Quantcast
Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
Viewing all 1820 articles
Browse latest View live

(139)ナポレオンの右手

$
0
0
          (139) 「ナポレオンの右手」 6月18日

 イメージ 1フランス皇帝「ナポレオン1世」の肖像画を見ると、何時も右手を上着の中に入れていますが、これにはいろいろな説があって、坂本龍馬の銅像の右手と同じく一種の謎になっています。竜馬は懐にピストルをしのばせている、と言われていますがナポレオンの右手はどうでしょうか。。

  ①単なるポーズ
  ②いつもの癖
  ③彼は皮膚病の疥癬にかかっていた
  ④彼は胃痛持ちだった


などいろいろな説がありますが、これは本人にしか分からないかもしれませんね。横光利一の小説には「ナポレオンと田虫」と言う作品がありますが、一世の英雄ナポレオンがタムシがかゆくて、ボリボリ掻いていたとは、あまり様になりませんね。

 イメージ 3・・・ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗(しょうけつ)を極(きわ)めていた。この事実を知っていたものは貞淑無二な彼の前皇后ジョセフィヌただ一人であった。
 ナポレオンの田虫は頑癬(がんせん)の一種であった。それはあらゆる皮膚病の中で、最も頑強な痒さを与えて輪郭的に拡がる性質をもっていた。掻けば花弁を踏みにじったような汁が出た。
乾けば素焼のように素朴な白色を現した。だが、その表面に一度爪が当ったときは、この湿疹性の白癬は、全図を拡げて猛然と活動を開始した。・・・ (横光利一)

 などと、小説家は如何にもナポレオンの腹を見てきたかのように書いています。。
  →ナポレオンのアルプス越え・・おや、なーんだ、ここでは右手が出ていますねー?


 胃痛持ち だったという説では、ナポレオンの肖像画を見ると、いつも片手を上着の中に入れて、ちょうど胃のあたりを抑えています。これは彼が胃潰瘍を患っていて、痛む胃を抑えて居たからだ、という説があります。

 事実、ナポレオンの胃潰瘍は相当重症で、そのために便秘がひどくなり、さらに彼の痔を悪化させることになりました。痔が悪いので彼は馬にまたがるのが大変苦痛になって居ました。
 特に1815年6月18日の ワーテルローの戦い の前にはその痔の症状がひどく、そのため戦闘の開始が2時間ほど遅れました。

 この戦いはベルギー(当時はオランダ領)のワーテルロー近郊でイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世の率いるフランス軍との間で行われたのですが、フランス軍が敗退しナポレオン最後の戦争になりました。これは胃潰瘍のためと言うよりも、一軍を任せていたエマニェル・ド・グルシー元帥との連携に失敗したり、天候の都合で攻撃開始を2時間遅らせたことが裏目に出て、敵の勢力の結集を許してしまったのも敗因の一つになっています。

 
イメージ 2
(ワーテルローの戦い)

 
 この2時間の間にイギリス軍は戦線を整備することが出来たので、ナポレオンのフランス軍は敗北したのですから、この2時間は軍事的にはまさしく決定的な2時間で、もしフランス軍がこのチャンスを逃していなければ、勝利はフランス軍の方に上がっただろうと言われています。
 要するにワーテルローの戦いの勝敗を決したのはナポレオンの胃潰瘍にあったと、言うことにもなりますし、その後のヨーロッパの歴史をも変えた戦いだったのです。

 退位したナポレオン一世はイギリスに降伏してセントヘレナ島に流され、1821年にこの島で亡くなりました。・・・


            ・・・・・





(140)フォークの起源

$
0
0
        (140) 「フォークの起源」  6月19日
 
 もともと フォーク とは、又に分かれている物を言いますが、フォークにもいろいろあります。
農業用のフォークは、麦わらや飼料などをかき集めたりする物ですが、食器のフォーク、輸送用のフォークリフト、自転車のフォーク、社交ダンスのフォークダンス、さらには野球の投手の球種の一つ、フォークボールなどなど・・

 食器のフォークは、食べ物が動かないように押さえたり、食べ物を突き刺して口へ運んだりするための食器ですが、この食器のフォークを使い始めたのはいつの事でしょうか。

イメージ 1


  イメージ 2 イギリスのジェームス一世(1566年6月19日没)はイギリス王室の中で初めてフォークを使った人物として記録されています。それまでの食事の仕方は手づかみだったのですね。16世紀後半の安土、桃山時代に日本で布教していたイエジス会の宣教師ルイス・フロイスは、「日本人は箸を使うが、ヨーロッパ人は手づかみで食べる」、と書いています。

 尤も、歴史的には11世紀にピザンチン帝国のコンスタンチン・デュカ皇帝の王妃が黄金製のフォークを使っていたそうですし、地中海地方の上流階級ではフォークが普及していたようですが、イギリスのような辺境地帯ではなかなか移入されませんでした。イギリスでのフォークの輸入は1608年、作家の「トマス・コライヤット」が大陸から持ってきたものだと、言われています。


 彼はこの新しい食器を自慢して見せびらかしていましたが、イギリス人は大して興味を示しません。その上、イギリス人はフォークを女性的な装飾品と考えていたので、フォークを使うのは女々しいことだとして「ジョナサン・スウィフト」などは「フォークより手の方が古い」と言う皮肉な警句まで残しています。

 イメージ 3またイギリスではナイフとフォークを夫々一本づつセットにしたものは、イギリスでは新婚の花嫁に贈られることがしばしばで、それは必ずしも実用には結びつかなかったのです。

 ちなみに、アメリカに初めてフォークが渡来したのは1630年のことで、政治家の「J・ウィンスロップ」がイギリスから持ってきています。
また、フォークやナイフ、スプーンをきっちりと並べて面倒なテーブルマナーを作ったのは、ルイ王朝時代のフランスでした。

 イメージ 4フォークは始めは2本刃で、食物をえり分けるために使われていましたが、1770年代にナポリ国王の「フェルナンデス4世」 → が、毎日宮廷の食事にスパゲッテイを出すことを命じました。

 しかしスパゲッテイを手つかみで食べると、頭の上にかざして下から口ですする、と言う貴族に取ってはまことに見苦しものになるので、賓客に上品に食べてもらうために料理長に命じて、その2本刃のフォークの刃を短くして4本刃にして使ったのが4本刃の初めだそうです。これでうまくスパゲッティが絡められるようになったというわけですね。

 フォークには遠い思い出でがあります。
 結婚前に、当時田舎では珍しかったレストランでお見合いをしました。

 フランス料理だったか、なんだか覚えませんが、要するに初めて食べる洋食だったので、どちらも堅くなって、話に聞いていたテーブルマナー通りにかしこまって食べていたら、緊張し過ぎたのか、家内がフォークを落としてしまい、慌ててそれを自分で拾いあげました。マナーでは物を落とした時は、自分で拾わずにボーイさんを呼んで拾ってもらうのが正式ですが、知ってか知らずか・・

 恥ずかしそうにうつむていた家内と、その後一緒にささやかな洋食を食べたのは何度だったかなぁ。。 そうそう、幼馴染の医者がゴルフでホールインワンをした時、おごって貰ったフランス料理のフルコースが一番豪華だった。 
 なんといっても タダメシ はいつもうまいものです。。 (^_-)-☆


        ・・・・・

(141)  「日本映画の誕生」 

$
0
0
     (141)    「日本映画の誕生」  6月20日

 イメージ 1最近はテレビやゲームなどの新しい娯楽に押されて映画界もやや沈滞気味ですが、戦前、戦後の娯楽と言えばまず映画が第一でした。

 紫蘭も子供のころから映画大好きで母から貰った小遣いの十銭玉を握り締めて、わくわくしながらよく見に出かけたものです。おもちゃ屋で売っていた手動の活動写真機で、子供たちが集まって、古いフィルムの切れ端の映画を見るのも楽しみでした。窓には毛布を掛けて暗くし、ハダカ電球を光源にして、白壁に向かって鞍馬天狗などのチャンバラ映画を映写するのです。
     ← 活動写真機 


イメージ 4
                                             (ルミエールのシネマグラフ)


 イメージ 2この映画と言うのは昔は活動大写真と言っていました。映画を見に行く、じゃなくて「活動を見に行く」でした。この活動写真はもともと、フランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」が1895年12月にパリのグラン・カフェの地下サロン「インドの間」で公開されたのが初めてです。

 この映画は単にリュミエールが経営する工場の工員たちが、一日の仕事を終えて退社する模様を写しただけの何の変哲もないものでしたが、これが世界で初めて動く写真が写されたのです。

  この日の観客は僅か35名でしたが、この35名が世界で始めて映画を見たのはこの35名だったのです。

イメージ 3
                                              (工場を出る社員たち)


 ところでこの映画が日本に初めて登場したのはいつの事でしょうか。
1899年(明治32年)、興行師の「駒田好洋」は小西写真店からフランス製の映画カメラ (当時は、活劇連撮用追写機械と言いました)を買い入れ、新橋の料亭「花月」の座敷を借り切って、おえん、小いな、おえつ、と言う三人の芸者の日本舞踊「鶴亀」を撮影しました。ところが室内で撮ったので照明不足で、やむを得ず裏庭に板や畳を持ち出して太陽光線の下でまた撮り直しています。


 イメージ 5新橋の撮影が済むと今度は柳橋で「松づくし」を、次は芳町で「かっぽれ」をと言う風に、芸者の踊りを専門に一巻70フイートを撮りつくしました。これに加えて東京の銀座、浅草などの実写風景、さらに祇園の芸妓の舞踊など種々雑多のフイルムを寄せ集めて、これを1899年(明治32年)6月20日に木挽町の歌舞伎座で映写しました。

