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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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⑨九州の捕鯨

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       ⑨ 「九州の捕鯨」  

 最近は、動物愛護の精神から南極海の捕鯨が世界的にも問題になっていますが、江戸時代から、明治、大正期にかけては九州西北部の沿岸地方でも捕鯨が盛んに行われていました。


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 昔から九州の西方海岸にはクジラが現れることが多く、そのたびに漁師達は銛(モリ)を持ってクジラを獲っていましたが、江戸期の始めに深沢儀太夫、山田茂兵衛などが、クジラの「網捕り法」という漁法を開発しました。これはクジラの体に網をかけ身動き出来ないないようにして何人もの漁夫が取り囲んでクジラの心臓に銛を打ちこむ方法でした。(ちょっと残忍な気もしますが・・)

 この方法ですと単純に銛を打ち込む方法に比べて、クジラに逃げられる心配もなく確実に捕らえられるので、捕鯨業は俄に活況を呈してきました。五島の有川では年間に20頭ものクジラを捕ったこともあります。漁師たちは、それぞれに組を作り、有川の江口組などの場合は海上で働く漁師が400人、納屋働きの労務者が100人という、とても大きな規模でした。


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   クジラ一頭を獲るだけで、村には莫大な金が転がり込むので、船大工、桶屋、鍛冶屋などが瀬戸内あたりから出稼ぎにやってきて、捕鯨は立派な地場産業の一つになったのです。そのため、肥前・生月(いきづき・今は平戸市)の益富家などでは1725年(享保10年)から1873年(明治6年)までの約150年間に2万頭クジラを捕り、合計330万両の収入をあげています。


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イメージ 4 こうした捕鯨基地の繁栄ぶりを見るために「司馬江漢・江戸末期の画家・蘭学者」は1788年(天明8年)の暮れに生月(現、平戸市)に渡り、翌年1月8日まで滞在して網元の家を訪ねています。 

  ちょうど正月でもあり、その家の娘はチリメンの美しい着物を着て髪は江戸風に結っていました。また、浜では小屋がけをして芝居の興行が行われており、人形芝居もやっていたそうです。現金経済に潤う捕鯨漁村の姿がそこにはあったのです。

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 ちなみに鯨肉の脂肪層である白肉はいったん煮て油を取り除いたあとの肉を乾燥させたものをコロと呼び、関西では「関東煮・おでん」の材料として愛好されましたし、九州では「オバヤキ」として酢味噌で食べたりしていました。

もちろん赤身の方は食用として、よく使われていました。


  佐賀の唐津には、クジラの蕪(かぶら)骨を刻んで、酒粕に漬けた「松浦漬」「玄海漬」が有名で、酒の肴には欠かせませんが、最近はクジラ肉の高騰のために値段が高いのが難点、我々庶民には高根の花になりました。

               ・・・・・


(10)ギロチンの起源

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    ⑩ 「ギロチンの起源」

 昔の軍隊や学校では、窓が上下するようになっていました、そこでうっかり窓から外に頭を出して眺めていると、急に上げたはずの窓がドスン!と落ちてきて首を挟まれ、痛い目をすることがありました。こんな窓をみんな「ギロチン窓」と言っていました。

 敵や犯罪人を処刑するのに首をチョン斬るというのは別に日本だけの話ではなく、もともとは世界共通の手段でした。西洋ではこの首切り機械を「ギロチン・断頭台」と言い、「J・I・ギロタン」というフランスの医師がこれを発明したので正しくは「ギロターヌ」という名前でした。それにギロタンが発明したというのも正しくありません。もともとこのような首切機械は古くから使われていたからです。

イメージ 2 それをフランス革命後の国民議会がギロタンの勧告に従って、正式に死刑の方法として採用したに過ぎません。ルイ16世やマリー・アントワネットも哀れ、このギロチンの刃のもとで首を切られました。
 フランスの王妃「マリー・アントワネット」はフランス革命勃発の1793年の10月16日に断頭台に上がっています。 

  「マリー・アントワネット」はフランス国王ルイ16世の王妃で、1789年7月14日のバスチーユ監獄の襲撃が発端になって起こったフランス革命中の1793年10月16日に、ギロチンによる斬首刑によって死亡しました。


 この日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行きました。彼女は髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていましたが、断頭台に登った時、死刑執行人の足を踏んでしまい「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ」と言ったそうで、これが彼女の最後の言葉になりました。

イメージ 1 ギロチン(断頭台)の処刑の時はふつう顔を下に向けますが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向けて上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという話です。
 10月6日の12時15分に、そのギロチンが下ろされ刑が執行されました。    享年37歳。。

 ギロチンは二本の太い柱と、それをつなぐ厚いい板で作られていて、その板の上部に三角形の刃がつけられています。地上には十字型の台が置かれ、処刑される死刑囚はそこに首を差し伸べます。死刑執行人が手にする綱によって、その刃が柱の上から落ちてきて首を刎ねるのです。



 こうして見てくると、ギロチンによる処刑は、まさしく恐怖時代の象徴のように思えますが、ギロチンが使用される前の処刑方法はもっと残忍でした。なんと、木を伐るときに使うのと同じような斧で首を切り落としていたのです。

 中世から近世にかけてヨーロッパの王様たちは次々に市民裁判にかけられましたが、その市民社会の勃興期に、議会が出した「権利請願」を無視したチャルズ一世は1649年1月30日に「公敵」として死刑を執行されました。この日カンタベリー主教が立会人になり、王はみずから自分のガーター勲章を主教に手渡して潔く首を差し出し、午後2時4分に死刑執行人は斧でその首を切り落とした、と記録されています。

 まぁ、日本でも武士社会では日本刀で首を斬り落としていたのですから、斧と刀の違いだけで残忍さは五十歩、百歩だったかもしれませんね。

           ・・・・・

(11)チンチン電車

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    「チンチン電車が走った!」 1月31日

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 1895年(明治28年)1月31日、京都で初めて路面電車が開通しました。堀川通りの東側を走っていた北野線がそれで、京都七條から北野神社までチンチンと鐘を鳴らしながらイギリス製のチンチン電車が走ったのです。明治維新以来、すべてが新しい東京に移ってしまい、千年の都だった京都の市民は不安と焦燥感にかられていたので、その執念が日本初めてのモダンな市内電車の導入につながったのかもしれません。

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 路面電車の事を俗にチンチン電車というのは、運転中に運転手と車掌の間で、合図を送るためにお互いに鐘を鳴らすからで、どちらかが頭上の紐を引っ張ってチンチンと鐘を鳴らしてお互いに合図を送ります。その合図は
   一回ならば、乗客が乗り降りするから停車せよ
   二回ならば、乗降客が居ないから停車せずに通過してよい
   三回以上の場合は、非情のため緊急に停止せよ・・となっていました。

 チンチン電車のスピードはずいぶんと遅くてのんびりと走っていましたが、それでも交通事故の恐れがありました。紫蘭が子供の頃、うちの前を走って居た馬鉄(馬車鉄道)でさえ、近所の畳屋さんの幼児が轢かれて亡くなりました。おそらく客車の横にぶら下がって遊んでいたのかもしれません。
 ポカポカとのんびりした馬の脚ででもそうですから、電車ではいつ事故が起こるかわかりません。

 そこで交通事故防止にために、初期の電車では運転手のそばに「電車先走り」という少年が配属されていました。この「先走り」は電車が停留所に止まるたびに降りて行って、電車の前後を確認するという、いわば簡易信号手のようなもので、少年にとっては大変な重労働でした。
 そこで、京都では子供が電車にいたずらすると「電車の先走りにするぞ!、と脅かしたと言います。

 東京の市電は、京都よりもずっと遅く1903年(明治36年)に営業を開始しています。


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 昔のチンチン電車のパンタグラフはこんな、2本の棒で架線から電気の供給を受けていました。
 終着駅で折り返すときには、車掌さんが降りて行って、紐を引っ張ってぐるりと車の先の方に回って架線につなぎます。だから、運転席は前後に同じようなものがついていました。

 

(12)日本語の起源

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     「日本語の起源」 2月1日 

 今日から二月、早いものです。春はもうすぐそこ・・
 ところでシランは毎日、疑いもなく日本語を使って同じような記事を書いていますが、さて、この日本の文字は何時の頃から使われ始めたのでしょうか。

