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宿昔星雲の志、蹉跎たり白髪の年。。 一寸の光陰を惜しみ、老骨に鞭打って、よたよたブログの継続に努めたいと思っています。    ブログ開設以来満15年、みなさんのおかげで来訪者も51万名を越えました。 1月3日で95歳になり、またひとつの峠を乗り越えた思いです。今年からブログ名も「95歳ブログ」へと進級しましたが、あと乗り越えるのは果たして幾山河か。。  みなさん、これからもよろしくお願い致します。 === タイトル ===

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            ヒロシマ被曝② 「U見習士官の場合」
     
     
     豊橋予備士で第一中隊・第二区隊に居たU君の配属は中国106部隊(浜田部隊)だったが、この日、彼も見習士官の集合教育に狩り出されて広島に出張していた。
     以下は彼のヒロシマ被曝体験記である。(予備士文集より)
     
     
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                        ↑ (陸軍第二総軍、中国・四国、部隊配置図)
     
     8月6日午前八時、彼は教育隊前の営庭に集合、東練兵場での対戦車攻撃訓練のために出発、隣の陸軍幼年学校の営庭を行
    進中に閃光一発,忽ち広島全部が吹っ飛んでしまった。
      何が何だか判らぬうちに、近くにそびえていた広島城も一瞬にしてペシャンコに崩れ落ちててしまった。同期の橋本君と
    は原爆投下の15分前に会ったが、彼は微熱があったので「練兵休」を取って教育隊で休んでいた。
     
     ピカドンと同時に辺りは一面の火の海である。その上、火薬庫の爆発で人々は逃げ場をなくして川や城の濠に飛び込む人、
    火に取り巻かれて焼け死ぬ人、まさに阿鼻叫喚、死屍累々の有様である。
     彼はこの瞬間、あの濠を飛び越えて城の石垣にたどり着かねばと判断し、濠の中の死人や人の頭を乗り越えて必死の思いで石垣にへばりつき、降り注ぐ火の玉から身を避けた。その業火は一日中燃え続けていた。
     
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               (一瞬にして見渡す限りの焼け跡となってしまった)
     
     夕方近くになって彼はようやく残骸や死人の散乱する中を、ボロボロの姿で幼年学校の営庭まで辿り着いた。そこには数名の同僚たちが傷にまみれて腰を下ろしていた。彼もその近くにゴロッと横になったが、地面は余熱でまだ生暖かく、何時もはうるさい蚊もこの日は全滅したのか一匹も居なかった。
     
     翌日から防空壕生活が始まった。教育隊に休んでいた橋本君を仲間たちで探しに出かけたが、教育隊の営舎あとは全く影も
    形もなく、デコボコ状の焼け野が原となって所々でくすぶっていただけであった。 彼らが部屋に置いていた軍刀類も何一つ見当たらず、橋本君もその瞬間に兵舎の下敷きとなり圧死して灰塵と帰したに違いない。
     
     壕内の生活は一日中為すこともなく、食事なし、治療なしの状態で火傷をした顔や首、さらに両手までも腫れあがって、生
    ウミに交ってウジが沸いてくる。死人の死臭がプンプンと鼻を突き頭が変になりそうだ。
      咽喉も乾くが水がない。元気だった小林君に頼んで濠の水を汲んでくるように頼むと、彼はカボチャを二つに割って種を
    抉り取り、それで水を汲んで来てくれた。
    それを両ひざの上に置いてペロペロなめると物凄くうまかった。
     爆撃から1週間ほどが経って仮命令が出て、12日の早朝にやっと仲間たちが集まって島根の原隊に戻り、翌日浜田陸軍病院の分院(田舎の小学校)に入院、白衣の患者の身となった。
     
     その後、病院内では15日ごろから異変が起こった。急転直下の悶死である。
    あの元気だった小林君が16日早朝から急に発熱、吐血、翌日には忽ち帰らぬ人となってしまったのである。彼とはベットも
    隣同士だが自分自身も絶対安静で何もしてあげられない。
      原爆の傷もほとんどなく、一番元気坊主だった彼がどうして仲間たちよりも早く死なねばならないのか。。人の運命は判
    らないものだ。
      さぞ、苦しかっただろう! しかし静かな臨終だったのが僅かばかりの慰めであった。。
     
     8月25日分院から本院に転送となり、あの爆弾が原子爆弾だったのを初めて知った。治療も一転して火傷の治療から白血
    球の検査が中心になった。その後も毎日、毎日死者が続出して9月初めまでは何とも鬱陶しい病院生活だった。
      年末には浜田陸軍病院が閉鎖され、東京第一陸軍病院の熱海分院で耳の整形手術を受け、ここで1年間の闘病生活を送っ
    たが、彼はその後、教職に復帰して小学校の校長を務めあげて定年を迎えた。
     
      彼は「原爆で無傷の小林君が死に、傷を受けた自分がなぜ生き延びられたのか、傷の膿に集ったウジ虫たちが、体内の毒
    物を吸い出して呉れたおかげに違いない」と、ケロイドでひどく曲がってしまった右手を眺めながら、彼は生死の不思議さをこう述懐しているのである。
        ・・・・

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  • 08/07/14--20:41: (141)ムクゲ
  •      (141) 「ムクゲ」
     
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     「ムクゲ」 はアオイ科の落葉低木で中国の原産ですが、日本では半野生化しています。
    多くの園芸種があり、一重咲きのほか八重咲きがあり、また花色も白、桃色、紫、白の中心に赤目があるものなど、さまざまです。
     
     
         「白ムクゲ」
     
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     ムクゲの花は、夏から初秋にかけて直径5,6センチの五弁の花が咲きます。朝咲いて夕方にはしぼんでしまう一日花ですが、真夏の炎天下でも次々に咲き出て、1,2か月の長い間楽しめます。
    中国名は「木槿花」で、昔から栄華のはかなさを「槿花一朝の夢」といいますが、これはムクゲの花が一日でしぼむ事にたとえて言う言葉です。
     
     ムクゲは韓国の国花になっていますが、バサバサ切っても夏にはまた次々に枝が出てきて、いっぱい花が咲くところなど、、ムクゲのしぶとい頑強さは、韓国の国花としても最適のようですね。
     
                 「白と赤」
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            道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり    芭蕉
     
     
    * 台風接近の報にあわてて野菜類の買い出しに。。
       でもどうやら九州直撃はまぬかれそう。。
     
      サッカーJ1「サガン鳥栖」監督突如退任、
      いまリーグ一位だというのになんで!?。。
      わからん!わからん!
      韓国出身だからムクゲ同様、しぶといのかもしれん。。
     
     
     
     

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          (66)  ヒロシマ被曝記③   Y見習士官の場合

