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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(48)空の要塞・B29の開発

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    (48)  空の要塞・B29の開発    「3月10日」

 戦前の3月10日は「陸軍記念日」でした。明治38年、日露戦争の終幕を告げる日露の奉天大会戦で日本軍が大勝利を収めた記念日だったのです。この記念日をわざと狙ったのでしょうか、1945年(昭和20年)3月10日、東京は米軍の無差別大空襲を受けました。 次々に現れる「B29」から投下された爆弾によって東京は10万人が焼死し、100万人が被災して東京の下町の大部分が焼け野が原となってしまったのです。

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                     (焼け野が原の東京下町地帯)

 この空飛ぶ要塞と言われた「B29」は日本の戦闘機が届かない1万mの亜成層圏を飛び、白雲の線を引きながら悠々と日本上空を旋回していました。このB29のエンジンはライトR3350型と呼ばれ、7600mの上空で最大2300馬力を出すことが出来ました。しかも気密装置が完全で乗員は酸素マスクをする必要がなかったし、燃料タンクの内側には生ゴムが張りつけてあり、もし機銃弾が貫通しても半液体の生ゴムが穴を塞いで、基地に帰るまでは墜落をまぬかれるようになっていました。
                            
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 そして合計12個の13ミリ機関銃が前後左右に配置され、また後方に向けては20ミリの機関砲も装備され、しかもこれらの武器はすべてリモコン操作で動かされていました。B29は高度1万mで時速575キロだったのに対し、日本の戦闘機は時速550キロ程度でしたから、日本の戦闘機が飛び立っても到底太刀打ちは出来なかったのです。

 シランが豊橋の予備士の高師ヶ原演習場で演習中に、突然目の前に日本の複座戦闘機が舞い落ちてきました。区隊長以下、すぐに駆けつけて乗務員を助け出しましたが、プロペラと共に両翼の固定機関銃がグニヤリと曲がっていたのが印象的でした。後で区隊長から聞いた話では、操縦士は高度7千mくらいで気が遠くなり不時着したのだそうです。まだ酸素マスクは無かったのでしょうか。当時の高射砲も高度7千mまでしか届かず、その弾幕の上を名古屋爆撃のために悠々と飛ぶB29を眺めては、ずいぶん歯がゆい思いをしたものです。

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             (佐賀爆撃の予告ビラ) 拾って持っているだけで処罰された。


 この空飛ぶ要塞「B29長距離戦略爆撃機」の計画が最初に出されたのは1940年1月で、2年半後の1942年9月にはテスト飛行に成功、それからまた1年後の1943年からは早くも量産体制に入っています。勿論それまでのB16 などの長距離爆撃機の技術的な蓄積があったのは否めませんが、計画から僅か3年後に量産に入ったというのはほかに例が有りません。いかに当時のアメリカの科学技術が驚異的なものであったかが伺われます。

 そして終戦までにB29は4200機という驚くべき機数になっていたのです。広島に原爆を落としたのもB29ですし、日本の敗戦を決定づけたのは、このようなアメリカのすさまじい技術開発力だったといっても過言ではないでしょう。
 
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                   (原爆を投下して帰着したB29・エノラゲイ)


 *朝方、家内の目の眼底出血の治療で医大へ。
  思いがけず、新治療薬の目の注射が功を奏して視力が0,8まで回復、若い医医者さんが医大では最高の治療結果だと喜んでいました。写真を見ても網膜の腫れがほとんど平らになっているのが分かりました。
 一か月に一回、三回注射のあとは三か月に一回注射の予定でしたが、おかげで今日は注射をしなくて済みました。2か月後に検診の予定。

 何しろこの目玉の注射は遺伝子操作の新薬なので一回15万円!もします。老人保険でも一万五千円。
 スーパーで500円弁当を買って帰りました。
 今夜は仲間との飲み会、ひとりで乾杯してきましょう。



(49)ボールペンと毛筆

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         (49)  「ボールペンと毛筆」 


   〇ボールペンの発明

 B29の話が出たついでに、爆撃機に関する話をもう一つ・・
 1930年代の後半ごろ、(昭和なら10年ごろ)ハンガリーに「ピロ」という印刷の校正係がいました。彼は商売柄毎日ペンを使って仕事をしていましたが、万年筆だとどうしてもたびたびインクを補充せねばなりません。ピロは何とかこのインクを長持ちさせる事はできないかと考え、いろいろと実験を重ねましたが、なかなかうまくいきません。

 イメージ 2彼は1943年にアルゼンチンに移住しそこで研究を援助して呉れるイギリス人の資産家「H・マーチン」と出会い、ついにボールペンを完成させました。ちょうどその頃は第二次世界大戦の最中でイギリス空軍は爆撃機内での航空計算のために新しい筆記具を必要としていました。

高空では万年筆はインクが漏れてしまいます、また鉛筆は機体の動揺ですぐに芯が折れてしまうのです。その点では空軍にとってボールペンはまことに理想的な発明品でした。マーチンは早速会社を作ってこれを売り込み成功を収めました。

 同じころたまたま商用でアルゼンチンを訪れていたアメリカの「M・レイノルズ」はピロのボールペンを街頭で見つけて、特許権に触れないように改良して、アメリカの空軍と政府に合計10万本を売り込みました。戦略爆撃機B29でも、このボールペンが大活躍したのは言うまでもありません。

イメージ 1 ところで、古代の筆記具は葦の茎から作られた「葦ペン」が最初で、それが羽根ペンに代わり、次第に現在のような鉛筆や万年筆、ボールペンへと代わっていきました。 

  シランが小学校に入りたての頃は、石筆という蝋石を固めたもので石盤にイロハを書いたりして文字を習いました。白墨のようにすぐ消されるし、白墨のように粉が出ないので中々便利なものです。ただし白墨同様、紙に書けないのが欠点。


 
  〇 毛筆の輸入

  むかしの小学校では「書き方」の時間があり、墨と毛筆を使いました。江戸時代から明治にかけて一般の商人も大福帳にはみんな毛筆を使っていました。商売をして居た父が使っていた売掛帳などをいま見てもなかなかの達筆です。寺子屋では筆を使って文字を習っていたので、昔はみんな字がうまかったですね。
  
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                                                    (寺子屋の図)

 もともと「毛筆」は中国の殷の時代から使われていたようで、そのころの毛筆は今のように竹の管ではなく、リスやイタチの尻尾をそのまま使っていたらしいです。西洋でガチョウの羽根をそのままペンとして使っていたのと同じようなものですね。
 ところで日本に筆を初めて輸入したのは僧・空海、すなわち「弘法大師」でした。

イメージ 3 空海は筆そのものを持って来ただけでなく、筆の製法も中国で学んできました。彼は清川と言う職人と一緒に、タヌキ、シカ、ウサギなどの毛を使って様々な筆を作りました。一般に「弘法は筆をえらばず」と言いますが、実のところ空海は筆のメーカーとしたなかなか筆についてはやかましい人物だったと考えられます。

 こうして作られた国産筆の第一号は嵯峨天皇に献上されましたが、それはタヌキの毛を使った4本セットで、真書、行書、草書、写書の四つの字体や、それぞれの用途によって硬軟、大小の文字が書ける書けるように細かい心配りがこめられていました。



  ↑ 空海の風信帖より

 
 *ちなみに「佐賀北高」は野球部の甲子園優勝や剣道の全国制覇のみならず「書道部」は全国書道コンクールで参加333校の中で今年も第一位となり、第一回から連続22回の優勝に輝いています。

(50)パンダの発見

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        (50) パンダの発見」   3月11日


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 「パンダ」と言う言葉は、ネパール語ではもともと「竹を食べるもの」と言う意味だそうですが、白黒の毛色と愛くるしい目玉、思わず微笑むような仕草で?動物園の人気者ですね。そして今や中国の文化使節として世界中に贈られて珍重されていますが、不思議なことに地元の中国の博物学では少しも取り上げられることがなかったのです。そしてこのパンダが発見されたのはわずか150年ほど前の話なのです。

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イメージ 2 1862年から10年ほど中国に滞在したフランス人神父「ペレ・アルマン・ダヴィド」は1869年の春に四川省を旅行しました。?そして3月11日にホン・チャン・チン渓谷を歩いていて、この地方の地主の家に一休みしてお茶を御馳走になりました。その時ふと座敷を見ると鮮やかな白と黒の熊の毛皮が置いてあるではありませんか。こんな動物は今までたことがありません。

 ダヴィド神父は滞在期間をのばして、付近の村人の協力を得て、4月1日、ついに生きたパンダ一頭を捕獲してしげしげと観察しました。これはまさしく動物学会では知られていない新種だ、と感じた神父は地主から毛皮を譲り受け、パリに戻って専門家の鑑定を受けたところ、専門家もびっくり・・

 
イメージ 3 いったんこの新種発見のニュースが広がるとパンダを捕まえようというので、アメリカやヨーロッパから物好きなハンターがたくさんやってきました。パンダの数は少ないのでなかなか掴まりませんでしたが、少なくとも数頭は射殺されたようです。いま野生のパンダがどのくらい居るかは判りませんが、中国当局はこれを保護動物にに指定し、パンダは四川省のワンラン地区に手厚く保護されるようになりました。


 ちなみに、その後の調査で、パンダは少なくとも60万年前から今のような姿で生息していた動物であることが判明しています。パンダ発見の糸口になった3月11日はパンダの記念日と言っても差支えないでしょう。

