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(220) ガダルカナルの死闘 ①

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        (220)   ガダルカナルの死闘 ①
 
 昭和17年6月のミッドウエー海戦の大敗北に続いて、陸戦では、同年8月に始まったガダルカナルの悲惨な戦いが待っていた。 

 太平洋戦争の日米航空兵力が逆転し、勝敗の転換点となったのが、昭和17年6月の海軍のミッドウエー海戦の敗北であり、陸軍では同年8月のガダルカナル島の転進であった。世に「ガダルカナルは帝国陸軍の墓地の名である」と言われる所以である。

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                                               (太平洋戦争概略図)


 真珠湾開戦後、マレー半島からシンガポール攻略戦とフィリッピン作戦を主体にする陸軍の第一段作戦は、陸海軍航空兵力による制空権によって予想以上の成功を収めた。しかし、これは日本の突然の開戦による連合国の準備不足によるもので、真の勝利だったかどうかは疑わしい。

 もともと、陸軍は大陸重視の戦略構想を持って居り、持久作戦を基本として、太平洋に積極的に討って出るよりも、既存の占領地域の確保を主とした戦略を持っていた。これは補給能力の点からも当然のことであった。これに対し、海軍はオーストリアが対日反攻の拠点となるのを恐れて、ニューギニア、ミッドウエー作戦を主張し、米豪遮断作戦のためにミッドウエー海戦の敗北前からガダルカナルに飛行場を建設していたのである。


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 一方、米軍の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結であったが、このためには中部太平洋の島々を制圧して、前進基地を作るのが基本的作戦であり、このため日本軍の補給線の伸び切った最先端のガダルカナルを突いてきたのである。
 ガダルカナル島は東京から5,400キロ、南太平洋のソロモン群島の一つであるが、淡路島と同じ位のジャングルに覆われた名もなき小さな島である。


  ここで、太平洋戦争中、最も凄惨とも言われる日米両軍の死闘が行われた。上陸した日本軍の兵力3万のうち、2万人が戦死、約1万人がかろうじて撤退したが、2万人の戦死者のほとんどが食料不足による「餓死」であったため、「ガ島」すなわち「餓島」と言う当て字が使われるほどであった。


 〇 米軍、ガダルカナル島上陸

 イメージ 3戦争の初期、日本側は米・豪の分断作戦をはかり、昭和17年5月、海軍の特別陸戦隊と横浜海軍航空隊がソロモン群島中のフロリダ島のツラギに上陸して占領、ここに飛行場を作った。
 さらに海軍は、二つ目の飛行場を隣のガダルカナル島ルンガに建設することを決め、建設労務者2,500名を動員して八分通り完成していたが、いざ海軍戦闘機隊が乗り込もうとする直前の昭和17年8月1日にアメリカ軍の反攻が始まったのである。 

 アイ・シャル・リターン【必ず戻る】とう有名な言葉を残してフィリッピンの「コレヒドール」から脱出したマッカーサーの大反攻が始まったのである。8月7日の上陸作戦には、米空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスブ)戦艦1隻(ノースカロライナ)重巡9隻、ほかに駆逐艦31隻、輸送船23隻、ほか給油艦、掃海艇などからなる大艦隊が参加した。

↑ サモア島上陸の海軍陸戦隊

 その米軍の上陸部隊は第一海兵団のおよそ1万1千名で、基地航空部隊は爆撃機136、戦闘機126、飛行艇31合計293機が出動した。これほどの大部隊が上陸しては、日本軍はひとたまりもない。まもなく、ツラギ飛行場は米軍によって占領されてしまった。

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                                            (上陸するアメリカ軍)
                        
                ・・・・・・                      ・・・・・・

 *急に寒くなりました。今年は快適な秋の日が少なく、猛暑の夏から寒い冬への一足飛びのようなお天気が続きますね。やはり地球温暖化による異常気象のせいでしょうか。紅葉も今一つ、色あせた枯れ葉のみが目立ちます。

 昨日は慌ててコタツを引っ張り出したら、なんだかコントローラーの調子が悪い。ショートして火でも出たら大変だ。早速電気屋に行ってみたら、部品がない。もう20年も経つので当然かもしれない、仕方なく、取り換え用のヒーターまで買わされてしまった。
 寸法が合わないので、板切れやドリルや鋸、ノミなどを持ち出して久しぶりの日曜大工、汗は出ないが腰が痛い!

 今朝は、電気ストーブ、ガス温風器も取り出して容易万端ととのった、これで寒波対策は万全だ。    
   ブルブル・・

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                         (黄葉の散歩道)   


(221) ガダルカナルの死闘② 「一木支隊の全滅」

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      (221)  ガダルカナルの死闘 「一木支隊の全滅」

 当時、ニューギニア作戦でポートモレスビー攻略に全力を挙げていた日本陸軍の第17軍は、ガダルカナル島奪回を大本営に命じられ、まず「一木支隊」を「ガダルカナル島」に派遣した。一木清直大佐の率いる「一木支隊」は、もともとグァム島(大宮島)にいた、北海道旭川の第二十八連隊であった。   
 この「一木支隊」は、もしミッドウエー攻略作戦が失敗していなければ、ミッドウエーを占領し駐屯するはずの部隊だったが、ミッドウエー海戦の大敗北により上陸不可能になったため、約3千名の隊員はグァム島から内地に帰航の途中であった所を急きょ、ガダルカナルに転用することになったのである。一木大佐は陸軍歩兵学校の教官を何度も務めた実戦の指揮に練達した武将で、帝国陸軍の伝統的戦法である白兵戦の夜襲を行えば、米軍の撃破は用意であると信じ、自身満々で8月18日夜米軍陣地より約30キロ離れたアイボ岬に上陸した。

                     
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                                        (アイボ岬上陸の一木支隊)

 ガダルカナルに上陸した米軍は海兵第一師団の1万3千人であったが、一木大佐は約2千名だと判断したらしい。そこで兵一人に、わずか小銃弾250発、糧食7日分の携帯で、最新式の水陸両用戦車を擁する米軍に立ち向かったのである。

            
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                                    (砲身をかついでジャングルを行く一木支隊)


 8月18日、一木支隊の先遣隊(歩兵一個大隊と工兵一個中隊)は6隻の駆逐艦に分乗してルンガ飛行場の東40キロのタイボ岬に上陸した。その後続部隊の上陸を待たずに900人だけで飛行場の奪回に向かった。敵は弱体であると考え、戦機を逸しないように急行したのかもしれない。上陸草々に行動を起こし、翌19日午前中にはベランデ河の戦まで進出した。なにしろ、地図もないようなジャングル地帯、まず尖兵として34名の将校斥候を出発させて部隊は西へと向かったが、この尖兵がイル川右岸に進出したとき、待ち伏せしていた米軍に包囲されて全滅してしまった。


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                                                  (一木支隊行動図)

 それを知らずに後続の一木支隊・本隊は午後6時レンゴを出発して夜道を急ぎ、午後8時にはテナル川右岸100mくらいのところまで進出し、その河口近くに幅50mくらいの砂洲を見つけ、この浅瀬を越えて進撃しようとした。その時、待ち伏せしていた米軍のボロック大佐率いる歩兵2千名と速射砲部隊の猛烈な銃砲火を浴びた。それに左前方の台地からは機関銃、自動小銃、迫撃砲、それに手りゅう弾とあらゆる兵器を動員した敵の集中砲火を浴びてしまったのである。


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                                             (一木支隊先遣隊・戦闘要図)


 しかし、一木支隊の先陣にはこれに対抗する一門の大砲もない。
 翌21日払暁には、支隊の南側からアメリカの海兵隊の反撃が始まり、使用可能となった飛行場から飛び立った米機31機も加わって機銃掃射を浴びせかけた。そして、午後には米軍の戦車6両も加わって米軍の反撃が続き、日本軍は敵の軽戦車群の戦車砲の猛烈な洗礼とキャタピラの蹂躙にあってしまったのである。この光景をアメリカのパンデクリフト第一海兵団司令官は踏みつぶされた日本兵で「戦車の後部はまるで肉挽き器」のよな無残な有様だった」と述懐している。

 万策尽きた日本軍はもはやこれまでと一木大佐は軍旗に火を放って拳銃自殺を遂げ、部下の将兵の多くがそこで壮烈な戦死を遂げた。かくして、勇猛を誇った一木支隊は全滅したのである。
 8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは一木支隊の916名中126名で、790名の損害を出して戦いは終わったが、アメリカ軍の損害はわずか戦死者40名余りだったという。

 
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                                  8月21日・全滅した一木支隊(旭川28連隊)

          ・・・・・・                       ・・・・・・

   * 昨日の雨が上がったと思ったら、今日はだいぶ肌寒くなりました。
      コタツから電気ストーブ、電気毛布など持ち出して用意万端ととのいました。
      公園の トウカエデ も次第に色づいてきたようです。  


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                                                (佐賀城公園の黄葉)

(222) ガダルカナルの死闘 ③ 川口支隊上陸

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     (222) ガダルカナルの死闘 ③  川口支隊上陸

 ガダルカナル島上陸の米軍はせいぜい2千名程度であろうと甘く考えていた大本営は、一木支隊全滅の報に驚き、ガ島の奪還を第35旅団の川口支隊に命じた。

 イメージ 1川口支隊は久留米編成の九州男児の部隊である第十八師団から離れて川口支隊を編成していた。久留米の第18師団は、福岡・佐賀・長崎県出身者の郷土部隊で通称を「菊部隊」といい、日中戦争の「杭州湾敵前上陸」から、「南京攻略」「マレー半島攻略・シンポール攻略戦」やのちのビルマ「インパール作戦」と、常に戦闘の最前線で活躍した日本最強の部隊で、天皇家のご紋章である菊)の名を頂いた強力部隊であった。

 その川口支隊の隊長の↑川口清健少将もボルネオ攻略から、フィリッピンのバターン半島攻撃に参加した歴戦の剛勇部隊長であった。川口少将は高知県出身で、陸士を出て少尉任官の頃は、陸軍きっての美少年と言われていたそうである。

 しかし、せっかく作った飛行場は一木支隊の全滅により、すでにアメリカの空軍が進出していて、頼みとする日本海軍航空隊の必死の攻撃も、基地のラバウルからガ島までは、960キロもあり、ゼロ戦の戦える時間はせいぜい20分ほどしかなかった。
  
 米軍は20日から飛行場の使用し始め、ガ島周辺の制空権はすっかり米軍の手に落ち、このため航空機の支援を得られず、川口支隊の上陸が出来なくなった。そこで、まず米機動部隊を鎮圧すべく24日に連合艦隊が出動して「第二次ソロモン海戦」が起こった。結果は米空母「エンタープライズ」が大破し、日本側は空母「龍じょう」が沈没したが、このため大型輸送船による兵員、弾薬、食料の昼間の輸送が困難となり、駆逐艦による夜間輸送しかできなくなった。

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攻撃される米空母・エンタープライズ

 駆逐艦の輸送力は兵員150人、軍需品100トンが限度で、大発(大発動艇・上陸用舟艇)は人員200名ほどしか運べないので、戦車や大砲などの重火器の輸送は不可能だった。川口支隊の主力は「海風」「白雪」など8隻の駆逐艦に分乗して、8月31日朝、上陸地点のダイボ岬に向った。幸い、敵の飛行機にも見つからず、一発の銃撃もうけずに午後9時10分、夜光虫の美しく光る砂浜に上陸した。
 
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(ダイボ岬の砂浜)

 午後9時10分、工兵が先頭に立ってジャングルの樹木を切り倒し、ツタやカズラを裁ち切って闇の中を一歩一歩と前進した。冷たいスコールガ降り出して俄かに寒くなる。やがて夜が明けたが飯を炊くことが出来ない、炊事の煙があがれば、忽ち敵機の餌食になってしまうのだ。メシが炊けないのでパパイヤの実を食べ、椰子の実の水を飲む。敵機は昼となく夜となくひっきりなしに飛んでくる。こうして川口隊の主力は三日間、爆撃と空腹に悩まされながら密林に潜んで過ごさねばならなかった。
 それは配下の岡連隊の上陸を待つためである。岡連隊は第124連隊(福岡)と独立工兵連隊からなり、川口本隊とは二手に分かれて敵を攻撃することになっていた。

