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(119)ダービーの起源

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     (119) 「ダービーの起源」  5月28日

 今日は日本ダービーですね、競馬ファンならずとも一喜一憂、胸躍らせることでしょう。ダービーと言えばイギリスが本場ですが、ではそのダービーの始まりはいつの事でしょうか。。

 イメージ 21780年5月7日、第12代のダービー伯爵である「E・スタンレー」がサラブレッドの4歳馬を集めて競馬を開催しました。場所はロンドン郊外のエプソム競馬場で、それ以来この競馬を「ダービー」と呼ばれて、近代競馬のモデルになりました。

 エプソムのダービー・コースは不整形な馬蹄形の左回りで、ダッシュから400mが急な上り坂、この坂を登りきると平らになって第2カーブで急な下り坂になっていました。ここから400mほど下り坂が続いて最後の800mは平たんな直線になっていました。その後時代によってコーナーを削ったり、継ぎ足したりした結果、走路の全長は変化しましたが、現在ではおよそ2,400mになっています。
 
 ↑(E・スタンレー伯爵)


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                                           (1821年のダービー)


 ダービーの最大の功績は競馬を紳士淑女のゲームにしたということでしょう。イギリスではダービーの日は官庁も銀行も休日で、男はダービーハット(山高帽)をかぶり、女は最新流行のドレスをまといます。それに国王も参加して観衆は100万人に及ぶという大変な賑わいだそうです。このイギリスのダービーは毎年6月の第1水曜に行われています。

 このダービーにあやかってアメリカでは「ケンタッキー・ダービー」日本では「日本ダービー」が生まれ、今やダービーと言う言葉は普通名詞化してしまいました。
 ちなみに、日本で第一回のダービーが行われたのは1932年(昭和7年)の4月24日で、毎年5月の最終日曜日(今年は今日・5月28日)に行われています。


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                                   (05年日本ダービー・ディープ・インパクト優勝)

   さて今日の本命は? 穴馬は??

* 府中競馬場では15万人の大観衆が熱狂するようですが、競馬競輪・・賭け事には全く関心のないシランには馬耳東風、馬の耳に念仏です。

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                    ♪走れ、走れ、コウタロー!!





(120)大砲の記録

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     (120) 「大砲の記録」  5月29日

 今日も北朝鮮のミサイル発射がありました。昔の子供が紙鉄砲を撃って手を叩いて喜んでいるような有様ですね。何度条約違反だとか、厳重抗議と言ってもなんの効果もありません、話し合いでといくら言っても、現実には外交の裏側には武力が必要なようですね。 不謹慎な話ですが・・

 ところで最近の戦争はミサイルの先制攻撃がほとんどで、大砲の打ち合いと言うような戦闘は昔の事のようになってきました。この大砲はいつ誰によって発明されたかはよく分かっていません。一説によると、1250年ごろスペインに攻め込んだアラブ人が大砲を使ったと言われていますが、また別の説では1259年に南宋の寿春府で開発された「実火槍」と呼ばれる木製火砲が最初だという話もあります。

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                                         (日露戦争の日本軍、28センチ榴弾砲)


 しかし、大砲を武器として使った最初の戦争は、1453年のトルコ軍によるコンスタンチノーブル攻略戦でした。オットマン・トルコのサルタン「モハメッド2世」は大軍をもってコンスタンチノーブル(今のイスタンプール)を攻撃したのですが、この時ハンガリー人の「ウルバンが造った大砲68門が動員されています。この「ウルバン大砲」の中で最大の物は、砲身の長さ8m、直径75センチ、重さ20トンと言う巨大なもので、それを動かすのに200人が必要だったといわれています。


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 この「ウルバンの巨砲」は500キロの石弾を1,6キロ先まで飛ばすことが出来ましたが、一回撃つと次の発射までに3時間もかかり砲弾として使える石も非常に少ないのが欠点でした。そして射撃の反動がもとで6週間使うと大砲が壊れてしまうという始末でした。

 コンスタンチノーブルは総延長20キロにも及ぶ厚い壁で防御された城郭都市でした。トルコ軍はこの厚い壁を壊すためにこの大砲を撃ち続けました。尤も、その頃の砲弾は炸裂弾ではなくて巨石だったので、大砲と言うよりもいわば強力な投石機と言うのがふさわしいでしょう。砲撃は50日間にわたって続けられ何回か城壁は穴を開けられましたが、城内の兵士たちは穴があけられるたびに敏速に石を運んで城壁を修復してしまいました。射撃間隔がとても長いので、その間に壊れたところを充分修理できたのです。 砲撃戦とは言っても、いささか間の抜けた戦いでした。

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                                                     (1453年、ウルバンの巨砲)


 しかしこの穴明けと修復の競争にもついに終わりがきました。1453年5月29日、城壁の一角が修復不可能な程に大きく崩れ、そこに1200人のトルコ兵が侵入して占領してしまったのです。トルコ兵はこの大砲を征服後もこの地にとどめて、それからなんと3世紀半後の1807年、今度は黒海に侵入したイギリス艦隊に向かって再び発射したのです。この大砲でイギリスの水兵60人が殺されましたが、今この大砲は皮肉にも巡り巡ってなんとイギリスのロンドン塔で展示されているのです。


 ところで日本で最初に大砲を作ったのは、幕末の佐賀藩でした。
鎖国と言う閉鎖社会の中にあっても、第十代佐賀藩主「鍋島直正」は海外にも目を向けていました。

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                                                  (アームストロング砲)


 当時、中国で起きた阿片戦争を知った直正は「外国との戦争が起きれば日本は侵略されてしまう」との強い危機感を抱き、当時世界最先端の大砲と言われた「アームストロング砲」の導入を始め、日本最初の反射炉の建設、砲身の長い洋式大砲 「カノン砲」の製造、蒸気機関や蒸気船の製造などを始めています。直正はこのように西洋の先進技術を積極的に取り入れて、列強の脅威に立ち向かおうとしたからでしょう。

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                      (上野戦争の佐賀藩のアームストロング砲)

 佐賀藩士「杉谷雍介」は1847年(弘化4年)オランダの鋳造技術書を読み、その三年後にこの本の記録に従って鉄の大砲を作ることに着手しました。

 
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                     (佐賀藩・長崎砲術伝習生たち)


 そして合計30回余りの実験の末、1852年(嘉永五年)に4台の反射炉から合計1万2千斤の鋳鉄を作り出し、翌年五月に150ポンド砲の製造に成功しています。この150ポンド砲は、幕府に献上され品川のお台場に据え付けられました。ちょどアメリカのペルリ艦隊来航の時でもあり、幕府は佐賀藩に対して大至急で36ポンド砲25門と24ポンド砲25門を発注したのです。これらのカノン砲は長崎のお台場に据え付けられました。

  これが日本に置ける大砲製造の始まりだったのです。

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                                   (24ポンドカノン砲・佐賀城本丸歴史館前)

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                                      (復元したカノン砲の模擬発射・佐賀城北堀)


  ・・・・・
 

(121) 飛行機の始まり

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       (121) 「飛行機の始まり」  5月30日

 世界で初めて本格的に飛行機で飛んだのは、アメリカの「ライト兄弟」だというのが定説になっています。
 兄の「ウイルバー・ライト」と弟の「オーヴィル」は飛行機の製作と実験に取り組み、1903年12月17日に、動力を備えた飛行機「ライトフライヤー号」による世界初の本格的な有人飛行を行いました。この機体は木製の布張りで、ただ飛んだだけではなく、操縦者が腹ばいになって操縦には左右の手を使い、右の手の操縦桿で旋回し左手の操縦桿で機首の上げ下げを行いました。
この時の操縦者は弟のオーヴィルで、右の人物が兄のウィルバー、見物人は僅か5人だったそうです。

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                                             (初飛行のフライヤー号)

 さらに1905年には「フライヤー3号」で初めて実用的な飛行に成功しました。フライヤー3号は翼の長さ12m。16馬力で2個のプロペラを回転させ、時速60キロで30分以上飛び続けることが出来ました。
 ライト兄弟のこのフライヤー3号の最大の特徴は、飛行機をその操縦性で安定させよう、と言う考えを基本にしていたことでした。もともと飛行機についてはヨーロッパでも研究開発が進められていましたが、ヨーロッパの発明家たちは飛行機をいわば「空飛ぶ自動車」として考えていて、機体自身が空中で安定して居なければならない、という先入観にとらわれていました。

