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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(99)救国の少女「ジャンヌダルク」

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       (99) 救国の少女「ジャンヌダルク」   5月8日


イメージ 1 「ジャンヌ・ダルク」 は15世紀、イギリスとの百年戦争で活躍したフランスの救国の少女です。

 1412年、フランス東部のドルメニー村の羊飼いの娘として生まれた「ジャンヌ」は子供のころから不思議な能力を持っていました。彼女はいつも自宅の庭で神の声を聴き、常人とは違ったイメージを持った娘でした。

  そんなある日彼女は「オルレアン(フランス中部の都市)を救い、シャルルをフランス王にせよ」と言う神の声をはっきりと聴きました。当時は1337年から続いているイギリスとフランスのいわゆる百年戦争の末期で、フランスの国土は大半をイギリスによって奪われていました。

 
 そのころフランス王「シャルル6世」の王妃は、なんと自分の子であるシャルルを放り出してしまったのです。そして王妃は敵国であるイギリスと王位継承権に関する条約を結び、イギリスのヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とフランス王位とを継承したのです。しかしシャルルはれっきとしたシャルル6世の王太子だったので、自分でシャルル7世を自称しました。つまりフランスには二人の王様が居るというおかしな事態になりました。ジャンヌが聞いた神の声は「シャルルこそがフランスの正統の王であり、その王のために戦え」と言う意味だったのです。

 イメージ 2ジャンヌは奇跡的にシャルル7世との謁見を許され、その超人的な能力により「軍司令官」となり、4000人の兵を率いてイギリス軍を攻撃することになったのです。神がかり的になったこの少女の前に、イギリス軍はほとんど無抵抗のまま敗退してしまいました。

  陥落寸前だったオルレアン包囲戦では、わずか8日間でロワール河に陣取ったイングランド軍を打ち破り、1429年5月8日、イギリス軍はオルレアンから退却し、シャルル7世は目出度くフランス国王としてランスの大寺院で戴冠式を上げました。このときジャンヌはその国王のそばで軍旗を握り締め、この晴れがましい一日を過ごしています。

                                                                                                 ↑(男装のジャンヌ・ダルク)

 そしてオルレアンでの劇的、奇跡的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となり、次々にイギリス軍を打ち破ってフランス領土を回復して行きました。フランス軍がパリへ攻撃を開始したのは1429年9月8日(パリ包囲戦)でしたが、この戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷しましたが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接とり続けました。

 しかし、翌1430年の5月23日、ジャンヌが率いる軍がマルニーの敵軍を攻撃したとき、この短時間の戦いでジャンヌは一本の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めませんでしたが、ついにイギリス軍の捕虜になってしまいました。

 捕らえられたジャンヌは、異端の徒として宗教裁判にかけられて、火あぶりの刑になりました。時に19歳。死刑執行人はジャンヌの黒焦げになった遺体を群衆の前にさらけ出しました。そして黒焦げの遺体をさらに燃やして灰になし、橋の上からセーヌ川に流しました。ジャンヌが異端とされた原因は,彼女が男装していたからだそうですが、シャルル7世はこの時少しも救いの手を差しのべようとはしなかったそうです。何と不人情な。。

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                      (火刑台のジャンヌ・ダルク)
 
  ジャンヌ・ダルクは戦場での男性からの性的暴行から身を護るために男装をしていたのですが、魔女として処刑されたため、その後ずっと魔女のままになっていました。しかし1456年7月7日に復権裁判法廷はジャンヌの無罪を宣告し、さらに1920年5月6日に、ローマ教皇によって名誉を回復して聖人に列せられています。

 ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたそうですが、この不思議な巫女「ダンヌ・ジャルク」によってフランスのナショナリズムの基礎が築かれ、彼女は救国の少女として今なお、フランスの国民的ヒロインとなっているのです。


    ・・・・・

(100)空飛ぶ雌牛

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     (100) 空飛ぶ雌牛  「5月9日」

 最近は日本でも竜巻の被害が報じられますが、アメリカは、年間1000個ほども竜巻が発生し、50人程度が亡くなっていて、世界の竜巻の8割がアメリカで発生しているそうです。その竜巻で面白い話があります。

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 1962年5月9日アメリカのアイオワ州を竜巻が襲い、それに巻き込まれた「ファウン」と言う愛称の雌牛が空高く舞い上がりました。然し奇跡的にこの雌牛は1キロほど離れたほかの牧場に無事着陸しました。着陸地点にはちょうどホルスタイン種の雄牛が居て、二人は?目出度く結ばれたのです。(^^*
 そして自分の牧場に連れ帰られたファウンは見事な子牛を生み落としました。


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                                                   (戦時中の牛の供出)


 それから5年後、再び同地方に竜巻が起こりました。ファウンはちょうど牧草地で草を喰んでいましたが、またもや竜巻に乗り、数10mの高さで飛翔し、人々が見守る中で見事に4本の足を揃えて着陸しました。この空飛ぶ牝牛の飼い主はそれ以後、暴風警報が出るたびにファウンを牛舎に閉じ込めて飛行しないように努めました。

 そしてこの空飛ぶ牝牛ファウンは、7年後の1974年の冬に無事?亡くなりました。

 
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                                                      (阿蘇高原の放牧)


           ・・・・

(101)大陸横断鉄道

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    (101) 「大陸横断鉄道」の完成    5月10日

     ♪  汽笛一声新橋を
         はや我が汽車は離れたり
          愛宕の山に入り残る
          月を旅路の友として

 と、歌に歌われた日本の鉄道が営業を開始したのは1872年(明治5年)5月7日の品川~横浜間でした。 然し実際に新橋までの工事が完成したのは同じ年の9月12日でした。どちらが正式の開通日でしょうか。実質的に汽車が走ったのは5月7日で、天皇ご臨席のもとに開通式が行われたのは9月12日と言うことになるのでしょうか。

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                                                 (鉄道開通の錦絵)

 しかし現実には品川・横浜間の開業の前日、6日にも品川で「開行式」が行われています。この日の午後、三条実美太政大臣、大隈重信参議などの政界の大物がずらりと勢ぞろいして鉄道施設を見学し、そのあと全員が試運転の汽車に乗って横浜まで行き、横浜でも同様の式典を挙げて一泊、翌7日の朝東京に帰っています。所要時間は35分でした。

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                                               (明治初期の列車)

 この「開行式」に比べると9月12日の本格的な第2回目の「開行式」は大仕掛けでした。この時は天皇はじめ内外の高官が新橋に勢ぞろいし、軍楽隊が演奏し、近衛兵や品川沖に停泊中の軍艦は祝砲を打ち、「鉄道開行式」と言う文字を記した提灯が灯されました。そのうえ、2万人分の弁当が配られています。
 5月6日9月12日の二つの・・
さて、どちらが日本の鉄道開通の日でしょうか。

 ところでアメリカでは、その3年前の1869年5月10日に、大西洋岸と太平洋岸を結ぶ大陸横断鉄道が完成しています。この鉄道計画が議会を通過したのは1862年ですから、工事は僅か7年間で出来上がったことになります。しかもこの7年間は、南北戦争と重なった時期なので、内戦の不安の中で黙々と工事が進められたのです。

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                                             (アメリカン機関車・復元)


 工事を請け負ったのは「ユニオン・パシフィック社」と「セントラル・パシフィック社」の2社で、ユニオン社はネプラスカ州のオマハから、一方のセントラル社はカリフォルニア州のサクラメントから工事を始めました。その最大の難工事は何といってもロッキー山脈越えでした。中西部から次第に盛り上がるロッキー山脈の東側の丘陵は、デンバーですでに高さ2000m、その西には3千m級の山々が連なるロッキー山脈がそびえ立っています。

 丘陵地はともかく、山岳部に入ると工事は難航を極めました。インディアンの襲撃も何度かあり、また谷間にかける鉄橋が落ちたり、トンネルが崩れたりして死傷者もおびただしい数に上りました。
(*1939年に、この困難な工事を題材にした「大平原」と言うアメリカ映画も出来ました。インディアンの襲撃で列車が脱線転覆するなど、なかなか勇壮、豪快な西部劇でした。)

