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(239) 「平賀源内」

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      (239) 「平賀源内」

 江戸時代中期の戯作者であり、植物学者、医者、発明家と多彩な才能を発揮した「平賀源内」は1728年(享保13年)の今日・12月18日に生まれています。

 「土用の丑の日にうなぎを食べると元気になる」という俗説は、知りあいのうなぎの蒲焼屋に頼まれて源内が考えたキャッチコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかったので、夏枯れのうなぎ屋の商売のために考え出した、いわばコマーシャルだったのです。

 イメージ 1天才・源内は多方面の才能を持っていながら、のちにはキワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も逆に世間に対して冷笑的な態度を取り始めました。そして封建社会をこきおろす著作を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露しました。

 彼の『放屁(ほうひ)論』では
「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長し」と、屁の形態を論じたりしました。

       嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり


 また、当時江戸に実在した屁の曲芸師(屁で三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いにして「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と自分の業績を称賛し、半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明したのに、これを見て人は私を山師と言った。
 つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と、語っています。

 
イメージ 2
                                                 (エレキテル・複製)


 イメージ 3(1778年)50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世間を憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信となり、被害妄想が拡大していきました。
 
 或る日、訪ねてきた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築の設計図がありません。

 とっさに、大工たちに盗まれた!と思った源内は押し問答の末に激高してついに2人を斬り殺してしまいました。然し、実はその図面は源内の懐の中ではなく、帯の間に入れて置いたのでした。そしてついに発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死したのです。。(享年51歳)


  ↑ (平賀源内の墓)

 そして源内の墓を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友の医師「杉田玄白」で、玄白は源内を惜しんで
 「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
 (ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
   と源内の墓標に刻みました。

           ・・・・・・                   ・・・・・・

イメージ 4
 
                                     (愛宕山から見る江戸の町)

                                                                                   /////


(240) 「放屁論」

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      (240) 「放屁論」

 イメージ 1あまりお上品とは言えませんが、平賀源内には「放屁論」という戯作があります。火野葦平にも芥川賞の「糞尿譚」という短編がありますが、汚いものを主題にしていながら、思わず引き込まれてしまう面白い小説でした。

 糞尿同様、話題としてはあまり上品とは言えない「屁」のことを論じた源内の「放屁論」もなかなか面白そうなので、ちょっと覗いてみましょう。
 源内に言わせれば、なんと見えないはずの「屁」にも形があるそうですよー。

イメージ 4・・「漢(中国)にては放屁といひ、上方にては(屁をこく)といひ、関東にては(屁をひる)といひ、女中は都て(おなら)といふ。
その語は異なれども、鳴ると臭きは同じことなり。
 その音に三等あり。
ブツと鳴るもの上品にしてその形丸く、ブウと鳴るもの中品にして、その形いびつなり。 スーとすかすもの、下品にして細長くして少しひらたし。

 これらは皆、素人も常にひる所なり。
彼の「放屁男」のごとく、奇奇妙妙に至りては、放さざる音なく、備らざる形なし。
 そもそも、いかなる故ぞと聞けば、彼の母、常に芋を好みけるが、或る夜の夢に「火吹き竹」を呑むを夢みて懐胎し、鳳屁元年へのえイタチの歳、春の梅匂ふ頃に誕生せしが、成人するに随ひて次第に屁ひりが上手くなり、「屁ひり男」として今や江戸中の大評判となる。まさに「屁は身を助く」とは実にこの事ならん。・・・ 」と、何ともおかしな話が続きます。


 昔は「屁ふり男」という商売があったんですね。放屁の芸で世渡りが出来るとは、なんだか愉快な話ですが、むかし十九世紀末のフランスのパリの劇場(ムーラン・ルージュという)あたりで、自由自在に屁を放ち、しかも音程も調節できてフランス国歌の「ラ・マルセエイズ」などを奏してやんやの喝采を浴びた「放屁男」が実際にいたそうです。

 〇 「屁ふり爺」
 
  日本でも、秋田の民話に「屁ひり爺」というのがあります。そこに登場する爺さんは、素晴らしい音がする屁を出して殿様にほうびをもらいますが、これが日本で最初に登場する「屁の名人」なのかも知れません。要約したものをちょっとお借りして・・

・・「ある所にヘビリジチャ(屁ひり爺)が山に行って薪をとっていると、山の持ち主が来て、誰だおれの薪を切っているのはと言い、屁をふってみろといわれて、「ニシキサラサラ、五葉の松、トッピンパラリのポン」と屁をふった。すると山廻りにきた人が、たいしたものだ、もう一度聞かせてくれと言ったので、前より良く屁をふると、お礼にそこにある薪をとっても良いといわれて、たくさん取って来た。

 隣の爺がそれを聞き、山に行って薪を伐ると、山廻ってきた人が「誰が薪を伐っているのか」と尋ねたので、ヘピリジジ(屁ひり爺)だと言った。すると屁をふって聞かせてみろというので、頑張ってふるといいあんばいに出ず、くそをたらした。そこで山の主にたいそう怒られたそうだ。

 〇同じような「屁ふり爺」の話が佐賀県伊万里地方の民話にも残っています。方言なので判りづらいですが、大意は秋田の民話と同じようなものです。

 ・・むかーし、むかしね。
ほんに優しかお爺さんのおいござったて。(*いたそうです)
そいぎ(そしたら)その人は、よう山に焚物取いに行きよらしたて。
そいぎぃ(そうして)、偶然、その山の山主さんに出逢うて、
「お前、なし(なぜ)、他人のとば切いよっかい」と怒られて「お前は、ほんに屁のふい方の上手ちゅうが、どがんすっとかい、「俺にいっちょその、聞かせてくれんかい」て、山主さんの言わしたて。
 
「そいぎにゃあ(それじゃ)、ごめんなさい」ち言うて、屁ばふらしたぎぃ、「その屁ふりピッピィー」て、ほんに音も良うして、その臭いも白檀の匂いのごと良かったて。
 
 そいぎぃ(そしたら)、その山主さんは
「お前、これから何処でん薪ば切って良かたい。俺も時々来っけん。お前の屁ば聞かせてくれんかい」て言うてその・・、山の焚物取いに行たてよか、と許されて、そいからもう、山主さんに屁どん聞かせて楽しゅう焚物ば取いよらしたてたて。

 イメージ 2そいがだんだん評判になって、殿さんに聞こえたちゅうもん。そこで殿さんもいっちょうその屁ば聞いてみたかて、いう事になって、殿さんの前に呼ばれて屁ばふらしたち。

 最初は殿さんの家じゃけん、畏まっておらしたばってん、一つ・二つ屁ふらしたぎぃ、自分も楽しゅうなって、だんだん面白うもなるし、臭いも良うして、もう白檀の匂いのような屁ばふらすもんじゃけん、殿さん達は楽しゅう屁ば聞かしたて・・
 そうして、「今日は良か屁ば聞かせてもろうて良かった」て言うて、褒美ばたいそう呉れござったそうで。

 そいぎぃ、隣の意地悪爺さんが「屁ぶって褒美貰うないば、俺もいっちょ・・」と思うて、「屁ふり爺でござい」と町ば触れて歩かしたそうで・・


 そいぎー、そいば(それを)また殿さんに聞こえて、お城に呼ばれて、大広間で屁ふらしたばってん、今度は意地悪爺さんやっけん、この前の爺さんの屁のごと良うなしぃ、臭いは悪かし、もう、ビリビリビリと、座敷いっぴゃーその・・だいかぶった(下痢した)もんじゃっけん。
「この無礼者!」ちゅうて、意地悪爺さんは打首にならしたて・・。

 そいけん(それだから)、人真似どますんもんじゃなか・・
その前の屁ふい爺さんの良かったとは、かねがね行いの良かったけん、そがん果報のあったと。
だから、その時ばっかりじゃいかん、毎日毎日の積み重ねが、そがん果報になって戻ってくっとじゃっけんのう。
 
     はい、こいでおしまい、チャンチャン。
                                   ・・・・

 
イメージ 3

                                            (何事も、大きいことはいい事だ)

                                              ・・・・・

(241) 「屁ふり嫁」

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        (241)  「屁ふり嫁」

 秋田の「屁ふり爺」に似たものに、佐賀市近郊の農村に伝わる
という民話がありますから二、三ご紹介してみましょう。

  〇 「屁ふり嫁」 佐賀の民話より
 ① むかし、むかし。
 仲人さんがあるところに嫁の相談に行きました。
 ところが嫁さんになる人が「私は嫁には行かれん」と仲人さんに訴えました。不思議に思った仲人さんが「なしかんたぁ、(どうしてですか)」と尋ねると、『私は一日に十回づつ、屁をふらんばならん』と言いました、そいばってん、仲人さんは「そいでん、よか」と言うて嫁さんを貰いに行きました。
  