 翌9月4日の昼過ぎ、待望の岡連隊上陸の無線が入った。しかし、その地点はタイボ岬から120キロも離れているエスペランス岬近くである。早速連絡のための伝令を出さねばならない。この時中山博二中尉がこの決死の伝令を志願して出た。

  〇 中山挺身隊

 中山中尉は剣道五段の猛者で、従うものは阿部伍長、稲長兵長、森田上等兵の3名である。 
 川口隊長はとっておきの鰯の缶詰を餞別として渡して「死んでは役目が果たせぬ、必ず生きて、生きて、生き抜いて行ってくれ」と激励した。そして一行は一週間分の食料を背負いジャングル伐採用の鋸,斧と砥石を持ち、磁石を頼りに密林の中へと出発した。

 この120キロの密林は人間が今まで通ったことのない原生林であった。来る日も来る日も、密林との戦いで鋸の目はつぶれ、砥石ももう役立たなくなっていた。食糧も尽きて、野の草を噛み、トカゲを捕らえて食べる、という厳しいジャングル行であったが、彼らの肩には支隊全部の運命がかかっている。
 阿部伍長が言う、「中尉殿、死ねないという事は、つらかですねー」
 「ほんとだ、生きることがどなに難しいかよくわかるなぁ」
 中山中尉は三名を励まし、励まし、一歩一歩前進した。

 ある大きな川では泳いでいる所を敵機に発見され、付近は敵機の大爆撃が始まって。敵は4人だけだとは思わなかったのだろう。然しふと不安になった。磁石がすでに役に立たなくなっているので、或いは密林の中をぐるぐる回っているだけではないか、一週間の予定がもう8日も9日も経っている。飢えと疲れが全身を襲ってきて体力ももうギリギリである。
 
 かくて出発から9日目の9月13日になった午後2時50分、川のほとりに出た。マタニコウ川であった。「おお!!」 なんと下の方を連隊旗と共に岡隊長が歩いて来るではないか・・4人は肩を抱き合って泣き崩れた。


 かくて決死の伝令は着いたが、岡連隊はもはや連隊とは言えない無残な姿であった。上陸に向かった30隻の発動艇群(上陸用舟艇)が敵機に発見されて激しい銃爆撃を受けて十数隻が沈められ、弾薬も半数以上を河に捨ててようやく海岸にたどり着いたとき、また敵機に襲われて5隻が沈み、残った舟艇の中も血の海になってしまい、始めの兵力の三分の一の450名に減ってしまっていたのである。

                  ・・・・・                   ・・・・・

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                                          今日はすがすがしい秋晴れになりました。

 *明日から佐賀バルーンフェスタが始まります。
 今夜はその前夜祭で中央大通りはライトファンタジーの点灯が始まり、外国のパイロットたちも参加して、街中は大勢の人出で賑やかです。

   
                                           ・・・・・・

(223)ガダルカナルの死闘 ④ 「第一回総攻撃」

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   (223) ガダルカナルの死闘 ④ 「第一回総攻撃」

 一方の川口本隊は、苦心の輸送によって、9月4日までにタイボ岬に強行上陸し、9月7日までになんとか陸軍5,400名、高射砲2門、野砲4門、山砲6門、速射砲14門、食料2週間分を揚陸することができた。

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                                         (上陸する川口支隊)

 この川口支隊は、久留米、博多、仙台、旭川という日本陸軍最精鋭の4個大隊で構成されていた。国生勇吉少佐の第一大隊、渡辺久壽中佐の第三大隊、仙台の第二師団・青葉大隊から来援した田村昌雄少佐の一個大隊と一木支隊の残兵からなる集成大隊の4個大隊である。
(*当時は防諜のために、師団名も連隊名も第一とか第三とかの数字ではなく、国生大隊とか、渡辺部隊とか隊長の名前を付けた部隊名になっていた)

 それに並行して別途、岡明之助大佐指揮の一個大隊・岡部隊(福岡・第124連隊)が大発(上陸用舟艇)30隻でガ島西側のエスペランス付近に上陸した。(*これは岡連隊長と川口支隊長との作戦上の意見が違ったためと言われている)
しかし、前述のように上陸の途中で、敵機の空襲を受けて岡部隊は三分の一の約450名に減少している。

 こうして川口支隊はアメリカ海兵師団、一万6千人を攻撃するために、再び日本陸軍伝統の夜襲攻撃を掛けることにした。支隊にある大砲と言えば連隊砲、大隊砲、速射砲、の合計8門にすぎないのだ。これでは、百数十門の敵の重砲、山砲、迫撃砲とは、とうてい太刀打ち出来るはずがない。残された唯一の戦法は、肉弾をぶっつける銃剣突撃による夜襲のみだったのである。


イメージ 2 川口支隊は、また海岸線を前進してイル川付近の米軍を攻撃すれば、一木支隊と同様の運命に陥ると考えて、テナル河口附近からジャングルの中を潜入、迂回して飛行場の南方から敵の背後を奇襲して一夜のうちに飛行場を奪回せんとした。兵たちはこれを源平合戦になぞらえて「鵯越・ひよどりごえ」と呼んで勇み立ち、川口支隊長は「一夜にして敵を突き殺し、蹴飛ばして払暁までに海岸線まで突入すべし」と命令した。


 そこで川口支隊の主力・千数百名は、二日前からけわしい崖あり、谷あり、急流がある太古のような密林の中を夜行軍で突破し、ようやくルンガ飛行場の南側に出た。この飛行場はわずか5週間前に海軍が建設したものだった。そこには海軍と一木支隊1000名の血が流れている。将兵は疲れを忘れて胸を弾ませた。

 一木支隊残兵の集成隊はテナル河の最右翼に、その左に田村大隊、渡辺大隊、国生(こくしょう)大隊の順で川口司令部は国生大隊の後尾に布陣し、各中隊長は、ホータイをたすきにかけて暗夜の目印とし、合言葉は「山」「川」 と定められた。

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                          (川口支隊進撃要図)



  攻撃開始予定は9月13日21時である。それまでに飛行場の見える密林の端まで出ておかねばならない。その時・・ビュンビュンとあちこちに銃弾が飛んでき始めた。こりゃ、おかしいぞ、真っ暗闇で敵からは見えるはずがないのに・・その時兵隊の一人が黒いものを拾い上げた。小型のマイクロフォンであった。アメリカ軍はそこらあたり一杯に電線を張り巡らせて、日本軍の行動をキャッチしていたのだった。もう、これではもう一刻の余裕も出来ない、20時57分、テナル河方面から五発の砲声がが響いた、突撃開始の合図である。 
 「戦闘開始、さぁ、突撃だ!」

 この時の「アメリカ軍第一海兵師団戦闘詳報」によると・・

 「五発の砲声を合図に日本軍は喚声を上げて押し寄せてきた。そして我が軍の砲火のために続々倒れるが、尚ひるまず突撃してきて、我が陣地の一角が破れた。左右の陣地も危なくなって、日本軍はあちこちの陣地を突破してやってくる。もし、中央台地(エドソン丘)を突破されれば、あと飛行場までは1700mの草原地帯である。この危機を食い止めたのは我が方の105ミリりゅう弾砲の威力のおかげである」と書いている。

 
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                                                     (105りゅう弾砲)


           ・・・・・・                        ・・・・・・


 *快晴無風の一日、佐賀ではバルーン大会と佐賀維新博覧会と重なり、大勢の人出で賑わった。

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                                        ・・・・・・・
                              

          

   

(224) ガダルカナルの死闘⑤ 「血染めの丘の戦い」

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       (224) ガダルカナルの死闘 ⑤ 「血染めの丘の戦い」

 左翼第一線の国生大隊は、まず、アメリカのエドソン大佐の主力2個大隊が布陣する小さい丘の攻略に取りかかった。この丘は日本名で「ムカデ高地」といい、戦闘後には別名で「血染めの丘」とも言われているが、此の丘は飛行場の滑走路を見下ろせる高地なので攻撃目標としては当然であった。日本軍は鉄条網で囲まれた二重の陣地を突破せねばならないが、ここが落ちない限り飛行場の奪還は出来ないのである。

 
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                                       (ムカデ高地・血染めの丘周辺)

  のちの川口少将の回顧談によれば・・

 国生大隊長は白刃をふるって敵の第一線の高射砲陣地を突破したが、第二線の重砲陣地を抜くことが出来ず、猛烈な敵の砲撃の中で多数の戦死者を出し、国生大隊長は敵の陣地に乗り込んで重砲に馬乗りになったまま、全身に機関銃弾を受けて壮烈な戦死を遂げた。大隊長ばかりでなく三名の中隊長も戦死し国生大隊は半数になってしまったのである。

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                      (血染めの丘の米軍陣地)

 国生大隊に劣らず奮闘したのは右翼の田村大隊であった。第二線攻撃部隊の田村大隊は、小野寺、黒木、石橋の三個中隊を並列にして「夜襲の仙台師団」の名誉にかけてしゃにむにエドソン丘に突進した。田村大隊左翼の小野寺中隊はエドソン大佐の最堅陣にぶっつかり、その中核部隊の猛反撃を受けて肉弾相打つ凄絶な戦いを展開し、匍匐前進と突撃によって敵の第二戦線の一部を奪取したが中隊長以下多数の損害を出して前進を阻まれた。

 また、右翼の石橋中隊は機関銃陣地を突破して飛行場に侵入し、近くの敵の壕内に潜んで夜を明かしたが、突撃直後平たん地に出たため八方から猛烈な銃火を浴びせられて死傷者が続出したが、第一線陣地を占領した。その後、夜明けとともに前進が困難になってしまった。
 田村大隊と国生大隊の生き残りは、唇を噛み、涙を流しながら悔しがった。「ああ、あと一個連隊あれば完全に飛行場を占領できたのに・・」 と。

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                                                 (川口支隊幹部)


 田村大隊長は第一線中隊の苦難を知ったが、なお攻撃を続行し予備隊である黒木中隊に突撃命令を下した。黒木中隊はエドソン丘の右端から攻撃を開始、敵の高射砲陣地の一角を打ち破って斜面を駆けくだり、飛行場の指揮所に押し寄せた。そして滑走路を横切ってテントに入ってみると、食料がいっぱいある。「これはルーズベルトのご馳走だ」とばかり分捕った。しかし敵の砲火がすさまじく、中隊長は負傷し、隊員の半数を失ったので中隊長は残兵50名ほどを率いて敵陣を突破し、夜明けとともに負傷兵を担いで引き上げたのである。

     ・・・・・・                           ・・・・・・

 *今日も快晴無風の上天気、佐賀はバルーン大会と唐津のおくんちで今日もにぎわうだろう。

          
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   *唐津生まれの友人が「一度唐津くんちに出て来い、ご馳走するぞ」と言っていたが、
   10年ほど前に肺がんで死んでしまってとうとう行けなかった。 

 唐津くんちの日は、どこの家でも豪勢なご馳走をいっぱい作って、誰がやってきてもただで酒食を振舞うしきたりである。

         
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                      (ウワーイ!やったぁ!)


