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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(258)ショパンの死

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      (257)  ショパンの死  「10月17日」

 イメージ 11849年10月17日、作曲家であり、ピアノ奏者であった「フレデリック・ショパン」が亡くなっています。39歳でした。彼はその華麗で優雅な旋律によって独創的な境地を開き、「ピアノの詩人」と呼ばれ、今なお世界の人々から愛されています。

 このショパン(1810-1849)はポーランド生まれで、7歳の時にふたつのポロネーズを作曲し、8歳の時にはすでにピアノ演奏の公演をしていますが、その時白いカラーのついたビロードの上着を来たそうです。
演奏会が終わった時母が彼に「皆さんはお前のどこに感心したの?」と彼の演奏ぶりについて尋ねたら彼は「もちろん僕のカラーにですよ、ママ」と答えました。


イメージ 4
                                                 (ショパンの演奏会)


 ショパン少年はなんにでも知的好奇心を抱き、物まねや絵画にも優れた才能を持っていました。
学校で先生の似顔絵を描き、それがあまりにも上手かったので先生がとても喜んだという話が残っています。また文学的素養があり、ショパンはうるさい子どもたちには、まずお話をして静かにさせ、次に子守唄を歌って眠りにつかせました。そして、そのあとで耳をつんざくような和音を鳴らして全員を叩き起こしたのだそうです。

 イメージ 3彼は後年、異国から祖国への愛をピアノと作曲に託して送りまた。しかし、彼はからだが弱く結核にかかってしまいました。30人以上の医者のお世話になりましたが、友達からの手紙はみんな病気に対する注意が書かれていたといいます。
  ショパンのデスマスク

 彼はこの肺結核でひどく苦しんでいて、最後の瞬間には口を利くことも出来ませんでした。そこで紙を取り寄せて「地球が私を窒息させそうだ。生き埋めにされるのはいやだから、解剖してから葬ってくれ!」と書きました。これがショパンの最後の言葉でした。遺言どおり遺体は解剖され、心臓だけは故国ポーランドに葬られました。

 イメージ 2ショパンはこの3週間前にパリに新居を構えたばかりで、彼が息を引き取る間もなく、ショパンの恋人「ジョルジュ・サンド」の義理の息子に当たる「J・クレシンガー」がデスマスクを採りにきました。「F・リスト」はショパンの死顔を見て「生前の苦しげな表情が消えて、安らかで若々しい顔つきになった」と言いました。
(*紫蘭の体験したところでは、人間の死後は顔面の筋肉が緩むためか、誰でも穏やかな表情になるものです)

 然し、ショパンの遺体は三日間にわたって花束につつまれたまま安置され、なかなか葬儀が営まれませんでした。それは、ショパンが「葬儀の際にはモーツァルトの「鎮魂曲」を演奏するように」と言い残していたのですが、当時の教会ではまだ男女差別が厳しくて、女声合唱をなかなか許さなかったからです。                                                                         ↑ジョルジェ・サンド

 
イメージ 5結局、教会側が折れて、女声合唱が許されましたが、ショパンのデスマスクは今なお、マンチェスターの王立音楽学校に保管されているそうです。

 ← ショパンのピアノ



 世界一美しい曲と言われる「別れの曲」・・
 ショパン自身が「これほど美しい旋律はもう書けない」と言ったとか。。
 

     ↓クリック   「別れの曲」  ショパン  YouTube  
 
          https://youtu.be/0gM4dWVc0fM


          ・・・・・           ・・・・・・

  *家内の同窓会でホテルまでの送迎、帰りに市役所に立ち寄って選挙の期日前投票を済ませてきました。車で出かけたので、理由は歩行困難!・・

     (台風が来ると年寄りは歩行困難なのです。。)

(259) パビヨンの脱走   

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      (259) パビヨンの脱走   「10月18日」

 イメージ 1終戦直後の昭和25年に「暁の脱走」という新東宝の映画がありました。池部良と李香蘭の主演で、負傷して中国の捕虜となった上等兵が原隊に帰還して「敵前逃亡の罪」で営倉(軍隊内の刑務所)に入れられた時、恋仲の慰問団の歌手、李香蘭と二人で営倉を脱走して二人とも機関銃に撃たれて死んでいく話です。

 イメージ 2昔の陸軍刑法第七章「逃亡の罪」の第七十七条には「敵に走りたるものは死刑または無期懲役に処す。」とあります。つまり戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」とある通り、捕虜になることは日本軍人として最大の恥辱として、捕虜になったものは負傷してやむを得ず捕虜になっても「敵前逃亡の罪」に課せられてしまったのです。いわば見せしめとしての犠牲だったのです。
 昭和7年の日中の上海事件の時、中国で負傷して意識不明まま敵に捕らえられた第七連隊大隊長の「空閑少佐」は、事件終結後に捕虜交換で帰国しましたが、部下が戦死した戦場に戻り、武人らしく潔くピストル自殺を遂げました。軍事裁判では無罪だったのですが。。

 シランがいた予備士でも、砲兵生徒隊の候補生の脱走事件がありましたが、その生死は分かりません。脱走の結末はいつも悲惨なもので、脱走・脱獄はなかなか成功しません。そんな脱獄を13年の間に何回も繰り返し、ついに9回目に成功したパピヨンの話です。

 フランスの小説家で、映画俳優でもあったアンリ・シャリエールは1931年に殺人事件の容疑者として、無期懲役の刑を受けてフランス領ギニアのデビルズ島で服役しました。

 当時、フランス領ギニアの島々は「悪魔の島」と呼ばれていました。それはこの島が流刑地で、フランスの犯罪者は本国からはるばるとこの島に送られてきて、重労働に従事させられるからです。獄舎の状況は極めて劣悪で、その上猛暑と疫病が島を襲ったので、囚人たちは次々に死んでいきました。たまりかねた何人もの囚人たちが、脱走の機会をうかがっていました。

 たとえば、「R・ベルモント」という人物はネックレス一つを盗んだ微罪にも拘らずこの島に送られてきましたが、1936年、他の囚人たちと一緒にボートで脱出することに成功し、コロンビア海岸に到着しました。フランス警察は追及の手を緩めず、コロンビアまで追いかけてきましたが、結局つかまりませんでした。

 これより先、1928年には「デュドンヌ」という主人もこの島を脱走しています。彼は土地のインディアンに金を渡して小さい帆船でブラジルまで辿りつきました。フランスはブラジルに身柄の引渡しを要求しましたが、ブラジルの世論はデュドンヌに同情的で彼も見事に逃げおおせました。

 イメージ 3フランスの小説家で、映画俳優でもあった「アンリ・シャリエール」は、幼いころ母を失い、ぐれた生活を送っていましたが、1931年に殺人事件の容疑者として、無期懲役の刑を受けてフランス領ギニアの「デビルズ島」で服役しました。

 ギニアの処刑場は「人間を壊すための刑務所」と言われたほど過酷な環境で、シャリエールの囚人生活は実に凄惨を極めたものでしたが、彼もデビルズ島に服役中に何度か脱走を試みています。
 一番有名なものは1933年11月21日に「アンドレ・マチュレット」「ヨーハン・クルジオ」と共に試みた9度目の脱走でした。マチュレットはタクシー運転手殺しの罪で、ギロチンにかけられるるはずでしたが、まだ17歳だったために減刑されてデビルズ島に収監されていたのです。

  ↑映画・パピヨンのポスター

 イメージ 4この脱走で彼らはコロンビアへ辿り着きますが、結局は失敗に終わり、クルジオは2年の独房生活の後に獄死してしまいます。しかし、シャリエールは1944年にココナッツの実を入れた袋を使っていかだを作り、マチュレットと共に脱出に成功、海上を漂流してイギリス領ギニアまでたどり着き、ここで小さなレストランを開業しました。そしてシャリエールとマチュレットの二人は、ベネズエラに移住して市民権を手に入れ、不幸な生活は終わりを告げたかに見えました。

 しかし、ひょんなことからシャリエールはまた警察に捕まりまた監獄暮らしになりましたが、間もなく軍事クーデターが起こって釈放され、やっと自由の身になりました。 その記念すべき日が「1945年10月18日」でした。 ちょうど日米戦争が終わった年、昭和20年ですね。

 このシャリエールの囚人生活と脱獄を描いた小説「パピヨン」は、1936年に発表されました。パピヨンとは、フランス語で「蝶」の事で、主人公の胸に蝶の入れ墨があったからです。1973年には彼の小説「パピヨン」を原作として、「パピヨンの脱走」という題名で映画化され、スチィーブ・マックーンが大活躍、映画も大ヒットしました。この映画の撮影中の同年7月29日、に「シャリエール」は亡くなっています。
       
 そう言えば、マックイーンがバイクを縦横無尽に乗り回して、ドイツの捕虜収容所から脱走する「大脱走」という映画も面白かったですね。

     ・・・・・        ・・・・・・

*朝から曇りがちで、台風接近のせいか冷たい風が吹いています。
  地場スーパー買い出しだけで、今日も終わりそうです。
   二割引きのヨモギ大福がおいしかった。。
              

(260) カツ丼の話  

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             (260) カツ丼の話   「10月21日」

 イメージ 1飯の上にトンカツを乗せて、玉ねぎを卵とじにしたカツ丼、甘辛くて美味しいですね。大好きです。このカツ丼はどうして始まったのでしょうか。
 一番早いのは、福井県出身の高畠増太郎が、料理の研究で留学していたドイツから帰国した後に、東京の早稲田大学前に店を出し、1913年に(大正2年)に東京で開かれた料理発表会で披露したと言われています。

 また、1921年に、早稲田高等学院の学生だった「中西敬二郎」が考案したという説もあります。

 イメージ 21882年(明治15年)10月21日に、明治14年の政変で大蔵郷から下野していた大隈重信→ (*のち総理、佐賀市会所小路出身、父は佐賀藩士で藩の砲術長)によって早稲田大学(そのときは東京専門学校)が開校しました。「早稲田」の名称は大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあったので、当初「早稲田学校」と呼ばれていた「東京専門学校」が、1902年(明治35年)に専門学校から大学に昇格するときに「早稲田大学」と改称されました。

 現在の賑わいとは異なり、当時の早稲田のあたりは閑散としていて、学生が利用できるような飲食店もきわめて少なかったのです。

 
 その中の一軒「カフェーハウス」の常連だった文学部学生「中西敬二郎」は毎日代わり映えのしない、カレーライスとカツレツ定食を交互に食べていましたが、ある日、店主に頼んで丼飯をもらいその上にカツレツを切って乗せ、さらに自家製のソースを掛けてみたところ、なかなかの珍味でした。

 店主はこれを見て、この新発明を店のメニューに加えて「カツ丼」としました。(1921年、大正4年2月) 「どんぶり物」そのものは、すでに幕末ごろから出来上がっていたので「カツ丼」もその仲間の一つと言っていいでしょう。

 イメージ 3皆さんご存知のとおり、「とんかつ」は豚のカツレツのことですが、この略称を考え出したのは1929年ごろ、宮内庁の大膳職を務めていた「島田信二郎」という人です。
  彼は宮内庁を辞めてから上野で「ぽんち軒」という西洋料理店を開き、工夫のすえ、厚い豚肉を揚げることに成功し、これをひらがなで「とんかつ」と書いて宣伝しました。

 
  たまたま講談師の円右がこの新料理がとっても好きになり、寄席の話のなかでしばしばトンカツと口走ったので有名になり、ついにトンカツは日本調理史の中に定着したのです!