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                                               (大陸横断鉄道)

 ところでこの工事を進めるに当たってアメリカは中国に労働力を求めました。工事のピーク時には2万人もの中国人移民が枕木を作ったり、レールを運んだりしました。そんな驚くべき人海戦術によって山岳部でも一日に平均3キロの線路が敷設されたのです。こうした巨大な人間の労働力を動員した例は古代エジプトのピピラミットの例もありますが、アメリカ大陸横断鉄道の完成は近代の人海戦術の典型ともいえるでしょう。


イメージ 1
                                              (雪の中で働く中国人労働者)


  なお、西進するユニオン社と東進するパシフィック社の両者のレールが一つに接合されたのは、ユタ州のオレゴンの少し西にあるプロモントリ・ポイントでした。


            ・・・・・

*昨日の雨でなんだか肌寒くなりました。慌ててセーターを引っ張り出したり。。
 昼からはいつもの内科検診です。と言っても聴診器をあてて、「ハイ、いいですね」の一言で終わり・・
 降圧剤を貰って帰るだけですが・・

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                                                      (紫蘭が咲き始めました)


   ・・・

(102)コカ・コーラの誕生

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      (102) 「コカコーラの誕生」  5月8日

 最近の自動販売機の普及は驚くべきものがあります。どんな地方の街角や山村にでも一つや二つの自販機があって、誰でも気軽にコーラや日本茶を買うことができます。今は飲み物も多様化して特にコーヒーや日本茶が多いようですが、ひところはコーラの独壇場で、シランも以前は良く飲みました。あの独特の薬味と爽やかさは忘れられません。あのコカコーラはいつ頃出来たのでしょうか。

イメージ 1 アメリカのジョージァ州出身の←「J・S・ペンバートン」は南北戦争では南軍に属して大佐にまで昇進したのですが、南軍が敗北したのでペンバートンはもともと経営していた薬局に戻りました。彼は薬剤師の資格を持っているので薬局の経営はもとより、新薬の開発にも意欲を燃やしていました。彼は染髪剤を作ったり、肝機能強化のための薬品を試作したりしました。

 そういう試作品のひとつに、コカインを含むコカの葉のエキスを原料にした不思議な新薬がありました。


  この新薬は頭痛や二日酔いに効くという効能を持っていましたが、この新薬を開発したペンバートンはどういうわけかこれをアトランタの街の軽飲食店に持ち込み、「水と氷で割ったら良い味の新しい飲み物になるはずだ」と、友達のこの飲食店の店主に話しました。

 店主のW・ベナプルは最初はまず水で割ってみました。なかなか良い味でしたが、2杯目を作ったときに店主は水ではなくソーダ水で割ってみました。すると水割りとはくらべものにならないほど、すっきりとした新鮮な風味が漂いました。まさにここの時、全く新しい清涼飲料水・コカコーラが誕生したのです。これは1886年の5月8日のことでした。


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 イメージ 3ちなみに、現在コカコーラは世界80か国でそれぞれの国語で表示され、中国では「可口可楽」と言う文字が使われています。発音が同じからでしょうが、「おいしくて楽しくなる」とは、よく考えたものですね。コカコーラはアメリカ文化の侵略化を代表する物として、風刺的によく「コカコロニゼーション」とか言われていますが、なかなか商売上手な会社のようです。

コーラの瓶の形は女性のボディラインを著わしているとか・・
また、コカコーラの成分は秘密になっていて、それを知っている人物は重役2名だけで、1名が突然事故などに遭っても成分が分かるように、2人が同じ飛行機に搭乗しない、という伝説があります。 嘘か真か・・ 


  ・・・・・

 *今日の寒さはどこへやら・・今日は27度にもなりました。

             
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                                               (初夏の風景)
 


(103)甘藷考

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      (102) 「甘藷考」   5月12日

イメージ 1  よく焼きいも屋さんの看板に「九里よりうまい十三里」と書かれていますが、これは「九里+4里で十三里」とか、江戸時代の甘藷の産地、川越から江戸までは十三里あったからだ、とか言われていますが、寒い冬にフーフー言いながら頬ばる焼き芋の味はまた格別ですね。

 戦時中は食料不足で、毎日毎日そのサツマイモばかり食べさせられ、戦争末期の軍隊でも訓練はそっちのけで、たこつぼ堀りと芋畑ばかりを耕していました。でもサツマイモは荒れ地でもよく育ち、甘くてほんとにおいしいですね。 そのサツマイモが日本に渡来したのは実に劇的でした。
 
   「サツマイモの話」

イメージ 2 サツマイモ、つまり甘藷はもともと新大陸の植物で、それがスペイン船によって太平洋諸島からフィリッピンに渡来し、さらにそこから中国にもたらされてました。中国の「本草学」の書物には、16世紀の終わりごろから甘藷が「蕃藷」と言う名前で載っています。       → 甘藷の花

 この甘藷は1605年に琉球の野軍(ノグン)と言う人が琉球王の命を受けて中国に渡った時、福建省で甘藷を見て早速これを琉球に持ち帰りました。
 そして栽培してみると手入れも簡単だし、収量も多く、なかなか味も良い。それであっという間に琉球全土に広まったのです。          
 
イメージ 3 それから数年が経ってイギリスの航海士、 ← 三浦按針こと「ウイリアム・アダムス」が幕府の命を受けて平戸からシャム(タイ)に向けて出港しましたが、船が途中で浸水し始めたのでアダムスは那覇に緊急避難して船の修理をすることになりました。

  さて、修理は出来たものの、今度は季節が変わって風向きも変わり、そのままシャムには行けそうもありません。そこでアダムスは積み荷の一部を売りさばき平戸に引き返して来ましたが、その時、琉球滞在中に手に入れた甘藷を一袋持ち帰りました。これは1615年(元和元年)の五月の事でした。
 
 これが日本に甘藷が入って来た最初でした。この最初の甘藷は早速平戸で植えられています。

    しかし、甘藷の輸入にはも一つ別のルートがありました。

 それは琉球から直接、薩摩に輸入されたルートです。1609年(慶長14年)薩摩藩は琉球を征服し自分の領土に編入しました。そして当然、甘藷も薩摩に輸入され「薩摩イモ」と言う名前が出来たのです。いずれにしても、甘藷はこんな風にして、まず九州で栽培され始めたのでした。

イメージ 4 ところでサツマイモと言えば、おなじみの甘藷先生こと青木昆陽『1698年(元禄11年)5月12日生まれ』)がいます。彼の父親・佃屋半衛門は日本橋の魚河岸で問屋を営んでいましたが、昆陽は学問が好きで京都に出て伊藤東涯について学問を収めました。その同門に松岡成章と言う人が居て、早くから甘藷に興味を持ち、『蕃藷録』と言う本をまとめていました。
  ←青木昆陽

 そこで昆陽もいつの間にか甘藷に興味を持っていた所に、ある日、伯父の知り合いの加藤枝直と言う人が訪ねてきました。ちょうどこの年は米が凶作で将軍吉宗は食糧問題をどうするかについて頭を悩ませて居ました。 その加藤は江戸町奉行の与力で、上司はあの「大岡越前守」でした。

 昆陽は早速「蕃藷考」と言う自分の論文を提出しました。彼はこの植物についての知識の多くは松岡に学んでいましたが、その知識を土台にして実践的にその栽培法を含めてこの論文を書いたのです。加藤の手からこれを読んだ大岡越前守は大いに感心してそれを吉宗に取り次ぎました。
吉宗も喜んで早速小石川で栽培してみるように命じ、その実験の結果は上々でした。

  こうして作られた甘藷の苗は次々に関東一円に広がり、単に救荒植物としてだけでなく、新しい食料として広がっていったす。昆陽は「薩摩いも作り様、効能之儀上書」と言う初心者用の手引書も作っています。農民たちはこれを読んで甘藷を作り始めたのです。このようにサツマイモの栽培が普及したことで「天明の大飢饉」では多くの人々の命を救ったと言われています。

