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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(295)イギリス発汗病

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         (295)  イギリス発汗病
 
 イメージ 2暑いと汗をかくのは当たり前のように思えますが、汗をかくのは人間と馬など限られた哺乳類だけの話で、犬や狼などは汗腺がほとんどないので汗が出ません。そのため犬は体温調節のため長い舌を出してハァーハァーとせわしなく空気に触れて体温を下げます。

 人間は汗のおかげでマラソンなど長距離を走れますが、犬などは汗が出ないので長距離が走れません。そこで古代の狩猟民族は、体温が上昇して走れなくなるまで獲物を追いかけて狩りをしたのです。

 今日はむかし、イギリスで大流行した「発汗病」の話です。
 「発汗病」といっても、大抵の人は知りません。
というのは、この病気は15世紀から16世紀にかけて何回か流行して、その後ぷっつりと消えてしまった病気だからです。

 この病気にかかった患者は、突然の悪寒とふるえから始まり、めまい、頭痛と共にひどい疲労感があり、発熱、嘔吐がそれにつづき、肩、首、四肢の激痛と共に、激しい汗をかきます。そして発病数時間後に、長くても24時間で死んでしまうのです。 このように死亡率はきわめて高く、助かるものは100人中一人あるか、ないかと言うほどでした。

 イメージ 1その流行の第一回は1485年のことで、イングランド王「ヘンリー7世」の時代、ロンドンではあっという間に数千人が死にました。そして第2回、第3回と、10年おきくらいにこの病気は流行しましたが、なぜかその発生地は常にイギリス、それもロンドンでした。

 そして不思議なことに、フランスやオランダに侵入しても、この病気に感染したのは、すべてイギリス人でした。イギリスでは地方によって、この病気で人口の半分が失われたこともあります。オックスフォ-ド大学は、この病気の流行期に6週間にわたって完全閉鎖を行いました。

 ↑ヘンリー7世

 1528年には、第4回目の大発生が起こり、この時はとてもひどいものでした。最初に5月の終わりにロンドンで始まり、イングランド全体に急速に広がりました。特にロンドンでの死者は膨大でした。そのため宮廷はひどい状態になり、ヘンリー8世はロンドンから逃げ出してあちこち居場所を変えたのです。

 この病気での最も特筆すべき事実は、ヨーロッパ全体で突然に大発生したことで、ハンブルクで突然発生し、急速に広がり、千人以上の死者を数週間で出しました。このように猛烈な発汗病は、東ヨーロッパで猛烈な死亡率で破壊的な被害を与えて行きました。

 この病気はコレラと同様に大きく広がり、12月にはスイスに、その後北に向かって、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、そして、東に向かって、リトアニア、ポーランド、ロシアへと広がりましたが、フランスとイタリアには広まりませんでした。そして、その年の終わりには完全に消滅してしまい、この後、ヨーロッパ本土では全く現れなかったのです。

 最後の流行は1551年でした。イングランドで起こり、数日間で1000名近くが死にました。しかし、イギリス在住の外国人はひとりもこの病気にかかっていないのです。まさしく奇病ですね。 
 従って、この病気が「イギリス発汗病」と言われるようになったのです。

    ・・・・・              ・・・・・

 * 今朝は小雨模様で暖かく明けました。
    満目黄落の秋、春には純白の花をつけた白木蓮の葉もすっかり黄色く色づきました。


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                 のやまは枯るるたびごとに
                   ちとせの春にかえるなり       藤村




(297)葬儀の参列者

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     (297) 葬儀の参列者  「11月30日」

 〇ウィンストン・チャーチル
 イメージ 1今日,11月30日は、第2次大戦時のイギリスの首相「W・チャーチル」の誕生日です。彼は1878年の11月30日に生まれました。

 晩年のチャーチルはひどく老衰して、言葉の意味もよく分からなくなり、しばしば涙を流すようになったそうですが、1965年1月8日に脳卒中のため左半身がマヒして、1月24日午前8時頃、家族に見守られながら永眠しました。91歳でした。



 イメージ 2チャーチルの棺は彼の死後3日間に亘って、ウエストミンスター寺院に安置され、遺体に別れをつげに来た人は、なんと32万人。また彼の国葬の実況中継をテレビで見た人は全世界で3億5000万人にものぼりました。
                     ヤルタ会談のチャーチル、ルーズベルト、スターリン→

 チャーチルの棺は国葬としてセント・ポール大聖堂まで送られその葬儀にはエリザベス2世女王も出席しています。イギリスには君主は臣民の葬儀に出席しないという慣例がありますが、これはその慣例が初めて破られた事例でした。
 チャーチルの遺体はブレナム宮殿の近くブラドンのセント・マーティン教会墓地に葬られました。ここはチャーチルの両親が葬られた墓地であり、チャーチルも両親の墓の近くで眠っているのです。

 〇 毛沢東

 共産中国生みの親の毛沢東は、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅で、肺気腫と心臓病のために82歳で亡くなりました。その直後文化大革命を推進した腹心の江青ら、いわゆる四人組が逮捕されています。
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 毛沢東は革命当時に、昼間に眠って真夜中に仕事をするという、いわゆる夜型の習慣を身につけましたが、その昼間に雀が鳴き騒いで毛沢東の睡眠の邪魔をするという理由で、中南海で雀退治が行なわれています。そのため、幹部職員には1日何羽というノルマが課せられました。

 それでも北京市内の雀が入ってくるので、市内全部の小中学校の生徒に雀捕りを命じています。1956年には「雀は年間30キロの米を食う」と言いだして雀の絶滅を命じています。この雀狩りは5年間続けられ、記録では北京で年間11億羽を処分したそうです。しかし雀退治の当然の報いとして害虫による作物の被害が蔓延して、農作物が凶作になったために、ようやく雀狩りは取り止めになったのです。

 イメージ 4毛沢東は「虎が自らの牙を磨くだろうか」と言って、生涯歯を磨く事はなかったそうです。そのため歯周病によって梅毒に感染しましたが、歯医者に行くのを嫌がり、薬だけで症状を抑えていました。後年になるにつれて衛生観念を無視するようになり、入浴はせずに日に一度濡れタオルで体を拭く程度でした。さすが建国の英雄も相当汚れていて、臭かったでしょうね。
 
 毛沢東の葬儀の記帳をした人は35万人。また天安門広場に参列した人は75万人。葬儀の時刻にあわせて全中国人民はそれぞれの場所で黙祷をささげました。当時の人口を8億とみても、この人数はチャーチルの葬儀のテレビ視聴者の2倍を越えています。

  なお、毛沢東の遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存されて一般に公開されています。  ↑


〇 ジョン・F・ ケネディ

 「J・F・ケネディ」はアメリカ大統領在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されました。
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 イメージ 6彼の国葬は暗殺事件の3日後の11月25日(月)に行われて全国民が喪に服しました。ケネディ大統領の長男であった当時3歳のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが葬列が出発する際に、目前で砲車に載せられて曵かれゆく父の棺に対し挙手の敬礼をし、棺は埋葬のために葬送のドラムの音とともにアーリントン国立墓地に向かったのです。


   ← 暗殺当日、ダラスに到着のケネディ夫妻


 この国葬には92ヶ国から首脳・政府高官等220人が参列しています。日本からは池田首相と大平外相が参列し、葬列の参加者は30万人。また議事堂内の棺を訪れた人は25万人。さらにミサの行われた聖マイシウズ協会からアーリントン墓地までの沿道にならんだ人の数は100万人にも上りました。

 〇マハトマ・ガンディ-

 ですが、葬儀参列者の数ではインドが最高です。

イメージ 7非暴力主義を貫いて独立を勝ち取ったインド建国の父「マハトマ・ガンディ-」はインドのグジャラット国の宰相の子として生まれましたが、小学校時代は成績も悪くて融通が利かない性格で、素行も悪く、悪友にそそのかされてヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していたし、タバコ代が欲しくて召し使いの金を盗んだこともあったそうです。

 ガンディ-は厳格な菜食主義者でしたが、その理由は「殺されるのを嫌がっているものは食べない」という信念からで、日常の食事は穀物、豆類、果実、ヤギ乳、はちみつに限られていました。
 
 ガンディ-は1948年1月30日、ニューデリーでヒンドゥー原理主義者らによって暗殺されました。3発のピストルの弾丸を胸に撃ち込まれたとき、ガンディーは「おお、神よ」とつぶやいてこの世を去りました。78歳でした。
 聖人と言われるガンディ-が残した個人資産には金も不動産も全くなく、ただ次のような持ち物だけでした。

イメージ 8〇ヒンドゥー教の聖典
〇インド綿の着物とぞうり
〇竹の杖
〇メガネと入れ歯
糸車・・毎日糸を紡ぎ「働かない日にタベルパンは盗んだぱんである」という信念を実践した。

                                            糸車を回すガンディー →

〇懐中時計・・人と会う約束の時間に遅れないため、首にかけていた。
〇「見ざる言わざる聞かざる」の三猿の像、日本人から貰ったもの
〇鉛筆と封筒を切り開いた用紙
〇乳を取るためのヤギが一頭
携帯便器
 ガンディ-は何処へ行くにも側近に携帯便器をかつがせ、ヤギを引いた弟子が従って行ったそうです。
ヒンデゥー教の教えでは、家の中にトイレを作ってはならないそうで、インドの13億人のうち5億人は未だに家の中にトイレがなく、男女に限らず家の外の川辺の草むらにしゃがんで用を足すとか。。
 ウォッシュレットの暖房便座で、快適に用を足せる日本の有難さが身に沁みますね。

 ガンジーの国葬には100万人が参加し、また彼の遺骨の灰がガンジス川に撒かれたたときは、300万人が集まりました。そしておよそ1億人がガンジス川で沐浴のためにその水につかったのです。
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                                                     (ガンジス河の沐浴)

(298)葉書の起源

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         (298) 葉書の起源    「12月1日」

 そろそろ年賀葉書の季節になりましたが、そもそもこの「はがき」はいつ頃から始まったのでしょうか。
 イメージ 3葉書という言葉の由来は諸説ありますが、「はがき」は「はしがき」、つまり「端・書き」から派生した言葉で「端書」から来たという説があります。もともと「端書」は覚え書きなどを書き付けた紙片の事を言うそうですが、江戸時代には、金銭の催促状や通知文書を「端書」と呼んでいました。この「はしがき」がなまって「はがき」になったという説です。

 イメージ 4モチノキ科の常緑高木に「タラヨウ」という樹があります。葉は肉厚で15~20センチほどもある長楕円形をしていて、葉を傷つけると酸化酵素のために黒い引き掻き傷ができます。そこで古代では、葉の裏に尖った木の小枝で文字を書き便りを送りました。これが「葉書」の由来だという説もあります。
                               タラヨウ→
↑明治の郵便配達夫
 
