Quantcast
Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
Viewing all 1820 articles
Browse latest View live

(87)今日は十二月八日

$
0
0
         (87)  「十二月八日」
 
 
 今日は12月8日、日米開戦・真珠湾攻撃の日だが、世間ではもうすっかり忘れられているようだ。
 
イメージ 1
 
 
 今朝は12時就寝で5時にトイレに起きた後、朝の8時までグッスリと寝過ごしてしまった。 ぬくぬくと電気毛布にくるまって朝寝をむさぼるなど、とんでもない!!  昔の中学生なら、危うく配属将校にぶん殴られるところだった。。
 
 戦時中は毎年この12月8日には「大正奉戴日」として梅干しだけの日の丸弁当、中学生はゲートル巻いて、鉄砲かついで4列縦隊の分列行進があり、護国神社(昔は招魂社と言っていた)に参拝、捧げ銃(つつ)の敬礼をし、あとは鍛錬のための強行軍という一日だった。 
 
 今は開戦の日だと言っても、新聞、テレビ、まして 掲示板の書き込みもほとんど無い。何と言ってももう70年も前の出来事だから当然と言えば当然だろう。
 しかし、現実に真珠湾攻撃と言う衝撃的な出来事を体験した少年にとっては、12月8日の開戦の驚きと興奮は生涯忘れる事が出来ない一日だった。
 考えてもご覧なさい、いま現在、明日の朝、目が覚めて穏やかな朝を迎えたと思ったら、突然に「戦争が始まった」と、テレビにニュースが流れたとしたら。。
 皆さん、どうします?
 
 
 まして、真珠湾攻撃を受けた方のハワイの市民の驚きはどうだったでしょうか。。
 
イメージ 2

  当時、米市民は米国の演習と思い面白がっていたところ、突然火柱が上がったので驚愕したという。これはハワイ沖の日本航空母艦から飛来したものと思われ、真に決決死的奇襲であったことが窺われる。これに対し米・ホワイトハウスも損害を確認、三千人の死傷者の半数は死者であり、飛行機多数(外電によれば300機)を地上撃破されたと発表。
 
 「真珠湾奇襲攻撃」は米国民同様、日本国民にとっても寝耳に水の大事件だった。
 確かに開戦時の国民は熱狂していた。ABCD包囲網をはじめ、外国が寄ってたかって日本をいじめているという口惜しい思いから、国民は真珠湾攻撃に快哉を叫んだ。 みんな愛国主義だったのだ。  国民のみならず、世間知らずの純真な少年の身ではなおさら興奮せざるを得なかった。
 シランはまだ旧制中学を出たばかり、浪人中の17歳の少年だった。
 当日の日記を見てみると、この日は今日と同じ月曜日で、初冬の明るい日本晴れが広がっていた。
 
 ○  「昭和16年12月8日」
 日米遂に開戦!
 本日午前6時、大本営陸海軍部は、「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」と発表、さらに大本営海軍部は「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対して決死的大空襲を敢行せり」と発表した。
 ラジオは今、この臨時ニュースと軍歌ばかり放送している。
 いまや超、超非常時がやってきた。
 日本民族一億が一つになって英米を討つのだ。   神よ!日本に幸あれ!
  
 今日は日本晴れである。ラジオからは軍歌の「軍艦マーチ」や「勇敢なる水兵」が聞こえてくる。

    ♪護るも攻めるも くろがねの
      浮かべる城ぞ 頼みなる・・。。
 
 今や日本死活の戦いが始まった。 この戦いに勝てば日本は世界第一の強国となり、敗れれば世界の二流、三流の国となる。いや、その独立さえ危ぶまれるのだ。!
   日本は勝つ!断じて勝つ!この意気を見よ!
    ・・・
 (興奮斗緊張のあまり手がふるえてなかなか筆が進まない。。)と書いているところを見ると、17歳の軍国少年は、はなはだ興奮気味で、なにも手につかない状態である。     
 その他、日記には興奮のあまり各地の戦果などさまざまに書き連ねているが、おそらく新聞記事やラジオ発表の書き写しであろう。

 いずれにしても、時移り人変わって、すでに70年の歳月を過ぎては往時茫茫として煙霧のごとし。。
 時の流れとともに戦争の記憶が消えていくのも、詮無き事と言わねばなるまい。
 
 驚いたことにその日から「進め!一億火の玉だ!」という歌がラジオからひっきりなしに聞こえてきたことだ。
 
イメージ 3
 ♪行くぞ 行こうぞ ガンとやるぞ~  
       大和魂伊達じゃない~

  と、初めから終わりまで絶叫型で、なんともいやはや。。
  これが歌か、と思われるような軍歌でした。
 おそらく、戦争が始まってすぐ、慌てて一夜漬けで泥縄的に作り上げたのかもしれません。 それとも大東亜翼賛会の選曲だからこの日の開戦が予定されていて、情報局であらかじめ用意されていたのかも。。
 
 
 
 
    「進め一億火の玉だ」       作詞、作曲  大政翼賛会
 
    ♪ 行くぞ行こうぞ ガンとやるぞ
       大和魂 だてじゃない
       見たか知ったか 底力
        こらえこらえた一億の
       かんにん袋の 緒が切れた
 
          そうだ一億 火の玉だ
         一人一人が決死隊
          ガッチリ組んだ この胸で
         守る銃後は 鉄壁だ
         何がなんでも やり抜くぞ
    