                               
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(51)謙信の塩の道

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     〇  謙信の塩の道  3月13日

 今日は上杉謙信の命日です。(1578年(天正6年)3月13日没)
 謙信は敵の武田信玄に塩を送ったという故事で有名ですね。

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                                           (信玄と謙信・川中島の戦い)


イメージ 5 もともと山梨は山に囲まれていて海とは縁が無く、塩は取れそうもありませんが、実際は甲府盆地はかって塩水湖だったそうです。それが隆起して盆地になったので山梨県に松島とか塩山だとかいう地名が残っているのがその表れだという説もあります。同県の南多摩郡にはわずかながら岩塩が出たという記録もあるそうです。

 しかし当時の信玄としては甲斐にも塩が取れるという事を知るはずもなく、冬の保存食である漬物や味噌を作るのに必要な塩が無くて、ほんとに塩には困っていました。その上、駿河の今川氏や相模の北条氏が信玄を恐れて太平洋岸の塩を信玄の領地である甲斐の国に送ることを止めて兵糧攻めにしました。。


イメージ 3 甲斐で塩が不足して苦しんでいることを知った謙信が「武士道に反する」として、日本海産の塩を甲斐に送ることにしました。三千俵の塩は糸魚川から大町、松本を経由してはるばると甲府に到着、1569年(永禄12年)の冬のことでした。

 塩はまず「市神神社」に供えられたのち、住民に売り出されたので甲府の人々はこれでやっと一安心することが出来ました。


  いつか、登山のついでに立ち寄った松本市の商店街の真ん中に「塩の道」の石碑が残っていました。もともと越後の糸魚川から長野の松本、塩尻までの千国街道は日本海の塩を雪深い内陸部に送る運搬路の一つで「塩の道」と呼ばれていました。謙信は塩尻から更に先の甲斐の国まで塩を運搬させたのですね。

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 * 甲斐の国は塩を断たれて苦しみましたが、今度は逆に塩の輸入で塩余りになって苦しんだ、というインドの話です。


     〇 「ガンジーの塩の行進」

イメージ 6 塩は海から生まれたといわれる人間の生命活動には欠かせない物質ですが、この塩についてインドのガンジーの逸話が残っています
「マハトマ・ガンジー」はインドのカチュアル地方のヒンズー教徒の家に生まれ、ロンドンで勉学に励んだのちインドの白人支配に抵抗を続けました。その抵抗運動の中でも特に特筆すべきは塩を巡っての抵抗でした。

 もともとインドは周囲を海岸線で囲まれているために製塩業が盛んでしたが、当時インドを植民地としていたイギリスは、本国の製塩事業を保護するために、インドに本国産の塩をインドに輸出し始めました。そこでイギリス製の塩のダンピング政策のためにインドの製塩事業は完全に衰退し、イギリス資本は塩の価格安定のために市場を統制しました。

  その上、インドでは塩の消費に3%の税金がかけていたので、ただでさえ貧しいインド国民はこうした政策には強い不満を抱いていました。 その時、ガンジーはこの塩の政策に対して敢然として戦いを宣言しました。

 1930年3月12日、彼はインド提督のアーウィンに向かって塩税法に対して非暴力的、不服従運動を展開することを通告し、インドの若者たちに「ダンジイの海岸に行け!そこで潮風に身を浄め、塩を作れ!」と命じました。若者たちはアーメダパットからダンジイまで200キロに近い「塩の行進」を行ったのです

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 そしてガンジー自身もダンジイ海岸で原始的方法による小規模の製塩を行いました。これが契機となってこの運動は全国に広がりましたが、これらのデモ隊はイギリスの軍隊によって完全に制圧されてしまいました。然しガンジーの作った塩は宝石のように扱われ、彼自身の手になる23グラムの塩は525ルピーという値段で落札されたそうです。

 *「ガンジー」は1869年10月2日、インドのグジャラッド国に生まれました。インド独立のため対英非協力運動を非暴力主義の立場で始めた指導者でしたが、のちに暗殺されました。

 ・・博愛を実践するためには最も大きな勇気が必要である。

 我々は真理の道は狭く、かつ真っすぐなのを知った。博愛の道もまた同じである。この細道を歩むには,剣の刃渡りのような釣り合いを採らねばならぬ真理と博愛の道を進むには、さらに大きな注意が必要で、ごくわずかな不注意があっても、ころぶ。ただ不断の精進によってのみ、これらを自らのうちに実現し得るのである。 ・・(ガンジー聖書)

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(52)若狭の井戸

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    (52) 「若狭の井戸」  3月13日

 昨日は3月13日、奈良では東大寺の二月堂「お水取り」が行われる日です。この行事は今年で1261回目を迎える年中行事で、その間毎年一度も途絶えるることなく続いているそうです。二月堂には「若狭の井戸」という井戸があり、ここから水を汲むので「お水取り」と呼ばれています。この若狭の井戸とはどんないわれがあるのでしょうか。
 
  
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                                                    (二月堂のお水取り)

 昔話では・・
 ・・「昔、実忠和尚が「神名帳」に書かれた全国の一万七千余りの神様の名を読み上げ、参集を求めました。神々はすぐに集まってこられましたが、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて遅刻されたのです。
 それを他の神が口々に咎(とが)めました。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしましょう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られました。
すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出ました。和尚はこれをお供えの水とされました。これが今も二月堂下にある若狭井戸だそうです。」・・

 つまり伝説では、この井戸の水は遠く若狭の国(福井県)から送られてくるのだそうで、若狭と奈良とは長距離の地下水道でつながっているのでしょうか、それを実証するかのように若狭国の小浜では3月2日に「お水送り」という行事が行われています。若狭には本物の「若狭の井戸」があり、ここから水送りすると最終的には秘密の地下水道を通って10日間かけて奈良の方の「若狭の井戸」に流れ込む、というわけなんですね。

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                                          (3月2日の若狭のお水送り)

 ちょっと眉唾ものですが、なにしろ伝説ですから。。
 でも、二月堂の「お水汲み」を境にして、関西では急に春めいて来るというのは本当らしいですね。


   〇 「アインシュタイン」  3月14日


イメージ 3 1879年の今日、3月14日ににドイツのウルムで「アインシュタイン」が生まれています。彼は有名な相対性理論によって世界の物理学を変革した最高の物理学者でした。1921年ノーベル賞受賞。熱心な平和主義者でした。

 彼の頭の大きいことは有名で、来日したときも帽子のお代わりを持ってきました。それは日本ではそんな大きな帽子を買う事が出来ないからでした。
 
    !&!?*?#?%???~~・・

  或る人が彼の妻に「相対性理論」は判りますか?と尋ねたら「相対性理論」は判りませんが、アインシュタインの事は良くわかっています」と答えそうです。

   ・・我々をして現在あらしめているのは伝統の強い影響力です。然し我々の自意識や知性が成長するにつれて、我々は伝統を制御し、それに対して批判的な態度をとり始めねばなりません。伝統の中で何が我々の運命と尊厳について有益であるかを知ることに努めるべきです・・

 
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                   ~ 0+00=000・・? @@/


(53)弁当の始まり

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      「カエサル(シーザー)の死」   3月15日

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  紀元前44年、ローマの独裁者カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)が元老院で殺されました。政治家であり軍人でもある独裁者でしたが、ガリアやエジプトと戦いこれを征服しています。また、文筆にも優れ、閏年を取り入れたいわゆる「ユリウス暦」を制定しています。

  〇賽は投げられた。
 カエサルがルビコン川を渡った時の決意の言葉。ガリア平定後、元老院の禁止を無視してルビコン川を渡河し、ローマを占領しました。

  〇来た,見た、勝った。
黒海沿岸の覇者「ファナケス二世」を征服したとき、その激戦の模様と敏速な勝利をローマの友人「マティゥス」に送った手紙の一節。


  〇我が子よ、お前もか。
  元老院で殺されるとき暗殺者の中に、我が子と呼んで愛していた「ブルトゥス」を見た時の絶望の言葉。


   〇 「弁当の始まり」  3月15日

イメージ 2 弁当と言えば、つい戦時中の「日の丸弁当」を思い出します。ま毎月八日の「大詔奉戴日」などでは戦地の兵隊さんのご苦労を想い、小中学生の弁当は梅干し一つの「日の丸弁当」でした。アルミの弁当箱の蓋は梅干しのクエン酸のためにガサガサになって穴が開いたりして。。

 いつか台湾を旅行したときにある店の看板に「便當」という文字があり、てっきり公衆便所かと思ったら、豈はからんや「弁当屋」さんでした。中国語では弁当とは「便利なもの」という意味だそうです。
昔の日本でも、弁当にはこの便當と言う文字を使っていたとか。。
  「火の車」とは中国語では「汽車」のことです。。

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                                                   (台湾の駅弁)


  今日はその弁当の話ですが、もともと弁当とは、「旅行者の数に応じて食事を用意する」という意味だそうですが、遠く桃山時代から旅行食として普及し始め今や日本人の行楽や旅行には欠かす事が出来ないものになりました。こうした伝統があるからこそ、鉄道開通と同時に駅弁が誕生し得たのでしょう。


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1598年(慶長3年)3月15日に秀吉は醍醐寺で盛大な花見の宴を開きました。

  この頃のこうした行楽にはもう「弁当」という食事の形式が始まっています。その原型は懐石料理ですが、秀吉の弁当箱は金箔を散らした豪華なもので、いわゆる「幕ノ内」は携帯用懐石料理としてこの花見の宴に用意されていました。


