終わると、突然夏の終わりが来たような気持ちになって、なんだか侘しくなります。

             秋近き 心の寄るや 四畳半     芭蕉

     母校の佐賀西高も昔の佐賀中学時代は甲子園によく出ていましたが、新制高校となった戦後は進学校となって甲子園にはなかなか手が届きません。進学校で優勝した佐賀北高のように、一度は甲子園に出かけて母校の応援をしてみたいと、いつも同窓会で話題になっていましたが、年寄りにはもはや叶わぬ夢となりました。

     母校の佐賀中は佐賀藩の藩校「弘道館」の流れをくむ学校なので、ユニホームの胸のマークも校名ではなく「EIJO]という4文字になって居ます。古来、佐賀は日本武尊が肥前巡行のときに申された通り「栄の国」と呼ばれ(肥前風土記)、佐賀城も「栄城」と言われていました。そこで母校のマークも「EIJO]と言うロゴになって居て、校名と違うのは全国でもただ一つだそうです。

                   (大正時代の佐中野球部)
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     戦前の中学野球は、各県一校ではなく、一次予選の優勝校が各地区ごとに二次予選を行い
    その優勝校が甲子園に出ていました。九州は福岡、佐賀、長崎の北九州三県で二次予選を行
    い、優勝校が甲子園に行けるのです。
     
     小学生のころ野球好きの父親に連れられて、二次予選の福岡の春日原野球場まで母校の応
    援によく行ったものです。 野球場と言っても、内野だけにある五段くらいの木製のスタンドでしたが、声をからして応援しました。
     父が麦藁のカンカン帽子をかぶり、下駄ばきに薄茶色の麻の甚兵衛を着て、腰に団扇を差して応援していた姿が目に浮かびます。

     子供の頃は、近くの幼馴染のお寺の息子と一緒に少年野球チームを作って、お寺の境内でよく遊んだものです。夏休みに、ほかの小学校に試合に行ったこともあります。
     中学に入って紫蘭は弓道部に入り野球とは縁が切れましたが、彼は野球部に入って二塁を
    守って居ました。気立てのやさしい彼は、野球は余りうまいとも思われませんでしたが、佐賀商との対校試合で、彼が打った三遊間の球がイレギュラーしてコロコロと校庭の端まで転がって行き、思わぬランニングホームランとなって1-0で勝ったのを思い出します。

     イメージ 2その時の相手の佐賀商の石丸投手は剛球投手として当時の野球少年の憧れの的でした。彼は卒業後、父親の借金を返すために、高収入のプロ野球の名古屋軍に入り、戦前最後のノーヒッットノーランを記録するなど20勝投手として活躍しましたが、学徒出陣(*日大夜間部)で航空隊に入り特攻出撃で戦死しました。

     石丸投手は出撃前に、10球ほどキャッチボールをして、「これで思い残すことはない」と機上の人となり、片道燃料で沖縄へと出撃していきました。この話は「人間の翼」と言う映画にもなりました。

     遺書ともいうべき、最後の言葉は
     「葉隠れ武士、敢闘精神、日本野球は・・」で途切れているそうです。 



        ↑ (名古屋軍時代の石丸進一投手)

      また、出撃の時、機上からボールを包んで投げ捨てた日の丸の鉢巻きには
       「われ人生二十四歳にして尽きる  忠孝の二字」と記してあったそうです。 
     
     東京ド-ムのそばにある鎮魂碑には、同じく戦死した巨人軍の沢村栄治と並んで彼の名が
    刻銘されて居るとか。。 プロ野球選手で特攻で戦死したのは彼だけでした。
     石丸投手と佐賀商で同級だった兄もビルマで戦死しました。
     勝ち目のない無駄な戦さために、多くの有為の若者の命と青春が断たれました。

       今年の甲子園では、清宮や山本、小笠原などの名選手が数多く生まれました。

           彼ら夢多き野球少年たちに幸あれ。。       しらん




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  • 08/21/15--01:36: (67)訃報・・
  •      (67) 訃報・・