 イメージ 3然し実際に空中を飛行してみると大気は常に流動的で、気流や風向きのおかげで決して安定的ではありえません。鳥の飛翔を見てもわかるように、翼の向きを変えたり斜めに傾けたりして、そうした気流の変化に飛行機を合わせて行くことが、飛行機の実用化の第一歩なのだ、と言うことをライト兄弟はそれまでの数年間の経験で知っていたのです。

 その意味で「フライヤー3号」は方向舵や補助翼によって前後、上下、左右の三方向に自由に操縦できるという、素晴らしい性能を持った飛行機だったのです。ライト兄弟はフライヤー3号で円形のコースを飛んだり、S字型の飛行をしてみたりしました。そしてこの飛行機を二人乗りにしたり、2台の飛行機で兄弟の編隊飛行をしたりもしました。これらのテストは40回以上も繰り返され、すべて成功しています。
 ↑ライト兄弟・左が兄

 しかし、これだけ飛行機の性能が上がってくると、一定の離着陸用の飛行場が必要になってきました。フライヤー3号は地表に固定されたモノレールの上からカタパルト式に離陸し、着地する時には機体の着地面に取り付けられたソリを利用して平地に降りていましたが、原っぱを勝手やたらに使うのは具合が悪くなりました。そこでフライヤー3号の成功と同時に、オハイオ州デイトン郊外にライト兄弟専用の飛行場ができました。
 これが世界で始めての飛行場だったのです。

 そして兄の方の「ウイルバー・ライト」1912年5月30日に亡くなりました。
また弟のオーヴィルの方はその後、1908年9月17日に自身が操縦していたライトフライヤーがデモ飛行中に墜落して重傷を負い、最初の飛行機事故者としても知られています。

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 その後、飛行機は第一次大戦によって飛躍的に発展、進歩しました。実戦用の飛行機の始めは偵察用でした。そのころは、敵の偵察機と出会っても操縦者はお互いにハンカチを振りあった、というのんびりした逸話も残っています。然しすぐにピストルを撃ち合うようになり、武器も機関銃へと進化して戦闘機が造られ、また爆弾を落とす爆撃機も生まれました。

 第二次世界大戦になると飛行機は更に進化して、戦争の主役となって登場するようになりました。

          
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                                      (昭和12年5月・朝日新聞社機・神風号)

               ・・・・

(122)浅草の富士山

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                (122)  「浅草の富士山」  5月31日


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                                               (鳳凰三山より富士山を望む)


       ♪  あたまを雲の 上に出し 
           四方の山を 見おろしてイメージ 1

           かみなりさまを 下に聞く
           富士は日本一の山 


         いつ見ても富士山はきれいですね。
         日本人なら一度は富士山に登ってみたいものです。


 シランも62歳の時、一度登りました。しかし、寒さと酸素不足のため、山頂近くの胸突き八丁の苦しさは並大抵ではなかったです。麓から見る秀麗な富士の姿からは到底考えられない赤茶けた溶岩だらけの無味乾燥の世界でした。

 イメージ 2富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿・・と言われるのも,なるほどと思いました。
 ところでこの富士山を浅草に作って見世物にした、と言う面白い話が残っています。

 昔は浅草の富士神宮では5月31日6月1日に植木市が開かれていました。(*今は5月、6月の最終土日の4日間)

  この日、明治以降は植木市が立つようになり、ちょうど入梅の時で植木を移植するのには最適の時期でもあり「お富士様の植木市で買った木はよくつく」と言い伝えられて次第に盛んになりました。
 そもそも浅草に富士山と言うといかにも奇異に聞こえますが、これには中々ユニークな由来があります。

 1887年(明治20年)「浅草に富士山を造って見世物にしよう」という奇想天外なアイデァを持ち出した人物が居ました。と言っても何も土を運んできて山を作るのではありません。太い材木を組み合わせて骨組みを作り、その上の材料を張り合わせて色を付け、小型の富士山の模型を作るのです。


 イメージ 4この富士山のヒントになったのは、浅草寺の修復の際には大きな足場がかけられます。その足場が出来かかると参拝者の中には、無断でどんどん足場を登る連中が出てきました。こうして本堂の高さまで登って見ると、なるほど360度さえぎるもののない眺望で、東京市内がよく見渡せます。その人気ぶりを見て、これなら本堂より高い構造物を作れば、人はお金を払ってでも登るに違いないと考えたのです。

 そしてその考えを実行に移しました。その高さ36m、これが木造なのですから現在の建築基準から見たら無謀としか思えない建造物でした。然し出来上がって見ると大変な評判で、東京名物になりました。何しろ36mと言えば当時の丸ビルくらいの高さですから眺望絶佳だったに違いありません。

 当時の新聞広告によれば
 〇 「十一月六日より、東京浅草公園第六区にて、木造富士山の見世物」
「今般、浅草公園第六区の地へ木造にて新築したる富士山は、其の高サ十八間、裾廻り百五十間、登りの長サ二百間、降り二百三十間にして、頂上の廻り十八間。此所に望遠鏡を設け、東は隅田川より鴻の台を眺め、西は箱根の連山より富士の本山を望み、南は府下の市街を一覧し、北は吉原の遊廓及び千住、戸田近郊を脚下に見下ろす絶景あり。
 実に開闢以来未曾有の見物なれば、開業当日より四方の諸君陸続御光臨の程、伏して奉願上候」


         うはさよりのぼれば高き冨士の峯 
            かすみの中に見ゆるはんえい
       「正木宝州」

   明治二十年十月御届。  定価一銭五厘。。。とあります。

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イメージ 5 しかし、富士山と言ってもこんな無茶なハリボテの建造物だったために、ひとたび台風がやってきただけで壊れてしまいました。ただ、この伝統があったのでその後、浅草12階と言う建物が計画されたのです。人間は元来、子供の木登りみたいに、高い所ろに登るのが好きなのです。。

 ところで、浅草に富士山を造ろうという噂を聞いて、それなら浅草でなく駿河台に作るべきだ、と言い出したのが文学士の辰巳小次郎でした。彼はその数年前にニコライ堂が駿河台に出来たのを苦々しく思っていました。

 駿河台に高々とそびえたつニコライ堂からは皇居が丸見えです。こともあろうに外国の建造物が皇居を見下ろすとは何事か!・・と言うわけです。ですから辰巳は、この富士山を駿河台に誘致して皇居とニコライ堂の間に建て、これを目隠しにしてしまおうと考えたのです。                                                           ↑(創建時のニコライ堂)


 しかし、この企ては失敗に終わり、富士山は最初の計画通り浅草に建ったものの、台風のために忽ち浅草にその残骸をさらす運命になったのでした。。


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(富士山頂は赤茶けた溶岩の山)

・・・・・・

                

(123)カラー写真お始め

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      (123)  カラー写真の始め   6月1日

  今日は写真の日です。
 これは1841年(天保12年)6月1日に、はじめて日本人によって写真撮影がなされたので(島津斉彬を写した)この6月1日を「写真の日」としたと言われています。(昭和26年制定)

イメージ 1 シランも子供のころ、10銭カメラという大型のマッチ箱のような写真機でよく写真を撮りました。カメラと言ってもおもちゃのようなもので、正面に1センチくらいの固定レンズとその横に爪の先のような小さいシャッターが付いて着いているだけの簡単なものでした。背面の上の隙間からネガフイルムを差し込んで、シャッターを押し、1,2,3・・と10秒くらい数えてからシャッターを閉じるのです。写される方はもちろん、眉一つ動かしてはいけません、ボケてしまうからです。

 そのあと、暗室の中で手探りで、小さい琺瑯製のバットに近くのマルコ堂というカメラ屋さんから買ってきた赤い現像液と青い定着液を入れてフィルムを現像し、それから何秒か電灯にかざして印画紙に焼き付けをします。定着液の中の印画紙に次第に景色や人物の顔が浮かんでくると、子供心になんとも言えない興奮を覚えたものです。

