(61) 広島原爆の日
「8月6日」 今日は広島原爆の日である。
昭和20年8月6日午前8時15分、一発の原爆により20万人にも及ぶ軍人や民間人が痛ましい犠牲になった。
その廣島では、母校・豊橋予備士官学校の歩兵第一中隊の同期生・十一人も被爆し、そのうち7名が亡くなった。原爆投下2週間前にはその11名が揃って記念写真を撮っている。
(懐かしい同期生たち顔ぶれだ・紫蘭はこの中には居ないが、当時紫蘭もこんな軍服姿だった。もし配属先が広島だったら、当然同じ運命だっただろう)
彼らは昭和20年6月に豊橋予備士を卒業し、見習士官として各地の部隊に配属になったが、中国・四国の部隊に配属された者たちは、集合教育のため、配属先の各部隊から派遣されて、たまたまこの8月6日の午前8時に広島第二総軍の兵舎前に整列していたが、中隊長に急用ができて一時休憩になった。その15分後に原爆が落下したのである。
休憩中、真夏の暑さを避け、日陰を求めて兵舎の陰に入った者の一部は助かり、そのまま営庭に残っていた者は瞬時にして全員焼滅ししてしまった。一瞬の居場所が生死を分けたのだ。人の運命とはほんとに判らないものだ。
「Y見習士官の場合」 ・・ 戦友会の文集より
豊橋予備士官学校で同じ第一中隊の第四区隊にいたY君も広島で被爆した。
8月6日の朝、彼は湿性胸膜炎のため広島第一陸軍病院に入院して療養中であった。前夜からの空襲警報が解除され、二階の病室の窓からは真っ青に晴れあがった空に、白亜の廣島城が見えていた。 若い看護婦さんが爆風除けとテルテル坊主を寝台に括り付けて出ていったあとは、窓の下に馬のヒズメの音と、女子挺身隊の歌う「特幹の歌」の澄んだ歌声が聞こえてきて次第に遠ざかっていった。
♪ 翼輝く 日の丸に
燃える闘魂 眼にも見よ
今日もさからう 雲切れば
風も静まる 太刀洗
ああ特幹の 太刀洗
「さわやかな朝だなぁ・・」と思った次の瞬間、ピカッと音もなく青い閃光が目を射った。
どれだけ時間が経ったか判らないが「ここに居るがな」「痛いよ~」と言う声が遠くで聞こえ、彼の意識を呼び戻した。と共に、うめき声とも叫び声ともつかぬ哀願の金切り声が近くなってきて、ぼやけた目に煙とともに次第に火の海と化していく状景が見えた。突然、熱風がさっと吹き降ろし、この世の生き地獄が広がっていく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵である。
暗い影を落としながら北西に広がるキノコ雲、30万の広島市民のうめき声がこのきのこ雲の下に広がっているのだ。暗黒の塵煙のなかでほとんどの家屋は倒壊し、数分後には随所に火災が発生して市内の大部分は火の海と化し、収拾のつかぬ大混乱に陥った。国宝の廣島城・五層の天守閣は大音響とともに北側の濠の中に崩れ落ちて行ったとあとで聞かされた。
原爆の洗礼を受けたのに、不思議と音の感覚がなく、燃え盛る炎の中にありながら熱さを感じず、又恐怖感すらも無いままに、しばらくは火を背に受けながら身動き一つ出来なかった。一瞬にして変貌したこの地獄絵を、自分自身が生きてこの世のものと感じるまで、ただ呆然と立ち尽くしていたのだった。
髪を振り乱し、全身火ぶくれになり、半狂乱のまま火の中を走って行く女性がいる。たしかあの看護婦さんに違いない。川に飛び込んでそのまま息絶えた人がいる。その水の上を紅蓮の火が走って行く。
ようやく彼は歩き出した。市内の至る所から次々に火の手があがり、終日天を焦がす勢いで燃え続けている。灼熱の余燼は夜空を染めて広島最後の夜は実に凄惨を極めた。何人も足を踏み入れることのできない焦熱地獄、何万人ともいえぬ重傷者がその火の中に溶けて行ったといわれている。
彼は燃え続ける広島市内を後にして太田川の上流に足を運んだ。不意に大粒の黒い雨が降ってきて白い病衣が褐色に変わって行った。男が居り、女が居て、少年が居て、少女が居る。みんなはぐれた肉親を捜しているのだった。男も女も着のままの姿で血と膿のにじんだボロボロの衣服を僅かに身にまとい、恰も幽鬼のような姿で下駄も靴も履かないはだしのままである。頭上から照りつける真夏の太陽の熱さにも不感症になって居るように見えた。まるで「生きた屍の群像」である。
