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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満12年、みなさんのおかげで来訪者も43万名を越えました。 1月3日で93歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「93歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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              (139) 「ナポレオンの右手」 6月18日

     イメージ 1フランス皇帝「ナポレオン1世」の肖像画を見ると、何時も右手を上着の中に入れていますが、これにはいろいろな説があって、坂本龍馬の銅像の右手と同じく一種の謎になっています。竜馬は懐にピストルをしのばせている、と言われていますがナポレオンの右手はどうでしょうか。。

      ①単なるポーズ
      ②いつもの癖
      ③彼は皮膚病の疥癬にかかっていた
      ④彼は胃痛持ちだった


    などいろいろな説がありますが、これは本人にしか分からないかもしれませんね。横光利一の小説には「ナポレオンと田虫」と言う作品がありますが、一世の英雄ナポレオンがタムシがかゆくて、ボリボリ掻いていたとは、あまり様になりませんね。

     イメージ 3・・・ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗(しょうけつ)を極(きわ)めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
     ナポレオンの田虫は頑癬(がんせん)の一種であった。それはあらゆる皮膚病の中で、最も頑強な痒さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻けば花弁を踏みにじったような汁が出た。
    乾けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹性の白癬は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。・・・ (横光利一)

     などと、小説家は如何にもナポレオンの腹を見てきたかのように書いています。。
      →ナポレオンのアルプス越え・・おや、なーんだ、ここでは右手が出ていますねー?


     胃痛持ち だったという説では、ナポレオンの肖像画を見ると、いつも片手を上着の中に入れて、ちょうど胃のあたりを抑えています。これは彼が胃潰瘍を患っていて、痛む胃を抑えて居たからだ、という説があります。

     事実、ナポレオンの胃潰瘍は相当重症で、そのために便秘がひどくなり、さらに彼の痔を悪化させることになりました。痔が悪いので彼は馬にまたがるのが大変苦痛になって居ました。
     特に1815年6月18日の ワーテルローの戦い の前にはその痔の症状がひどく、そのため戦闘の開始が2時間ほど遅れました。

     この戦いはベルギー(当時はオランダ領)のワーテルロー近郊でイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世の率いるフランス軍との間で行われたのですが、フランス軍が敗退しナポレオン最後の戦争になりました。これは胃潰瘍のためと言うよりも、一軍を任せていたエマニェル・ド・グルシー元帥との連携に失敗したり、天候の都合で攻撃開始を2時間遅らせたことが裏目に出て、敵の勢力の結集を許してしまったのも敗因の一つになっています。

     
    イメージ 2
    (ワーテルローの戦い)

     
     この2時間の間にイギリス軍は戦線を整備することが出来たので、ナポレオンのフランス軍は敗北したのですから、この2時間は軍事的にはまさしく決定的な2時間で、もしフランス軍がこのチャンスを逃していなければ、勝利はフランス軍の方に上がっただろうと言われています。
     要するにワーテルローの戦いの勝敗を決したのはナポレオンの胃潰瘍にあったと、言うことにもなりますし、その後のヨーロッパの歴史をも変えた戦いだったのです。

     退位したナポレオン一世はイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの島で亡くなりました。・・・


                ・・・・・





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            (140) 「フォークの起源」  6月19日
     
     もともと フォーク とは、又に分かれている物を言いますが、フォークにもいろいろあります。
    農業用のフォークは、麦わらや飼料などをかき集めたりする物ですが、食器のフォーク、輸送用のフォークリフト、自転車のフォーク、社交ダンスのフォークダンス、さらには野球の投手の球種の一つ、フォークボールなどなど・・

     食器のフォークは、食べ物が動かないように押さえたり、食べ物を突き刺して口へ運んだりするための食器ですが、この食器のフォークを使い始めたのはいつの事でしょうか。

    イメージ 1


      イメージ 2 イギリスのジェームス一世(1566年6月19日没)はイギリス王室の中で初めてフォークを使った人物として記録されています。それまでの食事の仕方は手づかみだったのですね。16世紀後半の安土、桃山時代に日本で布教していたイエジス会の宣教師ルイス・フロイスは、「日本人は箸を使うが、ヨーロッパ人は手づかみで食べる」、と書いています。