                                                 ・・・・・・

(225) ガダルカナルの死闘 ⑥ 川口支隊の退却

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        (225) ガダルカナルの死闘 ⑥ 川口支隊の退却

 第一次総攻撃の時、メリカの砲兵隊長「プライッス」は105ミリ迫撃砲だけでこの日2000発を撃っても味方の重砲の支援がなければ、エドソン丘の確保は出来なかっただろう、とのちに語っている。

 田村大隊長は夜明けとともになお攻撃を続行すべく各中隊との連絡に努めたが、間もなく川口支隊長の攻撃中止命令が伝達されてきた。

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                       (迫撃砲は射角が高く、密林内の砲撃に適している)


 このように、田村大隊、国生大隊の運命をかけた肉弾突撃もことごとく失敗に帰し、この一夜で、戦死632名、負傷500名を出した。かくて川口少将は夜明けとともに、生き残りの将兵を率いてマタニコウ川の西側まで転進せざるを得なかったのである。

  9月15日、川口支隊長は
「攻撃を行いたるも敵の抵抗、意外に大にして、大隊長以下多数の損害をこうむり、やむなくルンガ河左岸に兵力を集結、後図を策せんとす、将兵の健闘にかかわらず、不明の致す所、失敗申し訳なし」
 と、軍司令部に打電して、川口少将の主力は敗れ去ったのである。攻撃参加の主力は約3000名で生存者は約1500名であった。

 この「血染めの丘」の戦で、川口支隊出最も期待されていた最右翼の「渡辺第三大隊」はどうしていたのだろうか。大隊の13日夜の戦闘行動には明確な資料がないが、川口少将の手記には次のような記載がある。 

 ・・「この大隊には飛行場を突き進み、まず15高地という最も大事な高地を占領せよ、と命じていた。しかるに13日昼間の敵の射撃におびえたのか大隊長は副官らと共に安全な所に隠れて出てこない。取り残された隊員たちは古参中隊長が代理で指揮して夜襲すべきなのに、B大尉はそれをしなかった。結局大隊全部が13日夜を無為に過ごしたのである。一番大事にし、望みかけていた有力大隊がこの始末になった。私はこれを知り、15日に大隊長を呼び、怒り心頭に発して「卑怯者!腹を斬れ!」と怒号した」 と、ある。・・・

 しかし、大隊長は、前に満州に居た時の外傷が悪化して歩行困難となり、副官と共にジャングルの中の低地に身を横たえていたという。そして大隊長の命令がないままに一部の将兵が夜襲に参加したのが事実らしい。

 こうして川口支隊の運命を掛けた夜襲戦は米軍の損害、戦死者31、戦傷者百数十名に対し、日本軍の損害はこの一夜だけで戦死632名、負傷500名を出して日本軍の完全な敗北に終わった。
 そして川口少将は夜明けとともに乱舞する米機の目をかすめて、生き残りの将兵を率いてマタニコワ河の西側へと転進したのだった。この転進は太平洋戦争開始以来、「進むを知って退くを知らぬ」帝国陸軍部隊の初めての退却だった。


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                                              (左上が岡部隊)

 一方、上陸用舟艇を空爆されて甚大な損害を受けながら、ようやく飛行場の西側に上陸した「岡部隊・福岡第124連隊」の残兵450名は、支隊主力の飛行場襲撃を助けるために飛行場の南西にそびえるオースティン山を占領した。海抜427mのガダルカナル島一番の高い山で飛行場が眼下に見える攻撃の要点である。「ああ、もし重砲があったらなぁ」と岡連隊の兵隊たちは口惜しがった。
 この山から砲弾を撃ち込めば飛行場の奪回はわけもなかったのである。そのオースティン山にも敵の重砲と艦砲射撃が飛んできて、空からは激しい米機の爆撃も受けた。そして岡連隊は三日間よくこの山を守ったが4日目には食料が尽きてやむなく山を下りたのだった。



        ・・・・・                        ・・・・・・

  *昨日は、家内の半年に一度の九大病院検診のため博多まで出かけ、ちょっと疲れました。
やはり年は争えず、足腰の筋力の退化を実感します。そこで来年からは、佐賀の総合病院で検診するように紹介状を書いてもらいました。専門医が九大にしか居ないとのことで、ちょっと渋られましたが、もう来年は体力的に博多まで行けそうもないので仕方ありません。

 今日も快晴、秋にしてはやや暖かすぎる日差しで,イオン買い出しも楽チンでした。
 このところの毎朝の冷え込みで、ようやく木々の黄葉も進んで来たようです。

 
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                                       (ふるさとの紅葉の橋の懐かしき)

                                               //////



(226) ガダルカナル・第二回総攻撃

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    (226) ガダルカナル・第二回総攻撃

 第一回総攻撃に失敗した川口支隊はマタニカウ河へ退き、兵をまとめて集結して援軍の到着を待った。だが、援軍より先に、川向うに現れたのは優勢な敵の増援部隊だった。 そしてマタニカウ河死守の命が第3大隊に下り、川沿いに塹壕を掘って敵の渡河を防いだが、猛烈な敵弾により死傷者の数が増えた。

 イメージ 1「川口支隊敗れる」の報に驚いた大本営は事の重大さを知り、ジャワにいる第2師団の師団長「丸山政男中将」にガダルカナル奪回を命令した。
  
  第二師団は仙台の部隊で、みな強健な東北健児である。これに大本営参謀部から生え抜きの辻政信中佐と杉田中佐、林少佐の三参謀を派遣した。今度こそは、是が非でもガダルカナルからアメリカ軍を追い落とそうという大本営の強い決意の表れである。
 ← 丸山中将

 辻参謀は連合艦隊旗艦「大和」山本五十六司令官を訪ねて、輸送船団の護衛を頼んだ。

 そこで10月13日正午、山本司令官は先手を打って、第11航空艦隊の爆撃機の大編隊をもって、ルンガ飛行場を急襲させ、また戦艦金剛榛名をもって艦砲射撃を行い、ルンガ飛行場に甚大な被害を与え、米軍の使用可能なアメリカ飛行機は90機から42機に減少し滑走路も一時使用不能になった。然しこれらの努力にもかかわらず、依然として制空権はアメリカの手中にあったのである。

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                                                    (戦艦・金剛)


 どちらが早く着くか、日本の優秀輸送船団6隻と、機動部隊より発進したアメリカの艦上爆撃機との息詰まる競争であった。輸送船から仙台の第2師団(師団長:丸山政男中将)、青葉支隊(支隊長:那須弓雄少将)などが続々と上陸、輸送の予定は総勢1万7千500名、火砲176門、糧食2万5千人の30日分であった。 10月9日には第17軍司令官・百武晴吉中将 自身も自らガ島に上陸した。


 10月7日タサハロングから上陸した第2師団は、まず将兵があがり、その後、武器を上げ終わったころ、東の空がしらみはじめた。

 ところが、兵員と弾薬などの積荷を陸揚げしている間に、日本の輸送船団は来襲した米機の猛爆を受けることとなった。輸送船は6隻のうち4隻が炎上し、一隻は沖合から砂浜に突入し擱座して揚陸を敢行した。このような努力で兵員は全部上陸できたが、ようやくのことで陸揚げされて海岸に山と積んであった武器、弾薬、食糧に敵の爆弾の雨が降り、残った食糧は半分、ガ島の全将兵の100日分、大砲も野砲、山砲合計して80門が38門に減ってしまい、特に重砲は僅か2門しか残らなかった。
                       
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                                                   (攻撃される日本軍輸送船)

 
  イメージ 4第2師団上陸前のガダルカナル島は戦いに敗れたばかりではなく、食料不足のため文字通りの“餓島”となり果てており、飢えきった川口支隊の使役兵が、海岸に放っておけば敵弾で焼かれる食糧を命がけでジャングルに運び込み、そのなかのいくらかを隠した。
 この時、ガ島に上陸した辻政信参謀は、川口支隊の将兵が食糧を盗んだということで“泥棒部隊”と罵っている。 

 ←揚陸のため砂浜に擱座した輸送船・鬼怒川丸

 これに対し、アメリカの兵力は2万数千、大砲200門、数万発の砲弾を持っている。丸山師団の兵力は敗残の川口支隊を加えても1万あまりに過ぎない。これでは正面からの攻撃では歯がたたない。丸山中将は敵陣地の後方に回って、後ろから攻撃する迂回作戦をとり、ボハ川から903高地をへて、ルンガ飛行場の後方に出ることとなった。
 
 そのため部隊の一部「住吉支隊」が陽動作戦として海岸沿いを進み、本隊はジャングル内を進むこととした。しかし、戦車や重砲はジャングル内が進めないので住吉隊に配属されたが、それも軽戦車、中型戦車合わせて10数台、野砲7門、カノン砲3門、りゅうだん砲15門などに過ぎず、何よりも砲弾が不足していた。しかもこの住吉隊の戦車はマタニカウ河を渡河中に待ち受けていた米軍の対戦車砲や自走砲のために、すべて撃破されてしまい、海岸は無数の住吉隊の将兵の死体で埋まった。

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                                             (マタニカウ河口の住吉部隊の惨状)

   ・・・・・・                   ・・・・・・・

 
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                                                    (秋の日の一休み)

 *今日は11月8日、いい歯の日だそうです。
   長寿の秘訣は何もともあれ、歯が丈夫な事です。  
   
  丈夫な歯でよく噛んで食べると、脳細胞も活性化し、胃腸も丈夫になり、
  新陳代謝が盛んになります。
  自前の歯が80-20を目標などととは言わずに、しらんのように94-25を目指してください。
  100歳万歳、疑いなし。。
     今日の内科検診でも、先生に大口を叩いてきました。(^^♪

                                      //////


 

(227) 丸山第二師団・無念の退却

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     (227) 丸山第二師団・無念の退却

 一方、丸山部隊主力の本隊は迂回してジャングル内を進んだが、戦車や大砲がなく、大半が歩兵砲、山砲、速射砲などの小型で軽い大砲が配属されたにも拘わらず、人力で配送するのは困難を極め、その多くは戦場に間に合わず、武器と言えば僅かに小銃や軽機のみで砲兵、戦車の援護がない戦いを強いられたのである。

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 丸山中将は時に60歳だったが、折からの豪雨の中を、杖をつき、びしょぬれになり、泥んこになりながら、歩いて行った。第17軍司令官の百武中将からは、最後の訓示が22日正午全将兵に伝えられた。
 「日米決戦ノ時期ハマサニ熟シタリ。

 各部隊将兵ハ死力ヲツクシテ各々ソノ任務ヲ完遂シ、敵ヲ撃滅スベシ」

 総攻撃開始は10月23日22時に決まり、我が軍の布陣は右翼隊長・川口少将左翼隊・那須弓雄少将で一挙に飛行場に突入し、その間、住吉少将率いる砲兵主力をもって、西方から攻撃を加えるというものである。

 イメージ 2ところが、いざ突撃という寸前に偵察機の決死的撮影をした写真を見たところ、第1回の総攻撃の時には見られなかった場所に、堅固な陣地が構築されていることを川口少将は発見した。

 この敵の陣地は第一回総攻撃の時に失敗した同じ突入路であった。「前回の総攻撃より一層堅固な陣地となっている同じ陣地に向かって真正面から、少ない兵力で総攻撃をかけるとすれば、攻撃の失敗は眼に見えている」として、川口少将はひそかに敵の側面に回りたいと作戦変更を辻政信参謀に頼んだ。

 ↑辻正信参謀

 ところが、本部からは「攻撃が一日遅れるので予定通り正面攻撃をせよ」との命令があり、川口少将は「正面攻撃は部隊長として責任を負い難い。迂回作戦を承知して貰いたい」と再度電話して30分ほど待ったところ、突如、命令不服従をもって川口少将は攻撃寸前になって旅団長を罷免されてしまったのである。 (後任は歩兵第230連隊の東海林俊成大佐)

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 22時、いよいよ総攻撃が始まり、すさまじい銃声がボハ川上流の百武軍司令官の元にも響いてきた。やがて軍司令部の無電班から「万歳!万歳!」の叫びが起こった。ルンガ飛行場占領の暗号電報「バンザイ!」が入ってきたのだ。この朗報はただちに大本営へ、そして東条首相へと伝達された。
   
 しかし、30分後に明るかった大本営の空気は一変した。この電報が誤りで、続いて「ルンガ飛行場は落ちず、ただいま我が軍苦戦中」との第二報が入ったのである。豪雨に中で草原に突入した那須部隊がその草原を飛行場だと間違えたのであった。そして、続いて入ってくる電報は苦戦の知らせばかりであった。

 左翼隊那須部隊は那須弓雄少将指揮のもと、29連隊を主力とする夜襲師団の異名を持つ勇猛部隊である。那須隊は勇戦奮闘して敵陣に突入、敵の哨戒線を突破したが、第二、第三の堅塁に阻まれ、敵の猛砲火のため損害続出して攻撃はとん挫した。
 左翼隊長の那須少将からは「古宮連隊長は、軍旗とともに敵陣に突入せるも、連隊長と軍旗は行方不明、各大隊長、中隊長もほとんど戦死、または負傷」という悲報が届いた。更にマラリヤの高熱に耐え、ごま塩頭に白鉢巻をして、野村副官の肩に寄りかかりながら進んでいた那須少将自身も敵弾を浴び戦死した。

