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(182) 「女房言葉」

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                 (182) 「女房言葉」

  「御所言葉」と同じようなものですが、今日は「女房言葉」です。

  以前、「女房言葉」のことを本で読んだことがある。
 女房詞(にょうぼことば)は室町時代初期から宮中で奉仕している女官たちの間で使われた言葉である。それも主に衣食住に関する隠語で、のちには将軍家から町屋まで広く使われた。
 今では「女房・にょうぼう」というと、下町辺りの奥さんのことを言うようだが、昔は宮中で一人住まいの部屋を与えられた高位の女官を指し、上臈、中臈、下臈の三段階があった。
 そんな女房詞(にょうぼうことば)を少し見てみょう。
 
 イメージ 2〇「ご飯」のことは「御台・おだい」という。食膳の上にあるから「御台」なのだろうか。 
 〇御台匙(おだいがい)は飯杓子のことで、天皇陛下のご飯は「御台供御・おだいくご」と言う。

 〇「団子」のことは「いしいし」である。これは(おいしい)から(いしい)になり(いしいし)になった。
 *なお「美味しい」は「美し・いし」から「お美し」「お美味しい」に変わった言葉である。
 〇「豆腐」のことは「おかべ」・・「御壁」だから壁のように白いと言う意味だろう。


 女房言葉には、丁寧に頭に()が付くものや語尾に(もじ)が付く言葉が多い。たとえば

 イメージ 3(おこわ)  こわめし
 (おから)  大豆あら投入を採った後のカス
 (おじや)  雑炊
 (おかか)  カツオの削り節  
 (おまん)  饅頭
 (おもちゃ) は,平安時代に「もちあそぶもの」から転じた女房言葉です。
 
 (おひや)  飲食店などでよく水のことを『お冷や』というが、これも女房言葉の「お冷やし」から・・
 (おぶう)  「ふうふう」しなくては熱くて飲めないものを意味する言葉で、さゆでもお茶でも、温かい飲物全般を言う。  今でも京都や大阪で、湯、茶のことを(おぶ)とか(おぶう)と言うようだ。
 (おかず)
      主食のご飯と一緒に食べる料理(総菜)のことで、(総菜の)をとりそろえる」という意味から、
      おかずと言うようになった。
 (おまる) 便器
 (おはぐろ)  昔、結婚した女性は歯を黒く染めていた。
 (おかき) 欠けたた餅、
          *昔は餅を砕いて食べた。佐賀の方言では、これを(くだけ餅)と言っていた。
 (おなら)の言葉は 『 お鳴らし 』 という女房言葉からきている。
 (おちんちん) も!??
 (おかちん)は餅のことで、佐賀の正月のもぐら打ちの歌の中にも出てくる。
                    
    「もぐら打ちの歌」

イメージ 1      ♪ なーれなーれ 柿の木
         ならずの柿をば、なれとぞ言うた
         千なれ 万なれ 億万なーれ
         うちの子のちぎっときゃ 畑の真ん中なーれ
         他所の子のちぎっ時ゃ 堀の真ん中なーれ
             もーぐら もぐら もーんな祝うて 三べん
         おかちん どーみゃ ゆがんでも
         ふとかとかーら おくんさーい
         十四日のもーぐら打ち

   〇 「もじことば」

 四国の松山あたりでは、話の語尾に(そうじゃなもし・・)と、・・もし という方言が使われていたようで、漱石の「坊っちゃん」でも年配のおばさんや中学の先生たちが「そうじゃなもし」を連発している。(*尤も、今は殆ど使われていないようで、佐賀の方言に限らず、何処の方言でも今のおしゃれ好きな若い人たちは方言は全く使わず、みんな標準語を使う、テレビやマスコミの影響だろうか。)

 同じように、女房言葉の名詞にはなぜか語尾に「もじ」と言う言葉がつくのがほとんどである。
 「もじ」は「文字」の意味で、名詞の語尾につけて、言葉を婉曲にやわらかく表現するもので「もじことば」という。

イメージ 4 佐賀の方言には「お葉漬け」のことを「おこもじ」と言うが、これは野菜の茎が女房言葉で「くもじ」なので、さらに茎漬けが「こもじ」→「おこもじ」になったと考えられている。

 餅のオカチン同様に、これは佐賀地方も昔から御所のある京都と何らかの交流があったのではないかと思われる。ちなみに佐賀の郊外には、「和泉式部生誕の地」があって今は歌垣公園になっている。

     茎漬けや妻なく住むを問うおうな  
               *江戸時代の俳人・炭 太祇(たんたいぎ) 



 また、女房詞で自分のことを「わもじ」と言うが、これは(吾文字→若者→私)の意味である。 
 昔の佐賀地方の子供が使った「わさん」と言う言葉は「お前」という意味だが、これは「和様」という上品な京言葉からきたもので、おそらく平家の落人辺りが流布したのではないだろうか。
 
 ここで「もじ」のつく女房詞のいろいろを列記してみると・・

 あなた。そなた→ 其文字・ そもじ
 私→ 吾文字・ わもじ
 姉→ あもじ
 奥さん→ おくもじ
 母→ かか・かもじ
    佐賀の古い方言では・のことを「かか」「かかさん」 「かくさん」 などという。
    子供のころ、地面に棒で  □  三  ー  □  三  と書いて友達をからかったものだ。
         これは  わさん、かくさん、寝た坊〈棒)、かくさん と読む。
               ( お前のかぁさんでーべそ・・)と同じように「お前の母さんは寝た坊かぁさんだ」
        という、ざれ言葉である。

イメージ 5 肴→さもじ 
 鯉→ こもじ
 牛蒡→ごもじ 
 寿司→ すもじ
 杓子→ 杓文字・ しゃもじ
      と、何にでも(もじ)がついている。
  
 葱は一文字で(き)と読むので「ひともじ」「ねもじ」であり、根葱でネギ。また根深・ネブカ。葉葱・ハギとも呼ばれている。
 またニラは二文字だから(ふたもじ)という。。
 俳句に
     「ひともじの丈(たけ) 俎(まないた)にあまりけり ・高田蝶衣」というのがあり、 古歌にも

         引きみれば根は白糸のうつぼ草
           ひともじなれど数の多さよ
                  と歌われている。
 
 烏賊→いもじ
 蝦→ えもじ
 鯖、肴→さもじ・・浮世風呂にあり
 盗人(ぬすっと)→ぬもじ 
 小麦→こもじ
 宇治茶→ うもじ
 絹織物。練貫(ネリヌキ)→ ねもじ 
 
イメージ 6 乾飯・ホシイイ→ほもじ
 味噌→ みもじ
 文・ふみ→ ふもじ
 浴衣→ ゆもじ
 湯巻き、腰巻→ゆもじ、昔は佐賀では腰巻の事を(きゃーふ)と言った。掛布の意味である。
 恥→ おはもじ
 お目にかかること→ おめもじ
                                                                     →湯かたびら

 空腹→ひもじい
  *空腹の意味の(ひだるい)の(ひ)と(もじ)をくっつけたもの
 酒→くもじ
  *これは三々九度と九回盃を交わす、つまり九献・クコンの意味で「くもじ」になっている。

 **さて、男のくせに女房言葉などをながながとしゃべっていると、オカマと間違われて恥(おはもじ)を掻くので、この位にして置こう。
 では、またあした、御目文字(おめもじ)致しましょう。  チャンチャン・・
     
              ・・・・・
 
イメージ 7
                                             【 秋の雲 】

                                         //////

(182) 「美人の末路」

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         (182)  「美人の末路」

  こんなたおやかな御所言葉や女房言葉を使う昔の殿中の女性は、さぞ美人だったろうと思われますが、元々、美人の条件は場所や時代によって変わるものです。源氏物語に出る女性は長い髪に太い眉・丸顔・鼻ペチャのおかめ顔が美人とされていますし、クレオパトラなどは高過ぎる鼻がツーンと通っていて、昔の日本人からみると、とても美人の領域には入らないでしょう。
 
 イメージ 1日本の三大美人は、秋田美人、京美人、博多美人だと言われていますが、世界の三大美人が、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町と、小町を入れるのは、ちょっと日本だけの我田引水のようです。
 ところで、昔から「美人薄命」と言われるように、美人の末路はたいがい哀れなようです。

 イメージ 2日本で絶世の美女と言われた「小野小町」も、最後は年老いて乞食となり、その死体が野犬に食い荒らされたりする伝説まで生まれ、その哀れな末路は謡曲の「卒塔婆小町」「草紙洗小町」歌舞伎の「雨乞い小町」として語られています。 

 また、世界の美女、古代エジプトの「クレオパトラ」も、最後はクタウィアヌスのローマ軍に敗れ、毒蛇に乳房を噛ませて自殺しました。
 いずれも美人薄命の見本のようなものですね。

 ところで、お隣の中国の四大美人は、

           1.西施(春秋時代)
            2.虞美人(秦末)
             3.王昭君(漢)
            4.楊貴妃(唐) 

 の4人ですが、美人薄命のことわざの通り、その末路はみんな哀れです。

      〇 「西施」
 
 イメージ 7中国 四大美人の一人「西施」は、呉国の人民が彼女のことを,
妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪だ)と思っていたことから、生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられました。
 その後、長江では蛤がよく獲れるようになり、人々はこれは「西施の舌」だと噂しあったそうです。この事から、中国ではのことを「西施の舌」とも呼ぶようになりました。

 彼女たちは中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったとも言われており、それが西施の場合は 大根足 だったそうです。そこで彼女はいつもすその長い衣が欠かせなかったと言われています。

  またその逆に、足がきれいだったという話もあり、西施が四大美女としての画題になるとき、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚たちが泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」と言われています。

         象潟(きさがた)や雨に西施がねぶの花      芭蕉

 *ネムの花はマメ科の落葉小高木で、花は夕方から咲き、翌日にはしぼんでしまいます。
   多数のおしべが毛の様に細長くて、紅刷毛のような美しい紅色をしています。

イメージ 3


   〇 「虞美人」

 イメージ 8紀元前200年、中国の秦王朝が滅亡し群雄割拠の状態になったとき、劉邦が「垓下(がいか)の戦い」で項羽を討ち破って中国を統一し、前漢の時代を築きました。

  その項羽と劉邦の最期の戦いのとき、項羽は愛する虞妃(ぐき)とともに劉邦の大軍にまわりを包囲されました。 項羽は別れの宴を開いてから最後の出撃をし、虞妃も自刃して項羽に殉じましたが、そのとき、彼女のお墓には美しい「ヒナゲシ」の花が咲きました。 そこで彼女の血がこのヒナゲシになった、という伝説が生まれました。。    


  そのため人々はこの花を「虞美人草(ぐびじんそう)」と呼んだのです。

 夏目漱石の主節にも虞美人草がありますが、この虞妃には関係ないようです

 イメージ 5項羽は劉邦軍により垓下に追い詰められ、四面楚歌の状態になって自らの破滅を悟り、項羽は彼女に告げました。

    力拔山兮氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
    時不利兮騅不逝 (時利あらずして騅(すい)逝かず)
    騅不逝兮可奈何 (騅逝かざるを如何せん)
    虞兮虞兮奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

 
イメージ 6 そこで、虞美人は項羽の足手まといにならぬために自殺した事になっていますが、虞美人の自殺そのものが、女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からそのような話が出てくるようになっていますから、ほんとに自殺したのかどうか。。

 とにかく、自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となったのです。

*ヒナゲシはヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、グビジンソウ、コクリコ、ポピー とも呼ばれていますが、薄紙の様に薄い花びらの美しい花で、色も白、赤、橙、紫など様々です。

イメージ 4

                                                        (ヒナゲシ)

                         ・・・・・・                 ・・・・・・

 (183) 美人薄命・その2

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      (183) 美人薄命・その2

 イメージ 7一般に中国四大美人には虞美人ではなく、貂蝉(ちょうせん)を加えることが多いですが、彼女は三国志に登場する架空の美女なので、四大美人の中に加えるのは現実的ではないでしょう。民間の伝承では、彼女が天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われています。

イメージ 8 では、架空の彼女が、なぜ四大美女の一人に数えられるのでしょうか。

 おそらく、彼女が登場する『三国志演義』が中国の人からとても愛された物語だという事と、ほとんど男ばかりの三国志物語の中に出てくる美しく、しかも男顔負けの度胸を持った少女が貂蝉だったからでしょう。

    ↑ 貂蝉
                                 → 三国志の挿絵

    〇 楊貴妃

 「楊貴妃」は玄宗皇帝が寵愛したために「安史の乱」を引き起こして、「傾国の美女」として高力士によって、無理に縊死(首吊り)させられたと言われています。

 イメージ 2この楊貴妃の欠点は、実は彼女は体が太っていたという話があります。

 楊貴妃は中国の戦国時代の玄宗皇帝の寵姫でしたが、玄宗皇帝が寵愛し過ぎたために安史の乱を引き起こしたために「傾国の美女」と呼ばれていて、古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉(ちょうせん)の一人とされ、また現代でも世界三大美女の一人とされています。