       「訃報・・」
      中学時代に剛球の石丸投手からホームランを奪ったと、いつも同窓会で冷やかされていた幼馴染の和尚の名前は、ヒロちゃんである。
     
     先日、そのヒロちゃんの奥さんが亡くなった。87歳の年に不足はないのだが、同窓会などで長年お世話になったので、やっぱり気が沈む。奥さんは横浜の出身で、彼が大学時代に下宿している時知り合って、はるばると遠い佐賀のお寺にやって来た。まだ24歳だった。。

     中学の同窓生は世話好きな和尚に甘えて、このお寺で数十年来、毎月の中学の同窓会を開いてきた。残り少ない友達が集まって、今でも細々と毎月の例会が開けるのも、このころのヒロちゃんの協力があってこそである。

     中学の先生をしていたヒロちゃんが59歳で肝臓ガンで亡くなってからは、奥さんは自分で住職の資格を取り、一人で鍋島藩ゆかりのこの400年の古刹を守ってきた。子供夫婦とは折り合いが悪く、息子は寺を継がずに別居していた。長い間一人暮らしの侘び住まいだったが、奥さんは明るく気丈な性格で、日本舞踊が得意の色白でふっくらとしたきれいな人だった。夏の夕方、洗い髪を風になびかせて町中を歩いている姿には、どう見てもお寺の坊守さんとは思えなかった。

     しかし、近所なので、時どき、世更けて庫裏の風呂場の窓から「♪ふるさと」の歌声がかすかに聞こえてきた。昔を思い出して、ふと声に出るのだろう。。ふるさとの都会を離れて60年、はるかに遠い異境の地で、一人淋しく亡くなった奥さんの思いや如何に。。
      
             ♪ いかにおわす父母
                つつがなしや 友がき
                雨に風につけても
                想いやする ふるさと

     
          「ヒロちゃんのこと」


    イメージ 2 人間、幼馴染ほど懐かしいものはない。シランの一番の幼馴染はこの「ヒロちゃん」である。朝から晩まで一緒に遊びまくったヒロちゃんのことはいくつになっても忘れることができない。

     5歳の時、一年間幼稚園に通ったが、この幼稚園は城内にあって、今でも大人の足で30分ほどかかる。人力車のほかはバス、電車などの公共乗り物もない時代だから、ヒロちゃんと二人、あちこち道草を食いながら毎日お手々つないで歩いて通ったものだ。
            
             ♪お手々つないで幼稚園
            積み木、ブランコ、紙芝居
             胸に下がったハンカチの
             君の名前が読めたっけ

     
       (幼稚園終了) おりこうさん・・
     
     
     ヒロちゃんは幼いころ、父母とともに台湾から移住してきた。
    ヒロちゃんのお寺は鍋島藩の老女が創建した400年も経つ古刹で、本堂も大きな立派な堂宇であった。そしてお寺の境内も広く近所の腕白どもの格好の遊び場になって居た。周りは「カラタチ」の生け垣で囲まれていて、子供たちは所々にある犬猫の通り道の抜け穴から境内に入り込んで、朝から日が暮れるまで遊んだものだ。抜け穴のカラタチの鋭いトゲが刺さって洋服が破れ母に叱られた思い出も懐かしい。
                               
     子供のうち、ここで陣取りや隠れんぼ、ラムネン玉(ビー玉)、ペチャ(めんこ)、竹馬、凧揚げなど子供の遊びは何でもやった。墓地の隅の川岸が竹藪になって居て、その竹の枝を肥後守と言う小刀で切り取ってきて、水鉄砲、竹トンボ、唐はた(タコ)紙鉄砲などを作って遊んだものだ。
     
     夏の夜はガキ大将の命令で、真っ暗闇の中を心細い思いをしながら墓地の奥の竹藪の笹竹を取りに行った。採ってきた笹はいわば肝試しの証拠品である。まだその頃は土葬も残って居て、梅雨時には墓地に火の玉が出たとか、藪の中のクスノキで首つり自殺があったなどの噂話があったのである。ほんとに肝っ玉が縮む思いであった。
                      