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                                                      (丸山師団、行動図)


 また、川口少将から東海林大佐に変わった右翼隊の主力・東海林連隊は草原を北進して0時に敵陣地に接近し飛行場の一部に突入したが、敵の猛烈な敵の砲火に前進を阻まれていた。ある所では、兵の頭上30センチくらいの所に一面に火の幕が張られたように敵の砲火が集中して、身動きが出来ないという有様だった。このため敵陣地直前で敵と対峙したまま25日の夜明けを迎え、ついに右翼隊の夜襲も失敗してしまった。これは攻撃寸前の指揮官の交代という、統帥の混乱のためとも言えるだろう。

 また、野戦電話中継所からの通信が間違って「占領」と早合点されたまま各方面に通報されてしまった。岡連隊では 「飛行場さえ奪えれば、もうこっちのものだ。あそこには、ビフテキだのミルクだのが山ほどある」と、持っていたすべての食糧を泥の中に捨ててしまい、岡連隊の将兵は、一瞬にして、ほとんどの食糧を失ってしまった。そして、敵はついに日本軍の背後に重油タンクを落として火を放ち、いよいよ万事休すとなった。

 日本軍は、ここに刀折れ矢尽き、丸山師団長は涙をのんで10月26日、全軍に退却を命じたのであった。

                ・・・・・                     ・・・・・

 *今日は黄落の秋とは思えない暖かい一日でした。
また、10個ほど柿の実をちぎりました。昔は長い竹竿の先を割ってちぎったものですが、最近は高枝切りがあるので楽チンです。
 毎日、おやつに食べているので尻が詰まらないか・と心配しきり・・

                   
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 *今年は『なり年』なのか、うちの庭の柿の実も鈴なり、カラスも年寄りのために食べ残してくれました。 カキは赤き実(アカキミ)が語源だとする話がありますが、柿の美しい朱紅色は、いかにも日本の秋を感じさせてくれます。むかし、有田焼の酒井田柿右衛門が、柿の実の色の美しさに魅せられたのもうなずけますね。

          柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺      子規 

  柿をたべても鐘はなりませんが、あまり食べるとタンニンのために便秘しますぞ・・
  柿が赤くなると医者が青くなる、と言われるほど栄養満点なのですが・・  


(228) 「ガダルカナル撤退」

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       (228) 「ガダルカナル撤退」
 
 昭和17年12月27日、絶望的な朝がきた。こんどこそはと、意気ごんだ第2次総攻撃も圧倒的な敵の砲火によってまたも敗れてしまい、ルンガ飛行場(米軍側からはヘンダーソン飛行場」の周りには日本兵の死体が累々と重なっていたのである。

イメージ 1
                                                  (激戦のヘンダーソン飛行場)

  丸山師団の攻撃失敗から、生き残った将兵たちはジャングルを切り開いて進撃してきた丸山道を、一粒の米もなく、草の根をかじり、木の実を探しながら退却して行くほかはなかった。
 死の島ガダルカナルは、いまや飢えと病気による「餓島」となってしまったのである。
 しかし、大本営はなお諦めずに、ガ島奪還のために新たにスマトラにいた佐野忠義中将率いる第38師団を送った。
 しかし輸送船団のうち7隻は爆撃により沈没し、つづく4隻も第二波の艦爆隊の攻撃により炎上してしまった。兵器も食糧もほとんど失ってしまった佐野師団は丸裸も同然である。それでもなお、敵陣地に夜襲をかけて勇戦したが、食糧と弾薬が尽きてはもはや退却するほかはなかった。

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                                                 (壊滅した第二師団の将兵)


 一方の海軍は、佐野師団を含めて残る2万名の兵士たちを飢えさせないために、駆逐艦と潜水艦38隻を総動員して食糧の輸送に努めたが、このうち20隻がアメリカ海空軍によって撃沈されてしまったのである。そしてアメリカ軍は日本軍撃滅作戦に乗り出した。100門の重砲と300門の迫撃砲が一斉に火を噴き、たちまち日本軍陣地は火だるまのようにになってしまった。ろくに食べ物を食べていない日本軍、その上、マラリアや赤痢に悩まされていた日本軍将兵は、それでも最後の勇気を振り絞って戦った。そして動けぬ者は自殺した。  正にガダルカナルの悲劇であった。


 イメージ 3大本営では、悲報相次ぐガダルカナルの攻撃を続けるか否かで、1ヶ月近くも激論が交わされた。11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が餓死して、腐って蛆がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。そして退却命令から1か月後の昭和17年12月31日になって、日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死して行ったのである。

 かくしてようやく17年の暮れも近いころ、御前会議でついに「ガ島撤退」が決定した。 「転進」という名による、日本軍始まって以来の退却行であった。この撤退作戦は「捲土重来」を意味して「ケ号作戦」と名づけられたが、このとき、食糧・兵員の輸送をめぐって、陸海軍の対立もあり、そのままガ島奥地に取り残されてしまった兵士たちも居たようである。
 ↑やせこけた日本軍捕虜

 ガダルカナル撤収作戦は昭和18年2月1日から7日にかけ、三次に分けて駆逐艦20隻で行われ、陸軍9,800名、海軍830名の撤収に成功した。
 かくて4か月にわたるガダルカナル島の攻防戦に投入された約3万2千名の日本将兵のうち、戦死者1万2,500名、戦傷者1900人余、戦病死4,200人、行方不明2,500人という大損害であった。 
 また、海軍の損失も、ソロモン沖海戦など数次にわたる海戦と船団護送のために、艦艇56隻沈没、115隻が損傷し、飛行機の損失も約850機に上っている。

 一方の米軍の記録によれば、戦闘参加将兵6万人のうち、戦死者はわずかに1000人、負傷者は4,245人しかいなかった。そして餓死した米軍兵士は一人もい居なかったという。


 かくて、このガダルカナルの転進以降、日本軍は次第に太平洋の拠点からじりじりと後退して、足早に「転進の時期」を迎えることになったのである。


                   ・・・・・                   ・・・・・・
 
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                                                      (山の黄葉)

  *このところの冷え込みで、遅れていた木々の黄葉もようやく色づきました。
    秋から冬への衣替え、草木も衰えて風もことさら身に沁む頃になりました。
    
          秋風や藪も畠も不破の関         芭蕉


                                                 ・・・・・・

「ソバの花」

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           「ソバの花」

  秋も深くなり、昨日今日、北風が冷たくなりました。

          野ざらしを心に風のしむ身かな      芭蕉
 
 〇 「ソバの花」

  そろそろ、吉野ヶ里のソバ畑の真っ白い蕎麦の花も終わりのようです。

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  「蕎麦・ソバ」はタデ科の一年草でアジア北東部の原産です。
日本には朝鮮を経て渡来し、十世紀ごろから栽培されてきました。涼しい気候の山地に適し、やせ地でもよく生育します。弥生時代の吉野ヶ里あたりでも、こんな蕎麦を作っていたでしょうか・・

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                                 そばの花  山傾けて 白かりき    山口青邨 

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 ソバは、茎の高さは60センチ~1m位で秋に小さい白い花をたくさんつけます。この花は一日ほどの命ですが、次々に咲くので1ヶ月ほども咲き続けます。ミツバチの蜜源として重用され、花の後の実を挽いてそば粉を作って食用にします。また実の殻はソバ殻として枕に詰めて使用されます。

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                                                    (ソバの実)

   

  〇 「赤ソバ」

  そばの花といえば、晩秋の山地の風物詩として真っ白いそば畑に決まっていますが、最近は珍しい「赤いソバ」が栽培されているのを、時たま見かけるようになりました。

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                                             (吉野ヶ里の赤ソバ)

 「赤ソバ」はヒマラヤの高地に咲いていた「赤花ソバ」を信州大学で改良開発したもので、正式には「高嶺ルビー」という新しい品種です。
 ミツバチの蜜源としても利用されていますが、真っ赤な花がきれいなので「赤いじゅうたん」として主に観光用に栽培されています。

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  でも、食用にはならないそうですよー。。
 (*最近、信州では赤ソバを食べさせてくれるソバ屋さんもあるようで、少し赤みがかっていますが腰が強くて案外おいしいとか・・)

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 当地では吉野ヶ里歴史公園の「北のムラ」にも栽培されていて、赤いソバの花がいっぱいに広がっていてとても壮観です。

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                           山の上(え)の月に咲きけりそばの花     村山鬼城

                                               ・・・・・
 

(229) 岡連隊の悲劇  ①

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     (229)  『 岡連隊の悲劇 』  ①

 年が暮れてガダルカナルにも新しい年、昭和18年が来た。
 第一次、第二次の総攻撃に続いて佐野師団の攻撃も失敗して、最左翼の岡連隊(福岡・歩兵第124連隊)はアウステン山へ退いて立てこもったが、ほとんど洞窟内で暮らしで昭和18年の正月を迎えた。
 この時の正月用の“特配”でさえも、乾パン2個と金平糖1粒というみじめさであった。1個中隊で150名の兵が、第10、第11中隊を合わせても26名という状況となり、 飢えた兵が次々と息を引き取っていったのである。

 
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 大本営は面子や意地もからんで、攻撃続行か撤退かを決めかねていたが、昭和17年12月30日にようやく撤退を決め、 翌31日、宮中大広間の御前会議で、撤退は月の出ない1月30日から2月7日までの間に行うと決定し、昭和18年1月15日、第17軍司令部に撤退の詔勅が伝達された。

 イメージ 3しかし、敗戦に次ぐ敗戦で士気の衰えている現地部隊に、撤退をいますぐ明らかにすれば大混乱になると大本営は恐れ、ガ島将兵をだました命令を出した。“撤退”は連隊長以上に知らせるに留め、あとの将兵には退却ではなく「転進して敵を撃つ」と伝えただけであった。
 昭和18年1月10日、撤退を知らぬ山崎正人大尉は、危険を冒して単身で他部隊との連絡に行き、山中で敵に囲まれて戦死した。

 *(この時に山崎大尉が持参していたと思われる週番将校襷を米軍少尉が戦利品として入手したらしい。本人の生前の話によれば1月10日にギャロッピング・ホース(日本名・見晴台)の戦いで日本軍将校と1対1の銃撃戦の後に戦死した日本軍将校の遺体から手に入れたとのことである。
 ↑ 山崎大尉
 平成18年にこの話が日本にもたらされ、週番将校襷が日本に返還され、現在、久留米の自衛隊駐屯地の資料館に展示されている)

 当初、4,000名で編成された岡連隊(歩兵第124連隊)は、アウステン山に孤立した時は300名以下となり、山は敵に包囲されて、他部隊との連絡も途絶えた。
 餓死者続出の中、岡明之助連隊長は進退について心を砕いている時に、“O参謀”が大本営の命令を持って到着した。“O参謀”は「岡部隊はあくまでもアウステン山を死守せよ」という“大本営命令”を伝えたといわれる。

 ところが、どこからともなく他部隊が兵器までも捨てて退いているとの情報が入り、岡連隊将兵は「これはおかしい。あの死守の命令は“私物命令”ではないか」と疑い怒った。
 旅団長を解任された川口少将は内地に送還されてしまい、いわば“孤児”になってしまった川口支隊の主力・岡連隊を犠牲にすることで、“O参謀”は自分の師団を無事に撤退させようとしたのではないかといわれている。

  アウステン山死守の命令を受けた岡連隊長は、撤退の情報を得ながらも、ともかく様子を見るため退いてみる決心をした。しかし、ガ島を撤退してしまうとは考え得ず、退いても友軍の様子を見て、もう一度戻ってくるつもりであった。そのため第2大隊を様子がわかるまで守備に残し、また退く途中で敵と遭遇するのを恐れ、軍旗をアウステン山に埋めたのである。

イメージ 2
                                             (アウスティン山周辺)

