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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(153)朝顔

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    (153) 「朝顔」
 
 「アサガオ・朝顔」はヒルガオ科の一年生つる草で、中国南部の山麓あたりが原産だろうと推測されています。日本には1200年前、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初で、江戸時代以降観賞用として広く栽培されています
 
 九州の暖地に自生している「野朝顔」は日本に渡来した当時の朝顔に似て花が小さく、色も日本らしく淡泊な薄青です。
 
    「野朝顔」
 
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   元種は藍色でしたが、最近は外来種も多く、様々な色の朝顔が出回っています。
 
    「琉球朝顔」
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  「琉球朝顔」はノアサガオの園芸種で草の勢いがとても強くて、つたを伸ばして家や塀を覆い尽くすように茂ります。 葉も朝顔よりも大きくて、紫色の花がいっぱい咲いて、実に壮観です。

 花は時刻の変化と気温によって花の色が変化し、早朝の青から昼は紫色、夕方はピンクと次第に変って行きます。 また花期も長く、夏から秋の終わりまで咲いています。
 
 
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           朝顔や一輪深き淵の色    蕪村
 
      最近は外来種の「セイヨウアサガオ」が多く出回って、花色も多彩です。
 
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                           朝顔につるべとられてもらい水   加賀の千代女
   
 

(73)8月15日の反乱

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         (73) 8月15日の反乱・宮城事件
  
 昭和20年8月15日、日本は無条件降伏をして戦争は終わった。
 その8月15日、東京周辺ではあくまで本土決戦を叫ぶ将兵たちで混乱を極めた。
 その中で起こったのが、近衛師団による反乱、いわゆる宮城事件であった。
 (*宮城は皇居の事です、宮城県ではありませんので、念のため)
 
 豊橋予備士第一中隊で同期のS見習士官は昭和20年6月に卒業したのち、近衛師団・第二連隊の「連隊旗手室」に配属となり、8月15日の終戦の日には宮城二重橋近くの近衛歩兵第2連隊の衛兵指令所にいた。
  以下は彼の当時の回顧文である。
  ・・・・・
 
  「近衛師団命令」
 8月15日午前零時を少し過ぎたころ非常呼集が伝達され、完全武装の近衛連隊は直ちに乾門から宮城内へと進軍、宮城を占領してしまった。

 この作戦は本土決戦の最後の作戦としてひそかに練られたもので、二重橋、大手門、半蔵門、桜田門などすべての出入り口は第一から第四までの大隊によって固められ、宮城と外部との連絡を完全に遮断、皇宮警察の武装解除、宮城内要衝への兵員・火器の配置など、徹底抗戦の布陣は闇夜の中に粛然としかも迅速に行われたのである。
 
                               (当時の宮城内、概略図)   近衛師団
 
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 また、これとは別に各大隊から選抜された数個中隊は宮内省を包囲し、陛下の玉音盤を奪取すべく行動を開始したのであった。この時の宮城占領の命令は「近作命甲大584号」 というもので、内容は次のようなものであった。
 
   「近衛命令」
 一、師団ハ敵ノ謀略ヲ破砕、天皇陛下ヲ奉持シ、我ガ国体ヲ護持セントス
 二、近歩一長ハソノ主力ヲ以テ東第二、東第三営庭付近ヲ占領シ、外周ニ対シ宮城ヲ保護シ奉ルベシ。 マタ約一個中隊ヲ以テ東京放送局ヲ占領シ放送ヲ封止スベシ
 三、近衛二長ハ主力ヲ以テ宮城吹上地区ヲ外周ニ対シ守護シ奉ルベシ
  五、近衛七長ハ主力ヲ以ッテ二重橋前、宮城外周ヲ遮断スベシ   
     ・・・・・   途中略、
 九、近衛機砲大隊長ハ現体制ヲ以ッテ宮城ヲ奉護スベシ
 十、近衛一通長ハ宮城~師団司令部間ヲ除ク宮城通信網ヲ遮断スベシ
 十一、余は師団司令部ニアリ。。。というものであった。
 
 このとき出された「近衛師団命令」は、森師団長本人のものではなく実はニセ物であった。
 この騒乱の首謀者の一人・畑中少佐は森師団長が命令を出すことを拒絶したため無言のまま拳銃を発射、そのあと上原大尉が軍刀を以て斬殺したのである。同席していた白石大尉も同じく斬殺された。
 
 畑中少佐らはしばし瞑目、挙手の礼をして師団長室を退出し、古賀参謀がかねて練っていた師団命令を正式に作成、畑中少佐が森中将を射殺したその手で師団長の印を押して認証した。師団長殺害を聞かされた古賀参謀長と石原参謀の衝撃は大きかったが、彼らもまたかねての盟約に忠実な若者であったのである。

  S見習士官所属の近衛歩兵第二連隊ではこの師団命令を連隊副官・曽我大尉が受領し、芳賀第二連隊長に伝達されたが、曽我副官はこの命令がニセ物であり陰謀であるとは知らなかった。連隊長の方は薄々陰謀であるとは気付いたが、これはあくまでも玉音放送の阻止のためで、陰謀は陰謀でもこれが陸軍に対する反乱であり、引いては国家に対する反乱であるとは毛頭考えて居なかった。
  
 近衛師団の支配権はごくわずかの時間ではあったが、このように畑中少佐ら反逆者の手に渡ってしまったのである。
  これがわが所属部隊の「近衛歩兵第二連隊」が宮城を占拠した真相である。
 
  「玉音盤奪取ならず・・」

 緊迫のうちに時は刻一刻と過ぎ、東の空は早や白み始めていたが、待ちわびていた玉音盤捜索隊の報告は「玉音盤未ダ発見サレズ」と言うものばかりで、連隊本部は焦燥と重苦しさに包まれていた。
 
 近衛連隊は日常、宮城を警護しているるし、私もかねて空襲警報下の「賢所」の警護に任じていたので宮城内の案内は熟知していた。然しその近衛兵であっても宮内省や御座所の内部については全く不案内であった。しかも宮殿焼失後、応急的に改修された建物は複雑な構造になって居り、加えて式部職、内匠職、内舎人職など、聞きなれない室名に戸惑うばかりであったという。
 
