(79) 「啄木の死」 4月13日
1912年(明治45年)4月13日に歌人の「石川啄木」が亡くなっています。
啄木は岩手県出身、早くから天才詩人として注目されましたが、生活苦から北海道各地を流浪したのち、上京して朝日新聞に入り、「一握の砂」や「悲しき玩具」などの近代短歌史上不朽の名作を残しました。貧困と孤独にあえぎ、重くのしかかる現実と戦いながら三行書きの短歌を歌い、歌壇に新風を巻き起こしました。
友が皆
我より偉く 見ゆる日よ
花を買ひ来て 妻と親しむ 啄木
我より偉く 見ゆる日よ
花を買ひ来て 妻と親しむ 啄木
しかし、当時は啄木の詩歌はさして評判にはならず、啄木が認められたのは死後8年目に新潮社から彼に全集が刊行されてからの事でした。
妻の節子と啄木→
今も抒情味あふれる短歌で多くの若者の心を揺さぶる「啄木」ですが、実生活者としては怠け者で自堕落で、うそばかりついて借金ばかりしたり、家庭では専制者で、女たらしの面もあったと言われています。友人からの借金は踏み倒し、女にはだらしなく、ひとりよがりの偏狭な性格で、歌人仲間では嫌われ者だったようです。
歌人の与謝野晶子は次のような歌を作っています。
啄木が嘘を云う時春かぜに
吹かるる如く思ひしもわれ 晶子
吹かるる如く思ひしもわれ 晶子
啄木は与謝野夫妻の「新詩社」の投稿青年として出発しているので、上京してからは与謝野鉄幹、晶子夫妻の家を度々訪れていますが、啄木は二人に嘘ばかりつき、投稿するときの郵便封筒は切手の料金不足がたびたびで、当時、赤ん坊のミルク代にも困っていた貧乏生活の晶子を困らせていました。
↓ 鉄幹と晶子
啄木と言う名は鉄幹の命名によるものですが、その名付け親の鉄幹にまで嫌われていたのです。
実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり 啄木
我を見る人に
金借りにけり 啄木
啄木は僅か26歳で、父と妻・節子、友人の若山牧水に看取られて死んで行きました。牧水の話によれば、啄木は2年越しの病で見る影もなく痩せ細って、青黒い顔には頬骨と深く落ち込んだ両眼だけ残っていたそうです。節子が口移しに薬を注いだり、名前を呼んだりしていましたが、いよいよ臨終になると老父と節子が一緒に啄木を抱き上げて、二人は低いながら声を立てて泣きました。時に9時30分・・
東海の小島の磯の白砂に
われ泣なきぬれて
蟹(かに)とたはむる
われ泣なきぬれて
蟹(かに)とたはむる
頬ほにつたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しめしし人を忘れず
なみだのごはず
一握の砂を示しめしし人を忘れず
しかし彼は孤独と貧困の中で苦しみながらも、新しい国民的発想の文学を作り、のちには社会学者を自覚していました。
啄木の歌の一つや二つは誰でもすぐに口ずさめますが、詩の方はほとんど読まれていません。
彼は処女詩集「あこがれ」で早くも驚くべき文語駆使の能力を発揮しています。
その神髄は贅肉をそぎ落としたような口語体の詩でした。
「飛行機」 1911.6.27.TOKYO.
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日
肺病やみの母親とたった二人の家に居て
ひとりせっせとリィダァの独学をする目の疲れ・・・
飛行機の高く飛べるを
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日
肺病やみの母親とたった二人の家に居て
ひとりせっせとリィダァの独学をする目の疲れ・・・
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを
飛行機の高く飛べるを