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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(148)ススキ

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               (148) ススキ

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                                                   (九重高原)


 「秋の七草」のひとつ「薄」は中国、日本に自生する「イネ科」の植物で、日本全土の日当たりのよいところに自生しています。
 一時「セイタカアワダチソウ」に追いまくられていた「ススキ」ですが、最近はだいぶ盛り返したようです。なんと言っても日本の秋はススキですね。 
 ススキは「薄」とも「芒」とも書きますが、古名は「萱・カヤ」で、萱葺きの屋根の材料として使われました。

   「刈干し切り歌」

   ♪ ここの山の 刈干(かりぼ)しゃ すんだょ
      明日はたんぼで 稲刈ろかょ~
      屋根は萱(かや)ぶき 萱壁なれどょ
      昔ながらの 千木(ちぎ)を置くょ~

 茅(カヤ)は屋根のほか、炭俵、ぞうり、縄、すだれ、箒などに使われ、また家畜の飼料にもなりました。また、花穂の様子から「尾花」とも呼ばれ、枯れた尾花には独特の風情があります。

                  幽霊の正体見たり枯尾花           芭蕉? 



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                          (吉野ヶ里)


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                     (天山山頂)
 
 ススキは高原がよく似合いますね。
 高原でなくても、ススキという植物には、いかにも秋らしい風情がありますが、またいろんな書き方、呼び方があります。

 枯れたススキのことを「枯尾花」というのは、雄鶏の尻尾に似ているので「尾花」としたもので、枯れススキは世の儚いことを象徴するものとして、詩歌にも取り上げられています。
 大正時代の「船頭小唄」のなかにも「♪おれは河原の枯れすすき」と歌われています。
 しかし、ススキは地下の根から翌年の春にはまた芽吹く多年草なので、儚いどころかなかなかしぶとい植物です。

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  * 今日も絶好の行楽日和でした。
     お墓参りから、スーパー買い出し。
     我が家の墓もすっかり苔むしました。。

          



(86)今日はお彼岸の中日

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      (86) 「今日はお彼岸の中日」 

 今日は彼岸の中日、ご先祖さんを偲ぶ日です。
戦前は「秋季皇霊祭」という祭日になって居ましたが、「暑さ寒さも彼岸まで」と言うように、もうすっかり秋めいてきて、朝晩は肌寒いくらいになりました。 季節の変化はほんとに早いです。

昨日、お墓参りに行き、本堂にもお参りしましたが、我が家の墓もだいぶ苔蒸しました。兄が戦死した時に建てたから、もう70年にもなる・・苔蒸すのも当然だ。

 本堂に上がって本尊様を拝んでいると、目の前の大きな柱に「お彼岸会・おひがんえ」法話の張り紙があった。
 しかし、今までしっかりと和尚さんの彼岸法話を聞いたことはない。。

        うとうとと 彼岸の法話も ありがたや   河野静雲


 彼岸に限らず、お説教を聞いて人より遅く本堂を出ると、自分の履いてきた靴や下駄が無いことが多い。誰が履いていったのか、残った履物にはろくなものがない。そこで最近は自分の靴の中には、目立つように紙切れを入れて置くことにしている。

  
             彼岸会や身内の下駄をひとまとめ     久米幸叢


 これなら安心して本山から来たおエライ坊さんの説教も、安心して有難く聞けるというものだ。

 昔は、春秋のお彼岸に部落の大師堂に小母さんたちが集まり、西国三十三か所を回ってくるお遍路さんたちに「おせっちゃー」をしたものだ。オセッチャーとはお接待と言う意味だが、各々手作りの「オヨゴシ」や煮豆、野菜のゴマアエなどを持ち寄って、お遍路さんたちにお茶を出して振舞い、善根を積むのである。「オヨゴシ」は白和えのようなもので、サトイモ、コンニヤク、青菜などを白和えしたものに、味噌が入っているのが特徴である。

 お遍路さんの白衣には「同行二人」と墨書きがしてあり、弘法大師と二人連れかと思いきや、十人、二十人と仲間が大勢いるので、小母さんたちは接待に大忙しだ。しかし、お接待のあとで、自分たちだけの「お茶講」をするのが、また楽しみでもある。


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 お彼岸にはどこでもお萩を作ったが、最近はスーパーに安くて売っているので、自宅で作ることは殆ど無いようである。大きさもすっかり小さくなった。家で作って居た頃は、今の三倍くらいの大きさで、食べる前には子供心に「よーし、今日は五つは食べてやるぞ・・」と、外を走り回って腹をすかせて来たりしたものだが、いざ実際に食べてみると、2,3個で大満腹してしまう。

 春の「牡丹餅」と秋の「おはぎ」とは同じようなものだが、うるち米のご飯にまぶした小豆を、それぞれ春、秋の季節に咲く牡丹と萩の花に見立てた言い方だそうで、また、小豆餡が半殺しなのが「お萩」で、「こしあん」が牡丹餅だ、と言う説もある。

    * 「おはぎと観音様」     佐賀の民話

 むかし、むかし。 
 和尚さんと小僧さんが住んでいました。

 ある日、和尚さんは「おい小僧!お萩があったはずばってん、無うなっとる。お前が食べたんじゃろう!」と小僧に言いました。
「いんにゃばんた、(いいえ)あなたの観音さまが食うとんさっばんたぁ、(*観音様が食べられたとですよ、〉ちょっと見てみんさい、あがん(あんなに)口端にあんこがついとるよー」と小僧さんは言いました。

 そこで怒った和尚さんが、観音様を叩いたら「くうわーん・・」と音が出ました。和尚さんは「それみろ、食わん・・と言うておらすじゃなかか。。」と小僧を叱りつけました。
 
 すると小僧は腹を立てて、観音さんをお湯の中に入れると「くった、くった」と沈んで行きました。
 小僧は和尚さんに「ほら、食った、食った、と言いよるよー」と言いました。
 
        はい、そいで、おしまい。。     (永田カメさんの話)

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(149)フジバカマとクズ

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       (149) 藤袴とクズ

  ○  「フジバカマ」

                         【藤袴に秋の蝶・ツマグロヒョウモンがとまっていました】

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 フジバカマ(藤袴)はちょっと地味な花で,のひとつぱっとしませんが、秋の七草のひとつで本土の各地に見られます。 葉が三つに裂けているのが特徴です。

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 フジバカマは古く中国からの帰化植物で、 万葉の時代以来日本でも親しまれて
きました。
 源氏物語の中にも、夕霧が「藤袴」を差し出して
   
       おなじ野の露にやつるゝ藤袴
          あはれはかけよ かことばかりも
                                              と詠っています。  
  
 
   ○ 「クズ」  

     【クズも秋の七草のひとつですね】

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  葛(クズ)は日本全土に自生しているマメ科のつる性多年草で、ほかの植物に絡み付いて繁茂します。 秋風に白い葉裏を翻している風景は、いかにも「秋の七草」らしい風情があります。

 花は紅紫色の蝶型の花で、夏から秋にかけて咲きます。
 昔から茎の繊維で織った葛布(くずふ)を使って、狩衣や袴を作り、今日でもふすまや窓掛けに用います。

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  クズの根は澱粉に富んでいて、くず粉として使いますし、奈良の吉野地方が吉野葛の産地として有名です。 若いころ谷崎潤一郎の「吉野葛」という小説を読んだことをふと思い出しました。
 筋は忘れましたが。。

   クズの根は漢方で葛根(かっこん)といい、煎じて飲むと解熱や解毒に効用があるそうです。
 (葛根湯)
 また、この日本の「クズ」は明治の初めにアメリカに渡り、家畜の飼
料やダムの土壌保全に利用されているそうですが、あまりに繁殖しすぎて今では返って厄介者になっているとか。。。


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           相寄りて 葛の雨きく 傘ふれし     杉田久女 


  *夜来の雨も上がり、少し晴れ間も出てきました。   
    また爽涼の秋空に戻るでしょう。
    シルバーウイークも終わり、又静かな老々生活が始まります。



 

(15)もやー風呂

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                 (15) もやー風呂   
    
   昔の佐賀地方の風呂釜は鉄砲風呂五右衛門風呂だった。平野部は鉄砲風呂だが、山間部は五右衛門風呂だ。大盗賊の石川五右衛門が釜茹での刑にあった故事にちなんだ名前だが、五右衛門風呂は全体がご飯を炊く大釜のように鋳鉄製なので、横も底も体がじかに触れると熱い。桶風呂のように体をもたれかける事が出来ないのが欠点だ。それに、子供一人で入った時、体が軽いので風呂の底に沈める底板が浮き上がってひっくり返りそうになる。ひっくり返ると大変だ。熱い釜にふれてあちこち火傷をしてしまう。。

 学徒出陣で軍隊に入るとき、下関の学友Sの家に一泊して一緒に豊橋の予備士官学校まで出かけたが、彼の家の風呂が五右衛門風呂だった。五右衛門風呂は別名「長州風呂」と言う通り、山口や広島あたりのいわゆる長州がが主産地であるから、下関の彼の家も当然、五右衛門風呂を使っていたのだろう。。

 家では鉄砲風呂ばかりで、五右衛門風呂に入るのは初めてである。
横に立てかけてあった底板を風呂の蓋と勘違いして、底板を入れずにそのまま入ろうとしたら足が熱くてたまらん、たまらん! そこで、そばにあった風呂下駄を履いて入ったら、彼の妹に大いに笑われた。
 彼女と会ったのはその時一度だけだが、その後幸福な人生を歩んだだろうか。。Sも亡くなってしまった今になって、何となく気になるこの頃である。