 嫁入りしたその嫁さんは、とても屁をふりたかったのですが、いつも我慢していました。屁を十日も我慢していると、嫁さんのおなかは見る見る大きくなってしまい、近所の評判になりました。
 「こがん(こんなに)腹の大きうなって、どがんしゅうもなか、(どうしようもない)」と嫁さんが訴えるので、婿さんが「そんな時はもう、屁はふってもよかくさい」と言うと、嫁さんが「百もたまっとるけんね、そこんたいば(そこらあたりを)歩きよる人がびっくりしなさるけんが、表ば見張っていておくんなさい」と婿さんに頼みました。

 婿さんが表に立って見張りをしていると嫁さんが「あんたー、よーっと、つかまっとらんば、吹っ飛ぶバイ」と言いました。婿さんは「そんならつかまっとろうな」と言って、柱にしがみつきました。
 婿さんが嫁さんに「もう屁ふってもよかバーイ」と言うと、嫁さんが屁をふりましたが、婿さんはなんと隣の家の屋根の上まで吹き飛ばされてしもうて「助けてくれー!」と叫んで居られた・・ちゅう話ですばい。。  
          ハイ、そいでおしみゃー。。   (多々良フジさんの話


    〇 「屁ふり嫁」 ②

   むかし,、むkし、 あるところに嫁さんが居ました、その嫁さんは大屁ふりだったそうです。
   しかし姑さんが居るので屁を我慢していました。それで、嫁さんはだんだん顔が蒼うなってきました。  姑さんは心配して「お前、どがんじゃい、あっとか(どうにかあるの?)と嫁さんに聞くと
 「屁ばふらんけん、きつうしてたまらん!」 
  
 イメージ 2 「そんないば、畑の柿の木のところに行って、屁をふってこい」と姑さんが言いました。
  嫁さんは姑さんが言うとおり、柿の木の下に行って屁をふると、屁の勢いで、柿の実がみんな落ちてしまいました。それを知って姑さんはびっくり仰天しました。

 ある日、旅人が通りかかり橋を渡ろうとしたら、橋が崩れていました。旅人は「こりや渡れんバイ、早う行かんばならんのに、どがんしても、渡れん!」と嘆いていました。  

  それを聞いた嫁さんは「そんなら私が渡してあげよう」と、旅人の側に寄っていき、屁を一発ふりました。  旅人はその屁の勢いで、橋の向こう側まで吹き飛ばされて行きました。


 帰り道に立ち寄った旅人は「おかげさんで、無事用事ば済ませたけん」と、お礼を言って、ご褒美をたくさんやった・・と言う話ですたい。。     
                          はい、それまで・・   (池田清さんの話

  〇 「屁ふり嫁」③  

  民話にはちょっとしたユーモアと色気があるのが多いようです。  いつの時代でも、またどこでも、少しHな話が好まれるようですね。 同じような「屁ふり嫁ご」の話はいろいろあるようです。似たような話ですが、も一つご紹介します。(*佐賀の方言なので少し標準語に変えてみました)
  
  昔あるところにとてもよく稼ぐ、良い嫁さんが居ました。
  しかし、その嫁さんはびっくりするほど大きな屁をふっていました。
  姑さんは、「ほんに、稼ぐよか嫁ごばってん、こがん屁の太かないば、とても家に置くわけにいかんばい」と婿さんに言うと、かねて気になっていた婿さんも、「せっかく、お前が来てくれたばってん、どがんでんしょうもなか・・」と言うて、とうとう離縁してしまいました。

 嫁さんは風呂敷包み一つ持って淋しく実家に帰って行きましたが、ちょうど村はずれまで来た時、青年たちに出会いました。青年たちは柿の実をちぎろうとしていましたが、竿が短くて届きません。嫁さんは「わたいが柿ば落としてやる」と言って石の側に行って、プーッと大きな屁をふりました。
 そうしたら石が柿の実に命中して、柿の実がパタパタと落ちてきました。大喜びの青年たちは、お礼に柿の実をたくさん嫁さんにくれました。

イメージ 1

  
  柿の実を貰った嫁さんは、また実家に帰り始めました。しばらく行くと今度は米俵をたくさん積んだ馬車曳きさんに出会いました が、馬車曳きさんは高い橋を渡れずに困っていました。同情した嫁さんはまた大きな屁をふると、馬車はスルスルと橋を登っていきました。喜んだ馬車引きさんは、お礼に米俵一俵をお礼に呉れました。

 嫁さんは、離縁されても、あの家にはお世話になったと思って、貰った柿の実と米を持っていきました。すると婿さんが「ほんにお前はよか嫁さんじゃったの。よか、よか、屁ぐらいふってもよかけん、も一度うちに来てくれんかい」
「ばってん、いつもかも屁ばふって貰うては棚の上の品物もぼろぼろ、壁の泥もぼろぼろ落ちるけん、これから小屋ば作って、屁が出そうになったら、そこで屁をふっておくれ」と言いました。
 そこで、嫁さんは離縁にならずに済んで、気兼ねなく屁をふる小屋も出来あがった・・と言う話ですタイ。。
             ハイ、そこまで。。        (信本流二さんの話

                                     //////


イメージ 3

                                    (嫁入り道具はリヤカーで・・昔の佐賀の風景)

(242) 「屁の雑学」

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        (242) 「屁の雑学」

 イメージ 1あのエレキテルで有名な天才「平賀源内」「放屁論」を書いていますが、
古今東西、このつかみ所のない現象である「屁」に関する本を挙げればきりがないほど多いそうです。

 中でも一番有名なのは、1926年(昭和元年)初版の福富織部「屁」("おなら"と読む)でしょう。 これは新聞、説話集、落語などありとあらゆるものから屁に関するエピソードを集めた、いわば「屁の集大成」とも言うべきものでした。この中に曲部の話があります。

 
イメージ 2
                       (福富織部のおなら)

 〇 「曲屁」

  イメージ 3屁を持ち業として興行するのを「曲屁・きょくべ」と言い、音の高さや長さ、強さをさまざまに変えながら放屁することによって、聞き手を楽しませる行為のことだそうです。 いわば曲芸の一種でしょうか。。
 
 興行として曲屁を行った事例は世界各地にあるようで、日本では安永年間に「霧降花咲男」という者が興行をした記録があるほか、19世紀末のフランスでムーラン・ルージュを中心に活動した放屁師の「ル・ペトマーヌ」や、近年では日本の「松下誠司」さん、イギリスの「ミスター・メタン」などが居るそうです。

 ← 放屁師の ル・ペトマーヌ

 「屁ふり名人」として、はっきり実名でが登場するのはいつの事でしょうか。
上記、福富織部氏の著作 『屁』 の中に「古今屁の名人」という章があって、明治までに登場した屁の名人をあげています。


(1) 福屁曲平…霧降花咲男、曲屁福平、三国福平ともいう。


 安永三年(1774年)に江戸・両国や大坂・道頓堀で屁芸を見せ物にした人。舞台上の曲屁は大当たりを取ったが、4年後の江戸・采女が原(東銀座)での二度目の興行は閑古鳥だったという。この人については平賀源内が「放屁論」の中で活写しているし、そのほか当時のいろいろな文献で話題にされている。


イメージ 6(2) 綾鶴…大坂・新町槌屋の遊女で「放屁太夫」と言われた。

 福屁曲平とほぼ同時代と思われる。どういう芸かは不明。この人の放屁が、「音は幾瀬の浮世に響く」と端唄(三味線)に歌われて狂言に採用され琴曲「綾鶴」になって今に伝わっているのだが、放屁にまつわる面影は全くない。三田村鳶魚が『鳶魚随筆』で紹介している。

(3) 屁叉…明治になってからの人で、相州・千木良村(現在は相模湖町)の農民。

  屁叉というのは綽名で、神社の階段を一段登るごとに一発放ち、五十段を登り切ってもなお余りがあり、脇の下を触るだけで屁を自由自在に操ったという。

(4)伊藤國太郎…明治の静岡・浜名郡芳川村(現在は浜松市)の人で製糸工場の経営者。
  綽名は「屁國先生」

 昔は浜名湖周辺には放屁家が多く、毎月放屁会を開いて飲んだり食ったりして、お互いに屁をふりあってその匂いや音色を比較研究し、番付も作っていたが、この屁国先生は常に横綱だった。
 
 明治40年(1907年)頃開かれた放屁大会では、会員24名で、午後の二時から始めて夜の十時頃迄かかって採点の結果、ほかの者は45点が最高だったが、先生は実に93点を占めて一等となり、草鞋十足、酒一升、里芋五升と云う賞品を得たという。また、先生は相手が一発すれば一発(あるいはそれ以上の倍返しで)返礼し、何発挑まれでも平気だったそうである。