 「タラヨウ」はむかしインドで葉の裏に経文を書いていたヤシ科の「多羅樹・タラジュ」によく似ているので「多羅様・タラヨウ」という名がついています。近所の街路樹にもこのタラヨウが植えられていますので、木の葉の裏に釘でいたずら描きしてみました。

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                       (タラヨウの文字)
 
  ところで、近代の「葉書」が初めて使われたのは何時の事でしょうか。。
 イメージ 61873年(明治6年)12月1日、日本では初めて郵便葉書が発売されました。
ハガキといってもこの発売当時のものは二つ折りの薄紙のもので、市内用は半銭、市外用は一銭、という2種類がありました。

 イメージ 5「郵便ハガキ」と言う言葉を考え出したのは、当時大蔵省紙幣局の職員であった「青江秀」という「人物でした。ただ、最初から「ハガキ」あるいは「はがき」と標記されていたために、それが「葉書」であるのか「端書」であるかについては議論がありました。そんなことはどうでもよい、瑣末なことのように思えますが、公文書の中でどう書くかが、しばしば問題になりました。  
      
 ←漱石の年賀状                                            
                                                                                →   明治初めの郵便ポスト 

 この論争に決着をつけたのは、日本郵便の生みの親ともいうべき「前島密・ひそか」でした。彼はハガキは「葉書」であって、「端書」と書くのは間違いであると断定し、その後、ハガキの標記は「葉書」に統一されました。

 イメージ 2ところで葉書の一部に絵を描いた絵はがきは1872年に、ドイツの「F・ロリッヒ」という青年の着想によるものです。彼はスイスのチューリッヒの美しい風景画6種をスケッチし、それを銅版画にして印刷し、チューリッヒの「J・ロッシャー」という人物が販売に当たりました。イメージ 7

 しかし、このころの絵葉書は、片面はあて名で、片面の一部に絵をあしらい、その余白に文字を書くという方式で、こんにち使われているような片面全部が絵あるいは写真と言う絵葉書が登場したのは、はじめ1904年にフランスで、ついで1905年にイドイツで発行されました。

↑京都の絵葉書
                                                                                     大正6年サーカスの絵葉書 ↑

 こんな風に絵葉書は19世紀のおわりから20世紀はじめにかけて急速に流行し、そのコレクターも1890年ごろにはもう登場しています。。


         ・・・・・               ・・・・・

(299)英雄の運命 「12月2日」

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        (299)  英雄の運命    「12月2日」

 ベートーベン(1770-1827)は誰でも知っているドイツの音楽家ですね。苦しい境遇、さらには失聴という困難にも屈せず、数多くの名曲を残した天才的作曲家で「運命」「合唱」「英雄」など九つの交響曲が有名です。

 イメージ 2ベートーベンは21歳の時ウイーンで生活を始めましたが、その時の彼のノートには「舞踊教師」とか「かつら直し」と言うメモが残されています。彼にはもじゃもじゃ頭で粗野なイメージがありますが、きちんとかつらをかぶって社交ダンスを習おうとした事もあったのです。

 でも、入浴するときは風呂桶をわざわざピアノの横まで引っ張ってきたりしたので、アパートから何度も追い出された利しました。1802年、32歳の頃には耳の病気を苦に、遺書を残して自殺しようとした事もありました。

「もしも美しいまつ毛の下に涙が膨らみたまるならば、それがあふれ出ないように強い勇気を持ってこらえよ。」

  イメージ 1「モツアルト」は後輩のベートーベンを若いころから評価していました。
「彼は良くできる、いつの日か世界はベートーベンに注目するだろう」とモツアルトは言っていました。にも拘らずウイーンで音楽修業中のベートーベンの評価はあまりよくありませんでした。音楽教師の間では「あいつは駄目だ、まともな音楽家にはなれまい」と言うのが殆ど定評になっていたのです。

  しかし、彼が駄目だったのは、対位法を鉄則とする古典的作曲法にしばられていたからです。そうした伝統の殻を破って、ベートーベンが彼自身の独創的な作曲技法を完成させたのは交響曲第三番でした。この曲が出来上がると、彼は彼自身が崇拝するヨーロッパの新しい英雄、ナポレオンにこの曲を捧げようと決心しました。彼はナポレオンに献辞を書き、このシンホニーを「英雄」・エロイカと名づけました。

 ナポレオン(1769-1821)はみなさんご存知の通り有名なフランスの皇帝ですが、物凄い読書家で馬車の中は勿論、戦場でも本を放しませんでした。のちに流刑になったセント・ヘレナ島で読んだ本は8000冊にもなるといいます。彼の神経は敏感で僅か一つの言葉でも、心の奥を刺激されるとワンワン泣いたそうです。。

 イメージ 3ところがベートーベンがあれほど尊敬していた市民主義者ナポレオンは
「1804年12月2日」に厳かに戴冠式を挙げ、フランスの「皇帝」になってしまったのです。

 ナポレオンを人民の英雄と期待していた「ベートーベン」はその知らせを聞くと「奴もまた俗物に過ぎなかったのか。これから、人々の人権を踏みにじって自分の野心のためだけに奔走し、誰よりも自分が優れていると誇示する暴君になるのだろう」と激怒して、この献辞が書いてある表紙を破り捨ててしまいました。

  ←皇帝になったナポレオン
 
 ベートーベンの作曲活動はそれからいよいよ本格化して行きますが、だんだんに耳が聞こえなくなってきました。 「運命」・・すなわち第五交響曲は、彼自身の「運命」を予言するものでしたし、またかつての交響曲「英雄」の「運命」を告げるものともなったのです。。

       ・・・・・       ・・・・・・

*今朝は今年一番の冷え込みました。
  もう12月ですから、こんなものかもしれません。

  地場スーパーの買い出し。車の中は暖かいですが。。
      北風が木をふるわせて、青空も冷たく冴え返っていました。


                 北風にたちむかふ身をほそめけり      木下夕爾 


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(300)郵便切手の始まり

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      (300) 郵便切手の始まり   「12月3日」

 イメージ 4先日は葉書の起源について書きましたが、今日は葉書に必要な切手についての話です。

 ←江戸時代の飛脚

 イメージ 5ヨーロッパで最初に本格的な郵便制度が作られたのは1464年のフランスでした。そしてイギリスでは同じような郵便制度が1635年に発足しています。しかし、その料金を誰から、いつ、どんなふうに徴収するかと言うことは大問題で、その手続きは極めて煩雑でした。 それを一挙に解決したのが「R.ヒル」 (1795年12月3日生)でした。

 彼は1836年、それまで紙の枚数と距離に基づいた料金計算方法を廃止して全国均一とし、書状の重さで料金をきめる、という方法を考案しました。それに加えてヒルは、料金支払いを前払い制にし、支払いの証拠として小さなラベルを貼り付けることを提案しました。

 イメージ 1この提案は1840年にイギリス政府が受け入れ、その年から「ラベル」が発行されました。これが「切手」の始まりです。最初の切手はイギリスの当時の国家元首であった「ヴィクトリア女王」の肖像が使われています。

 ←ヴィクトリア女王の切手

 その合理性と簡便性は、早速世界各国の注目をひき、ブラジル、モーリシャス、アメリカなどがこれにならいました。1854年になると、「H・アーチャー」が穴あけ機械を発明し、さらに乾燥ゴム糊も登場してきたので、切手の使用はさらに便利になりました。

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                                              (明治初めの郵便物の集配馬車)


 イメージ 3日本では「前島密」がヒルの郵便制度にとても感心して、1871年に新郵便制度を発足させました。
イメージ 6 「前島蜜」は新潟の生まれで、英国留学を経て明治4年「駅逓頭」に任じられ、郵便制度創設に尽力し日本の近代的郵便制度の基礎を確立しました。戦後の1円切手の肖像にもなっています。
 彼は「郵便」や「切手」「葉書」という名称を定めました。その功績から「郵便制度の父」とも呼ばれているのです。
                              →  前島蜜の1円切手(昭和27年)
  ←前島蜜の30銭切手(昭和21年)

 その最初の切手印刷を請け負ったのは、京都の「松田玄々堂/松田緑山」でした。四種類、あわせて43万枚の切手を玄々堂は三ヶ月で刷りあげたのです。。

イメージ 7
                                          (明治初年、郵便物の積み込み)

       ・・・・・         ・・・・・・

*今日も快晴、ポカポカと暖かい小春の一日でしたが、さすがに野外に出る気にはなれません。
コタツ守りして新聞を見ていたら、数年前に亡くなった親友の奥さんの訃報が目につきました。
89歳・・

 よく彼の家に上がり込んで一日中、無駄話を駄べったものです。
 時には、奥さんにうな重をごちそうになったりして。。

              浮雲遊子の意
              落日故人の情
              手をふってここより去る
              蕭々として班馬鳴く          李白


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                                            (ユリの木の下で)
           
 



(301)マリー・セレスと号の謎

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   (301) マリー・セレスト号の謎   「12月4日」

 あまりにも知られた事件ですが、「1872年12月4日」イギリスの商船「デイ・グラシア号」は、ニューヨークからジブラルタルに向かう途中、ポルトガル沖で、一隻の漂流船を発見しました。
その船の名は「マリー・セレスト号」といいました。船員たちが船内を調べてみると、この船には一人の人間も乗っていない完全な無人船でした。 特別に暴風雨などの海難にあった痕跡もなく、船内のベットや衣料品は乾燥していました。

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                                                 (マリー・セレスト号)

 しかし、不思議なことはそれだけではありませんでした。
船内の様子を調べる内に、次々と奇怪なことが分かったのです。無人で漂流していたマリー・セレスト号の、船長室のテーブルにあった朝食は、食べかけのままで暖かく、チキンとシュチューが残っていてコーヒーはまだ湯気を立て、調理室では火にかけたまま鍋が煮立っていたのです。また、洗面所には今までヒゲを剃っていたような形跡があり、ある船員の部屋には血のついたナイフが置いてありました。。 

 食料も一月分ぐらいが残っていましたし、使いかけのカミソリにも錆は付いていません。つまり、ついさっきまでこの船には人が乗っていたらしいのです。そかし、時計は水をかぶっていて、救命ボートは一つも残っていません。どうやら、乗組員たちは慌ててこの船を離れていった模様でした。

 イメージ 2デイ・グラシア号はこのマリー・セレスト号を曳航してジブラルタルまで航海し、そこで精密な検査が行われました。マリー・セレスト号の船長はニューイングランドの「B・ブリッグズ」で、彼は妻と幼児ひとりを同行して、七人の乗組員とともに10人で航海していたのが分かりました。

 ←P・ブリッグズ船長

 しかし、この船がなぜ無人となったのか・・、諸説紛々と入り乱れました。

 
 イメージ 3まず、第一に、発見者のデイ・グラジア号の乗組員がマリー・セレスト号の乗員を殺害して口裏を合わせているのではないか?
第二に海賊に襲われたのではないかと言う説。
第三にマリー・セレスト号の全員が伝染病で死んだのではないか?
第四に巨大なイカに襲われたのではないか?