 蛇足だが、石川五右衛門は自分の子供と一緒に釜茹での刑に遭った。五右衛門は最後に息が絶えるまで子供を頭上高く差し上げて居たそうだが、逆にあまりの熱さに、子供を下敷きにしたという話もある。

       石川や 浜の真砂(まさご)は 尽きるとも
          世に盗人(ぬすびと)の 種は尽きまじ     
(五右衛門の辞世)


 一方の「鉄砲風呂」は、タマゴ型の長円形の桶風呂の一端に、葉巻型の鋳鉄製の長い風呂釜が、縦に取り付けてある。風呂桶と同じ長さである。釜は葉巻のように上下がポカンと開いている至極簡単な構造で、鉄砲と言うよりも大砲型である。主に福岡の大川付近で作られていたので、佐賀や福岡南部にこの型の風呂釜が多かったに違いない。

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                                                (画・中島潔)


 鉄砲風呂の上の口には扉のついた鋳鉄製の焚口を乗せ、その扉から薪や石炭をくべて焚く。一方下の丸い口には、四角や丸い風呂の五徳(タナ)を差し入れて置く。その棚にたまった、石炭や木材の燃えがらを、ときどき直角に折れ曲がった火箸で突き落とさないと、よく燃えない。これを「尻くじり」という。鉄砲風呂は構造が簡単なだけ古下駄でも、木箱の切れ端でも、石炭でも何でもよく燃えるが、湯がぬるくなっりした時には風呂から上がって、裸のままで、よく燃えるように釜の下を火箸で「尻くじり」をしなければならない。

 昔のことだから、給水排水のことを考えると、風呂は家の中には置けない。たいていは敷地の隅の川岸にある。そこで川や堀の水を汲んで風呂水にし、また使ったあとの風呂の湯を川に流すのである。簡単な屋根を作ったり、そのまま露天風呂にすることもあり、小雨の時は傘をさしたりした。なんとものどかな田園風景である。
 
 戦前から戦後十年くらいは、田舎の方ではどこにでも内風呂があるわけではなく、数軒で使う共同風呂があった。佐賀あたりではこれを「もやー風呂」と言った。 

 「もやう」とは、共同で利用するという意味の方言で、「もやーもん」は共同で使う物、と言う意味である。何軒かが一緒に使うので「もやー風呂」は普通の鉄砲風呂よりも風呂桶が大きい。子供なら四人が、大人なら二人が一緒に入れる大きさだ。風呂の順番は子供、男、女の順である。やはり男尊女卑の伝統だろうか。だが、遅くなると勢い混浴となる。女学生でも体の大きいものは、お嫁さんになってもおかしくない体つきだし、かねて野良仕事で日焼けして黒い顔のオバさんたちも、着物を脱ぐと雪のような白い肌があらわになるのだった。

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        ↑     (親子風呂)・・大小の風呂桶がつながっている)  画・南窓
 

 所によっては、親子風呂もある。大小の風呂桶を上下2本の管でつなぎ、小さい方に風呂釜を仕掛けて湯を焚き、大きい桶の方に人が入る。大きいから、子供なら一度に十人も入れる大きさだ。

 こんな風呂小屋はたいてい農家の畑の一角にあり。川か堀のそばにある。水を汲むのにも、排水にも便利なように。。風呂のそばの畑には青梅、スモモ、柿、ミカン、枇杷など四季それぞれの果樹があり、それをちぎってきて風呂に浸かりながらかじるのである。上気した体には、冷たい果物は最高においしかった。紫蘭も小さいころ風呂場のそばにあった柘榴の実をちぎって食べた記憶がある。裸のまま風呂から出て、ザクロをちぎっては湯につかりながら食べるのである。

 
  今はプラスティツクかステンレスの時代。
  清潔ではあるが、桶風呂のような温かみのない無粋な風呂場になってしまった。
  返らぬ昔を懐かしむ、老いの繰り言である。。




(150)芙蓉・酔芙蓉

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       (150) 芙蓉・酔芙蓉

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  「芙蓉・フヨウ」はアオイ科の落葉低木で中国の原産です。
暖地の沿海地方に自生していて、高さは2mから5mにもなり、葉も花も大きく立派な植物です。
 秋のはじめ頃に淡紅色の美しい5弁の花を咲かせますが、一日でしおれています。 むくげによく似ていますが、葉が大きく花も10センチほどもあります。

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 「芙蓉のかんばせ」という言葉がある通り、芙蓉は美人の別称にもなり、また「芙蓉峰」といえば富士山の別名にもなっています。 
 それだけ芙蓉は美しい花、ということでしょう。
 花は新枝の頭頂部につき、朝咲いて夕べにはしおれてしまいます。

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       逢ひにゆく袂(たもと)触れたる芙蓉かな    日野草城

   「酔芙蓉・スイフヨウ」

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 芙蓉には一重や八重咲きもあり、八重の中には「酔芙蓉」という変わった品種もあります。
「酔芙蓉」は芙蓉の園芸品種で,朝に白い花を咲かせますが,午後になるとだんだんピンク色に変わり,夕方から夜にかけてさらに赤くなり,翌朝には赤いまましぼんでしまいます。

 ちょうど、酒飲みが顔が赤くなっていく様子に似ているので、「酔芙蓉」の名がついています。 

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        夢にみし人のおとろへ芙蓉咲く    久保田万太郎


 

(16)ヒラクチの話

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          (16) ヒラクチの話

 もやー風呂のついでに、風呂の話をもひとつ。。
先日、戦友からメールがあり、予備士では風呂はどうしていたたんだろうと聞いてきた。そういえば、吾輩にも軍隊での風呂場のあり場所も、入浴の場面も全く記憶がない。ひょっとしたら、一年近くも風呂に入らなかったのだろうか??
 
 尤も、陸軍病院では何回か入った記憶がある。外科の病棟なので足が不自由な者でも入れるように低く、浅く作ってあるが、何しろみんな月に何度かしか入らないので、水面にはホトびた皮膚か垢か知らないが、白いものが一杯に浮いて居て、すごく気持ちが悪かったのを覚えている。

 昔の軍隊では、風呂場のことを「入浴場」と言い、洗濯物を干す所は「物干場・ブッカンジョウ」で、便所は「厠・カワヤ」と呼んでいた。ついでだが、軍靴は「編上靴・ヘンジョウカ」営所の戸外で普段に履くのを「営内靴・エイナイカ」スリッパは「上靴・ジョウカ」と言う。スリッパと言っても「上靴」は全部革製だからこれで殴られると目から火が出るほど痛い。もっぱら古参兵の新兵いじめによく使われた。

 戦時中の学生時代、四軒長屋の下宿には内風呂がない。いつも小路から出て突き当りの本通りにあった(銭湯)に通った。銭湯もいわば「もやー風呂」の一種と言えるだろう。然し遅くなると、大勢の人の垢が沈殿しているのか、湯船の底がぬるぬるしてとても気持ちが悪かった。上がり湯で念入りに体を洗っても、なんだか気持ちが収まらない。そこで、土曜、日曜は午後三時の開場とともに一番風呂に飛び込んで、広い湯船を独り占めにして手足を伸ばして、大いに溜飲を下げたものである。

 天然の風呂場と言えば温泉だが、九州には火山が多いせいか温泉が多い。別府,霧島、阿蘇、九重、雲仙と、古い名湯がずらりとあり、湯の噴出量も多い。佐賀にも武雄、嬉野などの温泉があるが、佐賀市北郊にある「熊の川温泉」は、ラジューム含有量日本一だそうで、昔は皮膚病や蝮(マムシ)に噛まれた時の湯治場として、九州はおおろか四国・関西にまで有名だった。

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                                           (昔の熊の川温泉・南窓画)
 
 夏になると、山麓地帯にはどこでもクチナワ(蛇)がにょろにょろと出てくる。クチナワとは方言かも知れないが、「朽ち縄」から来たものだろう。山道を歩いて居ると、縄が落ちていると思って近づくと急にニョロニョロと動き出して、思わず後すざりしてしまうことがある。毒蛇でなくてもやっぱり蛇は気もちが悪い。「ヤマカガシ」は夫婦連れだそうで、雄より雌の方がやや小型だそうだ。スイレン池などに出てきて、カエルなどを採るが、人間が近づいても案外に逃げださない。

 攻撃性のあるのは「シマヘビ」で、家の中の天井裏に住んで居るのを「エークチナワ」と言うが、これはいわゆる「青大将」のことだ。
「青大将」は1mから2mもある大きな蛇で青光りしている。無毒のヘビで農家の鶏の卵を呑んだりするが、天井裏のねずみも退治してくれるので、農家の大事な守り神でもある。

 昔の家では天井裏をねずみが、運動会のようにがたがたと逃げ回る音がした。相手が青大将だったか、イタチだったかわ分らないが、庭の柿の木には、よく青大将の長い抜け殻が巻き付いて居たりした。ヘビの抜け殻は、金儲けのまじないになるとかで縁起が良いので財布に入れたりするが、我が家では、以前に見つけた抜け殻をそのまま小箱に入れたまま何年も放ったらかしにしているので、ちっともお金が貯まらないのだろう。。

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                               (山道でこんな大きい蛇を見た。青大将だろうか・・)


 これらの無毒の蛇は頭が丸くて細長いが、平たくて三角の頭のヘビは毒蛇の「ヒラクチ」である。ヒラクチは一般には「蝮・マムシ」と言うが、日本では九州本島以北では、毒蛇はこのマムシしかいない。
 今日も山麓の自然公園を歩いて居たら、見知らぬおじさんから「まむしが居るから気をつけて。。」と言われた。ほかの蛇と違いマムシは攻撃性が強く、人間を見ても逃げ出さないで向かってくるという。
 