 捜索隊が血眼で探していた玉音盤は、無条件降伏を国民に告げる証書を天皇自らが朗読され、それを録音したものであった。この玉音放送が15日正午に行われることは14日に阿南陸軍大臣の名ですでに全軍に打電されていた。
 玉音盤を奪取し、これに代えて「神国日本は絶対不滅である。本土決戦に奮起せよ!」と、全軍・全国民に呼びかける計画だったが、その玉音盤の行方は全く判らなかった。
 かくて、宮城を占拠して徹底抗戦を呼びかけんとした、近衛師団の計画はあえなく挫折してしまったのである。。
 
 玉音盤奪取に失敗した首謀者の畑中少佐は午前11時、二重橋前の芝生の上で自決し、古賀参謀は正午に玉音放送中に近衛第一師団司令部に置かれていた森師団長の遺体の前で拳銃と軍刀を以て自殺して、近衛連隊の反乱は終わった。
 
 時の阿南陸軍大臣は、15日早朝官舎に於いて割腹自殺し、正午には全国に終戦の詔勅が放送されてついに日本の戦いは終わった。
 敗戦後の混乱の中で、国家反逆ともいえる宮城事件の当事者の責任の訴追が行われることはなかった。
      ・・・・・・

  * Sさんは新潟の出身、母校の豊橋予備士では第一中隊第4区隊に所属されていた。
 終戦後10月に復員、筑波大付属小学校にて教職に就かれ、定年後は家郷に戻って教育研究所を設立して長い間青少年の教育に携わられました。
 
 

 

(154)イモネノホシアサガオ

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     (154) 「イモネノホシアサガオ」

 夏の野原を歩いていると、きれいな藤色の小型の朝顔の花がいっぱい咲いているのに出会います
   「イモネノホシアサガオ」です。
 
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 「芋根の星朝顔・イモネノホシアサガオ」はヒルガオ科のつる性多年草で、アメリカ南部からメキシコにかけての原産です。
 地下茎がイモのように大きくなるので、「芋根の・・」という名前がついているのでしょう。
 
 5月から10月の長い間、草原や道端に生育し、ほかの植物を覆って繁茂しています。
 種子とともに猛烈な勢いで繁殖して、河岸や堤防などを覆ってしまいます。
 花はきれいですが、はた迷惑な朝顔かもしれませんね。
 
 
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 葉は三裂していて、花は4センチぐらいのやや小さめの朝顔ですが、爽やかな藤色をしています。
ふつうの朝顔は中心部が白いのが多いですが、これは花芯部が濃い紫色になっているのが特徴です。
 
 
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 *今日は晴れるかと思ったら、また降りだしました。
  蒸し暑くて、まるで梅雨末期の症状です。そのうち真夏がやってくるかも。。
 
 午前中、雨どいの掃除、屋根に上ったり梯子をかけたりして大奮闘。
 この間から雨どいからざぁざぁと滝のように水が落ちるのでおかしいなぁ、と思っていたらやはりタテドイの穴が詰まっていた。
 落葉のクズにセメント瓦の細かい砂が固まって立てトイの穴をふさいでいたのだ。
 これじゃ雨水があふれるのはもっともだぁ、もっともだ。。
 
 小雨が降りだしたが、梯子の上では止めるにやめられず、不屈の精神でついに完成。
 さすが帝国軍人の端くれだと自画自賛。(大げさな。。)
 やれやれ、これでぐっすり昼寝も出来るというものだ。。

 さて、またブログに8月15日の記事でも書こうかしらん。。
 

 

(155)カンナ

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        (155)  カンナ
 
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  カンナは、南北アメリカの原産のカンナ科の多年草球根植物で、日本には江戸初期に渡来し、観賞用として全国に広まりました。
 江戸時代には「檀特・ダントク」と呼ばれていましたが、これは原種に近いもので、花は貧弱でした。
 
 最近のカンナは明治以降改良された外来種で、夏から秋にかけて色鮮やかな花を咲かせます。
 花は7月から11月まで咲き続け、赤、橙、黄、白、絞りなど色もさまざまです。
 
     【黄色いカンナが一番多くて、さわやかです】
 
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 カンナの花色は強烈で、いかにも夏の花らしい力強さがあります。
 「カンナ」は仏陀の霊力をねたんだ悪魔が、あるとき仏陀に怪我をさせ、その傷から滴り落ちた血潮が土に沁み込み、そこから咲き出した花だと言う伝説があります。 
  それほどカンナの赤い色は鮮烈だ、と言うことでしょうか。
 
 
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            老いしと思う 老いじと思う 陽のカンナ    三橋鷹女
 
 
 *夜中にピカピカドンドンと雷さんに叩き起こされました。
  慌てて起きだして、バケツをすけるやら、パソコンの電源を切るやら、大騒ぎ・・
 
 今年は豪雨が多いですね。8月になって晴れたのはわずか、一,二日だけ、あとは雨ばかり・・
 一世紀近く生きているのに、こんなのは初めてです。
 
 
 

(156)桔梗(ききょう)

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         (156) 「桔梗・キキョウ」  
 
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 今日は長い夏の雨がやっと明けたと思ったら、なんだか急に秋らしい風が吹きわたっています。
 夏を通り越して一挙に秋になったような感じがします。

 秋の花の代表といえば、秋の七草ですね。万葉集にも歌われています。
  山上憶良(やまのうえのおくら) 秋の野の花を詠む歌二首(万葉集、巻八)
 
        秋の野に咲きたる花を指折りて
          かき数うれば七種(ななくさ)の花
 
         芽子(ハギ)の花  尾花  葛花(クズハナ) 撫子(ナデシコ)の花
            女郎花(オミナヘシ) また藤袴(フジバカマ) 朝貌(アサガオ)の花
 
     (歌の中の尾花はススキ、朝顔は桔梗のことです。)
 
           「白桔梗」
 
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   「桔梗」は秋の七草の一つですが、秋というよりも早いものは七月始めにはもう咲いています。
 もっとも、陰暦では8月こそ秋なんですから、8月に咲くのは当然と言えば当然ですね。
 昔から青みがかった清楚な花が愛されて、色々と句歌にも詠まれています。
 
