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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(69)♪幼馴染の思い出は・・・

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       (69) 幼馴染の思い出は・・

           (小学卒業写真/男子)
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 「会うは別れの初めなり」・・幼馴染で懐かしい「ヒロちゃん」との別れはあっけないものだったが、 小学校の友達で女性との思い出は少ない。いや、殆どないといっても過言ではないだろう。

 あながち、質実剛健「男女七歳にして席を同じうせず!」と言うお堅い葉隠武士の風土のせいでもあるまいが、私の小学校時代の1,2年は男女共学だったが、3年以降は中学から大学まですべて男子学生ばかりだったので、今は女性の学友については記憶も消息も持ち合わせていないのである。
  その中で、唯一記憶の底にあるのは「キミちゃん」の事ことである。

        ♪ 幼なじみの思い出は
           青いレモンの味がする
           閉じるまぶたのその裏に
           幼い姿の君と僕


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                                  男子は剣道・女子は長刀を習った

 
    「キミちゃんのこと」
 
イメージ 3 小学校1年の時に同クラスだったキミちゃんは、頭が良くて大きな目のオカッパ頭の女の子だった。   ただ、それだけのことである。そして思い出に残るのもただ一つである。
 
 担任は生田先生と言い、束髪に矢絣の着物、袴姿で皮靴を履いているという典型的な昔の女先生だった。その優しい生田先生が、生徒たちに「この組で、一番お利口さんは誰ですか?」と尋ねると、 君代ちゃんが手を上げて「ハーイ、シランちゃんデース!」 
 続いて紫蘭が手を上げて「ハーイ、キミちゃんデース!」と叫んだのを覚えている。
 何とも可愛い遠い思い出である。  ハハハー・・

   ↑ (ベッティちゃん)

 3年からは男子ばかりのクラスになっのたで、私の小学時代の女の子についての記憶は、この一コマだけであるが、数十年たって同窓会で偶然出会って見ると、君代ちゃんはなんと【東京女子大】を出て、立派な英語の先生になっていた。
 
 しかし、彼女は中年太りのせいか、少々おなかが突き出ていて、いかにも才気溢れる女史然とした偉大なオバサンになってしまっていた。そこには、あのつぶらな瞳の可愛い女の子の一かけらもなかった。 うわさによると夫と別れて以来、男出入りが激しく、気性の強い文筆家であるという話であった。「美しく老いる」と言う著書まであるという。
 
 ある日、飲み友達が、「一杯付き合え・・」というので見知らぬ飲み屋に出かけた。そこの止り木には客の小太りのおばさんがデーンと腰を下ろして一人で飲んでいたが、すでに少々出来上がっていたようである。急に吾輩の横に座ったかと思うと「ウワ~ッ、シランちゃ~ん」と言ってシランの白髪頭をグシャグシャに撫で始めたのだ。

 急に見知らぬ変なオバサンから頭をさわられて「びっくり仰天」したシランは、思わず飲み屋を飛び出して、一目散に後も見ずに逃げ出した。あとから「ゴメンネ~、シランちゃ~ん」という声が遠くから追いかけてきた。
 
 実は、呑兵衛の友達が気を効かせたつもりで、シランとキミちゃんを呼んでこっそりと幼馴染の出会いを画策したのだった。だが、彼女はあのクリクリ目玉の可愛いオカッパ頭とはあまりにもかけ離れた存在だったのだ。 変なオバサンと勘違いするのも無理もないだろう。
 
 その「君代ちゃん」が突然、ひとり淋しく亡くなったと、風の便りに聞いてからもう久しい。 
 あの可愛かったオカッパ頭の少女はどこへ行ってしまったのだろう。。

                              つづく

 
 *台風15号は明け方から2時間ほどで足早に遠ざかり、雨戸まで繰って待ちかまえたのにしては、あっけなかったが、老人世帯にとってはほんとに助かった。

 

(70)幼馴染の思い出②

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       (70) 幼馴染の思い出 ②

  「ミキちゃんのこと」
 
  キミちゃんを裏返すと、ミキちゃんになる。小学校時代のキミちゃんにはその「ミキちゃん」という親友が居た。  ところが数年前の春爛漫のある日、突然この「ミキちゃん」の訃報が飛び込んできた。     彼女は花に先駆けて、すでに亡くなっていたのである。 知らなかった・・
 
 ミキちゃんも小学校1年の時の同級生だった。 
 勿論小学校時代の記憶にはなかったが、ミキちゃんとは15年ほど前の小学校の同窓会で偶然出会い、意外にもすぐ近くに住んでいて、中学同窓のヒロヨシと縁続きであったのを知った。

イメージ 1 ヒロヨシは子供の頃は、一緒に遊んだり泳ぎに行ったりした親しい幼馴染で、中学卒業時には卒業生代表として答辞を述べたほどの秀才で、苦学しながら京大を卒業した。

  同じ小、中学の同級生にヨシタカが居る。彼は東大である。戦時中に、20歳の徴兵検査を受けるために帰郷した時、同級生の同窓会を行ったが、宴終わって恩師とヒロヨシとヨシタカの4人で、月の光を浴びながら人気のない夜の街を帰ったのが忘れられない。


   ↑   (76歳・中学同窓会でヒロヨシと) 

 3年から卒業するまでの担任がこのY先生ばかりだったし、10歳くらいしか年の違わない男性の先生だったので、先生と言うよりも兄貴のような存在だった。卒業式後の茶話会で、ハーモニカで蛍の光を吹いてくれたが、その時先生の目に光るものがあったのが忘れられない。先生にとっては師範学校を卒業して初めて受け持った生徒たちだったから、よけい気になったのだろう。

 80歳の時、最後の小学校の同窓会を開いた。男子は3,4名だけだったが、女子は10名を超えていた。ここでもやっぱり女性上位だ。帽子屋をやっているオバサンが店をやめるとかでゴルフ帽子を二個貰った。先生は最後の授業として、プリントを一枚配られた。「ボケたらあかんで」である。


イメージ 2

 
 鎌倉在住のヒロヨシが帰省したときなど、ミキちゃんを交えて一緒によく食事に出かけたものだ。
奥さんを亡くしてからヒロヨシは、老人大学に通って古事記の勉強などをしていた。一人住まいの寂しさを紛らわすために、勉強することが生き甲斐だったのかもしれない、老いてなお勉学にいそしんでいたのである。
 ミキちゃんは時には家へもやってきて、私が漢詩の下手な講釈をしてやったり、家内とも親しくなって賀状などのやり取りをしていたのである。
 
イメージ 3    

      少年老い易く 学成り難し
   一寸の光陰 軽んずべからず
   未だ覚めず 池塘春草の夢
   階前の梧葉 既に秋風
   
  
                                     (朱熹)

 


 ↑ (ご褒美に硯箱を貰った。貝の螺鈿入りで漆塗りのきれいな硯箱だったが・・)
 
  どういう事情かは知らないが、ミキちゃんは生涯、独身であった。同年配の女性たちは戦時中に適齢期を迎え、男性の多くが戦場に倒れたせいで、未婚のままで終わった人も多い。ある意味では、戦争の犠牲者とも言える存在なのだ。 
 ミキちゃんの訃報も彼女の姪からのもので、一人暮らしのマンションの一室で、彼女はひとり淋しく病いに伏せっていたのだろうか。。
 毎年、丁重な賀状を呉れていたが、その年の賀状には「またそのうち、お食事でもご一緒して、昔話でもしませんか・・」と書いてあった。 或いはその頃から、身体の異常を感じていたのだろうか。。

 旧友たちの賀状に、時折り「懐かしいなぁ・・一度会いたいなぁ」と書いたのが来るが、そんな奴に限って翌年の賀状は大抵、その遺族からの「喪中ハガキ」なのである。ミキちゃんの賀状も、きっと別れが近いという、虫の知らせでもあったのだろうか。よく同じ同級生の太っちょのトクゾーさんと社交ダンスを楽しんでいるという話は聞いていたが、全く思いがけない唐突の訃報であった。。
 そしてその太っちょのトクゾーさんも昨年、あっけなく鬼籍に入ってしまった。。
 
 今や幼馴染の多くは旅立つてしまい、男で今も残っているのはわずかに2,3名しか居ない。なんとも侘しいものだ。 今頃は、キミちゃんとミキちゃん二人で、紫蘭の噂話でもしていることだろう。

       ハ、ハ、ハクショーン!!


   ♪ オールドブラックジョー

        若き日  はや夢と過ぎ
        わが友 みな世を去りて
        あの世に 楽しく眠り
        かすかに 我を呼ぶ
        オールド・ブラック・ジョー

        われもゆかん はや老いたれば
        かすかに 我を呼ぶ
        オールド・ブラック・ジョー


                                ・・・・・・・


  

(71)稲水車

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      (71) 「稲水車」
  
 最近は田園都市の佐賀周辺でも、いたるところビルや住宅が立ち並んで、2階の窓からも全く展望がない。昔は家の裏には広大な田んぼが広がり、遠くには多布施川の松並木から、はるかに天山の青い山並みまで見渡すことができた。夏になると,緑一色に彩られた田んぼに水を入れるために、農家の人が朝早くから水車を踏む姿が見えたものだ。

 最近は「足踏みの水車」は全く見かけないが、昭和の初めごろに電気揚水機が普及する前までは、水車はどこにでも見られる農村の夏の風物詩だった。家の裏から小学校に行く近道の田んぼでも、よく水車踏みをするおじさんに出会った。田んぼの狭い畦道を、綱渡りのように両手を広げてバランスを取りながら歩いていると、よくこのおじさんに大声で怒鳴られた。畦道が壊されるのがいやだったのだろう。朝、橋を渡る前に田んぼにこのオジサンが居るかどうかを確かめてから、学校への裏道を急いだものだ。

 山つきの農家は、自然に下って来る山水で灌水が出来るが、平坦部の農家は流れのない堀の水で稲田をうるおさねばならない。そこで大昔は、手桶で汲み上げていたので一反(一アール)に、五、六時間もかかっていたらしいが、江戸末期に足踏み式の水車が発明されてからは、農家はずいぶん助かった。それでも一町歩の灌水なら一日十時間もかかるのである。涼しいうちにと、東の空が白む頃から踏みはじめ、カンカン照りの日中は昼寝で過ごし、夕方涼しくなるとまた踏む・・と言う毎日が稲の育つ間4か月も続くのである。


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                                   (画・南窓)
 
