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(59)人力車の発明

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   (59)人力車の発明

「ゲーテ」 1749-1832
イメージ 3 1832年の今日3月22日にドイツ最大の文学者・詩人である「ゲーテー」が亡くなっています。
彼は古典主義の代表的作家で主著に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」があります。若いころ「ゲーテ詩集」や「若きウェルテルの悩み」などをよく読んだものです。

 親友の許嫁「ロッテ」に対するひたむきな愛とその破局、青春の情感と陶酔、不安と絶望にあふれた抒情的な小説で、晩年のゲーテは自ら「生涯に、このウエェテルが自分のために書かれている、と感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と書いています。


 ○ゲーテは典型的な躁鬱型の人間で、約2年間のそう状態の時に次々に優れた作品を発表し、逆にそれに続く7年間は乾燥した沈鬱期がやってきて全く創作しませんでした。 このような周期性は恋愛にも表れ、一度恋心が燃え上がると短期間に同時に数人に傾倒し、その恋愛体験が優れた文学作品を生んでいます。彼の生涯に登場した恋人は14歳のグレートヘンから始まって74歳の時に恋した19歳の少女まで実に12人にも及んでいます。

イメージ 4 *「人は多くを願うが、彼に必要なものはごくわずかである。人生は短く、人間の運命には限りがあるから。」  
*「人間は地上で楽しむためには僅かの土があればいい。地下で休むためにはさらに僅かの土くれがあればよい」 ・・ゲーテ

  ↑ ゲーテの切手

 
  〇人力車の発明  「3月22日」


 最近は復古調で、各地の観光地でよく人力車を見かけます。京都の嵐山付近は特に多いですね。貸衣装で舞妓姿に変身して人力車に乗ったりします。

 現在の日本では人力車はほとんど姿を消しましたが、昭和始めしらんが子供の頃は、まだ乗り物と言えば人力車が主流でした。
 駅には客待ちの人力車がずらりと並んでいましたし、医者などのお金持ちの家には、お抱えの人力車と車夫が住み込みで住んでいました。シランも何度か母と一緒に乗ったことがありますが、乗ってみると案外に高くて、車夫がカジを持ち上げると、後ろにひっくり返るようでちょっと怖かったです。

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                                                         (1897年・人力車)


 この人力車を発明したのは、福岡の「和泉要助」と言う人でした。和泉は維新後東京の料亭の手伝いをしていましたが、西洋人が馬車に乗っているのを見て、馬の代わりに人間が引く乗り物は出来ないものか、と考えました。最初の試作品は明治2年に出来ましたが、いざ走らせてみるとひっくりかえったり安定感がなかったりして、なかなか思うようには動きません。その後1年ばかり実験を繰り返し、ようやく完成、太政に使用願を出し、さらに東京府に営業願を出しました。いずれの官庁もこの発明品には好意的で1870年(明治3年)3月22日、和泉は営業許可を得て、初めて人力車が東京市内を走りました。

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 その営業に当たっては

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①通行人に迷惑をかけないこと。
②料金は出来るだけ安くすること。
③高官の車並びに巡邏兵隊などに行き当たった場合は、下車するかまたは脇道によけること。
④火事があった時は近くを走らないこと。

          という4条件を出しました。

   ↑ 明治の人力車(トヨタ博物館)

 人力車は驚くべき速さで日本のみならず中国や東南アジアにも輸出され、その生産のピッチをあげるために明治6年には大蔵省から2千円の操業補助を受けて会社組織にしました。自慢話が好きだった福沢諭吉は、人力車のヒンになったのは自分がアメリカから持ち帰った乳母車である、と言っていたそうですが、これはちょっと眉ツバ物の話のようです。

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                                         (昭和11年、上海の洋車・ヤンチョ)


             ・・・・・

 *いつもの内科検診へ、血圧124-60で異常なし。
   7週間分の降圧剤を貰って来た。
   今のところ酒もうまいし、花粉症もなく、快調。
   そのうち河川敷のゴルフにでも出かけて見ようかな?




(60)一番古い小学校

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    〇 「スタンダール」

イメージ 1 スタンダール(1783-1842)はフランスの作家で、3月23日パリで死んでいます。
強烈な個性と鋭い眼をもって、リアリズムの最高作品 「赤と黒」 「パルムの僧院」 を生みました
戦後、どちらも銀幕の貴公子と言われた「ジェラール・フィリップ」主演のフランス映画を見ましたが、なかなか面白かったです。

 イメージ 2スタンダールは「恋愛論」で有名ですが、彼自身は女性の愛し方を知りませんでした。同僚から女性のくどき方を教わってノートに取り、その通りにしたが失敗したので、女に侮辱されたと思いこんでいました。

  また彼自身が認めている通り、彼は大ウソつきでした。履歴書には平然と大ウソを書き、手紙のサインには200以上もの偽名を使っていました。自ら書いた墓碑銘には「ミラノ人」とありますが、彼は紛れもなくフランス人だったのです。
   ・・・・
 
    
   (60) 一番古い小学校は?    「3月23日」


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明治初年の教室の扁額・勧興小学

 シランが母校の勧興小学校に入学したのは昭和5年ですから、もう87年も前のことになります。母校はもともと佐賀藩校「弘道館」の幼稚舎である「蒙養舎」が前身で、明治7年7月に開校されましが、もともと士族の学校なので校内でも始めは「小路者・こうじもの、旧士族の子弟」と「町家者・まちやもの」とを区別して別々に勉学していました。まだまだ武家社会の士農工商の身分制度の跡が消えていなかったのです。

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 その為、学風も弘道館のあとをうけて頗る厳重で、いたずらをしたら先生から鞭で打たれ、小学校内に拘置所まであったそうです。また生徒の方も乱暴で、学校の退け時に人馬が通ったりすると、生徒たちが一斉に喚声を上げて小石を投げたりするので、馬は驚き荒れ狂って人間もろとも佐賀城の濠の中に転げ落ちるという始末、生徒はその有様を見て手を叩いて喜ぶという悪態ぶりでした。遂には生徒の退校時には、いたずらを恐れて佐賀城の堀端を通る者が居なくなったほどだったと言います。


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                                               (登下校時には奉安殿に最敬礼・戦前                      

 その武家学校と言われた母校も、明治15年には「公立勧興小学校」となり、明治32年には「士族学校」の習慣を改め「勧興尋常小学校」と改称されています。


   〇 「一番古い小学校はどこでしょうか」

 ところで江戸時代の寺子屋や藩校は別として、日本でいちばん古い近代的な小学校はどこでしょうか。
明治政府が各府県庁に小学校設置令を布告したのが1869年(明治2年)3月23日で、それを受けて初めて近代的小学校を開校したのは同年5月に開校した京都の「上京第二七番小学校」でした。

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                                                    (松本・開智学校の教室)

 何しろ京都は千年の歴史を誇る文化都市なので京都府少参事「上村正直」は全国に先んじて小学校教育の普及に努めました。そしてこの年に京都市内に作った小学校は合計64校にのぼり、それぞれの小学校はその学区ごとに小学校会社を作り、京都府が資金援助をして維持されました。

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 その後、明治5年(1872年)の「学制発布」により、翌年の明治6年には多くの近代的小学校が発足しています。松本の「開智学校」は1873年(明治6年)5月6日に創立されましたが、今も当時の小学校の面影を残していて、古い机や黒板、綱引き用の太い綱など、懐かしい道具が展示されています。


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                         (15年ほど前・北アルプス登山の帰りに立ち寄りました)

               ・・・・・

 