 もともと古代の日本には文字がなく、始めて日本に文字(漢字)を伝えたのは、朝鮮の百済に渡来した「ワニ・王仁」という中国人でした。応神天皇の御代に論語十巻と千字文一巻を携えて、大阪の難波に上陸したと伝えられています。
 その時に王仁が詠んだと伝えられる歌が残っています。

     なにはづに さくやこのはな ふゆごもり
        いまははるべと さくやこのはな             
   伝・王仁作

 
           (難波津に咲くや木の花冬ごもり
              今は春べと咲くや木の花)
  
 (*木の花は梅のことで、この歌詞のなかの「咲くや」から大阪外語大学の同窓会の名前が「咲耶会」と名付けられました。王仁が言葉の学者であり、母校が言葉の学校だからです。同窓の司馬遼太郎氏と陳舜臣氏が選考されました) 

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 日本語の起源について学者の意見は様々ですが、漢字という表意文字を変形して、これを表音文字として使うことは古代から徐々に進められてきました。その表音文字、つまり仮名文字は古事記には165種、日本書紀では527種があり、さらに万葉集では580種に上るそうです。

 仮名の数が時代の推移とともにこれだけ増えてきたのは、漢字の表音化の過程を示すものと思われます。仮名は本来は50音のはずなのに、文字は500種もあったという事は、同じ音に日本各地で夫々違う文字を当てはめていたのでしょう。
 仮名という日本文字で初めて詔書が出されたのは646年(大化二年)二月一日でした。いわばこの日から書き言葉としての日本語が定着したのです。

 いわゆる万葉仮名は平安時代に入ると特殊な用途以外には使われることが無くなり、だんだんと片仮名、次いで平仮名にとっ代わるようになりました。例えば、マ、ム、と言ったような略字としてのカタカナは、律令時代の戸籍帳などにも記されています。然しその使い方は甚だ不統一で、これが日本の文字として最終的に定着したのは、1900年明(治33年)の小学校令でした。

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                                              (明治期・初期の少学読本)

 
 日本語の変遷は実に永いですね。
 今日はちょっと堅い話でごめんなさい。
 

(13)万年筆の話

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     (13) 「万年筆の話」  「2月2日」

 間もなく新入学の季節ですね。中学に入学して真新しい制服帽を身に着けると、なんだか急に大人になったような気持ちになりました。胸のポケットに差したしたピカピカの万年筆が誇らしかったです。初めて習った英語が、これでした。↓

      I am a boy.   This is the pen・・

 そのころの万年筆は、インク瓶に、ペン先を突っ込んで、本体の尻にあるピストンを引いて吸い上げるようになっていました。そのあとは、本体の真ん中にあるつまみを押し上げると中のゴム製のチューブにインクを吸いあげるように変わりました。今のようにカートリッジの交換方式になったのはいつの頃でしょうか。

    「道程」   高村光太郎                                     ↓   胸ポケットに・・・

   馬車馬のように勉強する若者よ!                                イメージ 1
   がむしゃらに学問と角力をとれ                          
   負けるな、どんどん卒業しろ

   インキ瓶をぶら下げ、小倉の袴をはいた若者よ!
   めそめそした憂鬱病に取りつかれるな     
   胸をそらし、大地を踏みしめて歩け
   大地の力を体感しろ                                            
                     ・・・・・


 昔の作家は原稿を書くときは決まって万年筆でした。「日本の作家の中で、初めて万年筆を使ったのは黒田湖山である」と、永井荷風の大正15年2月2日の日記に書いてあります。湖山は遊郭に遊びに行くときも原稿用紙と万年筆を忘れなかったと言われています。

 万年筆が日本に輸入されたのは、明治10年代のことで英語の「ファンテン・ペン」を万年筆と訳したのは、明治19年の東京本石町の大野徳三郎でした。然しその頃は、文字は毛筆で書くもの、という風習の方が強くて、万年筆はなかなか普及しませんでした。永井荷風自身も生涯に一度も万年筆を手にしたことはなかったのです。

 そして毛筆よりもペンの方が優っていると宣伝したのは福沢諭吉でした。

 彼が経営する「時事新報」には、「書家の使用するものは別として,日用の筆記具としては毛筆を一切駆逐したきもの也。尤も毛筆を廃する以上は、ペン書きが出来るように製紙の改良を要す・・」という風な過激な論説を書き、毛筆よりもペンの方が3倍も能率が良い、などという意見も述べています。


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                               ↑司馬さんの原稿は万年筆か鉛筆か?


 しかし、当時の万年筆はかなり高価なもので、白米一斗が1円80銭で買えた明治39年ごろに、万年筆一本の値段は5円40銭もしました。日本人の米消費量は一年に一石(10斗)と言われていましたから、万年筆一本が三か月分の米代に相当していたわけです。

 しかし、大正期以後の文筆家にとっては万年筆は標準的な筆記具となり、とりわけイギリスの「オノト万年筆」は格別の高級銘柄として定着しました。オノト万年筆は夏目漱石や北原白秋など、多くの作家が愛用したことでも知られています。ちなみに、万年筆の日本での国産化は1902年(明治35年)に原料のエボナイトが輸入されるようになってからの事でした。

 エボナイトが輸入されると、それを原料として万年筆の製造の試みが始まりました。まず1915年(大正4年)に商船学校機関科の教授であった「並木良輔」が並木製作所を設立して、金ペンと万年筆の製造に着手しました。並木は技術者で海図の作成に必要な烏口の特許を持っていたので、そこから同じ筆記具の万年筆の製造に着目したのでしょう。然し研究開発の途中で資金難に陥り、商船学校の同窓生で、船長になっていた「和田正雄」に助力を求めました。和田は並木への友情と信頼のもと、当時の金で5000円を贈り、そのおかげで並木は遂に14金のペンを完成させました。それは1916年(大正5年)2月9日午後3時の事でした。

 この二人はともに商船学校の出身でしたから、それにちなんで商標を「パイロット」としました。経営は必ずしも順調とは言えませんでしたが、創業5年目には年間25万本の生産量を上げるようになりました。
 これと前後して日露戦争後に当時、広島の呉に居た「阪田九五郎も」阪田製作所を興して、万年筆の製造を開始しました。その時はいつも呉の軍港を眺めていたし、また島国日本の将来は海にかかっている、という信念から、製作した万年筆の名前を「セーラー万年筆」と名付けました。ですから、初期の日本の万年筆はいずれも海と船乗りに関係していたと言う事になります。

     boys be ambitious    少年よ大志を抱け   クラーク博士

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(14)脚気と海軍

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    (14) 脚気と海軍 {2月3日}
 
 今日は節分ですね、冬から春への季節の移り日ですが、節分の夜には「鬼やらい」と言って、悪疫を追い払うために豆撒きをする風習があります。昔は大晦日の行われたそうですが、中国では紀元前3世紀頃からすでに行われていたと言われています。それが日本にも伝わって平安期には宮中の儀式として行われるようになり、これは鎌倉時代まで公式の儀式になっていたそうです。

 この「鬼やらい」はのちに神社などでも行われるようになり、時期も大晦日から節分の夜に変わりました。「鬼は外、福は内」と豆を撒いた後、豆を拾って年の数より一つだけ多く食べるのがいいそうですよー。 だとしたら、シランは94粒も拾わねばならず、太巻きの恵方巻を食べたら、とてもお腹に入りそうもない・・

 ほかに節分の行事としては、家の戸口にヒイラギの枝を差し、その枝にイワシの頭を刺して鬼を追い払うという風習もありました。ヒラギの葉のトゲで鬼のっ目を刺し、イワシの悪臭のために鬼が逃げ出すのだそうです。


       あをあをと星が燃えたり鬼やらひ    相馬遷子 
  

 〇 「脚気と海軍」 2月3日

 今頃は、「脚気・かっけ」と言っても知らない人が多いでしょうが、大正から昭和初期にかけて脚気で悩む人が多く見受けられました。シランの兄が生まれたときも、母が脚気でしばらく山麓のお寺に転地療養したそうで、そのため兄は母乳でなく牛乳で育てられました。

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                       日本最初の蒸気船・佐賀藩の「清風丸」

 明治の初め、日本海軍が本格的に艦艇の整備を整えて遠洋航海に出かけるようになると、乗組員に脚気と呼ばれる病気にかかるものが目立つようになりました。症状としては、足がむくみ、呼吸困難に陥り、ひどくなると心臓脚気を起こして死んでしまうのです。今でもハワイのホノルルのマキキ墓地に行くと、当時脚気で倒れた日本水兵たちの墓地が残っているそうです。これは1883年の明治16年の演習航海の犠牲者たちで、この時の練習艦では死亡者者のほかにも150名ほどの脚気患者を出しています。
     
