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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満15年、みなさんのおかげで来訪者も51万名を越えました。 1月3日で95歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「95歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  みなさん、これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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  • 04/14/17--01:15: (79)啄木の死
  •   (79) 「啄木の死」   4月13日
     
     1912年(明治45年)4月13日に歌人の「石川啄木」が亡くなっています。
    啄木は岩手県出身、早くから天才詩人として注目されましたが、生活苦から北海道各地を流浪したのち、上京して朝日新聞に入り、「一握の砂」「悲しき玩具」などの近代短歌史上不朽の名作を残しました。貧困と孤独にあえぎ、重くのしかかる現実と戦いながら三行書きの短歌を歌い、歌壇に新風を巻き起こしました。

        イメージ 2友が皆
        我より偉く 見ゆる日よ
        花を買ひ来て 妻と親しむ     啄木

     しかし、当時は啄木の詩歌はさして評判にはならず、啄木が認められたのは死後8年目に新潮社から彼に全集が刊行されてからの事でした。
     
                            妻の節子と啄木

     今も抒情味あふれる短歌で多くの若者の心を揺さぶる「啄木」ですが、実生活者としては怠け者で自堕落で、うそばかりついて借金ばかりしたり、家庭では専制者で、女たらしの面もあったと言われています。友人からの借金は踏み倒し、女にはだらしなく、ひとりよがりの偏狭な性格で、歌人仲間では嫌われ者だったようです。
     イメージ 1歌人の与謝野晶子は次のような歌を作っています。

        啄木が嘘を云う時春かぜに
          吹かるる如く思ひしもわれ         晶子

     
     啄木は与謝野夫妻の「新詩社」の投稿青年として出発しているので、上京してからは与謝野鉄幹、晶子夫妻の家を度々訪れていますが、啄木は二人に嘘ばかりつき、投稿するときの郵便封筒は切手の料金不足がたびたびで、当時、赤ん坊のミルク代にも困っていた貧乏生活の晶子を困らせていました。

      ↓ 鉄幹と晶子
    イメージ 3啄木と言う名は鉄幹の命名によるものですが、その名付け親の鉄幹にまで嫌われていたのです。

         実務には役に立たざるうた人と
         我を見る人に
         金借りにけり       
    啄木

     啄木は僅か26歳で、父と妻・節子、友人の若山牧水に看取られて死んで行きました。牧水の話によれば、啄木は2年越しの病で見る影もなく痩せ細って、青黒い顔には頬骨と深く落ち込んだ両眼だけ残っていたそうです。節子が口移しに薬を注いだり、名前を呼んだりしていましたが、いよいよ臨終になると老父と節子が一緒に啄木を抱き上げて、二人は低いながら声を立てて泣きました。時に9時30分・・

        イメージ 4東海の小島の磯の白砂に
         われ泣なきぬれて
        蟹(かに)とたはむる
        頬ほにつたふ
         なみだのごはず  

        一握の砂を示しめしし人を忘れず           

     しかし彼は孤独と貧困の中で苦しみながらも、新しい国民的発想の文学を作り、のちには社会学者を自覚していました。

      啄木の歌の一つや二つは誰でもすぐに口ずさめますが、詩の方はほとんど読まれていません。
    彼は処女詩集「あこがれ」で早くも驚くべき文語駆使の能力を発揮しています。
    その神髄は贅肉をそぎ落としたような口語体の詩でした。

        「飛行機」  1911.6.27.TOKYO.
      
               見よ、今日も、かの蒼空に
            飛行機の高く飛べるを
            給仕づとめの少年が
            たまに非番の日曜日
            肺病やみの母親とたった二人の家に居て
             ひとりせっせとリィダァの独学をする目の疲れ・・・
           見よ、今日も、かの蒼空に
           飛行機の高く飛べるを


     


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        「日本最初のコーヒー店」  4月13日

     朝、夕の「一杯のコーヒー」は、ほんとに美味しく心が和らぎますね。
     むかし、霧島昇が歌っていました。

               ♪ 一杯の コーヒーから
                  夢の花咲く こともある
                  街のテラスの 夕ぐれに
                  二人の胸の ともしびが
                  ちらりほらりと つきました
     
     「夕方のコーヒー」は若谷和子さんの作詞でした。   

        イメージ 1♪夕方のコーヒーが コーヒーが         
          つかれたわたしを なぐさめる
          あかりをつけない 窓の上に
          枯れた淋しい 花がある
          花もすっかり つかれてる


     戦時中はコーヒーがなく、大豆なんかの代用品をよく飲んだものです。学生時代の司馬遼太郎さん(*福田定一)は大のコーヒー党でした。

     なにしろ「日蒙辞典を買う」と言って親父さんから貰った19円を映画とコーヒー代に横流ししたほどですから。。尤も、当時の喫茶店(大阪ではキッチャテンと言っていました)では、正式のコーヒ-ではなく、代用コーヒーしか飲めませんでしたが・・。(*ゆりの球根だったらしいです)

      だから司馬さんは「うまいコーヒーが飲まれへん、日本はあかんなぁ」とぼやいていました。
     そんな、コーヒーが飲める喫茶店と言う商売は、日本ではいつ頃始まったのでしょうか。


        〇 「可否茶館の開店」
      
     明治21年4月13日に、コーヒー店の元祖ともいわれる「可否茶館・かひさかん」が東京上野の西黒門町に開店しました。

     主人は長崎唐通詞(中国語通訳)の名家「鄭氏」の嫡男の鄭永慶でした。彼がコーヒー店を開店したのは単に営利が目的ではなく、アメリカ留学中にニューヨークで実際に見て、また、うわさに聞くロンドンのペニー大学のような上品な憩いの場を作ろうとしたのです。

     5間に8間の二階建てで青ペンキ塗りの洋館のこの店は、入るとすぐ玉突場があり、二階が喫茶店になっていて洋酒もビールもあり、注文すれば日本酒も出るというバラエティに富んだ店でした。店内にはトランプ、クリケット、碁、将棋も出来るし、内外の雑誌も揃えてあるという至れりつくせりのサービスぶりでしたが、一銭五厘でソバが食べられる時代に、コーヒー一杯が同じ一銭五厘ではどう見ても割高感がぬぐえず、文士たちの応援にも関わらずこの店は5年で店を閉じてしまいました。

     明治21年4月13日の開店の日には、読売新聞に「可否茶館」の開業案内が出ています。

      ○「可否茶館」開業報条

     遠からん者は鉄道馬車に乗って来たまへ、近くばちょっと寄って一杯を喫し給へ。

     そもそも下谷西黒門町二番地に新築せし可否茶館といえば、広く欧米の華麗に我が国の優美を加減しここに商う珈琲なり。珈琲の美味なる思わず腮(あご)を置き忘れん事疑いなし、館中別に文具、更衣室、あるいは内外の遊戯場を備え、また内外の新聞雑誌、縦覧勝手次第にて、その価の廉なること只よりも安し。

     来る十四、十五、十六の三日開業、美景呈進、定価カヒー一碗一銭半、同牛乳一碗金二銭也。

            ・・・・・・

     *文明開化の明治の広告は、漢学が混じって、なんとも大仰なものですね。
      今日、スーパーに買い出しに行ったら、ポテトチップスの棚が右から左まで空っぽでした。
      石油ショックの時のトイレットペーパーの買い占めを思い出しました。
      でも、明治のコーヒーでもあるまいし、ポテトチップスなんかどうでもいいのに。。
      
      世の中、なんか可笑しいですね。。

               ////



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           (81) 「チャップリンと天ぷら」  4月16日

      地方都市の我が家では、戦前の食事のおかずと言えば、魚の煮つけと野菜煮しめばかりで、家庭で天ぷらという物はありませんでした。贅沢と言えば年に何度か巻き寿司を食べるかスキヤキくらい。。
      戦前、若いころ進学のため初めて東京に出て、丸ビルに勤めていた従兄を訪ねたところ、すぐ八重洲口のガード下にあった縄のれんの大衆食堂で天丼をおごってくれました。始めて食べるエビ天の味・・、田舎少年には「世の中にこんな旨いものがあるのか」と、目からウロコが落ちる思いがしました。

    イメージ 1 喜劇王の「チャーリー・チャップリン」は1889年4月16日に生まれていますが、彼は天ぷらが大好きで、日本に来た時は毎日のように有楽町の天ぷら屋に出かけて天ぷらを食べていました。中でもエビの天ぷらがお好みで、一晩に数ダースの天ぷらを食べたという記録が残っています。