イメージ 5 その他、「屁國先生」自身が感化されたと言っている「浜松藩の宮地市兵衛」という武士のように、詳細不明の伝説的なの放屁漢が居り、佐藤清彦の『おなら考』では尾張の「奥御坊主・山田寿悦」、関温穂の『ヘ調ウンチク辞典』では「江戸の百姓・義平」等々を紹介している。

 石川淳の小説集『諸国畸人伝』では「安鶴」という実在の駿河の大工が登場し、名曲「鶴の巣ごもり」を尺八を尻にあてがって吹いたという。


 〇 「屁の絵」

 最初に〈屁〉をしている人を「絵」に描いたのは鳥羽僧正(覚猷)である。彼が描いたのは、漫画の元祖とされる「鳥獣(人物)戯画」(12~13世紀)だが、ほかに「陽物くらべ」「放屁合戦」などが彼の作品と言われている。

イメージ 4


 それまでの歴史で〈屁〉が絵筆の対象にならなかったのは、描こうにも〈屁〉が目に見えない現象であったからだが、この絵では屁を攻撃的にこき回る連中と逃げまどう群衆とが登場し、屁をこく全員が下半身丸出しで尻を突き出し、ネライ定めた屁が一直線に噴出して威力を示す光景が描かれている。


   〇 「屁の歌」  
 
   ** 「糟味噌の屁の匂ひなるかな」

 昔、ある歌人が、非常によく出來て居る庭園を見て早速筆を執つて

         のとかなるはやしにかゝるおにはまつ
             かすみそのへのにほひなるかな

 と墨痕鮮やかに大和假名で書いた短冊を送つた。 ところが主人はこの歌の意味を、

         喉が鳴る早や死にかゝる鬼は待つ
            糟味噌の屁の匂ひなるかな

 と解釈したからたまらない。早速歌人にそ非礼を詰問したが、そのほんとの歌の意味はこうであった。
         長閑なる林にかゝるお庭松
           霞ぞ野邊の匂ひなるかな


                     //////                                                  ///////


イメージ 7

         
                   黄菊白菊そのほかの名は無くもがな     嵐雪


                                         


(243) 「屁の文学」

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    (243) 「屁の文学」

 いろはかるたに「屁をひって尻つぼみ」というのがありますが、屁についてはいろいろな慣用語があります。

  イメージ 1   屁も愛嬌のうち
     屁は三宝さんの欠伸(へはさんぽうさんのあくび)
     屁は言い出し屁(へはいいだし屁)
     屁のつっばりにもならん(へのつっぱりにもならん)

     屁の河童(へのかっぱ)
     屁とも思わぬ(へともおもわぬ)
     屁のごとし(へのごとし)
     屁と納豆は重宝
 (匂いが同じ・・)

 昔の川柳では

 「屁をひって おかしくもなし 独り者」
 「嫁の屁は五臓六腑をかけ廻り」が有名ですが、こんなのもあります。

 イメージ 2   
        音もかも 空へぬけてく 田植の屁  
      屁をへって 嫁は雪隠 でにくがり     
      姥の屁は 子のほっぺたで 紛らかし
  
        屁をひって 裾あふぎたる 団扇かな    
      湯のなかで ひる屁の玉は 肩へ浮き
      風呂の屁は 背中伝って 浮き上がり



  〇 屁の本   

 イメージ 3川柳だけでなく、屁の本も多いそうです。あのエレキテル平賀源内も「放屁論」を書いていますが、古今東西、このつかみ所のない現象である「屁」に関する本を挙げればきりがないほど多いそうです
 
 「少年H」は、戦時中の中学学生の愉快な日常を描いて、同時代を過ごした戦前の少年である(紫蘭)にとってはなかなか面白く懐かしい自伝小説ですが、作者の妹尾河童氏の名前は「屁の河童」をもじったものと思われます。

 〇 屁の狂歌

 ☆  七へ八へ屁をこき井出の山吹の
         みのひとつだに出ぬぞよきけれ   
(四方赤良)

 ※(太田道灌のエピソード「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」を下敷きにしたパロディ)
 七重八重とばかりいくつも屁をこき、井出の山吹のような黄色の中味がひとつも出なかったのはめでたい、めでたい・・

 ☆  すかし屁の消えやすきこそあはれなれ
         みはなきものと思ひながらも       
(紀定丸)

 ※すかした屁の消えやすく儚いことこそ、しみじみ心が動かされる・・
  中味のないものだと思いながらもね。(そもそも屁は「実体がない=実がない」わけである)

 ☆  ひいふつとすゐはの征矢の高なりは
         ぶゐさかんなる響なりけり  
         (竹杖為軽)

※ ヒイフッと放たれて飛んでいく水破の矢の高鳴りは、武威(ブイ)さかんな響きであるよ。
       (矢を放った人が屁をこいたのを見て矢の高鳴りを笑ったのかも・・)

 ☆  へゝゝゝゝ へゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝ
         へゝゝゝゝゝゝ へゝゝゝゝゝゝ       
(加保茶元成)

※ みなさん解釈自由の「へ」の洒落たリズム感。
    (回文・前から読んでもあとから読んでも同じ文章・の歌として詠まれたもの)

          ・・・・・・                     ・・・・・・

イメージ 4


                            年惜しむ程のよきことなかりけり     松崎鉄之介


                                 今年もあとわずかになりました。。
 

(243) 「自由放屁協会」

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          (243) 「自由放屁協会」

  昨日のテレビでも、矢が刺さった池のカモの映像が映っていたが、こんなひどい動物虐待にはほんとに怒りを覚えますね。人間同様、動物にも命があるんですからいたずらは止めて優しくしてあげましょう。 でも、動物愛護もあまり極端になるのも考え物です。

 イメージ 1徳川幕府五代将軍の 綱吉「生類憐みの令」を出して、犬10万匹を保護したり、犬や燕をを殺したら死罪になり、鳩に石を投げただけで遠島になるなど、極端な動物愛護の大悪法を行い、犬公方と言うあだ名まで付けられたが、動物愛護の先進国として有名なイギリスも「綱吉的動物愛護精神」がすごいです。


 イメージ 2万一、動物を虐待すると、「王立動物愛護協会」から非難されてたいへんなお叱りを受けることになる。ロンドン近郊のある金魚屋さんは、自分が自宅に帰る時、店に金魚たちを残しておくのが可哀相だから、「毎日金魚を入れた水槽を車に積んで通勤しても良いでしょうか」、と協会にお伺いを立てたら、答はノーだった。その理由は車に金魚を乗せたら、金魚たちが船酔いするから可哀相だというのである。

 動物愛護ではないが、昔あったフランスの「自由放屁協会」もなかなかユニークな集まりだった。
18世紀にフランス・ノルマンディーのカーン市で「自由放屁協会」という秘密結社が結成された。自由な屁を標榜する彼らの言動はスキャンダルとなり、イエズス会士や社交界(特にご婦人方)から痛烈に非難を浴びたという。
 当時はフランス革命前の啓蒙思想の時代であった。会員は「宗教的な不寛容や貴族の特権、礼儀の強要などに反発する知識人、哲学者、聖職者など」で構成されていたというから、そのとき〈屁〉は一種の反体制のシンボル的行為だったのかもしれない。

 その 「自由放屁協会」 設立の趣旨によれば・・
 おならをする。それも自由におならをする。ここに私たちの秘宝のすべてがあります。私たちはしばしば会合を開きますが、それはきちんとした論理を立てて、充分におならをする必要性を理解し、おならがもたらす喜びについて知るためです。その上で実践に移ります。私たちの実験には大気が必要なので、ギリシアの逍遙学派に倣って、風渡る屋外で実験に励んでいます。そうして、広い公園や美しいカーンの街に隣接する草原で空気をいっぱいに吸い込むのです。

 イメージ 4こう書いたからと言って、私たちが馬鹿げた遊びに耽る子どもや与太者などとは考えないでください。私たちのメンバーには司法関係者、士官学校の学生、哲学者、演説家などあらゆる分野の学者がおります。みんな陽気ですが、真面目な者ばかりです。軽い感じでも、良識とエスプリはしっかりとわきまえています。自由ななかでも、独立の幸福を噛みしめています。喧噪のなかでも秩序を大切にします。

  そしてその秩序を守るために、規則をつくり、会長を選び、会の運営を任せることにしました。それが「自由放屁協会会長」です。

 〇 「入会儀式」

 イメージ 5まず入会希望者を部屋に入れ、透かし彫りの入った椅子に座らせ、ただちに窓を完全に閉め、明かりはテーブルに置かれた蝋燭だけにする。会員たちは、部屋の中央にいる入会希望者を囲んで半円形に並ぶ。ついで、会長の合図で、まず会長が一発放つと、あとの会員たちは屁の一斉砲撃を開始する。ぴったりとではなく、少し間をあけて並んでいるので、音も増幅してけたたましいことになる。