 秀吉の醍醐の花見は、いわゆる太閤さんとしての栄華の終点でもあり、この後一年余りで秀吉はその波乱の一生を終えています。

(54)日本初の太平洋航路

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    (54) 「日本最初の太平洋航路」   3月16日

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                    (日本最初の蒸気船・佐賀藩の凌風丸)

 1600年3月16日「リーフデ号」という一隻のオランダ船が豊後の国に漂着しました。この船はもともと「J/マーフ」に率いられた五隻の船団のなかの一隻でしたが、途中で僚船を見失い流れ流れて日本に辿り着いたのです。

 その時、船長以下乗組員は家康に会って歓待を受け、便船を待って東南アジアに戻りましたが、航海長の「ウイリアム・アダムス」と航海士の「ヤン・ヨーステン」は日本にとどまりました。ヨーステンは江戸城下に土地を貰い、彼の日本名が「耶楊子(やようす)」だったので、その名が今の東京駅・「八重洲口」になって残って居ます。

 一方のアダムス」は伊豆の伊東で洋式船2隻を建造しました。一隻は8万キロ、もう一隻は12万キロでしたから外洋航海に十分耐えられる性能でした。さてこの船を何に使ったらいいか、思案している内にルソンからメキシコに向かって航行中の「サン・フランシスコ号」が上総の国(千葉県)の岸和田村に漂着しました。この難破で死者50名が出て、乗組員370名ほどが浮遊物につかまったりして助かっています。

イメージ 6 その船員たちを手厚く看護したのが機縁で、駿府城の家康に面会を許されたスペイン領フィリッピンの臨時総督「ドン・ロドリゴ」から、ぜひメキシコにおいで下さい、と言うことになりました。そこで家康は文字通りに渡りに船とばかりに、その12万キロの船を「サン・ブェナベンツーラ号」と名付け、京都の商人田中勝介らが同乗して太平洋を渡ることになりました。
 
 船を操船したのはサンフランシスコ号生き残りの乗組員たち80名、日本最初の外航船「サン・ブエナベンツー号」は、かくして無事メキシコのアカプルコに着きました。そして船体はメキシコ政府が買い上げ、日本からの渡航者たちはメキシコからの答礼大使と共に別の船で日本に帰国したのでした。


     ↑(家康像)


  〇 火山の爆発  「3月17日」

 最近はよく火山が爆発しますね。阿蘇、桜島、雲仙普賢岳、新燃岳、御嶽山など毎年のように噴火しています。

イメージ 2 その中で20世紀最大の噴火は1902年のフランス領西インド諸島の「プレー山」の噴火で3万人が亡くなったと言われています。いつか佐賀県の吉野ヶ里近くで、約9万年前の阿蘇山の大噴火による火砕流で焼けた巨木が地下から発見されました。今でも阿蘇はよく爆発していますね。

 インドネシアはクラカトア火山の爆発など、噴火活動の激しいところですが、1963年3月17日のバリ島の「アグン火山」の爆発はひときわすさまじいものでした。この爆破でバリ島の農地の三分の一が溶岩や火山灰の下に埋もれてしまいました。そして8万5千人の人々が家を失い1,600人が亡くなりました。この噴火の不気味な予兆は1月から始まっていたのですが、この日の噴火が決定的なものになりました。

  ↑プレー山の大爆発
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 1960年代は大きな噴火活動が世界各地で引き続いて起こった時代です。
バリ島の噴火の2年前、1961年9月には南大西洋の孤島「トリスタン・ダ・クーニア島」でも爆発があり、住民数百人が家を失っています。


   イメージ 4                                                                         ↑ (阿蘇・中岳の火口)

 ←9万年前の阿蘇の火砕流で埋もれた大木

 また1965年9月にはフイリッピンのマニラ南方50キロの所にある「タール火山」が爆発して、その溶岩が火山湖に流れ込み大規模な水蒸気爆発を起こしました。火山灰を交えた水蒸気は約20キロの高さまで立ち上り、巨大なキノコ雲となってこの地方の視界を完全にさえぎってしまいました。


 このタール火山の噴火は垂直方向への爆発ではなく、火山の横の山ひだから水平方向に爆発したので、火山弾はほとんど横なぐりに猛スピードで飛びまわり、地上の建物や樹木はまるで斧で断ち切られたような有様になってしまいました。このタール火山は、1911年にも爆発したことがあり、この時は1300人が死にましたが、65年の爆発の死者は150人で済みました。

 1968年になると、コスタリカのアレナル火山が噴火、こちらは活火山でしょっちゅう小爆発を繰り返していましたが、この年の8月の爆発は大きく、厚さ10mほどの溶岩流が山麓を舐め尽くしてしまいました。

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 さて最初のバリ島のアグン火山ですが、この噴火で舞い上がった火山灰は成層圏に入ってその後数週間にわたって北半球の人々は異様な美しい夕やけを見ることが出来たのです。

(55)ディーゼルの悲劇

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     (55)  「ディーゼルの悲劇」   3月18日

 大型自動車のバスやトラックはディーゼルエンジンを使っているので、信号などでそのあとにつくと、悪臭と黒煙に悩まされたものですが、最近は排ガス規制でだいぶ改善されました。そのディーゼルエンジはいつ頃できたのでしょうか。

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           (最初の佐賀市営バス) 車掌さんとタイヤの泥除けが懐かしい


イメージ 2 ディーゼルエンジンの発明者である「ルドルフ・デイーゼル」は、1858年 3月18日 にフランスのパリで生まれました。1878年、彼はミュンヘン工業大学の学生でしたが、内部機関の講義を聞いている時、担当の教授が蒸気機関の効率が極めて悪いことに触れ、将来はより効率の良い内燃機関を作るべきだと、学生たちを励ましました。若きディーゼルはその言葉を聞いたとたんに、一種の霊感に打たれノートの欄外に「これだ!」と書き記しましたた。

 ディーゼルが着目したのは、シリンダー内部で爆発時に発生する熱をより多くの動力に使い、それでシリンダー内部の温度を一定に保つ事でした。そして14年間の研究の結果、彼は最初のモデルを完成させました。


 ディーゼルエンジンはガソリンでなく安い重油で動くし、特別な点火装置も要りません。それに石油エンジンの熱効率が28%しかないのにディーゼルでは35%もあります。然し重量が大きすぎるのと、その大きな騒音が欠点でした。人々は多くの利点よりも欠点の方に神経質で、せっかくの新発明にもかかわらず、製品は一向に市場を開拓することができませんでした。

イメージ 3 最初の頃はクルップ社が資金を援助し、励ましてもいましたが、やがてディーゼルは自分で資金を調達せねばならなくなりました。その資金の調達能力には限界があり、金融面で完全に行き詰まったディーゼルは1913年、ドーバー海峡を渡る仏英連絡船の上から投身自殺して、55歳の人生を終わりました。

   (ディーゼルの切手)


   〇 「マーガリンの誕生」  3月18日

 ディーゼルエンジンは重油で走りますが、同じ油でも今度は人間が食べるバターの話です。

イメージ 4 今から150年ほど前の1870年にプロシャとフランスの間に戦争が起こり、フランスが敗北してドイツ帝国が誕生しました。いわゆる「普仏戦争」です。そしてフランスの「ナポレオン三世」は捕虜となり、プロシャ王「ウイルヘルム一世」がドイツ皇帝として即位しました。そしてパリが陥落するとそれに抵抗するフランスの市民たちが蜂起して、労働者階級を主体とする世界初の社会主義政権である「パリ・コミューン」が成立してヨーロッパに大きな衝撃を与えたのです。1871年の3月18日の事でした。

← 捕虜になったナポレオン三世とビスマルク(右)


イメージ 5 この戦争の間、バターの不足が深刻になりました。そこでナポレオン三世はバターの代用品の発明に多額の賞金を与えるという、いわば発明コンテストを主催することにしました。これに応募して入選したのが「H・メゲ・ムーリー」と言う人物の発明品でした。 →

  彼は牛の腎臓部の脂肪を低温で溶かし、それをミルクで練りあげてバターの代用品にしたのです。そして性質上、この中には「マルガリン酸」が含まれているだろう、という想定のもとに、1789年に彼は「マーガリン」と言う名前を付けました。これが人造バター「マーガリン」の始めです。


イメージ 6 この代用バターは栄養に富み、かつ天然バターよりもはるかに安い価格で販売されたので、戦後にかけても広く使われてフランスだけでなくヨーロッパ全体に行きわたりました。さらに第一次、第二次の世界大戦の結果一層深刻なバター不足を引きおこすようになり、そのたびにマーガリンの需要が増えて、その市場も大きく拡大して行きました。

 その後の研究開発の結果、最近では動物性脂肪ではなく植物油を使ったマーガリンも出来て、今やマーガリンは単に天然バターの代用品ではなくなり、独自の特色のある食品になっているのです。
 ところでムーリーはこれにマルガリン酸が含まれているだろうと考えて「マーガリン」と命名したのですが、実際にはマルガリン酸は含まれていなかったそうです。


                      ・・・・・


(56) 陶磁器の歴史

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     (56) 瀬戸物の起源   「3月19日」

 中国の「唐」の時代はその国土がとても広がって経済も発展するし、文化、芸術の動きも華やかに活発化していました。中国の陶磁器界もこの時代から本格的な発達を見せ、全国各地に窯が開かれるようになりましたが、中国陶磁器の黄金時代はなんといっても次の「宋」の時代でしょう。