(61)漫画雑誌の始まり

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    (61) 漫画雑誌の始まり   「3月24日」 

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 昔は漫画と言えば少年,少女倶楽部などの雑誌に、のらくろ二等兵とか、冒険ダン吉などのシリーズものが少しばかり残っているだけでしたが、今や漫画雑誌は大繁盛で、若者の多くは歴史の知識も漫画から教えられ、覚えるほどですね。月間の漫画雑誌もたくさん発行されています。

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 そんな漫画雑誌はいつごろから始まったのでしょうか。




 それは1877年(明治10年)3月24日に創刊された「団々珍聞・だんだんちんぶん」が最初です。この漫画雑誌の発行者は、退職官吏の「野村文夫」でした。発想の根本はおそらくイギリスの風刺漫画雑誌「パンチ」あたりだろうと思われますが、彼は当時の人気画家を集め、銅版画を入れて世相風俗はもとより政界の雑報を面白半分に書き立てました。


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 その発刊の辞は。。

「世のなかのよろずの物はみな〇き、地球と天球のもとに成り立つぞかし。月日も〇く星〇く・・・当世はやりは〇顔のぽちゃぽちゃした〇容子(かたち)、み国の旗の赤玉は明治の御代のめでたさを高くあらわす日の〇の、その恩沢を一日も忘れぬために〇〇を名題にしたる〇なれば、嫌疑を避けるの〇ならず・・」

 つまり、その頃の出版物は統制が厳しく、それを逆手にして「団々・マルマル」としたのです。この週間誌は定価5銭で発売されましたが、なかなか評判が良くて「マルチン」の愛称で広く読まれ、これに刺激されて「風流珍聞」「珍笑新誌」「夢想奇聞」などの類似の雑誌が次々に発刊されました。この伝統はのちに「東京パック」誌に受け継がれ、近代日本の風刺漫画の流れの源泉になっています。


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(62)照明の歴史

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       (62) 照明の歴史   「3月25日」

  
  ♪ 蛍の光、窓の雪~~
 卒業式の季節ですが、昔の寺子屋などの照明はろうそくの行燈だけだったでしょうから、ずいぶん暗かったでしょうね。

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 最近はLEDの電球の登場で、照明器具も様変わりですね。家庭器具から信号機や自動車のランプまで・・節電のため、うちもそろそろ代えようかと思っていますが、とにかく昔の石油ランプや裸電球から、蛍光灯、さらにLEDへと、照明器具の発展変化はスゴイですね。
 ところで、日本における最初の電灯はいつのことでしょうか。

 明治11年3月25日に、東京虎の門の工部大学校でイギリスの「エーアトン」が二人の日本人学生とともにアーク灯を灯したのがその最初でした。このアーク灯の電源になったのは、グローボ電池で、まだ発電機などはなかったのです。

 このころの一般家庭での照明には、灯油のガスランプや軽油によるランプが使われていて、明治30年代になってもまだガス灯が一般的でした。ガス灯の初期には単にガスに火を灯してその青い光で照明にしていたのですが、30年代後半には田中正年博士の発明によるガス・マントルという物が普及し始め、照明は更に輝きを増してきました。

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 しかしマントル時代はわずか二、三年に過ぎず、あわただしく次の電灯の時代に入って行きました。明治36年ごろには、東京都心部ではもう電灯が使われるようになっていたのです。この明治30年代の照明の技術革新はすさまじく、せっかく道路を掘り起こしてガス灯用の配管を終えたと思ったのに、すぐに電灯の時代に代わってしまったのです。

イメージ 2 尤も、この照明技術の普及には地域差があって東京のような大都会を一歩外に出れば、一般家庭では電灯はもとよりガス灯もなく、専ら灯油ランプを使っていました。

  九州の山村などでは電気は昭和30年代になってもまだ引かれていない所があったほどでした。それまでの照明は、行燈かちょうちん、灯油を燃料にする石油ランプが主でした。

 
  ↑ 石油ランプ は容器の中の灯油に浸した木綿糸の紐を通して油が吸い上げられ、口金のところで点灯されます。このランプのホヤ(ガラス部分)を磨くのは各家庭の子供の仕事になっていました。
 この石油ランプは江戸末期に伝来し、明治時代には国産ランプが出回って明治20年頃には全国に普及しましたが、 明治30年頃からはガス灯や電灯の設置により次第に使われなくなりました。
 
イメージ 3紫蘭が子供のころは、家には座敷にただ一つ白熱電灯があるだけで、井戸端には提灯、台所には灯油ランプが置いてありました。電気代はメーターではなくまだ定額制でした。薄暗いはだか電球が照らす障子のサンが不気味に思えて、母のいない夜などは、寝ていてもとても怖い思いがしました。

 戦時中は家庭の灯りが漏れて敵機の空襲の目標になるのを恐れて、電気の笠から暗幕を下げたり、真下だけしか照らさない青い色の防空電球が出回ったりしました。

 照明の歴史一つとっても、一世紀の間にはいろんな変化があったものだと、つくづく思われます。
 
 ↑ 防空用電球

(63)エンゲル係数

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   〇 楽聖「ベートーベン」  3月26日

  1827年の今日、3月26日ベートーベン がウイーンで亡くなっています。
アル中の父に代わって仕事を掛け持ちして家計を支え、幼い兄弟たちの世話をするという苦しい境遇の上に、難聴と言う苦境にも屈せず、数多くの不朽の名曲を残したした天才作曲家でした。月光の曲や運命、第九など、九つの交響楽が有名ですね。

    (ピアノソナタ「月光」第一楽章)


イメージ 1 ベートーベンは21歳の時にウイーンで生活を始めましたが、その時の彼のノートには「舞踊教師」とか「かつら直し」と言うメモが残されています。彼にはもじゃもじゃ頭で粗野なイメージがありますが、きちんとかつらをかぶって社交ダンスを習おうとした事もあったのですね。潔癖症で手を何度も洗ったり、コーヒーは必ず自分で60粒を数えて淹れていたそうです。

 でも、入浴するときは風呂桶(バス)をわざわざピアノの横まで引っ張ってきたりしたので、アパートから何度も追い出されました。30歳の頃には耳の病気を苦に、遺書を残して自殺しようとした事もありましたが、無類の酒好きだったので肝硬変のため、3月26日ウィーンにて死亡しました。


             
                  「もしも美しいまつ毛の下に涙が膨らみたまるならば、
                     それがあふれ出ないように強い勇気を持ってこらえよ。」

                                                                                               ベートーベン


    (63) 「エンゲル係数」  3月26日

 年金生活の我が家は生活費の中で食費の割合が多いので、最近のように食料品の高騰には悩まされます。いわゆるエンゲル係数が高いということです。ところでこのエンゲル係数を考え出したのは誰でしょうか。勿論エンゲルですよね。(^^*)

 ドイツの統計学者の「E・エンゲル」は1821年3月26日にドレスデンで生まれました。
始めはフライブルグの鉱業専門学校で冶金学を学び,鉱業の専門家としてヨーロッパ各地に調査旅行に出かけていましたが、パリで「ル・プレー」と言う不思議な人物に出会いました。ル・プレーは鉱山技師でしたが、同時に労働者家計の研究という風変わりな研究に従事していたのです。

イメージ 2 さらにエンゲルはプラッセルで「L・ケトレー」にも会っています。ケトレーも統計学者でこの二人の人物を知ったことでエンゲルの関心は、もともとの専門の冶金学からすっかり離れてしまったのです。

  彼は専門を統計学に鞍替えし、29歳の時にザクセンの王立統計局長に就任し、のちにプロイセンに移りましたが、60才になるまでずっと政府の統計局に勤務し続けました。

 しかし彼は単に統計数字をいぢくり回すただの官僚では有りませんでした。具体的な実態調査をもとに家計と国民経済を研究し、有名なエンゲル係数の法則を確立したのです。

  「エンゲルの法則」は家計の中で食費が占める割合が福祉を量る尺度になる、と言うのがその主旨ですが、一言で言えばエンゲル係数が低い社会ほど理想的な社会だ、と言うわけです。