 イメージ 4その後、1873年初めに、スペイン沿岸に2隻の救命ボートが漂着したと報じられました。
 その1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国国旗が、もう1隻には5人の遺体がありましたが、これがメアリー・セレスト号の乗組員なのかどうかは全く調査されませんでした。

 ← マリー・セレスト号の碑文

 いずれにせよ、マリー・セレスト号は謎の船なのです。そしてニューヨークの大西洋保険会社によって維持されている小さな博物館には、この船に関するすべての材料を集めた「マリー・セエスト号室」が現在も健在なのです。


    ・・・・・                 ・・・・・

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                                                           (紅葉の山道)

  
              散るのみの紅葉(もみじ)となりぬ嵐山   日野草城

(302) 魔の三角海域

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     (302) 魔の三角海域  「12月5日」

 昨日は、謎の漂流船の話でしたが、今日は飛行機と船のなぞの失踪事件の話です。
 
 SFフアンなら、大抵ご存知の「バーミューダ、トライアングル」と言う怪事件があります。
バーミューダ、トライアングルというのは、アメリカのフロリダ半島の先端と、大西洋にある プエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域のことで、この海域では昔から船や飛行機、もしくは、その 乗務員のみが忽然と消えてしまうという伝説があります。

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 〇1918年3月13日、アメリカ海軍の輸送船サイクロプス号は、西インド諸島のジョージ・タウンから出港してバミューダ海域で行方不明になりました。重量14,000トン、乗員は海軍兵士202名というこの巨大な船は全く消息を絶ち、一人の生存者も漂流物も発見されなかったのです。
 
 〇1945年12月5日、第2次世界大戦が終わって、やっと世界が一息ついたころでした。
 この日、フロリダ州フォート・ローダーデル海軍基地を出発した5機の雷撃機は、通常の偵察飛行を開始しました。コースはまず東に250キロ、つづいて北に60キロ、そして基地に帰るという三角形でした。時速360キロで飛んでいましたから、1時間あまりで帰れるはずの距離でしたが、基地を出発して1時間半後に指揮官機から緊急無線が入りました。

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                                               (アメリカ雷撃機の編隊)

 「我々の位置が分からなくなった。陸地が見えない」・・地上基地から西にコースをとるように連絡すると、こんどは「どっちが西か分からない。何もかも変だ。海面も異常だ」という連絡です。そして、やがて編隊を組んでいたパイロット同士の会話が聞こえ、それっきり通信が途絶えてしまいました。
 この「異常事態」を調査すべく、早速マーチン型飛行艇が現場に向けて飛び立ちましたが、不思議なことにこの飛行機も現場到着5分後に消滅してしまいました。
 
  そこで、翌朝から、沿岸警備隊の飛行機をはじめ航空母艦までもが捜索を始めました。
21隻の艦船、300機の飛行機が動員されましたが、行方不明になった飛行機の痕跡は何も見つかりませんでした。もし、墜落したのであれば燃料の油が浮いているはずなのに、それさえ発見できませんでした。

 この事件のあと、この「魔の三角海域」の中では、たくさんの船や飛行機が消滅しました。
アメリカ海軍は1967年に500万ドルを投じてこの魔の海域を徹底的に調査すべく、潜水艦隊まで動員しましたが、なにも明らかになりませんでした。
 もちろん、事件の性質上いろんな軍事評論家や科学者が何らかの原因を想定しましたが、今なお真相は不明のままになっています。

 〇さらに1881年にも同じような奇妙な事件が起きています。イギリスの帆船「エレン・オースティン号」が、同じ海域を航行中に遺棄された一隻の船に出会い、乗り移ってみると何も異常もなく、ただ船員だけが忽然と姿を消していたそうです。

 オースティン号の船長は天の授かり物と考えてその船に船員を乗り込ませて一緒に目的地まで向かうことにしました。しかし、その途中、突然のスコールに見舞われて、両船は離ればなれになってしまいましたが、2日後になんとか再会。 ところが船員がその船に乗り込んでみると、なんと前に乗り込んでいた船員たちは全員姿を消していたのです!

 そこで船長は性懲りもなくもう一度、新たに船員を乗り込ませて目的地まで向かうことにしました。ところがその直後、またしても両船をスコールが襲い、離ればなれになってしまい、結局、遺棄去れていた船はそのまま二度と現れることはなく、船員もろとも完全に姿を消してしまったのです。
 まさに幽霊船ですね。

 その他、この三角海域では同じような船舶の行方不明が相次いで起こっています。
 〇1880年1月・イギリス海軍の船アトランタ号。乗員300人と共にバミューダ島近くの海で行方不明。
1920年4月・フランスの客船オブライエン号。乗員150人と共にフロリダ沖で行方不明。
1950年6月・スペインの貨物船サンドラ号。乗員85人と共にハイチ近くで行方不明

 また、航空機では・・
1963年9月22日、アメリカ空軍大型輸送機C133カーゴマスターが10人の乗員を乗せて大西洋のアゾレス諸島を飛び立ち、「マイアミビーチより南東150キロの海上上空を飛行中。」という報告をしたのち消息を絶ちました。
 そして、アメリカの空軍や海軍が一週間、200機の飛行機と30隻の艦艇で付近の地域を探し回りましたが、機体の破片も乗組員の死体も救命具も発見されませんでした。

 
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                                            (アメリカ輸送機・カーゴマスター

1978年2月22日、空母ジョン・F・ケネディに物資を運ぶため飛行していた海軍中佐ポール・スマイスとリチャード・レオナルド中尉は、バミューダ海域を飛行中、乗っていた飛行機もろとも消失しました。当時、天気は快晴で、消失の原因はわかっていません。



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                                             (米航空母艦・ジョン・F・ケネディ)

1980年1月10日には、大学フットボールコーチ、ボー・リーンが乗る飛行機が、ルイジアナ州の州都バトンリュージュを目指して飛行していたとき、突然、バミューダ海域へ向かって飛び出して5時間後に姿を消してしまいました。

 これら魔の三角地帯の話は、悪天候や故障、人為的な操船ミスなどが重なった出来事だったでしょうが、これが作家たちによって誇張され歪曲され、事実を離れて伝説化し、今や魔の三角海域・「バミューダ・トライアングルの謎」として定着しているようです。

    ・・・・・      ・・・・・

*寒波襲来、北風が吹き荒れて落ち葉が舞う寒い朝。
  幸い晴れ間が出たのでスーパー買い出し。車の中はポカポカと天国です。

 しかし、いざ帰るとなると一天俄かにかき曇り、ショボショボと時雨模様の冷たい雨が降り出しました。山間では雪になったもよう。。
あわてて鉢植えなどを軒先に取り込みました。
今夜は雪になるかも。。 ブルブル・・

    
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                                                      (雪の朝)


(303) コロンブスの卵

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         (303) コロンブスの卵  「12月6日」

 イメージ 11492年8月3日、インドを目指して「クリストファー・コロンブス」は大西洋を西に向かって大航海に出ました。そして10月11日にコロンブスの三隻のスペイン船の一つ「ピンタ号」の水夫が陸地を発見しました。

 翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づけました。コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。さらに12月6日には今日の西インド諸島のひとつ、ハイチに着きました。

 イメージ 4この時、彼はインド大陸を発見したものと思い込んでいましたから、タタール語(ロシア連邦タタール共和国の言語)の片言をしゃべって見ましたが、どうしても通じません。かろうじてコロンブスが知ったのは、ここの原住民がカニバレスという言葉を口にしているだけでした。「カニバレス」とは勇敢、敏速といった意味だそうですが、それが自分たちのことを言っているのか、あるいはコロンブスたちのことを褒めているのかが分かりません。

                           イザベル1世とコロンブス→

 イメージ 5コロンブスら、16世紀頃のスペイン人航海士の間には、ここの原住民(カリブ族)が「人食い人種」だという偏見を持っていました。コロンブスはカニバレスと言う言葉から、「人食い人種」「カニバル」と呼ぶことにしました。いまでも人肉食のことを「カニバリズム」といい、それは学問の世界での専門用語になっていますが、それも、もとをただせばコロンブスの勘違いによるものなのです。。

 コロンブスは11493年に帰国、宮廷で盛大な歓迎式が行われました。
 ←コロンブス像

 イメージ 3 しかし、皆がみな、彼を賞賛したわけではありません。
『誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。当たり前のことだ』といって、水を差す人がいました。
 その時、コロンブスは「誰かこの卵(ゆで卵)を立てることが出来ますか」と言いました。何人かが挑戦しましたが、誰も旨く行きません。      ありゃー! →
                       
 
 イメージ 2コロンブスはその卵をとって、軽くテーブルで叩いてて卵の先を割って卵を立てて見せたのです。そんな事なら誰でもできる!という人がいましたが、コロンブスは「人がしたあとでは、何事もたやすいものです」と言って返しました。
  これがいわゆる「コロンブスの卵」といわれる出来事でした。

 「初めて・・」と言うことが貴重なので、模倣ではなく独創ということが大事なのですが、また「逆転の発想」という意味でも考えさせられる出来事でした。

      (年寄りには取りつきにくいパソコンですが、馴れてしまえばたやすいものですネ!)
     100歳になっても書けそう・・(^_-)-☆
     でも、羽生名人の前人未踏の将棋・永世7冠はスゴイなぁ!