(215)ユリの木

$
0
0
     
       (215)  ユリノキ
 
イメージ 2
 
イメージ 1
 
イメージ 3
 
 「ユリノキ・百合木」はモクレン科の落葉高木で、高さは15mから20mにもなります。北アメリカの原産で幹は太く真っ直ぐに伸びて見事な樹形をしています。
 
 非常に成長が早く、病害虫も殆どないので公園木や街路樹として植えられています。
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 
 ユリノキのユリとは、花の形がユリに似ているからで、百合とは関係がありません。葉は4~6裂して半纏のような形をしていて、ハンテンボクの別名があります。
   紅葉というよりも、黄葉の色合いが味わい深くて実に見事です。
 
イメージ 6
 
 
  城内公園の木立の合間には、佐賀出身の彫刻家「古賀忠造」さんの彫像が各所に建てられています。
 
 
イメージ 7
 
                    前から後ろから・・@@/
 
     
     おや、背中がかゆいのかなぁ。。
     イメージ 8
 
 
               ユリノキの落葉がザクザク。。
イメージ 9
 
     葉が半纏(はんてん)のような形をしているので、「ハンテンボク」の別名があります。
 
イメージ 10
 
  
   *久しぶりの日本晴れで、日差しが温かい・・
     イオン買い出しの車も、中はポカポカでした。
 
     税金納付や年賀はがきの購入などで銀行、郵便局まで自転車でサッソウと。。
     並木の紅葉もすっかり末枯れていました。
 
      ♪ お使いは自転車に乗って。。
 
           お使いは自転車で
           気軽に行きましょ
           並木道 そよ風 明るい青空
           お使いは自転車に乗って 颯爽と
           あの町この道 
           チリリリリンリン
 
 

(216)蔦紅葉(つたもみじ)

$
0
0
   
    (216)   蔦紅葉(つたもみじ)
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
 蔦(ツタ)はブドウ科のつる性落葉木で、巻きひげの先に吸盤があり木や壁に巻き付いて成長します。ツタという名前も「伝う」から来ていると言われています。

 蔦おづらは夏は青々とした緑の葉が、秋には見事な紅葉となって人々の目を楽しませてくれます。
 空気の関係か、都会地では紅葉ほどには鮮やかでありませんが、山地でははっと
するようなきれいな蔦紅葉(つたもみじ)を見ることがあります。
 
 
イメージ 4
 
 
イメージ 7
 
 
イメージ 8
 
 
イメージ 5
 
 
イメージ 6
 
 
 
        桟(かけはし)や命をからむ蔦かづら      芭蕉
 
 
 これは芭蕉の「更級日記」に出る句で、木曽福島の断崖にかかる桟道に、命限りに必死にからみついている「蔦紅葉」の哀れにも美しい様子を詠んだものです。
 
 
イメージ 9
 
 
イメージ 10
 
 
 
 *夜来の雨もお昼頃には止み、思いのほか温かくなりました。
  今日は何十回目かの結婚記念日だというのに、二人そろって歯医者さんへ、・・・
  かぶせ物のやり直しと言う似たような補修です。
 
   今夜は飲み会、一人でこっそり乾杯してくるか。。
 
 
 
 

(217)モクレンとトチの黄葉

$
0
0
       (217) ハクモクレンとトチノキの黄葉
 
 
                   (晩秋の山の小道を行く)
イメージ 1
 

 「トチノキ」は日本特産の落葉高木で各地の産地に自生しています。5,6枚の小葉からなる大きな手のひら状の葉が密集して、ボリュウムのある樹形となります。
 
 初夏にキャンドルのような白い花をつけ、セイヨウトチノキはパリではマロニエの並木道として有名です。栃の実は縄文時代にはトチの実は重要な食用でした。
 
 
       トチの木の黄葉は、黄色というよりも末枯れた茶褐色でした。
イメージ 2
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
 
       「ハクモクレン」の黄葉
 
 
イメージ 6
 
イメージ 11

 ハクモクレンの葉は丸っこい形をしてます。モクレンやこぶしも同じですが、モクレン科の葉は一般に葉のの中ほどよりも先の方が一番幅が広くなっています。
 
 
        雑木の黄葉も、もみじの紅葉に劣らぬ風情があります。
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
 
      散るのみの紅葉(もみじ)となりぬ嵐山     日野草城
    
 
イメージ 9
 
イメージ 10

 
 
   *我が家の駐車場の雑草も枯れ果てました。
    寒波襲来の前に、数日前から縦鎌をふるっての枯草の刈りとりです。
    低い草ですが、50坪ほどあります。
    ちょうど2時間の労働で、枯草の小山が5,6個出来ました。
 
    正月前、これでどうやら恥ずかしくないようになりました。
    腰が少々痛くなったが、年寄りにはいい運動になったかも。。
 
        
     

(218)紅葉さまざま

$
0
0
     (218)    紅葉・黄葉さまざま
 
     (秋の散歩道)
 
          (桜紅葉)  金立公園
イメージ 1
      
          (ナンキンハゼ・多布施川)
イメージ 2
 
 
             (佐賀城・北堀端)
イメージ 3
 
 
       (佐賀・どん3の森)   メタセコイヤ
イメージ 4
  
 
     ↓   もみじ・・仁比山神社
イメージ 5
 
 
 紅葉はカエデだけでなく、柿紅葉(もみじ)、桜紅葉、満天星(どうだん)紅葉、や蔦紅葉などがあり、雑木紅葉や草紅葉にもそれぞれに捨てがたい美しさがあります。
 
 
          (柿紅葉)  神野公園
イメージ 6
 
 
     ↓   (メタセコイヤ)  神野公園
 メタセコイヤは300万年前に絶滅したと思われていましたが、1954年に中国の四川省で発見され、生きた化石として有名になりました。円錐形の真っ直ぐな樹形と赤褐色の紅葉が美しいです。
 