  しばしば、「エンゲル係数は貧乏係数だ」と誤解されていますが、エンゲル係数が如何に低いかを福祉度にしようと言うのが「人間福祉測定学」なのです。


           ・・・・
  * 雲一つない快晴ぶりに洗濯物を乾したら、スーーパー買い出しの帰りには、真っ黒い雲が広がってきました。 家に帰るなり慌てて二階に駆けあがり、また洗濯物の取り込み。。
 少しは運動の足しになったかも。。



(64)侠客の始め

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    〇 「芭蕉」  3月27日

イメージ 1 元禄二年、3月27日に俳諧の巨匠「芭蕉」は奥の細道の旅に出ました。
芭蕉はもと伊賀の武士の出で、一生を旅で過ごし、俳諧と言う日本独自の美の世界を開きました。

      一つ家に遊女も寝たり萩と月
      故郷(ふるさと)は涙に炭の煮ゆる音
      何でこの師走の街に行く烏(からす)
      野ざらしを心に風のしむ身かな
      旅に病んで夢は枯野をかけめぐる



    (64) 「侠客の始まり」  3月27日

 「侠客」と言うと、強きをくじき弱きを助ける、任侠を業とした渡世人の事ですが、侠客は17世紀の始めから出現しています。

イメージ 2 政治の中心が江戸に移って以来、この侠客は「旗本奴」「町奴」の二つのグループに分かれて勢力を競いあいました。すなわち無為・無禄の状態に置かれた旗本の次男以下からなる旗本奴と、その旗本奴に反発する庶民による町奴と言われる侠客でした。「旗本奴」は小身の旗本が集まったもので、「白柄組」と呼ばれていました。これは刀の柄を白糸で巻いた刀を差して、シンボルマークにして市中を横行していました。もちろん、その行動は幕府公認ではなく、エリートの落ちこぼれの無頼派とでも言うべきでしょう。 水野十郎左衛門はその代表格でした。

 これに対して「町奴」の方は浪人や人入れ稼業の町人の集団で、その代表格が幡随院長兵衛でした。出身や背景は違いますが、旗本奴と町奴はことあるごとにいわゆるる「男伊達」を競いあいました。

  「男を立てる」のがその身上なので、つまらぬ事で喧嘩のタネになり、双方はしょっちゅう張り合っていました。これは要するに幕府の威令が行き渡らないから、こういう無法者集団が横行したのです。それだけ役人たちが無法者を取り締まるだけの力を持っていないばかりか、彼らと結託して不正行為に加担したものですから、やがてやくざを野放しにする結果になってしまったのです。


 イメージ 3ところで1664年(寛文4年)3月23日に、この旗本奴の白柄組の頭領「水野十郎左衛門」は町奴の親分「幡随院長兵衛」を謀殺しています。→ 「長兵衛」は佐賀・唐津藩の武士・塚本伊織の子で本名「塚本伊太郎」と言いますが、父の死後江戸に出て「口入れ屋」を営んで、後世「侠客の元祖」と言われている人物です。

 この日、若い者たちの喧嘩の手打ちを口実に、水野十郎左衛門に呼び出されました。その酒席で着物を汚されて入浴を進められ、風呂場で裸になっているところを斬り殺されました。呼び出された長兵衛は「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」と啖呵を切って引き留める子分たちを振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込んだそうです。。

 一方の「水野十郎左衛門」は徳川譜代の家臣で,知行三千石の旗本でしたが、病気と偽って出仕を怠り、異様な風体で徒党を組んで盛り場を横行しては喧嘩、暴行の限りを尽くしていました。そして芝居見物中の喧嘩で長兵衛が十郎左衛門配下の旗本奴を打ち負かしたのを恨みに思い、長兵衛に復讐したと言われています。

 幡随院長兵衛を殺したことは、長兵衛が浪人だったために不問になりましたが、かねての不行跡のかどで評定所に呼びだされた時に,髪も結わず袴もつけずに白衣で出頭したので,不敬の罪で同年(寛文4年)3月27日に切腹になり、家も断絶しました。


 先日、ふとテレビを見たら、なんとEテレで「極付幡随長兵衛と言う歌舞伎の中継をやっていました。長兵衛が風呂場で水野に殺される「湯殿の場」でしたが、なかなか楽しめました。学生時代に下校時に大阪の道頓堀でよく歌舞伎を見たものです。当時は浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の「道頓堀五座」や心斎橋には新歌舞伎座があって、歌舞伎や人形浄瑠璃、漫才や新喜劇、少女歌劇などが興行されてとても賑わっていました。

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                                            湯殿の場     (芝翫と菊五郎)


 もちろん、学生の身分なので、芝居見物はいつも頭のつかえそうな最上階の立見席ばかり、いわゆる天井桟敷と言う一番安いところで、舞台が遠くて役者の顔もよく見えません。でも、嵐雛助と言う女形がお気に入りで、あでやかな容姿とハスキーな声色が、思春期のシランにはなんとも言えず魅力でした。

 後年、同窓会で学友のKと無駄話をしていたら、当時の彼もこの雛助が大好きだったそうで、「じゃー、俺たちは雛助を相手の恋敵だったんだなぁ」と大笑いしたことがあります。。

        ・・・・


 *久しぶりに山麓の自然公園を散策、一周、2時間半。
  コブシやハクモクレンもサビついて見る影もなく、河津桜ももう青葉になっていました。
  ただし、思いがけず花桃の花が満開、花たちは季節たがわず花開くのに妙に感心。。


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                                                 ♪こぶし咲く北国の春~~

(65)楼蘭の発見

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    〇 ゴーリキー 「3月28日」

イメージ 1 1868年3月28日に、ロシアの作家「ゴーリキーがロシアのニジニ・ノヴゴルドで生まれています。小学校を中退してから様々な職業を経験して、社会主義リアリズムの創始者になりました。しらんも若いころ、世界文学全集で戯曲の「どん底」を読んだことがありますが、忘れてしまいました。

 ・・「私は月を好まない。月の中には何か不吉なものがあり、そして犬のように私も悲哀を痛々しく吠えてみたい、と言う欲望を呼び起こす。
 月は自分の光で輝いているのではない。死んで居て、そこには生活が無いし、また生活はあり得ない、と言うことを知った時、私は大変うれしかった」・・

 ↑ スターリンとゴーリキー


    〇楼蘭の発見  「3月28日」

 中国のタクラマカン砂漠を流れるタリム河は「ロブ・ノール湖」と言う湖に注いでいます。この湖はまさしく砂漠のオアシスで、湖のほとりには、昔「楼蘭」と言う王都があってシルクロードの要衝になっていました。ところが長い年月の間にタリム河の流れが変わり、いつの間にかこの楼蘭はロブ・ノール湖とともに地上からを消してしまいました。

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                                   (シルクロードの古跡・楼蘭   平山郁夫 画
                                    

 この消滅したロブ・ノール湖を求めて探検旅行を試みたのがスエーデンの探検家「S・ヘディン」でした。彼は1900年3月28日にアルトミッシュ・プラークのオアシスを出発して、この日、古代の廃墟に行き当たりました。ここには三軒の住居跡があって、古代の貨幣や陶器の破片が見つかりました。実はこの住居あとは楼蘭の一部だったのですが、ヘディンはそのことに気づかずそのまま「失われた湖」を求めて一路南下してしまったのです。もちろん、彼はこれらの遺跡や遺物は注意深く研究し記録していたのですが、「楼蘭」と言う古代遺跡の大発見には気づかなかったのです。