 ↑昭和28年の皇太子殿下(今の天皇)


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                                                  (はい、ポーズ・昭和11年)


イメージ 2 以来、蛇腹式のカメラや、箱型の二眼レフ、ニコンの35ミリカメラ、キャノンのオートボーイから最近のデジカメまで、80年近いカメラのお遊びでした。

 ところで、昔は写真と言うと白黒のモノクロ写真ばかりでしたが、今はすっかりカラー写真に取って変わられました。ではその天然色写真はいつ頃出来たのでしょうか。
                                    (蛇腹式カメラ)→


 イメージ 3映画が白黒から始めて総天然色映画として日本に登場したのは、終戦直後の昭和21年3月のソ連映画「石の花」でしたが、画面がちらちらしてさしてキレイだとは思えませんでした。

  日本ではじめてカラー映画が出来たのはそれから5年後の昭和26年、木下恵介監督、高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」でした。これはなかなかきれいな画面で、話も面白かったです。

  ← ポスターももうカラー写真です。


 映画はさておき、肝心の写真の方はどうでしょうか・・

 イメージ 420世紀の始め、ニューヨークに「レオポルド・ゴドフスキー2世」「レオポルド・マネス」と言う二人の若い音楽家が居ました。二人は同じ音楽学校に学び、「ゴドフスキー2世」はヴァイオリニスト、「マネス」はピアニストとして将来はコンサートの舞台に立とうと勉強に励んでいましたが、同時に写真にも凝っていました。そして何とかして天然色の写真が撮れないものかと、演奏の合間を見はからって素人研究を続けていました。
   ↑(マネス)

 イメージ 6まず、目を付けたのは三原色の原理を使って三枚のネガを造りこれを重ね焼きする方法でしたが、なかなか思うような成果が上がりません。1921年になって、彼らは化学的方法を使うことにして実験を続けました。しかし実験にはずいぶん費用が掛かります。彼らはその頃になると演奏家としての収入もそれなりの物にはなっていましたが、研究費がその収入を上回り、赤字つづきでした。しかし、彼らの研究に興味を持った財界が2万ドルの資金援助をしてくれることになり、さらにフィルムメーカーのコダック社の研究部長が必要な化学薬品を何でも調達しようと申し出てくれました。
                                                                                                             ↑(2眼レフカメラ)
                                                                                                             

 イメージ 7二人の音楽家はこれに力を得てその後9年間、自宅の実験室で歌を歌いながらカラーフィルムの開発に専念したのでした。1930年、彼らは正式にコダック社から招かれて同社の開発部門で仕事をするようになりました。然し彼らの研究室は珍妙なもので、化学物質の分離や現像時間を計測をするのに彼らは時計をいっさい使わず、器楽の演奏をしたり、合唱をしたりと言う風変わりな方法を使ったからです。                                    → 35ミリカメラ

 ひとつの曲を正確な時間で演奏することと、化学実験の時間をはかる事の二つを同時に行っていたのです。そして、その甲斐あって1935年に最初のカラー・フィルムが完成したのでした。


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                                         (名カメラマン・ケッ作をねらって・・)

(124)相撲の変遷

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        (124) 「相撲の変遷」 6月2日

  大相撲夏場所も白鵬の全勝優勝で終わりました。ほんとに強いですね、呆れるほどです。 
  双葉山も大鵬もあの強さにはかなうかなぁ‥

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  相撲と言えば両国の国技館ですね。国技館は1909年(明治42年)6月2日に完成しました。
 その相撲の歴史はとても古くインドから中国を経て日本に伝わっていたようです。日本の相撲は神事とも重なって、奈良時代には相撲節会(せちえ)という宮中の儀式になりました。これは天皇以下貴族が見物する格闘技で、力持ちの相撲人が全国から集められました。相撲人は左右に別れて勝負を競いますが、左の相撲人は葵の花を、右の相撲人は夕顔の花をそれぞれ髪に挿して取り組みました。

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                                               (相撲図絵/国貞画)

 この場合相手を倒すというのが原則で、土俵を作ってそこから押し出したり突き出したりするのが勝負の基準となったのは織田信長の頃からでした。それまでは8m~10mの人垣の中で取り組みが行われ、その人垣の中に押し込んだら勝ち、と言うルールがあったようですが、信長は大変な相撲ファンで、人垣の代わりに土俵を円形に並べその中で相撲を取らせたそうです。土俵が出来たことで相手を外に出す技が工夫され、相撲も洗練されてきたわけですから、信長は日本の相撲の創始者でもあり、大スポンサーだったと言えるかもしれません。

 現在の相撲の土俵は直径15尺(4メートル55センチ)で、土俵場は北を正面、その左を東と定め、それを取り囲む四方の隅に4本柱が建てられました。柱はその方角によって色が違い、北西が黒、北東が青、南東が赤、南西が白、と言う風に定められました。

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                                      (昭和28年・栃錦、東富士をうっちゃりで破る)


 しかしこの四本柱は1952年(昭和27年)まで使われましたが、この年の秋場所から取り払われ、その代わりに吊り屋根にしてその四隅に夫々の伝統的な色がついた房が垂れるようになり,青房とか赤房とか呼ぶようにました。なぜ四本柱が取り払われたか、という理由はテレビ中継のカメラにとって柱が邪魔になるから、という到って簡単なものでした。


                         「上見れば四角い4本柱、下見ればウン?? 丸い6本柱!!」
    
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(125)野球の始め

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      (125)  「野球の起源」       6月2日
 
 プロ野球も交流戦に入って興味深々ですが、相撲の話が出たついでに現在のテレビ・スポーツの双璧である野球の起源について少々。。

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 イメージ 2野球はアメリカ産のスポーツですが、この創始者は「A・ダブルデー将軍」である、と言う伝説があります。「ダブルデー」は1839年、イギリスの「ラウンダーズ」というゲームに改良を加えニューヨークで野球を始めたという話が残っています。

  イメージ 3然しこれにははっきりした証拠がなく、歴史的な記録によれば1844年、測量技師で消防団員であった
「A・カートライト」が基本的なルールを作ったという話の方が正確なようです。

  彼は野球場のスケッチも残していますし、世界最初のチームを編成しているからです。

 ちなみに昨日は、歴史に残るアメリカの強打者「L・ゲーリッグ」の命日(1941年6月2日没) でした。

 
イメージ 4なお、野球が日本に伝来したのは1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(旧制第一高等学校)で教えたのが最初で、その後「打球おにごっこ」という名で全国的に広まったそうです。 

 そういえば、今の野球も球を持ってランナーを追いかけたり、鬼ごっこにも少し似ていますね。

 ←ゲーリッグ選手


 
 ところで日本でベースボールを野球と言う名前に訳したのは、俳人の正岡子規 と言われていますが、彼は本名の{升・のぼる)から採って雅号を「野球・のぼーる」とつけたのであって、本当の名付け親は一高野球部の中馬と言う人だそうですね。でも子規は野球語の翻訳をいろいろやっています。たとえば
「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」を
「打者」 「走者」 「四球」 「直球」 「飛球」と言う風に・・

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   球と球をうつ木を手握りて
     シャツ着し見ればその時思ほゆ      子規
 
 歌人の「斎藤茂吉」も「子規と野球」と言う随筆の中で
「正岡子規が第一高等中学にゐてベースボールをやったのは、やはり明治廿二年頃である」と書いていますし、司馬遼太郎も「坂の上の雲」の中で子規と野球のことについていろいろ書いています。

    春風やまりを投げたき草の原    子規

    ← (ユニホームを着た子規)


   また石川啄木の歌にも

      その昔
      小学校の柾屋根(まさやね)に我が投げし鞠(まり)
       いかになりけん

 と言う歌がありますから、小学校時代の啄木はボール遊びをしていたものと思われます。

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                                                (大正10年・母校野球部)
 
  胸の EIJO と言うマークは今も変わりません。
 旧・佐賀中学は佐賀藩校「弘道館」の後身で、むかし佐賀城が「栄城」と呼ばれていたからです。
  戦前は甲子園にも何度か出ましたが、今はさっぱりです。。(~~:)