イメージ 7
 
 
   ↓  (ラクウショウ)   佐賀城公園
 「ラクウショウ」は北アメリカの原産で、明治初めに日本に渡来した針葉樹です。メタセコイヤによく似ていますが、樹形がメタセコイヤのように先がとがらず葉が互生になっています。
 落葉性の松、という意味で落羽松(ラクウショウ)という名前がついています。
 
イメージ 8
 
 
     公園と違い、空気が澄んでいるせいか山の紅葉には迫力があります。
 
          (四国・石鎚山)  天狗岩
         
イメージ 9
 
 
                           (八海山の紅葉) 
イメージ 10
 
 
 *今日は晴れた降ったりの典型的な冬の時雨模様でした。
   地場スーパー買い出し、5%引きなので結構混んでいました。
   物価高へのささやかな庶民の抵抗か。。
   明日の選挙が気にかかる。。  トンコトンコ ・・♪
       
 
 
 

(88)忠臣蔵  

$
0
0
     (88)  「忠臣蔵」 
 
           12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日でしたね
 
イメージ 1

 
 
 昔は、正月映画と言えば忠臣蔵と決まっていました。母が浪花節が好きで、よくレコードを買っていましたが、浪花節はたいていは忠臣蔵関係でした。
 
 「殿中刃傷」「南部坂雪の別れ」「赤垣源蔵徳利の別れ」「天乃屋利兵衛」など、いつもよく聞かされました。  特に「殿中刃傷」は、子供心によく覚えています。
 
    ***
 
  〽 中啓もって二度三度、胸を突かれし内匠頭。。
     「う~ぬ~、家来の忠義も水の泡・・」
 
  こらえるホゾの緒切り、大原実盛造りの小さ刀に手がかかったと思うと、大喝一声! 
    「上野! 待~~てぇ~!!」
 
 
  〽 無念や、初太刀がひたい~
    二の太刀も、背なにいささか浴びせたのみ~  吉良はあなたに逃げいだす。
    なおも後をば追わんとすれば・・
     「殿中でござるぞ! 松の廊下でござるぞ! 狂気召されたか、内匠どの。。」

  〽 羽交いにぐっと抱きしめしは、粗忽きわまる梶川与惣兵衛。
    「武士の情けを知るなれば~・・せめてその手をお放しあれ~。。」
     頼めどさらに、聞き入れず。。
     吉良はなたへ逃げ出だす。。
 
        ***
 
 とにかく、子供はこんな事はよく覚えているものです。 80年も経った今でも、スラスラと口を突いて出てきます。
 
  

(89)高齢者講習

$
0
0
         (89) 高齢者運転講習
 
 
  昨日よりは温かいですが、朝からの冷たい雨で気も滅入りますね。
昨日は高齢者運転講習に行ってきました。高齢者の運転はいろいろと批判もありますが、老々生活者にとっては逆に高齢者だからこそ車が必要なこともあります。
 うちでも買い出しや病院通い、散歩などに車が欠かせません。
 
でも、こんどで免許の更新も終わりかな・・それよりも3年後の命の保証もないし。。
毎日、グタグタと駄文を書いているが、あと2週間で91歳、間もなく皆さんともお別れだ。。 トホホー
 
 
         蓮折れて月うすし・・
 
イメージ 1
 

  75歳以上には、まず認知症の検査があります。
ウサギやトマト、飛行機などの画像の記憶は16枚ほどもあるので、なかなか覚えきれません。さすがに3,4個は出てきませんでした。
でも100点満点中、92点で無事合格、記憶力、判断力に問題なしでした。

76点~49点は、多少記憶、判断力が低くなっているとか。。 49点以下はダメなようです。
視力検査、動体検査、視野の検査も高校生なみで合格でした。昨日は80歳の方と三人でしたが、まぁ、普段運転している方はみんな大丈夫なようです。

 実技運転でのクランクや車庫入れに多少戸惑いましたが、50年前の自動車学校を思いだして、懐かしかったです。 今の指導員はみんなやさしいですが、昔は軍隊式でやかましかったですよー。
ギアチェンジで腕は叩かれるし、クラッチの間違いで足は蹴られるし、若いのに何やかやとボロクソに言われるし。。
 
 特にお医者さんや先生には余計やかましかったですね。昔の軍隊の鬼軍曹みたいなものです。
わざといじめるんですよー。
 友人の医師は耐え切れずに途中で学校をやめてしまいました、以後ベンツの運転は奥さんばかり。。 ゴルフの時はシランのオンボロ車に同乗したりして。。
   

(90)頭の体操

$
0
0
    (90) (頭の体操)
 
 高齢者運転講習の時、認知症のテストにこんな問題がありました。
  下手な絵で恐縮ですが・・
 
    このバスは右に行くのでしょうか?
    それとも左に行くのでしょうか?
         (バックはしません)
 