 
 今のように圃場整備されて居ない昔では、農家の田んぼはがあちこちに分散していたので、どうしても水車も移動させねばならない。分解した羽根車と大きな太鼓のような丸いワクを担いで田んぼの狭いあぜ道を行くと、伸びた稲や空豆につかえてなかなか歩きにくいものである。水車を使わない時期には、どこの農家でも入口の土間に大きな水車の羽根車が置いてあったものだ。

 水車は体重をかけて回すので、体の軽い女性は余計に骨を折る。そこで小学生は男女とも母親の車に乗って加勢(手伝い)をする。そしてささやかな小遣い銭をもらうのだ。夫婦二人だと楽なので、良く二人で踏むこともある。幅わずか一尺しかない水車に乗って並んで踏むのはとても窮屈だが、はた目には仲の良い夫婦と見える。こういう水車の二人乗りを「天乗り」と言う。なるほど、「天」と言う字を分解すれば「二人」になる。

 昭和の初めになると、電動式の揚水機と田んぼの中まわりにコンクリートの水道が普及して、水車の姿も次第に見えなくなった。この官民一体の農業改革の努力によって、昭和12年には佐賀県産のコメの平均反当たり収穫量が日本一になった。この輝かしい成果は農業発展の【佐賀段階】として称賛され、農業は佐賀につづけ!という合言葉になったのである。

 大学の農業政策の講義でも、よくこの「佐賀段階」と言う言葉をよく聞いた。戦後の経済学はマルクス・レーニンのの弁証法が幅を利かせていて、教授も講義も進歩的マルクス主義ばかりだった。農業も正・反・合という弁証法的経済発展の一段階として「佐賀段階」と言う言葉が使われたのである。

 戦後70年、今や共産主義の本拠、ソ連も崩壊してしまい、国際共産主義は70年にわたる経済学の壮大な実験の歴史として、水車のようにあえなく消滅してしまった。今は圃場整備が行われて田んぼと水路は整然と区画され、大規模の機械化農業へと転換しつつある。

  歴史の流れは早くして無常、留まるところを知らず次々に変化していく。。



(72)水車団地

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     (72) 「水車団地」

  稲田の灌水用としては足踏みの水車が一般的だが、別に流水を利用して自動的に水を田んぼに上げる水車があった。福岡西部の農村地帯にある朝倉市には、今でも二連、三連の自動式水車が動いている。
 これらの自動回転式の重連水車群は約220年前に設置され、現在も実際に稼働している水車として全国的に有名な観光施設になっている。

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  一方、佐賀の吉野ヶ里遺跡の近くにある仁比山村(今は神崎町)には、城原川から曳いた豊かな水流に沿って多くの水車の跡が残っている。この水流は千分の四十と言う急こう配が1キロに渡って流れ、水車建設には絶好の地勢になっているのだ

 明治時代には「城原川水車百挺」と言われていた程で、実に60挺の水車が集中して一大水車団地を形成していた。豊富な水量により低落差の水車が次々に作られ、高さ4mの大水車は十馬力の力を産んで、重い石臼を回して小麦の製粉をするのである。曳いた小麦粉は下流の神崎や県内外の製麺業者に運ばれて、うどんやソーメンになる。

 当時は水車大工や水車を管理する水車親方がいて、荷車に小麦を積み平野部から農家の青年などが集まって、賑わいをみせていたという。 近隣のみならず遠くは福岡県からまでも、農家の若者が麦を担いでやって来るのである。自家用のうどん粉を曳きにくるのである。

 近隣の故老の話では「仁比山まで三里の道のりを、50キロの小麦を小桶二つに入れて、天秤棒でになって夕方から出かけた。そこで一晩泊まって手打ちうどんのご馳走を受けた。粉ひき場には「粉ひき女」が居たので、元気な若者たちは喜んで一日に二度も出かけた」そうである。

 「粉ひき女」は水車一挺に二人づつ雇われて住み込み、徹夜で交代作業をしていたから、村の青年衆は毎晩遊びにでかけた。そのためこの辺りは昔から宿場町として栄え、川っぷちには小さな温泉も湧き出て、七軒あった料理屋や旅館には酌婦も居る、という賑やかな盛り場だったという。


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  しかし、明治41年、上流に広滝発電所が作られるとさしもの水車団地も衰退し、昭和30年にはすっかり姿を消してしまったが、今は、平成7年に昔を偲ばせる仁比山水車を復元して、「水車の里」として立派に整備されている。




(73)雷サン

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         (73) 雷サン

 足踏みの水車とおなじく、昔の夏の風物詩と言えば、夕立に雷さんだろう。
 昔から「地震、雷、火事、おやじ」はコワイものの四天王のように言われて
いるが、その中でも一番身近でこわいのはやはりである。

 雷が鳴ると、子供は勿論、大人まで真っ青になって慌てて麻の蚊帳を吊って
中に逃げこんだものだ。外に遊んでいる子供もゴロゴロと言う音を聞くと、一目散に家に飛んで帰り、麻で織った緑の蚊帳に入り込んだものである。麻は絶縁体だから大丈夫と言われていたが、本当だろうか。
 雷さんは落ちて来て人間のヘソをとると言い伝えられていて、子供が夏に腹を出していると「雷さんにヘソを取られるぞ」と大人から脅かされたものだが、これは寒冷前線が通り過ぎると急に気温が下がって、子供がおなかを出していると、腹が冷えて下痢を起こすからだという。

 神話では,天照大神の子は「マサカツ、アカチカツ、ハヤヒ、アマノ、オシホミノミコト」と言い、これが雷さんなのだそうだ。
 つまりマサカツ(盛んに)アカチカツ(轟きひびく)ハヤヒ(きらめき光る)アマノ(雨の)オシホミノミコ・・と言う名前だそうで、雷さんそのものである。

 また、その昔、藤原時平の讒言によって九州の大宰府に左遷された菅原道真は、死後、雷神となって都に戻ったと言われている。そして京都では疫病が流行り、干ばつが続いたり落雷のために清涼殿が焼けたりした。これは道真の怨霊の祟りだとして、その後道真を天神様として祀る「天満宮」が京都や大宰府などに建立された。
 然し怨霊と化した道真の雷さんは、道真の故郷である京都の桑原と言う所には落ちなかったので、雷さんが鳴るとクワバラ・クワバラと呪文を唱えて蚊帳の中に逃げこむ風習が出来たという。

                (大宰府天満宮の飛梅)    影絵 (藤城清治)
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 蚊帳の中に入っても隅の方は四方の柱に近いので危ないと、みんな真ん中に集まって縮こまる。
事実、田んぼの草取りの最中に雷に打たれて死んだり、落雷で家が焼けたりしたことが身辺にもあった。ゴルフをしているときは特に危ない。金属製の棒を持って広い野っ原に突っ立って居るのだから、ゴルファーは雷さんの絶好の獲物になる。

 若い頃、ゴルフ場で夕立に遭い、コースの四方八方に火柱が立って、ピカピカ、ドンピシャリと大暴れ。友達と二人、ゴルフ道具もなんのその、その辺に放りだして一目散にハウスに逃げ込んだことがあった。
今はコースの2,3か所に避雷針が立っているのでだいぶ助かるのだが。。

     迅雷(じんらい)に一瞬木々の真青(まさお)なり    長谷川かな女


 佐賀平野では、東の黒雲は大丈夫だが、西の方角に黒雲が怪しく乱れ走ると、紫電一閃、天地を引き裂く雷鳴につれて、北方の天山山脈の山並みがすだれのような雨のために白くかすんできて、
やがて大粒の雨が叩きつけるように降り注ぐ。こんな夕立はたいてい決まった時刻に三日連続でやってくるので「夕立三日」と言う言葉が生まれた。

                                (夕立)      画・南窓
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 雷は魔神のように思われて、カミナリサンとサンづけで呼ばれるが、稲の生育には良いとされている。稲妻の高圧放電によって空中の窒素が固定され、オゾンが発生するのだそうだ。
 稲妻がピカッと光ると同時にドーンピシャリとくれば近いから危ないと用心をする。一方、音速は一秒に340mだから一、二、三、四・・・と秒読みをして、まだ何千m先だから大丈夫だと安心することもある。
 しかし、夕立は不思議なもので、しばらくするとまた青空とセミ時雨が戻ってくる。
 雷さんはコワイが、夕立の通り過ぎたあとの爽快感はまた得難いものでもあ
る。。

        夕立に ひとり外(そと)みる 女かな     其角


  * 今日は朝から小雨が降り続いていて、薄着の身にhあちょっと肌寒い。
まだ8月は終わって居ないというのに、まるで秋の長雨のような気温である。盆前のあの暑い夏はいったいどこへ行ってしまったのか。。

 「のど元過ぎれば熱さ忘れる」 
人間は気ままなものだ、「秋は夏の焼け残り」というが、秋は寂しい。  
 あの酷暑に喘いだ夏が、豪快な夕立にカミナリサンが、今更ながら懐かしい。。

(74)綾部さん参り

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         (74) 「綾部さん参り」

 昔の仏像や絵画にも「風神雷神」があるように、雷神と言えば風神ですね。 天神様が「雷の神様」ならば、佐賀の中原(なかばる)町にある「綾部神社」は「風の神様」です。

 平安時代、村上天皇の御代に綾部(あやべ)地方に大風水害が起こりました。そのとき、修験道の山・背振山千坊の「隆信沙門」と言う偉い坊さんが、近くの山に登り、山頂で風除けの祈祷として法華経一万部を読経しようとして、九千部まで読んだところで力尽きて亡くなりました。以来、この山は九千部山と呼ばれていますが、地元ではこの隆信の徳を偲び、風神さまを綾部神社にお祀りしました。

イメージ 1 この綾部神社の夏祭りの7月15日には境内にある銀杏の大木に旗を掲げる「旗揚げ式」が行われ、五穀豊穣を祈願します。旗は幅一尺(約30㌢)長さ一尺二寸の麻地の旗で、18mの長い竹の先に括り付け、斎戒沐浴して身を清めた若者が社前に立つ30mの大銀杏の木に登って竹を引き上げて、木の枝に括り付けます。

 宮司さんはこれから秋祭りの「旗下ろし」まで70日間、毎日旗の巻き具合を見て、風占いをします。

 旗のなびき具合で、風雨の襲来や農産物の豊凶を占おうしよう言うわけです。 そのため、この旗揚げ神事は「日本最古の天気予報」だと言われて居ます。
 ついで九月一日の「二百十日」には中原町の区長さんたちが揃って九千部山に登って風神さんに祈願をします。