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                                                登高  (佐賀・天山山頂)


              高山(たかやま)のいただきに登り
              何がなしに帽子をふりて
              下り来しかな                 石川啄木
    

  

 (304)奇妙な海戦

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      (304)  奇妙な海戦  「12月7日」

 ハワイ時間の「1941年(昭和16年)12月7日」に、日本帝国海軍が真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃しました。 この海戦の模様はたくさんの書物や映画などで皆さんご承知の通りですね。
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                                             (1805年・トラファルガーの海戦)

 古来、トラファルガ-の海戦(1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊がナポレオンのフランス艦隊に勝利し、ナポレオンのイギリス本土上陸を阻止て、イギリスが世界の海の制海権を握った海戦)や東郷元帥の日本連合艦隊が、はるばるとやってきたロシアのバルチック艦隊を撃破して日露戦争の決着をつけた「日本海海戦」など、有名な海戦はいろいろありますが、今日はあまり知られていない珍奇な海戦をご紹介しましょう。

 
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                                   (日本海海戦・Z旗ひるがえる旗艦、三笠艦上)



 ○まず第一は、「騎兵に負けた艦隊」の話です。
 
 イメージ 11795年、フランスの革命中に輸送路の確保のためにオランダとフランスが戦っていたとき、小規模な海戦が行われました。オランダ海軍は凍結した北洋のテセル島付近で、氷に閉ざされてしまいました。砕氷船もないので、張り詰めた氷のために軍艦は身動きができません。そこに突撃ラッパの音も勇ましく、凍結した氷の上をフランス竜騎兵が突撃してきました。
 
 そして騎兵隊は軍艦全部を占領し、このためにフランスはこの戦いに勝利し、オランダは完全に屈服してしまったのです。

 ←フランスの竜騎兵


 ○第二は、史上最短の戦争「ザンジバルの海戦」です。

 1896年の8月27日にオランダ保護領のザンジバルのサルタンが、イギリスに対して突如宣戦を布告しました。王位継承をめぐっての対立からの軍事衝突でした。
 ちょうどそのとき、ザンジバル港にはイギリス海軍の戦艦6隻が停泊中でした。艦隊司令官の「H・ローソン提督」は宣戦布告の報を聞くと、直ちに全艦隊に非常呼集をかけ、いっせいに砲門を開いてザンジバルに艦砲射撃を開始しました。
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イギリス戦艦 「スラッシュ号」

9時2分にイギリスの戦艦「ラクーン」「スラッシュ」「スパロー」が同時に王宮に対して砲撃を開始し、スラッシュの放った第一弾がザンジバル軍の12ポンド砲を即座に無力化しました。
 その時、3千人の守備兵や召使い、奴隷が大きな木造の王宮内にいましたが、木箱や俵、ゴムで作ったバリケードにもかかわらず、榴弾により大損害をこうむりました。その砲撃は、9時40分頃に王宮とハレムが火事になり、ハリド側の砲兵が沈黙し、旗が撃ち落とされたときに終わりました。

 イメージ 4この砲撃のさなかに小海戦が9時5分から始まり、ザンジバル海軍の時代遅れの軍艦「グラスゴー」がイギリスの戦艦「セント・ジョージ」を攻撃しましたが、「グラスゴー」は反撃を受け、浅い港のためマストを水面上に見せたまま沈没してしまいました。

                                    戦艦「セントジョージ号」→

 このように艦砲射撃が約38分間続いたところで、ザンジバルはイギリスにあっけなく降伏してしまい、この戦いは史上最短の戦争となったのです。

 ○第三は、「チーズの砲弾」の話です。

 これは1841年8月のことで、アルゼンチンとウルグァイの艦隊がモンテビデオ港の帰属をめぐって大海戦を展開しました。


 イメージ 5アルゼンチンの「ブラウン提督」の艦隊は大西洋上でウルグアイ艦隊を補足、激しい砲撃が交わされました。戦況は互角でしたが、突然、 ウルグアイ艦隊の砲撃が止まりました。物資不足のウルグアイ艦隊は、なんと砲弾が尽きてしまったのです。アルゼンチン艦隊はここぞとばかり突撃を開始します。
  ←アルゼンチン海軍創始者・ブラウン提督

 そのとき、ウルグアイ海軍顧問の「ジョン・コウ」というアメリカ士官は、固くなって食べられない古いチーズの塊が甲板に転がっているのに気づきました。とっさの機転でこの「チーズ」を砲身につめて、砲弾代わりに至近距離からアルゼンチン艦隊に向かって発射しました。


 突如として、黄色いチーズの塊が雨あられのように降り注いだので、アルゼンチン海軍は何がなにやらわけが分からず、これは敵の新兵器に違いない、と判断したブラウン提督は全速力で総退却を命令し、ウルグアイ艦隊は勝利者となってしまったのです。。

     ・・・・・       ・・・・・

 *水鳥の音に驚いて逃げ出した平家のように、海戦史にもこんな可笑しい、珍しい戦訓も残っているのです。
 しかし、チーズの砲弾というのも愉快ですねー。
 これからの戦争は、原爆ではなくチーズに限ることにしたらどうでしょう??
 平和的でいいかもしれません(^^♪

  *今日も寒い一日でした。こちらでも昨日は山間部で初雪が降りましたが、昨年より40日も早いそうです。例年になく11月下旬から続くこの寒さ、地球温暖化に逆行して今年は厳寒の予感がする。
四国の息子からも、もう霧氷の便りが届きました。

              愛媛の寒風山も霧氷の白い肌着です。
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                             雪嶺を点じ山々眠りけり    皆吉爽雨
                       

(305)十二月八日・真珠湾攻撃

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      (305) 真珠湾攻撃  「12月8日」
 
 今日の出来事は何といっても「1941年(昭和16年)12月8日」の真珠湾攻撃ですね。一世紀に亘るわが人生の中でも最も強烈な体験でした。 

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イメージ 3 「12月8日」という言葉は、日付としては何の変哲もないものですが、実際に「十二月八日」を体験した者にとっては、単なる日付以上のある運命的な特別の響きとして受け止められています。

この12月8日以降は毎月8日を『大詔奉戴日』と称して、国民は一汁一菜、禁酒、禁煙、子供の弁当はおかずなしの梅干しだけの「日の丸弁当」で、出征農家の農作業や防空壕堀りなどの勤労奉仕に励みました。みんな真剣で生真面目でした。

         十二月八日をへたる初日かな     久保田万太郎

 大本営の連合艦隊に対する真珠湾開戦の指令は「ニイタカヤマノボレ」という暗号で伝えらましたが、これは【開戦日は12月8日に決定、予定通り行動せよ】の意味であり、真珠湾攻撃後の連合艦隊司令長官の返電「トラ、トラ、トラ」【われ奇襲に成功せり】でした。

 当時、シランは中学(5年制)を卒業し、旧制高校受験に失敗して浪人中でしたが、早朝のラジオから流れ出る大本営陸海軍部の発表に度肝を抜かれました。
 当時の自分の日記にも、寝耳に水のこの大事件発生に、少年の身ながら物すごく興奮した様子が記されています。たとえて言えば、北朝鮮のミサイルが日本に飛んできて、米日軍による反撃が始まったかのような衝撃的な出来事でした。

 そのころ、少年倶楽部などに載っていた(日米もし戦はば・・)などの記事をむさぼるように読んでいましたが、現実に日本がアメリカと戦争することになり、17歳の軍国少年はただ驚きと興奮のあまり、なにも手がつかなかったようです。興奮と緊張のあまり日記の筆を持つ手が震える・・と書いています。

 イメージ 5 「昭和16年12月8日」の日記より

  日米開戦! 日英開戦!
〇「大本営陸海軍部発表」12月8日午前六時
 帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と交戦状態に入れり。

 〇「大本営海軍部発表」八日午前六時
一、帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。
二、帝国海軍は本八日未明上海に於いて英砲艦「ペトレル号」を」撃沈せり、米砲艦「ウエイキ」ハ同時刻に降伏せり
三、帝国海軍は本八日未明新嘉玻(シンガポール)を爆撃し大いなる戦果を収めたり。
四、帝国海軍は本八日早朝「ダバオ」「ウェーク」「グァム」の敵軍事施設を爆撃せり。

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                   ↑炎上する米戦艦・ウエストバージニア

 ついで・・
「情報局発表」八日午後一時
只今アメリカ、英国に対する戦線の大詔が発せられ、また同時に臨時国会召集の詔書が公布されました。

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 日米開戦! 
 天皇陛下は午前11時英米両国に対し、宣戦布告の大詔を発せられた。ラジオは一日中、臨時ニュースと軍艦マーチ、勇敢なる水兵などの軍歌ばかり放送している。

 イメージ 6今日は日本晴れだ、今や超非常時の時が来た。日本民族一丸となって敵、英米を討つのだ。この戦いに勝てば日本は世界第一の強国となり、敗れれば世界の三流国となる。

然し、我には精鋭無比の大陸海軍あり。英米何ぞ恐るべき!!
日本は勝つ!断じて勝つ! この意気を見よ!
神よ、日本に幸いあれ!
     ・・・・・
 ・・と、何も知らぬ17歳の軍国少年はなかなか意気盛んですが、最後は何だか神頼みですね。 ハハハー。でもみんなほんとに真剣でした。大人の世界はどうだったのか分かりませんが。。
 あれからもう76年も経つんですね。
 感無量です。。
 
   ・・・・・・        ・・・・・

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                                          霧氷の山道・愛媛、寒風山

  

(306) マレー沖海戦

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          (306) マレー沖海戦   12月10日

 12月8日のハワイに対する奇襲作戦は、日本にとって、まさに乾坤一擲の大勝負であった。
 今でこそハワイまではジェット機で一飛びであるが、当時のハワイは遠かった。

 日本の艦艇、特に高速の軽艦艇は航続距離が短く、何度か燃料を洋上補給せねばならなかった。それも12月8日に至る冬季は、太平洋の北よりの航路は荒天続きで、洋上補給ができなくなる恐れが多分にあった。12月未明、駐米大使が最後通牒を渡す直前に攻撃位置に果たして到着することができるか、甚だ心もとなかったのである。

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                       (ハワイ攻撃作戦図)

 真珠湾攻撃は奇襲だからこそ効果がある。最後まで平和交渉に希望を抱いていた海軍は、交渉がまとまれば一転して回れ右をして帰国する予定であったが、もし機動部隊が未然に発見されれば、早々に戦闘を交えることとなり、フィリッピンからマレー、上海、仏印と広大な地域に展開している作戦部隊が大混乱に陥る恐れがあった。
 
  だから、真珠湾を発進するアメリカの哨戒機の範囲に突入する12月7日の正午から日没にかけての6時間は、機動部隊司令部はもちろん、一兵卒にいたるまで、まるで針の筵に座っているような張り詰めた焦燥の時間であった。もしアメリカの哨戒機に発見されれば今までの苦心、訓練、準備が一挙に水泡に帰してしまうのである。

                  イメージ 8
                      (空母から発進する艦上戦闘機・ゼロ戦)

 機動部隊は一丸となって、その6時間を22ノットの高速で一路南下した。艦内はシーンとしていた。誰も彼も青白く緊張していた。何事もなく夕方になって、やっと一同ホッと胸をなで下ろしたのである。
 今はもう案じていた行き逢う船もなく、敵潜水艦の攻撃もなく、12月8日の朝が明けて行き、そしてあの奇跡的な真珠湾攻撃が始まったのである。
 