     豊橋予備士官学校で同じ第一中隊の第四区隊にいたY君も広島で被爆した。
     8月6日の朝、彼は湿性胸膜炎のため広島第一陸軍病院に入院して療養中であった。前夜からの空襲警報が解除され、二階の病室の窓からは真っ青に晴れあがった空に、白亜の廣島城が見えていた。 若い看護婦さんが爆風除けとテルテル坊主を寝台に括り付けて出ていったあとは、窓の下に馬のヒズメの音と、女子挺身隊の歌う「特幹の歌」の澄んだ歌声が聞こえてきて次第に遠ざかっていった。
     
            ♪  翼輝く日の丸に
              燃える闘魂眼にも見よ
              今日もさからう雲切れば
              風も静まる太刀洗
              ああ特幹の太刀洗

      
      「さわやかな朝だなぁ・・」と思った次の瞬間、ピカッと音もなく青い閃光が目を射った。
      どれだけ時間が経ったか判らないが「ここに居るがな」「痛いよ~」と言う声が遠くで聞こえ、彼の意識を呼び戻した。と共に、うめき声とも叫び声ともつかぬ哀願の金切り声が近くなってきて、ぼやけた目に煙とともに次第に火の海と化していく状景が見えた。突然、熱風がさっと吹き降ろし、この世の生き地獄が広がっていく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵である。
     
     暗い影を落としながら北西に広がるキノコ雲、30万の広島市民のうめき声がこのきのこ雲の下に広がっているのだ。暗黒の塵煙のなかでほとんどの家屋は倒壊し、数分後には随所に火災が発生して市内の大部分は火の海と化し、収拾のつかぬ大混乱に陥った。国宝の廣島城・五層の天守閣は大音響とともに北側の濠の中に崩れ落ちて行ったとあとで聞かされた。

     
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     原爆の洗礼を受けたのに、不思議と音の感覚がなく、燃え盛る炎の中にありながら熱さを感じず、又恐怖感すらも無いままに、しばらくは火を背に受けながら身動き一つ出来なかった。一瞬にして変貌したこの地獄絵を、自分自身が生きてこの世のものと感じるまで、ただ呆然と立ち尽くしていたのだった。
      髪を振り乱し、全身火ぶくれになり、半狂乱のまま火の中を走って行く女性がいる。たしかあの看護婦さんに違いない。川に飛び込んでそのまま息絶えた人がいる。その水の上を紅蓮の火が走って行く。
     
     ようやく彼は歩き出した。市内の至る所から次々に火の手があがり、終日天を焦がす勢いで燃え続けている。灼熱の余燼は夜空を染めて広島最後の夜は実に凄惨を極めた。何人も足を踏み入れることのできない焦熱地獄、何万人ともいえぬ重傷者がその火の中に溶けて行ったといわれている。
     
    イメージ 1 彼は燃え続ける広島市内を後にして太田川の上流に足を運んだ。不意に大粒の黒い雨が降ってきて白い病衣が褐色に変わって行った。男が居り、女が居て、少年が居て、少女が居る。みんなはぐれた肉親を捜しているのだった。男も女も着のままの姿で血と膿のにじんだボロボロの衣服を僅かに身にまとい、恰も幽鬼のような姿で下駄も靴も履かないはだしのままである。頭上から照りつける真夏の太陽の熱さにも不感症になって居るように見えた。まるで「生きた屍の群像」である。
     
     彼は不意に意識が遠くなった。誰かに揺り動かされてふと気づいてみると、道端の草むらの中に寝ころんでいた。揺り起こしてくれたのは、片方の目がつぶれて、手はボロがぶら下がったように皮が剥がれて居る、半裸体の男性であった。
      ↑ (母と子)

      親切にも  「こんな所で寝て居ては駄目だ。もう少し歩けば戸坂だ。病院もあるし、医者もいる。頑張るんだ!」と頭から血だらけになって居る彼を抱き起こして励ましてくれた。当時、戸坂小学校には陸軍病院の分室が設けられていた。彼らは「戸坂へ」「戸坂へ」を合言葉のように口にしながら進んで行った。
      ようやく戸坂へ倒れこむようにして辿りついた負傷者たちも、2,3日の間に600人近くが死に、長尾山のふもとのあぜ道には魚市場のマグロのように死体が並んでいた。
     
     この時の彼は全身火傷で半裸体、右前頭部の裂傷、後頭部陥没骨折で、自分が歩けたのが不思議なくらいだった。感覚もぼやけて夢遊病者のようだったに違いない。病院に付いた途端、彼は意識を失った。気が付いたときは病院の廊下の隅にころがっていたのである。

     「病院はいっぱいで収容することが出来ません。歩ける人は治療を受けてから民家にお世話になってください」と役場の人に指示されて彼は病院の外に出た。救護活動をしていた地元の人が差しだしてくれた一杯のお粥ものどを通らない。真夏の炎天下の大地は焼け付くように熱く、素足ではとても歩けなかった。
     彼はこの時初めて「自分が軍人であったこと」に気が付いた。父が予備士卒業の時に持たせてくれた軍刀を失ってしまった事が悔やまれ、丸腰の自分自身を恥ずかしく思えてならなかった。

      原爆の災害は全市に及び、負傷者は近郊の学校や軍隊の施設に運ばれたが、重傷者は手の施しようがなく応急処置さえ受けられずに次々に死んで行った。その多くは、苦悶のうちにただ「水を呉れ!」「水を飲ませてくれ!」と、叫びながら次々に死んで行った。応急の収容所に運ばれることもなく、被爆地や川べりで父母や妻子の名を呼びながら、あえなく死んで行った人もおびただしい数に上っている。
     
     彼はその後、戸板市助役の清水さん一家の献身的な看病により一時は危篤状態に陥った命を取り留める事ができたが、翌日から全く起き上がることが出来ず、化膿し始めた左腕の火傷の痛みに耐えられなかった。天井から紐を垂らして腕を吊り上げ、夜は月を仰いでわずかに気を紛らわすのが精一杯であった。。
     
                 この腕の痛み消ゆるならば
                   切ってくれと言わんとせしがこらえ居たり
     
     彼はその後、下痢、鼻血、吐き気、高熱が続いたので病院に戻ったが、周囲の患者達は朝になると毎日数人が死んでいた。病院の分室は小学校にあり、その運動場の片隅のむしろ囲いの中に死体が山のように積んであったそうである。
     
     来る日も来る日も地獄のような苦しみの中で彼は8月15日の終戦の日を迎えた。彼は敗戦の口惜しさも悲しみさえもなく、ただうろうろして天井を眺めているだけで、陸軍将校としての使命感にも不感症になって居た。