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  また、お彼岸の中日の9月23日は、秋祭りの第一日目で、社前で「浮立」が奉納され、翌日の二日目には「旗下ろし」と風よけ祈願成就の感謝祭が行われます。旗揚げ式から旗下ろしまでの間、肥前・筑後の各農村からは、各部落から区長さんはじめ全戸連れだって綾部さん参りをします。各家から集金して「神せん料を奉納し、直らい(*ナオライ/神事の後で御神酒を頂き、食事を共にする儀礼的な食事会)として門前の茶店に上がって酒盛りをします。

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 門前には二階建ての大きな茶店が軒を連ね、上も下も団体客が一杯で大賑わい。門前町のモチ屋さんでは、酒の飲めない下戸のために「よごれ餅」と言うアンコロ餅(牡丹餅)を売っており、参道の鍛冶屋さんでは、この時とばかりフイゴで火を起こして、参拝の農村客を目当てに桑や鎌を作って並べています。
 
  フイゴで火をおこすときは、ブースー、タンスーと聞こえるので、昔の子供は鍛冶屋さんのことを「ブースーさん」と呼んだものです。綾部の鎌は焼き入れが上手で刃こぼれがせず、よく切れると評判がよかったです。
 奉納の綾部の浮立(ふりゅう)は鐘や太鼓を打ち、笛を吹きながら歩く大名行列で、総勢200名余り、打ち鳴らす鐘の音は「かかコンコン、コンコン」と聞こえて、綾部さん参りの人気ものでした。


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 しかし、時代は移り変わり今では、青壮年にかわって小学生の男児が主役となり、吹き流し、鉄砲隊、はさみ箱、槍隊、大鐘、小鐘、太鼓、笛の順に、下宮から神社までの1キロにわたって、一糸乱れぬ道中絵巻を繰り広げます。




(75)浮立の話

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         (75) 浮立の話

 「浮立のこと」
 この綾部さん祭りの「行列浮立」のような「浮立・フリュウ」は、佐賀県に
伝わる伝統芸能の一つで、豊年を感謝して毎年、各地の氏神様に奉納する神事芸能です。佐賀県下には「鐘浮立」「面浮立」「天衝舞・てんつくまい」など、それぞれの地区に様々な形の浮立が伝わって居ますが、浮立の語源は、平安時代の雅楽「風流」といわれ、鐘や太鼓のリズムにあわせて賑やかに勇壮に踊ります。
 
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 その中でも一番有名なのは佐賀県南部の鹿島地方に伝わる「面浮立」で、県の重要文化財に指定されて居ます。面浮立は般若の面に似た「鬼面」をかぶった男性の踊り手が、鐘太鼓に合わせて激しく勇壮に舞い踊ります。鬼の人数は不定ですが、男性が10人前後で踊ります。その衣装は濃紺の木綿の上着と股引をつけ、黄色い帯を締めます。

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 一方、鐘を打つのは女性で、二人一組、5組十人前後、一つの鐘を二人で持って拍子に合わせて二人同時に鐘を叩きます。女性の衣装は紅い襦袢に青い前垂れをつけ、その上に浴衣を着流します。そして頭には花笠をかぶって、手ぬぐいで顔をおおいます。家内も小さいころに、氏神様の浮立で、花笠をつけて鐘打ちに出たそうです。

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 面浮立の起源は、戦国時代に豊後(大分)の大友宗麟が肥前〈佐賀)の竜造寺隆信を討たんとして佐賀市北方の今山に攻め寄せたとき、龍造寺方の家老・鍋島直茂が一族郎党に鬼の面をつけて鐘や陣太鼓、笛を鳴らして敵に夜襲をかけて勝利したという故事にもとづくそうです。

    「今山の陣」

イメージ 5 戦国時代の九州は、大分の大友宗麟と薩摩の島津氏、肥前佐賀の竜造寺隆信の三氏鼎立の時代でした。

 元亀元年(1570年)八月、豊後の大友宗麟は肥前、佐嘉(佐賀)の竜造寺隆
信を討つべく、総勢八万余騎の大軍を引き連れて、佐嘉城に押し寄せました。

 対する佐嘉城の竜造寺軍は10分の1にも及ばず、大友軍は多勢を恃んで、佐嘉軍など鎧袖一触とあなどり、8月20日を総攻撃の日と定め、19日夜は戦勝前祝の酒宴を開き、痛飲豪語して警戒も怠り、酒興に耽っていました。

        ↑佐賀城・鯱・しゃちの門)

 竜造寺隆信軍の家老「鍋島直茂」はこの報告を受けて、今夜、敵の総大
将、大友親貞が陣をしく「今山」の本陣の夜襲を決意しました。

 20日早暁、敵陣に達した決死の総勢700余騎、一斉に疾風迅雷の勢いをもって本陣を急襲しました。不意をつかれた大友軍は、周章狼狽、大混乱に陥って敗走、総大将の親貞も、竜造寺四天王の一人、成松刑部の手によって討ち取られました。このとき、鍋島の軍は鐘や太鼓を打ち鳴らし、鬼面をかぶって攻め込んだそうで、今でも太刀を持ったり、鬼面をかぶって鐘、太鼓で踊る、「面浮立・めんふりゅう」という郷土芸能が残っています。各地の秋の氏神様の「おくんち」にはあちこちで、この「浮立が勇壮・豪快に舞われます。

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 今山の戦いの結果、敗残の大友軍は鉾を収めて、10月3日に豊後に帰還しました。 今も佐賀郊外の「今山」には、「古戦場・今山の陣跡」の石碑が残っています。今山には、中学ごろの遠足でよく出かけました。近くに葉隠発祥の地もあります。
 この今山の陣については故老の「民話」も伝わって居ます。

   佐賀の昔話  「今山の陣」    (・・与四郎さんの話

 そのときの佐賀の総大将は竜造寺隆信ではなくて、息子の竜造寺八郎と言うのが来ておりました。大友の大軍が今山に陣取って、明日はいよいよ佐嘉城の総攻めという段取りになっていたらしいです。
 そして、佐嘉城ではどうするか・・という評定があったのです。真島に住んでいた気の利いた侍も評定に出ていましたが、どうするか、こうするか、何の妙案も浮かばず、とうとう夕方になってしもうたので、その侍さんは家に帰っていたらしかです。そうして、あの「木起こしのお地蔵さんの所を通りかかったところ、一人の百姓さんが出てきて、

イメージ 6 「お侍さん」
   「何か?」
 「きょうの評定はどがんなった?」
  「どがんなったと言うても、どうもこうもならんじゃった・・」
   というと、百姓さんが
 「あれは、わけもなか事ですがなぁ・・」
   「わけもなか・ちゅうて、どがんして攻めるとか?」
 「なーに、そりゃー、今夜攻めると、何事もなかぁ!」
   「そいぢゃー、どがん風に攻めるとか?」


 「そりゃ、簡単ですタイ。あの、田の中にずーっと水を入れさせなされ
。そうしておいて、わずかの人数でよかけん、裏回りして攻めてみんさい

 侍は「そりゃー、よか話バイ」と思うたけん、逆に「馬を貸してくれんか」と言うて馬を借りて一目散にお城に取って返して、「こういう話があったが、どうでしょうか」というと、家老どんが「そりゃー良かぞー、そんならそうせい」というて、八方に馬を飛ばして、その辺一帯の田んぼに水を張らせたらしかです。
 そうして、佐嘉勢の本隊が全部揃ってだぁーっと一気に攻め込んだとき
、時間を見計らって佐賀の豪傑ばかり集めた別働隊が、道案内をつけて裏山から廻りこんで攻め込んだそうです。

 その別働隊が攻め込んだときは、わずか200名ぐらいらしかったです
 そいで、うちの親父の話では、大友軍の大部分を今山で討ち取ったらし
くて、大友八郎秀親ちゅうとは、今山から馬で逃げ出したらしかですね、そこで秀親を川上まで追っていって、やっと川上で討ち取ったという親父の話です。

 まぁ、事実かどうか、実話のようでもあるし、伝説のような話ですタイね。 ハハハー・・・

                                    (・・与四郎さん)



(76)佐賀城・鯱の門

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        (76) 佐賀城・鯱の門

             「佐賀城・鯱の門」
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  鍋島36万7千石の居城「佐賀城」はもと北九州三国の太守・竜造寺隆
信の居城だった「村中城」のあとを継ぐもので、隆信の死後、後継者となった家老の鍋島直茂が築造した平城で、大方の城郭が小高い丘の上にあるのに対し、佐賀城は平坦な平野部にあり、楠や松の大木に囲まれて敵からは見えないようになっていて、往時は一名「沈み城」と言われていた。

 天守閣は小倉城にならって4層五階の壮大なものだったそうだが、度重なる火災で天主閣は焼失し、内部の本丸御殿などの建物も明治維新時の佐賀の乱で焼失、現在は天主台と大手門の「鯱の門」だけが残っている。
 今は復元された広大な本丸御殿とともに、広大なお濠と鯱の門から天主
台へと続く苔むした石垣が当時の城郭の面影を残しているだけである。

イメージ 2 鯱の門は本丸への出入り門で、棟の両端には銅(からかね)製の鯱(しゃち)がオス、メスの二つが据えてある。 鯱は想像上の動物で、頭が虎、胴は魚という火事除けのまじないである。

 その鯱のおかげか、明治7年の司法卿・江藤新平の佐賀の乱で官軍の攻
撃に遭ってもでも炎上しなかった。当時の激戦を物語る弾痕が門の扉に今も残っている。鯱の門は全国に残る城門の中でも屈指の名門といわれ、戦前は小学校や商業学校の校門として使われ、他の学校の生徒たちを羨ましがらせたものである。


     「佐賀の化け猫騒動」

イメージ 3 佐賀の鍋島藩と言えば、まず思い出すのは「鍋島の化け猫騒動」であろう。
 この有名な佐賀の化け猫騒動の筋書きは、鍋島2代藩主・光茂の碁の相手をしていた家臣の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねて斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害した。その自害した母の血を舐めたネコが化け猫となって城内に入り込み、毎晩のように藩主の光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半佐衛門がネコを退治して、鍋島家を救うという伝説となった。

 この話はその後、講談や芝居に取り上げられ、昭和の初めごろには映画でも「佐賀の夜桜」とか「佐賀怪猫伝」となり、女優の入江たか子や鈴木澄子が化け猫女優として活躍した。