    ・・・・・


 *家内の目の診察のため、医大へ・・
 前回、目の注射をしなかったらやっぱり視力低下、網膜の浮腫がまた出来ていました。
 目の注射は3年前に保険採用になったばかりの新薬なので、一回15万円もします。
 でも老人保険なので一割負担の1万5千円、ありがたや、ありがたや・・

 来月も注射、そのあと白内障の手術で入院とか。。
 院内のコンビニでべんとうを買って、よたよたと激しい雨に肩を濡らして帰りました。
  なんだか我ながら侘しい風景。。

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(104)ロレンスの最後

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     (104) 「ローレンスの最後」  5月13日
 
イメージ 2  映画「アラビアのロレンス」の実在のモデルと言われる「T・E・ロレンス」は1888年ギリスで生まれました。

 彼は考古学に興味を持ちアラビアの研究に勤しんでいましたが、そのアラビアに関する知識が広いことから、イギリス陸軍は彼を起用して秘密の任務につかせました。そしてロレンスはアラビアの人々の中にすぅかり溶け込み、トルコに対するアラブの反乱を計画して指導したのです。

 ラクダに乗ってアラブの反乱軍と共に行動するロレンスの姿は、映画でもよく知られています。しかし、1918年、ダマスカス攻略戦が終わると彼は姿を消してしまいました。

   イメージ 3彼の功績は偉大でしたが、何時の間にか自分に与えられた虚名に空しさを感じたからでしょう。ロレンスは若くして引退してしまいましたが、陸軍の軍籍にはそのまま残っているので、彼が一体何を考えていたのかは分かっていません。              →アラビアのT・ロレンス

 そして10年が過ぎて、ロレンスはオートバイに興味を持ち、そのスピードを楽しんでいました。彼がアラビアの砂漠でラクダの背中にゆられてゆったりと走っていたのとは全く好対象でした。
1935年5月13日、彼はこの日もイギリスのドーセット州の陸軍基地を出てオートバイのスピードを上げていました。



 ところが坂道の急カーブに差し掛かったとたん、二台の自転車に乗って走っている人の姿が目に飛び込んできました。その道路は狭く、彼らを避けることが出来なかったのです。ロレンスは思い切ってとっさにハンドルを切ったところ、空中に投げ飛ばされ路面に叩きつけられて人事不省に陥り、6日後に46歳でその波乱の生涯の幕を閉じたのです。

              イメージ 1
                     (オートバイに乗るロレンス)

        ・・・・

  *昨日の強雨はどこへやら、今朝は爽やかな五月晴れの蒼空が広がりました。
   緑の木々もいよいよ青さを増しています。

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                                                    (緑の里山)
     

(105)母の日

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      (105) 「母の日の始まり」  5月14日

イメージ 2 「母の日」は5月の第2日曜と言うことになっていますが、今年は今日、5月14日ですね。
 さて、この母の日にはどんな由来があるでしょうか。

 中世のイギリスでは4旬節(レント)の第4週の日曜日に、徒弟奉公などで働きに出ている子供たちが家に帰って母を慰める、という習慣がありました。
  この民俗行事は今は無くなりましたが、1890年にアメリカ・ケンタッキー州の「サシーン女史」がこの行事の復活を説き、自分の母親の誕生日である4月20日を母の日にしよう、と提案しました。しかしこの提案は無視されてしまいました。

 その2年後の1892年には、今度はバルチモアの日曜学校の先生「R・カミンズ」がその教会の牧師の母親の誕生日を母の日にしよう、と提案。この教会に限り5月22日に母親に感謝する集会が開かれましたが、これもあくまでも局地的な行事に過ぎませんでした。

イメージ 1 「母の日」を今日のような形に定着させたのはフィラデルフィヤの←「アンナ・ジャーヴィス」と言う女性で、彼女は日曜学校の教師として献身的に働いている母親の姿を見て育ち、母親を心から尊敬していましたが、母親は1905年5月9日に亡くなりました。

 ジャーヴィスは悲嘆に暮れて2,3年を茫然として過ごしましたが、ある日突然、世の中の子ども達が母親に対して十分な思いやりを持っていない事に気付き、大キャンペーンを開始しました。彼女は議員や州知事、実業家、新聞などに手紙を書き、ついに1910年、オクラホマ州、ワシントン州などが5月の第2日曜を州の休日に指定し、他の州もそれに習ったのでした。これがさらに世界中に伝わり、日本までもこの日を「母の日」として祝うようになりました。


 イメージ 3ところでジャーヴィス女史は、あれやこれやで忙しく遂に結婚することもせず、1946年にな亡くなるまで独身で過ごしました。ちなみに母の日のシンボルとして使われる白いカーネーションは、ジャーヴィス女子の母親が好んだ花だそうです。

 
 ブーゲンビルといえば、ブーゲンビル島を思い出しますね。
ニューギニアの東、ラバウルに近く、戦時中に山本五十六元帥が機上で戦死した激戦地ですね。
花と同じく「ブーガンヴィル」が発見した島だそうです。
 
   ・・・・


 *昨日息子から「ブーゲンビリア」の花が送ってきました。と言っても実際は孫娘が見立てて送ったらしい・・)三年前のカサブランカも今年も忘れずに可愛いつぼみをつけています。
 「ブーゲンビリア」は南米が原産で、フランスの探検家「ブーガンヴィル」がブラジルで発見したそうで、外側のピンクの花は実は花ではなく「ホウ」で、ほんとの花は真ん中の小さい三つのハナだそうです。

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(106)ラクダ部隊の誕生

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     (106)  「ラクダ部隊の誕生」  5月14日

 最近のように超スピードの時代には、逆にラクダのような乗り物でのんびりと旅をしたいものですね。ところで、スピードが勝敗を決する戦線に、昔のアメリカでラクダ部隊が居たのをご存じでしょうか。

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                         (1917年、第一次世界大戦・オーストラリアのラクダ部隊、)


 イメージ 519世紀の半ば、アメリカはインディアンとの戦いに苦労していました。映画の西部劇にも黄色いリボンや、全滅した第七騎兵隊の話など色々と取り上げられています。

  当時のアメリカはやたらに戦線の広がりが大きく、またメキシコとの戦いで領土が拡大したので、これらの広大な地域を警護するのは至難のわざでした。とりわけこの地方をパトロールするための適切な乗り物がありません。まだ、自動車はおろか、道路さえ満足になかった時代ですから・・


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            (第一次世界大戦、輸送用のラクダ)


イメージ 3 そこで当時の国防相であった「J・ディブス」は奇抜なことを思いつきました。ラクダを使おう、というのです。もともとラクダはアラビアの砂漠などの乾燥地帯で隊商が乗り物として使っていましたが、ラクダは見かけによらずスピードも速いのです。

 アメリカ議会は1855年に陸軍がラクダを輸入するのに3万ドルの予算を承認しました。そして二人の担当者がラクダ購入の任務を帯びて地中海地方に行き、スルミナで21頭、チュニスで3頭、エジプトで9頭、合計33頭のラクダを買い入れました。さらにこれらのラクダを操る事の出来るアラブ人、トルコ人3名も雇い入れました。

 ↑ ヒトコブラクダ 

 これらのラクダを乗せた「サプライ号」は1856年5月14日にテキサス州のインディオロナ港に到着しています。エジプトからテキサスまでの航海は三か月もかかりましたが、ラクダは全員(?)健康そのものだったそうです。

イメージ 1
 そしてその翌年にもさらに75頭のラクダが輸入され「E・ビール中尉」を隊長とするラクダ部隊が編成されて、もっぱらニューメキシコとカリフォルニアを結ぶ物資の輸送に当たりました。この輸送作戦は見事成功して、ラクダ部隊はアメリカの陸軍史上にその名をとどめたのでした。

 こののち、ラクダは民間に払い下げられて、西部諸州で姿を見せていましたが、その最後のラクダは1907年に死亡しています。

 アメリカの煙草にキャメル」と言う銘柄がありますが、これはこのラクダ部隊の故事に基づいたものなのです。。



           ////

  *今日も爽やかな五月晴れです。
    ラクダにでも乗ってのんびりと「どこか遠くへ行きたい」ですね。
    でも車だらけの今の交通状態だと、あっという間に振り落とされるかも。。(^^♪