    イメージ 2  原爆の熱線は人体に火傷を負わせたが、同時に放射能が皮膚の内面を破壊して醜いケロイドを形成した。彼は毎日固まった火傷のかさぶたを取っていたが、そのあとには膿がたまり傷口にはウジが沸いた。死臭の中の痛みと苦しみと不安は、いっそ死んで行く人の方が羨ましいほどであった。頭のカサブタを取れば髪の毛も一緒に抜け、体は日に日に痩せこけて肉親でさえ本人と見定められないほどであった。
     
     その後、8月末に郷里の滋賀県に帰り、慢性白血病の治療に当たったが外傷が治癒するだけでも約100日を要したが、その年の暮れにはようやく教職に復職して翌年再生の地、ヒロシマに赴いた。
     (ヒロシマのキノコ雲)
     

      世界にも類を見ない被爆体験者の生は、一面頗る過酷である。常に死がその影を落としているのだ。死を忘れて生きることが出来ないのである。彼はこの非情な体験によって我執と我見を捨て、蘇った命を精いっぱい生きようの決心した。 教職を定年退職後、彼は仏門に入った。
     
     「死ぬときは死ぬほかはなし。病むときは病むほかはなし、苦しむときは苦しむほかはない。」

      彼は苦悩を救う唯一の道はただ苦悩を無くすのではなく、苦悩を背負うて生きて行く力である。身にかかる悲しい境遇を生かして生きるのが真の勇気である。「苦しみから逃げずに苦しむ」そこから新しい道が開ける。諸行無常、無我の境地に達するまで苦しむ、そこに新しい道が開けるのである。」と述懐している・・

     
    * 豊橋予備士官学校、第一中隊同期生たちの被爆記はこれで終わりにします。 いずれも、第一中隊同期の会の文集から抜粋しました。
      紫蘭も、もし広島方面に配属になって居れば、当然同じような運命に遭っていたかも知れません。
    戦後もはや69年、卒寿を過ぎて今更ながら人生の機微、不可思議さを感ぜずにはいられません。
     
     
      * 若くして祖国に殉じた戦友たちに代わって、平和な日本、平和な世界のために。。
     
     
     


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           (142) 「八重ムクゲ」   
     
        ムクゲには一重のものと八重咲きのものがあります。
     
       「八重ムクゲ・白」
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                      白木槿(しろむくげ)このごろ母の病みがちに    平 絵美子
     
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                     これは八重かなぁ?
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    ムクゲは平安時代に薬用として日本に伝わったようで、白ムクゲのつぼみを乾燥させたものを胃腸カタルや下痢の薬として使い、木の皮も同じような効果があるそうです。。
     
     
        「八重ムクゲ・赤」
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      * どうやら九州は台風の直撃をまぬかれてやれやれです。 進路にあたる地方にはお気の毒ですが、おかげで風が涼しい。
     
     今日は月一の検診日、血圧133-63で異常なし。。
     来月から主治医が転勤でまた代わるらしい。総合病院はこれだから困る。。

     帰りに銀行の前の歩道にヘビがうろついていました。それもなんと薄緑色。。
     口の中も薄いピンク色です。これは白ヘビの出来損ないか。。@@//

     白ヘビは縁起がいいそうだが、薄緑色はどうかなぁ。。
     とにかく白蛇は弁財天のお使いだと言うし、銀行の前だからきっとお金がたまるにチガイナイ、
      シメシメ・・(^^)/
      尤も、あと30年も長生きすれば・・の話だが。。
      
        

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         (67) 「8月9日・夏帽の思い出」

     8月9日・今日は長崎原爆の日です。
     この日が来るといつも中学の同窓だったH君の夏帽のことを思い出します。
     昔の中学生の制帽は、夏には上の方を白い布で覆うようになっていました。 
     今日はその「夏帽」についての思い出です。
     
          わが夏帽どこまで転べども故郷    寺山修司
     
    ↓ 「明治の母校の先輩・大きな(中)の帽章が懐かしい。
     
    イメージ 1  戦争も厳しくなった昭和20年には汽車の運行も少なくなり、乗車券の発売数も限られていて乗客は朝早くから駅頭に並ばねばなりませんでした。

     同窓のH君は長崎医大の学生でしたが、夏休みの登校日にやっと長崎までの切符が手にはいり、幸運にも大学に登校できましたが、ちょどその日が8月9日、あの長崎原爆の日でした。
     彼は全身に火傷を負い、一週間ほど苦しみぬいて亡くなりました。一方、同じ同窓のY君は不運にも切符が買えず、登校できなくて逆に原爆に合わずに済みました。
     切符一枚が、逆に両君の生死を分けました。
     
     前記のH君の中学時代は、小柄で色白の真面目な秀才でしたが、気は優しくて運動神経はからきし駄目でした。いつの時代
    でもそうですが、こんな子は悪ガキたちの対象になりやすいものです。

     
     1年生のある晴れた日の午後、I君は下校中に、H君が悪ガキ連中の悪ふざけに遭い、帽子をバスケットボールのように
    、たらい廻しされている場面に出合いました。 
     最後の一人がちょうど通りかかったI君に帽子を廻してきました。(或いは悪ガキはこれでおしまいにするつもりだったの
    かも知れません) どちらかというと、受け取ったI君にとっては迷惑な帽子でしたが、彼はそのまま路傍に放り投げてしまいました。
     
     H君は怒って「謝れ!」と詰め寄ってきましたが、I君は「それは筋違いだ!」と思ったので、口論となり、体の大きいI君はH君を路上に投げ飛ばして、一目散に家に逃げて帰りました。
     ところがH君が泣きながら、どこまでもどこまでも、追ってくるので、I君は今度は家の自転車に飛び乗って逃げ出しました。そのうち夕暮れとなり、腹も減ってくるので、もう大丈夫だろう思って家に戻ってみると、H君はまだ家の玄関で頑張っているのです。
     
     I君はすっかり、途方に暮れました。
     こんな事になるなら、帽子をキャッチしたとき、すぐに彼に渡しておけば良かった
     いや、彼を投げ飛ばす前に、一言「悪かった!」と謝っておけばよかった
      そうすれば、何事もなくすんだのに・・・
     
     そのとき、I君の母が家から出てきて、仲を取り持ってくれて、彼は全面的な謝罪を余儀なくされました。そして、仲直り
    を誓った二人はともに声を上げて泣きました。
     後年、I君の述懐によれば、「二人の涙は、必ずしも同じではない、私の涙は屈辱の苦さであり、Hの涙は、勝利の喜びで
    あったに違いない・・」と。
     子供から少年期に向かう思い出の一こまを、I君は同窓会誌にこう書き記しています。
     