 撤退は敵にこそ発見されなかったが、飢えとマラリヤのため悲惨を極めた。 第56野戦病院は閉鎖され、患者も共に移動を開始したが、14日間もジャングルを退くのには、どうしても患者を連れては歩けなかった。ここの患者には第1回総攻撃の時に真っ先に敵陣に突入した第1大隊の将兵が多かった。 いよいよ歩けぬ者30名は、銃口を喉にあて、あるいは手榴弾を腹に抱いて全員、自らの命を絶った。
  第12中隊長の尾藤大尉は全身4か所も負傷して行軍不能となり「家族には戦死したと伝えてほしい」と言い残して自決し、安川宏軍曹もマラリヤで倒れて「戦友の足手まといにならぬ」と自決した。

                                                                              つづく

  ・・・・・・                    ・・・・・・

 
イメージ 4

               
              有る程の菊抛げ(なげ)入れよ棺の中      漱石


 *終活のため葬儀場のイベントで、遺影の無料撮影をしてきました。これで一安心・・
   昼飯やミカン1キロのサービスから、太鼓や大道芸人のアトラクションまであって大入り満員。
   この商売、よほど儲かるらしい・・
 

(230) 岡部隊の悲劇 ②

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        (230)   岡部隊の悲劇 ②

 このころになって、岡連隊長は、ようやく今の退却が一時的なものではなく、全軍のガ島からの撤退であることを知った。そこで 連隊長は軍旗を山に埋めたまま島を離れるわけにはいかないと、部下十余名とアウステン山に引き返した。

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(アウステン山・砲撃でなぎ倒された樹木)


 また、一行とは別に、まだアウステン山を死守していた第2大隊にも撤退命令を伝えるため、陶山隆軍曹が伝令となって向かったが、すでに山は九分どおり敵の手中にあり、陶山軍曹は第2大隊の守備地まで行きつけず戦死。このため第2大隊は最後までガ島撤退を知らずにアウステン山を死守して全員玉砕した。


イメージ 4 
 ← 「ギフ高地」に建つ岡部隊の慰霊碑   

  「慰霊・ 岡部隊奮戦之地」
  (碑文)
 岡明之助大佐指揮の歩兵第一二四聯隊 並びに歩兵第二二八聯隊第二大隊は一九四二年十一月より翌年一月末にかけて此のアウステン山籠城奮戦した。撃つに弾無く食うに糧無く極限の状況のなか連日の連合軍の猛攻に耐えた、まさに地獄の戦場であった。
特に 第一二四聯隊第二大隊(西畑少佐指揮)第二二八聯隊第二大隊(稲垣少佐指揮)の両大隊は、一九四三年一月二十三日夜包囲した米軍に突撃を敢行し玉砕した
                                          一九九四年九月吉日

 イメージ 7軍旗を取り戻しに行った岡連隊長一行は、アウステン山にたどりつき、軍旗を掘り起こし、小尾少尉がしっかりと腹に巻いて、ふたたび敵中を突破をして山を脱出した。
                                                          → 福岡第124連隊・軍旗

 その間、密林をかいくぐり、谷をよじ登り、ころげ落ち、うめきながら互いに助け合って山を脱出したのは月16日の朝であった。食べ物とてなく、コケを食べ、木の実をかじって進んだが、その日は一滴の水も飲めなかった。汗も、小便ももう出なかった。人間の限界を越え、今はただ精神力だけで動いていたのだった。

  翌日もまた、一滴の水にもありつけない、のどがカラカラに焼けつく、頭がもうろうとして、ふらふらと倒れてしまい、そのまま動かなくなる。

 
イメージ 2
                                         (負傷して捕虜になった日本兵)

 小尾少尉の手記によれば、当時兵隊の間でこんな姓名判断が流行っていたという。
 「立つことの出来る人間は、寿命が30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日までの命」・・

 脱出行三日目・・、
川だ!川のほとりに辿りついたのだ。生き残りの30名はころげながら川へ頭を突っ込んでのどを潤した。  とたんに、背後から激しい機関銃の乱射を浴びた。
  そして、川に頭を突っ込んだまま、岡連隊長以下全員が死んだ。。
 
  だが、ただひとり、水中にもぐった小尾少尉だけが奇跡的に生き残っていた。
  小尾少尉が腹に巻いている軍旗だけを残して、軍旗を取り戻しにアウステン山に引き返した岡連隊の十数名はは全滅してしまったのである。

 イメージ 1小尾少尉の手記によれば

 「隊長も仲間も部下もみな倒されて、深いジャングルの中に、天にも地にもただ一人残されてしまった。呼べど答える者はなく、泣けど叫べど慰める者はいない。6ヶ月、飢えを共にし、生死を誓った岡連隊長ももうこの世には居ないのだ、この先どうしたらいいのか・・ぐったりとして、その場に倒れこんだ・・」とある。
 
   ↑ 小尾少尉
  
 これから、小尾少尉の孤独と,飢えと、密林の戦いが始まった。
  1月20日、たった一人になってから17日目2月6日、カミンボ岬の日本軍の歩哨は異様な人間がひとり、よろめきながら歩いてくるのを見た。
  
  幽鬼のようなその男は
「歩兵・・第二四・・連隊の・・軍旗は・・この腹に・・巻いている」と叫ぶと、ばったりと倒れて気を失ってしまった。
 この日は日本軍がガダルカナルを撤収する最後の日に当たっていた。もう一日遅れていたら小尾少尉は生きながら、永久にガダルカナルに置き去りになる所だった。
  なんという偶然だろう、なんと言う奇蹟だろう。

 イメージ 5大本営がガダリカナル撤退を決めてから最も苦心したのは、どうやって敗残の1万200名の兵隊たちを島から脱出させるかであったが、決死の駆逐艦20隻が三回にわたり暗闇にまぎれて生存将兵を運び出したのである。  

← 駆逐艦に乗り込む兵士たち

  最後の三日目の夜、駆逐艦「浜風」の艦長・神浦少佐は雨の浜辺を大声で叫んで廻った。                        

  「これが最後の船だぞー、残っているものは居ないかー!」
  もちろん、小尾少尉も肩に負われて乗りこんだ。艦が動き出した。あちこちからむせび泣きの声があがった。。

イメージ 6
                                                       駆逐艦「浜風」


 ガダルカナル島の激戦、血闘の6か月、2万の戦友の白骨を残して戦場を去る生き残りの兵たちは、生の喜びよりも悲しみと苦しさで一杯だった。
 この南太平洋の小さな島に、アメリカ軍は70,000の大軍を繰り出して2,000名の戦死者、日本は32,000の兵力で20,1000名の戦死者を出したのである。
        
 「告げよかかし」  (第二師団司令部付き 吉田嘉七曹長)  

 イメージ 8     椰子に照る月よ
     汝、心あらば告げよかし
     一すじの大和心に
     ばらより色こき血潮
      あざやかに 我散りにきと

     ひたよする波よ
     汝、心あらば 伝えてよ
     珊瑚の岩なすあたり
     日の本の 国を守ると
     玉のごと
     我砕けりと。           

    
              ・・・・
                                                                           ↑アウステン山の日本軍塹壕あと


              ・・・・・              ・・・・・・

イメージ 9


                                  ここにきて死ねよと山河黄落す     籏 こと


                                                 ・・・・・・

(231)「岡連隊の悲劇」③

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   (231) 「岡連隊の悲劇」 ③
 
  「余禄」

 退却した岡連隊の将兵たちは、連隊長たちが取り戻しに行った軍旗」を待ちに待っていた。

イメージ 4「軍旗」は軍の基幹的単位である各「連隊」の創設時に天皇自ら手渡される連隊旗なので、軍隊内では天皇同様に神聖化された存在だった。   軍旗はその連隊を象徴する最も神聖且っ重要なものなので、軍旗のない連隊などあり得ないのである。そこで軍旗を持たずに退却する岡連隊を見た第17軍司令部は「軍旗がなければ、一兵たりともこれ以上、撤退することはならぬ」と激怒した。このため岡連隊は、いつまでも途中のボネギ河付近で取り残されていたのである。

  
  隊員たちは横を次々と他部隊の将兵が退却していく中を、来る日も来る日も不安といらだちのなかで過ごし、17日目にようやく軍旗を腹に巻き、幽鬼のようによろめながら小尾少尉が現われたのである。 将兵はみな手を合わせて軍旗を拝み、軍旗を中心に撤退集結地のカミンボの海岸に向かった。

イメージ 5
                                               (波静かなカミンボ海岸)


  昭和18年2月1日夜、第3水雷戦隊の駆逐艦20隻がカミンボ沖に姿を現した。 撤退人員は陸軍9,800名、海軍830名。 岡連隊はわずかに200余名。
 だが、同じ時、ガ島には撤退に間に合わなかった将兵がいた。
 戦傷のため、撤退軍と同一行動がとれぬまま、ガ島に見捨てられた将兵は、岡連隊と他部隊を合わせて400名に達したといわれている。

 
イメージ 3
                                         (ガダルカナルの飢えた日本軍兵士たち) 
                                

 軍旗を護って脱出した小尾靖夫少尉は、引き揚げの駆逐艦艦上でバッタリと“O参謀”に出会った。“O参謀”は「お前らは、アウステン山の死守命令に違反して逃げてきたのか」と面罵した。これに怒ったった 小尾少尉は持っていた歩兵第124連隊旗を突き付け、「軍旗に向かって何を言うか!」と大喝して軍刀に手をかけたが、周囲の者に止められて斬れなかった。
 この無念さを剣道5段の中山中尉に打ち明け、岡連隊の恨みの一刀を“O参謀”に浴びせることを誓い合った。しかし、その後、“O参謀”とめぐり会う機会がなく、ようやく会ったのは終戦後のことで、時勢の変化のため恨みを晴らす機会はついに失われてしまったという。

 ガ島撤退軍はサイゴンのツドム飛行場で慰霊祭を行なったが、岡連隊3,000余名の遺骨がない。 仕方なく慰霊祭に使った位牌とガ島に出陣時にパラオに残しておいた将兵の衣服を集めて焼き、この灰に爪や髪をつけて白木の箱に少しずつ分けて収め、 昭和18年9月6日、3,000余名の英霊は博多駅に無言の凱旋をしたのであった。


                             イメージ 1

                                     「歩兵第百二十四聯隊鎮魂碑」

 昭和十七年八月末以来六箇月にわたり祖国日本を遠く離れたこの南溟の地で優勢な連合国軍の猛攻の下 撃つに弾無く食うに糧無く 極限状態の惨状はまさに言語に絶するものであった
その犠牲となった川口支隊三千百七十九柱の御霊の安らけきを祈りここに鎮魂の碑を捧ぐ
                                                                      平成五年九月吉日建之

 〇遺品の帰国
  この戦いの中で、昭和18年1月10日、撤退を知らぬ岡部隊の高級副官・山崎正人大尉は、危険を冒して単身で他部隊との連絡に行き、山中で敵に囲まれて戦死した。

 単身連絡に行った山崎大尉はガダルカナルの見晴台で、米軍のウイリアム・バーン少尉と遭遇し、一対一の決闘になった。バーン少尉は頭部を撃たれ銃弾が鉄兜を貫通したが遺跡的に軽傷で済んだ。そして彼が死んだと思って山崎大尉が近づいてきた所を逆襲して、山崎大尉は射殺されてしまったのである。この時、バーン少尉は山崎大尉の週番将校肩章などを奪って戦利品として米国に持ち帰ったが、昭和25年6月に始まった朝鮮戦争でバーン少尉自身も戦死してしまった。この遺品は平成18年にバーン少尉の遺族から日本に返還され、今は久留米の自衛隊に展示されている。

イメージ 2
 
                                     (週番将校の肩章と将校用の「服務規定)

  *太平洋開戦以来、ミッドウエーの海戦で敗れ、ついでこの悲惨なガダルカナル攻防戦によって、日米航空勢力が逆転して、以後、サイパンを始めフィリッピンから沖縄へと日本は敗戦への道をたどる事になるのである。

               ・・・・・・                       ・・・・・・

イメージ 6
  
                                              (木守り柿)

