(38) 「紀元節」
朝起きてみて驚いた。一面の銀世界の中にボタ雪が深々と降り積もっている。昔から紀元節のころはよく雪が降るが、今年ほど降る年は少ない。昔はどうだっただろうか、人間の記憶はほんとにあいまいなものだ。日記には雪が降ったとの記録があってもその寒さの深度は覚えていないのだ。
昨日は2月11日、建国記念日だった。昔はこの日を「紀元節」と言った。
学校の授業はないが、式があるので登校しなければならない。昔は子供も晴れ着の着物を着て、改まった気分で出かけたものだ。紀元節の頃は、最近のように雪が多くて、下駄ばきの生徒は雪が歯に挟まって転んだりして歩きにくい。田舎の小学校では登校する時に、先頭の上級生がデッキブラシで雪をかき分けて、一列に並んで歩いて行ったそうである。
(雪の紀元節・画・南窓さん)
登校すると生徒全員,講堂に整列して紀元節の式が始まる。まず君が代の斉唱に始まり、校長先生が壇上に上がって御真影(両陛下のお写真)を奉安した扉を開き、「朕おもうに・・」と教育勅語を厳かに奉読したのち、堅苦しい訓話がある。そして最後に「紀元節のうた」をみんなで斉唱して終わりである。
♪ 雲に聳(そび)ゆる高千穂の
高根おろしに草も木も
なびきふしけん大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそたのしけれ
それから各教室に戻って記念の紅白の餅を貰って帰るのだが、寒い時期だけに、冷たい板の間の講堂で裸足のまま、鼻水をすすりながら長い間突っ立っていた生徒たちは、やっと人心地がついて祝日らしい嬉しい気分になるのである。
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(神武東征)
ところで戦時中の学生時代には、この寒い紀元節の頃はどうしていたのだろう、当時の古い日記を少し紐解いてみよう。 大阪外語に入学した翌年、まだ1年生で18歳だった。
** 「昭和18年2月」の日記
〇 「2月1日」 晴れ
6,7時限目欠課して映画「愛の世界」を見る。不良少女「山猫とみ」を主題にする高峰秀子主演、新鋭・青柳信雄監督の演出で近来になく面白い映画だった。「愛の世界」と言っても恋愛物ではなく、筋がまとまって画面も美しく、人の心を打つ、ほんとにいい映画だった。何とも言えない感動と満足感を得て帰途についた。
〇 「2月2日」
舟橋聖一著「徳田秋声」と泉鏡花著「註文帳」を買い求む。今日は寒くて背中がぞくぞくした。
〇「2月3日」
回覧同人誌に何か書こうと思っているが、いざ書こうとするとなかなか書けないものだ。近頃は学校食堂で天丼を二杯食べないと腹の虫がおさまらない。だから学食に二回並ぶわけだ。高島屋の本屋で田山花袋の「生」を買う。明日は戸田と奈良へ写真を撮りに行くつもりだが、夕方から雨が降り出した。憎らしい雨だ!
** → 戸田は鳥取県出身、教室の席が直ぐ後ろだったので特に親しかった。良く彼と奈良や京都、映画や芝居を見に行ったものだ。彼はバスケット部の選手、明るくさっぱりとした性格で、軍隊では航空隊だったが、空襲で上半身にひどいやけどを負った。10年ほど前、京都であったのが最後だった。
久しぶりに若き日の写真を見て、懐かしい!