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                                                       (楼蘭の遺跡)


 幸い、その途中で助手が現場にシャベルを置き忘れた事に気づいて戻る途中、より大きな廃墟を見つけてきました。しかし、砂漠の旅は厳しく、そのまま南下を続け、この廃墟の探検は再起を期すことにしました。そして、その翌年に同じルートで注意深く探検を続けてついに「楼蘭」を発見することが出来ました。この発見によってシルクロードのルートも確定できたし、砂漠の河の気まぐれな移動状態も明らかになりました。

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                                             (楼蘭の住居あと)


 不思議なことに、その後タリム河は再び元の進路に近いところを流れるようになり、「失われた湖・ロブ・ノール湖」も元の位置に戻ったということです。
 
 *楼蘭の発見から80年後の1980年に、この楼蘭の遺跡から女性のミイラが発掘されました。
炭素14測定の結果、この女性は紀元前19世紀(今から3,800年前)に埋葬されたもので年齢40歳、身長155センチと推定されています。中々美しい女性だったようで、当時、「楼蘭の美女」として喧伝されました。

(66)南極探検・スコットの死

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    (66) 「南極探検・スコットの死」  3月29日
 
 「ロバート・スコット」はイギリスの海軍大佐で、イギリス南極大陸探検隊を率いて1912年1月28日に南極点に到着しましたが、その帰り道で荒天に遭って同年3月29日に南極大陸の氷原上で全員遭難死しました。享年46歳。

   
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                                              (南極点到着のスコット隊)


  ちなみに、最初の南極点到着はノルウエーのアムンゼン隊で、スコット隊より1カ月ほど早い1911年12月14日に到着しています。彼はまた1926年には飛行船によって北極探検にも成功しています。
 なお、日本の白瀬探検隊も同じ1912年1月(明治44年)に南極大陸に上陸しましたが、悪天候と食料事情の為、やむなく南極点到着を断念しています。



イメージ 2「余はこの旅行にいささかも悔ゆる事なし。我らはイギリス人が困難を克服し、相協力して、いまだかってなき不抜の精神を持ちて死に臨みたるを実証したるなり。

 我らは危険を敢えてせり。我らはその危険なることを承知し居たり。ただ事情が我らに組みせざりしなり。されば我らは何ら不満の意を表すべきいわれなし。ただ神の御心に頭を垂るるのみ。しかも最後まで最善を尽くさんと決意し居れり。
 我らは進んで探検のために命をささぐるものなり、とはいえ、そは祖国の名誉の為にして、余は祖国の人々に、我らを頼りにして居たる家族の身の上を援護したまわんことを懇請するものなり。
 (スコット大佐)                       (*スコット、最後の日誌より)



  〇 オランダ 「東インド会社」  3月29日

  
  (東インド会社の旗)
イメージ 3 1602年3月29日、オランダは東洋との貿易会社を統一して「東インド会社」を設立しました。そのころ、ヨーロッパはオランダとスペインとの戦争が続いており、オランダはリスボンでの交換貿易から締め出されていたので、直接東インドと取引をしようと言うわけです。もともとオランダは香料を求めて東インド地方に進出してポルトガル商人と激しく衝突していました。


 このオランダの東インド会社はオランダ軍の強力な軍事的支援を受け事実上東インド地方、すなわち今日のインドネシアの支配者になりました。そして1619年、バタビアに首府を開き総督が赴任しました。これで事実上インドネシアを植民地にしたのです。
 
イメージ 5 このころ日本人もフイリッピンからインドネシア半島にかけて着実に進出していました。山田長政←のシャム(タイ)における活躍などもその一つの現れでしょう。

  これらの日本人の中には東インド会社の社員として採用された者も少なくなく、場所によっては従業員の二割ほどが日本人だったという出張所もありました。しかし、この日本人の活躍も幕府の鎖国政策によって完全に中断されてしまいました。日本からの後続部隊が続かず、彼ら日本人の消息も途絶えてしまいました。もし鎖国政策がなかったなら・・


 
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                                           (シャムの日本人義勇軍行進図)


        ・・・・・

(67)村田銃の制定

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    (67) 「村田銃の制定」  3月30日

  日本の陸軍は初期の段階では、おおむね西洋からの輸入兵器に頼っていまいたが、陸軍少佐「村田経芳」は、各国産の小銃をくわしく研究し、彼自身の発明による最初の国産小銃を開発しました。この小銃は口径を小さくし、バネに改良を加えたことから軽量で高性能の小銃になりました。


イメージ 2 帝国陸軍は発明者の名をとって「村田銃」と名付けて明治13年3月30日に正式に採用することにしました。村田銃は当時の欧米の小銃と比べても何ら遜色がなく、むしろ命中率高かったので、5年間に10万挺を製造するという大規模な計画が立てられ、小石川の砲兵工場ではほとんど徹夜で操業しました。そのあとの日清戦争では「右手に杖つく村田銃」と歌われています。

 その後村田銃は次々に改良が加えられ明治38年になって三八式歩兵銃として、まったく面目を一新しました。我ら、戦中派の記憶に残る懐かし思い出のなかの「38式歩兵銃」はまさしくこの明治38年の「村田銃」だったのです。

 昔の中学では軍事教育としての「学校教練」が必須科目でした。
 低学年では、銃を持たない「徒手教練」ですが、高学年(4,5年生)では銃を持って行う「執銃教練」になります。このとき使う小銃が、軍隊からの使い古した三八式(サンパチシキ)歩兵銃でした。

    ↑ (38式歩兵銃)


  三八式とは、明治38年の日露戦争の勝利を記念して制定された旧日本陸軍の基本的な単発銃で、この三八式は旧式ではありますが、製作当時としてはきわめて優秀な小銃で命中率もなかなかよかったです。

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                          (母校の野外演習・38式は少年には長過ぎて重かったです。)


 三八式歩兵銃は、コウカンを引いて持ち上げ、手前に引いてから、また前に押し出すと弾丸が一発だけ装填されるという、一動作で一発しか打てない単発銃です。一発づつしか打てないので、米軍のように、一度にバチバチ弾が飛び出る連発式の自動小銃には歯が立たないのは自明の理ですね。所詮、実戦では明治の村田銃とさして変わりななかったのです。


  (67) 「エッフェル塔の完成」  3月30

 1889年3月30日、パリ名物のエッフェル塔が完成しました。

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この塔はこの年に開かれたパリ万国博覧会のシンボルタワーで、その高さ312m、当時としては世界一の高い建築物でした。材料の鋼材はペッセマー鋼という高品質のもので、工期は17ヶ月、工費には650万フランと言う巨費が投ぜられました。

  イメージ 4その前のロンドン万博ではガラス張りの水晶宮が造られており、「鉄とガラス」の時代の始まりを象徴していましたが、この水晶宮には普通の鋳鉄が用いられていて、文字通り鉄鋼の時代を象徴するのはこの「エッヘル塔」だったと言ってもいいでしょう。

 
 ところでこの設計をした「A・エッヘル」は鉄骨構造の先駆者で、パナマ運河の水門の設計をし、ニューヨークの「美の女神」の構造も彼が造っています。また、エッヘルは「空気力学」にも造詣が深く、自分で作ったエッヘル塔に登ってその実験を続けていました。

 
           ////


(68) ニュートンの死 

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     (68) ニュートンの死   「3月31日」
 

イメージ 1  「ニュートン」はイギリスの科学者で、1722年3月31日に亡くなっています。
彼は万有引力、光の分析、微積分法を発見して近代の物理・天文学の基礎を築きましたが、生涯独身でした。

