(48) 空の要塞・B29の開発 「3月10日」
戦前の3月10日は「陸軍記念日」でした。明治38年、日露戦争の終幕を告げる日露の奉天大会戦で日本軍が大勝利を収めた記念日だったのです。この記念日をわざと狙ったのでしょうか、1945年(昭和20年)3月10日、東京は米軍の無差別大空襲を受けました。 次々に現れる「B29」から投下された爆弾によって東京は10万人が焼死し、100万人が被災して東京の下町の大部分が焼け野が原となってしまったのです。
(焼け野が原の東京下町地帯)
この空飛ぶ要塞と言われた「B29」は日本の戦闘機が届かない1万mの亜成層圏を飛び、白雲の線を引きながら悠々と日本上空を旋回していました。このB29のエンジンはライトR3350型と呼ばれ、7600mの上空で最大2300馬力を出すことが出来ました。しかも気密装置が完全で乗員は酸素マスクをする必要がなかったし、燃料タンクの内側には生ゴムが張りつけてあり、もし機銃弾が貫通しても半液体の生ゴムが穴を塞いで、基地に帰るまでは墜落をまぬかれるようになっていました。
そして合計12個の13ミリ機関銃が前後左右に配置され、また後方に向けては20ミリの機関砲も装備され、しかもこれらの武器はすべてリモコン操作で動かされていました。B29は高度1万mで時速575キロだったのに対し、日本の戦闘機は時速550キロ程度でしたから、日本の戦闘機が飛び立っても到底太刀打ちは出来なかったのです。
シランが豊橋の予備士の高師ヶ原演習場で演習中に、突然目の前に日本の複座戦闘機が舞い落ちてきました。区隊長以下、すぐに駆けつけて乗務員を助け出しましたが、プロペラと共に両翼の固定機関銃がグニヤリと曲がっていたのが印象的でした。後で区隊長から聞いた話では、操縦士は高度7千mくらいで気が遠くなり不時着したのだそうです。まだ酸素マスクは無かったのでしょうか。当時の高射砲も高度7千mまでしか届かず、その弾幕の上を名古屋爆撃のために悠々と飛ぶB29を眺めては、ずいぶん歯がゆい思いをしたものです。
(佐賀爆撃の予告ビラ) 拾って持っているだけで処罰された。
この空飛ぶ要塞「B29長距離戦略爆撃機」の計画が最初に出されたのは1940年1月で、2年半後の1942年9月にはテスト飛行に成功、それからまた1年後の1943年からは早くも量産体制に入っています。勿論それまでのB16 などの長距離爆撃機の技術的な蓄積があったのは否めませんが、計画から僅か3年後に量産に入ったというのはほかに例が有りません。いかに当時のアメリカの科学技術が驚異的なものであったかが伺われます。
そして終戦までにB29は4200機という驚くべき機数になっていたのです。広島に原爆を落としたのもB29ですし、日本の敗戦を決定づけたのは、このようなアメリカのすさまじい技術開発力だったといっても過言ではないでしょう。
(原爆を投下して帰着したB29・エノラゲイ)
*朝方、家内の目の眼底出血の治療で医大へ。
思いがけず、新治療薬の目の注射が功を奏して視力が0,8まで回復、若い医医者さんが医大では最高の治療結果だと喜んでいました。写真を見ても網膜の腫れがほとんど平らになっているのが分かりました。
一か月に一回、三回注射のあとは三か月に一回注射の予定でしたが、おかげで今日は注射をしなくて済みました。2か月後に検診の予定。
何しろこの目玉の注射は遺伝子操作の新薬なので一回15万円!もします。老人保険でも一万五千円。
スーパーで500円弁当を買って帰りました。
今夜は仲間との飲み会、ひとりで乾杯してきましょう。