     尤も、歴史的には11世紀にピザンチン帝国のコンスタンチン・デュカ皇帝の王妃が黄金製のフォークを使っていたそうですし、地中海地方の上流階級ではフォークが普及していたようですが、イギリスのような辺境地帯ではなかなか移入されませんでした。イギリスでのフォークの輸入は1608年、作家の「トマス・コライヤット」が大陸から持ってきたものだと、言われています。


     彼はこの新しい食器を自慢して見せびらかしていましたが、イギリス人は大して興味を示しません。その上、イギリス人はフォークを女性的な装飾品と考えていたので、フォークを使うのは女々しいことだとして「ジョナサン・スウィフト」などは「フォークより手の方が古い」と言う皮肉な警句まで残しています。

     イメージ 3またイギリスではナイフとフォークを夫々一本づつセットにしたものは、イギリスでは新婚の花嫁に贈られることがしばしばで、それは必ずしも実用には結びつかなかったのです。

     ちなみに、アメリカに初めてフォークが渡来したのは1630年のことで、政治家の「J・ウィンスロップ」がイギリスから持ってきています。
    また、フォークやナイフ、スプーンをきっちりと並べて面倒なテーブルマナーを作ったのは、ルイ王朝時代のフランスでした。

     イメージ 4フォークは始めは2本刃で、食物をえり分けるために使われていましたが、1770年代にナポリ国王の「フェルナンデス4世」 → が、毎日宮廷の食事にスパゲッテイを出すことを命じました。

     しかしスパゲッテイを手つかみで食べると、頭の上にかざして下から口ですする、と言う貴族に取ってはまことに見苦しものになるので、賓客に上品に食べてもらうために料理長に命じて、その2本刃のフォークの刃を短くして4本刃にして使ったのが4本刃の初めだそうです。これでうまくスパゲッティが絡められるようになったというわけですね。

     フォークには遠い思い出でがあります。
     結婚前に、当時田舎では珍しかったレストランでお見合いをしました。

     フランス料理だったか、なんだか覚えませんが、要するに初めて食べる洋食だったので、どちらも堅くなって、話に聞いていたテーブルマナー通りにかしこまって食べていたら、緊張し過ぎたのか、家内がフォークを落としてしまい、慌ててそれを自分で拾いあげました。マナーでは物を落とした時は、自分で拾わずにボーイさんを呼んで拾ってもらうのが正式ですが、知ってか知らずか・・

     恥ずかしそうにうつむていた家内と、その後一緒にささやかな洋食を食べたのは何度だったかなぁ。。 そうそう、幼馴染の医者がゴルフでホールインワンをした時、おごって貰ったフランス料理のフルコースが一番豪華だった。 
     なんといっても タダメシ はいつもうまいものです。。 (^_-)-☆


            ・・・・・


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         (141)    「日本映画の誕生」  6月20日

     イメージ 1最近はテレビやゲームなどの新しい娯楽に押されて映画界もやや沈滞気味ですが、戦前、戦後の娯楽と言えばまず映画が第一でした。

     紫蘭も子供のころから映画大好きで母から貰った小遣いの十銭玉を握り締めて、わくわくしながらよく見に出かけたものです。おもちゃ屋で売っていた手動の活動写真機で、子供たちが集まって、古いフィルムの切れ端の映画を見るのも楽しみでした。窓には毛布を掛けて暗くし、ハダカ電球を光源にして、白壁に向かって鞍馬天狗などのチャンバラ映画を映写するのです。
         ← 活動写真機 


    イメージ 4
                                                 (ルミエールのシネマグラフ)


     イメージ 2この映画と言うのは昔は活動大写真と言っていました。映画を見に行く、じゃなくて「活動を見に行く」でした。この活動写真はもともと、フランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」が1895年12月にパリのグラン・カフェの地下サロン「インドの間」で公開されたのが初めてです。

     この映画は単にリュミエールが経営する工場の工員たちが、一日の仕事を終えて退社する模様を写しただけの何の変哲もないものでしたが、これが世界で初めて動く写真が写されたのです。

      この日の観客は僅か35名でしたが、この35名が世界で始めて映画を見たのはこの35名だったのです。

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                                                  (工場を出る社員たち)


