(239) 「平賀源内」
江戸時代中期の戯作者であり、植物学者、医者、発明家と多彩な才能を発揮した「平賀源内」は1728年(享保13年)の今日・12月18日に生まれています。
「土用の丑の日にうなぎを食べると元気になる」という俗説は、知りあいのうなぎの蒲焼屋に頼まれて源内が考えたキャッチコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかったので、夏枯れのうなぎ屋の商売のために考え出した、いわばコマーシャルだったのです。
天才・源内は多方面の才能を持っていながら、のちにはキワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も逆に世間に対して冷笑的な態度を取り始めました。そして封建社会をこきおろす著作を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露しました。
彼の『放屁(ほうひ)論』では
「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長し」と、屁の形態を論じたりしました。
「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長し」と、屁の形態を論じたりしました。
嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり
また、当時江戸に実在した屁の曲芸師(屁で三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いにして「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と自分の業績を称賛し、半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明したのに、これを見て人は私を山師と言った。
つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と、語っています。
つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と、語っています。
(エレキテル・複製)
(1778年)50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世間を憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信となり、被害妄想が拡大していきました。
或る日、訪ねてきた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築の設計図がありません。
↑ (平賀源内の墓)
とっさに、大工たちに盗まれた!と思った源内は押し問答の末に激高してついに2人を斬り殺してしまいました。然し、実はその図面は源内の懐の中ではなく、帯の間に入れて置いたのでした。そしてついに発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死したのです。。(享年51歳)
そして源内の墓を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友の医師「杉田玄白」で、玄白は源内を惜しんで
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
と源内の墓標に刻みました。
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(愛宕山から見る江戸の町)
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