     ところで、この天ぷらの調理法は、スペインかポルトガルから来た調理法の一つですが、その語源については三つの説があります。

     その第一は、キリストの昇天の金曜日を意味するスペイン語の「Tenpora・テンポラ」から来たという説です。つまり金曜日には肉食を避けて専ら魚料理を食べていたので、そのテンポラと魚のフライとを合わせた和製スペイン語だという説です。




     イメージ 2第二説は、18世紀の終わりに大阪の商人「和助」が芸者と駆け落ちして江戸にたどり着き、魚の揚げ物を売り始めようとして作家の「山東京伝」を訪ねて相談したところ、「あんたは天竺浪人で西国から(ぷらりと)お出でになったから、これを略して「天プラ」と言う名前にしたらどうか・・と助言したのが語源だという説。

     
     第三説は「嬉游笑覧」という本に出ているもので、「天扶羅揚」と言う言葉を万葉仮名で「あぶらあげ」と呼んでいたのが、いつの間にか漢音の「天ぷら」と発音するようになった、と言う説です。
     どの説も尤もらしく聞こえますが、また、どれもなんだかあてにはならぬようにも思えます。まぁ、てんぷらの語源など、何方でもいいようなもので、とにかく美味しくエビ天を食べて居ればいのです。

     いずれにしても、日本の天ぷらが世界に紹介されるようになったのは、天プラ好きのチャップリンの功績が多かったようですね。

       ・・・・・
      
     *半年一度の家内のガン検診で、風雨の中を博多の九大病院まで行ってきました。
     診察費は安いのですが、5分間の検診を受けるためにタクシー、特急電車、タクシーと乗り継いで行くので、年金暮らしには痛い出費です。それに新しい先生になって一年しか経っていないのに、またまた主治医が交代。これで術後、5人目です。でも今度の先生もなかなか気持ちよく診察してくれるので助かりました。大学病院も昔ほど威張らなくなりましたね。昔は教授回診の時など大変でした。。
    とにかく、転移も再発もなく経過も良好で一安心。次回は10月の予約。

     昼飯にコンビニ弁当を買いに行ったら、から揚げ弁当ばかり。。
     チャップリンのおかげで、日本中揚げ物が好きにになったようです。。

     


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                    (82) 「いたずら電話」 

    イメージ 1 日本で初めて電話が、東京、横浜間に開通したのは明治23年ですが、戦前の電話機は磁石式で、チリンチリンとハンドルを回して電気を起こし、電話交換手に番号を告げて相手につないでもらうようになっていました。

      電話線はありますが、電気は蓄電池式で受話器の下の木の箱の中に入っています。その箱の中にはガラス瓶が二つ入っていて中に塩水に浸かった炭素棒が有ります。電話局から時々その塩水を取り換えに来ていました。

     イメージ 3← 佐賀城本丸歴史館には、この電話機の複製が置いてあり、  受話器を取り上げると、明治期の総理大臣・大隈重信の肉声が聞こえてきます。

                                                           佐賀藩士・大隈重信   →

     戦後はどこも交換手のいらない自動交換機が普及してダイヤル式の黒電話に変わり、その後はデジタル式のブッシュホンの固定電話から、今はケイタイからスマホへと電話機も急速に変わってきました。

     ところで最近は、オレオレ詐欺や投資の勧誘など、怪しげな電話がよくかかりますが、女性をからかうなどの単純な「いたずら電話」は少なくなりました。
    でも、むかしのいたずら電話には、こんな手の込んだ話もあります。

     イメージ 41775年、ボストンで始まったアメリカ独立戦争の英雄に「ポール・リビア」と言う人物がいますが、150年ほどのちの1930年代に彼と全く同姓同名の人物が同じボストンに居ました。
     
     そして独立戦争の時イギリス軍がやってきた4月18日になると、リビアの自宅には深夜に「イギリス軍がやってきたぞ!」とか「早く起きろ!間に合わないぞ」とか言ったいたずら電話が毎年かかってきました。これが年中行事になったので、毎年この日になるとリビア氏は自宅ん電話機をとり外していたそうです。

     芝居の時に舞台の上の道具として使われる電話に仕掛けをする、といういたずらです。普通、舞台上の小道具の電話はベルが鳴るだけで俳優は受話器を取り上げて適当にしゃべるのですが、このいたずらは舞台裏のスタッフが電話機をよその回線とつないでベルを鳴らす、という悪質なものでした。思いもかけぬ言葉が受話器から聞こえてくるので、俳優は慌てて立ち往生して、セリフを忘れてしまうというわけです。

    イメージ 2 「フレッド・カーン」と言う人は、ある日友人に電話して、自分は電信技師だと名乗って、「今日は電話機の掃除をします。こちらから空気を吹き込んで掃除をしますから、お宅の電話機からゴミや油が飛び散るかもしれません、しっかりと紙袋で受話器を包んでおいてください」、と真面目な声で言いました。

     
     そして彼はこのいたずらの効果を確かめるべく、その友人の家を訪ねたところ、どの部屋の電話機も例外なく、きっちりと紙袋がかぶせられ、家人たちが何時ゴミが飛び出してくるかと、じっと見守っていたそうです。

       ほんとかしらん?? 


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  • 04/21/17--00:50: (83)宝くじ
  •      (83)  「宝くじ」  4月21日

     戦後2,3年の間、街角で「三角くじ」を売っていました。発売元はどこだったか覚えていませんが、学生時代に京大に居た友達の下宿を訪ねた後、盛り場の新京極に出掛けて、ふとこの三角くじを一枚買ったところ、思いもかけず2等が当たりました。景品は晒の布一反でしたが、戦後の物のない時代、母がとても喜んだのを覚えています。

     その後、宝くじは一度も当たりません。
     尤も、一度も買ったことがないので当たるはずがないですね(^_-)-☆
    でも、今の宝くじの人気はすごいですね、ひとりで何十万も買うそうですね。いつか、亡くなった義兄の本棚を整理していたところ、束になった空くじが箱いっぱい出てきました。教職で過ごしたので、生涯お金には縁のなかった義兄ですが、やはり一攫千金の夢を追っていたんですね。生真面目な堅物だった義兄の隠れた一面を見た思いがしました。
      そんな宝くじの原型は何でしょうか。

    イメージ 1 昭和20年7月、政府は浮動購買力を吸収して軍事費の調達をはかるため、1枚10円で1等10万円が当たる富くじ「勝札(かちふだ)」を発売しました。しかし、抽せん日を待たず終戦となったため、皮肉にも“負札(まけふだ)”と呼ばれるようになってしまいました(8月25日に抽せんを実施)。同年10月、政府は、戦後の激しいインフレ防止のため浮動購買力吸収の必要性が大きくなったので、「宝くじ」という名前で政府第1回宝籤を発売することになりました。

     イメージ 2何人かがお金を出し合い、まとまったお金を作っておいて、それを一人が手に入れる、と言う方法が定期的に行われるのを「無尽」「頼母子講」と呼ばれています。この制度がやがて一回限りの賭博性の強い「くじ」になって行きました。それには「千人会」「万人講」「突きくじ」などと言う呼び方もありますが、一般には「富くじ」と名称で知られています。

     「富くじ」の起源は室町時代にあるようですが、記録に残っているのは1635年(寛永12年)の富くじが初めてです。しかし幕府は賭博性のあるこの富くじを好まず禁令を次々に出して、富くじは非合法化されました。然し、古今東西、人間はバクチが好きな動物です。神社やお寺はその特権を利用してしばしば「御免富」というというくじを行いました。天下御免の富くじと言うわけです。幕府から許可をとり、寺社が勧進元となって富くじを発行したのです。幕府は寺社からの出願には寛容でした。

     それは、慶長年間以来、幕府は門跡のお寺や徳川家と縁の深い寺社の修復にはかなりの補助を行うのが慣例となり、幕府の財政面での負担になっていたからでした。ですから修復費用の調達のためとして寺社から富くじを出願されると、幕府は許可せざるを得なかったのです。
     その「御免くじ」の第一号は1730年(享保15年)4月21日、京都の御室仁和寺門跡に与えられています。