                からたちの 花が咲いたよ
               白い白い 花が咲いたよ
               からたちの とげは痛いよ
               青い青い 針のとげだよ
                   からたちは 畑(はた)の垣根よ
                   いつもいつも とおる道だよ       
                                                     (北原白秋)  
     

     
    イメージ 3 昭和6年、ヒロちゃんと一緒に小学校に入学した。満州事変の始まった年である。
    「ヒロちゃん」は、病気はしないが、さして頑丈とはいえない体躯の持ち主で、よく鼻水を垂らしていた。(昔は鼻水や耳垂れの子が多かった。服の袖で拭くものだから、袖がピカピカに光っていた。暖房不足の寒さもあるだろうが、今の飽食の時代と違い蛋白質の少ない粗食が基本だったから、おそらく栄養不足からの滲出性体質だったのであろう。)
     
     そのころの小学生の服装は、男の子は制服ではないが霜降りの詰襟服が一般的で、下は半ズポンにズック靴である。勿論靴下ははかない。カバンはもうランドセルになっていて、四年生くらいまではこれで通した。 帽子は黒の制帽で正面にキラキラと光る校章がついている。



           (剣道の時間/右うしろは奉安殿・両陛下のお写真が収められている)

    イメージ 1


                                            つづく


    *ここ二,三日、急に奥歯が痛くなって、家内を内科の検診に連れて行ったついでに歯医者さんに見てもらった。
     年寄りなので、次第に歯が浮き上がってくるので、食事ごとに上下の歯がつかえて、歯茎が炎症を起こすそうである。 こうして加齢とともに次第に抜けて行くのだろう。

     抜けば楽になるといわれたが、入れ歯をしなければならない。
     ここが我慢のしどころだ。入れ歯なんか年寄り臭いものはしたくない!!
     まだ26本の歯が残っているし、 28本の家内にも負けたくない。
     抗生物質と痛み止めを貰って来たから、もう大丈夫だ。。

     と、やせ我慢をしてみたが、おやつを食べて見たらまだ痛い!
     トホホー・・


     


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  • 08/22/15--02:27: (67)訃報②

  •             (67) 訃報 ②

     小学校を卒業して、又々ヒロちゃんと一緒に同じ佐賀中学に入学した。佐中は旧鍋島藩校「弘道館」の流れをくむ名門校で、母校の小学校はこの弘道館の予科のような存在で、明治の初めまでは武士の子弟でないと入学出来なかった。卒業生75名の男子同級生の内、15名がこの佐中に進学した。県下各小学校の中では一番多かったようである。全県の小学校からの進学者は各校から大抵二人、三人だけだった。しかし75名の男子卒業生で今も生きているのはわずかに2,3名にしか過ぎない。

                (小学6年の授業風景・紫蘭はどこかな?)
     
    イメージ 2


     
    イメージ 3 中学に入ると、気弱だったヒロちゃんはすっかり逞しくなって、野球部のメンバーとして活躍した。 小学校のころは子供たちで少年野球団を作って(シランもその一員だったが、少しも活躍した覚えがない)よその小学校まで遠征したりしていたが、彼が中学で野球部に入ったのもこの頃の経験がものを言ったのだろう。

     しかし、ヒロちゃんはもともと頑強とはいえない体なので、打つ方は8番で守る方も二塁という、野球選手としては平凡なものだった。
     その平凡なヒロちゃんが、あの剛球で鳴らした佐賀商の石丸投手から、練習試合でランニングホームランを打った話は、先日述べたとおりである。
                        



        ↑(昭和20年の母校の制服、戦時中らしくゲートルに戦闘帽姿である)



           その昔 小学校の柾(まさ)屋根に
                        我が投げし鞠(まり) いかになりけむ
                           
                               ( 石川啄木) 
     