 キキョウは漢名の「桔梗」を音読みして「キキョウ」とも「キチコウ」とも呼ばれています。
 キキョウ科の多年草でアジアの温帯地方に広く分布していますが、わが国では昔から広く栽培されています
 
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           七草や露の盛りを星の花    鬼貫

 
 
 根や茎にはサポニンやイヌリンなどの成分が含まれていて、漢方では排膿や去痰剤として使われています。正月の屠蘇にも含まれ、又咳を止める新薬にも使われているとか・・ 
  韓国では「トラジ」と言う名前で呼ばれています。 

 
イメージ 9 むかしは桔梗は家紋によく使われたそうで、澄んだ紫色の花はいかにも女性的なために主に女紋として使
われましたが、衣服に家紋をつけるのは男性に限られていたので女性はこの家紋を少し小さく、線描きにして使っていました。ここにも武家社会の男尊女卑の風潮が垣間見られますね。
 
 戦国時代の武士では「明智光秀」が水色桔梗紋を使っていました。
 
 
   ↑水色桔梗紋
 
   信長はこれが気に入らず仲の悪い二人の対立を深め、本能寺の変につながった、とも言われています。信長は陣幕の一部に水色桔梗の家紋が出ていたという些細なことで、陣幕の桔梗紋を踏みにじり、公衆の面前で光秀の髪をつかんで引きずり回したとか。
 やはり、信長は暴君ですね。 本能寺で討たれたのも、身から出たさびとでも言いましょうか。。
 
 ちなみに信長の家紋は「横木瓜」で、なんとシランの家も同じ家紋なんです。
  紫蘭も暴君の血筋かなぁ・・トホホー

 
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                 花の咲く前の袋のようになっているのが、可愛いですね。

 
        桔梗の花  咲く時ぽんと  言ひそうな    
                                                                             加賀千代女   
 
            

    

(157)女郎花(おみなえし)

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     (157) 女郎花(おみなえし)
 
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 女郎花はオミナエシ科の多年草です。、夏から秋に掛けて咲く清楚な花で秋の七草の一つ、各地の山野に自生しています。白い花の「オトコエシ」に対して、黄色いので「女エシ」という名前が付けられました。
 「男郎花・オトコエシ」は花が白くて形はそっくりですが、女郎花よりも力強く見えるので「男郎花」という名前がつきました。。
 
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  オミナエシの「おみな」は女の意味で「えし」は古語の「圧・へし」という言葉からつけられています。
 美女も圧倒する美しさという意味でしょう。
 
 また、一説ではもち米で焚いたご飯「おこわ」を「男飯」というのに対して「粟のご飯」の事を「女飯」と言いますが、「おみなえしの花」が粟粒のように見えるので「女飯」「おみなめし」→「おみなえし」と成ったという説もあります。
 なお、「女郎花」と漢字で書くようになったのは平安時代中頃からといわれています。
 
 
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             わが机 袖にはらへど ほろろちる
            女郎花こそ うらさびしけれ
                                                               春泥集・ 与謝野晶子
 

 *今日はまた朝からジャンジャン降り出しました。
  あたりが真っ暗になっています。
  天の川の底が破れたのかしらん?
 
  涼しくなったので、友達にゴルフを誘ったら、なんと、なんと。。
  「7月に亡くなりました!!」
   肺炎だったらしい、なんともいやはや。。
   4歳後輩で、頑丈そのものだったのに。。  ああ、無常!
 
 
       色はにおへど 散りぬるを
         わが世たれぞ 常ならむ
       有為の奥山 けふ越えて
         浅き夢見じ 酔ひもせず
 
  
 「いろは歌」
    若くして両手を切られた妻吉こと順教尼が、80歳の時口に筆を加えて書いた「いろは歌」です。
     金泥の色が少し褪せたのと、万葉かなで書いてあるのでちょっと読みづらいですが。。  
 

     
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(74)Tの8月15日

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    (74) 「Tの8月15日」
 
 外語の同窓であるT君は神戸の生まれだが、医者の父が亡くなってからは一家離散して、労務者や住み込みの丁稚、弁護士の書生など色々と苦学しながら夜間中学を出て、外語に入学してきた。外語在学中も、三つほど家庭教師をして学費を稼いでいた。勤勉努力家である彼の人生は実に波乱万丈だが、彼は戦闘機乗りとしてその後の人生の大半を過ごした。
 
 T(以下、敬称略)は同窓の福田(のちの司馬遼太郎)と一緒に学徒出陣で加古川の戦車隊に入ったが、
願して飛行機乗りになった。司馬さんは「よせよせ、飛行機は危ないぞ、空中では逃げ場がない、
鉄で囲まれた戦車の方が安全だ」と言って満州の戦車隊長になったが、彼は航空機志願をやめなかった。
 Tは中肉中背だが、若くして世間の波にもまれて苦労したせいか、眼光鋭く浅黒い精悍な顔つきで学生時
代はサッッカーをやっていて、運動神経は抜群であり、アクロバット的な戦闘機の空中戦にはうってつけの俊敏さを持っていたと云えよう。
 
イメージ 1 彼は陸軍操縦見習士官(通称・特操)を経て一人前の操縦士になると、ジャワのバンドン基地に赴任し、
陸軍の新鋭単座戦闘機「はやぶさ」に乗って毎日48時間の戦闘訓練をしていたが、空中戦や急降下爆撃や実弾射撃とアクロバット的な戦闘訓練は普通の旅客機操縦と違い、訓練も操縦も数倍も疲れると言う。
 
        陸軍一式戦闘機(隼)
 
 当時の空中戦は今のジェット機どうしのレーダーと機関砲で遠方から一発で仕留める空中戦と違い、戦国時代と同じく「やぁやぁ、我こそは・・」という武士たちの戦国絵巻みたいな、のんびりした雰囲気だったので、追いつ追われつの空中戦技術の厳しい修練が必要だったのである。
 昭和20年になると、米軍の反抗は一段と激しくなり、敵はフィリッピンに上陸して戦局は一層苛烈の度を深めてきた。そしてオーストラリアから軍隊や軍需物資を満載したアメリカの輸送船が、マカッサル海峡を通ってフィリッピンへと向かうようになった。そこで「隼戦闘機」に50キロ爆弾を装着して、これらの船団に対して急降下爆撃を行うのが彼の日課となった。
 