(126)歯ブラシの起源

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       (126)  歯ブラシの起源  「6月4日」 

 今日、 6月4日 は六と四をもじって、虫歯予防デーですね。

 軍隊に入る前の「入隊心得」に、軍隊では歯の治療が出来ないから入隊前に歯の治療をしておくように・・と、書いてあり、慌てて朝昼晩の三回出かけて虫歯の治療をしたことがあります。なんとそのポンコツ歯は73年経った今も健在なのが驚きです。
 ついでですが、軍隊に入るときの携行品は・・

 ①タオル、歯ブラシ、歯磨き粉、箸、箸箱、石鹸、ふんどし、チリ紙,葉書
 ②両親の写真
 ③印鑑、戸籍謄本一通

 と、なっていました。軍隊では風呂に入った記憶はあまりないですが、歯磨きだけは毎朝やっていました。おかげでマダ25本が健在、(95歳25本)を目指して毎日、歯茎のブラッシングを欠かしません。朝、食前食後、昼の食後、夜寝る前と合計4回です。

 ところで現在は朝起きたら歯を磨く、と言うのはごく当たり前の生活習慣になっていますが、歯を掃除するという習慣はまずインドで始まり、それからカンボジァ、中国へと移って行きました。歯を磨く道具としては、楊柳を材料としたので「楊枝」と呼ばれました。然しこれは今の爪楊枝のようなものではなく、「房楊枝」と言って、細い木の枝の片方をブラシのように噛み砕いて使っていました。

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 インドの仏典には釈迦が楊枝を使ったあと、地に投げたところ忽ち根づいて大木になったとか…また6世紀ごろの仏典には、僧職にあるものは毛の付いた楊枝を使ってはならない、という規定が決められていました。逆に言えばこのころは一般に毛の付いた楊枝を使っていた、と言うことになりますね。

 イメージ 2日本では1625年(寛永2年)に丁字屋喜左衛門が江戸で「丁字屋歯磨」と呼ばれる歯磨き粉を売り出しています。この歯磨き粉は「歯を白くする」「口の悪しき匂いを去る」と言うキャッチコピーで売り出されています。庶民はこの歯磨き粉と房楊枝を使って歯磨きをするのが習慣になっていました。

 ところで、今日のような形式の歯ブラシが歴史上はじめて現れたのは中国で、15世紀にはすでに木の柄にハケを植えた歯ブラシが登場しています。

 ↑ライオン歯磨き粉

 また西洋に歯ブラシが伝わったのは17世紀で、その後、始めてナイロンを歯ブラシの材料として使ったのは、1938年9月に発売したアメリカのウエスト社でした。

 今は歯ブラシも様々なら、歯磨き粉も多種多様、電動歯ブラシまで出てきてどれを使うか迷うほど、とにかく健康志向の世の中になりましたね。


   ・・・・・


(127)熱気球の始め

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       (127) 「熱気球・バルーンの始め」   6月5日
 
 佐賀市では毎年晩秋に嘉瀬川河川敷で熱気球、つまりバルーン大会が開かれ、世界中から100機以上のバルーンが参加して盛大に行われています。

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     では、この熱気球の始まりはいつの事でしょうか。。

 イメージ 218世紀の後半、フランスのリヨンに「ジョセフ」「エチエンス」と言う二人の兄弟が居ました。姓は「モンゴルフィエ」と言いました。

 彼らは製紙業を営んでいましたが、ある日台所の火の上をクズ紙が飛ぶのを見て、ひょっとしたら紙袋の中に熱い空気を入れたら浮上するのではないか、と考えました。そこで商売柄、お手の物の紙で袋を作って火の上にかざしてみると袋は気持ちがいいほど上昇しました。
 
   ↑モンゴルフェ気球の実験

 イメージ 3そこで彼らは紙袋をだんだん大きくしてみました。大きくすればするほどそれを上昇させるための火力も大きくなりますが、かなり大きな紙袋でも十分飛ぶ、と言う自信がもてました。

  そして1783年6月5日に直径33mと言う巨大な紙袋を作り、その下で羊毛とワラを燃やしたところ、見事に空中に浮かび2キロ半ほども飛んだのです。       → →

 この「モンゴルフィエ兄弟」の実験のニュースは忽ちパリに伝わりました。パリにはローベル兄弟と言う同じような兄弟コンビが居て、こちらでも同じ事をやってみたいと、物理学者の「J・シャルル」に相談すると、シャルルは同年8月に水素を使って気球を上げることに成功しました。

 
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                         (こんにちは・・)


一方、モンゴルフィエ兄弟の方もさらに実験を重ね今度は熱気球を飛ばすだけでなく、鶏やアヒル、さらに羊などをカゴに入れて気球に吊るして見ました。この実験は同年の1783年9月に行われ、ルイ16世やマリーアントワネットも見物しました。

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 羊が飛ぶくらいなら人間だって大丈夫だろうと、同年11月には物理学者の「F・ロジエ」とその友人の「M・ダルラン」がモンゴルフィエ型の熱気球に乗ることになりました。気球は6キロほどふわりふわりと浮いて無事に着陸、この二人が熱気球の最初の空中旅行者になったのです。

 
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                                           (大きいことはいいことだ!)
 

(128)不死身のマロイ

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     (128)  「不死身のマロイ  6月7日
 
 世の中には大酒飲みも多いですね。昔の武家社会では「酒呑み合戦」と言うのもあったそうですが、一日に一升も二升も飲む強者も居ました。
今日はそんな「大酒飲み」にまつわる昔の話です。

                     
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                                             (君子に酒あり・司馬遼太郎)




 イメージ 1禁酒法が盛んだった1930年代のアメリカ、ニューヨークの秘密酒場の経営者「A・マリノ」は密造酒で一儲けをたくらみましたが、事業がうまくいかず、金繰りに困ってしまいました。そこで仲間4人とともに保険金詐欺を思いつきました。

  ← 禁酒法時代のギャング、アル・カポネ

  まず最初の犠牲者はガールフレンドの「B・カールセン」と言う女性で、彼女はアル中でしょっちゅう泥酔していました。


 イメージ 4マリノたちは彼女に意識不明になるまで酒を飲ませ、冬の寒い日に窓を開けっぱなしにして自室で寝かせて置きました。翌朝、彼女は死体となって見つかり、マリノはまんまと保険金800ドルを手にしました。

 これに味をしめたマリノは、今度は「M・マロイ」と言う男を第二の犠牲者として選びましたが、これもひどいアル中で、これに合計3,500ドルの保険を掛けました。もちろん保険金の受取人はマリノです。保険の契約書が出来ると、マロイはいくらでも飲み放題と言う特権を与えられ、真昼間から深夜までマリノの酒場でウイスキーを飲み続けるのですが、ビクともしません。

 単なるアルコールでは駄目だと思ったマリノは有害物質を含む自動車用の不凍液を飲ませてやろうと企みました。マロイが数杯のウィスキーでいい気分になった所でマリノが不凍液を飲ませると、彼は一向に気づかずガブ飲みしてばったり倒れました。
 然し翌朝になると、なんとシャンと立ち上がってまた飲み始めたのです。

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 そこでマリノはいろいろと成分を変えてみました、テレピン油を飲ませたり、ネコイラズを混ぜたり何とかマロイが死ぬように仕向けるのですが、マロイはいっこうに死にません。酒の肴にイワシのサンドウィッチを作り、その中に缶詰の金属片をこっそり入れて置いて食べさせたら、内臓出血で死ぬだろうと思っていると「昨日はどうもご馳走さま」と言ってマロイがまたやって来るのです。このようにマリノはあれやこれやと33回も涙ぐましい殺人計画を尽くしましたが、いずれも失敗に終わりました。


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 しかし、やがてこの計画が発覚して、マリノは1934年6月7日に電気椅子で死刑になりました。  しかしマロイの方はその後も元気で酒を飲み続けてちゃんと生き続けたのでした。