 そこで入会希望者が怖気づかなかったら結果は期待できる。希望者は間髪をおかずに、はっきりとした音で、響きがよく、しかも無臭のおならを三発放つように求められる。このときのために二人のオブザーバーが、今や遅しと待ちかまえているのだから。彼らはどんな粒子も逃すことなく、おならの質を適正に判断するのである。。

 〇 放屁協会の規約

 さて、この「自由放屁協会」について日本で最初に紹介したのは、生田虎蔵の『豆栗集』(1913年)にある「屁の研究」である。これを読むと協会の全貌がわかるようで興味深い。その紹介文は次の通りである。
イメージ 3 18世紀の頃ノルマンデーのカン市に自由放屁会なるものありき。
 自由放屁会はその支部を各都市に置く。支部は30名以上の会員より成る。
 本会の目的は放屁の自由を束縛する偏見を破壞するに在り。
されば会員たる者は全力をあげて、放屁の自由を、或は言論を以て或は行為を以て、その市民間に傳道し、また普及せざるべからず。先ずその会員たらんと欲する者は、次の試驗を順序に及第せざるべからず。

一、自宅に於て自由自在に放屁すべき、十分なる練習を重ねる事。
二、いささかも恥辱の色なく、また何等の辯明を試むることなく、如何なる場所にても、平気に放屁すべき事。
三、善良なる紳士淑女の集会に於て盛んに放屁し、且つ大胆にその自由を奨励すべき事。

 かくして入会したる者は、その両親、その友人、その来客の面前に於いて、常に自由に放屁せざるべからず。また道を歩きながら放屁することを練習し、公園及び喫茶店に入りて、猛烈に放屁せざるべからず。而して若し之を嘲笑し、または叱責する者あらば、必ずその偏見を論破し、かつ放屁の自由を納得せしめざるべからず。

 大会々場に於る各会員の椅子は、音の反響を良くせんがために最良のを以て太鼓の如く張る。
 いざ開会の時來たるや、まず会長一発を放ち、会員これに応じて合奏し、かくする事三度にして、議事に移る。 拍手喝采はすべて放屁によって行われる。

 議事終りて晩餐の席に着く。各員大いに食ひ、かつ大に放つ。 散会に際してもまた各員一斉に諸種の曲屁(きょくひ)の合唱を奏す。

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     ・・・・・             

 * うーん、なるほど、なるほど、ここまでくれば下品な放屁も芸術的と言わねばなるまい。
 では、この辺でイタチの最後っ屁のようなへいせい最後のつまらぬ放屁談を終わりにしょう。

 皆さん、迷惑にならぬように、こっそりと、大いに放屁の自由を満喫して、
  よいお正月をお迎えください。。

                                    和紙屋紫蘭

行く年や・・

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   皆さん、紅白歌合戦も終わりに近づきました。
   間もなく除夜の鐘です。

  今年はたくさんのコメントを頂き、ほんとにいろいろとお世話になりました。
  みなさん、よいお正月をお迎えください。
  来年もよろしくお願いいたします。

                               和紙屋紫蘭


            行く年や大河滔々と流れけり      子規

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                               (上高地・雨の梓川)

謹賀新年

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                            新 年乃始乃波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄

                   新しき(あらたしき)年の初めの降る雪の
                        今日(けふ)降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)    
               
                                                                   (大伴家持/万葉集最後の歌)


     明けましておめでとうございます。
 
         旧年中は大変お世話になりました。
         今年もよろしくお願いいたします。
  

  今年は多少雲は有りますが、初日の出も拝めて、穏やかな良いお正月になりました。 
 紫蘭もいつの間にか馬齢を重ねて、1月3日には95歳になります。
 皆さんのおかげでマイブログ「紫蘭の部屋」の訪問者も51万名を越えました。
 今年も老骨に鞭打って頑張りたいと思いますので、
  みなさん、よろしくお願い致します。

                     平成31年    己亥元旦       和紙屋紫蘭
   

正月二日の初夢

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    「正月二日の初夢は」

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                                    (七福神の宝船)

 箱根駅伝を見てから、氏神様の「竜造寺八幡宮」に初もうでに行ったら、・・
 あっという間に日暮れ時になりました。
 空が薄暗くなった日暮れどきを「雀色時」と言います。

    二日はや雀色時人恋し   志摩芳次郎

  そういえば最近はカラスの大軍ばかりが目について、スズメの姿が少なくなりました。
 うちのお地蔵さんのお供えの小餅も、いつもカラスに食べられますが、今日の昼前にはまだあったのに、夕方買い出しから帰ってみたら、きれいに持っていかれました。。
 小鳥にも食べさせるように柿の実を一つだけ残す「木守り柿」のように、カラスにも正月のおすそ分けを、というわけでもありませんが・・

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 正月二日の今夜見る夢を「初夢」といいます。
さて、どんな初夢をみるかな?

  一富士に鷹三なすび・・
 皆さんも、今夜は宝船の絵を枕の下に敷いて、めでたい初夢を見てくださいね‥
  宝船の絵には

   「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」

   と書いておいてください。  前か読んでもあとから読んでも同じ「回文」です。。

       (長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)
 

 

(3) 「富士山」

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       (3) 「富士山」

 はやくも正月三ヶ日が過ぎて今日は1月4日、早いものですね。
おかげさまで、紫蘭も昨日で満95歳になりました。今のところ自前の歯も25本残っており、何でもがりがり食べて、かくべつ体にも異常がないのでこれからも「白寿ブロガー」を目指して、老骨に鞭うってブログの更新に勤めましょう。

  今日、一月四日は、官庁なら「御用始め」 民間では「仕事始め」の日です。
    では、シランも仕事始めのブログ記事をはじめましょう。。

 まず、・・日本の誇り、日本人の心のよりどころである富士山から・・


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  ♪ 「富士の山」

       あたまを雲の 上に出し
       四方の山を 見おろして
       かみなりさまを 下に聞く
       富士は日本一の山


        → 鳳凰三山より富士山を望む                                                                    
                                                                                                                                                                                                                                      

 富士山は海抜3,776m、四面秀麗・八面玲瓏の美しい山容は世界どこを探してもないでしょう。
まさに世界一の名山と言わざるを得ません。日本人は子供のころから富士山の歌を歌い、富士山の絵を描いて育つてきました。そして自分の居る土地で一番形の良いを00富士と名附けました。
最も高いもの、最も美しいもの、最も神聖なものとして、富士山は日本人の心に宿っているのです。



イメージ 1  天地(あめつち)の‭ 別れし時ゆ 
  神さびて 高き貴き 
  駿河なる  布士(富士)の高嶺を 
  天(あま)の原 ふりさけ見れば 
  渡る日の 影も隠(かくら)ひ 
  照る月の 光も見えず
  白雲も い行き憚り(はばかり)
  時じくぞ 雪は降りける
  語りつぎ  言いつぎ行かむ
  不尽(富士)の高嶺は

    (万葉集巻三・317・山部赤人)                          ↑ 北斎の「赤富士」

 
       〇 「ニュートンの誕生」
 
 今日1月4日には、イギリスの大科学者 「ニュートン」 生まれています。ニュートン(1642~1727)は万有引力、光の分析、微積分法を発見して近代の物理学、数学、天文学の基礎を築きました。

 イメージ 2少年時代の彼の学校の成績はビリに近かったですが、物事に熱中する性格が人一倍強く、ある時、教室で数学の計算に熱中している間に、悪友が彼の弁当を食べてしまいました。そして、計算が済んだニュートンは空っぽの弁当箱を見て言いました。「計算に夢中になっていて、さっき弁当を食べたのをすっかり忘れていた!」
 彼のこんな熱中する性格は大人になっても変わらず、卵の代わりに時計をゆでてしまったという話もあります。
 しかし、彼は生涯独身で、ひどい不眠症に悩まされました。
  物事に熱中する性格が災いしたのでしょうか。。


 イメージ 3彼は機械いじりだけが好きという怠け者の少年で、生家の農場をどうにか切り盛りできたので、やっと学校に通うのを許されました。然し学校の成績はさっぱりで、喧嘩が強いだけが取り柄だったのです。

 イメージ 4彼が庭のリンゴが木から落ちるのを見て「万有引力」を発見したというのは有名な話ですが、これは創作だという話もあります。

 しかし、彼が23歳の時にペストが大流行して在学中のケンブリッヂ大学が閉鎖され、学生は永い間それぞれの故郷の家に帰っていたので、この頃、自宅の庭に出て落ちる林檎を見て「万有力の法則」を発見したというのも、あり得る話だと思われます。
                                    ↑ウン? リンゴの皮も下に下がるぞ‥

 そういえば、ペストのおかげで近代物理学の基礎が造られたと言えるかもしれませんね。

      ・・・・・・・                       ・・・・・・

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                   (江戸末期・吉原から見る富士山)