 若い頃はひどい不眠症に苦しみ少年時代の学校の成績はビリに近かったのですが、物事に熱中する性格は人一倍強かったのです。

  ある時、教室で計算に夢中になって居る間に悪友が彼の弁当を平らげてしまいました。計算の済んだニュートンは空の弁当を見てこう言ったそうです。
 
    (計算に夢中になって居て、さっき弁当を食べたのを忘れていた。。) と・・
 
   この性格は大人になっても変わらず、「卵の代わりに時計を茹でてしまった」ことがあるそうです。


・・ 「私は真理の大洋を前にして、その海岸で戯れつつ時々普通より一層なめらかな小石や、
    一層きれいな貝殻を見つけて、うち興じている少年のようなものである。」・・

 
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  ニュートンは、庭のリンゴの木からリンゴの実が落ちるのを見て、それから「万有引力の法則」を発見した・・と言うのは、良く聞く逸話ですね。所が最近の考証によればこれは後世の単なる作り話であるという説もあり、またそれについての彼自身の記録もないそうです。

 ただ、彼が23歳の時にペストが大流行し、在学中のケンブリッジ大学が閉鎖され、学生たちはかなり長期にわたって故郷に帰省して自習していました。ニュートンの万有引力の発見はちょうどこの帰省中の頃なので、おそらくニュートンも故郷の家で勉強の合間にぼんやり庭のリンゴの木を眺めていて、ふと林檎の実が落ちるのに気づいたのでしょう。

 とすれば、恐れられたペスト「万有引力の法則という近代物理学の基礎を造った、と言えるかもしれませんね。




 

(69)ロールスロイスの誕生

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      (69) 「ロールス・ロイスの誕生」   4月1日

 自動車でロールスロイスと言えば、超高級車の代名詞みたいなもので、世界の富豪や王族の乗る車は、決まってこのロールスロイスのようですね。

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    このロールスロイスの第一号車は1904年の4月1日に誕生しています。

イメージ 1 「チャールズ・ロールス」はイギリスの上流階級に生まれ、幼いころから機械いじりが好きでした。まだ20歳にもならない頃に、彼は父親の屋敷内に自家発電機を取り付ける工事をすべて自分で施工監督するだけの知識と技術を持っていました。

  そして彼の関心は次第に自動車に向い、自分で自動車レースに出場したりしていましたが、親友の「C・ジョンスン」とともに自動車販売店を開きました。

     ↑ ロールス

イメージ 4 一方 「ヘンリー・ロイス」青年はロールスとは逆に下層階級の出身でしたが、過労の為に健康を害して歩行が困難でした。そこで分不相応でしたが自動車を一台買って通勤し始めました。

  然しどうもこの車が気に入りません。彼は電気モーターの会社で働いていたので、持ち前の技術力で自分の自動車に改良を加え、最後には自分の納得のいく自動車を作ってみようと決心しました。こうして手作りの職人魂で、1904年4月1日にロイスの自動車第一号が完成したのです。
                                                           ヘンリー・ロイス →


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                       (第一号車・・1905年)

 ロイスはこの車が出来ると、ロールスとジョンスンに試乗するようにすすめました。乗ってみた二人はとても感動して三人で新会社を作ろうと決心し、始めは「ロールス・ロイス・ジョンスン」と言う会社名をつけました、これではあまりに長すぎるので「ロールス・ロイス」と言う名前にしました。
 彼らが作る車は瞬く間に特製高級車として定評を受けました。そして客の好みに応じて室内装飾からボデイの材料に至るまで客の注文に応じて作ったのです。

 しかし、やがてロールスは飛行機に興味を持つようになり、自分で小型飛行機を操縦し始めましたが、墜落事故で死亡し、次いでジョンスンも死んででしまったので、会社の仕事はロイス一人の双肩にかかるようになりました。ただ、前記のようにロイスは健康状態が悪く、南フランスの別荘に住んで膨大な書類をイギリスの会社まで往復してロールス・ロイス社を経営しました。ロイスは1933年に亡くなりましたが、こんにち、彼の往復文書はロイス社の聖典として大事にされています。

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(昭和元年・佐賀市)



(70)ファーブル昆虫記

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  (70) 「欲のない学者・ファーブル」  4月3日
 
  あちこちから桜の便りが届きようやく春めいてきて、野に出れば菜の花にも蝶々が舞い始めました。地中から這い出た小さい虫たちも春の訪れを満喫していることでしょう。


                                                    (昆虫たち・・)
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                        世の中よ  蝶々とまれ  かくもあれ    宗因


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                            おや、ほんとにとまった・・あなたは女性ですか??


 1823年、南フランスの一寒村に生まれた「J・アンリ・フアーブル」はたゆまぬ努力と忍耐、そして何よりも深い愛情をこめて虫を観察し、推理と実験を重ねて昆虫の本能と習性をつきとめて
「昆虫記」という詩情あふれる名著を残しました。。

イメージ 1 その「アンリ・ファーブル」は全く欲のない学者で一生貧乏でした。
  生家も貧しかったし、子供の時から鉄道工事に現場で働いたり、レモンを売りに出かけたりして毎日金を稼ぐことに追われていました。

 そんな苦労の甲斐あってアヴィニヨンの博物館長になりましたが、彼の科学教育の考えが教会の反対にあい、博物館長の職を追われてしまいました。彼の著作「昆虫記」はよく売れましたが、今度は教育制度の改革で、その印税が入らなくなりました。

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 その窮状を知ったのは詩人のミストラルでした。ファーブルを救おう、という彼の呼びかけにベルグソン(哲学者)やポアンカレ(フランス大統領)、メーテルリンク(詩人・劇作家、青い鳥が有名)などがこれに応え、1910年4月3日に第一回の「窮状のファーブルを救う会」が開かれ、この話が伝わって世界中から現金や小切手などが贈られてきました。

 
 
 ところが無欲なファーブルはこれに当惑して、いちいちこれらの金品を返送しました。そこで政府はフアーブルに2000フランの年金を贈ることにしました。彼はこの年金だけは受け取りましたが、そのまま心優しい無欲の学者として1915年10月、老衰のため、その一生を終えました。
 享年91歳。。


       ・・・・

(71)アンパンと山岡鉄舟

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      (71) 山岡鉄舟とアンパン  「4月4日」 

 イメージ 1 いつものイオン買い出し、売り出しの5個98円の山崎のミニアンパンを買ってきました。

S、33年に家を新築した時、毎日、大工さん用のおやつ用にアンパンを木箱いっぱい買っていたのを思い出しました。買い付けのパン屋さんがそのころ一個10円なのを9円にしてくれました。

 今は普通のアンパンが一個100円ですから、一般物価からするとアンパンはほんとに安いですね。当時の大工さんの日当が350円(*半年後には650円になっていましたが・・)、今は一日2万円はするでしょうから、アンパンの値上がりはとても低いですね。

 小学校の頃、母が忙しくて弁当を作ってくれない時は、昼休みに校門に近いパン屋さんに行ってアンパンを2個買ってきて食べるのが楽しみでした。始めに外側の香ばしい皮を食べてから、中の柔らかい中身とアンコを少しづつかじって食べたものです。
 では、そんなアンパンはいつごろに出来たのでしょうか。

 1875年(明治8年)4月4日に、明治天皇は水戸徳川家の代々の勤皇精神に応えて、水戸家の江戸下屋敷に行幸になりました。この時、水戸徳川家では天皇の接待用にアンパンを用意しました。 
 これは天皇の侍従であった山岡鉄舟が銀座木村屋パン店木村安兵衛と剣道を通じての知り合いで、木村屋が発明したアンパンを和魂洋才を具現したものとして高く評価していたからです。
アンパンは饅頭と言う日本の伝統と西洋の製パン技術との見事な結合だったのです。


(明治初期の木村屋)
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     (当時のチンドン屋の宣伝歌)