(107)電報の始まり

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    (107)  「電報の始まり」   5月16日

イメージ 1 最近はケイタイやネットの普及で電報を打つことなんか、全く考えられませんが、戦前では電報は緊急の通知の場合には必須の通達手段でした。

 夏目漱石の「吾輩は猫」のモデルの黒猫が死んだとき、漱石の弟子の松根東洋城は高浜虚子に電報を打って知らせています。

       センセイノネコガシニタルヨザムカナ


 奈良に住んでいた学友のYに電話すると、耳が遠くてなかなか通じません。
しまいには、「今度電話する時には前もって電報で知らせてくれ、そうすると補聴器をつけて待ってるから。。」と言い出す始末。その彼もとうとう昨年、電報も打たずに亡くなってしまいました。

 イギリスで最初に電報のサービスが始まったのは1843年5月16日でした。
電線は鉄道会社の物を使い、パディントンから32キロ離れたスロウまで送られてロンドンや、ウィンザーなどに配られることになっていました。

 日本での最初の電報も不思議なことに東京・横浜間の32キロでした。然しこちらの方は1869年(明治2年)の12月で、イギリスよりも25年余りも遅れていました。始めのうちは電信で手紙が送れる、と言う早トチリから電線に手紙を結びつける、などと言う笑えない出来事もあったようですが、その7年後には日本の電信網は1700キロにも及ぶようになりました。。

 イメージ 2ですから明治7年の←司法郷・江藤新平佐賀の乱のときにも、その第一報が電報で東京に届き、大久保利通は自ら現地に赴いて熊本鎮台に動員をかけて、この反乱を鎮圧することが出来たのです。

 電報開局当時の電報料はカナ一字につき、一厘一毛で、配達料が一里に付き12銭でした。面白いことにこの電報量は郵便料に比べると格安でした。たとえば東京・横浜間の郵便物を速達扱いをすると、郵便料は20円と言うべらぼうな値段だったのです。20円あればカナ文字でなんと2万文字ぶんの電報を打つ事だ出来たのです。しかし初期の電報は専ら政府専用で一般の利用はなかなか難しかったのが実情でした。

 イメージ 3
 ← 明治初年の郵便配達夫

  昔は大学の合格発表の前に電報で合否を知らせるサービスがありました。今はどうでしょうか・・
 たいていは「サクラサク」「サクラチル」でしたが、早稲田の不合格は「イナホチル」
  鹿児島は「サクラジマフハツ」だったそうです。
 
   こんな電報はどうでしょうか・・
  
    スモモモモモモモモモモモモニモイロイロアル
    キシャノキシャハキシャデキシャデキシヤ
    ハハハハハハハハノハハハハハハハトワラウ


     ・・・・・

*昼、月一の中学同窓会、5名が集まりました。みんなあまりしゃべりません。
 これだけ年を取ると自然と話題も少なくなります。社会との接触が少なくなるからでしょうか。
 耳が遠いのか、それともボケ加減なのか・・
 手酌で飲んで、むしゃむしゃ食べて、ハイさようなら。。
 昔のように談論風発と言うわけには行きません。 (~~;)

(108) 南京虫の裁判

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        (108) 南京虫の裁判   「5月17日」

   東北紀行の芭蕉が奥の細道の中に、宮城県尿前の関で、
           のみしらみ馬の尿(しと)する枕もと

イメージ 1 という俳句を詠んでいますが、それだけ昔はノミやシラミが多かったんですね。
ノミ虱だけでなく、南京虫(トコジラミ)もいました。紫蘭も軍隊時代に、古い毛布に一匹だけ居たのを見たことがあります。5ミリほどもある不気味な体つきで、こりゃなんじや?と驚いたことがありますが、幸い刺されはしなかったようです。。

 ところで、そんな馬鹿なことが…と思われるかもしれませんが、むかしアメリカでホントにあった南京虫相手の裁判についての話です。

↑ *戦地でもノミ虱に困っていたのでしょう、ノミ取り粉を慰問袋にも入れていたようです。

    ・・・
 
 アメリカ一の大河、ミシシッピー川を最初に発見したヨーロッパ人はスペイン人の探検家「エルナンド・デ・ソト」ですが、彼は1541年5月8日に、アメリカ南部のミシシッピ川に到達しています。彼の探検隊はミシシッピ川下流域を探検しましたが、1521年5月21日に彼はミシシッピ河畔で死亡しました。

 その後100年以上経って本格的にウィスコンシンからミシシッピー川を探検したのはイエジス会のマルケットと毛皮商のジョリエで、彼らがアーカンソーまで到着したのは1673年5月17日でした。

 さて、1800年代後半の西部開拓時代に、このミシシッピー州で世にも珍しい裁判が行われています。原告は同州の有名な弁護士S・プレンティスと裁判官のゴールソン判事で、二人はレイモンドの街に一泊することになりましたが、夜中になるとからだ中がかゆくてたまりません。南京虫の襲撃です。
 眠るにも眠れず腹を立てた二人はなんと、ピストルを取り出して南京虫退治を始めました。いくら西部開拓時代とはいえ南京虫を相手にピストルを乱射するとは前代未聞の出来事です。おかげでベットは穴だらけになってしまいました。

 その結果、南京虫の何匹かは彼らの銃弾の露と消えましたが、夜が白むころ二人は一匹の南京虫がウロウロしているのを発見、これを生け捕りにすることに成功しました。それまで殺した何匹かの南京虫にはが成立しますが、生きている限りこ一匹の南京虫は被告として法廷に連行せなばならない、と彼らは考えて、州の定めにより南京虫の裁判を開きました。。


 そして陪審員が任命されその中にはあの宿屋の主人も引っ張りだされ、「ゴールソン」は検事として2時間に渡って被告の南京虫を糾弾し、「プレンティス」は弁護士と言う商売柄、南京虫の弁護をかって出ました。弁護人は声涙ともに下る大弁論を4時間も続けて、この可哀想な南京虫の無罪を主張しました。
 その結果、陪審員たちは被告の南京虫を無罪として放免しました。ただし、、放免されたその南京虫が、その後どんなふうに生き延びたかは残念ながら記録に残っていません。


 *ところで、日本でもむかし南京虫裁判があったようです。然しこれは南京虫が被告と言うわけではなく、被告は泊まった旅館でした。

 2004年に神戸のお寺の住職が鳥取県の三朝温泉にある旅館に泊まったとき、南京虫に刺され、かゆくて葬式などの仕事ができなかったとして、旅館を相手に157万円の損害賠償を求めた裁判です。裁判長は南京虫がいたことを認め、旅館に慰謝料10万円の支払いを命じています。坊さんはかゆみのために一か月以上も休業したとか。。

                           イメージ 2
                                      (昭和7年の新聞広告)


 今は殺虫剤の普及で、ノミ虱や南京虫などの吸血鬼は殆ど見かけなくなりました。
 戦後、DDTやBHCの散布で、どこもかしこも白い粉だらけだったのを思い出します。
 発がん性があるとかで、両方とも今は消えてなくなりましたが。。
 
 
         ・・・・・

(109)喜望峰の発見

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      (109) 喜望峰の発見   「5月18日」

 15世紀半ばから始まった「大航海時代」の目的は主に東洋の香料でした。古くからシルクロードやアラビア半島を経てインドに到着する陸路は既にイタリアやアラブ商人によって開発されて居ました。そこで当時のイベリア半島の二大強国だったスペインポルトガルは、何とかして直接インドに行くことは出来ないかと、15世紀後半にしのぎを削る大接戦を開始しました。

イメージ 1 ポルトガルはすでに1487年に「B・ディアシオ」がアフリカ西岸沿いに南下して喜望峰を発見していました。
 この喜望峰を廻って行けばインド洋に出ることが出来るはずだと考えましたが、その後まもなくスペインのコロンブス」が大西洋を西進して新大陸の一部を発見してしまいました。そしてコロンブスは自分が発見したのをインドと勘違いして、インド到着と報告してしまったのです。