          問題は簡単ですよー。       
 
イメージ 1
 
 
  *今日は高校駅伝で一日が暮れました。
    郷土代表は男子は20番目くらい、女子はビリから4番目くらいか。。
    野球同様、弱小県には有力選手が集まりません。 トホホー
    いつもは九州は強いですが、今年はさっぱり。。
    高校駅伝が終わると、急に年の暮れを実感します。
    

(91)風花に思う・・

$
0
0
            (91)   「風花に思う。。」

 
 今日も寒いですね。
朝、家内を歯医者さんまで送迎しようと、家を出たら晴れわたっているのに「風花」がひらひらと舞っていました。 山の方を見ると雪雲が真っ黒、山なみは右から左まで真っ白でした。
 
 こんなふうに、空は晴れているのにどこからともなく小雪が舞い落ちるのを「風花・かざはな」と言います。 青空の遠くから風に乗って、ひらひらと何処からともなく小雪が舞い落ちてくるのです。
 
 学友のAは俳誌を主宰していましたが、30年ほど前に阪急電鉄の踏切で電車にはねられて亡くなりました。前衛俳句の旗手として、伝統俳句との壮烈な戦いを続けてた彼が、どうして自ら死を選んだのでしょうか。。
 命を懸けて俳句を愛していた彼は、俳句に対する芸術的な悩みがあったに違いありません。
 
     俳句思へば  泪(なみだ)わき出づ  朝の李花      兜子
 
 
 彼は同期生の司馬遼太郎と、若いころ同じ新聞記者として親交がありました。
 ある時、二人で越後へ旅行した事があり、その時のことを司馬さんはこう書いています。
   ・・・・
 越後・湯沢の宿で、遅い晩飯を食べ、二人で茶碗酒で飲んでいると、急に兜子の顔が急に哭(な)き出したのを覚えている。なぜ泣くのか私には見当もつかなかったし、質問もしなかった。私は兜子の顔が勢いよくゆがんで両眼から盛んに水が流れ落ちるのを眺めていた。・・・
   ・・・・
 彼は命を懸けて愛した前衛俳句に行き詰まり、彼自身が強く排斥していた花鳥風月の伝統俳句に戻らざるを得なくなって、自らの進路を見失ってしまったのだろうか。
  死の前に残した俳句に風花の句がある。
 
         父として生きたし風花舞う日にも    兜子
 
 学生時代に友人と京都・六万遍にあった彼の下宿を訪ねて一泊したことがある。
  戦後、彼は京大の文学部で学んでいた。
 
 かれは風呂から出てきて、窓辺に腰を下ろし、剃って来たばかりの自分の頬を撫でながら「おお!乙女の柔肌のごとし」と言ったので大笑いしたことがある。豪快、魁偉な彼のご面相に乙女の柔肌(やわはだ)とは・・とても考えられない組み合わせだったのである。
 
 彼が外語を繰り上げ卒業して軍隊に入るときの句がある。  20歳だった。。
 
     ほろぶものすべて帰らず年暮るる
     征(ゆ)きて死ね寒の没日(いりひ)といま別れ
     年用意われには胸に隠す遺書
 
   彼の通夜には司馬さんと一年先輩の陳舜臣さん、それに同級の吉井が参列した。

 
     歯を病みて通夜のたてこむ寒さかな    吉井

  
 今日のように風花が舞うと、いつも若くして不慮の死を遂げた鬼才「兜子」のことを思い出さずには居られない。  少壮気鋭の反逆児はどこへ行ってしまったのだろうか。
 彼の不慮の死から早くも30年。。もはや彼のかっての活躍を知る人も少ない。。
 
        雲の上に雲流れゐむ残り菊      兜子
 
 
          (残り菊)
イメージ 1
 

(92)年賀状

$
0
0
      (92) 年賀状 
 
  遅まきながら昨日から年賀状造りに追われています。
  あとはちょっとした添え書きを書くだけ。。
 
     一行の心をこめし年賀状    高浜虚子
 
 
 以前は年賀状作りも毛筆でいちいち書いたり、イモ版、手彫りの木版画、プリントゴッコ、ワープロでと色々苦心しましたが、最近はすっかりパソコンにお世話になって楽ちん、楽ちんです。
 でも、この年になると親類縁者はもとより、友人知己も少なくなって、賀状の数もほんとに少なくなりました。年賀状の時期は老人にとっては、人生の黄落の季節を思い知らされる時期でもあります。
 
  ところで、いったい「年賀状」と言う風習はどのようにして始まったのでしょうか。
 日本では昔から新年の回礼という風習があり、隣近所から村落内、さらには本家分家のあいさつなどの挨拶周りが行われていました。それぞれの家では「蓬莱山飾り」を三方にのせ、回礼者はその三方に手をふれて帰ってきます。これは、新年の共同飲食を象徴化し、儀礼化したものと言われています。
 
 もともと鎌倉、室町時代には、宿将や老臣たちが将軍を招いて「椀飯振舞い・おおばんふるまい」をしました。正月の行事にはこうした共同飲食が欠かせませんでした。 
 ところが、明治時代になると回礼は簡素化され、家をたずねては名刺を置いてくるだけ、というようになり、さらに郵便制度が発達してくると、名刺を封筒に入れて送るようになってきました。
 
 (私の小さい頃は元旦の玄関に、00氏と苗字を染め抜いた藍染めの幔幕(まんまく)を張り、一歩中に入った土間に「文箱」が置いてありました。父も、羽織、袴に「とんびマント」を着て、中折れ帽子をかぶって新年のあいさつ廻りをしていました。知り合いの各家の玄関に置かれている文箱の中に名刺を置いてくるだけなのですが。。)
 それがさらに簡略化されたのが、現在のハガキによる年賀状というわけです。
 