 
 この病気がおそらく食べ物から来ているだろうと,見当をつけた海軍当局は、西洋の軍艦と同じように艦内の食事を洋食に切り替えてみました。米食中心でなく、パンや麦を中心としたこの艦内食の実験は、翌年の明治17年の2月3日に東京湾を出発した練習艦「筑波」で行われました。この筑波は一年余りの航海を続けましたが、脚気患者は皆無に近く、これから食事は洋食にすることが決定されました。脚気の原因はビタミンB1の不足にありますが、当時はまだビタミンというものが知られていなかったのです。

 
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                                      「練習艦・筑波」

 明治期の徴兵令では、「一日白米6合が食べられる」、というのが目玉になっていて、このため陸軍では白米食を続け、ようやく麦飯の兵食を採用したのは海軍に遅れること30年後の大正2年の事でした。麦飯は冷えると臭いので、昔は軍隊や刑務所に入ると、クサイ麦飯を食わねばならん・・と嫌がったものです。

 明治以降、大正期になるとビタミンB1を含まない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加して、脚気患者が急速に増え、結核と共に二大国民病と言われるほどに流行りました。鈴木梅太郎博士のビタミンB1の発見以後、戦時下の配給米は白米ではなく七分搗きでしたし、戦後の洋食の普及とともに次第に脚気は減少していきました。

 
                                ・・・・・

(15)ネコで流罪

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 今日は立春ですね。立春は中国の暦の季節区分である24節季一つですが、まだまだ肌寒いこの時期を立春としたのは、主に種撒きなどの農耕上の必要によるものと思われます。

 昔は「三月十日(陸軍記念日)の忘れ雪」などと言いましたが、まだまだ寒さが続きます。
然し暦の上だけでも「春立つ」となれば気持ちの上でもなんとなく春の兆しが感じられますね。
 山裾にも黄色いロウバイの花が咲きだしました。

    
                 蝋梅に雀の来啼く日和かな    内藤鳴雪

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     〇「ネコで流罪」 2月4日

 江戸幕府の台所頭だった「天野五郎太夫正勝」は、将軍の食事の総責任者で、禄高は200俵という、決して高禄とは言えない身分でしたが、その責任は重大でした。

 ところが1687年(貞享4年)2月4日に、彼が預かる台所である事件が起こりました。というのは、その前夜まで何ともなったのに、台所の井戸の中に一匹のネコが死んでいたのです。蓋はちゃんとして置いたのですが、恐らくネコがネズミでも追って居るうちに、蓋が外れて溺れて死んだのでしょう。

イメージ 2 ネコが死んだことで井戸が不潔になったのは事実でしょうが、夜中に井戸に落ちたのは猫自身の過失なので、管理責任者としての天野が責任を問われても微罪で済むはずでした。

 ところがそのタイミングが悪く、この事件が起こる一週間前に、綱吉のあの「生類憐みの令」が公付されていたのです。
 ちょっとでも動物を殺したり虐待したりすると、厳しい処罰が待っていたのです。

 
  そこで天野は猫の生命保護について不行き届きということになり、八丈島に流刑という重罪を課せられました。天野は家来の大原留右エ門を伴って八丈島に流され、その子供二人は大名預けとなりました。たかがネコ一匹のために、ほんとに不運な事でした。
 
 このネコの溺死事件に続いて病気の馬  を農地に捨てた、というので農民が10名、さらに犬を斬った仲間(ちゅうげん)一人が同じく流罪になっています。仲間の場合はその主人の幕臣「保泉市右衛門」までが家録没収という厳しい処分を受けました。また江戸城の門番をしていた鉄砲同心が、門の上に止まっていたハトに小石を投げて追い払っただけで、謹慎を申し渡されています。

 古今東西、まことに悪法と大統領は怖いものですね。(^_-)-☆

         ・・・・

(16)長期刑の記録

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       (16) 長期刑の記録

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今日は2月5日、1818年(文政元年)のこの日に探検家の「松浦武四郎」が生まれています。

武四郎は16歳から国内をくまなく旅行し、27歳からは蝦夷地(エゾチ)を探検しまイメージ 4した。エゾ地を北海道と名付けたのは彼でした。



「我、もと遊歴を好みて山川を跋渉し,いかなる険もいとわず、日に十五、六里、その甚だしきは三十里にも向かうことなり、しかるに粗食を常として、生来美服を好まず、不毛の地に入るときは日に二合の米を食とし、未だ一日も病にさわり候ことなく、一帖の薬を服する事なし。」

       我れ死なば焼くな埋めるな新小田に
          捨ててぞ秋の実りをば見よ
                                                      


イメージ 2 明治になって初代北海道開拓使には佐賀藩主の鍋島直正が就任、部下の開拓使首席判官だった佐賀藩士の「島義勇」は今の札幌の市街地作りに貢献しましたが、明治7年の佐賀の乱に連坐して「江藤新平」とともに、佐賀城内にて斬首されました。

 ← (島義勇)

 初代司法郷だった「江藤新平」は自分が作った裁判制度の下、わずか二日の審議ののちに、部下の河野判事の判決により斬首されています。

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                                                                        (江藤新平)
 

   〇 「長期刑の記録」 2月5日

 斬首の刑は明治と共に無くなりましたが、終身刑とか無期懲役という刑罰はどこの国でもあり、なかには驚くほどの長期刑があります。

 まず、イランでは1969年6月15日に二人の人物が機密漏洩の罪で7109年の長期刑を受けています。また、1972年3月11日には、スペインで4万通ほどの郵便物を捨てた郵便配達夫「ガブリェル・グランドス」が38万4912年の長期刑を宣告されています。38万年と言えば人類が誕生してからこんにちまでの期間に相当するという、なんとも奇妙な長期刑でした。

 アメリカでは、「J・コロナ」という人物が25名の人間を次々に殺して、1973年2月5日に、それぞれの事件について無期懲役の判決を受けました。
つまり、彼は、体は一つなのに判決を合計すると25個の生命を持たなければ、判決に忠実に刑を実行できないことになります。
 
  法律は常識を飛び越えて、なんとも不思議なものですね。
 

(17)歯磨き売り

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       (17) 歯磨き売り  「2月6日」

 人間にとって歯はとてもは大事なものです。この年になると長寿の秘訣は?とよく聞かれますが、さすがに晩酌  だとは言えないので、丈夫な歯のおかげだということにしています。シランはまだ26本の我が歯を堅持して、入れ歯なし・・なんでもガリガリと食べています。歯が丈夫だと食べ物がよく噛めるし、唾液の分泌もよくなって、胃腸の働きにも寄与しますから、シランのように長寿間違いなしです。エヘン! (^_-)-☆

イメージ 1 歯磨きと言えば歯ブラシに歯磨き粉ですが、歯磨き粉のない明治生まれの母は小さいころ指に塩をつけてジャリジャリと磨いていたと言っていました。紫蘭が幼いころ、提灯の灯だけの薄暗い井戸端の台所の棚にライオン歯磨きの紙袋と、竹の柄のついた歯磨きブラシが置いてあったのを今でも思い出します。

 昔は今のようなチューブ入りの練り歯磨きではなく、紙袋入りの歯磨き粉だけでしたが、、軍隊に行くときも私物の中に越中ふんどしと、針と糸、タオルにこの歯磨き粉と歯ブラシだけは持っていきました。歯ブラシの柄は竹製でしたが、柄の先方で舌の上もこさいでで掃除していました。


 歯磨き粉は大郷信斉の「道聴塗説」という本の「歯磨きの角力」という記事によると、寛永年代の終わりごろ(1643年)に、丁字屋喜左衛門という商人が、来日した朝鮮人から歯磨きの製造法を教えられた、と書いてあるそうです。

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 これが歯磨き製造の始まりだそうですが、これらの歯磨きは、「歯磨き売り」という一種の大道芸人によって売られていました。当時、楊枝や塩を使って歯を磨く人は武家階級や上層家庭の一部に限られて、一般庶民はいわゆる「口すすぎ」程度に過ぎませんでした。

 このような人々に新製品の歯磨きを売り込むために並々なら苦心が払われました。そこでこの「歯磨き売り」が出来たのです。彼らは歯磨きを箱に入れてかついで売り歩きましたが、そこで人集めのためにいろんな芸をして見せました。