 イメージ 4そこで慌てたのがポルトガルです。スペインに先にインドを発見されたのは残念だが、せっかく開拓したアフリカ航路を断念するわけには行きません。そこで ← 「ヴアスコ・ダ・ガマ」国王によって総指揮を命じられ、5隻の船団を率いて喜望峰を回ってインド洋に出ました。

 
イメージ 2

                              (ガマのリスボン出帆)

 そしておよそ10か月にわたる航海ののち、1498年5月18日にガマはインド南端を回ってカルカッタ沖に到着し、20日に上陸しました。彼が上陸したのはまぎれもないほんとのインドでした。そこでアラビア商人に妨害されながらもとにかく香料を買い入れ、ガマは8月にインド洋を出て翌年の9月にリスボンに帰着しました。


  イメージ 3そして、それが契機になってガマは第2回目の航海を20隻の大船団で敢行し、ポルトガルとインドとの直接取引が始まりました。所が困ったことにスペインの方はコロンブスが発見した新大陸沿いの島々をインド諸島と名づけているので、ここに二つのインドが地図上に現れてしまったのです。
  そこで止むを得ず、スペインの方が「西インド」となり、ポルトガルの本物のインドの方は『東インド』と呼ばれるようになりました。コロンブスがインドを勘違いしたおかげで、本物のインド人も「インディアン」だし、西部劇に出てくるアメリカの先住民も「インディアン」と言うややこし事になったのです。

 時々、「インディアン」と言う言葉を使うと、「どっちの?」と言う返事が帰ってきます。そこで新大陸のインディアンには「アメリカン・インディアン」と言う形容詞を付けねばならないのです。しかし最近は先住民族と言う意味で「ネイティヴ・アメリカン」と言う言葉を使うようになったので、両者の間違いは多少は緩和されるようになりました。
 

   ・・・・

  *今日もいい天気です。
    家内の胃の具合が悪いので今から診察に。。

(110)勲章の話

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      (110) 「勲章の話」 5月19日

  むかし、「ぼくは軍人大好きよ」 と言う唱歌がありました。
 
              イメージ 1僕は軍人 大好きよ、 
             今に大きく なったなら
             勲章つけて 剣さげて、 
             お馬に乗って ハイドウドウ

  一方、こんな反戦歌もありました。

            子供のおもちゃじゃ あるまいし、
            金鵄勲章や 金平糖
            胸に吊るして 得意顔
            およし男が さがります   (ラッパ節)

                                                (正装の東郷元帥)
 
 昔から軍人は正装すると、胸にキラキラいっぱい勲章が光っていましたし、軍人でなくても功績のあった人には,それぞれにいろんな勲章が与えられます。。軍人ならずとも、勲章を貰うのはいつの時代でも嬉しいものなのでしょうか。

   「我が輩も偉いんだぞー、アメリカ軍のスタビー軍曹」  
     この誇らしげな・・と言うより迷惑そうなこの顔・・
      (第一次世界大戦)で17回の戦闘に参加、2回負傷しています。。  

イメージ 2

                      
 イメージ 5特定の功績のあった者に、その殊勲を記念する為にある種の象徴物を与える、と言うことは古くから行われていました。古代ギリシャでは競技の優勝者にトロフィ-を与えて居ましたが、もともとトロフィーは神に捧げた牛の血を飲むための盃で、要するに神の思し召しの象徴でした。ですからこの盃を与えられると言うことは本人にとっては何物にも代えがたい栄誉だったのです。

 中世になると騎士たちには揃って勲章が与えられました。勲章はその功績を示すものであると同時に、一方では騎士階級に属しているという身分証明書のようなものでした。英語では勲章の事をオーダーと言いますが、この言葉には階級と言う意味と騎士団と言う二つの意味が重なっているのです。
      ↑ 昭和天皇

  そして絶対王政になると、ヨーロッパの王様たちは次々に勲章を制定して、宮廷でののバランスをはかり、組織の強化に努めたのです。

 もちろん信賞必罰が勲章授与の原則ですが、時には勲章は権謀術策の手段としても使われました。勲章を馬鹿にして軽蔑する者もいますが、貰えば誰でも嬉しいものです。それは様々な政治的な意味を持つからです。今でも勲章をもらうと、友人知己から盛大に祝賀会を開いてもらいます。

イメージ 4
                                                 (司馬さんの文化勲章)

 勲章と言う物的シンボルに最も熱心だったのはイギリスです。イギリスの勲章は、オーダー、デコレーション、メダルの三種類に分かれ、それぞれがまた細分化されていますが、別格に高い二つの勲章は「ヴィクトリア・クロス」「ジョージ・クロス」で、この二つは女王か王のみに与えられるものです。王制を原則とする国では、勲章を与えるのはこうした最高勲章を自分自身が持っている王なのです。

 では王政が乱れた国ではどうでしょうか。権力の構造が王政から共和制に移っても、功績のあった人物に何らかの栄典を与えるという考えは、そのまま継続しました。例えばフランスでは1802年5月19日ナポレオン一世によって制定された「レジオン・ド・ヌール勲章」がありますが、共和制になってもこの勲章制度は残り、大統領が賞勲議定官会議の審査に基づいて、フランス国家への貢献度が高かった人物にこの勲章を与える、と言う事になっています。


イメージ 3 日本では奈良時代の大宝律令ですでに恩賞制度が明文化されており、勲章と位階が制定されていました。そうした伝統の上に西洋から輸入した勲章制度を重ね合わせたのが日本近代の勲章制度です。日本の勲章制度は1875年(明治8年)の太政官布告で定められ、まず新貴族制度の確立とその維持のために利用されましたが、のちに一般民衆にもその功績に応じてそれぞれ与えられるようになりました。
   ← 戦死した兄の勲章は勲八等

 義弟は上級国家公務員として永年、本省勤めをしていたので、宮中に参内して勲四等・瑞宝小綬賞を貰い、シランの兄は一兵士として20歳でビルマのジャングルで戦死したので、最下級の勲八等の勲章を貰いました。。 (^^::)
     ・・・・・
 

 * 家内のエコーと胃カメラ検査にお付き合い、
   何の異常もなく年の割にはしっかりした胃袋だとの有り難き御宣託・・、
   来週の大腸内視鏡の予約をしてきました。
   もし、内視鏡でポリープを取った場合は、念のためその日から2泊3日の入院が必要だとか。。
  

(111) バルザックとコーヒー

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      (111) 「バルザックとコーヒー」  5月20日
 
 イギリスで初めてコーヒーガ飲まれるようになったのは1637年の事ですが、それから20年ほどの間にコーヒーは広く民主生活の間に浸透して毎日のように飲む人が増えてきました。それどころはなく一日中、コーヒーハウスに座り込む人も見かけるようになりました。
 そんなコーヒー愛好家の中に、作家の「バルザック」が居ます。

 イメージ 1←バルザックはフランスの作家で1799年5月20日生まれ. 近代リアリズム小説の父と言われ、フランス革命以後の生きたフランス社会の実相を  「人間喜劇」 90数巻に描き出しました。

 彼は絵のない額縁をかけて、それを見て楽しむ程の想像力の豊かな作家でしたが、その一方では借金と浪費の天才でもありました。
 
 一時創作を止めて印刷屋と新聞を始めましたが失敗し、借金が増えるばかりでしたが,磁器や宝石など高価なものを派手に買いあさり、たった一度の晩餐会のために室内装飾を全部取り替え、食堂の家具を入れ替えたりしました。


   イメージ 4そして債権者たちに襲われてどんなひどい目にあっても、死ぬまで金を借り、品物を買い続けたのです。自分の作品の中では多くの主人公たちが巨万の富を築いていると言うのに。。 1850年8月18日 死亡。 →ちょっとコワモテですね。

 「俺の青春は雲一つない空のようにまだ青く晴れ渡っている。偉くなりたい、また金持ちになりたいと願うことは、うそをつき、頭を下げ、へつらい、偽ることを自ら決心したことではないか。この連中の下僕に甘んじようと自ら承知したことではないか」