 昔の農家は牛、馬を飼っていたので、朝飯前に青草をカゴ一杯採ってくるのが日課であった。草刈り中に、草の中にとぐろを巻いて居るヒラクチ(マムシ)を見つけると、間髪で草刈り鎌のミネで押さえる。
 そして、こんな非常事態に備えてかねて腰に差している女竹のハサミでヒラクチの首を鋏んで生け捕る。これを漢方薬屋に持って行けば高く売れるのだ。黒焼きにしたり、焼酎付けにしたり、皮をむいて干し物にして強精薬にするそうだ。

 しかし、運悪く捕えそこなってうっかり足でも噛まれたらそれこそ半死半生の憂き目にあう。まだ地下足袋のないころは素足のままだからたいてい足をやられる。もし、噛まれたらすぐに心臓に近い方をきつく縛り、噛み口を鎌で切開し口で血を吸いだし、毒液が全身に回るのを防がねばならない。 しかし、ひどいときは回復が遅れて、百日ほども農作業も出来ないから農家にとってはたいへんだ。

イメージ 3  この時に、前述の「熊の川温泉」に湯治に出かけのである。
ただし冷泉なので湯の温度は35度しかない。冬は湯から抜け出ると寒くてたまらんが、夏は涼味万点、何時間もつかって居られる。湿疹の患者は一日十時間も入って湯治したという。

 戦前の中国の文人「郭沫若・かくまつじゃく」は、九大医学部留学中にこの熊の川温泉に逗留したそうで、今も雄淵・雌渕公園にその石碑が残っている。
 しかし、郭沫若の滞在した宿はすでに無くなり、今は蝮の血清も出来て、昔の様にこの温泉に来る湯治客は少ない。
  ↑ 郭沫若の記念碑





(17)今夜の月は十六夜(いざよい)

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      (17) 今夜の月は十六夜(いざよい)

  昨夜の仲秋の名月も過ぎて、月の出も遅くなり今日は「十六夜・いざよい」です。

  「八月十五夜の月・・」   白居易

       銀台 金闕 (きんけつ) 夕べ沈沈  
        独宿 相思ひて 翰(かん)林に在り
       三五夜中 新月の色
        二千里外 故人の心

 仲秋の名月は旧暦の8月15日で今年は昨日の9月27日でしたが、昔はこの15日に月見をしたら、翌月の13夜にも月見をしないと「片月見」として嫌われていました。 
 その「十三夜」は平安時代に貴族たちが集まって、月見をしながら詩歌を詠んだのが始まりです。
      
     「十三夜」     昭和18年  石松秋二 作詞

       ♪ 河岸(かし)の柳の 行きずりに 
          ふと見合せる 顔と顔 
          立止まり 懐しいやら 
          嬉しやら 青い月夜の 
          十三夜
  
 「十三夜」には栗や豆を供えるので別名を「栗名月といいます。また十三夜は十五夜の次の月の月見なので「後の月」とも言われています。
 「十五夜」には里芋を供えることが多いので「芋名月」です。
 今日の十六日の月は「十六夜(いざよい)の月」と言います。
「十六夜」は十五夜よりも少し月の出が遅いので「いざよいながら出る月」という意味です。
 十六夜のあと、十七日はまた少し月の出が遅れるので、立って待つ「立待ち月」 
 十八日は座って待つので、「居待ち月」 更に十九日は寝て待つ「寝待ち月」となり、 
 二十日は夜が更けてから月が出るので「更け待ち月」になります。

 それ以後は月の出ない「宵闇」と言います。
 昔の人はなかなか風流でしたね。

  「君恋し」   音羽時雨 作詞

   ♪ 宵闇せまれば 悩みは果てなし
       みだるる心に うつるは誰(た)が影
       君恋し 唇あせねど
       涙は あふれて 今宵もふけゆく

 若いころからお月さんには色々と思い出が有ります。特に学徒出陣で軍隊に入る前の昭和十九年九月、友達と別れの宴を開いたときの月の光は一生忘れられません。

                 (学徒出陣の学友たち)

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 これが最後と、思わず時の経つのを忘れて終電車に乗り遅れ、天王寺駅より南海・粉浜の下宿、御堂筋を通って、ひとりぶらぶらと歩いて帰りました。
  夜半の月に照らされながら。。
 当時の日記に稚拙な詩を書いて居ます。

      酒乱の足もと 蹌踉として空を踏み
     
 皓々たる半月 また天空に在り
      凄爾たるその影の
      長く街樹を映しては
      我れ、舗道を彷徨う(さまよう)犬に似て
      ああ、寂寞たる心象は
      街路に深く消えゆきぬ

 下宿に着いたのは何と深夜の午前3時。
でも、浜松生まれの下宿の小母さんは玄関のカギを開けて待って居てくれました。顔はコワイが優しい人柄でした。

* ところで、こちらでは昔から「月待ち」という一種の信仰行事がありました。
  毎月、二十三日の夜に講の仲間が集まり,供物をそなえて月の出を待ちながら,飲食をともにし,月を拝む行事で【三夜待ち】といいます。

                 (昔の三夜待ち)   昭和のはじめ 

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 「月待ち」の日は男の場合は毎月23日、女性は26日の夜で、それぞれ「三夜待ち」「お六夜さん」と呼ばれていて、最近は本来の月の出を待つ「観月会」の意味よりも、いわば親睦会としての「飲み会」「食事会」になっています。

  シランの毎月の「飲み会」も昔の「三夜待ち」の名目です。
勿論部屋の中なので月は見えませんし、花より団子・月より一杯・という親睦のための楽しみ会になっています。いわば、三夜待ちという言葉は、飲み会の代名詞みたいなものになっているのです。始めてからもう40年にも成りますが、始めの12名のメンバーは次々に入れ替わったり、亡くなったりして、今はわずか6名です。
 
 月待ちが23日,26日が多いのは十五夜が過ぎて満月の後にくる半月の形が重視されていたからで、母たちの「六夜さん」の集まりでは、半月に乗った菩薩像を描いた掛け軸を床の間に飾って拝んで居ました。この半月の月光の中には弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が現れると言い伝えられています。。

       月みれば 千々に物こそ 悲しけれ
          我が身ひとつの 秋にはあらねど    

                                                                            (大江千里) 古今集 
   

                        (月夜)      中島潔 画
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(151)ヒガンバナ

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       (151) 「彼岸花」

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 彼岸花はヒガンバナ科の多年草で、秋のお彼岸のころに咲き乱れるので「彼岸花」の名前があります。
 別名の「曼珠沙華・まんじゅしゃげ」は梵語で「赤い花」という意
味で、「法華経」のなかに出てきます。

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                         むらがりて いよいよ寂びし ひがんばな      日野草城 


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 また、「天上の花」という意味もあるそうで、彼岸花は花も根にも、リコリンを含む有毒植物なので、食べると死に至ることもあります。
 そこで、「食べた後は彼岸(死)しかない」という意味で「彼岸花」だ、という説もあります。

    
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          「長崎物語」

         ♪ 赤い花なら 曼珠沙華
            オランダ屋敷に 雨が降る
            ぬれて泣いてる じゃがたらお春
            未練な出船の ああ 鐘が鳴る  


          「白色曼珠沙華」

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  最近、白や黄色い彼岸花をよく見かけますが、いずれも園芸種のようです。
 白花曼珠沙華(シロバナマンジュシャゲ)も、ヒガンバナ科の多年草で、彼岸花と鐘馗水仙をかけ合わせたものだそうです。
  「曼珠沙華」が、田畑のあぜによく見られるのは、その毒を嫌って野ねずみやもぐらが穴を掘らないように、植えたのだそうです。

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            風になびく径(みち)の狭さよ曼珠沙華
           踏みわけ行けば海は煙れり           若山牧水




(152)ショウキズイセン(鍾馗水仙)

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        (152) ショウキズイセン(鍾馗水仙)

          【鮮やかな黄色のショウキズイセン・花びらが縮れています】   

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  これは黄色い彼岸花のように見えますが、実はヒガンバナ科のショウキズイセン(鐘馗水仙)です。 そういえば、花の形が少し違うのと、花びらの縁が反り返っていて、やや縮れていますね。 それと、おしべがまとまって一定の方向に突き出ています。

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  鮮やかな黄色で、花びらにしわしわがあるのが、「ショウキズイセン」です。
 五月の端午の節句の飾り物に使う「鐘馗さん」は、悪魔祓いの髭むじやの神様、その髭が伸びたように見えるので、「鍾馗水仙」という名前がついたのでしょう。。 


                    (彼岸花もいろいろ)
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 彼岸花は赤色のほかの「オレンジ色」などは、「シロバナマンジュシャゲ」「ショウキズイセン」の交配種だそうで、色合いもさまざまです。


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                         秋風の吹きてゐたれば遠方の
               薄のなかに曼珠沙華赤し     斉藤茂吉


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 「曼珠沙華」という名前は、葉を出す前に茎を伸ばして開花するので「まず咲き」という言葉になり、 それが仏教と結びついて「まんず咲き、まんじゅしゃげ」・・となったという、面白い説があります。
 いずれにしても、お寺や墓地などに多いので、つけられた名前でしょう。子供の頃は縁起が悪いと、花を採ってくると、母から叱られました。