 機動部隊が、真珠湾攻撃を終えて、意気揚々と広島湾に引き上げてきたのは12月23日の夕刻であった。  山本長官は「成功ヲ祝ス。各員ノ労苦ヲ多トス」という簡単な信号を送ってこれを迎えた。 しかし、山本長官は内心、どこか満たされざるものがあったに違いない。

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                    (ミッドウエー海戦で炎上する日本軍艦)

  真珠湾攻撃ののち、かねて敵の哨戒機と潜水艦基地である「ミッドウエー」を重視していた山本五十六長官は、機動部隊の南雲司令官に対してその帰途、ミッドウエーを急襲することを命じている。しかし、南雲長官は折からの荒天もあって【天候不良、補給不能ノタメ「ミッドウエー」攻撃ヲ取リ止ム】という、すこぶる簡単な信号を送ってミッドウエー攻撃を見送ったからである。しかしこれが後のミッドウエー海戦の大敗北につながる禍根を残す事になろうとは、誰しも思わなかったのである。
     ・・・・


 〇 マレー沖海戦  12月10日

 それから2日後の10日11時45分、シンガポール沖上空3000mで23歳の帆足少尉の指揮する3番索敵機がイギリス東洋艦隊の主力を発見し、約15分の間に司令部に電文を打電した。

 一、.敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五

 イメージ 3そこで仏印のサイゴン、ツドウモの両基地から陸攻84機、(魚雷装備50機,爆弾装備34機)が小躍りして飛び立ち、イギリス東洋艦隊主力めがけて殺到した。

 そして陸攻機が眼下に2敵主力艦を発見、イギリスが誇る最新鋭戦艦の「プリンス・オブ・ウエールズ」と改装巡洋戦艦の「レパルス」であった。「プリンス・オブ・ウエールズ」は排水量3万2千トンの巨艦で、これと対等に戦える日本の戦艦は当時「旗艦・長門」「陸奥」だけであった。


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                 シンガポール碇泊中のプリンス・オブ・ウエールズ


 イメージ 6イギリス東洋艦隊上空に最初に到達したのは、サイゴンから出発した美幌航空隊(北海道)の爆装隊の一部8機と元山航空隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊だった。
  ← 一式陸上攻撃機

 またツドゥムから鹿屋航空隊(鹿児島)の一式陸攻26機、全機雷装)が出撃、さらに同じくツドゥムから美幌航空隊の九六式陸攻33機(雷装8機、爆装25機)が出撃した。


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                       (急速回避する英・主力艦)

 敵の主力艦二隻はは縦横無尽に高速回避し、1分間に6万発を撃ちあげるポムポム弾を撃ちまくったが、その猛烈な弾幕を冒して、雷撃隊は水面10mの超低空から突撃、プリンス・オブ・ウエールスに爆弾2発、魚雷7本、レパルスに爆弾1発、魚雷14本を命中させて撃沈した。


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                                             プリンス・オブ・ウエールズ撃沈

 この、「マレー沖海戦」は広く全世界の注目を集めた。
  真珠湾攻撃はいわば、眠れる敵艦の不意打ちであったが、マレー沖のこの海戦は不意打ちではなく、近代戦艦と飛行機隊との四つに組んだ「力と力」の闘争であった。当時世界で論議されていた「飛行機か、戦艦か」という論戦に終止符を打ったのである。いわば大艦巨砲時代の終焉であった。

            ・・・・・          ・・・・・
 
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                                       (霧氷の寒風山・愛媛)



(307)自転車の歴史

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     🚴  (307) 自転車の歴史  「12月10日」

 最近は2千歩も歩けば、すぐ疲れて歩くのはちょっと不得手になりましたが、こんな時自転車が便利ですね。足を漕ぐだけでスイスイ、座ったままで何処へでも行けます。ガソリンも要らず、車検も免許もない。車のように高くもないし、公害もない。何処にでも駐車できるし、こんな便利な乗り物はありません。

 イメージ 1それに子供の頃覚えた乗り方はいくつになっても体が覚えていてくれるのが助かります。

  ←そういえば、足の短い子供の頃、サドルからペタルまで足が届かず、大きな大人の28インチの自転車に三角乗りしていたのを思い出します。時には曲がり角を曲がり切らず、思わずおばさんに突き当たったりして。。

 そんな自転車という乗り物は、いつの頃から始まったのでしょうか。
 2輪車を人力で動かそうと最初に試みたのはフランスの「ド・シベラック」です。
 その試作品は、子供のおもちゃの馬車のようでした。馬をかたどった木製の台に車輪をとりつけただけのものでした。シベラックはこれに乗り、地面を両足で蹴って走りました。
 彼はこの車を「セレリフェール号」と名づけて愛用していましたが、残念なことに方向転換用のハンドルがなく、その操作性に基本的な欠陥がありました。

  イメージ 2これにハンドルをつけたのはドイツのカール・フォン・ドライス〈1851年12月10日没〉で、1813年に彼が作った「ドライジーネ号」は木製で、前輪のハンドルでどうやら方向転換は出来ましたが、ペタルやチェーンという駆動装置がなく、動かし方はシベラックと同じで両足で地面を蹴って走るという方法でした。しかし、これでどうやら今日の自転車の原型が出来上がりました。

 ← 「K・ドライス」の自転車が出来てから20年ほど経った1839年に、イギリスの「K・マクミラン」が動力源としてのペタル式の自転車を考案しましたが、あまり注目を浴びず、「ドライジーネ号」は依然として健在でした。
                                      ドライジーネ号(足で蹴って走る) →

 イメージ 3ついで1861年に「E・ミショー」というフランスの青年が一台のドライジーネ号の修理を依頼され、ふと前輪にクランクをつけたら・・というアイデアに取りつかれました。マクミランの考案と似ていましたが、とにかくそれを実行に移してみるとなかなか面白いので、ミショーはこれに「ベロシペード号」と名づけて、世界で始めての自転車製造業者になりました。
  ← ミショーのベロシペード

 
ただ、この方式だと単純なクランクが車軸についているだけなので、ペタルの一回転はそのまま車輪の一回転であるに過ぎず、そのスピードを上げるためには前輪の半径を大きくする必要がありました。
 自転車に乗る人はこの不安定な車輪のおかげで、一日に数回転んだといわれていますが、自転車に乗ることは、実用を兼ねた新しいスポーツとしてヨーロッパで大流行しました。それはシャーロック・ホームズ探偵が「美しい自転車乗り」の事件を解決していることでもわかります。

 イメージ 4その後、チェーンをつけて、ペタルと車輪の回転比を上げる、と言う画期的な発明をしたのは「J・スターレー」でした。スピードを上げるために前輪を極端に巨大化したもので、その直径が1.5メートルを超えるものも出てきました。

 イメージ 5しかし極端に重心の位置が高いために安定性が悪く、乗った人の足が全く地面に届かないので、転倒すれば頭から落ちて危険なので、日常の乗り物としては都合の悪い乗り物で、日本では直ぐ転ぶ「だるま車」などと呼ばれていました。
   この発明は1885年のことでしたが、この危険で高速を出せる自転車は今でも愛好家がいて、オーストラリアでは、毎年愛好家による国際競技大会が開かれているそうです。  →

イメージ 6 1885年になるとイギリスのジョン・ケンプ・スターレー「ローバー安全型自転車」の販売を開始しました。これは前後輪が同じ大きさで、後輪がチェーン駆動という現在の自転車に近い姿になりました。この安全型自転車の登場によってそれまでのスピードは出るが危険なペニー・ファージング自転車は徐々に衰退していき、自転車は日常の手軽な交通手段となって行ったのです。

 しかし、この時までの自転車は車輪が木製か空気なしのゴム製だったので、乗り心地は非常に悪く、1888年に「ジョン・ボイド・ダンロップ」が空気入りタイヤを実用化してから、乗り心地とスピードが大幅に改善されて今日の自転車の基本が出来上がったのです。

                イメージ 8              
                   (4人乗り自転車・昭和11年、アメリカ)



 イメージ 7日本では1871年〈明治4年〉ごろに、「ドライジーネ号」を西洋の本の挿絵で見て、早速模造した者がいましたが、それから5年ぐらいたつと、数台の自転車を持って、それを時間貸しする商売が秋葉原あたりで登場しています。これらはことごとく、ほんの挿絵にヒントを得た純国産品でした。


    ♪ 「ハイカラ節」

    チリリンチリリンと 出てくるは                    
      自転車乗りの 時間借り                           イメージ 10  
    曲乗りなんぞと 生意気に
    両の手離した シャレ男
    あっちへいっちゃ ヒョーロヒョロ
    こっちへ行っちゃ  ヒョーロヒョロ
    それ危ないと 言ってるまに
    転がり 落っこちた

                               明治初年の女学生 →
 
 
 西洋から自転車が始めて輸入されたのは明治15年、このころから日本は自転車ブームになり、「宮武外骨」は一年間の学費として国許からもらった300円のうち、170円を投じて舶来自転車を買い、それを乗り回して青春時代をすごしました。なお当時、自転車は人力車と同じ税率で課税されていました。


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(明治のハイカラ女学生たち)
   
                                                         
  *小学生の始めころ、一人で自転車の稽古をしました。昔は子供用がなく、商売をしていたうちにあるのは、小僧さんが荷物の配達用に使う頑丈な自転車ばかりで、練習しても怪我ばかり。。
 しかし自転車だけは、90過ぎても平気でスイスイ乗れるんですねー。
 我ながらオドロキです。

     ・・・・・       ・・・・・

 *今日は朝から冷たい雨がショボショボと降っています。
 今夜は飲み会、「三夜待ち」という昔からの23日の月待ちの親睦会ですが、月の出を眺めるわけでは無し、ワイワイガヤガヤと世間話のただの飲み会になっています。

       
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                                          (農家の三夜待ち) あ、こりゃこりゃ~


  

(308)沢庵の始まり

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     (308)  たくあん の起源   「12月11日」

 イメージ 6沢庵(たくあん)は大根を糠と塩などで漬けた漬物で、日本人にとって毎朝の食事に欠かせない「沢庵漬け」ですね。
 その「沢庵」と言えばすぐに思い出すのが小説「宮本武蔵」の中の沢庵和尚です。 
 沢庵和尚は1645年(正保2年)の今日、12月11日に亡くなって居ます。

 イメージ 21609年〈慶長十四年〉にいわゆる紫衣事件が起こり、朝廷と幕府との間の政治問題に巻き込まれて沢庵和尚は出羽の国、上ノ山に流されました。今日の山形市郊外の山の上温泉です。