     ところでこの映画が日本に初めて登場したのはいつの事でしょうか。
    1899年(明治32年)、興行師の「駒田好洋」は小西写真店からフランス製の映画カメラ (当時は、活劇連撮用追写機械と言いました)を買い入れ、新橋の料亭「花月」の座敷を借り切って、おえん、小いな、おえつ、と言う三人の芸者の日本舞踊「鶴亀」を撮影しました。ところが室内で撮ったので照明不足で、やむを得ず裏庭に板や畳を持ち出して太陽光線の下でまた撮り直しています。


     イメージ 5新橋の撮影が済むと今度は柳橋で「松づくし」を、次は芳町で「かっぽれ」をと言う風に、芸者の踊りを専門に一巻70フイートを撮りつくしました。これに加えて東京の銀座、浅草などの実写風景、さらに祇園の芸妓の舞踊など種々雑多のフイルムを寄せ集めて、これを1899年(明治32年)6月20日に木挽町の歌舞伎座で映写しました。

      巡業隊を率いて全国を回った駒田は、フロックコート姿で舞台に現れて「頗る非常」という言葉を繰り返し使って、始めて映画を見る人々の好奇心を誘いました。

     

     駒田の会社は「日本率先活動写真会」と言うたいそうな名前でしたが、その実態は会社は駒田一人がやっていて、カメラは買ったものの撮影は小西写真機店の店員浅野四郎が回す、といったにわか仕立ての映画製作でした。しかし、世間ではなかなかの評判で、特に被写体になった芸妓たちがこれを宣伝材料として、駒田を訪れて撮影を依頼するようになりました。赤坂や富士見町の芸者たちが我も我もと申し込むようになって、駒田は彼女たちの間でいつのまにか「お広目屋」と言うことになっていました。
     これが映画の先駆けとなって団十郎・菊五郎の「紅葉狩り栄三郎・家橘の「二人道成寺」が同じ年の秋に公開され、これらが日本映画の第一号と言うことになったのです。

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                                             (日本最古の映画・紅葉狩・1899年)

     
     ところでこの年の暮れに土屋常吉と言う人物がアメリカから帰ってきました。彼はその6年前に開かれたシカゴ万博の日本館建築に携わった大工さんでしたが、アメリカの科学文明に惹かれてそのままアメリカに居残って映画の撮影技術を勉強してきたのでした。
     そればかりではなく彼はルービン社製の映画カメラを持ち帰ったのです。このカメラは駒田の使ったカメラの3倍の長さのフィルムを入れることが出来ました。ちょうどその頃、駒田は芸者の踊りで大成功しています。土屋はせっかく新しいカメラと技術を持ち帰ったのですから、駒田を好敵手として映画製作に取かかりました。

     土屋は滞米中にボクシングが人気で客層が広いのを知っていたので、それにヒントを得て相撲の映画を作ってみよう、と考えました。始めは両国の回向院での大相撲を写してみましたが、これは光線量の不足で失敗。そこで今度は支度部屋で、黒幕を背景にして力士に相撲を取らせました。
     この映画は翌1900年4月にまず大阪で上映し、次いで京都、東京でも同じ映画を披露しました。駒田の映画の入場料は一等席50銭、それに対して土屋の方は一等席が一円と倍の料金を取りましたが、連日の満員で大成功を収めました。

     
      イメージ 7日本における劇映画の第1作は、やはりこの年に広目屋が製作した「稲妻強盗捕縛の場」でした。撮影は柴田常吉でこの映画は関東地方を荒らしまわった強盗の実話に基づいて、その逮捕の状況をドラマにしたもので、新演劇の俳優・横山運平が刑事に扮して出演しました。これが日本における劇映画第1号であり、←横山運平は映画俳優第1号と言うことになります。


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                                          (1915年、怪鼠伝・尾上松之助)

     かくして、新しい20世紀の夜明けに、この「活動大写真・映画」と言う新しい娯楽が花開いたのでした。戦前の活動写真は庶民の唯一の娯楽、盆・正月の休みには住み込みの小僧さんや女中さんで映画館ははち切れんばかりにあふれていましたが、今やテレビに押されて閑古鳥が鳴いています。
    映画誕生から早や一世紀、今更ながら今昔の感に堪えません。