彼は不意に意識が遠くなった。誰かに揺り動かされてふと気づいてみると、道端の草むらの中に寝ころんでいた。揺り起こしてくれたのは、片方の目がつぶれて、手はボロがぶら下がったように皮が剥がれて居る、半裸体の男性であった。
親切にも 「こんな所で寝て居ては駄目だ。もう少し歩けば戸坂だ。病院もあるし、医者もいる。頑張るんだ!」と頭から血だらけになって居る彼を抱き起こして励ましてくれた。当時、戸坂小学校には陸軍病院の分室が設けられていた。彼らは「戸坂へ」「戸坂へ」を合言葉のように口にしながら進んで行った。
ようやく戸坂へ倒れこむようにして辿りついた負傷者たちも、2,3日の間に600人近くが死に、長尾山のふもとのあぜ道には魚市場のマグロのように死体が並んでいた。
この時の彼は全身火傷で半裸体、右前頭部の裂傷、後頭部陥没骨折で、自分が歩けたのが不思議なくらいだった。感覚もぼやけて夢遊病者のようだったに違いない。病院に付いた途端、彼は意識を失った。気が付いたときは病院の廊下の隅にころがっていたのである。
「病院はいっぱいで収容することが出来ません。歩ける人は治療を受けてから民家にお世話になってください」と役場の人に指示されて彼は病院の外に出た。救護活動をしていた地元の人が差しだしてくれた一杯のお粥ものどを通らない。真夏の炎天下の大地は焼け付くように熱く、素足ではとても歩けなかった。
彼はこの時初めて「自分が軍人であったこと」に気が付いた。父が予備士卒業の時に持たせてくれた軍刀を失ってしまった事が悔やまれ、丸腰の自分自身を恥ずかしく思えてならなかった。
原爆の災害は全市に及び、負傷者は近郊の学校や軍隊の施設に運ばれたが、重傷者は手の施しようがなく応急処置さえ受けられずに次々に死んで行った。その多くは、苦悶のうちにただ「水を呉れ!」「水を飲ませてくれ!」と、叫びながら次々に死んで行った。応急の収容所に運ばれることもなく、被爆地や川べりで父母や妻子の名を呼びながら、あえなく死んで行った人もおびただしい数に上っている。
彼はその後、戸板市助役の清水さん一家の献身的な看病により一時は危篤状態に陥った命を取り留める事ができたが、翌日から全く起き上がることが出来ず、化膿し始めた左腕の火傷の痛みに耐えられなかった。天井から紐を垂らして腕を吊り上げ、夜は月を仰いでわずかに気を紛らわすのが精一杯であった。。
この腕の痛み消ゆるならば
切ってくれと言わんとせしがこらえ居たり
彼はその後、下痢、鼻血、吐き気、高熱が続いたので病院に戻ったが、周囲の患者達は朝になると毎日数人が死んでいた。病院の分室は小学校にあり、その運動場の片隅のむしろ囲いの中に死体が山のように積んであったそうである。
来る日も来る日も地獄のような苦しみの中で彼は8月15日の終戦の日を迎えた。彼は敗戦の口惜しさも悲しみさえもなく、ただうろうろして天井を眺めているだけで、陸軍将校としての使命感にも不感症になって居た。
原爆の熱線は人体に火傷を負わせたが、同時に放射能が皮膚の内面を破壊して醜いケロイドを形成した。彼は毎日固まった火傷のかさぶたを取っていたが、そのあとには膿がたまり傷口にはウジが沸いた。死臭の中の痛みと苦しみと不安は、いっそ死んで行く人の方が羨ましいほどであった。頭のカサブタを取れば髪の毛も一緒に抜け、体は日に日に痩せこけて肉親でさえ本人と見定められないほどであった。
その後、彼は8月末に郷里の滋賀県に帰り、慢性白血病の治療に当たったが外傷が治癒するだけでも約100日を要したが、その年の暮れにはようやく教職に復職して翌年再生の地、ヒロシマに赴いた。
世界にも類を見ない被爆体験者の生は、一面頗る過酷である。常に死がその影を落としているのだ。死を忘れて生きることが出来ないのである。彼はこの非情な体験によって我執と我見を捨て、蘇った命を精いっぱい生きようの決心した。 教職を定年退職後、彼は仏門に入った。
「死ぬときは死ぬほかはなし。病むときは病むほかはなし、苦しむときは苦しむほかはない。」
彼は苦悩を救う唯一の道はただ苦悩を無くすのではなく、苦悩を背負うて生きて行く力である。身にかかる悲しい境遇を生かして生きるのが真の勇気である。「苦しみから逃げずに苦しむ」そこから新しい道が開ける。諸行無常、無我の境地に達するまで苦しむ、そこに新しい道が開けるのである。と彼は述懐している・・・