     中学を卒業してから始めてこのヒロちゃんと出会ったのは、自分が進学した外語の夏休みが終わって帰阪する山陽本線の車中であった。 ヒロちゃんは京都の仏教専門学校に進学していた。そのころ、要塞地帯だった広島湾付近にさしかかると、列車の窓の木製の鎧戸を下ろさねばならなかった。防諜のためであろうが、当時呉軍港ではあの巨大な戦艦(大和)が建造中だったのを戦後になって初めて知った。
     
     そののち、ヒロちゃんは私と同じく学徒出陣で特別甲種幹部生(いわゆる第一期特甲幹)として仙台の陸軍予備士官学校に入ったが、大学の所在地の関係で、紫蘭は豊橋の予備士官学校だった。
     
                (紫蘭も同級生たちの寄せ書きの日章旗をたすき掛けにして出征した)

    イメージ 1



     戦後、復員してヒロちゃんは東京の仏教大学を出て、住職の傍ら中学の先生の職についたが、大学時代に手をつけたのか?(^_-)-☆ まもなく学生時代の下宿近くの娘さんを嫁にもらった。お寺のダイコクさんには勿体無いほどの美人で日本舞踊の名取りである。そのころ紫蘭もヒロちゃんとは終戦後の青年団活動を共にし、また一緒に「謡曲」を習ったりした。
     
     ところがヒロちゃんは女性に甘いのか、学校の同僚の女先生とも仲良くなって、バイクに相乗りして登校したりして、上層部の評価も芳しくなかった。そのうち、和尚のくせにパイプカットしたりして、教育者としてあるまじき行為に評判が悪くなってきた。そのため同じ同窓の友達が次々に校長になって行ったのに、とうとう校長にはなれず平教師で終わってしまったのである。

     心配して彼を諌める同僚には、「女性に限らず、人を愛するのは仏の道である!」と揚言して憚らなかったという。

     しかもマージャン好きで、卒業した教え子たちを呼んでは、よく夜遅くまで遊んでいた。二階の彼の部屋からはジャン卓をかこんでいるジャラジャラという音が夜半遅くまでよく聞こえて来たものだ。一徹で理屈っぽいが人には優しい彼は、呑兵衛ではないが酒の席が好きで教え子たちには人気があったのである。
     
     だが、中年を過ぎたころ、不審火によって創建400年の由緒ある彼の寺院が本尊もろともに全焼してしまった。広大な伽藍の焼け落ちる業火の勢いはすさまじかった。近くの我が家の2階からは、その燃え盛る業火が眼前に見えて身震いがとまらず、我が家の屋根に燃え移らないように必死に水道の水をホースで掛け続けたのだった。

     すぐ横の田んぼの中には、奥さんの日本舞踊の衣装が詰まったタンスだけが運び出されて居て、和尚さんの分はみんな焼けてしまって背広一着残って居なかった。その為、毛布やおにぎりを差し入れにやって来た隣組の人たちのひんしゅくを買ってしまった。
     燃え落ちた本堂の前の、僅かに焼け残った小屋の中で、緊張と寒さのために小刻みに震えていた彼の姿が今でも忘れられない。

     被災後、彼は「罪滅ぼしのために、四国八十八箇所を巡礼したい」と、かねて言っていたが、酒のせいか肝臓を病んで火事の3年後にヒロちゃんは亡くなってしまった。
     医大に入院中の彼を訪ねると「しらんちゃん、どうも野暮つかしたごとあるバイ」と、腹水で大きく膨らんだ腹を抱えながらベットの上で力なく語った。
      (うかつにも、人生をやり損なった)、という意味であろう。
     
     定年になる一年前の、わずか59年の人生だった。私の母が92歳で亡くなったのと同じ年だったのでよく覚えているが、あの鼻垂れ小僧のヒロちゃんが亡くなってから、もう30年以上になるのだ。
     そして今また、あの美人の奥さんもむなしく旅立ってしまった。 
     
     生まれては消え、消えては生まれる儚い人生、まことに水の泡にも似た人間の一生である。
            
             人並みの才に過ぎざる
          わが友の
          深き不幸もあわれなるかな       
    石川啄木
     
       


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