(72) 「怒鳴り歓迎会」
(上本町にあった外語の旧校舎・20年の空襲で燃えてしまった)
18歳、田舎の中学から希望にあふれて大阪外語に入学して、驚いたことがある。入学後しばらくして、先輩たちのいわゆる「怒鳴り歓迎会」なるものが開かれたのだ。
ある日、我々新入生は先輩から校舎北側にあった別棟の中教室に集められた。
何事ならんと思って行ってみると、当時の国情を反映して国士的,壮士的風貌の上級生たちが「オース、オース」と言いながら、どやどやと下駄履きのままガタガタと音をたてながら入ってくると、いきなり「こらーッ!頭を下げんかぁ~!」と怒鳴りながら竹刀や木刀を持って机や頭を叩き回るのである。
な、なんと理不尽な。。
新入生の多くは肝を冷やして小さくなっているが、その中にも元気なやつが居て、昂然と頭を上げて睨みつけたりすると、容赦なく竹刀が彼の頭上に舞い落ちてきたり、ビンタの洗礼を受けねばならない。
(特に怖かったのは、中馬サンという馬術部のキャプテンで、いつも乗馬用の鞭を持って歩き回っていた。その鞭を振り回すと耳元でビュンビュンという音がする。時々、鞭で机の上をピシャリと叩かれると我々は首筋がゾクッとして少しでも目立たないようにと、うつむきながらつい亀の子のように首をすくめてしまうのである。・・(^^:)
そのあと、上級生たちは代わる代わる教壇に立って、それぞれ得意げに説教を始める。「現在の非常時日本について」とか、「大陸雄飛」や「満州馬賊」の話から始まり、最後はガリ版刷りの豪快な「昭和維新の歌」や「馬賊の歌」を歌わせられるのである。
「馬賊の歌」
♪俺も行くから 君も行け
狭い日本にゃ 住みあいた
波隔(た)つ彼方にゃ 支那がある
支那にゃ 四億の民が待つ
「昭和維新の歌」 三上 卓 作詞
♪汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
と、言った調子である。【作詞の三上卓は5,15事件に連座した最右翼の海軍中尉】
(校舎玄関・昔の腕白達は今いずこ・・)
何のために説教されているのかさっぱり訳が分からぬままに、少しでも頭でも上げようものなら竹刀や鉄拳が頭上に飛んでくる。大和魂や皇国史観、剛毅木訥、半暴力的な風潮が何の疑いもなく受け入れられた時代である。我々新入生の向うべき道は「五族協和」の礎として大陸に雄飛せねばならないのである。
かくして外国語学校という自由で文学的な我がイメージは,この「怒鳴り歓迎会」によって、忽ちにして崩れ去ってしまったのであった。
(コワイ!先輩たち。 今思うとやはりまだ子供だなぁ。。)
蒙古語の司馬サンもおそらく同じような「怒鳴り歓迎会」の洗礼を受けたのであろう。後年、彼が「草原の記」や「韃靼疾風録」などを著し、西域の「シルクロード」などに強い関心を示したのも、満州馬賊や大陸雄飛の夢がこのころの学生生活によって培われたからに違いない。ただ、司馬サンはこんな蒙古語部の歓迎会の際にも、並み居るコワイ先輩たちを前にして、縁日などで香具師がやる「がまの油」を一席やってのけたと言うから、その強気と天性の明るさには驚かざるを得ない。。
悲憤慷慨調の放歌高吟がすむと、今度は部活の話に飛んでいく。歓迎会と言うよりも要するに「体育系」入部の勧誘が目的だったのである。怒鳴り散らして気合を入れられたあと、次々に部長たちが教壇に立って夫々の部員の勧誘演説をする。勧誘といっても半強制的で新入生全員がどこかの部活をせねばならないのである。
とにかくこういう荒くれ男たちに取り囲まれては、新入生はグウの音も出ない。剛毅木訥の尚武の時代だから、力関係でまず柔道部、剣道部が最初に決まる。戦時中だけに野球やサッカーなどはやや不人気であった。 蹴球(サッカー)排球(バレー)庭球(テニス)と次第に決まって行くが、もともと我々のような体育系でない「ヘナチョコ」たちは入る場所がない。
卓球や山登りはあまり技術も要らないだろうと思ったが、みんな考えは同じなのか、もうとっくに塞がってしまっている。あれこれ迷っているうちに一番人気がない「射撃部」だけが残ってしまって、私はここに入らざるを得なくなった。
しかし、残り物の「射撃部」ではあったが、中学時代に弓道部にいた体験が、同じように的を打つと言う技能に何らかの恩恵を与えたのだろうか、射撃部では不思議によく弾が当たって、その後、部長をさせられ、真摯な友人たちにも恵まれて、その経験が軍隊でも大いに役に立った。
「ひょうたんから出た駒」とでも言うべきであろうか。。
友はみな或る日四方に散り行きぬ
そののち八年(やとせ)