 イメージ 4ちなみに、トンカツにキャベツの千切り を添えるのは銀座「煉瓦亭」の発明でした。これは日露戦争でコックが徴兵されてしまったので手間を省くために、「キャベツの一夜漬け」からヒントを得て食べやすい千切りとして提供を始めたことが始まりとされています。

                                                                →東京銀座・煉瓦亭

 イメージ 5また来客の中に「パンよりも米を食べたい」との要望があり、「皿にライス」という日本ならではの工夫を凝らして提供しました。

 これは茶碗の飯はナイフ・フォークでは食べにくいためでした。そこからフォークの背にライスをのせて食べる慣習を作ったと言われて居ます。


                              ・・・・・      ・・・・・

  *今夜はカツ丼・・というわけにはいかないなぁ。。
    今はドライブスルーやスーパーで、簡単に買えるけど、
    期日前投票も済ませたので、選挙に出かけることもないし。。      

(261)警官の誕生

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         (261)  警官の誕生   「10月23日」

       ♪ 「若いお巡りさん」

                 もしもし ベンチでささやく お二人さん
         早くお帰り 日が暮れる
         野暮な説教 するんじゃないが
         ここらは近頃 物騒だ
         話の続きは 明日にしたら
         そろそろ広場の 灯も消える


 イメージ 1昔の巡査さん(警官)は偉かったです。親しみよりも怖いだけの存在でした。腰には長いサーベル(指揮刀)を下げて髭を蓄えた巡査が交番の前に立っていると、通り抜けるのも何だか怖い思いをしました。

  映画に行っても、観客席の後ろの一段高いところに座って映画の内容を臨検していました。軍隊の警察「憲兵」はもちろん、共産党や思想犯を取り締まる「特高・特別高等警察」物価や闇商売に目を光らせる「ケイザイ・経済警察」は特に怖かったです。その割に戦時中は一般の犯罪は少なかったですね。どこの家でも家に鍵は掛けていなかったです。

  ← 交番前のお巡りさん


 イメージ 5学生時代に学徒出陣で出征する前に、友達のKと彼の下宿で別れの盃として一杯飲んだことがあります。帰るとき彼は天満橋の交差点まで送ってくれましたが、そこで向こうから巡査がやってくるのを見かけたとたん、Kは突然、「俺は軍人と巡査が大嫌いだぁ!」と大声で怒鳴りました。
 シランは慌てて彼の袖を引っ張って引き留めたので、何事もなくすみましたが、それほど巡査には軍人同様に権威がありコワイ存在だったのです。
                                                       → 鬼より怖い憲兵

 戦時中だというのに、学生時代からマルキシズムの革新系の本を熱心に読んでいた彼は、反権力の意思がよほど強かったのでしょう。それほど軍人を嫌っていた彼の兄は皮肉にも士官学校出身の職業軍人でした。或いは秀才だった兄への逆説的な反抗心があったのかもしれません。彼はフィリッピンで夜間斬り込み決死隊の隊長として、雨あられの敵弾を受けて悲壮な戦死を遂げました。反軍人の彼が、自ら軍刀をふるって敵陣に斬り込むときの心境はどんなものだったでしょうか。
 
 話が反れましたが、そんな「巡査」というものは、いつから始まったのでしょうか。

 イメージ 21871年(明治4年)10月23日、東京府は邏卒(らそつ)3000名を置くことにしました。これが日本の警官の始まりです。
 
 これより先、大政奉還のどさくさで幕府の司法体系が乱れて、江戸に入ってきた官軍の藩兵が治安維持に当たっていましたが、いっこうに統制が取れません。そこで誕生したのがこの邏卒(らそつ)なのです。

  ↑ 邏卒 とは市中を巡邏する兵卒という意味で、その「巡邏査察」が略されて、「巡査」になりました。ついでですが、「警察」「警備査察」の略称です。
 
 こうして集められた3000人の内訳を見てみると、まず西郷隆盛と川治利良がそれぞれ1000名づつ鹿児島で募集しました。川治はのちにヨーロッパ警察制度を視察して司法の専門家になりましたが、彼も西郷に親しい薩摩人でした。

 残り1000名がその他の府県から採用されましたが、東京の治安は殆ど全面的に薩摩の手にゆだねられたような有様でした。人を呼び止めるときに「オイコラ」と言う横柄な言葉を使いますが、これももともとは薩摩弁で、鹿児島では「これこれ、ちょっと・・」と言う程度の響きだそうですが、まだ江戸文化が残る時代ですから、オイコラはとても横柄で尊大に聞こえました。

イメージ 3
                                                (明治8年の巡査)


イメージ 4(*この時の初代・司法卿は肥前・佐賀藩士の江藤新平で、三権分立の英仏式の司法制度の整備に努めましたが、司法郷として長州閥の山県有朋井上薫の汚職問題を厳しく追及し、また征韓論にも敗れて西郷と共に下野、昭和7年の佐賀の乱で首謀者として佐賀城外の嘉瀬川刑場で斬首されました。その時、死罪の判決を下した裁判官は皮肉にも江藤の教え子の河野敏鎌でした。)

 「辞世」
        ますらおの涙を袖にしぼりつつ  
           迷う心はただ君がため 
                                  →江藤新平
                                     

 イメージ 6「邏卒」の勤務規律はとても厳しく、全員が屯所に合宿し、家族があっても外泊禁止、勤務時間以外でも制服を着用し、酒を飲むことも正月や節句などの年5回だけという厳しさでした。江戸時代の与力同心はみな刀を持っていましたが、邏卒の武器は木製の三尺棒だけでした。然し、それほど厳しかったからこそ、市民の厚い信頼を受けることが出来たとも言えましょう。
 
 こんな重い責務の割には、警官の生活は決して楽ではありませんでした。当時の官吏の月給を見てみると、大臣の500円はともかく最低の17等判任官でも12円でしたが、それに対して一等巡査が7円、4等巡査になるとわずかに4円に過ぎませんでした。警察官が判任官待遇となって身分が安定したのは明治24年のことですが、それでも日雇い人足の給料と同じでした。。

    ↑明治初期の警官



       ・・・・・・          ・・・・・

  * 静岡から関東地方へ、大きな爪痕を残しながら猛烈台風は、どうやら北海道沖へ進んだようです。被害に遭われた地方の方たち、改めてお見舞い申し上げます。



(262)魔法瓶の始まり

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      (262) 魔法瓶の起源  「10月15日」

 今でこそ魔法瓶はどこにでもあって、取り立てて珍しいものでもありませんが、戦前は殆ど魔法瓶にお目にかかることはありませんでした。でも、私が小さいころにも魔法瓶はありました。外見は楕円形の水筒で、高の真空ビンは勿論丸いものでした。皮紐で肩から下げるようになっていて、最近のポット型のものは戦前には見かけませんでした。そんなに大きな真空のガラスビンを作る技術が無かったのでしょう。

イメージ 1
                                              (大正時代の魔法瓶)

 イメージ 2魔法瓶の基となる真空理論は、イタリアの← トリチェリ (1608年10月15日生まれ)によって1643年に発見されていましたが、その理論を利用して真空ビン(2層のガラスの間の空気を抜いて真空状態にし、熱の伝導を防ぐ・・)が最初に作られたのは1892年のことです。

 イメージ 3製作者はイギリスの「J・デュワー」→ で、
彼は液体酸素保存用に内側に銀メッキを施したガラスの二重瓶を作りました。
 これが彼の名をとって「デュワ-瓶」と呼ばれるもので、この魔法瓶第一号は今でもロンドンの王立科学研究所に保管されているそうです。

 彼は息子に温かいミルクを与えるために、この魔法瓶(真空瓶)を作ったらしいのですが、奥さんは信用せず、外側を毛糸で編んだカバーをかぶせていたそうです。。

 イメージ 5ついで、1904年(今から101年前)にドイツで生活用具の発明コンクールがあり、「R・ブルガー」が家庭用の魔法瓶を開発して、「テルモス」という商品名で応募し入選しました。然しその製造法はとても難しく、熟練工が一日にやっと8個作れるという有様でした。(*これが世界最初の魔法瓶で、テルモスの商標権は今でも残っているそうです)

 ← テルモス魔法瓶


 イメージ 8魔法瓶が初めて日本に輸入されたのは1911年(明治42年)のことで、そのうたい文句は「保冷、保温24時間保証」というものでしたが、これはまだ瓶に栓をするだけの単純な構造でした。その実用性に着目して国産化を図ったのが、日本電球KKの「八木亭二郎」と言う人で、魔法瓶が輸入されてすぐ、翌年には試作品を完成させ、国産品第1号を開発しています。

  そして同社が商標登録した魔法瓶という名称が一般に用いられるようになりました。然し当時の魔法瓶は生産原価が高く、また壊れやすかったので市場にはあまり出回りませんでした。

 イメージ 6昔の魔法瓶は輸入品ばかりで、持っている人も上流の人ばかりだったような記憶があります。私たちの小学時代の水筒は丸いアルミ製の水筒ばかりでした。「水筒とリュックサック」を枕元において、明日の楽しい遠足を夢見ていました。

 最近の魔法瓶はガラスではなく、真空のステンレス製なので、割れることもなくなり、ガラス瓶を交換することも無くなりました。これは1978年に、日本の産業ガス大手の日本酸素株式会社(現大陽日酸)によって、ステンレス製の真空断熱魔法瓶が開発されたからです。
                                                                                                            (ステンレス魔法瓶)

 イメージ 4魔法瓶の生産は戦時中、一時中断していましたが、その後、1945年(昭和20年)の終戦とともに、魔法瓶産業が復興しました。
 1923年には戦後第1号の卓上魔法瓶となる「ポットペリカン」が象印から登場し、魔法瓶の技術は、ポットのみならずご飯を保温する魔法びつ(ジャー)やアイスクリーム販売のための保冷容器、弁当箱(ランチジャー)などにも利用されるようになりました。

    ← 戦後第一号ペリカン型魔法瓶


 ところで、国民的歴史作家・司馬遼太郎さんの新婚時代の随筆「愛妻記」にこのジャーについての記述があります。

 ・・・・・
 イメージ 7ジャーという器具が出た。
 その広告に魔法瓶と書いてあった。
 彼女(*奥さんのみどりさん)はそれを買って来て、そこにナマのお米を入れておいた。魔法でメシが炊けると思ったのである。
 