     戦争末期は映画どころではなく、こんな映画↓ があったとはちっとも知りませんでした。。

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                                        (1945年、昭和20年・勝利の日まで)


               ・・・・・・

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         (142) 「バチカンの禁書」  6月21日

     イメージ 1戦前はもちろんですが、戦後もしばらくは書物の発売禁止がありました。
     いわゆる発禁です。

    戦時中の発禁ははマルクスの資本論とか、左翼系の本が多かったですが、戦後は風俗壊乱の書物が多くなりました。永井荷風の「四畳半襖の下張り」とか、「チャタレー夫人の恋人」などです。戦後、発禁になる前の頃、このチャタレー夫を読みたかったのですが、何しろまだ純情な若者でして、本屋に買いに行くのが恥ずかしくて困っていたところ、知り合いの銀行のオジサンが買ってきてくれました。サービスのつもりだったのでしょう。

     今読んでみると何のことはない内容で、最近の性風俗の乱れから見ると、とても考えられないような、なんとも子供じみた取り締まりでしたが。。

     イメージ 6ところでカソリック教会には、昔から発禁本と言うよりも、読んではいけない「禁書目録」がありました。
     今のような活字による印刷技術を発明したのは、1439年頃のドイツの「ヨハネス・グーデンベルグ」ですが、それからおよそ一世紀あとの1557年にローマの教皇パウルス4世時代のカソリック教会は、その宗教的観点から好ましくないと思われる書物の目録を公表しました。
     この「禁書目録」は1948年の第32版まで作成され、4000の書籍がやり玉に挙がっています。その理由はさまざまで、反カトリック的、不道徳、性的放埓、政治的偏向、魔術書などの危険な文化などでした。
                                                                                                                 ↑グーデンベルグ


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                                                       (禁書目録)


     禁書目録が公式に廃止されたのは1966年の6月14日で、勿論出版の自由がありますから、バチカンの禁断の書と言っても、何ら法的には拘束力を持つわけではありませんが、カソリックの信徒はこのリストに載った本は読んではいけない、と言うことになっています。

     イメージ 3これまでこの禁書令に引っかかった作品の主なものを見てみると、スタンダールの恋愛小説、ユゴー「レ・ミゼラブル」フローベルの「ポヴァリー夫人」バルザックやデュマの恋愛小説、などがあり、ノンフィクションではホップス、デカルト、ベイコンなどの哲学書は全部ダメ。

     モンテーニュの「随想録」 ジョンロックの「人間悟性論」 カントの「純粋理性論」 ミルの「政治経済学論」などみんないけません。「クローチェ」もダメなら「パスカル」も「ベルグソン」も駄目と言う風に、岩波文庫の名著の中のかなりの部分が不合格になっているのです。
     ↑ ユゴー

       イメージ 4ただし、ショーペンハウアー(*自殺について)やキルケゴール(*死に至る病)の著作が禁書目録に載っていない理由は、彼らが無神論者とみなされているからだそうです。クリスチャンでもないシランはもちろん読んでも良いわけなのに勉強不足で、小説の他はほとんど読んでいません。 トホホー

     1966年以降はバチカンではこのリストを公開することを止め、専ら内部資料として残していますが、それまでは、自作がこのリストに載せられるのは著作家にとっては致命的な意味を持っていました。

     「ボッカチオ」はその「デカメロン」がバチカンの禁書になったのを知ると慌てて書き直し、そこに登場する牧師や尼僧をことごとく平凡で世俗的な男女に変更して、バチカンに許しを乞うて許されたそうです。

     最近の新しい所では1948年の禁書リストに、J・F・サルトル1905年6月21日生まれ)の全著作を読んではならぬ、と記録されていますが、勿論、無神論的実存主義のサルトルは、宗教を否定している共産主義を容認していたので、そんな禁書目録などを気にするような人物ではなかったのです。

     
    イメージ 5

                                           (毛沢東主義の新聞を配るサルトル)

        ・・・・・

    夜来の久しぶりの雨も上がり、少し薄日が漏れてきました。
      梅雨前線が南に下がったせいか、北風が爽やかに感じます。
     
     麦刈りが住んで、九州ではようやく田植えが始まりました。
     田園都市の佐賀地方は、水の入った田んぼには淡い緑のじゅうたんが広がっています。
     昔なら早乙女たちの赤いお腰が目立つんですが、今は色気のない田植え機械ばかり。。