  彼岸花は稲作の伝来とともに日本に渡来したと言われていますが、揚子江付近に自生するものは、実が生るのに対して日本の曼珠沙華は種ができず、地下の球根によって繁殖します。

 球根は水によくさらせば、有毒成分のリコリンが流れてしまうので、昔は飢饉の時などの非常食になっていました。その有毒成分のおかげで、野ねずみが穴を掘ってあぜ道を崩すのを防ぐのでしょう。 棚田に彼岸花が多いのも、観光用のためだけではないようです。

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                 曼珠沙華 散るや赤きに たえかねて    野見山朱鳥


   *台風一過の爽やかな秋の風が吹き抜けています。
     これからの秋の深まりを予言するような。。

     昼から月一の内科の検診です。
     と言っても、診察は3分、降圧剤の薬を貰って帰るだけですが。。




         

(18)山の芋、変じてウナギとなる

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     (18)  「山の芋、変じて鰻となる」

 子供の頃は納豆も山芋もヌルヌルしてあまり好きではなかったが、今は何でも食べるようになった。
 山芋はサクサクして、酒の肴に美味しいですねー。 とろろ汁にしてそばにかけてもおいしいし・・

 昔の中国のことわざに「雀が海中に投じて蛤となり、山芋が変じて鰻になる」と言う言葉がある。
「山の芋変じて鰻となる」と言うのは、「田舎者が都に出て出世する」と言う意味だが、そういえば山芋もウナギも同じように長くてヌルヌルしていて、どちらにも強壮作用がある。昔の人が、ヤマイモが化けたものがウナギである、と本気に信じたとしても無理もない話だ。

 ヤマイモは、葉が青々としている間は養分がつるの方にいってしまい、秋口になって養分が下がってきてやっと芋が大きくなる。芋は岩盤に当たると横に伸び、つるには花が咲き種が出来る。また、別のつるには「むかご」というパチンコ玉くらいの大きさの実がつき、熟れて落ちてこれが長じて山芋になる。山好きの友人がよくこのむかごを取ってきては持ってきてくれたが、特別美味しいというものでもなかった。この「むかご」が一人前の山芋になるには十年以上かかるそうだが、太くなると人間の太もも位にもなるという。

 イメージ 4最近は、山麓の村中や公園にまで猪が出てくるようになった。いつかゴルフ場で、猪の親子連れに出会ったことがあるし、山麓の公園に行くとあちこちにイノシシが掘り返した地面がある。もともと猪は夜行性なので、夜のうちに出てきて地面を掘り返して、山ミミズや山芋を掘って食べるのだろう。
 地元には明治のころの、故老の面白い話が残っている。

佐賀の脊振村の炭焼きの親子が、山の坂でさかさまになって山芋を掘っていた猪を、尻の方から押さえつけて生け捕りにしたとか。。

  これは「うまいもんを食って、油断するな」と言う故老の戒めだったのかも知れない。

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 一方の「うなぎ」は赤道付近の海に生まれてはるばると日本にやってきて、だんだんに太くなり川に上がってくる。そして夕立が降ったりすると谷川から這い上がってサワガニを食べたりする。
 江戸の川柳では、田舎者が出世することを、ヤマイモとウナギにたとえて「むかごから、かば焼きまでの憂き苦労」と詠んでいる。いくら出世をしても、遂には死んで焼かれてしまう、と言う人の世を皮肉ったのであろう。

 日本人がうなぎを食べるようになったのは古代のことで、万葉集にもうなぎを主題にした歌がある。しかし、ウナギの稚魚は南洋諸島付近の深海で育つそうだし、うなぎを食用にする習慣がニュージーランドのマオリ族からミクロネシアまで分布しているのを考えると、どうやらこの食性は南方系のものではないかと思われる。
 
イメージ 2 うなぎの食べ方の主流はいうまでもなく蒲焼きだが、天明のころ、江戸日本橋に「大久保今助」という人物がいた。彼は芝居の金方、つまり財務管理をその業とし、また道楽にもしていたが、うなぎが大好物で芝居の公演中、毎日うなぎを届けさせていた。ところが出前のうなぎは、どうしても運搬の途中で冷えてしまう。「蒲焼」というものは、焼きたての熱いものあるのが身上なので、どうにかして劇場で熱いうなぎを食べる方法はないものか・・と「大久保」は考え、ふと一策を思いついた。

 つまり、炊きたての熱いご飯の間に焼きたてのうなぎを挟み、一種のサンドウイッチにしようというわけである。飯は蒲焼のための保温材料だったのだ。こんにちの「うな丼」はこんな背景の下に成立した発明品であった。。。

 九州の鹿児島の名産「カルカン饅頭」には山の芋が入っているが、佐賀県でも昔からよく山芋が採れたらしい。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中にもこの山芋の話が出てくる。
佐賀・唐津出身の書生「多々良三平」が苦沙彌(クシャミ)先生におみゃげとして山芋を持ってくる場面がある。

  *「吾輩は猫」の主人の苦沙彌先生宅に泥棒陰士がしのび込む。・・・ 
 「細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付けにした箱が大事そうに置いてある。是は肥前の國は唐津の住人「多々良三平君」が先日帰省したとき御土産に持って来た山の芋である。
  
 何も御存知ない泥棒は、この山芋の入っている箱をさぞ大事なものと思い込み博多帯でくくって盗んでいく。このあと、警察に届出て、巡査さんが入り、苦沙彌先生と奥さんとの盗難届けを書くやりとりが軽妙に続くのである。 その一節。。
 
   *****

イメージ 3「山の芋まで持っていったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
 「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
 「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
 「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津(からつ)から掘って来たって、山の芋が
十二円五十銭もしてたまるもんですか」
「しかしおまえは知らんと言うじゃないか」
 「知りませんわ。知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとはなんだ。まるで論理に合わん。それだか
ら貴様はオタンチン・パレオロガスだと言うんだ」

 「なんですって」
オタンチン・パレオロガス だよ」
 「なんです、そのオタンチン・パレオロガスって言うのは」
「なんでもいい。それから後は・・・俺の着物はいっこう出てこんじゃないか」
 「あとはなんでもようござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かしてちょう
だい」
「意味もなにもあるもんか」
 「教えて下すってもいいじゃありませんか。あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっ
しゃるのね。
 きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」

   ******

 少年の頃、この小説を読んで「オタンチン・パレオロガス」の意味が分からず、大いに悩んだことがある。 辞書を引いてもどこにも載って居ないのである。

   人世、悩みは何時の時代にも尽きないものだ。。

 

(19)へっちぃさん

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      (19) 「へっちぃさん」

 漱石の猫の話が出てきたついでに、その黒猫が死んだ「へっつい」について少々。。
 炊事用のカマドやクドのことを佐賀では「ヘッチイさん」と呼ぶ。「へっつい」と言う言葉は、関西の言葉だそうだが、「吾輩は猫である」で有名な夏目漱石の実際の飼い猫の「猫の死亡通知」にも、へっついと言う言葉が出てくる。

 「辱知猫儀、久々病氣のところ療養相かなわず昨夜いつの間にか、うらの物置のヘツツイの上にて逝去致し候」

 とあるから、「へっつい」と言う言葉は、あながち関西だけの言葉でもないようだ。
 ついでながら、漱石の猫は小説の中では、主人のビールを盗み飲んで酔っ払ってしまい、水がめに落ちて溺れてしまうことになっている。
  ・・・・・・

  * 「吾輩の最後」   小説の本文より
 
イメージ 3 吾輩はクシャミ先生のコップの中のビールを飲んで、酔っ払って水カメに落ちた。
  ・・・
 水からカメのふちまでは4寸余もある。足をのばしても届かない。飛びあがっても上がれない。もがけばガリガリとカメに爪が当たるばかりで、すべれば忽ちぐっともぐる。潜れば苦しいのですぐがりがりをやる。そのうち体が疲れてきた。気は焦るが足はさほど利かなくなる。ついにはもぐるためにカメを掻くのか、掻くために潜るのか自分でも分かりにくくなってきた。・・・

 もうよそう。勝手にするがいい。  
 ガリガリはこれ位にして、前足も後ろ足も頭も尾も自然の力に任せて抵抗しないとにした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだか有難いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか、判然としない。どこにどうしていようが差支えない。ただ楽である。いや楽そのものすら感じ得ない。

 
  日月を切り落とし、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。
  吾輩は死ぬ。 死んでこの太平を得る。
  太平は死ななければ得られぬ。
  南無阿弥陀仏々々々々々々。 有難い々々々。

   ・・・・・
* 漱石の黒猫の死に際して松根東洋城が俳句仲間の高浜虚子に対して電報をうった。 これに対して、虚子も返電を打っている。
 
     センセイノネコガシニタルヨザムカナ    東洋城 
 
     ワガハイノカイミョウモナキススキカナ    虚子

 猫がへっついの上で死ぬとそれまで冷淡だった漱石の妻の鏡子さんが、わざわざその猫の死に様を見に行き、庭の一隅に墓標を立てて、何か書いてくださいと漱石に頼んだ。
 そこで漱石は表に「猫の墓」と書き、裏に「この下に稲妻起こる宵あらん」と書きつけた。漱石の四女だった「愛子」さんが墓標の横にガラスビンを二つ置いて、萩の花をさし、猫に供えた茶碗の水を飲んだ。(*どうしてかなぁ?)
 奥さんは花も水も毎日取り替え、命日には鮭とかつお節を供えた。しかし、そのうちいつの間にか庭までは出てこなくなり、茶の間のたんすの上に置くようになってしまった。。。
 