 原土の選び方も、作られた作品も気品と風格があります。文様も見事だし、釉(うわぐすり)も優れていてこの宋の青磁、白磁は世界的絶品として今も珍重されています。そればかりでなく漢代の陶磁器が主として貴族階級向けの一種の工芸品だったのに対し、宋の時代になると陶磁器は一つの産業として確固たる基盤を築くようになり、その生産量は唐のころとは比べものにならない程に大きなものになりました。また、華北では窯の燃料に石炭を利用するのも始まって、手工業ながら大量生産への始動がはじまりました。


イメージ 3 生産量が増えたのにはいくつもの理由がありますが、その最大のものは輸出市場の拡大でしょう。
その一部は日本にも輸出されて珍重されました。そこで鎌倉の陶工である「加藤是正」・〈1249年慶長元年3月19日没〉が、宋に渡って同じようなものを作ってみようと考えました。たまたま僧・道元が宋に留学するというので随行して宋に渡り、中国でじっくりと陶磁器の製法を勉強してきました。
 
 彼が学んだ最大のものは「良い作品にはよい原土が必要である」と言うことでした。帰国後の是正はその良い原土を求めて各地を転々とし、ついに瀬戸で理想に近い土を見つけて、そこに窯を造りました。

 是正が残した作品は「古瀬戸」とか「春慶焼」と呼ばれていますが、なんといっても是正の最大の功績は瀬戸地方に陶磁器の技法をもたらした事でしょう。もともと谷あいの小さな一農村地帯であった瀬戸地方は、これによって一躍日本の陶磁器の主要生産地のひとつとなり、「瀬戸もの」と言う言葉は単にこの地方で造られた焼き物の固有名詞だけでなく、広く陶磁器全般をさす普通名詞になったのです。

  ↑柿の実の色の再現に苦心する柿右衛門(小学読本)


 ちなみに焼き物を「瀬戸もの」という呼び方は東日本のものであって西日本、中でも九州では普通名詞としての陶磁器は「唐津」と言う名前で呼ばれています。こちらの陶磁器は瀬戸ものとは違い、朝鮮半島を経由して唐津から入って来たからです。
 「唐津」の焼き物といえば有田焼や伊万里焼が有名ですが,有田で焼かれた磁器が伊万里から西欧諸国に輸出されたので江戸時代には「伊万里焼」と呼ばれていました。

イメージ 1
                                              (献上・古伊万里焼)
    
                                                                                 ↓    (李参平を祀る陶山神社)


イメージ 4

 もともと有田焼は17世紀の始めに、秀吉の朝鮮出兵の折りに、帰国した鍋島藩主に従って来日した陶工「李参平」らが有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、日本で初めて磁器を作ったのが始まりです。

 現在の有田・伊万里焼は「古伊万里」「柿右衛門」「鍋島」の3つの様式に大別されています。

「古伊万里」とは名前の通り、江戸時代に焼かれた古い伊万里焼のことを指します。
「柿右衛門」は余白を活かした色絵が特徴です。
「鍋島」は鍋島藩直営の御用窯で宮中や幕府に対する献上品として特別につくられた磁器です。

                                     
イメージ 2

                                                  (柿右衛門の壺)


 *いかにも春らしい晴れ渡った暖かい一日、お彼岸のお墓参りに行ってきました。
 いずれ行く道、丁寧に花を飾って拝んできました。境内には戦死した兄たちの戦没者記念碑もあります。
 帰りに立ち寄ったレストラン、いずれも満員でそのまま指をくわえて家に帰り、うどんの昼食で終わりました。

(57)ポテトチップスとフライドポテト

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    (57) 「ポテトチップスとフライドポテト

 最近はどこのスーパーに行っても「ポテトチップス」が山のように並べられていますが、今は手軽な間食として世界中で愛好されていますね。
 それにファーストフード店では料理のつけ合わせとして「フライドポテト」がよく出ます。どちらも似たようなジャガイモの加工品ですが、これらはいつ頃から始まったのでしょうか。

 もともと、ジャガイモと言う植物は南アメリカが原産で、これがヨーロッパに渡来したのは16世紀半ばのことでした。18世紀になると、その栽培は本格化し、人間の食用としてだけでなく、家畜の飼料としても広く利用されるようになり、飢餓や戦乱に際しては救急用の食料となりました。
 なお、日本にはヨーロッパ経由で1598年に輸入されたのが始まりで、北海道で大規模栽培を始めたのは牛島謹爾(大正15年3月20日)でした。


 〇 「ポテトチップス」の始まり

イメージ 2 ジャガイモを薄く輪切りにして油で揚げた「ポテトチップス」は全く偶然の小さな事故によって発明されたものです。

 1867年、アメリカのサラトガ温泉のホテルのレストランで、コックの一人が誤ってジャガイモの小片をフライ鍋の中に落としてしまいました。彼は慌ててそれを拾い上げて、なんとなく口に入れてみたらこれがなかなか美味しい!これはいけるかも・・と言うので今度は本格的にジャガイモの薄切りを作り、それをさっと揚げ、あれこれの料理に添えて出してみたらこれが大好評で、あっという間にこのレストランの名物料理になってしまいました。


イメージ 1
 サラトガ温泉は当時のアメリカの上流人士の行楽地として有名で、これらの紳士淑女たちがポテトチップスをバリバリかじるのがひとつの流行になったのです。そこでこの発祥の地にちなんで、これは「サラトガ・チップス」と呼ばれ、20世紀になっても庶民には縁の遠い上流人たちの珍味の食べ物となっていました。これが大量生産されて、大衆化し始めたのは1925年にアルバニーで専門工場が操業を始めたからでした。。

  ↑サラトガ・チップス

 〇 フレンチ・フライ(フライド・ポテト)の始まり

イメージ 3 ちなみに、イギリス英語では「チップス」はジャガイモを細い棒状に刻んで揚げたものを言い、アメリカ英語では、これの棒状のものを「フレンチ・フライ」と呼んで居ます。日本では「フライドポテト」と言って、ファーストフードの店ではハンバーガーやフライドチキンなどと一緒によく売られています。

 ところで、この棒状の「フレンチ・フライ」の始まりも、「ポテトチップス」と同じような偶然から始まっているのがなんとも不思議です。

 1837年8月26日、パリからサンジェルマンまでの鉄道が開通しました。パリから到着する一番列車を出迎えるべく、地元の楽団が音楽を奏でる準備をしたり、またコックは腕によりを掛けて祝賀会にそなえていました。当日のメニューは牛のヒレ肉のステーキとジャガイモの揚げ物でした。

 やがて列車の到着時間が近づきました。
コック長はその時間にピタリと合わせて大鍋に油をたぎらせて、ジャガイモを揚げ始めました。しかし世の中はうまくいかないものです、列車が大幅に延着となってしまったのです。黄金色に揚げられたじゃがいもはすっかり冷えてしまって、どうにもなりません。コック長が真っ青になったのも不思議ではありません。
 
イメージ 4でも、何とかしてこの急場をしのがねばなりません、窮余の一策で列車の到着と同時に、冷えてしまったジャガイモをもう一度油の中にほうりこみました、もうヤケクソだったのです。。 


    ところが二度目に揚げてみると、ジャガイモはふくれあがり、表面はカリカリに固いのに、内側はやわらかくなっていました。列車から降り立った「ルイ・フィリップ王」は、これこそ珍味であると喜んで、お代わりまで所望しました。

      これがフレンチ・フライ(フライドポテト)の始まりです。

           ・・・・・・

  *今日は曇りがちで、早春らしくやや肌寒い。
   明日は雨だそうだが、霜や雨に弱いハクモクレは大丈夫だろうか。
   最近は花の時期になっても、いつもサビだらけの花を見ることが多いのだが。。

           
          ひらくよりはや傷つけり木蓮は   堀葦 男
  

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(58) 「アル中の作家たち」

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    (58) 「アル中の作家たち」  3月21日

 古来、酒におぼれる作家は多いですが、中国では詩人の李白が有名です。
李白は杜甫とともに唐代を代表する詩人ですが、自由奔放な人柄で多くは浮浪のうちに生活しました。大酒家で杜甫から「李白(酒)一斗詩百篇」と言われるほどでしたが、船に乗っている時に酒に酔って、水面に映る月を捉えようとして船から落ちて溺死したと言われています
 こうなればもう「詩仙」というよりも「酒仙」のほうが似合いそうですね。

     
  イメージ 1 (酒を進めん)    李白

      君見ずや黄河の水 天上より来たり
      奔流して海に到って また還らざるを
        ・・・・
      羊を煮 牛をほうりて しばらく楽しみをなせ
      かならず須らく 一飲三百杯なるべし


イメージ 2 日本では「太宰治」は泥酔して戦争未亡人と心中自殺しましたし、太宰の親友だった「檀一雄」は酔っぱらった太宰から自殺を持ちかけられ一緒にガス自殺を図ったことがあります。「坂口安吾」は酒飲みと言うよりもヒロポン、アドルムで身を滅ぼしましたし、詩人の「中原中也」は酒癖が悪く、誰れ彼れ構わず喧嘩を吹っかけていました。

← 太宰治

イメージ 3 中でも一番の酒飲みは歌人の「若山牧水」でしょう。

 一日2升5合も飲んでいた頃もあるそうで、死ぬ3年前の九州一周の旅では殆ど毎日、朝3合、昼4合、夜一升の酒を飲み続け、歌の揮ごうを続けながらその間も大きな盃で飲み続けていました。勿論これでは体が持ちません。肝臓を悪くして手がぶるぶる震え筆が持てないほどで、震えを抑えるためにまた飲むという悪循環の中で、43歳で亡くなっています。
                                                      → 牧水と貴志子夫人