「うそ、うそ、そんなばかな女の人がいるもんですか」
と源氏鶏太氏の夫人などはやっきになって私をうそつきにしてしまうが、ほんとうにそんなばかな女がいるんだから仕様がない。

↑ タイガージャー

 しかもよりによって拙宅にいる。ときに宇宙人と暮らしているのではないかと思うくらいだ。おばぁちゃん子でおばぁちゃんに教え込まれたいろんなことが抜けきらずにいる。

 それに、妙なことがある。
料理が上手なことだ。何をばかな」と読者は思われるであろう。なるほど、おっそろしく不格好なものができます。が、味つけはいいのである。人間いろいろ取柄があるものだと感心している。 

       ・・・・・

 イメージ 9なんだか、ほめているのか、けなしているのか分からないが「愛妻記」とあるから、やっぱり彼は愛妻家だったのだろう。取材旅行で世界のどこに行くのにも奥さん同伴だったから。。
   いや、ひょっとしたら恐妻家だったかも?
   司馬さんには作家にありがちな浮いた話もないし。。(^_-)-☆

                              象印電子ジャー   →

 とにかくこの頃にジャーというご飯の保温器が出来たのには間違いない。子供のころは、おひつを入れて保温するツグラというワラで編んだ容器があった。今ならさしづめ藁製の「魔法のおひつ」と言えるだろう、これで結構暖かいご飯が食べられたものだ。
                                                                                                     
 その魔法のおひつ「ジャー」もあっという間に消えて保温電気炊飯器にとって代わり、ポットもお湯を沸かして保温する電気ポットになって便利になった。魔法瓶に限らず、冷凍食品から冷凍冷蔵庫、電子レンジなどの普及で、食生活も大きく変わった。ほんとに最近の科学と技術の進歩には目を見張るものがありますね。    

(263)新聞広告の歴史

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     (263) 広告の歴史   「10月20日

 10月20日は「新聞の日」で、このあと一週間、新聞週間が続きいろんな行事が行われます。
現代の新聞は広告と切り離して考えることはできません。最近は特に記事よりも広告のページが増えてきたようです。

イメージ 1
                                 
          (明治38年9月1日、これは日露講和に対する意見広告でしょうか)
 

広告は人間の文明史とともに古くから存在しました。古代ギリシャでは、奴隷や牛を売るときには売り手がその「品物」を大声で叫びながら町中を走り回りました。古文書には失踪した奴隷を探し求める広告が残っています。またローマでは各種の競技の広告が街角に立てられました。

イメージ 2
                                    (朝日案内・三行広告・求人や尋ね人が多いです)

 その最初の新聞広告らしきものは、1622年にイギリスの「ウイークリー・ニュース」に歴史家のH・サンプソンが出したのが第一号のようです。サンプソンは自分の乗馬が盗まれたので「尋ね人」ならぬ「尋ね馬」の広告を出しました。

 新聞広告としての第一号は1661年「ロバート・ターナー印歯磨き」です。
ついで1665年、ペストが流行するとその予防薬がどっと出ました。「ペスト対策絶妙薬」「真正対ペスト水」「絶対保証空気清浄剤」・・化粧品と薬は昔から広告主のトップだったようですね。

イメージ 3
                    (昭和12年・蓄音機もいろいろ)

 1700年代のロンドンは広告の大氾濫時代でした。町じゆうの至るところに垂れ幕が下がり、ポスターが張られました。時のチャールズ2世は勅令をだし「空気を遮断し、天のめぐみたる日光をさえぎるような広告を出してはならぬ」と公告しました。

 アメリカの広告の元祖はB・フランクリンです。彼は自ら発行した新聞「ペンシルバニア・ガゼット紙」に盛んに広告を取りました。石鹸、書籍、文房具・・・ついには自分で発明した新型ストーブの広告も出しました。いわく
「古い型のストーブを使っていたら、眼も歯も悪くなります。肌も荒れます。その点、フランクリン型新式ストーブならご安心頂けます」・・・(*脅迫型広告?の元祖かも知れませんね)
 かくて、この新聞は当時のアメリカ最大の発行部数を誇るようになりました。

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                        (昭和8年)

 一番変わった新聞広告は、1789年にアメリカの新聞にでた「自殺予告広告」でしょう。それは
「わたくしこと、トマス・タッチウッドは今月末日にピストル自殺を決行することに致しました。私の命は私自身にとっても友人たちにとっても、もはや何の意味も持っておりません。したがって死ぬことにしたのです。

 この機会を皆様に見届けて頂くために、わたしは二挺のピストルを用意しました。一挺のピストルで私はまず腹を貫通させ、二挺目で頭を打ち抜きます。この興行は当日午後9時ちょうどですが、8時から開場いたします。ご婦人のために特別席も用意してございます。。!?

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                   (昭和16年・国民学校が懐かしい)

最新型の変わった広告としては「話す新聞広告」という全く驚くべき広告も登場しています。
 2010年9月21日、ドイツの自動車メーカー「フォルクスワーゲン」はインドで恐らく世界初のユニークな新聞広告を出しました。それは新聞の内側に音声チップを仕込んで、新聞を開くと新聞が自動的に宣伝文句を読者に語りかけるという「トーキング・ニュースペーパー・キャンペーン」でした。

 もちろんインドの読者たちは、新聞を開くと同時に話かけるのでびっくり仰天、そのセリフの前にビープという音が出るチップを爆弾と勘違いして警察に通報したりして、警察の電話はその日なりっぱなしのありさま、ムンバイでは爆発物処理班が出動する騒ぎになりました。
 また、「いきなりしゃべりだした新聞にお年寄りが驚き、気分が悪くなった」とか、「朝の貴重なくつろいだ時間に強制的に15分のCMを聞かされる」「女中が『新聞の中にお化けがいる』と怯えた」というような苦情も殺到したそうです。

イメージ 6
                                                 (昭和13年) 軍歌が多いですね。


        さて、次の社会ではどんな珍奇な新聞広告が飛び出すやら・・

(264)東京地名論争

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      (264)  東京地名論争  「10月13日」
 
 イメージ 6慶応4年(明治元年)の戊辰戦争の結果、将軍慶喜は降伏し江戸城は無血開城して「江戸府」が設置されましたが、明治元年(1868年)旧暦の7月17日(9月6日)に「江戸」は「東京」と改称され、「江戸府」は「東京府」となりました。 (江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書)。
 そして明治元年(1868年)旧暦の10月13日(11月26日)、それまで「江戸城」と言われていた幕府の総本山が「東京城」に改名されました。

                                                         (最後の将軍徳川慶喜) →

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                                               (明治天皇、東京へ行幸)

 イメージ 4江戸を東京と改称する構想は、もともと江戸時代後期の「佐藤信淵」が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れています。その中で、佐藤は「日本が世界に飛躍するには日本の守りを強固にする必要があるので、そのためには都を江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記しています。この佐藤の書に影響を受けた明治の元勲「大久保利通」が江戸を東京と改称することを建言したと言われています。

 ← 大久保利通

 さて、江戸を東京にすることは決まりましたが、読み方については特別決まった根拠がなく、一般には「とうきやう」が使われましたが、明治20年代頃までは「とうけい」という読み方も混在して使われていたようです。しかし、第一期国定国語教科書で「東京」の振り仮名が「トーキョー」と表記されてからは「とうきょう」という読み方が定着しました。

 イメージ 1然し、この東京という名前には明治初期からいろいろ議論がありました。

 はじめに明治初年の教育家で学者の「西村茂樹」が東京は「東の都」の意味であり、これは単に都市の「格」を表すもので、地名はあくまでも「江戸」である、と主張しました。

 彼によれば「パリ」は固有名詞であり、「フランスの首府」といえば普通名詞である。「東京」は首都の機能を現す言葉だから「江戸」を廃するならば、「パリ」も廃さねばならぬと主張したのです。
  ← 西村茂樹

 イメージ 2この論争は昭和になっても続き、法律家、歴史家であった「尾佐竹猛」は西村の所論を受け継ぎ、東京は地名ではないと論じました。江戸は東の京、京都は西の京、この二つの都市の間を明明治天皇が巡幸されるわけだから、江戸の名称をやめるのは京都という名称を止めるのと同じだ・・というわけです。                                  
                                    尾佐竹猛 →
 「天は自ら助くる者を助く」という言葉で有名なサミエル・スマイルズの「自助論」を翻訳した「西国立志伝」中村敬宇(本名、正直・明治の思想家)も、自分の著書の奥付きに「明治八年十月、江戸、中村敬宇・・」と署名しています。


 しかし、これらの議論はほとんど無視され、「東京」という名称が生き残りました。
 ちなみに、江戸から改称するときに、東京を首都とするという遷都令は出て居ないので、したがって当時の西の京(京都)の人の中には、「天皇はただ東京に長期滞在されているだけ・・」と考えていた人も居たそうです。京都の人は千年の都人だっただけに、なかなか気位が高かったのですね。

 
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                                         (愛宕山から見た幕末の江戸の町)

(265)鉄道開通

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        (265)  鉄道開通   「10月14日」


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                                                  (人力車)

 
 イメージ 4江戸から東京へとなって、大きく変わったのが交通手段でした。それまでの江戸時代の交通手段といえば、馬か駕籠が主流で、明治になると人力車や自転車が出てきましたが、なんといっても大量輸送機関としては鉄道の登場でしょう。

 ←江戸時代に最も利用されたのは簡素な四つ手駕籠で、担ぎ手は一日48キロも歩くこともあったとか・・

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                 →で旅する女性

 明治維新の翌明治2年に、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まりました。そして明治5年9月12日(1872年10月14日)日本で初めて新橋から横浜までの鉄道が開通しました。



  その後、新橋から始まった鉄道を更に都心まで伸ばして東京中央停車場を作るという計画は、明治の中頃かから建てられていましたが、不況や日露戦争の影響で工事は見送りとなり、結局大正時代にまで持ち越されてしまいました。

 イメージ 2この東京駅の設計に当たったのは、佐賀・唐津出身の建築家「辰野金吾」でした。東京駅は辰野の代表作であると同時に、日本建築史上の記念碑的作品なのです。本屋7000平方メートル、付属施設1500平方メートルという大空間を左右対称のがっちりした手法でまとめ、鉄骨を石材とレンガで包んだこの建物は東京名物の一つになりました。
 
   ↑ 竣工時の東京駅

 ところで、明治22年に東海道線が開通してから明治24年には東北本線が開通、その後、鉄道は各地にどんどん作られました。

 
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                                    (品川宿より東京方面を望む)
                     この海岸線に沿って東海道線が作られました。