 その中で有名だったのは「百眼米吉」という人物でした。

  「百眼・ひやくまなこ」というのは、眉やまつげのの形を変えたりして、変装して見せる寄席芸ですが、彼が行くところ、どこでも黒山の人だかりで当時は百眼米吉の名は子供でも知らない者は居なかったそうです。それほど有名だったのでついには狂言にまでなりました。河原崎座の狂言「霞色連一群」という芝居で「嵐瑠おう」が米吉に扮して喝采を浴びたのが1853年(嘉永6年)の2月6日の事でした。

 歯磨きの宣伝に、目を白黒させて人を集める、というのも何だか奇妙な組み合わせですね。

 
                           ・・・・

(18)仇討ち禁止令

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       「仇討ち禁止令」 2月7日

 肉親や親族が他人によって殺されたり、傷つけられたりしたときに、その報復として仇討をすることは、昔の人間社会にとって普遍的な習慣でした。武家社会では、その仇討ちが義務とされ、美徳とされていたので、見事に本懐を遂げるまでは武士としての身分を保証されていました。

 しかしこの「仇討ち」が明治6年(1973年2月7日)の太政官布告の「仇討ち禁止令」によって禁止されました。その上、三年後には「帯刀禁止令」が出て腕に覚えのある剣士たちは生活が成り立たなくなり、竹刀を使った「撃剣会」という見世物を始めました。

  撃剣会の切符は吉原の引手茶屋が引き受け、高名な剣士が羽織はかま姿で見分役を引き受けましたが、相撲と同じように東西の剣士を呼び出すのは酒席で愛嬌を振りまく「タイコ持ち」だったので、剣道の権威もまさに地に落ちた感じがありました。そのうち、撃剣会も禁止され、明治30年代になってようやく伝統武芸としての「剣道」が復活したのです。


   「最後の仇討ち」

イメージ 1 仇討ちは封建時代の武家社会においては、義務であり、また美徳でもありました。 古くは「曽我兄弟」の富士の裾野の仇討ちがあり、江戸時代には有名な「忠臣蔵」があります。

 また1634年(寛永11年)の11月7日には講談や映画でおなじみの荒木又衛門の36人切りがあります。これは伊賀上野の「鍵屋の辻」で行われた仇討ちでした。36人斬りというのはちょっと大げさですが・・
                        

 文明開化の維新後は、この仇討ちは禁止されましたが、本格的な「最後の仇討ち」として記録されているのは、1880年(明治13年)秋に起こった「一瀬直久判事殺害事件」です。


 ↑曽我兄弟・富士の裾野の仇討ち
 

 犯人「白井六郎」の父・白井亘理は福田藩士で幕末の動乱期に藩政改革に乗り出して活躍していましたが、それを快く思わない者も多数いました。
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  その一人が「一瀬直久」でした。一瀬の一党は明治元年五月、夜襲をかけて亘理夫妻を惨殺しました。息子の六郎はそのとき八歳でしたが、その有様を見て親の仇を討つことを固く決心しました。
 然し悲しいことに、両親を殺した下手人が誰であるか、幼い六郎にはわかりません。彼は苦心惨憺、ついに犯人の一瀬の名前を探り当てて、一心に武術にはげみました。

 一方、一瀬の方は新政府で栄達の道を進み、判事職として東京、名古屋、甲府と各裁判所を転々とした後、東京上等裁判所に戻ってきました。六郎はその動静を刻々と追いながら、仇討ちの機会をうかがっていました。とはいえ、判事ともなればめったに一人で居ることはありません。仕損じないためには、一瀬が単独でいる所を見つけなければならないので、六郎は辛抱強くチャンスを狙っていました。やがて、一瀬がしばしば京橋の碁会所に出掛けるのを知って、六郎もおなじ碁会所に入りこみました。

                                                                                   ↑(荒木又右エ門の目玉の松ちゃん)


 ある日、チャンス到来、一ノ瀬が一人で碁会所を出ました。六郎は「親の仇」とばかり懐の短刀を引き抜いて、首を一突き、さらに胸もとを一突きして殺害し、見事本懐を遂げました。昔なら親の恨みを果たしたとして、社会の喝采を受けるところでしたが、すでに時代は変わり、しかも相手が現職の判事職とあれば状況は極めてわるく、悪びれずに自首した六郎でしたが、裁判の結果「終身刑」を言い渡されました。

 復讐を動機とした犯罪はその後も絶えることはありませんでしたが、この白井六郎対一瀬直久の仇討ちが「武士道最後の仇討ち」となったのです。。

          ・・・・・




(19) ミシンの発明

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   (19) ミシンの発明 「2月8日}

 今日、2月8日針供養の日です。

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堅くて細い棒に穴をあけてそこに糸を通して物を縫う道具として使うことは、人類史上でも画期的な発明でしたが、最古の針としては今から4万年前の旧石器時代ものが出土しています。その材料はマンモスやセイウチの牙でした。

 針を使って機械的に縫製をするということ、つまりミシンを考案したのは1775年のイギリス人「C・ワイゼンホール」でした。彼は中央に穴がある二重針を考案し、これを交互に動かして縫製の機械化を図ったのでした。

 
  それからしばらくたってフランスの貧乏な仕立て屋「ティモニエ」という人がこんにちのミシンの原型ともいうべき縫製機械を発明、これを需要の大きい軍服の仕立てに応用して大量生産に成功しました。

  しかし、機械化による失業を恐れた職人たちがティモニエの仕事場に殴り込みをかけ、ミシン第一号は無残にも壊されてしまいました。
 
 ↓シンガーが特許を得たミシン(1854年)

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 そして本格的なミシンの発明者はアメリカの「E・ハウ」でした。彼はその特許権を「J・シンガー」に売り、19世紀の終わりからようやくミシンは普及し始めたのでした。





   〇 唐物屋の災難

 ところで、日本では幕末の頃、西洋の輸入品を扱ういわゆる「唐物屋・からものや」は攘夷派の浪士たちから「夷荻-イテキ」とみなされてしばしば襲撃を受けました。西洋から輸入するとそれだけ我が国の金が外国に流出して国益に反する、というわけです。横浜の「伊勢屋平兵衛」という商人は、脅迫されたばかりではなく、1864年(文久4年}には暗殺されています。

 また、名古屋で紅葉屋という店を出していた「神野金平」は1866年(慶応2年)正月に、尾張藩の右翼勢力だった「金鉄組」から廃業を勧告され、ひたすら低姿勢で廃業を承知しました。だが、在庫品を売りつくすまでは営業を続けさせてくれ、という妥協条件をつけました

 ところが紅葉屋が廃業するという噂が流れ、今のうちに買っておこうと客が殺到して大繁盛、そして不思議なことに僅かしか残っていないはずの商品がいつになっても無くならないのです。と言いうのも抜け目のない金平は横浜あたりから秘かに続々と品物を仕入れていたのです。

 こうして紅葉屋は一か月ばかり大儲けしていましたが、やがてそのインチキ商売も金鉄組に知られてしまい、同年2月8日、近鉄組の6人が抜刀して紅葉屋を襲い、金平以下店の者は逃げ出して無事でしたが、侍たちは店の商品を徹底的に破壊して引き上げました。金鉄組はまもなく捕らえられて処罰されましたが、紅葉屋はその翌日にはまた横浜に直行して輸入品を仕入れたという話です。
 さすが、明治の商人はたくましかったですね。。

   ・・・・・

  *今朝、ふと気が付くと、庭の小梅の花が2,3輪ほころんでいました。
    梅は春、万物に先駆けて開花するので「春告げ草」の別名があります。
    寒い寒いと言いながら、春は確実にやってきているんですね。

          梅一輪一輪ほどの暖かさ       嵐雪


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(20)人肉食の記録

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イメージ 1 1904年、明治37年2月9日に日露の宣戦布告によって日露戦争が始まりました。当時の日本の国論はこの戦争を熱烈に支持しました。
ロシアが南進政策で満州から朝鮮へと触手を伸ばし、権益を増やしてきたのが原因でした。然し平民新聞だけは反戦を唱えてあくまでも屈しませんでした。

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                                      (フランス新聞の日露開戦の風刺画)