 昔から柿の実は全部ちぎらずに、一つだけは残して置く風習がある。
これを「木守り柿」というが、木に宿る神に来年の豊作を祈念するためなのか、或いは鳥獣にも自然の恵みを共有するためなのであろうか・・

            柿ひとつ空の青きに堪えむとす      石坂洋次郎  
  
                 ・・・・・・                   ・・・・・

 (232) ガダルカナルの悲劇・余談

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     (232)   ガダルカナルの悲劇・余談 ①

   「ガダルカナル生き残り勇士の証言」

 ガダルカナルの悲劇は、日本海軍が急造した飛行場を上陸した米軍に奪われ、その飛行場を奪還するために派遣された一木支隊の全滅から始まった。一木支隊は旭川歩兵第28連隊を中心とする部隊で、元々ミッドウエー島占領の為に派遣されたのだが、ミッドウエー作戦の失敗により急遽、ガダルカナル島に転用されたのである。

 〇 「旭川歩兵第28連隊」

 戦前「またも負けたか8連隊、それじゃ勲章9連隊」などと揶揄されるほど、大阪、京都の部隊は日露戦争以来、連戦連敗、日本最弱の部隊という不名誉な有名?を馳せていたが、東北、九州の勇猛な部隊同様に、北海道の旭川歩兵第28連隊は日本の最精強部隊として知られていた。 しかし、精強なるがゆえに、日露戦争から日中戦争に参戦し、昭和14年のソ満国境のノモンハン事件では壊滅的な打撃を受け、またガダルカナルでの全滅という、いわば不運な部隊でもだった。


イメージ 1
                                               (旭川歩兵第28連隊)


 一木支隊は大東亜戦争の昭和17年、第28連隊を基幹として一木清直大佐を隊長として旭川で編成されたが、同年8月約2千3百人がガダルカナル島に上陸し、数次の戦闘でその大半がこの地に散華した。南太平洋に浮かぶ島、ガダルカナル島。この島の飛行場の争奪を巡って、米軍と日本軍は陸海空一体となった初めての戦いを繰り広げたのであった。


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                                                    (上陸した一木支隊)


 ジャングルに強固な陣地を築いていた米軍。そこに最初に突撃したのは、旭川第28連隊兵士の精鋭を中心に特別に編成された部隊「一木支隊」だったが、8月20日夜、イル川を渡河し、白兵攻撃を仕掛けた。しかし、米軍の鉄条網に阻まれ、戦車になぎ倒され、ほどこす術はなかったのである。

 そこに兵士たちを待ち受けていたのは、米軍の集中砲火だった。物量、兵士で圧倒する米軍に対し、兵士たちが命じられたのは日露戦争以来の白兵突撃で、銃を撃つことなく、銃剣を抱えて米軍陣営に突入する戦法だったのだ。 

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 (ジャングルを行く一木支隊・先遣隊)

 一木支隊・生き残りのさんの話では

「予期はしていたが、突然、真っ暗闇の中で敵の銃口が火を吹き、銃声が闇にこだましながら、夜襲部隊の頭上に雨あられのように襲いかかってきた。兵たちは立つのはおろか中腰にさえもできない。早くいうと、ちょうどカエルをひっつぶしたような格好だった」

「敵砲弾は、あちこちのヤシの木を根っこから吹き飛ばし、戦友たちは砂ぼこりと共に中天に噴きあがり、ばらばらになって落下してくる」

 かくて一木支隊は翌21日には包囲殲滅され、先遣隊916名のうち一木大佐をはじめ840名が戦死したのである。

 
イメージ 4

                                            (イル川、河口の28連隊の死体)


 Mさんは負傷しながら7日間ジャングルをさまよい、飲まず食わずの間に見た「幻」は懐かしい旭川のたたずまいだったと述べている。
 「故郷では、お盆もはや終わり、秋のみのりを待つばかり。水田も畑も希望に膨らんでいることだろう」
 「わが瞼に焼きつきて片時もはなれず、焦がるること渇水に泉を得たる如く、ぬばたまの闇に貧灯を見定めたるによく似たり。ふるさと旭川よ。山よ、川よ、草よ」
 
 こうして、一木支隊の白兵突撃戦は無残な結果に終わり、殆どたった一日で一木支隊およそ2千人のうち、8割が帰らぬ人となったのである。

                                       つづく

       ・・・・・                     ・・・・・・
       
 
イメージ 5

                                           (四国・奥祖谷のかずら橋の紅葉)

 
        山暮れて紅葉(もみじ)の朱(あけ)をうばひけり     蕪村




(233) 「ガダルカナル生き残りの証言」 ②

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      (233)  「ガダルカナル生き残りの証言」 ②

 ** ガダルカナルの悲惨な戦いに実際に参加された旭川歩兵第28連隊の兵士・Sさん から、数年前にたくさんの貴重なコメントを頂きました。Sさんは連隊一の射撃の名手で旗手だったと、記されているのでおそらく少尉くらいの将校だったと思われます。
 コメントを頂いたとき、Sさんは92歳でしたから、26歳の時に従軍されたようです。以下、Sさんからのコメントをまとめてみました。紫蘭の記事にその都度頂いたコメントなので、話が一貫していませんが、ご了承下さい。
 【*当時、Sさんはご高齢のため、ご家族の方が代わって口述筆記されたものと思はれます】

イメージ 1

 〇ガダルカナル生き残り勇士・Sさんの証言(元文通り)

 ① 昭和17年8月16日のガダルカナル上陸から、2月7日の撤収までの間が何十年もの歳月と感じられ、最近のことは何も憶えていませんが、当時のことは鮮やかに記憶してます。ムカデ高地に向かうジャングルでは落下傘降下した敵の金髪の美女を見て驚きました。椰子に縛りつけておいたところめった刺しにあい、絶命していました。

 日本海軍の夜戦も、被弾した大型艦は注水して平衡を保ち、さらに海水に没しても、息の続くかぎり発砲していました。そのため砲弾は水中から敵艦めがけて飛んでいました。椰子の木は海岸部に密生してましたが、マラリアでフラフラの兵には登ることが出来ないので、逆に煙をあげて米軍の砲爆撃で、実を落としてもらい食べていました。あとは牛も狙撃して手に入れ、ワニも鳥肉の味がして美味しかった。また、白豚の肉とか黒豚の肉とか、飯ごうで煮て食している兵たちもいました。それらの足も切断して食料にしていたようです。


イメージ 2
                                        (海岸に放置された輸送船・鬼怒川丸)


 ガダルカナルから撤収時は、這って歩くような兵でも一斉に走り出したのです。駆逐艦の縄梯子は到底登れず断念したのですが、海軍さんが必死の思いで担ぎ上げてくれました。駆逐艦の水兵さんには感謝の気持ちで涙がとまりませんでした。しかも艦上ではおにぎりが用意され、嬉しくて涙が枯れてしまいそうでした。 


イメージ 3
                                             (駆逐艦に乗り込む兵士たち)


 ② ボストン丸、アメリカ丸で、内地から出航しましたが、一航艦(*ミッドウエー海戦で全滅した第一航空艦隊の空母群)が全滅した為にグアム島に回航されました。そこで親兄弟に貝細工のお土産などを購入し、内地に向けて航行していました。が、しかし突然船はガ島目指して回頭したのです。
船内ではミッドウェイーで死ぬ覚悟だったのに、一転して旭川に帰還できる喜びに満ちていたのですが、突然の地獄航路で、みんな憤慨していました。兎に角、慌ただしい中で急に駆逐艦に変更されても、全員乗れないために上陸用舟艇群とに分けられたのです。

 ③ 一木支隊の第一挺身隊は決死隊と呼ばれ、蔵元少佐の第一大隊に連隊本部が付随する感じで、各小隊長が兵を選抜したようです。自分は内沢少尉と仲がよかったので、デッキに呼び出され、頼むと云われて参加しました。自分の自慢は連隊一の射撃の腕と、旗手をしていたことでした。しかし発砲禁止の攻撃では射撃の腕も役に立ちませんでした。今思えば、アメリカの携帯機関銃で、乱射しながら突撃出来たらさぞ愉快だっただろうと思います。百足(ムカデ)高地では突撃ではなく、匍匐(ほふく)前進で這い回っていました。(あ、そうでした。ふさわしくない書き込みですのでもうすぐ消し去ります)


イメージ 4 一木大佐は3回も斥候隊を出しました。しかし、一回目の斥候隊は音信不通となり、2回目は下士官で編成した斥候隊を派出しましたが、全員帰還せず。

 やむなく3回目は大規模な将校斥候隊を出す羽目になりましたが、38名中2名だけが生還し、あとで土人の部隊(*英領ソロモン群島の土着人の沿岸監視隊)に全滅させられたことを知りました。

 ソロモン群島の土着民の海岸警備隊

 
 当時は輸送船でガ島に向かう予定だったのですが、急遽駆逐艦輸送に変わり、あわただしい船内で選抜されたのが第一挺団だったのです。
 第一梯団は決死隊と呼称されました。但し、兵力は一個大隊程度で、将校斥候(38名)の殆どが失われた戦力は大打撃でした。何故なら、中隊長、小隊長クラスの将校が大分失われたからです。
 関羽を殺された、劉備の心境だったと思います。

 将校斥候は、任務を全うしました。敵陣地の布陣と、弱点を掌握したのですから。しかし、問題は食料の問題があり、本隊が敵陣地に向かい西進していたので、時間的に急ぐ必要から、海岸道路に出て東進し、一刻も早く危険を知らせようとしたのです。

④ 斥候隊を3回も出したことも、連隊旗から御紋章をはずして持ち帰ったことも、誰も知らない事だとおもいます。(*Sさんは軍旗の旗手だった)
 あの、包囲網を脱出できたのも、奇跡だと思ってます。私の人生は死んだ兵に生かされて来た人生だと考えています。これまで体力の全てを傾けて読み書きしてきましたが、もう限界かもしれません。大正7年に生を受けて、今まで何回も、当時の取材を受けましたが、もう寿命のようです。


 エスペランス岬では牧草のクローバーが生い茂り、美味しくてクローバーを貪り食った思い出や、飛び降り自殺を計った時は、死んだ親父が霊となって後ろから抱きかかえたりと、忘れることのできない島。 今でも「お~い、土人だ」の声が聞こえる。(*??)


                   イメージ 5
                                    (エスペランス岬)
                                           つづく

         ・・・・・・・                    ・・・・・・・

 *今日は思いがけず、暖かい一日、
  今のうちにと思い、年末の行事を繰り上げて、マンホールや庭などの大掃除をしました。

イメージ 6

山茶花の長き盛りのはじまりぬ     富安風生

 * 庭のさざんかが咲き出しました。山茶花の花期は永く、一月半ばまで咲いています。
 
 山茶花はツバキ科の常緑小高木で、四国九州には野生の山茶花があるそうです。野生の山茶花は一重の白い花ですが、花木として一般に栽培されているのは、白、桃、赤、紅白や八重咲きなどさまざまです。

  
イメージ 7
             
                             (もともとの野生の山茶花は、白色で一重の花です)



                                  


(234) 「ガダルカナル生き残りの証言」③

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       (234)   「ガダルカナル生き残りの証言」 ③

 ⑤ コメントは、ここに書いては消していきます。今日は疲れました。紫欄さんからのお言葉が嬉しくて寿命が延びましたが、大変な迷惑をかけて恐縮します。ただ、変人が未だ生きていると思って無視されてもいいのです。蝋燭の炎はいずれ消えます。世間では云えないこと、年寄りの戯言です。
  霊が出てきたり、戦場でうら若き女性が現れたり、頭を撃たれて進め、進めと叫んだり、水中から砲弾が発射されたり・・、これでは絶対に人さまに笑われます。

 思いはあっても、忘れたことが多く、思え出せない。
煙を出さないで火を使うのに腐心して研究した記憶がある。缶詰めの空き缶を細工して、苦労しました。9月の総攻撃の後退却して、餓死者とマラリア患者が多くなったこと。
他の病気も併発して小銃を持たない兵が多くなったこと。
階級章をはずして、下士官と将校かもしれない兵が目立ったこと。行軍命令を無視して横になっている兵も出だしたこと。純真な青年ほど、自決者になる傾向があったこと。可愛そうだった。