 そして各鉄道には、沿線の駅、歴史、伝説、などの役立つ歌詞がついている「鉄道唱歌」が駅ごとにいっぱい作られました。

 一番初めの東海道線の「汽笛一声新橋を・・・」と言う鉄道唱歌は、明治33年(1900年)から大流行しました。このころには鉄道は東海道線だけでなく、山陽、北陸、東北なども開通していて、この歌の歌詞も全部で117番まであるので、全部歌うと2時間もかかるそうです。


            イメージ 6
                         (鉄道開通時の錦絵)


  イメージ 9♪  汽笛一声(いっせい)新橋を
     はや我(わが)汽車は離れたり
    愛宕(あたご)の山に入りのこる
        月を旅路の友として
                                 (新橋)

     二  右は高輪(たかなわ)泉岳寺
         四十七士の墓どころ
         雪は消えても消えのこる
         名は千載(せんざい)の後(のち)までも
                                        (品川)
                                                                                    ↑ (最初の機関車)

 イメージ 1この歌詞の作者は「大和田建樹」という事になっていますが、実際には誰であるかは判然とせず、ただ判っているのはその人から大阪の三木書店が版権を買い取り、それに目をつけた「大和田建樹」が補作しただけだ、という説もあります。

 これに大阪師範学校の多梅雅(たのうめわか)や、宮内省の楽長、上真行(かみまさゆき)らが力を貸して、あの有名なメロディが作られました。大和田は自ら楽隊を率いて東海道を大行進して、行く先々でこの歌詞を印刷した小冊子(1部6銭)を売って行きました。この本は大評判となり、またたくうちに50万部を売りつくしたと言われています。


 
  鉄道の有難さは、この時代にはいろいろな形で国民の生活に影響を与えました。たとえば西瓜が福島県以北に流通し始めたのは、東北本線によって西瓜が鉄道輸送されたからなのです。。

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                 (汽車ポッポの見物)     画・南窓さん

                                          シュッシュッ ポッポ シュッポツポ                                            

(266)チョコレートの歴史

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     (266)  チョコレートの歴史    「10月28日」

 イメージ 1現在、お菓子の中で人気ナンバーワンは何といってもチョコレートでしょう。あのほろ苦い味はほんとに美味しいですね。。森永や明治のミルクチョコレ-トは大正の中ほどから造られていますが、紫蘭の子供のころはチョコレートというと、銀紙で包んだ玉チョコばかりでした。
  これはチョコレートと言っても外側に申し訳程度に少しばかり塗ってあるだけで、中身のほとんどは白いクリームでした。懐かしいこの玉チョコも、メーカーでは昨年で生産は打ち切られたようです。

 イメージ 2そんなチョコレートそのものは、いつごろから造られたのでしょうか。
 1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達後、1519年にはスペイン人の「エルナン・コルテス」がメキシコに上陸しました。

   コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼし、メキシコはスペイン領になりました。
 ← エナン・コルテス

 
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                                          (クアウテモックの拷問)

イメージ 3 もともとこのメキシコは古代から高度の文明を持っていて、数千年前のマヤの時代でも「カカオ」の栽培が行われていました。メキシコ神話によると、カカオは「ケッツァルコトル」という天上の神様がもたらしたもので、このカカオの実を加工して得られるココア・バターとカカオを混ぜ合わせ、これに砂糖や香味料を加えるとチョコレートが出来上がります。
                                                        アテスカの神・ケッツアルコトル→

 メキシコを征服した「F・コルテス」はこの「ショコアトル」と言う飲料が驚くべき強精剤であることを知り、スペインに持ち帰りました。スペインの貴族たちはこれを一種の秘薬として独占し、他国に伝わらぬように固く秘密を守りました。 しかし、これがイギリス人の知るところとなり、1650年には最初の「チョコレート・ハウス」が出来て、バルザックカサノバなども愛用しました。当時のチョコレートは飲用で、高貴薬なみの高価なものでした。

                    
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                                        (ショコアトルを飲む王たち)


 飲料でなく今日のような「固形のチョコレート」の生産が始まったのは、1819年のスイスでしたが、これを高価な食品でなく、大衆的な菓子に転換したのはアメリカのM・ハーシーでした。ハーシーは「ミルク・チョコレート」を開発し、1904年から大量生産に乗り出しました。ペンシルバニアにあるハーシーの工場には9000万ポンドという、途方もない大量のカカオの実を貯蔵するだけの倉庫があるそうです。

  イメージ 5初めてチョコレートを口にした日本人は支倉常長で、1617年にメキシコに渡った時に、ビスケット・パン・コーヒー・金平糖・キャラメルなどの菓子とともに、薬用としてのチョコレートを味わったと言われています。 
  ← 支倉(はせくら)常長

 イメージ 7また、日本のチョコレートについての記録は、18世紀の長崎の遊女がオランダ人から貰ったものを記した控え帳のなかに、「しよこらあと」と書いてあるのが最初で、同時期に記された『長崎見聞禄』にも「しょくらあと」に関する記述があります。

 

  日本初の国産チョコレートは、風月堂総本店の5代目・大住喜右衛門が、当時の番頭だったで「米津松蔵」に横浜で技術を学ばせ、1878年に両国若松風月堂で発売したものが最初です。当時の新聞に載った日本初のチョコレートの広告には「貯古齢糖」の文字が当てられていました。



         

(267)ハレー彗星の話

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      (267)  ハレー彗星の話   「10月29日」

 物理学者のニユートンの友人だった、イギリスの天文学者の「エドモンド・ハレー」1656年の今日、10月29日に生まれています。彼はロンドンの裕福な石鹸製造業者の子として生まれ、オックスフォード大学に入学し、在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表しています。


  イメージ 1ハレーはニュートンの万有引力の法則を宇宙規模に拡大して、彗星も惑星と同じように太陽の引力によって公転の軌道を通過するのではないかと考えて、1607年にケプラーが観測した彗星と、1682年にハレー自身が観測した彗星が同一のものだと言うことを確かめました。

 この彗星は中国で紀元前5世紀、周の時代の文献に出ているのが最も古く、ほぼ76年おきに出現しています。1066年に現れたときは、イギリス人はこれをノルマン人の攻撃の前兆だとして、大恐慌をきたしました。

  ←エルモンド・ハレー 

 ハレーはその著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次にすい星が地球に接近するのは、1758年だろうと予言しました。ハレー自身はこの回帰を待つことなく1742年に85歳で亡くなりまたが、この予言に従ってドイツの天文学者パリッチはひたすら彗星の出現を待ち続け、1758年のクリスマスの晩に、これを観測してハリーの推測の正しさを証明し、この彗星を「ハレー彗星」と名づけました。
 ハレー彗星の正確な周期は76、02年だそうで、前回は1986年(昭和61年)に回帰していますが、次回は2061年の夏に出現すると考えられています。

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                                             (1986年のハレー彗星)

 1910年(明治43年)5月29日のハレー彗星の接近では初めて写真撮影がされましたが、ほうき星(ハレー彗星)の出現は古代から不吉の前兆だと考えられていて、この時は今のように科学が発展していない時代だけに世界中でこの彗星の出現が恐れられて、飛んでもないデマが飛び交いました。

 もともと、彗星の尾には有毒のシアン化合物が含まれていることが知られていましたが、特にフランスの科学者カミーユ・フラマリオン(1842年 - 1925年)の説がもとになって、彗星の尾に含まれる猛毒成分のために地球上の生物は全て窒息死するという噂が広まり、日本でのその日時は、明治43年5月19日11時22分とされました。

 またシアン毒説の他に、「地球上の空気が5分間ほど無くなる」という噂が一部で広まり、自転車のチューブを買い占めてチューブ内の空気を吸って一時的な酸素不足に備えようとする金持ちや、水を張った桶で息を止める訓練をする者、全財産を遊びにつぎ込む者、世界滅亡を憂えて自殺する者などが現れたそうです。また「どうせ死ぬのだから」と、歓楽街が非常に賑わってかってない盛況を見せたので、花柳界では「嗚呼、ありがたきかなホーキ星様」とハレー彗星が歓迎されたそうです。

 明治38年生まれの家内の母も、生前「子供の頃、この時、「ほうき星がカメの中に入り込むと大変だ、というので家人が米櫃やみそが目などのふたを閉めていたのを覚えている」と言っていました。

イメージ 3
                                              (1910年5月29日のハレー彗星)

 海外でも、ローマ法王庁が彗星から逃れる「贖罪券」を発行したところ希望者が殺到し、手に入れることができなかった人が悲嘆に暮れて自殺するという事件も起きていますし、中には酸素ボンベを持ち出し地下に逃げ込んだ人もいました。「彗星が持ち込むシアンの毒はこれで大丈夫」と、小麦粉を丸めただけのニセの薬を売って金もうけしようとした詐欺師がアメリカで摘発されたこともあり、またメキシコでは「処女をいけにえにすれば助かる」と信じ込んだ暴徒が、女性を襲撃する事件も起きています。

 この時の実際のハレー彗星は5月19日に太陽面を通過しましたが、彗星のガスは非常に薄いため、地球が尾の中を通過してもハレー彗星のガスは地球の厚い大気に阻まれて地表に到達することはなく、地球上の生命体には何の影響も与えませんでした。

               ・・・・    ・・・・・

 *台風が通り過ぎて晴れ間がのぞいたら、なんだか肌寒くなりました。
  これでお天気も締まるでしょう。
  今日は無為の一日になりそう。。

  
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                                      (落ち葉して 人気なき公園の ベンチかな)


(267)吉宗の望遠鏡

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     ☆ ☆ (267)  吉宗の望遠鏡   「10月30日」

 ハレー彗星は別として、満点の星が美しい秋になりました。子供のころ「子供の科学」という雑誌を毎月購読して居ました。子供の・・という名前はついていますが、なかなかハイレベルで中学、高校くらいの難しい内容でした。

 この雑誌の付録がまたなかなか上等で、実験用の試験管などがついていて、息子がこの試験官に、青、赤のインクとインク消しの液を一緒に入れたらどうなるかとか、遊んでいました。その影響か、息子が大きく成って化学の道に進んだのも何かの因縁かも知れません。
 それに甥が高校の部活で地学部にいて天文学の勉強をしていたので、息子も小学生のころから天気図を書いたりして遊んでいました。今でも天文学に興味があるようで三つ子の魂とはこんな事を言うのでしょうか。

イメージ 1


 イメージ 2シランも中学一年のころ、その子供の科学に天体望遠鏡の部品のレンズが付いていたので、広いボール紙の前面に糊をつけてぐるぐる巻きにして、長さ1mくらいの天体望遠鏡を作ったことがあります。月面や土星は案外はっきり見えましたが、地上を見ると何でも逆さまに見えるのが不思議でした。

 ハレーすい星や天体を見るのに必要なのは天体望遠鏡ですが、その望遠鏡はいつ頃に始めて造られたのでしょうか。

 イメージ 3望遠鏡はもともと1608年にオランダの「ハンス・リッペルスハイ」が世界で初めて発明していますが、この発明を知ったイタリアの物理学者「ガリレオ・ガリレイ」は翌1609年の5月に一日で10倍の望遠鏡を作り、さらに20倍のものに作り変えたそうです。