 *ハナカイドウはよく「楊貴妃」にたとえられます。

「海棠未だ眠り足らず」という言葉は、酒に酔った楊貴妃の寝覚めた後も酔いが残っているなまめかしい様子を、玄宗皇帝が海棠の花にたとえたという故事からきています。

 ハナカイドウはバラ科、リンゴ属の落葉低木で、紅色の可憐な花がうつむき加減に咲いています。

イメージ 1

      さて残りの美人「王昭君」の場合はどうでしょうか。。
  
     〇王昭君 の話」
 
 昔、昔。
 中国の前漢の「元帝」の宮女に、昭君 といううら若い美人が居ました。
ところがちょうどその頃、北の辺境を脅していた匈奴(きょうど)と和議を結んだ元帝は、匈奴の大将に宮女を一人与えることになり、三千の宮女の絵姿を順番にめくって、そのうち一番醜いものを匈奴に与えようと考えました。

 ところがどの宮女もとても美しく描かれています。
ただ、その中に絵師に賄賂を贈らなかったために、一番醜く描かれた「昭君」の絵が混じっていました。 そこでその醜い絵姿の昭君が匈奴に送られる事になりました。
そして「元帝」は昭君の出発式の際に始めて、彼女が絶世の美女であったのを知りますが、もう事は決まっていてどうすることも出来ません。

 イメージ 4昭君は何ヶ月も馬の背中に揺られて馬上で悲しみの笛を吹き、時には憂いの琵琶をかき鳴らしながら、流砂を越えて、見知らぬ「胡」の国へ、恐ろしい蛮族の首長「呼韓邪単于こかんやぜんう」の許へと送られて行くのです。

 一方、昭君には優しい父母が居て、愛する娘が遠い異国へ送られたことを知り、一目会いたさに胡の国へと旅立ちました。そしていよいよこれから流砂の地に差し掛かるという最後の駅で、父親は宿の主人から、昭君がここを過ぎるときに「もしも自分に変事が起これば、きっとこの柳の木は枯れるだろう」と、言い残した事を聞きました。

 イメージ 5見るとその柳の一枝が枯れかかっているので、驚いた父親が故事にかんがみて、柳を鏡に映して見れば、こは如何に!荒くれて恐ろしい姿の匈奴・「呼韓邪単于・こかんやぜんう」の姿が映り、その傍らに今はおどろおどろの髪を振り乱し、耳に鎖をつけた蛮族の姿に変わった異形の我が娘の姿が見えたので、驚きと恐れのために旅をあきらめてしまうのです。

 その後、昭君は胡地にあって怨みの歌を作り、後には服毒自殺を遂げてしまうのです。そして一本の木とてなり、砂漠の中で昭君を葬った墓の上だけは青い草が何時までも生えていたということです。
  やっぱり、美人薄命、美女の末路は哀れですね。。

  
イメージ 6
                                               
                       (内モンゴルの王昭君の墓)


                                 ///////                                               /////

 (柳)にもいろいろありますが、「柳に風」とか「柳腰」とかいう語源になった、こんばんは。なよなよとした枝垂れヤナギが有名ですね。
 柳は中国の原産の落葉高木で、風見草、遊び草という名前もありますが、ヤナギという名前は、細長い枝が弓矢の柄のようなので、「矢柄・ヤガラ」から転じた言葉です。
空海が遊学した頃の古代中国では、別れる時に柳の枝を折って手渡しして贈る風習がありました。

イメージ 3

       卒然と 風湧き出でし 柳かな      松本たかし


・・・・・

(184) 「軍隊生活」

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         (184)  「軍隊生活」
 

 猛烈台風一過して、大阪地方に甚大な爪痕を残しましたが、皆さんのところは如何でしたでしょうか、お見舞い申し上げます。
   

 昔は、二百十日の9月1日頃が台風の時期で、今の様に台風が多くは無かったような気がする。
たしか小学校に入った年に大きな台風が来て、向かいの家が大きく揺れていたのを思い出す。我が家も古かったので、倒れるかもしらんと、近くの工場に避難したようだ。下校時に道路が冠水していて、家の番頭さんが迎えに来て背負われて帰った、かすかな記憶がある。

 台風の思い出は少ないが、とにかく9月1日の学校の夏休み明けは嫌でしたね。
 学校という集団生活から抜け出した開放感がいっぱいの楽しい夏休み、その嫌な集団生活がまた始まるかと思うと一日、一日が命の縮まる思い・・(と、いうほどの切迫感はなかったですが・・)

 そういえば昔は宿題もそう多くはなかった。小学校では「夏休みの友」の問題を一日一ページやっておれば良かったし、今のような自由研究なんてなかった。

 イメージ 1中学の夏休みの宿題は、博物の授業で、一年が「植物採集」、学校の購買部から、ブリキ製のドーランを買って肩にかけ、山辺に出かけていろんな夏草を採って来る。家で新聞紙に挟んで乾燥させ、台紙に張り付けて植物標本を作り提出。
 二年の時は「昆虫採集」だ。同じく購買部から捕虫網、毒ツボ、虫ピン、展翅板、などを買ってきて、毒ツボを水筒のように肩からさげて、さぁ里山に出発だ。
 今頃はドーランも毒ツボもなくて、たいてい大きなビニール袋で済ませるようだから、とても楽なようだ。

 昆虫採集と言っても、最近はトンボやセミや蝶ではなく、カブトムシやクワガタらしいから、昔とはほんとに変わったものだ。
展翅板に挟みこんで、羽根を広げて数日間形を整え、標本箱に虫ピンで首のところを突き刺して並べると完成だ。

   ↑ 昔のセミ採り・釣り竿の先に トリモチ を塗りつけてトンボやセミを獲っていた・・

 ほかは絵画の小さなスケッチブック一冊の宿題があるくらいのもの、苦痛よりもむしろ楽しい宿題だった。 それに昔はクラスのいじめもなかった。シランも小中学を通じていじめに遭ったこともないし、見たこともない。戦前・戦中はとにかく犯罪が少なかった。夏は窓を開け放し、玄関のカギをかけなくても泥棒は入らなかった。
 それが、敗戦後は犯罪が急増、うちも二度ほど泥棒に入られて、金庫を持ち逃げされたことがある。枕元に置いていた軍隊の将校用のコートまで盗られたこともある。

 今は夏休み明けの生徒の自殺が多い、学校が嫌なばかりでなく、いじめがあるからだそうだ。明日からまた、あの陰湿ないじめに遭うと思えば、子供にとっては実に深刻な問題に違いない。何度も問題にされながら、学校のいじめは繰り返されてなくならない。
 動物社会にもいじめがあるようだし、知恵の塊のような人間社会でもいじめは、どうしてなくならないのだろうか。

  〇 「軍隊生活」

 いじめと言えば、寝食を共にする旧軍隊のいじめはすごかった。学校から帰れば精神的にくつろげる家庭があるが、軍隊には帰るべき安楽の地がない。朝、昼、晩、古参兵にこき使われいじめられるので、いじめられた新兵の自殺や逃亡が絶えなかった。
 紫蘭は昭和19年に新しく設けられた「特別甲種幹部候補生」の一期生として、軍隊に入らずに直接予備士官学校に入ったので、軍隊 内務班(軍隊の兵舎内での生活の場)の実際の経験がない。従って古参兵からいじめられた経験がない。

 一般に戦前の日本男子は、20歳になって徴兵検査を受けて郷土の軍隊に入り、将校になるには三か月の初年兵訓練を受けたのちに、幹部候補生の試験を受けて予備士官学校に入るのだが、大學、高専卒業の資格のある者には、その三か月の軍隊生活を省いて、直ちに予備士に入れる制度である「特別甲種幹部候補生・略して特甲幹」の制度が、この19年に出来たのである。

イメージ 2
                                              (当時の幹部候補生の軍制)


 戦争の激化に伴い、召集兵の増加とともに、それら補充兵たちの指揮、教育のために短期養成の下級将校が必要だったのだろう。三か月の基礎的な軍事訓練は、旧制高校や大学で訓練済みなので、この3か月の新兵としての訓練期間を省いてインスタント将校を大量に養成しよう、というわけである。 そのため、紫蘭には実際の軍隊の内務班の経験がない、おかげであの陰湿な古参兵による制裁やいじめを受けたことがない。

イメージ 3 日本の旧陸軍には様々な典範令(各部門の教科書のようなもの)があり、多くは携行に便利なように手のひらに乗るような小型の本だった。中でも歩兵操典と作戦要務令、軍隊内務令は兵隊には絶対必要なもので、新兵として入隊するときは必ず携行しなければならなかった。

 この軍隊内務令に軍隊内の生活の場ともいえる「内務班」についての記載があり、これにのっとって内務班内の起居動作や身辺の整理整頓などがなされるのである。

 もともと旧陸軍では,将校と下士官の曹長までは兵営外に居住して毎日兵営に通勤するのだが、軍曹以下の下士官と一般兵たちは兵営内に居住することが義務づけられていて、各中隊内に数個ある内務班という居住単位(*いわば学生寮の共同部屋)に分かれて生活せねばならなかった。
そのため初年兵は何かにつけて忙しく、ついへまをすると同部屋の上級の古兵や下士官から怒鳴りつけられたり、時には殴りつけられたりする。   

 軍隊内務令にもある如く、軍隊では上官に対しては、絶対服従である。如何に無理難題を言われても、いかにむごい体罰を受けても反抗するこ7とは絶対に許されない
 「命令と服従」は軍隊の絶対的倫理だったのである。

 陸軍刑法にも第五十七条に「抗命の罪」として記してある。

 *上官の命令に反抗し、これに服従せざる者
     一、敵前なる時は死刑、または無期、もしくは十年以上の禁固に処す
     一、その他の場合は禁固五年に処す
                                とある。
  そのため、旧軍隊の内務班では、陰惨ないじめが横行したのである。
 
   ・・・・

 *今朝は台風一過の爽やかさ、日差しは強いですが湿気が少ないので過ごしやすい一日でした。

イメージ 4
                    
                         (天高く天山山頂秋の雲)

                                            ・・・・・

 (185) 「軍隊内務班の生活」

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     (185) 「軍隊内務班の生活」

 またまた北海道で大地震、一昨年の熊本地震から広島の大雨被害、大阪の地震に台風、北海道の大地震と、このところ災害立て続けですね。日本列島沈没か? 東海沖や、南海トラフの巨大地震も現実味を帯びてきました。 統計によると巨大地震は約200年ごとに起こり、12月が一番多いそうです。日本海側に降る雪の重みで・・という話もありますが、ほんとかなぁ。。
 とにかく、被害に遭われた北海道の皆さん、心よりお見舞い申し上げます。

  〇 軍隊内務班のこと

 母校の予備士官学校では、経験のない軍隊内務班の体験として隊付き訓練があり、紫蘭も静岡連隊に2週間ほど行って、実際の軍隊内務班の体験,調査をしたことがある。静岡と言えばミカン、腹が減っているのでミカンばかり食べた。ミカンの外側の皮まで食べて、みんな下痢ばかりしていたのを覚えている。
  しかし、私的制裁などいわゆるいじめの体験・調査はあくまでも表面的なもので、我々短期間の外来者に、実際のいじめなど軍隊内部の実情が分かるはずもなかった。
 その時のシランの「隊付き勤務所感報告書」には、内務班の現状について、次のような記載がある。
 
 イメージ 1兵の金銭使用状態(兵の給与)

  兵長 月 13円50銭  +戦時増俸 3円35銭
  上等兵  10円50銭  + 〃     2円62銭
  一等兵   9円      +  〃    2円20銭
  初年兵(2等兵)  7円50銭 (戦時増俸共)

 ☆兵は日用品のために、2,3円を所持すれば足り、その残余は貯蓄を奨励せしめつつあり。その金額は相当の額に上る。兵には10円以上の所持を禁じ、毎週土曜日の午後、内務検査を行いて金銭を検査し、盗難の絶滅を期しつつあり。

 *ここで参考のために当時の軍人の給与を見てみると・・   
         (昭和18年大東亜戦争陸軍給与令による)

  陸軍大将  年額 6、600円(月550円)
  
陸軍大尉  年  1,800円
  最下位将校の少尉は 年額 850円(月70円)
  下士官の軍曹は    月  30円                                         ↑ 隊付き勤務所感

 *ついでながら、シランの見習士官としての給与は月額60円だった。

 イメージ 2当時の京浜地方の労働者の平均賃金が60円だったから、いかに衣食住つきとはいえ、将校の少尉が月70円、二等兵なら7円50銭しか貰えないのだから、家庭的にも、軍隊に入るという事は大きな経済的損失であった。

  当時世間では下級将校のことを「貧乏少尉、やりくり中尉,やっとこ大尉」と揶揄されたほどで、大尉でやっと生活できるほどだから下級の兵隊は軍隊生活に必要な日用品を酒保(しゅほ・軍隊内売店)で買うと、あとは小遣い銭も残らないという有様だった。

