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Channel: 95歳ブログ「紫蘭の部屋」
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(14)背嚢が呼ぶ②

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    ノモンハン事件 (14)・ 第三話 「背嚢が呼ぶ」   鳥居少尉の場合

 鳥居少尉は、北海道旭川第7師団・第28連隊・第2大隊所属の速射砲中隊の小隊長だった。

 ノモンハン事件が起こると、安岡支隊に編入されて満洲のチチハルから前線へと向かった。
安岡支隊は安岡中将の率いる第一戦車団を主力に速射砲、砲兵,工兵、自動車隊などからなる機甲部隊である。
 
 
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              不毛の草原地帯を行くわが軍の将兵
 
 6月29日の朝、本隊は一足早く戦車百輌を連ねて威風堂々、大草原を前線へと向った。ところが遅れて出発した速射砲隊が合流地点に来てみると、そこで待っているはずの戦車隊が居ない。戦車の姿が一台もないのである。ただ赤茶色に焼け焦げた戦車の残骸があちこちに残って居るだけであった。
 敵が草原の砂の中に埋めておいたピアノ線にキャタピラを引っかけて、擱座して動けなくなった所を狙い撃ちにされたらしい。上手く敵の仕掛けた罠に落ちたのである。つまり第2大隊は本隊から置き去りにされて草原の孤児部隊になって居たのだ。
 
 
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                     進撃する日本軍戦車部隊
 
 戦況不明のまま大隊は7月3日の早朝に本隊を求めて西の方に移動することになった。ハルハ河畔に出てみると、向こう岸で敵と戦っている友軍の姿が望見できた。第23師団の須見大佐指揮の第26連隊であった。須見連隊はハルハ河を渡った直後に敵と交戦状態に入った模様である。
 
 対岸の交戦の模様はまず、空中戦が目に付いた。高度2千mぐらいの上空で彼我20機位が入り乱れて交戦しているが、火を噴いて落ちていくのはソ連機ばかりである。次々にソ連機が撃墜されていく様子を遠望して居ていると、とても愉快な気分になる。空中戦の高みの見物というわけである。ところが目を地上に移して須見部隊が対戦車戦を戦っている様子をみると、これはまたすさまじい光景であった。
 
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                 撃墜されたソ連軍飛行機
 
 火炎瓶を持った兵たちが、迫ってくる敵戦車に向かって攻め込むと戦車は次々に燃え上がる。その燃えさかる戦車から人影が小さく飛び出してくる。ソ連兵が手を挙げてそのまま砂地に座り込む様子を見ていると、日本軍が優勢のように見えたが、須見部隊には1台の戦車もなく、わずかの火砲とサイダー瓶代用の火炎瓶だけで戦っているのだった。
 
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                                     擱座したソ連軍戦車
 
 戦車には右側に鎧窓がある。ソ連のBT戦車はこの鎧窓が50センチくらいあるので、此処を狙って火炎瓶をぶっつけると、焼けているエンジンの熱で車体に火が付き、空冷式なのでその炎を戦車内部に吸い込むのである。そうして車内は一瞬にして火を噴き、その後20時間ほども燃え続けるのである。
 須見部隊の将兵が、敵戦車と勇敢に戦い、燃えて擱座したままの戦車はざっと数えても百台を超えるほどだった。
 
 
                                   つづく
 

(128)黄色い夏の花

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      (128) 夏の黄色い花   
 
  夏にはカンナやひまわりなど、黄色い花が目立ちます。
 
    ○ ヒマワリ
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 ↑ ひまわり はキク科の中で最大の一年草で、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人によってヨーロッパにもたらされました。その実は炒ってすぐ食用にもなるし、また油を搾ることも出来るので、北欧,東欧の食糧危機を救いました。
 ひまわりの絵をよく描いたゴッホの墓にはこのひまわりが植えてあり、墓に詣でた画家たちがその種をもらって帰るのが流行ったそうです。

 
   ○ オオキンケイギク
 
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  ↑ 「オオキンケイギク」は北アメリカの原産の帰化植物ですが、黄花コスモス似て花が美しいので園芸用に栽培されました。その栽培されていたものが野生化して河原などに繁茂して各地に広がりました。
  しかしあまりにも繁殖力が強く、在来の植物に与える影響が強いので、「特定外来生物」に指定されて、栽培や販売は原則禁止になりました。
 昼間の草むらに群生しているものは、その黄金色がまぶしい位に、夏の陽に映えています。
 
  ○ キクイモ
 
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   ↑ 「キクイモ」はキク科ひまわり属のの多年草で,北アメリカの原産で日本には江戸時代末期に飼料用作物として渡来しました。
 草丈は1,5m位もあり、夏空秋にかけて菊に似た黄色い花を咲かせます。花は鮮やかな黄色できれいです。
 繁殖力が強く、地中の根のごつごつした先端は糖分を含んだ芋になっていて、食用になります。
第二次世界戦争中に加工用や食用として栽培されたものが、野生化したものもあるようです。

 ○ 「ルドベキア」    
 
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 「ルドベキア」はキク科の一年草で、キクイモによく似ています。
北アメリカの原産で、日本には明治の中ごろにやって来ました。
梅雨ごろから真夏にかけて菊の花に似た黄色い花を咲かせます。鮮やかな黄色に真ん中がこげ茶色なので、小型ひまわりといった風情があります。
 
 真夏の炎天下でも花を咲かせる丈夫な花で、いろんな種類がありますが、別名を「花笠菊」とか「コーンフラワー」「三つ葉オオハンゴンソウ」とも言います。
 
 

(129)クサギとボタンクサギ(牡丹臭木)

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      (129)  クサギとボタンクサギ
 
    クサギ(臭木)
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 「クサギ」はクマツヅラ科の落葉低木で高さ4m、日本、台湾、中国に分布していて、林などに自生していますが、公園などに植えられることは殆どありません。名前が示すように、葉をもむと変な悪臭がするので、敬遠されるのでしょう。熟した実は青い色をしています。
 
 昔は飢饉時の救荒植物として使われました。若葉を取ってゆでて水にさらし、苦味を取って食用にします。 
 クサギの根元の木の中にいる「クサギ虫」は、昔は子供の癇(カン)の薬として、焼いて食べさせました。
 
 
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     ボタンクサギ(牡丹臭木)  
 
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  ボタンクサギ(牡丹臭木)はクマツヅラ科の落葉低木で、中国南部・インド北部の原産、別名を「ヒマラヤクサギ」とか「ベニバナクサギ」と言います。
 草丈は1m位で、梅雨時から夏にかけてピンク色の小花が手まり状に丸く集まって咲きます。