 この望遠鏡を月に向けて見たガリレオは、月面に凹凸があり、そして黒い部分があることを発見しました。彼はこの黒い斑点は海だろうと考えていました。
                                                          天文学の父・ガリレオ→
  
 イメージ 4ところで、徳川八代将軍吉宗は1684年(貞享元年)10月21日に生まれましたが、吉宗は天文学に深い関心を示し、1718年(享保3年)測午儀を設置し、また長崎の鏡職人に命じて大望遠鏡を作らせました。

 これが国産望遠鏡の第一号です。ガリレオが始めて望遠鏡を作ったのは1608年ですから、この新しい光学器械はわずか5年で日本に齎されたことになります。

  ← 徳川吉宗イメージ 5

 ちなみに、日本に始めて望遠鏡がやってきたのは、それより70年も前の1613年(慶長18年)のことで、イギリス船「グローブ号」の船長J・セーリスが、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の仲介で家康に面会し、そのとき望遠鏡を献上しています。
                                                                                   アダムス(三浦按針)→


               ・・・・・          ・・・・・

 *朝起きてみると歩道の落ち葉がいっぱい、昨夜はよっぽど風が強かったんですね、バタンバタンと、どこかの家のドアが泣いているのが夢うつつで聞こえました。
イメージ 6


 家内の目の検診で医大に行ってきました。両眼の白内障の手術後は安定していますが、左目の眼底出血のために、2,3か月に一回眼球内注射をうけねばなりません。
今回もまた網膜のむくみが出て来たので、新薬の注射を受けました。でも、先生に2,3か月に一度くらいが普通なのに、5か月保ったので経過は良好ですよ、と言われて一安心。
但し、注射は死ぬまで続けねばならず、高価なのが難点です。なんと一回15万円、でも高齢者保険があるので1万5千円ですみます。健康保険のありがたさを痛感。。


       

(268)脱出芸術

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         (268) 脱出芸術  「10月31日」

 イメージ 1脱出王と言われた奇術師のハリー・フーディーニ(本名ヴェイス・エリク )1926年の今日10月31日に亡くなっています。フーディーニは1874年3月24日に、ハンガリーで生まれました。
  
 彼は空前絶後の大奇術師としてその名をとどめていますが、ハンガリー出身の貧しいユダヤ人牧師の家に生まれたフーディーニは、4歳の時、家族とともにアメリカに移住しましたが、10歳ごろから学校にも行けず、カバン屋の店員として働いていました。
   ←ハリー・フーディーニ

 生来、好奇心の強かった彼はカバンの鍵に興味を持ち、その仕組みを研究してどんな錠でも開けられるようになりました。また、弟を相手にしてからだぢゅうに縄を巻きつけて捕縛された状態から抜け出す方法も完全にマスターしました。それが契機となって奇術師として生涯を送るようになったのです。特に17歳の時に読んだ霊媒の本の中に書かれていた「縄抜け」のテクニックに興味を持ったことでマジシャンへの道をこころざしました。
 
 彼は脱出術を得意とし、各国の警察の留置場や刑務所に収監されての手錠外しによる脱出や、また凍った運河やミルク缶からの脱出を行って話題になりました。「フーディーニに脱出できない所は無い」とか「不死身の男」「脱出王」と大規模に宣伝するなど、彼はマスコミを利用した売り込みの技術にはずば抜けた才能があって、フーディーニは当時のアメリカのトップスターとなったのです。

 中でも彼の名声を不動のものにしたのは、ロンドンのスコットランド・ヤード(警視庁)への挑戦でした。1899年彼が世界一を誇るロンドンの警察に出かけて、「もつと精巧な手錠をかけてくれ」というと、主任のメルビル警部は笑い出し、スコット・ランドの手錠はいったん掛けられたが最後絶対に外れないと言いました。
 彼は絶対にはずしてみせると断言し、怒った警部がバチンと手錠を掛けましたが、彼は数秒のうちにはずしてしまいました。こうして彼は「手錠抜きの名人」として舞台に立ち、イギリス全土を興行してまわり、手錠はもちろん、どんな難しい鍵も開けてしまい、人々を驚かせました。

 
 イメージ 2まさに「時の人」としてアメリカに帰った彼に、全米一の警備をほこるワシントン刑務所から「ここの独房から脱出できるか?」との挑戦状が送ってきました。フーディー
ニは数分の間に手錠を抜き、2重、3重の鉄の扉のカギを開けて出てきました。彼は自らを「脱出芸術家」と名乗り、最後には手錠をかけ、ズダ袋に入り、さらに大きなトランクに入って鍵をかけ、それをさらに縄で縛って水に放り込ませると言う状態の中から、見事脱出して見せています。

 彼はそのトリックを誰にも打ち明けずに亡くなっていますが、世界ぢゅうの警察は口をそろえて「フーディーニが犯罪者でなかったことを幸福に思う」という声明を出しました。


↑フーディニの宣伝写真

 イメージ 4しかし1926年、彼の楽屋を訪れた大学生のホワイトヘッドに「腹を強く殴られても平気」という芸を見せる際、フーディーニがまだ準備していない段階で殴られたことが原因で、急性虫垂炎になり10月31日に52歳で亡くなりました。

 葬儀に参列した舞台演出家の「フローレンツ・ジーグフェルド」は、フーデーニの棺の前で「賭けても良いが、彼はこの棺の中にもういない!」と言ったそうです。またフーディーニは死の直前に妻ベスに向かって「死後の世界があるのなら、必ず連絡をする」と言いましたが、その後何の連絡もなかったそうです。。

 ↑演出家のジーグフェルト

          /////

*子供のころ、サーカスで「人間大砲」という出し物があって、不思議でなりませんでした。サーカスの舞台の左側の大砲に入った人間が大音響と濛々たる煙の中で発射されて、右側の紙製の的に頭から突っ込んでいるのです。

 
イメージ 3
                            
        ↑(人間大砲は今もあるようですね、仕掛けはもっと大規模でしょうが・・)


 昔の人間大砲は発射された人間は頭をひっこめ、右側のマトから別の人間が足だけ突き出していたんですね。今考えてみると何ともお笑い種ですが、子供の頃はほんとにびっくり仰天、ただただポカ-ンとして眺めていました。
何しろ大音響と濛々たる煙に圧倒されていましたから、昔の人間がびっくりするのも当然ですね。。


     ・・・・・

                    

(269)国宝第一号

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     (269)  国宝第一号   「11月1日」

 日本で国宝の彫刻の部の第一号として指定されたのは、京都・広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像みろくぼさつはんかしいぞう」です。

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                                              (京都・広隆寺楼門)

 戦後、新しい文化財保護法によりそれまでの(旧)国宝が重要文化財とされ、その中から特にに優れたものを(新)国宝として改めて指定することになり、1951年6月9日にその第一次に指定されたものが181件ありました。この時に通し番号がつけてあり、その第一番が彫刻では広隆寺弥勒菩薩像になっています(ちなみに建築物では中尊寺金堂が一番でした)

 イメージ 1これは都道府県を北から順に並べて、そこにある国宝を番号順に並べたので、建築物ではたまたま岩手県に金色堂があって一番になり、彫刻では北から京都まで何もなかったので、広隆寺の弥勒菩薩像が第一番になったというわけです。ですから、この第一号という番号は決して優秀性とは何の関係もない単なる番号順なのです
 
  この弥勒菩薩像は仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の薬指を軽く右頰にふれて物思いにふける弥勒菩薩の姿で、日本で一番美しい仏像だと言われています。

 この弥勒菩薩像は、当時多くの仏像が楠で造られているのに対して赤松で造られているため、『日本書紀』記載の推古31年(623年)に新羅から伝来したものとする説が有力です。

 ところで、ある国籍を持ったものが、他の文化の中に移住して同化し、国籍を変えることを「帰化」と言いますが、これは「欽化内帰」とう言葉の略語です。

 日本で「帰化」という言葉が使われるようになったのは、大宝律令以後のことで、古事記や日本書紀では「渡来」という言葉が使われています。弥生時代以後の日本ではこうした「渡来者」が朝鮮半島や中国から数多くやってきて新技術をもたらしました。その当時の土着の日本人はこれら「渡来人」を歓迎し、決して外国人として軽蔑したり、差別して社会的な障壁は設けませんでした。

 イメージ 2渡来者」グループの中でも最も有力だった者の一つが「秦・ハタ」氏でした。秦と言うのは当て字で、この言葉の語源は新羅(しらぎ)語のハタ、つまり「海」ということです。秦氏とはつまり「海を渡ってきた人」という意味になります。
 秦氏は今日の京都西郊を開発し、優れた養蚕技術によって、古代日本文化の形成に寄与しました。現在、京都市右京区の太秦(うずまさ)や蚕の社(かいこのやしろ)などの地名が残っているのが、その事実を物語っています。
 
 イメージ 3 ↑ 秦河勝

 律令国家時代になると秦氏の有力首長だった「秦造河勝」が聖徳太子のお言葉によって「峰岡寺はちおかでら」を作りました。この日が603年(推古11年)の11月1日でした。
 この「峰岡寺」がのちに全面改築されて今日の「広隆寺」になり、国宝第一号になった「弥勒菩薩半跏思惟像」はこのようにして新羅の様式になっているのです。
                                               ↑ 秦河勝夫妻像


    ・・・・・     ・・・・・


(270)コレラ菌を飲んだ男

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      (270)  コレラ菌を飲んだ男   「10月7日」

 戦前は法定伝染病が決められていて、伝染力が強くて死亡率が高い病気にかかると、義務的に届け出て「避病院」に隔離されて治療を受けねばなりませんでした。赤痢、腸チブス、ジフテリア、ペスト、日本脳炎など11種類でしたが、その中に「コレラ」も含まれていました。
 もともとコレラは古くからインドのガンジス河のデルタ地帯に発生したらしいですが、東西交通の発達につれて1817年以来、次第にアジア全域からヨーロッパにまで広がりました。このコレラ菌は1883年にコッホによって発見されました。

   〇 「コレラ菌を飲んだ男」  
 
 イメージ 1「R・コッホ」はゲッティング大学で医学を修めたのち、顕微鏡による病理研究に専念し、さまざまな伝染病は細菌の感染によることを力説しました。1882年には結核菌を発見、そのあとツベルクリンを発明して細菌学の権威として1905年には「ノーベル賞」を受賞しました。

 結核菌に続いて「コッホ」が分離に成功したのがコレラ菌です。彼は1883年にエジプトでコレラが流行したとき、その病原菌をつきとめたのです。

  ← ロベルト・コッホ
 

 ところが衛生学者の「マックス・フォン・ベッテンコーファー」は、病気の原因は環境汚染であり、公衆衛生の重要性を第一に考えていたので、コッホの細菌学説を心よしとせず、度々細菌学者と論争を繰り返し、細菌による感染などありえないと断言して、1892年10月7日に自分でコレラ菌を飲ん出みせたのです。