                                                  ///////

 

(4) 「夏目漱石」

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       (4)   「夏目漱石」

 今日は一月五日、1867年の今日、明治大正期の文豪「夏目漱石」が東京牛込で生れています。

 イメージ 2漱石は本名「金之助」、東京帝大・英文科卒業後、文部省留学生として英国に留学、帰国後一高、東大で英文学を教える傍ら、「坊っちゃん」「吾輩は猫である」を発表し、教壇を去って朝日新聞に入社したあと「虞美人草」「それから」などの大作を次々に発表した。
 当時の文壇は、田山花袋、正宗白鳥、徳田秋声、島崎藤村などの「自然主義文学」が主力だったが、漱石はその外にあって「余裕派」と呼ばれていた。

 紫蘭が漱石の文章に初めて接したのは、中学の国語の教科書に載っていた『草枕』の一節だった。

 * 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
    智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。
    とかくに人の世は住みにくい。
                                      ・・・・・

イメージ 1 「草枕」は漱石が熊本の五高の先生をしている頃の作品だが、その頃、福岡の修猷館中学と紫蘭の母校の佐賀中学を見学に来たそうだ。どちらも旧藩校の後身で、九州らしく剛毅朴訥、質実剛健の校風だったから、次に松山中学の先生時代に書いた「坊ちゃん」にも、主人公の質実・純朴な坊ちゃんが生まれたのかもしれない。
 ← 草枕の挿絵

 中学時代には草枕の「葷酒山門に入るべからず」とか、 坊ちゃんの「そうぞなもし」などの言葉を覚えたものである。いつか朝日新聞で漱石の連載小説の復刻版が載っていたが少年のころ読んだ「心」は堅苦しくてあまり好きでは無かったが、「三四郎」は明治の学生の生き方が伺われてなかなか面白かった。 紫蘭もその文章が契機となって、漱石の本を片っ端から乱読したものである。


 イメージ 4まず始めは「吾輩は猫である」で、次は「坊っちゃん」だった。
 私の中学時代の友人F君のお父さんは、東大時代に漱石から教えられたそうで、お父さんが漱石から貰った年賀状のコピーをいつかF君から貰ったことがある。 般若の面に、謡曲の一節が綿密に描かれているという珍しい賀状である。   →

 イメージ 3その漱石の「吾輩は猫である」の主人公の黒猫は、小説の中では水がめの中に落ちて死ぬことになっているが、実際の黒猫は夜中に人知れず外に出て死んだそうである。衰弱して座布団の上で食べ物を吐く黒猫に対して、鏡子夫人は至極冷淡だったとか。

  しかし猫の死後建てられた墓標に対しては、夫人は花も水も毎日取り替え、猫の命日には好物の鮭と鰹節を供え、漱石の四女愛子も墓標の横にガラス瓶を二つ置いて萩の花を供えた。が、鏡子は次第に庭には出ず、花もタンスの上に乗せて置くようになった、と漱石は記している。

  ↑ 漱石山房内の猫の墓

 吾輩の猫が死んだとき弟子の松根東洋城は同門の高浜虚子に電報を打った。
      センセイノ ネコがシニタル ヨサムカナ   東洋城

  これに対して虚子も返電を打った。
       ワガハイノ カイミョウモナキ ススキカナ  虚子 
  

 イメージ 6漱石「我輩は猫」の中にも記しているように、ジャムが好きでいつもジャムをなめていた。そのせいだろうか胃を悪くして1926年に胃潰瘍で亡くなった。漱石の弟子の中では芥川龍之介は年も若く、文学的評価も未知数だったので葬儀を取り仕切ったのは俳人の松根東洋城で、芥川龍之介は末席の受付係だった。
 その芥川が漱石の「葬儀記」を書いている。

 「棺は寝棺である。乗せてある台は三尺ばかりしかない。中には細かく刻んだ紙に「南無阿弥陀仏」と書いたのが雪のように振りまいてある。唇の色は黒ずんでおり、これは先生じゃない、という念に駆られながら受付の席に戻ると、同じく末席の久米正雄の目にはいっぱい涙がたまっていた。
 
 その中で埃の匂いと香の匂いがむせっぽく一緒になっている。
焼香をするとまた涙がこみ上げてきた。そして涙が乾いたあとはなんだか張り合いの無い疲労感ばかりが残った。それから葬儀式場の外に出て,葬儀車が火葬場へ行くのを見送った・・」 とある。                                  
                                                                                          ↑  漱石の学生時代       


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                                          (漱石の家族と門下生たち)


   漱石の一周忌には文人達が集まって「追悼句会」が開かれた。
     
       死面とりし後 歯の白き 寒さかな      森田草平
       時雨かかれ 猫の墓また 犬の墓      久米正雄
       その折の 木枯らしの音や 耳に今     松根東洋城

    
    数ある漱石の追悼句のうち、心に残る一句がある。

       木枯らしやあの世も風が吹きますか    松浦嘉一
  

   ・・・・・・                      ・・・・・・

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                                            (幕末・元箱根の風景)
 

(4) 新春雑記

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  (4) 新春雑記
 
   正月もはや12日、年初来、老老生活はなにかと雑用多く、しばらくご無沙汰しました。
 
           イメージ 1

   最近は元旦の「年取り」の行事はあまり流行らないようですね。年を数え年でとらずに満年齢で数えるせいでしょうか、ご近所でも山祭りの床飾りをするのは紫蘭の家だけのようです。我が家では、子供のころから床の間に三宝に載せた鏡餅と蓬莱山を飾り、家族一同、年酒の屠蘇を頂いてから、おせちの御膳につきます。


        年酒して 凡医の友を 恃(たの)むかな    石田波郷

 イメージ 2三宝の「蓬莱さん」は古代中国の不老長寿の仙人が住むという伝説の山 『 蓬莱山 』を形どったもので、一升の米を山盛りにし、その上に橙と野老(ところ)、木炭、勝ち栗、昆布、スルメ、干し柿、ミカンなどを載せます。

  これは「一生 代々 所に住む」 という平穏な生活を願う言葉の語呂合わせですが、今のように生まれた処に執着せず、地方からどんどん都会に出て行って、国内どころか外国にまで住むようなご時世になっては、全く無意味な組み合わせですね。


   蓬莱さんの山祭りは、佐賀地方だけの風趣かと思ったら、昔から行われていたようで、俳人の蕪村にもこんな句があります。

              ほうらいの 山まつりせむ 老いの春      蕪村

    

 正月は初の字が付く言葉が多いですね。
 初春、初空、初凪、初雀、初詣、初夢、初暦、初鏡、初荷、初売り、
 御用始め、稽古始め、出初式、・・・・

 昔は旧暦だったので今より一か月ほど遅く立春を迎えました。そこで、新年は名物共に、いかにも春らしい「初春」になるわけですが、新暦の現在の正月はまだ若菜積む七草も生えず、初春と言っても季節外れの感じは否めませんね。。「初夢」は正月2日の夜の夢だそうですが、紫蘭は2日には何だか変な夢を見て、7日正月にようやく富士山の夢をちょっぴり見ました。

    目出度さも ちゅう位なり おらが春  (一茶)  というところでしょうか。。

 「稽古始め」と言えば中学時代に、七日から一週間くらい剣道の寒稽古があり、朝早く汗に濡れた冷たい稽古着に着換えるのがとても辛かったのを覚えています。
 仕舞祝いのぜんざい会は、凍てついた冷たい校庭に座り込んで、級長がバケツで配って来る、暖かいぜんざいを頬ばったものです。

 
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 明けましておめでとう、と言いますが、元旦になると一夜にして昨日は去年になってしまうのです。     わずか一日の違いで、年去り年来る、改めて時の流れを痛感せずには居れません。

                  去年(こぞ)もよし 今年もよ良くて 眠りけり   萩原麦草

 〇 「嫁が君」

     しらんは1月3日で95歳になりましたが、干支は子の年です。

 イメージ 4正月三ヶ日だけは鼠のことを「嫁が君」と言います。
 昔から鼠は福の神とか大黒様のお使いとか言われていたので、地方によっては正月だけは鼠とは言わずに「嫁が君」と称して鼠に飯や米を供え、その食べ方によってその年の吉凶を占いました。
 また、地方によっては正月だけでなく鼠と言わずに、嫁御(よめご)、嫁女、嫁午前(よめごぜ)、姉様、お福、娘などと呼んで、鼠と言うのを嫌う風習があったのです。

 子供の頃、神社のお祭りでは、十二支を描いた紙を広げて、
「♪えー、子の年生まれは、商売上手で~~」などと調子の良いせりふで、人を集めている香具師をよく見かけました。あれは高島易断だったかなぁ??
 佐賀のむかし話にも、鼠のことが出てきます。