 死ぬ前に貴志子夫人に「もう一杯飲まして呉れ」と頼むと、夫人は朝一合、昼一合、夜一合の酒を飲ませたそうです。臨終のとき貴志子夫人は牧水の唇を酒で湿らせました。末期の水ではなく末期の酒だったのですね。

        白玉の歯にしみとほる秋の夜の
           酒はしづかに飲むべかりけり     牧水


イメージ 4


              ////        幾山川越えさりゆかばさびしさの
                    はてなむ国ぞけふも旅ゆく      牧水


 外国の作家や芸術家にも酒におぼれてアルコール中毒になるものが多かったですね。
 ロシアの作曲家の「ムソルグスキー」は1839年3月21日の生まれですが、ストレスに襲われるといつもアルコールに頼って居ました。特に1858年、ひそかに恋する女性から絶交を申し渡され、さらに1865年に母を亡くしてからは酒浸りになり、前後不覚に酔いつぶれるまで飲み続けました。

 そのおかげで1870年代には作曲の創作力も衰え、80年代になると音楽そのものへの関心も衰えてしまいました。ついには殆ど毎日がアルコール漬けの状態となってしまい、友人たちの助けで何とか救出されるという悲惨な日々を送っていました。彼が42歳の若さで死んだのも、専らアルコール中毒のせいだったのです。

イメージ 5 またアメリカの探偵作家「エドガー・アラン・ポー(1809-1849)」もアルコール中毒でした。彼は不安が原因でしばしばうつ状態になり酒と麻薬を常用していました。ヴァージニア大学の学生の頃に酒の味を覚え、その後ウエスト・ポイントの士官学校に入学を許可されましたが、飲酒が原因で退学処分になっています。。(ちなみに日本の探偵作家・「江戸川乱歩」の筆名は、このエドガー・アラン・ポーをもじってつけたものです)

 ポーは27歳の時に13歳のヴァージニアと結婚しましたが、生活苦のために黒猫を抱きしめて暖を取っていたと言われています。その後、妻ヴァージニアが結核で亡くなると半狂乱となり、その寂しさを紛らすためにさらに酒を飲むようになりました。

  ↑アラン・ポー

  そして詩人のサラ・ヘレン・ウイットマンに求婚しましたが、酒をやめたら結婚する言われてもやめず、ついに婚約は破棄されました。彼は1849年、したたかにウイスキーを飲んだあと、ボルチモア市長の選挙に出かけ、その投票場で倒れて狂い死にました。享年40歳。

 その他、アル中の有名人は多いですが、短編作家として知られる「O・ヘンリー」も不幸な体験からアルコールを常用し48歳で亡くなっています。

 イメージ 6フランスの詩人「ヴェルレーヌ」は放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かに歌った詩人ですが、アブサン酒をあおるように飲みつづけ、30代半ばで詩作活動が出来なくなりました。彼の人生の後半は、もつぱら象徴主義の講演に明け暮れ、しどろもどろに語りながら酒を飲んでいました。そして二人の売春婦の腕に抱かれて51歳の人生を閉じたのでした。                                 
                              ヴェルレーヌ→


  「巷に雨の降るごとく」  ポール・ヴェルレーヌ  <堀口大學訳>
  

         巷に雨の降るごとく
         わが心にも涙ふる。
         かくも心ににじみ入る
         この悲しみは何やらん?


            ・・・・・

   *夜来の雨も朝方には止んで、昼頃には明るい春の日差しになりました。
    イオン買い出し、最近は大型スーパーも客足が少ないような感じがします。
    テナントの撤退や店舗の交代も多く、売り場の空きも目立つようになりました。
    商店街のシャッター通りどころか、今や大資本同士の激戦状態ですね。

(59)人力車の発明

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   (59)人力車の発明

「ゲーテ」 1749-1832
イメージ 3 1832年の今日3月22日にドイツ最大の文学者・詩人である「ゲーテー」が亡くなっています。
彼は古典主義の代表的作家で主著に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」があります。若いころ「ゲーテ詩集」や「若きウェルテルの悩み」などをよく読んだものです。

 親友の許嫁「ロッテ」に対するひたむきな愛とその破局、青春の情感と陶酔、不安と絶望にあふれた抒情的な小説で、晩年のゲーテは自ら「生涯に、このウエェテルが自分のために書かれている、と感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と書いています。


 ○ゲーテは典型的な躁鬱型の人間で、約2年間のそう状態の時に次々に優れた作品を発表し、逆にそれに続く7年間は乾燥した沈鬱期がやってきて全く創作しませんでした。 このような周期性は恋愛にも表れ、一度恋心が燃え上がると短期間に同時に数人に傾倒し、その恋愛体験が優れた文学作品を生んでいます。彼の生涯に登場した恋人は14歳のグレートヘンから始まって74歳の時に恋した19歳の少女まで実に12人にも及んでいます。

イメージ 4 *「人は多くを願うが、彼に必要なものはごくわずかである。人生は短く、人間の運命には限りがあるから。」  
*「人間は地上で楽しむためには僅かの土があればいい。地下で休むためにはさらに僅かの土くれがあればよい」 ・・ゲーテ

  ↑ ゲーテの切手

 
  〇人力車の発明  「3月22日」


 最近は復古調で、各地の観光地でよく人力車を見かけます。京都の嵐山付近は特に多いですね。貸衣装で舞妓姿に変身して人力車に乗ったりします。

 現在の日本では人力車はほとんど姿を消しましたが、昭和始めしらんが子供の頃は、まだ乗り物と言えば人力車が主流でした。
 駅には客待ちの人力車がずらりと並んでいましたし、医者などのお金持ちの家には、お抱えの人力車と車夫が住み込みで住んでいました。シランも何度か母と一緒に乗ったことがありますが、乗ってみると案外に高くて、車夫がカジを持ち上げると、後ろにひっくり返るようでちょっと怖かったです。

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                                                         (1897年・人力車)


 この人力車を発明したのは、福岡の「和泉要助」と言う人でした。和泉は維新後東京の料亭の手伝いをしていましたが、西洋人が馬車に乗っているのを見て、馬の代わりに人間が引く乗り物は出来ないものか、と考えました。最初の試作品は明治2年に出来ましたが、いざ走らせてみるとひっくりかえったり安定感がなかったりして、なかなか思うようには動きません。その後1年ばかり実験を繰り返し、ようやく完成、太政に使用願を出し、さらに東京府に営業願を出しました。いずれの官庁もこの発明品には好意的で1870年(明治3年)3月22日、和泉は営業許可を得て、初めて人力車が東京市内を走りました。

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 その営業に当たっては

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①通行人に迷惑をかけないこと。
②料金は出来るだけ安くすること。
③高官の車並びに巡邏兵隊などに行き当たった場合は、下車するかまたは脇道によけること。
④火事があった時は近くを走らないこと。

          という4条件を出しました。

   ↑ 明治の人力車(トヨタ博物館)

 人力車は驚くべき速さで日本のみならず中国や東南アジアにも輸出され、その生産のピッチをあげるために明治6年には大蔵省から2千円の操業補助を受けて会社組織にしました。自慢話が好きだった福沢諭吉は、人力車のヒンになったのは自分がアメリカから持ち帰った乳母車である、と言っていたそうですが、これはちょっと眉ツバ物の話のようです。

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                                         (昭和11年、上海の洋車・ヤンチョ)


             ・・・・・

 *いつもの内科検診へ、血圧124-60で異常なし。
   7週間分の降圧剤を貰って来た。
   今のところ酒もうまいし、花粉症もなく、快調。
   そのうち河川敷のゴルフにでも出かけて見ようかな?



(60)一番古い小学校

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    〇 「スタンダール」

イメージ 1 スタンダール(1783-1842)はフランスの作家で、3月23日パリで死んでいます。
強烈な個性と鋭い眼をもって、リアリズムの最高作品 「赤と黒」 「パルムの僧院」 を生みました
戦後、どちらも銀幕の貴公子と言われた「ジェラール・フィリップ」主演のフランス映画を見ましたが、なかなか面白かったです。

 イメージ 2スタンダールは「恋愛論」で有名ですが、彼自身は女性の愛し方を知りませんでした。同僚から女性のくどき方を教わってノートに取り、その通りにしたが失敗したので、女に侮辱されたと思いこんでいました。

  また彼自身が認めている通り、彼は大ウソつきでした。履歴書には平然と大ウソを書き、手紙のサインには200以上もの偽名を使っていました。自ら書いた墓碑銘には「ミラノ人」とありますが、彼は紛れもなくフランス人だったのです。
   ・・・・
 
    
   (60) 一番古い小学校は?    「3月23日」


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明治初年の教室の扁額・勧興小学

 シランが母校の勧興小学校に入学したのは昭和5年ですから、もう87年も前のことになります。母校はもともと佐賀藩校「弘道館」の幼稚舎である「蒙養舎」が前身で、明治7年7月に開校されましが、もともと士族の学校なので校内でも始めは「小路者・こうじもの、旧士族の子弟」と「町家者・まちやもの」とを区別して別々に勉学していました。まだまだ武家社会の士農工商の身分制度の跡が消えていなかったのです。

