⑨ 「九州の捕鯨」
最近は、動物愛護の精神から南極海の捕鯨が世界的にも問題になっていますが、江戸時代から、明治、大正期にかけては九州西北部の沿岸地方でも捕鯨が盛んに行われていました。
昔から九州の西方海岸にはクジラが現れることが多く、そのたびに漁師達は銛(モリ)を持ってクジラを獲っていましたが、江戸期の始めに深沢儀太夫、山田茂兵衛などが、クジラの「網捕り法」という漁法を開発しました。これはクジラの体に網をかけ身動き出来ないないようにして何人もの漁夫が取り囲んでクジラの心臓に銛を打ちこむ方法でした。(ちょっと残忍な気もしますが・・)
この方法ですと単純に銛を打ち込む方法に比べて、クジラに逃げられる心配もなく確実に捕らえられるので、捕鯨業は俄に活況を呈してきました。五島の有川では年間に20頭ものクジラを捕ったこともあります。漁師たちは、それぞれに組を作り、有川の江口組などの場合は海上で働く漁師が400人、納屋働きの労務者が100人という、とても大きな規模でした。
クジラ一頭を獲るだけで、村には莫大な金が転がり込むので、船大工、桶屋、鍛冶屋などが瀬戸内あたりから出稼ぎにやってきて、捕鯨は立派な地場産業の一つになったのです。そのため、肥前・生月(いきづき・今は平戸市)の益富家などでは1725年(享保10年)から1873年(明治6年)までの約150年間に2万頭クジラを捕り、合計330万両の収入をあげています。
こうした捕鯨基地の繁栄ぶりを見るために「司馬江漢・江戸末期の画家・蘭学者」は1788年(天明8年)の暮れに生月(現、平戸市)に渡り、翌年1月8日まで滞在して網元の家を訪ねています。
ちょうど正月でもあり、その家の娘はチリメンの美しい着物を着て髪は江戸風に結っていました。また、浜では小屋がけをして芝居の興行が行われており、人形芝居もやっていたそうです。現金経済に潤う捕鯨漁村の姿がそこにはあったのです。
ちなみに鯨肉の脂肪層である白肉はいったん煮て油を取り除いたあとの肉を乾燥させたものをコロと呼び、関西では「関東煮・おでん」の材料として愛好されましたし、九州では「オバヤキ」として酢味噌で食べたりしていました。
もちろん赤身の方は食用として、よく使われていました。
佐賀の唐津には、クジラの蕪(かぶら)骨を刻んで、酒粕に漬けた「松浦漬」や「玄海漬」が有名で、酒の肴には欠かせませんが、最近はクジラ肉の高騰のために値段が高いのが難点、我々庶民には高根の花になりました。
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