     しかし、一度、御免富の前例が出来ると、次々にいくつもの寺社が出願して、幕府は窮地に追い込まれるようになって行ったのです。  そして幕府公認の御免富も、その後天保13年(1842年)の天保の改革によって禁止されてしまいました。

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    イメージ 3

                                                  (八重桜・関山)

     *曇りがちでちょっとうすら寒い。
       昨日からいつもの奥歯が変だ。どうも抜け出しているようだ。

     もともとグラグラしていて、何度も腫れたのでいつ抜いてもらうか思案していたのだが、いつも抗生物質を飲んで、だましだまし使っていたのだが、もういけない。
     こんなに抜け出しては痛くてたべられない、ここが年貢の納め時だと歯医者さんに行って抜いてもらった。前からグラグラ動いているので、麻酔の針が痛かっただけでなんなく抜けた。

     ソメイヨシノの寿命も80年だそうだから、90年も働いてもらってホントニご苦労さん!
     出血もほとんどなく昼食もおいしく食べられた。
     歯の痛みが無いということのなんと素晴らしいことか。。
     一本抜けて残りの25本、よろしくたのんまっせ。。



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  • 04/22/17--02:33: (84)阿片の話

  •      (84) 「阿片の話」    4月19日

     1868年(慶応4年)4月19日に、日本では「アヘン喫煙禁止令」が出ました。
    アヘンはケシの実に傷をつけ、そこから分泌する乳液を乾燥させたものですが、この麻薬は紀元前後からギリシャでは麻酔剤として使用されていたようです。アヘンの事を英語でオピアムと言いますが、その語源はギリシャ語のオポスで、オポスとは汁とか液のことを意味していました。

     この植物を最初に文献として残したのは「イブン・バイタール」というアラブの植物学者で、彼は「アルフェーン」と言う物質はエジプトの一部にのみ産出する、と書いていますので、ギリシャだけでなく中近東にもケシの栽培が広がっていたようです。
     この「アルフェーン」は西洋人の東洋への来航に伴ってまず中国にもたらされ、17世紀のはじめ明の時代に李時珍が編纂した「本草綱目」の中に「阿芙蓉」として登場しています。「阿芙蓉」はアラビア語の「アルフェーン」に漢字を当てはめたものでした。

     もともとアヘンは薬用植物で、特に鎮痛剤として東洋でも西洋でも珍重されていましたが、マラリアにも効果があるというので、台湾ではこれを煙草に混ぜて吸う習慣が始まりました。そしてこの習慣は海を隔てた中国の福建省を経て中国全土に広まったのです。

     これが新しい嗜好品として使われている間は良かったのですが、次第にアヘンの中毒症状が出てきて、一度常用し始めると肉体的、精神的に人間が廃人になってしまう、と言うことが判ってきました。中国では1720年代にはすでにこの危険性が発見されて「アヘン喫煙禁止令」が出されています。

     しかし、アヘンを吸う習慣は少しも改まらず、禁令が厳しくなればなるほど隠れて吸う者が増えたし、一度この麻薬のとりこになった者はそれがもたらしてくれる快感を忘れることができないのです。一番ひどいときは中国の全人口の10%が阿片を吸うようになっていたそうです。皇帝までアヘンを吸い、富豪は贅沢な喫煙室を作って阿片に酔いしれ、貧乏人はアヘン屈に足を運んで吸いました。こうなるともはや禁令などあってなきが如しです。

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     ところが19世紀の始めになると、イギリスは中国との貿易収支に悩むようになりました。中国からイギリスに向けては茶や絹がどんどん輸出されるが、中国がイギリスから買いたい物は何もないのです。絹と茶の見返りになるのは銀だけでした。そしてその銀も底をついてしまったのです。そこでイギリス商人が思いついたのが阿片でした。

     彼らはインドのベンガル地方でケシを栽培し、そこでとれるアヘンを中国に輸出し始めました。それに怒った中国がイギリス商人の持っていた阿片を焼き捨て、密輸業者を処刑したことから、いわゆる「阿片戦争」が始まりました。日本は中国の前例を目の前で見ていたので、事前に阿片の害を警戒することが出来ました。

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                                                         (阿片戦争)
     

     しかし明治維新前後の動乱期には密輸入もあったのでしょうか、新政府の誕生とともにこの「阿片喫煙禁止令」が出されたと言うわけです。

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        「ヒトラーの愛車」  4月23日

     旧・ドイツ総統「ヒトラー」は特製のメルセデス・ベンツの車2台を持っていました。その特製ベンツの車の外装は厚さ8ミリの鉄板で出来て居り、防弾ガラスは何と3センチもあって、ヒトラーはその防弾効果を試すために自分でピストルを撃ち込んでみましたが、表面に少し傷が付いただけでした。これだけの装備ですから車の重量は4,5トンもあったそうです。


    イメージ 2



     この2台のうち一台は、ヒトラーからフィンランドの「マンネルハイム元帥」に贈られましたが、元帥は中立国のスェーデンにその保管を委託し、戦後スエーデンは車両税の不足を口実に競売に出してしまいました。これを落札したのはシカゴの実業家「C・ヤヌス」と言う人物で、彼はこのベンツをニューヨークはじめ全米各地で展示し、合計10万ドルの見物料を稼ぎ、それをみんな慈善事業に寄付しました。

     もう一台のベンツは1945年、アメリカ軍が無傷のまま押収し、これもアメリカに運ばれました。この特製ベンツが2台ともアメリカにあること知ったアリゾナの不動産業者「T・ベネット」は1966年に2台揃えて買収に成功し、彼の自動車コレクションに加えましたが、すぐ数年後に売りに出しました。その競売では一台15万ドルと言う当時としてはべらぼうな値段がつき、クラシックカーの価格としては史上最高の記録になりました。

     結局のところ1台はペンシルバニアの「E・クラーク」が入手し、もう一台は「D・ティドウル」と言う人物が入手しました。クラークはその後、このベンツをセントルイスの「R・パス」に売り、パスはさらに「A・ファスコナ」と言う人物に売りました。

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                            (オーストラリアのヒトラー)



     要するに、ヒトラーの特製ベンツは、流転の運命をたどりながら、ヒトラーの死後も敵国アメリカの地で生き延びていたのですが、その後の調査によると、一台はその後、ドイツのビール業者の手に渡り、さらにドイツ西部の収集家が入手していたのを、2009年になってロシアの富豪が数億円で買い取った、とドイツの新聞が報道しています。

     
    イメージ 3


     いずれにしても、ヒトラーはモスクワを陥落させる事が出来なかったのですが、皮肉にも66年後に彼の愛車はモスクワの地を踏むこととなったのです。

        ・・・・・

     *快晴、無風、絶好の五月晴れになりました。
      野に山に、家族連れの行楽が多いことでしょう、街行く車も少ないようです。

      地場スーパー買い出し、日曜日は売り出しとあって人も車も超満員。
      アレー、行楽じゃなかったの??
      みんな、これぞ「我が闘争」とばかり我が家の経済闘争で忙しいのかなぁ。。

        

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         (84) 「最初の戦車戦」  4月24日

     ノモンハンの日ソ両軍の戦車戦で、日本は大敗しました。陸軍首脳部の機械化に対する認識不足のため、日露戦争の肉弾突撃による白兵戦と言う戦法から抜け出せなかったのです。そのため戦車の性能も劣っていました。戦時中、満州で戦車隊に居た司馬遼太郎さんも、試しに車体にやすりをかけて見たら,装甲板が簡単に削れたと言っています。

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                                                 (昭和10年ごろの日本の戦車)


     当時の日本の戦車は装甲も薄く、積載している砲も単身の野砲と同じもので長身の対戦車砲では無かったです。。対歩兵用ならいいですが、戦車同士の戦闘では野砲では貫通能力が無く、戦車戦では不利なことは明らかでした。
     ところでこの戦車同士が戦う戦車戦はいつから始まったのでしょうか。

     始めて実用的な戦車が戦場に現れたのは、第一次世界大戦の時でした。イギリス技術省のスィントン大佐がアメリカの農業用トラクターからヒントを得て同じような戦車を設計、将校のウィルソンが1916年1月に「マーク1型戦車」を完成させました。これは8人乗りで6挺の機関銃を備え、時速は6キロでした。イギリス軍はこの新兵器を膠着状態の西部戦線で使うことに決め、49台がドーバー海峡を渡りましたが、機密保護のためこれを「貯水タンク」だと説明したので、以来戦車の事をタンクと呼ぶようになりました。