 ここでは他の北国の農村と同じように、雪深い冬にそなえて秋口から野菜の漬物が作られていました。流刑の沢庵は農家の人々と共に研究工夫を重ね、干し大根を糠と塩で漬ける「貯え漬け」を考案しました。一説ではこの「たくわえ漬け」が転じて「たくあん」と呼ばれるようになったとも言われています。
 
 イメージ 3冬の間のビタミンC補給源としてこれは見事な保存食品でした。その後、罪を許されて、沢庵は江戸品川の東海寺の住職になりましたが、ある日三代将軍家光がこの寺を訪ねてきました。
←沢庵和尚像 
                        →家光の肖像
 
 急なこととて接待の方法がなく沢庵は「貯え漬け」で家光をもてなしたところ、家光はたいへん喜んで、「これを『沢庵漬』と呼んだらよかろう」といいました。これが「沢庵漬け」の始まりです。そしてこの大根の漬物は、18世紀には、江戸だけではなく京都や九州にも広がって食べられるようになりました。沢庵にはこんな歌があります。

      たいこうのものとは聞けど 糠みそに
         打ちつけられて しほしほとなる

 これは、「たいこう」は大香、つまり大根のことで、これを糠みそ漬けにすると、さっぱりと漬けあがるという意味です。沢庵がどれだけこの沢庵に興味と自信を持っていたかがわかります。だいたい、このころの白米は新製品でそれまでは玄米を食べていました。精白によって得られた米ぬかを漬物に利用したのが、いわば沢庵漬けの技術革新のミソだったのです。

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                                                     (沢庵和尚の塔)

 沢庵漬けにはさまざまな変種があって、戦後渥美半島の農家が大量生産に乗り出し、昭和50年ごろまでは年間に1億数千本の沢庵漬けを作っていました。しかし渥美半島の農産物の多角化に伴い次第に減少して、渥美たくあんは今はブランド品として僅かに残って居るだけだとか。。


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                                          (大根市場・昭和28年の風景)


*昨夜の三夜待ちの飲み会、ご馳走の最後にごま塩のおにぎりと沢庵が出ました。軍隊時代は一度でいいから、真っ白いホカホカのおにぎりを食べて死にたいなどと思ったものですが。。

 イメージ 5ところで飲食店などでおかずの一品として沢庵が二切れ付いてくる事がありますが、この沢庵を二切れ出すという習慣は、江戸時代から始まったといわれています。
 武家社会の江戸時代では、侍に沢庵を一切れ、もしくは三切れだけ出すのはタブーだっのです。それは、一切れは「人斬れ」に通じ、また三切れは「身斬れ(腹を切れ)」に通じると言われていたからです。その習慣が今でも残っているんですね。

 最近は漬物も福神漬やシバ漬、キムチなどと多様になって、あの黄色い沢庵は余り見かけなくなりました。おにぎりに沢庵、ちくわ・蒲鉾は小学校の遠足には欠かせなかったのでしたが・・、然し、お握りにキムチではどうもネ。

           ////                /////

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                                    (中国系のさざんかが咲きました)                  


  
            山茶花の長き盛りのはじまりぬ   富安風生


  椿は春に咲きますが、さざんかは初冬の庭を美しく彩る花ですね。 
 中国では「山茶花」と書くと「ツバキ」の事を言います。逆に中国の「サザンカ」「茶梅」と言うんですよー。
 山茶花は四国、九州に広く自生していますが、佐賀県の脊振村にあるサザンカ林はその分布の北限として天然記念物になっています。清楚で香気があるので、江戸時代の初めから多くの園芸品種が作られてきました。


   
                

 

(309)ダイヤモンド婚

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    💎  (309) ダイヤモンド婚    「12月11日」
 
 昨日、12月11日は結婚60年の記念日だった。
 すっかり忘れていたが、家内に促されて二人でささやかに梅酒の乾杯!

イメージ 1 60年目はダイヤモンド婚だそうだが、ダイヤモンドは結婚の時やってしまったので、今度は何もプレゼントはない。(^_-)-☆

 いつの間にか何とか60年も過ごしてきたのだから、ダイヤモンドのように固い絆だったのだろう。ダイヤモンドのような固い絆、それがお互いのプレゼントだろう。60年のあとは75年目だから、お祝いももうこれでおしまいである。。
 そうか、、金婚式からもう10年も経つのか。。


  イメージ 250年目の金婚式の時は息子が家族で阿蘇、九重一泊旅行を設営してくれた。    かんぱーい!!

                 イメージ 4

  孫、子たちと九重のやまなみハイウエーをドライブし、噴火口の強風にあおられ、阿蘇の草千里では馬に乗ったり、熊本城に登ったり、ほんとに楽しかった。

                        イメージ 5   
                    (馬上ゆたかに・・)

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 小学生の時、父と阿蘇登山をして以来、戦後の学生時代や中高年登山で、何度阿蘇に登ったことか。。
                                                       昭和21年・学友のS(右)と →

 
 この阿蘇山には南九州一周の新婚旅行の時にも登ったことがある。
山頂は雪かも知れないというので、旅館で長靴を借りて行ったが、重いオーバーを着て長靴姿とは、なんともサマにならないハネムーンだった。


 イメージ 7夕刻遅く、宿に帰ったら、「あの二人は火口に飛び込んだのではないだろうか?どうも心中者らしかった・・」と女中さんたちが心配していた由。。寒さもあるし、よほど疲れた顔をしていたのだろうか。。(-_-;)

 10年前の金婚式の時は登山道路もスイスイと行けたし、天下の名城・熊本城も厳然とそびえていたのに、今は10年ひと昔とはよく言ったものだ。
思わぬ地震のために、あんなに荒れ果ててしまうとは。。

 これから後10年たったらどうなっているだろうか。
 もちろん、その時はもう居ないはずの紫蘭には分からないだろうが。。

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この熊本城の雄姿はしばらくは見れないだろう。。



(310)鉛筆の起源

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      (310) 鉛筆の起源   「12月13日」

 イメージ 1最近はボールペンばかりで、鉛筆を使うことはほとんどありませんね。昔の小学校のカバンには筆入れが必需品、中に鉛筆4,5本と消しゴム、肥後守(ナイフ)が入っていました。鉛筆も、濃淡でHとかHB,4Bなどいろいろあり、消しゴムつきや両端が赤青の色鉛筆などがありました。
 短くなると頭にキャップをかぶせて使ったり、端の方を薄く削って名前を入れたり。。
 鉛筆にはいろんな思い出が詰まっています。

 ところでこんな鉛筆はいつごろ出来たの
でしょう?
 古代は文字を書くのには鉛を動物の皮などにこすって記述していましたが、のちに細長い鉛と錫の合金を使って外側に木の軸を巻きつけた現在の鉛筆の原型が作られました。

 イメージ 2スイスの学者K・ゲスナー1566年12月13日没)は植物学、動物学、言語学、考古学と多岐にわたる研究を残した博物学者ですが、彼は1565年「ドレルム・フォシウム・フィグリス」という書物を書き、その中で、「イギリスのカンパーランドのポローデルという谷で黒鉛を発見し、それを木にはさんで筆記用具にした」、と記述しています。
 これが鉛筆についての最初の文献的記録です。ゲスナーが使った鉛筆は丸い筒状の木で出来ていて、先端に黒鉛の小さな塊を詰めるものでした。ですから黒鉛がなくなると、また新しい黒鉛を詰めたのです。

 ↑ ゲスナー

 その後2世紀ほど、鉛筆の歴史には空白が続きますが、1760年、ドイツの「カスパー・ファイバー」がシュタインで始めて鉛筆製造を開始しました。彼は黒鉛を粉にして、それに硫黄を混ぜて芯を作り、これを木に包むようにしたのです。この地方はその後もいわゆるババリア鉛筆の産地となり、高品質の鉛筆を生産し続けています。

 つづいて1795年、フランスの「コンテ」が、黒鉛をいったん粉にしてから、粘土とまぜて窯で焼く方法を開発しました。現在の鉛筆はこの製造法の延長線上にあり、またこの「コンテ」という名前は、画家たちの間ではデッサン用の鉛筆と言う意味では、殆ど普通名詞化しています。

 
イメージ 4
                                                 (黒沢明監督の絵コンテ)

 日本では、17世紀の始めに家康が初めて使ったといわれていますが、そのころの鉛筆は現在の鉛筆とほとんど同じだったそうです。その後、本格的に鉛筆の輸入が始まるのは明治時代になってからです。明治6年、オーストリァの博覧会に出張した藤山種重と、井口直樹のふたりが鉛筆製造法を研究し、同10年、内国博覧会に出品すると共に、その製造法を小池卯八郎という人物に伝えました。

 これから国産鉛筆が始まるのですが、小池は鉛筆製造の事業化に失敗しました。本格的にこの事業を軌道に乗せたのは「河原徳右衛門」という人です。河原は独力で鉛筆の製法を開発し、明治十四年ごろには100人近くの工員を使うほどに成功しました。
 日本での最初の鉛筆の量産は、1887年に東京の新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の三菱鉛筆)創業者・真崎仁六(まさき にろく)によって開始されました。

 イメージ 3蛇足ですが、鉛筆用の材料として最も優れているといわれるのは、「エンピツピャクシンという常緑の高木で、北アメリカに野生しています。
*昔の小学校の机の上には、鉛筆削り用の小さい木の箱が乗っていました。もちろん「肥後の守」という小刀で削るのです。そのあと、鉛筆にかぶせてくるくる回すと、綺麗に削れる小さい←「鉛筆削り」ができ、戦後には卓上型の大きな削り器が出回りました。 ハンドルをくるくる回す奴です。


    ・・・・・      ・・・・・

 *今朝は冷え込みました。-0,7度・・
   北風が冷たい中自転車で内科の検診へ・・
   血液検査の結果はすべて異常なし、コレステロールも善玉、悪玉のバランスがいいらしい。
   ところが担当の先生が入院名中だとのこと、これじゃうっかり死ねないなぁ。。
   そこで、長生きするために、インフルエンザの注射をしてきた。
   今夜は晩酌しないでね、と看護婦さんに釘を刺されてシューン!!