  巡業隊を率いて全国を回った駒田は、フロックコート姿で舞台に現れて「頗る非常」という言葉を繰り返し使って、始めて映画を見る人々の好奇心を誘いました。

 

 駒田の会社は「日本率先活動写真会」と言うたいそうな名前でしたが、その実態は会社は駒田一人がやっていて、カメラは買ったものの撮影は小西写真機店の店員浅野四郎が回す、といったにわか仕立ての映画製作でした。しかし、世間ではなかなかの評判で、特に被写体になった芸妓たちがこれを宣伝材料として、駒田を訪れて撮影を依頼するようになりました。赤坂や富士見町の芸者たちが我も我もと申し込むようになって、駒田は彼女たちの間でいつのまにか「お広目屋」と言うことになっていました。
 これが映画の先駆けとなって団十郎・菊五郎の「紅葉狩り栄三郎・家橘の「二人道成寺」が同じ年の秋に公開され、これらが日本映画の第一号と言うことになったのです。

イメージ 6
                                         (日本最古の映画・紅葉狩・1899年)

 
 ところでこの年の暮れに土屋常吉と言う人物がアメリカから帰ってきました。彼はその6年前に開かれたシカゴ万博の日本館建築に携わった大工さんでしたが、アメリカの科学文明に惹かれてそのままアメリカに居残って映画の撮影技術を勉強してきたのでした。
 そればかりではなく彼はルービン社製の映画カメラを持ち帰ったのです。このカメラは駒田の使ったカメラの3倍の長さのフィルムを入れることが出来ました。ちょうどその頃、駒田は芸者の踊りで大成功しています。土屋はせっかく新しいカメラと技術を持ち帰ったのですから、駒田を好敵手として映画製作に取かかりました。

 土屋は滞米中にボクシングが人気で客層が広いのを知っていたので、それにヒントを得て相撲の映画を作ってみよう、と考えました。始めは両国の回向院での大相撲を写してみましたが、これは光線量の不足で失敗。そこで今度は支度部屋で、黒幕を背景にして力士に相撲を取らせました。
 この映画は翌1900年4月にまず大阪で上映し、次いで京都、東京でも同じ映画を披露しました。駒田の映画の入場料は一等席50銭、それに対して土屋の方は一等席が一円と倍の料金を取りましたが、連日の満員で大成功を収めました。

 
  イメージ 7日本における劇映画の第1作は、やはりこの年に広目屋が製作した「稲妻強盗捕縛の場」でした。撮影は柴田常吉でこの映画は関東地方を荒らしまわった強盗の実話に基づいて、その逮捕の状況をドラマにしたもので、新演劇の俳優・横山運平が刑事に扮して出演しました。これが日本における劇映画第1号であり、←横山運平は映画俳優第1号と言うことになります。


イメージ 8
                                      (1915年、怪鼠伝・尾上松之助)

 かくして、新しい20世紀の夜明けに、この「活動大写真・映画」と言う新しい娯楽が花開いたのでした。戦前の活動写真は庶民の唯一の娯楽、盆・正月の休みには住み込みの小僧さんや女中さんで映画館ははち切れんばかりにあふれていましたが、今やテレビに押されて閑古鳥が鳴いています。
映画誕生から早や一世紀、今更ながら今昔の感に堪えません。

 戦争末期は映画どころではなく、こんな映画↓ があったとはちっとも知りませんでした。。

イメージ 9

                                    (1945年、昭和20年・勝利の日まで)


           ・・・・・・

(142)バチカンの禁書 

$
0
0
     (142) 「バチカンの禁書」  6月21日

 イメージ 1戦前はもちろんですが、戦後もしばらくは書物の発売禁止がありました。
 いわゆる発禁です。

戦時中の発禁ははマルクスの資本論とか、左翼系の本が多かったですが、戦後は風俗壊乱の書物が多くなりました。永井荷風の「四畳半襖の下張り」とか、「チャタレー夫人の恋人」などです。戦後、発禁になる前の頃、このチャタレー夫を読みたかったのですが、何しろまだ純情な若者でして、本屋に買いに行くのが恥ずかしくて困っていたところ、知り合いの銀行のオジサンが買ってきてくれました。サービスのつもりだったのでしょう。

 今読んでみると何のことはない内容で、最近の性風俗の乱れから見ると、とても考えられないような、なんとも子供じみた取り締まりでしたが。。

 イメージ 6ところでカソリック教会には、昔から発禁本と言うよりも、読んではいけない「禁書目録」がありました。
 今のような活字による印刷技術を発明したのは、1439年頃のドイツの「ヨハネス・グーデンベルグ」ですが、それからおよそ一世紀あとの1557年にローマの教皇パウルス4世時代のカソリック教会は、その宗教的観点から好ましくないと思われる書物の目録を公表しました。
 この「禁書目録」は1948年の第32版まで作成され、4000の書籍がやり玉に挙がっています。その理由はさまざまで、反カトリック的、不道徳、性的放埓、政治的偏向、魔術書などの危険な文化などでした。
                                                                                                             ↑グーデンベルグ


イメージ 2
                                                   (禁書目録)


 禁書目録が公式に廃止されたのは1966年の6月14日で、勿論出版の自由がありますから、バチカンの禁断の書と言っても、何ら法的には拘束力を持つわけではありませんが、カソリックの信徒はこのリストに載った本は読んではいけない、と言うことになっています。

 イメージ 3これまでこの禁書令に引っかかった作品の主なものを見てみると、スタンダールの恋愛小説、ユゴー「レ・ミゼラブル」フローベルの「ポヴァリー夫人」バルザックやデュマの恋愛小説、などがあり、ノンフィクションではホップス、デカルト、ベイコンなどの哲学書は全部ダメ。

 モンテーニュの「随想録」 ジョンロックの「人間悟性論」 カントの「純粋理性論」 ミルの「政治経済学論」などみんないけません。「クローチェ」もダメなら「パスカル」も「ベルグソン」も駄目と言う風に、岩波文庫の名著の中のかなりの部分が不合格になっているのです。
 ↑ ユゴー

   イメージ 4ただし、ショーペンハウアー(*自殺について)やキルケゴール(*死に至る病)の著作が禁書目録に載っていない理由は、彼らが無神論者とみなされているからだそうです。クリスチャンでもないシランはもちろん読んでも良いわけなのに勉強不足で、小説の他はほとんど読んでいません。 トホホー

 1966年以降はバチカンではこのリストを公開することを止め、専ら内部資料として残していますが、それまでは、自作がこのリストに載せられるのは著作家にとっては致命的な意味を持っていました。

 「ボッカチオ」はその「デカメロン」がバチカンの禁書になったのを知ると慌てて書き直し、そこに登場する牧師や尼僧をことごとく平凡で世俗的な男女に変更して、バチカンに許しを乞うて許されたそうです。

 最近の新しい所では1948年の禁書リストに、J・F・サルトル1905年6月21日生まれ)の全著作を読んではならぬ、と記録されていますが、勿論、無神論的実存主義のサルトルは、宗教を否定している共産主義を容認していたので、そんな禁書目録などを気にするような人物ではなかったのです。

 
イメージ 5

                                       (毛沢東主義の新聞を配るサルトル)

    ・・・・・

夜来の久しぶりの雨も上がり、少し薄日が漏れてきました。
  梅雨前線が南に下がったせいか、北風が爽やかに感じます。
 
 麦刈りが住んで、九州ではようやく田植えが始まりました。
 田園都市の佐賀地方は、水の入った田んぼには淡い緑のじゅうたんが広がっています。
 昔なら早乙女たちの赤いお腰が目立つんですが、今は色気のない田植え機械ばかり。。

イメージ 7
 
                   
                                風流の 初めや おくの 田植えうた     芭蕉


                 /////


(143)浴衣の始まり

$
0
0
           
         (143)   「浴衣の始まり」    6月22日

イメージ 1
                          (戦前の姫路城・昭和11年)
 
 今日、6月22日から三日間、姫路市では「浴衣まつり」が開かれます。この姫路ゆかた祭りは、約260年前に姫路城の守り神である「長壁神社(おさかべじんじゃ)」が始まりだとされるお祭りです。


イメージ 2
                                                (姫路・浴衣まつり)

 江戸時代、吉宗将軍の時に姫路藩の第3代藩主「榊原政岑・まさみね」が、吉宗が出した倹約令を無視して贅沢三昧、奇抜な服装で江戸城大手門を警備したり、吉原で派手に遊興に耽り、名妓・高尾太夫を1800両で身請けするなど奢侈を好んだので、世間では風流大名とか好色大名と言われていました。このため政岑は越後に転封となり、その前に政岑は長壁神社を移して夏至の6月22日にその遷座祭を行いました。

イメージ 5 しかし、そのお祭りが急に始まることが決まって、式服を作る暇もなかったので、庶民でも簡単に着れる「ゆかた」を着て参拝するのを政岑が認めたことから「ゆかた祭り」と呼ばれるようになったそうです。

 では、そもそも浴衣の起源は何でしょうか。

 室町時代までの日本人は風呂に入るとき裸では入りませんでした。
湯帷子(ゆかたびら)と言う麻製の入浴衣を着て入っていたのです。それがハダカになったのは18世紀ごろで、こんにちでも風呂に人いる時は手ぬぐいを持って入りますが、江戸期まではこの手拭いを「身拭い」と言って体をかくすための布と言う機能を持っていました。 
 極小ではありますが、いわば湯帷子の延長ともいえるものでした。

 
イメージ 3
                                                        (湯帷子)



イメージ 6 ところがこの湯帷子は手拭いとは別の展開を見せました。
入浴中には着ませんが、湯上り後に羽織る衣料が現れたのです。それが「浴衣・ゆかた」だったのです。

 江戸期にはもう木綿が登場していて、木綿は吸収性がよく湯上りにはきわめて適切な衣料でした。浴衣は始めのうちは湯帷子の伝統通り白無地に決まっていましたが、のちには様々な模様や柄・がらが染められるようになったのです。