 しかし、この化け猫騒動の実録は違う。



 竜造寺隆信が、島原半島の有間氏との戦いで戦死したあと、義弟で重臣の鍋島直茂が佐賀藩の実験を握ったが、隆信の四男「竜造寺高房」は名目上だけの国主の立場に絶望して、精神に異常をきたし、江戸の桜田屋敷で妻を刺殺し自分も自殺を図り、無念の死を遂げた。
 その後、高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るという噂が立つようになった。この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て鍋島家に復讐を企て、最後には鍋島氏の忠臣によって退治されるという化け猫騒動の筋書きとなったのである。

 竜造寺から鍋島への政権交代をタネにに造った歌舞伎や講談のありもし
しない作り事から、実際にあったような「化け猫騒動」に発展してしまったのである。


 佐賀城を取り巻く四面のお濠は、今も幅50mと言う広大なもので、佐賀の誇りでもある。東堀は今は失われているが、復元を目指していま発掘調査が行われている。今の県庁前の北堀は、福岡の黒田藩の福岡城の濠造りに佐賀藩が加勢(手伝い)した代わりに、福岡からやってきて黒田藩が作ったもので、昔は「筑前濠」と言っていたそうである。一方福岡で「肥前濠」と言っていたのが、今の福岡の「大濠公園」である。大名の城造りは天下の大仕事なのでお互いに加勢しあったというわけである。

 
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(77)領巾振り山(ひれふりやま)

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       (77) 「領巾振り山・ひれふりやま」

 有明海は遠浅で泥の干潟が遠くまで広がっているので、海水浴はできない。そこで昔の海水浴場と言えば、こちらでは玄界灘に面した白砂青松の唐津海岸だった。小学校の6年の夏休みに、臨海学校があり、唐津の浜崎の小学校に寝泊まりして、一週間ほど過ごしたことがある。その間、夏休みの宿題をしたり、海岸で泳いだりして心身を鍛えるのである。

                                            (唐津城)
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 臨海学校は唐津の浜崎にある古びた小学校なので、便所が別棟にあり、ムカデ板の長い渡り廊下を行かねばならない。裸電球だけの薄暗い土間を、深夜に一人で行くとなんともコワイ思いをしたものだ。
 昔は、海の塩水につかり夏の熱い日差しで体を焼くと、冬には風邪をひかない、と言われていて、夏休みには毎日のように川泳ぎや海水浴に出かけたものである。泳いだ後、友達の家の屋根の瓦の上に寝転んで背中を焼いたり、夏休みが終わって新学期になると、学校では日焼けぶりを自慢する「黒ん坊大会」があったりした。とにかく、良く焼けた方が健康にいいと思われていたのである。

 子供が小さいころも良く家族で一緒に泳ぎに行った。
 昔は、唐津までは唐津線で汽車で行かねばならなかったが、戦後は道路の整備と車の普及のおかげで、ほとんど山越えのルートで自動車で行った。しかしまだ、車にクーラーがなく、運転席の三角窓から入るわずかな風だけが頼りで、それでも泳いだ後の体はほてって暑い、暑い。。下半身はパンツ一枚で運転して帰ったものだ。

 道順は、国道の唐津街道を行くのが正式だが、筑紫山脈を乗り越えて行くのが近道である。市内から川上川に沿って北上し、古湯温泉を経て七山峠を越え、玉島川に沿って下ると、浜崎海岸に出る。平野部ではなく山越えのコースだから、信号も車の往来も少なく、窓外の風景も見事である。約1時間20分もかかれば、もう天下の名称「虹の松原」である。

               (鏡山山頂から望む虹ノ松原)
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 「虹の松原」は約400年前に造られた人口の防風林で、唐津から浜崎海岸まで、長さ5キロ、幅700mの見事な松原で、静岡の美保の松原、福井の気比の松原とともに日本三大松原の一つに挙げられている。

 この白砂青松の「虹の松原」の背後に「鏡山」がある。海抜わずか284mの小さい山だが、麓から歩いて登ると結構汗をかく、いつか植物友の会でも歩いて登ったことがある。頂上らしきものはなくだたっ広い平原状なので、富士山の上半分を削ったたような台形の山である。昔、唐津勘右衛門と言うほら吹きのとんち者が、「唐津の鏡山は、今はしゃがんでいるが,立ったら富士山よりも高いぞ」 と自慢話をしたという話が伝わっている。いくらなんでも富士山には叶わないだろうが、美保の松原よりも虹ノ松原の方が日本一きれいなのには間違いない。

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 この鏡山の頂上から眺めると、虹の松原から広がる松浦潟の風景が実に素晴らしく、まさに天下の絶景である。春の桜の名所でもあるし、唐津に行ったら、この山に登らぬふうけモン(バカ者)と言うほどである。今は山頂までバスが通じていて、老人、子供でも誰でもこの絶景を望むことが出来る。車社会のおかげである。

  山頂には、万葉集にある山上憶良万葉歌碑が建っている。

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 行く船を振り留みかね如何ばかり
   恋しくありけむ松浦佐用姫

 
  遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまごい)に
    領巾振りしより負える山の名


 

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 千数百年の昔、朝鮮半島の任那(みまな)の防人(さきもり)の司令官「大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の船出の時に、松浦佐用姫がこの山上から長い領巾(ひれ)を振って別れを惜しんだ、と言う故事から、この鏡山を一名「領巾振り山」と呼ぶようになったといわれている。


 そのあと、出ていく船を追って山を駆け下りたという和多田と言う所には、その時の足跡が残る「佐用姫岩」がある。
 美しい唐津湾の虹の松原を一望できる鏡山はまた、奥ゆかしい万葉のロマンを秘めた「領巾振り山」でもあったのだ。。

             
     松浦河 月 あかくして人の世の
      かなしみさへも 隠さふべしや

                   斎藤茂吉


    ↑  (松浦佐用姫像)

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(78)多布施川・石井樋の話

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       (78) 「多布施川 / 石井樋の話」

 佐賀の市内には,多布施川が縦横に流れています。
 この多布施川はもともとは筑紫山脈から流れ出した「嘉瀬川」と言う大きな一級河川から、「石井樋」という樋門で分岐して市内に取り入れられた川です。戦前は市民の生活用水として、重要な役目を果たしていました。

                         (石井樋・俯瞰図) 手前が上流・剥いだり橋が多布施川

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 嘉瀬川の上流にある「川上・かわかみ」付近は、むかし佐賀の嵐山と言われた景勝の地で、市民の絶好の避暑地になって居ました。小学生の頃は、よく泳ぎに行ったものです。ガタガタのチンチン電車も走って居ました。5年生の時には夏休みに、「実相院」と言う古い密教のお寺に開設された「林間学校」で一週間ほど寝泊まりして、勉強と水泳で心身を鍛えたこともあります。

     川上の実相院で・・、
     坊主が上手に屏風に坊主の絵を描いた。。
                        などと早口言葉を覚えたりして。。


    「石井樋」の話


 この多布施川は江戸時代の始め、1615年ごろみに佐賀藩の藩士「成富兵庫茂安」が改修したもので、大雨が降るごとに氾濫していた嘉瀬川から市内に支流を取り込むために「石井樋」と言う樋門を作りました。

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 これは、「象の鼻」「天狗の鼻」という二つの石造りの設備を川の中に作り、川の流れをUの字型にして水の流れを弱めたり、流れを変えて多布施川(たふせがわ)に水を流すためのものです。この水を取り入れる設備を「石井樋」と呼んでいます。
 茂安はこの多布施川を佐賀城下一帯にクモの巣のように流れるようにして、市民の飲み水に使いました。またこの水を佐賀城の本丸まで引いていたので、市民も殿様も同じ水を飲んでいたわけです。そこで、川役人は何時も川を見回って、顔を洗ったり、はだしで川に入るのを厳しく取り締まり、違反するものを厳罰にしました。もし、田んぼに使う肥え桶でも洗おう者なら、その場で斬り捨てられたそうです。

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                                  (石井樋の象の鼻・昭和になって改築されました)


  石井樋の工事は川砂が入らぬように、また水流の調節の苦心など、茂安が独特の工夫をこらし、心魂を傾けて造築しました。
 取り入れ口の「象の鼻」は振り上げた象の鼻のようにN字型になっていて、本流から分岐した川水は象の鼻で一旦北上し、更に「天狗の鼻」のところで南に下って、水の勢いを弱めてから、井樋をくぐって市内に流れこむようになっています。

イメージ 3(成富兵庫は治水に優れ、筑後川の治水、堤防工事にも功績があり、今でも県東部の筑後川沿岸には「北茂安村、南茂安村」が、佐賀市東には「兵庫町」の地名が残っています。) 
 
 この江戸時代の石井樋の工事は、重機も、車もない時代、すべて人力に
よる自然の河川の改修なので、とても難工事でなかなかうまくせき止められません。そこで昔から土木、築造などの難工事の際に行われていた「人柱」が立てられました。

     ↑ (成富兵庫・顕彰碑)


 これは、明治生まれの古老の人たちの語った、石井樋の人柱についての伝承話です。
(本文は佐賀の方言で語られていて、とても判読できませんので、現代語に解釈してお送りします)

 X* 「石井樋の人柱」 その一   (・・太六さんの話)

 成富兵庫の水工事のあったころには、まだ機械がなかったけん、みんな人間が天秤棒でもっこをかついで土手を作っていました。
 
 ばってん、その時はどうしても工事がうまくいかなかったそうでな。。
 そのうち、やっと大方出来あがったころに、雨が降ってきてどうしてもうまく行かんごとなりましたけん、こりゃ人柱になってもらう人が居らんと、とてもその、工事は出けんと言うことになりました。

 それじゃ、誰にするか・・「じゃんけんできめるか、どうするか」というところに、誰かが「肩に横ぎれを当てたものに人柱になって貰おう」ということで決まった模様です。
 そして、周りをよく見たら言い出した本人が横布を当てていて、その人が人柱になって工事は成功したという話ですたい。 
(*むかしの着物は絣が多く、縦横の縞模様でした。修繕で肩や袖などにふせぎれを当てていましたが、縞模様が縦になったり横になったりしていました。)

 ○  人柱の話[そのニ]   (・・善逸さんの話)