    =====佐賀の昔話 (十二支)   竹下正男さんの話 =====  

 むかし、お釈迦さんが、「今から一年の十二支(えと)を決めるけん、動物は全部集まれ」というおふれを出しなさいました。
 そしてみんな集まったところで、お釈迦さんのところまで、一斉に駆けだしました。

 イメージ 6一番先に駆けて行った牛の尻尾に、こっそりすがりついていたねずみが、牛の前にぴょんと飛び降りました。そして「おれが一番早かったぞー」と叫びました。そこで、十二支は「子」から始まるようになったという話しですたい。

 それから猫がどうして十二支に入らないかと言うと、「十二支を決めるのは朝、お日さんが出てからだ」とお釈迦さんが言っていたと、ねずみが猫をだましました。
  
  イメージ 7猫はねずみの言葉ば信じて、翌朝ゆっくらーと出かけました。
   そこで、「子」が一番で、遅れてお日さんが出てから行った猫は十二支には入っとらんとです。

  そういうことがあって、猫とねずみは敵同士になり、猫はねずみを追い回して食べてしまうようになったというわけですたい。  (竹久正男さん)                                   

 *また同じような猫の話ですが、「神様が元日の挨拶にきた動物を順に十二支にすることにした。ところが、ネズミが猫をだまして、元日ではなく一月二日だと教えたため、猫は挨拶に行けませんでした。  

 十二支に入れなかった猫はそれを怒って、今でもネズミを追いかけている」のだそうです。
  しかし、飽食の平成猫ちゃんは、あまりねずみを追っかけませんね。。

    
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                    横綱「 稀勢の里」、グァンバレ~~!!

                                      影絵・藤城清治
  

(5)  「十四日のもぐら打ち」

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     (5)  「十四日のもぐら打ち」
 
         更けて焼く餅の匂ひや松の内    日野草城    
 
  あっという間に今年も「松の内」が過ぎて今日は正月の14日、こちらでは子供たちの「もぐら打ち」があります。

 佐賀の農村地帯では昔から十四日の早朝に、子供たちの「もぐら打ち」という行事がありましたが、最近では私の町内でも「地域おこし」の行事の一環として子供会が行っています。農作物や果実の豊作を願って、昔から農村で行われてきた正月行事です。

 イメージ 3まず、手ごろな青竹を切ってきて、その端に藁を束ねて小縄で巻き、それを地面に叩きつけて打つと、爆竹のような高い音がします。子供たち(*昔は男の子ばかりでしたが、少子化の最近は女の子が多いようです)が10名ほどで組を作り、それぞれ家々に行き、門口や植え木の下で「もぐら打ちの唄」を大きな声で歌いはやしながら、地面を叩いて廻ります。

 もぐらは農事の邪魔をするので、もぐらが出ないように、また一年間、家庭円満で凶事が起こらない様にとのおまじないの行事です。
  叩き終わったら、その家の人から「お駄賃」として小餅をもらって、次に廻っていきます。そこで歌の中にも↓「ゆがんでも太かとを下さい」と言う文句が出て来ます。 農家と違い、町中の私たちは、最近餅をあまり搗きませんので、お駄賃は大抵お祝儀袋で済ませています。
    
    🎶  「もぐら打ちの歌」           
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    なーれなーれ 柿の木
   ならずの柿をば、なれとぞ言うた
    千なれ 万なれ 億万なーれ
  うちの子のちぎっときゃ 畑の真ん中なーれ
  他所(よそ)の子のちぎっ時ゃ 堀の真ん中なーれ
  もーぐら もぐら もーんな祝うて 三(さーん)べん
   お駄賃どーみゃ ゆがんでーも
   ふとかとかーら おくんさー

  十四日のもーぐら打ち

          
 
 この「もぐら打ち」は藁束の棒で地面を叩いて、地下のもぐらを叩き出そうという、おまじないですが、最近は少子化で、もぐら打ちをする子供が居なくて「子供会」でも困っているようです。
  今度の少子化対策大臣さんもモグラ打ちして回ったらどうかな? 子供が豊作で、どんどん増えるかも。。

 
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                                                        画・南窓さん


 もぐら打ちは信州あたりでは「成り木責め」という形で行われているようです。

  〇 「成り木責め」

  こちらでは正月14日に、農作物や果樹の豊作を願って「もぐら打ち」の行事がありますが、同じような農村の行事で、小正月(15日)に「成り木責め」の行事が各地で行われるようです。
 「成り木責め」というのは、果樹の霊をおどして豊作を約束させる、という一種のおまじないです。
 1月14日の日の出前に
 「ナルカ ナラナイカ ナレバ イモウセ ナラナイト ブツキルゾ ソレナラカンニンシモウス
  と、大声を出しながら、柿・栗・梅・桃など実のなる木を鉈の背で叩いて行くのです。

 
イメージ 4


  「成り木責め」は、昔は宮中で行われていて、「ゆの木の祝言」と呼ばれていたそうです。
  一本の柱を前にして、「ゆの木の下の御事は」と天皇がとなえると、柱の陰から皇后が「されば、そのこと、目出たく候」と答えるのだそうです。天皇家が全国の豊作を願って、成木責めの行事を行ったのでしょうか。

 イメージ 5この行事が民間で行われたのが「成り木責め」で、果実の木に「なるか、ならぬか」と、問い、木を杖で打ちます。すると、木の陰に隠れた人が「成り申す、成り申す」と答えるのです。ただ、京都の町ノ衆は「ゆの木の下の御事・・」ではなく「柳の下の御事は・・」と唱えるとか..

 ふつう、成り木責めの対象になる果樹は柿ノ木で、寓話の「サルカニ合戦」でもカニが種を撒いて「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と言うところがありますね。
 「モグラ打ち」の歌でも、「成り木責め」でも、柿ノ木が出てくるのが何となく興味がありますね。

    ← おや、もう柿の木に実が成りましたよ。。

 



(6) 「小正月」

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      (6) 「小正月」

 今日は1月15日の「小正月」ですね。
元日から14日までを「大正月」と言いい、14日の夕方から15、16日に亘って正月の行事をするのを「小正月」と言います。
 これは、松の内の間は家の中で何かと忙しい女性のために、15日から年始の挨拶に出る習慣あって、この日を「女正月・めしょうがつ」とも言います。

          芝居見に妻出してやる女正月     志摩芳次郎

  地方によっては、この日は女性の仕事はお休みで、代わって男性が料理全般を受け持って、女性にご馳走するところもあるようです。

     衰(おとろ)ふや一椀おもき小正月     石田波郷

  *シランは95歳、まだまだ一椀重しとは思いません。
    なんとか来年の小正月も元気で迎えたいものです。
    でも 、今日は奥歯が痛いなぁ・・(-_-;)


         衰(おとろ)ひや歯に喰いあてし海苔の砂       芭蕉

     
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                                                    (鼓型注連縄)

(7) 「フランクリンの凧揚げ」

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     (7) 「フランクリンの凧揚げ」

 1706年の今日、1月17日にアメリカのボストンで科学者の「ベンジャミン・フランクリン」が生まれています。
 イメージ 1フランクリンは独学で科学者、起業家として成功、雨以下の独立にも主として外交官として多くの功績を残しています。

 〇 「フランクリンの信念」

「沈黙」 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
1「節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
「決断」 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
「節約」 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
「勤勉」 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
「誠実」 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。

 現代はコマーシャルの時代、新聞紙からラジオ、テレビにパソコンからスマホまで広告であふれていますが、広告の元祖は何といってもこの「B・フランクリン」でしょう。
 彼は自分が経営する新聞紙「ペンシルバニア・ガゼット紙」に盛んに広告を載せました。石鹸、書籍、文房具から自分が発明した新型ストーブまで、その広告にいわく
「古い型のストーブを使っていると、眼も歯も悪くなります。肌も荒れます。フランクリン型ストーブならその点、ご安心願えます」 という、半脅迫型の走りのような広告を行っています。


イメージ 2

                                         (フランクリン・ストーブ・1700年代)

 イメージ 3この新型ストーブはフランクリンが1742年に不燃状態のガスの有効利用を目途として発明した暖房効率の高いもので、Boys, be ambitious少年よ大志を抱け・・で有名な「クラーク博士」も、それまで囲炉裏やコタツだけの寒い北海道にこの新型ストーブをアメリカから持ち込んで、その後この型のストーブが広く北海道に普及しています。
*中学の英語の先生が、いつも Boys, be ambitious
と、生徒にハッパをかけていたので、我々生徒は、先生にアンビシャスというあだ名を奉っていました。
 あだ名の別名は「ゴキブリ」でしたが・・
                                                           ↑ クラーク博士

 イメージ 4フランクリンと言えば、凧をあげて雷が電気現象であることを証明した話が有名ですね。確か中学の物理の教科書にも載っていました。

 彼は凧の実験に先立って、丘の上に鉄の棒を立てて、鉄棒が落雷によって帯電することを知っていました。彼は、落雷によって毎年犠牲者が出る事から、「いかにして雷から家を救うか」という論文を書き、ついに避雷針というアイデァに辿りつきました。