   ・・・

(311)  江戸のそば屋

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     (311)  江戸のそば屋   「12月14日」

 今日は義士祭、赤穂浪士・四十七士が吉良邸に討ち入った日ですね。
彼らは討ち入りの前に目立たぬように「蕎麦屋」の二階に集まり、そこで身支度を整えて勢ぞろいした、と言うことになっています。

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                               (赤穂浪士の吉良邸討ち入り)


 イメージ 9ところで、江戸の町にはこんな店構えをした「蕎麦屋」のほかに、「けんどん」という飲食の形態がありました。「けんどん」は漢字で書けば「慳貪」とか「倹飩」という難しい文字になります。もともと「けんどん」とは、箱のはめ込み式の蓋の事で、うどんやそばの出前に使ういわゆる「岡持ち」などがそれですが、それからうどん屋やそば屋を「けんどん屋」と呼ぶ事もあります。今でも「突慳貪・つっけんどん」と言う言葉が残っていますが、要するに無愛想で、時には意地悪という意味の言葉です。
                                   けんどん蓋 →

 イメージ 10この「けんどん」という小飲食店は、そば、うどん、飯、酒など、ことごとく一杯盛切りにして客に出しますが、一切お愛想を言わず、お代わりもすすめません。


←江戸時代のけんどん屋


 この方式を始めたのは、江戸瀬戸物町の「信濃屋」と言う店ですが、「本朝世事奇談」によると、この方法だとお客の方も気を使わずにすむし、店の経営上も主人でなくとも給仕人で済ませることができるし、お互いに挨拶もせず、食事は事務的にさっさと終わることができます。
 『そのさま、慳貪なる心、また無造作にして倹約にかないたりとて、倹飩とも書く』とあります。

 イメージ 6この「けんどん」1662年〈寛文2年〉ごろから始まり、庶民の食文化の中で流行しました。こんにちのハンバーガーその他のファーストフードの先駆ともいうべきでしょう。

 面白いことにこうした店が巷間に流行し始めると、武士だとか貴人も興味を持つようになります。そこで当初の精神がだんだんとゆがんできて、ついには「大名けんどん」という不思議なものまで出てきました。大名を含めた上流人たちが利用したという意味なのでしょう。

 ちなみに、「けんどん」で一番人気のあった食べ物は「蕎麦」でした。その結果、数年のうちに「けんどん」とは「蕎麦」を意味するようになり、浅草などでは、右を向いても左を向いても「けんどん蕎麦の店」ばかりという、過当競争になりました。このころから、江戸の蕎麦ブームが始まっていきました。。

↑手打ちそば屋・久兵衛の店

      ・・・・・
 ところで赤穂浪士の討ち入りですが、実は同じよな討ち入りがその2年前に長崎で起こっています。
 元禄15年12月14日に赤穂浪士の吉良屋敷への討ち入りがありましたが、その2年前の元禄13年12月20日に、長崎で同じような討ち入り事件がありました。「深堀事件」と言い、地元の長崎では「長崎騒動」として今に伝えられています。
      ・・・・・
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 長崎は天領(幕府の直轄地)だったが、長崎の警護は佐賀藩と福岡藩が隔年ごとに行っていて、その警護のために長崎市内から南5キロあたりにある深堀に、佐賀藩の深堀領があった。


  イメージ 212月19日の昼、その深堀藩主の家老であった深堀三右衛門と甥の志波原武右衛門は所用があって深堀から長崎の町に来て大音字に通りかかったところ、生憎の雪解け道で足場が悪く,69歳と言う老齢の三右衛門が突いて居た杖が泥を跳ねあげて、ちょうどすれ違いにやってきた長崎の筆頭町年寄りの高木彦右衛門の使用人たちの一人「惣内」に泥がかかってしまった。

 ←今は石段になっている大音寺坂


 
 三右衛門らは不手際を侘びたものの惣内たちは承服せず、口論になってしまった。
 その場は一応収まったが、夕方になって高木家の使用人10名あまりが五島町の深堀屋敷に押しかけ、三右衛門と武右衛門に暴行を加えたのち大小の刀を奪い去っていった。

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                                     (深堀五島屋敷あと)

  イメージ 8五島屋敷からの知らせを受けた深堀では、暴行を受けた上に武士の魂である刀を奪われて憤懣やるかたなく、三右衛門の息子嘉右衛門をはじめ10名が長崎に向かい、翌20日未明に三右衛門・武右衛門らと合流して12名が浜町にある高木屋敷に討ち入り、高木彦右衛門および惣内と家来たち合計9名を殺害した。

 イメージ 4本望を遂げた三右衛門は高木邸の玄関にて切腹、高木彦右衛門の首を槍の穂先に突き刺して深堀へ引き上げる途中で、武右衛門は浜町の大橋の上で切腹した。

                             武右衛門が切腹したくろがね橋  →

  この騒動のあとの幕府の裁断は、深堀側は 討ち入りの残り10名は切腹。高木側は最初に深堀屋敷に押し入ってこの騒動の原因を作った家来たち9名は、全員斬首となった。

  イメージ 7なお、深堀側の三右衛門の息子・
嘉右衛門は赤穂浪士の大石主税と同じく17歳だったが、切腹に当り遺書とともに辞世の句を残している。 

      立ちかへり草のかげなる露の身の
        消えし此の身をあわれとも見よ
 
    
↑深堀武士たちの菩提寺
 
 この話は「長崎騒動」とか「深堀事件」として江戸をはじめ全国でも大きな話題となり、その様子は『元禄世間拙風聞集』『葉隠聞書』などにも記されています。門を打ち破って進入する場面など、討ち入りの様子は赤穂浪士の場合とよく似ていますが、或いは大石たちの吉良邸討ち入りの参考になったのかもしれませんね。

     ・・・・・

  *北風は冷たいですが、晴れ間を見て自転車で郵便局へ、年賀はがき買いや、お寺の賦課金振り込み。ATMで預金の引き出しや記帳をして手間取りました。通帳を逆に入れたり、暗証番号を間違えたり・・
 年寄りにはいろいろと面倒くさいですね。でも、振り込め詐欺に遭うじいさんさんにも間違われず、カレンダーや佐賀の海苔の粗品を貰って帰りました。 ありがたやありがたや。。


           冬帽の黒きが似合う齢(よわい)来ぬ      篠原梵

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皇帝ダリア


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(312)年賀状の起源

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       (312)  年賀状の起源   「12月15日」

 イメージ 7最近はメールばやりで年賀状もだいぶ減ってきたようで、昨日、郵便局に買いに行ったら、例年の絵付きの葉書が今年はないようです。仕方なく白紙のインクジェット用を買ってきました。親類縁者、友人知己もだんだん減ってきて例年貰っている友人もこれからは賀状は出さないと言って来たり、枚数も極端に減ってきました。
                                                             明治初年の郵便配達夫 →

 ところで、今日、12月15日から年賀状の特別扱いが始まります。
  いったい「年賀状交換」と言うのはどんな風にして始まったのでしょうか。

 イメージ 1日本では昔から新年の回礼という風習があり、となり近所から村落内、さらには本家分家のあいさつなどの挨拶周りが行われていました。それぞれの家では「蓬莱山飾り」を三方にのせ、回礼者はその三方に手をふれて帰ってきます。これは、新年の共同飲食を象徴化し、儀礼化したものといわれています。
 ← 我が家の蓬莱山祭り

(私の小さい頃の父も、羽織袴に「とんびマント」を着て、中折れ帽子をかぶって新年のあいさつ廻りをしていました。知り合いの各家の玄関に置かれている文箱の中に名刺を置いてくるだけなのですが。。)

 イメージ 3鎌倉、室町時代には、宿将や老臣たちが将軍を招いて「椀飯振舞い・おおばんふるまい」をしました。正月の行事にはこうした共同飲食が欠かせませんでした。
 ところが、明治時代になると 回礼は簡素化され、家をたずねては名刺を置いてくるだけ、というようになり、さらに郵便制度が発達してくると、名刺を封筒に入れて送るようになってきました。それがさらに簡略化されたのが、ハガキによる年賀状というわけです。


 ← 啄木の年賀状

 イメージ 4明治維新後の1871年に郵便制度が確立して、2年後の1873年に郵便はがきを発行するようになると、年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるというので葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まって行きました。
 1949年にはお年玉付郵便はがきが初めて発行されて
大ヒットし、これを契機に年賀状の取扱量は急激に伸びていったのです。
年賀状の作成も、昔はほとんど毛筆の手書きでしたが、しらんもいろいろの方法をやってみました。
                                                              漱石の年賀状・謡曲と般若の面 ⇒
                                                                      

 郵便局に行って謹賀新年のゴム印をペッタンコと押してきたり、サツマイモやジャガイモの「イモ判」版木やゴム板に彫刻刀で彫る「木版画」・・
 機械で造るのは一時流行った「プリントゴッコ」やワープロで印刷、そして最後はパソコンでの印刷です。
 今はパソコンが大流行りですが、昔の木版画や毛筆書きに比べると何となく味気ないですね。第一、スマホやパソコンでメールで送るのが多いので、年賀状そのものが減ってきているようです。

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 イメージ 5一方、西洋では、「クリスマス・カード」と言うものが始まりました。このカードを最初に発送した人物は、イギリスの「H・コール」という人です。彼はクリスマスを祝う手紙を出すのに余りに忙しく、1843年に「J・ホースレイ」と言う画家に依頼して石版画で1000枚を印刷しました。

 イメージ 6クリスマス・カードが商業的に発売されたのは1862年でした。それから10年ほどでカード交換は爆発的なブームとなり、1880年になると郵便局は「クリスマス・カード」は早めに出しましょう」と言う標語を掲げるようになりました。

↑1906年・ノルウエー
                                                                               1919年⇒
 
 日本でも半月前の今日から年賀状を特別に取り扱うのも同じ理由によるものです。。


* 皆さん、年賀状つくりはもう終わりましたか??・・・
シランは今からです、さあ、急いで仕上げねば~~ 

でも、昨日も友達から喪中の葉書が来ていました。彼には子供がないので、淋しいだろうなぁ・・  

 今日は免許証の受け取りに行きました。警察のおじさんが「お元気ですねー」とお愛想を言ってくれたので「これが最後です」と答えたら、「いや~、この次も来てくださいよ~!」。。
最近は車離れのせいか、警察も親切でお愛想がいいです。

      ・・・・・      ・・・・・ 
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(313)幽霊の宴会

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     (313)  「幽霊の宴会」  12月16日

 19世紀のはじめ、インドのボンベイ(現・ムンバイ)州プ-ナの統治者であった「バジラブ2世」は、毎夜悪夢にうなされました。 彼の見る夢の中には、「ナンヤンラブ」という人物があらわれ、バジラブ2世の父にあたる「バジラブ1世」に対する恨み、つらみを叫び続けるのです。

 
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                                            (インド・ムンバイ港)


 夢枕に立つナンヤンラブによると、バジラブ1世は大変な暴君で、何人もの人間を殺しました。「ナンヤンラブ」もその一人です。親の罪を子供がかぶるいわれはありませんが、なにしろ毎夜こんな亡霊に悩まされるのはたまりません。バジラブ2世は夢の中で亡霊に向かって「それではどうしたらよろしいですか」と尋ねました。