 いよいよ石井樋の堰(せき)を止めるとき、役人が「ここを何時間のうちにせきとめろ」と言いますが、とてもそんなに早くは出来はしません。そのときに人柱を立てることになって、 「2月15日は小月15日である。その日に下をうつむいて咳をしている、20歳から25歳の女ばここへつれて来い、という事になって、誰かがこの娘が咳をしたと言うて連れてきました。
 
 そうすると、棒を立てて、どうしたか詳しくは存じませんが、その女の人をがんじがらめに括りつけて人柱をたて「この人ば埋めてしまうと同時にこの川をせき止めろ」と言うことになったそうです。
 みんなは、うかうかしていると、また次の人柱を立てろと言われるかも知れないと、一生懸命に稼いだので一時のうちに出来あがってしまったそうです。

 樋門は三つ石樋があったですもんね、その真ん中の石樋の天井の石に観音さんが刻んでありました。無残に死なねばならなかった人柱の供養のためでしょうか、築造した石工さんがこっそり刻んだのでしょうか。。・・

                  (樋門の中の天井の石に刻まれた観音様)

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   ・・・・・

 いくら常識のない昔の事とは言いながら、人柱とは何とも無残で非常識なものですね、肩当に布切れをあてただけで・・、うつむいて咳をしていただけで・・人柱にならねばならないとは、何とも哀れな話ですね。

 こんな先人の必死の努力のおかげで多布施川は、今は、両岸の土手には数千本の桜が植えられ、四季の花々も咲き乱れて、市民の絶好の散歩道になった居ます。
 子供のころはよくここで泳いだり、蛍狩りを楽しんだものです。
 哀れな人柱のことなど何も知らずに。。



                      

(79)多布施川の川下り

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       (79) 多布施川の川下り

  京都の保津川や球磨川など・急流の川下りほど勇壮なものではないが、ふるさとの川・多布施川にも昭和の初めまでは「川下り」があった。

 戦前は九州の嵐山と言われていた佐賀市北郊の川上峡には、弦歌さざめく屋台船が浮かび、歓を尽くした市民はそのまま舟を乗り換えてのんびりと川下りを楽しんだ。川上川から多布施川を通り、市内の招魂社(今の護国神社)まで二時間ののんびりした舟旅である。

                         多布施川の川下り           (大正四年七月撮影)

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 紫蘭の小学校時代には、川上までの遠足もあったがもうこの舟下りはなかった。行きも帰りも、ただテクテクと歩くだけだった。

 姉の女学生の頃はまだ、川上の遠足の帰りはこの「川下り」だったそうだ。川下りは、石井樋を通るが、樋門のため舟が通れない。そこでこの石井樋に着く前に生徒たちは船を降りて井樋の出口まで歩いて行かねばならない。しかし、船頭さんだけはそのまま舟に乗って、四角な井樋の石の天井で頭をぶっつけないように船の中に仰向きになって寝る。暗やみの樋門の中は急流なので、舟が石壁に当たらぬように手と足で樋門の側壁を突きながら器用にカジを取るのである。

                (明治時代の石井樋付近)    明治34年
 
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 生徒たちは自分の舟が来るのを今か今かと待っていると、滝になった樋門の出口から舟が次々に吐き出されてくる。生徒たちはまた舟に乗っておしゃべりをしたり、唱歌を歌ったりしながらゆっくりと下って行く。もと鍋島藩主の別荘だった「神野のお茶屋」を過ぎると、次は長崎本線の鉄橋である。

 女学生の中に「船頭さん、船を止めてください、三時の汽車が通りますけん・・」と言う生徒が居たそうだ。。船頭さんが「なんで?汽車のゴーゴーというて通るのが面白かろうもん」というと、「いいえ、汽車の下に居ると汚い水が落ちてくるけんね」

 彼女の父親は佐賀の駅長さんで、昔の汽車は進行中に汚水をしぶきのように降りまわして行くのを知っていたのだ。そういえば、戦前の汽車のトイレのなかには「停車中の用便はご遠慮下さい」と書いてあったっけ。。 だから鉄橋の下で泳ぐのは禁物だったのだ。。
 田んぼの中も百姓さんたちが肥桶から汚水を振りまいていた時代である。

 そのころの多布施川の土手は、大小の黒松の並木が続き、どの松の木もそれぞれに面白い形をしていたが、今も残るのはわずか数本だけである。。戦時中に飛行機用の油として松の木の幹に傷をつけて松根油を採ったせいで枯れたのだろうか。。


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                    (鉄橋の下をくぐって・・)

 
 戦前はこの鉄橋の踏切は自殺の名所だったようだ。家内も一度莚をかぶった死体を見に行って、しばらくの間怖くて眠れなかったとか。。
 飛び込み自殺があると、急停車した機関車の汽笛がボーッボーッといつまでも、鳴っていたのを覚えて居る。汽笛で駅に非常事態を知らせていたのだろう。。


 *珍しく県外の旧友から懐かしい電話があった。
  が・・ どうもおかしい。。
  電話の途中で、「ところでお前の名前は??」と聞いたり・・
  自分の方から電話をかけて置きながら、お前の電話番号を教えてくれと言ったり。。
  やっぱりそろそろ恍惚の季節かなぁ。。
  東大まで出た秀才の彼も、やっぱり老いには勝てないのか。。 トホホー



(80)多布施川のタナヂ

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       (80)   「多布施川のかわぢ」

 今の多布施川の土手下には、工場や住宅が密集して、少年の頃の面影はない。
松並木も無くなり、わずかに上流の左岸や石井樋から筑紫山脈の天山や八幡岳が遠望できる程度である。

 昔は多布施川の岸にはあちこちに、幅Ⅰm位の道が水ぎわまで下りて、そこには板や石段の洗い場の棚が作られていた。この棚を「カワジ」と言う。でも、カワヂとはどう書くのだろう、川に降りる道と言う意味で、恐らく川路かもしれない。そのカワヂの一番下が「カワヂ棚」である。 カワヂ棚は水位の一定のところでは一段だが、佐賀平野にあるクリーク(堀)のカワヂは何段もあって、満水時には下段は水の中に沈んでいる。 岸辺の民家がここでよく洗い物をしたり風呂の水を汲んだりしていたが、今は河川改修の護岸工事で消えてなくなり、最近はコンクイート造りの階段が所どころに出来ているだけである。上下水道の普及で、もう直接河川の水を生活に使うこともないだろう。

                                  (多布施川のカワヂ)     画・南窓氏
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 このカワヂ棚は旧藩時代からあったそうだが、もともとは、子供が溺れたりしたときに、助けに行くための川の降り口だったそうだ。また両岸から荒縄を水面に張って、流れてくる松の落葉を集める場所でもあったようだ、その落ち松葉は風呂やかまどの焚きつけ用の燃料になるのである。

 川に縄を張って上流から流れてくる物を拾い上げるという話は、島田洋七氏の小説「佐賀のがばいばぁさん」の中にも書いてある。極度の貧乏だった洋七の祖母さんは、このように縄を自宅の裏の川に張って、上流の八百屋が洗った残りの野菜類が流れてくるのを拾い上げて食料にしていたとか。。
 ちなみに洋七の先生は、私の家内の友達のご主人で、貧乏な洋七少年が弁当を持って来ないときは自分の弁当を与えたり、恵まれない家庭の洋七を励まし続けた人情家である。

 川の上流で、それから上の川岸に全く人家のないところを「川頭・かわがしら」と言った。昔は子供はこのカワジの石だたみや木の棚に両手をつき、川にそのまま顔をつけて水を飲んだりしていた。大人たちは風呂、洗濯用の水に使うが、炊事の汚水は素掘りのクボ地に溜めて川には流さない。

 洗濯などに使うと、下流の者は汚いだろうな、と子供心に思っても、大人たちは「三尺流れりゃ水清し」とばかり一向に意に介さない。下流の者も「見ない事は皆清し」とすまし顔で、なんとも鷹揚なものであった。
 
                  (松原川の秋景色)
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 多布施川が市内を分流して、松原神社あたりにくると、川の名は「松原川」と呼ばれている。松原神社は歴代の佐賀・鍋島藩主を祀ってあり、俗に「日峯さん」と呼ばれて市民に親しまれている。この日日峯さんの春・秋のお祭りには、境内にガマの油や高島易断とか、いろんな露店があふれ、見世物小屋、サーカスまで
出て、夜遅くまでにぎわったものだ。子供の頃は母に連れられてよくお参りした。写真館で一緒に写ったこともある。 帰りのお土産は決まって「松原おこし」だった。


                                       (日峯さんのお祭り・松原神社大鳥居前)
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 母は顔馴染みの蓄音器屋に立ち寄って、浪花節のレコードを買って帰るのが常だった。当時の娯楽は、映画かレコードしかなかったのだ。その浪花節はたいてい「殿中松の廊下」とか、「南部坂雪の別れ」とか、忠臣蔵の物が多かった。義理人情物が明治生まれのお得意だったのだ。レコードを耳にタコができるほど聞かされたので、子供ながらいつの間にか文句をすっかり覚えてしまった。  ・・・・

       戦友のレコード

イメージ 5  中啓もって二度、三度 胸を打たれし内匠頭、 う~~ぬ!
  家来の忠義も水の泡。。
  こらえるほぞの緒を切り
  大原実盛造りの小さ刀に手がかかったかと思うと、
    大喝一声・・・
  「上野(こうづけ)待ぁて~~」

 

      無念や初太刀がひたい~~
      二の太刀は 背なにいささか浴びせしのみ~
      吉良はあなたに逃げ出だす なおも後をば追わんとすれば・・
      「殿中でござるぞ! 狂気召されたか 内匠(たくみ)どの~」
      羽交いにぐっと抱きしめしは 粗忽きわまる梶川与惣兵衛。。。
      ・・・
             おやおや、図に乗ってなかなか止まりません。。

  
 毎年6月にはこの松原川で「ひゃーらんさん祭り」がある、つまり、「子供が水に入らん祭り」で、川に棲むというカッパの供養であり、河童の好きなきゅうりや茄子を積んだ藁の小舟を川に流すのである。昔は子供の水死が多かったが、これはカッパに引きずり込まれたのだと信じられており、カッパ祭りをして子供が溺れないようにカッパにお願いするのである。佐賀地方には縦横にクリークが流れており、農家の子供が水に溺れて亡くなることが多かった。そこであちこちの村落でカッパを祀る風習が残った。

 これが「入らんさん祭り」である。佐賀地方にはこのカッパに関する民話も多く伝わっている。
 いま、松原川の中にはあちこちに可愛いカッパの石像が作られている。

                  子供カッパ  (のどが渇いて。。ゴックン。)
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      次は佐賀のカッパの民話を二、三お送りしましょう。