  特に、幕府の度々の贅沢禁止令によって絹を着てはいけないという事になると、浴衣に大柄な図柄を使ってこの禁令に反抗したり、うっぷんを晴らしたりしたのです。


イメージ 4
                                           (江戸時代の入浴風景)


 しかし浴衣はあくまでも浴場用の着物で、街頭に浴衣姿で出るなどはもってのほか・・と言うのが当時の慣例でしたが、それが今のように堂々と夏の街着になったのは明治になってからの事でした。

        ・・・・・

(144)仕立て屋銀次の逮捕

$
0
0
       (144) 「仕立て屋銀次の逮捕」  6月23日

 今頃はあまり掏摸(スリ)と言う言葉は聞きませんね。昔は電車に乗っても痴漢などはほとんど居なくて、スリの方が多かったです。掏摸の掏は体を擦りつけることで、摸は手探りするという意味なので、要するに人ごみに紛れて他人の懐からこっそりと財布などを抜き取るという事ですが、最近はこっそりどころか、堂々と強引に、かっぱらっていきますね。


イメージ 5 ところで、そのスリの大親分 「仕立て屋銀次」 が明治42年6月23日に逮捕されました。

  彼の配下には250人の子分が居て、専属の弁護士も数名抱えていました。盗品の故買を生計として、東京、下谷の金杉に大邸宅を建て、常々、「警察には十分鼻薬を利かせているから、俺が逮捕されることなどあり得ない」と豪語していました。

 ← 銀次はほかに貸長屋を50~60軒持っていて、家賃収入だけでも月に100円から200円の収入があり、資産は50,000円を超えていたそうです。


イメージ 4
                                                 (仕立て屋銀次の子分たち)
 

  銀次たちの専門は主に東海道線、山陽本線の汽車の中で稼ぐ「箱師」で、手下たちを紳士風に装わせてスリを働かせてその上前をはねるほか、質屋を営んでそこで盗品もさばいたのです。

 逮捕された銀次は懲役10年の判決を受けて服役しましたが、1930年(昭和5年)に新宿三越で時価70円相当の反物を万引して再び捕まっています。ただし、この時は不起訴となっています。
 銀次が逮捕されたとき押収された盗品の山は、時計、指輪、財布、カバンなど荷車2台分もあったそうです。当時はスリの被害が多かっただけに人びとは「警察もなかなかいいことをする」と喜びました。

  
イメージ 1
                                                          (当品の山)



  イメージ 2人々のこんな支持に気をよくした警察は、明治44年1月、かねてから明治政府の仇敵とみなされていた社会主義者の「幸徳秋水」一派を明治天皇暗殺計画と言う罪名をでっち上げて一網打尽に逮捕し、スピード裁判で12名を死刑にしました。いわゆる「大逆事件」と言われるものです。

  ← 幸徳秋水





イメージ 3
                                               (明治44年、朝日新聞記事)


  大逆事件は銀次逮捕から約一年後の事で、仕立て屋銀次は当時の警察の人気取りに利用されたのではないかと、人々に勘繰られることになったのです。

            ・・・・・




 (145) 「沖縄戦の終結」  

$
0
0
     (145) 「沖縄戦の終結」  6月23日 

 昨日、6月23日は沖縄の日でしたね。72年前の今日、沖縄方面最高司令官の牛島満中将が摩文仁の丘の洞窟内で自決し、沖縄の日本軍の組織的な抵抗が終わりを告げました。沖縄戦は大本営にとって本土決戦の捨石であり、切り捨てられた沖縄守備軍と沖縄住民の犠牲は今次戦争においては際立ったものでした。

イメージ 2
                                                  ( S・20年6月5日の新聞記事)

    ・・・
  〇「沖縄の悲劇」
  
  昭和19年7月のサイパンの占領から、連合軍はインドネシアを飛び越してフィリッピンへと向かった。いわゆる蛙飛び戦法である。無用な犠牲と出血を避けて、蛙のようにぴょんぴょんと跳び越してくるのである。そして、レイテ沖海戦の神風特攻隊はじめ、激烈な日本陸海軍の抵抗を排除して、フィリッピンをほぼ平定した昭和19年3月、アメリカ軍は日本本土攻撃の足がかりとして、次の目標を沖縄に決めた。
イメージ 1
(太平洋戦争・概略図)


 ところが、日本軍はアメリカの次の目標は台湾だとばかり思っていたので、その沖縄から最精鋭の第9師団を引き抜いて台湾に送り込んでしまった。当時の沖縄の日本軍兵力は約6万7000、対するアメリカの上陸軍は約18万3000の大兵力で、日本軍を攻撃してきた。その上、太平洋艦隊も加わり、その陸・海・空軍の兵力はまさに空前の規模だったという。

イメージ 7
                                     (上陸するアメリカ軍)

 イメージ 13昭和20年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸して、あの悲惨な戦闘が始まったのだ。あれからもう72年が過ぎ、平和な日本の人々の記憶から薄れつつある。今や、沖縄には、珊瑚と青い海に憧れて多くの人々が集まり、若い男女がサーフィンやダイビングをして青春を謳歌し、繁華街のみやげ物店には観光客があふれているが、洞窟内の戦場跡を訪れる人は少ないようである。
  
 私が復帰前の沖縄を訪れたころ、ひめゆりの塔付近では、花束を買ってもらおうと、粗末な服装の地元民が観光バスの窓に群がっていた光景を思い出す。あれからもう60年、沖縄もすっかり変わって戦争の傷跡も少なくなった今、あの悲惨な戦いの後を振返ってみるのもあながち甲斐なき事でもあるまい。
 
 ↑ 沖縄難民の少年


   〇 「沖縄の戦い」
  
  沖縄本島の中ほどの北谷(ちゃたん)の近くに「北谷の浜」がある。
 1945年4月1日の朝、沖縄西方から押し寄せたおびただしいアメリカ艦艇から数百の上陸用舟艇がこの「北谷の浜」に向かってまっしぐらに進攻を開始した。

イメージ 6
                                                 (夥しい上陸用舟艇の群れ)


 イメージ 14日本軍はどうしたわけか、米軍の上陸地点はもう少し南の、那覇に近い浦添の海岸に違いないと決めていたようで、防備はほとんどこの浦添に集中されていた。米軍は迎撃する日本軍の手薄さに却って何か作戦があるのではないかと危ぶみながら、一挙に上陸を敢行したという。

  実は、沖縄守備軍の第32軍司令官であった牛島満中将は、日米の戦力差を考えて、水際での邀撃作戦をあきらめ、「洞窟」を陣地としての持久作戦を採ったのである。本土決戦をいささかでも遅らせようという持久作戦であった。

 そこで、沖縄住民の成人はもちろん、中学生、女子生徒も戦力になりそうな者はみな「義勇隊」として軍に協力させることになった。それはまた、この洞窟という最後の陣地のそとに、「老人子供を見捨てた」という事にもなる。
                                                                                                       ↑捕虜になった日本軍少年兵


  
  イメージ 320年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸したが、守備軍は初めから海岸線で戦う意思がなかったので、いわば米軍の無血上陸であった。大本営はこれを怒って、強く出撃を命令し、4月12,13日にわたる総攻撃が行われたが、これは失敗に終わった。ついで、5月4日に、これが最後という総攻撃をかけたが、圧倒的な米軍の火力の前に、これまた失敗に終わってしまった。


   ↑戦艦大和の最後

 イメージ 10すでに巨大戦艦「武蔵」を19年10月24日のレイテ沖海戦で失い、敗色濃い日本連合艦隊は昭和20年4月6日、連合艦隊旗艦「大和」を8隻の駆逐艦とともに片道燃料で沖縄へ出撃させたが、米海軍の艦上機延べ1000機の波状攻撃によって、乗員3000名とともに九州西方海上で轟沈されてしまった。
 
 アメリカ軍が上陸してからの2ヶ月間は、沖縄は血と硝煙で煮え立った地獄の島であった。山は裂け、谷は吹っ飛び、すべての物は焼けただれ、止むことのない砲爆撃の轟音と地響きの中に、戦争という悪魔が狂い回ったのである。

  この小さい島の中で、1万2千人を越える米軍の戦死者を含めて、なんと20数万の人間が阿鼻叫喚の地獄の中でのたうち廻って死んでいった。


イメージ 8
                                                (攻撃する米軍兵士)

 最もすさまじい悪魔の日々は、6月中旬から下旬にかけてであった。
 5月下旬に首里の日本軍が南に向けて退却を始めてからは、軍司令部は摩文仁(まぶに)という小部落に移り、日本軍は北側から攻め寄せる米軍にじりじりと押されて、島の南端まで追い詰められてしまった。友人の一人は、この時負傷して断崖から転落、浜辺に倒れているところを米軍に助けられた。同期の戦友では彼ひとりが助かって生還したのである。

イメージ 9
                                              (米軍のM4中戦車)


 この時、ともに散ったのが沖縄県立第一高女と沖縄女子師範の生徒・職員たちである。彼女たちは、みな従軍看護婦として野戦病院に勤務し、軍と行動を共にしていた。最後に糸満市伊原の洞窟に立てこもり、みんな自決して果てた。その数、158名といわれている。
 これらの職員生徒らを「ひめゆり部隊」と呼び、それが合祀されて建てられたのが「ひめゆりの塔」である。ひめゆりとは、沖縄第一高女の校章「乙姫」と女子師範の校章「白百合」を合わせて、「ひめゆりの塔」と名づけられたという。

イメージ 4
                                                        (ひめゆりの塔)
 
 かくて6月23日、牛島司令官は摩文仁の丘の洞窟内で自決して、日本軍の組織的戦闘が終わった。牛島司令官の辞世の歌が当時の自分の日記に載っている。
   
 イメージ 12 ○ 「昭和20年6月24日」  の日記に・・
 
  特攻隊、何たる世紀の悲壮ぞ!
   6月20日、沖縄最後の突撃決行!
 
