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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(142)一期一会の出会い

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   (142) 「一期一会の出会い」

 山の早い夕暮れのなかを傘をさして宿坊へ急いでいると、小さな蓮池に出た。朱塗りの太鼓橋があって橋の向こうの中の島には、旱魃祈願のための龍神を祀ってある。その紅いきれいな橋をビデオに撮っていると、ふとカメラの画面の中に橋の上の若い外人の男女が飛び込んできた。恋人同士であろうか、若いカップルである。

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 そして女性が、自分が持っていたカメラを指さして、片言で「スミマセン」という。すぐに了解して二人の写真のシャッターを切ってあげた。そして、英語の教師をしている近藤魁君から昨日の同窓会で習ったばかりの怪しげな英語で訪ねてみた。

 「Where are you from?」  語学は発音よりもまず度胸である!・・/
 が、彼女は首をかしげげて微笑んでいるだけである。私は慌てて今度は中学一年生のように、一語一語はっきりと話してみたら、彼女は「Germany」と言いながら近づいてきた。どうやら通じたようだ。私は思わず「おお、ドイッチュラント」と大げさに叫んでしまい、 しまった~、これはドイツ語だと思ったが、もう後の祭りである。
 
 近藤君から習った通りに英語で「日本の印象はいかがですか?」と尋ねたかったが、咄嗟にはなかなか出てこない。仕方がないので最後は「good luck」と言って別れたが、果たして通じたかどうか、でも二人は楽しそうににこにこしていたから気持ちだけは通じたのであろう。国はどこであれ若人たちには輝やける未来がある。かねて外国人に出会うと、なるべく話しかけるように心がけているが、とっさにはなかなか言葉が続かない。それに、思わず中国語が混じるのが困る。ハローではなく、ついニイハオ(你好・コンニチハ)ツァイチェン(再見・サヨウナラ)シエシエ(謝謝・アリガトウ)などとと言ってしまうのである。

 閑話休題・・そうこうして居るうちに、境内はいよいよ薄暗くなってきたので、足を速めて、ようやく桜池院の玄関にもどって来た。
 高野山の別格本山「桜池院」はさすがに開基八百年の古刹だけあって、石庭あり、花木あり、日本庭園有りで、その池の中には見事な緋鯉が何匹もひっそりと泳いでいて、広い寺院には人気もなく森閑としている。玄関も古めかしく、昔の武家屋敷のように、つい「頼もう!」と、ひと声かけたいような気分になる。

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                                               (宿坊・桜池院玄関)
 

 その「桜池院」に戻って暫くすると、先ほどの若年の学僧が食事の飲み物の注文を取りに来た。
禅宗の「葷酒山門に入るを許さず」ではないが、戒律が厳しい高野山で飲酒とは到底考えられないが、豈はからんや、酒やビールなどなんでもあるらしい。

 弘法大師は、厳しい山上の寒さを凌ぐため、「塩酒(おんしゅ)一盃、これを許す」と仰せられたので、山僧は酒の事を「般若湯・はんにゃとう」と呼んでこれをたしなみ、身体を温めて厳しい冬の修行に耐えて来たという。
 その「般若湯」をお土産に持ち帰り、いつもの飲み会に持っていったら、若い人に「般若湯・はんにゃゆ」という温泉はどこにありますか?」と尋ねられて、目を白黒してしまった。


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 ついで一人の老僧が「食事の支度ができました」と言いに来た。外出している間に隣の別部に用意して置いたらしい。その案内の老僧が大阪外語出身の修行僧であった。
 彼は柿色の作務衣(さむい)姿でひざを固くして正座している。1ヶ月ほど前にここで得度(とくど)出家したそうで、すでに頭は丸めてある。
 そして「大阪外語出の方だそうですね」と話かけてきた。私が「十津川での外語の同窓会の帰りです」と告げると、彼は般若湯ならぬキリンビールを注ぎながら、ぽつりぽつりと話だした。
  朴訥な人柄らしい。

 彼は英語部の出身で二期後輩であった。したがって73歳(当時)になる。私たちの年配では修行は大変でしょう、とねぎらうと、もちろん体もきついが、お経を覚え、数珠をまさぐり、読経をするのが大変らしい。いずれにも密教独特の夫々の細かい仕草や所作が決まっていて、すぐ間違えて困る、と苦笑いしていた。
 高齢者は記憶力が極端に落ちてしまうのだ。それに毎朝5時に起き、掃除や床上げ、配膳の用意、6時からの勤行と早朝から分刻みの肉体労働が待っている。その上、長い間の正座が辛そうだ。

 ビールが大瓶の上、夕食の精進料理は三の膳までついていて、いくら豆腐料理とはいえさすがに腹が膨れる。しかも畏まって給仕してくれる老僧の前で、一人で飲むのは何だか気が引ける。
「一杯どうですか?」と勧めてみたが「いや、お酒は飲みません」と言う。修行中のせいなのか、ほんとに飲めないのか・・強いては勧めなかった。

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 「失礼ですが、実家はお寺さんですか?」と尋ねてみた。最近、瀬戸内寂聴や山田五十鈴など素人が得度するケースが多いが、この老齢で出家するのには、何か特別の理由があるのに違いない。
 「いいえ、実は大阪の心斎橋で商売をしていましたが、バブルがはじけて倒産してしまいました」・・ 

 道理で、何か肩身が狭そうであった。聞けば家は三代続いた老舗だったそうである。 大阪随一の繁華街の心斎橋筋で三代続いた老舗であれば、おそらく明治始めからの大店に違いない。その店をつぶしてしまい、また多くの人に迷惑をかけ、家族にも申し訳なく、彼は一時は死も覚悟したらしいが、檀家寺の和尚さんに勧められて、この高野山に来たという。


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                                                 (大阪ミナミの心斎橋筋)
  
 いくら大きな会社でも、有名な老舗でも、ひとたび倒産してしまえば、とたんに手のひらを返したように人の目は冷たくなる。 哀れみの影に潜む軽蔑の白い眼だ。
 資本主義社会にあっては、優勝劣敗、弱肉強食の世界である。敗れたものは山奥か地の底に逼塞して世間の冷たい目を逃れるしか方策はないのである。

 私は慰めようもなく、それ以上詳しく尋ねる勇気がなくなり、ビールの味もすっかりまずくなってしまった。 「また良い事もありますよ」とか何とか、在りきたりの言葉でお茶を濁したが、彼も席がまずくなったのか、「まだ仕事が残っていますから」、と匆々に引き下がっていった。

 雨は小降りになってきて、代わりに風が強くなってきた、明日は雨も上がるだろう。その夜はカタコトと隙間風が障子を鳴らして、暫くは寝付かれなかった。
 若い外人のカップルと、老齢の新米修行僧・・
 弘法大師の引き合わせか、同窓会帰りの不思議な一期一会の出会いであった。

          ・・・・・                 ・・・・・

 

(143) 高野山・柳の別れ

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        (143)  「高野山・柳の別れ」

 翌朝は5時起床である。
お勤めの朝の読経は6時からだが、仏様の前に出るからにはまさか寝巻き姿の寝ぼけ顔では出られない。素早く身づくろいして、昨日の若い修行僧に案内されて本堂に行くと、内陣にはすでに袈裟をまとった僧侶たちが仏前に正座していた。

 紫の袈裟をまとった僧侶が大きな鐘を前にして座り、左手に銅鑼をたたく僧侶がいて、その向こうの左手には年配の尼僧を交えた三人の僧侶が座り、それに正対して右手にも三人の僧が着座していた。女性は袈裟をまとってはいたが、有髪だったので或いは奥さん(坊守さん)だったかもしれない。みんな黄色の袈裟をまとっていたが、右手の僧侶の一人が外語出のあの新米の老僧であった。仕事で遅れたのか、読経途中から若い僧が加わったが、これが一番末席なのかもしれない。


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                                                      【桜池院本堂】


 読経中、私はひとりポツンと広い本堂の畳の上に身を硬くして座っていた。なにしろ、宿泊客はただ私一人だったのである。勤行は小一時間もかかっただろうか、読経の中に「般若心経」があったのだけは判ったが、もともと信心無縁の私にはほとんど馬の耳に念仏であった。ただ、これでビルマで戦死した兄の霊も多少は浮かばれるだろうと、満足だった。

 読経終了後に迷路のような庫裏の中を通って部屋に戻ると、すでに夜具は片付けられており、朝飯の配膳まで済んでいた。勤行中に中座した若い修行僧の手回しのいい仕事だったのだろう。もちろん、朝食も精進料理である。

 支度をして玄関に出ると、先ほどの北海道出と熊本出身という二人の若い修行僧とともに外語出のY老僧も見送りに来ていた。Yさんの修行はこれからが本番である。まず、2週間ほど山内の大師教会の修練道場にこもり、修練を積まねばならないそうである。今さら修行して住職になるつもりでもないだろうから、あれこれ深く詮議するのも憚られて、記念写真的にビデオに撮るのも、つい遠慮せざるを得なかった。玄関先で、ありきたりの励ましの言葉を述べる私に対し、Yさんは終始無言で深々と頭を下げるばかりであった。 


イメージ 2  或いは私との突然の出会いが、Yさんに現世に執着する娑婆っ気を起こさせてしまったのかも知れない。 古希過ぎて人生の大団円ともなるべき時に、Yさんのこれからの余生が如何なるものか。。

 一期一会、この人とも再び会うことはあるまいと思いながら、人生の出会いの不思議さに打たれつつ門前を辞した。

     「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」


  
   〇 金剛峯寺

 幸いにも昨夜の風雨もあがって、山の爽やかな空気とともに初夏の日差しが新緑の木の間からこぼれ落ちて、いかにも和やかな気分である。昨日は雨の中で壇上伽藍のいろいろな建物を見て回ったが、改めて各伽藍の内部を拝観して回ると、つくづく千二百年という歴史の重みを感じたが、中でも高野山・総本山「金剛峯寺」の内部は印象深かった。

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                                                (高野山総本山・金剛峯寺)


 狩野派の描くふすま絵には空海の中国留学時の姿が描かれ、四季の柳が描かれた「柳の間」では、殺生関白の異名を持つ豊臣秀次が叔父秀吉の追っ手を逃れて来て、ここで自刃して果てたという。人間とはなんと浅ましい生き物であろうか、骨肉相食む人間愛憎の生々しさを改めて感じさせられた。

 
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                                            (金剛峯寺・柳の間)


 昔の中国では別れに際して柳の一枝を折って、はなむけとして贈る習わしがあったそうで、空海が二年半の留学を終えて中国から帰国するときも、柳の枝を贈られているが、関白秀次がこの「柳の間」で自刃したのもあるいはそうした別離の意味を込めた最後だったのかもしれない。


                ・・・・・・              ・・・・・・

 

(144) 小石の慰霊

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             (144)  小石の慰霊
 
  高野山の主参道の中ほどの四つ角を右に行くと、今次大戦の戦没者の慰霊のための「英霊殿」があり、四つ角の右かどには「淡路阪神大震災」の慰霊碑が新しく建てられている。

 この辺りの木立は古杉老木ではなく新しい植樹が多いが、もみじの若葉が夜来の山雨を受けてひときわ鮮やかであった。


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                                                 (高野山参道)
 
 弘法大師が祀られて居る奥の院までの沿道には、戦国武将はじめ、各階層の人たちの供養塔や墓碑が立ち並んでいる。その数なんと20万基だという。高野山が日本第一の死者供養の霊所であり、菩提所であると言われるのもうべなるかな、と思われる。

 その参道の途中に親鸞聖人御墓所がある。その石段を少し登ってみると、小さい霊屋(たまや)があり中には苔むした小さい五輪の塔が安置されているが、親鸞聖人とは一言も書いてない。ただ見真大師お墓所という石碑が立っているだけなので、不思議に思ってあとで調べてみると、親鸞聖人が死後に贈られた「おくり名」が見真大師であった。 


 イメージ 1高野山の一橋から奥の院の主参道を行くと、「左、ビルマ戦没者慰霊塔」の立て札があり、またしばらく行くと左手に「長州毛利家墓所」の立て札があって、大きな五輪の塔が三基建っている。その奥に目指すビルマ戦没者の碑があった。
  ビルマにちなんだのか慰霊塔はパゴダの形をしている。
 東南アジアの卒塔婆(そとば)はパゴダであり、仏塔である。

 パゴダの手前にある長州毛利家の五輪の塔も大きいが、このパゴダもおよそ5~6mはあろうかと思われる大きさである。鉄柵の扉の奥にはその割には小さい陶製の観音像が安置されている。おそらく慈母観世音菩薩であろう。両脇にビニール製の供花(くげ)が供えられて居るほかは、何の飾りも碑文(いしぶみ)もなく、ただ、「ビルマ方面戦没者納骨塔」の文字が冷たく銅版に刻まれているだけである。


 イメージ 2あの無謀なインパール作戦の為にいかに多くの若者が悲惨な退却を強いられ、陰雨のなか泥にまみれ、血潮に染まって死んで行った事であろう。私の兄も21歳の若さで一兵卒としてビルマで戦死した。戦後2年も経ってから、戦死公報とともに戻ってきた遺骨の中身は、小さなさらしの袋に入った十粒ほどの小石であった。

 小さいころは、よく兄弟喧嘩をした。そしていつも叱られるのは決まって2歳年上の兄の方だった。白布に覆われた兄の遺骨箱をなでながら、母は「こんなに早く死ぬんだったら、お前ばかり叱るんじゃなかった・・」と涙ぐんだ。