   「平民新聞の社説}

 ・・「不忠と呼ぶ、可なり。国賊と呼ぶ可なり。もし戦争に謳歌せず軍人に阿諛せざるを以って不忠と名づくんば、我らは甘んじて不忠とならん。もし、戦争の悲惨、愚劣、損失を直言するをもって国賊と名づくんば我らは甘んじて国賊たらん。
 世は平和を唱うるを効果なしとす。しかも我らはただ一人の同志を得れば足る。今日一人を得、明日一人を得、三年、五年、十年、進んで止まず、我は必ず数千、数万の同志を得るの時あるを信ず。」・・


  ところで、今日は2月9日、2と9のこじつけで肉の日だそうです。
  ちょっと気味の悪い話ですが、こんな話はどうでしょうか・・

    (20) 「人肉食の記録」

 戦争の悲惨さは言うまでもありません。今次大戦でもジャングルの中の死闘で食べ物が無くなり、鼠やトカゲからついには戦死者の肉まで食べたという話をよく聞きます。
戦争という狂気の中ではなく、平時の未開社会の中で本当に人間が人間の肉を食べていたかどうかは、学者の間でも意見が分かれるところですが、逆に文明社会ではそんな人肉食の記録が残っています。

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1874年2月9日、6人の若者がチームを組んでロッキー山脈の横断旅行に出発しました。

 然し4月16日になって目的地のロス・ピノスに着いたのはA・パッカーただ一人でした。ほかのメンバーはどうなったか、との警察の訊問に答えて、パッカーはついに告白しました。


  この旅行の途中で食料が無くなり、次々に凍死しと仲間の肉を食べてしまったというのです。そして、最後に残ったのはパッカーとW・ペルの二人だけになり、二人は文字通りの食うか食われるかの死闘の挙句、パッカーはペルを殺して食べてしまったのです。パッカーは17年の刑を受けましたが、出獄後も元気で65歳まで生きました。コロラド大学の学生たちは、大学食堂の粗末さを風刺してその食堂の名前を「A・パッカー・グリル」と呼んでいたそうです。

 その後、1919年、ハノーバーに居たドイツ人「F・ハルマン」は第一次世界大戦の食料不足につけ込み、ひそかに人肉を売ることを考えつきました。彼は13歳から20歳までの若い青年男女を28人も殺して、バラバラにしてソーセージを作って販売したのでした。1924年になってその事実が発覚し、彼は死刑に処せられました。

 ついで1934年には、ニューヨークの塗装工「A・フィッシュ」が同じく人肉食の罪で起訴されて、死刑になりました。彼は少なくとも15人の幼児を殺して、その肉をシチューにして食べていたのでした。
 
           ・・・・・

  *せっかくの肉の日ですが、今日は肉は食べれそうもありません。
   魚の肉でがまんするか・・

(21)エックス線の始まり

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   〇 「タコの始まり」 2月10日

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 正月の子供の遊びには、凧(タコ)が欠かせませんが、その凧がいつ発明されたかというと、とても古いものでした。西洋の記録では起源前230年にアルキメデスが考案したといわれれており、中国でもほぼ同じころに「史記」でおなじみの「韓信」が凧を作って敵陣を偵察したと、書かれています。(*韓信は三国志時代の武将で、臥薪嘗胆、韓信の股くぐりで有名ですね)
 日本の凧はこの中国からの輸入で「和名抄」には「紙鳶・シエン」という言葉になっています。
 
 しかし、このタコが遊びの道具として使われるようになったのは、きわめて新しく、タコで一番初めに遊んだのは徳川家康でした。1572年(元亀3年)家康の家臣と秀康の家臣が、浜松城の大手前でタコ揚げ競争をしたのが始まりだそうです。昔の凧の図柄が武者絵だったり、あるいは「奴凧」のような形の凧が出来たりしたのも、こんな武家社会という背景があったからでしょう。

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 この凧揚げは1977年(明治10年)2月10日に、羽根突き、コマ回しと共に交通妨害という理由で禁止令が出ています。ちょうど、この年の2月10日が、旧暦では正月に当たっていたのです。

  〇  「エックス線の始め」  2月10日

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 タコといえば、雷雨の中でアメリカ人「フランクリン」が凧をあげて雷の帯電実験を行ったのも有名ですね。
 フランクリンが凧を挙げて雷の実験を行ったのが1752年ですから、それから250年ほど後には、高圧電流を使ってエックス線の実験が行われています。

 ドイツのレントゲン博士(1923年2月10日没)が、1895年にエックス線を発見しましたが、その発見は早くも翌年の1996年(明治29年)には、日本に輸入されています。その年の10月には京都木屋町の島津製作所の実験室で日本最初のエックス線の実験が行われました。
                      

 
 エックス線発見のニュースは始め東京の帝国大学に届きましたが、京都では三高の村岡範為馳教授がこれに着目して実験に取り掛かりました。村岡はドイツに留学してレントゲンの指導を受け、その理論と実際を日本に持ち帰りましたが、三高には満足な実験室がなく、電源設備のある島津製作所で実験を試みたのでした。

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 この実験には村岡をはじめ島津製作所の二代目、島津源蔵が立ち会いました。
実験は失敗続きでしたが、ある日、島津は所蔵していたガラス回転版による発電機を電源として使い、笠原光興博士がドイツから持ち帰った真空管を利用してエックス線の画像の作成に成功したのです。

 この実験は極めて単純なもので真空管を天井から絹糸で吊るし、その下に写真乾板を置いただけ、という簡単なものでした。発電機をおよそ1時間程回してその乾板を現像したところ、ようやくエックス線の画像が現れました。
                                                                                                                                                                                                       ↑ レントゲン博士

 実験に当たっては、発電機で高圧の電流を得ることに苦心が払われましたが、とりわけ被写体と写真乾板との距離の調節が至難の業でした。その上、この実験では暗室状態が必要なため、日中の撮影は一切行わず、専ら夜間を利用して三高の物理学者達があれこれと操作したのです。

その後、感電コイルを用いて実験が進められ、島津製作所では20センチの放電によって良好な画像を得る事に成功したのでした。                                                                                               

 紫蘭が小学生のころ、クラスで二人だけ、県立病院でレントゲンの検査を受けました。レントゲン室は映画のフランケンシュタインの実験室のように、あちこちに高圧電線や絶縁用の大きな碍子がむきだしで張り巡らされていて、子供にとっては、とても怖くて不安な思いがしました。

 その友達は頭が良くて頑丈な体付き、シランは当時、別に悪いところはなかったのですが、どちらかというと蒲柳の質だったので、永年、小学生の体格の強弱の比較に使われたのだろうと思っていました。ところが後年、同窓会で出会ったら彼は小児科医になっていて、小さい頃から心臓が悪かった、と聞いて、やっと腑に落ちた次第です。柔道が強くて頑丈だった彼も10年ほど前にぼけてなくなりました。人間の寿命は外見でもレントゲンでも分かりませんね。

  ・・・

(22)万歳三唱はいつから?

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     (22)    2月11日 「バンザイ!」の話。

 朝起きてみたら、一面の銀世界、ぼたん雪がちらほら舞う寒い一日になりそう。今日は建国記念日、昔なら紀元節ですね。昔から紀元節の日は寒かった。
 戦前は、紀元節は元日の四方拝、天皇誕生日の天長節、明治天皇の明治節と並んで四大節の一つで、生徒は授業は休みだが小学校に出かけねばならなかった。

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 モーニング姿の校長先生が奉安室の扉を開き、御真影(両陛下の写真)に一同最敬礼、ついで校長先生の「教育勅語」の奉読がある。これがなかなか大変で一字一句たりとも間違えてはならない。その間、生徒たちは冷たい板の間の講堂で、ただ黙ってうつむいて鼻水をすすっているだけだった。早く教室に行って、お祝いの紅白の餅を貰うのが待ち遠しくて。。
                                               

   ♪ 「紀元節の歌」        イメージ 2      

    雲にそびゆる高千穂の
    ねおろしに草も木も
    なびきふしけん大御世(おおみよ)を
    仰ぐけふこそ樂しけれ


                (神武天皇東征)  →



   
 〇 バンザイ三唱!の始め

 ところで昔から国家の祝日にはよく、「バンザイ三唱」をします。
昔の軍隊では、死ぬときに「天皇陛下バンザーイ!」と叫ぶのが美徳のように言われていました。
あれはいったい何だったでしょうね?シランはそんな万歳を叫ぶ気持ちはなかったです・・