     前記の通り、「H君」はその後旧制高校から長崎医大に進学し、原爆によって悲惨な最期をとげました。 一方、不運にも切符が手に入らず、登校できなかった同級の「Y君」は逆に原爆死を免れましたが、それが心のキズになったのか数年後に自殺して果てました。
     
     もともとH君は京大の哲学科の志望でしたが、医者の父が「哲学ではメシが食えないぞ」と反対し、医大に進学したのです。彼の死後、お母さんはあの時なぜ父に反対して京大に進学させなかったのか・・そうすれば原爆に遭わずに済んだのに。。と涙ながらに述懐されました。
     
     「I君」はその後、別の大学に進み、永らく新聞記者として過ごしました。
      彼の文章の最後に一句ありました。
     
                 星空の友と語らう原爆忌

     *余談ながら、同じく同窓のAは、中学時代にこのH君がBにいじめられているのを知り、義侠心からBを殴ろうとしましたが、逆に組み伏せられて殴られてしまったとか。。(~~:)
     そのBは小さいながらなかなか気が強く、卒業後は航空士官学校に入りましたが、卒業とともに特攻隊員としてフイリッピン沖で戦死しました。弱冠20歳でした。

     Aはその後京大を出て活躍、90歳を越えてなお、シランとともにゴルフを楽しんでいます。
     生きるもの死ぬるもの、すべて水の流れとともに。。 の感を深くします。
        
     

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  • 08/09/14--18:04: (143)ハマボウ
  •       (143) 「ハマボウ」 
     
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     ハマボウ(浜朴あるいは黄槿)もムクゲと同じく、アオイ科の落葉低木です。
    本州・四国九州から韓国の済州島、奄美大島まで分布していて河岸の入江の砂泥地に生育している塩生植物です。夏に黄色の花を咲かせますが、その鮮やかな黄色い花が美しいので公園や人家にも庭園木としてよく植えられています。
     
     
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     ハマボウ(浜朴)という名前は浜に生える朴(ホウ)の木という意味です。
    漢名を「黄槿」というのは、ムクゲの花に似ているので「黄色い木槿」という意味からでしょう。花は盃状で直径6~10セ
    ンチ、黄色い花の中心部は焦げ茶色になっています。 やわらかな花の黄色がいかにもソフトな感じがする植物です。
     
         黄色もきれいですが、しぼむときの薄い橙色もとてもシックで素敵です。
     
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    *台風11号は四国から中国地方を通過するようですね。
      進路にあたる方、被害のないように祈っています。
       今からスーパー買い出しです。
     
     
     
     
     
     

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          (68) ナガサキ被曝・N君の場合
     
     広島に続いて8月9日には長崎に原爆が落とされた。
     米軍機は初め小倉の陸軍造兵廠を目標に原爆投下作業に入ったが、目視による目標確認に失敗、次第に雲が出始め、また燃料も切迫してきたので爆弾投下を第二目標の長崎に切り替えたという。
     そして午前11時02分、美しい長崎の町は一瞬にして死亡7万4千、負傷7万5千という、筆舌に尽くしがたい惨禍を受けた。当時約24万名の長崎市民のうち実に15万人が被災しているのである。
     
              
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     長崎には三菱造船や三菱電機などの軍需工場が多く、当時は勤労動員された中学生、女学生がたくさん働いていた。
     佐賀からも佐賀商業と師範生が出かけていたが、8月9日の当日は、交代のため佐賀師範生は佐賀に帰り、代わりに佐賀商業生が出かけて、原爆の犠牲となった。
      これまた、運命のいたずらとしか言いようがない。
     当時の佐賀商の同級生もすでに85歳になった。生き残った有志たちが母校に集まって、今日も被爆死した友人たちの慰霊祭が行われた。
     
         「N君の場合」
     中学同窓のN君は昭和20年8月9日午前11時3分、勤労学徒(熊本高工・現熊本大)として長崎の三菱兵器の西郷寮に居て原爆に遭った。文系学生と違い、理系の学生は学徒出陣の対象になっていなかった。徴兵猶予のため、卒業した時点で軍隊に入るのである。
     この日は晴れ渡った好天で、彼は二階の窓を開け壁にもたれて学友と談笑していた。空襲警報が発令され空には爆音が響いていたが、警報には慣れていて防空壕に入るなどとは考えなかった。まさか山中のこの寮を爆撃する事はあるまいと信じ切っていたのである。
      そのあと警戒警報に変わった途端、ピカッ、ドーン・・
     
     一瞬の強烈な閃光、何が起こったのかわからぬまま彼の体は屋根瓦、梁、柱、板切れに覆われてしまった。幸いにも二階だったのでそれらを払いのけて這い上がるのにさして困難ではなかった。呆然として見下ろしてみると、寮の建物はすべて崩壊し、しばらくして紅蓮の炎に包まれた。
      
      その炎の中から這い出てきた青年が「助けてくれ!」と叫ぶ。
     肩を貸しながら炎より遠ざかると青年はようやく口を開いた。青年は鹿児島の七高(旧制)からきた勤労学徒で友人と二人で寮の一階の部屋で眠って居たところだった。その友人は大きな梁がのしかかってきてどうしても抜け出ることが出来ず、助けようにも助けることが出来ない。そのうち火が回って来て友達はその苦しさのあまり舌を噛み切って死んだ」と話した。
     舌を噛んで死ぬとは、よほどの苦しみだったのに違いない。その無念の気持ちが思いやられてならなかった。
     
     Nは焼け付くような日差しの中でしきりに咽喉が乾いて苦しく、谷川の水を飲んだ。体にはこれと言う傷はなかったが、咽喉からはどろどろの液体が出ていた。どのくらい時間が経ったのだろうか、そのまま放心状態でしばらく休んでいると麓の方から「線路に救援列車が来ているから下山するように」と言う伝令の声が聞えてきた。建物はすべて倒壊しており、杉並木が高さ4m位の所で見事に折れてしまっていた。爆風による衝撃波であろうか。
     
                          
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                                       (浦上天主堂付近の焼け野が原)

     
     道端に黙然としゃがみこんでいる人たち。坊主頭で衣服が裂けてしまった女性の頭髪は一瞬のうちに焼け焦がれてしまっている。荷車をつけたままで馬が死に、その横には馬車引きの人が息絶えて倒れている。戸板に怪我人を乗せて看護しながら避難する人が通り過ぎる。線路近くの都市ガスのタンクが無残にも鉄骨だけが飴のようにひん曲がって残っている。
      
      線路には救援列車が来ており、貨車に乗り込むと黒煙を吐きながら休み休み走り出した。これで助かったという安堵感がようやく生まれてきた。諫早駅に着いたのはすでに夕方になっていたが、軽傷者は下車してその場で治療、重傷者はそのまま大村海軍病院に向かうことになった。
     
