(257) ショパンの死 「10月17日」
1849年10月17日、作曲家であり、ピアノ奏者であった「フレデリック・ショパン」が亡くなっています。39歳でした。彼はその華麗で優雅な旋律によって独創的な境地を開き、「ピアノの詩人」と呼ばれ、今なお世界の人々から愛されています。
このショパン(1810-1849)はポーランド生まれで、7歳の時にふたつのポロネーズを作曲し、8歳の時にはすでにピアノ演奏の公演をしていますが、その時白いカラーのついたビロードの上着を来たそうです。
演奏会が終わった時母が彼に「皆さんはお前のどこに感心したの?」と彼の演奏ぶりについて尋ねたら彼は「もちろん僕のカラーにですよ、ママ」と答えました。
(ショパンの演奏会)
ショパン少年はなんにでも知的好奇心を抱き、物まねや絵画にも優れた才能を持っていました。
学校で先生の似顔絵を描き、それがあまりにも上手かったので先生がとても喜んだという話が残っています。また文学的素養があり、ショパンはうるさい子どもたちには、まずお話をして静かにさせ、次に子守唄を歌って眠りにつかせました。そして、そのあとで耳をつんざくような和音を鳴らして全員を叩き起こしたのだそうです。
彼は後年、異国から祖国への愛をピアノと作曲に託して送りまた。しかし、彼はからだが弱く結核にかかってしまいました。30人以上の医者のお世話になりましたが、友達からの手紙はみんな病気に対する注意が書かれていたといいます。
← ショパンのデスマスク
彼はこの肺結核でひどく苦しんでいて、最後の瞬間には口を利くことも出来ませんでした。そこで紙を取り寄せて「地球が私を窒息させそうだ。生き埋めにされるのはいやだから、解剖してから葬ってくれ!」と書きました。これがショパンの最後の言葉でした。遺言どおり遺体は解剖され、心臓だけは故国ポーランドに葬られました。
ショパンはこの3週間前にパリに新居を構えたばかりで、彼が息を引き取る間もなく、ショパンの恋人「ジョルジュ・サンド」の義理の息子に当たる「J・クレシンガー」がデスマスクを採りにきました。「F・リスト」はショパンの死顔を見て「生前の苦しげな表情が消えて、安らかで若々しい顔つきになった」と言いました。
(*紫蘭の体験したところでは、人間の死後は顔面の筋肉が緩むためか、誰でも穏やかな表情になるものです)
(*紫蘭の体験したところでは、人間の死後は顔面の筋肉が緩むためか、誰でも穏やかな表情になるものです)
然し、ショパンの遺体は三日間にわたって花束につつまれたまま安置され、なかなか葬儀が営まれませんでした。それは、ショパンが「葬儀の際にはモーツァルトの「鎮魂曲」を演奏するように」と言い残していたのですが、当時の教会ではまだ男女差別が厳しくて、女声合唱をなかなか許さなかったからです。 ↑ジョルジェ・サンド
結局、教会側が折れて、女声合唱が許されましたが、ショパンのデスマスクは今なお、マンチェスターの王立音楽学校に保管されているそうです。
← ショパンのピアノ
世界一美しい曲と言われる「別れの曲」・・
ショパン自身が「これほど美しい旋律はもう書けない」と言ったとか。。
↓クリック 「別れの曲」 ショパン YouTube
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*家内の同窓会でホテルまでの送迎、帰りに市役所に立ち寄って選挙の期日前投票を済ませてきました。車で出かけたので、理由は歩行困難!・・
(台風が来ると年寄りは歩行困難なのです。。)