 この「バンザイ!」はいつの頃から使われたのでしょうか。
記録によると明治22年2月11日、明治天皇が憲法発布の記念閲兵式を代々木練兵場であげるのに際して、一高(第一高等学校)の生徒たちが、天皇を宮城前に迎えて祝賀しようと言うことになりました。

 しかし、ただ静かにお迎えするだけでは能がない、西洋では元首を迎えるときは歓呼の声を上げるのがふつうである、そこで日本でもしかるべき歓声を上げようという事になり、同校の教授や生徒たちが衆智を集めて、経済学教授の和田垣謙三博士が考えた「万歳、万歳、万々歳」という言葉を採用しました。この言葉をみんなで大声を上げて叫ぼう、というわけです。

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                                            (馬上の昭和天皇)

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 いよいよ当日になって、かねての練習通り教職員、生徒一同がありったけの声を張り上げて、この万歳という歓呼の声をあげました。

 そこまではよかったのですが、驚いたのは隊列を整えて行進中の馬たちでした。今までこんなにすさまじい大きな声を聴いたことがありません。馬たちはびっくりして棒立ちになり大騒ぎになってしまいました。これでは祝賀も歓迎もありません。

 一高の先生、生徒たちは最初の「バンザイ!バンザイ!」は叫びましたが、馬を取り鎮めるために第三唱の「万々歳」を叫ぶのを中止してしまったのです。

 ただ、これが未完成ながら 万歳三唱の始まり だったのです。

 ちなみに、この「バンザイ」という言葉はいくつかの外国語の辞書にも載っているそうで、日本から輸出された日本語の一つになっています。その「バンザイ」の意味は、第二次大戦中の日本軍が玉砕戦法、つまりバンザイを叫んで敵陣に突撃する白兵戦のことで、「カミカゼ」と並んで「バンザイ」は太平洋戦争が残した遺産?の一つとでも言うべきでしょうか。。

                   ・・・・・

(23)菜の花忌

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     (23) 菜の花忌  「2月12日」

 今日は「菜の花忌」 平成8年2月12日、司馬遼太郎さんは72歳で急逝した。あれからもう21年にもなる。紫蘭はそれだけ長生きしたわけだが、その間多くの級友が亡くなって、残っている者は殆ど居ないという有り様である。。。

イメージ 2 司馬さんは亡くなる数年前に「21世紀に生きる君たちへ」と言う小文を草した。小学校6年生の国語教科書のためにである。

  その中に「自分は21世紀にはもう生きていないだろう」と書いているが、その言葉通りになってしまった。彼の死からもう21年にもなる。この小文は、死後「司馬遼太郎をしのぶ会」で、参会者にも配布された。その一部をご紹介しよう。 
  ・・・・
  ↑書斎の司馬さん

 「ただ、さびしく思うことがある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
  君たちは、ちがう。

 21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。 もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなに良いだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
  そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
  だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
  もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。 
   
    ・・・・・・
  
  21世紀の今日、もし彼が存命していたら、現在の日本を見てどう思うだろう。 彼の死因は腹部大動脈瘤破裂であった。彼は手術室に入るとき、奥さんに「行ってくるよ」と声をかけ、再び戻らなかった。。

  ↓学生時代の陳さん
イメージ 3 大阪外語で一期上だったインド語部の「陳舜臣」さんは、その前後に司馬さんと会っている。陳さんは当時、同じく直木賞作家として親交があった。同窓会誌に陳さんの司馬さん追悼の小文がある。

 ・・ 「司馬さんは人間が好きだった。
 大阪外語の人数が少ない語部では、教練の時間(学校の軍事訓練)などは他のクラスと合併しなければ一小隊(50人ほど)にならない。私に属したインド語部では13人ほどだったのでいつも蒙古語やアラビア語の中に組み入れられた。 戦争末期は半年繰り上げ卒業だったので教練は一、二年生の混成中隊だった。

 蒙古語は15人ほどだったが、なかなかにぎやかだった。それは福田定一君(司馬遼太郎)という論客が居たので談論風発して活気があったのである。休み時間には皆が車座になって、その中心に司馬さんが居るという感じだった。作家になった後も編集者や記者たちに囲まれている姿は、車座の真ん中に居た学生時代の司馬さんと同じであり、座談を愛する姿にも変わりがなかった。私は文壇付き合いは多くはないが、彼とは同じ関西出身だし、作品のジャンルもほぼ同じなので同声相応ずる交わりを結んできた。。」・・

                               (司馬さんはいつも左手に本を抱えていた。)
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 陳さんは1994年8月15日に脳出血で倒れ、5か月間入院されていた。その時、司馬さんが見舞いの手紙を書いている。見舞いといっても原稿用紙3枚にのぼる長文であった。陳さんは2週間後に意識が戻ってからそれを読んで司馬さんの友情に涙が止まらなかったという。

 ↓外語の頃の陳さん

イメージ 1  ↓ 以下、司馬さんの見舞いの手紙

 ・・ 「御休養、小生驚かず、天の恵なりと思い、さらに天が大兄に健やかならんことを慮ってそのようにしたのかと思いました。・・」と始まって普通の見舞いの手紙ではなく、具体的に水分を摂取せよ、とくどいほどに書いてあった。

 ・・「六甲の水でも、ポカリスエットでも、人参茶でも、ミルクでも、コーンスープでも何でもいいと思います」というくだりには彼の暖かい息づかいが感じられて、私は何度も涙をぬぐった・・と陳さんは述べています。
「大兄は体力、気力十分な人ですから、ひたすら天寿をまもるべく、それには乾きを恐れ、水分を。」と結ばれていたそうである。

 2年後の1996年1月、陳さんは「和辻哲郎文化賞」の選考会に出かけ、久しぶりに司馬さんと会ったがなんだか顔が白く感じたそうである。司馬さんはいつもの侃々諤々の雰囲気がなく、選考が終わると用事があるので、と、すぐに席を立った。その時、陳さんは司馬さんが座布団を何枚も敷いているのを見た。車が来て宿舎の大和屋に帰ると、女将が司馬さんは椅子に座ってお待ちでした」と言う、陳さんは彼がだいぶ疲れているなと思ったが、これが根性の別れになろうとは。。
 「じゃ、来月またな」というのが陳さんの司馬さんへの最後の言葉であった。・・

 *その陳舜臣さんも一昨年、90歳で旅立ってしまった。
  もう学生時代の司馬さんを知る人も殆ど残って居ないのだ・・

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                                   (台湾で司馬さんを偲ぶ会が催された)


    *昨日、小雪の舞う庭に小さい白梅の花が2,3輪ほころんでいた。

        梅一輪一輪ほどのあたたかさ・・   嵐雪

    
        春も近いだろう。。


   ・・・・・

 

(24)13日の金曜日

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     「13日の金曜日」

 朝起きてみると何故だか左腰が痛い。座骨神経痛ではなさそうだが、思い当たる節がない。
今日は2月の13日ですが、やっぱり13日は縁起が悪いのかなぁ‥金曜日ではなく月曜日だというのに・・
 早速歯医者さんに行って抗生物質を貰って来ました。
 (腰のためではなく、歯が痛むからです‥念のため・・(*_*;)

イメージ 2 西洋人は13という数字を嫌い、ホテルや高層建築ではたいてい13階を省略してあるそうです。特に13日と金曜日が重なると、キリスト教徒にとっては最悪の日です。 
 と言うのは、まず第一にキリストが処刑された日が13日の金曜だったからです。第二に最後の晩餐を囲んだ人数が13名であり、その13番目の席に座ったのが裏切り者のユダでした。

 フランスの作家では、デュマ、ユーゴー、ゴーティエなどが13という数字にをとても気にしていました。たとえば、「ゴーティエ」はある日デュマやサント・ブーブなどと一緒に、パリのレストランで会食する予定でしたが、会食者の数が13人なのが気になって仕方がありません。

   そこで彼は他の12人とは別に自分ひとりの席で食事をすることにしましたが、それでも会食者が13人であることには変わりがありません。やむを得ず彼は、このレストランの経営者の息子をテーブルに着かせて合計14人で会食を済ませたそうです。
 
イメージ 1 「ユーゴー」も大変なかつぎ屋で、それは彼の兄弟が死んだときはたいてい13人が食卓に着いていたからです。そんなに13の数字を嫌っていたユーゴーですが、それにも関わらず、あるとき13という数字の連続パンチを喰ってしまったのです。