 彼は少々無鉄砲な性格なので、50度くらいの急角度で突っ込んで行き、甲板すれすれまで下りて行って爆弾を投下したので命中率は頗る良かったが、操縦桿を引き上げたとき重力の関係で頭の血がさがり、目の前が真っ暗になってしまうのである。そこを「なにくそ!」と歯を食いしばって我慢しながら5,6秒たつと突然目の中央からパッと視界が開けてくるそうである。
 あまりに急角度に突っ込むので「お前の急降下は深すぎて危険だ。あれではいつか命を失うぞ。もっと浅
く突っ込んで早く機首をあげろ。それから見張りが足りない。今日も敵の護衛戦闘機に追尾されて危うく撃墜されそうだったぞ。お前は気がついていなかっただろう」と部隊長に叱られたこともある。

 
イメージ 2 アメリカの輸送船団には、護衛としてグラマン戦闘機が20機ぐらい付いていたそうだが、現在の電探(
レーダー)によるミサイル戦と違い、当時は戦国時代の騎馬戦と同じく、お互いの操縦技術を競い合うような空中戦で、このグラマン戦闘機ともお互いに顔を見合うぐらいまで接近して戦ったそうである。
 
 
 
 
       アメリカ・グラマン戦闘機
 
 ある日、空中戦で弾を撃ちつくした彼が僚機二機とともに帰途についたとき、新たな敵機に攻撃され、海
面すれすれまで降下して逃げたが、僚機は2機とも敵弾を受けて波間に没し、彼の「はやぶさ」も6発被弾してガソリンが漏れ出し始めた。おまけに「飛び魚」が当たったのか、操縦席前面の風防ガラスにヒビが入ってしまった。もしガラスが破れれば風圧によって即死するのは間違いない。
 
 彼はその時のことを「胸がどきどきして、幼時からのことが一瞬のうちに走馬灯のように頭の中を駆け巡
った・・」とあとで述懐している。死を目前にした時はそんな精神状態になるものだろうか。それでも何とか基地に辿り着いたと思ったら、着地と同時にガソリンが切れてしまい、駆け寄った若い整備兵が風防ガラスを拭こうと手を触れた途端、バリバリとガラスが壊れてしまったそうで、ほんとに生死を分ける瞬間だったのである。
 
 昭和20年7月フイリッピンのルソン島の山中に約400名の日本兵が追いつめられて弾丸、食料を使い果たし、ジャングルの奥地で疲労と飢え、マラリアのために骸骨のようにやせ細って次々に餓死していった
 彼の任務は70キロの食糧をその部隊に投下することだったが、一度だけジャングルの中に強行着陸して
様子を見たことがある。

 彼はそこで次々に臨終を迎える兵隊が、細くて小さい声で「カー」と言って息絶えて行くのを見た。 
不思議に思って彼が軍医に聞くと「ここは東北出身の兵隊が多く、おかぁさんのことを「おっかぁ」と呼ぶので自分の死を悟った時、朦朧とした意識の下で母の姿が浮かび(おっかぁ!)と言って息を引き取るんです、それがあなたにはカーとだけ聞こえるのです」、と言われたそうである。
 
 
 彼は、一人の人間が死に臨んで、懐かしい母を思う気持ち、望郷の念、若くして死なねばならぬ無念の気持ちがみんなこの「かー」という言葉にこもっていると思い、「軍人は天皇陛下万歳と叫んで死ぬ」、というのは真っ赤なウソであると彼は確信したそうである。そして、死体にウジがわいて死臭が満ちているのに、誰も穴を掘る力がなく、そのまま放置されているのを見て、彼はそのまま4日間、現場に留まって穴を掘り、戦死者を埋葬したそうである。
 そして「ああ、人間も動物も植物もすべて生涯を終えたら土に帰るのだなぁ」と実感したと言う。
 

 Tは終戦直前に本土決戦のため、特攻隊要員として同僚十人とともに、内地帰還を命じられ、戦闘機でシ
ンガポールから大陸伝いで帰還の途中、朝鮮の京城で8月15日の終戦を迎えた。
 その際、朝鮮の現地民の暴徒が日本人街を取り囲んで大変だったそうで、特攻あがりの彼ら10名ほどは、新撰組のように軍刀を振りかざして暴徒に立ち向かったという話である。死を覚悟した特攻隊の彼等ならやりそうなことだ。特攻攻撃が8月20日の予定だったそうで、あと5日終戦が遅ければ彼は敵艦に突っ込んで居たはずだから、ほんとに人の運命はわからないものだ。

 
 戦後、彼は航空自衛隊に入って基地副司令までつとめあげ、退官後は中高生のために80歳まで「英語塾」を経営して次国民の養成に努めた。今はクリスチャンだった奥さんを亡くし心臓を病んで悠々自適の身だが、8月15日と20日という、わずか5日の違いで死ぬべき一命を助かり、また特攻で死んだ僚友の思いを継いで、せめてもの社会への恩返しだと、医学生のために死後の献体を某医大に申請、登録されている。
  
 Tは数年前に、認知症気味になり、もはや文書も書けないので、「以後は新年のご挨拶も遠慮させていただきます」、という娘さんの年賀状を最後に、彼の消息は全くなくなってしまった。
 畏友T君の8月15日の出来事も、すべて時代という煙霧の中に消えていくのであろうか。。
 
 
 

(75)高野山の腕塚

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      (75) 「高野山の腕塚」
 
 高野山の弘法大師が祀られている奥の院に至る沿道には、秀吉、家康や明智光秀、上杉謙信、などの戦国武将をはじめ、各時代、各階層の人たちの供養塔や墓碑が立ち並び、その数20万基に及ぶという。高野山は敵、味方や各宗派の別なく、死者を弔う日本第一の霊場なのである。
 