 中学時代の友人のお父さん宛の夏目漱石の年賀状。(東大で一緒だったとか。)
 謡曲の文句とともに、般若の面が描かれています。
 昔の事ですから手書きでしょうが、なかなか凝っていますね。 
  

 
イメージ 1
 
 
   

(93)年の暮れ

$
0
0
      (93) 年の暮れ
 
 
 慌ただしく大晦日も暮れて、最後の日ももう終わろうとしています。
 多発した災害と内憂外患、今年を象徴するように、晴れたり、降ったりの時雨模様で、珍しく雷が鳴ったりして荒れ模様の年の暮れでした。
 
  今年は、皆さんにはいろいろとお世話になりました。
  来年もよろしくお願いします。
  皆さん、良いお年をお取りください。
 

        行く年の 大河滔々と 流れけり    虚子
 
 
         (上高地・霧の梓川)          和紙屋 紫蘭
 
イメージ 1

明けましておめでとうございます。。紫蘭

$
0
0
 
 
イメージ 1
                        
                           (朝日連峰の夜明け)
 
 
 みなさん、明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い致します。
 
 朝の内はちらちらと小雪が舞っていましたが、時には陽もさして何とか四方拝を済ませました。

 
     元日や手を洗ひをる夕ごころ    芥川龍之介
 

 お屠蘇機嫌でうたた寝をしていたら、何時の間か日も暮れてしまいました。
 いつものことながら、元日の日暮れどきは何となく侘しいものですね。
 
 
 

(2)初夢

$
0
0
      (2) 初夢
 
  元日もあっという間に過ぎて、今日ははや二日、箱根駅伝を見ていたらもうお昼です。
 
 正月の行事には一年の初めとして「初」の字のつくことが多いですね。
 初日の出、初空、初凪、初詣、書き初め、買い初め、初売り、初荷、初湯、初鏡、稽古初め、御用始め、出初式。。
 
 初売りは昔は「二日商い」と言って、たいてい二日の朝早くと決まっていましたが、今年はどこのスーパーでも元日から初売りをしているようですね。それだけ、競争が激しいのでしょう。
 
 初行事の中でも、特に今夜は「初夢」の夜ですね。
 正月二日の夜に見る夢を「初夢」といい、昔はめでたい吉夢を見るように枕の下に七福神の乗った宝船の絵を敷いて寝たものです。
 もし悪夢を見たときは、夢を食う獏(バク)に食わせてしまうという意味で獏の絵を敷くこともありました。これを「獏枕」と言います。
 
 初夢は「一富士、二鷹、三なすび」と言って、富士山が一番めでたいとされていますが、一説ではこれは静岡の名産の順序だそうです。駿河は徳川家の本拠なので、江戸時代の最高権力者・将軍家にあやかったものかもしれませんね。
 
 宝船の絵には、回文と言って、前から読んでも後ろから読んでも同じという、めでたい文句が書かれています。
 
     なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな 
 
 
 *(長き夜の 遠(とお)の睡(ねむり)の 皆(みな)目醒(めざめ) 波乗り船の 音の良きかな)
 
 
     皆さん、今夜はよい初夢をご覧ください。   紫蘭
 
 
                          (鳳凰三山より 霊峰富士山を望む)
イメージ 1
 

(3)三日はや。。

$
0
0
     (3) 三日はや・・
 
 正月三ヶ日もあっという間に過ぎて、一月三日ももう暮れようとしています。
紫蘭も今日でまた一つ馬齢を重ねて、91歳になりました。
おかげでマイブログも91歳ブログ「紫蘭の部屋」に進級です。
 
 でもなんとマァ、長く生きてきたものか。。
一世紀近くも・・と、我ながらほんとに驚くほどです。
戦中戦後の動乱期を、さして大病もせず、ボケもせずに何とか幾山河を乗り切ってきました。人間は20歳を過ぎると、一日に10万個の脳細胞が死滅して行くそうですから、シランの脳細胞は余すところいくばくか。。
 
 でも、まだ多少の記憶細胞は残っているようですから、これからも絞れるだけ頭を絞って、遠い昔の思い出をブログに残しておくつもりです。
 駄文、駄写ばかりですが、今年もよろしくお願い致します。 

    三日はや くもおほき日と なりにけり  久保田万太郎
 

 今年は、孫娘の大学受験が間近なので帰省せず、我が家の正月風景も静かなものでした。おまけに年末に帰省した娘が風邪を持ち帰り、家内ともども枕を並べて打ち伏しております。

 元気なのは九十路のシランひとり、おせちの残りも少なくなり、今日は自転車に飛び乗ってスーパーまでひとっ走りしてきました。
 しかし、昨日までの荒れ模様とは打って変わり、日差しが温かくていい運動になりました。
 
   元日は何とか年酒の行事だけは済ませました。。
 
 
     年酒して 凡医の友を 恃(たの)むかな     石田波郷
 
 
イメージ 1
 

(4)正月床飾り

$
0
0
   (4) 正月床飾り 
 
  今日は正月ももう四日、早いものですね。今年は雪が多いですが、正月三ヶ日に降る雨や雪のことを「御降・おさがり」と言います。初風とか初晴れと言うのと同じように、雨も風も正月に降る物はとにかく有難いと思う気持ちからの敬称なんでしょうか。
 