 しかし、これには思わぬ所から反対の火の手が上がりました。神学者や牧師たちは、雷は神の怒りなのだから、それを人工的に操作するとは、もってのほかだというのです。


 それに生半可な化学通の人々も、避雷針は強力な電気を地上に導くから、必ずや大地震を引き起こすに違いない、といい、やがてこの発明がヨーロッパ大陸に伝わると、フランス人も「こうした発明によって必ずや天罰が当たるに違ない」と反対しました。。

 こうした賛否両論の中で、避雷針は次第に科学者たちが認め始め、フランスの学士院はフランクリンに「コプリー勲章」を送り、「技術奨励会」の会員に推挙したのでした。

                     //////                                            //////


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                                                 (江戸時代の凧あげ)


 (8) 「振袖火事」

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       (8) 「振袖火事」

 旧暦の1627年(明暦3年)の今日、1月18日(新暦では3月2日)の夜に江戸の半分以上を焼いた明暦の大火(別名・振袖火事)が起こっています。

 昔から、江戸の町は「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほどしばしば大火に見舞われました。
大都会の江戸の町は四軒長屋などの木造家屋が密集している上に、冬の北西の乾燥した空っ風が強く、江戸時代の267年間に49回にも及ぶ大火が発生しています。

 その火事の原因は、失火は勿論ですが、放火も多かったようです。いわゆる火付け盗賊も多く、火事に紛れて盗みを働いたり、商売仇への放火などもあり、大工左官などは火事の復興作業から仕事が増えるのを喜んで火を点けたり、中には鳶職の仕事を増やすために火消し人足が放火して、見せしめとして火あぶりの刑に処せられたりしています。

イメージ 1 〇八百屋お七

 放火と言えば、この明暦の大火のあと、1683年(天和2年)1月25日にも大火があり、この時家が焼けて檀那寺に避難した八百屋お七が、そのお寺の小姓と恋仲になり、家が再建された後も小姓への思慕が募って、また火事が起これば恋しい小姓に会える、という浅はかな娘心から自宅に放火した「八百屋お七」事件が有名です。この時はボヤで済みましたが、このためにお七は捕まって鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられています。

 ← 八百屋お七の浮世絵、月岡芳年

・・・・
 〇 「振袖火事・明暦の大火」 

 明暦の大火の被害は、江戸城の天守閣を始め、各大名屋敷から江戸の市街地の大半が焼失し、死者は3万人とも10万人名とも言われるほどの大火になり、江戸の三大火災の筆頭に挙げられていますが、この火事の原因は何だったでしょうか。。

 江戸浅草の大増屋の娘 「おきく」 は(麻布の質屋の娘「梅乃」という説もあり)、本郷の本妙寺で寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいました。そしてその小姓と同じ振袖を作ってもらい、小姓に思い焦がれていましたが、「おきく」は1655年1月16日に、恋煩いのためにとうとう死んでしまいました。

 大増屋ではその振袖を棺の上にかけて本妙寺に納め、住職は前例に従いその振袖を古着屋に売りました。ところがその翌年の同じ日に、紙商「大松屋」の娘 「きの」 の葬儀があり、その同じ振袖が本妙寺に戻ってきました。古着屋でその振袖を買っていたのでしょう。そのうえ、更にその翌年にも本郷の麹屋の娘 「お花」 の葬儀の際にまた、同じようにして本妙寺にその振袖が戻ってきたのです。それも娘はいずれも同じ16歳でした。

 さすがに気味が悪くなった住職は、三人の娘の親の目の前で護摩焚きの火の中に振袖を投げ入れて焼きました。ところがちょうどその時、一陣の竜巻が舞い起こり、振袖は人間の立ち姿のようになって本堂の真上に舞い上がり、本堂は忽ち出火して焼け落ちてしまいました。これが有名な明暦3年(1657年)の「振袖火事」で、江戸の大名屋敷はじめ江戸の半分を焼きつくした大火事になりました。その火事はちょうど、おきくの命日の二日あとの1月18日の事でした。

イメージ 2


 振り袖火事に八百屋お七、大蛇になって男を追いかけた安珍・清姫の道成寺の話もあり、とにかく女の情念はすごいですね。   オオ、コワ・・

                ・・・・・・                 ・・・・・・

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                                            (明暦の大火で逃げ惑う江戸の人々)

  マッチ一本火事のもと、火の用心、火の用心、カチカチ・・
 
 *戦後10年ほど、隣組で「火の用心」の夜警があり、寒くて眠い中をカチカチと拍子木を打って回ったのが忘れられません。


                                             ///////

(9)飛行船の話

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     (10) 飛行船の話   1月19日

 イメージ 6スピード時代の最近は、のんびりと飛んで行く「飛行船」と言ってもあまりピンときませんが、昭和の初めには、飛行機同様、飛行船の話題が多かったです。

 特にドイツのツエッピリン伯爵が作った飛行船・ツエッピリン伯号は20世紀が生んだ最大の発明品の一つでした。気球による飛行は古くから記録されていますが、気球は風任せでどっちに飛んで行くかわかりません。

   ← 気球の実験


 そこで、気球に動力を付けると自由に方向転換が出来るはずだ、と考えて、まず目をつけたのはブラジルのデュモンという青年でした。彼はそれまでの気球にダイムラー製のエンジンを付けて実験を試みました。同じころツエッピリンも同じ発想で飛行船を設計し、1906年には実用的な第一号の飛行船を完成させました。

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                (ツエッペリン第一号 LZ-1号機 の初飛行)


 イメージ 2やがて第一次世界大戦が起きると、ドイツ軍はツエッピリン号に爆弾を積んでロンドンの空襲を試みました。1915年の今日「1月19日」のことです。

 然し飛行船の動きはあまりにも鈍重で、この爆撃行はたいへん間の抜けたものになりました。要するに効果的な爆撃が出来ず、ただ、その巨大な姿が上空に浮かんでいることによって、ロンドン市民に多少の恐怖感を抱かせるだけのことに終わってしまったのです。

 ← 飛行船による初爆撃(イタリア)



 もともと、熱気球など風船による飛行はいろんな発明家によって実験されてきましたが、本格的な飛行船は、ガソリンエンジンを推進力として使い、水素を浮力にして堅い骨組みを使って組み立てられたこの「ツェッペリン伯号」が最初でした。
   
  イメージ 3ツェッペリン伯爵は元ドイツ軍人で、日本で有名なシーボルトの孫とツェッペリン伯爵の娘が結婚して親戚関係になっています。

 1898年から硬式飛行船の研究製造に関与し、大飛行船時代を樹立しました。その第一号飛行船ウエッピリンLZ-1号機は1900年7月2日 に初めて空に飛びあがりましたが、この試験飛行は見事に成功し、ボーデン湖上空を三回飛行しました。
 
  ← 大尉時代のツェッペリン


 1909年には世界最初の航空輸送会社DELAGが設立され、ドイツ国内各地を結ぶ航空路線が開設されました。その後、飛行船製造会社ではL126、127号機など数多くの飛行船が製造され、この会社は1910年から14年間の5年間で、およそ3万5000人の旅客を運んでいます。ただしこの旅客の中で正規の運賃を払ったのは1万人ほどで、その旅客の大部分はなんらかの形で飛行船のタダ乗りをしていたことになります。

        このツエッピリン号は日本にも飛んできたことがあります。

 
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 昭和4年(1929年)8月19日に、世界一周の途中「ツェッペリンLZー127号」が日本に立ち寄って、霞ヶ浦沿岸に着陸しましたが、この時、会場には30万人もの人々が詰め掛けたと言われています。

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                                     ↑霞ヶ浦沿岸に着陸したツエッピリン号

 その後、1914年にはドイツは103隻の軍用飛行船を運航させて英国爆撃などを行なっていますが、飛行機に比べ速度が遅い飛行船では、あまり爆撃の効果はなかったようです。1917年、ツェッペリンはその大戦の最中に78歳で生涯をとじました。

 1939年には、LZ129・ヒンデンブルク号が大西洋を横断してニューヨーク近郊の空軍基地に着陸しようとしたとき、尾翼付近から突如爆発、炎上して乗員・乗客97人中35人が死亡しました。
 この謎の爆発により飛行船への信頼は大きく失墜して、飛行船の時代は終焉を告げたのでした。

      
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                                            ( ヒンデンブルグ号の爆発 )

                          ///////                                            ///////

 
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                                                  (冬枯れの風景)
     