 大将の給料は月「550円」なのに二等兵はわずかに「7円50銭」である。如何に階級制度とはいえ、同じく死を賭して戦う軍人の命の代償としてはその落差はあまりにもひどい。これは軍隊という階級社会の厳しさを象徴しているのだろうか。
                                                         → 歩兵/二等兵の正装
 〇入浴・掃除

 入浴は殆どなく、4日に一度の程度にして、時間も短きため、浴場はすこぶる混雑し在りて、初年兵はほとんど入浴せざる状態なり。 なお、入浴時の盗難多し。
 掃除は日朝点呼後、毎食後、および点呼前(夕刻)の三回舎内の清掃を行い、舎外は日朝点呼後に行いあるもすこぶる乱雑なり。
 **そういえば、シランは予備士での入浴の記憶がない、当時の予備士の見取り図を見ても浴場の場所の記載がないのだ。何か月も汗まみれで風呂にも入らずに頑張ったのだろうか。。逆に、陸軍病院ではアカだらけの風呂に何度か入った記憶があるのだが。。

 〇 「夕食後より点呼までの兵の生活」

 イメージ 3食器洗浄、煮沸消毒、舎内清掃、兵器手入れなどを行いしのちは、30分くらい喫煙し、或いは書信をしたため、雑談などを成しつつあり。この間、いじめなどの私的制裁は行われず。            → 軍隊タバコ・ほまれ

 ・・と書いているが、この隊付きの期間は、我々に知れないように、古参兵の新兵に対するいじめはどうやら遠慮していたらしい。
 とにかく昔から、軍隊内部には古参兵による新兵たちへの陰惨な私的制裁・いじめがあった。そのため初年兵の自殺者も多かった。何処の軍隊にも、それら新兵の幽霊が出るという噂の井戸や便所があった。深夜、トイレに立つと、汲み取り式の便器から自殺者の手がニューと伸びてきて、便槽に引きずりこまれる、という噂まであった。
 
 それらのいじめは内地の留守部隊に多く、戦地では殆ど見られなかった。戦場ではいくら最下級の初年兵と言えども、鉄砲や弾丸を持って居り、かねていじめをしていると、いつ何時上官や古兵の後ろから弾が飛んで来るかも知れないのである。紫蘭も軍隊経験のある従兄たちから、そんな話を聞いたことがある。

   次に、そんな軍隊内部のいじめや実情を体験者の補充兵の手記から見てみよう。

     ・・・・・・                   ・・・・・・

                     (のうぜんかずら)

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    ノウゼンカズラ」はつる性の落葉低木で、一日花ですが8月ごろあでやかな朱色の花を次々に咲かせます。
 この花の蜜が目に入ると目がつぶれるという俗説があり、庭木としては嫌う地方もありますが、別に毒があるわけではなく、近くの松などの庭木にからみついてどこまでも伸びて行き、ついには枯らしてしまうので庭に植えるのを嫌うのです。

          のうぜんの 朱に散り浮く 草むらに      杉田久女


                                                                                                //////

(186) 「軍隊内務班のいじめ」

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      (186) 「軍隊内務班のいじめ」      

 どこの軍隊でもあったようだが、夜の点呼前に内務班での初年兵が体験させられる制裁、いわばいじめがあった。今になってみると血気にはやる男ばかりの世界で、外部との接触、交流のない社会での憂さ晴らしで、いわば子供の遊び、いたずらのようなものだったかも知れない。 しかし、いじめられる本人にとっては何とも言えない屈辱感があっただろう・・

 古参兵は昼は成すこともなく退屈していて「今夜は初年兵に何をしようか」と話し合っていたようだ。         紫蘭の隊付き勤務報告書にも、

  ・・・  ☆ 兵長、上等兵の威信

 兵長、上等兵は日中殆ど為すこともなく、勤務に出る以外は兵営内に閉じこもり、当番にも出ず、初年兵に対する威信は絶大なるものあり、、と書いている。。。

    〇 「軍隊のいじめ」  ・・ある東北出身の補充兵の日記より・・

 イメージ 2  ★ 自転車競走

 内務班での夜の点呼が終わると、班内にいる7,8名の新兵たちは整列して不動の姿勢を取る。 古参兵が「これから自転車競走を始める」と言う。
 両手を寝台の上に掛けて体を支え、両足を交互に挙げて自転車を踏む真似をする。途中で休むことは出来ないのだ。

 急な坂道となれば「リンリン」と叫ぶ。そのうち疲れてきて床に足を付く。中にはチェーンが切れたと言って両足をつき、言い訳をする者まで出てくる。
 新兵たちが可笑しがって笑いだすと、「戦友がマジメにやっているのに何が可笑しくて笑うか!」と、新兵たちは両手で往復ビンタを食らうのである。

   ★ 「鶯の谷渡り」

 「鶯の谷渡り」というのもある。寝台と机の下をくぐり頭を上げて「ホーホケキョ」と鶯の啼き真似をさせられるのである。 その啼き真似にも上手下手があり、班内を笑わせていた。

  イメージ 3 ★ 「編隊飛行」

「飛行機の編隊飛行」は床の上に伏せて、腕立て伏せをして「ブーン、ブーン」と叫ぶのである。腕が疲れて床に体がつくと[編隊を乱した!]と怒鳴られてビンタの制裁をうけるのである。ビンタも手ではなく営内靴(革製のスリッパ)で殴ることもある。何とも他愛もない遊びだが新兵たちには全く辛いいじめである。

   ★ 「蝉の啼き声」
  蝉の啼き声の真似もある。

イメージ 1 柱によじ登り、片手で鼻をつまんで「ミーン、ミーン」と蝉の鳴き声をたてる。「鳴き声が悪い」と言ってはなぐられる。

   見ている古参兵が可笑しくなって笑いだす。それにつられて新兵がつい笑い出すと「戦友が真面目に?やっているのに何が可笑しいのだ!」と言ってまた殴られる。

 これらの制裁は夜の点呼から就寝までの40分間だけだが、戦地ではあまり行われなかったようだ。真剣にやっているのは新兵たちだけでで、古参兵はそれを見て楽しんでいるだけなのだ。

  ★ 「ぶん回し」

 軍隊では泥棒がつきものだ。そこで盗られたらまたどこからか盗りかえしてくる。
 時々ある「内務検査」の時、もし紛失しているとどんな目に遭うか知れないのである

 ある日、演習から帰って編上靴を靴箱に入れ、巻き脚絆(ゲートル)を靴の中に入れて厠(トイレ)に行った。ところが戻ってみると巻き脚絆が盗まれてないのである。内務班に戻り隣の古参兵に話すと「心配するな、俺が明日の朝までにぶん回してくるから」と言って翌朝には新しい巻き脚絆を持ってきてくれた。
 軍隊では泥棒とは言わない。ぶん回しと言って物を回す、という意味なのである。

         ・・・・・・             //////

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                                   空蝉の朝(あした)に生まれ夕べに死する儚さよ

(187)重陽の節句

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  軍隊の話は、ここらでちょいと一休み・・ (-_-) zzz

   (187) 「重陽の節句」  

 みなさん、こんにちは。
台風一過、雨が降り出してから急に涼しくなり、今日は夏衣では肌寒いくらいです。8月の猛暑、酷暑はどこへやら、昨日に代わるこの有りさま・・季節の移り変わりはアッというほど早いですね。
 
 イメージ 1今日は9月9日、九が重なる「重陽の節句」ですね。
九が重なるとが重なるようで、なんだか不吉な感じがしますが、古代中国の陰陽思想では奇数が「陽」で縁起が良い数字とされていて、その陽の奇数の最高が「九」なので九が重なるのはめでたいとされています。
 そして日本にもこの「重陽の節句」が伝わり、昔の宮中では、この日に「菊の宴」を開いて詩歌を作り、命が伸びるという菊の花を浮かべた「菊酒」を飲んで邪気を払っていました。                                                       ↑ 菊酒
  
          白菊の目に立てて見る塵もなし     芭蕉

 はキク科の多年草で、日本を代表する花として、皇室のご紋章にもなっています。(天皇家は16弁の八重菊で、皇族は14弁の裏菊になっています)
 菊の花には鉄分が多く強壮、造血の作用があり、また咳止めや頭痛にも効果があり、始めは薬用植物として扱われていました。

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 *とにかく、目出度い重陽の日に、テニスの全米女子オープン、20歳の「大坂なおみ」さんが優勝とは、まことにめでたし、めでたし。。

           重陽の 雨が叩けば 真葛原     有働 亨

             ・・・・・・          ・・・・・・

  「葛・くず」はマメ科のつる性多年草で「秋の七草」の一つですね。
 日本全土に自生していて、秋風にひるがえる葉の裏の白さや、紅紫色の蝶型の花にはいかにも秋らしい風情があります。

 
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                                                    (クズ)

 昔は葛の茎の繊維を織って「狩衣」や「袴」を作りましたが、今でも「ふすま」「窓かけ」に使われています。また根の澱粉から「くず粉」を作りますが、特に奈良の吉野地方の「吉野葛」が有名で、谷崎潤一郎の小説の題名にもなっています。

 その他、クズの葉や茎は牛馬の飼料になり、根は強く張るので河川の土手の土固めにも使われます。明治初めに、この葛がアメリカに渡って、家畜の飼料やダムの自然の土止めに使われて重宝されましたが、今ではあまりにはびこり過ぎて、逆に嫌われ者になっているとか。。

 
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                                                       (クズの花)
 

(188)秋の七草

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     (188) 「秋の七草」  ①
  
 暑い暑いと毎日言っている間に、いつの間にか記録的な猛暑、酷暑も去ってしまって、今日は爽やかな澄んだ秋空が広がっています。

                    秋来ぬと目には定かに見えねども
                            風の音にぞ驚かれぬる          
藤原敏行

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 秋(あき)の語源は「あかる」「あかき」で、植物が黄熟し、特に稲の成熟の時期の事だそうです。秋は実りの季節ですが、また花の多い季節でもあり、昔から「秋の七草」としてが詩歌にもよく詠まれています。 万葉集にも「秋の七草」が歌われています。

   「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」   (万葉集・巻八 1538)

 今の言葉でいえば「萩、ススキ、クズ、ナデシコ、女郎花、フジバカマ、桔梗」になります。
 この中の「朝貌の花」は、朝顔ではなくこんにちの「桔梗」のことだと言われています。
 この七種の花はいずれも薬用や食用として古代人の生活に深くかかわっていた草花で、七種(ななくさ)は実用と鑑賞の両面から選んだものと言えましょう。

       秋の野に咲きたる花を指折りて
             かき数ふれば七種(ななくさ)の花  
       (山上憶良)    

 
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                           (澄みわたる秋の空)

 
 「秋の七草」といえばすぐ思い出すのが、「萩」でしょうか。
    前掲の万葉集の歌の中にも真っ先に出てきます。
 
         ① 「萩」
 
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 「萩」は秋の七草の代表的な植物で万葉集にも141首も詠われているそうです。
 然し、七草のひとつとは言いますが、実は草ではなくマメ科の落葉低木で、日本各地のほか、中国や朝鮮にも分布しています。 ハギと言う名前は古株から芽を出すので古くは「生え芽」と呼んでいたのが「ハギ」になったと言われています。

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 萩は家畜の飼料ともなり、この茎を刈り取ったものを屋根に葺いたり、又筆の軸にも使います。
萩には変種も多く、一般に観賞用として植えられているのは「宮城野萩」と呼ばれるもので、そのほかに「円葉萩」「蒔絵萩」などがあります。

                白露をこぼさぬ萩のうねりかな     芭蕉

 
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           ② 「ススキ」       
 
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                                                 (雲仙・仁多峠)

  「薄・ススキ」は中国、日本の原産のイネ科の多年草で、日本全土の山野に自生しています。
ひところは、外来植物の「セイタカアワダチソウ」に駆逐されていましたが、最近はだいぶ勢力を取り戻したようです。

 ススキは秋の七草のひとつで、漢字では「薄」「芒」と書きます。古名を「萱・カヤ」と言いますが、これは屋根を葺く材料としてのススキの古い名前で、萱葺きのときの「萱」とは「ススキ」の事です。
 「ススキ」は秋の野山の風物詩であるばかりでなく、この萱葺きのほか炭俵、草履、縄、すだれ,箒など実用面でも日本人の生活に深くかかわりました。 また若葉を家畜の飼料にしていました。
 
  ススキの花穂の様子から、ススキは一名 「尾花」とも呼ばれ、枯れたのを「枯れ尾花」と言います。
    
                幽霊の正体見たり枯れ尾花
 
 
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                                                    (阿蘇・米塚) 
       