                   ・・・・・

(129)アイスクリームの起源

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    (129) 「アイスクリームの起源」 6月8日

  今年は5月からヤケに暑いですね。地球温暖化が確実に進んでいるのでしょうか。こんな時はアイスクリームでも食べたいですね。子供の頃から、試験管型のアイスケーキやピンポン玉のようなアイスボンボン、平たいアイス・スティックなどよく食べました。コーン入りのとんがり帽子のアイスクリームは戦前は「アイスクリン」と言っていました。

  大きなパラソルの下で、売り子さんがリヤカーに積んだアイスクリンの容器から、コーンに飯杓子で器用に盛ってくれました。

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                                            (高知桂浜のアイスクリン屋さん)


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 暑いときに冷たいものを食べるのは、今は誰にでも出来ますが、昔は王者だけの特権でした。エジプトの「ファラオ」は二重になった銀製の器の内側に雪を詰め、果汁を冷やして来客にふるまったそうですし、ローマでは、「ネロ」がアルプスの氷と雪を果物の輸送のために使っていたそうです。日本でも江戸時代には加賀藩に「お雪献上」という行事があり、現在の北アルプスから万年雪をはるばると江戸まで運んで将軍家に献上していました。

 しかし、氷の保存技術では中国が先進国でした。中国では冬の間に凍った氷をそのまま氷塊にして地下室に貯え、いろんな氷菓子を年間を通じて作っていました。
 そして中国で氷菓子を作っていたのは王宮だけではありません。

 マルコポーロ( 1324年1月8日没)が中国を訪ねたとき、北京の街頭で牛乳を原料とした氷菓子を売っているのを見ています。このアイスクリームの製法がマルコポーロの手によってヨーロッパに伝えられ、1300年ごろ、トスカナの「ヘルナルド・プォンタレンティ」という人物がそれを商品化して売り出しました。

 イメージ 5ただ、このころのアイスクリームは今日のアイスクリームとは程遠いもので、その後、クリームを多量に含んだ混合物を冷凍するのに成功したのは、1550年代になってからでした。この発明者はローマに住んでいたスペイン人の医師の「ヴィランカ」で、彼は雪に硝石(のちに塩)を加えることで低温が得られることを発見しました。

 フィレンツェの人々はこの技術を利用してアイスクリームの大量生産を開始しました。こうしてイタリアはアイスクリームの生産国として知られるようになつたのです。

 19世紀になってロンドンに製氷会社が造られると、イギリスに居たイタリア移民たちは早速アイスクリームを製造して売り始めました。その売り子たちが、「エッコ・ウン・ポコ・ひと口いかが?」と通行人に呼びかけたので、イギリス人はこの売り子たちの事を「ホッキー・ポッキー・メン」と呼んでいたそうです。
                                                                                      ↑ (昔の話です)


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                                       (ウェーン!ボクにも頂戴!) 60年前


 近代の西洋でアイスクリームの起源として残っているのは、1668年にイギリスの「ジェームズ2世」が演習中に将校たちと12個のアイスクリームを食べた、と言う記録がイギリス宮内庁の会計簿に残っているだけです。日本では万延元年の遣米使節がアメリカでアイスクリームをご馳走になっていますが、国内では1878年(明治11年)6月8日に新富座が開場しその時、来賓一同にアイスクリームが配られていますから、この頃には既に日本でもアイスクリームが作られていたのでしょう。

 イメージ 3ところでアイスクリームはコーンに入っていますね。このアイデァを思いついたのは、20世紀の始めにアメリカのミズリー州でアイスクリームを売っていた「C・ノンチェス」と言う人物だそうです。

 彼には美しいガール・フレンドが居て、彼女を訪ねるたびに花束を持って行きましたが、ある日彼はアイスクリームを挟んだサンドウィッチを作り、花束と一緒に彼女への贈り物にしました。ところが手近に花束を活ける器がなかったので、とっさに彼女はサンドウィッチのパンの片方を取って花束の根元を包み、もう一方を使ってくるくるとアイスクリームを巻いてしまいました。
 これがヒントになってアイスクリームコーンが出来たというわけです。

 いずれにせよこれはアメリカの発明品で、1924年には自動式のアイスクリームコーンが大量生産されるようになっています。

          ・・・・・

(130)トンネルの話

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      (130)  トンネルの話   「6月9日」

 1962年(昭和37年)6月9日に北陸トンネルが開通していますが、そのその総延長は(13,8キロ)で、山陽新幹線の六甲トンネル(16キロ)が出来るまでは日本一の長さを誇っていました。尤も狭軌の鉄道に限って言えば今でも日本一ですが。。

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                                           (耶馬渓の山国川沿いの青の洞門)


イメージ 2 ところでトンネルを掘るというアイデァはずいぶん古く、日本本では人道のトンネルとしては大分の耶馬渓の「青の洞門」の話が有名です。
 この時代はトンネルを掘るのに石ノミやタガネという人力に頼っていましたから、大変な労力だったでしょうね。青の洞門を掘った坊さん(禪海)の話は、菊池寛が「恩讐の彼方に」と言う短編小説に書いていますが、中学生のころ教科書にも載っていたような記憶があります。

  ← 禪海和尚の像

 世界最初のトンネルは紀元前2千年頃に歩行路として、中央アジアを流れるユーフラテス川の河底を横断するトンネルが、バビロンに造られたのが最初だと伝えられています。このトンネルは現存しては居ませんが、全長約(900m)でその断面は現在の地下鉄くらいの大きなものだったと言われています。


 イメージ 3日本でも明治以前に琵琶湖用水や品井沼用水などの給水用のトンネルが造れレた例がありますが、トンネルの技術は鉄道の発達に伴って飛躍的に進歩を遂げています。日本の最初の鉄道トンネルは大阪、神戸間の石屋川トンネルでその長さはわずか(61m)でした。この時期にはヨーロッパでは既に13キロ)のモンスニ・トンネル、(15キロ)のサン・ゴタールトンネルなど巨大なトンネルが造られていました。

 ← 石寝川トンネル


 ちなみにこれまで世界最長のトンネルは1921年のスイス、イタリア国境のシンプロン・トンネル(20キロ)でしたが、1982年の上越新幹線の大清水トンネル(22キロ)ついで新幹線の青函トンネル(53キロ)が出来、さらに昨年の2016年6月1日には、スイスアルプスのゴッタルドベーストンネル全長57キロ)が完成して、これが現在世界一の長さのトンネルになっています。

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                                                 (ゴッタルドベーストンネル)


 *午前中、家内の目の検診のため、医大へ・・
   視力0,5であまり変化がなく眼球注射もせずに済みました。
   次の注射は来月、検査の結果次第。。

 注射をしても視力が完全に戻るわけではありませんが、注射をしなければ確実に失明に近づきます。新薬はありがたいですが、死ぬまで医大で続けるのと注射が高価なのが問題。。
 保険が無ければ一回15万円、今更ながら後期高齢者保険の有り難さを感じています。


        ・・・・

(131)頭巾のいろいろ

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       (131)  「頭巾のいろいろ」 6月10日

 イメージ 4時の記念日の今日、6月10日は水戸光圀の命日です。1628年(寛永5年)6月10日に光圀は亡くなっていますが、光圀と言えばテレビや映画でおなじみの水戸黄門を思いだしますね。あの水戸黄門で欠かすことができないのが、頭にかぶっている頭巾です。

  頭巾(ずきん)と言っても今はほとんどなじみのない言葉ですが、いわば昔の帽子みたいなものです。  頭巾はもともと室町時代に僧侶の帽子として使われるようになりましたが、江戸時代になると頭巾が流行してさまざまな頭巾が作られるようになりました。

 一番ポピュラーなのが年配者向きの「丸頭巾」で、布を円形に縫った頭巾で黄門さまの頭巾もこれのようです。江戸期も寛保年間になると角型に仕立てた角頭巾(若者向き)の前に布を垂らして眼の部分だけ穴をあけた「気儘頭巾」と言うのが出来ましたが、これは覆面に近いもので、防犯上の理由から禁止されています。布を二つ折りにして頭から肩まで覆うのが「山岡頭巾」で、主に武士が使いました。

 
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宝暦年間になると沢村宗十郎がいわゆる「宋十郎頭巾」を考案し、主として女性がこれを使いまどたが、のちには武士の間でも使うものが出てきました。
  嵐寛寿郎の十八番鞍馬天狗の頭巾が宋十郎頭巾でした、てっぺんがイカのような形をしているので一名「イカ頭巾」とも言我ていました。