 ちょっと見ると、赤いアジサイのように見えてきれいですが、クサギの仲間なので葉には異臭があり、もんだりこすったりすると独特のいやな臭いがします。
 でも花にはかすかな芳香があっていい匂いだそうです。臭木の先入観からシランは嗅いだことがないので分りませんが。。
 
 
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                                       開きはじめ・・
 
 
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             きれいな花の色・・クサギという名前がかわいそう。。
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                      散りはじめ
 
 
 *地場スーパーやら農協直売所やら、買い出しのハシゴ。
   今日は昨日ほどの暑さでなくて助かった。
   おかげで昼寝もぐっすり。。
 
 
 

(15)背嚢が呼ぶ③

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      ノモンハンの激闘 (15) 背嚢が呼ぶ③
 
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  大隊は7月5日、本隊を求めてハルハ河の沿岸を南下中に、撤退中の第23師団の後衛として撤収中の須見部隊を追撃してきたソ連戦車群に遭遇した。初めて砲撃を受け、敵戦車を目の前にして、さすがに「いよいよか」という緊張感が走る。

 「右前方に敵戦車群!」と言う叫びを聞いた途端、速射砲隊はすぐさま砲列を並べて、中隊長の命令一下、先頭に進んできた6輌を次々の撃破して擱座させた。ところが対岸の重砲陣地から前に倍する砲撃を受け、約1時間の内にかなりの死傷者が出た。
 
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 速射砲中隊には4門の速射砲がある。中隊は二個小隊編成なので一小隊に2門あり、一分隊(12名)に一門あることになる。
 
歩兵操典」には「速射砲ノ任務ハ敵ノ戦車ヲ撲滅スルニ在リ」とあるが、対戦車攻撃の場合、ほかの火砲と違い試射は行わず直ちに効力射を行う。この時の我が軍の速射砲は97式37ミリ砲で最大距離は徹甲弾で6,800m、榴弾だと5,700mだった。
 
 弾丸は一箱に16発入っているがこれを一分間で撃ってしまう。射手は小さいハンドルを動かして砲身を上下して照準を定めて引き金を引く。発射と同時に大きな薬きょうが飛び出て千m以内なら確実に当たる。戦車に命中すると破片が車内をキリキリと廻り、乗員を殺傷してしまうのである。
 
 
 
 
 大隊はこの戦闘の後、小丘陵を利用して陣地を構築したが、夜になって敵の歩兵が接近してきた。敵は一個中隊ほどなので、不意を衝いて急襲すれば勝てないはずはないと思ったが、大隊長は何を思ったか、「直ちに撤退せよ」と命令した。しかし速射砲隊は一般の軍隊のように迅速に行動が出来ない。何しろ砂の上を大砲を人力で曳いていかねばならないのだ。
 
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  そのうちかなり広い壕があるのを見つけた。砲を逃すためにはここで敵を食い止めねばならない。鳥居中尉は砲を急がせ、身近に居た7名の部下とともにここに身をひそめた。速射砲部隊は一般散兵と違って小銃を持たない。各自短い帯剣を持っているだけであり、中尉も軍刀一本で戦う覚悟である。
 
 
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    ソ連兵はショベルを持って壕を掘り始めた。ここに陣地を構築するつもりらしい。
 「よし、斬り込むぞ」と部下に言い、壕を飛び出てソ連兵に向けて突入した。振りかぶった軍刀で手近に居た一人の肩を斬り下げたが、ドタンと言う音がしただけで斬れない。そこで咄嗟に構えなおして相手の腹を突き刺した。刀を引き抜くと相手は砂上をのた打ち回る。
 
 次いでこちらを振り向いたソ連兵の顔を殴り斬りに斬り、うごめきながら起き上ろうとするのをさらに突き刺した。その時非常に背の高いソ連兵がショベルを振りかざしてこちらに振り下ろすのが見えた、とたんに中尉は軍刀を敵に向かって突き出していた。「やられた」と思ったが、鉄帽の上からだったせいかすぐに気を取り戻すと、軍刀は敵の胸を深々と突き貫いていて、血が噴き出しているのが夜目にもはっきりと見えた。これらの事はすべてあっという間の一瞬の出来事であった。その横で「やっ、やっ」と言う鋭い叫び声に気づいてみると、土手上等兵が格闘して倒したソ連兵の腹を帯剣で突き刺したところだった。
 
 ソ連兵は7名だった。先発してきたものらしい。この奇襲でこちらは一兵も損傷せずに、7名すべてを倒したのである。中尉は一分隊全員に手榴弾を持たせ、敵が接近してきたら投げよと命じた。そして腹が減っては戦さが出来まい、と思い「ここで携行食料も缶詰もみんな食ってしまえ」と命じた。飯も食い、煙草も飲み、これでいつ死んでもよいと覚悟をきめると、いっそ爽やかな気分になって敵を待っていたが、一向に敵兵は姿を見せなかった。

     ・・・
 
                                                                つづく

(130)オオバギボウシ  

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       (130) 「大葉ギボウシ」  
 
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 「オオバギボウシ」はもともと日本の原産ですが、東南アジアに広く分布しているユリ科の多年草です。 日本では北海道から本州、四国、九州まで広く分布していて、山林の中や草原などの少し湿気のあるところに自生しています。
 
 
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 高さは50センチから1mくらい、葉は長楕円形で長さ30㎝、幅15センチくらいの大きな葉ですが、葉の形や大きさなど多くの品種があります。

  花期は6月~8月で漏斗型の白色か薄紫色の花をややうつむき加減に咲かせます。花もきれいですが、葉の方も観賞用になっています。また、若葉は山菜として食用にされています。
 
 
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 日本では古くから観賞用として植えられていましたが、アジサイとともに幕末の蘭学者・シーボルトによってヨーロッパに紹介されました。
 つぼみの形が橋の欄干の擬宝珠(ギボシ)に似ているのでギボウシという名前がついています。
ちなみに、欄干の擬宝珠はねぎの頭のネギボウズに似ているので、ネギボウシからギボウシになったという話もあります。
 
 
 
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*今日は空気が乾燥しているのか、朝から爽やかなお天気になりました。
 3月にPCを買った時のキャッシュバックを受け取りに、ヤマダデンキに行ったところ、改装中でスカタンを食いました。
  年金生活者にとっては、5万円は大きいのです。。(^^:)
 
 
 