 参道入り口の一ノ橋から少し行ったところに四つ角がある。右には今次大戦の戦死者の霊を祀る「英霊殿があり、左に道を取ると主参道に出る。その四つ角の右角に阪神淡路大震災の慰霊碑があり、左手には腕塚」という奇妙な丸っこい石碑がぽつんと立っている。そしてその左側には「大石順教尼」の墓とともに「慈手観世音菩薩」の唐金(からかね)の立像が祀ってある
 
 実は私の家にはこの順教尼が80歳のときに書いた「いろは歌」「般若心経」の掛け軸があり、法事や盂蘭盆の際にはいつもこの「いろは歌」を床の間に掛けることにしている。ここで順教尼の墓碑を偶然見つけたのも何かのご縁かもしれない。
 この「いろは歌」は手で書かれたものではなく、口に筆を含んで書かれたものである。
 なぜかと言うと、順教尼には両腕がないからである。 
 
 彼女は17歳のうら若き乙女の身で、養父の凶刃によって両腕を切り落とされたのである。養父は大阪の堀江遊郭で芸者置屋を経営する中川万次郎(51才)で、駆け落ちした内縁の妻への嫉妬に狂って同居の一家5人を殺害した。明治38年6月20日のことである。
 
 彼女のこの家での源氏名は「妻吉」であった。当時の新聞の見出しには「堀江廓、七人斬り」という大きな見出しのもとに「被害者は内縁の妻、その弟、妹、義母、姪、芸者梅吉の6名が死亡、妻吉一人両腕を切り落とされて生き残った」と記されている。
 
 (*犯人・山海楼主人万次郎は明治44年4月に処刑された)
 死刑執行前に妻吉と面会した萬次郎は「わしは死んだら霊魂となってお前を守る」と言い残し、寒い時期
にもかかわらず萬次郎は単衣で過ごしていたという。萬次郎の辞世の句は
   「落とされし腕の指先こほる夜半」  であった。
 
 私が見た「腕塚」はこのとき切り取られた腕のための供養のためであろう、実際に腕が葬られているかどうかは詮議の沙汰ではないが・・
【*尤も、我が郷土の偉人、早稲田大学創立者の大隈重信が明治22年爆弾テロに遭って切り落とされた片
足が、爾来百十年の時を経て先年遺族に返還されたそうだから、あるいは梅吉の両腕もどこかの法医学教室に保存されていて、その後この腕塚に納められたのかもしれない・・いや、これは要らぬお節介だったかな?】
 
   「腕塚」
 
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 「妻吉」はその後、かねて習い覚えた舞踊を生活の糧として寄席に立ち、生計をささえたが、花も恥らう乙女子が生まれもつかぬ身障者として我が身を人前にさらさねばならない悲しさ,辛さは如何ばかりであっただろうか。
 
 しかし妻吉はある日、カナリアがくちばしで雛にえさを与えて育てているのを見て、一念発起、口に筆を含んで書や絵を描くという修練に励んだ。その後24歳で結婚したが48歳、この高野山で得度して仏門に入り、後に京都山科の勧修寺(かしゅうじ)境内にある「仏光院」の院主として82歳の天寿を全うした。
 
 
 その間、常人も及ばぬ苦心の修行によって習得された師の書画は高い評価を受け、昭和30年には「般若心経」の写経が日展に入選するほどになった。彼女の書いた般若心経は口で書いたせいか、女性の筆のせいか、やや線が細くいかにも心細くたおやかで,やさしさとともに人の世の哀れさをにじませている。
 
           順教尼・80歳の写経「般若心経」
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 「いろは歌」の方は、紫紺の紙地に金泥を使い、万葉仮名で書かれている。
その運筆の妙は、これが口に含んだ筆で書かれたものとは到底思われない。さらさらと淀みのない筆墨の跡
は、人の世の煩悩を超越した枯淡の味を忍ばせている。
いわば無の境地とでもいうのであろうか、「色則是空、空即是色」の世界は、順教尼のような過酷な運命に
遭遇して初めて体感できるのであろうか・・
 
 静かにこのいろは歌を眺めていると、諸行無常の哀感を感ぜずには居られない。
 まことに人生は一場の夢であり、彼岸へと赴く旅の一夜に過ぎないのであろうか。。
 
                                       *  「いろは歌」
イメージ 3 そもそも日本に文字が伝わったのは、5世紀ごろに百済の「王仁・ワニ」が「論語」と「千字文」を持って難波に渡来したのが初めてだと言われています。勿論その文字は漢字で、万葉集なども全部漢字で書かれていますが、平安時代になるとその漢字が次第に崩されていわゆる「万葉かな」が使われるようになり、さらに現在のような「ひらかな文字」になってきました。
 
  「王仁の難波津の歌」
 
     なにはづに さくやこの花 ふゆごもり
       いまははるべと さくやこのはな
 
 *母校の大阪外語の同窓会の名前は「朔耶会」です。
 言葉の学校なので、文字を伝えた王仁にちなんで、この歌の中の「咲くや」という言葉から採られました。 選者は、同窓会員の作家「司馬遼太郎」、「陳舜臣」の両氏です。
 
 
  「いろは歌」とは、47文字の仮名を一度しか使わずに作られた七五調の文章で、平安時代の終わりごろに成 立したとされています。誰の作かは諸説あって判然としませんが、一般には僧空海(弘法大師)の作ではないかというのが、多いようです。その頃のいろは歌はこの万葉仮名で書かれていました。
 
 いろは歌は、ひらがなを覚えるための手本として、明治時代の初期まで広く使われていました。
これまでに見つかっている文献の中で最古のいろは歌は、1079年に成立した『金光明最勝王経音義』に書か
れたものです。
 順教尼も僧侶なので、このいろは歌もこの経本の「万葉かな」をもとにして書いたものと思われます。
 
  難しくてちと読めませんが、こんなものでしょうか・・

   以流はに本弊東               いろはにほへど
    ち利ぬ流を                 ちりぬるを
   和加よ多礼ぞ 津祢那 良無    わかよたれぞ つねならむ
   ・・・・・
   
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(158)萩の花

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      (158) 「萩の花」    
 
 
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 「萩・ハギ」は秋の七草の代表として万葉集にも141首も詠われていますが、実は草ではなくマメ科の落葉低木です。
 古株からも芽を出すので「生え芽」と言われていたのが、「ハギ」となったと言われています。