      お降り(おさがり)の つぶやき消えて 昏(く)れにけり     阿部みどり
 
  
  今年は孫たちも来ず、家内も風邪で伏せっているので、正月三ヶ日も侘しいものになりました。
 戦時中を除き、90年来こんなことは初めてです。
 
     一人居(ひとりゐ)や 思うことなき 三ヶ日    漱石
 
 
 「正月床飾り」
 
イメージ 1

 
 
ところで昔は、正月にはたいてい何処でも床飾りをしましたが、最近の建物には床の間が無い家が多いので、今頃はどうでしょうか、。。うちでは今でも正月の床飾りに「鏡餅」とともに「蓬莱山」を祭り、屠蘇酒を頂いて年を取ります。

        ほうらいの やままつりせむ 老いの春    蕪村

 上方では「蓬莱・ほうらい」と言いますが、むかし江戸では「食積・くいつみ」と言いましたが、今は「食い積め」はおせち料理のことを言うようです。
 
 「蓬莱山祭り」「三宝」 の上に白紙を広げ、その上に昆布、するめ、しだ、ゆずり葉を敷き、米一升を山形に盛りあげます。
 山形にするのは、不老長寿の仙人が住むという古代中国の「蓬莱山」にあやかってのことです。
 (ただし、お米は一升からひとつまみだけ減らすのがミソです。ほら、昔から満つれば欠ける・と言うでしょう・・)
  その上にだいだい、木炭、野老(ところ)ミカン、勝ち栗、干し柿を並べて置きます。
 
イメージ 2
 
 
 「蓬莱」も、「食い積み」も、今年も食べ物に困らないように、との願いが込められていると思われます。
 昔は、住居の安定も人間の願いだったのでしょうか、一升の米、ダイダイ、ところ、炭と並べるのは、「一生、代々、所に住む」という意味のお飾りです。でも、最近は一生同じ所に住むのが果たして幸福なのか、どうでしょうか。。
 野老(ところ)は髭が長いので、シワの多い「干し柿」と共に長寿の願いが込められたお供えですが、最近はこの野老も少くなって高いうえに、求めるのにも難渋します。
 
 最近は「蓬莱山祭り」など、こんな古風な床飾りをするところも少ないのでしょうか。  
 世の中、「数え年」がなくなってしまって、年取りの行事も、もう古臭い作法になってしまったようです。。。
 

(5)正月五日の初詣

$
0
0
       (5) 正月五日の初詣
 
 我が家の風邪騒動でいつもの家族連れの三社参りが出来なかったので、遅ればせながら昨日一人で歩いて市内の三社の初詣に行ってきました。案外に温かい日和でテクテク歩いていると、汗ばむほど、一枚、二枚と上着を脱ぎ捨てて2時間半、足腰が疲れてさすがに91歳の老いを痛感しました。
 
              「氏神さま・佐賀竜造寺八幡宮」
 
イメージ 1
 
  
 
  ヨタヨタと歩いていると、民家の門口のしめ縄が目につきます。でも、昔と違って門松はほんとに少なくなりました。昔は、門松としめ飾りのない家はなかったのですが。。
 
   「1月1日の歌」
 
     ♪ 年の初めのためしとて
       終わりなき世のめでたさを
       松竹立てて門ごとに
       祝う今日こそめでたけれ
 
 歌にもあるように、正月には昔から玄関に「門松」を立てました。
これは玄関先を清め、邪気などが家の中に入らぬようにして、新年の歳神様をお招きする為の風習です。一般庶民の家では、今の銀行などのような大げさなものではなく、玄関の両側の柱に、根元を奉書で巻き水引で結んだ、小さい根付きの松を打ち付けただけの簡単なものでした。
 
 ところで神社や会社では今でも大きな門松が立っていますが、あの青竹の先は斜めに切って尖らせてあります。どうしてかご存知ですか?
 
            (大型の門松)
 
イメージ 2
 
 
 これは昔、徳川家康が三方ヶ原で武田信玄と戦い惨敗、家康はこの敗戦を悔しがって、刀を抜いて青竹を斜めに切り落としたと言われています。
 武田を竹になぞらえて、次の戦いでは必ず竹を斬る!と言う思いが込められて居るそうです。
以来、門松の青竹を斜めにそぎ落とすようになったとか。。
 
 三方ヶ原の戦いは家康の唯一の敗戦ですが、敗走中の家康が途中で腹が減り、茶屋に立ち寄って餅を食べていたところ、敵の追っ手の兵が迫ってきたので、あわてて代金を払わずに逃げ出したそうです。
 そのとき、茶屋のばぁさんが家康の後を追いかけてモチ代を取り立てたという面白い話が伝わっています。 な、なんという豪傑おばさんでしょうか。。@@/
 
  「しめ縄の話」
 
             (これは一番普通に使われる注連縄ですね。)
 
イメージ 3

 
 
 もともと年神様は門松に降りて来られますが、しめ縄はその神様の占有地を象徴するもので、正月に限らずほとんどの神社の社には注連縄が張ってあります。
 これから先は俗世間を超越した神域であることを意味していますが、この注連縄の起源は天照大神が天ノ岩戸から出てきた時、大神が二度と天ノ岩戸に入れないようと、縄で入口をふさいだのが起源とされています。
 