 イメージ 2バルザックは西洋の近代作家の中で最もコーヒーを愛好した人物でした。彼は午後6時にベットに入り、深夜12時に起きると即座に執筆に取りかかり、その日の正午までぶっ続けに12時間ひたすらに書き続けるのを日課にしていました。しかもその執筆中、片時もコーヒーカップを手放すことがなかったのです。彼はコーヒーについてこのように書き残しています。


 イメージ 5 「まずコーヒーを牛飲し、主として夜間に長時間にわたって、何回も文章の推敲を繰り返しながら執筆した。 コーヒーが腹の中に入ると即座に活気が出てくる。ちょうど戦場における兵士のように生き生きとしたアイデァが生まれ、記憶の中に眠っていたものが次から次へとその姿を現してくる。論理の道筋がきちんと見えてくるし、機知のひらめきが頭の中を駆け巡る。私の顔には自然と朗らかな微笑みが浮かび、私は紙とペンだけを相手にして仕事に熱中する事が出来るのだ」  と・・

 バルザックはまた美食家でもあり大食家でした。彼の食事の記録によると、一回の食事にカツレツを1ダース、カモを一羽、ぞれにカキを110個平らげた事があります。それだけ食べたあとで、デザートに桃を10個食べたというから、すすさまじいですね。
 もちろん、その間もコーヒーを飲み続けなのです。何ともいやはや。。@@/

 イメージ 3彼の大食いは、晩年の失明や死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われますが、食事も豪胆なら借金も豪放でした。しかし、事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックが作った莫大な借金は、彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚した貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産がその穴埋めに使われました。

                                                      →  バルザックの妻・ハンスカ

 彼の精力的な創作活動の背景には、このような旺盛な飲食活動があったのです。

              ・・・・

*今日もいい天気、地場スーパーに食料品の買い出し、駐車場の車も暑いくらいになりました。
 コーヒーと言えば、戦時中の代用コーヒーを思い出します。大豆だったかな?
 もちろん、ケーキなし・・ただ、今の季節・わらび餅を売った店がありました。
 甘さに飢えた時代、小皿にちょびっとばかり乗っているわらび餅がとても美味しかったです。


(112)マスコット人形

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   (112) 「自動車のマスコット」  5月21日

 最近、車の中にマスコット人形を置いたり、ぶら下げているのをよく見かけますね。
 このマスコットの由来はどんなことからでしょうか。

 1927年5月21日リンドバーグが操縦する「スピリット・オブ・セントルイス号」が大西洋を横断してパリのブルージュ飛行場に着陸しました。彼は34時間という単独の長距離飛行で疲れ果てていましたが、この着陸の瞬間から彼は20世紀の英雄の一人になったのです。この飛行はのちに彼の著書「翼よ、あれがパリの灯だ」でいっそう有名になりましたが、その本を読んでみると、なんとこの飛行は単独飛行ではなくちゃんと同乗者がいたのです!


イメージ 1
                       
                (映画、翼よあれがパリの灯だ ・ジェームス・スチュアート


 イメージ 2それは一匹のハエでした。。
 どこで紛れ込んだのかこの一匹のハエが、操縦席の中を飛んだり、時には羽根を休めていたのです。完全な孤独と不安の中での単独飛行中、←リンドパーク はこのハエを伴侶として、ハエに話しかけたり、ハエの存在に力づけられて操縦桿を握っていたのです。

 孤独な操縦者と物言わぬ伴侶、と言う組み合わせは、違った意味で近代の日本にも見られます。1927年ごろ(昭和初年)、円タクと言う名のタクシーが東京市内を走り始めました。そしてそのころタクシー運転手の間に一つの怪談話が流行っていました。


 それは、深夜タクシーを走らせていると妙齢の婦人が手をあげて呼び止めるのです。そして乗り込んだ客席の婦人は「青山まで」と言う。青山の近くに来ると、今度は「墓地の方へ・・」と言う。薄気味が悪いがとにかく墓地の中に入り、この辺ですか?と声をかけると返事がない。運転手がうしろを振り返ってみると、なんと乗っていたはずの婦人の姿が忽然として消えているではないか・・と、いうわけです。

 イメージ 3似たような怪談は今でも時に聞きますが、その母胎となっているのはロンドンの辻馬車です。ロンドンでは18世紀ごろから辻馬車の御者の間に同じような怪談が広まっていました。

 それがどういう経路で日本に伝わったのかは分かりませんが、この青山墓地の怪談に転化したらしいのです。然し、いずれにしろ気味の悪い話ですね。

   ↑ロンドンの辻馬車

 何とかこんな近代の幽霊から身を守る方法はないか・・と運転手たちがいつとはなしに発明したのがマスコット人形だったのです。これをバックミラーあたりにぶら下げておくと幽霊除けになる、と言うわけです。
 リンドバークとは比べ物になりませんが、タクシーの運ちゃんもまた孤独な操縦者なのです。
とりわけ深夜、暗い道を走るのには一種の不安を覚えます。たとえ血の通わないマスコット人形でもぶら下げて置けば、それが同行者や伴侶になって孤独から救われるというわけです。

 話は違いますが、巡礼などの一人旅の場合は、笠に「同行二人」と大書して旅をしますが、こうした意味もこのマスコット人形に込められているのかもしれませんね。

          ・・・・・
 
 *・・・「セントルイス号は徐々に上昇中、操縦桿を前に倒す。。左方向舵、旋回を止める。
  頭をプロペラの風に当てて深呼吸をする。 よし、心と感覚が一致する。
 ついに睡魔の呪縛を破ったのだ。私は重病から回復したかのように感じる。
 なんと大洋の美しいことよ!。。なんと大空の澄んでいることか!点のような太陽!
 何事が起ころうと、この瞬間、生きていることでたくさんだ。」・・・

                 リンドパーク 「翼よ、あれがパリの灯だ」より


       ・・・・

(113)乗客ゼロの処女航海

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    (113) 乗客ゼロの処女航海   「5月22日」

  〇  「ユゴーの死」

イメージ 1 1885年5月22日、フランスの詩人・作家であったユゴーが死んで居ます。彼はロマン主義の首領として活躍、後に共和制擁護に献身して進歩と愛を称える傑作を多く作りました。

 中でも「レ・ミゼラブル/ああ、無情」が特に有名ですが、彼は43歳の時、人妻である有名な女優のレオニ・ドーネと寝ているところを警官に踏み込まれました。相手のレオニ夫人は姦通罪で監獄に送られましたが、彼は貴族院議員の特権で放免されています。然しその後のクーデターで国外追放になり20年間も亡命生活を送りました。
 彼は晩年になっても美人には目がなく、心を燃やし続け、時には同文のラブレターを数人の女性に送ることもあった、と言います。

 〇 「ユゴーの語録」

イメージ 2「労働は生命なり、思想なり、光明なり」
「人生における無上の幸福は我々が愛されていると言う確信である。」
「世の中には多くの愛すべき女性がいる。しかし完全なる女性は一人も居ない」

   『 (我々は孤立無援だ。よし諸君、死かばねとなっても抵抗しようじゃないか、共和党は人民を見捨てぬ事を示めそうではないか。) この言葉を発した労働服を着た無名の見知らぬ偉人は、永久に消えて行く英雄であった。彼はつねに人類の危機と社会の打開に立ち交わっているのである。
一定の時期に断固として決定的な一語を発し、民衆と神とを代表して忽ち暗黒の中に消え去るのである。』


  〇「乗客ゼロの処女航海」

  15世紀以来の大航海時代の船は例外なく帆船でした。

 
イメージ 3  
(ノルウエーの帆船)

 もちろん、操船術がたくみであれば風向きがどうであっても船を思いのままに操ることが出来るでしょうが、一定の方向にそれもかなりのスピードで船を進めるのには、風力よりもやはり内燃機関による動力の方がどれだけ効率的であるか分かりません。
 そこで従来の帆船に補助的にエンジンを付けてみよう、という考えが生まれました。そして350トンのアメリカ船「サバンナ号」はエンジンの装備を付けて1819年5月22日にアメリカのジョージァ港を出帆し、大西洋を横断して一路イギリスを目指しました。そして同年6月30日、無事リバプール港に到着しました。

           
イメージ 4
                                                       (外輪船)