  佐賀の天山山頂には「阿蘇惟直・これなお」の石碑が建っています
「阿蘇惟直」は南北朝時代の武将で、熊本の阿蘇神社の大宮司。
九州に西下した「足利尊氏」と筑前多々良浜で戦い大敗し、熊本に逃げ帰る途中、北朝方だった「千葉胤貞」の領地で討たれました。
 そしてその遺骸は遥かに阿蘇の噴煙が望めるこの佐賀県の天山山頂に葬られました。
 今、惟直の石碑の周りには生い茂ったススキが空しく秋風になびいています。
         ( *友人に、この千葉胤貞の後裔が居ましたが、彼も先年亡くなりました)

         
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                                              (佐賀・天山山頂、秋の雲)  
 
            
                      なきながら笠にかくすや枯尾花     其角

  
 大正時代に流行った「船頭小唄」では「♪俺は河原の枯れすすきと歌われていますが、昔は「枯れ薄」は儚い人生を象徴するものでした。
 葉も穂も枯れ尽くしてしまって立っている姿には、ほんとに世の中の無常を感じますが、ススキは地下の根茎から翌年の春には再び芽吹く多年草なので、実はかなりしぶとい植物なのです。
 
 
    ♪ 「船頭小唄」   
                  おれは河原の枯れすすき
                  おなじお前も枯れすすき
                  どうせ二人はこの世では
                  花の咲かない枯れすすき

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                                                    (侘し気な枯れ尾花)


     ③ 「葛」

 次の「クズ」は先日も書きましたので、重複しますが・・

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 イメージ 10秋の七草のひとつ、葛(クズ)はマメ科のつる性多年草で日本全国に自生しています。
 秋風に翻る白いクズの葉裏と紅紫色の蝶型の花が房々と咲き乱れている様子はいかにも秋らしい風情があります。
 
  クズの根から作るクズ粉はデンプン類の中では最高級の食用粉で、奈良の吉野地方で採れる「吉野葛」は有名です。谷崎潤一郎の小説にも「吉野葛」と言うのがあります。
 
 「葛」は昔から日本の生活と深くかかわっています。昔はクズの茎の繊維で織った葛布を狩衣や袴に使い、今日でも襖や窓掛けにして使います。また、葉や茎は牛馬の飼料となり、漢方では葛根(かっこん)と呼んで解熱、解毒の薬に使います。
  
 明治初めにクズはアメリカに渡り、家畜の飼料やダムの土留め用として使われましたが、今は繁殖しすぎて駆除に困って居るそうです。
 それだけ繁殖力が旺盛なんでしょう。

 
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             相寄りて葛の雨きく傘ふれし    杉田久女


                                             ・・・・・・

(189)秋の七草②

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      (189) 秋の七草 ②

                  ④ 「撫子」
 
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イメージ 2 「撫子・ナデシコ」はナデシコ科の多年草で山野に自生し、高さ約50センチで、葉は対生の線形で白色を帯びています。 夏から秋にかけて淡紅色の花を開き、花びらの先は細く裂けています。秋の七草の一つで「常夏」、「カワラナデシコ」、「大和なでしこ」などとも言われています。

 昔、日本女性の事をよく「大和なでしこ」と呼んでいました。それだけ理想的な日本女性の姿が撫子だったということでしょう。大和撫子には、か弱いながらも品があり、凛々しい所が有るという意味が含まれています。

                                                                      ↑浪花節のレコード(大和なでしこここにあり)

 今でも女子スポーツでは「なでしこジャパン」などと撫子の名前が付けられていますね。

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                なでしこや 片陰できし 夕薬師     一茶 
 
  ⑤ 「女郎花・オミナエシ」

 
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 オミナエシ「女郎花」は秋の七草のひとつで、オミナエシ科の多年生植物です。
 沖縄を除く日本各地や中国から東アジアにかけて分布しています。草丈は60センチから1m位で8月から10月にかけて小さい五弁の黄色い花が沢山集まって咲きます。


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 「オミナエシ」とは、オミナは美女の意味で、エシは古語のヘシ(圧)から来ています。つまり美女をも圧倒する美しさ、と言う意味でしょうか。
 そのため、昔から秋の七草のひとつとして多くの詩歌に取り上げられて来ました。

                手にとれば  袖さへ匂ふ  女郎花           
                               この白露に  散らまく惜しも                                                                                                                             
(万葉集  作者不詳)

 
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      女郎花に対し男郎花・オトコエシと言うのもありますが、こちらは花が白いそうです。

               
      ⑥  「藤袴・フジバカマ」

 

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   秋の七草の中では、フジバカマは花が地味であまり見栄えがしません。
  藤袴(フジバカマ)は日本、中国、朝鮮に自生するキク科の多年草で、日本には奈良時代に中国から渡来したそうですが、最近は野生のものは殆ど見られません。
 地味な花なので観賞用としてはあまり栽培されていないようです。 

 
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   地下茎が横に長く伸びて夏から初秋にかけて薄紫色の花をたくさん咲かせます。
   草丈は1m位で、葉が三裂しているのが特徴です。

 
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                               七草を 露の盛りを 星の花     鬼貫


  ⑦ 「朝貌(あさがほ)の花・桔梗」

 

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 万葉集の七草の歌では、最後に朝貌(あさがほ)の花として出て居ますが、奈良時代にはまだ朝顔は日本には渡来していないので、これは現在の朝顔ではなく、桔梗やムクゲ、ヒルガオではないかという説があります。でも、ムクゲもヒルガオも夕方にはしぼんでしまうので、今は桔梗だという説が有力です。

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 桔梗は音読みで「キキョウ」とも「キチコウ」とも読まれていますが、秋の七草の一つとして、青みがかった紫色の清楚な花色が愛されて、昔からよく栽培されています。
 日本のほか、アジア各国に分布していて、韓国では「トラジ」と呼ばれています。
漢方でキキョウ根を排膿や咳止めとして使用し、正月の屠蘇酒にも含まれています。また食用としては若い茎や葉をゆでて和え物や油炒め煮にして食べる地方もあるとか・・

  
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                                      (白い桔梗も清潔感があっていいですね)


                         桔梗(きちこう)や 男も汚れてはならず          石田波郷

                     ・・・・・・                      ・・・・・・

                
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                                            (山の秋)   越後・荒沢岳

 * 朝晩はだいぶ涼しくなり、過ごしやすく成りました。
   里も山も、間もなく黄落の季節となり、年寄りにはちょっと侘しい風景がひろがります。


                                         ・・・・・・

(190) 「初秋の花」

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         (190) 「初秋の花」

 秋の七草のほかにも、秋の花は様々です。

         〇 「芙蓉」

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 夏の終わりから秋にかけては「芙蓉」の花が目立ちます。
 「芙蓉」はアオイ科の落葉低木で、初秋に咲く花木の代表格としてよく公園や庭園に植えられています。 淡紅色の美しい五弁の花を咲かせますが、一日でしおれてしまう一日花です。

 
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 芙蓉は昔から美人のたとえとして、「芙蓉の貌・かんばせ」などと言われていますが、姿がきれいなので「富士山」の別名「芙蓉峰」にも芙蓉の名前が使われています。
 花を見て楽しむほか、芙蓉の樹皮には粘液が多いので、和紙をスく時の補助原料になっています。

       逢いにゆく袂(たもと)触れたる芙蓉かな      日野草城


     〇 「酔芙蓉」
                芙蓉の中でも「酔芙蓉・スイフヨウ」が珍しいです。

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 「酔芙蓉」はフヨウ(芙蓉)の園芸品種で,朝の始めの内は白い花を咲かせますが,昼頃にはだんだんピンク色にかわり,夕方から夜にかけてさらに赤くなり,翌朝にはしぼんでしまいます。この色の変化は花びらの中の細胞液が時間と共に次第に酸性に代わるからだそうです。


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 このように次第に色が赤みを帯びてくる様子を酒飲みの顔がだんだん赤くなってくる事にたとえて,「酔う芙蓉」という意味で「酔芙蓉」と名づけられました。
 
 秋が深くなると写真のように、お昼ごろでも白とピンクが混在したようになります。
 写真のものは午後 2 時頃に撮影したので,そろそろ酔いが回ってきた頃の花です。
 
 
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                             夢に見し人のおとろへ芙蓉咲く      久保田万太郎
 

      珍しいと言えば、こんな花の名も珍しいですね。

        〇    「ヘクソカズラ」

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 可愛い花なのに「屁くそかずら」とは何ともかわいそうですが、古名が「クソカズラ」だそうですからやむをえませんね。でも別名が「早乙女バナ」というので少しは救われます。

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   「鬼も十八番茶も出花、ヘクソカズラも花盛り」という言葉があります。
 ヘクソとは、この花の葉をもむと臭いので、こんなすさまじき名前がついているそうですが、シランが嗅いで見ても別段臭いとも思われません。
 いや、シランの鼻が壊れているかも。。(-_-;)


       〇 「風船唐綿」

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 駐車場の片隅にいつの間にか、こんな可愛い花を咲かせる見慣れない植物が大きく成っていました。フウセントウワタです。タンポポのように綿毛にくるまれて、何処からか風に乗って飛んできたのでしょう。

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「フウセントウワタ」は、南アフリカ原産の「ががいも科」の小低木ですが、鉢植えにして一年草として扱われることも多いようです。
  葉は柳のような尖った細い葉で、1センチくらいのスズランのような小さい花が下向きにたくさん咲きます
 
  〇 「風船唐綿の実」

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「風船唐綿」は花のあと、とてもユニークなトゲトゲのついた卵形の実が出来てきます。初めは1センチ大の可愛い風船ですが、次第に大きくなって、しまいには5センチぐらいの大きさになり、連想すると人前に出すのが恥ずかしい位になります。  ・・(^^*)

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 トゲトゲは痛くはありませんが、晩秋になるとこの風船が割れて中からやわらかい綿毛に包まれた種子実がいっぱい出てきて、風の吹くままにタンポポの綿毛のように飛んでいきます。この風船はいわば男性の持ち物同様「命の袋」なんですね。 


 
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                                      (風の吹くまま気の向くままに)


         ・・・・・・                  ・・・・・・

 *昼から2か月に一度の内科検診へ。
  一年ぶりに血液検査と胸部レントゲン撮影あり。
  多少貧血気味だが、これは高齢者の造血機能の衰えなので問題ない由。
  心臓も肺も、コレステロールも異常なし。 血圧138-60

    身体髪膚これを父母に受く。
    あえて毀傷せざるは孝の始めなり・・・

 
                                  ・・・・・・
  

(191) 秋の野の花

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         (191) 秋の野の花

 秋の山野には「秋の七草」のような有名な花だけでなく、名も知らぬ野生の花も多い。
 そんな花の咲き乱れる野原を「花野」という。

  〇 「イモネノホシアサガオ」


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 「イモネノホシアサガオ・芋根の星朝顔」はヒルガオ科のツル性多年草ですが、朝顔よりも花が少し小さくなっています。ヒルガオと比べても花や葉が小さく、葉の形が細長く、鉾のようにとがっているので見分けがつきます。

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     花は3センチ位で可憐、ヒルガオよりも花期が早く、少し白っぽい感じがします。
ヒルガオ同様、地下茎で伸びて行くので、掘っても掘ってもすぐに再生して始末に負えません。まさに雑草中の雑草と言えるでしょう。

        〇 「ノカンゾウ」

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  「野萱草・ノカンゾウ」はユリ科のワスレグサ(ヘメロカリス)属の多年草で、  本州、四国、九州の少し湿った草原や川岸に自生しています。 7月から9月にかけて、オレンジ色の赤っぽい花を咲かせますが、 朝咲いて夜にはしぼむ一日花です。
 
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  花は一重六弁で、花の色は濃淡さまざまで変化も多いです。
  同じくユリ科の「ニッコウキスゲ」 もカンゾウと同類です。

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      萱草(かんぞう)の一輪咲きぬ草の中   

                                               漱石 
 



       〇 「ヤブカンゾウ」


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   「ヤブカンゾウ」もユリ科の植物で中国の原産ですが、今は田の畦や路傍などのほか、日本のどこの山野でも見られます。ノカンゾウ(野萱草)の花は一重ですが、ヤブカンゾウ(藪萱草)は八重咲きなのですぐに見分けがつきます。 
 漢名の萱草(カンゾウ)は「この美しい花を見ていると憂いを忘れてしまう」と言う故事から、別名「忘れ草」とも言います。

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  また、朝咲いて夕方には閉じてしまう「一日花」なので、その儚さから、すぐ忘れられてしまう「忘れ草」という意味もあるようです。 杜甫の詩や日本の万葉集にも見られるように、真夏の濃い緑一色の中の、鮮やかな黄橙色はひときは目立ちます。    
    
       忘れ草 我が紐(ひも)に付く 香具山(かぐやま)の
          古(ふ)りにし里を忘れむがため            万葉集  大友旅人
 

 こちらでは田植えの終わった後のことを「さなぼり」といいますが、カンゾウがこの「さなぼり」の頃に咲くので、「田祈祷花・タキトウバナ」と呼ぶ地区もあります。
 若芽や葉はお浸しや煮物として料理になり、根は乾燥して漢方の利尿薬として用いられます。
 