 彼が1871年の国民議会に出席するために会場のあるボルドーに向かってパリを出発したのが2月13日で、この日の一等車の乗客が13人、さらにボルドーに着いてホテルに入ってみると、彼の部屋はなんと13号室だったのです。まさに「ああ!無情」というわけですが、彼の身の上には、別に何も異状は起こらなかったそうです。

  ↑ ユーゴー
  ・・人生における無上の幸福は我々が愛されているという確信である。
  ・・世の中にはb多く愛べき女性が居る。然し完全な女性は一人もいない。 (ユーゴー)

  ユーゴーに限らず、西欧では13日に金曜が重なると、忌み嫌うのが多いですが、中にはこんな極端な者もいます。
  
 オーストリアの作曲家「A・シェーンベルク」は1874年9月13日に生まれました。 若いころから、彼は13という数字に異常なほどの強迫観念を抱いていました。 そして自分の寿命は76歳かも知れないと恐れていました。 7と6を足すと13になるからです。。

 彼が恐れていた76歳になったとき、ふとカレンダーを見てみると、7月13日が金曜日になっています。 この日が一番危ないと信じた彼は、何とか事故に遭わずにこの日を無事に切り抜けようと、朝からズーツとベットに横たわって部屋から一歩も出ないでいました。

 やがてこの13日も深夜となり、無事に一日の終わりが近づきました。シェーンベルク夫人は、「あなたは縁起かつぎがひどすぎます。ほら、何事もなかったじゃありませんか、じゃー、ぐっすりとお休みなさい」と声をかけました。

 と、ちょうどその時、シェーンベルクは「ハーモニー」と一言つぶやいて、そのまま死んでしまったのです。 その時刻は、7月13日の午後11時47分 ・・
 あと13分で魔の13日は終わっていたのに。。
 享年はもちろん、76歳!でした。



(25)血のバレンタインデー

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   (25) 「血のバレンタインデー」  2月14日

 今日は2月14日バレンタインデー、男女が結ばれると言うロマンティックな日ですが、昔、アメリカの禁酒法時代のこの日に、シカゴで無残な殺戮事件がありました。

イメージ 1 1929年の2月14日、シカゴのクラーク通りにある空倉庫に警官に化けた5人の男が入って行きました。倉庫の中にはシカゴのギャングとして知られる「B・モーラン」の手下どもが集まって居ました。


 警官がなんで入って来たのかわからず、全く無防備のままの男たちは、マシンガンの前にバタバタと倒れました。これが「血のバレンタイン事件」と言われるものです。

イメージ 2 この日、相手方の親分、モーラン」は遅れてやってきて、倉庫の前にパトカー(にせの)が止まっているのに不審を抱き、逃げ出して助かっています。
 ニセ警官を仕立てたのはモーランと勢力争いをしていた、シカゴの暗黒街の顔役「アル、カポネ」と思われましたが、その日はカポネはマイアミの警察で取り調べを受けていたという完全なアリバイがあり、犯罪を立証する証拠は何一つありません。

 しかし、その3年後にカポネは脱税の罪で起訴されて7年間を刑務所で過ごしました。そして出獄後は完全に落ちぶれて、無一文同様の身となり、持病の梅毒が悪化し、心身も消耗して妄想に悩まされるようになり、ついに1947年に肺炎で死亡しました。

↑暗黒街の顔役・アル、カポネ

  彼はまず、マウント・オリペット墓地に葬られましたが、5年後の1952年にシカゴのマウント・カーメル墓地に改葬されました。彼の墓碑銘には「我が主よ、お慈悲を」とあったそうです。


     〇 「落下傘の話」

 ところでバレンタインデ-には関係ないですが、真珠湾開戦間もない昭和17年2月14日には陸軍の空挺部隊が南スマトラ島のバレンバン近くに降下して、世間の耳目を驚かせました。  
 インドネシアの油田地帯を、無傷のままいち早く占領せんがための、落下傘部隊が急襲下のです。
  その降下の模様を歌にしたのが「空の神兵」でした。

イメージ 3  
    ♪ 藍より蒼(あお)き 大空に 大空に
      たちまち開く 百千の
      真白きばらの 花模様
      見よ 落下傘 空に降り
      見よ落下傘  空を征(ゆ)く
      見よ落下傘  空を征く
     
 

  作曲は芸術派と見られていた「高木東六」で、歌詞は簡明直裁で美しく、曲も優れていたので、全国民に愛唱されました。

  それまでの軍国歌謡が流行歌調ばかりだったのに対し、この歌の軍歌らしくないクラシック調が広く国民に愛されたのでしょう。ところでこの落下傘はいつ始まったのでしょうか。

 


     〇 「パラシュートの始まり」
  
 パラシュート、つまり落下傘を初めて考えだし、自分でも初めて実験したのはフランスの「A・ガルヌラン」という人物でした。彼は1802年に気球から落下傘で無事に地上に舞い降りました。飛行機時代の前に流行した気球ブームの中でいくつかの不慮の事故があったので、そうした場合の緊急離脱装置として落下傘が考案されたのです。

イメージ 5 第一次世界大戦では複葉のプロペラ戦闘機がヨーロッパの上空を飛び始めていましたが、イギリスの空軍はどういうわけか気球部隊には落下傘を装備したものの、飛行機部隊には落下傘無しの状態でした。その頃は高速で飛ぶ飛行機から飛び降りるなどという事は想像もつかなかったのでしょう。

 然しドイツ軍の方は早くから乗員に落下傘をつけていました。飛行機が撃墜されたり、故障して飛行不能になったりした時に、パイロットはこの落下傘を使って脱出できるというわけです。

 ドイツはさらに落下傘による物資投下という方法も開発していました。地上輸送に比べると輸送量には限度がありますが、その速度ははるかに速いし、敵に包囲された友軍に物資を補給する場合には、絶大な効果を上げることができました。


  こんな風に落下傘の軍事的利用はその後秘密裏に進められ、第二次大戦を迎えるとドイツ軍は早速、地中海のクレタ島に落下傘部隊を降下させて、この島を制圧しました。また、日本軍も1942年(昭和17年)2月14日に、インドネシアのスマトラ島のパレンバン地方に落下傘部隊を降下して、油田地帯を確保しました。

 その後、落下傘部隊は一般に空挺部隊と呼ばれるようになり、局地的奇襲戦法としてしばしば利用されるようになり、ノルマンディ上陸作戦でも、ドイツ軍の退路を断つためにアメリカの空挺部隊が活躍しました。一方日本軍のビルマ、インパール進攻作戦では、イギリスの落下傘部隊が軽戦車を日本軍の後方に降下して、日本軍をせん滅しています。

イメージ 4 高野山の奥の院には、今次大戦の戦没者の墓碑がいろいろ建っていますが、一の橋付近に空挺部隊の記念碑がありました。白砂の奥に丸っこい自然石が一つ、ぽつんと置いてあるだけで、その表面には「空」という文字だけが刻銘されていました。それが、空挺部隊の空の意味なのか、諸行無常、色即是空の「空」の意味なのか、シランには分かりませんでした。


                            ・・・・

(26)赤絵

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    (26) 2月15日 「赤絵の発展」

 陶磁器の表面の上釉(うわぐすり)の上に赤、青、緑などの色釉をつけて模様を描く技法を「赤絵」といいます。赤絵の赤というのは、赤い色の意味だけでなく、色全体の意味があり、要するに「赤絵」は色付きの陶磁器という意味があります。

 もともと、土器に色を付けることは古代から行われていましたが、陶磁器に絵付けする場合は二度焼きをする必要があり、さらに色つけは金属化合物を使って初めて出来るので、その発明はかなり遅くなりました。現存している一番古い赤絵は中国の南宋時代に作られた15センチくらいのお碗で、「泰和元年2月15日」のものですから、12世紀の終わりごろに当たります。

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 この技法は南宋から明の時代へと受け継がれ、より洗練された「明赤絵」が製造されました。そして日本にも17世紀の初めになってになって赤絵の技法が入ってきました。

 最近もテレビの骨董市で貴重な陶磁器としてたびたび話題に上る、「古伊万里」「色鍋島」などがその初期の作品として有名ですが、独特の【にごし手】と呼ばれる淡いベージュ色の釉の上に鮮明な発色の朱色に近い独特の色を置くことに成功したのは、佐賀県有田の「酒井田柿右衛門」でした。

   シランの小学生時代の教科書には、毎日庭の柿の実を眺めて、そのカキの独特の赤い色を磁器の上に再現するのに苦心した柿右衛門の話が載っていました。

  ←小学6年の教科書に載っていました。



 そして伊万里や柿右衛門の作品は遠くヨーロッパ各地にも渡って、その鮮やかな色どりが称賛され、またそれが契機になってヨーロッパの陶磁器産業が始まったのです。しかし、その日本の輸入から輸入した赤絵のツボや皿があまりにも好評だったために、ヨーロッパ各地で多くの模造品が造られました。当時のヨーロッパ社会では、今の中国と同じく日本のデザインの盗用はさして珍しい事ではなかったのです。

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                                                   献上古伊万里焼



イメージ 4 *これにちょっと似たような絵皿が我が家にある。 極楽鳥のつがいに赤と青の牡丹の図柄がよく似ている。裏に、made in imari  と書いてあるので、ひょつとしたら江戸時代の西洋への輸出品かもわからんぞ~!