(16)背嚢が呼ぶ④

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       「背嚢が呼ぶ」 ④

 
 イメージ 1   激戦の象徴「ノロ高地」
 
  大隊は日の丸高地に暫く滞留していたが、7月14日にはホルステン河を渡った所にある「ノロ高地」に布陣した。ここへ来てからは戦況は目に見えて厳しさを増してきた。

 連日空襲があり、ソ連側の重砲陣地からは猛烈な砲撃にさらされる。日中は30度をはるかに越える炎暑の中、陣地構築の塹壕(ざんごう)堀りが続いたが、壕の中にはノモンハン蠅と呼んでいた蠅が天幕の上に無数に張り付いている。
 蠅と言うよりも虻と呼んだ方がいいような大きな蠅で、死者が出るとたちまちその口や目の周りに卵を産み付ける。そして十分も経たぬ間に卵はウジとなり、みるみる間に死体を覆い尽くしてしまうのだ。ウジは死者だけでなく負傷者にもたかり、やわらかい部分から蝕み始めるのである。
 
 
 時には夜襲を受けることもあるが、ソ連軍は決して陣地内には飛び込んで来ない。
30mぐらい前まで「ウラー、ウラーと叫びながら、両手に持った手榴弾を投げては逃げ出していく。負傷したソ連兵は一晩中大きな泣き声を上げている。
 戦車は、時には火炎放射器を使って前進してくるが、火炎放射器は戦車の右側についているので、馴れてくれば炎を避けてさえいれば安全なことが分かった。
 
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                      (鹵獲したソ連戦車)
 
 このような塹壕生活が続いたが、ある日最初で最後の補給が届いた。ミカンの缶詰と羊羹である。思わぬ給養にみんな歓声を上げたが、その配給が終わった途端砲撃に会い、その一弾が壕の真ん中に落ちた。砲弾が身近かに落ちるとその破片で死ぬが、爆風でも死ぬ。風圧で目玉が飛び出してしまうのである。榴弾が落下した壕内では十数名が死に、缶詰を持ったまま死んだり、千切れて吹き飛んだ手首には羊羹がしっかりと握りしめられていた者もいた。
 
 
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 死者は丁重に埋めたが、羊羹や缶詰は死者を葬った者たちが貰って食べた。死者とともに葬るべきだったとの慙愧の念からか、それを食べた者たちの多くは後にアメーバー赤痢になってしばらく苦しまねばならなかったのである。
 この後、重砲弾の被害を少なくするために、一人壕を掘ることになった。中尉が陣地内を見回っていると、ある兵が近づいてきて「一人壕でなく、二人壕にしてもらえませんか」という。
 「なぜだ、と問うと(さびしいのです)と言う。
 「一人壕は死ぬとたった一人で靖国神社に行かねばなりません。二人壕では二人そろって行けます。死ぬとき連れがあるのとないのでは、まるで寂しさが違います」という。そういえば一人壕でも時々壕から壕へ「おい中田、元気か」というような言葉が飛び交っていたのだ。誰でも明日は死ぬとの覚悟をしていて、一人だと淋しくてつい考え込んでしまって、夜も眠れないのである。
 
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   二人壕にすると、やっと兵隊たちも落ち着いてきたようであった。二人だと夜半の寒気でも抱き合って温め合えるのである 壕の中からは彼我の戦闘機の空中戦が見える。日本の戦闘機は複葉の95式か単葉の97式で、ソ連のは複葉のイー15か単葉のイー16であるが、いつも日本の方が優勢で、これがどのくらい我が方の士気を高めてくれたかわからない。
 
 その日、敵の砲撃の絶えた時を見計らい、壕を這い出て近くにいる同期の田原少尉の壕を訪ねて雑談、そのあと草原を散歩?していると、向こうの稜線から不意に敵機6機が機首を下げて壕に向かって突っ込んできた。爆撃機だった。油断もあったが、その場に伏せる間もなくすさまじい轟音と共に全身が何度か跳ね上がるように感じた。「やられた」と思い指を動かしてみた。負傷度を確かめるためだ。動く、大丈夫だ。
 
 すぐに死傷者を調べてみると、その中に田原少尉が居た。即死だった。爆弾は田原少尉の壕を直撃、少尉の体は四散して遺体もない。あと数分その壕にいたら自分も田原とともに吹っ飛んでいたのだ。千切れ飛んだ遺体をかき集めて砂に埋め、薄桃色の野ばらの花を供えるのがせめてもの心づくしだった。そして小指を切って大事に持ち帰ることにした。
 
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 田原少尉のほかに部下の毛利軍曹の戦死も忘れられない。毛利は第一分隊長で最も頼りになる男だった。8月20日午後一時、敵の8台の戦車が突っ込んできた。距離800mでこれを撃って3台を擱座させ、3台は逃げたが、残る2台が立ち止まって交戦を続けた。毛利は分隊長で、双眼鏡で敵情を見ているうち、機関銃弾が咽喉から背中へと貫通した。

 毛利はいったんよろめいたが、なお退こうとせず、指揮を続けたがすでに声は出ず、さらに砲弾が身近に落ちて負傷し、もはや立てなくなってしまった。自分は毛利を抱きかかえて「毛利、何か言いたい事はないか」と聞くと、かすれた声で「隊長殿、立たせてください」という。
 「今は無理だ、このまま休んでいればいい」と言いっても毛利はなお(立たせてくれ、立たせてくれ)とせがむように言う。毛利がもう駄目なことは誰にも判っていて、立てるはずもないが、自分は彼の体を抱き起して上半身を起こしてやった。毛利はかすれた声を振り絞るような声で、然しはっきりと「天皇陛下万歳」と叫んだ。「毛利!」と声をかけた時には彼はもう死んでいた。それが最後の気力だったのだ。自分は毛利を膝の上に抱いてやった。毛利の頬の上に涙がしたたリ落ちた。。
 
 いつか、壕の中の雑談でどちらからともなく「死ぬときは天皇陛下万歳!」と叫んで死のうじゃないか」と、話し合ったことがある。毛利は死期が近づいたとき、自分が「何か言いたいことはないか」と言ったのを「何か言い忘れたことはないか」と催促されたと思ったのではないか。。必死に起き上がって、自分との単なる口約束を果たすために「天皇陛下万歳」と叫ぼうとしたのである。「なんという真っ正直な奴だ!」と言う思いが自分を泣かせたのである。
 
            
                                                                             つづく
 

(131)ナツツバキ

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      (131)  「夏椿」  
 
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 「夏椿」はツバキ科の落葉小高木、日本の特産で福島県以西の各地に分布していて、ツバキ科では珍しい落葉樹です。初夏に花びらにしわのある5弁の白い花をつけます。清楚な花と、野趣にとんだ姿が好まれて、茶庭や日本庭園によく使われています。