             萱草(かんぞう)も咲いたばってん別れかな    芥川龍之介  

  〇 「ヘメロカリス」

 

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 「ヘメロカリス」 もカンゾウと同じくユリ科の植物です。
 日本や中国原産のユウスゲやカンゾウがヨーロッパなどで品種改良されて出来た園芸品種です。
 花は一日でしぼむ一日花ですが、次々に花が咲くので長い間楽しめます。
  ユリ科の園芸種なので花色も多く、クリーム色、黄色、赤、オレンジなど大きくて百合の花に似た美しい花が咲きます。

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       〇「オニユリ」

 

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「鬼百合」は、もちろんユリ科の植物で、日本、中国、朝鮮に自生しています。 オレンジ色の花びらが反っくりかえっていて、濃褐色の斑点があります。
 「鬼百合」は鬼という名がつくだけあって、「歩く姿は百合の花」にはちょっと縁遠いような気がします。 やはりユリといえば白百合でしょうか。。
 でも、鬼百合には鬼百合の美しさがあります。 強いていえば、やはり花びらの黒い斑点が災いしているのかも・・それが、鬼と言われる所以でしょうか。

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      ・・・・・・・      ・・・・・・                         ・・・・・・・

(192) 「秋の野の花」 ②

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    (192) 「秋の野の花」 ②

        〇 「キツネノカミソリ」  
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  「キツネノカミソリ」はヒガンバナ科の多年草で、明るい広葉樹林に生育します。
 お盆の頃ひとり林の中を登っていると、不意にこの赤い花に出会って驚かされることがあります。
 
 葉の形がカミソリに似ていて、花がキツネ色をしているのが名前の由来ですが、葉がなくて、花だけが忽然と咲いているのが、なにかキツネに化かされているような気がするのも、関係があるのかも知れません。

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   「ヒガンバナ」と同じく花が咲くときは葉がありません。早春に葉が出て真夏にはその葉が枯れたあとで、花茎が出てきて花が咲きます。
 キツネノカミソリ がお盆ごろに、彼岸花 がお彼岸のころに花が咲く、と言うのも何かお先祖様との因縁があるのかも知れませんね。
 
   〇 「タヌキノカミソリ」

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 野原を歩いていると、キツネノカミソリによく似ている花に出会いましたが、少し花色が違うので、これは何だろうと思っていると、そばで写真を撮っていたオバサンが「タヌキノカミソリ」だと教えてくれました。初めは冗談だろう、と思っていたがほんとうだった。
 キツネノカミソリがあるのだから、タヌキがあっても別におかしくはないのだが。。

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   タヌキノカミソリ キツネノカミソリと同じヒガンバナ科の多年草で、原産地は中国の湖北省から雲南省あたりに分布し、日本には自生していませんが、観賞用として移入されています。
本名は 「リコリス・インカルナタ」 と舌をかみそうな名前です。
 淡いピンク色の花びらに、濃いピンクの縦の線が入っていて、 ヒガンバナやキツネノカミソリ同様に、花の咲くころには葉は枯れています。

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                   (キツネとタヌキ・・どっちがきれい?)


        〇 「夏水仙」  
 
    タヌキのカミソリによく似た花に「ナツズイセン」があります。

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 「夏水仙」はヒガンバナ科の多年草で、、中国から来た帰化植物です。夏に咲いて葉が水仙のようなので「夏水仙」の名前があります。タヌキのカミソリによく似ていますが、花茎が大きくて長く、花も大柄です。花びらの濃い縦線はないようです。


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 夏水仙 は日本では、北海道を除く全国の人家の近い里山付近に生育しています。
 花は8月ごろに高さ60センチくらいの花茎をのばして淡紅色のラッパ状の花を数個咲かせます。
ヒガンバナ同様、春に出た葉は夏には枯れて残っていず、花だけが伸びています。花だけで葉がないので俗に「裸ユリ」とも呼ばれるそうで、きれいですがこれは有毒植物です。 

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              ・・・・・・   

    〇 「綿の花」
 
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  「棉」はアオイ科の植物で、紀元前2,500年も前からインドのインダス地方で栽培されていました。開花して五週間ほどするとグリンボールといわれる見が熟して、はじけて中から白い綿毛が出てきます。
 その綿毛は布団や布地などの原料となり、世界の繊維材料の七〇%を占めています。
 「腸」のことをハラワタとかワタとか昔は読んでいましたが、衣類の中に綿を詰めることから、体の腸に見立てて「綿」という名前になったそうです。

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               (綿の花は3~4センチと小さいですが、柔らかい淡黄色をしています。)
 
  花ははじめ淡いクリーム色ですが、夕方にはピンクいろになってしぼんでしまいます。アジア綿、エジプト綿など種類によって花の色も少し違うようです。

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  (花は淡いクリーム色からきれいなピンク色に代わって、夕方にはしぼんでしまいます)

  上右のの写真の左側、緑色の卵型の玉がコットンボールとかグリンボールと呼ばれ、秋になると茶色に熟してきてはじけて、中のふわふわした綿毛が出てきます。
  この綿毛を摘んで、衣類などの繊維の材料にします。

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         しらぬひ  筑紫(つくし)の綿は 身につけて
                いまだは着ねど  暖かに見ゆ

                            万葉集   沙弥満誓(さみまんぜい)     

               ・・・・・            ・・・・・・

 万葉集に不知火の筑紫の綿とありますから、奈良時代から筑紫(佐賀地方)でも綿の栽培が盛んだったのでしょうか。
 佐賀の有明海沿岸は遠浅で、古代から干拓事業が盛んでした。
 干拓した後の農地は塩分が多くてしばらくは農作には適しません。
 そこで干拓地にはしばらくの間、塩分に強い綿の栽培をしてから初めて農地として使っていました。     戦前は汽車の窓から、大きな「ふくろく綿」などの宣伝の看板を見たものですが、今はすっかり立派な稲作の農地だけがどこまでも広がっています。      
                      
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               (昭和始め・お役人の有明海干潟のタライの視察)
                 

(193) 秋の野の花 ③

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    (193) 秋の野の花 ③

  秋の野原には、雑草風の野草がいろいろ見られます。

  〇 「オシロイバナ」
 
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 「白粉花」は熱帯アメリカ(ペルーなど)の原産で、江戸時代にはすでに日本に渡来しています。
 普通は一年草として植えられていますが、中には野生化して多年草になっているのも見かけます。
 黒い小豆大の種をつぶすと白粉のようになるので「白粉花」の名がつきました。

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  また、夕方に咲き出すので「夕化粧」の別名もあり、白、赤、黄色、絞りと多彩です。

 夕方に咲いて朝方にはしぼみますが、気温が低くなると、日中も咲いています。
  熱帯の花「ブーゲンビリア」もこの白粉花の遠い親戚なんですよ~。
 
         おしろいの 花の紅白 はねちがい    富安風生


  〇 「玉すだれ」

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 「玉すだれ」は南アメリカのペルーなどが原産のヒガンバナ科の球根植物です。日本へは明治初期に渡来しました。
 耐寒性が強く丈夫なので園芸用によく植えられていますが、最近は野生化もしているようです。別名を 「レインリリー」 と言うように、雨の後で忽然として咲いて出るので、びっくりすることがあります。
   よく墓場に咲いているので、子供の頃は、この花を見るとなんだか気味が悪かったです。
 
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 玉すだれの葉の高さは20~30cmで、肉厚の細長い葉をたくさん出し、花茎を次から次に出して4,5センチの白い六弁花を咲かせます。玉すだれの意味は、細長い葉が密生している様子がすだれのように見えるからでしょう。

 イメージ 7花期は長く、5月から9月ごろまで咲いています。

 葉や茎には「リコリン」というアルカロイド成分が含まれているので、食べると嘔吐や痙攣の症状を起こします。

 私は軍隊時代に腹が減ってノビルの根を掘って食べたことがありますが、そのノビルに似ているので、うっかり食べないようにしましょう。

     
    〇 「ニラの花」
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 「ニラ・韮」はユリ科の多年草で、東アジアの各地に自生していますが、ヨーロッパではほとんど見られません。
 日本では古事記などにも記載がああり、古代から栽培されていたようです。
 万葉集には「久々美良」という名前で歌われており、この「ミラ」がなまって「ニラ」になったといわれています。

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  イメージ 15  晩夏から秋にかけて、茎のてっぺんに白い小さい花をたくさんつけます。
 葉をちぎると独特の強い匂いがありますが、最近は食材としてよく食べられています。 ねぎの一種なので、ビタミンAとカロチンをたくさん含んででいるので、消化を助け風邪の予防にもなります。 

 
                
        きはつくの  岡のくくみら  我摘(つ)めど   
                         籠(こ)にも満たなふ  背なと摘まさね
     
                                    万葉集   (くくみら・・ニラのことです) 

     〇 「オオケタデ・大毛蓼」

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 オオケタデ(大毛蓼)は、タデ科の大型の一年草で、熱帯アジア原産の帰化植物です。
 高さ1~2m、夏から秋にかけて、長く伸びた茎の先に米粒大の薄桃色の小さい花をたくさんつけた花穂を垂れています。  葉や花に毛がたくさん生えているので「毛蓼・ケタデ」の名がついています。

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イメージ 11 「タデ食う虫も好き好き」・・といいますが、イヌタデのように苦いかどうかは、虫でないシランは食べたことがないので知らんです。 
 葉は緑色で幅広、先の方がとがっています。
 観賞用というよりも、最近は野生化して道端などに多く見かけるようになりました。

  ← イヌタデ

                     〇 ヤブラン

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   「ヤブラン」は関東から西の温かい地方に生育するユリ科の多年草です。
 低地の林の中の日陰に多くみられ、冬でも葉が枯れずに青々としているので、観賞用としても植えられています。

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  花は薄紫色で穂状にたくさん集まって、8月から10月にかけて咲いています。
  秋には 黒紫の実がなり、根は薬用にし、鎮咳、解熱、強壮薬として使われています。
   また、園芸種には葉が斑入りのものもあります。

          ・・・・・・                    ・・・・・・

 *終活で今日は家族葬専門の葬儀場を見学に行きました。
  先日行ったのは、あまりに狭くて不満でしたが、今度のはなかなかこじんまりと設備も整っていて気に入りました。でも、ここが九十路最後の別れの場になるかと思うと、いささか感無量。。
 帰りに、近くの海鮮料理屋で刺身定食で昼飯、ふとメニューを見たら精進料理も出来るので法事の際にはどうぞ、とありました。 刺身で精進とは・・世の中も変わったものだ・・と感心しきり。

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                      雲は流れて・・浅間山遠望
   
                                               ・・・・・
 

どぜう鍋

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    (30)  「ドジョウ鍋」

 「どじょう」は漢字で書けば泥鰌だが、平仮名では昔は「どぜう」と書いた。~しましょう、を~しませう・・と書いていたのだから当然だが、東京ではいまでも「どゼう鍋」と言うのだろうか。。
  最近の川には、メダカやウナギも少ないが、ドジョウも少ない。
農地改良のための圃場整備による護岸のせいでコンクリートだらけ、川
岸があまりにきれいになり過ぎたからに違いない。

 戦前の田舎では、川魚はちょっとの間にバケツ一杯くらいはすぐ取れた。佐賀平野は沖積地なので頗る平坦であり、クリークと言う名の堀が縦横無尽に走っていて、川魚の宝庫になっていた。コイ、フナ、ウナギ、ナマズ、ハヤ、などと数え上げればキリがないほどである。川魚取りは大人も子供も楽しい、それにゼニを出さずにただで美味しい魚を食べられるのである。但し、白状すると、お上品なシランはどじょうやナマズは食べたことがない。

             (ふるさとの山河)            画・・学友のハヤ釣りのK君
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 子供の頃は、ドジョウやウナギ取りに熱中するが、大きくなったらフナやハヤ釣りに興ずる。
佐賀平野の川にはハヤが多い。川釣りの対象として広く愛好されているのはコイ科の「オイカワ」だそうだが、中学の同窓のI君はこのハヤ釣りの名手だった。よく同窓会の飲み会に自分で釣ったハヤの甘露煮を作って、酒の肴に持ってきてくれた。いつかの飲み会で、ズポンがずぶぬれだったので、「そりゃ、どがんしたとね?」と尋ねたら、釣っている最中に熱中して思わず深みに入りどぶんと尻もちをついてしまったと言う。その頃は奥さんが脳梗塞で入院中で、独身生活をしていたのである。濡れたズポンのまま飲み会に出てきたのだろう、男やもめの辛さである。。

 子供の頃の獲物の中ではドジョウが一番多かった。何しろ広大な水田が天然の養殖場になり、肥料の豆かすや魚カスを餌にドジョウが爆発的に繁殖するのである。ドジョウの中にはチクワのように大きいものもいる。これは「杵ドジョウ」と言って、蒲焼きにするとウナギよりも数段うまいそうだ。