 注連縄にもいろいろあります。ただ細長い縄を張ったものや、輪型になったもの、大根のように太くて豪快なものなどさまざまです。
 
            (佐賀・松原神社のしめ縄)  歴代の鍋島藩主を祀ってあります。
 
イメージ 4

   
 神社の注連縄の大きなものの代表格は出雲大社の注連縄ですが、日本で一番大きいのは神功皇后を祭神とする福岡の宮地嶽神社の注連縄だそうです。
 出雲大社のも同じ型ですが、これは大根型というのでしょうか、農作物の豊作にも関連があるのかもしれません。
 
                    「宮地嶽神社」
イメージ 5
 
 
 珍しいのは、佐賀藩に伝わる「鼓型しめ縄」です。
 この鼓型しめ縄の由来は、天草四郎時貞の島原の乱(1637-38)の原城攻めの際、勇武をもって鳴る鍋島家は一番乗りの軍功をあせって、江戸幕府から「抜け駆け」の軍律違反に問われて謹慎処分になりました。
 
 この謹慎処分が正月直前になって突然解かれたため、正月行事の準備が間に合わず、鍋島藩では大急ぎで米俵などをほどいて、にわか仕立てに造ったのが、この鼓型の正月注連縄の始まりといわれています。

           (佐賀城・本丸御殿)
イメージ 6
 
 
   正面の門松も簡単な素朴なもので、付近の有りあわせの松の木を切ってきて、慌てて立てたような趣があります。 
 そういえば、このしめ縄の形はお能の鼓にそっくりですね。鍋島藩では能楽が盛んだったのでしょうか、鼓に似せて稲わらで作った注連縄には独特の雰囲気があります。今年も佐賀城・本丸御殿の玄関に、この大きな鼓型のしめ縄が張ってありました。
 
               (珍しい鼓型注連縄)           
 
イメージ 7
 
 
*今年は散々な三ヶ日でしたが、今日あたりようやく家内の熱も下がり始め、少しは食事を作れるようになりました。
 でも、食料欠乏のためイオンに買い出しだけで今日は終わりました。
 昨夜の雨で、さすがに客足も商品も少なかったです。
 明日は七草・・早いものだ。。
 
 

(6)七日正月

$
0
0
      (6) 七日正月
 
 今日は1月七日、「七日正月」ですね。
また正月七日のことを「人日・じんじつ」とも言います。
古代中国では、元日から八日までをそれぞれ鶏、犬、豚、羊、牛、馬、人、穀の八つに当てて占いをしたので、人の日にあたる7日を「人日」と呼ぶのです。
 
     何をもて 人日(じんじつ)の客を もてなさん   虚子
 
 
イメージ 1
 
 
          たわいなき年酒の酔ひを見られけり   速水草女
 
 
 正月七日には昔から七種類の若菜を入れたお粥を食べる風習があります。
 七種粥(ななくさがゆ)と言い、これを食べると万病に効くという中国の習慣が日本に伝わり、全国に広がりました。
 
 七草はふつう、芹、なずな、ゴギョウ、はこべら、仏の座、スズナ、すずしろ、の七つですが、その中心はナズナです。そこで「七草粥」のことを一名「なずな粥」ともいい、その若葉をわざと大げさに音を立てて、叩いて刻むので「ナズナ打ち」とも言われています。これは「悪鳥」を追い払う意味があるそうで、所によっては刻むとき調子を採ってナズナの「囃子歌」を歌う風習もあるそうです。
 
 「七草」と言っても若菜を摘むのは旧暦の春さきのころなので、新暦の現在はこの七草が正月七日に全部揃うものではありません。 今はハウス栽培で特別に育てるのでしょうか。。
 七草がゆは万病に効く、というよりも、実際は正月のご馳走で傷んだ胃腸を回復させる意味があるのでしょう。
 
 
         なずな打つ とぎれとぎれの むかし唄   小川匠太郎
   

(7)寝正月

$
0
0
       (7) 寝正月
 
   「寝正月」
 
 あっという間に正月七日も過ぎてしまいました、ほんとに早いものですね。
 みなさん、昨日の七草粥で元気モリモリですか。。
 
   六日八日(むいかようか)中に七日(なぬか)のなづな哉    鬼貫
 
 今年の我が家の正月は散々でした。
 帰郷した娘が年末に発熱して寝込み、元旦からはその風邪がうつったのか入れ替わりに家内が寝込んでしまいました。節々の痛みと咳がひどいので或はインフルエンザだったかも。。予防接種も完全ではないようで。。
 
 病院が休みなので、とりあえず手持ちの抗生物質を飲んだら、昨日あたりからやって熱も下がり、今朝はどうやら台所に立っている、という有様。
おまけにシランもふとももに神経痛が起こって2,3日はズキズキと眠れないほど。。ロキソニンを飲んで何とかごまかしています。
 
 おかげで屠蘇酒もいっぱい残っていますが、大学受験を控えた孫娘が帰郷しなかったのが、逆に不幸中の幸だったかも・・と胸をなで下ろして安心しきり。。
 
 まさに90年来初めての不作の「寝正月」でした。
 正月に病気で寝込むことを、縁起を担いで「寝正月」ということもあります。
 

      松風も つのればわびし 寝正月   高田蝶衣
 

          国家安穏    社稷康寧
         
天下泰平      万民和楽
 

             なにはともあれ、氏神様に、パチパチ。。                 しらん
 
イメージ 1
 
 
 