    イメージ 1
                                           ソンムの戦いのイギリス(マーク1型戦車)


     このイギリスが開発したマーク I 型戦車が初めて実戦に投入されたのは1916年9月15日の「ソンムの戦い」でした。この時、フランス戦線には49台の戦車が送り込まれましたが、このち17台は戦線に到着する前に故障で動かず、発進出来たのは32台で、それも満足に動いたのはわずか9台でした。然し9月15日早朝、霧中から突如姿を現した新兵器にドイツ軍はびっくり仰天して退却をし始めました。
     

     このイギリスの新兵器開発に刺激を受けフランスも「シュネーダー戦車」を造りました。そして英仏の合同大機械化部隊が1917年の「カンプレー会戦」に登場しました。この時の戦車数は英仏合計476台で、この戦闘ではドイツ軍は壊滅状態に追い込まれ8000人が捕虜になっています。

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                      (カンフレーの戦いで擱座したマーク1戦車)


     これに対抗して1917年にはドイツ軍も戦車を造り始めました。「A7V」と言う戦車です。イギリスの戦車の装甲が14ミリなのに対してこのドイツの戦車は30ミリの装甲板で覆われていました。しかも57ミリ砲を搭載し、その照準装置もイギリスの物より優れていました。

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                                            (ドイツ・A7V型戦車)

     この英独両軍の戦車が始めて遭遇戦を展開したのは、1918年4月24日、ウイレー、プルトーヌ付近でした。この日の戦いでは戦車は両軍とも3台でしたが、イギリス側はそのうちの一台だけが行動可能という状態でした。当然1対3というイギリスには不利な戦闘でしたが、イギリスの戦車を指揮していたミッチェル少尉が、上手くドイツの戦車の側面に廻りこんで砲撃を開始しました。
     戦車の台数と性能では圧倒的にドイツ側が有利でしたが、イギリス軍の熟練された操縦技術によって、この史上最初の戦車戦はイギリス側の勝利に終わったのです。

                     ・・・・・・


     *今日も気持ちよく五月晴れの蒼空が広がっています。
      若いころなら喜び勇んでドライブや行楽に出かけたところですが・・

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                                                    (緑陰の語らい)






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        (87) 「最初のハワイ移民」  4月25日

      若いころ、第一回芥川賞の石川達三の「蒼茫」と言う小説を読んだことがあります。
    これはブラジル移民の事を題材に採った暗い小説でしたが、日本人の移民と言えばハワイ移民が最初のようです。

     幕末の1867年にハワイ駐在のアメリカの貿易領事「E/ヴアン・リード」が日本に来て(300人の出稼ぎ労働者をハワイの砂糖キヒ畑に送ってほしい)と申し出ました。幕府もこれを承認しましたが、この時思いがけず明治維新が起ってしまいました。そして明治新政府は幕府が結んだ契約は無効だと言い、話し合いはこじれてしまいました。業を煮やしたリードは、1868年(明治元年)4月25日にイギリス船 「サイオト号」に、既に募集済みの153名のハワイ渡航者を乗せて、無許可のまま秘かに出航させました。

    イメージ 2  この船は34日間かかって5月1日にハワイに到着しました。然し153人の中で砂糖キビ畑で働くことの出来そうな農民出身者は極めて少なく、その多くは植木屋、左官屋、桶屋からこんにゃく屋までと、いろんな職人たちばかりで、中には江戸の渡世人や浮浪者まで含まれていました。

     彼らは、角に木の字と言う揃い印半纏に豆絞りの手ぬぐい、三尺帯を締めて股引(パッチ)を履き、饅頭笠をかぶるというなんとも粋な姿で上陸し、数日間休んだだけけで農場に送られました。


     
     ところがいったん農場に着いてみると、聞くと見るとは大違い、契約は規定通りに履行されないし、何しろ熱帯の気候に馴れるのがたいへんで、とうとう自殺者まで出る始末。そこで全員を代表して旧仙台藩の士族で移民元締の「牧野富三郎」が日本政府あての嘆願書を出しました。


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                                        (明治18年ごろ、サトウキビ畑のハワイ移民)


     そこで日本政府は1869年に調査使節団を派遣し、日本とハワイの間に移民に関する条約が結ばれました。移民のうち40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けたのです。こうしてハワイの土を初めて踏んだ日本の移民たちは、たまたま明治元年に渡航したという意味で「元年者」 呼ばれて彼らがハワイ移民の草分けとなったのです。

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                                                   (官約移民ごろの日本人移民の住居)



     その後、1885年(明治18年)1月に、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。政府が斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約2万9千人がハワイへ渡りました。1884年の移民公募の時は、600人の募集に対し2万8千人の応募があり、946名が「東京市号」でハワイに渡っています。


     イメージ 3この官約移民「3年間で400万円稼げる」という触れ込みで盛大に募集されたのですが、その実態は人身売買に等しく、半ば奴隷に近い状態でした。その労働は過酷で現場監督に鞭で打たれるような酷使、虐待を受け、1日10時間労働で給料は月10ドルから諸経費を引いた僅かな金額でした。

     
      この官約移民制度1894年の代26回目をもって廃止され、民間会社による私的移民に移行されましたが、1900年のアメリカによるハワイ併合によって民間移民会社はすべて消滅し、1924年の移民法成立によって日本人のハワイへの移住は事実上不可能となりました。

              ・・・・・・


     * いつもの農協直売所からイオンへ買い出しの連ちゃん・・
    なんだか一雨来そうな雲行きだ。駐車場の入り口が舗装してないので雨が降ると泥んこの水たまりが出来るので、ホームセンターから18キロ入り2袋を買ってきて入れましたが、なんと鼠の涙ほどにしかなりません。また5袋ほど買ってくるかなぁ。。  肩が痛くなりそう。。




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  • 04/25/17--20:23: (88)醤油の輸出
  •       (88) 「醤油の輸出」   4月25日
     
     日本料理に欠かせない醤油は、今や世界100ヶ国に輸出されるほどグローバルな調味料になっていますが、この醤油が初めて外国に輸出されたのはいつの事でしょうか。

    イメージ 2 まず日本国外への輸出は1647年(正保4年)にオランダの東インド会社によって開始されています。この当時は樽詰めされた物が一般的で、最初は東アジアへ輸出され、ついで18世紀には欧州へ輸出されています。

     今から350年ほど前のフランス国王「ルイ14世」の宮廷料理でも使われたそうですが、フランスでの日本産の醤油に関する記述は、1765年の『百科全書』に書かれています。

     当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて密封したそうで、その陶器製の瓶は「コンプラ瓶」と呼ばれて、1790年(寛政2年)から使用され始めています。
                                                                     (中国の醤油) →


    イメージ 1 ← もともと、著作の中で醤油を初めて西洋に紹介したのは「カール・ツンベルグ」というスェーデンの植物学者でした。

       彼は東洋の日本の植物を研究したいと熱望して、当時鎖国中で外国人の入国を禁止していた日本にただ一人許された医者として、1775年に日本にやってきました。彼の著書「日本植物図鑑」には「日本には醤油と言う非常においしいものがある」と紹介しています。

     
       ところが今から350年ほど前、ルイ14世の宮廷料理にはすでに調味料として日本から渡来した醤油が使われ、その旨さが自慢されているようです。醤油そのものの輸出は非常に古く、江戸の元禄時代にオランダのケムペルと言う医者も著書の「日本史」の中で「日本の醤油がオランダ人によってヨーロッパに運ばれ、良い値段で取引されている」と書いています。

    イメージ 3 当時のオランダ人は醤油を瓶やツボに詰めて、木の栓をした上から松脂で封印し、熱湯で消毒したうえ船に積んでインド洋を通ってヨーロッパに運んでいました。
      然し1836年(天保7年)の大凶作のために醤油の品質が悪くなり、そのため輸出はパッタリ止まってしまいました。


      ↑ (樽詰めの醤油)
     むかし家では、一斗入りの樽詰めの醤油を買っていました。台所に据えて、必要な量だけ木の栓を緩めて「カタクチ」と言う琺瑯製の入れ物に小分けして取っていました。一升瓶はまだなかったです。
      

      そして、輸出が再開されたのは前に述べた通り明治になってからのことで、1867年の4月25日に最初のハワイ移民たちが乗った「サイオト号」が日本を出航した時に、この153名の移民たちのために、日本から初めて醤油が積み出されています。

