(75) 「高野山の腕塚」
高野山の弘法大師が祀られている奥の院に至る沿道には、秀吉、家康や明智光秀、上杉謙信、などの戦国武将をはじめ、各時代、各階層の人たちの供養塔や墓碑が立ち並び、その数20万基に及ぶという。高野山は敵、味方や各宗派の別なく、死者を弔う日本第一の霊場なのである。
参道入り口の一ノ橋から少し行ったところに四つ角がある。右には今次大戦の戦死者の霊を祀る「英霊殿」があり、左に道を取ると主参道に出る。その四つ角の右角に阪神淡路大震災の慰霊碑があり、左手には「腕塚」という奇妙な丸っこい石碑がぽつんと立っている。そしてその左側には「大石順教尼」の墓とともに「慈手観世音菩薩」の唐金(からかね)の立像が祀ってある。
実は私の家にはこの順教尼が80歳のときに書いた「いろは歌」と「般若心経」の掛け軸があり、法事や盂蘭盆の際にはいつもこの「いろは歌」を床の間に掛けることにしている。ここで順教尼の墓碑を偶然見つけたのも何かのご縁かもしれない。
この「いろは歌」は手で書かれたものではなく、口に筆を含んで書かれたものである。
なぜかと言うと、順教尼には両腕がないからである。
彼女は17歳のうら若き乙女の身で、養父の凶刃によって両腕を切り落とされたのである。養父は大阪の堀江遊郭で芸者置屋を経営する中川万次郎(51才)で、駆け落ちした内縁の妻への嫉妬に狂って同居の一家5人を殺害した。明治38年6月20日のことである。
彼女のこの家での源氏名は「妻吉」であった。当時の新聞の見出しには「堀江廓、七人斬り」という大きな見出しのもとに「被害者は内縁の妻、その弟、妹、義母、姪、芸者梅吉の6名が死亡、妻吉一人両腕を切り落とされて生き残った」と記されている。
(*犯人・山海楼主人万次郎は明治44年4月に処刑された)
死刑執行前に妻吉と面会した萬次郎は「わしは死んだら霊魂となってお前を守る」と言い残し、寒い時期にもかかわらず萬次郎は単衣で過ごしていたという。萬次郎の辞世の句は
「落とされし腕の指先こほる夜半」 であった。
私が見た「腕塚」はこのとき切り取られた腕のための供養のためであろう、実際に腕が葬られているかどうかは詮議の沙汰ではないが・・
【*尤も、我が郷土の偉人、早稲田大学創立者の大隈重信が明治22年爆弾テロに遭って切り落とされた片足が、爾来百十年の時を経て先年遺族に返還されたそうだから、あるいは梅吉の両腕もどこかの法医学教室に保存されていて、その後この腕塚に納められたのかもしれない・・いや、これは要らぬお節介だったかな?】
「腕塚」
「妻吉」はその後、かねて習い覚えた舞踊を生活の糧として寄席に立ち、生計をささえたが、花も恥らう乙女子が生まれもつかぬ身障者として我が身を人前にさらさねばならない悲しさ,辛さは如何ばかりであっただろうか。
しかし妻吉はある日、カナリアがくちばしで雛にえさを与えて育てているのを見て、一念発起、口に筆を含んで書や絵を描くという修練に励んだ。その後24歳で結婚したが48歳、この高野山で得度して仏門に入り、後に京都山科の勧修寺(かしゅうじ)境内にある「仏光院」の院主として82歳の天寿を全うした。
その間、常人も及ばぬ苦心の修行によって習得された師の書画は高い評価を受け、昭和30年には「般若心経」の写経が日展に入選するほどになった。彼女の書いた般若心経は口で書いたせいか、女性の筆のせいか、やや線が細くいかにも心細くたおやかで,やさしさとともに人の世の哀れさをにじませている。
順教尼・80歳の写経「般若心経」
「いろは歌」の方は、紫紺の紙地に金泥を使い、万葉仮名で書かれている。
その運筆の妙は、これが口に含んだ筆で書かれたものとは到底思われない。さらさらと淀みのない筆墨の跡は、人の世の煩悩を超越した枯淡の味を忍ばせている。
いわば無の境地とでもいうのであろうか、「色則是空、空即是色」の世界は、順教尼のような過酷な運命に遭遇して初めて体感できるのであろうか・・
静かにこのいろは歌を眺めていると、諸行無常の哀感を感ぜずには居られない。
まことに人生は一場の夢であり、彼岸へと赴く旅の一夜に過ぎないのであろうか。。
* 「いろは歌」
そもそも日本に文字が伝わったのは、5世紀ごろに百済の「王仁・ワニ」が「論語」と「千字文」を持って難波に渡来したのが初めてだと言われています。勿論その文字は漢字で、万葉集なども全部漢字で書かれていますが、平安時代になるとその漢字が次第に崩されていわゆる「万葉かな」が使われるようになり、さらに現在のような「ひらかな文字」になってきました。
「王仁の難波津の歌」
なにはづに さくやこの花 ふゆごもり
いまははるべと さくやこのはな
*母校の大阪外語の同窓会の名前は「朔耶会」です。
言葉の学校なので、文字を伝えた王仁にちなんで、この歌の中の「咲くや」という言葉から採られました。 選者は、同窓会員の作家「司馬遼太郎」、「陳舜臣」の両氏です。
「いろは歌」とは、47文字の仮名を一度しか使わずに作られた七五調の文章で、平安時代の終わりごろに成 立したとされています。誰の作かは諸説あって判然としませんが、一般には僧空海(弘法大師)の作ではないかというのが、多いようです。その頃のいろは歌はこの万葉仮名で書かれていました。
いろは歌は、ひらがなを覚えるための手本として、明治時代の初期まで広く使われていました。
これまでに見つかっている文献の中で最古のいろは歌は、1079年に成立した『金光明最勝王経音義』に書かれたものです。
順教尼も僧侶なので、このいろは歌もこの経本の「万葉かな」をもとにして書いたものと思われます。
難しくてちと読めませんが、こんなものでしょうか・・
以流はに本弊東 いろはにほへど
ち利ぬ流を ちりぬるを
和加よ多礼ぞ 津祢那 良無 わかよたれぞ つねならむ
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