  夏椿とは、夏の椿という意味ですが、一名「シャラノキ」とも言います。しかしこれはインドの「沙羅の木」と間違えられてつけられたもので、本来のシャラノキは夏椿とは全く別種の花です。
 
 
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 日本の「夏椿」は樹高5~10m、花径は6~7センチ。
 6月半ばから7月始めの梅雨時に咲くので「夏椿」と言いますが、本来の椿と違い、椿に似た白い五弁の花ビラのふちには小さいしわしわがあるのが特徴です。
 
 
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                                        落花
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               葉の色に白は淋しき夏椿      高木晴子
 
 
   *朝から青空が広がって、まさに真夏の様相です。
 
  イオンに買い出しに行ったら、駐車場の車の中は火の車。。
  宮崎産の小さいウナギを衝動買いしたので、財布の中も火の車になりました(^^:)
     土用の丑はコワイ。。
 
 
 

(17)背嚢が呼ぶ⑤

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      (17) 背嚢が呼ぶ ⑤
 
  毛利は一番頼りになる部下だったので、彼の死はこたえた。
夜、寒い月が出ると草原が白々と照り渡り、北斗七星が冷たく輝いて見える。
ハルハ河の向こうから敵の謀略放送が聞こえてくる。
「第七師団ノ諸君、将官ハ胸ニ勲章ヲ飾ッテイルノニ、君ラハイツマデ出血ヲツヅケテイルノデスカ、日本国民ノ拷問者デアル将官ト士官ヲ殺シ、武器ヲ持ッテワレワレニ降伏シテクダサイ。君ラニハヨイ生活ヲ保証シマス」
 
 放送内容はいつも決まりきったものだった。そんなことはどうでも良かった。
 「どうせみんな死んでいくのだ、問題はどう死ぬかだ」と自分自身に言い聞かせて、生きている限りは善戦して、先に死んだ者の骨を拾って行こう、と心に決めたのである。
 
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                                               ソ連軍の俘虜(中央)
 
 
 8月22日の未明からは敵の戦爆連合の20機が飛来してきて、その攻撃が終わると砲撃が始まり次に歩兵が攻撃してくる。彼らは近接してきて手榴弾を投げていくだけだが、ソ連兵は腕力が強く、手榴弾も柄付きで投げやすく驚くほどの距離を飛んでくるのである。歩兵と戦っていると一方から必ず戦車が現れてくる。こんな戦いの日課が毎日繰り返されるのである。
 
 
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 敵の兵力は明らかに増えて、22,23の両日には大部隊が続々とハルハ河を渡河してきた。こちらはすでに弾薬補充も絶えて、速射砲隊の残弾も心細くなってきた。こうした弾薬不足の中、24日には砲撃ののち陣地内に敵の戦車と歩兵が侵入してきて、陣地の一部が奪取されるという厳しい状態になった。
 
 「各隊トモヨク全力ヲ尽クシテ陣地ヲ死守セヨ」と言う大隊長命令も常になく真に迫るものがあった。本部では最終的に玉砕の場合に備えて重要書類を焼き捨てる手筈も整った、という情報も伝わってきた。
 
 
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 8月25日もノロ高地にすり鉢状の大きな壕を掘って布陣していたが、連隊本部の芦塚部隊長から「左前方より来つつある戦車を攻撃せよ」の命令が来た。この時、自分の隊には速射砲2門と生き残りの8名の隊員しか残っていなかった。ほかはみん戦死してまったのである。ここ数日の激戦で残弾も僅か16発しか残っていない。砲身を抱きながら死んでいった部下たちのためにも、この砲弾は大切に使わねばならない。16発で16台の戦車を倒し、手榴弾で対戦車戦を戦い抜こうと決心した。
 
    
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 侵入してくる戦車を確実に射止めるには射程距離800m以内でなければならず、また直角に当たるように狙いを定めねばならない。芦塚部隊長は声を荒げて
 「何をしている。早く撃て!」
  「目標が遠すぎます、近づくまで待たせてください」
  「ならぬ。直ちに撃て!」
  「速射砲はあの稜線に出ねば撃てません。稜線に出でればこちらが先にやられます。死ぬのは構いませんが、戦車を倒せないのが残念です」
と言い終わった途端、15センチ榴弾が、スリバチ陣地の一角に落ちて地軸を揺るがさんばかりの轟音と共に炸裂した。この時自分は部隊長と差向い、後ろには旅団長が居たが、部隊長は砲弾の炸裂と同時に地面に身を伏せた。自分は興奮していたので立っていたが、旅団長も平然としてつっ立ったままだった。
 
 しばらくして砂地から起き上った部隊長は、頭から顔まで砂だらけである。
 自分は部隊長とあまりに感情的になってもまずいと思ったので、ちょっとほほ笑んだが、これが「笑われた」と部隊長は思ったのだろう。「何が可笑しいのだ!」といきりたって「鳥居隊は直ちに第三大隊付を命じる」と言った。大隊本部付に更迭されたわけである。大隊本部に行くには、稜線上に出なければならない。砂地にはまって動きにくい砲2門を曳いて敵の砲火にさらされる稜線上に出れば、確実に死が待っている。砲煙の中の敵味方の戦いと言えども、味方同志の間にも、こんな微妙な葛藤が常に発生するのである。
 
 速射砲はいつも前面に出て戦車と戦わねばならない。それだけに無益に兵員の欠けるのを避けねばならない。速射は戦車を倒すのが使命である。自分が倒れては敵の戦車を倒すことは出来ないのである。ようやくの思いで稜線に出て、危ない一瞬を生き延びられた部下たちの,砲を引き戻す力強い掛け声がいつまでも耳に残った。
 
 
                                   つづく


(132)ヒメシャラ(姫沙羅)

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     (132) 「ヒメシャラ」 
 
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 ヒメシャラ(姫沙羅)は小型の夏椿です。
 ナツツバキよりも一回り小さい白い椿に似た花がいっぱい咲きます。昔、「夏椿」を誤って沙羅の木と呼んでいたので、その沙羅の小さいもの、という意味で「姫沙羅」の名がついています。茶庭や公園によく植えられていますが、木の肌が赤くてつるつるして綺麗なので、よく茶室の床柱に使われています。
 
                        (ヒメシャラは一日で散ってしまう、はかない花です)
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            またたち帰る水無月の
           嘆きを誰に語るべき。
          沙羅のみづ枝に花咲けば
          悲しき人の眼ぞ見ゆる。 
          芥川龍之介
   
     
  「平家物語」 の冒頭に
 
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰滅の理(ことわり)を現す。
    おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢の如し
 