 イメージ 1← 「猫の墓」 

    漱石山房に残るねこ塚。
   漱石没後40年の1953年の撮影。
    モンペ姿の小学生が珍しいですね。


 ちなみに「へっつい」のことを京都地方では「おくどさん」と呼ぶそうだ。今の佐賀では「へっつい」も「くど」も「かまど」もみんな同じように使われている。

 母の実家は農家だったが、里帰りで盆暮れにはよく連れて行って貰った。昔の農家では、門口を入るとすぐに広い土間があり、そのまま裏口の川端に続いている。その土間の右手に座敷や居間の部屋があり、左手にヘッチイさんが鎮座しているいわゆる「釜屋」がある。釜屋とはいわば炊事場とでもいうべきか。。


  「釜屋」は、もともと牛馬の食べ物を煮る七升鍋、飯炊き用の羽釜、煮しめ物やみそ汁用の鍋や茶釜用の大小のカマドが別々に並んでいた。これらのへっちいさんは赤土をこねて作られているが、これは縄文・弥生時代からのカマドの構造で、シランの子供の頃の母の実家では大釜用と羽釜や鍋用のカマドが全部一つになっており、真ん中に茶沸かし用の茶釜のくどがついていた。中間の中釜を使うときは、鉄の鋳物の「釜輪」を段々に重ねて焚くのである。

 焚き物は山村では芝や薪だが、平野部では主に稲藁や麦わらを燃やしていたが、そのほか割れ木や豆ガラ、など燃えるものはなんでも使った。炊事が終わり、燃えカスの「オキ」が出来るとこれを火消しツボに入れて火おこし用の消し炭や自家用の火鉢の木炭にする。

 冬は子供までみんなへっついさんの前に集まって、暖をとる。燃料はただだし、遠慮なくどんどん燃やし、隣近所も遠慮なく集まってきて世間話に花が咲く。特に子供はよその釜屋でも天下御免で勝手に入り込み、ワラで編んだ円座に座って、降りしきるボタ雪を眺めるのも、中々楽しいものだった。
 どこの農家でも縁の下に飼っている鶏の卵を採ってきて、卵飯や里芋の味噌汁を食べ、サツマイモや餅を藁の中に投げ込んで焼いて食べるのである。子供は冬は火が恋しくて親より早く起きだして、飯を炊く。火鉢の中の埋もれ火から硫黄のついた「つけ木」で火を採り、藁に火を点ける。へっちいや釜の底のは真っ黒いヘグラ(スス)がこびりついていた。

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                      画 ・ 南窓さん


 しかし、我が家は農家ではないので、かまどは鉄製のが二つ並べてあった。梱包用の木箱を壊した板切れをくべて焚く。水道は井戸端に一つしかない、他は洗面、洗濯、風呂水とみんな井戸の水を使う。夏は残りご飯をざるに入れて、井戸の中につるして冷やしたり、井戸水を汲んだバケツに西瓜を冷やして食べたり。。

 幼いころは、電灯は座敷と居間だけしかない、台所の格子窓にまだガラス製のランプや提灯がぶら下げてあったり・・
 そうだ、ライオン歯磨きの紙袋と竹製の歯ブラシがが棚の上に置いてあったっけ。。
 今はピカピカのステンレスの時代、泥くさい「へっちいさん」も文化的なきれいなガスレンジに変わってしまった。

     思えばすでに一世紀近く、世の中、変われば変わるものだ。
 
 

(153)ヘクソカズラ

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       (153)  ヘクソカズラとマルバルコウソウ

  秋の野道には、小さくて目立たない可愛い花がいろいろ咲いて居ます。
   名前は変ですが、ヘクソカズラもそのひとつです。

  
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   「ヘクソカズラ」はアカネ科のつる性の多年草で、小さいのであまり気にも留めませんが、8月から9月にかけて道端などによく見かけます。

 「屁糞かずら」とは、なんとも変な名前ですが、花は1センチ足らずのごく小さな可愛い花です。
 葉や茎が臭いからこの名がついたのだそうですが、よくかいでみても、あまり臭みは感じません。
  可愛い花なのに、ヘクソと呼ぶのはちょっと可哀想な気がします。

 別名を「ヤイトバナ」ともいいますが、花の形がお灸をすえているのに似ているからでしょう。
  こちらの名前がまだいいですね。

                            【名前のわりには、かわいい花です】 

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   万葉集に一首だけ登場しますので、その頃から繁茂していたと思えます。
    
      かわらふじに 延ひおほとれる屎葛(くそかづら)
          絶ゆることなく宮仕えせむ                   高宮王



      ○ (マルバルコウソウ・丸葉瑠紅草)


  「マルバルコウソウ」はヒルガオ科・ルコウソウ属の一年草で、中央アメリカの原産。
  ヘクソカズラと同じように、塀や他の草木に巻き付いて生育しています。

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 「マルバルコウソウ」は夏から秋にかけて、朝顔に似たラッパ状の1センチあまりの小さな花を次から次へに咲かせます。 花の色は朱赤色で先が五つに裂け、中心部は黄色くなっていますが、日花なので夕方にはしぼんでしまいます。

 
              小さい花ですが、朱色なのでヘクソカズラよりは目立つようです。

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 *今日も抜けるような澄んだ青空が広がって居ます。
   いつもの農協直売所からイオンへ買い出しのハシゴです。
   雲一つない青空のもと、青い筑紫山脈の山並みがくっきりと浮かんでいました。
   稲刈りもどうやら始まったようです。。


(154)秋の野の花

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       (154) 「秋の野の花」


  秋の野原には、小さい花がいっぱいです。

   「小さい秋みつけた」  サトーハチロー 作詞

       誰かさんが 誰かさんが
       誰かさんが みつけた
       ちいさい秋  ちいさい秋
        ちいさい秋 みつけた
 
       めかくし鬼さん 手のなる方へ
       すましたお耳に かすかにしみた
       よんでる口笛 もずの声
       ちいさい秋  ちいさい秋
         ちいさい秋 みつけた

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 *   「ツユクサ」
 
  「露草」は至るところの山野や道端に生えているツユクサ科の一年草です。
 晩夏から初秋にかけて爽やかな藍色の花をつけますが、早朝に咲いて午後には儚く
しぼんでしまうので「露草」の名前がついています。

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 昔はツユクサの花を絞っ汁を染料にしましたが、この染料は水につけるとすぐ落ちてしまうので、花同様に儚いものでした。
 しかしこの水で落ちてしまう性質を利用して、京都の友禅染の下絵を書くのに使わ
れています。
 また、乾燥して解熱や利尿剤として、民間薬にも使われました。
   頭とツユクサは使いようですね。。

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       ↑ 【ツユクサよりも小さな、露の命が見えますか? こんな小さな蟻も居るんですね】 
  
     
          露草も 露の力の 花ひらく    飯田龍太


 *「ニラの花」

             【ニラの小さい花にも造化の妙が見られますね】 

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 「韮・ニラ」はアジア原産のユリ科の多年草で、秋に茎の先端にごく小さい白い花をたくさん咲かせます。
 韮はねぎの一種で、葉をちぎると独特の臭いがありますが、ビタミンAとカロチンをたくさん含んでいて、 消化を助け、風邪の予防にもなるそうです。

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       きはつくの  岡のくくみら  我摘(つ)めど   
          籠(こ)にも満たなふ  背なと摘まさね
                                          万葉集 

                                                          (*くくみらとはニラのことです)


        * 「アキノキリンソウ」

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                   (ミヤマアキノキリンソウ・天山山頂)

 「アキノキリンソウ」は、キク科の多年草で北海道から九州まで広く分布しています。
たいてい里山や山野の日当たりの良いところに生育し、高さは30㌢から80㌢くらい、8月から11月まで房状に1㌢くらいの小さい黄色い花をたくさんつけています。
 以前は、秋の花の代表のように山道などでもよく見られましたが、最近は環境の変化のためか滅多に見られなくなりました。


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(71)もずが枯れ木で・・

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  お早うございます。
  今日はどんよりと雲が広がり、ちょっと肌寒い朝になりました。

                  柿の小枝で小鳥が鳴いて居ました。

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 ○  「もずが枯れ木で」    サトーハチロー

    もずが枯れ木で ないている
    おいらは藁を たいている
    わたびき車は おばぁさん
    コットン水車も 回ってる

    みんな去年と同じだよ
    けれども足んねぇ ものがある
    兄さの薪(まき)割る 音がねぇ
    バッサリ薪(まき)わる 音がねぇ

    兄さは満州へ 行っただよ
    鉄砲が涙で 光っただ
    もずよ 寒いと鳴くがええ
    兄さはもっと 寒いだろ

       百舌よ寒くも 泣くで無え
       兄さはもっと 寒いだぞ


 *この詩は昭和10年に発表されて居ますが、 当時はまだこんな反戦歌でも、そうまで検閲が厳しくはなかったんですね。
  シランはまだ11歳、なんにも知らない小学6年生でした。


          https://youtu.be/IStcz8ixE8w



          

(20)めんこい馬の話

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      (20) めんこい馬の話
  
 戦時中は人間だけでなく、馬や犬まで軍馬、軍用犬として徴用されました。 
家族同様に農耕用の馬を大事にしていた農家にとっては、可愛い黒馬(あお)との別れはどれだけ辛いことだったでしょう。
 
    「めんこい仔馬」   昭和16年・映画「馬」 主題歌・ 高峰秀子 歌
   
           ♪ 藁の上から育ててよ
              今じゃ毛並みも光ってる
              お腹こわすな 風引くな
              オーラ
              元気に高く 嘶(な)いてみろ
              ハイド ハイドウ ないてみな
 