     Nは自分は元気で異常はないと思えたが友人のN君が顔面いいっぱいガラス片を受け出血して重傷のため彼に付き添うことにしてそのまま大村に向かい自分も入院患者となってしまった。病院での応急処置は後頭部の首筋から右肩にかけての熱線による火傷の処置を受けたほかは終日ベットに横たわっていた。2,3日は火傷の痛みは感じなかったが、次第に化膿し始めその痛みと嫌な臭いに悩まされた。
     
     8月15日、終戦の詔勅が下りたが、火傷の痛みに苦しみながらもどこかほっとした安堵感があった。ようやく火傷が良くなって2週間ほどした頃であろうか、今度は便の中に血が混じっているのを発見、てっきり赤痢にかかったと思い連絡すると、ただちに隔離病棟に入れられてしまった。まさかこれが白血病であるとは知る由もなかった。枕には抜けた髪の毛が着き、指で髪をすくだけで抜けた髪がついてくる。顔の半分には紫斑が出来、下痢が続いて大変だった。
     
     以後、毎日両腿にリンゲル注射を行い、その他静脈注射など一日7本も注射を打つという有様だった。ベットを下りて便器を扱うのも苦痛ではあったが、不思議なことにこのまま死ぬとは想像もしないし、心配もしなかった。あとで思えば、黒い灰に汚染されていたであろう谷川の水を飲んだのがいけなかったのだろうか・・
     
     病院からの危篤の電報で驚いた母がやってきた。母はもう助かるまいと諦めていたらしいが、退院まで2週間ほど付き添って看護してくれた。白衣姿で陽気に振る舞ってくれた母の看護のおかげで自分は命拾いをしたようなものである。
      退院のお礼を看護婦さんに言ったとき「原爆患者で隔離病棟に入って生きて出てきたのはあなた一人だけです」と言われた。
     
     彼の母校の I 先生は、交代で長崎にやってきたばかりで浦上の工場で被爆、爆風に吹き飛ばされ溝にはまって亡くなられた。また級友7名はたまたま長崎医大に受診に出かけていて、建物が全壊して全員即死、その中のY君のお父さんは彼の弁当箱を探し出して形見として持ち帰ったという。。
     
     
      * N君からは数年前、ひとり故郷を離れて遥かに遠い「北国のとある町の施設に入っている。」との便りがあったが、その後の消息はない。
     
        ・・・・・・
     

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                      (144) 「トロロアオイ」 
     
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      花が一回り大きいですが、ハマボウにそっくりなのが「トロロアオイ」です。
    「トロロアオイ・黄蜀葵 」はアオイ科の多年草で中国の原産です。
    夏にオクラに似た淡黄色の大きな花が咲きます。ハマボウの花は大きさが4,5センチですがトロロアオイは直径12センチ位もあり、中心部に濃い赤紫色の模様があります。
       
      花は五弁で綿の花に似た形をしていて、朝開いて夕方にはしぼみ、夜には地面に落ちてしまいます。
     この花の根の部分からは粘りのある粘液が出ますが、これを「ネリ」と言い、和紙を漉くときの糊として使われます。
     
     
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     紙細工のようにふわふわな花は食べられるそうで、おひたしや三杯酢にして食べるそうです。
     植物園のおばさんから切ってあげましょうか、と言われましたが、なんだか紙を食べるヤギになったみたいなので、丁寧にお断りしました。<(_ _)>。。
     
      別名を「花オクラ」と言いますが、一日花なので食用として市場に出ることはないそうです。
     
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    *朝のうち、農協直売所に盆花やお供え物の買い出し。。
      車がいっぱいで身動き出来ない! これじゃ-、花屋さんもあがったりだろう。。
      安くて新しいから、我々庶民は助かるのだが。。
     
     
     

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        (145) 「百日草」
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     「百日草」はキク科の一年草でメキシコの原産。 日本には1860年ごろに渡来しています。
    昔から花壇や仏花用に栽培され、いま出回っているのはほとんど八重咲きです。

        花は10センチ以上の大輪から5センチくらいの小輪までと花の形も多く、花色も白、ピンク、赤、黄色など様々です。また花期も7月から11月までと文字通り百日以上楽しめます。
     
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       *お盆のお墓参り、暑い日差しがまた戻っってきました。
       今夜は飲み会、ビールがおいしそう。。ゴックン!!
     
      今朝はヤフーブログのメンテナンスをやっていたようだが、なんだか調子が悪い!
      改良が改悪にならねば良いが。。
     

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          (146) 「さるすべり・百日紅」   
     
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      百日紅(サルスベリ)は中国が原産で、江戸初期に庭木として渡来しました。
    花期が初夏から秋までと長く、漢名の「百日紅」「千日紅」はその名のとおり、花期が長くて百日も続くという意味でつけられました。 しかし実際は40日ほどだそうです。
     
     
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      サルスベリ「猿もすべる」という、その名のとおり、つるつるした赤褐色の木肌が美しいので床柱や杖の材料などに使われます。
     
     また、春の芽吹きがおそく、他の木々が繁ったあとに芽が出て、秋にはいち早く落葉してしまうので
    「なまけの木」という名前もあります。
     
     
            ゆふばえにこぼるる花やさるすべり    日野草城
     
     
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     さるすべりは、枝の先の6弁花が美しく、よく庭木として植えられていますが、花のおしべには2種類あります。 中央のたくさんあるおしべの花粉は、粘りがなく、蜂を誘い、粘りのある花粉はそのまわりに長く突き出ています。

      
     サルスベリの花色は柔らかい桃色が普通ですが、そのほか白、桃、赤紫と多彩です。
     桃色と白色が対で植えられていると、一段ときれいに見えます。
      白いのはあまり見かけませんが、白単独ではあまり映えないからでしょうか・・  
     
            淡いピンク色や白い色もあります。
     
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                   女来ると帯解き出づる百日紅      石田波郷
     
     
     *佐賀北、甲子園にがばい旋風の再来ならず。。
       県立の進学校としては、まぁこんなものでしょう。
     でも、若者らしく溌剌として真摯敢闘・いい試合でした。
     
     メンバーの皆さん、ご苦労様でした。今度は進学の方で頑張ってもらいましょう。
     書道部の高校コンクール13連覇中の名誉にかけて。。
     
     
     
     
     

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  • 08/13/14--18:59: (147)ミソハギ
  •       (147) ミソハギ 
     
     
     ミソハギはミソハギ科の多年草で、草原や田のあぜなど、湿気の多いところに自生しています。
     
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        「ミソハギ」は花が萩に似ていて、よく溝などに生えるので「溝萩」ともいい、また、むかしこの花を禊(みそぎ)に使ったので、「みそぎはぎ」から「ミソハギ」になったという説もあります。
     