 とありますが、
 この「沙羅双樹」は釈迦入滅の際に一夜にして枯れたという沙羅の木の事を言っています。

 然し、熱帯であるインドの沙羅の木は温帯の日本では育ちません。従って、この平家物語で言う「沙羅双樹」は一日にして落ちる日本の「夏椿」を沙羅の木と取り違えたと考えられます。
 よく寺院などに「ナツツバキ」や「ハクウンボク」が「沙羅双樹」として間違えられて植えられているのがあるようです。
 
 佐賀の西郊にある清水観音に「沙羅双樹」と言う立札のある双樹が植えれれていますが、これもインド産の沙羅の木ではなく、エゴノキ科の「ハクウンボク」でした。   
 
 
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 ハクウンボク(白雲木)はエゴノキ科の落葉高木で、高さが13mもあり、葉も15㎝くらいの楕円形の大きなもので、夏つばきとは全く違っています。日本、中国、朝鮮に分布していて、五月ごろにエゴノキのように横に張り出した枝に多数の小さい白い花をぶら下げています。
 やはり一日で散る、はかない花なので、沙羅の花と間違えられたのでしょう。
 
     落花を見ても、ナツツバキやヒメシャラの花とは違っています。
 
 
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*自動車のJAFの年会費が今月末までなので、あわてて郵便局まで納金に行きました。
  これからは、ヤマダデンキにPCの還付金を受け取りに。。
  この暑いのにほんとに、ほんとにご苦労さん。。
 
 
 

(18)背嚢が呼ぶ⑥

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      ノモンハンの激闘(18) 第三話・・背嚢が呼ぶ⑥  
 
 大隊本部付になってから、砲撃の合間を縫って堀田大隊長以下旧知の友人がいる第一大隊へ挨拶に行ってみた。すると堀田大隊長の目には涙らしきものが光っている。
 「このところ、あまりにも死者が多いので止めどもなく涙が出る。この数日で20年も歳を重ねたようだ。」という。

  第一大隊の事情を聞いてみると(第一中隊は、将校はみんな戦死して、浜上軍曹以下下士官3、兵30人だけが残っており、陣地は敵の車30台に囲まれてすでに小銃弾さえ撃ち尽くしてしまったと言う。第二中隊は後藤中隊長以下83名で奮戦しているが今日だけで24名が戦死したという話であった。
 
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  その帰りがけに一人の兵隊が壕の中から飛び出してきた。「鳥居少尉殿!平本です」
 振り向いてみると、平本義家だった。彼は自分が見習士官の時に初年兵として入隊してきた。
 平本の家は実は自分の家の小作をしていて、子供のころから自分を「本家の兄さん」と呼んで実の兄弟のように付き合っていた。平本は朴訥そのもののような男なので、兵隊生活も無事勤め上げるだろうと信じていた。砲声が激しくなったのでそのまま別れてきたが、その平本には信じられないような不運な死が待っていたのである。
 
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 8月30日になって大隊は戦力も尽き果てて、夜にまぎれて2千mほど撤退することになった。この時は敵の包囲網も遠のいて、敵影も認められないので、砲2門を曳き草地の斜面で休憩している所へ第一大隊が4列縦隊で音も立てずにやってきた。その縦隊が視野の中に立ち止まったと思った一瞬、空の一角からシュルシュルという迫撃砲弾独特の音が聞こえてきた。

 これは直撃だ、と思い「伏せろ」と鋭く部下に言ったが、砲弾は自分たちの頭上を越えて四列縦隊の真ん中に落下して炸裂した。砲撃はこの一発だけだったのである。そしてそのたった一発の迫撃砲弾は四列縦隊の真ん中にいた平本の体にぶっつかって炸裂したのである。ほかのものは案外軽傷だったのに、平本は砲弾を抱きとめるようにして死んでしまったのである。「平本、平本がやられた」という声が暗闇の中から聞こえてくる。
 
 「平本は親戚同様の付き合いだ。仮埋葬は自分がする。」と部下たちに言って、散らばった平本の遺体を掻き集め小さい丘の上に埋葬した。平本の胴体の部分を抱くとまだ体の温もりが残って居て、自分は子供を寝かせつけるようにして砂の中に埋めた。埋め終わると彼の背嚢をその上に置いた。墓標ともつかず、目印ともつかず、背嚢を置いたのである。
 
 この時は暗夜を幸い、泣き泣き平本を埋めたのだが、そのあと部隊が撤収しきるまで一発の砲弾も飛んで来なかった。狙って撃ったものでもない、たった一発の迫撃砲弾がなぜ飛んできて平本の体を直撃したのか、まったく不思議でならない。戦場ではこんな思いもよらぬ流弾が生死を分けることもあるのだ。
 
          
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                                                                                     つづく

(19)背嚢が呼ぶ⑦最終回

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    ノモンハンの激闘(19)  第三話・背嚢が呼ぶ⑦ 最終回
 
 
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 2千m後退したあともなお敵の砲爆撃は続いたが、9月4日には敵の砲爆撃がぴたりと止んだ。こちらはもはや弾薬も尽き、あとは最後の白兵戦しか残っていなかった。そうして9月15日に司令部から「一切の敵対行動を止めよ」と言う指令が来て、17日の朝には「全面停戦」の指示が届いた。
 
 停戦の日は穏やかな秋の日が降り注いでいた。自分は戦場掃除のため「遺体収容班長」を命じられ、そのまま一週間ほど戦場に残った。戦場はどこからか死臭の生臭い匂いが漂い、どこを見ても死屍累々の有様である。狭い戦場にこれだけ死体が散らばって居る光景はめったにないだろう。

イメージ 2 旧戦場を見回りながら、ただ一つの感慨は「ああ、みんな死んでしまったなぁ」と言う一語に尽きる。そして停戦になってみると、平本の死が改めて惜しくてたまらなかった。あと、一息という所だったのに。。
 即射砲隊の一隊長としては、動員された兵力の大半を失い、弾薬食料の尽きたあとは帯剣だけで戦わねばならない、という事態に立ち至りながら、「軍上層部は弾薬食料の補充はおろか、なぜ一兵も残さず砂の中に屍を埋めさせようとしたのか!」
      どこへも持って行きようのない鬱勃とした無念の思いがいつまでも消えなかった。
 
 遺体の収容は中々骨の折れる仕事である。遺体や遺品を確認してトラックに積み込む。兵器を抱いて死んでいるもの、重なり合って死んでいるもの、手を伸べ合っているもの、血がにじんだ千人針が砂上に出ているもの、どの遺体も見るに忍びないものばかりであった。ソ連兵の遺体は毛布に包み、野の花を一輪その上においてソ連側に引き渡す。
 