     終戦直後は醤油が無くて、店では海から汲んできた塩水を一升瓶に入れて売っていました。
     砂糖は勿論、醤油までないという、今の飽食の時代では考えられない窮迫した食糧事情でした。



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         「マゼランの最後」   4月27日

     「フェルディナンド・マゼラン」と言えば、大西洋と太平洋をつなぐマゼラン海峡の発見で有名ですね。小学校の地図の時間に習いました。。

    イメージ 1  ポルトガルの探検家「マゼラン」は、1519年にスペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いてスペインを出発し、西回りで世界一周の旅に出て、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達しました。

      ← マゼラン艦隊の船(復元)

     そして東ポリネシァから苦難の旅をつづけ、1521年3月6日、ついに今のグァム島に到着しました。

     本来の目的地であるモルッカ諸島(香料諸島)にはだいぶ反れてしまいましたが、とにかくこれで飢えや病気から救われました。この島から目的のモルッカまでは、さほど困難な道のりではなかったのです。マゼラン一行はモルッカへの船旅の途中でフィリッピンのセブ島に立ち寄りました。

     島民は穏やかで優しくマゼランは島の人々と友好関係を結び、彼らをキリスト教化するのに成功しました。そしてマゼランが来たことを知って近くの島々からも酋長たちがやってきました。フィリッピンはこのようにしてスペインの属国になるような地ならしが出来てきたのです。

    イメージ 2 しかし、セブ島に近い「マクタン」と言う島の酋長の「ラプラプ」だけはやってきませんでした。と言うのも、この島の酋長は伝統的にセブ島の王様と仲が悪く、マゼランがセブ島の島民と仲良くなったのを快く思っていなかったからです。

      マゼランはたかが小さな島一つではないか、と考え「ラプラプ」のもとに使者を送って友好を提案し、もしこれに従わない場合は鉄砲で攻撃するぞ、と威嚇戦術に出ました。これに対してラブラブの方は、こちらだって槍があるぞ、と極めて戦闘的な態度をとりました。

       ← ラプラプ像

     マゼランはこの返答に激怒して早速マクタン島を攻撃することにしました。
    マゼランはスペイン兵150名を手兵として従えていましたが、こんな小さい島に150人の兵たちを総動員するのは大人げないと思い、1521年4月27日に3隻の小艇に60名を引き連れてマクタン島に出かけました。これがマゼランの誤算だったのです。小さい島であってもラプラプはサンゴ礁などの地の利をよく知っています。 60名の内11名を小艇の警護に残して49名で上陸したマゼラン隊に対し、1500人の圧倒的な軍勢を配置していました。

    イメージ 3 島の地理と潮の干満を知り尽くしたラプラプは、綿密な情報収集と周到な計画の上でこのマクタン島の遠浅の海岸を決戦地に選んでいました。干潮のため船で岸に近づけなかったマゼランの部隊は艦砲射撃をあきらめて上陸。待ち構えていたラプラプの軍勢と戦闘状態に入りました。 

     マゼランは寡兵にもかかわらず30倍の敵に対して戦闘を開始したものの、なんといっても多勢に無勢・・やがて敗走し、マゼランの身辺には8,9名の兵士が残るだけになりました。

        ← マゼラン像

     
      ラブラブの兵士たちの竹槍はマゼランの兵士の甲冑には通ぜず、戦いは1時間にも及びましたが、雨あられのような矢と竹槍と、それに火にあぶって固くした鋭い棍棒や石と泥を投げつけるのでマゼランの兵士たちほとんど防ぎようがありません。

      それに彼らは次第に防具を付けていない兵士たちの足に攻撃を集中して、ついに一本の毒矢がマゼランの右脚に刺さり、マゼランは戦死してしまいました。
     マゼランの死後、後継の指揮官始め艦隊幹部の多くがセブ王によって殺されました。

       ・・・・・

        ♪さらばセブ島よ  また来るまでは
          しばし別れの   涙がにじむ
          恋し懐かし     あの島見れば
          椰子の葉かげに  十字星


     *セブ島と言えば戦前にこんな歌↑が流行りました。
      この歌は戦争が激化したあと、歌詞がセブ島でなくラバゥルに変わりました。
      ラバウル海軍航空隊の間で「ラバゥル小唄」と言う題で歌われていたそうです。

          ♪さらばラバゥルよ 
            また来るまでは・・・

     

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  • 04/27/17--20:21: (90)捕虜の運命
  •     (90) 捕虜の運命   「4月27日」 

     汽船の大事故と言えば、日本の洞爺丸や豪華客船タイタニック号の遭難を思い出しますが、あまり知られて居ない事故にアメリカの「サルタナ号事件」があります。
    1865年4月27日に、アメリカのミシシッピー河で驚くべき惨事が発生しました。サルタナ号の爆発・炎上事件です。

     1861年から始まったアメリカの南北戦争は、工業化が進んだアメリカ北部のアメリカ合衆国と綿花を中心とする南部の農業地帯のアメリカ連合国との黒人奴隷制をめぐる戦いでしたが、4年に亙る激戦の末、ついに北軍の勝利に終わりました。

    イメージ 1


     その南北戦争が終わって南北両軍の捕虜の交換が行われることになり、北軍の捕虜が「サルタナ号」と言う船に乗せられてミシシッピー川を北上していました。この船は定員は370人でしたが、帰郷を急ぐ捕虜たちの数が多く2,300人も居り、一般乗客の女・子供100人や乗組員80名をを含めると2,500人も乗って居たようです。それに戦争終結直後の事でもあり、その復員業務は錯綜していました。

    イメージ 2
                                          (出発直前/超満員のサルタナ号)


     しかし定員の何倍も乗せたこの外輪船は当然スピードも遅く、エンジンはフル回転状態なので完全に過熱状態になっていました。その結果この日の午前2時過ぎに第3エンジンが爆発し甲板に居た何百人もの兵士たちが死んでしまい、爆発はすぐに第一、第2ボイラーにも移って、船は瞬時に粉々に壊れてしまいました。

     運よく川に飛び込んだ兵士たちも流れに巻き込まれて、川岸からわずか10数mのところで溺死したりしています。その後、数日の間にこの河で収容された遺体は1450人と記録されています。しかし、これは収容された遺体の数であって、実際にはさらに数百人が流されて行方不明になったともされ、1700人あまりが亡くなったとする説もあるようです。

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                                     (爆発炎上するサルタナ号・ニューヨークタイムズ紙)

     河川の船舶事故としてはこの「サルタナ号」の事件は史上最大のものでしたが、南北戦争の終戦直後の混乱期でもあり、またリンカーン大統領の暗殺事件もあって、新聞もこれを大きく報じることもなく、事故の責任も追及されることなく終わってしまいました。

        ・・・・・・

     *今日も快晴。五月晴れの蒼空が広がっています。
       いつもならゴルフにでも出かけのだがなぁ・・
       老いとはつらいものだ。。
       
     昨日、ホームセンターから18キロ入りの砂利5袋と鹿沼土、腐葉土、花の土などを買ってきました。  さて、観音竹の株分けでもするか。。
    桜もつつじもあっという間に過ぎてしまい、公園では早くもナンジャモンジャ紫蘭の花が咲きだしました。季節の移り変わりはほんとに早いものです。   歳月人を待たず・・  
        
      
                          ナンジャモンジャの正式名は「一つ葉タゴ」と言います。

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         (91)どこか遠くへ行きたい・・旅行者の記録  「4月29日」

     今日からゴールデン・ウイークの始まりですね。期間中は日本国中、旅行客で埋まりますが、最近は世界のどこででも日本の旅行者が見かけるようになりました。豪華客船による世界一周のツアーが各国で行われ、今やまさに世界中が旅行全盛の時代ですね。

            
     イメージ 1 ♪知らない街を 歩いてみたい
        どこか遠くへ 行きたい
        知らない海を 眺めてみたい
        どこか遠くへ 行きたい
        遠い街 遠い海
        夢はるか 一人旅


                              江戸時代の旅姿 →



    イメージ 3  そんな旅行好きの中で、一番の旅行者はアメリカの「B・ホームズ」でしょう。
     彼は1870年に生まれ、子供のころから旅行熱に取りつかれていました。以来その生涯をすべて旅行についやし、合計54回の夏をすべて違った国で過ごし、大西洋横断30回、太平洋横断20回、世界一周が6回と言うすさまじさ、今ならジェット機の旅なので簡単でしょうが、当時はすべて汽車か汽船の旅だったのです。。