    イメージ 7
     
                       
                                    風流の 初めや おくの 田植えうた     芭蕉


                     /////



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             (143)   「浴衣の始まり」    6月22日

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                              (戦前の姫路城・昭和11年)
     
     今日、6月22日から三日間、姫路市では「浴衣まつり」が開かれます。この姫路ゆかた祭りは、約260年前に姫路城の守り神である「長壁神社(おさかべじんじゃ)」が始まりだとされるお祭りです。


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                                                    (姫路・浴衣まつり)

     江戸時代、吉宗将軍の時に姫路藩の第3代藩主「榊原政岑・まさみね」が、吉宗が出した倹約令を無視して贅沢三昧、奇抜な服装で江戸城大手門を警備したり、吉原で派手に遊興に耽り、名妓・高尾太夫を1800両で身請けするなど奢侈を好んだので、世間では風流大名とか好色大名と言われていました。このため政岑は越後に転封となり、その前に政岑は長壁神社を移して夏至の6月22日にその遷座祭を行いました。

    イメージ 5 しかし、そのお祭りが急に始まることが決まって、式服を作る暇もなかったので、庶民でも簡単に着れる「ゆかた」を着て参拝するのを政岑が認めたことから「ゆかた祭り」と呼ばれるようになったそうです。

     では、そもそも浴衣の起源は何でしょうか。

     室町時代までの日本人は風呂に入るとき裸では入りませんでした。
    湯帷子(ゆかたびら)と言う麻製の入浴衣を着て入っていたのです。それがハダカになったのは18世紀ごろで、こんにちでも風呂に人いる時は手ぬぐいを持って入りますが、江戸期まではこの手拭いを「身拭い」と言って体をかくすための布と言う機能を持っていました。 
     極小ではありますが、いわば湯帷子の延長ともいえるものでした。

     
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                                                            (湯帷子)



    イメージ 6 ところがこの湯帷子は手拭いとは別の展開を見せました。
    入浴中には着ませんが、湯上り後に羽織る衣料が現れたのです。それが「浴衣・ゆかた」だったのです。

     江戸期にはもう木綿が登場していて、木綿は吸収性がよく湯上りにはきわめて適切な衣料でした。浴衣は始めのうちは湯帷子の伝統通り白無地に決まっていましたが、のちには様々な模様や柄・がらが染められるようになったのです。


      特に、幕府の度々の贅沢禁止令によって絹を着てはいけないという事になると、浴衣に大柄な図柄を使ってこの禁令に反抗したり、うっぷんを晴らしたりしたのです。


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                                               (江戸時代の入浴風景)


     しかし浴衣はあくまでも浴場用の着物で、街頭に浴衣姿で出るなどはもってのほか・・と言うのが当時の慣例でしたが、それが今のように堂々と夏の街着になったのは明治になってからの事でした。

            ・・・・・


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           (144) 「仕立て屋銀次の逮捕」  6月23日

     今頃はあまり掏摸(スリ)と言う言葉は聞きませんね。昔は電車に乗っても痴漢などはほとんど居なくて、スリの方が多かったです。掏摸の掏は体を擦りつけることで、摸は手探りするという意味なので、要するに人ごみに紛れて他人の懐からこっそりと財布などを抜き取るという事ですが、最近はこっそりどころか、堂々と強引に、かっぱらっていきますね。


    イメージ 5 ところで、そのスリの大親分 「仕立て屋銀次」 が明治42年6月23日に逮捕されました。

      彼の配下には250人の子分が居て、専属の弁護士も数名抱えていました。盗品の故買を生計として、東京、下谷の金杉に大邸宅を建て、常々、「警察には十分鼻薬を利かせているから、俺が逮捕されることなどあり得ない」と豪語していました。

     ← 銀次はほかに貸長屋を50~60軒持っていて、家賃収入だけでも月に100円から200円の収入があり、資産は50,000円を超えていたそうです。


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                                                     (仕立て屋銀次の子分たち)
     

      銀次たちの専門は主に東海道線、山陽本線の汽車の中で稼ぐ「箱師」で、手下たちを紳士風に装わせてスリを働かせてその上前をはねるほか、質屋を営んでそこで盗品もさばいたのです。