 
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 11日の正午頃であった。ノロ高地の一角で砂上に腰を下ろして休憩をしていると、急に物が翻るようなバタババタと言う音が聞こえてきた。周りはシーンとしているのでその音はよく聞こえるのである。
 何だろう?と思って音のする方を見てみると自分の足からほんの1m位のところに背嚢が一つ置かれていた。その背嚢の蓋がパタパタとめくれて音を立てているのである。だが風は全くない。風があっても厚い背嚢の蓋は滅多にめくれないのだ。しかも背嚢は恰も自分に呼かけるようにバタバタと音を立てているのである。
 
 突然、自分は電気に撃たれたような衝撃を覚えた。
 「平本だ!そうだ、平本に違いない。」と初めて気づいたのだ。
 あまりに考えることが多く、その上、つかみどころのない砂と草原の地形では、はっきりした記憶もなかった。気づいてみると、ここは確かに撤退時の集結場所だったのだ。
 立ち上がって背嚢を調べてみると、確かに「平本」の記名がある。
 「そうか、俺が気が付かんので呼んでくれたのか」
 「よしよし、安心しろ。俺が掘り返して、自分の手で焼いてやる、すまんなぁ・・気がつかんで、すまんなぁ~、許してくれ」と言ながらショベルで遺体を掘り出したのであった。
 
 
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   今、ノモンハンの戦場を思い出すと、あの日の事が蘇ってくる。風もないのに背嚢の蓋がパタパタと音を立ててめくれた、あの光景が目に浮かび、あの戦場で若い命を落とした多くの将兵たちの呼び声が聞こえてくるようする。
 
 その彼らの呼び声に応えやらねばならないと、自分はンモンハンの惨劇を片時も忘れたことがない。
                          (鳥居少尉の手記より抜粋)
   ノモンハンの記録・おわり
  ・・・・・・・・
 
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     昨年から長々と書いてきましたが、これで 
   ノモンハンの激闘 を終わります。
 
   長い間のご精読、まことに有難うございました。
 
           2014年7月31日     紫蘭
 
 
 
 
 
 
 

(133)ノカンゾウ(野萱草)

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       (133) ノカンゾウ(野萱草)
 
 
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 「野萱草・ノカンゾウ」は野原や川岸の少し湿ったところに、オレンジ色の赤っぽい花を咲かせます。 
 ユリ科のワスレグサ(ヘメロカリス)属の多年草で、本州、四国、九州の少し湿気のある草原に自生しています。
  花は7月~9月に咲きますが、朝咲いて夜にはしぼむ一日花です。
  花は一重六弁で、花の色は濃淡さまざまで変化も多いです。 
 
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     萱草(かんぞう)の一輪咲きぬ草の中    漱石 
 
 
                    同じくユリ科の「ニッコウキスゲ」もカンゾウと同類です。
 
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                                             ニッコウキスゲの群落 (白山にて)
 
 
 
  *曇りがちで風が爽やか、今日は過ごしやすい一日でした。
    エアコンを入れると、なんだか怪しい臭いが。。
    そうだ、フィルターの掃除を忘れていた~
    脚立の上で、あちこち取り外して水洗い・・ これですっきり。  
 
          やれやれ・・
 

(134)ヤブカンゾウ(藪萱草)

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              (134) 「ヤブカンゾウ・藪萱草」   
 
 
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 ヤブカンゾウはユリ科の植物で中国の原産ですが、今は田の畦や路傍などのほか、日本のどこの山野でも見られます。 
 ノカンゾウ(野萱草)の花は一重ですが、ヤブカンゾウ(藪萱草)は八重咲きなのですぐに見分けがつきます。
 
  当地では田植えの終わった後のことを「さなぼり」といいますが、カンゾウがこの「さなぼり」の頃に咲くので、「田祈祷花・タキトウバナ」と呼ぶ地区もあります。
 若芽や葉はおひたしや煮物として料理になり、また、根は乾燥して漢方の利尿薬として用いられます。
   
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        萱草(かんぞう)も咲いたばってん別れかな    芥川龍之介
 

 漢名の萱草(カンゾウ)は「この美しい花を見ていると憂いを忘れてしまう」と言う故事からきた名前で、別名「忘れ草」とも言います。 (忘れな草とは違います)
 また、朝咲いて夕方には閉じてしまう「一日花」なので、その儚さから、すぐ忘れられてしまう草」という意味もあるよう
です。
 
 
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 杜甫の詩や日本の万葉集にも見られるように、真夏の濃い緑一色の中の、鮮やかな黄橙色はひときは目立ちます。

    忘れ草我が紐(ひも)に付く香具山(かぐやま)の
      古(ふ)りにし里を、忘れむがため        万葉集  大友旅人
 
 
 
*台風の余波か、雨が激しくなりました。
  おかげで涼しい風が吹き込んでいます。
 
  昨日で「ノモンハンの激闘」を書き終わり、肩の荷が下りたようでいささかホッとしています。
  疲れたのか、明け方つかの間の夢を見ました。
 
  まだ幼くて裸のままである。なんだかトイレに行きたくなってあちこち探していると、やっと空き家を見つけた。中に入り込むと、見知らぬおじさんからまき割りを頼まれた。
 熱心にマキを割っていると、急に監獄から電話があってすぐ出頭せよ、という。
 なんと、なんと・・腹を立ち割るのだそうである!。。
 
 そして横にいた大きな力士のような男に抱きかかえられて、刑務所に向かう。
 だんだん、怖くなってきて、その力士にしがみついていると、なんだ!戦死した兄ではないか。。
 急に悲しくなって、兄の裸にしがみついて、声を上げておいおい泣いてしまった。。
 
 夢とは不思議なものだ、夢とも現実ともつかず、断片的でなんの脈絡もない。。
 そろそろ、お迎えも近いのかなぁ。。
 
 

(135)ヘメロカリス

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      (135) 「ヘメロカリス」  
 
 
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  「ヘメロカリス」はユリ科の多年草で、初夏から夏にかけて次々と花を咲かせます。
 日本や中国原産のユウスゲやヤブカンゾウ類がヨーロッパなどに導入されて、品種改良されてできた園芸品種をひっくるめて俗に「ヘメロカリス」と呼ぶことが多いです。
 
 もともと日本にはニッコウキスゲノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生していて、古くから親しまれています。
  花が短命で一日しかもたないことから別名では 「デイリリー」 とも呼ばれています。
 
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 花は実にさまざまで、ヤブカンゾウなどの野生種は主に赤褐色ですが、園芸種にはそのほか、赤色、白、黄色、クリーム色、ピンク、紫などがあり、花の大きさも5センチから20センチもあるものもあります。
 
 また、咲き方も一重と八重咲きがあり、花ビラも細いものや幅のあるもの、先のとがったもの、丸いもの、フチが波立っているものなど、さまざまです。

 
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  *朝からの雨で、佐賀の夏祭り「栄の国まつり」は中止、街は人出もなく静かなものです。
   張り切っていた行事関係者や飲食店・露天商の皆さんもがっかりでしょう。
   やせっかくの書き入れ時を、天を仰いでああ無情!・・
    人類はやはり台風には勝てません。

(136)ユリの花

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     (135) 「ユリの花」

  ユリの種類はさまざまです。
 鉄砲ユリから山百合、姫百合、鬼百合、透かし百合、車百合、クロユリなど日本には15種類の百合が自生し、
 それぞれに美しい花をつけます。
 
 
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                                           百合の女王・カサブランカ
 
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                 黄色いユリ・・君の名は?
 