               沖縄方面軍司令官・牛島満 中将 の「辞世」
    
                秋を待たで枯れゆく島の青草は
                皇国(みくに)の春によみがえらなむ

    

イメージ 5

                                   (牛島司令官と長参謀長の墓標)


     
イメージ 11
                                     (戦死した友人の跡をたずねて・・K君)   



(146)虎の話

$
0
0
     (146)  「虎の話」  6月24日
 
  虎の話と言っても別に阪神タイガースの話ではありませんが、最近は異常気象のせいか、なんだか落雷の被害も多いようです。昔のように蚊帳の中に逃げ込むわけにもいかず・・ 
 
 イメージ 1ところで、昔は俗に「雷さま」虎の褌をしていると言われていました。
 それは平安時代の陰陽道では,雷神や鬼は『丑寅』の方角、つまり北東の隅から出てくるので、この方角を鬼門と言いました。そこで鬼や雷神の頭にはの角が生え、の皮のパンツを履いているというわけです。


 イメージ 3では、その頃は日本列島にもが生息していたのでしょうか。。

 日本に虎が居たことは古くから知られており、日本書紀には545年、つまり欽明天皇のころ「膳臣巴提便カシワデノオミハコビ」と言う人物が韓国の百済に使いして、トラを仕留めてその皮をはいで日本に持ち帰ったという記録があります。

 その後も虎の皮は主として朝鮮海峡を経由して日本に入ってきていました。たとえば686年、新羅からの献上物の中に虎の皮がある、と言う記録も残っています。

 生きた虎が初めて日本に来たのは890年(寛平2年)のことで、当時の宇多天皇が大の猫好きで、大型のネコ科である虎を見て、大変喜ばれて、当時の画家に命じてこの虎の写生をさせています。

 秀吉は文禄の役で朝鮮のトラを何頭か殺したり、生け捕ったりしました。

生きた虎はその時も日本に運ばれ、後陽成天皇がご覧になっています。加藤清正 『1611年(慶長16年)6月24日没 』の虎退治が有名ですね。

 ← トラの図 (国芳画)


イメージ 2
                      (加藤清正の虎退治)


 江戸時代になっても虎はしばしば輸入され、見世物として使われましたが、日本人が自由にトラを見ることが出来るようになったのは、明治以降に動物園が出来てからでした。


イメージ 4
                                         (孫悟空の虎退治・影絵藤城清治


                              //////




(147)コナン・ドイルの憂鬱

$
0
0
       (147)  コナン・ドイルの憂鬱  「6月26日」

 1897年6月26日、イギリスの「スピッツオ・ヘッド」で海軍の大観艦式が行われました。
観艦式はいわば軍艦の海上パレードです。4列の軍艦が延々と50キロほどの列を作って、まさに海軍国イギリスの象徴として、これこそヴィクトリア時代のピークともいうべきものでした。


イメージ 1
                                                 (昭和10年)


 イメージ 3それを見て居た「シャーロック・ホームズ」の生みの親・探偵作家の「コナン・ドイル」 ← は憂鬱でした。もとよりドイルは母国イギリスを愛して居ましたし、当時のイギリス帝国同様、極端な帝国主義者でしたが、この観艦式に見られるような好戦的気分にはなれなかったのです。そのうえ、イギリスの海軍も陸軍も日進月歩の軍事的技術に対しては無関心だったのが不満でした。

 例えばその翌年、ドイルは陸軍の演習を見に行ったとき、歩兵部隊が直立して鉄砲を撃っているのを見ました。当時はすでに十連発の速射砲も出来ていましたし、マキシム機関銃も実用化され始めていたのです。突っ立ったままの歩兵部隊など、これらの兵器の前にはバタバタ倒れてしまうに違いありません。

  ドイルは指揮官に「もっと遮蔽物で身を隠すべきではないか」と尋ねました。すると指揮官は「最近は遮蔽物を強調しすぎるきらいがある。攻撃部隊は敵地の占領が任務だから、多少の犠牲は止むをえない」と答えました。

 イメージ 2こうしたイギリス軍の思考は、やがて実戦の場で完全に失敗してしまいました。1899年に起きた南アフリカのボーア戦争では、500人しか隠れることができないシュピオンの丘に4000人の兵士を進出させて、ボーア軍の砲兵がこれを標的にして殆ど全滅させてしまう、と言う惨事まで起こりました。

 当時は英国軍を含めて世界の軍隊では、歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルでした。それに対してボーア軍の主体は民兵部隊で連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体だったのです。

  ← ボーア戦争
 

 イメージ 6このためコレンゾーの戦いでは、ボーア軍の犠牲者40人に対して英国軍は1127人と言う多数の犠牲者を出し、退却の際に放置した大砲10門を鹵獲されると言う惨めな有様でした。 
 愛国心に燃えるドイルは、矢も楯もたまらず義勇軍に応募しようとしましたが、もう40歳にもなっていたので義勇軍には参加できず、野戦病院に医師として参加するのが許されました。

 しかし、戦場はすさまじいものでした。負傷者は次々に運び込まれてくるし、そのうえ腸チフスが発生しました。ドイルは人間の命がこんなにもろく、人が大量に死んでいくという現実が信じられませんでした。

 ドイルの緋色の研究

 そして彼はイギリスが近代戦という物を一向に理解していないのに腹を立てました。ボーア戦争の失敗にもかかわらず、イギリス陸軍の大部分が依然として騎兵隊の突撃に固執し、ボーアー戦争の失敗も、地理的条件が不利だったのが原因だ、と言う意見が大部分を占めていました。騎兵隊の出番さえあれば連発式のライフル銃も、物の数ではない、と言うわけです。昔の日本軍の大和魂と同じですね。

 イメージ 5ドイルはこの時、近代戦を目のあたりに見て、彼なりの無常観に打たれました。そして第一次大戦では、ドイルは身内を多く失う悲劇に見舞われました。妻の弟が最初に戦死し、ついで妹の夫や二人の甥が戦死、1918年には26歳の長男キングズリーが前線で病死しています。

 度重なる不幸の体験が引き金になってドイルは生と死の形而上学や心霊術の世界に引き込まれて行きました。彼が心霊主義布教のために使った金額は25万ポンドを超えると言われていて、ドイルは死ぬまで霊魂の不滅を疑うことはなかったのです。

 ↑ コナン・ドイルの心霊写真


 イメージ 4ドイルは当時、イギリスの 二人の少女→ が妖精の写真を撮ったと話題になった時も、この写真を真実だと信じています。

 この写真の真偽はその後延々と論争されましたが、それから60年以上たった1983年に二人そろって「あの写真は本から妖精の写真を切り取って張りつけた偽の写真だった」と告白しました。ももちろんその時、二人の少女はもう立派な?老婆になっていました。。

 さすがの名探偵「シャーロック・ホームズ」の生みの親のドイルも、少女から偽物をつかまされようとは到底思はなかったでしょうね。

(148)雨乞い

$
0
0
         (148)   雨乞い  6月27日

 今年は梅雨入りしてもなかなか雨が降りません。昨日も今日も雨の予報ですたが、雨は来たらず、しかし、ダムのおかげで何とか田植えは済んだようで佐賀平野は今、淡い緑のじゅうたんに覆われています。
 
イメージ 1 今のようにダムのない昔は、雨が降らないときに、よく「雨乞い」と言う行事が行われました。
 
  古代の日本では、雨乞いは国家による儀礼として行われ、天皇自ら神様に祈ることで行われいました。

 施政者である天皇には国家鎮護の声を神に届ける能力があると信じられて居たのです。日本の最古の雨乞いの記事は『日本書紀』の皇極元年(642年)に、「8月1日に皇極天皇が天に祈ると、突如大雨が降り、天下万民は共に天皇を称えた」とあります。

 ← 菅原道真の雨乞い祈願


  1088年(寛治2年)6月27日、この年は雨が一向に降らない空梅雨で人々はどうしょうもなく、宮廷では大極殿に僧1000人を集めて雨乞いの大祈願をしました。
    その結果がどうだったのか、残念ながらわかりません。

 南方熊楠によれば、モンゴルには鮓荅師(ヤダチ)と呼ばれる雨乞い師が居て、盆に牛の結石と水を入れ、呪文を唱えながら雨を降らせたそうです。

 インドのある地方では雲に扮した雨乞い師が地面に水を撒いたり、ロシアのある村では、聖なる樅(もみ)の木に3人の雨乞い師が上って、薬缶や釜を叩いて雷鳴を真似し、燃えさしの木の枝をぶっつけて雷光にし、また水で濡らした小枝を使って雨の降る真似をするそうです。
 
 日本の香川県三豊市で毎年行われる「仁尾竜まつり」では、藁でつくった「雨乞い竜」の出し物が繰り出されます。約二百年前に伊予国が旱魃に見舞われた際、雨乞いの行者の「和蔵」が発案して、人々が藁で大きな竜をつくって海に流したところ、間もなく雨が降ったそうです。その後も旱魃があると藁の竜をつくって雨乞いを行い、こんにちも毎夏の祭りとして続けられているとか。。


イメージ 2
                                                 (雨乞い竜)


 このように古くから世界各地で雨乞いの行事が行われてきましたが、然しこれらはどれも、こうなって欲しいという願望を再現してみせる、雨乞いの儀式にしか過ぎません。

 そこで、近代科学の力によって実際に雨を降らせようという試みが、1930年ごろから始まっています。まず、フランスの気象学者「ベルジョロン」「降水誘導法」と言う技術を開発しました。これは高空を飛ぶ飛行機から細かく砕いたを雲の上に撒き散らすと、雲が飽和状態になって雨を降らすというわけです。