 稲作が終わって田んぼの水が落ちると、どじょうは残らず川に流れる。然し小さい溝川にとどまったどじょうは、干上がった泥の中にもぐりこむ。ドジョウは水がなくてもエラで呼吸できるから便利なものだ。だからどぶ川のどじょうは時々水上に浮き上がって来たかと思うと、とたんとんぼ返りに又水底にもぐりこんでしまうのである。一瞬の息抜きならぬ息つきである。ドジョウは泥の中にもぐりこんでそのまま来春まで冬眠するのである。

              (どじょう掘り)   画・・南窓さん
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 このもぐりこんだドジョウを人間サマが掘る。両手で泥をかき分けると、壁泥の中の藁のようにドジョウが住んで居る。ドジョウの必死の水遁の術もむなしく、人間様が片っ端から竹ざるの中に放り込んでしまうのだ。取って来たドジョウは大鍋でドジョウ鍋を作って、隣近所に振舞う。豆腐、里芋、ごぼうなどを入れて味噌仕立てにするのだ。tabeta ネギ、ショウガの薬味が程良く効いて、フーフー言いながら何杯でもおかわりが出来るそうだ。

 ドジョウは「泥鰌」と書く。泥の中に住んで居るので、泥臭いと言う印象が強いが、こんなに上品でおいしい味は滅多にないそうである。
 東京の浅草にある「どぜう鍋」は、ドジョウを丸ごと何匹も並べてあ
るが、「柳川鍋」はどじょうを開いて「ささがきごぼう」とともに煮て、最後に卵とぢにしてあるそうだ。食べたことはないが、「どぜう鍋」で、生きたドジョウを酒で煮るとき豆腐を入れて置くと、熱さに苦しむドジョウがトーフの中に逃げこんで、美味しくいただけるとか。。

 また、木の鍋蓋に小さい穴をたくさん開けておき、熱さに我慢しきれ
なくなった泥鰌が逃げ出そうと鍋蓋の穴から頭を出した所を頭を引き抜くと、頭と骨がするりと取れて、泥鰌の身だけが下のご飯の上に落ちる。そのご飯をかき混ぜると、美味しい「どじょう飯」が出来る・・とか聞いたことがある。

 如何にも残酷物語だが、あるいはこの話は落語で聞いた話だったかも知れない。。

  

(184) 「軍隊生活」

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         (184)  「軍隊生活」
 

 猛烈台風一過して、大阪地方に甚大な爪痕を残しましたが、皆さんのところは如何でしたでしょうか、お見舞い申し上げます。
   

 昔は、二百十日の9月1日頃が台風の時期で、今の様に台風が多くは無かったような気がする。
たしか小学校に入った年に大きな台風が来て、向かいの家が大きく揺れていたのを思い出す。我が家も古かったので、倒れるかもしらんと、近くの工場に避難したようだ。下校時に道路が冠水していて、家の番頭さんが迎えに来て背負われて帰った、かすかな記憶がある。

 台風の思い出は少ないが、とにかく9月1日の学校の夏休み明けは嫌でしたね。
 学校という集団生活から抜け出した開放感がいっぱいの楽しい夏休み、その嫌な集団生活がまた始まるかと思うと一日、一日が命の縮まる思い・・(と、いうほどの切迫感はなかったですが・・)

 そういえば昔は宿題もそう多くはなかった。小学校では「夏休みの友」の問題を一日一ページやっておれば良かったし、今のような自由研究なんてなかった。

 イメージ 1中学の夏休みの宿題は、博物の授業で、一年が「植物採集」、学校の購買部から、ブリキ製のドーランを買って肩にかけ、山辺に出かけていろんな夏草を採って来る。家で新聞紙に挟んで乾燥させ、台紙に張り付けて植物標本を作り提出。
 二年の時は「昆虫採集」だ。同じく購買部から捕虫網、毒ツボ、虫ピン、展翅板、などを買ってきて、毒ツボを水筒のように肩からさげて、さぁ里山に出発だ。
 今頃はドーランも毒ツボもなくて、たいてい大きなビニール袋で済ませるようだから、とても楽なようだ。

 昆虫採集と言っても、最近はトンボやセミや蝶ではなく、カブトムシやクワガタらしいから、昔とはほんとに変わったものだ。
展翅板に挟みこんで、羽根を広げて数日間形を整え、標本箱に虫ピンで首のところを突き刺して並べると完成だ。

   ↑ 昔のセミ採り・釣り竿の先に トリモチ を塗りつけてトンボやセミを獲っていた・・

 ほかは絵画の小さなスケッチブック一冊の宿題があるくらいのもの、苦痛よりもむしろ楽しい宿題だった。 それに昔はクラスのいじめもなかった。シランも小中学を通じていじめに遭ったこともないし、見たこともない。戦前・戦中はとにかく犯罪が少なかった。夏は窓を開け放し、玄関のカギをかけなくても泥棒は入らなかった。
 それが、敗戦後は犯罪が急増、うちも二度ほど泥棒に入られて、金庫を持ち逃げされたことがある。枕元に置いていた軍隊の将校用のコートまで盗られたこともある。

 今は夏休み明けの生徒の自殺が多い、学校が嫌なばかりでなく、いじめがあるからだそうだ。明日からまた、あの陰湿ないじめに遭うと思えば、子供にとっては実に深刻な問題に違いない。何度も問題にされながら、学校のいじめは繰り返されてなくならない。
 動物社会にもいじめがあるようだし、知恵の塊のような人間社会でもいじめは、どうしてなくならないのだろうか。

  〇 「軍隊生活」

 いじめと言えば、寝食を共にする旧軍隊のいじめはすごかった。学校から帰れば精神的にくつろげる家庭があるが、軍隊には帰るべき安楽の地がない。朝、昼、晩、古参兵にこき使われいじめられるので、いじめられた新兵の自殺や逃亡が絶えなかった。
 紫蘭は昭和19年に新しく設けられた「特別甲種幹部候補生」の一期生として、軍隊に入らずに直接予備士官学校に入ったので、軍隊 内務班(軍隊の兵舎内での生活の場)の実際の経験がない。従って古参兵からいじめられた経験がない。

 一般に戦前の日本男子は、20歳になって徴兵検査を受けて郷土の軍隊に入り、将校になるには三か月の初年兵訓練を受けたのちに、幹部候補生の試験を受けて予備士官学校に入るのだが、大學、高専卒業の資格のある者には、その三か月の軍隊生活を省いて、直ちに予備士に入れる制度である「特別甲種幹部候補生・略して特甲幹」の制度が、この19年に出来たのである。

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                                              (当時の幹部候補生の軍制)


 戦争の激化に伴い、召集兵の増加とともに、それら補充兵たちの指揮、教育のために短期養成の下級将校が必要だったのだろう。三か月の基礎的な軍事訓練は、旧制高校や大学で訓練済みなので、この3か月の新兵としての訓練期間を省いてインスタント将校を大量に養成しよう、というわけである。 そのため、紫蘭には実際の軍隊の内務班の経験がない、おかげであの陰湿な古参兵による制裁やいじめを受けたことがない。

イメージ 3 日本の旧陸軍には様々な典範令(各部門の教科書のようなもの)があり、多くは携行に便利なように手のひらに乗るような小型の本だった。中でも歩兵操典と作戦要務令、軍隊内務令は兵隊には絶対必要なもので、新兵として入隊するときは必ず携行しなければならなかった。

 この軍隊内務令に軍隊内の生活の場ともいえる「内務班」についての記載があり、これにのっとって内務班内の起居動作や身辺の整理整頓などがなされるのである。

 もともと旧陸軍では,将校と下士官の曹長までは兵営外に居住して毎日兵営に通勤するのだが、軍曹以下の下士官と一般兵たちは兵営内に居住することが義務づけられていて、各中隊内に数個ある内務班という居住単位(*いわば学生寮の共同部屋)に分かれて生活せねばならなかった。
そのため初年兵は何かにつけて忙しく、ついへまをすると同部屋の上級の古兵や下士官から怒鳴りつけられたり、時には殴りつけられたりする。   

 軍隊内務令にもある如く、軍隊では上官に対しては、絶対服従である。如何に無理難題を言われても、いかにむごい体罰を受けても反抗するこ7とは絶対に許されない
 「命令と服従」は軍隊の絶対的倫理だったのである。

 陸軍刑法にも第五十七条に「抗命の罪」として記してある。

 *上官の命令に反抗し、これに服従せざる者
     一、敵前なる時は死刑、または無期、もしくは十年以上の禁固に処す
     一、その他の場合は禁固五年に処す
                                とある。
  そのため、旧軍隊の内務班では、陰惨ないじめが横行したのである。
 
   ・・・・

 *今朝は台風一過の爽やかさ、日差しは強いですが湿気が少ないので過ごしやすい一日でした。

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                         (天高く天山山頂秋の雲)

                                            ・・・・・

(195)

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     (19 5)  「軍隊生活の一日」

 〇補充兵について

 「補充兵」とは戦前の日本男子が平和時に徴兵検査を受けて合格しても、現役兵として入隊せずに一般社会人や大学生として生活していた者が、戦争勃発に伴い「臨時召集令状・いわゆる赤紙」を受けて陸軍二等兵として入営する兵隊の事を言う。彼らはそれまで一般社会人として過ごしてきたので、年齢的にも高く、社長族や教師や医師など社会的地位も高い者も多かった。

 「召集令状」は印刷された赤紙に必要事項を記入してあり、封筒に入れて郵便で送られてくる。
、「兵隊の命は一銭五厘」とよく言われたものだが、これは葉書一枚でいくらでも兵隊を補充できるから兵隊の命ははがき代の一銭五厘しかない、・・という意味だが、このように「補充兵」は赤紙一枚で調達された全くの消耗品扱いであった。

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                         (臨時召集令状・見本)

 その「補充兵」は二等兵という最下位の兵隊なので、軍隊生活では食事も休息もみんな最後で、すべての雑用をこなさねばならない。最前線の補充兵は年齢による体力の衰えもあり、補給が途絶えた戦争末期には、敵弾に倒れる前に真っ先に栄養失調で死んで行ったそうである。もちろん、爆雷を抱いて敵戦車への体当たりを命じられるのも、最下級の補充兵が一番最初であった。

 
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                                          (昭和初めの旧式戦車)


(*シランも予備士で亀のような形の破甲爆雷を竿竹の先に括り付けて、敵の戦車のキャタピラの下に差し込む対戦車攻撃の訓練を受けたことがある。もちろん成功する前に戦車の機銃で撃ち殺されたり、爆雷もろとも自分も吹っ飛んでしまう、いわば決死の特攻攻撃だった。

 イメージ 3しかし、訓練に使う戦車ががない。演習場の隅に、雨ざらしの戦車があるが、これがまた年代物で、壊れていて全く動かない代物である。だから、もっぱら大八車→ を戦車に見立てて、対戦車攻撃の真似方をするだけだ。

 我々は長い竿竹の先に括り付けた「みなし破甲爆雷」を持って草むらに潜んでいて、戦友が引いて走ってくる大八車の前に飛び出して、その車輪の前に爆雷を突き出すという訓練である。何だか子供の遊びのようなマンガチックな光景ではあるが、我々は、吹き出しもせず真剣に訓練に励んだものだ。もし、ニヤニヤでもしていたら、頭の上から区隊長の怒声と共に、サーベル(指揮刀)で殴り飛ばされるのである)

    閑話休題・・ここで軍隊生活の一日を簡単に説明しよう。

   〇軍隊の一日

   〇「起床」    
 
 午前6時、訓練で疲れ果てて眠りこけている所を突如「オキロヨ、オキロ、ミナミナオキロ~、オキネーと古兵ドンニドヤサレルゥ~」と鳴り響く起床ラッパに叩き起される。


  イメージ 4大急ぎで袴(ズポン)と靴下を履き、戦闘帽を被り、上靴(スリッパ)を営内靴に履き替えて営庭に集合する。

 この上靴から営内靴に履きかえる時が大変で、各自の名前がそれぞれ入っているのだが、どうして無くなるのか分からないが、自分の右足がなかつたり、左足がなかつたりする。

 それに毛布のたたみ方が大変だ、毛布は5枚あり、下に2枚を敷き、残りを上にして状袋状にして潜り込んで寝るのであるが、朝、これをたたむのが一苦労、急いできれいに四角に畳んで寝台の足の方に置かねばならない。
 

  予備士では冬の極寒期にはあと3枚毛布が追加支給されたが、それでもドアのない開けっ放しの兵舎の夜は深々と寒く、のちには上着とズポンを毛布の上に乗せて寝るのを許されることもあった。

 この寝台に備え付けの布団代わりの毛布は、明治時代物などばかりで、明治38年製などと書いてあったりするほど、とても古くて、毛が抜けてしまってドンゴロス(麻袋)のようにゴワゴワになって居るが、その隙間にノミやシラミが湧いている。そこで虫干し(南京虫退治)のため、寝台を兵舎から営庭に運んで日に干すことがあるが、この時もグズグズしているというだけで、古参兵に殴られることもある。