← 戦死公報

  

 私の従兄弟たち三名も、同じくビルマ戦線にあって、竜・菊部隊の一員としてインパール作戦に従軍したが、いずれも二度と故国に帰ることはなかった。遺骨はもちろん、遺品のひとかけらもないのである。
   
  ビルマ戦記を読んでみると、雨季のジャングルの退却行の悲惨さは筆舌に尽くし難い。戦死者の多くは熱病による下痢のために下半身裸になってよろよろと退却し、泥沼の中に置き去りにされて空しく死んでいったそうである。兄の戦死公報には「ミートキーナ県モガウィンにて戦死」とある。モガウィンといえば、ビルマ雲南作戦に従軍していたのだろうか。

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                                       (中国、ビルマ国境にある野戦病院のあと)

              心あらば 伝えてよかし おぼろ月
                 戦友の御霊(みたま)は いずくにかある
 
 ビルマ、中国国境の雲南作戦は援蒋ルート・ビルマ公路の遮断のため開始された作戦であるが、うんかの如く押し寄せる約十倍の中国軍の包囲下、よく数ヶ月の間の激戦に耐えてついに全滅した死闘ぶりは、中国の蒋介石が「日本ミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵に至るまで死守の命令を全うしたるを、もって範とすべし!」と全軍に布告したことでも判る。日本最強の軍隊として、天皇家の御紋章である(菊)の名を冠した九州の第18師団「菊部隊」の愚直ながら純朴な若者たちを、大和魂の美名の下、悲惨な死に追いやったものは誰か・・

 
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                          (ビルマ戦場のスケッチ、かんさんの人生は楽しより拝借)

 軍需補給の危うさを指摘した参謀長の進言を無視して無謀なインパール作戦を強行した軍首脳部の責任は重い。その第十五軍司令官牟田口廉也中将も、雲南方面軍司令官本田政材中将も、高級参謀辻政信大佐とともに戦後帰国して生きながらえたのである。
 ああ、一将功成り万骨枯る、とは正にこのことである。。

 戦時中あちこちに戦没者のための「忠霊塔」なる石造りの塔が出来たが、ある人は「戦争は人間を石にする」と言った。私は思わず胸が熱くなり、足元の小石を拾って鉄柵の隙間から観音さまの足元に押しこんだ。お国のために遠く祖国を離れた瘴癘の地の果てで、兄たちはこのような小石になって人知れず異郷の山野に打ち捨てられて居ることであろう。

               むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす   芭蕉

           ・・・・・         ・・・・・・

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                                           (緑濃き 夏の林は 人影もなし)

(145)貧女の一灯

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           (145) 「貧女の一灯」

 高野山、奥の院の道を元に戻して石畳をしばらく行くと弘法大師のお墓・御廟前に出る。
 そのご廟の前に石造りの橋がある。この橋を渡ると仏の浄土に行くと信ぜられ、罪や煩悩が取り除かれるので一名「無明の橋」と呼ばれている。
 現世と浄土との境であるから、これから先はいくら暑くても肌着姿では入れない。もちろんカメラもタバコも飲食も一切厳禁である。信心浅き俗人の小生は、この橋を渡っても煩悩が消えたとは思われず、飲食禁止と聞くとなぜか急に空腹を覚えた。


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                                                   (無明の橋)



 空海は62歳にして七日後の3月21日を以って入定(にゅうじょう)することを自ら予言し、身を清め衣服をあらためて穀味水漿(こくみすいしょう・飲食物)を絶ち、この石窟のなかに入りそのまま即身成仏した。


 イメージ 2高野山では、空海は留身入定(にゅうじょう)したのであり、入滅したのではない、と今なお信じられていて、入定後弟子達はこの石窟の上に廟所を建て、以来千二百年の間、毎日、生前同様に衣食の世話をしてきたのである。その役職の僧のことを「維那・いな」と呼ぶ。また食事の調理場は「御供所・ごくしょ」といい、無明の橋の手前にあって、維那は毎日空海の衣服を取替え、朝夕二回の配膳の世話をするのである。

 石室は地下一丈五尺、広さ一間四方と言われて居り、果たして空海が今もミイラのまま座禅姿で座っているのか、あるいはただ単なる空間が存在するだけなのか、歴代の維那たちは誰も一切口外せず、さすが博識無類の司馬遼太郎サンもその著「空海の風景」の中でも言及していない。

 御廟の前の拝殿は「灯篭堂」と呼ばれ、千年前に藤原道長によって創建されたお堂で、堂内には先祖供養、家内安全を願って信者たちが寄進した灯篭が壁面から天井まで一面に吊り提げられており、さらに倉庫の様に数段の棚々が夫々の通路を隔てて十基ほども並んでいて、その上にもいっぱい灯篭が並んでいる。それらの灯篭はみんな点灯されて掲げられ、暗闇の堂内に密教独特の神秘的な雰囲気を醸しだしている。

 俗人の紫蘭は、これだけの灯篭を点灯するのはたいへんだろうな?
そもそも、灯篭の光源は何だろう、蝋燭の火かな? それとも灯油に浸した灯芯かな?
いや、それでは火の元が危ない。そうだ、電灯が危険と労力がなくて、一番現代的だろう・・
だが、なんだか神秘的な密教の本山に、電機は似合わないなぁ・・
それに電気のない遠い昔はどうしていたんだろう?
 などと、一人で他愛もないゲスの勘繰りを繰り返していた。これでは成仏できそうもない・・(-_-;)


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                                                    (灯篭堂内)

 その中央正面の奥には、空海生存の証しとして↑「消えずの火」が二灯、千年近くも点灯され続けている。この消えずの火は即身成仏して今なお生き続ける空海の、永遠の生命のシンボルなのである。


 イメージ 5二灯の内の一灯は白河上皇が献じられたもので、「白河灯」といい、別の一灯は空海の高弟である祈親上人が献じたので「祈親灯」という。
 1118年に灯されたこの祈親灯は別名「貧女の一灯」とも言われ、  祈親上人のすすめで貧しいお照が養父母の菩提を弔うために自分の髪を売った金で寄進した灯篭だという。

 この灯の前には「貧女の一灯、長者の万灯」と書かれた立て札が立てられているのが印象的だった
← (お照の墓)
 
 お照はその後、ここに庵を結び、捨て子の自分を拾って育ててくれた養父母の菩提を弔いながら生涯を終えたと伝えられている。
       

  〇 墓碑群


ご廟をあとに「無明の橋」を渡り彼岸の浄土から現世に戻ってくると、ここは戦国時代の修羅の巷である。


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                            (無明の橋)


 高野山には20万基以上の供養塔があると言われているが、そのうち諸大名の菩提碑は約150基あるそうである。秀吉、家康のライバルはもちろん、謙信、信玄、政宗や信長、光秀、家光、三成などと、敵も味方も呉越同舟、あたかも向こう三軒両隣の隣組のように仲良く鎮まっているのは、やはり弘法大師の佛徳に違いない。

  中でも宗派の違う親鸞上人や法然上人の墓所まであるから、驚きである。同じ仏教の聖地と言っても、やはり高野山は特別の存在なのであろうか。尤も、地下三千尺の冥土では、或いは今なお血を血で洗う確執が続いているかも知れない。何しろ明智光秀の墓碑は何度造り直しても割れてしまうそうだから。。

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                                              (明智光秀の墓所)


             ‥・・・               ・・・・・
 
  紫陽花開花時の薄緑色からから次第に色が変わるので「七変化」とも言われれいます。


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           明日知らぬ命のきわに思うこと
              色に出づらんあじさいの花      有島武郎

(146)高野山・墓碑群

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         (146) 「高野山・墓碑群」

 イメージ 1もちろん、高野山には有名大名、武将ばかりではなく、庶民の墓碑もある。血なまぐさい武将たちでなく役者の「初代、市川団十郎」や「目玉の松ちゃんこと尾上松之助」などの墓碑に出会うとついほっとする。これらは五輪の塔ではなく、普通の墓石のように細長い石造りであり、もちろん鳥居もない。

 ←初代・市川團十郎の墓碑

 イメージ 2奥の院の墓碑群のなかには、ほかにも有名な故事に由来する供養塔も多い。古くは富士の裾野の仇討ちで有名な曽我兄弟や、平家物語の悲話「熊谷直実と平敦盛」の二人の墓が仲良く並んでいたり、春日局大岡越前守などなど、歴史物語の主人公のオンパレードである。さらに歴史を下ると大江戸の火災による焼死者や関東大震災、神戸淡路大震災の犠牲者の慰霊塔まで建ち並んでいる。                                       
                            →  曽我兄弟

 徳川家の霊台は奥の院ではなく、ずっと手前の金剛峯寺の裏手の特別の場所にある。三代将軍家光が20年の歳月をかけて造営しただけあって、多くの金具や彫刻の絢爛豪華な造作で、恰も小型日光東照宮の感がある。


イメージ 3 右が家康、左が秀忠の霊屋で、内部には金箔貼りの厨子があり、部屋の中は漆、金箔や極彩色の壁画で充たされているそうだが、あいにく当日は拝観できなかった。
 ← 徳川家霊屋

 イメージ 4家康の孫で豊臣秀頼の妻だった千姫や、淀姫の妹で秀忠の妻だった
 「お江の方」の墓は、霊屋ではなく五輪の塔である。   
                                                    
  但し、お江の墓塔はさすが二代将軍秀忠の奥方だけあって高さ6,6mもあり高野山第一の大きさで「一番石」と言われている。秀忠の三男・駿河大納言忠長が三年の歳月をかけて母のために建立したという。

 一方の豊臣家の墓所は弘法大師御廟の近くにある。参道から広い石段を登って老杉、古木を借景にした石垣に囲まれた広い敷地の中にあるが、ここは徳川家の霊屋とは違い、数基の五輪の塔が何の飾りもなく、黙然と立っているだけである。


 中央奥に一段と大きく造られた五輪の塔が秀吉の墓碑で、遠目によく見ると五輪の塔の一番下の台石に「豊臣太閤秀吉公の墓」と刻まれているのがかすかに見えた。 さすがに花筒にはそこら辺の自然の草花が供えられていたが、苔むした五輪卒塔婆以外には何の飾りもない。

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 その五輪の塔前に、やや小さい墓石が二基、秀吉を護るがごとく並んでいるが、これは秀吉の母の大政所「なか」と弟の大納言秀長の墓と思われた。あの栄華を極めた秀吉の墓所としてはあまりにも簡素過ぎて返って印象深いが、これは恐らくく建造時に徳川家への政治的な遠慮があったのに違いない。

イメージ 6 参道を挟んだ向かい側に「浅野内匠頭忠矩」の墓碑がある。これは大石良雄が亡君を偲んで建立したもので墓碑には元禄十四年と刻まれ、その前にある石碑に「萬山重からず君恩重し」という内蔵助の有名な言葉が刻まれている。

 長矩の墓に並んで左側に小さく「大石良雄ほか四十六士の菩提の為なり」と記した「忠誠院刃空浄剣居士他四十六士の墓」という墓碑が立っている。 →


 また、「元禄十六年二月四日、江戸に於いて卒」と刻まれているから、おそらく義士たちが切腹したのちに、後世の人たちが義士顕彰のために建てたのに違いない。その周りの石灯篭にはいずれも「忠貞義烈」「至誠一貫」 などの成句が刻まれていた。

 それにしても、多くの大名級の墓所、供養塔の前には石の鳥居が建っているのはどうしたわけであろうか。仏教に鳥居とは如何にもそぐわないが、鳥居は神域を示す標識なので被葬者は死んで神格化されたという事なのであろうか。これらもまた神仏混淆時代の歴史を象徴しているのかも知れない。
 
  参道のそばには、これら墓碑だけでなく、芭蕉や其角などの句碑も散在する。

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   父母のしきりにこいし雉子(きじ)の声   芭蕉 

   炎天の空美しや高野山     虚子

   牡丹百二百三百門一つ     青畝

← 芭蕉句碑

 また、日本最古の歌碑卒塔婆と言われる歌碑もある。
 
   いにしへは はなさくはるに むかひしに
     にしにくまなき つきをみるかな

 と、平仮名で刻んであり、元和三年1312年の刻銘がある。
   
 
          ・・・・・              ・・・・・・


 *梅雨末期の雨が激しく降っています。
   サッカー、決勝トーナメント進出。 時間稼ぎには賛否両論・・
   めでたくもあり、めでたくもなし・・没法子。。

 
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                                           ♪てるてる坊主  てる坊主
                       明日天気に しておくれ

                                      画・中島 潔
 

 (147) 「腕塚」

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       (147) 「腕塚」

 イメージ 1高野山には武将などの古い墓碑だけでなく、最近の企業の記念塔みたいな建造物も目立つ。会社の社員たちの供養塔なのであろうが、なんとなく宣伝臭も付きまとう。

 イメージ 2ロケットとかフグの供養塔もあるが、企業名が目立つものも多く、いかにも商業主義第一の現代を見る想いがする。

   ←ロケット型供養塔      →フグの供養塔

 その中でも、心を打つ供養塔は「腕塚」である。

 高野山の参道入り口の一ノ橋から少し行ったところに四つ角がある。右には今次大戦の戦死者の霊を祀る「英霊殿」があり、左に道を取ると主参道に出る。その四つ角の右角に阪神淡路大震災の慰霊碑があり、左手には「腕塚」という奇妙な丸っこい石碑がぽつんと立っている。そしてその左側には「大石順教尼」の墓とともに「慈手観世音菩薩」の唐金(からかね)の立像が祀ってある。