(10) 骨正月

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          (10) 骨正月

  今日は1月20日、「20日(はつか)正月」ですね。
 
 イメージ 1はつか正月は、正月飾りを取り外したり、残った餅や正月料理を食べ尽くしたりして、正月の行事を締めくくる日で、正月用の年肴(さかな)をすべて食べ尽くすことから、「骨正月」とも呼ばれています。
 京阪地方では、正月に使ったブリの骨や頭を大根や大豆などの野菜を酒かすと一緒に煮て食べる風習があります。そこでこの日を「骨正月」とも呼んでいます。

    ← 京都の骨正月料理


 松の内も過ぎ、正月料理も骨まで食べてしまい、この日で正月の行事はみんな終わりになるのです。

      正月も二十日「(はつか)になりて雑煮哉   虚子

      ひとり酌む骨正月の老い楽し         高橋菊甲
 
 そういえば一月二十日は母の命日です。
 まだ元気だった母は92歳の朝、気が付いたらいつの間にか家の布団の中で冷たくなっていました。

 イメージ 3枕経で和尚さんが読むお経の中にある「白骨の御文章」が心に沁みました。この御文章は葬儀の際に必ず読経されますが、「朝に紅顔ありて夕べには白骨となる。」という言葉を聞くと世の中の無常をつくづくと痛感させられて、いつもホロリとさせられます。


      夫 人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ
      オホヨソハカナキモノハ コノ世ノ始中終
       マホロシノコトクナル一期ナリ・・

    ←  「白骨の御文章」  蓮如上人

 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。

 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。

 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あわれというも中々おろかなり。

        ・・・・・                ・・・・・・

イメージ 2

                                                     (冬の朝)


                                                                                               ///////

(11) 憂国の詩人「屈原」 

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      (11) 憂国の詩人「屈原」 

   イメージ 1紀元前340年ごろの今日、1月21日に、中国の湖北省で楚の国の政治家で憂国の詩人「屈原」が生まれています。
 
 屈原は弱肉強食の戦国時代の腐敗した楚の国の宮廷に在って、ただひとり祖国を憂いて国務に奔走しました。彼は博覧強記で古今の政治に明るく、文章にも優れていたので、懐王に仕えて副総理として活躍しましたが、同僚の讒言によってその職を失いました。

 その後、次代の襄王にも容れられず、首都から追放されて、祖国への忠誠心と奸臣への怒りを抱きながら各地を放浪し、最後は国を憂えて5月5日に汨羅の川に身を投げて亡くなりました。

     ← 屈原

 このとき、人々が屈原の体が魚に喰われないために、魚の餌として、笹の葉に包んだ米の飯を投げ込んだことから、5月5日の端午の節句に粽(ちまき)を食べる風習が生まれたとか‥

 ・・「髪を洗いたての者は必ず冠をはたいてかむり、湯あみしたての者は必ず衣をはたいて着るものである。
  清らけきこの身に世の汚れを受けるくらいなら、いっそ大河に身を投げて魚の餌食になった方がましだ」

    
 日本でも5,15事件に連座した海軍中尉の「三上卓」が作詞した「昭和維新の歌」の中にも汨羅の川が出てきます。

       「昭和維新の歌」

イメージ 2         汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ
         巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
         混濁の世に我れ立てば
         義憤に燃えて血潮湧く

          権門上(かみ)に驕(おご)れども
          国を憂うる試しなし
          財閥富を誇れども
          社稷(しゃしょく)を思う心なし                                         (ちまき)
                  

*蛇足ながらこの三川卓氏は母校の中学の先輩で、戦時中、陸軍中野学校を出た同じく紫蘭と同窓のK君が、終戦前に参謀本部から三川卓氏の動静を探る密命を受けていたそうです。 
 人間のふれあい、世の中、いろいろありますね。

  
            ・・・・・・                     ・・・・・・・

イメージ 3

                             
               水仙やりんりんとして真夜(まよ)を咲く     西東白柿


(12)「恋愛論」

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     (12)  「恋愛論」

        ♪  「ゴンドラの歌」

           いのち短し 恋せよ少女
             朱き唇 褪せぬ間に
           熱き血潮の 冷えぬ間に
             明日の月日の ないものを 

 最近、若者たちの恋のもつれから、よく殺傷事件が起こっていますね。
 短いようでも人生は永い・・・、死んだり殺したり、そこまで思い込むこともないでしょうが、恋は盲目、本人にとっては、恋は生きるか死ぬかの大問題なんでしょう。
 95歳にもなって「恋愛論」とは笑わせますが、これはシランの「恋愛論」ではなく、昔の偉い人の「恋愛」についてなので、お間違いなく。。(*_*)

 古今東西、男女の仲は不思議なものですが、 特に、文豪たちの恋愛は常識外れで奔放です。
昭和23年、68歳の歌人川田順が弟子と恋愛して家出し、

     墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何ものもなし

 と詠みましたし、作家の島崎藤村は42歳で家事手伝いに来ていた姪のこま子に手を出して妊娠させています。

 また、谷崎潤一郎は、友人の佐藤春夫に自分の妻の千代を譲渡したり、49歳の時には木綿問屋の松子夫人が好きになって結婚しています。

 昔の外国の偉人たちも恋には弱かったようです。
 昔のエライ人の恋愛はどんなもんだったでしょうか。
  
  〇 バイロン
 
 1788年1月22日に、ロンドンで詩人バイロンが生まれています。バイロン(1788-1824)は反抗と風刺精神によってイギリス・ロマン主義の代表的詩人と称されています。
 
 イメージ 1放蕩な彼の父親は二人の妻の財産を使い果たし、妻子を捨てて逃げ出し国外で死にました。
  
 その父に似て、バイロンもケンブリッジ大学の学生時代から学業を顧みず、放埓な日々を続けました。莫大な妻の持参金を一年で使い尽くして外国に行ったまま帰らず、スイス各地を巡遊して退廃した生活を続け、社交界の寵児として多くの女性と浮名を流しました。特にグィッチョーリ伯爵夫人との関係が有名で、多くの作品の中で冷笑と機知に満ちた作品『ドン・ジュアン』がこの期の代表作です。

  ← グィッチョーリ伯爵夫人

 
 彼は詩を作る時、精神を高揚させるため一つまみに塩をなめていたと言われています。偽善を鋭く風刺し続け、「社会風俗を改良するために作家を罰する」のは「鏡がなくなれば醜い顔がなくなる」と考えるのと同じだ、と皮肉っています。
 1824年、彼はギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意し、同年1月にメソロンギに上陸し、コリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画をたてましたが、熱病にかかって同地で亡くなりました。

         「人間よ、汝 微笑と涙のとの間の振り子よ」

 イメージ 5 * 学生時代の若い頃、よく歌いました。   

  「人を恋うる歌」      与謝野 鉄幹 

        あゝわれダンテの奇才なく
       バイロン、ハイネの熱なきも
       石をいだきて野にうたふ
        芭蕉のさびをよろこばず

   バイロン、ハイネの詩などもちろん読んだことは無かったのですが、友達と肩を組み合い、ただ若さに任せて放歌高吟したものです。
                                                                                                       ↑ バイロンの肖像画 

 〇 スタンダール

 イメージ 31783年1月23日に、フランスの作家スタンダール(1783-1842)が生まれています。彼は弁護士の子として生まれましたが、7歳の時母を失い、亡くなった母に生涯、異常なまでの偏愛を続けました。 
 彼は成長してから軍人になり陸軍少尉としてイタリア遠征に参加しましたが、実際には馬にも乗れず、剣をふるう事も出来ず、ただ女遊びと観劇に明け暮れていたと言われています。
 
  軍人を辞めてからはジャーナリストとなり、強烈な個性と鋭い眼をもって1922年38歳の時に「恋愛論」を著し、1930年にはリアリズムの最高作品「赤と黒」「パルムの僧院」を発表しました。


 スタンダールの代表作は「恋愛論」ですが、彼自身は女性の愛し方を知りませんでした。同僚から女性のくどき方を教わってノートに取り、その通りにしましたが失敗したので、女に侮辱されたと思いこんだりしました。また彼自身が認めている通り、彼は大ウソつきでした。履歴書には平然と大ウソを書き、手紙のサインには200以上もの偽名を使っていました。自ら書いた墓碑銘には「ミラノ人」とありますが、彼は紛れもないフランス人だったのです。
 彼は1842年3月23日、パリの街頭で脳溢血のために倒れて亡くなりました。

 イメージ 4 「恋はうねぼれと希望の闘争だ。。」
 「恋は熱病のようなのもである。 それは意思とは関係なく生まれ、そして滅びる。。」
 「恋とは甘い花のようなものである。
   それをつむには恐ろしい断崖の端まで行く勇気が無ければならない。。」

 *戦後、1954年に公開されたフランス映画の「赤と黒」が面白かったです。
   ジェラール・フィリップとダニエル・ダリューの美男美女の主演でした。

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                 ↑ ダニエル・ダリュー 
 
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