     〇 「点呼」

 点呼とは、一人一人の名を呼んで、人員が揃っているかどうか調べることであるが、軍隊では朝、夕この点呼が行われた。日朝点呼、日夕点呼という。全員が班内に整列して、班長が巡回してくる週番士官に対して「週番士官殿に敬礼!頭(かしら)右!」と敬礼して「第一内務班、総員14名、事故1名(入院など)現在員13名、ほか異常なし、番号!」と号令をかけると、班員は下士官以下、順次番号1,2,3,4・・と、声高に叫ぶ。 ここで整列の兵隊が番号を唱え終わると、週番将校が兵隊の一人一人を見て周り服装、態度などを点検する。


 ところがこの点呼中に週番将校に班員の誰かが服装やらで注意されると、その後が大変である。班長の監督不行き届きということで、上官からの体罰が待っている。罰として営内一週の駆け足ならまだ良い方で、注意された者へのビンタだったり、時には班員全体のビンタだったりする。特に新兵への風当たりが強かった。

    ○ ビンタ には三つの種類がある。

  片道ビンタ 大抵右利きだから、左の頬を殴られる
  往復ビンタ 左右の頬を殴られる
  対向ビンタ 差し向かいでお互いを殴る

 然しビンタも手で殴られるのならまだましで時には上靴(室内履きのスリッパで、軍靴の古くなったものから作る)でやられる場合があるが、これは誠に強烈で頬にアザができたりする。    
   
                 ・・・・
                ・・・・・・

 


(196) 「軍隊生活の一日」② 訓練

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  (196) 「軍隊生活の一日」 ② 訓練

 召集された補充兵に対する訓練は猛烈を極めた。
 短期間に歩兵としての教育を全て詰め込んでおこうとする空気がありありと察せられた。
 地方(*軍隊では世間のことを、地方とか娑婆とかいう)でどんな立場にあろうとも、それが多勢の人を使っている社長さんでも、社会的な重要なポストの人であっても、教育者であれ役人であれ、魚屋のあんちゃんであれ、百姓の倅であれ、全くみんな同列であった。
 ただただ体力のみがものを言う世界なのである。
 
 そのため、都会育ちの上、体力的な運動など何一つしてない先生や医師などは、とてもこれに伍しては行けなかった。然しやらなくてはいけない。軍隊では頭脳労働者だから、などと言っては居られないのである。
 
 それに補充兵の年令もまちまちである。
 二十歳から三十、四十を越えている者もいる。それが皆同じことをやらされるのである。有名官立大学出や一流銀行に勤めていたもの、或いは有名会社の御曹司等もいる。地方では机に向かってふんぞり反っている人達である。しかし、軍隊では理屈や常識は通らない。無理が通って道理が引っ込むのが軍隊という所だ。理屈を言うとそれだけ余計殴られるだけのことである。大學出や社会的に地位の高いものほど余計ビンタを喰うのが、軍隊生活では日常茶飯事の出来事だった。
  ・・・・

   〇  
「訓練」 

 イメージ 6歩兵の訓練は歩兵操典と作戦要務令に則って行われる。「歩兵操典」は歩兵の行軍や戦闘時の陣形、小銃、軽機、擲弾筒など、兵器の取り扱い方や歩兵に必要な戦闘技術を分かりやすく図解入りで解説してあり、いわば歩兵の教科書のようなものである。
 また、「作戦要務令」は歩兵に限らず各兵科の戦闘方法や技術を示したいわば戦術の教科書である。

 イメージ 8どちらも横7センチ、縦さ10センチとごく小さい小冊子で、手のひらやポケットにもしまい込まれ、訓練中でも、いつでも取り出せるようになっている。この歩兵操典と作戦要務令は中学の教練でも使っていたので、軍隊に入るときも、新しく購入しなくても持参が許された。
                                                                     ↑   (ぼろぼろの歩兵操典)
ちなみに、操典だけでなく、作戦要務令や射撃教範、陸軍刑法などをひとまとめにした「歩兵全書」もあ。                                                                           

 予備士に入校した直後にあった「素養試験」でも、歩兵操典と作戦要務令についての問題が出た。

イメージ 1


 兵隊の訓練はまず歩兵操典の最初にある「不動の姿勢」から始まる。
 ・・不動の姿勢は軍人基本の姿勢なり、
   不動の姿勢をとる時は次のような号令を下す

   「気をつけ!」

 イメージ 2・・両かかとを一線上につけ、両足は約60度に開きて等しく外に向け、両膝は凝らずして伸ばし、上体を正しく腰の上に落ち着け、背を伸ばして少しく前に傾け、両肩をやや後ろに引き一様に下げ、右手にて銃を握り、左ひじを自然に垂れ、指は軽く伸ばして並べ、中指をおおむね袴の縫い目に当て、首及び頭をまっすぐに保ち、口を閉じて目を正しく開き、前方を直視す。・・

 ・・と、肩の凝りりそうな、長たらしい綿密な説明が載っている。簡単な事でも七面倒くさく堅ぐるしい軍隊言葉で書いてあるのが軍隊用の書物である。
 口を閉じて、眼を正しく開き・・なんか、可笑しいですね。口をぽかんと開けて、片目を閉じていたら河馬みたいですね。

 以下、順次、小銃・軽機関銃・擲弾筒・速射砲の射撃や戦闘、攻撃・防禦などの記載がある。
 ↑正装の陸軍二等兵

    〇  行軍

 訓練では楽なものは何一つとしてないが、特に応えるのは、完全武装の行軍である。
 背中に背負う背嚢(*四角いリュックのような物入れで、そ周りに毛布を一枚丸めて巻く) だけでも20キロはあろうというのに、革バンドには前後に弾薬が入った「弾盒・弾入れ」をつけ、水筒、防毒面、雑嚢を左右の肩から下げて銃を持っての行軍である。それで4列縦隊になって20キロくらいもテクテクと歩かされるのである。

                               イメージ 3
                                         (ノモンハン事件・前線へ急ぐ日本軍兵士)

 行軍は、たいていは50分歩いては10分位の小休止があるが、行軍中は背嚢の重みがズシリと両肩にめり込み、前進するどころか後に引っ張られる感じである。その間に、時々、駆け足行進が入るので、いやはや堪ったものではなかった。
 徒歩行進のときは、元気づけに必ず軍歌の合唱がある。 紫蘭がよく歌わされた軍歌は
  
    〇 「歩兵の本領」 

 イメージ 4         ♪万だの桜か襟の色   
             花は吉野にあらし吹く
              大和男子(おのこ)と生れなば   
             散兵線の花と散れ
               
                       尺余の銃(つつ)は武器ならず   
                      寸余のつるぎ何かせん
                       知らずやここに二千年  
                       きたえ鍛えし大和魂 

  〇 「 山紫に水清く」  仙台陸軍幼年学校校歌

    イメージ 5   山紫に 水清き 
        七州の野に 生まれたる
        我ら五十の この校に
        集(つど)いし事も 夢なれや 

                 燃ゆる血潮は殉国の
                 赤き心を示すべく
                 腕なる骨は日の本(もと)の
                 基(もとい)を固むる材なれや 
      
      ・・などをよく歌わされたものである。
          歌のリズムが行軍の時の歩調にあっていたのだろう。

  軍歌でも、一般によく歌われる「戦友」『討匪行』などは歌詞が悲観的だとして、行軍の時に歌わされたことはない。


 〇 「戦友」 

       ♪ここは御国を何百里  離れて遠き満州の
        赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下

        思えばかなし昨日まで 真っ先かけて突進し
        敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか

          ああ戦いの最中に となりに居ったこの友の
       にわかにはたと倒れしを われは思わず駆け寄りて

  イメージ 7
 〇 「討匪行」 

    ♪ どこまでつづくぬかるみぞ
       三日二夜は食もなく
       雨降りしぶく鉄かぶと 

               いななく声もたえはてて
               倒れし馬のたてがみを
               かたみと今は別れ来ぬ

 
  軍歌は、今は軍国主義の残滓だとして指弾され、肩身の狭い思いがする歌ではあるが、こんなキツイ行軍をしているときに、小隊長から「歩調取れ!軍歌はじめ!一、二、三、四・・」と号令がかかって、♪「万朶の桜か襟の色・・」などと歌いだすと、なんだか急に疲れた体がシャンとなって元気が出たものだ。
 しかし、この行軍で落伍者が出ると、残った者がその落伍者の銃や背嚢を担がされるハメになる。
だから誰もが懸命に歯を食いしばって、頑張るのだが必ずといっていいほど落伍者がでるのだった。
 
 そしてその落伍者はたいてい同じ兵隊が多く、これは体力の違いだから何とも仕様のないことなのだが、この面倒を見る兵隊こそたまったものではなかった。自分一人でも大変なのに他の人の分まで背負わされるのだからその苦痛といったら言葉にならない程の疲労となる。

 * 泰平の今の時代、若者たちは幸せです。 一つしかない人生を大事に生きましょう。

      ・・・・・・              ・・・・・・

 (196) 軍隊生活 ③ 員数

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     (196) 軍隊生活 ③ 員数

 イメージ 4軍隊の内務班での生活は「陸軍内務令」によって定められているが、要するに軍隊という処は「員数」「要領」がもものをいう特異な閉鎖社会である。
  
 〇 「軍隊内務令」

 「兵営は軍人の本義に基づき、死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間、軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにある」 

 
 イメージ 1 〇「 軍人勅諭」は事あるごとに唱和させられる。

  一、 軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし
  一、 軍人は礼儀を正しくすべし
  一、 軍人は武勇を尊ぶべし
  一、 軍人は信義を重んずべし
  一、 軍人は質素を旨とすべし

    〇 「入浴」 
     

 二等兵にとって兵営生活の一日は全く休む暇など与ええられていない。顔や歯を磨かない事が何日続いたか分からない。勿論毎日入浴の時間があるのだが、上官や上級兵が入った後の風呂である。然し上官が入っていれば先ず背中を流してやらなければならない。
 A伍長の背中を流し終わったと思ったら、B上等兵が入ってくる、そこで今度はB上等兵の背中を流してやるといった状態で、自分の身体を洗っている暇さえないのである。

 こんな事で入浴の時間が長くなり、隊に帰ると今度はまた古兵に「貴様今まで何をしていた、女の入浴じゃああるまいし」とどやされるのである。
 シランは予備士時代に入浴した記憶がない。いつか同期生からも、入浴について尋ねられたことがある、彼も記憶がないそうだ。ほんとに、何か月も入浴しなかったのか、それとも雀の水浴びほどの短時間の入浴だったので、記憶にとどまらなかったのか。。
 
   〇 「員数不足」

 イメージ 2軍隊では支給される物は全て員数といわれ、誰もが同じ数の物を支給されていた。

 例えば襦絆二、袴下二、靴下三といったように身の回りの物は勿論、着装する全ての物が一定量の数支給されていた。しかし、下着の褌、手ぬぐい、ハンカチ、歯ブラシ、チリ紙などは私物になっていて支給されないので、自分で酒保(軍隊の売店)に行って買わねばならない。

 小銃は部屋の入口にある「銃架」に並べて立てかけておくが、各自の服や背嚢、私物などは寝台の足の方にある壁の棚に整理整頓して置かねばならない。その置き方も決まっていて、一糸乱れず、きちんとたたんでおかねばならない。もし縦横、少しでも歪んで居ればまたビンタの雨である。

 これらの官給品は、定期的に又は点呼の際などに突然「員数検査」が行われたりした。もしその検査のときに或る兵隊の員数が不足していると、その上官からビンタを受け、ときには班全体の責任として追求される場合もあった。


 誰かが不足していることは、他の誰かが多く持っていることになるわけで、仮に検査の時に多く持っている者があった場合、その者は他人の物を盗んだことになり、それこそ盗人の汚名をきせられ、また体罰の種となるわけである。中には意地悪して他人の物をこっそり新兵の持ち物に入れておく場合がある。 とにかく、多くても少なくても問題なのである。

 では何故物が不足するのだろう。
隔離された全く外部と遮断された兵営のなかでこれが起きるのだから、全く不思議な話しと言わざるを得ない。同室の者同志が盗むということは先ず考えられない。仮に同室の一人が他の人の物を盗んだ場合、その盗まれた者の員数が不足ということになり、検査でこれがわかったときは、共同責任として全員ビンタという体罰が待っているからである。 だから、ほかの寝室から盗ってこねばならない。

 イメージ 3特に飯盒の中盒の不足が一番多かった。点呼が始まる前には、全員が自分の持物の不足がないかどうか調べておくのだが、うっかりして飯盒の中身までは調べない場合がある。
そんな時「飯盒を持って集まれ」などと言われ、中盒(おかず入れ)の不足が発見される場合が往々にしてあるのである。

                                            → 飯盒と中盒(なかごう)