     ホームズはデンマークで最初に自動車を運転した人物であり、またコルシカ島で初めて自転車を動かした人物でした。彼はシベリア鉄道の敷設中にその工事を見守りながら第一号の列車の乗客となり、1896年のアテネ・オリンピックを見たかと思えば、エチオピアのハイレ・セラシュ国王の戴冠式に立ち会い、ヴェスビウス火山の噴火を見たかと思えば、今度はイエローストンの国立公園に出かけています。 

                                                       明治の若者の旅姿  →


    イメージ 2 ホームズは旅行家であると同時に、写真と映画にも深い関心を持ち、旅には必ずカメラを携行しました。中国や日本を始めて映画で世界に紹介したのも彼ですし、1899年のアメリカとフィリッピンのいわゆる「フィリッピン戦争」のドキュメントも彼のカメラに収められています。まさしく彼は世界旅行時代の先駆者だったのです。

     しかし、彼は自らの旅行の体験と記録を少しも自慢することもなく、「自分は一人のツーリストに過ぎない」と言い続けていました。彼はたくさんの旅行記を書いていますが、どこの国の国民に対しても常に温かいまなざしで眺め、悪口や非難は一言も口にしませんでした。メキシコで闘牛の場面を撮っても、彼は牛が死ぬ場面はカメラにおさめなかったのです。
        ↑ 現代の旅姿


              ・・・・

     *いよいよゴールデン・ウィーク開幕・・
       佐賀では有田陶器市が開かれています。
       野に山につつじも満開です。。

    イメージ 4
     
                         *四国・石黒山のアケボノツツジ



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         (92) 「ハンバーガーの起源」   4月30日

    イメージ 3 戦時中の大阪の学生時代、下宿へ帰る途中、南海電車の起点だった難波の高島屋でよく食事をしました。レストランで当時エノケンと並んで人気絶頂だったコメディアンの←「古川ロッパ」を見かけたこともあります。同じ日のロッパの日記に、杉狂児とここで食事をしたという記載があるので間違いありません。

     そのころ地下の大食堂でよく食べたのが「ハンバーグ」です。田舎少年にとって初めて食べる都会の味、「世の中にこんなに旨いものがあるんだ!」と目からウロコが落ちる思いで毎日のように食べました。食糧難もひどくなってきた時代なので、中身は肝心の肉よりも野菜の方が多かったような気がしますが。。
     
     今の世の中、ハンバーグハンバーガーだらけですね。店の中でもお嬢さんたちが大きな口を開けて、あの大きなパンにかぶりつています。おしとやかな小笠原流の先生にとっては、なんとも言えない光景でしょう。それだけハンバーガー文化が世界に蔓延したということですね。
     ところでこのハンバーガーと言う食べ物はいつごろから始まったのでしょう。

     もともと「ハンバーグ」と言う名前は、ドイツの港町「ハンブルグ」が訛ってハンバーグになったそうです。そのハンブルグの人たちが食べていた生肉料理から、ハンバーグが始まっています。

     イメージ 4遊牧を業とする中央アジアの遊牧民は遠征する時には馬を生肉で食料にしていました。生肉を叩き潰し、細かく刻んでそれに塩、コショウ、玉ねぎなどを加えて食べる生肉料理です。今の「タルタルステーキ」ですね。
     ハンバーガーのそもそもの始まりはこの中央アジアの遊牧民が食べていた生肉料理なのです。

     この味をバルチック海を往来していたドイツの船乗りたちが覚えて、彼らの母港である「ハンブルグ」に持ち帰りました。然しハンブルグの住民たちは生肉ではなく両側をこんがり焼いて食べるのを好みました。こうしてハンブルグ風ステーキが誕生したのです。

     この料理は19世紀にドイツからの移民によってアメリカにもたらされました。そして1900年、コネチカット州の「L・ラッセン」と言う人物が経営するレストランでサンドイッチにならって、パンの間にハンブルグ風ステーキを挟み、これをメニューに加えました。これがいわゆる「ハンバーガー」の第一号でした。
     パンに挟まず、挽肉を固めたステーキだけを独立させたのは別名「サリスペリー・ステーキ」とも言います。これはイギリスの高名な医師「サリスペリー博士」が胃腸病の患者のために処方したので、この名が生まれています。

     イメージ 1しかし、ハンバーガーはパンに挟んであるのが普通ですね。これを決定づけたのはアメリカがルイジァナ州をフランスから買収した日(1903年4月30日)を記念して開かれた博覧会会場でした。   

     会場には入場者が何千人も詰め掛け、満足に座ってものを食べる場所もありません。そこでみんな立ったまま食べたり、歩きながら食事をせざるを得ませんでした。これが案外に好評で、それ以来、歩きながら食べたり、アメリカのあちこちにハンバーガー・スタンドが出来はじめました。

     そして1954年、カリフォルニアで「マグドナルド兄弟」がハンバーガーの製造工程や販売方法をいろいろ考えて、ハンバーガーのチェーン店を作りました。これからハンバーガーは爆発的な売れ行きを示すようになったのです。

      ・・・・・

     *GWで町中は車も少なく静かです。表を掃いていると、若い女性から「お早うございます」と声をかけられました。見知らぬ人から挨拶されるとなんだか嬉しくなります。

     小さい女の子の手を引いた若い奥さん、仲良く手をつないだ若いカップル、シャツ一枚でランニングして走り去る若者・・
     緑滴る若葉の下で、みんなそれぞれの人生を歩いているんだなぁ・・と、とふと思いました。。

     
    イメージ 2
                                                (佐賀城の堀端)


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           メーデーの始まり   「5月1日」


         万国の労働者よ、団結せよ。     (共産党宣言・カール、マルクス)

     今日は5月1日、労働者の祭典、メーデーですね。メーデーとは「5月の日」と言う意味ですが、もともとヨーロッパでは、この日に5月の訪れを祝う「5月祭」が行われていて、この日は労使双方が休戦して、お祝いをしていました。それが近代になって労働者の祭りへと転化して行きました。それは、1886年5月1日にシカゴで、アメリカ、カナダの連合労働組合が8時間労働制を要求してストライキを起こしたのが起源になっています。

    イメージ 1
                                                  (大正9年の第一回メーデー)

     日本のメーデーは1920年(大正9年)5月2日に、1万人の労働者が上野公園で集まって「8時間労働制の実施」「最低賃金法の制定」などを訴えて第一回のメーデーが開かれています。また、戦後の昭和27年5月1日には警察予備隊による「再軍備反対」とともに、人民広場として皇居前広場の開放を要求して、皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突して流血の惨事となり、いわゆる「血のメーデー事件」が起こっています。。


    イメージ 2

                                                 (昭和27年・血のメーデー事件)

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     さて、現在は労働基準法によって労働時間は8時間と決まっていますが、ではこの8時間労働制はどのようにして始まったのでしょうか。

    イメージ 5← マルクス が指摘するまでもなく、普通の労働者は1880年代になっても一日12時間から14時間も働くのが当たり前でしたし、ニュヨークのパン工場などは毎週の労働時間が120時間と言うひどいものでした。そんな状態ですから、労働時間を短縮しようという動きが出てくるのは当然の事でした。
     8時間労働制は「第一の8時間は仕事のために、第二の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、自分たちの好きなことのために」を目標に行われました。

     1884年アメリカとカナダの労働組合連合は、2年後の1886年5月1日を目標に一日の労働時間を8時間とすることを決議しました。しかし当時の労働組合の力が弱く、決議はしたもののそれを強力に押し進める力にかけて居ました。ただ、シカゴの労働組合だけは格別で、彼らは目標の5月1日に向けて極めて戦闘的な情報宣伝活動を行っていました。そしてその前日の4月30日には製紙、鉄道、ガスなどの労働組合がストライキに入り、5月1日には3万人の労働者が街頭デモ行進を行いました。
     翌2日は日曜だったので何事も起こりませんでしたが、三日になるとストライキはシカゴ全体に広がり、いわゆる「ゼネスト」になりました。
     労働運動の指導者「A・スパイズ」をはじめ数人の活動家が、シカゴの「ヘイ・マーケット広場」に集まった労働者たちに向かって演説を始めたところ、それを警官隊が取り巻きました。その時、突然誰かが警官隊に向かってダイナマイトを投げ込み、警官7人が死亡、70数人が重軽傷を負いました。