       パン、パン、パン
       「木村屋パン」を ごろうじろ
       西洋仕込みの 本場もの
       焼きたて 出来たて
        ほくほくの
           木村屋パンを 召し上がれ
           文明開化の味がして
           寿命が延びる 初物 初物

 明治天皇はこのアンパンの接待をとても喜ばれて、この時以来アンパンを宮中に納入するようにと、直接木村屋にお言葉をいただきました。特にアンパンを好まれたのは皇后陛下で、木村屋は宮中納入用のアンパンには、中央に穴をあけて紫蘇を詰めたといわれています。山岡鉄舟は、その晩年に木村屋の看板に名筆をふるい、この看板は当時の銀座の名物になって居ました。


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                                                   (山岡鉄舟の揮ごう)


            ・・・・・

(72)最初のロシア抑留

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      ○   「4月5日」  イカダ漂流の記録

 イギリスの商船「ベン・ロモンド号」は1942年11月23日にアゾレス沖でドイツ潜水艦に攻撃され、あっという間に沈没してしまいました。その乗組員の一人、副スチュアードの「プーン・リム」と言う中国人は沈没後船に備え付けの救命イカダが浮遊しているのを発見し、これに乗っててあてどもない漂流をはじめました。

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                                                  (ドイツ潜水艦、Uボート)
                                 
 そして大西洋上を流れること実に133日、雨水を飲み、魚を釣って食べてリムは見事に生き続けて、翌年4月5日にブラジル沖で漁船に発見されました。4か月半も漂流していたというのに、彼は岸に着くとしゃんとして両足で立って歩き始めたそうです。そして同年7月には彼はイギリス政府から表彰されたということです。


   (72) 「最初のロシア抑留」  4月5日

  漂流したわけでは有りませんが、心にもなく酷寒の異国に抑留された者も居ました。 
先の大戦では、無法なロシア軍の侵攻のために多くの日本人がロシアの寒冷地に抑留されて悲惨な目に遭いましたが、その前にも、幕末期にロシアに抑留された人物がいます。 
 「高田屋嘉兵衛」です。

 「高田屋嘉兵衛」は淡路の人で、1769年(明治6年)4月5日に亡くなっています。

 彼は22歳の時に樽廻船の水夫となりやがて庄内で1500石積み「辰悦丸」と言う船を買って船持ちの船頭になりました。彼は日本海を往復して蝦夷地(北海道)との貿易に努めましたが、1799年には幕府に命じられて近藤重蔵とともにクナシリ、エトロフの両島を開発して漁場を開きました。

イメージ 2 ところが1812年、嘉兵衛が自分の持ち船650石積みの「観世丸」に乗ってクナシリ島のケムライ岬を通り過ぎようとするとき、突然ロシア軍艦が現れて有無を言わさず嘉兵衛以下4人が、そのままカムチャッカのペトロパヴロフスクに連行されてしまいました。


   その背景には日本とロシアの間に外交上の確執があったのですが、とりわけその前年に海軍少佐ゴロヴニンが海洋調査のためにクナシリに来たのを、日本側が捕らえて松前に抑留したと言う事実があったのです。嘉兵衛たちの抑留はロシア側から見れば、このゴロヴニン事件の報復的対抗措置と言うことになるのでしょう。

 イメージ 3このとき嘉兵衛は、手まね、身振りでロシアのリコルド少佐と話し合い、ゴロヴニン釈放のために奔走して、結局人質交換と言うような形で日本に帰されました。そして嘉兵衛はクナシリ、エトロフ漁場で捕まった抑留者の第一号となったのです。

 北方領土の返還はなかなか進みませんが、この日ロ両国の領土問題はこのころからのもので、なかなか根が深いものがあります。

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高田屋嘉兵衛の話は、司馬遼太郎氏が「菜の花の沖」と言う長編の中で詳しく取り上げています。司馬さんを偲ぶために、母校の同窓会を嘉兵衛の故郷の淡路島でしたこともありますし、彼の奥さんから「菜の花の沖」と言う銘酒を頂いたこともあります。
  ← 

         *菜の花の沖の原稿書き出し
          ・・あまり字はうまくないですねー。

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(73)ファスアーの始まり

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     (73) 「ファスナーの起源」  4月6日

 夜 半に雨が降ったせいか、今朝は急に温かくなって慌てて衣替えをしました。そういえば、このズポンの前の部分はいつごろからファスナーに変わったのだろう。学生のころまではたしかボタン詰めだったのだが。。
 年を取ると、よくこのファスナーを締め忘れて「社会の窓が開いている!」と言われることがあります。ズポンの前のファスナーの事を「社会の窓」と言うのは、戦後すぐのNHKラジオの番組名から来ているそうですね。ちなみに女性のスカートのファスナーは「理科の窓」と言うらしいですが、もちろんこの言葉を使ったことはありません。

 「ファスナー」は普通「ジッパー」とか「チャック」とか呼ばれていますが、いちいちボタンを締めるのに比べるとほんとに便利なものですね。この便利ファスナーはいつごろから始まったものでしょうか。


 イメージ 1もともと、ファスナーは「しっかり留めるもの」と言う意味だそうで、1891年に米国のホイットコム・ジャドソンが、靴ヒモを結ぶ不便さを解決しようと考えたものが、その起源とされています。
                                                                            
                     (ジャドソンのファスナーの原型) →            

 今ではジッパー」よりも「ファスナー」と言う言葉が定着していますが、日本では1927年に尾道で「巾着(きんちゃく)」からもじって、このファスナーを「チャック印」として販売したのが評判になって「チャック」という名前が使われるようになりました。また、ジーンズについたものは「ジッパー」と呼ばれたりしています。つまり、ファスナー、ジッパー、チャックという三つの言葉は同じものなのです。

                                                                            
 1917年4月6日にアメリカはドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に加わることになりましたが、この時初めてアメリカ陸軍の制服の一部にジッパー(ファスナー)が採用されました。もともとジッパーの発明は、先述のようにジャドソンが靴紐の代用として考案したものですが、1893年には「ユニバーサルファスナー会社」が設立されてファスナーの生産が開始されました。

 その大量生産の契機を作ったのは、このアメリカ陸軍の大量注文でした。
「ジッパー」と言う言葉は1926年にこの製品のPRパーティーが開かれた時、作家のフランコーがシュッーと言う意味の「ジップィー/Zip」と言う言葉を使って即興の詩を作ったのが始めてだそうです。

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 現在の精密な生産工程によると、ジッパーのかみ合わせ部分の誤差は毛髪の幅の三分の一というミクロン単位のものとなっており、そのジッパーの総生産量の三分の一は日本が占めているそうです。


              ・・・・


(74)ハエの葬式

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      (74)  「ハエの葬式」   4月7日

イメージ 1 今日、4月7日はWHO,世界保健機構の日です。

WHOは人類をあらゆる病気から守るための様々な国際的な努力を重ねていますが、いろんな病原菌を運び、人間から嫌われているあの蠅を愛して、一匹のハエのために盛大な葬儀を行った変わり者が居ます。
 それは古代ローマの詩人「ヴァージル」でした。
 
 「ヴァージル」は「プーブリウスウェルギリウス」が本名で英語読みでは「ヴァージル」と呼ばれています。古代ローマの代表的詩人で紀元前70年10月15日生まれ、共和国ローマの末期の内乱の時代にその生涯を過ごしました。 ヴァージルは、内気な性格で人となかなか打ち解けず、学生の頃は「生娘」と言うあだ名をつけられていたそうです。