 単に萩と言えば「山萩」のことで、日本各地や朝鮮、中国にも分布しています。
 自生の山萩のほかに、円葉萩・蒔絵萩・白萩などもありますが、現在一般に観賞用に植えられているのは
「宮城野萩」です。

 萩は家畜の飼料にもなり、茎を刈り取って垣根にしたり、屋根を葺いたり、また筆の軸にもします。
 
 
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         白萩も清楚でなかなか風情があります。
 
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                     白露をこぼさぬ萩のうねりかな    芭蕉
 
*今日も降ったりやんだりの真夏には珍しい梅雨時のような天気です。
 とうとうこの夏は殆どが雨に終わりそうです。昨年は35,6度ばかりでしたが、今年は30度超えたのは数えるくらいしかありません。
 やはりなんかおかしいです。。
 
 
 

(159)葛の花

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               (157)  「葛の花」  
 
 
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  秋の七草のひとつ、葛(クズ)はマメ科のつる性多年草で日本全国に自生しています。
 秋風に翻る白いクズの葉裏と紅紫色の蝶型の花が房々と咲き乱れている様子はいかにも秋らしい風情があります。クズの根から作るクズ粉はデンプン類の中では最高級の食用粉で、奈良の吉野地方で採れる「吉野葛」は有名です。谷崎潤一郎の小説にも「吉野葛」と言うのがあります。
 
 
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 「葛」は昔から日本の生活と深くかかわっています。昔はクズの茎の繊維で織った葛布を狩衣や袴に使い、今日でも襖や窓掛けにして使います。また、葉や茎は牛馬の飼料となり、漢方では葛根(かっこん)と呼んで解熱、解毒の薬に使います。
  
 明治初めにクズはアメリカに渡り、家畜の飼料やダムの土留め用として使われましたが、今は繁殖しすぎて駆除に困って居るそうです。 それだけ繁殖力が旺盛なんでしょう。
 
 葛の花は茂りすぎる大きな葉っぱに隠れていて、外からはなかなか見えません。
 葉を押しのけながら、ようやく写しました。 何とも元気すぎる、クズでした。
 
 
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                     相寄りて 葛の雨きく 傘ふれし   杉田久女
 
 
 *朝から久しぶりの青空がのぞいていますが、相変わらずにわか雨に悩まされる一日、
   でも早くも爽やかな秋の風が吹きわたっています。
   イオン買い出し、案外に人が少ない。親子とも夏休みの宿題で忙しいのだろうか。。
 
 中学の夏休みの最後、宿題のスケッチブック一冊のお絵かきを、一夜漬けでばたばた描き上げたのを思い出す。でも先生がめったに呉れない(A)をつけてくれたので驚いた。
 絵の評価は主観的で、いい加減なものだと実感した。。
 
    (T先生の自画像)
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(160)ツユクサ・露草

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                (160)       「ツユクサ・露草」
 
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 露草はツユクサ科の一年草で、晩夏から初秋にかけて路傍や山野のいたるところに咲いています。
花は鮮やかな藍色ですが、朝咲いて午後には儚くしぼんでしまうので「露草」という名前がついていま
す。
 昔はこの花びらを絞った汁で布を染めたので、色が付く「つき草」と呼ばれ、「月草」という文字を当てていました。
 然し、この染料は水につけるとすぐ落ちてしまうので、花同様に儚いものです。。
 
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                               【蝶のようなツユクサ】 
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 ツユクサの花びらは可憐で、ちょっと触っただけですぐに傷んでしまいます。
 
でも植物自体はとても丈夫で、枝がたくさんに分かれて一面に広がって行きます。その上引き抜いて除草したあとがまた厄介で、積んでおいても簡単には参りせん。そこで川に流すと、今度は川の淵でまた増えてくるのです。そこでこちらの方言では水草と呼んでいます。 とても露草という儚い名前では呼べない植物なのです。 
 
 
         露草も 露の力の 花開く   飯田龍太 
 
 
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 *朝、久しぶりに晴れ間が出たので、これで二番煎じの梅雨も終わりかと思ったら、また降り出しました。 
   でも、風は爽やか、どうやら秋の訪れを思わせる雲行きです。
 
 
 

(161)ウコン

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        (161) 【ウコン】 
  
 
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  ウコン(鬱金)は、ショウガ科に属する多年草で、熱帯性の植物なので沖縄と鹿児島を除くと、自生しているところは少ないようです。
 ウコンは室町時代に初めて日本に渡来し、江戸時代に各地に広まりました。
 8月から9月にかけて、ややピンクがかった爽やかな白い花が咲き、根元の方は黄色くなっています。

 
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   根や茎の部分が香辛料や着色料として使われ、カレー粉にも使われるそうですが、漢方の胃の薬としても使われています。
 最近、二日酔いの薬として最近、よく店にも売られています。
 飲んだことはありませんが。。
 
 
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  *今日こそは晴れるや、と思いしにまたもや雨が降る。
 
    巷に雨の降るごとく、
    わが心にも涙降る。。      ベルレーヌ
 
 

(162)タカサゴフヨウ

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       (162) 「タカサゴフヨウ」
 
 
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  「タカサゴフヨウ」はフヨウの名がついていますが、芙蓉とは違いアオイ科の外来種です。
 芙蓉よりも花は小さくて地味で、芙蓉のような華やかさはありません。
 よく道端の雑草に混じってひっそりと咲いています。

 
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  南米が原産の落葉性草木で、繁殖力が強く、野生化しています。花期は7月から10月までと長いですが、一日でしぼむ一日花です。花は3センチぐらいの白い小さな花で中心部が赤褐色になっていて、ちょっと小型のムクゲのような淡白で地味な感じの花です。
 
 和名の「矢の根梵天花ヤノネボンテンカ」は、葉がやじりのような形をしているので、つけられました
 
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   *今日もまた雨です。
    ちょうど梅雨末期のような降り方、こちらでは「ハゲアメ」と言います。
    あーあ、なんちゅこっちゃ・・
    姫路の友達がよく言って居ました 「こりゃ、なんぞいな」。。
 