 亡霊は答えました。「もしも我らの霊魂をしずめようとするなら、これまでに死んだプラーマン(高僧)10万人の魂を呼び戻し、酒食を持ってもてなせ・・」というものです。大変な鎮魂式の注文ですね。亡霊のための宴会というのも前代未聞ですし、ましてや10万人というのもめちゃくちゃです。しかし悪夢から解放される為ならこれも仕方がありません。そこでバジラブ2世は、鎮魂の大宴会を催すことにしました。

 10万人を収容する宴会場なんかあるはずもないので、場所はプーナの大草原ということにしました。山海の珍味をあつめ、10万人分の宴席がしつえられ、1万人の給仕があたかも生きている人たちをもてなすのと同じような仕方で、10万の亡霊が座っていると思われる無人の席に食べ物を配りました。バジラブ2世は正面に一人座って亡霊たちに挨拶し、親の罪を謝りました。

 領地内のあちこちの谷から集まった亡霊たちは、どうやらこれで満足したらしく、この大宴会のあと、バジラブ2世は安眠することができました。
 この歴史的な大宴会が催されたのは1816年12月16日でした。。

  *何しろ幽霊の話なので、写真がありません。
    話もなんだか狐に包まれたような変な話なので。。

       ・・・・・      ・・・・・

 *朝からどんよりと今にも降り出しそうな陰気な一日・幽霊話のせいかな??
   12月16日は、毎年中学の同窓会の忘年会の日だったのだが。。
   みんな亡霊になってしまって、同窓会も煙のように消えてしまった。 没法子・・

  
イメージ 2

                                                      (怪しい花。。)

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(314)ゲームの話

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     ⚀   (314) 「ゲームの話」   12月17日      
 
 12月17日、今日から「羽子板市」です。
浅草の羽子板市は江戸時代の万治元年(1659年)両国橋が架けられた頃から続く有名な歳の市で、浅草寺の納めの観音詣の縁日に当たります。押絵の入った化粧羽子板を売る店が30軒ほども並んで当日は、浅草の仲見せ通りは大変な人出です。

イメージ 1

 もともと「羽根突き遊び」というのは、室町時代に始まったらしく、公家の間では「こぎのこ勝負」という男女の対抗戦があり、負けた方は罰として酒を振舞うことになっていました。この罰則は、子供の羽根突きで負けた者の顔に墨を塗る、と言う形に変形し、江戸時代には庶民の遊びとして大流行しました。

 イメージ 2また、武家が女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになり、これが庶民にも伝わって、女の子のいる家庭に縁起物の歳暮として年の暮れに贈られるようになったのです。

 ところで羽根突きと並んで正月のゲームとして「双六・すごろく」がありますが、こちらの方はその歴史はとても古いのです。すなわち、この「すごろく」はチェスと同じくインドで始まり、6世紀ごろには中国大陸を経て日本に渡来しています。

 その当時の双六は一般に「盤双六」と言われるもので、競技者はお互いに15個の駒を持ち、竹筒の中に2個のサイコロを入れて振り出し、その出た数にあわせて盤上を一回りさせ、相手の陣に全部あげてしまった方が勝ち、ということになります。
 
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                                                           (盤すごろく)


 イメージ 7これを「双六」というのは、サイコロの目が二つとも六が出ると勝つ確率が高いからです。このゲームが日本に渡来すると、これに熱中するものが多く、すでに日本書紀の「持統天皇」元年12月の項に「双六を禁ず」という記事が見えるほどのブームになっていたようです。
 
 その後も双六は繰り返し禁制になっていますが、これは単にゲームを楽しむだけでなく、それに金銭を賭けるバクチが、これから展開するようになったからです。
その後双六は「絵すごろく」に変化しましたが、サイコロだけはさまざまに転用されるようになりました。したがって、日本賭博史上、日本のバクチの根源はこの双六にあるといっても過言ではないでしょう。

 イメージ 3しかし、この双六は東洋だけのものではなく、インドから西方にも広がりました。その点で双六はチェスと並んで、世界的広がりを持った数少ないゲームというべきでしょう。
 こんにち、「バックギャモン」と呼ばれているゲームは、5千年前から行われている世界最古の盤上のゲームだそうです。
   ←バックギャモンセット

 盤上に配置された双方の15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う競技ですが、これは実のところ日本の「盤双六」と同じで、要するにインドから西洋経由で新しい名前で「盤双六」が日本で復活したというべきでしょう。

 我々が子供の頃、正月に遊んだすごろくは「絵すごろくというもので、紙に書いた地図や画面をさいころの数に合わせて進んでいくという単純なゲームでした。どの双六でも最後が上がり になっているのは、日本の都の京都や東京に到達するという意味だったのでしょう。

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                                                  (日本地図の絵すごろく、大正末期)

 ゲームの伝播で面白いのは「麻雀」です。麻雀は古く紀元前6世紀ごろに孔子が発明したという話もありますが確かではありません。とにかくこんな複雑で頭を使う競技を思いつくのはよほど頭が良かったんでしょうね。
 
 イメージ 5麻雀の語源は、竹製の牌を混ぜる時の音が雀の鳴き声に似ていることから付けられたそうですが、もともと麻雀は、中国で使われていた紙製のトランプが長江の船旅で風に吹き飛ばされるので、飛ばないように象牙製が作られたといわれています。
イメージ 6

 また、清朝の、後宮の女官たちが、つれづれなるままに工夫して作ったゲームだという話もあり、日本に伝わったのはアメリカ人の間で流行していたものを渡米中の日本人が持帰ったとも言われています。

 日本でマージジャンが盛んになったのは、大正時代以後のことで、これを覚えると面白くて熱中してしまい、仕事にならないので、戦時中は「マージャンは亡国の遊び」として指弾されました。
 
 その反動か、戦後のマージャン熱はすごく、サラリーマンは猫も杓子も麻雀熱中症にかかりましたが、最近はアウトドアや電子ゲームが全盛で、マージャンもちょっと影が薄くなったように感じます。(一時、近所の和尚さんは教職でしたが、毎週先生仲間を集めて夜明け方まで、チン、ポン、ジャラジャラとやっていました・・) 
今の子供たちは、羽子板も、双六も知らないでしょうが、「ゲームの世界」の変転も人生そのものですね。。

          /////                /////

 *朝がた、スゴク寒いと思ったら小雪が舞っていました。今年の初雪です。
  しばらくすると小雪も止んでお日様が燦々、あっという間の初雪でした。
  でも北風が強くて、歩道の落ち葉掻きもたいへん、掃いても掃いても風に舞い上がりなかなかまとめ切れません。
 
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                                                       (落ち葉の山道)


           落ち葉踏む けふの明るさ あすもあれ      水原秋桜子


                           //////

(315)ヴァイオリンの始まり

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      (315)  バイオリンの始まり   「12月18日」

 弦楽器の中で,古いのは「ハーブ」で、「ウルの遺跡」からも発見されています。今から5千年前のことです。

 イメージ 2しかしさまざまな弦楽器が開発されるのは、ルネッサンスの時代で、まずペルシャで作られた「リュート」「シターン」「ギターン」などと呼ばれるものに発展し、そこから「ギター」が生まれました。今日、見られるような形式のギターを作ったのは「A・トレース」で、1854年のことでした。
↑シターン
 
イメージ 8
                                               (リュートの奏者)


 以上の弦楽器は指または爪で奏でるものですが、一方弦の張り具合を調節しながら弓でひく楽器は古代インドの「ジャバ」という楽器をその起源とし、それは中央アジアから中国にかけては「胡弓」という名前で知られるようになりました。尤も、この場合の胡弓は二弦の楽器の「二胡」の事で、よく似ていますが、三弦の「胡弓」は三味線と同じ系列の日本の楽器です。


イメージ 3
                                                (三味線・琴・胡弓)

 イメージ 4また、西洋では15世紀ごろから「レベック」とか「ビォーレ」と呼ばれる楽器が出現し、「A・アマティ」の一家が楽器として、より洗練されたものを作り始め、アマティの2代目ニコラの弟子であったアントニオ・ストラディバリ1737年12月18日没 )がバイオリンを完成させました。彼はギターも製作し、そのうち2本は今日も残っています。
                                                                          ストラディバリ →

 イメージ 1ちなみに、「ストラディバリ」といった場合は楽器製作者を指し、彼が造ったバイオリンのことを「ストラディバリウス」と言います。

 「ストラディバリウス」はヴァイオリニストや収集家の羨望の的で、オークションでは驚くような高額で落札されます。今までに最も高値をつけたのは2011年に1589万ドル(約12億円)で落札された1721年製のストラディバリウス「レディ・ブラント」でした。

 ←12億円!!のストラディバリウス

イメージ 5                                ストラディバリ ⇒    


 *子供のころに「ハーモニカ」を、中学で「手風琴」「アコーディオン」を、ついで「マンドリン」、ギター、エレクトーン・・と、「すべて挫折」の歴史を繰り返しました。
 どうやら、いま吹けるのは口笛ぐらいかな??
 
 
イメージ 6 今の子供は幼いいころからオルガンやピアノを習ったりして音楽に親しむので、楽器もうまいですね。孫娘が大学の部活でヴィオラを弾いていますが、ヴィオラは永い間独奏楽器としては無視された存在でしたから、ヴィオラの奏者の第一人者はいないそうです。。(それほどの腕があればヴァイオリンへ鞍替えしてしまう)」というジョークが残っているくらいです。(~_~;)

  そうそう、三味線を弾く友人が以前、中国の土産に二胡を貰って熱心に練習していたようですが、
遠くに住んでいるので、上手いかどうかは分かりません。
 いや、元気でいるかどうかも分かりません。
 彼は親しい同級生の最後の一人なので。。
      


    ・・・・・      ・・・・・

  *今日も寒い! 暗い雪雲が広がった一日、でもどうやら雪にはならなくて済んだ。
   昔こんな歌が流行りました。   寒いとつい口ずさんでしまいます。

   ♪  「満州想えば」

       ♪ハァー
        またも雪空 夜風の寒さ
        遠い満州が エー 
        満州が 気にかかる

   イメージ 7    ♪ 「満州行進曲」

          酷寒零下 三十度
          銃(つつ)も剣(つるぎ)も 砲身も
          馬のひづめも 凍るとき
          すわや近づく 敵の影

          ♪ 「ああ、我が戦友」         

              満目百里 雪白く
              広茫山河 風あれて
              枯れ木に宿る 鳥もなく
              ただ上弦の 月青し

         

                                   

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