 イメージ 2コッホとの論争で次第に劣勢になっていたペッテンコッファーは、コレラ菌を飲んでも発症しないという証拠を示すことで、コッホの提唱したコレラ菌病因論を否定して自説の正しさを実証しようと試みたのでした。 

 実験は10月7日から行われ、「もし私の考えが間違っていてこの実験によって命を落としても自分は死を恐れない。なぜなら学問のために死ぬのだから」と高らかに宣言して、 コッホの目の前でコレラ菌を飲み干しました。
 その翌日にはペッテンコーファーには何の異常も現れなかったのですが、9日午後から下痢の症状があらわれ、13日まで水様便が続いた後に15日になって正常に戻りました。

 ↑ペッテンコッファー

 イメージ 3その後、ペッテンコーファーの弟子のルドルフ・エメリッヒが同じ様に自飲実験を志願して行い、今度はコレラによる脱水症状で危篤状態に陥ってその後一命だけはとりとめました。

  また、20世紀初頭にロシアの免疫学者「イリヤ・メチニコフ」が行った自飲実験ではペッテンコーファー同様に下痢をしただけでコレラは発症しませんでした。このように、同じ実験でもその結果がまちまちだつたので、コレラ病因論は対立するこの二説の間で明確な結論が出ないまま、再び紛糾することとなったのです。
   ←イリヤ・メチニコフ

 しかし、ペッテンコッファーのコレラ菌自飲行為は医学者として誠に無謀で、不名誉な所業でした。彼はこのことも手伝って翌1893年にはミュンヘン大学教授の職を辞し、さらにうつ病を発症して7年後の1901年2月9日にピストル自殺を遂げています。

 余談ですが、細菌を飲んだ男に「太宰治」がいます。彼は結核療養所の下水を飲んで結核に感染しようとしましたが、すでに体内に抗体があったのか、ついに結核になれませんでした。
 さて、幸か不幸か???

 ところで、コッホが1882年コレラ菌を発見する前に、日本でも幕末の安政年間にコレラが大流行しました。

     〇 「安政のコレラの話」

 1858年(安政五年)、長崎に≪トンコロリン≫という疫病が流行りました。コレラです。コレラはその前、1822年(文政五年)にも大流行して「三日参り」として恐れられていましたが、このコレラは忽ち日本全国に広がりました。6,7月には佐賀平野の広瀬村にも流行り始めました。
 当時の肥前「野口家日記」には次にような記述があります。

 イメージ 4・・・人々は恐れおののき、夫々に衣装を着けて、笛、鐘、太鼓を打ち鳴らし、花火を上げてコレラを追いだそうとしたとか。。そして佐賀市郊外の金立山の裏手に出る水を飲むとコレラから逃れられると、大勢が参詣したといいます。また、麝香,木香、甘草を調合して飲んだり、病除けに芋、南天、唐辛子の三つを鉢植えにして玄関に置いて居た家もあったそうです。・・・
                                                                        金立山 →

 当時の長州藩豊浦郡(今の下関市)の町医者「古谷道庵」の日記によると、人々は「この恐ろしい病気は異人たちが海中に毒を流したせいだ、と思っていたようです。 ・・・・

 「8月16日」 
長崎平戸にて近日,虎狼痢(ころり)大伝染、一日二百或いは三百、下関また死人おびただし、これ,夷人海中に毒を流し、魚類これを食して人に伝わる。
 「8月18日」
 二見村、往診して診る。吐瀉後衰弱大いに加わる。
 「9月11日」
 夜、村人鐘、太鼓を打ち鳴らし、ほら貝を吹き大念仏、一同来たりて曰く、「悪疫を払う」、妻、女中みなこれと共に行く。

 イメージ 57月に長崎に入港した米艦・ミシシッピー号の乗組員の中に、上海で感染したコレラ患者がいるという。漁夫の妻たちはコレラ除けの神符を貰い、八幡宮で悪疫退散を祈った。また、八幡、権現の二社の神輿をかついで村中を回り、大般若教を念唱したという。
     ← ミシシッピー号


 「道庵」は往診に明け暮れたが、諸薬功を奏さず,死者を見送るばかりだったという。・・・

 毎日、毎日トンコロリと次々に死んでいくので、科学の発達していない当時の人々のコレラに対する恐怖と恐慌ぶりが偲ばれますね。


     ・・・・・    ・・・・・

  *今日も快晴・・
 昨日、1日から5日間、佐賀市嘉瀬川河川敷では、例年通りインターナショナルバルーン大会(国際熱気球大会)が開かれています。
 世界各国から参加した101機の色とりどりのバルーンが、刈り入れの済んだ初冬の佐賀平野の青空をを明るく彩っています。今日はキッズデー、可愛い子供たちがバルーン近くに集まって歓声を揚げています。

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(271)支倉常長の冒険

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        (271)  支倉常長の冒険   「11月3日」

 慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗が宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉(はせくら)常長を副使として、スペイン国王フェリペ3世およびローマ教皇(法王)パウロ5世のもとに使節団を派遣しました。

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                                         (支倉常長・ローマ法王に謁見)


 伊達政宗がなぜキリスト教に興味を持ったのか、その理由はきわめて簡単です。つまり江戸屋敷で伊達家の侍女のひとりが病気になり、それをスペインの宣教師「ルイス・ソテロ」が西洋医学によって完治させたからです。と同時に、東北の雄藩として独自に西洋と交易を行うという野心があったからです。
 イメージ 2そこで、支倉常長が正宗の使節としてソテロを案内役として同行しローマに旅することになりました。そして使節団のための船・サン・ファン・バウティスタ号が建造されました。当時仙台藩内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した最初の日本製西洋型軍船でした。長さ30m、乗員180名の500トンに近い大きな船でした。
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  ←支倉常長   

      
 
     復元されたサン・ファン・バウティスタ号 →

 支倉はこの船で太平洋を渡って、メキシコのアカプルコに到着、そこから陸路大西洋側に出て、今度は大西洋を横断しマドリッド経由でローマに入り、1615年(元和元年)の今日,11月3日に法王庁で教皇、パウロ5世に謁見しました。
    支倉は正宗の親書を手渡し、教皇もまた返書を渡しました。
 
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 そして仙台藩は法王のお墨付きで通商条約を結ぶことになりましたが、それからメキシコを経て5年の歳月ののち日本に帰ってみると、家康によってキリスト教は弾圧され、おまけに鎖国令が行われていました。

 イメージ 5帰国後の常長の消息は定かはありませんが、「支倉家家譜」では、2年後の元和8年7月1日に52歳でで死去したと記載されています。

    ← (常長が持ち帰った短剣)


  一方の「ソテロ」はメキシコからの帰途、フィリピンで常長と別れ、2年後の元和6年(1620年)にキリシタン禁制の禁をを犯して薩摩に潜入しましたが、すぐ捕らえられ,寛永1年(1624年)に長崎の大村で火あぶりの刑によって殉教しています。享年49歳 
 
 こうして、せっかくの支倉の苦心も水の泡となりましたが、1582年の大友宗麟の「天生遣欧少年使節団」と並んで支倉常長は日本の大航海時代を象徴する人物として後世に名を残したと言うべきでしょう。

 
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                                        (支倉常長と・サン・ファン・バウティスタ号)


                       *     「漢詩」 伊達政宗  晩年の作

     イメージ 8馬上少年過ぐ
     世平らかにして白髪多し
     残躯(ざんく)天の赦すところ
     楽しまざるをこれ如何せん

      四十年前少壮の時
      功名聊かまた自ら私(ひそ)かに期す
      老来識(し)らず干戈(かんか)
の事
      只取る春風桃李の盃 

              ・・・・・・      ・・・・・
 
 *今日は11月3日、今は文化の日ですが、戦前は四大節の一つ「明治節」でした。明治天皇の誕生日です。小学校は授業が休みで、生徒一同,講堂に整列して、校長先生の教育勅語を聞き、明治節の歌を歌いました。講堂の板の間は冷たかったですが、帰りに貰う紅白の餅が楽しみで、みんな鼻水をすすりながら我慢していました。。

 イメージ 4  ♪ 
       「明治節の歌」

          亜細亜(あじあ)の東 日出づる処
         聖(ひじり)の君の 現れまして
         古き天地(あめつち) とざせる霧を
         大御光(おおみひかり)に 隈なくはらい
         教(おしえ)あまねく 道明らけく
         治(おさ)めたまえる 御代尊(みよとうと)
 

(272)日本海軍の源流

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   (272) 日本海軍の源流  「11月3日」

  かって世界に名を馳せた日本海軍の源流はいつごろの事でしょうか。
四面海に囲まれた島国の日本では、古代から沿岸部の住民の間に水上兵力を持った海賊が跋扈していました。その海賊衆が戦国時代になると大名たちによって組織化され、水軍と呼ばれるようになりました。 

 そして戦国時代後期から江戸時代初期の大名が編成した水軍には「安宅船(あたけぶね)」と呼ばれる数十人から数百人が乗り組む巨船が配備されて、巨船同士の大規模な海戦も行われるようになりました。 
 
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                                                    (村上水軍の安宅船)


 イメージ 7山岳地帯をその活動の拠点としてきた武田信玄(1521年11月3日生)は、やがて駿河の国を手に入れたときから、水軍の充実に関心を持ち始めました。有名な騎馬軍団と水軍とがあれば全国制覇も夢ではあるまい・・おそらく信玄の胸中にはこのような思いが去来したに違いありません。

 ←信玄は造船家や航海家の養成につとめ、さまざまな工夫を凝らした軍船を設計し、いわゆる武田海賊衆(水軍)を編成しました。そして1580年3月15日には駿河湾の重須沖で北条水軍との海戦が激しく行われましたが、この時は夜になったため、双方が引き揚げています。。

 しかしながら、信玄の軍略は夢を結びませんでした。
イメージ 2というのは、ご存知のように武田軍は結局のところ、織田信長との戦いで敗北してしまったからです。そして信長は、信玄の養成した水軍の技術的伝統をそのまま受け継ぎました。しかも、それに加えて信長の場合は伊勢の九鬼水軍までその勢力下におきましたから、その海軍力はきわめて強大なものになりました。

 しかし、信長の水軍300隻は木津川沖で毛利方の村上水軍600隻と戦ったとき、火矢を打ち込まれて多くの舟を焼かれて大敗を喫しました。                                                                                              ↑火矢筒

 イメージ 3この敗戦に激怒した信長は、1578年(天正六年)九鬼嘉隆に命じて燃えない船を作るように命じました。このとき、嘉隆が造ったこの軍艦の最大の特徴は、外側に鉄板を張ったことです。これによって火矢はもとより鉄砲の銃弾に対しても完全な装甲が出来たことになります。さらに、この九鬼水軍の軍艦は大砲3門を装備していましたから、攻撃力にも優れていました。