     それに対して警官側も発砲し、責任者と目された「A・バーンズ」その他3人の無政府主義者が逮捕され、死刑の判決を受けていずれも絞首台の露と消えました。 8時間労働制はこのようなヘイ・マーケット事件を契機として採用されるようになったのです。

    イメージ 4

                                               (昭和27年のメーデー事件・新聞記事)




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       「八十八夜」

       今日は立春から数えて八十八日目、八十八夜ですね。
    春立つ日からもう3か月近くもなるんですね、ずいぶん温かくなりましたが、朝晩は意外と肌寒いです。むかしから「八十八夜の別れ霜」と言う言葉がある通り、地方によっては霜の降ることもあるとか。。

              別れ霜 庭はく男 老いにけり    子規

     別れ霜の後は霜が降りないとされ、種まきには最適の時期なので「八十八夜」は農作業の基準として農家では茶摘みや苗の育成が行われます。 
      
            ♪「茶摘み」

                      夏も近づく八十八夜
                       野にも山にも若葉が茂る
                       あれに見えるは茶摘みぢやないか
                       あかねだすきに菅(すげ)の笠


      みどりの風薫る五月、旅行には絶好のシーズンですが、5月1日からJR東日本では、関東から北海道までの号か観光列車「四季島」の運行が始まりましたね。
     九州の豪華列車「ななつ星」が2013年に運転を開始してから、西日本、東日本と豪華列車のオンパレードが始まりました。一人、100万円もするというのに予約でいっぱいだとか、日本もなかなかお金持ちが多いですね。
     ところで、アメリカでは200年前にも豪華寝台列車が運行されていました。

        (94) 「大統領の寝台車」   5月2日 

    イメージ 1 1800年代にアメリカの鉄道網が広がり始めると、より快適な旅行を楽しむために寝台車の試作が盛んに行われました。それを最も熱心に押し進めたのが  ← 「ジョージ・プルマン」で、彼は巨費を投じて豪華寝台車「パイオニァ号」を1864年に完成させました。

     しかしこの車輛は在来の車輛よりも幅が25センチ広く、また高さが60センチほど高くなってしまいました。これでは鉄橋もトンネルも通れません。そこで鉄道会社はせっかくのプルマンの新車輛を採用しませんでした。

     ところがそこに「リンカーン暗殺事件」が起こりました。1865年4月14日、リンカーンがフォード劇場で観劇中に北軍のメリーランド州出身の俳優「ジョン・ブース」に1,2mの至近距離から拳銃で後頭部を1発撃たれて死亡したのです。

    イメージ 2


     そこでリンカーンの遺体をワシントンから故郷のイリノイ州「スプリングフィールド」まで運ぶ事になり、大統領未亡人はプルマンの寝台車をぜひ使いたい、と主張しました。そこで鉄道会社はやむを得ず、プラットホームを削り取り、鉄橋やトンネルを大きくしてこの特別列車を走らせる事にしました。
    この列車がスプリングフィールドに向けて、シカゴ駅を発車したのは1865年5月2日午後9時30分でした。

     
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                                   (リンカーンの5ドル紙幣)

                                

     イメージ 3こうしてプルマンの豪華寝台車でリンカーン大統領の遺体を運んだことからプルマン客車は全国的な関心を集め、車両から注文が殺到するようになりました。

      寝台車は一般の客車に比べて5倍も製造費が高かったにも関わらず成功を収めたのです。これらの寝台車は中流階級の贅沢として売り込まれました。

     ← プルマン客車の内部


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        (95) 「最悪の列車事故」 5月3日

      今日は5月3日、憲法記念日ですね。1927年(昭和22年)5月3日に施行されたので、もう70年にもなります。26年の5月3日に生まれた甥は生きて居れば66歳、しかし53歳の5月2日、白血病で苦闘の末、亡くなりました。今年は13回忌のはずですが・・

     昨日は豪華列車の話でしたが、いくら豪華でも列車はちょっとしたことでも転覆することがよくあります。

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                                                    (戦前・国鉄、長崎線で脱線)
     
     1962年(昭和37)年5月3日、三河島駅構外で貨物列車と国電の二重衝突があり、160名の死者を出しました。また、翌38年には11月9日、東海道線・横須賀線で脱線した貨物列車に上下旅客列車が突っ込んで三重衝突となり、死者161名を出す大惨事となりました。近くは、平成17年に福知山線で電車が暴走、脱線転覆して107名もの尊い犠牲者が出ました。列車の事故はほんとに痛ましいですね。

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    (昭和37年、5月、3日・常磐線・三河島脱線事故)

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    (昭和38年、横須賀線・鶴見駅事故)

     ところで、世界で最悪の列車事故はどこだったでしょうか。
     それは1917年12月12日、フランス南部の「サン・ミシェル・ド・モーリエンヌ」で起きています。

     ちょうど第一次世界大戦の頃で、この列車はイタリア戦線のフランスの兵士を年末休暇で前線から一時帰郷させるための軍用列車でしたが、定員などは無視して兵士たちはすし詰め状態でした。
     列車がフランス・アルプスの山中のモン・センス・トンネルにさしかかった時に、突然ブレーキ装置が故障して、下り勾配を驀進しました。ジラール機関士はブレーキをかけて、制動手にも汽笛でブレーキをかけるよう合図しましたが、速度は増すばかりでした。

     
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                                               (フランスアルプス・・ラック、ブラン)


     ラ・プラーズ駅を通過した時には、列車の速度は約90キロに達し、ジラールは機関車の砂撒き装置を利用して摩擦を増そうとしましたが効果なく、ラ・プラーズの駅員は列車が制輪子から火花と甲高い音をたてながら通過していくのを目撃しています。

     乗っていた兵士たちは、最初は列車が故郷に向かって急いでいることに喜んでいましたが、速度を落とすことなくカーブに突入して大きな軋み音を立てたことに驚き、さらにブレーキが効いていないことに気づいてパニック状態に陥りました。

     そして機関車と客車部分の連結器が外れて客車が次々に追突して脱線大破し、その直後に火災が発生して30分以内にすべての車両に燃え広がったのです。

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                                                       (列車の残骸)


     その列車の残骸はおよそ350mに渡って散らばったのですが、しかし機関車と炭水車は脱線することなく、そのままモーリエンヌ駅の構内で停止し、ここで始めてジラール機関士は後続車両が脱落していることに気づいたのでした。

     このため死者は543人(鉄道ギネス・ブックによる)にも上り、フランス鉄道事故最悪の惨事となりましたが、この事故は大戦中でもあり、軍事機密とされ大戦終結まで秘密にされていました。


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         (96) 今日は端午の節供    「五月五日」


    イメージ 1  今日は5月5日、端午の節句ですね。

    男の子が生まれて初めて迎える5月5日には、母親の里や伯父,叔母の家から幟を贈ってくれるので、「のぼり祝」をします。昔は長男ひとりだけが家督相続をしたので、のぼり祝いは長男だけしかしてもらえません。

       ♪ 「せいくらべ」

        柱のきずは おととしの
        五月五日の 背くらべ
        粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
        計ってくれた 背のたけ


     
     イメージ 2端午の節供に粽((ちまき)を食べる風習は、中国の戦国時代に、楚の憂国の詩人「屈原」が紀元前278年5月5日に、国の将来に絶望して石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺したことに始まっています。

     その後、人々は屈原の死を弔い、またその死骸を魚が食べないようにと、魚のえさとして笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになり、これが ちまきの由来になった、といわれています。

     

            ♪汨羅の淵に浪騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
              混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く            (昭和維新の歌)


     ところで、端午の節句に幟(のぼり)を立てる風習は江戸時代から始まっています。紙で作った紙幟に武者絵を書いて家の外に立てる外幟ですが、始めは定紋をつけたものでしたが、のちには勇壮な鍾馗さんの絵も加わりました。今でも地方に行けば武者絵の幟が見かけられますが、紙ではなく布地になっています。

     幟の中でも都市を中心に一番よく見かけるのは鯉のぼりです。これも始めは紙製でしたが、今は布製やビニール製に変わりました。鯉のぼりは吹き流しと共に幟竿につけられ、頂上の風車のカランコロンと言う音とともに、五月の薫風をはらんで大空に泳ぐ姿はいかにも元気がよくて、男の子の成長を願う端午の節句にふさわしい風景です。

