(59)人力車の発明
「ゲーテ」 1749-1832
1832年の今日3月22日にドイツ最大の文学者・詩人である「ゲーテー」が亡くなっています。
彼は古典主義の代表的作家で主著に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」があります。若いころ「ゲーテ詩集」や「若きウェルテルの悩み」などをよく読んだものです。
親友の許嫁「ロッテ」に対するひたむきな愛とその破局、青春の情感と陶酔、不安と絶望にあふれた抒情的な小説で、晩年のゲーテは自ら「生涯に、このウエェテルが自分のために書かれている、と感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」と書いています。
○ゲーテは典型的な躁鬱型の人間で、約2年間のそう状態の時に次々に優れた作品を発表し、逆にそれに続く7年間は乾燥した沈鬱期がやってきて全く創作しませんでした。 このような周期性は恋愛にも表れ、一度恋心が燃え上がると短期間に同時に数人に傾倒し、その恋愛体験が優れた文学作品を生んでいます。彼の生涯に登場した恋人は14歳のグレートヘンから始まって74歳の時に恋した19歳の少女まで実に12人にも及んでいます。
*「人は多くを願うが、彼に必要なものはごくわずかである。人生は短く、人間の運命には限りがあるから。」
*「人間は地上で楽しむためには僅かの土があればいい。地下で休むためにはさらに僅かの土くれがあればよい」 ・・ゲーテ
↑ ゲーテの切手
〇人力車の発明 「3月22日」
最近は復古調で、各地の観光地でよく人力車を見かけます。京都の嵐山付近は特に多いですね。貸衣装で舞妓姿に変身して人力車に乗ったりします。
現在の日本では人力車はほとんど姿を消しましたが、昭和始めしらんが子供の頃は、まだ乗り物と言えば人力車が主流でした。
駅には客待ちの人力車がずらりと並んでいましたし、医者などのお金持ちの家には、お抱えの人力車と車夫が住み込みで住んでいました。シランも何度か母と一緒に乗ったことがありますが、乗ってみると案外に高くて、車夫がカジを持ち上げると、後ろにひっくり返るようでちょっと怖かったです。
(1897年・人力車)
この人力車を発明したのは、福岡の「和泉要助」と言う人でした。和泉は維新後東京の料亭の手伝いをしていましたが、西洋人が馬車に乗っているのを見て、馬の代わりに人間が引く乗り物は出来ないものか、と考えました。最初の試作品は明治2年に出来ましたが、いざ走らせてみるとひっくりかえったり安定感がなかったりして、なかなか思うようには動きません。その後1年ばかり実験を繰り返し、ようやく完成、太政に使用願を出し、さらに東京府に営業願を出しました。いずれの官庁もこの発明品には好意的で1870年(明治3年)3月22日、和泉は営業許可を得て、初めて人力車が東京市内を走りました。
その営業に当たっては
①通行人に迷惑をかけないこと。
②料金は出来るだけ安くすること。
③高官の車並びに巡邏兵隊などに行き当たった場合は、下車するかまたは脇道によけること。
④火事があった時は近くを走らないこと。
②料金は出来るだけ安くすること。
③高官の車並びに巡邏兵隊などに行き当たった場合は、下車するかまたは脇道によけること。
④火事があった時は近くを走らないこと。
という4条件を出しました。
↑ 明治の人力車(トヨタ博物館)
人力車は驚くべき速さで日本のみならず中国や東南アジアにも輸出され、その生産のピッチをあげるために明治6年には大蔵省から2千円の操業補助を受けて会社組織にしました。自慢話が好きだった福沢諭吉は、人力車のヒンになったのは自分がアメリカから持ち帰った乳母車である、と言っていたそうですが、これはちょっと眉ツバ物の話のようです。
(昭和11年、上海の洋車・ヤンチョ)
・・・・・
*いつもの内科検診へ、血圧124-60で異常なし。
7週間分の降圧剤を貰って来た。
今のところ酒もうまいし、花粉症もなく、快調。
そのうち河川敷のゴルフにでも出かけて見ようかな?