イメージ 4*↑(九鬼嘉隆は織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、鳥羽、志摩国を支配して3万5千石の禄を得て、その活躍ぶりから江戸時代には軍記物などで「海賊大名」の異名をとっていますが、後に関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れて自害しました。)
 
 ちょうどこのころ、ポルトガルの宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノが堺に来ていて、この軍艦(大安宅船)を見てびっくりした、と言う記録が残っています。彼の証言によれば、各船は横七間(幅約12.6m)、竪が十二、三間(長さ約24m)で鉄板張りになっており、3門の大砲と無数の大鉄砲で装備していたそうです。
 何しろ鉄板で装甲した軍艦などと言うものは、当時の西洋人でも想像に絶するものでしたから驚くのも当然ですね。・・                               九鬼嘉隆の甲冑 → 

 
 また、秀吉の朝鮮出兵の時に、九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は長さ百尺(約30m)、櫓が百挺で、漕ぎ手と兵士をあわせて180名が乗り込むことができた巨船で、豊臣秀吉の命名によって「日本丸」と改名されています。また、この時の日本水軍の総数は約1万人だったそうです。


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                                 (朝鮮出兵の時の九鬼水軍・中央の巨船が日本丸)


  ちなみに、西洋で鉄板装甲の軍艦が出来たのは、1854年のクリミヤ戦争のときで、世界で最初の装甲艦がフランスで建造されています。これはクリミア戦争にフランスが参戦するに当たって、主に陸上砲台との交戦を想定して設計したもので、110mmの鉄板で強固に装甲されていましたが、最高速力が僅か10ノットという、いわば「浮き砲台」でした。
 記録に残っている世界初の航洋装甲艦は1859年にフランス海軍が進水させた長距離航行可能な装甲艦「ラ・グロワール号」で、排水量5,635トン、16センチ砲36門、舷側装甲120mmを持ち、速力は13ノットでした。

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              (世界最初の航洋装甲軍艦・フランスのラ・グロワール号)


 この装甲艦という点では、日本は西洋におよそ3世紀も先駆けていたということになります。
大和、武蔵など巨大戦艦を完成させた、いわば日本海軍の源流とでも言うべきでしょうか。。。



(273)神田明神縁起  

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       (273) 神田明神縁起   「11月5日」

 イメージ 5今から1080年ほど前、桓武天皇5代のちの平良将の子「平将門」は、
 下総国で兵を起こし忽ち関東八ヶ国を平定して、一大勢力を築きあげ自ら「平新皇」と称して政治の革新を図りました。天慶の乱・いわゆる「平将門の乱」と言われるものです。

 そこで京都の朝廷にとって大きな脅威となった将門を討つべく、朝廷は937年(承平七年)の今日、11月5日に平将門追捕の命令を下しました。

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 然し将門は追討使が到着する前に、従兄弟の平貞盛と藤原秀郷(*武家の元祖といわれている)の奇襲をうけ、陣頭に立って奮戦しましたが、馬上で憤死しました。享年38歳でした。

 将門軍ははじめ強い北風に乗って弓戦では有利に戦いましたが、勝ち誇った将門軍が自陣に引き返すとき、急に風向きが向かい風に変わり、馬の足並みも乱れて反撃してきた敵の弓矢が将門の頭に命中して、敢えなく討ち死にしてしまったのです。

                                                                将門の奮戦 →

 イメージ 2そして将門の首は京都に運ばれ、獄門にかけられました。今でも京都の東山にある「首塚」がその首を埋めたところと言われています。獄門とは「さらし首」の事で梟首とも言い、さらした首を乗せる台木には栴檀・センダンの木が使われました。とても固くて刃が立たず、燃やしてもくすぶってなかなか燃えないので、何の役にも立たない栴檀の木のたった一つの取り柄が獄門の木に使う事だそうです。平ノ将門がその獄門の第一号と言われています。

  ↑京都の将門塚

 ところが東国の人達にとってこの話はあまり面白くありません。そこで「将門の首は一旦京都に埋められたが、帰心やみがたく、その首が飛んでいって東国に戻ったという伝説」が生まれました。
 その伝説によれば、獄門にかけられた将門の首は、三日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちたそうです。そのとき、大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったそうで、村人は恐怖して塚を築いてその首を埋葬しました。

 イメージ 3こうして、京都とは別に江戸にも「首塚」が出来たのです。今は東京の首塚は千代田区大手町のビル街の真ん中にあり「将門塚」とも呼ばれて、「首塚」のまわり20mぐらいは、うっそうとした緑に囲まれてそのままに成って残されています。
 首塚の境内には所狭しとばかりに多くのの置物が奉納されていますが、これは将門の首が京都から江戸に飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、行方不明の者が帰ってくるためとか、左遷された社員がまた元の会社に帰ってくるようにと、念じて奉納したものです。
                                             ↑首塚の石碑

 また、昔からこの首塚に不敬の行為があると祟りがあると伝えられ、関東大震災の時に、首塚の上に仮庁舎を建てようとしたら、「大臣から省庁や工事関係者の間に相次いで多数の不審死が出たり」、隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」とか「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」と言うような噂が流れました。 

 

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                                                  (大手町の将門塚)
 
 江戸に将門の首が帰ってくると将門を神として祭るようになりました。江戸の最も有名な祭礼が行われる「神田明神」がそれです。つまり、将門は東国に戻って英雄になったわけです。神田とはカンダ・・からだ、体・・という意味で、将門の首がもう一度戦うために体が欲しいと言っている意味がこもっているそうです。

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                                                    (神田明神)

 維新後に、その神田明神に明治天皇が参詣されるようになると、神田っ子は強い抵抗を示しました。なにしろ将門の首を刎ねたのは、ほかならぬ天皇家でしたから。。これはけしからぬ・・と思いながらも拒否をするわけにもいかず、その年はミコシも出さず、ひそかな抵抗を試みました。

 そして翌年の神田明神の祭礼には激しい雷雨となり、これは将門の祟りだと、人々には受け止められたそうです。。
           

   ・・・・・       ・・・・・

*このところ毎日、爽やかな日本晴れが続いています。
おかげさまで佐賀インターナショナル・バルーンフェスタも今日で無事終わりそうです。
これまでは毎年のように出かけていましたが、もう行けません。何しろ5時起床で7時までに嘉瀬川河川敷の会場まで電車に乗って出かけねばなりませんから・・(10分ほどで着きますが・・)
 年寄りは寒さに弱いのです。。

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                             (コンニチワ!)


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                   (アンカー・ウーマン、大きいことはいいことだ!)


  

(274)チャイコフスキーとコレラ

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       (274) チャイコフスキーとコレラ   「11月6日」

 「コッホ」の細菌説に反対して「ペッテンコッファーがコレラの細菌を飲みましたが、ロシアの作曲家の「チャイコフスキー」も意図的にこれらの細菌を飲んだようです。


 イメージ 2「チャイコフスキー」は交響曲第六番「悲愴」を作曲し、それを1893年10月末にセント・ペテルスブルグで初演しましたが、その演奏の反響は極めて悪いものでした。聴衆の反応は芳しくなく、評論家のエドゥアルト・ハンスリックからは「悪臭を放つ音楽」と酷評されたりしました。

 その時彼は53歳で、ちょうど初老期うつ病にかかっていたので、この交響曲の不成功にがっかりして、その三日後に煮沸してない生水を飲みました。彼は観劇後の会食の時にイタリアン・レストランで周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだのです。当時コレラが大流行していましたから、水は必ず煮沸して飲むように、という警告が出て居たにもかかわらず、彼はそれを無視して生水を飲んだのです。

 そのためチャイコフスキーはコレラを発病して、その数日後の1893年11月6日に息を引き取りました。自分で感染の危険の高い生水を飲んだのですから、死の直後からこれは一種の自殺だという風評が絶えませんでした。

 ところで日本の長崎、佐賀地方の安政時代のコレラ禍は先日も書きましたが、江戸や四国などでも、このコレラについていろいろな記録が残っています。・・・

 〇 「安政のコレラ」

 イメージ 4コレラは古くから世界で流行を繰り返している病気で、日本でも江戸時代以降、何度も流行しています。昔は「虎列刺・コロリ」などの当て字の他、激しい下痢や嘔吐といった症状から「鉄砲」「見急」、また死に至るまでの早さから「トンコロリ」などとも呼ばれました。

  安政5年(1858年)、日本は2回目のコレラ流行上陸にみまわれました。5月に長崎に入港した米国船から発生したコレラは長崎、佐賀、広島、大阪と伝染していき、7月には江戸へ侵入しました。

    ↑安政コレラ流行挿絵

イメージ 5そのような混乱の中、医師の「緒方洪庵」はコレラに関する外国人医師の書物を翻訳して「虎狼痢治準」という一冊の本にまとめました。    →
                                

 安政6年には絵師の「歌川広景」はコレラにかかりやすい魚類とかかりにくい野菜類を擬人化して戦わせた「異類合戦図」という錦絵を描いています。 ↓


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                                          (青物・魚大合戦図)


 当時はコレラの治療法が確立していなかった時代なので、様々な民間療法や加持祈祷が行われました。幕末にはコルクを焼いて粉にしたものを飲むとコレラに効くということが民間薬法が新聞に取り上げられ、また、疫病退散のために鐘や太鼓をたたいたり狼煙(のろし)をあげて疫病神を追い出そうとしたりしていたようです。
 明治時代にはラムネがコレラ予防や治療に効くという話が広まり、生水よりも炭酸入りの飲料が安全だということで、ラムネの人気が上昇したようです。

 〇 コレラにラムネ

 イメージ 1安政五年から30年ばかりあとの、1986年(明治19年)にもコレラ(トンコロリ)が大流行した。この夏は酷暑に加えて晴天が続き、特に7月10日から8月28日までは長い晴天続きで、ラムネが売れに売れた。

 その上、当時の東京毎日新聞に「ガスを含有している飲料を用いると、恐るべきコレラに犯されない」という記事が掲載されて、売れ行きにいっそう拍車がかかり、ラムネ屋は毎日徹夜で製造しても間に合わない状態だったという。

   ↑    「懐かしいラムネ」

 木の栓抜きでポンとあけると、泡がじわーっと吹き出くる。
  子供たちはビンを割って中のガラス玉を取りだして、ビー玉にして遊んだものだ。。

 〇コレラにパイナップル

 学友の台湾人・楊(ヤン)さんは台南の出身だったが、彼の実家は大きなパイナップル園を経営していた。昔、コレラにはパイナップルの汁が効くと言う噂が出て、パイナップルが売れに売れて、お父さんの事業が成功したという話を聞いたことがある。
 コレラは激しい下痢と吐瀉で体の水分が失われるので、ラムネもパイナップルも水分の補給には良かったのかもしれない。