   
                                 (愛犬も応召) 
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 徴用された馬は、軍馬として、各兵科に分かれて飼育されます。
学徒出陣で旧陸軍の「騎兵学校」に入った友人Kの話では、馬種については、乗馬用にはアラブ、サラブ、ギドランがあり、ばん馬用としてはハクニー、アングロノルマン、ペルシュロンなどがあるそうです。

     以下はKが書いた手記からの引用です。
 彼の話によれば、馬は体格別に騎兵、砲兵、重機関銃隊から通信隊までそれぞれに分れ、軽量で軽快な馬は乗馬用として騎兵に、ずんぐりした大柄な馬は荷物を背中に乗せて運ぶための駄馬なので輜重隊に、大きくて鈍重だが力持ちの馬は、重い物物を曳く輓馬(ばん馬用)として、砲兵に配属される。

                               (昭和天皇の愛馬は、純白の白雪号でした)
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 また、軍馬は性別でも、牡馬,牝馬と、牡馬を去勢した「セン馬」の三つに分かれている。軍隊では、原則的には牡馬はみんな去勢されて「セン馬」になるので、牡馬そのものはいない。だからもともとは馬の中では牡馬が一番気が荒く、次いで牝馬、去勢されたセン馬が一番おとなしいのだが、牡馬の居ない軍馬の中では牝馬が一番気が荒いということになる。

 ところが、セン馬の中には去勢がうまく行かなかったのがいて、外見では分らないので、この馬が兵隊泣かせである。うっかりすると、演習中に発情した雌馬に急に立ち上がってのしかかってくる。止めようとすると、いきり立って口から泡を吹いて暴れまわるから困る。。これが列をなして並んでいる馬全体に伝播すると、もう収拾がつかない。一斉に野外に逃げ出した馬を捕まえるのはほんとに大変なのだそうです。
 
 彼の騎兵学校の同期生の中にも、馬のために無残な犠牲者が出たそうです。
 彼は、同期生たちが演習の為に出かけている留守中に、馬の手入れをしていたが、馬を厩(うまや)に引き入れようとしたとき、急に暴れだした。必死で制止しようとしたが力及ばず、手綱を握ったまま引きずられたようだ。手綱を放せばよかったのだが、彼は放さなかった。責任感が人一倍旺盛だったのだろう。彼は30m位引きずられて、頭を石に打ち付けて死んだ。その場には軍帽や営内靴が散らばっていたという。彼は卒業を待たず、見習士官に任ぜられたが、さぞ無念だっただろう。

 もう一人は、騎兵学校の期末試験でカンニングをして見つかった。
その夜、彼は消灯後の真夜中に、敷布を腹に巻いて寝台上に端座し、枕を尻にあてて銃剣で胸を突き刺して倒れていた。不寝番が発見したが,幸か不幸か銃剣は心臓をそれていた。内々に済ませば、重謹慎くらいの処罰で済んだであろうが、彼の純真さがそれを許さなかったのであろう。
 詳しい事情は分からなかったが、一命は取り留めて、二等兵に降格され原隊に戻ったらしい。こんなことが無ければ、きっと優秀な士官になっただろうに、と彼を惜しむ声が多かったという。

              (昭和15年、軍隊に納める縄を運搬)
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 紫蘭は歩兵生徒隊で、馬は扱わなかったので、また、さきほどの学友Kから聞いた話で恐縮だが、馬を持つ兵科では朝が早い。朝飯前に点呼があり、馬の運動、手入れ、厩(うまや)の掃除、飼葉つけ、そのあと、内務斑(兵舎内)の掃除から食事の準備がある。
寒風吹きさらしの営庭での馬の手入れはつらい。
 何しろ入隊したその日に、素手で馬糞を持ってこねばならない。それに入隊した始めのうちは、まず馬を厩から連れ出すのが大変だ、中には噛んだり蹴ったりする馬がいる。水を飲ませて、注意深く、脚を藁たばで摩擦し、金櫛や馬ブラシで馬体を磨く。次は馬のヒズメ洗い。

   氷の下から汲んできた水なので手がちぎれそうに痛い。たまらず馬の脇の下に手を入れて温める。それでも温まらないときは、積み上げられた「ポロ」の中に手を突っ込む。「ポロ」とは生産された?馬の糞尿で自然に発酵していて、湯気を立てているから暖かい)もし、古参兵に見つかったら、ビンタが飛ぶが、背に腹は代えられないのである。ヒヅメの裏を手入れする鉄ヘラは寒さで凍り付いて居て、油を塗る時はもう手に感覚がが無くなっているのだ。

 そのあとは、厩の掃除だ。新しい馬糞はホカホカと温かいが、古い糞は凍り付いている。もちろん手でつかみ、古い藁を外に干す。一晩中、馬が踏みつけた寝藁は、尿と糞が混ざってずっしりと重い。こんなことを続けていると手が荒れてバサバサになリ、ヒビ割れして血がにじむ。そのアカギレの中に糞尿やごみが入って、腫れあがり、とても人前では出せない様な汚い手になってしまう。面会時に、こんな手を見たらさぞ母親が心配するだろうと、面会の前日には、歯ブラシで赤ギレの中の垢を落としてきれいにするが、又すぐに血がにじんでくる。面会の時には、母が持ってきたボタモチを,箸ではもどかしくて、その汚い手でつかんで口に押し込むようにして食べたものだ。

 当時は辛かったが今では懐かしい思い出である。
 終戦後、復学したとき先生が「君は変わったね」と言った。騎兵の時のつらい経験がその後の人生に大変役に立ったと思う。。  と、
Kは述懐している。

        ヒビと血の手でかきこみし母の味      

* 彼はその後、陸軍中野学校を卒業して、情報将校として任務に就いたが、内地に勤務していて終戦になった。もし、海外に赴任していたら、一期先輩の有名な小野田少尉のように、30年間もジャングルに潜伏して一人でゲリラ戦を戦ったに違いない。

 彼は葉隠れ武士の血をひいた、古武士のような一徹な性格だったが、惜しくも数年前に他界してしまった。 もう二度と、うま酒を酌み交わして往時を語ることはできないのだ。。

  ・・・・          
 *朝夕は急に肌寒くなりました。コタツを出すにはちと早いし、面倒だし。。
   座布団を膝に抱えてパソコンを打って居ます。  トホホー (~~:)
  




(21)馬小屋

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            (21)  「馬小屋」

 紫蘭が予備士官学校に居たとき、砲兵生徒隊でも脱走事件がありました。馬の手入れがよほど辛かったのでしょうか。
 ある夜、演習で疲れ果てて就寝中に、突然非常呼集のラッパが鳴り響き、歩兵生徒隊の我々まで叩き起こされました。ただちに完全武装をして、脱走した候補生の捜索に出かけましたが、真冬の凍てついた広大な「高師が原」
の演習場を夜が明けるまで探しましたが見つかりません。
 あとで、区隊長の話では、寝台の上に「伊良子岬の藻屑となる」、と言う書置きが残っていたそうです。伊良子岬は豊橋の南、渥美半島の先端にあります。
 
 その後の彼の消息も生死も分りません。

 このように歩兵砲隊や通信隊、砲兵などに行った友達から、紫蘭はいろいろと馬のことで苦労した話を戦後に聞いたことがあります。 
 しかし、苦労した一方で、馬がとても可愛くて「今でも戦友以上に懐かしい」とよく聞きました。彼らは戦後、農家の馬を借りて乗ってみたりしていました。 よほど馬が懐かしかったのでしょう。。
   
 昔の農家は牛や馬の力を借りて田畑を耕しました。田舎の少年にとっては、犬猫同様にもっとも親しい動物だったのです。
 
                        (馬は農家の大事な働き手でした)
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 昭和16年封切の映画「馬」は山本嘉次郎監督の東宝映画で、家族同様に育てた馬の話でしたが、主演の高峰秀子のお下げ髪がとても可愛かったのを覚えています。
 この映画の主題歌「めんこい仔馬」も、サトウハチローの歌いやすい歌詞と軽快なメロデーで、映画同様に大ヒットしました。
           
        
♪濡れた仔馬の たて髪を
          撫でりゃ両手に 朝の露
          呼べば答えてめんこいぞ オーラ
          駆けて行こかよ 丘の道
          ハイド ハイドウ 丘の道
 
          藁の上から 育ててよ
          今じゃ毛並も 光ってる
          お腹こわすな風邪ひくな オーラ
          元気に高く ないてみろ
          ハイド ハイドウ ないてみろ



     「馬小屋」

 軍隊では、馬小屋のことを「厩・うまや」と言う。厩はいわば馬の長屋で、長さ60m、幅8mの瓦ぶきでした。 
 床はセメントで真ん中に4mほどの通路があり、両側が馬房と言う馬の個室になっています。個室と言っても高さ1mくらいの所に約2m間隔で横木が通路に直角に渡されているだけです。部屋の外側には戸があり、その下に馬をつなぐ環と飼い葉桶がある。だから、馬を馬房に入れたとき、馬の尻は通路の方に向くことになります。

 軍隊では厩(うまや)といいますが、当地の農家は一般に「馬小屋」と呼んで居ました。 東北地方では・むかしは家の土間に馬を飼い、家族同様の扱いを最近までしてきたようです。芭蕉はこんな農家に泊まって「奥の細道」のなかに一句詠んでいます。馬の放尿する音が枕もとまで届くほど、間近な存在だったのです。