 その他、火消人足の「猫頭巾・火消頭巾」物売りの商人は「船底頭巾」、さらに砲術が盛んになると「韮山頭巾」、明治時代の女性の間に流行したのが「御高祖頭巾」でした。これは日蓮上人の像の頭巾に似ているから御高祖の名前がついているそうです。


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                                                  (明治の女性。御高祖頭巾)


 イメージ 1最近では戦争中はの女性は空襲用に「防空頭巾」という綿入りの頭巾をかぶっていましたね。

  防空頭巾はおしゃれのための帽子ではなく、空襲時に火の粉や落下物から頭部を護るためにかぶるもので、主に子供と女性用でした。細長い座布団のようなものの二辺を縫い合わせて、首の後ろにつけた紐でくくります。

 日本の伝統的な帽子である頭巾にも、時代と共にこうした様々な変遷があったのです。



                     ・・・・

(132)自動車レースの始まり

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      (132) 「最初の自動車レース」  6月11日

 イメージ 1先月28日に、世界3大レースの1つとされるアメリカの伝統的な自動車レース第101回の「インディ500」が行われて、元F1ドライバーの佐藤琢磨選手が日本選手として初優勝を果たしました。

 「インディ500」はアメリカのインディアナ州にあるスピードウエイで毎年五月に行われる自動車レースですが、F1の「モナコ・グランプリ」と「ル・マン24時間耐久レース」とともに自動車の3大レースの一つになっています。
 一周4キロのコースを200周もするというとてもハードな自動車レースですが、その平均時速は220キロ、最高はなんと380キロにも及ぶとか。。
その代わりまた賞金がスゴイ、優勝は2億7千万円・・@@/

↑ 優勝の佐藤選手
 
 そして優勝者は牛乳を飲むのが習慣とは、これまた変わっていますね。
 なんでかな? なんでかな??。。

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                                              (佐藤選手の車、カッコーいい!!)


 ところでこうした「自動車レース」はいつごろから始まったのでしょうか。
自動車が発明されて間もなくそのスピードを競う自動車レースを思い立つ人たちが出てきました。
その第一回は1887年4月28日にパリでに行われましたが、出場したのはなんと「G・プートン」と言う人物ただ一人と言う、なんとも珍妙なレースになりました。しかし彼は4輪の蒸気自動車を操縦して2キロのコースを完走しています。 もちろん優勝者はートンでした。

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                       (フランス・プートン社の車)

 ガソリン車を含めた自動車レースが初めて行われたのは1895年6月11日で、三日間かけてパリ~ボルドー間、1200キロを走るというものでした。一着の「エミール・ルヴァソール」は48時間48分で全コースを走破して、その平均時速は24キロでした。この時ルヴァソールは途中でほとんど休まずに全区間を昼夜兼行、不眠不休で自分で運転して走り切ったと言われています。

 このレースに参加したのは合計23台でしたが、そのうち完走したのはガソリン車8台、蒸気車1台でした。要するに全体の車の3分の2近くは1200キロを走り切ることが出来なかったのです。


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                     (エミール・ルヴァソール・左)


 しかし、このレースの車の規格が4座席になっていて、2座席の車だったルヴァソールは優勝者とは認められず、彼よりも11時間以上遅れて3番目に到着したプジョーの「ポール・ケクラン」が優勝者となって賞金を獲得しています(2番目のルネ・リグロのプジョーも2座席車だったのです)

  
          ・・・・・

  *昨日、うっかり車のライトをつけたまま、駐車場に置いてしまって大失敗。。、
   バッテリーが上がってしまいました。
 右折、左折の際にうっかりバーに触れて点灯していたのでしょう、昼間なので全く気付かず。。
これじゃー生涯、F1レースには出られそうもない!?・・(*_*;:)

 幸いJAFの親切なお兄さんが駆けつけてくれて無料で充電完了、でも相当電池が古くなっているので交換がいいかも・・とのアドバイス。。 2万円近くかかるそうだ。。(~ ~::)    


              ・・・・・           

(133)長時間演説

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          (133)  長時間演説   「6月12日」

  中学時代の校長先生は、なかなか演説が上手かったです。と言うよりも激しく長かったのかな?
 生徒からは「ライオン」とか「ヒトラー」と言うあだ名を頂戴していました。その頃のヒトラーの演説は大きな手振り身振りで、口調も激しく、まさにで「大獅子吼・ししく」と言う表現がぴったりでした。

 今のアメリカのトランプ大統領は、演説よりもツイッターのカキコがお得意のようですが、大統領もさまざまですね。

イメージ 1 「長広舌・ちょうこうぜつ」と言う言葉がありますが、演説もあまりに長いのは閉口しますね。うまいのか下手なのか・・
 史上最も在任期間が短かった米国大統領は第9代のウィリアム・ハリソンですが、わずか就任1カ月で肺炎のために亡くなっています。雪まじりの寒風吹きすさぶ就任式典でひいた風邪(かぜ)をこじらせたのだそうです。

 その日、68歳の彼は気合が入っていたのでしょう、コートも着ずに2時間近くにわたって就任演説をくり広げました。おかげで彼は史上最も長い就任演説をした大統領としての記録も作り、また「長広舌は身を滅ぼす」という教訓を後世に残したのでした。
↑ ハリソン大統領


 アメリカの「ヒューイ・ロング上院議員」(*1893年8月30日生まれ)は「富の共有運動」を唱えて「フランクリン・ルズベルト」と大統領の椅子を争った政治家ですが、1935年、上院で記録的な長時間の演説を行っています。

 イメージ 2彼は1935年6月12日午後0時30分から上院で演説を始めました。彼の弁論は延々と続き深夜を過ぎてもとどまることなく,翌23日午前4時にようやく終わりました。ロングの演説は15時間半と言う長時間で終わりを告げましたが、それはロングの身体的疲労によってダウンしてしまったからで、もし健康さえ許せばまだまだ話を続ける予定だったようです。

 この演説の速記録は15万語にも及び、この中には「クッキーの作り方」とか面白くもない無駄話が含まれていますが、ともかく議事録としては100ページにわたって印刷されています。この議事録の製作費用が当時の金額で5000ドルもかかったそうです。
                                                                                               ↑ ロング議員

 しかし、彼にはあまりにも政敵が多くいつも身の回りをボディガードがかためて、暗殺を警戒していましたが、彼の最大の政敵で判事だったベンジャミン・ペイリーを排除するため州法を改正したためか、ペイリーの娘婿のカール・ワイスのために、1935年9月8日に、ルイジアナ州会議事堂で銃弾を浴びて2日後の9月10日に死亡しました。

 ロングの政治生命は暗殺によって幕を閉じましたが、これによりルーズベルトの大統領再選への道が開かれました。もしこの暗殺がなければ、アメリカの第二次世界大戦への方針も大きく変わっていただろうと言われています。

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                                  (カイロ会談の蒋介石、ルーズベルト、チャーチル)

       ・・・・・


*曇りがちで北風が爽やかな一日、朝のうち駐車場の草取りと除草剤まきで一汗かきました。
  草取りは立鎌でもやっぱり腰に来ますね。 終わってからしばらく腰が延びません。
  やっぱり年だなぁ。。

  でも、きれいさっぱり、気分は爽快です。。


           

(134)ル・マンの悲劇

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      (133) 「ル・マンの大惨事」 6月13日

 一昨日、自動車レースの話をしましたが、驚異的な猛スピードで長時間走るカーレースには事故が付き物のようです。特に衝突した車が大観衆の中に飛び込んだりすれば忽ち大惨事になる事請け合いです。

 有名なフランス最大の自動車レース「ル・マン24時間耐久レース」はフランスのル・マン近郊で行われる耐久レースで、24時間走ってサーキット周回数を競うものです。今年は6月17日に行われますが、その「ル・マン」が1955年6月11日に行われた時の事です。


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                                            (昨年のル・マン、 スタート風景)


イメージ 2 先頭を走っていたイギリスのジャガーがピットインのため減速して急に右にカーブを切り、それに続いて走っていたオースチン・ハーレーがジャガーに追突しました。