   ← ヴァージル

 彼はかねて自分の部屋を飛びまわっている一匹のハエをペットとして可愛がっていましたが、ある日そのハエが寿命が尽きたのか、床に落ちて死んでしまいました。彼はそれを大いに悲しんで、葬式をすることにしました。葬式はローマの丘の上にそそり立つ彼の壮大な邸宅で行われ、オーケストラが葬送曲を奏でるなか、ローマの著名人たちが次々に弔問にやってきました。中には長時間ハエのための追悼の詩を読み上げる者も居り、その中でヴァージルは特製の棺桶を作って厳かに蠅を埋葬したのでした。

 ところで、どうしてハエの葬式と言う馬鹿げたことを思いついたのか、と言うと、ヴァージルは芝居気たっぷりの人物でこういう奇抜なことで人目を引き、いわば自分のPRの材料にしたのだ、と言う売名説もあり、また実際には財産保全のためだったと言う説もあります。

 と言うのは、第二ローマ共和国政府は金持ちの土地を没収し、それを少しづつ兵士たちに分け与える、という計画を立てていたのです。ただその計画には例外措置があり、死体を埋葬されている区域は没収の対象にならない、とされていたのです。たとえ一匹のハエと言えどもこれだけ盛大な葬儀をしたとなれば、その墓地を含む一帯の土地は没収されずに済むと言う計算だったのです。

 ヴァージルは自分の所有地を没収の対象からはずすめにハエを埋葬したのでした。この葬儀のために彼が使った金はこんにちの金額にして200万円ほどだったそうです。

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                                            叙事詩「牧歌」の巻頭のページ
  
      
                  ・・・・・

(75)お釈迦さん

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     (75) お釈迦さん    「4月8日」

 イメージ 1今日、四月八日はお釈迦様の誕生日、「灌仏会」ですね。
 「灌仏会」はお釈迦さんの誕生日と考えられている4月8日に,様々な花で飾った誕生仏に香水,甘茶などを頭から注ぐ仏教行事で「花まつり」とも言います。


 その「釈迦」は紀元前566年ごろにインドのカピラ城主の子として生まれ、29歳から世を捨てて修行を続けた仏教の開祖です。彼の教えは「天上天下・唯我独尊・・・自己伸長、自己克服」でした。

 ・・「勝利は憎悪を育む。被征服者は不幸だから・・
 戦いにおいて一人が千人に打ち勝つこともある。
しかし、自己に打ち勝つ者こそ、最も偉大なる勝利者である」・・
  ・・・・


                                          ♪昨日生まれた豚の子が 
                                            蜂に刺されて名誉の戦死
                                              豚の遺骨はいつ帰る 
                                                  四月八日の朝帰る
                                            豚の母さん 悲しかろ

 戦時中にこんな歌が歌われていました。高峰三枝子の♪「湖畔の宿」の替え歌です。名誉の戦死と言われて、名もない兵隊さん達は死んで行ったのですね。一種の反戦歌でした。

 ところで、「お釈迦になる」と言う言葉がありますが、これはせっかく作ったのに不良品になってしまった。。と言う意味ですが、工場などで不完全な製品が出来ると、これを「オシャカ」と言います。
たいていは売りものにならない不良品ですから「オシャカ」を出来るだけ出さないようにするのが工場経営の鉄則で、そのためには「品質管理」が大事になってきます。

 では、不良品、不完全品をなぜ「オシャカ」と言うのでしょうか。
 一説では、これは溶接工たちが作った言葉らしく、「火が強かった」と言うのをヒとシの区別がつかない江戸言葉でいえば、「シガツヨカッタ」と聞こえるので、つまり「シガツヨッカ・四月ようか」になった、と言うわけです。
 話によれば「オシャカ」と言う言葉は、機械工業や電気などで多く使われ、繊維工業ではあまり使われないそうです。。

 尊いお釈迦様の誕生日が、なんだか他愛もない言葉遊びになってしまいました。 ・・m(__)m・・

 
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                                          (春眠暁を覚えず・・)


  ↑福岡の笹栗町にある南蔵院の釈迦涅槃像は長さが41m、世界一だそうです。

   小学校の夏休みに、姉に連れられてこの笹栗の八十八か所巡りに行きました。
                                                                          前・ 右から2番目

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 家に帰ってから行者の破邪の剣を真似て、竹の物差しを振り回しながら
 「ギャーて、ギャーて~ハラソウぎゃーて~・・般若波羅密多心経・・
     えい!えい!・・」 

 とやっていたら母に
 「うちは真宗じやけん、なんまいだ~だけでよか!」と頭をポカリ・・

         ・・・・・

 *今日もまた雨、せっかくの桜が台無しですね。
  
    「巷に雨の降る如く」   ヴェルネール

      巷に雨の降るごとく
      我が心にも雨ぞ降る
      かくも心ににじみいる
      この悲しみは何やらん 
   
       ゆえしれぬかなしみぞ
       げにこよなくも堪えがたし。
       恋もなく恨みもなきに
       わが心かくもかなし。

  

 

(76)戦死者の歯の始末

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 昔から「明眸皓歯」と言いますが、今は真っ白い歯の人が多いですね。
 歌手や芸能人の歯は特にきれいです。
 よっぽど高い歯磨き粉を使っているのかしらん??


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  2,3日前に家内を歯医者さんまで送って行ったら、こちらまで歯茎が腫れて痛くなりました。仲良く歯まで婦唱夫随と言うわけです。  貰い置きの抗生物質を飲んだら、だいぶ治まりましたが、先生に言わせると、加齢による歯周病だから、抜いてしまうか歯を磨くほか治療の方法がない。腫れたのは薬で治しましょう、と言うことだが、なかなか抜いてはくれません。


  一本でも自分の歯を残すことが大事だそうです。今までに2本抜いただけでまだ自前の歯が26本あるから、抜かない限りはまだまだ痛い目に合わねばなるまい。
 80歳-20本 が目標と言われている時代にシランは歯が多すぎるので、悪友と飲んでいると、「俺のように総入れ歯にするとちっとも痛くないぞ!」と冷やかされたりするのです。
もともと歯の寿命は何年ぐらいだろう、もう耐用年数が過ぎているのかもわからん、わからん・・

 ところで抜いた後の歯は当然、衛生的に捨てられるでしょうが、なんと昔は、戦死者の歯を入れ歯にして再度利用していた事もあるそうです。

  (76) 「戦死者の歯の始末」    4月9日

  アメリカの南北戦争1865年4月9日に南軍の司令官リーが北軍に降伏したことで終わりを告げましたが、この戦争で戦死者の死体から歯を抜き取って行く不気味な人間たちが居ました。この連中は、その歯を樽に詰めてヨーロッパに送り続けました。と言うのも、そのころ入れ歯の技術が進歩してヨーロッパの歯科医師の間で人間の歯の需要が高まっていたからです。


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                                 (南北戦争)
         奴隷制度を巡って北のアメリカ合衆国と南のアメリカ連合軍が戦った。


 もともと入れ歯の歴史は古く、紀元前にまで遡るといわれています。紀元前700年ごろエールリアでは金属のブリッジ゙を使った義歯が造られていました。日本では平安時代のころに使われはじめましたが、その有床義歯の素材は木製だったそうです。

 ヨーロッパでは15世紀には既に義歯が使われていました。骨や象牙を削って作ったり、死体の歯を使ったりしていたのです。亡くなったばかりの死体の歯を売却することも珍しくなかったそうですが、ヨーロッパの歯科医が入れ歯の技法を開発したのは17世紀になってからでした。そして入れ歯の必要な人は貧乏な人から歯を買い取っていたのです。つまり、貧乏人はいくらかの金と引き換えに自分の歯を抜いて提供していたのです。