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     もともと日本では、平安時代から宮中では五月の節句祝いをしていました。この時、強壮解毒作用を持つ「菖蒲」が邪気除けに使われたので「菖蒲の節句」とも言われていますが、これは武家社会になって「菖蒲」が武を尚ぶ『尚武』に通じると考ええられたからです。また、古代の農耕社会では、菖蒲の節供は女性がこの菖蒲で屋根を葺いた家にこもり、身の汚れを落として「早乙女」となって田植えを迎えるための行事でもあったのです。昔は陰暦だったので、五月の節供のあとには田植えが待っていたんですね。

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     幟は高さ約7mで、幟竿は杉の丸太を使います。幟はたいてい4,5本はあるので、建てるのが一仕事です。それに夜は幟をしまうので、家の者はなかなか大変です。江戸時代からこ鯉のぼりは関東地方、武者絵の幟は関西以西に限られているようで、

      「鯉幟 日本男児ここにあり」
      「江戸っ子は五月の吹き流し、口ばっかりで腹はなし」

     などと言う話を聞いても、西日本の者にとっては何のことやら意味がわからなかったのです。

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     のぼり祝いに呼ばれた親類の前で、紋付袴の坊やが床柱の前に座らされ、鯛の尾頭付きのご膳の前に収まるとと、目出度いお謡いがあり、一同祝い酒を飲んで一門、一族が揃って惣領息子の勇気と出世を祈るのです。

         ♪ 「こいのぼり」

                やねよりたかい こいのぼり
                おおきいまごいは おとおさん
                ちいさいひごいは こどもたち
                おもしろそうに およいでる

     
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    イメージ 1 最近の軍艦の反乱としては、2016年(明治38年)6月14日にあった帝政ロシア・黒海艦隊の「戦艦ポチョムキンの反乱」が有名ですね。 
     映画にも小説にもなりました。                  
                                                                          →映画のポスター

     反乱の直接の原因は、昼食の肉にウジ虫が湧いていたことらしいですが、上官が「たかがウジ虫じゃないか、つべこべ言わずぬ食べろ」と強要し、食べなかった水兵たちを銃殺しようとしたことから、水兵たちの反乱が起こりました。(ほんとは艦内に何名かの社会主義者の扇動者がいたとか・・)


     軍艦内の閉鎖的環境では、えてして乗組員の不満が蓄積していて、突発的な爆発が起こりやすいのでしょう。このポチョムキンの反乱の20年ほど前にも有名な「バウンディ号の反乱」があります。
    こちらはウジ虫ではなく、パンノキの話です。


         (97) 「バウンティ号の反乱」   5月5日

     1787年5月5日に、イギリス海軍省は「パンノキ」をタヒチ島から西インド地方にに運ぶために一隻の艦艇を太平洋に派遣することを決定しました。

    イメージ 3← パンノキはポリネシアやミクロネシアの島々で主食の一つとして使われている植物ですが、当時、イギリスは大西洋の西インド地方の経営に手を焼いていました。

     それというのも、サトウキビ畑に働く労働者や奴隷に充分な食料の供給が出来なかったからです。そこで気候条件の同じ太平洋の島からパンノキを西インド諸島に移植して、問題を解決しようと考えたのです。

      そしてこの船を植物輸送用に改造してバウンティ号という名前が付けられました。
     
     このバウンティ号をタヒチに回航させ、1000本ほどの苗を積み込んでタヒチを出港しました。しかし艦長のブライはうぬぼれで気まぐれな男で、度々船員にあたりちらしたり、部下の扱いも過酷な上に、船員の居住空間も劣悪で船員たちの反感を買っていました。

     そして、4月28日についに航海士のクリスチャン以下12名の乗組員たちが反乱を起こし、バウンティ号を乗っ取り、ブライ艦長以下19名はわずか7mの小型ボートに押し込めて追放しました。その時、最も近い港に行き着くまでの2,3日分の食料と水、それに4本の刀と懐中時計だけを与えて海に流したのです。ブライらはまず、必需品を確保するためにトフア島に向かいましたが、そこで彼らは原住民から攻撃を受け、乗組員1名が殺されましたた。彼らには身を守る武器がなく、他の島でも襲撃されることが考えられたので、そのままチモール島に向かいました。

    イメージ 2

     一方の反乱者たちは1790年1月15日に東ポリネシアのはずれにある無人島のピトケアン島にたどり着き、バウンティ号を解体してその資材を利用して島での生活を始めました。その為せっかく積み込んだ1000本のパンノキの苗も消えてしまったのです。

     ブライのボートは47日後に奇跡的にチモール諸島にたどり着き、1791年、再度タヒチから西インド諸島へのパンノキの輸送に成功して、ついに西インド地方にパンノキを導入することに成功しました。然しこれだけ波乱万丈の苦心が払われたにもかかわらず、パンノキは無用の長物になってしまいました。と言うのは西インド諸島の人々はこれを口にして「こりゃー、まずい」とばかり打ち捨ててしまい、今まで通りバナナだけで飢えをしのぎつづけたからです。

     その後、1808年にアメリカ船トパーズ号がやって来た時、ピトケアン島に生き残っていた反乱者は乗組員の水夫ジョン・アダムスただ一人でした。クリスチャン以下のその他の反乱者たちは、タヒチ人との衝突や、病気、自殺、喧嘩などで亡くなってしまったそうです。


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  • 05/07/17--02:10: (98)種痘の話
  •      (98) 種痘の話  「5月7日」

     イメージ 2今は「天然痘」は絶滅したので、種痘は行われていませんが、戦前は誰でも小学校に入学する前に、「植え疱瘡」といって、種痘をせねばならなりませんでした。いわば天然痘の予防注射ですね。左腕に4か所メスでチョンチョンとX型に傷をつけられ、それが膿んでかさぶたになって落ちます。そのあとはいつまでも残っていて、中々消えません。

     昔は天然痘が多く、伊達政宗から明治天皇、夏目漱石など多くの人がこの病気にかかっています。また良くなってもその後遺症で顔に傷痕が残り、いわゆる「アバタづら」になりました。江戸時代の平均寿命は僅か30歳~40歳くらいで、その原因は致死率40%というこの天然痘やコレラのために、10歳くらいまでに死んでしまう子供が多かったからだと、言われています。

     天然痘を予防し撲滅する道を開いたのはイギリスの医師「エドワード・ジェンナー」です。
     ジェンナーが我が子を実験台にして種痘を行ったのは1795年のことですが、彼が病理学的に種痘の予防医学の研究に取り組み始めたのはその15年ほど前でした。然しこの大発見にも拘わらずジェンナーは迫害を受け、実際に種痘が普及し始めたのは19世紀になってからでした。

     古くから西アジアや中国では、天然痘患者の膿を健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていましたが、これは安全性に問題がありました。そして1796年に「ジェンナー」が、ウシが感染する牛痘の膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まったのです。
     
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                                                           (牛痘を調べるジェンナー)


     
     日本でも江戸中期ごろからぼつぼつその原理と技術が輸入され、文化、文政期からは「種痘家」として知られる医師たちがあちこちに登場しました。
     その後、1849年には佐賀藩の藩医「伊東玄朴」が牛痘種の取り寄せを藩主鍋島直正に進言し、1874年にバタヴィアからの牛痘入手に成功しました。
     当時、佐賀藩は長崎の警備を担当していたので、長崎のオランダ商館に直接注文をして輸入することができたのです。また鍋島十代藩主・直正はこの痘苗を江戸藩邸に送り、佐賀藩医の楢林宗建が自分の息子に接種しています。

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    淳一郎種痘の図 (佐賀・伊東玄朴の生家にて)

     
     また鍋島直正は、この種痘を4歳の自分の長男「淳一郎」に種痘して、試験した後に大坂の適塾の緒方洪庵などにも分け与えています。これがきっかけとなり、1860年(万延元年)5月7日に、当時将軍の主治医だった伊東玄朴を中心に、江戸の神田に「お玉が池種痘所」が開設され、牛痘を用いた種痘法が全国的に拡がっていくことになり、この種痘所が、のちに東大医学部の前身になったのです。
     お玉が池と言えば幕末の名剣士「千葉周作」の道場があったところ、また万延元年には桜田門外の変があり、幕末の物状騒然たる中で西洋医学は静かに日本に定着していったのです。


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