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     実は私の家にはこの順教尼が80歳のときに書いた「いろは歌」「般若心経」の掛け軸があり、法事や盂蘭盆の際にはいつもこの「いろは歌」を床の間に掛けることにしている。ここで順教尼の墓碑を偶然見つけたのも何かのご縁かもしれない。
 この「いろは歌」は手で書かれたものではなく、口に筆を含んで書かれたものである。
  なぜかと言うと、順教尼には両腕がないからである。 

  ← 腕塚

 彼女は17歳のうら若き乙女の身で、養父の凶刃によって両腕を切り落とされたのである。養父は大阪の堀江遊郭で芸者置屋を経営する中川万次郎(51才)で、駆け落ちした内縁の妻への嫉妬に狂って同居の一家5人を殺害した。 明治38年6月20日のことである。

 イメージ 7彼女のこの家での源氏名は「妻吉」であった。当時の新聞の見出しには「堀江廓、七人斬り」という大きな見出しのもとに「被害者は内縁の妻、その弟、妹、義母、姪、芸者梅吉の6名が死亡、妻吉一人両腕を切り落とされて生き残った」と記されている。
 (*犯人・山海楼主人万次郎は明治44年4月に処刑された)

  死刑執行前に妻吉と面会した萬次郎は「わしは死んだら霊魂となってお前を守る」と言い残し、寒い時期にもかかわらず萬次郎は単衣で過ごしていたという。萬次郎の辞世の句は
   「落とされし腕の指先こほる夜半」  であった。                          ↑順教尼のお墓

 私が見た「腕塚」はこのとき切り取られた腕のための供養のためであろう、実際に腕が葬られているかどうかは詮議の沙汰ではないが・・

  〇 「順教尼」

 「妻吉」はその後、かねて習い覚えた舞踊を生活の糧として寄席に立って生計をささえたが、花も恥らう乙女子が生まれもつかぬ身障者として我が身を人前にさらさねばならない悲しさ,辛さは如何ばかりであっただろうか。この時の一座に少年時代の柳屋金語楼が居たという。

 イメージ 6しかし妻吉はある日、カナリアがくちばしで雛にえさを与えて育てているのを見て、一念発起、口に筆を含んで書や絵を描くという修練に励んだ。その後24歳で結婚したが48歳、この高野山で得度して仏門に入り、後に京都山科の勧修寺(かしゅうじ)境内にある「仏光院」の院主として82歳の天寿を全うした。

 ←京都、勧修寺内の仏光院

 その間、常人も及ばぬ苦心の修行によって習得された師の書画は高い評価を受け、昭和30年には「般若心経」の写経が日展に入選するほどになった。彼女の書いた般若心経は口で書いたせいか、女性の筆のせいか、やや線が細くいかにも心細くたおやかで,やさしさとともに人の世の哀れさをにじませている。
                                  順教尼・80歳の写経 「般若心経」
イメージ 3


 一方の「いろは歌」は、紫紺の紙地に金泥を使い、万葉仮名で書かれている。
その運筆の妙は、これが口に含んだ筆で書かれたものとは到底思われない。さらさらと淀みのない筆墨の跡は、人の世の煩悩を超越した枯淡の味を忍ばせている。
いわば無の境地とでもいうのであろうか、「色則是空、空即是色」の世界は、順教尼のような過酷な運命に遭遇して初めて体感できるのであろうか・・

 静かにこのいろは歌を眺めていると、諸行無常の哀感を感ぜずには居られない。
  まことに人生は一場の夢であり、彼岸へと赴く旅の一夜に過ぎないのであろうか。。

イメージ 4

   * 「いろは歌」

 「いろは歌」とは、47文字の仮名を一度しか使わずに作られた七五調の文章で、平安時代の終わりごろに成立したとされています。誰の作かは諸説あって判然としませんが、一般には僧空海(弘法大師)の作ではないかというのが多いようです。その頃のいろは歌はこの万葉仮名で書かれていました。
 いろは歌は、ひらがなを覚えるための手本として、明治時代の初期まで広く使われていました。 順教尼も僧侶なので、このいろは歌もこの経本の「万葉かな」をもとにして書いたものと思われます。
 難しくてちょっと読めませんが、こんなものでしょうか・・

  以流はに本弊東   いろはにほへど
  ち利ぬ流を       ちりぬるを
 和加よ多礼ぞ 津祢那 良無   わかよたれぞ つねならむ

         ・・・・・          ・・・・・

(148)同期の桜

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      (148)  「同期の桜」

 高野山の多くの供養塔の中でもひときわ我々戦中派の心を打つのは、今次大戦犠牲者の墓碑群である。参道脇にはそれぞれの部隊の慰霊塔が数多く並んでいる。これらはいわば戦国物語の現代版ともいうものであろうか。
  
 近衛歩兵第四連隊慰霊碑、陸士第五十六期同期生慰霊塔、北ボルネオ戦没者墓所、高野山海軍航空隊慰霊碑、海軍整備科予備練習生記念の碑、前橋陸軍予備士官学校慰霊碑・・・(*我が母校「豊橋陸軍予備士官学校」のもあるそうだが、近くに見当たらず残念至極)
 それらの碑面には「忠勤不滅」と刻まれたり、海軍旗が折からの青風にはためいていたりした。

 イメージ 1参道入り口に近い一の橋のたもとには特攻の「同期の桜」の慰霊塔がある。 周りの五輪の塔が小さく見えるほど他を圧して、燃え上がるが如く、或いは天に飛び立つが如くに聳え立っている。

  おそらく10mはあろうか、楕円形の真っ白い巨塔は、千手観音の慈悲と不動明王の怒りを表現しているそうだ。その台座には「ああ、同期の桜」と刻まれている。 
 
そしてその横にある碑文には「第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔」と言う標記に続いて、次のような詞書(ことばがき)が書かれていた。
昭和十八年、文科系大学高専の学生は学徒出陣として兵役につき、その内 航空関係の軍務にあたったのが第十四期飛行予備学生である ・・

 貴様と俺とは同期の桜と歌い、散る桜、残る桜も散る桜と語りあった仲間は、その多くが昭和二十年終戦間近に、西太平洋上に戦死し、はたまた神風特攻隊として散っていった。その数 四百余名である。】・・

 イメージ 2 同期の桜の碑の近くに「鶴田浩二」の墓がある。   →

 彼は予備学生出身の特攻崩れを自認していたが、実は彼は飛行科ではなく、整備科だったので実際に特攻機に乗ったことはない。
 私の幼馴染で九大の一期先輩でもあるMさんが同じ十四期予備学生で、鶴田浩二と親交があった。私が戦後の学生時代にMさんと同じ下宿にいた時、よくこの話を聞いた。

 新聞社のアメリカ総局長だったMさんは、惜しくも50歳で肺がんで亡くなったが、その葬儀に参列した鶴田浩二が弔辞を読んだ。また、鶴田浩二の葬儀の際は、同期の会の方たちが彼の遺棺を海軍旗で覆って送ったそうである。

イメージ 6 「同期の桜」の碑の向かい側に「空挺部隊の墓」がある。
 開戦直後インドネシアに降下した落下傘部隊「空の神兵」たちの墓碑である。屋根つきの木製の銘板に「空挺落下傘部隊将兵之墓」と、墨痕鮮やかに記されている。戦時中、その美しい旋律で最も軍歌らしくない軍歌として「空の神兵」がよく歌われた。

    ♪ 「空の神兵」

        藍より蒼き 大空に大空に
        たちまち開く 百千の
        真白き薔薇の 花模様
        見よ落下傘 空に降り
        見よ落下傘 空を征く
        見よ落下傘 空を征く

  イメージ 5その左に石碑があり、碑文が彫られている。すでに苔むして暗く、読みづらいが目を凝らして読んでみると。。



          祖国日本の弥栄を願い
          後に続く者を信じて
          空挺部隊将兵之霊は
         此処に静かに眠る

                                               ↑散る桜残る桜も散る桜
イメージ 3

 それから少し踏み石が続いた奥の方に,白砂に半ば埋もれて小さい山の形の自然石が一つぽつんと置かれていた。
  その表面にはただ一字・・「空」とだけ刻んであった。

 現実の「空・そら」の意味なのか、或いはすべては「空」と言う意味なのか私には分からなかった。見る人それぞれの受け止め方にあるのだろう。 その横に「必救一念の石」と言う石碑が建っていた。

       ・・・・・・
 此処で奥の院の墓碑群はおわりである。
  運良くビデオカメラのテープも無くなったし、既に陽も傾きかけて九州まで帰る時間の余裕もなくなっていた。慌ててケーブルカーに飛び乗ると、急に空腹を覚えた。そういえば「桜池院」での朝食以来何も口にしていない、つまり私は頭も体も「空」になっていたのである。
  まさに「色即是空」というべきか。。

   * 「あとがき」    

 高野山から帰ってしばらくして、あの大阪外語後輩のY老僧から絵葉書が来た。
 「その後元気で、毎日慣れない修行で忙しい」と書いてあって、他人事ながらホッとした。
 思えばこの人との出会いも偶然の一期一会であった。あれから二十年、すでに司馬さんも亡くなり、Yさんの消息もない。。
  
イメージ 4


 人生とは脈絡のない偶然の集積なのであろうか。
  高野山の一夜の出会いも偶然の出来事かも知れないし、或いは見えざる造物主の手のひらの上で踊らされた私の一人芝居だったのだろうか。
 ともあれ、今度の高野山の旅が私の「ひとり歩き」ではなく、実は弘法大師との「同行二人」の旅だったのかもしれないと、ふと思ったりした。。

                                                         「高野山ひとり歩き・おわり」

              

(149) 「雨の就職試験」

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     (149) 「雨の就職試験」

  そろそろ梅雨も明けるかと思いきや、台風のいたずらで今日も雨だ。まだ一週間ぐらいは雨の予報が出ている。
 こんな梅雨時の雨の音を聞いているとふと思いだす事がある。雨の就職試験だ。。
 66年前、外語を卒業して軍隊に入る前に、就職のため当時の「同盟通信社・現在の共同通信社」を受験した。
 新聞記者になるのがその頃の夢だった。そのころの日記がある。
 
イメージ 2
     
                              (学徒出陣・・京都・石清水八幡宮で武運長久祈願)
    ・・・・・・・
 *「昭和19年6月4日」 雨
 
しとしとと降る初夏の雨が次第に土砂降りの雨のとなる中を、地下鉄を降りて淀屋橋まで歩いて行った。
 今日は同盟通信社(*現、共同通信社)の就職試験である。
 北浜の柳並木の下を、破れ傘から漏れてくる滴に学生服の肩を濡らしながら、人通りの少ない歩道を行くと次第に緊張感が解けて、思いがけず和やかな気分になってきた。
 雨の北浜は情緒豊かであった。
  
 入社試験はまるで入学試験だ。
 書き取り(英文)、英文和訳、時事問題、作文など、それに人物考査がある。 人物考査の一問一答。 こわそうな試験官がずらりと並んでいる。  

 「試験官」 兵隊検査は?
   「小生」  今年の八月受検の予定です。
  「酒やタバコは?」
   「飲みます」 
  「強いんだね・・」
   「いや、強いというわけではありません、
    あまり飲んだことはありませんが、酔ったこともありません」

 「同盟を志望した理由は?」
  「はッ、ただ何となく面白そうでしたから」
  「シナ語(*中国語)が専攻でしたね、それじや、試験が英語で悪かったね」
  「いやー、英語は得意ではありませんので・・」  
 「では、シナ語は得意ですか?」
  「は、いや!!、シナ語もあまり得意じゃない方で・・」
  「ハハハ・・しかし2年あまりでは、まぁ話せんだろうなぁ」
   「ええ、それはもう・・」
    
 「君は射撃がうまいんだね」
  「は、そうです。学生射撃指導員の資格を持っています」
 「佐賀にはどんな新聞社があるか知ってるかネ?」
  「はぁ・・、佐賀合同新聞とそれから・・・??」
 「ふぅーん、佐賀には一つしかなかったはずだがねー」
  「???・・」
 「それでは、同盟の支局があるのを知ってるかね?
  「??・・・」
    
 「まぁ、知らんだろうな」
  「はぁ、知りません・・」
 「満州国通信社に推薦したら,行くかね?」
  「はー? ま、まいります! でも、なるべく中国の方に願います」
 「ああ、ではもうよろしい」 ・・・・
  
 まずこんな所だ、これじゃ全然合格の見込みなしだ。
 学課の方も芳しくないようだし、処置なしだ。 まぁ、採るなら採ってくれ。。
 今日の受験生は、京都帝大1名、大阪外語5名、天理外語5名、関学大2名、計13名である。
 受験問題の時事問題には「重慶」「渡洋爆撃」などが出たが、試験の合間にコーヒーが出たのには驚いた。 この非常時にモダンというか、紳士的というべきか。。

イメージ 1
                                                   (日中戦争・重慶渡洋爆撃)

          ・・・・・

 *結局外語からは小生とドイツ語のA君が合格し、東京荻窪の同盟通信社・編集局詰の辞令を貰ったので同時に受験する予定だった朝日新聞は受けなかった。どうせ、軍隊に入る身なので就職先そのものにもあまり関心がなかった、というのが本音だろう。そのうえ、同時に受験していた「九州帝大」に合格したので、せっかく合格した同盟への入社も謝絶して、10月、「豊橋第一陸軍予備士官学校」に入校した。

 A君はその後、ドイツ特派員から共同通信の専務にまで出世したが、自分がもし同盟に行って新聞記者の道に進んでいだら、戦後、産経新聞社記者となっていた同窓の司馬遼太郎氏とも同じ道で出会っていたかも知れないと思うと、人生の岐路の不可思議さを感ぜずには居られない。
 同じ中国語部からは、赤尾、向井両君が毎日新聞、田村、高宮両君が朝日新聞に入社、名簿によると加藤君が共同通信、大岡君が愛媛新聞に就職しているようだ。みんな新聞記者として夫々の人生を歩み、75年後の今はもう誰もいない。

     ・・・・・・                     ・・・・・

イメージ 3
                                                              (八重蓮)

(150)教練

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       (150) 教練

 戦前の大學、高専には、語学や一般科目の授業のほかに、軍事教練があったが、中学時代ほど多くは無かった。戦前の中学校では勤労奉仕の一方、教練が厳しかった。         
 中学の教練の時間は、鉄砲担いで、オイチニ、オイチニの徒手訓練から実弾射撃や紅白に分かれての攻防戦まである。 まだ少年の中学生とはいえ、もはや兵隊さんそっくりの、いわば陸軍の予備軍ともいえる猛訓練であった。

イメージ 1

                (教練査察、校庭での紅白模擬戦・突撃にすすめ!)