 最前線の九州の岡大佐の部隊は悲壮なものだったが、その犠牲が多くの友軍を救ったし、岐阜の軍隊も頑強だったことなど、当時は状況が分からず、戦後に知りえた事が多かった。

イメージ 2
                                          (ガダルカナル上陸の岡部隊)


 辻参謀は「君たちは、人間の肝を、食ったことがあるか」と言い。又、ガ島飛行場を占領すれば、ルーズベルト給与で腹が満たされるといわれました。また、9月と10月に辻参謀をお見かけした時には、餓死者と、空腹の兵の前で、平然としておにぎりを、食してました。
 
 イメージ 3辻参謀は、戦後の著書で多くの嘘でガダルカナル戦を飾っています。彼の現地指導で、得るものは何もなかった。夜戦の仙台師団、白兵戦の旭川連隊、敵前上陸の小倉、岐阜、名古屋の精鋭、みんな死力を尽くして戦いました。辻は、何故自決しなかったのか。国会議員となったのも、舌が2枚あったからか。。
  ←辻参謀

 辻は、昭和14年のノモンハン事件でも活躍したことになっていますが、彼が行ったのは、後退する部隊を制止させて、全滅させることだったのです。ノモンハンの日本軍は戦車中心のソ連の機甲部隊には手も足もでませんでした。

 あんぱん(機甲爆雷)を抱いて肉弾戦を敢行しても砂漠の砂ばかりが宙に舞い、敵の戦車のキャタピラは切れませんでした。
 サイダー瓶で急造の火炎びん攻撃だけが有効でした。しかし、たった1両を攻撃するだけで、1個分隊単位で全滅でした。  

イメージ 1

                                         (ノモンハンの日本軍中戦車と兵士たち)

 
 ガダルカナル転進後、ボーゲンビルで負傷した自分は台湾の陸軍病院で療養してましたが、内地には転院させてくれませんでした。あとで情報操作(*敗戦を秘匿するためか・・)だと判りましたが、文句はいえませんでした。後日、健康を回復した兵の多くが、ビルマに送られた話も聞きました。軍部は都合が悪いことは遮ったのです。 
 ・・・・

 本当の激戦地は何処だったのでしょうか。サイパン、硫黄島、レイテ島、もっと悲惨な戦場があったようです。比較的に多数の生存者がいる餓島が注目されてますが、ニューギニアのポートモレスビーを目前に転進した兵たちの無念さ。ラバウルから連日飛んでいた航空隊、しかもオーウェンスタンレーの山を越えて、爆撃されていた苦労は、察せれまます。民間人が多数なくなり、無念でなりません。

                   
イメージ 5
                                
                          (ニューギニア戦線の米軍兵士)


 終戦直前のロスケの一方的な参戦には憎悪さえ感じます。民間人よりも優先して南下した満州の関東軍、残され惨殺された老人と婦女子達。残酷なロスケに未だに恨みが残ります。民間人を守れない軍隊は恥じるべきです。現代も拉致を阻止出来ず、領海、領空を侵犯されても、指をくわえて見ている日本があります。大丈夫なんだろうか? 

          ・・・・・・
                       ・・・・・・

 *そのほか終戦直前のソ連参戦の事とかいろいろコメントを頂いたが、ある日突然Sさんのコメントは途切れてしまった。そのとき、Sさんは92歳で亡くなられたらしかった。その後、ご家族からのコメントがあった。それからもう10年近くにもなる。
                    //////

 以下、ご家族からのコメントです。
 *初めまして、ガダルカナル島から生還した陸軍兵士は重篤状態から生還できませんでした。遺族として、報告させていただきます。大変迷惑な書き込みをされて、さぞお困りだったと察します。 本人に代わり、お詫び申しあげます。
 今後ともお身体をいたわり、末永く昭和を語りついで下さることを、切望します。。

                                                       つづく

  ・・・・・・                    ・・・・・・

イメージ 4
                            (つわぶき)


                                   さびしさの目の行く方や石蕗(つわ)の花      蓼太


(235) ガダルカナル生き 残り勇士の証言④

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      (235) ガダルカナル生き 残り勇士の証言④

  Sさんが亡くなられてから、引き続きお家族からコメントを頂きました。

     ・・・・・・
 
イメージ 5
                                  
                 (ガダルカナル・日本軍兵士の塹壕あと)

*丁重なお悔やみを頂き、ありがとうございます。
今年から、大型モニターを設置した所、本人が喜んで見入ってました。ユーチューブの当時の画像に釘付けになり、ネットサーフィンの結果、紫蘭さんのブログに辿り着き、お気に入りになりました。私が帰宅するのを待ちわびて、督促されるままに自分が代わって書き込んでいましたが、何時も後ろめたい気持ちでいました。しかし告白できて、今ようやく肩の荷が降りました。
 紫蘭さんには計り知れない程ご迷惑を掛けましたが、本人はとても嬉しそうにして輝いておりました。 誰も敗残兵の言に耳を傾けないなかで、紫蘭さんだけが真摯に受け止めてくださったことを、感謝していました。

 イメージ 1①28連隊、第一挺身隊の攻撃と、川口閣下の第一回総攻撃、またその後の幽兵時代のことは、全て書き留めています。故人が心残りだったのは28連隊の2217名の内第二挺団が駆逐艦輸送の水野少佐の部隊と岡大佐の舟艇機動部隊に分散し、舟艇機動の28連隊の戦闘顛末が判らなかったことです。

 ← 破壊された日本軍戦車


 岡大佐と一緒であれば全滅だったはずです。そのことでオーステン高地の戦闘記録を辿っていました。第一挺団は決死隊と自称し僅かな携帯食料と弾薬しか携行を許されず、2千名のアメ公の殲滅に向かい全滅したのです。分隊斥候戻らず、下士官斥候戻らず、最後の将校斥候隊も2名以外は全員戦死で、敵情を分析することなく戦闘になったものです。

イメージ 2
                                             (死亡した日本軍兵士たち)


 飛行場から5キロ以上離れているジャングル内にも赤や黄色、緑の電気ケーブルが張り巡らされていて、こちらの様子は筒抜けでありました。また、腰ために携帯機関銃を目暗撃ちをする米兵は初見参であったそうです。第二回総攻撃では夜襲、夜戦の仙台第2師団も地雷と重砲と高射砲の水平射撃で殲滅されたそうです。第一回までは戦死と負傷でしたが、第2師団は大地ごと吹き飛ばされたそうです。将兵の敢闘精神は不屈でしたが、大本営の参謀が無能でした。 
   ・・・・・

 イメージ 4〇暑い夏、今年は北海道も記録的な暑さで、去年トムラウシで7月16日に9人も凍死したのが信じられないほどです。遭難の危機に遭遇した時、進退の判断に苦しんだようです。
 敗軍の将が語るとすれば、早くにガ島を放棄すれば良かったと言われると思います。トムラウシでも、ガイドは早く引き返せば良かったと言ってます。ガ島は止めろと言った高官は皆左遷され、結局撤退と後退は認められません。

 辻参謀に意見、反論すると左遷か予備役の運命でした。
7師団25連隊長も1000名足らずの戦力で35両の赤軍戦車とノモンハンで激闘撃退したが、辻参謀の作文で予備役になりました。

                                                              *  毀誉褒貶、評価が分かれる ↑ (辻参謀)

 人を騙し、陥れる人間が人気と処世術で国会議員になり、吉川先生のお力で作家にもなり喝采を浴びていた事は、悪口雑言を言われた旭川と仙台の将兵と、川口旅団には許せなかったようです。
スターリンは、ノモンハンを総括して「将兵の戦闘力は高いが、参謀と武器が酷い」と結んでいるそうです。
 

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                                                   (壊滅した仙台第二師団)

   ・・・・・・・

 *Sさんのコメントには、そのあと、ノモンハン事件やソ連参戦時のことなどの記載がありますが、ガダルカナルの悲惨な戦いには関係がないので、ここでは割愛させていただきます。

                                             

(236)12月8日 「開戦記念日」に思う

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      (236)  「開戦記念日」に思う

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 今年の12月8日・大東亜戦争開戦の日も差して話題に上る事もなく終わった。
 真珠湾攻撃は何しろ77年も前の出来事だったのだから、世人の耳目から消えていても当然だろう。考えてみると、シランが生まれたのは西郷隆盛や江藤新平が死んでから僅か48年しかたっていなかったのに、当時は遥かに遠い昔の出来事のような気がしていたのだから、今の若い人に77年も前の話など関心があるわけがない。しみじみと「老兵は消え去るのみ」の感じがする昨今である。。


  あの日は雲一つない日本晴れだったが、こんにちのように寒かったかどうかは記憶にない、何しろ、国民にとっては泰平の夢を打ち破る驚天動地の出来事だったのだから、ただただ感激と興奮の一日であり、天気のことなどを考えている暇はなかったのだ。真珠湾攻撃から戦争という無残な出来事が始まったと言うのに、当時の国民は逆に快哉を叫んだ、というのが、真実だったと言えるだろう。
  下町を愛し、市井の抒情を愛した作家の久保田万太郎氏さへ、12月8日の開戦には特別の感情を覚えたのか、翌年にはこんな俳句を作っている。

       十二月八日をへたる初日かな

       十二月八日おもほゆ初日かな

 それだけ当時の日本人にとって十二月八日という言葉は、単なる日付ではなく、ある運命的な連帯感を帯びた社会的に重要な意味を持った言葉であった。

  その12月8日の午前、ラジオで大本営の開戦の発表があった。古い日記を見てみると


  ○ 日記 「昭和16年12月8日」  晴 

  日米遂に開戦!!

 本日午前6時、大本営陸海軍部は、「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」と発表、さらに大本営海軍部は「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対して決死的大空襲を敢行せり」と発表した。
  
イメージ 2 ラジオは今、♪護るも攻めるもくろがねの~浮かべる城ぞ頼みなる~と軍艦行進曲のメロディをバックにして、この同じ開戦の臨時ニュースばかり放送している。

 いまや超、超非常時がやってきた。日本民族一億が一つになって英米を討つのだ。神よ!日本に幸あれ!
 
  今日は日本晴れである。ラジオからは軍歌の「勇敢なる水兵」が聞こえてくる。今や日本死活の戦いが始まった。

  この戦いに勝てば日本は世界第一の強国となり、敗れれば世界の二流、三流の国となる。いや、その独立さえ危ぶまれるのだ!
 