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 その為、学風も弘道館のあとをうけて頗る厳重で、いたずらをしたら先生から鞭で打たれ、小学校内に拘置所まであったそうです。また生徒の方も乱暴で、学校の退け時に人馬が通ったりすると、生徒たちが一斉に喚声を上げて小石を投げたりするので、馬は驚き荒れ狂って人間もろとも佐賀城の濠の中に転げ落ちるという始末、生徒はその有様を見て手を叩いて喜ぶという悪態ぶりでした。遂には生徒の退校時には、いたずらを恐れて佐賀城の堀端を通る者が居なくなったほどだったと言います。


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                                               (登下校時には奉安殿に最敬礼・戦前                      

 その武家学校と言われた母校も、明治15年には「公立勧興小学校」となり、明治32年には「士族学校」の習慣を改め「勧興尋常小学校」と改称されています。


   〇 「一番古い小学校はどこでしょうか」

 ところで江戸時代の寺子屋や藩校は別として、日本でいちばん古い近代的な小学校はどこでしょうか。
明治政府が各府県庁に小学校設置令を布告したのが1869年(明治2年)3月23日で、それを受けて初めて近代的小学校を開校したのは同年5月に開校した京都の「上京第二七番小学校」でした。

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                                                    (松本・開智学校の教室)

 何しろ京都は千年の歴史を誇る文化都市なので京都府少参事「上村正直」は全国に先んじて小学校教育の普及に努めました。そしてこの年に京都市内に作った小学校は合計64校にのぼり、それぞれの小学校はその学区ごとに小学校会社を作り、京都府が資金援助をして維持されました。

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 その後、明治5年(1872年)の「学制発布」により、翌年の明治6年には多くの近代的小学校が発足しています。松本の「開智学校」は1873年(明治6年)5月6日に創立されましたが、今も当時の小学校の面影を残していて、古い机や黒板、綱引き用の太い綱など、懐かしい道具が展示されています。


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                         (15年ほど前・北アルプス登山の帰りに立ち寄りました)

               ・・・・・

 

(61)漫画雑誌の始まり

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    (61) 漫画雑誌の始まり   「3月24日」 

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 昔は漫画と言えば少年,少女倶楽部などの雑誌に、のらくろ二等兵とか、冒険ダン吉などのシリーズものが少しばかり残っているだけでしたが、今や漫画雑誌は大繁盛で、若者の多くは歴史の知識も漫画から教えられ、覚えるほどですね。月間の漫画雑誌もたくさん発行されています。

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 そんな漫画雑誌はいつごろから始まったのでしょうか。




 それは1877年(明治10年)3月24日に創刊された「団々珍聞・だんだんちんぶん」が最初です。この漫画雑誌の発行者は、退職官吏の「野村文夫」でした。発想の根本はおそらくイギリスの風刺漫画雑誌「パンチ」あたりだろうと思われますが、彼は当時の人気画家を集め、銅版画を入れて世相風俗はもとより政界の雑報を面白半分に書き立てました。


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 その発刊の辞は。。

「世のなかのよろずの物はみな〇き、地球と天球のもとに成り立つぞかし。月日も〇く星〇く・・・当世はやりは〇顔のぽちゃぽちゃした〇容子(かたち)、み国の旗の赤玉は明治の御代のめでたさを高くあらわす日の〇の、その恩沢を一日も忘れぬために〇〇を名題にしたる〇なれば、嫌疑を避けるの〇ならず・・」

 つまり、その頃の出版物は統制が厳しく、それを逆手にして「団々・マルマル」としたのです。この週間誌は定価5銭で発売されましたが、なかなか評判が良くて「マルチン」の愛称で広く読まれ、これに刺激されて「風流珍聞」「珍笑新誌」「夢想奇聞」などの類似の雑誌が次々に発刊されました。この伝統はのちに「東京パック」誌に受け継がれ、近代日本の風刺漫画の流れの源泉になっています。


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(62)照明の歴史

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       (62) 照明の歴史   「3月25日」

  
  ♪ 蛍の光、窓の雪~~
 卒業式の季節ですが、昔の寺子屋などの照明はろうそくの行燈だけだったでしょうから、ずいぶん暗かったでしょうね。

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 最近はLEDの電球の登場で、照明器具も様変わりですね。家庭器具から信号機や自動車のランプまで・・節電のため、うちもそろそろ代えようかと思っていますが、とにかく昔の石油ランプや裸電球から、蛍光灯、さらにLEDへと、照明器具の発展変化はスゴイですね。
 ところで、日本における最初の電灯はいつのことでしょうか。

 明治11年3月25日に、東京虎の門の工部大学校でイギリスの「エーアトン」が二人の日本人学生とともにアーク灯を灯したのがその最初でした。このアーク灯の電源になったのは、グローボ電池で、まだ発電機などはなかったのです。

 このころの一般家庭での照明には、灯油のガスランプや軽油によるランプが使われていて、明治30年代になってもまだガス灯が一般的でした。ガス灯の初期には単にガスに火を灯してその青い光で照明にしていたのですが、30年代後半には田中正年博士の発明によるガス・マントルという物が普及し始め、照明は更に輝きを増してきました。

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 しかしマントル時代はわずか二、三年に過ぎず、あわただしく次の電灯の時代に入って行きました。明治36年ごろには、東京都心部ではもう電灯が使われるようになっていたのです。この明治30年代の照明の技術革新はすさまじく、せっかく道路を掘り起こしてガス灯用の配管を終えたと思ったのに、すぐに電灯の時代に代わってしまったのです。

イメージ 2 尤も、この照明技術の普及には地域差があって東京のような大都会を一歩外に出れば、一般家庭では電灯はもとよりガス灯もなく、専ら灯油ランプを使っていました。

  九州の山村などでは電気は昭和30年代になってもまだ引かれていない所があったほどでした。それまでの照明は、行燈かちょうちん、灯油を燃料にする石油ランプが主でした。

 
  ↑ 石油ランプ は容器の中の灯油に浸した木綿糸の紐を通して油が吸い上げられ、口金のところで点灯されます。このランプのホヤ(ガラス部分)を磨くのは各家庭の子供の仕事になっていました。
 この石油ランプは江戸末期に伝来し、明治時代には国産ランプが出回って明治20年頃には全国に普及しましたが、 明治30年頃からはガス灯や電灯の設置により次第に使われなくなりました。
 
イメージ 3紫蘭が子供のころは、家には座敷にただ一つ白熱電灯があるだけで、井戸端には提灯、台所には灯油ランプが置いてありました。電気代はメーターではなくまだ定額制でした。薄暗いはだか電球が照らす障子のサンが不気味に思えて、母のいない夜などは、寝ていてもとても怖い思いがしました。

 戦時中は家庭の灯りが漏れて敵機の空襲の目標になるのを恐れて、電気の笠から暗幕を下げたり、真下だけしか照らさない青い色の防空電球が出回ったりしました。

 照明の歴史一つとっても、一世紀の間にはいろんな変化があったものだと、つくづく思われます。
 
 ↑ 防空用電球


(63)エンゲル係数

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   〇 楽聖「ベートーベン」  3月26日

  1827年の今日、3月26日ベートーベン がウイーンで亡くなっています。
アル中の父に代わって仕事を掛け持ちして家計を支え、幼い兄弟たちの世話をするという苦しい境遇の上に、難聴と言う苦境にも屈せず、数多くの不朽の名曲を残したした天才作曲家でした。月光の曲や運命、第九など、九つの交響楽が有名ですね。

    (ピアノソナタ「月光」第一楽章)


イメージ 1 ベートーベンは21歳の時にウイーンで生活を始めましたが、その時の彼のノートには「舞踊教師」とか「かつら直し」と言うメモが残されています。彼にはもじゃもじゃ頭で粗野なイメージがありますが、きちんとかつらをかぶって社交ダンスを習おうとした事もあったのですね。潔癖症で手を何度も洗ったり、コーヒーは必ず自分で60粒を数えて淹れていたそうです。

 でも、入浴するときは風呂桶(バス)をわざわざピアノの横まで引っ張ってきたりしたので、アパートから何度も追い出されました。30歳の頃には耳の病気を苦に、遺書を残して自殺しようとした事もありましたが、無類の酒好きだったので肝硬変のため、3月26日ウィーンにて死亡しました。


             
                  「もしも美しいまつ毛の下に涙が膨らみたまるならば、
                     それがあふれ出ないように強い勇気を持ってこらえよ。」

                                                                                               ベートーベン


    (63) 「エンゲル係数」  3月26日

 年金生活の我が家は生活費の中で食費の割合が多いので、最近のように食料品の高騰には悩まされます。いわゆるエンゲル係数が高いということです。ところでこのエンゲル係数を考え出したのは誰でしょうか。勿論エンゲルですよね。(^^*)

 ドイツの統計学者の「E・エンゲル」は1821年3月26日にドレスデンで生まれました。
始めはフライブルグの鉱業専門学校で冶金学を学び,鉱業の専門家としてヨーロッパ各地に調査旅行に出かけていましたが、パリで「ル・プレー」と言う不思議な人物に出会いました。ル・プレーは鉱山技師でしたが、同時に労働者家計の研究という風変わりな研究に従事していたのです。

イメージ 2 さらにエンゲルはプラッセルで「L・ケトレー」にも会っています。ケトレーも統計学者でこの二人の人物を知ったことでエンゲルの関心は、もともとの専門の冶金学からすっかり離れてしまったのです。