 そして一年に一度、教練の総仕上げとして、市近郊の学校が集まって紅白両軍に分かれて連合演習がある。これは民家に分宿しての一泊二日の実戦さながらの遭遇戦である。
 太平洋の波高き昭和15年、皇紀二千六百年の連合演習は何月だっただろうか。田んぼの稲刈りが済んでいるころだから、やはり晩秋には違いない。

イメージ 2 ← 「小舟に乗って渡河訓練」

 演習の途中に小さいクリークがある。我々はみんな鉄砲を持って飛び越したが、中西教官殿(トッカピンのあだ名あり)は何を思ったか持っていた竹竿をクリークの真ん中あたりに突き立てて、棒高跳びのように勢いよく飛び越そうとした。ところが竹竿が泥の中にブスッと抜かってしまってさぁ大変。。
  
  我がトッカピン殿は、両手両足を空に上げてお尻から水の中にザブーン・・。我々は笑いをこらえ、胸中には「ばんざーい」と唱えながら、救出活動に努めたのである。秋の朝の田んぼは霜がいっぱいで寒い。ぬれた軍服を乾かす焚き火の火が赤かった。
 辛い教練の中でわずかに残る、楽しい思い出の先生だった。


 
 このように中学時代に教練の基礎的な訓練は殆ど済ましているし、職業軍人でもない学生だから、外語ではもう訓練する程の事は残っていなかったのだろう。


 外語時代の教練の事については、また、杉本君の筆を借りよう。

   ・・・・
 イメージ 3・・蒙古語部の座禅の苦しさに比べると、まだ学校教練の方がまだ遥かに楽だった。
 配属将校の「今田大佐」は厳格端正で名刀の鋭さがあった。
 大佐は三八式歩兵銃を「テッポウ」と呼ぶほどの古風な明治陸軍の名残のような雰囲気の軍人だった。ほかに中野中尉ともう一人、名前は確かでないが戦傷で片足が不自由な少尉が居た。二人は小学校の先生と八百屋のおっさんに軍服を着せたようで、威厳を保とうとしてもすぐにボロだ出てしまうような愉快な将校だった。                             ↓今田大佐

 イメージ 4我がクラスはみんな教練は大嫌いだが、普通の授業と違いこればかりはサボルわけには行かない。

 腰の手ぬぐいにカランコロンの下駄履きの級友たちは、いやいやながらサメの革の古靴に履き替えた。まさか下駄ばきで鉄砲を担ぐわけにはいかないのである。野外教練の日には、学校南の狭い運動場ではなく、近鉄電車で学校から30分くらい離れた花園ラグビー場の隣の広大な運動場まで出かけねばならない。校内の食堂で握り飯3個入り人包みを30銭で買い求め、雑縫に詰め込んで電車に乗る。
                                                        

 イメージ 5有難いことに中隊教練も戦闘訓練も中学時代の教練の様にそれほど気合の入ったものではなかった。集団中に紛れ込めば演習の小隊長、中隊長に指名されない限り、ただ体を動かしてさえ居れば済むのである。福田と俺とはたいてい同じ分隊で交代で軽機関銃を担いだ。戦闘訓練が始まる。
                   「目標、前方の敵、距離300、撃て!」

ダダダダダッー・・私の軽機は勢いよく音を立てるが、七、八発も撃つとプスンと故障して立ち消えする。福田の軽機も十発くらいでダウン!コラッー!重いだけで役立たずの軽機メ!
 ガキの兵隊ごっこもいいとこだった。。

 イメージ 6**(軽機関銃は弾数が一度に多く出るので、威力はあるが命中率は低い。なかなか当たらないものだ。それに引き金を永く引いていると、一度に弾倉内の弾丸がみんな飛んで行ってしまう。アメリカの様に物量が豊富な軍隊は良いが、日本の様に資源に乏しい軍隊は、同じ撃つのでも弾を節約しなければならない。
 無茶苦茶に引き金を引いて撃ちまくるのではなく、一発必中の気持ちで狙い定めて撃たねばならない。
 
  軽機も3発~5発くらいで止まるように微妙に引き金を引くことが肝要である。そこで号令も「3発連射!撃て!」とか「5発連射!撃て!」とかいう号令になるのである。


          /////             ・・・・・・・

イメージ 7
 
                                                              (あおさぎ)

(151)運動会

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           (151)  「運動会」

 外語の教科に教練はあったが、体操の時間があったかどうか記憶にない。黒い詰襟の制服のほかに、教練の時間に使うカーキ色の教練服はあったが、運動服は特別なかったから、おそらく体育という科目はなかったのだろう。 ただ、語部対抗の運動会や各種目の対抗試合があった。

 
イメージ 1
                                               (花園運動場のクラスメート) 左端
 
 〇 運動会

  外語では大世帯の中国語部では、各語部対抗の前にまず中国語だけの運動会がある。全校運動会出場の選手選抜の為である。そしてこの運動会には誰でも一科目は出なければならない。小生は走るのは遅いし、飛ぶのも下手だ。陸上競技にはとんと得意なものはない。何に出るかほとほと困り果てて、だらだらとみんなの跡をついていけば良いだろうと思って、マラソンに出ることにした。

 
イメージ 2
                        (全校運動会の応援団)
 
  近鉄沿線の花園にある運動場から、花園ラグビー場を東に生駒山麓にある石切神社までの周回コースである。どのくらいの距離だったか今では定かでないが、一年生から3年生までみんなでぞろぞろと走り始めてみると、案外に体が楽なのである。息も弾まないし、足も痛くない、調子に乗ってスイスイと走っていると、いつの間にか級友たちがどんどん後ろに下がっていくではないか。

 イメージ 3ありゃ・・なんだこれは。。案外俺には持久力があるんだなあ・・などと自画自賛しながら走って行くと難なくゴールインすることが出来た。それも何と2等なのである。 ばんざーい!!ばんざーい!
 
 ところがしばらくしてふと思いついた。そうだ、5位までは全校運動会に代表として出なければならないのだった。級友ちがどんどん後ろに下がって行ったのは、或いは彼らが全校運動会に出なくて済むように計算して、わざとゆっくり走っていたのではないか。。

  ウーン、ざんねん! やられたぁ。。

   ↑ 足の速い連中・みんなもう居ない。。(~_~::)

 後悔先に立たず、世間知らずのクソ真面目な田舎少年は、やり場のない思いを抱いてしおしおと下宿に帰って行ったのであった。  
 だが、天は未だ我を見捨てず!次週の全校運動会はあいにくの雨で中止になって、下宿の窓から降りしきる雨を眺めては、ひそかにホッと安堵の吐息を洩らしたのであった。
   ・・・・・

 あまり記憶はないが、運動会だけでなく、バレーや野球大会ももあったようだ。 蒙古語部の杉本君が、語部対抗の野球大会について詳しく書いているので見てみよう。。
 以下、杉本君の筆である。

・・・・
 今思うとこの年の蒙古語部のスポーツはさっぱりだった。柔剣道は他の語部に優勝をさらわれるし、春の運動会は健闘したが中国語部の優勝で終わった。中国語部は大所帯だけにスポーツにも強い。競技だけでなく、規律正しい団体行動と均整の取れた応援の見事さは今も目に焼き付いている。
  
 〇 野球大会
 
 十月下旬に校内の運動場で語部対抗の野球大会が開かれた。語部対抗の試合はこれでおしまいだ、今度こそぜひとも勝たねばならぬ。我が蒙古語部は運もよかったのか、1,2回戦を勝ち抜いて決勝戦に進出した。チームの中心はピッチャー黒木、ファースト日根野谷、ショート杉本である。どうしても勝たねばならない。硬派、軟派入り混じり、呉越同舟で応援合戦だ。
 応援団長はもちろん運動神経皆無の福田【司馬さん】である。

 
イメージ 4
                         
              (蒙古語の猛者たち、左端が福田(司馬さん)三人目が杉本君


 1回から6回まで双方の投手が好投して得点を許さず、ラッキーセブンの7回表になった。トップの私(杉本)がバッターボックスに立つ。胸がドキドキと騒ぐ。どうしてもヒットが打ちたい、ピッチャーの初球を狙った。やったー、センター前のヒットだ! ノーアウトで出塁だ。
「チャンスや、がんばれー!」 橋本が叫ぶ。
「黒木、ガツンと一発ぶっ飛ばせ!」 福田がゲキを飛ばす。黒木は強打者で1,2回戦にも長打を放っている。相手投手は警戒してコーナーを突いてきたが、黒木は粘ってホァボールで出塁、これでノーアウト1,2塁、チャンス到来だ。
「さぁ、ここらで大革命や、やったれ!」と福田と橋本がわめく。

 次打者の日野根谷は度胸がいい。第一球の高めのボールは大きく空振りしてニヤリと笑った。相手の投手はこれを無視して軽く一塁に牽制球を送る。日野根谷はこれが癪に触ってファイトが湧いたのだろう、第三球を早めにバットでひっぱたくと、球はショートの上をライナーで越し、幸いにもその球をセンターが後ろにそらしたので、私(*杉本)と黒木は躍り上がってホームに飛び込み、次のバッターのセカンドゴロエラーで日野根谷が悠々生還、3点のリードになり、硬派も軟派も大喜びで手を合わせての大喝采となった。

 
イメージ 5
                                               (運動会の応援団・南運動場)


 だがその裏に四球とヒットが出てランナー1,2塁というピンチになった。黒木は自信の無さそうな顔つきになるし、応援団はシューンとなる。私は日野谷に向かって「日野根谷、交代したれ、打たれてもかめへん。3点リードや。思い切って投げェ・・」

 イメージ 6日野根谷は意表をついて緩いカーブを連投し、連続三振にうち取った。八回、九回もこの大きな緩いカーブが功を奏して三者凡退させてゲームセット、3-0.ついに待望の優勝だ。わが蒙古語部は燃え上がった、興奮した斎藤が大きく胸を張り、大声で歌い始めた。
  「蒙古放浪歌」だ。

          ♪心猛くも 鬼神ならぬ
            人と生まれて 情はあれど
            母を見捨てて 波越えて行く
            友よ兄等と 何時またあわん

 さぁ、とにかく打ち上げ会だ。幹事が走り廻ってどこからか酒を仕入れてきた。「ミニ梁山泊」の宴が始まる。
「お前が良く投げたなァ」「いや、お前のあのヒットが良かったぞ」と初めはお互いに健闘を称えあうが、、次第に酒が回るにつれて怪しくなる。自分が優勝の立役者でなければ我慢出来ないのだ。

「おーい、幹事!この酒はなんや?水と違うか?」なるほど、まるで金魚が泳ぎそうな薄さである。
「水を割ったな!コラ!!・・」 これじゃ、酔えないはずだ。

 ↑福田【司馬さん】の投球フォームは何だかぎこちない)
   やはり応援席が適役だっただろう。

福田が横から突っ込んだ。
「幹事!肴はスルメと塩豆だけか?もつと何かないんか!」
「干しバナナならあるぞ」
「あほらしい、そんなもん、食えるかぁ」
酔えない小悪党どもは幹事に当たり始める。 幹事はとうとう音をあげた。
「優勝なんか、して貰いたくないわ・・」。。。

 * 遥か遠い昔の野球大会だったが、今はもう誰もいない。。
    これが戦争の時代に生きた我々戦中派の、つかの間の青春だったのか・・

       ・・・・・        ・・・・・・


                     (村の応援団)   昭和28年

イメージ 7

蛇の目の番傘とこうもり傘・和風、洋風、新旧交代の頃だった。


//////

(152)夜行軍

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      (152) 夜行軍

 外語では、体育がない代わりでもあるまいが、耐寒行軍や夜行軍などが年に何度か行われた。
軍隊に居るときも夜間演習はあったが、特別、夜に行軍する事などなかった。学校で夜行軍が行われたのも、現実に夜の行軍の練習ではなく、戦争完遂の意気の向上と体力増強のためだろう。
行き先も神武天皇を祀る奈良の柏原神宮まで、 タダ、だらだらと歩くだけの話だから。。

イメージ 1  
    ♪  「麦と兵隊」

        行けど進めど 麦また麦の
        波の深さよ 夜の寒さ
        声を殺して 黙々と
        影を落として 粛々と
        兵は徐州へ 前線へ 