 1940年代にはアメリカのゼネラル・エレクトリック社がこの問題に挑戦し、理論的には「ベルジョロン」の方法と同じですが、ここでは氷の代わりにドライアイスが使われました。ドライアイスを飛行機から雲に散布する事で温度を下げ、またドライアイスの粒を核として氷を発生させようというわけです。そして高度4,500mの上空から高層雲めがけてドライアイスを撒くと、間もなく地上で雨が降りはじめ実験は成功しました。

イメージ 3




 同じく、ゼネラル・エレクトリック社の技師「バーナード・ヴォネガット」は1949年、ヨウ化銀が核を形成する薬品として使えることを発見し、その沃化銀を使って、より安価な人口降雨に成功しています。
 彼は低温の雲に関しては沃化銀の結晶構造と水の粒子のそれが同じであるため、これで雲をゴマカシてやろうというわけです。低層雲の場合はこれで充分雨を降らせることができますが、然し、いずれの方法を採っても、まず雲が空に浮いていなければなりません。

 では、雲一つないカンカン照りの空からどうすれば雨を降らせることが出来るか。。 
 ただ、雨乞いをして祈るだけしかできないのです。。


         雨乞いも甲斐なき月の小村かな   大谷句仏


        ・・・・・   ・・・・・   ・・・・・

(149)幽霊の話

$
0
0
      (149) 「幽霊の話」  6月27日

 じめじめした陰気な長雨の季節になりました。雨の夜、墓地などを通るとなんだかお化けでも出そうで怖い思いをします。今日はそのコワイ幽霊の話です。


 イメージ 1日本の民俗や行事をこよなく愛して「怪談」を表したギリシャ生まれの新聞記者  「小泉八雲・ラフカディオ・ハーン」1859年6月27日に生まれましたが、この日は奇しくも江戸時代の怪異小説「雨月物語」の作者 「上田秋成」 の命日(1809年・文化6年6月27日)でした。

 小泉八雲は来日後、松江中学の英語教師をしていたころ、妻の小泉節子らから聞いた民話の中から、幽霊や怪談話を英語でまとめて『怪談』と言う短編集を出版ししています。紫蘭も中学のとき、その怪談の中の一部を英語の時間に習いました。
 怪談のなかの短編集には「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」などが有名です。

イメージ 3 ↑ ラフカディオ・ハーンは16歳の時怪我で左眼を失明して以来、写真を撮られる時は、必ず顔の右側だけをカメラに向けるか、うつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっています。

                                            小泉八雲と妻・節子 →

 ところで、会話の中ではお化けと幽霊は一緒にごちゃ混ぜになっていますが、この二つは原理的には全く違うものです。お化け は古いお寺とか、大きな古木とか、曲がり角など特定の場所に出るもので、たまたまそこを通りかかった者に、見境なく姿を現します。難しい言葉で言えば、いわば「属地主義」とでも言いましょうか。。

 それに対して「幽霊」の方はその場所の如何にかかわらず特定の人物にぴったりくっ付いて離れません。例えば「東海道四谷怪談」のお岩さんなどがその例で、お岩の亡霊は恨みの対象である「民谷伊右衛門」にだけ取りついているのです。だから幽霊は関係ない第三者には見えないことが多いのです。つまり幽霊は「属人主義」と言うことになります。

イメージ 6
                                                           (四谷怪談)


 ちなみに中国では日本で言う幽霊のことを「鬼・クェィ」と言います。戦時中は日本兵の悪行が身に沁みたのか、中国人は、陰では日本兵のことを「日本鬼・リーベンクェイ」と言っていました。桃太郎の鬼が島の鬼退治の話も中国では、逆に満州など他国を侵略してその財貨を日本に持ち帰る「日本の鬼」の話と言う意味に捕らえられていました。

イメージ 5
                          (桃太郎の鬼ヶ島征伐)


 その「鬼」と言う言葉はそのまま日本では「おに」になっていますが、日本書紀の中にも、黄泉の国を逃れたイザナギノミコトが道端の桃の木の下に隠れ、追いかける鬼どもに、ちぎった桃の実を投げて助かる、という話が出てきますから、この頃から日本にも鬼と言う概念があったのでしょう。
 日本の鬼は悪霊が人間の形として現れたもので、豆まきの時の赤鬼のように、幽霊とは違ったものになっています。

イメージ 7
                                                (昔の小学読本・桃太郎)


 日本の幽霊には様々な形がありますが、戦時中によく使われた「死して護国の鬼となる」とかいう場合の鬼は幽霊ではなく、死者の魂なのです。一般に日本の幽霊は恨みを晴らそうとしてこの世に現れる死者の怨霊で、お岩亡霊のように身の毛もよだつような恐ろし形相をして出てきます。

イメージ 2
                                                   (子育て幽霊)

 しかし、中国の幽霊の多くは若い娘の亡霊で、死んだあともこの世の人間を恋い慕い、情交を求めてくるという、なんともエッチな鬼なのです。その姿形は、日本の幽霊が髪を振り乱したおどろおどろした姿なのと違い、この世の人間と少しも違わないばかりか、情緒纏綿たる美女の場合が多いのです。従って人間は幽霊を恐れるどころか、その訪れを待ちかねるような話も出てくるのです。

 ですから中国の幽霊は、日本の幽霊とくらべて恐ろしさと言う点では遥かに劣っています。幽霊なのに生身の人間らししく、たいていの幽霊は明るく、むしろ滑稽な幽霊が多くて人間にだまされたり、嫉妬したり、人間にこきつかわれたりもします。そんな中国の幽霊話の短いのをひとつ・・

 例えば、「妻の恨み」・・六朝時代「異苑」より

 浙江の呉興に、袁乞という人がいました。
 彼には相思相愛の妻がいましたが、ふとした病で不帰の客になってしまいました。妻は臨終のとき袁乞の手を握って
「わたしが死んだら誰かと結婚なさるわね」 と言うと袁乞は妻の手をしっかりと握りかえし 
「何を言うか、私にはお前のほかに愛する者はいない。再婚なんかするものか」と 答えると妻は
『ありがとう!あなた』 と言って死にました。

 イメージ 4ところが喪が明けると袁乞はすぐに約束を破って再婚してしまいました。
すると昼間に死んだ妻の亡霊が現れて
「あなたは私が死ぬとき、再婚しないと約束なさったのに、どうしてその約束を破ったの!」
 と言って、いきなり袁乞の一物を刀で刺してしまいました。
傷は命に関わるようなものではなかったのですが、それっきり一物は使いものにならなくなってしまいました。

     ↑ 幽霊草

 昔から何時の世にも、何処の国にでも「阿倍定」は居るんですね。。
 クワバラ、クワバラ。。。


     ・・・・・・

(150) 木綿の今昔

$
0
0
  
          (150) 木綿の今昔   「6月29日」

 イメージ 3日本では木綿は比較的新しい衣料品で、おおよそ室町時代までは麻が主な衣料でした。
  然し世界的に見てみると、その歴史ずいぶん古く、ペルーではインカ帝国の文明品のなかにも木綿の織物が残っているし、インドでもかなり昔から木綿が使われていたようです。大陸から日本に渡ってきた木綿は、桃山時代になると武将のハカマなどに使われるようになり、貴重品扱いされていました。

    ↑ 棉 の花


 イメージ 4その輸入された木綿は主にインドのベンガル産のものでしたが、日本が島国なので世界も同じ様に島から出来ているという当時の考えから、こうした輸入品は「島もの」と呼ばれていました。

   ですから、木綿は「ベンガル産の島もの」、と言う意味で「べんがら島もの」から、その島が縞と言う字に変わって「ベンガラ縞もの」と変わっていきました。とは読んで字のごとく、値段の高い繊維品のことで、いずれにしても当時の木綿は高価だったのです。

 イメージ 5その頃の輸入は布製品が主でしたが、日本でも自国で原料から一貫生産しようということになって、種棉を輸入することになりましたが、初期の頃は棉の栽培技術も貧弱で、ましてやこれを織ることも出来ませんでした。

   木綿織物が本格的に定着したのは江戸中期以後の事で、その産地としては三河、伊予、薩摩などでした。先に述べた「ゆかた」などもこうした本格的な木綿生産の結果、生まれたものでした。

 ↑グリンボールが茶色に熟れると、割れて4つの綿が現れます。

 
  イメージ 6江戸時代の佐賀藩以来、佐賀県では永年食糧増産のため有明海の干拓事業を行い、いま佐賀県南部には広大な干拓地帯に見事な農地が広がっていますが、この干拓地には塩分が残っていてk干拓の完成後しばらくはコメが採れません。

  繊維作物の棉は塩分に強く、稲が育たない土地でも育つので、この塩分を抜くために数年は干拓農地に棉の栽培が行われ、その後麦と交互に植えてから稲作に切り替えて居ました。


 この地域の農民は、その綿から着物や布団を作り、娘が嫁ぐ時には自家製の綿を詰めた布団を「嫁入り道具」として持たせる習慣があり、この綿の存在が「鍋島緞通・だんつう」「鍋島更紗・さらさ」が発展する素地ともなったのですが、戦後しばらくして化学繊維の登場で有明海の棉は消えてなくなりました。


イメージ 1
                                           (鍋島緞通・製作、中島家)


 明治以降、日本の産業の主軸となったのは木綿紡績でしたが、ちょうどイギリスではインド綿の紡績が盛んで、アメリカでは南部の大農場で棉作りを始めて居ました。日本はそれを追いかけてついに「木綿王国」になり、1934年(昭和9年)には26億平方ヤードと言うすさまじい量の綿布を生産して世界一になりました。


イメージ 2
                                                (棉の収穫・ルイジァナ州)