  〇安政の江戸のコレラ
 
 江州位田村の小杉甚左衛門の店に奉公していた「小杉元蔵」はその時22歳だったが、商いのため各地を回ってこの安政のコレラの流行ぶりを日記にしたためている。 以下は江戸のコレラについての記述・・・

 安政五年の江戸の夏は雨が多く、秋になっても快晴の日が少なかった。天候が冷気がちで、めまい、のぼせ、眼病、頭痛などで苦しむ者が多かった。そして七月末ごろから,芝の海岸、鉄砲洲、佃島あたりで悪い病気が流行り出した。駿河あたりから伝染したらしい。神田の名主・斎藤月欣の日記によると、このころは永大橋の上を一日に六つ、七つ、浅草御門を九つ、十ほどの葬礼が通るそうだ。八月半ばになると、この「トンコロリ」が江戸市中にはびこり、日に50から60の葬礼が近くの須田町を通るのを見ている。その後も疫病は衰えず日本橋の上を百あまりも葬礼が通ったという。

 将軍家定が亡くなって、町には「鳴り物禁止令」が触れ出されていたが、恐ろしいコロリを追い払うために、人々は鎮守の神輿をかつぎだし、街路に青竹をたててしめ縄を巡らせて提灯を連ね、中には節分のように豆を撒き、門松をたてる者まで出てきた。また、まじないに天狗の大うちわになぞらえて八つ手の葉を軒に吊るす者もあった。魚を食うと毒に当たって死ぬという噂が流れ、特にイワシは買う人も居なくなり、野菜や鶏卵の値段が高騰した。そして棺桶が間に合わず、お寺の混雑ぶりは言葉にならないほどであったという。

 八月一日から31日までに、名主の月欣が支配する六町でも70人余りが死に、江戸市中全体では一万2千人が死んだ。九月になると、江戸では下火になったが、俳人西馬、小説家・山東京伝、狂歌の五代緑亭川柳、浮世絵の安藤(歌川)広重、講談師の貞山、浄瑠璃の三世清元延寿太夫、三味線の杵屋六左衛門などの有名人がたくさん死んだ。  ・・・・

   ・・・    ・・・・・

 *今日もいい天気、昨日でバルーン大会も無事終了しました。他人ごとながらヤレヤレです。
   毎年80万人もの観客を集める佐賀のビッグイベントなので成功して貰いたいです。
   
何しろ雨が降ったりちょっと風が出ただけでバルーンはフライト出来ないのです。
朝7時から始まるので、もしバルーンが飛ばないとなると、寒い中を朝早くからやってきた見物人にはほんとにお気の毒様です。

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(275)鍵屋の辻の仇討ち

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      (275)  鍵屋の辻の仇討ち   「11月7日」

 イメージ 5「仇討ち」は封建時代の武家社会においては義務であり、また美徳でもありました。 古くは「曽我兄弟」の富士の裾野の仇討ちがあり、江戸時代には有名な「忠臣蔵」や堀部安兵衛の「高田の馬場」の仇討ちなどがあります。。

イメージ 6 また、1634年(寛永11年)の今日、11月7日には講談や映画でおなじみの荒木又衛門の36人切りがあります。これは伊賀上野の鍵屋の辻で行われた仇討ちでした。

    ←曽我兄弟
               赤穂四十七士→

   〇  「鍵屋の辻の決闘」 11月7日
 
 「鍵屋の辻の決闘」は、旧暦の寛永11年11月7日(16344年12月26日)に起こりました。これは渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である「河合又五郎」を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ちとった事件で、「伊賀越の仇討ち」とも言い、曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つになっています。
鍵屋の辻は、現在の三重県伊賀市小田町にあって伊勢街道と奈良街道の分岐点にあたり、現在は「鍵屋の辻史跡公園」となっています。

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   「あらまし」 

 寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主・池田忠雄が寵愛していた小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫りましたが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまいました。そして又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の「安藤次右衛門正珍」にかくまわれました。

 激怒した藩主「池田忠雄」は幕府に又五郎の引渡しを要求しましたが、安藤次右衛門は旗本仲間と結束してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまったのです。
 寛永9年(1632年)に、池田忠雄は疱瘡のため急死しましたが、よっほど無念だったのか、死ぬ前に又五郎を討つようにと、遺言しましたが、幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定します。

 しかし、源太夫の兄・「渡辺数馬」は、上意討ちとも取れる主君の遺言によって仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれ、数馬は仇討ちのために脱藩しました。しかし、剣術がまだ未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役「荒木又右衛門」に助太刀を頼みました。
 数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回って、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止めました。そこで又五郎は危険を察して再び江戸へ逃れようとします。

 数馬と又右衛門は、又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうことを知って、道中の伊賀越えの「鍵屋の辻」で待ち伏せすることにしました。


イメージ 2
                                               (数馬と又右エ門が待ち伏せした茶屋)



 又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役「河合甚左衛門」、妹婿で槍の名人の「桜井半兵衛」などが護衛に付き、総勢11人でした。一方の待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の僅か4人です。。
 11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通りかかった又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まりました。

イメージ 3

 まず、孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにしました。 
 又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せました。 次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒します。このとき武右衛門が斬られて命を落としました。
 頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失して逃げ出してしまい、逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれました。
 又五郎を倒すのは数馬の役目でしたが、二人とも剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺しました。

 イメージ 4講談などでは「荒木又右衛門の36人斬り」とよく言われますが、実際に又右衛門が斬ったのは2人でした。

  また、決闘場所の領主である津藩・藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、家来を密かに配置し、決闘が始まると周囲を封鎖して、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたとも言われています。この支援の理由は、この事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られています。

 見事、本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集め、特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びました。

↑尾上松之助の荒木又右エ門

 仇討ち後、数馬と又右衛門、孫右衛門の三名は、伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾しましたが、結局、3人は鳥取藩が引き取ることになりました。
 寛永15年(1638年)8月13日、三人は鳥取に到着しましたが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を発表しました。又右衛門の死があまりに突然なために、毒殺説などの様々な憶測がなされています。仇討ちと言う武士社会のしがらみに縛られた、英雄の末路でしょうか・・


(276)最後の仇討ち

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       (276)  「最後の仇討ち」

 ところで、この仇討ちは文明開化の維新後は禁止されましたが、本格的な最後の仇討ちとして記録されているのは、1880年(明治13年)秋に起こった「一瀬直久判事殺害事件」です。

 イメージ 1犯人・臼井六郎の父・臼井亘理は筑前(福岡)秋月藩士で幕末の動乱期に藩政改革に乗り出して活躍していましたが、それを快く思わない者も多数いました。明治元年五月,亘理が自宅で酒宴を開いているとき何者かが臼井家に押し入り、亘理と妻の八重子を殺害し、3歳の娘「つゆ」にも手傷を負わせました。
 このとき、亘理は42歳、八重子は37歳でした。難を逃れた息子の六郎はまだ10歳でしたが、その有様を見て親の仇を討つことを固く決心しました。
 ↑ 臼井六郎の生家・今は畑に。。

 然し悲しいことに、両親を殺した下手人が誰であるか、幼い六郎にはわかりません。その後彼は苦心惨憺して犯人を探索、19歳の時、ついに犯人が尊王攘夷派の「干城隊」の一味であることがわかり、その隊員の一人「一瀬直久」の弟が藩校の学友に「兄が伝家の名刀で亘理を斬った」と自慢しているのを聞き、親の仇を知った六郎は直久を討つべく、山岡鉄舟宅に住み込みの内弟子として世話になって、一心に撃剣を学びながら仇討ちの機会を待ちました。

イメージ 3
                                             (福岡県・秋月城址)


 一方、一瀬の方は新政府で栄達の道を進み、判事職として東京、名古屋、甲府と各裁判所を転々とした後、東京上等裁判所に戻ってきました。六郎はその動静を刻々と追いながら、仇討ちの機会をうかがっていました。とはいえ、判事ともなればめったに一人で居ることはありません。仕損じないためには、一瀬が単独でいる所を見つけなければならないので、六郎は辛抱強くチャンスを狙っていました。やがて、一瀬がしばしば京橋の元秋月藩主の黒田長徳宅へ碁を打ちに出掛けるのを知りました。

 そして1880年(明治13年)12月17日、ついにチャンス到来、一ノ瀬が一人で三十間堀3丁目10番地(現・銀座六丁目付近)の黒田邸に手紙を渡しに向かったのを知り、これを好機として六郎は一瀬を追い、黒田邸から戻ってくるところを六郎は「親の仇」と声をかけて襲いかかりました。
 一瀬は逃げましたが、六郎は一瀬の襟もとをつかみ、父の形見の短刀を引き抜いて、首を一突き、胸もとを一突き、さらに直久を組み伏せて刺し続けました。一瀬の息が絶えると六郎は血まみれの羽織を脱ぎ捨てて、短刀を手にしたまま人力車に乗って警察に自首して出ました。

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                                                (臼井六郎・裁判資料)


 この事件は世間を驚かせ、本や講談、芝居にもなるなど世論は六郎に同情的でした。昔なら親の恨みを果たしたとして、社会の喝采を受けるところでしたが、すでに時代は変わり、しかも相手が現職の判事職とあれば状況は極めてわるく、悪びれずに自首した六郎でしたが、裁判の結果「終身刑」を言い渡されました。そして10年後の明治23年の帝国憲法発布の恩赦によって出獄が許されました。

 釈放時、六郎は32歳でしたが、その後明治38年に48歳で28歳の「いゑ」と結婚、門司駅前で義理の叔父が経営する八坂運送店の隣で饅頭屋を営みました。その後、叔父の計らいで佐賀県鳥栖の駅前に「八角亭(やすみてい)」という有料の鉄道待合所を設けて、それからは平安に暮らしています。
 その後、六郎は病気にかかって、1917年(大正6年)60歳で死亡、墓は故郷の秋月の両親の墓の横に並んで建てられました。また妻の「いゑ」は六郎の死後、佐賀県唐津に移り住んでいましたが、昭和20年に唐津で病死しています。

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                                          (故郷の秋月に眠る・臼井六郎の墓)


 復讐を動機とした犯罪はその後も絶えることはありませんでしたが、この白井六郎対一瀬直久の仇討ちが武士道最後の仇討ちとなったのです。江戸時代であれば武士の誉れと称えられた仇討ちが、時代の変化によって断罪されるという、明治維新という大変革の渦に翻弄された事件として、当時の世間を大いに賑わせた最後の仇討ちだったのです。

    ・・・・・・              ・・・・・・
 
 *昨日までの晴天続きとは打って変わって朝から小雨模様、
   雨が上がればきっと寒くなるでしょう。
   今年は紅葉が遅く、色づきも今一つ・・
   季節の変わり目、皆さんも体調に充分ご注意ください。

イメージ 5

                                          (かゆいところに手がとどく??)


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