 然しこの蒸気エンジンは外輪を動かすためのもので、出力が90馬力、騒音がひどくて、せっかく用意した32の客室には一人の乗客も乗って呉なかったのです。それに加えて燃料の関係でエンジンが回ったのは一か月の航海でわずかに80時間程度に過ぎませんでした。ですから実用的には従来の帆船とこの補助動輪の付いた新型船との間には大した違いはなかったのです。

 けれども、こうした実験が何度も繰り返されることによって、いわゆる「黒船」が誕生し、船舶史上で帆船から汽船への大転換が、その後50年ほどの間に完成したのです。

 

(114)海賊キッドの悲劇

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       海賊「キッド」の悲劇  「5月23日」
    イメージ 3
                                                           (海賊旗)

イメージ 2  ← 「ウイリアム・キッド」と言えば残忍無比の海賊と言う評価が定着していますが、彼の行為の真相は正確には伝えられていません。キッドは1645年スコットランドに生まれ、船乗りになって35歳の頃にはニュヨークで家庭を持ち、ここを基地として西インド諸島への商船の船長として活躍していました。

 そしてアメリカの沿岸に現れたフランス船を追い散らしたという功績でニューヨーク市議会から表彰され、善良な一市民として尊敬されていたのです。
 そうした世評も手伝って、キッドは西インド諸島でイギリス船を襲う海賊たちを討伐する任務を与えられていました。

  つまり、キッドは海賊ではなく、逆に海賊の退治が公式の役目だったのです。彼は忠実に任務を実行し海賊から没収した積み荷をアメリカに運び続けていました。
 しかし、不運なことにやがて彼の船「アドベンチャー号」が破損し、乗組員はコレラにかかって次々に死んで行きました。

イメージ 1 そこで乗組員を補充してみると、これがまたならず者ばかり、キッド船長自身は海賊船だけを攻撃する方針を変えては居ませんでしたが、乗組員たちは海上で遭遇するすべての船に襲かかり、キッド船長の命令はすっかり無視されてしまったのです。

 その上、キッドは乗組員を満足させるだけの食料品も賃金も持ち合わせていなかったので「アドベンチャー号」は遂に海賊船にならざるを得なくなりました。そしてキッドはいつの間にか、大西洋を航海するすべての商船から凶悪な海賊船の船長と見なされるようになったのです。

 


イメージ 4

   こうしてキッドは捕らえられて裁判の結果、死刑を宣告されました。
 
 彼が絞首刑になったのは1701年5月23日でしたが、彼は最後まで身の潔白を叫び続けていたのです。

                                                            縛り首になったキッド→
    


                                  。。。。。。


 

 *今日もいい天気、まだ5月だというのに気温は30度にも上がるようです。
 内視鏡では異常がなかったのに、なぜか家内の胃の痛みが治まらず、今朝はかかりつけの循環器へ。さて結果はどうかな。。



(115)ゴルフ場の始まり

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     (115) 「ゴルフ場の始まり」  5月24日

  
  イメージ 5昨年11月までは元気にゴルフに出かけたが、今年は足腰が弱ってもう行けそうもない。90過ぎると体力の衰えはこんなに早いものなのか。。

 若いころは明日はゴルフだと思うと、子供の遠足みたいに興奮してよく眠れなかったものだが、ゴルフも40年も経つと、さほど興味がわかないのはどうしたことだろう。人間の若さ、活力が消失してしまったのだろう。年は取りたくないものだ。。
 
   
 
 今のゴルフは電動カートの導入で、殆ど歩かないでよい。

年寄りは助かるが、若い人にはどうだろう。昔はキャディーさんが道具をかついだり、手押しのカートに4人分の道具を積んで山道を押したりしていた。急な坂道では、プレヤーがキャディさんと並んで一緒に押したりしたものだが。。
     そんな日本のゴルフ場の始まりはいつ頃だろうか。。

イメージ 1


   〇 「駕籠でゴルフ」
 
 明治期の新興都市・神戸は何かにつけてハイカラ好みでした。それは、神戸は横浜と並んで新しい開港場となり、外国人がたくさん居留地に住み始めたからです。そして年月が経つにつれて彼らはゴルフ場を造ろうと考えるようになりました。

 イメージ 6そのゴルフ用地として選ばれたのは六甲山頂の8反ほどの土地で、地主との間に年間16円で賃貸契約が結ばれました。

  こうして神戸の貿易商人「A・クルーム」によって日本最初のゴルフコース「神戸ゴルフ倶楽部」が出来たのです。その開場は1903年(明治36年)5月24日の事で、兵庫県知事「服部一三」が始球式を行っています。

       (いい子は仲良く砂遊び)

イメージ 7 しかし神戸市内から海抜850mのゴルフ場までの交通は極めて不便で、ゴルファーたちは徒歩で登山して、そこで一息入れてからゴルフを楽しむという大変な騒ぎでした。

 そこで険しい山道を登るのに少しでも便利なようにと駕籠が使われた事もあるそうです。西洋式に籐椅子にカンパスの屋根を付け、それを駕籠かきがかついで運ぶのです。日本のゴルフの事始めは、このように決して容易なものではなく、また一面、マンがチックなスポーツでもありました。
       
                      (ここらでちょいと一休み、おーい駕籠を呼んでくれ!!

イメージ 8
*神戸ゴルフ倶楽部の開場からはや100年余り、バブル期にあれだけ乱立したゴルフ場も今やその多くが倒産して再生の道を歩んでいる。有為転変の世の中、ゴルフ場も悠長に遊んでいる場所ではないようだ。。

  ← ライバルも老いぬれば駄馬に等し・・


 * 平成3年、中学卒業後50周年行事の一環としてゴルフコンペを開いた。67歳だった。 ↓
この時は全国からゴルキチ達が16人集まったが、この中で今も健在なのはわずかに5人、それももちろんゴルフとはもう縁は切れて居る。 過ぎ去りし思い出の中のゴルフ人生を偲び感無量。。 

イメージ 2

                                                                                          
          イメージ 3イメージ 4

                (少年の日の思い出は遠く・・)            (コンペ・スコア表) 

   
 *昨日から、また家内が胃が痛く、全身倦怠感を訴えたのでちょっと慌てた。
   昨日は循環器のお医者さんで点滴まで受けて来たのに。。

 ふと思いついたのは薬である。
昨日、薬局で胃腸科と循環器科で似たような薬が出ていると指摘された。 
そこでパソコンで検索して、今朝は胃の薬を飲まないことにしたら、「豈図らんや」ぴたりと痛みと倦怠感が消えた。 薬が重複して逆に体を痛めたのかもしれない。

 薬はもちろん薬にもなるが、あくまでも毒物なのだ。
 こりゃー、うっかりできないぞ・・ クワバラ、クワバラ。。
  

(116)食堂車の変遷

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       (116) 食堂車の変遷   「5月25日」

 以前は、山陽本線や東海道線などの寝台特急などには必ず食堂車がついていて、車窓の景勝を愛でながら楽しい食事が出来たのですが、新幹線や飛行機の旅が増えたせいか、ななつ星などの豪華列車をのぞいて、今は食堂車は殆ど見られなくなりました。

イメージ 1
                                                (豪華列車四季島)


 日本の鉄道に食堂車が初めて登場したのは1899年(明治32年)5月25日、私鉄の山陽鉄道(今のJR山陽本線)で、その区間は神戸から津山まで。当時の作家「大町桂月」は「この列車は揺れが激しい」とボヤキながらも、食堂車がついているのは便利だ」と言い、「須磨,舞子、明石などの景勝の地を何皿かの肉と一瓶の酒に陶然として過ごした」と書いています。東日本ではその2年後の12月に国府津・沼津間で始めて食堂車が走っています。


イメージ 2
                                            (山陽鉄道の食堂車)


 ところで世界で最初に食堂車が登場したのは1863年、アメリカのフィラデルフィヤ・ウイルミントン&ボルチモア鉄道でした。尤もこれは食堂車と言っても、普通の客車の椅子を取り払い、それを中央で二つに仕切って、一方を喫煙室、一方をビュッヘ方式にしたもので、食べ物は立って食べたり、或いは座席に持って帰って食べたりと言う、いわば軽食のサービスでした。