 然し、木綿を無限に生産できるわけもなく、世界市場も飽和点に達し、それまで増産に次ぐ増産を続けてきた日本の木綿生産は遂に生産制限を余儀なくされてしまったのです。その生産制限の開始日が1938年(昭和13年)の6月29日でした。


      ・・・・・

   *数年前の母の日に子供から送ってきた「ミゼット・カサブランカ」の花が今年も五輪、
     見事に咲きました。

イメージ 7

(151)隕石落下

$
0
0
      (151) 「隕石落下」 6月30日 

 2013年、2月15日、ロシア・シベリア平原の南西部 チェリャビンスク に巨大な隕石が落下しました。その衝撃波で多くの人家の窓ガラスが壊れ、また衝撃波で転んだりして1500人ほどの負傷者も出ました。最近になってチェバルクリ湖の底から、この「チェリャビンスク隕石」の一番大きな破片が引き上げられましたが、その重量はおよそ570キロだったと言われています。


イメージ 1
                                    (2013年、チェリャビンスクの隕石落下)


 イメージ 2
地球の遥か彼方からはおびただしい数の流星物質が飛んできます。たいていは大気圏内で燃え尽きてしまいますが、中には燃え切れないで地上に落下するものもあります。それが隕石です。
18世紀末、科学者「クラドニ」がこの現象を主張して、学会もこれを認めました。

   ↑チェリャビンスクの隕石の破片

 現在、世界で隕石として認められているものは世界中で1500個ばかりあり、大きなものは南西アフリカで発見された66トン、グリンランドの36トン、と言ったような巨大なものがあります。
 
 また、変わった隕石では、1868年にポーランドのプウトゥスクに降った隕石雨があります。
これは大きな隕石が遥か上空で爆発し、それが砕けて多数の小隕石が一時に落下する現象で、合計10万個もの小石がこの地方に降り注いだのです。その他、隕石雨では1882年のハンガリーの  モッシュ でおよそ10万個の小隕石が、1912年にはアメリカのアリゾナ州でも1万4千個の隕石が降っています。

 落下した隕石で出来た穴ではないか、と言われている隕石孔もあります。その最大のものはアメリカのアリゾナ州にあるパリンジャー隕石孔で、直径1,2キロ深さ180mで孔の付近には細かい隕石粉が散乱しています。


イメージ 3
                                            (パリンジャーの隕石孔)

 いつこの大隕石孔が出来たかはわかりませんが、その後、このアリゾナ隕石孔の三倍ほどのものがカナダのケベックで見つかり、これが今では世界最大の隕石孔となっています。その直径が、3,44 kmで、約140万年前に隕石の衝突によって作られたと推定されています。地球上のクレーターの中では比較的新しい方に属すそうですが、これだけの大きな隕石孔を作った隕石は、おそらく数百万トンの重さがあっただろうと考えられています。


イメージ 4
                                        (カナダ・ケベック隕石孔の衛星写真)


 ところで1908年 6月30日 に、中部シベリアのタイガ地方に火の玉のような物体が現れて大爆発しています。落下地点から300キロ離れた地点でもガラスが割れ、爆風は半径25キロにわたって森林をなぎ倒し、その振動は全世界の地震計に記録されました。おそらく隕石の落下に違いない、と言うので50年後の1958年にソ連政府は正式に調査団を現地に派遣しましたが、隕石孔も隕石も見つかりませんでした。このタイガへの隕石落下は今もってなぞとなっているのです。


 * 先日、テレビのお宝鑑定団を見ていたら元自衛隊の隊員さんが、南極で拾ってきたコブシくらいの隕石を持ち込んで居ました。
何十万円かの値段をつけていましが、鑑定の結果、隕石ではなきく、ただの石ころで数百円の値がついていました、ザンネン・・

             ・・・・

イメージ 5

                                                         (ハナショウブ)



(152)ウイスキーの通貨

$
0
0

       (152) ウイスキーの通貨   7月1日

 今日から早や7月、今年ももう半年も過ぎてしまったんですね、改めて時の流れの速さを痛感。
ところで1889年(明治22年)7月1日には東海道線、新橋~神戸間が全線開通しています。
    
 イメージ 1  ♪汽笛一声新橋を
     はや我が汽車は離れたり
     愛宕の山に入りのこる
     月を旅路の友として

 その東海道線はもともと東京駅からではなく新橋駅から始まっています。
 それを今のように都心に伸ばして東京駅を造ろうと言う試みは明治中期からありましたが、不況や日露戦争のおかげで工事は見送りとなり、実際に東京駅が出来上がったのは1914年・大正3年の事でした。
                                                                                                                                          ↑(明治初期の機関車)


 東京駅は佐賀県唐津市の出身の建築家 「辰野辰吾氏」 の設計で、本屋7000平方m、左右対称のレンガ造りの堂々たる建物は新しい東京名物になりました。ちなみにその東京駅の誕生で新橋駅は東京の旅客ターミナルとしての役割を失い、代わりに貨物の大集散地「汐留駅」に変わりました。
 
  〇  「ウイスキーの通貨」 7月1日
 
イメージ 2 突然、話は変わりますが、ウイスキーのバーボンについての話です。
アメリカの第16代大統領「アブラハム・リンカーン」は中西部の農村の出身で、彼の父はまだ荒れ野に近かったインディアナに入植した開拓者でした。

  当時の記録によると、彼の財産は20ドルの現金と10樽のウイスキーだけでした。ウイスキーが10樽と言うとかなりの量ですが、別段彼がアル中だったというわけではありません。と言うのは、このウイスキーの財産も実はケンタッキーの農場を売り払った時の代金だったのです。そのころの西部ではウイスキーが通貨として流通していて、リンカーンの父はこのウイスキーを払ってインデァナの土地を買った、というわけです。

 
  イメージ 3当時のウイスキーの貨幣価値は非常に高く、例えば1ガロン(約、3,7キロ・2升)のウィスキーを持っていけば、インディアンから大鹿の毛皮を一頭分買うことが出来たのです。おかしな話ですが開拓時代の新生アメリカの経済はこのようにして動いていたのです。

 この時のウイスキーはトウモロコシを原料にした純粋なアメリカ製の「バーボン・ウイスキー」でした。バーボンを始めて作ったのが誰かは分かりませんが、商品としてのバーボン・ウイスキーの蒸留所を最初に作ったのは、1771年、ケンタッキーの「エパン・シェルビイ」と言う人でした。

                                          19世紀のバーボンの瓶 →

 
 ところがアメリカの国家財政が悪くなってきたので、政府は酒に税金をかける事になり、1791年7月1日 にウイスキーへの課税が連邦議会を通過しました。勿論バーボンの生産地であるケンタッキー市では大反対運動が起こり、税吏は行く先々で暴行を受けたり、イヤがらせを受けたりしたので、とうとう実質的には課税出来なくなり、1800年にこの課税は撤廃されてしまいました。


             ・・・・・・

(153)金閣寺全焼

$
0
0
  
       (153) 「7月2日」  金閣寺全焼

今日は7月2日、暦の上では半夏生(ハンゲショウです。
夏至から数えて11日目を「半夏生・ハンゲショウ」と言いますが、この半夏生前後に生える植物に「ハンゲショウ」があります。

イメージ 1

 「ハンゲショウ」は水辺に生える野草で、半夏生の頃に生えるので「ハンゲショウ」と言う名前がついています。6月下旬から7月にかけて、15cmくらいの花穂を伸ばし、花びらを持たない白い小花をたくさん咲かせます。花が咲く頃に花穂のすぐ下の葉っぱの付け根の部分から先端にかけて半分ほど白い色に変わります。そこで別名を「片白草・カタシログサ」とも言います。

イメージ 2

   また「ハンゲショウ」は「半化粧」とも書きますが、これは花が咲く頃に葉っぱが半分くらい白く色づく様子が半分化粧をしているように見えるところに由来しています。
 そして花が終わると葉っぱの白い部分が消えて、また元の緑に戻るから何とも不思議です。


* 「亀の子たわしの発明」   7月2日
 
    イメージ 3むかしは鍋や釜などを洗うときには、切り藁を束ねて使っていました。まだ水道が充分普及していない頃は、田舎の家の前の小川や堀の岸に「タナジ」と言う洗い場があって、ここで水を汲んだり、洗濯したり、わら束をたわしにして鍋釜を洗ったりしたものです。

 要するに昔のタワシは堅く粗い繊維で、金属類をこするという程度でした。

 このたわしの材料としてヤシの繊維を使い、一定の長さに揃えて2本の針金で留め、それを楕円形に巻いた「亀の子たわし」を発明したのは東京の「西尾正左衛門」と言う人で、1915年(大正4年)7月2日に特許を取っています。

 イメージ 4特許を取るにはその商品の名前が必要です。
どうしようか・・と迷っているとき、息子が「見てみて、カメの子が泳いでいるよ」と声をかけました。見るとたらいの中で亀の子が泳いでいます。そうだ、形が亀の子に似ているし、亀は万年と言って縁起がいい」と思い、「亀の子たわし」と言う名前にしたのだそうです。


 その亀の子たわしも、今はナイロンやスポンジのたわしにとって代わられ、殆ど使われなくなりました。 時の流れは速く、物も人も次々に変わっていきます。


  *  「金閣寺全焼」 7月2日

*1950年の今日、7月2日に京都の金閣寺が全焼しました。

イメージ 5
                                                (雪の金閣寺)


 昭和25年7月2日午前3時頃、京都鹿苑寺(通称・金閣寺)が放火により全焼しました。この火事で応永4年(1397年)に足利義満が建立した3層構造の美しい舎利殿とともに足利義満の木像、運慶作の観音菩薩像などの貴重な国宝が全て焼失して灰になってしまいました。


イメージ 6
                                              (焼失前の金閣寺・戦前)