〇「2月7日」
雨。奈良行き中止、映画「希望音楽会」を見た。
〇2月8日 雨
毎月8日は大詔奉戴日である。戸田から譲り受けた購入券で配給靴を買う。牛革ならんと思いしに、豈はからんや、クジラの革ならんとは!!十一文八分。22円66銭、半革や裏金の鋲を打って貰ったら別に4円80銭もかかってしまった。実にばかばかしい。鯨の革だから、海の上を歩くのなら好都合だろうが。。 マァ、仕方がない、これで卒業までは保つだろう。
風邪を引いたらしい、鼻水が出て頭が痛い。明日は耐寒行軍だというのに。。
〇「2月9日」 雨と雪
耐寒行軍、行軍とは名ばかり、全くの野外教練だ。雨を交えた横なぐりの雪をついて、冷たい水の中をじゃぼじゃぼと急進し、さらに川に飛び込んで、靴やゲートルは水浸しだ。午後はその濡れたままの服装で、野外に1時間ばかり伏せの姿勢で守備の訓練である。 とにかく、辛かった。
夜、クラスの同人誌の原稿を書く。
(中学時代の行軍・延々と・・)
〇「2月11日」
紀元節。式後、報国団の歌の練習あり、昼過ぎから何かにかぶれたらしく全身に吹き出物が出来始めた。
〇「2月12日」
ついに顔にまで湿疹が出始めた。学校を休もうかと思ったが思い切って出かけた。学校では顔には吹き出物が出ずに助かったが、最後の七時限ごろにまた顔に現れ、カユイ、カユイ、痒さ耐えがたし。同級生が何かと心配し、慰めて呉れるのが有難い。帰途、薬局にて聞きたれば「蕁麻疹」とのこと、さては学校食堂で食べたサメの肉が当たったのか。。近頃の学食は何でも天ぷらにするから、その油が悪かったのかも。。 とにかく油類は一切だめだ、との薬屋のおっさんの宣告である。
ああ、カユイ!カユイ! 家より小為替届く。
〇「2月13日」
昨夜から下痢しきり、逆にそのせいなのか、かゆみ、腫れ共に快方に向かう。但し、今日の射撃部の練習は取りやめた。映画「戦いの術」というのを見たが、まことにつまらん。天王寺動物園に行く。母校の佐中の生徒4,5名と出会う。受験だろうか? 1年前の我が身をを思い出して懐かし。。 〇「2月14日」
一日中、同人誌「雑草」の原稿を書く。創作「ある老人の話」と「妹よりの手紙」の2編、それに散文詩「星」。 家より「ごぼう⦆が送ってきた。はるばると・・
* 自称、文学青年を気取った仲間たちが、ガリ版で作った真似事の文芸誌「雑草」は、踏まれても踏まれても尚、たくましく生き抜くという意味だった。
↑仲間たち。上六の関急映画館前にて、映画は「怒りの海」らしいが、忘れた。
〇「2月20日」
今日、土曜より日曜夕方まで奈良県柏原までの耐寒強行軍。
国分より柏原まで、次いで柏原より高田まで行軍、史跡見学を交えて44キロだった。柏原神宮道場にて一泊。
明日は休みかと思いきや、なんと「明日は平常通り授業がありますヨー」 だと。。
(樫原神宮道場前にて)
← 上の写真の中に偶然メガネの司馬遼太郎さん(左下)のすぐ後ろにシランが並んで写っていた‥奇遇である。
〇「2月27日」
勤労奉仕・防空用の貯水池掘りに粉浜へ行く。もっこ担ぎで肩がめり込みそうに痛かった。
〇「2月28日」
勤労奉仕・防空壕と貯水池掘りに生野へ。
昼飯はとてもご馳走で、昨日のお握り二個とは雲泥の差で、食べきれないほどだった。飯がうまいと途端に元気が出る。しかし洋服はびしょ濡れだ、衣食両立せず!? ・・と、言ったところか。。
国語と、法律の勉強をする。
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*昔の日記を見てみると、こんな事があったのか?と、我ながらなかなか面白い。まだまだ少年なので、食べ物の事や軍事教練、勤労奉仕の辛さが主で、勉強のことはとんど書いていない。ただ、よく友達と映画を見に行き、古本屋で本を買って読んでいたようだ。クラスで回覧の文芸誌を作って、勝手に小説や短歌、、俳句めいたものを書いていたのも懐かしい。
昭和18年はまだまだ戦争の深刻さが内地には伝わっていないようだが、これからは日記の内容も次第に深刻になってくる。日記の内容も単なる日常の生活の記録ではなく、精神的な大人じみた内容に変わっていく。文学書の読みすぎか、間もなく戦争に行かねばならぬ心の焦りなのか。。
**あれから75年経った昨日の紀元節も寒かった。
でも、牡丹雪の合間に時折除く青空が済みわたってすごくきれいだった。風と雪で空中のゴミが払い落されたのだろうか。
75年前の紀元節はどうやら雨だったようだが。。
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(裏の小川の雪景色・・今朝)