    90年生きてきて、真夏の8月に(寒いなぁ・・)という言葉を使おうとは思いませんでした。
  
 

(163)ヤブランとノシラン

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        (163) 「ヤブラン」   
 
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  「ヤブラン」は関東以西の日本各地のほか、東南アジアにも分布しているユリ科の常緑多年草です。  名前の通り立木の下などの薄暗い藪に自生しています。

  主に晩夏から中秋にかけて長い間、紫色の小さい花をたくさんつけた穂状の花が咲きます。
 
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 葉は細長く垂れていて、冬でも枯れずに青々としているので植木の下草によく使われています。園芸種には斑入りの葉もあり、観賞用として庭木の下で栽培されています。
 
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   ↓ (ノシラン)
 
        「ノシラン」は 野紫蘭?ではなく、熨斗蘭です。 
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 「ノシラン」はユリ科の植物で、海岸近くの林の中でよく見かけます。 
 写真は藪の中のチョロチョロ水のそばで撮りました。 暗いので、白い花が少しボケました。。
 花は白いひも状をしていて8月から9月にかけて咲きます。
 この花が熨斗(のし)の形に似ているので、のし蘭という名がついています。 葉はヤブランのように線状になっています。
 
 
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 * ハワイ在住の方が、昔エノケン・ロッパで名を売った喜劇俳優の古川ロッパの日記を読んでいたら、 紫蘭の昔の日記にある通り、同じ日に大阪の高島屋で杉狂児と一緒に食事をしたと、書いてあると知らせてもらいました。
 そのロッパの当日の日記です。
 
昭和17年8月20日木曜、晴れ  大阪北野劇場 男の花道公演
      ・・・・・・
共演の山野と杉を連れて南海食堂にランチに行く
一口食ったら異臭鼻を突く
呆れて外に出た
 それから高島屋で買い物、喫茶部で食べてから大劇裏の重亭でビフテキ食べて楽屋入り
夜は宿でカレーライスをいっぱい作らせてうんと食った
・・・・・
 
 同じ日のロッパの日記に同じことが書いてあることが、70年の時を経てハワイという遥かな異国の土地から教えてもらうなんて、ほんとに地球を駆け巡るネット社会の驚異を感じました。
 
  *昭和17年8月20日のシランの日記
    (前日の朝、夏休みの帰省から、大阪の暗い一間の下宿に帰ったばかりでした。)
 
   「8月20日」 (木)晴れ
 
 夏休みの宿題を終わりて昼より心斎橋筋をぶらつく。あいも変わらぬ人出なり。
 高島屋(大阪難波)七階喫茶室にてロッパに出会う。傍らに居たのは、杉狂児なりしが如し。
 
  と、あります。
その頃は下宿が南海沿線にあったので、下校時に高島屋でよくハンバーグを食べました。もちろん食糧難の時代ですから、恐らく肉も入っていない野菜だけのハンバーグだったでしょう。しかしポッと出の田舎少年には「世の中にこんなにうまいものがあるのか」と、目からウロコが落ちる思いで何度も通いました。
 
  遠い遠い、70年前の少年の忘れられない思い出です。
 
                  ↓ 昭和16年の映画広告・ロッパと長谷川一夫の共演で・・
 
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(164)大毛蓼(オオケタデ)

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      (164) 「オオケダデ・大毛蓼」
 
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 「オオケタデ」は東南アジアの原産で、タデ科の一年草です。濃いピンク色の花がきれいなので、江戸時代に観賞用として日本に渡来しましたが、今では野生化したものも多く見られます。
 
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 オオケタデはタデよりも茎が大きく、高さ1~2mにもなる大型の一年草で、また全体に毛が多いので「大毛蓼」の名がついています。「ハデコブラ」という別名がありますが、ハブの毒消しになるかどうかは不明です。
 花は夏から秋にかけて咲き、花房は10センチ以上にもなりますが、昔は葉をもんで虫刺されの薬として使ったそうです。
 
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 *今日は爽やかな秋晴れになりました。
 
      秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
         風の音にぞ おどろかれぬる         古今集・藤原敏行
 
 
 

(165)イヌタデ

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       (165) 「イヌタデ」   

 
   イヌタデは草むらのどこにでも咲いている雑草で、いつも踏みつけられています。
 
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  「イヌタデ・犬蓼」は道端や野原など、どこにでも普通に見られるタデ科の一年草です。
 秋に小さな紅色の穂をつけますが、ガクだけで花びらはありません。
 その赤い花穂を「赤飯」に見立てて「赤まんま」とか「赤のまんま」という別名があります。
 
 食用になる「柳タデ」に対して何の役にも立たない「タデ」という意味の「イヌタデ」ですが、昔は女の
子の「ままごと遊び」のご飯に使われていました。
 
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イメージ 7 【蓼食う虫も好き好き】と言って人の好みはさまざまですが、この場合の蓼は「柳蓼」のことです。
 
ヤナギタデは水辺に生えるタデ科の一年草で、この葉を食べると苦味があるので、香辛料として使われるそうです。
 「ヤナギタデ」という名前は、葉が柳の葉に似ているのでこの名がありますが、本来のタデは「イヌタデ」ではなく、この「柳蓼」のことを言います。
 
 
 ←ヤナギタデ
 
 
 
 
 
   同じ草むらに白いのがありました。これもイヌタデの一種でしょうか、 
  「シロバナイヌタデ」と言うのかな? めったに見ませんが。。
 
 
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           手にしたる赤のまんまを手向草     富安風生
 
 
 *今日は晴れるや・・と思いきや、朝からまたまた雨だ。
   明日は久しぶりのゴルフなので、ぜひ晴れてほしいのだが。。
 
 

(166)キンミズヒキとアキノキリンソウ

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     (166) 「キンミズヒキ」と「アキノキリンソウ」  
 
  秋の野原を黄色に彩る花に「キンミズヒキ」 「アキノキリンソウ」があります。
 
    ○ 「キンミズヒキ・金水引」
 
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 「キンミズヒキ」は北海道から九州、朝鮮、中国などに分布するバラ科の多年草です。山地の野原や道端などに生育し、どこにでもよく見られます。夏に花茎を立ち上げて夏から初秋にかけて穂状の小さな黄色い五弁の花を咲かせます。
 