     逮捕された銀次は懲役10年の判決を受けて服役しましたが、1930年(昭和5年)に新宿三越で時価70円相当の反物を万引して再び捕まっています。ただし、この時は不起訴となっています。
     銀次が逮捕されたとき押収された盗品の山は、時計、指輪、財布、カバンなど荷車2台分もあったそうです。当時はスリの被害が多かっただけに人びとは「警察もなかなかいいことをする」と喜びました。

      
    イメージ 1
                                                              (当品の山)



      イメージ 2人々のこんな支持に気をよくした警察は、明治44年1月、かねてから明治政府の仇敵とみなされていた社会主義者の「幸徳秋水」一派を明治天皇暗殺計画と言う罪名をでっち上げて一網打尽に逮捕し、スピード裁判で12名を死刑にしました。いわゆる「大逆事件」と言われるものです。

      ← 幸徳秋水





    イメージ 3
                                                   (明治44年、朝日新聞記事)


      大逆事件は銀次逮捕から約一年後の事で、仕立て屋銀次は当時の警察の人気取りに利用されたのではないかと、人々に勘繰られることになったのです。

                ・・・・・





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         (145) 「沖縄戦の終結」  6月23日 

     昨日、6月23日は沖縄の日でしたね。72年前の今日、沖縄方面最高司令官の牛島満中将が摩文仁の丘の洞窟内で自決し、沖縄の日本軍の組織的な抵抗が終わりを告げました。沖縄戦は大本営にとって本土決戦の捨石であり、切り捨てられた沖縄守備軍と沖縄住民の犠牲は今次戦争においては際立ったものでした。

    イメージ 2
                                                      ( S・20年6月5日の新聞記事)

        ・・・
      〇「沖縄の悲劇」
      
      昭和19年7月のサイパンの占領から、連合軍はインドネシアを飛び越してフィリッピンへと向かった。いわゆる蛙飛び戦法である。無用な犠牲と出血を避けて、蛙のようにぴょんぴょんと跳び越してくるのである。そして、レイテ沖海戦の神風特攻隊はじめ、激烈な日本陸海軍の抵抗を排除して、フィリッピンをほぼ平定した昭和19年3月、アメリカ軍は日本本土攻撃の足がかりとして、次の目標を沖縄に決めた。
    イメージ 1
    (太平洋戦争・概略図)


     ところが、日本軍はアメリカの次の目標は台湾だとばかり思っていたので、その沖縄から最精鋭の第9師団を引き抜いて台湾に送り込んでしまった。当時の沖縄の日本軍兵力は約6万7000、対するアメリカの上陸軍は約18万3000の大兵力で、日本軍を攻撃してきた。その上、太平洋艦隊も加わり、その陸・海・空軍の兵力はまさに空前の規模だったという。

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                                         (上陸するアメリカ軍)

     イメージ 13昭和20年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、あの悲惨な戦闘が始まったのだ。あれからもう72年が過ぎ、平和な日本の人々の記憶から薄れつつある。今や、沖縄には、珊瑚と青い海に憧れて多くの人々が集まり、若い男女がサーフィンやダイビングをして青春を謳歌し、繁華街のみやげ物店には観光客があふれているが、洞窟内の戦場跡を訪れる人は少ないようである。
      
     私が復帰前の沖縄を訪れたころ、ひめゆりの塔付近では、花束を買ってもらおうと、粗末な服装の地元民が観光バスの窓に群がっていた光景を思い出す。あれからもう60年、沖縄もすっかり変わって戦争の傷跡も少なくなった今、あの悲惨な戦いの後を振返ってみるのもあながち甲斐なき事でもあるまい。
     
     ↑ 沖縄難民の少年


       〇 「沖縄の戦い」
      
      沖縄本島の中ほどの北谷(ちゃたん)の近くに「北谷の浜」がある。
     1945年4月1日の朝、沖縄西方から押し寄せたおびただしいアメリカ艦艇から数百の上陸用舟艇がこの「北谷の浜」に向かってまっしぐらに進攻を開始した。

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                                                     (夥しい上陸用舟艇の群れ)