 「昭和17年 11月7日」 土 曇り
 今日は夜9時より中国語部の夜行軍あり。大阪より生駒山を越えて奈良の柏原まで一睡もせずに歩き続けるのである。
  「11月8日」 日
  昨日の夜行軍はあまり眠いことは無かったが、足のだるいこと、おびただしい。特に行軍の速度が速いのと、寒いのには弱った。生駒山をテクテクと乗り越えて柏原に着く頃はもう完全に伸びてフラフラだった。
  夜、9時15分上本町八丁目の学校を出発、翌朝6時15分に柏原神宮前到着。
 と思ったら、休む間もなく直ちに7時54分の柏原神宮駅発の電車に乗って帰途に就く。何のことはない、トンボ返りの夜行軍だった。
  眠いのを我慢してドイツ映画「祖国に告ぐ」を見る (我ながらスキだなぁ・・)
  下宿に帰り、午後2時から5時半まで熟睡す。
 「11月9日」 月
 朝は布団から離れにくい。昨晩は家から送ってきた冬布団を着て寝た。足がまだ痛い。頭もボーツとしている。「シナ語雑誌」を買う。今日は武道(剣道)は休講だった。射撃部用の新しい99式射撃銃が来ていた。 今週の土曜は関大専門部との射撃の試合である。


イメージ 5
                                                 (99式狙撃銃)

 「11月10日」
 兄より手紙が来た。姉が15日長崎出帆の船で南京に行くことになったそうだ。(*主人が南京の日本人学校に赴任)
 いよいよ姉さんもシナへ行くのかと思うと寂しくなる。兄の入営は4月10日午前9時、久留米第48連隊である。今年末の入営かと思っていたので、意外ではあったが、まぁ、良かった。もう一度は逢えるだろうから。。然し姉も兄も出てしまうと、家には母一人だ、どうしょう。。
  直ちに手紙を書く、明日あたり姉に祝電を打ってやろう。

  イメージ 4住田先生の試験有り。殆ど満点だろう。先生は語学研究生として北京へ派遣せられ、北京大学にて教鞭をとられるそうだ。2年間で帰国される由。

 ← 剛直な住田助教授

 今日は外語創立記念日で授業はなかったが、校長の例の長ったらしい(なんと2時間になんなんとする)式辞には弱ってしまった。

  その代わりに、パン二つ!?を貰った。 昼より日劇にて映画「大菩薩峠」を見た。主演は片岡千恵蔵である。

  ○ 「耐寒行軍」
 
 外語では紀元節記念に奈良の柏原神宮道場で耐寒行軍があった。今度は夜行軍ではなく昼間の一泊の行程であった。

 
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                                ↑   (柏原神宮道場前にて・東洋語部一年)

   ↓ 虫眼鏡で見たら、シランの隣りに、なんと司馬サン(メガネ)が写って居た!

イメージ 3 
  昭和18年 「2月20日」 「21日」

 土曜朝より夕方までの全校生徒の柏原行。
  国分より柏原まで行軍し、神宮参拝。さらに高田まで行軍。
  史跡見学を含めて44キロだった。柏原神宮道場に一泊、
「このご飯は百姓さんと兵隊さんの血と汗の結晶だと思い、一粒たりとも無駄には致しません。いただきまーす。」 

   と、声を揃えてから朝食を済ませた。

  エッ!なんだ、なんだ! 明日は平常通り授業がありますよ~・・だと。。

  「2月22日」
 体がだるい。。英語があたった。指折り数えて春休みを待つ。家に手紙を書く。


          ・・・・・    ・・・・・・

 (153) 今日は13日の金曜日

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   (153) 今日は13日の金曜日

 今日も気分が悪くなるほど、暑い一日、エアコンのお世話になりっぱなしだったった。昔もこんなに暑かったのだろうか。。

 今日は13日の金曜日、西洋では13日の金曜日は縁起の悪い日になっているようだ。キリストが磔に遭ったのが、13日の金曜日だったのが原因らしい。それに「最後の晩餐」の参加者も13人だったし、キリスト教徒でなくても何となく13という数字は気持が悪い。

 イメージ 1
 
 自分にとっても7月13日は悪い思い出の日である。
 今から15年前ほど前の78歳の時に、九重山登山中に山頂近くでテレビカメラを撮影中に、不覚にも滑落して右足首を骨折した最悪の日なのである。

 でも、金曜日でなく、土曜日だったのが多少は不幸中の幸だったのだろうか、ガタガタの岩場を見知らぬ登山者の皆さんに十字架の様に脇の下を抱えられて、なんとか避難小屋まで行き、救難ヘリで助けてもらったのである。。



 イメージ 2あれから、登山もゴルフも出来なくなり、仕方なく動かずに出来るパソコンに打ち込むようになった。学生時代の20歳代から78歳まで故郷の里山や全国の名山を踏破してきたが、もう全身汗まみれで登頂したあの感激を味わうことは出来ない。
            
     → 九重・久住山山頂にて・このあと岩場で滑落
 
 とにかく13日の金曜は気持ちが悪い。ふと、学生時代、昭和19年7月13日の日記を見てみたらこんなことを書いていた。

    ・・・・・
 今日、駅で一人の狂人を見た。
 五十台だろうか、頭を五分刈りにした中年の女性である。
 彼女は暴れまわって省線電車に飛び込まんとし、それを三十四、五の男と三十過ぎの女性が必死に腕力で押さえつけているのだ。

 彼女のどんよりとしたうつろな眼、恐怖に満ちたギョロ目・・
 おそらく身内の者であろう二人に取り押さえられた彼女の目には、その二人が恐ろしい鬼に見えたに違いない。いや取り囲んでいる野次馬連中すべてが、鬼どもに見えたのであろう。

 恐怖におののいているその目、目、目・・
 ねじり上げられた狂人の細い腕、 青白く静脈の浮かんだ痩せ細ったその顔。。
 そして取り押さえてる男が叫んだ「お母さん!」という一言。。
 
   ・・・・
 
 やっぱり7月の13日は,75年前も今も無気味な魔の13日だった。
今日もベランダの屋根の雨樋掃除、先日の大雨で枯葉がだいぶ溜まっていたが、無事終了。
 7月13日の金曜日も、何事もなく終わるようだ。。

(153) 「映画の話」

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           (153)  「映画の話」 

 太平洋戦争が始まると、敵国である米英の映画は当然上映されなくなった。アメリカの映画で最後に見たのは昭和14年(1939年)のジョン・ウエィンの西部劇「駅馬車」くらいのものだった。

 
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                                  (ジョンウエィンの西部劇・駅馬車がとても面白かった)

 戦前の母校の旧制中学は質実剛健、剛毅朴訥が校風で、映画、演劇は軟弱だとして、観覧禁止だった。もし映画館で見つかるとビンタどころか停学処分を受けるのである。子供の頃から映画が大好きだったシランは、仕方なく汽車に乗って博多までこっそり映画を見に行ったりした。無骨物の佐賀人と違い、博多は商人の町なので芸事には熱心な土地柄、今でもタモリや鉄矢、きよし、聖子,郷ひろみなど多くの芸能人を輩出しているが、佐賀では数えるほどしかいない。駅馬車を見たのも中学時代のこの頃、博多中洲の映画館だった。 

 イメージ 2子供の頃は、母から10銭玉を貰って、場末の小便臭い三流映画館で、落花生をかじり、ラムネを飲みながら、鞍馬天狗や忠臣蔵などのチャンバラ映画をよく見たものだが、映画観覧禁止の中学時代は殆ど見ていない。ただ、学校から引率されて、「五人の斥候兵」「西住戦車長伝」などの戦争映画を2,3見たことがある。西住戦車隊長に扮した上原謙が、いつもの柔和な二枚目でなく、如何にも勇壮な戦車隊長を演じ切っているのに感心したものだ。

   ←上原謙の西住戦車隊長

 日中戦争からさらに太平洋戦争が始まると、映画の世界も大きく変わった。 戦争の影は映画界にもひたひたと押し寄せ昭和12年夏には日本の映画界も臨戦態勢に入って行った。


 まず8月には劇映画、ニュース映画の別なく、どの作品にもその巻頭に「挙国一致」とか「銃後」を守れ」などのスローガンを大書したものを入れることとし、その後の封切作品には「皇軍一たび起たば」 「暁の陸戦隊」 「北支の空を衝く」 などのタイトルが目立つようになった。
 
  さらに12月6日には、映画の興行時間を3時間に限定するよう布告された。 また次の年には、入場税の施行と、「鉄鋼使用制限令」によって、映写機の新規製造が禁止されてしまった。 
 その上、内務省の規制は芸能人の芸名にまで及び、昭和15年3月には「風紀上不真面目な芸名や不敬に当たるもの、外国人と紛らわしい芸名」などの改名を指示した。

  イメージ 6漫才のミス・ワカナが「玉松ワカナ」、 歌手のミス・コロンビアが「松原操」、ディックミネが「三根耕一」にそれぞれ改名し、俳優の藤原釜足は、釜足が不敬だとして、「藤原鶏太」と改名させられた。敵性語(英米語)や、不真面目な芸名は望ましくない、とされたのである。

 外語時代に見た洋画はもちろん対戦国の英米の映画ではなく、殆どドイツ映画であり、フランス映画も 望郷や、外人部隊、舞踏会の手帳などの古い名画が殆どで、白黒の画面に雨が降るようにキズがついたものばかりだった。 
    
                                  → ジャンギャバン・望郷のラストシーン



  日記の中に、そのころ見た映画を記録している。
  
〇 「昭和17年」 

 「8月22日」   大阪花月劇場・・ 中村メイコと徳川無声の芝居
 「8月24日」 大劇・・松竹少女歌劇 「夏のおどり」
 「9月12日」 大劇・・中村芳子 「牡丹灯籠」
 「9月19日」 松竹・五所平之助監督 「人生のお荷物」 名作の一つに挙げられるだろう。
 「10月7日」 歌舞伎座名画劇場・・「南の風」
 「10月18日」 映画 「鳥居強右ェ門」  これは面白かった。今でも印象に残っている。

 「11月7日」 ドイツ映画 「民族の祭典」
          ベルリン・オリンピック記録映画・カメラアングルが素晴らしい
 「11月21日」 歌舞伎座5階小劇場・・「赤ちゃん」
 「12月8日」 映画 「海を渡る祭礼」 稲垣浩監督
 「12月24日」 ニュース館にて文化映画 「鵜匠」「嶋」

  〇(昭和18年)
                                                                                      
イメージ 3 「1月2日」 映画 「東洋の凱歌」
 「1月9日」 歌舞伎座5階・・ドイツ映画 「椿姫」
 「1月17日」 歌舞伎座地下映劇・・「伊那の勘太郎」 
                              長谷川一夫   →
 「2月1日」 「愛の世界」 高峰秀子主演
 「2月6日」 映画 「スペインの夜」 関急小劇場
 「2月13日」 映画 「戦いの術」
  
  
  
 イメージ 4高峰秀子もまだおさげ髪の可愛い少女だった。
 山本嘉次郎の「馬」に主演して好評だった。

  「めんこい仔馬」

   ぬれた子馬の たてがみを
   なでりゃ両手に 朝の露
   呼べばこたえて めんこいぞ オーラ
   かけて行こうかよ 丘の道 
   ハイドハイドウ 丘の道


イメージ 5 「伊那の勘太郎」は、この非常時には珍しい娯楽時代劇で、長谷川一夫の勘太郎が素晴らしかった。主題歌も大ヒットし、シランもその歌詞を手帳に書いていたのだが、入隊する電車の中から矢作川に向かってその手帳を投げ捨てた。 これで娑婆ともお別れだと・・

     ♪伊那の勘太郎
      
        影か柳か 勘太郎さんか
        伊那は七谷 糸引く煙
        捨てて別れた 故郷の月に
        しのぶ今宵の ほととぎす
 
                                                                                              長谷川一夫・・鯉名の銀平
                                            
 昭和18年にはもう戦争は激化していたが、まだ映画を見るような余裕はあったのだろう・・・
 以後、昭和19年になると日記には映画見物の記述はない。勤労奉仕が多くて映画を見る暇もなかったのか、或いは映画製作も許されないような社会情勢だったのだろうか。。

(155) 「芝居の話」

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           (155)  「芝居の話」
 
  イメージ 1映画は子供の頃からよく見たが、芝居や歌舞伎は見たことがない。外語に入って、初めて暮らす大都会の雰囲気に呑まれて居た頃は、映画だけでなく芝居見物にもよく行った。始めは鳥取の山の中から来ていた戸田に誘われて、よく千日前の「大劇」の少女歌劇を見に行ったが、初めてみるラインダンスの少女たちの太ももよりも、彼女たちのあでやかな衣装や絢爛豪華な舞台装置に驚かされたものだ。

 教室の座席のすぐ後ろが戸田だったというだけなのに入学後は戸田とはすぐ親しくなり、あちこちに遊びに行った。彼は一年ほど早く学徒出陣で航空隊に入ったので、学校でも2年足らずの付き合いしかなく、50年ほど経ってから、京都で小林と三人で喫茶店で昔話をしたのが、卒業後の最初で最後の出会いだった。