  彼は専門を統計学に鞍替えし、29歳の時にザクセンの王立統計局長に就任し、のちにプロイセンに移りましたが、60才になるまでずっと政府の統計局に勤務し続けました。

 しかし彼は単に統計数字をいぢくり回すただの官僚では有りませんでした。具体的な実態調査をもとに家計と国民経済を研究し、有名なエンゲル係数の法則を確立したのです。

  「エンゲルの法則」は家計の中で食費が占める割合が福祉を量る尺度になる、と言うのがその主旨ですが、一言で言えばエンゲル係数が低い社会ほど理想的な社会だ、と言うわけです。

  しばしば、「エンゲル係数は貧乏係数だ」と誤解されていますが、エンゲル係数が如何に低いかを福祉度にしようと言うのが「人間福祉測定学」なのです。


           ・・・・
  * 雲一つない快晴ぶりに洗濯物を乾したら、スーーパー買い出しの帰りには、真っ黒い雲が広がってきました。 家に帰るなり慌てて二階に駆けあがり、また洗濯物の取り込み。。
 少しは運動の足しになったかも。。



(64)侠客の始め

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    〇 「芭蕉」  3月27日

イメージ 1 元禄二年、3月27日に俳諧の巨匠「芭蕉」は奥の細道の旅に出ました。
芭蕉はもと伊賀の武士の出で、一生を旅で過ごし、俳諧と言う日本独自の美の世界を開きました。

      一つ家に遊女も寝たり萩と月
      故郷(ふるさと)は涙に炭の煮ゆる音
      何でこの師走の街に行く烏(からす)
      野ざらしを心に風のしむ身かな
      旅に病んで夢は枯野をかけめぐる



    (64) 「侠客の始まり」  3月27日

 「侠客」と言うと、強きをくじき弱きを助ける、任侠を業とした渡世人の事ですが、侠客は17世紀の始めから出現しています。

イメージ 2 政治の中心が江戸に移って以来、この侠客は「旗本奴」「町奴」の二つのグループに分かれて勢力を競いあいました。すなわち無為・無禄の状態に置かれた旗本の次男以下からなる旗本奴と、その旗本奴に反発する庶民による町奴と言われる侠客でした。「旗本奴」は小身の旗本が集まったもので、「白柄組」と呼ばれていました。これは刀の柄を白糸で巻いた刀を差して、シンボルマークにして市中を横行していました。もちろん、その行動は幕府公認ではなく、エリートの落ちこぼれの無頼派とでも言うべきでしょう。 水野十郎左衛門はその代表格でした。

 これに対して「町奴」の方は浪人や人入れ稼業の町人の集団で、その代表格が幡随院長兵衛でした。出身や背景は違いますが、旗本奴と町奴はことあるごとにいわゆるる「男伊達」を競いあいました。

  「男を立てる」のがその身上なので、つまらぬ事で喧嘩のタネになり、双方はしょっちゅう張り合っていました。これは要するに幕府の威令が行き渡らないから、こういう無法者集団が横行したのです。それだけ役人たちが無法者を取り締まるだけの力を持っていないばかりか、彼らと結託して不正行為に加担したものですから、やがてやくざを野放しにする結果になってしまったのです。


 イメージ 3ところで1664年(寛文4年)3月23日に、この旗本奴の白柄組の頭領「水野十郎左衛門」は町奴の親分「幡随院長兵衛」を謀殺しています。→ 「長兵衛」は佐賀・唐津藩の武士・塚本伊織の子で本名「塚本伊太郎」と言いますが、父の死後江戸に出て「口入れ屋」を営んで、後世「侠客の元祖」と言われている人物です。

 この日、若い者たちの喧嘩の手打ちを口実に、水野十郎左衛門に呼び出されました。その酒席で着物を汚されて入浴を進められ、風呂場で裸になっているところを斬り殺されました。呼び出された長兵衛は「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」と啖呵を切って引き留める子分たちを振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込んだそうです。。

 一方の「水野十郎左衛門」は徳川譜代の家臣で,知行三千石の旗本でしたが、病気と偽って出仕を怠り、異様な風体で徒党を組んで盛り場を横行しては喧嘩、暴行の限りを尽くしていました。そして芝居見物中の喧嘩で長兵衛が十郎左衛門配下の旗本奴を打ち負かしたのを恨みに思い、長兵衛に復讐したと言われています。

 幡随院長兵衛を殺したことは、長兵衛が浪人だったために不問になりましたが、かねての不行跡のかどで評定所に呼びだされた時に,髪も結わず袴もつけずに白衣で出頭したので,不敬の罪で同年(寛文4年)3月27日に切腹になり、家も断絶しました。


 先日、ふとテレビを見たら、なんとEテレで「極付幡随長兵衛と言う歌舞伎の中継をやっていました。長兵衛が風呂場で水野に殺される「湯殿の場」でしたが、なかなか楽しめました。学生時代に下校時に大阪の道頓堀でよく歌舞伎を見たものです。当時は浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の「道頓堀五座」や心斎橋には新歌舞伎座があって、歌舞伎や人形浄瑠璃、漫才や新喜劇、少女歌劇などが興行されてとても賑わっていました。

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                                            湯殿の場     (芝翫と菊五郎)


 もちろん、学生の身分なので、芝居見物はいつも頭のつかえそうな最上階の立見席ばかり、いわゆる天井桟敷と言う一番安いところで、舞台が遠くて役者の顔もよく見えません。でも、嵐雛助と言う女形がお気に入りで、あでやかな容姿とハスキーな声色が、思春期のシランにはなんとも言えず魅力でした。

 後年、同窓会で学友のKと無駄話をしていたら、当時の彼もこの雛助が大好きだったそうで、「じゃー、俺たちは雛助を相手の恋敵だったんだなぁ」と大笑いしたことがあります。。

        ・・・・


 *久しぶりに山麓の自然公園を散策、一周、2時間半。
  コブシやハクモクレンもサビついて見る影もなく、河津桜ももう青葉になっていました。
  ただし、思いがけず花桃の花が満開、花たちは季節たがわず花開くのに妙に感心。。


イメージ 5
 
                                                 ♪こぶし咲く北国の春~~

(65)

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    〇 ゴーリキー 「3月28日」

イメージ 1 1868年3月28日に、ロシアの作家「ゴーリキー」がロシアのニジニ・ノヴゴルドで生まれています。小学校を中退してから様々な職業を経て、社会主義リアリズムの創始者になりました。しらんも若いころ、世界文学全集で戯曲の「どん底」を読んだことがありますが、忘れてしまいました。

 ・・「私は月を好まない。月の中には何か不吉なものがあり、そして犬のように私も悲哀を痛々しく吠えてみたい、と言う欲望を呼び起こす。
月は自分の光で輝いているんではない。死んで居て、そこには生活が無いし、また生活はあり得ない、と言うことを知った時、私は大変うれしかった」・・

 ↑スターリンとゴーリキー


    〇楼蘭の発見  「3月28日」

 中国のタクラマカン砂漠を流れるタリム河は「ロブ・ノール湖」と言う湖に注いでいます。この湖はまさしく砂漠のオアシスで、湖のほとりには、昔「楼蘭」と言う王都があってシルクロードの要衝になっていました。ところが長い年月の間にタリム河の流れが変わり、いつの間にかこの楼蘭はロブ・ノール湖とともに地上からを消してしまいました。

イメージ 2
                                           (シルクロードの古跡・平山郁夫 画)
                                    

 この消滅したロブ・ノール湖を求めて探検旅行を試みたのがスエーデンの探検家「S・ヘディン」でした。彼は1900年3月28日にアルトミッシュ・プラークのオアシスを出発して、この日、古代の廃墟に行き当たりました。ここには三軒の住居跡があって、古代の貨幣や陶器の破片が見つかりました。この住居あとは実は楼蘭の一部だったのですが、ヘディンはそのことに気づかずそのまま「失われた湖」を求めて一路南下してしまったのです。もちろん、彼はこれらの遺跡や遺物は注意深く研究し記録していたのですが、「楼蘭」と言う大発見に気づかなかったのです。

 幸い、その途中で助手が現場にシャベルを置き忘れた事に気づいて戻る途中、より大きな廃墟を見つけてきました。しかし、砂漠の旅は厳しく、そのまま南下を続け、この廃墟の探検は再起を期すことにしました。そして、その翌年に同じルートで注意深く探検を続けてついに「楼蘭」を発見することが出来ました。この発見によってシルクロードのルートも確定できたし、砂漠の河の気まぐれな移動状態も明らかになりました。

イメージ 3
                                             (楼蘭の住居あと)


 不思議なことに、その後タリム河は再び元の進路に近いところを流れるようになり、「失われた湖・ロブ・ノール湖」も元の位置に戻ったということです。

               ・・・・・

(57)ポテトチップスとフライドポテト

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    (57) 「ポテトチップスとフライドポテト

 最近はどこのスーパーに行っても「ポテトチップス」が山のように並べられていますが、今は手軽な間食として世界中で愛好されていますね。
 それにファーストフード店では料理のつけ合わせとして「フライドポテト」がよく出ます。どちらも似たようなジャガイモの加工品ですが、これらはいつ頃から始まったのでしょうか。

 もともと、ジャガイモと言う植物は南アメリカが原産で、これがヨーロッパに渡来したのは16世紀半ばのことでした。18世紀になると、その栽培は本格化し、人間の食用としてだけでなく、家畜の飼料としても広く利用されるようになり、飢餓や戦乱に際しては救急用の食料となりました。
 なお、日本にはヨーロッパ経由で1598年に輸入されたのが始まりで、北海道で大規模栽培を始めたのは牛島謹爾(大正15年3月20日)でした。