 花は小さく直径は1センチ足らずで、名前の由来は穂状に並んだ花の形が金の水引に似ているからでしょう。 実には小さなトゲが沢山あり、人や動物に引っ付いて繁殖していきます。 
 
     //////                        //////
 
     ○ 「ミヤマアキノキリンソウ」      天山山頂
 
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 「深山秋のキ麒麟草」 はキク科アキノキリンソウ属の多年草の高山植物で、高さは15~30 cm。黄色い直径1.2~1.5 cmの花を咲かせます。花期は8?9月で、日本の高山帯の草地や砂礫地に生育しています。別名コガネギクといい、アキノキリンソウの高山型です。。アキノキリンソウの花が比較的まばらにつくのに対して、この花は頭頂部に固まってつく傾向があります。
 
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 *昨日の久しぶりのゴルフのせいで、古傷の足首が痛い。
  90歳の声を聞くとさすがに足腰の衰えを感じる。  疲れる。。
 
  でも、同窓の90歳の老兵3名で昔の軍隊時代などの話に花を咲かせて楽しかった。
  今頃軍隊の話が通じる人はほとんどいないのだ。
 
  I は昨年奥さんを亡くし、今は博多のマンションで独り暮らし。一日中言葉を出すこともない日が多いそうだ。ゴルフの出来不出来は別にして、せめて古友達だけでワイワイと世間話でもするのもボケ封じになるだろう。
 
 I は中学時代、同級生の1”が秀才のHをいじめているのを知り、I”に喧嘩を吹っ掛けたが、逆に首を絞められて危うく失神しそうになったとか。。@@/
 そのHは長崎の原爆で死に、I”は特攻隊でともに早世してしまった。
 他愛もない少年の喧嘩話も、70年も経ってしまえばいっそ懐かしい思い出となる。。
 
         天才は夭折し、鈍才は長生する恨みかな
 
 
 
 

(76)頭の体操

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         (76) 頭の体操 ① 

 夜半から激しい雨が朝まで続きました。
 まるで梅雨末期の症状ですね。
ところで、梅雨末期の雷をともなった激しい雨のことをこちらでは「ハゲ雨」と言います。 これは暦の「ハンゲショウ」頃に降る雨なので「ハンゲショウ雨」つまり「ハゲ雨」というわけです。ハゲ雨が降らないと梅雨は明けないと言われていますが、そろそろ秋だというのに、この激しい雨はどうしたわけでしょうか。。
 
 半夏は夏至から数えて11目のことを言い、今年は7月2日でした。このころに「ハンゲショウ」の花が咲きます。
 
 花は花穂だけのつまらないものですが、緑の葉が片側だけ白く化粧したように変わるので「片白葉」という別名もありますが、一般には、「半夏生・ハンゲショウ」とか「半化粧」という名前で呼ばれています。
 不思議なことに白く変わった葉は、花期が過ぎるとまた元の緑の葉に戻るのが何とも不思議です。
 
 
    「ハンゲショウ」
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 この雨では散歩もできないし、体の体操の代わりに少し頭の体操をしてみました。
 皆さんも、考えてみてください。  まずは簡単な問題です。 (正解は明日)
 
    「頭の体操」①
 
  夏休みの宿題の自由研究に、 こんなシーソーの実験をしてみました。
          このまま放置しておいたら、どうなるでしょう??
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(167)ミゾソバ

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    (167) 「ミゾソバ」

     【振り返る人もない水そばのミゾソバ】 
 
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                        (アオスジアゲハ・今年はトンボも蝶々も少なかったですね)

 ミゾソバ(溝蕎麦)はソバはソバでも、蕎麦ではなくタデ科の一年草です。
 日本各地の湿気のある草地や水田の溝などに群生していて、秋に茎の先から薄紅色のたくさんの花を咲かせて
います。
 
 
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  実が蕎麦に似ていることと、溝のそばに生えている事から「溝蕎麦」という名がつきました。
 葉の形が牛の額に似ているので当地では「ウシノヒタイ」と呼ばれることもあります。
 
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 花は小さくて5,6ミリぐらいですが、実はこの花のように見えるのは花びらではなく、ほかのタデ科の植物同様、ガクになっています。
 
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                  一寸の虫にも五分の魂
   
 

(168)ガガイモとフウセントウワタ

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    (168) ガガイモとフウセントウワタ
 
    【ガガイモの花】   
 
 「ガガイモ」は多年生のツル植物で、北海道から九州の日本各地に分布していて、農地付近のやぶや路傍の草地に生育してます。 心臓形の葉は対生で、やや厚く光沢があります。
 
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  ガガイモは8月の終わり頃から淡紫色の花を咲かせますが、 花びらの先は五つにわかれ、毛が生えています。中央の雌しべは突出しているので、雄しべはその根元にあって見えにくいです。

  花にはあまり強くはないですが、独特の臭いがします。
 同じように臭いがするヘクソカズラに似ていますが、葉が大きくてつるを切ると乳液が出るので区別ができます。
 種は綿毛をつけて、落下傘のように遠くに飛んでいきます。
 当地の方言では「カラスノカンマクラ」と言うようです。
 
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 ↓ 「風船唐綿・フウセントウワタ」
 
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  「風船唐綿」 も同じガガイモ科の常緑低木で南アフリカの原産。
  葉は柳の葉に似ていて、小さい花がいっぱいぶら下がっています。
  いつの間にかうちの駐車場にいっぱい生えてきて、成長力は抜群です。
  花は10月25日の誕生花で、花言葉は「いっぱいの夢」
 
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 「風船唐綿」は花のあと、とてもユニークなトゲトゲのついた卵形の実が出来てきます。初めは1センチ大の可愛い風船ですが、次第に大きくなって、しまいには5センチぐらいの大きさになり、連想すると人前に出すのが恥ずかしい位になります。  ・・(^^*)

 トゲトゲは痛くはありませんが、晩秋になるとこの風船が割れて中からやわらかい綿毛に包まれた実がいっぱい出てきて、風の吹くままにタンポポの綿毛のように飛んでいきます。
 
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