 ←戦前・千日前の大劇
   ・・・・・

 「昭和17年8月22日」 (土) 晴れ
 戸田に誘われて大阪花月にて中村メイコ、徳川無声の芝居見物、共に誘われて無駄使いす。以後、気を付けんと思う。
イメージ 7「昭和17年8月24日」 (月) 晴れ
 本日より射撃部練習開始、訓練手帳を授与さる。
 大劇にて松竹少女歌劇「夏のおどり」を見る。 いつもながら華麗なり。
 暑い暑い、大阪ってこんなに暑いところなのか・・
「8月30日」 (日) 曇り
 実弾射撃なし。戸田と宝塚見物に行く約束なりしが、切符売り切れのため止む無く中止、法善寺横丁にて「夫婦ぜんざいを食べる。

「9月12日」 (土) 曇り
 戸田大劇に行き、中村芳子の「牡丹灯籠」を見る。
「10月20日」 (火) 晴れ
 捕獲米機、大阪亞上空を旋回飛行、ボーイングB17とダグラスの両機なり。
  ・・・                                                                               戸田の部活はバスケットだった

 *昭和17年はただ大都会の生活が珍しく、よく
映画や少女歌劇を見に行ったが、2年生になると殆ど見に行っていない。部活の射撃部で忙しかったのか、少女歌劇や映画がつまらなくなったせいなのか。。逆に戦争も激しくなった昭和19年には勤労奉仕の合間に、下校時に通る道頓堀の芝居小屋に立ち寄って歌舞伎を一幕見たり、大阪生まれの伊藤に誘われて四ツ橋に在った文楽座の人形浄瑠璃を見に行ったりした。
 
 その頃の道頓堀には五つの芝居小屋が立ち並び、江戸時代からいわゆる「道頓堀五座」と呼ばれていた。浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の五つである。ほかに松竹座と、千日前だったか7階建てのビルの「新歌舞伎座」があり、四つ橋に人形浄瑠璃の「文楽座」があった。

イメージ 2
 
                                                 (昔の道頓堀の混雑ぶり)      
            
  「昭和19年7月16日」

 イメージ 5弁天座にて「精鋭歌舞伎」の我当、富十郎、雛助「精鋭歌舞伎」を観覧す。我、歌舞伎を人形浄瑠璃と共に愛好して止まず。この二つあるが故に、この煤煙に包まれた煙の都を離るるを惜しむなり。艶麗極まりなき庶民芸術、ああ、そのリズミカルな諧調のすばらしさよ。そして雛助の艶やかなる姿態としゃがれ気味の声色の悩ましさよ。
                          →弁天座は新国劇の本拠だった

   「8月29日」

 道頓堀の弁天座にて精鋭歌舞伎を見る。中村魁車、中村富十郎、嵐雛助、嵐吉三郎出演の「妹背山婦女貞訓・いもせやまおんなのかがみ)と累(かさね)の与左衛門・鎌腹である。
  千日前のアシベ劇場で先日見た関西大歌舞伎は、翫雀、成太郎の仮名手本忠臣蔵の勘平腹切りの場だったが、弁天座の精鋭歌舞伎の方が一段と重厚味があった。

 イメージ 3それにしても、角座、中座が開いているうちに俺はどうして歌舞伎を見なかったのだろう。今にして惜しまれてならない。今や芝居小屋まで閉鎖される程の非常時なのだ。
 道頓堀のいわゆる五座は角座、中座、弁天座のほかに朝日座と浪花座があるが、松竹座は少女歌劇と松竹映画を封切し、浪花座はは専ら漫才や寸劇をやっていて、角座、中座が閉まってしまった今では弁天座だけしか歌舞伎はやっていない。
   ← 松竹座

(*浪花座では、古川ロッパ・エノケンなどの軽演劇やワカナ・一郎、エンタツ・アチャコの漫才などが中心だった)
 若い役者や裏方などは戦争や女子挺身隊に行ってしまったのだろう。それとも、この非常時に軟弱な芝居どころでゃないと言う事かも知れない。

  「9月9日」
  弁天座にて歌舞伎見物。
 (出演) 中村魁車、中村富十郎、嵐雛助、嵐吉三郎、みんし、鶴之助、我当。
 (外題) 鎌倉三代記・思い出曽我、平家女護ヶ島

 イメージ 4*女形の嵐雛助(ひなすけ)は容姿もきれいだったが、ハスキーな声色に独特の色気があって、思春期のシランも魅せられたのかよく見に行った。20年ほど前の同窓会で久しぶりに出会った級友と昔話をしていたところ、当時彼も雛助のファンだったそうで、「俺たちはお互いに雛助の恋敵だったんだなぁ。。」と大笑いしたものだ。

  千日前の新歌舞伎座のビルは戦後、商業ビルとなり、いつか火災の為に廃墟同然になったが、あの建物は今はどうなっているだろう。歌舞伎座自体は戦後、難波に移転し、最近また上本町6丁目に新しい歌舞伎座が出来たそうだが。。
 
 それはともかく、映画や文楽、歌舞伎にうつつを抜かしているうちに、戦局は一段と厳しくなって、芝居見物どころか学業はそこそこに勤労動員で毎日のように軍需工場に働きに出かけねばならなくなった。

 ↑弁天小僧菊之助たぁ、俺のことだぁ・・・

              
イメージ 6

                                          (千日前にあった昔の新歌舞伎座)

       * 学校帰りによくこの歌舞伎座の前を通ったものだ・・
       地下と七階に小さい映画館があって古いフランス映画などをやっていた。

               ・・・・・・・               ・・・・・・


  * 毎日暑い、豪雨被災地の跡片付けは大変だろう。ご苦労さま。。
    今朝、初めて蝉の声を聞いた。

           耳鳴りとまごうばかりの蝉しぐれ      紫蘭
 
イメージ 8
                        (蝉取り・・昭和11年)

       *   昔、子供の頃、釣り竿の先にトリモチをつけて、トンボやセミをとったものだ。

     ・・・・・

(156) 野球と相撲

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       (156) 野球と相撲

  〇 「野球の話」

 学生時代は映画や芝居をよく見に行ったが、野球は殆ど見に行っていない。全国中学野球大会(今の高校野球)は、戦争が始まった昭和16年から終戦の20年までは中止になったので、もちろん甲子園にも見に行ったことがない。
 
 戦前はプロ野球は、スポーツではなく職業的な見世物という世間の風潮があり、一般には人気がなく、中学野球と東京六大学が人気の的だった。特に早慶戦は全国の耳目を集めるビッグイベントだった。その頃の日記ににも二回だけ野球を見に行った、という記載がある。当時は敵性語排斥で野球用語も、日本文字に変更されたようだが、実際に見たり聞いたりしたことはない。

イメージ 1
「ストライク」→「よし1本」「正球」
「ストライク ツー」→「よし2本」
「ストライク スリー、 アウト」→「(よし3本、)それまで」
「ボール」→「(だめ1つ」「悪球」
「ファウル」→「だめ」「圏外」「もとえ[1]」
「アウト」→「ひけ[1]」「無為」
「セーフ」→「よし」「安全」
「バッテリー」→「対打機関」
「タイム」→「停止[1]」
                                                                          ↑六大学・早慶戦の応援団 (昭和11年)

                                      「9月6日」 (日) 晴れたり曇ったり

 イメージ 2昼より、戸田と共に阪急西宮球場の「職業野球・優秀選手東西対抗野球」を見に行く。球場の美しさに驚く。昨日吉野教授ご夫人の葬儀あり。

 「9月13日」 (日) 晴れ
 朝は涼しけれども残暑厳し。昼より藤井寺球場に早慶の本年度卒業生壮行野球試合を見に行く。8-6にて慶応勝つ。終始熱戦を続け興味深々、宇野、大舘などの美技,好打あり。岩本はホームランをかっ飛ばし、堂々の打撃戦を展開す。

←名古屋軍の石丸投手
 佐賀商からプロ野球へ、完全試合など剛球で鳴らしたが、
 学徒出陣で特攻出撃して戦死。


  〇  [大相撲の話」

 

イメージ 6



 中学生の頃、大相撲の巡業がやってきて見に行ったことがある。横綱双葉山が同じ横綱男女の川を、土俵際でひょいとつり出し気味にうっちゃったので驚いたことがある。その頃、打っちゃりが得意だった双葉山は「二枚腰」と言われていたが、よほど足腰が強かったのだろう。あの大きな男女の川を吊り上げるのだから。
 双葉山は昭和14年に関脇の安芸の海の外掛けに敗れて69連勝で終わったが、昭和18年の日記に、大相撲春場所の記載があるから、4年後のこの頃もまだ双葉山は元気に相撲を取っていたようだ。

イメージ 3


 今の大相撲も数場所前まで、白鵬、鶴竜、日馬富士、稀勢の里の4横綱だったが、この昭和18年の頃も双葉山、羽黒山、照国、安芸の海の4横綱だった.。その四横綱はみんな強くて元気、今のブクブク太鼓腹とは違い力士も筋肉隆々の締まった体形が多かった。それに怪我のサポーターをした力士など見たことがなかった。

 相撲も四つ相撲や投げが多く、上手投げや打っちゃり、外掛け、つり出しなど技も多彩、今の突き押し、はたき込みの一辺倒とは違い、相撲自体が迫力があって面白かった。当時の大相撲は正月と五月の年に二回しか開かれなかったし、力士の食べ物も大きく変わったので、年6回も開かれる今の大相撲とはいろいろ評価が違うだろう。

                                         

 「昭和18年1月10日」
 日曜だが朝7時より剣道の寒稽古あり、一週間。十日恵比寿で今宮戎あたりの混雑ぶりがすごい。
大相撲番付発表。佐賀ノ花、関脇に昇進。(*佐賀の花はのち大関になり、二所ノ関親方として名横綱の大鵬を育てた)


 「1月17日」 
 大日本射撃協会大阪支部の射撃大会。会場の桜井の駅は「駅」のはずなのにガランとして駅員もおらず、粉雪を交えた北風が山から吹き下ろして、その寒いこと、寒いこと。
 昨夜の火事は新世界だつた。アシベ劇場、花月劇場などが類焼、火元は大橋屋、約300坪が焼失し、通天閣もコンクリートが焼け落ちて鉄骨がむき出しという無残な有様である。


イメージ 4

 「1月22日」曇りのち雨
 ここ2,3日暖かいと思ったら、とうとう夕方から雨が降り出した。
 大相撲、安芸ノ海と羽黒山の一騎打ちは安芸ノ海に軍配が上がった。昨日までの全勝は双葉山、照国、羽黒山の三人だったが今日、羽黒が落ちて二人だけになった。豪華な双葉山、巧緻な安芸ノ海、豪放な羽黒山、若さの照国、この4人の横綱はいずれも近来に見られぬ強さである。佐賀ノ花も昨日まで7勝5敗で関脇の地位を守っている。
 「1月25日」 曇 り
 家より柳行李の荷物、届く。干し柿、菓子、紅白の餅、チリ紙、衣類などで、今学期中はこれで充分だ。
 (*紅白の餅には驚いた。何か祝い事があって貰ったのだろうか、それを家では食べずに送ってくれたのだろうか‥(:-クスン)
 
 イメージ 5大相撲春場所、昨日で終わる。
 
   ←優勝・双葉山  全勝 11回目

    照国    14勝一敗  🉈 ●双葉山
    羽黒山  13勝二敗  🉈 ●安芸海、照国
    安芸の海 12勝三敗 🉈 ●柏戸、前田山、双葉山
    前田山   12勝三敗
    佐賀ノ花   8勝七敗
    相模川、豊島 いずれも十勝五敗
 

   *東西対抗は西方の優勝(三点差)
 


      ・・・・・・                  ・・・・・・

 *相変わらず朝から暑い。 

  フランスの優勝で世界サッカー大会の熱狂も終わった。

  次は甲子園か・・  第百回記念大会、果たして優勝は?