        のみしらみ 馬の屎(ばり)する 枕もと      芭蕉

 *屎は(しと)と読むこともありますが、東北地方では尿のことをバリというらしいです。

 当地の農家には東北地方のように同じ棟の土間ではなく、どの農家にも別棟の独立した馬小屋がありました。しかし、住まいと隣り合わせなので、糞尿にたかるハエが多いのが困りものです。子供のころ、母の実家に行っていざ食事の時間になると、もう蠅がいっぱい食べ物にたかってきて、それを追い払いながら食べねばならないので一苦労。でも、農家の人は一向に平気で、ハエがついていてもなんのその、そのままむしゃむしゃ食べるので子供心に呆れたものです。

 馬小屋は草葺きの四面が荒壁造りで、間口1m半の出入り口に丸太の「厩栓棒・ません坊」が二本はめてあります。その中は土間で、真ん中に尿溜めの「カメ」が埋めてあり、馬は厚く敷いた藁の上に寝たり排便したりします。新しい藁と取りかえた藁は、馬小屋の前に積んで発酵させて肥料にします。これを「厩肥・うまんこえ」と言って、昔は稲造りには欠かせない大事な肥料でした。積まれた厩肥が発酵すると湯気が立ち、赤い毒々しいキノコが生えてきます。

 農作業に出る以外は馬は、いつも馬小屋から首を出しています。小屋の広さは3m四方でちょうど方丈の間ですが、中学生たちは馬のことを「カモノチョウメイ」ばい・・と言っていましたが、恐らく学校で習ったっ鴨長明の「方丈記」からの連想だったのでしょう。

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                                            (画・南窓さん)


 方丈(3m四方)の小屋では、大きい図体の馬には狭くてさぞ窮屈だろうと同情したくなりますが、馬も時には「ませんぼう」が外れて馬小屋を飛び出すことがあります。自由になった嬉しさからか、馬は家々の前庭を駆け抜けて田畑に走って行きます。

 家人が「馬がちん逃げた!」と叫ぶと家々から男衆が飛び出て馬ををとらえようとあとを追うのです。子供たちは馬に蹴られないように家にひきこもるが、村中大騒動で、面白いやら怖いやら。。
 思う存分走り回った馬はそのうち満足したのか疲れたのか、トコトコと自分の方丈の間に戻ってくる。そして馬小屋の柱に吊り下げられた「飼い葉桶」の餌をウマそうにパクついて、逃走劇は一件落着するのです。



  *まだ10月も初旬だというのに、今年は肌寒いですね。
    暑かったり、寒かったり、ほんとに異常気象です。
    朝のうち、食料品の買い出しに行きました。
    夜は飲み会です。
   



(22) 厠の話

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       (22) 「厠の話」

 (厩・うまや)に続いて今度は(厠・かわや)の話である。
 ちょっとクサイ話なので恐縮だが、人間が生きる為には食べて,且つ出すこと
が絶対必要条件だから、生きている間はどうしてもトイレが必要になる。
 紀元前2,200年にはイラク東部にはもう水洗トイレがあったというし、日本でも紀
元700年代の藤原京の遺跡からもトイレの遺構が見つかっている。

 「厠」という言葉はもちろん便所の別名だが、遠く奈良時代から使われて居たようだ。古事記にも、水の流れる溝の上に板を渡して使っていた、という記述があるから、(川の上にかけ渡した屋)という意味で、「厠」はもともと「川屋」だったのだろう。 今の山小屋のトイレはホテル並みに清潔な水洗便所だそうだからいいが、20年も前の高山の山小屋のトイレはひどかった。

 夜間起きだして、懐中電灯を頼りに野外の山道を少したどると、谷川のそばにつく。下の方を見ても真っ暗でなんにも見えない。用を足して、しばらくしてから遥か下の方でポチャンと落ちた音がする。谷川を利用した、いわば水洗便所のハシリである。山小屋でなくても戦前、中学の修学旅行で泊まった奈良の吉野山の宿屋のトイレも同じような天然トイレだった。同窓会で80年前の修学旅行の話になると、決まってこの天然水洗トイレのことが出てくる。後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)よりも、満開の吉野の千本桜よりも、このトイレのことがよほど印象深かったのだろう。

  中世のヨーロッパではおまる式の便器が主に用いられたそうだ。そしてたまった屎尿は、窓の外にポイ捨てされて居たという。高いところから汚水が飛んでくるので「フライイング・トイレ」と言うそうだ。だから街を歩くのもうっかりできない、油断大敵、何時空から汚物が飛んでくるかわからないのだ。その為にカカトの高いハイヒールが作られ、街を歩く人は汚物から身を守るために、幅の広い外套を着ていたと、言われている。 ほんとかどうだか。。

 昔の軍隊では、トイレのことを「厠・かわや」と呼んでいた。

 演習中でも 「区隊長殿!紫蘭候補生は厠に行きたくあります!」と叫ぶと「よーし!」と言う、区隊長の言葉が返ってくる。。という具合である。もちろんトイレは汲み取り式で下の便槽が丸見え、真冬には下から吹き上げる寒風で尻が縮み上がったものだ。おまけに軍隊のトイレには、古参兵からいじめられた新兵が首をくくって自殺し、真夜中になると下の便槽からニューッと幽霊の手が伸びてきて、便槽に引きずり込む。。などと言う怪談話が残って
いて、深夜などは寒さのせいばかりでなく、怖くて金玉が縮みあがる思いがしたものだ。

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               (勿論、そのころは臭突はなかった)

 戦時中、ビルマの戦場にあって、当時のビルマの民衆と生活を共にした兵士のトイレについての手記がある。・・・

 *ビルマ(今のミャンマー)の便所はたいてい別棟で、庭の隅とかに高床式の仮小屋のように建ててある。そこに娘さんたちが2,3人並んで一緒にしゃべりながら用を足している風景をよく見かけた。高床式の下では豚が待ち受けていて、用が済んだらきれいに清掃(?)してくれる。便所は開け放しだが、娘さんたちは案外恥ずかしがらない。
 駅の便所などは地上にたくさんの穴をあけ、それに横板を渡しただけのもので、日本兵は照れ臭がっていたが、何が恥ずかしいかは夫々の生活習慣によって違う事なのだろう。
 
 便所では紙を使はない。長さ20㌢、幅1、5㌢位の竹べらを作って置いてあり、これでピンと刎ねるのである。これだけは日本人には真似が出来ない。そもそも出てくる代物が違うのだ。日本人の物のようにベトベトしておらず、よくこなれてコロコロと兎の糞のように切れ味(?)が良い。日本人のは不消化物が混じっていてキメが粗い。野糞を見れば日本人かどうかすぐ判るのである。
 だが馬鹿にしてはいけない。日本でも昔は片田舎では尻ふきに古縄や柿の葉を使っている所があったし、ビルマ人にしてみればそれなりに合理的で経済的なやり方なのである。
 
 ビルマ人は毎日、時には日に何回も水浴をして体を清潔に保っている。水浴用の古いロンジン(着物)を着て体の隅々まで洗う。若い娘さんが井戸端で水浴をしていると兵隊たちが何とかしてハダカを見てやろうと覗きにやってくるが、娘さんたちは器用にロンジンを上げ下げして洗い終わり、体を見せないので兵隊たちはガッカリしてしまうのだった。
     
 もちろん、戦後も70年にもなるから、ビルマのトイレ事情も大きく変わっているだろうが、十数年前に中国を旅行した時も、似たような風景を見た。公衆便所なのに、トイレには仕切りもドアもなく、あっけらかんとしているので、日本の女性の観光客は戸惑うばかりだ。ご主人が風呂敷を広げて、うしろから臨時の目隠しをしてあげたり、大変だった。
 話では、中国の奥地に行けばビルマ同様、高床式のトイレの下にはブタが待ち構えていて落ちてくる汚物を餌とし、またブタが垂れ流した屎尿が発酵してメタンガスとなり、電球一個くらいの発電量になるという話だった。
 
 日本の古い民家では、母屋の裏に中庭があり、その先にトイレがあった。住まいと離れているのは衛生上の問題と、臭気が生活の場に及ばせないためだろう。その中庭のトイレまでは長い吹きさらしの廊下があって、庭に面して手水鉢があった。手洗い場である。
 勿論便所は汲み取り式なので、月に一度位は汲み取りを頼まねばならない。今のように汲み取りでもバキューム式のポンプ車がない時代、大八車に肥桶を何個も積んだ近郊の百姓さんが、月一くらいで汲み取りにやってくる。くみ取った屎尿はみんな、田畑の肥料になるのである。だから、汲み取り賃を払うどころか、時には汲み取りのお礼として、美味しい草餅を貰ったりしたものである。


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                                         (九年庵/俯瞰図・南窓さんの画)

 佐賀市郊外の山麓にある伊丹別荘の厠は高級だ。ここは明治大正時代の豪商「伊丹弥太郎氏」が財を傾けて、九年間の歳月を費やして作った別荘で通称「九年庵」と呼ばれ、敷地三千坪、苔の種類は40種におよび、京都の苔寺にも劣らない苔庭と見事な紅葉樹に囲まれた数奇屋造りの建物である。いまは九年庵の名前にちなみ、11月の紅葉の季節に九日間だけ一般に解放されているが、ここの厠が面白い。

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 母屋からは渡り廊下でつながっているが、部屋の中には白木づくりの丸桶に青杉の葉がこんもりと敷き詰められて床に置かれているそうだ。桶には底がなく、汚水がその下に置いてある青磁の筒カメにたまるという仕掛けである。用を足せば、水分が杉の葉の間から下に滴り落ちて、チリンチリンと妙音を発するという。そのカメは下から取り出して杉の葉もろとも始末するので、汲み取りはしない。