 犯人の修行僧「養賢」は犯行後、金閣寺裏にある左大文字山で薬物を飲み、刃物で腹を刺してうずくまっていた処を逮捕され、同年12月懲役7年の判決を受けて服役しましたが、昭和31年3月、持病の結核のために死亡しました。今は、息子の犯行後汽車から飛び降り自殺した母親と共に、青葉山山麓の共同墓地にひっそりと眠っています。

      
イメージ 7
                                                     (焼失後)


 作家三島由紀夫が、この事件をモデルに代表作の「金閣寺」
を発表していますが、放火の真の原因は分かりません。「養賢」は「社会への反抗」と言っていたそうですが。。

 
              ・・・・・

イメージ 8
                                                 (半夏生の水辺)



(154)飛行船

$
0
0
 
                     今日は7月3日、七三のごろ合わせで「波の日」だそうです。

イメージ 1
                                               (われは海の子・・中島潔 画)


  むかし、小学6年の唱歌の時間に、「我は海の子」を習いました。

           ♪ 我は海の子  白浪(しらなみ)の
                さわぐいそべの  松原に、
                煙たなびく  とまやこそ
               我がなつかしき 住家(すみか)なれ。


 昔は川や海でよく泳ぎました。疲れると屋根の瓦の上や浜辺で背中を焼いたものです。
翌朝、体じゅうが日焼けでひりひり痛むのも忘れて・・
 生白いと女のようだと軽蔑され、真っ黒に日焼けした肌が男の子の自慢でした。

   「よく遊び、よく学べ」・・
 夏休みが終わって新学期には、教室内で「黒んぼ大会」が開かれたりしました。

 
イメージ 2
                                                 (昔の水遊び・・昭和11年)



   〇 (154)  「飛行船」 7月2日
 
 熱気球など風船による飛行はいろんな発明家によって実験されてきましたが、本格的な飛行船は、ガソリンエンジンを推進力として使い、水素を浮力にして堅い骨組みを使って組み立てられた「ツェッペリン伯号」が最初でした。

イメージ 3
                                      (ツエッペリン第一号 LZ-1号機 の初飛行)


 イメージ 6
   ツェッペリン伯爵は元ドイツ軍人で、日本で有名なシーボルトの孫とツェッペリン伯爵の娘が結婚して親戚関係になっています。
 1898年から硬式飛行船の研究製造に関与し、大飛行船時代を樹立しました。その第一号飛行船LZ-1号機1900年7月2日 に初めて空に飛びあがりましたが、この試験飛行は見事に成功し、ボーデン湖上空を三回飛行しました。

  ← 大尉時代のツェッペリン

 
 1909年には世界最初の航空輸送会社DELAGが設立され、ドイツ国内各地を結ぶ航空路線が開設されました。その後、飛行船製造会社ではL126、127号機など数多くの飛行船が製造され、この会社は1910年から14年間の5年間で、およそ3万5000人の旅客を運んでいます。ただしこの旅客の中で正規の運賃を払ったのは1万人ほどで、その旅客の大部分はなんらかの形で飛行船のタダ乗りをしていたことになります。

イメージ 7

 昭和4年(1929年)8月19日には、世界一周の途中「ツェッペリンLZー127号」が日本に立ち寄って、霞ヶ浦沿岸に着陸しましたが、この時、会場には30万人もの人々が詰め掛けたと言われています。


イメージ 4


 その後、1914年には103隻の軍用飛行船を運航させて英国爆撃などを行なっていますが、速度が遅い飛行船では、あまり爆撃の効果はなかったようです。1917年、ツェッペリンはその大戦の最中に78歳で生涯をとじました。

 1939年には、LZ129・ヒンデンブルク号が大西洋を横断してニューヨーク近郊の空軍基地に着陸しようとしたとき、尾翼付近から突如爆発、炎上して乗員・乗客97人中35人が死亡しました。

 
イメージ 5
 

 この謎の爆発により飛行船への信頼は大きく失墜して、飛行船の時代は終焉を告げたのでした。

                  
                              ・・・・・

(155)アメリカ独立記念日

$
0
0
       (155)  アメリカ独立記念日   「7月4日」

  1934年7月4日キュリー夫人が亡くなりました。
マリー・キュリー夫人(1867-1934)はフランスの物理学者です。ポーランド出身で夫のピエール・キュリーと協力してラジウムを発見し、二人ともノーベル賞を受けています。

イメージ 1  マリーは1895年7月26日、28歳の時36歳のピエールと結婚しましたが、それから11年後の1906年4月に、夫のピエールは荷馬車に轢かれて死んでしまいました。しかしマリーはピェールの老父によく仕え、二人の子供を育てながら研究に没頭しました。ある時彼女は「一番欲しいものは?」と聞かれ 「研究に必要なラジウム1グラムです.高くて買えません」 と答えたそうです。
 それほど生活は貧しかったのですね。

 *・・「冒険精神こそが人間の原始的な本能であり、これが好奇心となって現れるのです。この好奇心と冒険精神が人類から失われれば、とても人類が存続するとは思われません。幼児にもあらゆる年齢層にも冒険精神が見いだされるのです。」  ・ キュリー夫人


  * 7月4日 「二人の前大統領」

 今日、7月4日はアメリカの独立記念日です。1776年7月4日にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、アメリカでは毎年この日を独立記念日として、祝日に定められています。
 独立宣言はイギリスによって統治されていた13の植民地が、独立したことを宣言する文書で、トマス・ジェファーソンが起草し7月4日の大陸会議によって採択されました。

イメージ 2
                                              (独立宣言書の署名)


 イメージ 3独立宣言を起草したアメリカの第三代統領 「トマス・ジェファーソン」 は1826年にはもう83歳の老人で、既に大統領の座を退いていました。彼はこの年の春ごろには消化器の病にかかり、自ら余命いくばくもないのを自覚していましたが、彼の唯一の願いは何とかして7月4日の独立記念日まで生き延びる事でした。特にこの年は彼が起草した独立宣言から50周年でしたから、独立記念日は特別の意味を持っていたのです。

  ← ジェファーソンの切手

 ジェファーソンの意識はすでに朦朧としていましたが、彼は側近に「今日は7月4日か?」と、毎日聞き続けていました。
  やがて7月4日がやってきました、ジェファーソンがまたも同じように尋ねると、側近は「はい、7月4日になりました」と答えました。するとジェファーソンは満足げに微笑んで、そのまま息を引き取りました。

 イメージ 4この同じ日に、前職の七歳年上の第二代大統領 「ジョン・アダムズ」 も亡くなりました。アダムズは昔からの親友であるジェファーソンを想いながら「ジェファーソンはまだ生きるさ~」といいながら「合衆国よ、永遠なれ」という最後の言葉を残して死にました。

 だが、実際にはジェファーソンの方が数時間前にすでに死んで居たのです。建国50年の記念すべき独立記念日はこのように二人の前大統領の死によって飾られたのでした。

 
 ↑ ジョン・アダムズ

 ちなみに、アメリカでは7月4日の独立記念日には、女性は「オオヤエクチナシ」の花を頭に挿して祝うそうです。「大八重クチナシ」は香りの高い大輪のクチナシで、日本からアメリカに渡ったクチナシがアメリカで改良されたものです。


 

  イメージ 5

     

              くちなしの 香もこそ人を おもへとや   成瀬桜桃子


                      ・・・・・・

(156)下山事件

$
0
0
        (156) 下山事件     「7月5日」

  終戦直後の社会的混乱の時代、食糧難と思想的価値観の変動によって、帝銀事件や三鷹事件など不可解な重大犯罪が連続して起こりました。その一つが国鉄総裁が怪死した「下山事件」でした。

 1949年(昭和24年)7月5日、下山事件が起こりました。

 
イメージ 1


  初代国鉄総裁・下山定則氏は、朝の午前9時30分過ぎ、出社の途中で公用車を待たせたまま立ち寄った日本橋三越から忽然と姿を消しました。
 翌 7月6日、総裁の行方不明を知った警視庁では午後2時ごろ極秘捜査を開始し、午後5時すぎから公開捜査に踏み切ったのですが、失踪から15時間後に、常磐線の北千住と綾瀬駅間で、総裁は轢死体となって発見されたのです。
 
イメージ 2
                                              (事件現場)


 果たして自殺か? 他殺か?
ちょうど総裁失踪の前日に国鉄は3万7百人の従業員に対して第一次整理通告を出したばかりだったのです。総裁の死はこの国鉄の大量人員整理の前だったのに加え、占領軍による共産党弾圧という社会的背景もあって、様々な憶測を生みましたが、戦後最大の怪事件の謎はとうとう解かれぬままに終わってしまいました。

 そして下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、この三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれています。


  *  「日本の大砲」  7月5日

イメージ 7
                              (戊辰戦争、上野の彰義隊に対して佐賀藩兵の砲撃)


  佐賀藩士「杉谷雍介」は1847年(弘化4年)オランダの鋳造技術書を読み、その三年後にこの本の記録に従って鉄の大砲を作ることに着手しました。

イメージ 3
                                              (佐賀藩の砲術伝習生たち)


 原料の銑鉄は石見から、燃料の木炭は日向と肥後から、そして鋳型や反射炉用の耐火石材は天草から・・と言う風に西日本各地から材料を集めて実験してみましたが、なかなかうまくいきません。

イメージ 8 結局、合計30回余りの実験の末、1852年(嘉永五年)7月5日に4台の反射炉から合計1万2千斤の鋳鉄を作り出し、翌年五月には150ポンド砲と180ポンド砲が完成しました。
 これが日本に置ける大砲製造の始まりでした。 