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    「ウバ百合」
 
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↑ ウバユリはユリ科の多年草で、山地の森林の中によく見られます。
 百合の花に似た花をつけていますが、百合とは葉の形が全く違います。。
 花が満開になる頃には葉が枯れてくるので、歯(葉)のない「姥・ウバ」にたとえて「ウバ百合」の名がついています。
 
    「オニユリ」
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 「オニユリ」の原産地は日本で、ユリ科の多年草、開花期は7~8月です。
 芳香があり、橙色の花には濃茶色の斑点がついて、先の方が反り返っています。
 
 「歩く姿はゆりの花」と、美人の形容に使われる百合の花ですが、鬼と名がつけばそうもいかない気がします。
 花はきれいですが、黒いあばたが気になりますね。(あばたもえくぼの場合もありますが・・(^^)
 
      立てば芍薬 座れば牡丹
     歩く姿はユリの花
 
    ♪ 振り向けば オニユリの君が居て。。 @@/☆・・
 
 
    「クロユリ」もあまり感じがよい方ではありません。
   ちょっと不吉な感じがして。。
 
 「黒百合」は北海道や日本アルプスの高山地帯に咲いています。夏に黒い花が下向きに咲いていますが、ほんとは真っ黒ではなく暗紫色です。
 
              (ミヤマクロユリ)   槍ヶ岳・登山路にて
 
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 クロユリには、「愛する人へそっと贈ったクロユリの花を相手が手に取れば、二人はきっと結ばれる」というアイヌの伝説があります。
 
   「黒百合の歌」   織井茂子 (君の名は、第2部の主題歌)
 
      ♪ 黒百合は 恋の花
         愛する人に 捧げれば
         二人はいつかは 結びつく
         あああ……あああ……
         この花ニシパに あげようか
         あたしはニシパが 大好きさ
 
 
  *今日も朝から激しい雨が断続的に降っています。
    「栄の国」夏祭りも花火大会もこの雨では絶望的。。
 
  余談ですが、佐賀は「栄の国」と言われています。これは古代、ヤマトタケルノミコトが佐賀に来た時、楠の大木が栄えて沢山おい茂っていたので、「以後この国を「栄の国」となすべし」、と申されたので「栄の国」から「佐嘉」さらに「佐賀」となったと言われています。
 
 したがって佐賀城を「栄城・エイジョウ」といい、藩校の流れをくむ旧・佐賀中の野球部のマークも「佐賀西」ではなく、「EIJO]となっています。
 今でも佐賀城の堀端や周辺には楠の大木がいっぱいです。
    
   

(137)キツネノカミソリ

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           (137)   「キツネノカミソリ」   
  
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  初めて、キツネノカミソリを見たのは,佐賀・多良岳中腹の林の中でした。
 登山中に人気のない草むらに、突然、鮮やかな狐色の花が群生しているのに出会い、キツネにだまされたようでびっくりし
ました。
 
 キツネノカミソリ は本州から九州に生育するヒガンバナ科の多年草です。
  早春に水仙に似た葉を出して、夏にはこの葉
が枯れてしまい、そのあとで花茎が出て8月ごろに花が咲きます。
  名前の由来は、葉の形がカミソリに似ているからです。
 或いは、葉がなくて花だけが咲いているのが狐にだまされたような何か変な感じがするからかも知れません。
 
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 キツネノカミソリ はヒガンバナ同様、花が咲いても葉があり
ません。
 ただし彼岸花はお彼岸ごろに花が咲き、キツネノカミソリはお盆ごろに花が咲きます。

 また、彼岸花は人里近くの草原に生えますが、キツネノカミソリは明るい林の中に咲いています。
 
 
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*朝から断続的に強い雨が降っています。
  
 昨日、一昨日と、とうとう夏祭りはみんな中止になりました。残念・・
夕立に遭うのは時々ありますが、こんなに雨だらけの夏祭りは初めてです。
やはり異常気象かなぁ・・
稲作の日照不足が気にかかる・・トンコ、トンコ。。
 
 
 
 

(138)タヌキノカミソリと夏水仙

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      (138) タヌキノカミソリと夏水仙
 
  「タヌキのカミソリ」  
 
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 キツネノカミソリによく似ているが花が違うので何だろうと思っていると、そばで写真を撮っていたオバサンが「タヌキノカミソリ」だと教えてくれました。初めは冗談だろう、と思っていたがほんとうだった。。キツネノカミソリがあるのだから、タヌキがあっても別におかしくはないのだが。。
 
 タヌキノカミソリ はキツネノカミソリと同じヒガンバナ科の多年草で、原産地は中国の湖北省から雲南省あたりに分布し、日本には自生していませんが、観賞用として移入されています。本名は「リコリス・インカルナタ」と舌をかみそうな名前です。
 
 淡いピンク色の花びらに、濃いピンクの縦の線が入っていて、 ヒガンバナやキツネノカミソリ同様に、花の咲くころには葉は枯れています。
 
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   「夏水仙」  ↓ 
 「夏水仙」
はヒガンバナ科の多年草で、、中国から来た帰化植物です。夏に咲いて葉が水仙のようなので「夏水仙」の名前があります。タヌキのカミソリによく似ていますが、花茎が大きくて長く、花も大柄です。花びらの濃い縦線はないようです。
 
 
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 夏水仙 は日本では、北海道を除く全国の人家の近い里山付近に生育しています。
花は8月ごろに高さ60センチくらいの花茎をのばして淡紅色のラッパ状の花を数個咲かせます。
ヒガンバナ同様春に出た葉は夏には枯れて残っていず、花だけが伸びています。花だけで葉がないので俗に「裸ユリ」とも呼ばれるそうで、有毒植物です。
 
 
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  *キツネとタヌキのばかし合いですね。
    さて、どちらがきれいに化けたのかな?
 