   
イメージ 7


・・・・・

(157) 「勤労動員の日々」

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      (157)  「勤労動員の日々」

 こう書いてくると、学生時代はいつも映画や芝居ばかり見ていたようだが、これも2年生の半ばまでで、次第に防空演習に出たり、勤労奉仕に通ったりしてそんな暇もなくなってきた。さすがに都会なので、勤労奉仕と言っても中学時代のように出征農家での稲刈りなどの農作業はないが、防空壕掘りや防火用水の貯水池掘りなどの肉体作業が多くなった。

   〇『 昭和17年 』
 イメージ 4「昭和17年11月2日 (月) 快晴
 昨日、大東亜省の設置が確定した。初代大臣・青木一男(*子息が予備士官学校で同じ区隊で同室だった) 今日は放出(はなてん)に高射砲陣地の構築の勤労奉仕に行った。
 単純な土運びだったが相当疲れた。
 「12月8日」
 夜来の雨も上がって快晴になった。開戦一周年の大詔奉戴日である。大手前に朝7時集合して大詔奉戴式あり、さらに御堂筋にて関西学生の分列行進あり。帰校したのは午後一時過ぎ、パン二個をもらう。
「12月10日」 (木) 晴れ 
 晴れてはいるが寒気厳し、学校講堂にて大東亜戦争一周年記念の講演と映画あり。帰途、高島屋にて「航空機を主題とする科学技術展」を見る。貯金2円。
「12月17日」  (金) 晴れ
 昨日と今日、防空,防火の訓練有り。天王寺警察署長の話によれば、先日の神戸空襲の際には460発の焼夷弾が落とされ、火事となったのは15ヶ所だったそうだ。

 〇『 昭和18年 』
イメージ 1「昭和18年1月23日」  晴れ
 昨夜来の雨は上がったが風が出て寒くなった。全校耐寒運動会、花園運動場にてあり。小生もマラソンに出場、16位となって鉛筆一本!を貰う。ほかにラグビー、バレー(排球)あり。航空朝日を買ったが詰まらぬ。。明日は大東亜戦争美術展を見に行く予定。
「2月27日」
防空貯水池を掘る勤労奉仕作業のために粉浜に行く。肩がめりこむほど痛い。

「3月1日」 雨
 生野の勤労奉仕は昼までに終わった。昼食はとてもご馳走で食べきれぬほどだった。一昨日の粉浜の、おにぎり二個とは雲泥の差だ。飯がうまいと元気が出る、しかし服はびしょ濡れだ。衣食両立せずとはこの事か・・国語と法律の勉強をする。今日から戦時増税だ。。

「3月11日~12日」
 勤労奉仕のため、新町通りに行く。

 〇『 昭和19年 』
 この頃から勤労奉仕も、単純な防空壕掘りなどの肉体労働よりも、直接軍需工場に出かけて兵器の生産現場で働くことが多くなった。

 「1月6日」
 春休みの帰省が終わり、昨日午後大阪に着き、今日は早速早朝より坂根金属にて11日間の勤労奉仕である。轟々たるクレーンの響きと紅蓮の溶鉱炉が吐き出す芸術品のごとき真紅の鉄塊、柔らかき飴のごとく、また鉛筆のごときこの真鍮の棒・・
ああ、これがあの空駆ける飛行機や弾丸となるのか。。
 「1月17日」
 6日から11日間、生産増強のため坂根金属に勤労奉仕に行った。毎朝、明けの明星を眺めて出かけ、夕べは宵の明星を仰いで帰ってきた。蚊の涙の如し、とはいえ、我も戦力増強、報国のために微力を尽くすことができた。まことにこの十日間ほど気持ちよく、そして力いっぱいに充実した仕事をしたことがない。「生活の真実」は案外ここにあるのではないか。。職工も真面目で学生への認識もよく、誠に爽快な十日間であった。

「1月30日」
 アメリカの有力部隊、マーシャル諸島を攻撃。ついに戦場は我が領土内に侵入し来たれり。激しきかな、激しきかな。 野外教練あり、猛烈なる戦闘訓練。
イメージ 2「5月4日」
 連合艦隊司令長官「古賀峯一海軍大将」去る三月、すでに殉職の報あり。我が母校佐賀中学の大先輩もここに逝き給うか・・正三位勲一等功一級にて元帥府に列せらる。               古賀司令長官→
二月中には本土にも空襲があるやも知れぬ。

「5月8日」
12日まで4泊5日の信太山廠営あり、疲れたり!
「5月21日」
 早くも初夏、風薫る青葉の候となった。5月から大阪城内の陸軍造兵廠(砲兵工廠)へ勤労奉仕に出かけている。これから九月の卒業まで続く。

「6月7日」
 昨6日、敵米英軍ついに北フランス上陸開始。思えば4年前、ドイツ軍の電撃作戦による圧倒的大勝利により、イギリス軍はダンケルクの悲劇を演じたが、今は逆に米英軍がヨーロッパ大陸に侵攻を開始、今や攻防処を事にしていよいよ最終的戦闘の幕が切って落とされた。わが日独伊の枢軸軍の旗色悪く、ああ、祖国日本よ、いずこに行く。

イメージ 3
                                                 (イタリアも降伏してしまった)

 
 「6月9日」
 あゝ、今日も暮れ行く。かくて夢多かるべきわが青春も暮れゆくか。造兵廠にての勤労奉仕もすでに一か月を過ぎ、激しき一日の労働を終わりて、侘しき下宿に帰り来れば、心身綿のごとく疲れ果てて、もの思う気力だに無し。
惜しむべし、惜しむべし。。我が青春のひと時は、かくて音もたてずに消えゆくか。。

「6月19日」
イメージ 5 若葉の候もはや過ぎ去りて、目に青葉痛きまでの初夏となり、じっとりと汗ばむ青き空、爽やかなる窓辺の風・・、あゝ、今日もまた一日、我が青春は過ぎゆく。 

  昨15日、午後五時半警戒警報発令、直ちに配備につく。翌16日午前2時敵機北九州を盲爆せるよし、損害軽微との大本営発表なれども、これは毎度の事にて、あてにはならぬ。八幡、若松など相当の被害があったことと思われる。
                                                                              ↑ サイパン島のB29    
                                                            
 15日にはサイパン島に敵上陸、目下激戦中とのこと、小笠原列島にも敵機動部隊の来襲あり、欧州第二戦線の開始と相まって敵米英軍はいよいよ東西二大反攻を現実に敢行してきた。 我々も安閑とはして居れない。

        ・・・・・           ・・・・・・

 
イメージ 6

                         (沙羅の花)

                    また立ちかえる水無月の
                  嘆きをたれに語るべき。
                  沙羅のみづ枝に花咲けば
                  かなしき人の目ぞ見ゆる。
       芥川龍之介
 

(158)大阪造兵廠のこと

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    (158) 「造兵廠のこと」

  「大阪陸軍造兵廠」 は明治3年(1870年)、大阪城内に創設された官営の兵器製造工場で、当時は砲兵工廠と言っていた。東洋一の規模を誇る旧陸軍の兵器工場で、大阪城の東方一帯に広がる
35万坪という巨大な工場群の広さは今の甲子園の30倍にもあたり、陸軍の大砲や戦車の殆どはここで製造されていた。

 イメージ 1その造兵廠の終戦前の従業員は6万名を数え、その多くは勤労動員で駆り出された若い学生たちだった。 男子学生ばかりではなく女学生も動員され、遠くは松山の女学生までやってきて働いていたのには驚かされた。

 彼女らは、あの有名な「風船爆弾」を作っていたそうだ。成層圏の偏西風に乗ってアメリカまで巨大な紙製の風船を飛ばして、アメリカ本土を爆撃しょうというのである。

 幅二尺、長さ六尺の和紙600枚をコンニャク糊で貼り合わせて直径10mの巨大な風船を作って飛ばすのである。その風船爆弾は約9000個が飛ばされ、そのうち1000個ほどがアメリカに到着したらしいが、たいして効果はなかったようである。。

  ← 巨大な風船爆弾

 自分たちはこの砲兵工廠の「第七工場」で働いていた。
 日中戦争以来、中学生時代も応召農家の手伝いに田植えや稲刈りに勤労動員されることがあったが、戦争の激化に伴い昭和19年ともなると、中学、高専、大学の学生のほとんどは男女を問わず軍需工場での兵器造りに動員された。 もちろん学校の授業はほったらかしである。  

 
 イメージ 3私が働いていた、この造兵廠の第七工場では巨大な「五式15㌢高射砲」を造っていた。それまでの99式8㌢チ高射砲三式12㌢高射砲は、射程が高度7千mまでしかないので、1万m以上の超高空を飛ぶB29には、弾丸が届かないのである。

  発射された砲弾は、空しくB29の遥か下の方で炸裂するばかり、予備士の演習場で演習中に見上げる我々候補生は、弾幕のはるか上空を、美しい白線を引きながら名古屋方面に悠々と飛んでいくB29を眺めては切歯扼腕していたのだが。。
  
 ← 旧型式の高射砲
   弾丸の装填も照準も、まだ手道式である。

 
 この最新式の五式15㌢高射砲は、砲身の長さがなんと9mという巨大なもので、最大射程2万6千m。 1万mの高高度を飛ぶB29までも充分届くという話であった。 

 高射砲全体が厚い鉄板に覆われ、その中に居る射手は運転席に座って操縦するという総電動式の世界最大の巨大高射砲であった。戦後の報道によれば、砲弾の長さは薬莢を含め実に約180cm近くもあり、その砲弾には機関砲弾が2,000発も装填されていて、高度20,000m で炸裂すると、200m四方の敵機を撃墜させる威力があったという。

イメージ 2
                                         (巨大な五式・15㌢センチ高射砲)

 この「五式15㌢高射砲」は砲弾が巨大で180㌢もあり、その装填も人力では出来ないのですべて電動式になっており、この装填部分の大きな弧形の部品を精密に仕上げるのが我々学生の仕事であった。今まで手に持ったこともない鉄鋼用の平やすりで、縦バイスに挟んだ部品を一つ一つヤスリ掛けして仕上げるのである。

 イメージ 4もちろん素人のことゆえ中々旨く行かない。暫くは真っ直ぐにヤスリを繰り出す練習ばかりしていた。自分で作るというよりも単に工員の作業を手伝うに過ぎないが、油にまみれ汗だくになってようやく作業が終って、電車を乗り継いで下宿に帰る頃にはもうくたくたに疲れ果てて、とても勉強どころではなかった。

 ただ食事の給与は食料不足の当時としては量、質ともに素晴らしく、肉、魚、果物からお菓子まであって、ご飯も大豆交じりではあるが、丼いっぱいの山盛りであり、我々にとってはその昼飯が唯一の楽しみだった。

  ← 中学生も旋盤工に・・


 ただ、こんな食事をとるたびに、工場長以下の技術将校たちには憤懣やるかたない思いがあった。
 彼らは油ひとつ付いていない新品の高級ラシャ地の軍服をまとい、学生や工員たちにただ高飛車に生産増強の訓示を垂れては威張りくさっていた。
 よそ事ながらよほど癪に障ったのか、その頃の私の日記に

「我々はこの第七工場のために、また工場長のために汗みどろで働いているのではない。祖国日本の礎となって戦場で朱に染まって死んでいく同胞のために働いているのだ。彼ら技術将校たちが身を戦場ならぬ工場という安全の域に置いて、安閑として良衣をまとい、かくの如き美食を食らい恬然として恥じざるは、誠に心外に耐えず!
 我れもし戦場において斃死すといえども、決して彼ら有閑階級者のためには死せず。祖国のために真面目に働き、暮らしている、名も無き人々のために死んでいくのだ」
     と、幼稚な正義感をぶちまけている。
     あの頃は、ただただ、単純な正義感あふれる戦時下の若者だったのだ。。


 イメージ 6*我々は19年10月には学徒出陣の第2陣として軍隊に入ってしまったので、この最新式の高射砲の完成を見ることはなかった。
 ちなみに、最近の情報では、この巨大な15㌢高射砲は20年4月頃にようやく2台が完成し、終戦直前に東京の久我山陣地に配備されて、一発の弾丸でたちまちB29二機を撃墜したそうである。

 しかし、昭和20年8月14日正午過ぎ、B29の大編隊が大阪砲兵工廠を襲った。終戦前日のこの最後の大空襲は、大阪砲兵工廠を徹底的に爆撃し、設備の90%が破壊され、灰燼に帰してしまった。その頃は米軍は日本のポツダム宣言受諾は分かっていただろうに、終戦の前日にまで爆撃するとは。。 なんという事だろう!
1m80㌢の巨大砲弾


 終戦後、世界最大のこの2門の15㌢高射砲のうち1門はその場で輪切りに切断処分されたが、まるで一斗樽のようだったそうである。残る1門は調査のため航空母艦でアメリカ本土に輸送されたが、荒天に遭い、太平洋の海中に水没してしまったという。

                         イメージ 5


 こうして兵器製造の一大拠点だった砲兵工廠は消滅し、今は平和な大阪城公園や高層ビルが乱立するビル街となって昔の面影はなく、この最新式巨大高射砲も今や伝説の中に埋もれてしまって、もう知る人もいない。
  
 あれからもう75年という月日が流れてしまった。
いま空を見上げると、雲一つない平和な青空が何事もなかったように、いっぱいに広がっている。
 若い我々があれほど意気込んでいた戦争とは、なんと空しいものだったのだろう。。 

                   /////                   ///////

 *今日も朝から暑いが、あの頃も暑かった。昔はエアコンもないし、大きな扇風機が生暖かい空気を振りまくばかり、生真面目に制服制帽姿で汗まみれで頑張っていた我が身が瞼に浮かぶ。。

 今日は2か月に一度の内科検診日、自転車で颯爽と病院通いだ。。
 人間、一世紀近くも生きていると、なんと世の中の変遷が激しいものかと実感する。

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(159) 「昭和十九年の夏」

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    (159) 「昭和十九年の夏」

 今日もまた38度、焼けつくような暑さだが、昭和19年の夏もやっぱり暑かった。今から74年前の七月、まだ我々は学業を反故にして、毎日汗みどろになって造兵廠に働きに行っていた。

  「昭和19年6月21日」
 サイパン島の攻防戦、いよいよ熾烈なり。明日は陸軍特別甲種幹部候補生の身体検査有り。
老子、荘子のごとく善悪、生死の相対域を脱して、無の絶対境に悠々と逍遥することは出来ないものか。。

 *いよいよ軍隊に入る日が近づいて、この頃は映画どころではなく、真剣に死生観について悩んでいたようである。 読書も哲学の本が多くなった。

   〇 「6月の読書」

 イメージ 1 「老荘哲学読本」 高須芳次郎 
  「森田宗平集」 煤煙、輪廻、初恋
  「哲学の根本問題」 西田幾多郎
    ←西田幾多郎 「善の研究」

  「西田哲学の根本問題」 滝沢克己
  「哲学綱要」 桑木厳翼
  「文学の心」 阿部知二
  「欺かざるの記」 国木田独歩イメージ 2
  「海軍」 岩田豊雄
  「三好達治詩集」
  「真実に生きる悩み」 生田春月
                    「詩集・感傷の春」  〃
                    「死」 有島武郎
                    「エドガー・アラン・ポー詩集」
                    「ニイチェ選集」
        「アインシュタインとその思想」  竹田時雄    アインシュタイン                          