     イメージ 14日本軍はどうしたわけか、米軍の上陸地点はもう少し南の、那覇に近い浦添の海岸に違いないと決めていたようで、防備はほとんどこの浦添に集中されていた。米軍は迎撃する日本軍の手薄さに却って何か作戦があるのではないかと危ぶみながら、一挙に上陸を敢行したという。

      実は、沖縄守備軍の第32軍司令官であった牛島満中将は、日米の戦力差を考えて、水際での邀撃作戦をあきらめ、「洞窟」を陣地としての持久作戦を採ったのである。本土決戦をいささかでも遅らせようという持久作戦であった。

     そこで、沖縄住民の成人はもちろん、中学生、女子生徒も戦力になりそうな者はみな「義勇隊」として軍に協力させることになった。それはまた、この洞窟という最後の陣地のそとに、「老人子供を見捨てた」という事にもなる。
                                                                                                           ↑捕虜になった日本軍少年兵


      
      イメージ 320年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸したが、守備軍は初めから海岸線で戦う意思がなかったので、いわば米軍の無血上陸であった。大本営はこれを怒って、強く出撃を命令し、4月12,13日にわたる総攻撃が行われたが、これは失敗に終わった。ついで、5月4日に、これが最後という総攻撃をかけたが、圧倒的な米軍の火力の前に、これまた失敗に終わってしまった。


       ↑戦艦大和の最後

     イメージ 10すでに巨大戦艦「武蔵」を19年10月24日のレイテ沖海戦で失い、敗色濃い日本連合艦隊は昭和20年4月6日、連合艦隊旗艦「大和」を8隻の駆逐艦とともに片道燃料で沖縄へ出撃させたが、米海軍の艦上機延べ1000機の波状攻撃によって、乗員3000名とともに九州西方海上で轟沈されてしまった。
     
     アメリカ軍が上陸してからの2ヶ月間は、沖縄は血と硝煙で煮え立った地獄の島であった。山は裂け、谷は吹っ飛び、すべての物は焼けただれ、止むことのない砲爆撃の轟音と地響きの中に、戦争という悪魔が狂い回ったのである。

      この小さい島の中で、1万2千人を越える米軍の戦死者を含めて、なんと20数万の人間が阿鼻叫喚の地獄の中でのたうち廻って死んでいった。


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                                                    (攻撃する米軍兵士)

     最もすさまじい悪魔の日々は、6月中旬から下旬にかけてであった。
     5月下旬に首里の日本軍が南に向けて退却を始めてからは、軍司令部は摩文仁(まぶに)という小部落に移り、日本軍は北側から攻め寄せる米軍にじりじりと押されて、島の南端まで追い詰められてしまった。友人の一人は、この時負傷して断崖から転落、浜辺に倒れているところを米軍に助けられた。同期の戦友では彼ひとりが助かって生還したのである。

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                                                  (米軍のM4中戦車)


     この時、ともに散ったのが沖縄県立第一高女と沖縄女子師範の生徒・職員たちである。彼女たちは、みな従軍看護婦として野戦病院に勤務し、軍と行動を共にしていた。最後に糸満市伊原の洞窟に立てこもり、みんな自決して果てた。その数、158名といわれている。
     これらの職員生徒らを「ひめゆり部隊」と呼び、それが合祀されて建てられたのが「ひめゆりの塔」である。ひめゆりとは、沖縄第一高女の校章「乙姫」と女子師範の校章「白百合」を合わせて、「ひめゆりの塔」と名づけられたという。

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                                                            (ひめゆりの塔)
     
     かくて6月23日、牛島司令官は摩文仁の丘の洞窟内で自決して、日本軍の組織的戦闘が終わった。牛島司令官の辞世の歌が当時の自分の日記に載っている。
       
     イメージ 12 ○ 「昭和20年6月24日」  の日記に・・
     
      特攻隊、何たる世紀の悲壮ぞ!
       6月20日、沖縄最後の突撃決行!
     
                   沖縄方面軍司令官・牛島満 中将 の「辞世」
        
                    秋を待たで枯れゆく島の青草は
                    皇国(みくに)の春によみがえらなむ

        

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                                       (牛島司令官と長参謀長の墓標)


         
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                                         (戦死した友人の跡をたずねて・・K君)   




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