 
 

(139)ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)と檜扇

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      (139) ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)と檜扇(ヒオウギ)
 
    「ヒメ檜扇水仙」
 
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 ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)はアヤメ科の多年草で、南アフリカ地方の原産、日本には明治中ごろに渡来しています。 繁殖力が強くて、すぐに群落を作ります。
 花は濃いオレンジ色の朱色で、夏に花茎の先端に帆状に数個つけています。
 葉がヒオウギ(檜扇)のようで,花がスイセンに似ているのでこの名前がついています。
 
     「ヒオウギ・檜扇」
 
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 「ヒオウギ・檜扇はアヤメ科の多年草で、葉がむかし宮中の官女が使っていた檜扇(ヒノキの薄い板を縫い合わせて扇にしたもの)を広げたような形をしているからです。
 
 檜扇の種は真っ黒で「射干玉・ぬばたま」と言います。そこで「ぬばたま」は古語の枕詞として使われ、 夜の暗さや髪の黒さを強調する為に使われました。
 
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     ぬばたまの夜の更けゆけば 久木(ひさぎ)生(お)ふる
        清き川原に 千鳥しば鳴く
                                万葉集 山部赤人
 
 
 
         暑中お見舞い申し上げます        紫蘭
 
 
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               (中央アルプス・宝剣岳)
 
    *おかげさまで「紫蘭の部屋」もご来訪者34万名を越えました。
  駄文ながら、これからも老骨に鞭打ってがんばりますので、よろしくお願いいたします。
 
 
 

 (64)ヒロシマ原爆の日

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       (64)  「ヒロシマ原爆の日」
 
 「8月6日」 今日は広島原爆の日である。
  昭和20年8月6日午前8時15分、一発の原爆により20万人にも及ぶ軍人や民間人が痛ましい犠牲になった。
  その廣島では母校・豊橋予備士の歩兵第一中隊の同期生・十一人も被爆し、そのうち7名が亡くなった。  
  原爆投下2週間前にはその11名が揃って記念写真を撮っている。 
  (懐かしい顔ぶれ・シランはこの中には居ませんが、当時シランもこんな恰好をしていました。
    右から2番目は中村君、剣道の達人で予備士の第一寝室ではすぐ前にいました。)

 
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 彼らは見習士官集合教育のため、配属先の各部隊から派遣されて、たまたま午前8時に広島第二総軍の兵舎前に整列していたが、中隊長に急用ができて一時休憩になった。その15分後に原爆が落下した。
 真夏の暑さを避け、日陰を求めて兵舎の陰に入った者は助かり、そのまま営庭にに残っていた者は瞬時にして焼滅した。一瞬の居場所が生死を分けたのだ。人の運命とはほんとに判らないものだ。
 
 写真の11名のうち、かろうじて生き残った藤森見習士官(右端)は、戦後40年近くその写真を大事に保管していたが、その内どうしても身元がわからなかった武田勝君(後方左から3番目)の遺族を探し出し、三重から福井の遺族の家を訪れてその写真を届けた。 
 
  武田君のお母さんは「勝(まさる)!よう帰ってきた・・」と写真にすがって泣き伏し、後は言葉を詰まらせるだけで何度も、何度も繰り返し写真を眺めているだけだったという。
 (写真でもわかるように、武田君は小柄な可愛い坊ちゃんのような風貌だった・・)
 
 そのとき被爆した同期生の当時の状況を見てみよう。 
  学友で予備士の同期生でもあったK君も、同じ日、同じ場所で被爆した。
 

 ①「K君の場合」
 学友のK君は、昭和19年10月、ともに学徒出陣で豊橋の予備士に入った。予備士では私は歩兵、彼は機関銃中隊だった。ちょうどそのとき彼は兵舎の影にいて原爆の洗礼を受けた。彼はあちこちに火傷を負いながら何とか営庭の「たこつぼ」に潜んで救助を待った。その間同期生の一人が蛸壺を抜け出てどこからかお握りを運んでくれたそうである。。(女学生たちがすぐに現場に入り、炊き出しをしたようであるが、彼女たちもおそらく二次被爆を受けたであろう)
 
 2日後、タコツボの中の彼は救助隊に発見されて、急造の陸軍病院に入って助かった。 救助隊はなぜか、先ず候補生たちを優先的にトラックに乗せ,ほかの兵士は後回しになったという。軍の階級制の厳しさであろうか、絶対服従の軍隊では、階級章の星ひとつで天地の開きがあるのである。
 
  K君は、その時お握りを持って来てくれた同期生の名前を知らない。またその後の消息も知らない。 
 せめて生き延びて幸せに暮らしたであろう事を願うだけだ、と彼は述懐している。
 戦後彼は、被爆したことを長い間子供にも語らなかった。彼なりの思惑があったのだろう。しかし、彼はその後英語の教師を続けて、今なお元気で90歳の人生を楽しんでいる。
戦後30年間は草一本も育たない、と言われたが真っ先に芽を出したのは「夾竹桃」の花だったという。                             
 シランももし配属先が広島であったなら、原爆の洗礼を受けただろう。
 生死は一如というが、人の生き死にはまさに紙一重、運命の不思議さを感ぜずには居られない。
 
 

(140)ハマユウ

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    (140) 「ハマユウ」  
 
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 「浜木綿・ハマユウ」は 関東以西の海岸に自生するヒガンバナ科の多年草です。
 浜木綿の「木綿・ユウ」は、昔「こうぞ」などの皮をはいで、その繊維を蒸して水に浸し、それを裂いて糸にしたものです。 古代の祭りのときに榊につける「幣・ヌサ」に用いました。
 
 「ハマユウ」の根元は「ねぎ」のような形をしており、木綿(ユウ)を巻いたようになっているので、浜木綿(ハマユウ)という名前がつきました。
 
 
      浜木綿に流人(るにん)の墓の小ささよ    篠原鳳作
 
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    ハマユウの別名の「浜万年青・ハマオモト」は葉が万年青に似ているからです。
   いずれにしてもリコリンとを含んだ有毒植物なので、食べると中毒しますので、ご用心。。
 
 
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         み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 
          心は思へど 直に逢はぬかも    
 柿本人麻呂・万葉集巻四・496
 
 
 
  ⁂今日は朝からカラリと晴れて久しぶりに青空がひろがっいます。
    洗濯物を干して、あちこちの窓を開いて空気の入れ替え。
    一週間ほど涼しく過ごしたが、これからまた暑くなりそう。
     クマ蝉の声がかしましい。。
 
 
 
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