 ヨローッパの宮廷ではいろんな材料で義歯を作るのがファッション化し、銀や貝、メノウなどで入れ歯を作る貴族も現れました。でも一番いいのは何といっても人間の歯です。そして19世紀になってやっと死体の歯を使うという方法が採用されました。南北戦争に限らず、戦争が起こると戦死者の歯を一本残らず引き抜いて商品化するというグロテスクな商売が盛んになったのです。

 死人の歯を自分の入れ歯にするということには、もちろん嫌悪感を抱く人もいました。然しプラスチックや陶器・セラミックなどが現在のように完全なものになる以前には、ずいぶんいろんな材料が実験的に使われていたようです。
 最も悲喜劇的なのは、硬質セルロイドでした。これで入れ歯を作った人がタバコをくわえて火をつけた途端、入れ歯までメラメラと燃えてしまった、と言う笑えない悲劇もあります。

                 ・・・・・

(77)正倉院の薬物

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       (77) 「正倉院の薬草」  

 中学の修学旅行以来、学生時代はよく奈良や京都に遊びに行きました。特に奈良には大仏殿や法隆寺、春日神社など平城宮以来の古跡、古刹がいっぱいで、いつ行っても1300年前のロマンに浸ることができます。
 その中でも奈良の「正倉院には古代日本と大陸の間の文化交渉を物語る様々の品物が収蔵されていて、まさに日本最古の歴史博物館と言ってもいいでしょう。

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 その「正倉院」には756年(天平8年)5月2日に崩御された聖武天皇の御遺愛の品や薬物を「光明皇后」が東大寺に献納された品々を収蔵してあり、その時の目録として「献物帳」が5巻残っています。 そのひとつ「国家珍宝帳」には聖武天皇の四十九日の忌日に献納された六百数十点の品々の目録が書かれています。

    これら御物の筆頭をなすのが、「灌木御厨子」と言うケヤキ造りの厨子です。

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                          (ケヤキの御厨子)

    厨子(ずし)とは仏像や仏典、位牌などを安置する仏具の一種です。
「国家珍宝帳」には、この厨子は天武天皇から持統、文武、元正、聖武,孝謙天皇と、五代の天皇に伝えられた事が明記されていて、御物の中でも特に由緒深いものです。


     
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「螺鈿(らでん)紫檀五弦琵琶」

 この琵琶は世界でただ一つ現存する五弦の琵琶で、聖武天皇ご愛用の琵琶だそうです。
 当時日本では知られて居なかったラクダの絵が描かれています。



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                                                「ろうけつ染め、袍」

                     袍(ほう)は衣服の一番上に着る丈の長い上着です。


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                                                   「褐色絹裳」
 
                          裳(も)は今で言えば巻きスカートのようなものでしょうか。


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                                               「太孤児の布衫」
 
                     衫(さん)は下着の一種で、これは麻製です。
東大寺・大仏開眼の法要の時に演じられた「太孤児」と言う伎楽用のもので、太孤児とは身寄りのない子供の事です。

                                               
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                                                          「馬鞍」
 
                    宝庫には馬具の鞍が十個収納されていますが、その中の一つ。
                    黒柿で作ってあるそうです。


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                                                   「螺鈿八角箱」
 
八角の木製箱で、表面にはべっ甲や琥珀を使った螺鈿(らでん)が施され、華麗極まりない花鳥文になっています。
  
 また献物帳の「種々薬物帳」は、21個の櫃に納められた60種の薬物の目録になっています。
その薬物の内10%が動物性の生薬で30%が鉱物、そして残りの40%が植物性の生薬になっていますが、この薬物帳の巻末にはこれらの薬を廬舎那仏に献上してその供養に宛てるとともに、病者に分け与えて病より救わんとの悲願を込めた願文が記されています。

 このため保存されていた生薬のうち、半分は出庫されて病者の治療に使われました。残りは平安期以降に、天皇の名において封印されましたが、足利義満や織田信長などの権力者は時々少しづつ失敬していたようです。

 この正倉院の生薬が一般に知られるようになったのは、1948年(昭和23年)9月28日に戦後民主化の一環として学者グループにその調査が委託されて以来の事です。薬学者や東洋史、細菌学などの専門家たちが集まって1953年(昭和28年4月10日に詳しい報告書が提出されました。

  この報告書によると、現存する生薬の内、もとの収蔵記録に含まれているものが40種、その他が17種となっていて、時代と共に生薬はこれまでに何度か入れ替えが行われた事が判ります。
 ただ驚くべきことは、このように1200年という長い年月を経た漢方薬のなかに、今日でもなお有効なものが含まれているという事実です。現代の化学薬品に比べて、なんと長い有効期限でしょうか。。

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  *今日も無情にも朝から花散らしの雨が降り続いたが、昼前には雲が切れ始めた。
    イオン買い出しの帰り路に、佐賀城堀端の桜並木を車の窓より眺めて満足。。
    風が吹き出したので明日は落花の舞いになるだろう。。
        今夜は月一の飲み会・・

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                     なたね梅雨 きょうも桜を 散らしけり

(78))ノーベル賞の誕生

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    〇 「象牙の尺」  正倉院

イメージ 2イメージ 1 昨日の正倉院の御物の中に、きれいな物差しが入っています。
 長さ39センチ、象牙を紅色←藍色→に染めて文様を彫っりますが、明確な目盛りがなく、実用の物差しと言うよりは儀式用の物だった用です。
 もともと、物差しの歴史は古く最古のものは、紀元前3000年のインドで作られたそうです。またエジプトではそれから1000年ほど遅れてキュピット(腕尺)が作られています。

 日本では中国の影響を受けて702年(大宝2年)に始めて度と量の制度が造られ、大宝律令では大尺、小尺と言う二つの単位が規定されています。

  大尺は土地の測量用で小尺は一般の計測用でした。そして定めにより、各地方では年に一回物差しの検定を受けねばならないと、いう事になっていました。


     「ノーベル賞の誕生」   4月12日 

 湯川博士以来、最近は特に日本の科学者たちのノーベル賞受賞が目立っていますね。日本人として実に誇らしく、また喜ばしいことです。

イメージ 3 このノーベル賞はダイナマイトの発明者であるスエーデンの「アルフレッド・ノーベル(1833年10月21日生まれ)」の遺言に従って1901年から始まったものです。


 イメージ 4ノーベルは ダイナマイト→ の発明で巨万の富を築き一躍大富豪になりましたが、爆薬や兵器の開発生産によって富を築いたノーベルには世間の一部から批判の声もあったのです。この「アルフレッド・ノーベル」はちょっと気まぐれなところのある人物でした。

 1888年4月12日に彼の兄の「ルードウィッヒ・ノーベル」が心臓麻痺で亡くなりました。ところがフランスのある新聞が何を勘違いしたのか、ルードウィッヒとアルフレッドとを取り違て、アルフレッドへの弔辞を掲載してしまいました。(*アルフレッドは1896年12月10日死亡)

 勿論弔辞ですから言葉は丁寧ですが、ダイナマイトの発明で一躍大金持ちになったアルフレッドの事を「死の商人、死す」という言葉で報道しました。
     
 イメージ 5自分の死亡記事を読んだノーベルはびっくり仰天しましたが、同時に自分が「死の商人」と言う言葉で表現されていことで、自分の死後どんな人物として記憶されるかについて、深く考え込んでしまいました。

 このフランスの新聞は彼の人類に対する愛情や、人間性などについては一切触れていない。なるほど自分はこんな目で世間から見られているのか・・という反省が彼の心の中に去来したのです。

 そこで彼は自分で自分の「イメージチェンジ」をしなければならないと痛感しました。

 彼が遺言の中でノーベル賞を創設する事にしたのは、いくつかの理由がありましたが、その中で最大の理由は、このフランスの新聞の勘違いと「死の商人」というあまり好ましくない言葉を彼が新聞で読んだからだったのです。


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