 ちょどアメリカのペルリ艦隊来航の時でもあり、幕府は佐賀藩に対して大至急で36ポンド砲25門と24ポンド砲25門を発注したのです。この150ポンド砲は、幕府に献上され品川のお台場に据え付けられました。また、ほかのカノン砲は長崎のお台場に据え付けられました。
  ↑ペルリ提督

 この佐賀藩の反射炉の築造や大砲の鋳造に刺激されて、薩摩、水戸などの雄藩も次々に反射炉を造りました。有名な江川太郎左衛門の韮山の反射炉も佐賀藩の反射炉に習って作られたものです。
 これが日本に置ける大砲製造の始まりでした。 


イメージ 4
                                 (復元された24ポンドカノン砲・佐賀城本丸御殿前)
     
      
   (佐賀の乱、戦没者慰霊の日に、佐賀城堀端で復元キャノン砲の模射があります。)

イメージ 5

                                もちろん空砲ですが、なかなか豪快ですぞ。。

イメージ 6
 

(157)狂犬病のワクチン

$
0
0
       (157)  狂犬病ワクチンの始まり   7月6日

  
イメージ 5
                                                   (エヘヘー・・コンチワ)


 昔は狂犬病が多くて、犬に噛まれるのがとても怖かったです。中学生のころ、うちの飼い犬の秋田犬がご近所の娘さんの脚を噛んだ時も、検査やらお見舞いやら大変でした。何しろ狂犬病になると、犬のようによだれを垂らして、痙攣して狂い死にする、と言われていました。飼い犬は可愛いですが、人を噛んだり、毎年、狂犬病の予防接種に連れて行くのが一苦労でした。なのにシランは自分の飼い犬に脚を噛まれたりしたんですよー、痛かったなぁ、今でもふくらはぎに牙のあとが残っています。

 イメージ 2ところで、いろんな伝染病には、免疫力をつけるためにワクチンを注射しますが、もともとこのワクチンと言う言葉の語源はラテン語の「Vacca」で、雌牛の事を意味します。それは牛痘にかかった雌牛の皮膚から採った痘苗を種痘に使ったからです。

 イギリスの ←「エドワード・ジェンナー」が自然に牛痘にかかった事のある乳しぼりの女性が天然痘にかからない事に注目して種痘と言うワクチンを考え出しました。1796年5月14日、ジェンナーは使用人の子であるジェームズ・フィップスという8歳の少年に牛痘を接種して初めて種痘に成功しました。


イメージ 3
                                          (牛痘にかかった牛を調べるジェンナー)


イメージ 4 ジェンナーが種痘に成功したた90年後の1886年7月6日、フランスの生理化学研究所の主任研究者だった「ルイ・パスツール」の所に「J・メイスター」と言う9歳の少年が担ぎ込まれてきました。

  この少年は不運にもその二日前に、狂犬に体じゅうを噛まれて苦痛に身もだえしていました。このまま放って置いたらきっと死んでしまうかもしれないと考えたメイスター少年の両親は、パスツールがワクチンを研究し動物実験に成功している、と言うのを聞いてやってきたのでした。

   ← パスツール

 確かにパスツールはジェンナーに啓発されて様々なワクチンを開発していました。例えば、鶏のコレラのワクチンや、羊の脾脱症のワクチンと、いずれも成功していました。そこで次に手を染めたのが狂犬病で、狂犬にワクチンを注射して治療することも出来たし、予防ワクチンとして使用することも可能でした。病原体はこのワクチンで見事に散ってしまったのです。

 イメージ 6しかし、いま担ぎ込まれてきたのは犬ではなく、まさしく人間だったのです。それもまだ年も若い少年です。果たしてこのワクチンの注射で効果があるだろうか、、いやひょっとしたらこの少年は注射のために死んでしまうのではないか1?。。

                                                                (狂犬病の犬) →

  パスツールは独断を避け、同僚たちに相談してみました。

 そして・・・ 「どのみち、注射をせずにこのまま放って置いたらメイスター少年は死んでしまうに違いない。たとえ一つの確率であってもワクチン注射治る見込みがあるなら、今こそ勇気をもってワクチンを注射すべきだ…」と言う同僚たちの言葉に励まされて、パスツールは初めて人体に注射を打ったのです。

 イメージ 7 最初は微量を、そしてだんだんに分量を増やし2週間ほど患者の様子を見ました。動物実験からすぐさま人体への注射は、見ようによっては無謀な事でしたが、パスツールは見事にこの治療に成功したのです。
 フランス・カデミーはパスツールのこの功績を記念して、その翌年パスツール研究所の設立を満場一致で決定しました。命を救われたメイスター少年はこれが機縁となって、その後パスツール研究所の門衛として、その一生を終えました。

  よかった、よかった・・ワン!
イメージ 1
                                                    (月の犬・・・ここ掘れワンワン)



 *佐賀、福岡南部の豪雨も今日はどうやら一休み、昨夜は一晩中激しい雷雨で眠れませんでしたが、幸い佐賀市内は被害もなくて済みました。ただ買い出しに行けなくて冷蔵庫の中はガラン堂です。  
 没法子!!
   買い置きのさんまの缶詰でも食べるか。。

 福岡の朝倉一帯は野菜や果物の産地、野菜類がまた高くなるでしょうね。

           ・・・・・

(158) 七夕 「ロックフェラー物語」 

$
0
0
     (158)  「ロックフェラー物語」  「7月7日」 

 イメージ 11870年、ジョン・ロックフェラーはオハイオ州でスタンダード石油会社という会社を造りました。ちょど自動車時代が明ける前夜でした。灯油の需要も多く、彼の事業は成功して5年後にはクリーブランドに精油所をつくり、更に1678年にはロックフェラーはアメリカン石油産業の85%を支配するまでになりました。

 なぜこんな事が可能だったかと言うと、産油地から各地に伸びる鉄道網を全部抑えて居たからです。鉄道と石油を握ったロックフェラーはまさしくアメリカの実権者でした。しかし、これではあまりに独占過ぎるというので、独占禁止法に引っかかり、1892年に法廷はこの財閥の解体を命令しました。

↑ J ・ロックフェラー

 しかし、ロックフェラーも負けてはいません。ニュージョージャー州に新たにスタンダード石油会社を造り、この会社が持株会社になって、一旦、解散させえられた巨大財閥の末端までを支配するようになりました。そこで再び公正政取引委員会が動き、1911年にまたまた財閥解体を命じました。然し、それにも関わらず、エクソン、シェプロン、モービルなどの大手石油会社はロックフェラー一家の支配下にあります。

イメージ 2
                                    (スタンダード石油、第一精油所・1899年)

 イメージ 3
  1937年にロックフェラーは死にましたが、そのとき巨額の財産はごく僅かしか残っていませんでした。かねて親族にはそれぞれ地位や財産を生前贈与で分け与えていたのです。

  彼の遺言には孫娘のM・デ・クエパスに2500万ドルを遺贈し、残りはロックフェラー財団の基金に繰り入れるように指示していました。 デ・クエパスは母に先立たれた女性であるから、彼女だけは面倒を見てあげねばなるまいと、思ったのでしよう。

 彼の誕生日は1839年7月7日ですから、殆ど一世紀を生きた堂々たる長寿の大富豪でした。


←石油と列車の王冠をかぶった石油王・・
  ロックフェラーの風刺画



    「7月7日」  七夕の起源

 今日は7月7日、七夕ですね。

 昭和30年代、仙台や平塚の七夕祭りを真似て、佐賀市内でも七夕まつりが開かれ、商店街にはたくさん七夕飾りが飾られて、人出でもいっぱいでしたが、何時の間にやら無人のシャッター通りとなり、時代の変遷のすさまじさに驚かされます。

イメージ 4
                                     (七夕祭りの佐賀市商店街・昭和30年代)


 ところで、七夕は牽牛星と織女星が一年に一度天空で出会う日だとされています。とりわけ平安時代には上流の子女が乞巧奠(こっこうてん)と言う星祭りをしたと言いますが、日本文化の中では、七夕は一種のお祓いの意味が強かったようです。

 例えば、この日に女性は髪を洗い、町屋では硯や仏具を洗いました。要するにお盆を迎える前夜祭ともいうべき、浄めの儀式がこの七夕だったのです。
 実際、地方によってはご先祖様が「タナバタ馬」に乗って帰ってくるという信仰があり、ワラで造った馬を屋根の上に乗せたりする所もあります。

 ちなみに、もともと七夕は天の川のよく見える初秋の行事でした。それが新暦の7月7日となって、ちょうど梅雨時と重なり、星祭りにはあまり適切とは言えない時季になってしまいました。と言うよりも、もともと街中ではネオンの反射で空が明るく、天の川も北斗七星もさっぱり見えなくなってしまいました。それに引き換え、白馬岳の山頂小屋から眺めた満天の星のすばらしかったこと。。☆☆☆・・

                      イメージ 5

 子どもの頃、夏休みの8月7日、朝早く近くの蓮堀から蓮の葉の上の露玉を集めてきて、硯に入れて墨をすりました。 勉強ができますようにとか、字がうまくなりますように・とか短冊に願い事を書きました。千代紙で織った奴さんや着物、家、網などと一緒にその短冊を小学校の運動場に建てた大きな笹竹にくくりつけました。  こんなざれ歌を歌ったりして・・
 
        七夕や 七夕や
        棚から落ちて 腰打って
        痛さこらえて 西瓜一切れ

 昭和16年、国民学校では「たなばたさま」という唱歌も習ったようですが、シランの頃はまだ国民学校ではなく小学校だったので、この歌は習いませんでした。
 
    ♪ 「たなばたさま」

         ささの葉 さらさら
        のきばに ゆれる
        お星さま きらきら
        きんぎん 砂子(すなご)

                              遠い、遠い子どもの日の思い出です。

イメージ 6
                                                    (落花)
        

                     ・・・・・・               
Viewing all 1820 articles
Browse latest View live




Latest Images