(81)佐賀のカッパ伝説

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           (81) 佐賀のカッパ伝説

  
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                                               (夏の松原川・右手が松原神社)

             「河童伝説」

 佐賀平野にはクリーク(堀)や川が縦横無尽にあって、生活用水や田の水に利用されていました。
これらの堀には河童が住むという伝説があって、昔からいろいろの民話が残っています。

 「河童」は水神の使いと言われ、農村では夏の初めに、子供が水死しないように好物の胡瓜や茄子を供えてカッパ祭り(*“ひゃーらんさん”と地元では言う。)をします。
 佐賀の方言では、河童のことを「河そう」といいます。これは「かわうそ」からの連想かもしれませんね。

イメージ 2 松原神社には歴代の鍋島藩主を祀ってありますが、なぜか楼門にはこんなカッパの木造が乗せられていて、上から人間どもを見下ろしています。

 カッパは水神さまのお使いなので、人間よりも偉いのでしょうか。
 しかし、鉢巻までして、なんかユーモラスですね。

 カッパは「河太郎」とか「河伯」とも言いますが、当地では「河そう」と呼んでいたようです。

 水遊びの子供を水中に引きずり込み、尻の穴から手をいれて内臓をつかみ出すそうです。何ともいやはや。。


 ↑ (今は本物の木像はでなく、写真が飾られています)

 松原川は、流れもゆるく浅いので、子供のころは、この川でよく魚とりをしました。夏の夜は蛍がいっぱいでした。河童の子供も、一緒に遊んだでしょうか。。。

 
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  佐賀近郊の農村にはいろんな「河童伝説」の民話が伝わっています。

 ① 河童の相撲取り・「でんじゅうさん」  (・・クニさんの話)
 「でんじゆう?」さんが田の見回り行ったとき、田のなかに小僧さんの様なものが立っていて
「でんじゅう、相撲とろうじゃなかか」というので、力自慢の「てんじゅうさん」はよーしと言うて相撲を取りました。
ばってん、「でんじゅう」さんがいくら投げ飛ばして川の中に放り込んでも、いつの間にか又出てくるらしかですタイ・・。
 しまいには「でんじゆう」さんは、息も絶え絶えになって、熱が出たそうですよー。

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  河童の相撲取り② 「煙草入れ」  (・・令吾さんの話)

 「河そう」は、頭に皿をかぶったようにしていますが、この河童は大工の弟子とか、おけたん(桶、樽屋さん)の弟子とかいいますね。年中、コツンコツンと叩かれているので、頭の上がすり切れはげてしまい、水がたまるほどに、くぼんでいます。
 よく川からあがってきて、「相撲取ろう」と言うてきかんのですよ。ばってん、相撲ばとっているうちに、頭の皿の水が少なくなってくると、力が弱るらしかです。
 そこで、かっぱと相撲をとるときは煙草入れを必ず提げていなければやられるそうです。
 煙草の「やに」が付くと、腐れるというて河童が嫌うらしかですね。
 
 相撲とるとき、相手が河童ならば必ず「ちょっと煙草入れをのけろ」と言うそうです。そのとき、煙草入れを除けてしまうとやられるそうですよー。

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  ③ 河童の手切れ    (・・辰次さんの話)

 七丁堀でこんな話がありました。
 あの源三さん方の西わきに、かわじ(*川棚)がありました。そこで、魚を釣っていましたが、河童が横から出てきて食べてしまうので、いつか包丁で切ってやろうと待ち構えていました。
 
 ある日、この野郎!とばかり切り付けたら、河童の手が切れてしまいました。 
 そのあとで、河童がおじさん、おばさんに化けてきて、「切り取った手を見せろ」と言ってくるそうです。なんでも、河童の手は切れても何日かのうちなら、すぐつながるそうですね。
 つながるというから、切り取られた手が欲しかったのでしょうね。おじさんや、オバサンに化けたりして「ちょっと手を見せてみんかい」というわけですね。 
 「あんた方に、切られた河そうの手があるそうですね」ちゅうて、しょっちゅう来とったそうですよ。
 でも、とうとう手は見せんかった・・・という話ですバイ。

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    ④ 「河童と水遊び」    
 
 新村の大堀のそばですね。あそこである女中さんが米洗いをしていて、みんなご飯を食べている間に、ご飯も食べずに「暑い!」と言うて裏の堀に飛び込んだらしかですもんね。
 そしたら、なんもかんも、ブルーッともぐったと思うたら、上がってきてヒヒヒーと笑うそうですよー。そうして、もぐっては浮かんで来てヒヒヒー・・何度も繰り返すそうです。
 
 みんな見ている前でですよー。「この女はもぐりがうまいなぁ・・」みんな言っていました。
そしたら、下の方から、内臓をみんな食べてしまわれていたらしかとです・・
 「河そう」がそうしたらしかとですよー。
 
 松原川のほとりに、松原神社があります。河童祀りの「ひゃらんさん祭り」には、ここの神主さんを呼んで、お祓いをしてもらいます。
 子供が川遊びして、溺れないために水神のカッパさんにお頼みするんでしょうか。。



 
  

 

(82)サーカスの話

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     (82) 「サーカス」の話

 先日書いたとおり、歴代鍋島藩主を祀ってある佐賀の「松原神社」は春、秋のお祭りがある。
 子供の頃は母に連れられて良くお詣りに行ったものだ。 

                (大正時代の松原神社・大鳥居)
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 神社の境内にはにわか造りの見世物小屋や「佐賀にわか」などの舞台が出来て賑やかそのものだった。
 その中のメイーンは何といっても、有田洋行とか木下サーカスとかのサーカス小屋だろう。お祭りには関係ないが、昭和8年にはドイツのハゲンベックサーカスが日本にもやってきて、父に連れられて福岡まで見に行ったことがあるが、何しろ小さい頃なので記憶は定かではない。日本の人間による、空中ブランコやアクロバット的な曲芸とは違い、主に動物や猛獣使いのサーカスだったようだ。

     (横綱・双葉山)
イメージ 3 日本のサーカスは外側をむしろで囲って、天幕を張ってあるだけの仮設の木造建造物である。
見物席には個別の座席はなく莚を敷いて打ち付けてあるだけで、すり鉢の底のような真ん中の舞台を見下ろして見物するのである。今の国技館のような形で、昔の大相撲の地方巡業の時も、広場にこんな形で即席に作られていた。

 もちろん周りは莚で囲んであり、子供の頃,双葉山が地方巡業に来た時も見物席はこんな天井もない簡単なものだった。その時、双葉山が同じ横綱で巨漢の男女の川(みなのかわ)を軽々と子供のように吊り出したのには驚いたものだ。

 サーカスの見物席も同じ様な簡単なものでで、仮設の小屋掛けするのは地元のその筋の興業主である。サーカス小屋の付近には「00組」と記した提灯が並んでかけられ、ハッピをきたコワイいお兄さんたちがちらほらしていた。今思えば、悪を持って悪を制するという、縁日の治安を保つための一種の民間警察とでも言おうか・・ 

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 サーカスにはいろんな曲芸がある。猿や犬、馬の曲芸や火の輪くぐり、人間大砲、道化芝居、オイートバイの曲乗り、象やライオンの猛獣使いから最後の空中ブランコになると、みんなもう口あんぐりとと天井を見上げて女の子たちの妙技に感嘆したものだ。時には可愛い白塗り姿の少女がブランコに飛びつきそこねて、あっという間に墜落することがあり、観客は一瞬アッと息をのむが、下にはちゃんと巨大なハンモックのような網が張ってあるから大丈夫。これも仕組まれたショウの一つだったのだ。
 
 一方、怪しげな小さい見世物小屋では、(お代は見てからで結構だよ。さあ さあ さあ さあ・・入って入って、間もなく始まるよ!)と、声をからして呼び込みを続ける男の声が聞こえ、「手も足もないヘビ女の哀れな姿でございます・・」という呼び声につられてつい入ってみると、ヘビ女とは名ばかりで、なんと大きな蛇がとぐろを巻いていたり、背中にヘビの刺青の
ある女性が座って居たりする。蛇では手も足もないはずだ。

 サーカス小屋ではジンタの響き(天然の美)が鳴り渡り、小屋の前面には、真っ白に厚化粧した可愛い女の子たちが客寄せ用に可愛い笑顔を浮かべて愛嬌を振りまいており、思春期の少年たちの胸を弾ませた。 
 何しろ昔は、女の子が人さらいにさらわれて、サーカスに売られるという噂があり、親と離れた哀れな女の子として、彼女たちへの同情とともに、男の子にはほのかな哀情が湧いてくるのである。
 当時、中学の先輩でもある「松平晃」の「サーカスの唄」が流行っていた。 
 
      
http://youtu.be/mcF1A3QTH8c
 
    ♪ 旅のつばくろ 淋しかないか
       俺もさみしい サーカスぐらし
       とんぼがえりで 今年も暮れて
       知らぬ他国の 花を見た
 
 *以来幾星霜、最近はサーカスも全く来なくなり、往来激しかった祭りの人出も露店も、すっかり少なくなって、待ち焦がれたお祭りの日も、今や昔日の面影は全くない。 
 いかに時代の変遷とはいえ、いささかか侘しさを覚える昨今である。

 
         幟(のぼり)立ち 何にもなくて 秋祭り     富安風生



   *久しぶりにミニ同窓会、参加 5名です。
     昼間のせいか、年のせいか、ビールわずか二本ですみました。
     おしゃべりとご馳走いっぱいで、腹が膨れて飲めません。
           もっとも、二人はもともと飲めないので・・


 * ブラブラと風に吹かれて帰っていたら、佐大の学生の川魚のミニ展示会をやっていました。
  松原川で獲れたフナや雷魚、スッポンに有明海のワラスボなど、子供の時は何とも思わなかった小魚たちが、きれいな水槽の中でガラス越しに横から見ると、なんともきれいなものですね。 
 メダカやどじょう、カメやシマヘビまで、まるで芸術品のように見えました。