(8)おせち料理

$
0
0
          (8)  「おせち料理」
 
 お節料理は、もともと「御節供料理」といい、正月だけではなく、端午の節句などの五節句の時の料理はすべておせち料理と言いましたが、最近は特に正月料理のことをおせち料理と呼んでいます。
 
 正月料理は、年賀の客をもてなすために重箱などに正月料理を詰め合わせて置きます。 そこで、関東ではおせちのことを「喰積・くいつみ」とも言うそうです。
 
          喰積に 時々動く 老いの箸   虚子
 
 
        今年は孫たちが来ず、ちょっと侘しいおせちの席でした。
 
イメージ 1
 

   お節料理の中身にはいろんな意味が込められています。 たとえば・・
 
 「エビ」は腰が曲がるまで長生きするようにと言う意味だし、「鯛」はメデタイに通じ、「くわい」も大きな芽が出るので目出度い食べ物なのです。また、穴のある「レンコン」は見通しが明るいし、「ゴボウ」や「なます用の大根」は、どちらも地中深く根を張ると言う意味で、家庭の安定を願い、「里いも」は子だくさんを祈るものです。
 
 また「紅白の蒲鉾」は赤米、白米を意味し、「伊達巻」「卵焼き」は巻き物(書物)に似ているので学問の上達の意味があり、「数の子」はもちろん子孫繁栄を意味していますが、「昆布巻き」も(よろこぶ)に通じ、「黒豆」も一年をマメに暮らせるように、という語呂合わせなのです。
 
 「キントン」は(金団)と書き、財宝と言う意味があり、「田作り」は(五万米・ごまめ)とも言いますが、これはカタクチイワシの子供を干したもので、昔は灰に混ぜて田んぼの肥料にしていました。そこで今年も良いお米が獲れますようにとの豊作祈願がこめられているのです。
 
 
   ごまめ噛む 歯のみ健(すこや)か 幸(さち)とせむ    細川加賀
 
   ・・・

 などと、鹿爪らしく講釈を述べながら、シランがそんな感謝の気持ちでお節を食べて居るわけではありません。 ただ、年酒の肴として、固い田作りもレンコン・ごぼうも遠慮会釈なくガリガリと食べられる、自前の26本のわが歯に感謝しながら食べているだけなのです。
 
 
        年酒して 凡医の友を 恃(たの)むかな     虚子
 
 
 ちなみに、正月三ヶ日に歯の根を固めて一年中健康であることを願って、固い食物を食べる行事のことを「歯固め」と言います。鏡餅、勝ち栗、串柿,するめ、昆布などなど。。
 
 
        老幼の 歯固めに木の実 祝ひけり    名和三幹竹
 
 
 

(9)十日恵比寿

$
0
0
     (9) 十日戎(えびす)
 
 1月10日、今日は十日戎ですね。
 朝から合図ののろしが上がっていました。ドーんと音がする打ち上げ花火を、こちらでは「ヒヤ」と呼んでいます。戦国時代の「火矢」から来た言葉でしょうか、運動会や神社のお祭り開始の合図によく打ち上げられています。
 
 学生時代は南海電鉄沿線の粉浜に下宿していたので、難波から乗る電車が朝夕、今宮戎の駅を通過しましたが、当時は恵比寿さんには何の関心もありませんでした。戦時中の爲か、あるいは学校の正月休みで大阪に居なかったのか。。
 
           雑踏に 十日戎の 月高し   伊賀文章
 
 「戎(恵比寿)さん」は「七福神」の中の一人で、釣り竿と鯛を両手に持ってほほえんでいる神様です。   漁業の神様、商売繁盛の神様、福の神として庶民に親しまれています。
 
 佐賀市内にはどういうわけか、昔から町の町家の軒先や古い長崎街道の辻々に恵比寿さんの石像をたくさん見かけますが、今はなんと775体もの恵比寿さんが街中に祀られているそうです。
 
 現在も、街角にあるそれぞれの家の個人が毎朝、花や水を上げて管理しています。毎朝打ち水をして手を合わせ、また毎月1日と15日には榊を取り換えて家内安全・商売繁盛を祈ります。(昔はこれにご供(ごっくうさん・ご飯のこと)と塩、水を添えたものです)
 
 
イメージ 1
 
 
 えびすさんは普通、右手に釣竿を持ち左わきに鯛を抱えているのが普通ですが、佐賀の街のえびす像は千変万化、様々な形をしています。

 最近は歴代の佐賀藩主をお祭りしてある「松原神社」の境内にも、新しく大きなエビス像が祀られています。この恵比寿さんは、一般的な恵比寿さんが鯛を小脇に抱えている座像と違い、鯛を釣り上げた格好になっています。
 
 
イメージ 3
 
 
 恵比寿さんは商売繁盛の神様なので、そのご利益に預かろうと、恵比寿像の「八十八ヶ所巡り」というツアーまで出来て、宝くじを手にしたオバサンたちが熱心にお参りしている姿をよく見かけます。
 
 
         福笹を かつげば肩に 小判かな   山口青邨
 
 
イメージ 2
 
 
 佐賀の街になぜこれだけ多くのエビス像があるのかは諸説がありますが、鍋島藩主が総本山の西宮から恵比寿像を譲り受けて有明海の近くに祀ったのが最初と言われています。佐賀藩の漁業の興隆を願ったものでしょうか。。
 
 
イメージ 4
                                 (相当古い戎さんですね。 鼻まで欠けて・・)
 
 
Viewing all 1820 articles
Browse latest View live




Latest Images