  三番手を走っていたのメルセデス・べンツはこのオースチンを避けようとしてハンドルを切りましたが、これに追突してさらに壁に激突、車体は宙を舞い、観客席のそばに落下して爆発してしまいました。

  そしてマシンから引きちぎれた部品が砲弾のようにグランドスタンドに飛び込んで観客を次々となぎ倒したのです。スタンドは死傷者の救助活動と逃げ惑う人々で騒然とし、爆心地のような惨状を呈したそうです。

 このカーレース史上最大の事故はいっぱいの観衆の眼の前で起こったので、ベンツのドライバーの「ピエール・ルヴェー」とともに観衆も合計83名が死亡しました。


  この大惨事を目の当たりに見て25万人の観衆の内20万人は見物を止めてさっさと帰ってしまい、ドイツチームは競技を止めてしまいました。

 この事故の犠牲者の一人となった、ベンツのフランスのレーサー「ピエール・ルヴェー」は後続車を運転していたアルゼンチンのレーサー「ホワン・ファンギオ」の追突を救おうとして、この瞬時の出来事の間に文字通り必死の努力を傾け、レーサーの英雄としてその名をとどめたのでした。

 ちなみに、この時のレーサー達が出していたスピードは、時速300キロだったそうです。

         
                    (事故現場に残るメモリアルプレート)
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           ・・・・・

 *今朝は6月とは思えない涼しさで、長袖でも寒いくらい。
   梅雨入りしてもちっとも雨は降らないのに 梅雨寒む とはこれいかに・・


     童謡(わらべうた)かなしき梅雨となりにけり     相馬遷子


       ♪城ヶ島の雨

           雨はふるふる 城ヶ島の磯に
           利休ねずみの 雨がふる

           雨は真珠か 夜明けの霧か
           それともわたしの 忍び泣き


 

(135)野戦料理の話

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      (135)   野戦料理の話  「6月14日」

 1800年6月14日、「レオポルド・ナポレオン」の率いるフランス軍はイタリア北部の マレンゴの戦い でオーストリア軍を徹底的に叩きのめしました。

  
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                                                    (マレンゴの戦い)


 イメージ 2そこでナポレオンは将軍たちを集めて祝盃を上げるように命じました。ところが急場の事なので食事を作ろうにも充分な材料がありません。
ナポレオンは大変せっかちな男でして、命令がすぐ実行されないとたいへん機嫌が悪いのです。ナポレオン専属のコックだった「デュナン」はさてどうしたものかと思案に暮れていました。


 そのとき、ふと視線を移してみると、遠くに小さな農家が見えました。デュランは二人の騎兵を呼んで、何か食べ物の材料を探して来い、と命じました。その収穫は鶏数羽に トマトとニンニクが少し、ただそれだけでした。そしてデュランの手元にあったのは油が一瓶とブランデ-が少々、これだけの材料で何とか食事をでっち上げねばなりません。


 イメージ 3デュランは手早く鶏の羽根をむしり、包丁がないので将校からサーベル(剣)を借りて肉を切りました。そして火を起こして油を熱し、それにニワトリの切り身を投げ込み、ソースはトマトにブランデーを加えて作りました。 まさに野戦の即席料理でした。

 しかし、この料理はナポレオン始め将軍たちの絶賛を浴びました。
そしてニワトリを調達した村がマレンゴと言う村だったので、この野戦料理にはその場で ↑「マレンゴ風若鶏」 と言う名前が付けられました。

  ナポレオンはマレンゴの勝利を記念し、またその縁起をかついで、よくこの料理を食べるようになったそうです。またナポレオンの愛馬は、以後「マレンゴ」と言う名前がつけられたとか。。
こうして今も珍味と言われている 「マレンゴ風若鶏」 は戦場のどさくさに紛れて誕生した偶然の産物だったのです。

                        
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                                         (ナポレンのアルプス越え・愛馬はマレンゴ)


           ・・・・・

(136)酒合戦

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       (136) 酒合戦  6月15日

      白玉の歯にしみとほる秋の夜の
        酒はしづかに飲むべかりけり    若山牧水

 イメージ 1酒と言えば、福島正則と母里太兵衛の酒くらべの話が有名ですね。
太兵衛は直径一尺、朱塗りの大杯になみなみと注がれた酒を立て続けに三杯飲み干し、正則から約束通り秘蔵の名槍・日本号をもらったそうです。

    ♪酒は飲め飲め 飲むならば
     日の本一の この槍を
     飲みとる程に 飲むならば
     これぞまことの 黒田武士

 
 酒飲みにとって酒は、独特の思い入れの多い飲み物のようです。
宴席などでは、酒豪が単に飲む量が多いというだけで一種の敬意を払われるのはその証拠でしょう。その具体的な表れがいわゆる昔の「酒合戦」でした。酒豪が集まって酒量を競い合うのです。

↑ (槍と盃・母里太兵衛の銅像)

 911年(延喜11年)6月15日に、宇多上皇の屋敷である亭子院に藤原仲平、源嗣、藤原後蔭、藤原経郷、良峯遠視、藤原伊衛、平希世、藤原経邦の8名が集まり、それぞれ酒量を競い合いました。しかし大杯が六、七回,回ってくるとやがて酔い回り、平希世は門外に倒れ、藤原仲平は殿上でヘドを吐き、みんなが酔いつぶれてしまいました。 

 その中で藤原伊衛だけは最後まで悠々飲み続け、10杯目で止められましたが、上皇から褒美として駿馬を賜り面目を施したのです。。これが我が国の史上初めての「酒合戦」でした。


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 その後もいろいろと酒合戦の記録がありますが、1817年(文化14年)の両国の「万八楼」酒合戦では
 鯉屋利兵衛30歳、3升入り大杯で6杯半を飲んでその場に倒れ、しばらく休息ののち目を覚まして、水を茶碗で17杯飲んだそうです。山の手の某藩士は63歳、一升入りの大杯で4杯を飲み、東西のお謡いを詠って一礼してすぐに帰ったとか。。

 讃岐の国・高松の酒合戦では、天保2年に津高屋周蔵と言う酒豪が肥後の日蓮宗の酒豪の僧侶と飲み比べをする事になり、酒好きを50人ほど集めて一緒に飲んでいます。塩と玄米だけを肴にして二人が飲んだ酒は一斗4升8合でしたが、ほかの者は2,3升ばかり飲んで頭痛、嘔吐に悩まされたのに、二人は普段と少しも変わりがなかったとか・・

 旅の僧の宿屋までは2キロほども有ったのですが、雨の中合羽を身につけ高下駄を履いて二人は楽しく語らいながら帰って行ったそうです。
 
 

(137)ロケットの始まり

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     (137)  ロケットの始まり  「6月16日」

 
 今や世界はロケット時代、空中を飛ぶものと言えば昔は飛行機か飛行船くらいでしたが、今はジェット機どころかロケットで、より遠く付き世界まで行けるようになりました。飛行機しか知らない我々世代には、羽根のないロケットがひっくり返らずによく思い通りに飛べるものだと、感心したものです。
 
 ところで、そのロケットの原型になっているのは打ち上げ花火です。しかし、普通の火薬ではなく、液体燃料を使った最初のロケットが打ち上げられたのは1926年3月の事でした。発明者はアメリカ人の「R・ゴダード」でした。マサチューセッツで打ち上げ用に選ばれた草原にはまだ雪が積もっていました。しかし、この第一回実験は、ロケットが点火後わずか20mほど上昇しただけで墜落してしまったので、成功とは言えないものでした。

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                                              (ゴダード開発の小型ロケット)



 しかし、ゴダードのロケットは現代のロケットが備えている基本的な特性である方向制御のための可動翼と、ジャイロをつなぐ装置をちゃんと積み込んでいました。しかし、この重要な発明はアメリカ当局の注目する所とはなりませんでした。というのは、ゴダードが一種の変人で、目立つことの嫌いな非社交的な人間だったため、この実験を誰にも知らせず、自分一人でコツコツと研究を進めていたからです。