   酔眼のせいばかりでもないようです(^^♪




(83)軽便鉄道

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    (83) 「軽便鉄道・キドーのこと」

 父の実家は、旧佐賀市近郊の「蓮池町」と言う所にあった。昔は鍋島藩の支藩の一つで、禄高は内禄・5万石の小藩だが、藩主の居館の跡が今「蓮池公園」として残っている。

  昭和7年の上海事件の戦いで爆弾を抱いて敵陣に突入して戦死した爆弾三勇士の一人、江下伍長がこの蓮池の出身なので、戦時中は三勇士の銅像が建っていたが、戦後はむなしく台座だけが残っている。実家はその公園の近くにあった。 子供の頃はよくこの「爆弾三勇士」の歌を歌ったものだ。


   ♪ 廟行鎮(びょうこうちん)の 敵の陣 イメージ 1
       我の友隊 すでに攻む
      折りから凍る 如月(きさらぎ)の
      二十二日の 午前五時

      命令下る 正面に
      開け歩兵の 突撃路
      待ち兼ねたりと 工兵の
      誰かおくれを とるべきや




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                   (肉弾三勇士・江下、北川、作江伍長)
 
 蓮池に限らず、地方の方言は少し離れると、もうだいぶ違う。同じ佐賀の神崎郡でも山に近い者を「山んべえ」と言い、下の平野部の者を「しもんべえ」と呼んでお互いに張り合っていたが、言葉も多少の違いがある。 
 
  鯛の魚のことを山んべーが「チャーのうお」と言うのを蓮池では「てぇー のうお」と言うし、山んべえが大根(ジャーコン)というのを「デーコン」という。シランの従兄たちも佐賀弁では「蠅・ひゃー」と言っていたのを「へー」というので、昔は何か違和感があったのを覚えている。尤も今の若者はこんな方言は一切使わない、みんな立派なタイの魚でありダイコンと言う。あのねえ、あのさぁ~というような標準語・東京弁ばかりである。

 子供の頃、お盆の夏休みには母に連れられてこの蓮池の父の実家によく行ったものだ。村の鎮守では「祇園の夏祭り」が開かれ、「佐賀にわか」の舞台なども建っていた。その頃、佐賀市内の巨瀬村・高尾からは、蓮池を通って千代田村の崎村まで「キドー」という軽便鉄道が走っていた。 会社が「肥筑軌道会社」と言う名前だったので、一般には「キドー」と呼ばれていたのだろう。
 この軌道は大正12年の開業で、本来は佐賀から筑後川対岸の福岡の久留米まで開通するはずだったが、昭和初年の世界大戦後の世界的大不況のために、全線開通には至らず昭和10年に廃業してしまった。

 軽便鉄道とは言っても、蒸気機関車は勿論、おもちゃのようなチャチなもので、客車もわずか二両しかつながって居ない。もともと、車庫には機関車が2台、客車が4両しかないので、その規模のほどが分るというものだ。
 水田の真ん中に、小さい蓮池停車場があり、農家からはこのおもちゃのような「キドウ」がガッタンゴットンとのんびり走っていくのが良く見える。

 この辺りの農家は、夏は暑いので前庭に大きなバンコを持ち出して、その上で夕飯を食べる。(*「ばんこ」とは縁台のことで、大型の長椅子というか、いわば背もたれのない幅広のベンチのようなもので、木製で大きさは幅4尺、長さが6尺で畳一枚以上もある。田舎ではこれを庭先に持ち出して休息したり、夕涼みをしたり、大人は団扇で蚊を叩きながら将棋を楽しんだりする)

 バンコの上からは煙を吐きながら走る「キドー」の姿が見える。蓮池付近では昔から、ご飯ではなく「茶がゆ」が多かった。蓮池藩は貧乏な小藩だったので、質素倹約の藩是だったかも知れない。
 茶がゆはお茶の葉を晒の袋に入れて焚いたお粥で、時間を置くとヌメリが出てしまい、病院食の白かゆのようなネットリとした味になるので、米粒が程よく7分ほど煮えたところで火を止めて、良く煮えていないザラザラしたのを、熱いうちにフーフーとと吹きながら食べる。母もこの茶がゆのあっさりした味が特に好みだった。

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  夕食を食べながら汽車見物とは、なかなか洒落た風景だが、昔の田園には蚊が多い。水田に囲まれ、下水道がなかった頃の田園都市・佐賀にはすごく蚊が多く、「文化都市」ならぬ「ブン蚊都市」だと、市民に揶揄されるほどだった。
  夕闇が迫るとすごい蚊の大集団が出現する。ウヮーンとうなりながら竜巻のように舞い上がっている。いわゆる「蚊柱」と言うやつだ。だから渋団扇が欠かせない。

 田舎は水田に囲まれているから特に蚊が多い。そこで夏のうちは麻製の青い蚊帳が必需品である。蚊帳に入るときは、団扇で蚊帳をあおいでから、電光石火の早業で素早く入らねばならない。それでも蚊が2,3匹はその間に入ってしまう。中に入った蚊は手でたたきつぶしたり、蝋燭の火で焼き殺したりする。もちろん手慣れたもので、蚊帳を燃やすことはない。
 しかし、夕食にお粥では、夜間に何度もトイレに起きるのが、難儀な仕事ではあった。
 今は我が家は朝飯が茶がゆなので、トイレには問題ないのだが。。

  80年も遠い昔の、田舎の町の話である。

       ♪ 「ふるさと」    文部省唱歌

      うさぎ追いし かの山
      小ぶなつりし かの川
      夢は今も めぐりて
      忘れがたき ふるさと




(146 )萩の花

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      (146) 萩の花

 今年の夏は梅雨前の猛暑から、残暑を通り越して一挙に秋が来たようで、もうすっかり爽涼の季節になりました。秋」の語源は「あきる」「あかぎ」だそうで、植物が黄熟し、成熟する時期でもあり、また花の多い季節でもあります。

 秋の花といえば、まず「秋の七草」が思い浮かびます。
 万葉集(巻八)の山上憶良の歌に「秋の七草」が載っています。

       秋の野に咲きたる花を指折りて
          かき数ふれば七種(くさ)の花

       芽子(はぎ)の花 尾花 葛花 撫子(なでしこ)の花
           女郎花(おみなえし)また藤袴 朝顔の花

  この中の朝顔の花は「桔梗」のことで、この七つが秋の野に咲く花として昔から親しまれて居ます。

その中の「萩」は代表的な秋の七草として昔から詩歌に取り上げられ、万葉集にも141首も詠われていますが、実はハギは草ではなく木で、マメ科の落葉低木になっています。

    「紅萩」
 はらはらと花を咲きこぼす萩の枝が、夕風に緩やかに揺れる風情は、まさに日本の秋の風景ですね。

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         藤原の 古りにし里の 秋萩は 
            咲きて 散りにき 君待ちかねて      万葉集 2289

 「ハギ」は秋に咲く草なので、漢字の「萩」という字は草かんむりと書きます。 
またハギという呼び名は、古株から芽を出すので、生え芽・ハエメと呼ばれていたのが、ハギになったと言います。
  
   単に萩といえば「山萩」のことを言い、日本各地に自生しています。
  萩は家畜の飼料にもなり、この草を刈り取ったったものを垣根や
屋根にしたり、また筆の軸にもします。  最近,
観賞用に植えられているのは「宮城野萩」という品種で、ほかに円葉萩、蒔絵萩などがあります。
    
 

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          「白萩」

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                             【清らかな白萩の花】  

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               白萩や 出羽の日暮れは 林檎色     古田鴻司 



    

(84)汽車見物

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      (84) 「汽車見物」

 昔の鉄道の駅は殆ど木造だった。待合室には長椅子が並んでおり、駅に入ると右手には切符売り場がある。左手には手荷物の預かり場があり、買った切符を見せると「柳行李」くらいまでの手荷物はは、無料で着駅まで運んでくれる。降りた駅でその荷物を受け取って帰るのである。今の飛行機のようなものだ。大きな荷物は「小荷物」になる。これは切符に関係なく、有料でいつでも頼めるが、その日に目的地に着くというわけにはいかない。手荷物は同じ列車の荷物車に乗せるのだが、小荷物は別の貨物列車に積むからである。

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                    (なぜかビルの前にD51機関車が出現。。)


 待合室の正面に、切符売り場があり、切符切りの駅員さんが鋏でチョキンと切符に刻みを入れると、木戸を通りぬけてホームに入居ることが出来る。 
 子供の頃は駅が近かったので、よく汽車見物に行った。然し乗るわけでないから、切符がないのにで駅の構内には入れない。ホームにゆっくりと出入りするする汽車の列を、待合室の前の切符切りの「改札口」付近から眺めるだけで、豪快に走る機関車の迫力がない。そこで近くの多布施川にかかる鉄橋までよく汽車見物に出かけた。

 この近くは線路の両側には田んぼが広がっており、天皇陛下が列車で通過される時は、小学生は一斉に田んぼの中に並んで、日の丸の小旗を振って歓送迎しなければならない。しかし、通過の際には最敬礼をして、頭を下げていなければならないので、陛下のお顔を見たことはない。何しろ、戦前の天皇陛下は人間ではなく「神様」だったのである。お召列車が通り過ぎた後には、ただ、もうもうと黒い煙がたなびいているだけだった。

                               (天皇のお召し列車通過・昭和36年4月) 
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 鉄橋の手前に踏切がある。ここではよく飛び込み自殺があった。家内の実家は鉄橋の近くだったので、子供の頃飛び込み自殺のあとを見に行ったことがあるそうだ。莚はかぶせてあるものの無残に飛び散った、手足や、脳ミソ、血みどろの臓腑を一目見て、家内は一週間ほどは眠れなかったという。昔はこの後始末を家族がしなければならなかったそうだ。飛び散った肉片を箸で拾って歩くのである。なんと残酷な話だろう。

 そういえば学生時代に下宿していた大阪の粉浜駅の踏切でも自殺があった。その時の日記がある。 まだ未成年なので煙草屋には縁がないはずだが、葉書や切手を買いによく行った。可愛い看板娘が愛嬌を振りまいていたが、ある時思いがけない大事件?が起こった。

   ○ 「昭和18年10月1日」  水 晴れ
 九月繰り上げ卒業三年生の入営者多し。兄もあと2カ月で入営なり。 本日、南海本線・粉浜駅踏切にて自殺あり。二十四、五歳の乙女なり
しとか。。先にもこの踏み切りにて鉄道員の事故死ありしが、いずれも気味悪しく、また哀れにも覚ゆる事なり。
 飛びこめるは煙草屋の娘とか、又私生児なりとも人の言う。吾も葉書を求めて釣銭を貰いし事、二三度ありて面識あり、。。下宿の小母さんの言によれば胸を病めるとか。。
 