     現在は、盆花としてよく使われ、当地の方言では「ソーハギ」と呼んでいます。
          
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       *静かなお盆です。
     
            御仏(みほとけ)は さびしき盆と おぼすらん    一茶
     
     
     

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  • 08/13/14--21:25: (69)従軍看護婦
  •        (69) 従軍看護婦
     
     終戦の日を控えてこのところのテレビは、戦争の記録の放映が多い、昨日は「ペリリュー島の狂気の戦い」一昨日は「シベリアに抑留された従軍看護婦」だった。いずれも戦争の惨禍を描いて、胸迫るものがあった。
     ところで「従軍看護婦」とはどんなものだっただろうか。 
       戦時の日本男子は、召集令状によって召集されて軍務につかねばならないが、日本赤十字社の看護婦にも召集状がきた。
     「看護班要員トシテ召集ス」という電文によって、召集され戦地に派遣されるのである。
     
     昭和17年3月、日赤中央病院の看護婦養成所に入った「大山タイ」さんは、昭和19年5月従軍看護婦として召集を受け、フイリッピンのマニラに派遣され、6月6日にはマニラ北方のカバナツァンの日赤本部に配属された。
     
     やがて、戦況は悪化し、制空権もアメリカに奪われ、ゲリラ活動も活発化した。
     次第に病院も混雑し始め、やがて山地に撤退、白衣は目立つというので緑色に染めて着ていた大山さん自身もマラリヤに苦しんだりした。
     
     20年5月になると食料もなくなり、患者と一緒に山中へ山中へと逃げて行った。薬品や衛生材料の補給がきかず、ある程度回復した兵隊にはマーキュロ(赤チン)を小瓶に5ccと包帯一個だけを持たせて戦地に帰した。大山さんはその兵隊の後姿が忘れられないという。
     
     「見込みのないものには薬を使わず、精神的看護をするように」という指令まで出ていた。
     中には死にそうな戦友に目をつけて、当人が死んだらその軍服を俺に呉れ」と予約する兵士までいて、「ほんとに戦争は、想像もつかないような事が起こる」と大山さんは感じた。
     
     たまたま、「マレーの虎」と異名をとった猛将「山下泰文閣下」が現地を通過するというので、芋を探し出してキントンを作って接待につとめ、また、バナナの葉で急造したうちわで後ろから扇いだりした。何か閣下から明るいニュースがあるかと、期待したのである。
      しかし、そんな明るいニュースはひとつも聞かれず、「お前たちは今頃まで、どうして内地に帰らなかったのか?」と不審げに口にしたという。
     
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                               (シンガポール陥落・山下司令官)
     
     いよいよ最後というときには、救護所にも昇汞(ショウコウ)錠が配られ、自決することになっていた。今問題になっている沖縄の強制的集団自決も、さもありなん、と思われる。
     
     降伏後の捕虜生活を経て、敗戦後の昭和20年12月に帰国、何よりも赤十字本社に帰国報告にいくと、係員の口から出た最初の言葉は「貸与した制服はどうした?」「飯ごう、水筒はどうした?」という(員数調べ)だったという。 大山さんは何ともいえない悲しい気持ちになったそうである。
     
     「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓の一節が無かったら、何十万という犠牲者を出さずに済んだかも知れませんね」と、大山さんは語っている。

      ♪ 「婦人従軍歌」
           (ユーチューブ)→    http://youtu.be/-FlqLn4ddoE
     
         火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 
         跡には虫も声たてず
         吹きたつ風は生臭く 
         くれない染めし草の色
     
         わきて凄きは敵味方 
         帽子飛び去り袖ちぎれ
         斃(たお)れし人の顔色は  
         野辺の草葉にさも似たり
     

    *この歌は、作詞者の加藤 義清が、戦地に赴く従軍看護婦の凛々しい姿を新宿駅駅頭で見て感動し、一夜で書き上げたと言われています。
     
     
      *今日も又降り出しました。 あと10日ほどは雨もようとか。。
        地球はどうかなっているんじゃないのかなぁ・・
        このまま秋になってしまうかも。。
     
     
     
     

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  • 08/14/14--19:13: (148)玉すだれ
  •       (148) 「玉すだれ」 
     
     
       お盆のお墓参りに行ったら、玉すだれがあちこちに群れを成していました。
     
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     「玉すだれ」 はペルー原産の球根草で,夏から初秋にかけて白い五弁の花を咲かせます。
     玉のように花が美しく、葉がすだれのように集まっているので「玉すだれ」の名前がついています。
     環境の変化に強く、やせた荒れ地でもよく育ち、砂地だけのの墓場などでもよく見かけます。
     土から直接出ている細長い葉は、ノビルによく似ていますが、葉にはリコリンという有毒物質が入っ
    ているので、食べると嘔吐したり痙攣を起こしたりします。
     
     
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     *朝から断続的な雨が降り続いています。
       盆の15日に雨が降るのも、こんなに涼しいのも初めてです。
     
       農産物の不足、高騰が心配。。
     
     
     
     

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           (70) 終戦の日
     
      8月15日、今日は終戦記念日である。
      終戦の詔勅を聞いたのは、ついこの間のような気がするがもう69年にもなる。
     
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     昭和20年も8月になると、ソ連の参戦、原爆投下と相まって戦況の行方は動かしがたく、もはや日本の敗戦は歴然たるものになっていた。自分は足をけがして陸軍病院に入院中、予備士卒業を前にして当時しばらく一時帰郷をして家に帰っていた。勿論、松葉杖をついた傷痍軍人の白衣姿である。回復すればまた軍隊に戻らねばならない。。
     終戦前夜の様子を古い日記を見てみると
     
     ○ 「昭和20年8月1日」
     夜半、米機来たり、轟然たる一発の爆発音を残して飛び去る。夜明くれば、すなわち「日本国民に告ぐ!」なる宣伝ビラの散布なりしを知る。佐賀爆撃の予告なり。B29の写真を添付しあり。
     
     ○「8月6日」
     夜8時、ラジオはけたたましく今夕、グアム島を出発せる五、六百機の大編隊あるを告ぐ。
     ただちに、諸般の準備完了す。今夜こそはと観念せリ。
     十時過ぎ、敵大編隊関門付近を行動中との情報あり。夜警より帰えりし母が「予想された空襲も何事もなくすみそうだね」という間も有らばこそ、再びラジオは、新たなる敵の大編隊、鹿児島方面に侵入、甑島、天草、島原を経て北上中、との西武管区情報部の発表を伝う。
    これは!と思う間もあらばこそ、警戒警報につづき、ただちに空襲警報発令され、サイレンは暗き夜空に不気味なる唸り声をけたたましく叫びつづけたり。
     