 イメージ 1一方ドイツでもロケット研究は、同じ頃から大々的に進められていました。

 液体燃料を使った最初のドイツ製ロケットは1930年「ウェルナー・フォン・ブラウン」が実験に成功し、これをドイツ陸軍が援助して進められました。空軍の研究所は1936年、バルチック海岸やペーネミュンデで極秘のうちに研究を進め、ブラウンの率いる研究チームは、ついに1942年にロケット爆弾V1号を完成しました。

  ←ブラウン博士


  このロケットが始めテイギリスのロンドンに向けて発射されたのは1944年6月16日でしたが、その到達率が低く、72%が撃墜か墜落してしまいました。合計2万4000発が発射されたそうですが、このV1はロケットと言うよりも無人の飛行爆弾ともいうべきもので、本格的なロケットV2号の開発は別途ドイツ陸軍で進められました。当時のナチス・ドイツでは、V1 が飛行爆弾で「無人の攻撃機」とみなされたのに対して、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」と考えられていました。

         
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                                             (V1号・飛行爆弾)



 特有の唸り声をあげて飛ぶV1と違い、超音速で前触れもなく飛んで来て、飛行機では迎撃不可能なV2は、ドイツにとって有用な兵器になり得たのですが、時すでに遅く、V2は3500発ほど発射されたままで、ドイツは間もなく敗戦を迎えてしまいました。然し、このV1号やV2号ロケット爆弾は、やがてミサイルや宇宙開発への手がかりとして重要な役割を果たしたのです。



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                                   (現存するドイツのV2号ロケット・アメリカ)


     ・・・・・・

 * 月一の中学のミニ同窓会、ミニの名に恥じず参加はわずか4名、卒業写真のアルバムを持って行って見せたら、みんな感慨しきり・・
230名の卒業生が76年経つと、全国でも今や僅かに10名ほど、 50年来続けてきた毎月の同窓会ももはや風前の灯火です。。

 そのうちの一人が、自宅の庭の枇杷をちぎって持ってきてくれました。駕籠一杯のひわは3人では食べきれません。 3等分して袋に入れて持ち帰りました。これからの毎日のお楽しみです。。


           ・・・・

(138)象が来た日

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       (138) 「象が来た日」 6月7日

 日本に初めて象が来たのは1728年(享保13年)6月7日の事でした。この日インドシナ半島の交趾(こうち・ベトナム)から大象2頭が船で運ばれ長崎に到着しました。一頭は7歳のメス、もう一頭は5歳のオスでしたが、日本の気候が象には適さなかったのか、メスの方はその年の秋に死んでしまいました。

 しかし、オスの方は陸路江戸まで行くことになりました。長崎出発は翌年3月14日、その一日の行程はせいぜい20キロほどで、超重量の象が通るというので、あちこちの橋を補強したり食料を用意したり、大騒ぎでした。江戸への途中、4月26日京都に到着してひと休みしましたが、その時、中御門天皇はこの珍しい動物をご覧になって大いに喜ばれ、

     ときしあらばひとの国なるけだものを 
        けふ九重にみるぞうれしき
                                と言う歌を詠まれました。

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  また京都では「象のかわら版」が出されて、それには
「象の大きさは長さ一丈(3m)、高さ五尺余(1・5m)あり、鼻は長く四尺(1・2m)もある。眼は笹の葉のごとく、すべて長い鼻を巻き伸べて食をとり水をのむ。足は柱のごとく太く、足指は見えず、栗のような爪五ツあり。尾は牛の尾のごとし。その寿命五百年をたもつ」
 とあって、寿命が五百年とはちょっと大げさですが、初めて象を見た人々の驚きがよくわかります。
 
 その後、象は東海道を通って江戸の浜御殿に到着し、時の将軍吉宗が江戸城大広間から象を見物しています。そのとき幕府お抱えの絵師「狩野元信」が写生した象の絵が残っています。 

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 この象はその後、浜離宮で飼育されましたが、年間の飼料代が200両もかかり、食料の世話のほか、番人を殺すなどの事故があったため、民間に払い下げられることになりました。
。払い下げられた象は中野村の源助などが周囲に堀を巡らした柵内に、足には鎖を繋いで飼育しましたが、毎日大量に出る象の糞を乾燥して黒焼きにし、疱瘡(天然痘)の薬であると言って売り出して大もうけしたそうです。 しかしこれは糞ではなく涙だったという説もあります。

 象の飼育舎は見物人で賑わい饅頭も売れたそうですが、一年後の寛保二年(1742)に象は死亡しました。長崎に上陸してから14年後のことでした。異国で孤独で死んだこの哀れな象は皮は剥がされ、頭蓋骨と牙、鼻の皮が中野村の源助に与えられ、いまも中野宝仙寺に象の骨と皮の一部が残っているとか。。


 尤も、象が日本に来た記録としては、これより古いものがあります。
1596年(文禄5年)の夏にスペイン船が四国に漂着しましたが、秀吉はてっきりスペインが日本に攻めて来たものと勘違いして乗組員をみんな殺してしまいました。これを知ったマニラ政庁が乗組員の遺体の引き渡しを要求し、その代わりに象一頭を秀吉に献上しています。当時、俵屋宗達が壁に描いた象の絵がありますが、これは、この時の記録によるのかもしれません。

 また、1813年(文化10年)にも3歳の象が一頭献上品として長崎にやってきています。そこでどう処置したらよろしいか、と江戸に照会したら、象は日本の風土になじまないから即刻送還せよ、との指示がきました。せっかく遠い日本までやってきたのに、この象は国外退去になってしまったのです。その時長崎の絵師が写生し、それだけが象の日本渡来の記念として残ったのでした。
     。。。。

 ところで、象の話で最も哀れをとどめたのは、戦時中の上野動物園の人気者・象の「花子」でした。
 昭和18年になると、戦局は悪化の一途をたどり、本土空襲の恐れが出てきました。 そこで、万一帝都が空襲にあった場合、ライオンたちが逃げ出す危険性が考えられ、これに備えて、上野動物園の猛獣たちを処分する事(つまり殺すこと)が決められたのです。

 その殺し方は「非常手段をとらず、穏やかな方法で処置した」と言うことになっていましたが、実際はかなり「悲惨な処分」だったようです。
  昭和18年の8月から9月にかけて処分が行われ、まず8月17日に「北満ヒグマ」「クマ」一頭が死にました。

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                                                              (熊ン子)

 翌18日には、エチオピア皇帝から天皇に贈られた「ライオン」に硝酸ストリキニーネを飲ませて殺すことになりました。  しかしさすが百獣の王だけあって、薬だけではなかなか死なない。そこで係員が涙を飲んで槍で突き殺したそうです。

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                                             (インドのタクシー・冷房完備)


 イメージ 5ニシキヘビは思い切りよく首を切断したが、胴体はなかなか動きをやめず、心臓を取り出して見ると、2時間近くも動いていたとか。。

 最も哀れをとどめたのは、子供たちに一番愛されていた三頭の象たちで、これは絶食させて餓死させることにしました。象は敏感な動物で、薬を飲ませようとしても、決して飲まなかったからです。



 食べ物を与えられず、フラフラになりながらも、象たちは何か芸をすれば餌のジャガイモにありつけると知っていたので、よろめく足を踏みしめながら、象が芸をしてみせるのには、係員一同、涙なしには見ていられなかったそうです。

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(1019年・ドイツ軍に使役される象)

 戦争とはひどいものです。人間の争いには何の関係もない動物たちにまで悲しい運命を背負わせてしまいます。

 ○ 「処分された動物たち」
イメージ 6 【昭和18年8月】
    17日  北満ヒグマとクマ
   18日  ライオン、ヒョウ、朝鮮黒クマ
   19日  北満ヒグマ
   20日  朝鮮黒クマ、クマ
   22日  ライオン(2頭)、トラ、チーター
   24日  北極熊
    26日  黒ヒョウ、ヒョウ、ガラガラヘビ
   27日  ニシキヘビ、ヒョウ、マレーグマ、黒ヒョウ
   29日  アメリカ野牛、北極グマ、象(ジョン)

 【9月】
   1日  アメリカ野牛
   11日(象・花子)                                                                                 
   23日 象(トンキー)
                   合計27頭


  
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