  日本は勝つ!断じて勝つ!この意気を見よ! ・・・・・ 
     

     ・・・・・

  と、17歳の少年は、はなはだ興奮気味で、なにも手につかない状態である。この時、シランは旧制高校の受験に失敗して浪人中だったが、この日ばかりは受験勉強そっちのけで一日中ラジオにかじりついていたのだ。興奮のあまり、日記の筆を執る手も震える・・と書いている。
  そうか。。あれからもう77年にもなるのか・・、
  少年老い易く学成り難し。。 わが蓬髪も白くなるはずだ・・

  次の年、昭和17年は18歳、暗い浪人生活も解消して大阪外語の一年生だった。

 〇「昭和17年12月7日」 (月) 晴れ
 
 明日は対米英宣戦布告一周年である。御堂筋で大学、高専、女専の分列行進がある。授業はない。
 夕刊を見てみると、アメリカ陸軍省は一年前の日本軍のハワイ空襲の損害を始めて発表し、8戦艦全部の損傷を認めている。今までは撃沈二隻その他だったのだが、やっぱり日本の発表が正しかったのだ。明日の開戦記念日を期して敵機来襲の恐れありと、昨日から警戒厳重なり。部屋の直射光を出さぬようにしているが、暗い空には十四、五本の探照灯の光線が交差して一点に集まり、その光の交点が、ゆるやかに横に流れて行って本当に美しい光景である。 高射砲の敵機捕捉の訓練だろう。

                       
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                                       ( 真珠湾・戦艦ウエストバージニア号炎上)


 〇「昭和17年12月8日」 (火) 晴れ
 夜来の雨も上がって快晴になった。大詔奉戴日一周年である。朝7時集合、大手前にて大詔奉戴式あり、ついで御堂筋にて分列行進を行い、帰校したのは一時過ぎだった。パン二つ貰う。
 下校時、千日前にて映画「海を渡る祭礼」を見る。良い映画を見た後は、いつも何とも言えぬ爽やかな気分になる。
 
 〇 「12月9日」(水) 晴れ
空は晴れているが、寒気厳し。高島屋にて「航空機を主題とする科学技術展」を見た。貯金2円。  

     ・・・・・・
         
 〇 「マレー沖海戦」 

 今日は12月10日、50年前の3億円事件の陰に隠れて、今はもう殆ど忘れられているが、この日は77年前の昭和16年に、マレー沖で日英のマレー沖海戦があった日である。 

 12月8日の真珠湾の奇襲の一方では、台湾南部の海軍陸攻隊とゼロ戦隊も今か今かとハワイ攻撃開始の第一報を待っていた。
  フィリッピン最大のアメリカ軍基地「クラークフィールド飛行場」では、8日の10時15分に対日作戦開始が命令されたが、食事を終えた米の搭乗員たちは、飛行機の整備や台湾偵察飛行の作戦を練っていた。 そのとき、厚く覆っていた密雲が切れ、勇躍した台湾の日本海軍航空部隊は、192機の大編隊を組んでクラークフィールド、イバ両飛行場の強襲へと飛び立っていった。
  
 
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                                                 (一式陸上攻撃機)

 12時45分、一式陸上攻撃機54機がゼロ戦34機に護られてまったく不意にクラーク飛行場に殺到、集結していた米軍の主力約60機を襲い、またイバ飛行場では96式陸攻54機がゼロ戦50機に護られて地上の敵機25機を粉砕、あわせてB17長距離爆撃機(通称空の要塞)12機、P40戦闘機30機を大破、「B17」5機を中破して米戦闘機の三分の一と爆撃機の二分の一以上を壊滅させ、残った爆撃機17機、戦闘機40機も大多数は損壊するという大戦果をあげた。

 それから2日後の10日昼ごろ、シンガポール沖上空3000mで23歳の帆足少尉の指揮する陸攻機が眼下に2敵主力艦を発見、仏印のサイゴン、ツドウモの両基地から陸攻84機、(魚雷装備50機,爆弾装備34機)が小躍りして飛び立った。敵主力艦はイギリスが誇る最新鋭戦艦の「プリンス・オブ・ウエールズ」と改装巡洋戦艦の「レパルス」であった

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 ↑ イギリス戦艦 「プリンス・オブ・ウエールズ」は排水量3万2千トンの巨艦で、これと対等に戦える日本の戦艦は当時「旗艦・長門」と「陸奥」だけであった。

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 敵艦は縦横無尽に高速回避し、1分間に6万発を撃ちあげるポムポム弾を撃ちまくったが、その猛烈な弾幕を冒して、雷撃隊は水面10mの超低空から突撃、ウエールスに爆弾2発、魚雷7本、レパルスに爆弾1発、魚雷14本を命中させて撃沈した。

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 この「マレー沖海戦」は、広く、当時の全世界の注目を集めた。
  真珠湾攻撃はいわば、眠れる敵艦の不意打ちであったが、マレー沖のこの海戦は不意打ちではなく、近代戦艦と飛行機隊との四つに組んだ「力と力」の闘争であった。当時世界で論議されていた「飛行機か、戦艦か」という論戦に終止符を打ったのである。

 
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           (沈没するプリンス・オブ・ウエールズ号から脱出する乗組員たち)


   しかし、これも決して一方的な日本の勝利ではなかった。日本機の被害は

        撃墜・・3機
        不時着大破・・1機
        中破・・2機
        被弾機25機
  
  そして被弾率は雷撃隊が40%、爆撃隊が42%にも達した。
 つまり4割強の飛行機が被弾して、すぐには次の作戦には使えなかったのである。

 
              ・・・・・                     ・・・・・・

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                                      (奥祖谷のかずら橋)

(237)師走

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     (237) 「昔の師走の行事」

 イメージ 3平成30年も早や半月を残すのみとなった。いつもの事ながら、月日の経つのは早いものだ。若いころは一日がこんなに早くは感じなかったのだが・・司馬遼太郎ではないが、まさに「翔ぶが如く」である。 翔ぶがごとく・・そういえば「西郷ドン」も今夜で終わりか・・

  むかし、鹿児島に行くと、汽車が薩摩地方に入るにつれて車中の若者たちの声が高くなる。みんな西郷どんについて口角泡を飛ばして、声高に議論をしているのだった。薩摩隼人はそれほど西郷隆盛の生き方を敬愛しているのだろう。

 ←西郷どんの銅像


 師走というのは、坊さんなど師と呼ばれるほどのお偉い人も忙しく走り回るから、という話だが、一説では、師走は為果つ(しはつ)から来ている言葉らしい。つまり、一年の仕事を為してしまったという意味だろうか。
 昔はそんな年末の行事がいろいろあった。尤も、今はこんな行事はあまりお目にかかれないようだが。。佐賀地方の農村地帯のむかしの年末の行事を少し見てみよう。

  〇 「12月1日」  河渡餅

 昔は、12月の朔日(ついたち)には「河渡餅・かわたいもち」といって、小豆の塩餡の「よごれ餅」を食べる習慣があった。この日に「河渡り餅」を食べると水難を招かれるという言い伝えがあり、土地によっては朔日の夜に食べるのもあったようで、これを「宵渡り餅」と言ったそうである。

   〇「12月13日」  十三日別れ

 昔は11月13日を「13日別れ」と言い、商家を一か年無事に務めた下男、下女が主家に別れて各自の生家に帰る日であった。この日は「いわしなます」と言う、干しイワシを入れて温めた大根のナマスをはじめ、五っ組の食膳を出して使用人をもてなすのが通例であった。

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                                           (昭和初期の佐賀の呉服屋さん)


   〇 12月15日 「下肥約束」

 今ではとても考えられないことだが、戦前の農作業に使う肥料は、化学肥料ではなく天然肥料、つまりは人間の糞尿である下肥え(しもごえ)であった。天秤棒の前後に下げた糞尿の入った下肥を、畑の穀物や野菜に柄ひしゃくで振りかけて行くのである。この糞尿の汲み取りを「肥え汲み」とか「うらひき」と言い、毎年12月に入ると農家はこの「うらひき」の相談を市内の各家と相談していたが、12月13日頃までに民家との間にその約束をまとめる習わしであった。
 
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                                                (昭和10年・水車と肥桶)

 汲み取り代を「うら代」と言い、たいていは米かもち米で、家の人数によって「一年に何俵、とか何斗」とか決めて「うら」を引くのだが、昭和初年ごろからは農村の若者が町中を「うら引き」に行くのを嫌うようになり、その後は逆に民家の方が「うら引き代」としてなにがしかの金銭を払うようになった。

 戦前は、うちでも毎月、汲み取りに来てもらっていたが、汲み取り賃を支払っていたようだ。その逆にお彼岸などには自家製の米や「草餅」などを貰う事もあった。
 しかし、戦時中は農家の若者が戦場に送られてしまい、人手不足のため「肥汲み」が出来なくなって、糞尿の処理にはみんな一苦労をしたものである。
 今は化学肥料一点張りになり、上下水道も完備されて衛生上も昔の汲み取りなど考えられない時代になった。明治、大正、昭和と、時は過ぎ、世の中は大きく変わった、思えば遠くに来たもんだ。。

   〇 「煤・スス払い」

 昔は各家で年に一度、12月になれば「煤払い」を行った。いわば年末の大掃除であるが、昔は台所のかまどで藁や薪を焚くので、屋根裏には黒い煤がつく。そこで笹を束ねた笹竹でこの一年間の煤や埃を払い落すのである。尤も、昭和になれば、市役所の春秋の大掃除検査があって、畳まで剥いで大掃除をするので、年末に改めて煤払いの行事をする必要はなくなってしまった。

                                                                      ///////

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                                         (カユイ所に手がとどく)

                                               ・・・・・

 (238) 「年用意」

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   (238) 「年用意」

        何にでも老いのかけ声年用意   小松月尚

 新年を迎えるために、いろいろ準備をすることを「年用意」という。煤払い、畳替え、神棚仏壇の清め、家居の補修、正月用の買い物など、年の暮れは何かと忙しい。これは正月七日の間をなるべく体を使わないようにして、正月をのんびりと楽しく過ごすための用意でもある。 
 
 学友の赤尾兜子の俳句に征前裡吟と題して、年の暮の句がある。

    イメージ 1 ほろぶものすべて帰らず年暮るる
     歳晩の路(みち)の石踏み無言なり
     後の世の事は知らざり霜を踏む
     思うことなしただ白菊の吹き散るか
     年用意我には胸に隠す遺書

 この時、兜子は20歳、学徒出陣で紫蘭と同じく陸軍甲種幹部候補生になり、20年一月、東京の陸軍機甲整備学校に入隊した。
この時、3月10日の東京大空襲を体験している。入隊前の師走に年用意をするとき、彼もひそかに遺書を書いたのだろう。

            →     紅梅や脳天の華語聞きづめに     兜子

  兜子は字が上手かったが、学生時代は漢語だらけの中国語は苦手だったのだろうか・・

  〇 「12月30日」 餅つき

       ♪ もういくつ寝るとお正月・・

 むかし、子供の頃は正月が来るのが待ち遠しく、何処からともなく餅つきの音が聞こえると「あゝ、もう正月かぁ・・」と、感慨に浸ったものだが、最近のように餅つき器械が普及すると、餅つきも何とも味気ないものになってしまった。

 モチの名前は、粘り気があって、何でもべたべたひっつくモチノキのモチから来たのだという。子供の頃、このトリモチを釣り竿の先に塗り付けて、よくトンボやセミ取りに行ったものだ。あちこち洋服にモチを引っ付けて母に怒られたりしながら・・

 むかしから餅は、正月、節句、祭り、出産、建築などの、めでたい事があるごとに搗いたものだが、正月のモチが一番親しみがある。餅にはその形で、鏡餅、丸餅、伸し餅(熨斗餅)、海鼠(ナマコ)餅,菱餅などがある。関東では鏡餅は勿論丸餅だが、そのほかは伸し餅にしてあとで四角い切り餅にするが、関西では鏡餅のほかは小さい丸餅にするようだ。紫蘭が子供の頃は丸餅ではなくひらぺったい伸し餅の鏡餅だったような記憶がある。

                   イメージ 3
                                      (昭和11年・小学校の餅つき風景)

             未来ひとつひとつに餅焼け膨れけり     大野林火


 「やきもち」という言葉は嫉妬することを言うが、妬いてふくれっ面をするからだろうか。。
  むかし、佐賀地方では餅つき加勢という風習があった。自分の家人で搗かずに、餅つきを専門の人たちを頼むのである。
 

 イメージ 4毎年12月になれば14,5日頃から「年の餅」の餅つきの約束が行われる。約束の日時には、家でもち米を用意しておくと、近郊の村々から数人の餅つき人がやってきて、甑(こしき)蒸し釜、かまど、それと臼や杵を持ってきて餅を搗く。

 みんなで臼の周りを取りまき、時々、威勢よく掛け声を掛けて餅を搗き終わると、もち米一升につきいくらという勘定で、衝き賃を貰って帰って行くのである。

 
 佐賀地方では、餅つきは12月30日と決まっていた。29日には餅つきをしない。「九・苦」の餅は避けるという意味である。正月の餅は歳徳神餅(鏡餅)・荒神さん餅(かまどの上に供える)などを搗くが、新婚さんのいる家では「嫁くさん餅」を搗いて嫁の実家に暮れの餅として贈る習わしがあった。

 餅は腹持ちの良い保存食なので、農家では春先の農作業にも耐えうるだけの食料として、各家では一俵以上も搗いたものである。シランの子供のころは、大量の餅を水ガメに水を張って保存していたが、毎日、毎日の餅責めにはうんざりだった。春先になると、その餅が水の為に外側がどろどろになり、赤や緑のカビが生えて酸っぱくなって居てホントに嫌だった。

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                  (餅つき風景・・画、南窓さん)


                                           ・・・・・・
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