 そして、本格的なテーブルサービスを付けた食堂車の第一号は、1867年にカナダの「グレイト・ウェスタン鉄道」で走っています。アメリカやカナダなど広大な国土を走る長距離列車には、食堂車が必要だったのは当然のことですね。

 そうした新大陸の鉄道の新しいサービスを見て、遅ればせながらイギリスでも1879年9月26日に、ロンドンとリーズを結ぶ「プリンス、オブ、ウエールズ号」に食堂車が出来ました。日本の食堂車の始めは、前述のようにさらに遅れて1899年(明治32年)5月25日の事でした。

イメージ 3
                                                        (食堂車)
     
               ・・・・

* 朝の曇り空も昼前にはまた五月晴れが戻ってきた、暑くなりそう。。 
 家内の胃の痛みはだいぶ良くなったが、まだ体がだるく肩も痛むというので、朝方病院へ。
胃腸外科の先生は、コワモテにもかかわらず案外こちらの話もよく聞いてくれたが、要するに季節代わりの体調の変化でしょう、ということで投薬もなく一件落着。


 

(117)黄禍論

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    〇 「エマーソン」

イメージ 1 1803年5月26日にアメリカの思想家「エマーソン」が生まれています。彼は超絶主義の哲学で当時のアメリカの思想界を導きました。
 「エマーソン」は17歳の時から55年間あらゆることを日記をつけていました。その数、ノート234冊にも上ります。(*しらんも17歳からつけているが、ノートの数では足元にも及ばない)
 彼はこれを「貯蓄銀行」と呼び、この日記と言うミルクをかき混ぜて浮かんだクリームから「随筆集」が生まれ、かき混ぜたクリームからできたバターから「詩」が生まれたと言われています。


イメージ 2〇「人間は自分の仕事を成し遂げ、自分の労働に魂を打ち込み、最後までやり抜いたと自分で思える時、初めて幸福である。」
〇「小、中学校や大学で教えられる事は教育ではない。教育の手段である」
〇「いい本を読むとき、私は二千年も生きられたらと思う」
                                                                                        エマーソンの切手→
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 〇(117) 「黄禍論・アメリカの排日運動」  5月26日

 最近、欧米を中心に移民の問題がやかましくなっていますが、1900年代後半には欧米など白人社会の間にいわゆる「黄禍論」が盛んに主張されました。
 特に日露戦争で日本が勝利してからは、白人社会に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めました。アジア民族の移住と労働力が白人社会に災禍をもたらすだろう、というのです。それが1920年代のアメリカの排日運動にもつながっています。

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 日本からアメリカへの移民は19世紀の終わりごろから活発になり、20世紀の初めにはアメリカにとって無視できない程の人口になってしまいました。
1890年には僅か2000人ほどしか居なかった日本人移民は1910年には13万人にも膨れ上がり、それも主としてカリフォルニア州に集中しました。とりわけ農業についてみると、アメリカの農業人口の6%が日本人と言う集中度を示すようになりました。

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                                                    (山林伐採の日本人移民)


 もともと日本人は働き者です。それにどんな職業についてもその勤勉ぶりは驚くほどでした。人の嫌がる仕事もするし、何時間でも辛抱して働きます。クリスチャンではないので、安息日の日曜日も休まず働きました。「こんな働きは蜂がやって来たら遠からずカリフォルニアの労働市場は日本人に占領されてしまうのではないか・・」と言う不安がアメリカ人に生まれてもおかしくない状態でした。

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                                                   日露戦争風刺画)


 そしてサンフランシスコを中心に1905年ころから激しい排日運動が始まったのです。同年、日露戦争が終って有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことから、以前からくすぶっていた「黄禍論」が西洋社会に広がり、同市の労働組合指導者たちは「アジア人排斥協会」を組織し、また、同市の教育委員会は「中国人と日本人の子ども達をアメリアの子供たちと分離して新設の「東洋人学校」に収容しようとしました。

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                                                   (日露戦争風刺画)


 1907年になると日本人へのビザ(査証)の発行も厳しく制限し、1913年には外国人の土地所有が禁止されました。ここでは外国人と言う言葉が使われていますが、実質的には日本人の事を意味し、アメリカでは「黄禍」「日禍」として捉えられるようになりました。


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                                         (クーリッジ大統領の移民法署名)


 こうした排日運動はカリフォルニア州からアメリカ全土に広がり、ついに1924年7月1日には連邦議会が帰化権のない外国人移民を禁止する、という「ジョンソン法案」を可決してしまいました。いわば排日移民法だったのです。当時の第30代大統領「クーリッジ」はこの法案には反対の立場でしたが、法案が成立してしまってはては仕方がありません、同年5月26日に彼はこの法案に署名したのでした。。

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(118)ピストルの歴史

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      (118) ピストルの歴史  「5月27日」

 16世紀始めまでの銃は、いわゆる火縄銃と呼ばれるもので、これを扱うには片手で銃身を支え、片手で点火するという面倒な作業が必要でした。然し、一般にホイール・ロックと呼ばれる点火装置が発明されてからは事情が一変しました。 ホィール・ロックと言うのはライターのやすりのようなもので、これを指で回すと火花が散って火薬に点火すると言うわけです。

 この新発明のおかげで銃器は片手で扱うことが出来るようになりました。銃身を短くする事が可能になり、軽量化も進みました。
 
   イメージ 3最初にこの拳銃を造ったのは「カミーロ・ヴィテーリ」というイタリア人で、彼が住んでいた町「ピストイア」にちなんで「ピストル」と呼ばれるようになり、あっという間にヨーロッパ全土に広がりました。
 ← コルト45

  然し、たやすく隠して携行出来るので暗殺者は好んでピストルを使用したので、神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝は1517年に、このピストル製造を非合法化しました。また、イギリスでも盗賊がピストルを愛用するようになったため1542年にピストル取締法が成立しています。

 しかし、レポルバー、からオートマチックへ・・と、ピストルの技術革新はいっときも止みませんでした。ピストルと言えばコルト45がその代名詞のように有名ですが、コルト45は「S・コルト」が発明した回転式拳銃で、西部開拓時代によく使用され、「コルト45」という映画にもなりました。

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 さっと腰からピストルを抜いて目にも止まらぬ早業で射撃するのが、いわゆるガンマンですが、これはもう古典的なヨーロッパの話ではなく、アメリカの西部劇の物語ですね。シランも軍隊で将校用の拳銃を撃ったことがありますが、これがなかなか当たりません。距離は60mくらいなのに、手が震えて照準が定まらないのです。拳銃は小銃と違い照準を短く、こぶしに力を入れずに指先の感覚だけで撃たねばなりません。だから、西部のガンマンたちも狙い定めず、素早く撃ったんでしょうね。

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そういう伝説の西部のガンマンの一人に「ワイルド・ビル・ヒコック」がいます。彼は1837年5月27日生まれですが、あの有名なロック・クリークの決闘以来、拳銃使いの名手として広く知られています。

 これは南北戦争時代の1861年7月に起こった事件で、北部派のビルは南部派の10人の男に襲撃されますが、6発の銃弾で6人を倒し、さらに1人を鉄拳でぶちのめして、残り3人もナイフで刺し殺しました。そしてビル自身も24ヶ所の傷を負っていたと言う、どこまでがほんとか、信じられない武勇伝が残っています。


 その後、ビルはカンザス州ヘイズ・シティの保安官となり、無法者に不意打ちされかけても相手が引き金を引く一瞬の間に銃を引き抜いて、相手の額に銃弾を喰らわせたり、2丁の拳銃で同時に射撃する、といった話も伝わっています。

 彼は1876年8月2日、サウスダコタ州デッドウッドの酒場でポーカーに興じているところを無宿者のジャック・マッコールに背後から撃たれて殺されましたが、ビルの話は「平原児」「シャイアン砦」など、西部劇のヒーローとして、よく映画にも取り上げられています。。

 ピストルは現代アメリカでも大いに幅を利かせており、実質的には野放しの状態で、アメリカの殺人の51%、強盗の34%にピストルが使われてているそうです。


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