 戦時中、空襲を避けるため親類の農家に家財類を疎開、この焼き物はその家の前の堀に漬けていたそうで多少汚れが付いている。


 ここに疎開した家財は、皮肉にも疎開の願いとは逆にみんな空襲のために焼けてしまった。
中島先生が見たら、「ひどい偽物だね~」と笑われるだろうが、我が家にとっては空襲被害のただ一つの遺留品である。


(27)SL/蒸気機関車の始め

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       (27) SL/蒸気機関車の始め 「2月16日」

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                       ♪汽笛一声新橋を~
                         はや我が汽車は離れたり~
 
 1872年(明治5年)新橋~横浜間で始まった蒸気機関車は、今やすっかり電車にとって代わられ、観光用にときたま姿を見せるだけになりました。子供が小さい頃は、よく駅まで豪快に走る汽車ポッポを見せに連れて行ったものです。

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     さて、あの懐かしい蒸気機関車が日本に初めて登場したのはいつの頃でしょうか。
 1853(嘉永6)年に長崎に来航していたロシア使節プチャーチンが乗艦「パラルダ号」の中で汽車模型(15cmほど)を展示しました。

 これを見た佐賀藩士の田中久重(からくり儀右衛門)、中村奇輔ら(佐賀藩精錬方)が藩主・鍋島直正の許可を得て、 2年間の製作期間を経て1855(安政2)年に完成したのがこの『蒸気車雛形』です。
長さ38センチ、アルコールランプでシリンダーを動かして走るそうです。

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                                             (佐賀城本丸御殿)


 さて、日本最初の蒸気機関車がお目見えしたのは、その翌年の嘉永7年にアメリカのペリー提督の二回目の日本来航の時でした。彼はアメリカ大統領からの贈り物として大小30個の物を持ってきましたが、その中で最も大型のものがこの蒸気車だったのです。同年2月15日にこの機関車は陸揚げされて2月16日から組み立て作業が始まりました。アメカ人5人がその作業に当たり、麦畑の中に120mほどの線路を敷設しました。


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                       (嘉永年間の蒸気車)

 使節が帰った後この蒸気車は江戸に運ばれて幕府の高官たちが吹上御苑で観覧した、と記録されていますが、さてどんな方法で浦賀から江戸まで運んだかが分っていません。。
 試運転には江川太郎左衛門(*品川のお台場を作った)が立ち会ったそうですから、江川たちが分解して運んだのかもしれません。

   その後、機関車は江戸城内に厳重に保管されていましたが、文久元年、研究材料として開成所に寄贈され、その後は海軍所がこれを保管する事になっていました。ところがこの第一号蒸気機関車がいつの間にか消滅してしまったのです。

 そして明治5年、京都博覧会にこの機関車を陳列しようと、主催者は血眼になって探しましたが、見つかりませんでした。どうやら維新の動乱期に火災で焼けてしまったらしいのです。

 
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                                                     (初の国産蒸気機関車)



(28)匿名の時代

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       (28)匿名の時代

   「ペンネームの話」

 北朝鮮の暗殺事件、異母兄とは言いながら、実の兄を殺害するとはほんとに痛ましいですね。中世ならいざ知らず、現代の出来事とは到底思えません。でも、戦後しばらく共産主義華やかなりし頃はソ連でも日本でも粛清の嵐が吹き荒れていました。ソ連のレーニン、スターリン時代はすごかったですね。そのレーニンもスターリンも、実は本名ではなかったのをご存知ですか?
     ・・・・
 今でも芸能界や歌謡界では芸名が当たり前ですが、本名はほとんど知られていません。
戦時中は英米語排斥で、片仮名後の芸名が良くやり玉にあがりました。そのため改名を余儀なくされた者もいました。歌手のディック・ミネが本名の三根耕一に、ミス・コロンビァが松原操に、藤原釜足は不敬だとして藤原鶏太、野球のスタルヒンが須田博、漫才のミス・ワカナが玉松ワカナに、と改名しています。

 今やどこもかしこもパソコン時代ですが、世界の誰でもが見れるネットという空想社会では、秘密保護のために必然的に投稿は匿名でなければなりません。そこでペンネームとかHN/ハンドルネームとか言われるものが必要になります。HN・紫蘭もネット世界では、最後までこの匿名の人物で終わるでしょう。

 昔から古今東西を問わず、革命運動などに従事したものは、匿名のままで一生を終わっています。時の政府などの弾圧のもとで演説したり、文章を書いたりしなければならないので、必然的に住所はもとより氏名も常に匿名にしておかねば危ないのです。

イメージ 1 たとえばロシア革命の父「レーニン」も正確な名前は「ウラジミール・イリッチ・ウリャノフ」ですが、文筆活動を始めた1901年に、シベリアの大河「レナ川」を思い出し、その河にちなんで「レーニン」と署名しました。つまり有名な「レーニン」という人物は実名ウリャノフという人物のペンネームなのです。

  その「レーニン」が死んだのは1924年1月21日、シランが生まれて半月後の事でした(^^*)享年53歳。 
 死因は過労ということになっていますが、その前に1918年の夏にテロリストのためピストルで撃たれ肩に重傷を負っているので、あるいはその後遺症が悪化したのかもしれません。

  レーニンは1870年4月22日にロシアのシンビルスクに生まれて居ます。ボルシェヴィキ(共産党)の基礎を築きロシア社会主義革命を指導して成功を収めました。
・・・・
 「我々の世代の生活は父の代よりももっと苦しい。しかし、一点においては我々は父の代よりもずっと幸せである。我々は戦うことを学んだし、また急速に学びつつある。我々は父たちよりも立派に戦っている。我々の子供たちは更に立派に戦い、勝利を収めるであろう。」・・・レーニン


イメージ 2 またソ連の「スターリン」も同じように匿名の一生でした。彼の本名は「ヨシフ・オノピチ・ジュガン」でしたが、その実名を知っているものは少ないでしょう。ロシアの革命家たちは、こうして匿名の生涯を終え、人々はペンネームによってのみ、その革命の歴史を知っているだけなのです。つまり、レーニンもスターリンもいわば世を忍ぶ仮の名前で、本名は少しも知られていないのです。

 スターリンは1918年以来革命運動に参加してレーニンの死後、ソビエト連邦の指導者となり社会主義建設を遂行しました。1879年、モスクワにて死亡・・

     ・・・・ 
 「建設するには知識を持たねばならず、科学を習得せねばならない。だが知識を持つ為には学ばねばならない。
 我々の前には城塞がある。知識の数多くの部門を持つ科学と呼ばれるものである。この城塞はなんとしても抜き取らねばならない。この城塞は老練な人々の交代者として青年たちが抜き取らねばならないのだ。」 ・・・スターリン

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               (レーニンの柩をかつぐ、スターリンとモロトフ外相)


 レーニン、スターリンが名実ともに心血を注いだ共産主義国家「ソビェト連邦」も70年間の壮大な試金石として、あっけなく歴史の中に埋没してしまいました。かっての闘士たちは、いま地下でどんな思いでいることでしょう。

 ところで現在の日本の法律では、ペンネームにも市民権が与えられ、その法解釈では、ペンネームもまた自己を他人と区別する、という点で、正式の氏名と違いがない、という事になっています。
そして、そういう氏名を無断で他人が使用することは「商標法第四条第一項第八号」によって禁じられています。勿論商標の登録が必要で、登録は早いもの勝ちだそうです。。
 和紙屋紫蘭はどうかな??


    ・・・・・

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