 〇 「ポテトチップス」の始まり

イメージ 2 ジャガイモを薄く輪切りにして油で揚げた「ポテトチップス」は全く偶然の小さな事故によって発明されたものです。

 1867年、アメリカのサラトガ温泉のホテルのレストランで、コックの一人が誤ってジャガイモの小片をフライ鍋の中に落としてしまいました。彼は慌ててそれを拾い上げて、なんとなく口に入れてみたらこれがなかなか美味しい!これはいけるかも・・と言うので今度は本格的にジャガイモの薄切りを作り、それをさっと揚げ、あれこれの料理に添えて出してみたらこれが大好評で、あっという間にこのレストランの名物料理になってしまいました。


イメージ 1
 サラトガ温泉は当時のアメリカの上流人士の行楽地として有名で、これらの紳士淑女たちがポテトチップスをバリバリかじるのがひとつの流行になったのです。そこでこの発祥の地にちなんで、これは「サラトガ・チップス」と呼ばれ、20世紀になっても庶民には縁の遠い上流人たちの珍味の食べ物となっていました。これが大量生産されて、大衆化し始めたのは1925年にアルバニーで専門工場が操業を始めたからでした。。

  ↑サラトガ・チップス

 〇 フレンチ・フライ(フライド・ポテト)の始まり

イメージ 3 ちなみに、イギリス英語では「チップス」はジャガイモを細い棒状に刻んで揚げたものを言い、アメリカ英語では、これの棒状のものを「フレンチ・フライ」と呼んで居ます。日本では「フライドポテト」と言って、ファーストフードの店ではハンバーガーやフライドチキンなどと一緒によく売られています。

 ところで、この棒状の「フレンチ・フライ」の始まりも、「ポテトチップス」と同じような偶然から始まっているのがなんとも不思議です。

 1837年8月26日、パリからサンジェルマンまでの鉄道が開通しました。パリから到着する一番列車を出迎えるべく、地元の楽団が音楽を奏でる準備をしたり、またコックは腕によりを掛けて祝賀会にそなえていました。当日のメニューは牛のヒレ肉のステーキとジャガイモの揚げ物でした。

 やがて列車の到着時間が近づきました。
コック長はその時間にピタリと合わせて大鍋に油をたぎらせて、ジャガイモを揚げ始めました。しかし世の中はうまくいかないものです、列車が大幅に延着となってしまったのです。黄金色に揚げられたじゃがいもはすっかり冷えてしまって、どうにもなりません。コック長が真っ青になったのも不思議ではありません。
 
イメージ 4でも、何とかしてこの急場をしのがねばなりません、窮余の一策で列車の到着と同時に、冷えてしまったジャガイモをもう一度油の中にほうりこみました、もうヤケクソだったのです。。 


    ところが二度目に揚げてみると、ジャガイモはふくれあがり、表面はカリカリに固いのに、内側はやわらかくなっていました。列車から降り立った「ルイ・フィリップ王」は、これこそ珍味であると喜んで、お代わりまで所望しました。

      これがフレンチ・フライ(フライドポテト)の始まりです。

           ・・・・・・

  *今日は曇りがちで、早春らしくやや肌寒い。
   明日は雨だそうだが、霜や雨に弱いハクモクレは大丈夫だろうか。
   最近は花の時期になっても、いつもサビだらけの花を見ることが多いのだが。。

           
          ひらくよりはや傷つけり木蓮は   堀葦 男
  

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(58) 「アル中の作家たち」

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    (58) 「アル中の作家たち」  3月21日


           酒なくて何の己が桜かな

   ほんとに一杯の酒が美味しいですね。 毎日の晩酌が楽しみです。

        「月下独酌」     李白

      花間 一壷の酒
       獨酌 相親しむ無し
      杯を擧げて 明月をむかえ
      影に対して 三人を成す

 まことに美味しい酒ですが、酒も度を過ぎるといけません、酒におぼれて身を崩した有名人は多いです。 昔から、酒におぼれる作家は多いですが、中国では詩人の李白が有名です。

 李白杜甫とともに唐代を代表する詩人ですが、自由奔放な人柄で多くは浮浪のうちに生活しました。大酒家で杜甫から「李白(酒)一斗詩百篇」と言われるほどでしたが、船に乗っている時に酒に酔って、水面に映る月を捉えようとして船から落ちて溺死したと言われています
 こうなればもう「詩仙」というよりも「酒仙」のほうが似合いそうですね。

     
  イメージ 1 (酒を進めん)    李白

      君見ずや黄河の水 天上より来たり
      奔流して海に到って また還らざるを
        ・・・・
      羊を煮 牛をほうりて しばらく楽しみをなせ
      かならず須らく 一飲三百杯なるべし


イメージ 2 日本では「太宰治」は泥酔して戦争未亡人と心中自殺しましたし、太宰の親友だった「檀一雄」は酔っぱらった太宰から自殺を持ちかけられ一緒にガス自殺を図ったことがあります。「坂口安吾」は酒飲みと言うよりもヒロポン、アドルムで身を滅ぼしましたし、詩人の「中原中也」は酒癖が悪く、誰れ彼れ構わず喧嘩を吹っかけていました。

← 太宰治

イメージ 3 中でも一番の酒飲みは歌人の「若山牧水」でしょう。

 一日2升5合も飲んでいた頃もあるそうで、死ぬ3年前の九州一周の旅では殆ど毎日、朝3合、昼4合、夜一升の酒を飲み続け、歌の揮ごうを続けながらその間も大きな盃で飲み続けていました。勿論これでは体が持ちません。肝臓を悪くして手がぶるぶる震え筆が持てないほどで、震えを抑えるためにまた飲むという悪循環の中で、43歳で亡くなっています。
                                                      → 牧水と貴志子夫人

 死ぬ前に貴志子夫人に「もう一杯飲まして呉れ」と頼むと、夫人は朝一合、昼一合、夜一合の酒を飲ませたそうです。臨終のとき貴志子夫人は牧水の唇を酒で湿らせました。末期の水ではなく末期の酒だったのですね。

        白玉の歯にしみとほる秋の夜の
           酒はしづかに飲むべかりけり     牧水


イメージ 4

              ////        幾山川越えさりゆかばさびしさの
                    はてなむ国ぞけふも旅ゆく      牧水


 外国の作家や芸術家にも酒におぼれてアルコール中毒になるものが多かったですね。
 ロシアの作曲家の「ムソルグスキー」は1839年3月21日の生まれですが、ストレスに襲われるといつもアルコールに頼って居ました。特に1858年、ひそかに恋する女性から絶交を申し渡され、さらに1865年に母を亡くしてからは酒浸りになり、前後不覚に酔いつぶれるまで飲み続けました。

 そのおかげで1870年代には作曲の創作力も衰え、80年代になると音楽そのものへの関心も衰えてしまいました。ついには殆ど毎日がアルコール漬けの状態となってしまい、友人たちの助けで何とか救出されるという悲惨な日々を送っていました。彼が42歳の若さで死んだのも、専らアルコール中毒のせいだったのです。

イメージ 5 またアメリカの探偵作家「エドガー・アラン・ポー(1809-1849)」もアルコール中毒でした。彼は不安が原因でしばしばうつ状態になり酒と麻薬を常用していました。ヴァージニア大学の学生の頃に酒の味を覚え、その後ウエスト・ポイントの士官学校に入学を許可されましたが、飲酒が原因で退学処分になっています。。(ちなみに日本の探偵作家・「江戸川乱歩」の筆名は、このエドガー・アラン・ポーをもじってつけたものです)

 ポーは27歳の時に13歳のヴァージニアと結婚しましたが、生活苦のために黒猫を抱きしめて暖を取っていたと言われています。その後、妻ヴァージニアが結核で亡くなると半狂乱となり、その寂しさを紛らすためにさらに酒を飲むようになりました。

  ↑アラン・ポー

  そして詩人のサラ・ヘレン・ウイットマンに求婚しましたが、酒をやめたら結婚する言われてもやめず、ついに婚約は破棄されました。彼は1849年、したたかにウイスキーを飲んだあと、ボルチモア市長の選挙に出かけ、その投票場で倒れて狂い死にました。享年40歳。

 その他、アル中の有名人は多いですが、短編作家として知られる「O・ヘンリー」も不幸な体験からアルコールを常用し48歳で亡くなっています。

 イメージ 6フランスの詩人「ヴェルレーヌ」は放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かに歌った詩人ですが、アブサン酒をあおるように飲みつづけ、30代半ばで詩作活動が出来なくなりました。彼の人生の後半は、もつぱら象徴主義の講演に明け暮れ、しどろもどろに語りながら酒を飲んでいました。そして二人の売春婦の腕に抱かれて51歳の人生を閉じたのでした。                                 
                              ヴェルレーヌ→


  「巷に雨の降るごとく」  ポール・ヴェルレーヌ  <堀口大學訳>
  

         巷に雨の降るごとく
         わが心にも涙ふる。
         かくも心ににじみ入る
         この悲しみは何やらん?


            ・・・・・

   *夜来の雨も朝方には止んで、昼頃には明るい春の日差しになりました。
    イオン買い出し、最近は大型スーパーも客足が少ないような感じがします。
    テナントの撤退や店舗の交代も多く、売り場の空きも目立つようになりました。
    商店街のシャッター通りどころか、今や大資本同士の激戦状態ですね。

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