 「昭和19年7月11日」

     〇七月の箴言
    イメージ 3  月日は痕跡(あと)をとどめず、
      単調に、すみやかに過ぎ去って行く。
      また死の神の痩せおとろえた手ににぎられた
      砂時計のやうに、
      いつも同じやうに
      さらさらとこぼれ落ちる。
     ツルゲーネフ


     ← ツルゲーネフ


 「八風吹けども動ぜず」 とは禅の用語なり。
   八風とは利、衰、毀、誉、称、讒、苦、楽の八っを言う。


 利、衰は時の運なり。 毀、誉、称、讒は他人の言うところ、それによりて自己は何物も得ず、また何物も失わず。苦楽は流動せる命の現象、喜ぶこともなく、悲しむ事も無し。苦のみの世界はなく、楽のみの世界また存せず。

 この世は二元なり。常に相対なり。この二元を弁証法的に止揚して絶対の境地に立ちて大観するときは、すなわち毀誉苦楽に一喜一憂することなし。

 「7月17日」
 造兵廠に向かう途中の汚いどぶ川に面した穴倉の中に、西洋人の捕虜たちがいる。ドロドロの悪臭の中の、じめじめした暗い、暗い道路下の穴倉である。彼らはいったい何処から来たのだろう、何処で捕虜になったのだろう。 そして彼らの家は? 家族は?
 ボロボロのつづらをまとい、暗鬱の表情に望郷の悲哀をたたえて、彼らはただ働き、また働き続けているのだろう。 夢か、幻か・・、大都会の裏街でふと見つけた戦争の一断面であった。

 「7月18日」
 サイパン島の同胞、ついに全員戦死。悲愴の極み・・ああ、我ら断じて、サイパンに玉砕せる数万の    我が将兵、在留同胞の仇を討たずんば止まず! 『撃ちてし止まん!』
 本日、東条内閣総辞職、ああ、一言もなし。。
 海軍大臣交代、野村海軍大将。


 「7月21日」イメージ 4
 陸軍大将、小磯国昭、海軍大将米内光政、両名に大命降下、
 決戦下における内閣の更迭はまさに日本の一大失態なり。

 「7月22日」
 敵、大宮島(*グァム島)に、二個師団をもって上陸、激戦展開中なり。

 「7月29日」
 徴兵検査のため帰郷す。八幡地区の空襲被害甚大なり。帰宅直後に飲みし一本の冷たきサイダーの味はいつまでも忘れぬだろう。

                                         → 米内光政と山本五十六

 「7月31日」
 出産のため中国、南京より帰国している姉、難産の末、女児出産す。生死の境はまことに紙一重なりしを思うにつけ、生命力の偉大さを痛感す。

            ・・・・・                 ・・・・・・

イメージ 5

 (紅蓮)

                  蓮の香や水をはなるる茎二寸     蕪村

       ・・・・・

(160) 出征前夜・・乱るる心

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        (160)   出征前夜・乱るる心

   「昭和19年8月4日」

 イメージ 1姉の出産祝いとして、一級酒一升特別配給有り。さればこの所、夕食の待たるる日々なり。
 昨日、今日の二日間、旧公会堂にて「徴兵検査」あり。第一乙種合格、現役入営である。

  ← 徴兵検査は素っ裸

小学校の同窓会あり、警戒警報下の酒宴を終わり、恩師・吉村先生以下、同じく帰郷しありし親しき2人の友と共に、肩を並べて帰途に就く。二人はすでに東大、京大の学生である。彼らに一歩遅れを取りしを痛感す。浩々たる夏の名月が、我ら三人の肩に蒼白き光を投げかけたり。
 ああ、我らが前途に幸いあれ・・

 
  「8月10日」
 あと二ヶ月にして軍隊か・・、それにてすべてが終わる。
 我が青春は終わり、我が人生も終わる。
 滔々たる急流の中に、ふと浮かび出でし我が人生なるかな。ここに20年の歳月を経て,蜉蝣(かげろう)のごとく、儚く消えて行かんとする我が人生を傷みて、内に向かいて流るる涙、止めもあえず、満天にきらめく初夏の星々に向かいて堪えがたき想いを馳せる。ああ、我が人生よ、汝はここに消えゆかんとするか・・

         おとめごの哀しき腋毛目にちかく
            五月の朝のバスこみ合える
         結城哀草果

  「8月20日」
 イメージ 215日昼、佐賀より帰阪。
 敵機60機、九州及び中国西部を爆撃との報あり。
我が家は如何、気がかりなり。
兄の命が危ない。母も姉も誰も何も言わぬが、ひょっとしたら兄の戦死の内報でもあったのではないか・・何やらそんな気がする。

 俺より早く誰も死んではならぬ。一番先に死ぬのはこの俺でなければならぬ、もし俺より早く死ぬんだったら、家族みんな一緒に死んでくれ。
母にはもし俺が戦死しても、取り乱したり、見苦しい真似だけはしてくれるな、と言っておいた。母もそんなことはせぬが、お前も先を争って手柄を立てようなどと考えて、死に急ぐ事だけはしてくれるな、と言った。この母を残して戦地に行くのは辛い。 もし、兄も俺も死んでしまったら・・!
                                                                                                ↑兄の戦死公報

 「8月23日」
 イメージ 3今日、勤労奉仕先の陸軍造兵廠において、陸軍甲種幹部候補生の合格の通知あり。来る十月十日、豊橋予備士官学校に入校することになった。
 ああ、ついに来たれり。夏の夕暮れの窓辺にて、暮れ落ちる真っ赤な夕日を見ていると、何処からかピアノの音が聞こえてきた。平和そうなその音を聞いていると、俄かに望郷の念と共に離別の哀しみがぐっと込みあげてきて、今にも涙があふれそうになる。母や姉、弟よ。健やかなれ。。されば、今日より家族に残す遺書を書き始めることにしよう。

 我、ひとたび軍籍に入らば、十年、十五年はおろか、もはや生きて故郷の土を踏み、家族と会いま見ゆること無きやも知れず。思い残すこと多しと言えども、人間ひとたび命運極まりては我らが自由意思の及ぶところにあらず。我が生も死もすべて宿命のつかさどるところにして、人間一個、いかにあがくとも如何とも為す能わざるを観念し、時到たらば、潔く、名残惜しき人生と訣別せん事を期す。

  「8月24日」
 好田、大西は9月1日、北川は9月5日入営とのこと、赤尾、小林は来年1月10日、夫々航空整備と自動車隊に、共に東京にて入営、柳、福井、吉井、関谷、近藤は紫蘭と同じく豊橋予備士に入校の予定。

 「8月30日」
 小林とともに、好田の家に飲みに行く。二人は同じ射撃部仲間だ。9月1日に好田が入隊するので、いわば別れの宴である。二人とはもう二度と会うこともないだろう。夜半の月の美しかったかったこと、一生忘れまい。

         虫の音や盃に見る夜半(よわ)の月

 しかし、あまり酒が上手くなかったのはどうしたわけだろう。勤労奉仕の疲れだけではない。別離の侘しさのせいであろう。ただ、好田は予備士にも合格しているので、それまで何とか入隊は延期できそうだ。帰途、そぞろ歩きの池の面に輝く月の美しさ、月影は御坊の白壁に青白く照り返し、半月は柳の影を通して浩々と中天に懸かれり。

                    月白し明日は別れか蛙(かわず)鳴く

 イメージ 4終電車に乗り遅れ、天王寺駅より粉浜の下宿まで御堂筋を歩いて帰る。夜半の半月に照らされながら。。

    酒乱の足もと 蹌踉として空を踏み
    浩々たる半月 また天空にあり
    凄爾たる 月影の
    長く街樹を映しては
    我れ、歩道にさまよう犬に似て
    ああ、 寂寞たる心象は
    街路に深く 消えゆきぬ
                                                              → 小林(うしろ)と京都で

 *同じ射撃部で苦労した小林好田の事はいつまでも忘れられない。終戦後、二人とも無事復員してそれぞれ就職した。好田は大手銀行マンとして過ごし、能楽を趣味としていた。能舞台でシテ役を演じたこともあるそうだ。

 小林は、地元の京都府庁に勤務して役人生活を送ったが、いかにも生真面目だった彼らしい生業だった。 20年ほど前の同窓会で、彼と一緒に京都の嵐山付近の竹林を散歩したことがある。外語時代に彼の家を訪ねた時、彼のお母さんが出してくれた、鰹節をまぶした竹の子の味が忘れられない。

        ・・・・・            ・・・・・・

 
イメージ 5
                                            (京都・大沢の池)

            ・・・・・・

(161) たわむれの歌

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     (161) たわむれの歌

 9月末には卒業するので、造兵廠に行くのも19年の8月で終わったようだ。少しは夏休みもあったのか、徴兵検査のために帰郷したり、友達と飲んだり、あちこち最後の旅行を楽しんでいる。これが戦中派学生の束の間のはたちの青春だったのだろう。

 外語の一、二年生の頃、自称文学青年仲間が集まってガリ版で文芸誌の真似事のようなことをしていたが、シランもいろいろ、詩歌、俳句などを投稿したものだ。いわば、子供の遊びのようなものだったが・・
 卒業を前にして造兵廠の勤労奉仕も終わり、少しは精神的、肉体的な余裕が出来たのだろうか、
日記にもつたない歌などを書いている。

  「8月23日」
 陸軍甲種幹部候補生合格。

 イメージ 6「8月27日」
 武運長久祈願のため、京都、宇治の石清水八幡宮に参拝。     吉野先生はじめ同窓19名である。           →

 宇治川の清流や好し。 源平のむかし、宇治川の先陣が偲ばれる。

*岩清水八幡で、赤尾が一句作って呉れたが、↓ 彼は戦後、赤尾兜子の俳号で「前衛俳句の鬼才」と言われただけあって、彼はこの頃から俳句に熱中し、特に書もうまかった。

  「石清水八幡宮にて」    赤尾兜子
   
    蜩(ひぐらし)や 空蒼々と 君が眸(め)に    

 戦後、彼が俳界に活躍していたころ、この句が彼の句集に載っていないぞ、と尋ねたら全く覚えていないと言っていた。 思いつくままに即興で作ったのだろう。


  イメージ 5「9月1日」
 一昨日、好田の家で飲み、二日酔い気味で朝寝して学校をさぼる。そのため同級の吉井以下11名、今日より「伊勢神宮参拝」に行けるを知らず、置いてけぼりになる、残念至極。

 ←伊勢神宮の同級生たち

 「9月5日」
 我らも負けじと小林、好田の三名にて伊勢神宮に参拝行。
 内宮、外宮参拝、深山の風、聖域の空気のなんと素晴らしいことか。二見ヶ浦一泊、素晴らしい月夜だった。

    月見ては しばし忘れむ 現世(うつしよ)の
        寄せては返す 波の事ごと

 


 「9月6日」
 イメージ 1志摩半島、波切(なきり)まで汽車、電車、バスと乗り継いで行く。 大王崎灯台より遥かに太平洋の荒波を望む。
  出征を前にしてわが心平らかならず。大海より打ち寄する荒波の如し。

     見はるかす 大王崎の 荒波よ
        逆巻く心 われに持たすな

                                                    →大王崎灯台
 「9月10日」
 何とも言えず、何とも表現できず、胸にこみあげるこの切々たる思いは。。焦燥か、悔恨か、はたまた憤激か・・

   果てしなき この哀しみは いずこより  
    湧き出ずるものぞ 心悶えつ

   防人(さきもり)に 立たむ騒ぎに ひと月を
     物思いもせず 過ごし来ぬかも

 イメージ 2「志摩半島、波切にて」

   寒漁村・波切にただ一つありし汚き宿屋に
     これまた美しからざる女中のありて・・

         ふるさとは 京都と言いし宿女中
           窓辺によりて 海を眺むる
 
                                                                   → 波切城址

  「9月14日」
 京都に行き、小林、好田と琵琶湖周辺を船に乗って遊覧す。 三井寺、瀬田の唐橋、石山寺と巡航船に乗ってゆく。 帰りに小林の所で飲み、好田の家に泊る。これも思い出。

  イメージ 4 「京都にて」
 
    上臈(じょうろう)の 面立ちわびし 乙女子の
      黒髪なびき 走る電車よ

   「琵琶湖周遊」

     心地よき 波の揺れかな 広き湖(うみ)の
      巡航船に 秋の陽は照る

     迫りくる 山の蒼さよ 秋の日の
       輝く湖(うみ)の 波の静けさ 

  イメージ 3「9月15日」
 夜、眠れぬままに、下宿を出でて
  漆黒の闇の中、住吉公園を 散策す。

   ぬばたまの闇夜の松の妖(あや)しさは
     心の影の映りけるかも 
   
    ひとり行く己が心のむなしさは
     星さへ見えぬ夜となりにける


               ・・・・・・           ・・・・・・・

*四五日前から、なんだか、左足のかかとがガサガサする、少し皮も剥けているようだ。
  かゆくはないが、もしや?と思い、暑い最中を皮膚科検診に。。
  幸い水虫ではなく、単なる肌荒れだった。皮脂の不足でガサガサに荒れているだけのようだ。
  やっぱり年だなぁ。。皮膚まで老化して・・
  ビタミンA入りのステロイド入りのクリームを貰って帰る。

 
イメージ 7

                                                   (蓮ひらく)
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