 しかし、九年庵の厠付近は立ち入り禁止となっていて、九日間の参観期間でも近寄れないから、実際にどんな仕掛けなのか覗くことが出来ないのがザンネンだ。。 話では、昔の大名や宮中の畳み敷の厠はこんな造りだったようだ。
 昔の日本人は、汚い厠までこんなに美化してしまうのだと、つくづく感心せざるを得ない。

 昭和になってもまだ汲み取りや落とし紙には古雑誌や新聞紙を破って使ったりしていたのだが、今は水洗便所の全盛時代、お尻まできれいに洗ってくれるとは、世の中変われば変わるものである。




(155)棉の花

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                         (155) 棉の花

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                                       【やわらかい淡黄色の棉の花】    
 
 
  「棉・わた」はアオイ科の植物で、紀元前2500年ごろからインドのインダス地方で栽培されていました。小学校の地図の時間に、エジプト、インドが綿の主産地と教わりました。
  綿の名の由来は、むかし「腸」のことを「わた」と呼んでいましたが、衣類の
中にこの綿毛を詰めることから、体の「腸」にみなして「わた」というな名前がついたそうです。

 綿は5月に蒔いた種から、9月から10月にかけて花が咲きます。
 花は薄いクリーム色で、とても清楚な感じがします。


                      【はじめは白い色です】
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 綿の花は一日花で、酔芙蓉と同じく、朝のうちは白か淡いクリーム色の花ですが、夕方には次第に赤くなって、しぼんでしまいます。
 午後になって、紅をさしたようにほんのりと赤くなる頃が一番きれいです。
 花は3~4センチと小さく、葉の中に隠れているのであまり目立ちません。

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      【淡黄色から赤色へと、綿の花の一日が終わります】   
 夕方には、こんなにきれいな赤色に変わります。 
 風前のともし火というか、花の終わりのしばしの輝きです。

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   「綿毛」

     花のあとには、小さなラグビーボールのような緑色の実ができます。

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「グリーンボール」と呼ばれているこの実は、5週間ほどすると茶色に熟してきて、はじけて綿毛に包まれた種子を外に吹き出します。
 このふわふわの綿毛が、布地やフトン綿の原料になります。

             
       【あの可愛い花から、こんなふわふわの綿ができるのです・・】
 

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 蛇足ですが、摘み取った状態までを「棉」といい、中の種を取ったあとのものを「綿」というそうです。
  また「四月一日」と書いた苗字を「わたぬき」さんと読みますが、
これはこの頃に綿入れを脱いで単衣に着替える時節だからで、綿貫、更衣さんも同じく「ワタヌキ」さんです。



  *今日は体育の日ですが、肌寒い曇りの一日。
    肌着を重ね着して震えていました。     

 今年はなり年でないのか、庭の柿の実が10個くらいしかなりません。
 それもカラスめに食われて残りわずか、人間様にもせめて一、二個くらいはと、高枝切りでやっと二つだけ採りました。 数が少ないだけ、大きくておいしかったです。。

       柿もぐと 木にのぼりたる 日和なり
         はろばろとして 背振山見ゆ          中島哀浪

  子供の頃はよく柿の木に登って採りましたが、この年では。。。
  それでなくても、柿の木はもろくて折れやすいのです。。

  明日はゴルフコンペ。 
  仲間も減ったし、体力・気力も限界のようで、「明日はゴルフ!」と昔のようには胸が躍りません。
  そろそろゴルフも年貢の納め時のようです。



(156)金木犀の甘い香り

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    (156) キンモクセイの甘い香り


  朝は冷えこみましたが、日中は日差しが暑いくらいの日本晴れです。
洗濯物を取り入れに二階の物干し台に出たら、爽やかな秋の風に乗ってキンモクセイの甘い香りが漂ってきました。

       胸を広げて、秋の香りをいっぱい吸い込みました。


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 金木犀・キンモクセイ」は中国原産のモクセイ科の常緑小高木です。

 仲秋のころ、黄橙色の香りのいい小さい花を一杯に咲かせ、樹勢も強く大気汚染にも強いので、庭木のほか都市の緑地木としてよく使われて居ます。江戸時代前期の書物にもその名前が出ているので、古くから神社仏閣に植えられていたようです。
 樹高は3~4m、花の甘い香りが秋の深まりを感じさせますが、空気の澄んだところでないと、うまく花を咲かせないそうです。

                【橙色の小さい花がいっぱい】  
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 木犀(モクセイ)という名前は、木の肌の模様が動物の犀(さい)の肌に似ているからだといわれています。橙色のものを「金木犀・キンモクセイ」白い花が咲くのを「銀木犀」といいます。
 この木はとても硬く、そろばんの玉や印鑑、家具などに使われています。


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          木犀の香や年々のきのふけふ    西島麦南

 
  

(23)タヌキの話

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        (23) タヌキの話

   「タヌキ汁」

 昔の昔、2,3人の男が山に焚き木取りに行ったとさ。。。
お昼になったので、焚火を起こして一杯やっていると無性に眠くなってきた。そうしたら夢うつつの中で御姫様に招かれて、八畳の間に絹蒲団にくるまっていい気持で寝ていたところ、一陣の生臭い風が吹いてきた。ハッと目をさましてみると、みんなタヌキのキンタマの上に寝ていたそうである。
 それから「狸のキンタマは八みやー敷」という言葉が出来たそうである。そういえば一杯飲み屋の看板の信楽焼の狸のふぐりは大きい。

 同じ人をだますのでも、キツネよりもタヌキの方が愛敬がある。どこか間抜けた風貌からだからだろうか。時々ワナにかかって狸汁にされるが、実際は臭くてとても食えたものではないそうだ。狸は山里に出没すると思われそうだが、明治の中ごろには、佐賀市のど真ん中の佐賀城の堀端にある雑木林にも棲んでいたそうで、夜になると狸が出てきて味噌がめの味噌を舐めに来ていたという。


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 キツネや狸についての話は、佐賀近郊の「民話」の中にもある。

    「佐賀の民話」

  ① 「キツネとタヌキんのだましあい」

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 むかし、むかし・・
 野狐(やこ)と狸がだまし合いしようとしたばってん、だまし方はいつも狸がうまくて、狐はしょっちゅう負けてばかり居たそうですたい。。 
 そこで狐は「今度こそ、いっちょう勝ってくれよう」と、とても寒い日に尻尾を川のなかにつけていたちゅう話です。
 そいぎー(そしたら)狸が「おれも負けるもんか」と尻尾を川につけました。


 ところが寒か時期じゃけん、川に氷が張って固まりました。狐は尻尾があまり太うなかけん、自分で手で握って出しましたが、狸の尻尾は先が太く、どうしても氷から抜けません。
 キャンキヤン(?)鳴いていると狐が「ほら、今日はおれがお前を負かしたぞ、今日こそ勝ってやろうと思っていたとバイ。「助けてくれ」と言うなら、助けてやろうじゃないかと言うて、氷をバチバチと割って助けてやりました。狸は「降参、降参」と言うて逃げ帰りました・・ちゅう話ですたい。

    ハハハー、これでおしみゃー。。。  (徳島七郎さん)
               
  
  ② 「タヌキのキンタマ八畳敷き」
 昔、山さい(山へ)仕事しゃあ(仕事をしに)行たて。
 
 そいぎなと(そうすると)日暮らしして帰り道、間違うてなたぁ(間違ってですね)、わからんじゃったて。そいぎ、どこさい(そしたら、どこえ)行くじゃいきゃんて(どっちへ行ったらよかろうかと)迷うとったぎ、向こうに明かりのちらちらしれよっ(見えている)家のあったて。
 
 そいぎなと(そうすると)行くかにゃーと思うて行たてっじゃん(行ったという話しです)、そして、「山さい、来たばってん(来たけれど)、日の暮れて道のわからんごとなったけん、今夜一晩泊めてくれんかい」
「そいは、おまいしゃーが(お前さえ)良かないば(良いなら)、泊まってよかくさい(よかよー)」
 と、爺さんの一人おいなったもんやっかんた。(ひとり居たもようです)そして洗濯どんしないよったて。(洗濯でもしていたらしいです・・)
 そいぎ、我がも着物のそぜとったけん(そしたら、自分も着物がくたびれて破れていたので・・)、針ば借りて縫うて、そして針ばたたみのとけ(ところに)ブスッて針ばちいたぎ(針をプスーッと突いたら)、畳のピチピチ揺れたて。。

イメージ 3 おかしかにゃー(おかしいなぁ)、と思うて、そのない寝て(それなり寝て)、そしてあくる朝起きてみたいば、だいでん(誰も)おらんじゃったて。
 そしてわが(自分は)、のぼっきゃーの(野っぱらの)狸のきんたん(金玉)の上に寝とったて・・・
 そいけん、「狸のきんたん・八みゃー敷き(八畳敷き)」て言うもようたんた(言うらしいですよ、あなた)。。。
    
 そがん言うぎにやーと、信楽焼きの狸ば見たっちゃい、狸のあいは太か!ですもんなぁー。。。

 

  (そういえば、信楽焼きの狸を見ても、狸のあれは大きいですもんねー) 
    
 **タヌキのあの大きなものは、金細工の際に、タヌキの毛皮で金を延ばすとよく延びるとされていたからだそうですよー。ですから、狸の信楽焼きは福を呼ぶものして、庭先に飾られるようになったのだそうです。
  
      まさに金、金、さまさまですね。。
      またあした・・     
 

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