     「敵機来襲!退避!!」の指令あれど、防空壕に飛び込む暇もなく、東の空に昼を欺く閃光燦然たり。
    「早く!早く!」の母の声にせかされて壕内に飛び込めば、たちまちにして轟々たる敵機の爆音と爆発音に交じりて、バラバラと落ちる焼夷弾の音物凄く、ただただ神仏の御加護を祈るばかりなり。
     微々たる人間の力を以ってしては如何ともしがたき業火は、かえって華麗極まりなき夏に花火に似て、巷には美しくも狂わしき修羅場を現出しあらんか、と心憂うるばかりなりき。。
     
     敵機の来襲十数度、ようやく呆然たる我が身に目覚めて壕より出でたれば、倉庫の窓より西の方、夜空に2点の業火あり。また南方には天に沖する紅蓮の炎を見る。諸富方面かと思いしが、こは市郊外の大崎、光法新村なりき。幸にして市内の大部分は無傷にて安堵す。かくて恐怖の一夜は明けゆきぬ。
     
     ○ 「8月7日」
     昨夜の空襲により親類のF家、全焼せるを知る。預けありし我が家の疎開荷物、また一物も残さずして全焼せり。姉、母兄などの衣類、紋付、冬着などすべて灰燼に帰し、黒漆塗りの箪笥もろとも我が蔵書類もすべて灰となれり。
    着物は女の命なれば母、姉の哀惜措く能わず。、しばし悲嘆の情、ひときわなり。
     されど、我ら命有り、家有るをもって満足すべし。
    「8月12日」
     白昼、B25中型爆撃機6機、低空にて市内、県庁付近を急襲、県庁、三栄旅館など数か所に爆撃の被害あり。思いもよらぬこの奇襲に我ら家族一同、防空壕になだれ込みて危うく難をのがれたり。
     ソ連、参戦す。 去る六日、広島に新型爆弾が落とされ被害甚大、その惨状言語に絶す、という。
    「8月14日」
     長崎に新型爆弾落下の報有り。
     我が家の家屋疎開の期日、明日までなるを以って、隣組の皆さんとともに一日繁忙を極む。
     
    「8月15日」
    未明よりラジオは本日正午、重大発表あるを告ぐ。
    重大発表とは本土決戦に対する国民の決意を促す声明ならんと思いしに、豈はからんや、終戦の大詔とは。。
     晴天の霹靂! 8月15日。大東亜戦争終結の日!
     戦争終結の聖断、ついに下る。。
     ああ、国破れて果たして山河ありや、なしや!
     
     正午、ラジオ放送は高く低くむせぶがごとく、天皇陛下の詔勅を伝えたが、雑音交じりにて聞き取りがたく、意味が良くわからず、一同黙然として聞き入って居た。これで、我が家の解体もなくなり、吾が輩の軍隊への復帰もなくなってしまう、と気づいたのは、しばらく時間がたってからであった。
     嗚呼!ついに破れたり..

     ソ連の参戦と新型爆弾の登場はついに光輝ある皇国三千年の歴史を踏み砕き、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏、今や我が大和民族は史上初めての敗北なる現実に直面せり。悲嘆か歓喜か、否、ただ感無量にして万感こもごも至るのみである。
     
          。。。。。。。。。

      * 今日は朝から雨が激しく降っている。
        戦争で亡くなった多くの人々の涙雨だろうか。。

                緑なき都会ひろがり終戦日    下村非文

         

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        (149) 「オシロイバナ」   
     
     
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    「白粉花」はペルーなど熱帯アメリカ原産の多年草で日本には江戸時代にはすでに渡来していました。今は野生化したものも見られます。小豆大の固くて黒い種をつぶすと白粉のような白い液が出てくるので「白粉花」の名がついています。
     
     また夕方からきれいに咲くので「夕化粧」という別名があります。夕方から咲く花には珍しく花色が白、赤、黄などと多彩ですが、夕方に咲いた花は翌朝にはしぼんでしまいます。でも、秋も闌けて気温が低くなると昼間でも開いているようになります。
     
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    *今日は地獄の釜鎌も開くという藪入りの日、皆さんのんびりしていますか?
     涼しすぎる夏、明け方は肌寒さを覚えます。
      お盆にこんなお天気は初めてです。 なんかおかしい。。
     
     

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              (150)  「初雪草」 
     
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      「初雪草・ハツユキソウ」はトウダイグサ科の一年草で、北アメリカの原産です。
     薄い緑色の葉の縁が白くなっていて、まるで雪が降ったようで、いかにも涼しげで爽やかな感じがし
    ます。
     
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     初雪が降ったように上の葉ほど白くなっているので、初雪草という名前がついたのでしょう。
     夏から秋にかけて直径1センチくらいのごく小さい花を数個、頭上につけます。 花が永い間咲き続
    けたあとには、丸い実ができます。
     枝を切ると切り口から白い液が出ますが、これは有毒で肌に付くと炎症を起こしますのでご用心。

     
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       初雪のように白いのは葉で、花は真ん中に小さいのが4,5個ついています。
     
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     *朝は肌寒いくらいでしたが、お昼ごろから青空が広がりやっと夏らしくなりました。
       いつものように残暑厳しくなるのかな。。
       みんな帰ってしまい、また二人だけの老々生活に戻りました。
     
     
     

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           (151)   「ハツユキカズラ」   
     
     初雪草と同じく初雪の名がついていますが、も少しカラフルで明るいのが「ハツユキカズラ」です。
     
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     「ハツユキカズラ」はキョウチクトウ科の常緑つる性の低木で、日本、朝鮮の原産です。
     葉に白い斑点があり雪のように見えることから「初雪かずら」の名前がついています。ピンク色の新
    芽と白い斑入りの葉とのコントラストがとてもきれいな観葉植物です。
     
     新芽のうちは赤みの強いピンク色ですが、夏から秋にかけて次第に白と緑が強くなり、終いには緑一
    色の葉になります。
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           流燈のひとつにわかにさかのぼる    飯田蛇笏
     
     
      *お盆も明けてまた静かな老々生活に戻りました。
        今日もまた降ったりやんだり、涼しいのは助かりますが。。
     
     
     

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  • 08/17/14--20:37: (71)終戦の日
  •       (71) 「8月15日」 敗戦の日
     
     昭和20年8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏をしました。
    日中事変以来、日本軍の損害は、戦死約233万人、戦災による死傷者約70万人、家屋の焼失298
    万戸という甚大なものでした。
     
     8月15日は我が家の強制疎開による家屋解体の期限日でした。
     前日までに、隣組の皆さんの協力で家財道具をみんな運び出してしまっていたので、、ガランドウの
    建物だけが残りました。 その前に、親類に預けたタンスや衣類など大事なものは、親類の家が爆撃に遭い、全部燃えてしまいました。
     
     終戦の詔勅を聞いて、悔しくて茫然自失した思い出がありますが、その一方どこかホッとした気持ちがあったのも事実です。もうあのいやな空襲警報のサイレンをを聞くこともなく、灯火管制もなくなり、電気も明るく灯すことができるのです。第一、また軍隊に戻ることがなくなったのですから。
     
    次の文はある戦争未亡人の手記の一部です。。
     ○8月の15日、とうとう神風は起こらなかった。
     前線の兵隊さんはどうしていることだろう。痛嘆のあまり、一同自決! いや、そんなことはない!