 「他人を見れば盗人と思え」・・これは軍隊では、絶対肝に銘じておかなければならない諺である。
 だが、もし自分の物の不足を事前に発見した場合、どうすればよいか?
 これには二つの方法がある。

 一つは他の者からその不足分を頂戴(盗んで)してくることである。然しもしその盗んだ現場でも見られ又は後でそれが露見した場合、それこそ半殺しの目に会わなくてはならないし、同室の全員が盗人のいる班として汚名を受けることになる。

 もう一つは戦友に内緒でその旨を伝えることである。
戦友というのは、新兵にはそれぞれ上級の古参一等兵か上等兵が、その面倒役と言おうか、指導役として一名づつ指名されている。

 初年兵はこの戦友の洗濯は勿論、銃掃除、靴磨きまでさせられるのだが、初年兵のこんな相談を持ちかけられた時は、この戦友即ち古参兵の腕の見せ所となるのである相談を受けた上級兵はこの不足分を何とかとてやらなければ古参兵としての格が落ちる訳で、事実こんな時どうやって工面するのか分からないが何とかして呉れたものである。然し初年兵はこの戦友に重大な借りが生ずることになる。

 しかし、この借りを埋め合わせる為に初年兵には又一つの苦労が増えることになる。
 この借りの返し方の一つとして酒保から大福を買って、そつとその戦友の寝台の中に入れて置いたりする。然し酒保の羊羹などを兵舎内に持ち込むことは禁じられているので、公然とは出来なかった。

       ・・・・・                      ・・・・・・

イメージ 5

(実りの秋)

(197) 軍隊生活 ④ 「消灯」

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        (197) 軍隊生活 ④ 「消灯」

  〇 「酒保」

 「酒保」は、軍隊の兵営内にある日用品・飲食物の売店の事だが、一日中追いまわされた生活の中で唯一の楽しみはその酒保である。
 その酒保ですら兵隊にはなかなか行く機会が与えられないが、酒保は営舎内でただ一つ隔離された場所である。
 レコードもかかっているし、(・・といっても当時流行の愛染かつらの「旅の夜風」専門だったのだが・・) 当時はこのレコードしかないのかと思わせる位、この歌がもてはやされていたのである。

イメージ 1 「旅の夜風」

         ♪ 花も嵐も踏み越えて
            行くが男の生きる道
            泣いてくれるなほろほろ鳥よ
            月の比叡を一人行く

 然し、酒保は何といっても甘い物が食べられるのが一番の魅力だった。 毎日毎日の重労働で、糖分が不足しているのか、やたらと甘いものが欲しくなり、まして食べる以外何一つとして楽しみのない兵隊にとって、酒保こそ「オワシス」であり、最大最高の楽しみ場所なのだ。
  
 「酒保」には、汁粉、大福、アンパンなどがあった。
ところがこの酒保に行くことすら初年兵には許されないのである。
そんな暇は全くというほど忙しいからである。
(*予備士時代の紫蘭も「酒保」に行った記憶がない.。平時と違い、物資不足でアンパンや大福があろうはずもなく、第一、疲れ果ててそんな暇があれば、寝台に寝転がって居たかった。ただ、酒保で正装して写真を撮ったことがあるが、いつの間にか何処かえ消えてしまって、もう手元には無い)
   
 では、なんとかこの酒保に行く方法はないものか・・
つまり、入浴に行く振りをして、お風呂には行かず、酒保に一目散に駆けこむ以外に方法はないのである。

 私(Y二等兵)は同年兵のS二等兵とよくこの手を使った。隊を出るとき、「陸軍補充兵二等兵Yはただいまより入浴に行って参ります」と手拭と石鹸を持つて出るが、手拭と石鹸を何処かに隠して酒保にむかって駆け足である。
 酒保で手拭と石鹸でも見つかったらそれこそビンタを食わされるのは必定である。酒保には、おしるこや甘酒などもあったが、そんなものには目もくれず、羊羹や大福を貪るように食べたものである。
 食べるに事欠いた餓鬼といった有様である。
 この酒保でも上官が入ってくれば、大福を口に頬張ったまま、直立して敬礼をしなければならない。
落語家の柳家金語楼がよくこの光景を舞台でやって客を笑わせていたが、実際はそんな生易しいものではない。

 さて欲求を満たして酒保を出ればまた駆け足で隠した手拭と石鹸をとり、洗濯場にむかい、ここで顔と手を洗い、手拭を水に浸して隊に帰るのである。如何にも今、入浴から帰ってきたという体裁を整えるのである。

   〇 「消灯」

 午後九時、消灯ラッパが鳴り響く。消灯ラッパは、電灯を消すという意味よりもいわば就寝ラッパである。新兵にとってはこの消灯ラッパは「新兵さんは、可愛そうだねー、また寝て泣くのかよー」と聞こえるが、ここでやっと一日の行事が終わり、就寝ということになるのである。みんな直ちに、封筒のように拵えた寝台の毛布に潜り込む。昼間の演習で疲れているのですぐにグーグーという高いびきが聞こえる。

              イメージ 2♪  乾パンかじる ひまもなく
                消灯ラッパは 鳴りひびく
                五尺の寝台 わら布団
                 これが吾らの夢の床
  
 

 
   〇 不寝番

 イメージ 3しかし、時には不寝番という仕事が残っている。不寝番(ふしんばん)は交代で一人一時間、立哨または営内巡回する、いわば寝ずの番である。日夕点呼後から翌朝の起床時刻まで、他の兵が寝ている中で寝ずの番をするが、これは軍隊内務令の
(114番)にその記載がある。

  兵舎の広い出入り口や寝室には扉がなく、兵舎の中は四六時中、開けっ放しである。軍隊の務めとしていつ何時敵襲があるかもしれないので、すぐに対応できるように、寝室から広い廊下に続いてすぐに外に出られるようになっている。それだけ夜中は真冬の外気が深々と兵舎の中に忍び込んできて、じっと立哨している冬の不寝番は実に辛い任務である。

    ♪夜の夜中に 起されて 
      立たなきゃならない不寝番    
      もしも居眠り したならば
      行く金木ゃならない 重営倉

         ↑兵舎の出入り口は、がら空きだ。 不寝番はここに立哨して、兵舎内を見廻る。    


 不寝番は中隊ごとに基本的に1名が服務する。
 不寝番は週番下士官の指揮を受け、火災・盗難防止のための各所巡察点検や兵室を見て廻り、暑い日は窓を開けたり、毛布を蹴飛ばして腹を出して寝ている兵がいれば毛布を掛けてやる。といったことを行う。

 といった調子で、初年兵は朝起きてから夜寝るまで、全く休む暇などなく、この間洗濯もしなくてはならないので、如何に要領よく、テキパキと事を運ぶかが要求されたのである。

      ♪ 朝は早よから 起されて
         ぞうきんがけやら 掃き掃除
         いやな上等兵には いじめられ
         泣く泣く送る 日の長さ

   ・・・・・                   ・・・・・

イメージ 4

                                                  (実りの秋)


                                                     ・・・・・

(198) 「お彼岸」

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          (198) 「お彼岸」
 
  「彼岸」は春秋の春分、秋分の日を中日として、その前後一週間の事を言い、この期間に行われる仏事を「彼岸会」といます。春分と秋分の日は太陽が真東から上り、真西に沈むので昼と夜の間が同じで、これから次第に日が短くなっていきます。
 戦前はこの秋の彼岸の中日は「秋季皇霊祭」という祭日になって居ましたが、「暑さ寒さも彼岸まで」と言うように、もうすっかり秋めいてきて、朝晩は肌寒いくらいになりました。 季節の変化はほんとに早いものです。

  昨日はお彼岸の中日、お墓参りに行きお参りしましたが、我が家の墓もだいぶ苔蒸しました。兄が戦死した時に建てたから、もう70年以上にもなるので、苔蒸すのも当然です。
 本堂に上がって本尊様を拝んでいると、目の前の大きな柱に「お彼岸会・おひがんえ法話」の張り紙がありました。しかし、シランは不信心なので、今までしっかりと和尚さんの彼岸法話を聞いたことはありません。

       うとうとと 彼岸の法話も ありがたや     河野静雲

 彼岸に限らず、お説教を聞いて人より遅く本堂を出ると、自分の履いてきた靴や下駄が無いことが多い。誰が履いていったのか、残った履物にはろくなものがない。そこで俗人のシランは最近は自分の靴の中には、目立つように紙切れを入れて置くことにしています。

         彼岸会や身内の下駄をひとまとめ      久米幸叢

 これなら本山から来たおエライ坊さんの説教も、安心して有難く聞けるというものです

 昔は、春秋のお彼岸に、それぞれの集落にある「大師堂」に小母さんたちが集まって、西国三十三か所を回ってくるお遍路さんたちに「おせっちゃー」をしたものだ。オセッチャーとはお接待と言う意味ですが、各々手作りの「オヨゴシ」や煮豆、野菜のゴマアエなどを持ち寄って、お遍路さんたちにお茶を出して振舞い、いわゆる「善根」を積むのです。「オヨゴシ」は白和えのようなもので、サトイモ、コンニヤク、青菜などを白和えしたものに、味噌が入っているのが特徴で、なかなかおいしいです。

 お遍路さんの白衣には「同行二人」と墨書きがしてあり、弘法大師と二人連れかと思いきや、十人、二十人と仲間が大勢いるので、小母さんたちは接待に大忙しです。しかし、お接待のあとで、自分たちだけの「おちゃーご・お茶会」 をするのが、また楽しみでもあります。

イメージ 1

 むかしは、お彼岸にはどこでもお萩を作ったが、最近はスーパーに安くて売っているので、自宅で作ることは殆ど無いようですね。大きさもすっかり小さくなりました。家で母が作って居た頃は、今の三倍くらいの大きさで、食べる前には子供心に「よーし、今日は五つは食べてやるぞ・・」と、外を走り回って腹をすかせて来たりしたものですが、いざ実際に食べてみると、2,3個で大満腹してしまうのです。
 お彼岸の春の「牡丹餅」と秋の「おはぎ」とは同じようなものですが、うるち米のご飯にまぶした小豆を、それぞれ春、秋の季節に咲く牡丹と萩の花に見立てた言い方だそうです。また、小豆餡が半殺しのつぶ餡なのが「お萩」「こしあん」が牡丹餅だ、と言う説もあります。

 「おはぎ」と言えば紫蘭には忘れられない思い出があります。
 予備士では将校生徒としての厳しい精神教育のために、入校始めの3ヶ月間は酒、煙草はもちろん外泊、外出、面会は一切ありませんでした。3ヶ月を過ぎると家族との面会が何度か許されましたが、私の故郷は九州、それも家に居るのは母親だけなので(*兄も軍隊でいないので)面会もままなりません。
 同期生は関東、関西の出身者が多くみんな面会人がやってきます。面会は親兄弟に逢う嬉しさよりも面会人がこっそりと持ち込んだお萩やお菓子を食べるのが最大の楽しみなのです。面会人の居ない私はその間、為すこともなく、人気のない寝室でひとり寝台に寝転んで、毛布を引っかぶって長い一日を過さねばならなりません。

 イメージ 3そんなある面会日に例の通り私が所在無く狸寝入りをしていると、外語時代の級友で第二中隊にいたが、ふと訪ねてきて「お萩」を一つ持ってきてくれました。大阪出身の彼は、私に面会人が来ないのを知っていたのですね。船場のボンボンだった柳は、いつもニコニコとほんとに優しかったです。

 ↑母の作ったおはぎは大きかった。。

  私は夜更けてから毛布をひっかぶってその「お萩」をむしゃむしゃと食べました。子供のころ、母が作って呉れたあんこの甘さが、一人家郷で家を守っているであろう母の姿を思い出させて、思わず涙がにじんできました。ふと気づくとあちこちからパリパリと言う音がします。同じように、何人かが家族が持ち込んだお菓子を毛布を引っかぶって食べていたのです。
 おはぎについては佐賀の民話にも面白い話が残っています。

  * 「おはぎと観音様」 佐賀の民話

 むかし、むかし、あるところに和尚さんと小僧さんが住んでいました。
 ある日、和尚さんは「おい小僧!お萩があったはずばってん、無うなっとる。お前が食べたんじゃろう!」と小僧に言いました。
「いんにゃ(いいえ)、あなたの観音さまが食うとんさったばんたぁ、(*観音様が食べられたとですよ、〉ちょっと見てみんさい、あがん(あんなに)口端にあんこがついとるよー」と小僧さんは言いました。
 そこで怒った和尚さんが、観音様を叩いたら「くうわーん・・」と音が出ました。和尚さんは「それみろ、食わん・・と言うておらすじゃなかか!。。」と小僧を叱りつけました。
  
  すると小僧は腹を立てて、観音さんをお湯の中に入れると「くった、くった」と沈んで行きました。
 小僧は和尚さんに「ほら、観音さまが食った、食った、と言いよるよー」と言いました。
  
    はい、そいで、おしまい。。 (永田カメさんの話)

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