  肉塊飛び散りて血潮ほとばしり、脳漿あふれて骨片悲惨、腸と思しきはらわた、臭気を放ちて線路に横たわり、雪の肌えは今は無く、哀れ花のかんばせも形を留めずなりにけるとか。隣組一同出動して肉片を拾い集めたる由、げに玉は砕けて後を留めず、さても哀れなる事どもなり。
 
 *後記・・(ちょっと大袈裟かな? 何しろ初めての体験なので・・
 ただし、これは間違いらしい・・死んだ乙女は別の煙草屋の娘らしく、行きつけの煙草屋にはまだあの看板娘がいて、今日もにっこりと笑ってくれたのである!)   。。。。とある。

   ・・・・・・

 話を元の汽車見物に戻すと・・・、
鉄橋の手前には踏切があった。信号機の赤が点滅すると、羽子板が水兵に水平にガタンと降りて踏切が遮断されると、まもなく汽車がやってくるが、昔のことゆえ列車の数が少なく、なかなかやってこない。
 しびれを切らして線路に耳を当てて聞くと、かすかにガタンゴトンと言う音がする。鉄橋の東西は勾配になっていて千分の一と言う標識がある。

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                                       ( 驀進する二連機関車)


 間もなく列車がやって来た。貨物列車である。もうもうと黒煙をあげながら上り坂になると速度が落ちてノロノロになる。ポーッポ、シュッシュと喘ぎ、あえぎ走ってくる。速度が落ちるので汽車見物には好都合だ。貨車の横に白い文字で書いてある標識も良く見える。ワムは有蓋車でトラは無蓋車、セラは石炭車という形式の記号である。

 轟々と走る勇壮な機関車が、貨物専用のD51(デコイチ)と言う機関車であったのを知ったのは、大きくなってからであった。後に息子が生まれてからは、駅まで抱っこしてよく汽車を見せに出かけた。
とにかく汽車が大好きで、機関車が轟々と音を立てて走る様子を指さしては「ポーカッカ、ポーカッカ」と叫んで目を輝かせて喜んだものだ。

 そして帰りには決まって、本屋に立ち寄って「汽車」の絵が載っている絵本を買って帰らねばならなかったのである。

そんな頑是なかった子供も、もはや定年が近い。 月日の経つのは、ほんとに早いものだ。

  
                                   (蒸気機関車よ、さらば・・)


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 *久しぶりに自転車で佐賀城・堀端散策。  
  美術館で「中島潔」の新作画展をやっていたので入ってみた。地獄図である。
  中島潔さんは、佐賀・唐津の出身、相変わらずやさしい童画だ。



(147)桔梗

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       (147) 桔梗

  「桔梗」はキキョウ科の多年草、秋の七草の一つですが、案外に早く七月始めにはもう咲いています。 昔の秋は陰暦なので、秋の七草といっても今なら晩夏にあたるかもしれませんね。


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 「ききょう」は昔から青みがかった清楚な花が愛されて、色々と句歌にも詠まれています。 
 漢名の桔梗を音読みして「キキョウ」とも「キチコウ」とも呼ばれています。
 根にサポニンやイヌリンなどの成分を含んでいるので漢方では排膿、去痰剤として用います。
 花の咲く前の袋のようになっているのが、可愛いですね。



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                                 ↓ 八重咲きの桔梗も珍しいですね。

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          【 キキョウ独特の青色もいですが、白いのも清潔感があつて良いですね】

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                  桔梗の花 咲く時ぽんと 言ひそうな      加賀千代女


.

(147)女郎花

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      (147) 女郎花(オミナエシ

          【風に揺れる女郎花の黄色い花には、いかにも秋の風情があります】

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  秋の七草のひとつの女郎花(オミナエシ)は夏から秋にかけて咲く清楚な花で山野に自生しています。

               わが机 袖にはらへど ほろろちる
            女郎花こそ うらさびしけれ
                                   春泥集・ 与謝野晶子

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   オミナエシの「おみな」は女の意味で「えし」は古語の「圧・へし」という言葉からつけられました。
 美女も圧倒する美しさという意味です。

 また、一説ではもち米で焚いたご飯「おこわ」を「男飯」というのに対して「粟のご飯」の事を「女飯」といいますが、「おみなえしの花」が粟粒のように見えるので「女飯」「おみなめし」「おみなえし」となったという説もあります。
  「女郎花」と漢字で書くようになったのは平安時代中頃からといわれています。 


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 * なお「男郎花・オトコエシ」という花もありますが、こちらは形はそっくりですが、白くて女郎花よりも力強く見えるので「男郎花」という名前がつきました。。

   
       手に取れば 袖さへにほふ をみなへし
          この白露に 散らまく惜しも
                                  
                                   (詠花) 作者不詳 ・万葉集  


  * 秋の連休で、絶好の行楽日和、町中も車の往来も少なく静かなものです。
     じじばば世帯は為すこともなく、ホームセンターで所帯道具を物色、
     スーパー弁当を買って帰りました。


(85)馬鉄と乗合自動車

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     (85) 馬鉄と乗合自動車

 ついこの間、テレビで小渕官房長官が「平成」と言う年号を記したような気がするのに、その平成もはや27年にもなる。早いものだ、紫蘭が生まれてからもう一世紀近くにもなるのだから無理もない。その間、世の中はすっかり車社会となり、自動車がなければ夜も日も明けないようになった。

 江戸時代は馬や駕籠、戦前も昭和の初めまでの乗り物は人力車か馬車であったが、街の一部では馬車鉄道・いわゆる「馬鉄」なる乗り物があった。鉄道のように町中に敷かれたレールの上を馬が曳いた客車が走るのである。

                                          (大正時代の佐賀駅前)
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 母には盆正月によく実家に連れていって貰った。四、五歳ごろだったろうか、この頃からいわゆる物心がついたのかもしれない。そのころは人力車のほかに、駅から「馬鉄」という馬が引いて走る乗り合いの客車があった。家の前を通っていたので何度も見ているが、路線は市内の一本道だけで、残念ながら母の実家のある方向に行く便がないので、乗ったことはない。

 「馬車鉄道」・・略して馬鉄は動力が生き物だから、ふと立ち止まってジャージャーとにわか雨を垂れ流し、所かまわずポロポロとお饅頭を落として行く。お饅頭は雨の日はぐちゃぐちゃにつぶれて汚いし、晴れた日は乾燥して粉のように舞い上がる。なんとも始末に終えない馬鉄であった。
 もちろん馬はカッポカッポとのんびりと走るのだから速度も遅い。
珍しさもあって子供たちの格好の遊び道具にもなった。側面や後ろにぶら下がって行くのである。腕がキツクなると、飛び降りる。然しへまをして車の下敷きになって死んでしまった子供も居た。


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                 (佐賀市内の御幸橋、ここを渡って小学校に通ったが、もう馬鉄はなかった)


  こんな馬鉄の時代はそう長くは続かなかった。日進月歩の科学の時代、今や日本はすっかり自動車社会となって、一家に車が2台と言う世帯も珍しくなり、排ガス問題も深刻だが、車は生活の必需品になってしまった。 戦前は、自家用車を持って居る家はほとんどなくて、わずかに小さい市営のバスが町中を走っているだけだった。

 このバスも戦時中はガソリン不足のために一時、代用品の木炭を焚いて走る木炭自動車に変わったりした。木炭自動車は木炭を燃やして出る一酸化炭素を燃料にするので、木炭を完全燃焼させると、かえってガスが発生しない。不完全燃焼の状態にするためには、運転者は高度の技術が必要であった。その上、エンジンの出力も低く、坂道などは乗客が降りて後ろから押さねばならないほどであった。途中で調子が悪くなった時は車掌さんが降りて行って、うしろの釜の具合を調整するのである。


                               (これは普通のバス・ボンネットが前に突き出ていた)
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   ♪ 「田舎のバス」

        田舎のバスは おんぼろ車(ぐるま)
        タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない
         それでもお客さん 我慢をしているよ
         それは私が 美人だから
        田舎のバスは おんぼろ車
        デコボコ道を ガタゴト走る


 バスはもともと「乗合自動車」と言った。タクシーも昔は乗合自動車の一種だった。今ならさしづめジャンボタクシーの相乗りみたいなものである。
 乗合自動車は、佐賀近郊では大正12年に「成富自動車」が佐賀から久留米までの路線を走ったのが最初だろう。当時久留米までの汽車賃が7銭の時、半分の距離の佐賀から神崎までで25銭もしている。
  
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                                      (乗客がずらり・・)


 使用車はフォードのT型乗用車で、屋根はホロつきである。初めに、車掌が車の先端にあるエンジンの穴に、折れ曲がった鉄の棒を通して、手動でグルグル回してエンジンをかける。乗客の定員は6名で、後部座席に3人、その前に運転席の後ろに、折り畳み式の補助いすが付いていて、これに3人が乗れるが、とにかくギューギュー詰めで、窮屈なことこの上ない。すしづめの上に、ドアのそとの左右のステップにも、立って乗るから合計12人も乗ることになる。
 時には、自転車に乗っていて雨に遭った者が、車の後ろに自転車を括り付けて走ったりすることもある。合図すればどこでも停車して、乗り降りができるという便利なものであった。これがバスのハシリであろう。
 

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 そのころ、路線に近い小学校の生徒たちは、体操などで運動場に居るとき、乗合自動車が通りかかると、ワーツとばかり、道路に飛び出したそうだ。いっぱい埃をまき散らして走る乗合自動車は馬車よりもうんと早くて、恰好が良い。姿が見えなくなるまで生徒たちは見送り、青い煙を嗅いでは「ああ、良か臭いがする・・」と鼻をクンクン鳴らすのである。先生もつられて、どの教室からも窓から顔をのぞかせて、見送るのであった。

  小学6年、10歳の時に九大病院に入院していた父が心臓まひで急死した時、深夜に母と一緒に遺体を引き取りに行ったが、その時に頼んだ2台のタクシーがこのフオード自動車であった。大人が後部座席に、子供は補助いすに向かい合わせに乗ったのを覚えている。あとの一台には、父の遺体を乗せて帰った。まだ、霊きゅう車などのない時代だった。今考えると、タクシーではなく、この乗合自動車の「貸切り」だったのかもしれない。今で言う「ハイヤー」である。


          おとめごの哀しきわき毛目に近く
           五月の朝のバスこみあえり

                                       結城哀草果



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