「天然色写真」 6月1日
令和元年の5月もあっという間に通り過ぎ、今日は早くも6月。
まだ、なんとかブログの命もつながっているようです。終わり良よければすべて良し、有終の美を飾るため、今少し頑張ってみましょう。
今日、6月1日は昔なら衣替えの日ですが、今は「写真の日」です。
昔の記録では、天保12年(1841年)6月1日に薩摩藩主・島津斉彬を写した写真が日本人によって行われた最初の写真撮影となっていたので、昭和24年にこの6月1日を「写真の日」として制定されました。(*あとでこの写真の撮影は、実は安政4年(1857年)9月17日だったと判明したが、写真の日ははそのまま6月1日になった)
←島津斉彬の写真・1857年
写真と言えばシランも子供のころ、10銭カメラという大型のマッチ箱のような四角い写真機でよく写真を撮りました。カメラと言ってもおもちゃのようなもので、正面に1センチくらいの固定レンズとその横に爪の先のような小さいシャッターが付いて着いているだけの簡単なものでした。
背面の上の隙間からネガフイルムを差し込んで、シャッターを押し、1,2,3・・と10秒くらい数えてからシャッターを閉じるのです。写される方はもちろん、眉一つ動かしてはいけません、写真がボケてしまうからです。
(ハイ・チーズ) 昭和11年
そのあと、暗室の中で手探りで、小さい琺瑯製のバットに近くのマルコ堂というカメラ屋さんから買ってきた赤い現像液と青い定着液を入れてフィルムを現像し、水洗して乾かします。定着液の中のフイルムに次第に景色や人物の顔が浮かんでくると、子供心になんとも言えない興奮を覚えたものです。
その後、フイルムと印画紙を合わせて何秒か電灯にかざして印画紙に焼き付けをします。
その後、フイルムと印画紙を合わせて何秒か電灯にかざして印画紙に焼き付けをします。
以来、蛇腹式のカメラや、箱型の二眼レフ、ニコンの35ミリカメラ、キャノンのオートボーイから最近のデジカメまで、80年近いカメラのお遊びでした。
ところで、昔は写真と言うと白黒のモノクロ写真ばかりでしたが、今はすっかりカラー写真に取って変わられました。ではその天然色写真はいつ頃出来たのでしょうか。
映画が白黒から始めて総天然色映画として日本に登場したのは、終戦直後の昭和21年3月のソ連映画「石の花」でしたが、画面がちらちらしてさしてキレイだとは思えませんでした。
日本ではじめてカラー映画が出来たのはそれから5年後の昭和26年、木下恵介監督、高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」→
でした。これはなかなかきれいな画面で、話も面白かったです。
映画はさておき、肝心の写真の方はどうでしょうか・・
20世紀の始め、ニューヨークに「レオポルド・ゴドフスキー2世」と「レオポルド・マネス」と言う二人の若い音楽家が居ました。
20世紀の始め、ニューヨークに「レオポルド・ゴドフスキー2世」と「レオポルド・マネス」と言う二人の若い音楽家が居ました。
二人は同じ音楽学校に学び、「ゴドフスキー2世」はヴァイオリニスト、「マネス」はピアニストとして将来はコンサートの舞台に立とうと勉強に励んでいましたが、同時に写真にも凝っていました。そして何とかして天然色の写真が撮れないものかと、演奏の合間を見はからって素人研究を続けていました。
↑マネス
まず、目を付けたのは三原色の原理を使って三枚のネガを造りこれを重ね焼きする方法でしたが、なかなか思うような成果が上がりません。1921年になって、彼らは化学的方法を使うことにして実験を続けました。しかし実験にはずいぶん費用が掛かります。彼らはその頃になると演奏家としての収入もそれなりの物にはなっていましたが、研究費がその収入を上回り、赤字つづきでした。
しかし、彼らの研究に興味を持った財界が2万ドルの資金援助をしてくれることになり、さらにフィルムメーカーのコダック社の研究部長が必要な化学薬品を何でも調達しようと申し出てくれました。
二人の音楽家はこれに力を得てその後9年間、自宅の実験室で歌を歌いながらカラーフィルムの開発に専念したのでした。
1930年、彼らは正式にコダック社から招かれて同社の開発部門で仕事をするようになりました。然し彼らの研究室は珍妙なもので、化学物質の分離や現像時間を計測をするのに彼らは時計をいっさい使わず、器楽の演奏をしたり、合唱をしたりと言う風変わりな方法を使ったからです。
ひとつの曲を正確な時間で演奏することと、化学実験の時間をはかる事の二つを同時に行っていたのです。そして、その甲斐あって1935年に最初のカラー・フィルムが完成したのでした。
(名カメラマン)
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↑ (薩摩藩士) ↓
最後の侍 (1886年)
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