     私たちを、可愛い子供を残して死ぬものか、きっと帰ってくる。
     私もとうとう子供たちを守りとおした。もう爆弾で殺されることもない。 
     終戦ーああ、なんと言う空々しい静けさだろう。ただ呆然として、夫が帰ってきたら・・とそればか
    り思う。
     
     しかし天は私に前以上の試練を下されたのでした。
     終戦と同時に軍隊の消滅、物価の暴騰、わずかばかりの貯金の封鎖に、夫の帰還の日の一日も早からんことを祈りつつ、夜更けてコツコツと聞こえてくる靴音に、今度こそは・・と何度胸を躍らせたこと
    でしょう。。。
                   ↑   「手記・いとし子と耐えてゆかむ」・・より
     
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    イメージ 1  終戦後数日して、佐賀にも進駐軍がやってきて、男子は去勢され女子はなぶりものにされるという噂が立ち、逃げろ逃げろとばかり大八車やリャカーに布団や荷物を積んで山の方にぞろぞろと逃げ出す者が後を絶ちません。
     なにしろ、戦争中は鬼畜米英と教えられ、外国兵ははどんなことをするかわからないと、みんな恐れていました。
     
     でも、数日して、何事もなかったのでみんなまたぞろぞろと家に帰ってきました。とても疲れた表情でした。

     
      実際に進駐軍が佐賀にやってきたのは10月初めで、佐賀城内にあった内庫所(鍋島藩の事務所)が、進駐軍の司令部になりましたが、米兵たちは畳の上を土足で上がり、白壁にはベタベタとどぎついペンキを塗りまくっていたとか。。
     でも11月には佐賀の野球の選抜チームと親善試合をやっていますから、双方とも特別険悪な雰囲気ではなかったです。
     
     その頃、米軍の兵士二人が我が家の中に立てかけておいた日の丸の旗を見つけて、取って行こうとしたので、紫蘭は断固として拒絶しました。Oh  No(オーノー) オー!ノー! の一点張りで。。

     帰国時のお土産にするつもりだったようですが、やせても枯れても、シランは帝国軍人の端くれです。
     どんな目に遭っても祖国の国旗だけは絶対に渡すまい、と心に決めていました。

     

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             (152) 「ヘクソカズラ」  
     
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     ヘクソカズラはアカネ科のつる性多年草ですが、至る所に生えている雑草で葉や茎に悪臭があることから屁屎葛(ヘクソカズラ)という名前がついています。
     花期は7月から9月頃で、花びらは白色で中心部は紅紫色になっていて、その色合いが灸を据えた跡のようなのでヤイトバナ(灸花)という別名があります。
     
     
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     ヘクソカズラとは何ともすさまじい名前ですが、昔はクソカズラとも呼ばれて居たそうですから、仕方もな
    いですが、可愛い花なのにこんな名前はこの毒な気もします。それだけ匂いが臭いというわけでしょうが、写真を撮っていても別に臭いとも何とも思 いません。
     
     別名を「サオトメバナ」と言うそうですが、こちらの方がよほど可愛げがあります
    「鬼も十八・番茶も出花、ヘクソカズラも花盛り」という言葉の通り花盛りはどれも可愛いものです。
     
     とにかく花は小さくて可愛いですが、しかし一旦庭にこの草が入り込むと大変です。地を這い、庭木に絡みつき取り除くに一苦労します。だか、「エイ、くそ!」と嫌われるのでしょうかねー。。(^_-)-☆
     
     
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         かわらふじに 延ひおほとれる屎葛(くそかずら)
             絶ゆることなく宮仕えせむ        
                                (高宮王・万葉集(巻十六)
     
     
     *今日も朝から断続的に激しく降っています。
       気温も27度、過ごしよいのはいいですが農産物がたいへん。。
       
       食べ物もあらかた食べつくして、仕方なく雨の中をイオンへ買い出し。
       さすがに野菜類が少ない。
       盆休みのせいもあるだろうが、この雨がにくい!
       水害の福知山に住んでいる旧友はどうしているかなぁ。。
     
     
     
     


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  • 08/19/14--02:18: (72)最後の砲撃
  •        (72) 8月15日・「最後の砲撃」
     
     
    イメージ 1 太平洋戦争でいったい何発の砲弾や銃弾が日米両軍の間で交わされたかは勿論わかりません。

     なにしろ佐賀のような工場地帯も軍事施設もないちっぽけな農村都市を(当時は5万人)を米軍が爆撃するだけで、出撃したのはB29超大型爆撃機が65機、450トンを超える2272発の焼夷弾をはじめ、消火活動を妨げるために鉄片を飛び散らせる爆弾や照明弾を投下したと言われていますから、戦争全体に使われた鉄量や爆弾、砲弾の数は想像を絶するものだったでしょう。
     
     しかし、8月15日に日本が無条件降伏を決定した時点で砲火は収まり、爆撃も砲撃もなくなりました。
     それでは、この戦争での最後の一発は誰が放ったのでしょうか。
     
         ↑ (戦艦・大和の最後)
     
     
     正式の記録によると、グリニッチ標準時で14日午後9時17分(日本時間15日午前6時17分)に、
    アメリカ潜水艦トルスク号が日本沿岸の警備艇を撃沈した魚雷がそうでした。降伏の時刻はそれより2時間47分あとの14日午後11時だったのです。
     
     とはいえ、正確にいうと日本が降伏後もアメリカ側からの発砲がありました。
    降伏の5時間15分後にアメリカの軍艦ヘルマン号は日本軍の飛行機一機が接近してくるのを発見しました。もはや戦争は終わっているのだ、と言うことをヘルマン号の艦長以下すべての乗員は承知していましたが、飛行機が接近するにつれ、どうやら体当たりの神風攻撃をしかけてくるように思われたので、集中砲火を浴びせて撃墜しました。
     
     この砲声でもって、太平洋戦争はすべて終結したのです。
     
     尤も、日本内地での砲声は一夜にして止みましたが、旧満州ではどうでしょうか、ロシア軍は終戦
    後も、旧日本軍や日本人家族を無残にも攻撃したと伝えられています。。
     
     
     


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